一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な別荘が借りてあったが、彼女はパリが離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちらへやった。お母さんであるキュリー夫人は八月の三日になったならばそこで娘たちと落合って、多忙な一年の僅かな休みを楽しむ予定であった。
 ところが思いがけないことが起った。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪のため、危機にあった欧州の空気はその硝煙の匂いと一緒に、急速に動揺しはじめた。キュリー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。」
 しかし戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力に訴えながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
 パリの母は再び娘たちに書いた。
「お互いにしばらくは、通信もできないかも知れません。パリは平静です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。」
 彼女は落着いた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過を許さないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟の上だけれどきっとうまくゆくだろうと信じていること、そして「ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には何が残るでしょう。伯母さんたちの消息も全く不明です」と伝えている。
 キュリー夫人の不幸な故国ポーランド、しかし愛と誇とによって記念されているポーランド。伯母というのは彼女の愛する姉たちである。スクロドフスキー教授の末娘、小さい勝気なマリア・スクロドフスカとして、露帝ツァーがポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で政府の視学官の前に立たされ、意地悪い屈辱的な質問に一点もたじろがず答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今まではりつめていた気のゆるんだ教室でわっと泣き出した少女時代の思い出。また十七歳の若々しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも勉強のためにいくらかずつの貯金をし、休みの時は近所の百姓の子に真の母国の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに蹂躙されたときいたときそれはみな新しい思い出となってキュリー夫人の胸に甦って来たであろう。ドイツ軍に掃蕩されようとしているポーランドにはまだその外の思い出もつながれている。「マドモアゼル・マリア」が、その射すくめるようなしかも深い優しさのこもった灰色の目と、特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発な教養高い十九歳の家庭教師となった時、そのZ家の長男カジミールとの間に結ばれた結婚の約束のその無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈火のように憤らせZ夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さんざん嚇かされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリアは、その事で全く居心地の悪くなったZ家からも、契約の期間が終るまでは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソーで暮した月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼び寄せる一通の手紙を受取った一八九〇年の早春のある日の心持。それらはその苦しさにおいても、ときめきにおいても、恐ろしい忍耐でさえもすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランドにむごたらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何が残るでしょうというキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置からいつも両面からの侵略をこうむりつづけてきていることに対する深い憤りと、決してそれに屈しきってはしまわないその運命についての彼女の意味深い回想がこめられているのであった。

 八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所はたちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと林檎を三つ重ねたくらいの大きさしかない小使女きりであった。キュリー夫人は「万一の場合にはお母さんはこちらに踏み止まらなければなりません」といっていたその通り、パリに止まった。彼女は学者としての研究の仕事は、平和がかえるまで延期であることを知った。彼女がパリに、最後まで踏み止まる決心を固めたのは、生れながら困難に負けることの嫌いな彼女の気質で「逃げるという行為を好まなかった」ばかりではなかった。
 キュリー夫人は冷静に、パリの置かれている当時の事情を観察して、たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手から安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には直覚的にささやくものがあった。「もし私がその場にいたらドイツ軍もあえて研究所を荒そうとはしないだろう。けれどもし私がいなかったらみななくなってしまうに相違ない。」
 八月の終りキュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書いた。「あなたのやさしい手紙を受取りました。どんなにあなたを抱きしめたく思ったことでしょう。危く泣き出すばかりでした。どうも成り行きが思わしくありません。私たちには大きな勇気が必要です。悪い天候の後には必ず晴れた日が来るという確信を固く持っていなければなりません。愛する娘たち、私はその希望を抱いてあなた方を固く抱きしめます。」
 刻々パリの危険が迫ってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛の被蓋の中で細い管が幾つもたえず光っている一つの大変に重い箱である。黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかしキュリー夫人はあたりの動乱に断乎として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色を眺めていた。ボルドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を足許に置いたまま、危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、ラジウムは安全になった。翌朝キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫へ預けた。
 パリからボルドーへと向って来た旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女の廻りには人垣ができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるという噂が、人心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。
 たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野を横切りながら、進んだり止ったりしてパリに近づいた。昨日研究所を出てから何一つ食べる暇のなかったマリアに、一人の兵士が雑嚢から大きなパンを出して彼女にくれた。それは愛するフランスの香り高いパンである。
 キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静かで、九月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ばしいニュースが巷に飛び交っていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍の攻撃は阻止された。
 二人の娘たちはまだブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向って、この新しい希望を語り「小さいシャヴァンヌに物理学の勉強をさせなさい。あなたはもしフランスの現在のために働けないとしたらフランスの未来のために働かなければなりません。物理学と数学とをできるだけ勉強して下さい。」

