はしがき
一、現在のソ同盟の労働者・農民の生活
二、ソヴェト同盟の兄弟たちは、どんな闘争を通じて勝利を得たのか
三、ソヴェト同盟の国家体制と日本の国家体制

        はしがき

 去る九月十八日、日本、満州国の全土にわたって、支配階級の命令に基いて、「満州事変」一週[#「週」はママ]年記念の祝賀と示威が行われた。ブルジョア新聞は号外を発行し、戦死者の慰霊祭が各地で催され、赤松一派の天皇[#「天皇」に×傍点]主義的ファシストは「忠君[#「君」に×傍点]愛国[#「国」に×傍点]」の示威行列をもって天皇[#「天皇」に×傍点]に忠誠を誓った。労働者・農民・勤労者大衆は、戦争によって益々、窮乏のどん底に追いこまれ、一切の反抗が、非常時の名によって、憲兵と警吏の手でふみにじられているとき、支配階級とその一切の手先は、戦争一週[#「週」はママ]年を祝賀したのである。そして、「挙国一致、軍民一体、只管ひたすらに皇軍使命の達成に邁進すべきことを、切に祈念する次第である」(荒木陸相、九月十八日、読売新聞)と云い、ブルジョア地主的政府[#「政府」に×傍点]の侵略政策の強化を新たに誓ったのである。
 世界経済恐慌の行き詰りを深刻に経験しつつある日本帝国主義が、列強帝国主義の最も弱い一環として、其故にこそ必死になって、中国の殖民地的再分割、中国革命の圧殺を目的とする侵略戦争を開始して、既に一年が経過したのである。去年の九月十八日に怪しげな満鉄爆破事件をきっかけとして開始された日本帝国主義の侵略戦争は、常に「満州事件」或は「上海事変」などと一見局部的に感じられる呼名で報道されて来ている。しかし、その偽瞞のかげに日本帝国主義の軍事行動は、ソヴェト同盟への侵略を目指し、米国との対立をつつむ第二次世界戦争の準備に向って、計画的に拡大されているのである。満州国の占有は満州における日本帝国主義の軍需工業原料生産地として、もくろまれたばかりではない。ソヴェト同盟侵略のための屈強な軍事上の足場としてつかまれたものだ。匪賊(実は日本帝国主義侵略に対して奮起せる中国のプロレタリアート・農民の武装蜂起)討伐の名をかりて日本帝国主義がその兵力をたゆみない陰険さで、ソヴェト同盟の国境に近く近くと展開させつつあることは、ブルジョア新聞の記事によってさえ明かである。
 今、このブルジョア地主的政府[#「政府」に×傍点]は、日本資本主義の行き詰りを国内においては労農大衆への苛酷な搾取と支配の強化、又一方、殖民地再分割の帝国主義戦争、特に反ソヴェト干渉の戦争によって切り抜けようとしている。
 だが、列国帝国主義の憎悪のなかで、革命第十五週[#「週」はママ]年を迎えるソヴェト同盟とはいかなる国であるか?
 我々、労働者・農民は「ソヴェト同盟を守れ」というスローガンを掲げて闘っている。吾々は何故、ソヴェト同盟を労働者・農民の「祖国」と呼んでいるのか。それを正しく知るためには、ソヴェト同盟の国家を知り、それが日本のブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]の国と、どんなに根本的な相違があるかを充分に知らなければならぬ。

        一、現在のソ同盟の労働者・農民の生活

 一つの国が、どんな国かを知るためには、国の生産にたずさわっている労働者・農民の生活を知ることが一番近道だ。
 現在、資本主義世界には四千万人に及ぶ失業者が溢れている。ソヴェト同盟だけには一人の失業者もいない。それどころか五ヵ年計画の完成によって総ての勤労者の俸給は、一九一三年に比べると三倍になった。資本主義世界の農業恐慌は、万年景気の国といわれたアメリカをも襲い、どの国でも播種面は縮小し、農産物の生産額は減り、農民の生活は益々苦しいものになってきている。ソヴェト同盟だけは別である。農村の六割は集団農場化され、農業は最新式の機械、トラクターやコンバインによって行われ、集団農場クラブでは無料のラジオをきき、映画を見物出来るようになってきた。工場内の作業は電化され、労働時間は給料がのぼったが平均七時間六分に短縮された。十八歳以下の青年労働者は一日六時間労働で、十六歳以下の男女労働者は一日四時間の労働だ。ソヴェト同盟だけ婦人労働者は同一技術に対して男の労働者と同額の賃金をとる。その上、妊娠すれば、出産前後四ヵ月の給料つき休暇がとれ、支度金が月給の半分位貰える。産院は無料である。各区に幼稚園があり、工場附属の托児所では清潔な医者と※[#「女+保」、読みは「ほ」、493-14]母が子供等の世話をしてくれる。そして、ソヴェト同盟のあらゆる勤労者は年に一ヵ月ずつ休暇をとり、その期間は、景色のよい海岸や山の「休みの家」へ休養に出かける。産業別の各組合が、それらの「休みの家」を持っていて、賄つきで組合員を休ませるのであるが、どの「休みの家」も実に立派なものだ。昔はロシアの勤労大衆を「黒い連中」と呼んで搾っていた皇帝や大ブルジョア・大地主等が、贅沢三昧をつくして建てた離宮、別荘などが、今日ではソヴェト同盟の勤労大衆のためにだけ開放され、利用されている。
 ソヴェトへ派遣されたイギリスの労働者は、向うの機械工場の労働時間と賃銀を次のように報告している。(我々のとこでも、今ソヴェトへ労働者・農民が出かけて、ジカに向うの社会主義建設の進展の模様をみ、日ソ労働者大衆の結合をかたくすることが提議されて、実行に移されつつあるが、支配階級はそれを妨害し、弾圧している)

