私たちの日々の生活というものは、極めて現実なものであって、どんなひとでも、その人々の生きている時代とその人の生活の属している社会環境とから離れて生活を持つということはない。どんなに目立たない朝夕をつつましく送っているひとの一生をとってみても、その人の存在は先ず地球の上に現われている一個の人間であるということからはじまって永い人類進化の歴史につながっている。更にその人が人間であるというだけではなくて、人間であるからには必ず地球上に今日それぞれの特徴をもって存在している国というものに結びついて生活しているのであるし、その意味では広い人類の世界歴史のそれぞれの一部を構成している国の歴史がめぐりあってゆく運命と決して切りはなされることが出来ない。その国の歴史の動きというものはまた実に複雑な性質をもっていて、決して手品師の一本の棒の上でまわっている一枚の皿のようなものではなく、種々様々の国内の社会構成の力の消長によって推移する。その複雑ないくつもの社会的な力の摩擦融合の根源は、世界史の一部分として生きているその国が、自身の存在のために日夜行っている自転と、自転しつつ二六時中国際的諸関係と接触してその間の関係に変化を生じさせている、その二つの重なりあった歴史から生じて来るものである。
 そう思って考えてみると、今日の日本に生まれて生きている一人一人の若い女性たちの生命の意味というものも、何と深い広い内容をはらんでいることだろう。私たちが或る国の或る時代に、或る親たちから生まれたということは、それだけの範囲に限ってみれば全く偶然だけれども、生まれて、生きてゆくという自覚を持つようになってからは、その生を最大の可能まで花咲かせて、次の世代につたえるべき者としての歴史的な必然が生じて来るのは面白いところだと思う。よく世間には自分が希望して生まれたのではない、ということから、自分の生存の偶然性を云って、自分の生きてゆく時代のその国の歴史や世界の歴史に対して、自分なんか責任はないという気持を表明するひとがある。そういう考えかたは人間の生活の真の美しさ、よろこばしさ、面白さを理解していない言葉だと思う。生まれたという偶然が、生活してゆくという人間の創造的なより高貴な必然にかわる瞬間は、歴史というもの社会というものの力で生活が支配されている一方、常にそれに働きかけそれを作ってゆく者として自分を現してゆくという微妙ないきさつの中にひそめられている。歴史によってつくられている一人一人の人間が、結局は明日の歴史のつくり主であるという興味尽きない活動性の流れのなかに、私たちの生の刻々も燃えているのである。
 今日の私たちの生活は、遙かに遠い遠い昨日からつづいたものであると同時に、悠久的な明日の希望へまでもつながったものであって、今日の生の意味は、時間的に過去と未来とをうけわたすばかりでなく、明日へ何かよりよきものを齎そうと願う人間の熱意の表現であり具体化であるところに意味があるのである。
 多くの人々は、一個の人間の表面的な弱さや生命の短かさやについて感じやすい心をもっていると思う。けれども、そのように弱くもあり百年も生きない一人一人の人間の生命と生活というものに、どんなかくされた蓄積と期待すべき未来までへの可能が蔵されているかということについて、おどろきを新にする感動は、割合忘られがちなのではないだろうか。自分のうちにそのような可能を発見しそれを信じ、その実現のために最大の骨折りを惜しまず生きとおす者は、それは人類のなかの人類、人間の中の人間であるということを、明瞭に知って自分の生活の感情としようとしているひとは、果して何人あるだろうか。
 女は昔からよく大地にたとえられて来ている。それは、女が母となって人間の世代を絶やさぬ豊かな土壌であるというところから云われるのであろうし、また、大地は一応うけ身におかれているということからでもあるだろう。大地の歴史は、人間の出現とその人間たちの大地への働きかけが始まった日から始まるのであるから。
