昔、明治の初期、若松賤子が訳した「小公子」は、今日も多くの人々に愛読されている。若松賤子がこの翻訳を思い立ったのは、愛する子供たちに、清純で人間の精神をたかめる読みものをおくりものとしたい、という心持からであったことが記されている。
 現代の婦人作家では野上彌生子氏が幾冊かの翻訳を小さい人々のためにおくっている。
 ちょっと考えると、女性と子供との習俗的な近さから、婦人作家なら誰でも、何となし子供のための文学に一応興味をもってよかりそうな気持が一般にあるのではなかろうか。
 この間或る席で、児童文学を専門にしている男のひとが、佐多稲子さんに、子供の本を書きたいと思いませんかと訊いたとき、稲子さんは、さあと云って、そう思わないという意味の答えをしたら、訊ねた人は大変案外そうに、そうかなア、と小首をかしげる表情をした。
 私にもきかれて、私の答えも、やはり条件つきでされた。私はもし何かの折に書けるなら、イリーンが「書物の歴史」だの「時計の歴史」だのを書いたような工合に、歴史の中で、子供というものが太古から今日まで、どんな生活をして来たかというその変遷の物語か書いて見たいとは思うけれど、小説風なおはなしは書きたいと感じていない、と話した。
 稲子さんは二人の子供たちをもっているし、生活の全面に、いかにも情のふかい人だから、その児童文学をやる人は、そういう稲子さんが子供たちのために書くということを自然に可能と思ったのであったろう。
 忘れられてしまうようなそのときの話ではあったけれども、私には、婦人と文学との問題にふれて、思ったより深いものがありそうに思えているのである。
 今日三十代で文学の仕事をしている婦人作家の多くは、少女小説めいたものは書くけれど、児童のためのものを本気で書いている人は殆んど一人もいない。これは何故であろうか。
 日本の過去からの習俗が、女を子供に近く結びつけて見て来ている歴史の、その他の半面が文学にあらわれているのだと思える。日本の婦人作家は、自身の文学の成長の過程で、旧来、女子供と一括されて来ていたその社会のしきたりをかえて、女と子供とは二つの別のものであってそれぞれに自立した生活の内容をもって、社会にかかわりあってゆくものである事実を明瞭にしようとする時期を通っているのであると思う。
 女性そのものの成長のそのような願いは激しく、しかも実に極々のむずかしさに遭遇していて、その表現としての文学作品にさえ、現代の婦人の生きる姿に蒙らされている何かの傷痕が見えている有様である。
 子供のための本を書く女性というものの出現は、そのことがただ女であるからとか、物を書くのが好きだから、というだけで期待されたら、間違いであろうと思う。そのひとは、やはり人間の未来の発展というものについて一つのつよい情熱を感じていなければ、何によりどころをおいて次の世代のつくりてである子供たちに希望をかけ、浄らかな焔を点し、目ざまさせてやることが出来るだろう。人間の精神の自然な合理の力を知らないで、どうして子供たちに、条理の明らかなものごとの美しさを語ることが出来るだろう。
 子供の読みものを書く大人の感情のうちにある幾通りかの感傷を、これからのその分野で活動しようとする人々は、真面目に考察し直し、そのような沈湎の中から歩み立って来なければなるまいと思う。
 大人は子供の世界を心に描くとき、現在大人として日々の生活に疲れもし痛みもしている情緒の未だ無垢なりし故郷として、何となく回顧風に、優しい思い出の調べを添えて感じる癖がある。子供のための本をかく人は、同じ女性でも、小説を書く女性より、所謂いわゆるやさしい人のように予想されたりする。その先入の感情から脱けられなければならないと思う。
 ほんとうに立派な子供のための本をかける女性というものの、心の内部はしっかりとしたものであって、その精神の一面では、今日小説を書いている幾人かの婦人作家が持っている文学の世界の意味をも洞察し、云いかえれば、それらの婦人作家が子供のためのものを書かない歴史の意味を、共に感じるだけの自身のひろがりと成長の意志を持っていいのだと思う。
 一人の女性はそれを小説に書く、それと根本は通じた願いによって、自分は子供のために書く、それが自身の表現であるというところまでの自分への納得がもたれたらうれしいと思う。子供のために書く、そういう婦人が出なければならない。
 子供のために書かれる文学が、文学の全体からみるとその作者の文学的資質のただ一般的な低さとか弱さとかいうような関係であらわれるとすれば、それはその国の文化として悲しいし、はずかしいことだと思う。ある女性が詩人であるということと、作家であるということとのちがいをきめるのは、文学の天質のちがいであることは明瞭である。そのように、小説をかく婦人と児童のために書く婦人とは、めいめいの文学の天質のちがいに立っているのであって、程度の高低だの資質の貧富によるのでないということが、はっきりされて来なければならない。
 そして、このような成長も、考えてみれば、つづまるところ婦人の文化資質のより高い、より多面な開花にまたなければならないということを、意味ふかく感じる。

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:富田倫生
2003年6月3日作成
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