 パリに動員が始まったその時から、キュリー夫人は彼女の第二の母国、亡き夫ピエール・キュリーを彼女の生涯にもたらし、その科学の発見を完成させ、彼女を二人の娘の母にしたこのフランスの不幸を凌ぎやすいものにするために役立とうと考えていた。毎日毎日たくさんの女の人たちが篤志看護婦となって前線へ出て行く。彼女も研究所を閉鎖して早速同じ行動に移るべきであろうか。
 事態の悲痛さをキュリー夫人は非常に現実的に洞察した。科学者としての独創性が彼女の精神に燃えたった。マリアはフランスの衛生施設の組織を調べて、一つの致命的と思われる欠陥を見出した。それは後方の病院にも戦線の病院にもX光線の設備をほとんど持っていないという事である。あわれに打ちくだかれた骨の正しい手当、また傷の中の小銃弾や大砲の弾丸の破片をX光線の透写によって発見する装置が、この恐ろしい近代戦になくてもよいのであろうか。
 キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の殺戮が何を必要としているかを見た。罪なく苦しめられている人々のために、彼女は彼女として、外の女では不可能な働き方をしなければならない。そこでキュリー夫人は活動を開始して先ず大学の幾つかの研究室にある幾つかのX光線装置に、自分の分をも加えた目録を作り、続いてその製造者たちのところを一巡して、X光線の材料で使えるだけのものをことごとく集め、パリ地方のそれぞれの病院に配布されるように計った。教授や技師や学者たちの間から篤志操作者が募集された。
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到して来る負傷者たちをどうしたらいいだろう。キュリー夫人はある事を思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院を廻り始めた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されてその移動班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊の間で「小キュリー」と親密な綽名で呼ばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことが分るにつれ、あらゆる手段を講じて、官僚と衝突してそれを説得し、個人の援助も求めて自動車を手に入れ、それをつぎつぎに研究所で装置して送り出した。そのようにして集められた車は二十台あった。マリアはその一台を自分の専用にした。
 戦傷者で溢れた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人宛にとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラーのついた黒い服の上に外套をはおり、ボルドーへも彼女とともに旅をした例の丸帽子をかぶり、すり切れた黄色い革の鞄を持ち、運転手とならんでそのほろつきの自動車に乗った。運転台は吹きさらしである。こうして彼女はアミアンへ、恐怖の土地であったヴェルダンへと走り出す。
 野戦病院へ着くや否や、放射線室として一つの部屋を選定する。あらゆる部分品を組立てる。隣室には現像液が用意される。運転手に合図してダイナモが動き始める。マリアが姿を現わして後三十分でこれらの事が運ばれた。それから暗い部屋に外科医と一緒に閉じこもるキュリー夫人の前に、うめく人を乗せた担架が一つ一つと運び込まれ、彼女の活動は幾時間も続くばかりか、時によれば数日費された。負傷者の来る限りマリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。
 二十台の「小キュリー」の外に彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三四百の病院をたえず廻った外、一九一八年には北イタリヤまで活動をひろげた。そこで彼女は放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事が始められ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生れた。
 この時二人の娘たちはもうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず母親の装置の操作を受持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母と一緒に先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間にキュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。

 四年間のキュリー夫人の活動がどんなに激しく広汎であったかということは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の宛名が、一通毎に母の移動先へと数限りなく動いて書かれていることでも語られている。古い服の袖に赤十字の腕章をピンで止めたきりの普通のなりで、その上へいつも研究所で着ている白いブルースを着けるだけで、キュリー夫人はどんな特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということはざらであった。どんなところででも眠らなければならなかった。固いタコができてラジウムの火傷の痕のある手を持った小柄な五十がらみの一人の婦人が、着のみ着のままで野天のテントの中に眠っている。その蒼白い疲れた顔を見た人は、それが世界のキュリー夫人であり、ノーベル賞の外に六つの世界的な賞を持ち、七つの賞牌を授けられ、四十の学術的称号をあらゆる国々から捧げられているキュリー夫人であるということを信じるのはおそらく困難であったろう。十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらにさかのぼってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱誠が、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアの躯と心の中に燃え立っていたのであった。
 キュリー夫人は特別よい待遇を与えられたとしても拒んだであろう。人々が彼女の「有名さ」を忘れるよりさきにマリアがそれを捨てていた。けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗ろうとはしない粗末な身なりのマリアを時には不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心を温める一人の兵士のおもかげと一人の看護婦の思い出とがあった。それはベルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間にマリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院からの帰り、自動車が溝に落ちて顛覆して負傷したこともあった。が、娘たちがそのことを知ったのは再び彼女が出発した後、偶然化粧室で血のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。彼女は昔からそうであったように、自分の身について起るかも知れない危険とか激しい疲労とか、その躯におよぼしているラジウムのおそろしい影響とかについて一言も口に出さなかった。
 マリア・キュリーをこの様な活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通の開かれた手紙を間に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから来たものであった。瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのことを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであろう。
 ブロンドの背の高い、両肩の少し曲った眼なざしに極度の優しみを湛えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違って不断は時事問題などに対して決して乗り出さなかった。
「私は腹を立てるだけ強くないんです」と自分からいっていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜むこの苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式の時の講演でピエールが行った演説も、マリアに新しい価値で思い起されたろう。彼はその時次のようにいった。
「人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたして得をするであろうか。その秘密を利用出来るほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。」
 マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力を振るっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたに違いない。
 一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉しさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で傷のついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持は察するに余りある。
 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは兄のスクロドフスキーに書いた。
「とうとう私たち(生れながらに奴隷であり、揺籃の中からすでに鎖でつながれていた)は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。彼女はその喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を見透したように、続けていっている。
「私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また今度も支払わなければならないことは確かです。」

 第二次大戦によってポーランドは再びナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともに、最も惨酷な目にあわされた。しかしポーランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々しくたたかって、ナチスをうち破った。単に自分たちの土地の上からナチスを追いはらったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐なナチズムの精神を追いはらったのである。ポーランド人民解放委員会の中に、ワンダ・ワシリェフスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫人が知ることができたらどんなによろこんだであろう。

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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