 昨日から今日を生きて明日を生む歴史の担いてとして、女はこれまで随分生物的にばかりその任務を果してきたと思う。人間のこの社会への誕生は偶然であるがやがてその存在の価値は必然にかわってゆくという意味ふかい歴史の発展へのかかわりを、女のひとは、娘から妻となり母となってゆくという生理の過程を中軸にして辿ってきていたと思える。愛の展開も従って本能的に行われて、女の母性的な愛の本質は非常に豊かに潤沢なものである筈なのに、女の歴史のくりひろげられる場面がそれぞれの家庭というかきの内に限られていたとおり、愛の作用まで無意識の狭さを与えられた。女は愛情ふかいものとされながら、その愛は主観的で、身のまわりだけに没頭の形をとって来たのであった。
 現代は、世界史が一つの画期をつくり出しつつある時代で、その中での日本も未曾有の複雑な転回を示している。時々刻々に社会全般の生活が動いて行っていて、その動きの中では種々様々の声と行動とが主張されている。しかし、一つの声なり行動なりがそれ自身完結完成しているということはあり得無いのだから、今日から明日へつづく現代の歴史的な推移の間で、私たちは自分たちとしての生のモラルを掴まなければならず、現代に生れあわせた最高の可能を知らなければならないのだと思う。外見の上では、昨日までの幾千万の女性たちが経て来たとおり、妻となり母となる形で自分の生を拡大してゆくにしろ、今日の若い女性は既に自身のその過程に対して無意識ではあり得なくなっていることは確であろう。女だから子を生む。そういう単純な生理に従うだけでなく、次の世代としての子供らの母となるという社会的な自覚と責任の中によろこびを感じようとされて来ている。その自然な力づよい生のよろこびの確保のためにも、自身の愛の成就のためにも、私たちは自分たちの時代が、いかにきのうにつながり、いかに明日にくりひろげられてゆくかということについて無知であり得ないと思う。歴史が現代のように強烈な動きを起している時代にあっては、生のよろこび、愛の成就そのものも単一平坦な道を通ることがむずかしくて、ある場合には殆ど耐えがたいような悲傷、痛心を耐え終せて、自分たちの愛を完うせざるを得ないような場合も殖えて来ているのである。
 勇気とか堅忍とかいうことがしばしば云われるが、勇気や堅忍を可能にする力は何によって湧くのだろう。生活の意味に対する明るい知と愛とを抜いて、人は真に勇気に満ちることも堅忍であることも不可能である。勇気とか堅忍とかいうものは、結果ではなくて一つの行動の内面的な弾機ばねである。私たちが日々の生活で、歴史からつくられた者であると同時に歴史をつくりつつあるものであるという現実の価値をはっきりわがものとして感じとったとき、小さい一つの行動も深く大きいその自覚に支えられているとき、私たちは本当の勇気と堅忍との沈着で透明な喜悦を心に感じるのだと思う。
 生の喜悦は、現代ではますます精励な人間の精神と肉体とにしか感じられないものとなりつつあるのである。私たちはただ一度しかない自分たちの生をどんなにいとおしんでいるだろう。どんなにいい価値でそれを発揮させたいと切望しているだろう。今日と明日とのよりゆたかな生活の確信のために、私たちが人類の文化の歴史について、日本の過去の業績について何程かの知識を増すことは、決して無駄ではないだろうと思う。
 先ず、私たちの生棲する地球の上に、人類というものの生活はどんな風に発足して、発達して来たものだろうか。民族の分布、社会の発生、習俗の伝承、あらゆる科学・芸術はどんなにして生まれて来たのだろうか。それ等の問いに答えるのは世界文化史である。
 私たちは西洋史も東洋史も国史も習って来たわけであった。けれども、今より進歩した欲求で人類の文化の跡を見直したいと思う時それらの知識は散漫なものだと感じられる。わかりやすく、やさしい本ということでコフマンの「世界人類史物語」(岩波文庫・上下二巻)を軽蔑する必要はないと思う。特にこの物語は著者コフマンの活溌な精神をよく映している。例えば人類が最初の火を自分たちの生活のなかにとらえて来たときのことについても、縫針というものを発明したきっかけなどについても、極めて活々とした人間の実験の精神・偉大な創意の導きとしての日常のささやかな思いつき、精神のこまやかな敏活さなどが、大切に評価されて描かれている。この物語のなかでは、そのように人類の創意性のよろこびが評価されていると同時に、伝説というものがはからず示している過去の不条理というものにも明るい問いかけを投げている。パンドラという人類のはじめての女性が、人間生活のあらゆる憂苦をもたらしたというギリシア神話の物語も、コフマンは何故ギリシア時代の社会生活が最初の女性にそういういやな役割を演じさせたかという、当時の女の地位にもふれて疑問としている。
 この本よりも成人の読者のためにかかれたのが、ウエルズの「世界文化史大系」(北川三郎訳・上下二巻)である。ウエルズは第一次世界大戦が終って全世界が再建設の悩みにもがいていた一九一八年に、この尨大な著述に着手した。新しい世界が人間により幸福をもたらすものとして造られて行かなければならない。その希望と、当時の世界的紛糾動乱の間に歴史の進化してゆく必然の水脈を見出してゆく手がかりとして、一般読書人のため、常識の整理のために執筆された。地球の生成からヴェルサイユ会議にまで及ぶその内容は、各専門部門にそれぞれ専門家の知識が動員されていて、委員として四十何名かの学者たちが参加している。
 北川三郎氏の訳による大系二冊は、努力の仕事であると思うが、本が大きくて机の上にどっしりとおいて読まなければならない不便があり、高価でもある。それに、この訳にはところどころに訳者插入の研究が自由にさしはさまれていて(例えば文字の部分にある朝鮮文字の研究など)そのような研究に特別の見識をもたない読者は何か戸惑いを感じるところもなくはない。
 このウエルズの文化史大系が、よりまとまりよく整えられて「世界文化史概観」(長谷部文雄訳上下二冊岩波新書)となって発行されている。この概観は初め一九二二年に現れ、次いで一九三四年に改訂版が出た。ウエルズは大系を五分の一ほどに圧縮し、内容も殆ど全部かき直した。それはそうであったろう。一九二二年から後の十年間こそ今日の世界史の大動揺がその底に熟しつつあった深刻な時代であったのであるから。
「この書を通読してまず感歎することは、宇宙の創造から一九三三年までの世界の歴史をかかる小冊子に記述しながら、決して無味乾燥な材料の羅列に終らせることなく、これを極めて興味ふかい物語に編みあげ、しかも、その中に烈々たる文化的精神を織りこんでいることである。」という訳者の序文は、よくこの概観の特徴を語っている。ウエルズは、極めて興味ふかい言葉で、この文化史を結んでいる。「人間はまだやっと青春期にある。人間の苦労は老衰の疲労に伴なう苦労ではなく、まだ訓練されていないこれから増進する力量に伴なう苦労である。吾々が本書で試みたように全歴史を一個の過程として眺めるとき、すなわち生命の着々たる向上的闘争を見るとき、その時こそ吾々は、現在の希望や危険が全歴史上で占める真の意義を知るであろう。まだ吾々はやっと人類の偉大さの最初の黎明期に達したばかりである。」と。
 ウエルズがこの文化史のなかで云っているとおり、現在世界の二十一億の人間の上に輻輳している危険、混乱、厄災が全く未曾有のものであるのは、科学が人間に曾てなかった暴力を与えているからであると同時に、「恐れを知らぬ思想、徹底的に透明な陳述、および徹底的に批判された立案という科学的方法は科学の力を統制する希望をも人間に与える。」のである。執筆された時期からいって、この文化史は当然今日の第二次世界大戦の複雑な進行状態にはふれていない。慶応書房版ヴァルガの「第二次世界大戦の性格」は、立体的にリアルに今日の動きの諸条件と方向とを説明している。
 この頃はヒトラーの「我が闘争」が一種の流行本となって、英雄崇拝的文化の感情を満足させているらしいけれども、あらゆる時代、何事かを為す一個の人の力は、実に複雑な歴史の動きに内外から影響され、それに影響するものとして現われるのであるから、さきにあげたような読書を背景として、この英雄的自意識のつよい一個の人の著作も読まれなければ意味ないと思う。女は英雄が好きという古来の皮肉は、女が自立的な人物評価の力を持たないことを語っているものであり、同時に歴史的に人の動きを把握する力を持たなかった今日までの文化の低さへの諷刺である。
 ウエルズの文化史は、世界的に進出している日本について或る程度までふれている。世界史のどの舞台を見ても日本は見当らなかった過去の在りようと、この点は大変ちがって来ている。けれども、私たちは自分が生れ、そこで一生をけみし、そこに死ぬる故国としての日本については、世界史との関係の中で更に一層細かに具体的に知りたい心をもっている。
 この要求に立って考えて見ると、世界史と各国の歴史との扱われかたが、従来の文化の中では何と機械的であったろうかとおどろかれる。世界史は何となく常にヨーロッパ、アメリカ等を中心として語られて来ていたし、各国史としての日本史はその反対に世界史との横の結合なしに自家製に語られて来ている。その中に入ると、歴史的現象は次々へ繰りひろげられているけれども、歴史的現象のその奥に横わっている筈の真の社会的条件の推移にまでふれては理解のてづるが与えられていないのが常だった。
 日本文化史総論(遠藤元男著・三笠書房・日本歴史全書第一巻、定価〇・九五)は、そういう世界史との横の感覚も常に保ちつつ、先ず日本の社会と文化の項で、時代、地域、社会、民族と文化の関係を説明し、日本の文化の姿相と性格との項で原始時代から今日と明日の文化までを考えている。ただ明日の日本の新しい文化を、ますます民族的であるだろうと予想しつつ、その特性を農村的であるだろうと断定している著者の見解は、今日の日本のものの考えかたの或る形ではあるけれども、必ずしも永い未来にわたって文化の進行の現実の諸条件を全面的にとらえた結論であるとはいえない。このことは、おそらく著者も承認されていることであろうと思う。
 同じ歴史全書の日本原始文化史(樋口清之著)があり、日本近代史(小西四郎著)があり、明治の新社会の生成過程を語っている。この小さい日本近代史を中心として、私たちは巻末にあげられている参考文献表の中から、「明治維新」(羽仁五郎著・岩波書店・日本歴史所収)や「新日本史」(竹越与三郎著)などを選び出して読むことが出来るし、日本評論社が出版した「明治文化全集」(二十四巻)も折々の有益な資料として記憶しておくことは便利であろう。
「日本経済史概要」(土屋喬雄・上下二冊岩波全書)は、日本文化が経済条件の向上推移につれて変化して来たその土台について語っている興味ふかく学ぶところの多い本であると思う。この本に沿って、三笠書房の歴史全書中の「洋学論」(高橋※(「石+眞」、第4水準2-82-49)一著)が読まれたなら、著者が一つの情熱をもって、祖先たちが世界の真理の到達点を、わが封建の日本へ新しい力として齎そうとした努力の価値を語っていることを知ることが出来る。東洋経済新報社出版の「現代日本文明史」第十四巻「技術史」(三枝博音著)も、過去の文献を有効に活かしていて、やがて続刊されるであろう同全集中第五巻「法律史」(宮沢俊義、中川善之助著)第八巻「産業史」(土屋喬雄著)第十三巻「科学史」(石原純、菅井準一著)などとともに、勤勉な読者のために役立つだろうと思われる。
 思想史としては、岩波書店版の「世界思潮講座」が、各種の読書手引にも紹介されている本である。日本をこめた世界思潮を知る上に役立つ本にちがいないけれども、すこし読みにくい編輯方法である。一冊の中に一つの題目がまとめられていないで、全十二巻のうち、たとえば文芸復興については一巻、三巻、五巻、八巻、九巻と、縦にその一部分ずつが編輯されているというような工合である。しかし、そのような読む上での不便はあっても、やはりこの講座は歴史上の各思潮の歴史と影響とを偏らずに解説して、文化史上の卓越した人々の伝記をも集めているという点で、今日の若い人々のためには特に有益なものだと思う。
「文学史」として、やはり岩波講座の「世界文学」と「日本文学」及び、日本評論社の「日本古典読本」(十巻)および同じ発行所の「日本文学入門」改造文庫「欧洲文学発達史」等をあげたい。「日本文学入門」は明治以来昭和十五年までの日本文学が観察されていて、文献がこまかくあげられているとともに、国文学というものがいかなる方法で研究されるべきかという点について新しい考察もふくめられている。
 大体、文化史というものは、何となし私たちに親密に感じられてとりつきやすいと同時に、その文化についての述作の中には様々の夾雑的要素がまぎれ込んで来やすい危険がある。文化の観念は、ウエルズの所謂いわゆる青春的現代の紛糾にあって必ずしもいつも明徹であるとは云えず、昨今は、文化の研究は学問的に、つまり客観的真実に立ってされるべきものであるという第一条件において動揺している例が必ずしも無くはないと思う。原始文化の土器について語るとき冷静である著述家も、今日と明日の文化について語るときは主観的な時代的な亢奮を示している例もあるし、ある場合には、著作者自身には知られているだけの客観的知識を、そのあるがままの現実で示されていない場合もある。文化について文化的に書かれている本の非学問性という点を、特に今日私たちは心しなければならぬのでないだろうか。
 こう語って長谷川如是閑氏の「日本的性格」(岩波新書)にふれると、さながら、そういう危険にさらされている著述の代表のように思われて著作にすまないようだけれど、この本はおそらく興味をひくその書名からも随分広汎に読まれている本だろうと思う。従って、この本のよさと読者としての不満とをはっきり語られても失礼ではないだろう。この本は、第七章から後の方が、初めの部分より現実的に客観的に書かれているというところが甚だおもしろい。
 さきにあげたいくつかの日本史に関する本を読んだ人、または本庄栄治郎著「日本社会史」(改造文庫)一冊を理解している読者は、「日本的性格」の中に語られている文化伝統の解釈について、いくつかの疑問を抱かずにいられまいと思う。例えば日本の貴族は、西洋の歴史にあらわれるような侵入的な外国的存在ではないから、その貴族文学とそこに語られている心情は当時の全国民のものであるという断定での、貴族のエティケットが農民にまで及んでいるのが日本の性格であるというような結論は、何となく読者にうけがいがたいばかりでなく、筆者自身、後段の「日本文化の成立」の中では、そのより正当な解明を与えている。今日の読者は、一人の筆者においてあらわれるこのような或る種の矛盾に対して、文化的明察の敏感性をもたなければならないと思う。そのような矛盾のよって来るところを我が文化の当面している問題として考える力をもたなければならないのだと思う。
 民族の性格や個人の性格を語ることは非常にむずかしいことであるが、一貫した真理は、それ等を決して固定的に考えてしまえない、ということではなかろうか。例えばこの「日本的性格」に日本の性格の本質として「中間的」であることと「簡素」であることと「謙抑」であることとが云われているが、現代の性格として私たちの日常は周囲にその文字どおりの気風を感じながら暮しているだろうか。簡素であるということは単純でもあり淡白でもあるということになるだろうが岡崎義恵氏の日本文学研究の中には、淡泊であることが「生命力の稀薄のあらわれ」と見られてもいる。単純なものが俄に複雑な事象に面してどのような混乱に陥り、性急に陥るか。性格は動くものだ。過去によってつくられているが、やはり生活の刻々のうちに未来に向ってつくりつつあるものであろう。
 日本的な性格の特徴を肯定するとき、それと対照的な性格の質を、説明なしでより望ましくないもののような語調で語ることも、文化を正しく把握する態度ではなかろうと思う。日本の女の服装は華やかさを内にひそめたものであり、外国の女はけばけばしい許りの原色を使うというような対比も、それをよむ日本の若い女性は、何となしはにかむだろうと思う。西洋の女の服装が、ただけばけばしいばかりのものでないことは、灰色の美しい扱いかた、黒の微妙な調和の手法を、日本の近代人はかえって西欧の洗煉された色感から学んでいることを、女性は知っているのである。「日本的性格」の筆者が、近代の日本人が、日本の美を発見するために、いつも先ず外国人の評価をさきにしてそれに追随して来た態度に注目しているのは、まことに興味あるところと思う。それを不甲斐ないとしているのも、至極もっともなことである。だけれども、残念なことに筆者はその現象に注目して不甲斐なさを感じただけで、何故そのようなことがおこって来ているか、その文化的な原因まで追求していない。そのようなところにも、計らず日本の性格の中間的であり、簡素さが現われているのだろうか。明治以来の社会生活の急激な推移は、わるい形で外国崇拝を習慣づけているばかりでなく、日常の生活感情をも多面的に変化させている。過去の芸術上の美は、改めた目で見直され、改めて美しさのそれぞれの典型として歴史の中に評価され直さなければ、後代の生活感覚の中にそのまま共感され難いところがある。ところが、ブルーノ・タウトの「日本美の再発見」の桂の離宮の美しさの描写にしろ、外国人であるタウトはそれぞれの手づるによって国の美の宝石を夥しく見る機会を与えられたが、この国のものが果して何人、礼服着用とたやすくない紹介のいるその建造物の美に直接触れているだろうか。絵画についても、彫刻についても国文学上の原典についてもそれは云える。このことは、明かに自国の文化の評価に対して私たちの負うている一つの負の面である。それとともに自分たちの持っている文化の研究が従来はとかく主観的にそのものを構成している諸要素の内側からだけ語られたと思う。日本の美の一つの要素である省略の趣向は、どのような生活感情からのつながりとして現われているのかと外から見て行かず、それが日本人の直感的な性質であるからと結論で示されてゆく傾きがあった。しかし近代日本の精神は一般に、より科学的に高まっているから、やはりそこに分析と綜合の精神活動が求められ、それを通じて美をも一層豊富に感得したい欲望、即ち、世界の美感の中へつき出されて猶色せぬ美としての美しさを感じたい欲望をもっていると思う。その心持が、外国人の優れた新鮮な感受性に映って整理され、美の認識として再構成された美の評価を好むということになって来ていたのだと思う。日本文化やその美が、日本の学問の対象としてもっと理性的に学問的に取扱われるようになって来れば、日本文化は遂に自身の評価者として自身の文化を持つようになって来るわけであろう。
 文化の価値について云われるとき、外国人は元よりのこと、多く完成されている古典を対象とする習慣も、その理由はうなずけるが私たちには或る物足りなさを感じさせる。云ってみれば、一定の文化水準にある者には、外国人に日本画の美しさがわかるように、日本人にもフィジアスの彫刻の均斉の美はわかるのだと思う。文化の相互的な理解というものは、そのような古典鑑賞にとどまらず、古典に輝いた精神が、今日の文化面でどのように変化し再出現し、或は破壊を通してより新しいものとして創り出されようとしているか。そのために世代の営んでいる偽りない辛苦の混乱をも、やはりねんごろに評価され、ひろい歴史の前に観察されなければなるまい。我々の世代が、文化を十分に享受しようと欲している熱意と、明日の文化をより豊にしようと希ってつとめている努力とは周密に観察され支持されねばならぬと信じる。(なおこの仕事のために日本歴史全書中の著書その他について助力を与えられた友人に謝意を表したいと思う。)
〔一九四〇年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「新女苑」
   1940(昭和15)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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