「つぎの表をみると、生産の成功によって、賃金がめだってあがったということがわかる。
 年度   最低賃銀(一ルーブルは大体日本の一円)
一九二七年     八五ルーブル
一九二八年     九六 同
一九二九年    一一〇 同
一九三〇年    一二七 同
一九三一年(八月)一三一 同
同    (九月)一四〇 同
 昨年には累進的出来高払い制がとり入れられた。次の収入表は現に職についている労働者からたしかめたものだ。
絞盤旋盤工(最低一八〇)
承軸旋盤工(同…………)
 所得は一ヵ月三百ルーブルから百五ルーブル
仕上工(最低一六〇)
組立工(最低一八〇)
 所得一ヵ月三百五十ルーブル
 その他鎖孔工、研工、製粉工、捲き手はおなじ割合で監督係、製図工、および監察員には少しばかりだが増俸がある。
 半熟練工の平均給料は一ヵ月百四十ルーブルである。労働時間は一日七時間だ。時間外労働には倍額を支払われる。作業服は無料であたえられるし、無料の社会保険にも加入出来る。この工場でも他と同様毎年給料つきの二週間の休暇があたえられる。
 このような条件は、英国工場にあるものとはくらべものにならない。われわれの視察を通じて一番意義のある点はわれわれが次の事実を発見したことである。すなわち、労働者が生産を増加し浪費と破損を減少させたならば、賃金や労働条件が自然とよくなってゆく。このことはレプセ工場ばかりでなく、ソヴェート・ロシア内のすべての工場についていうことが出来る。」(ソヴェートの友、八月号、七頁)

 日本では、労働者・農民のくらしはどんなか。
 失業者は三百万人を越え、しかも日々激増する一方だ。
 賃金は下る一方だ。〔二字伏字〕ブルジョア・地主は現在の恐慌を勤労大衆の肩におしつけて逃れようとしているのだ。賃銀はそのためにずっと下げられている。日銀の調査による「機械及び器具工業」の賃銀をとってみよう。
 昭和五年四月(一九三〇年)一八六銭三
 昭和六年四月(一九三一年)一七九、一
 昭和七年四月(一九三二年)一七三、八
 これは、七年四月の賃銀を五年四月に比べると、十五銭七厘の減少、六年四月に比べると五銭七厘の減少である。昭和元年を一〇〇とすると今年の四月は九四・四にあたる。機械産業は、軍需品製造のため「活気」を呈している。極めて少数の産業なので、未だ賃銀の低落が甚だしくないが、それでもソヴェト同盟の機械工の一ヵ月の収入に比べるとくらべものにならない相違だ。さきにあげた英国の労働者の報告でみると、一九三一年九月の収入は、一四〇ルーブル(円)であるのに、日本の一九三一年四月の一月の定額収入は、五十二円十四銭だ。約三分の一である。
 機械でなく、製糸等の産業では、昭和元年を一〇〇とすると、今年四月は六〇・二の割合で、昨年四月を一〇〇とすると八七・九の割合である。そして大体、一昨年に比して、十五銭、昨年に比して五銭位宛の賃銀引下げが行われている。
 賃銀がこのように下っているだけでなく、軍需生産等の動いている産業では、居残り、夜業等の労働強化で、不衛生極まる施設の中で、身体はどんどん悪くなって行くばかりだ。臨時工は、本工よりも極めて悪い条件でいれられて、失業の憂目を目の前にぶらさげて、資本家の戦時利潤の犠牲にしぼられている。
 婦人の労働者は、男子の労働者の苛酷な条件に輪をかけたような、殖民地的な搾取にあっている。産前・産後の休暇はおろか、便所に行く時間さえ制限している。大抵の繊維の女工さんは、工場生活で肺をやられてしまうのは、もう常識になっている位のひどい搾取だ。信州の生糸工場では一日十二時間以上の労働で最低十八銭平均三十銭で真夏は百二十度の工場で苦しめられているとのことだ。
 反動的な教化団体の組織(希望社その他)や君が代の暗誦、役人の忠君愛国主義鼓吹の講演、闘争を鈍らすための御用スポーツ、こんなのが唯一の文化的施設だ。本を読む会や文化サークルにすら弾圧が下っている。合法的に出ている文学新聞を読んだからといって首を切る位だ。病気になったとて、社会保険もなく、休養させてくれるどころか、合理化の首きりの好機会にされる。そして今日でさえ、このような状態であるのに、一度、戦争が拡大して「国家総動員」が公然とやられ始めると、労働者は、兵隊の賃銀と同額(つまり一日十五銭)で銃剣にかこまれた強制労働をやらされるのだ。
 日本の農村ではどうか。
 先ず、農業恐慌は今年に入って、また深刻になった。都市の失業者は年々、二三十万農村へ帰ってくるが、新しい仕事もなく一家の窮乏が増すばかりだ。農産物の価格の下落、収穫度の減少だけの問題だけでなく、農民には飢餓が迫っている。東北地方では女房を売り、木の根を食って生きている始末だ。活動写真館なんかには金を出しての入場者はなく、玉葱や野菜を持って入場料の代りにしている。上北郡十和田村では、昭和六年十一月、七百戸全戸に病人があり、三戸さんのへ郡猿辺村では三百戸全戸に二百五十の病人があると帝国農会報は伝えている。が、勿論、殆んど医者になんぞかかることは出来ない。農漁村を通じて欠食児童は、二十万に登っている。
 福沢全国町村会長は自ら昨年長野県の農村の家計調査を次の如く発表している。
    ┌収入 三二二円
自作農 ┤支出 四七七、八九
    └不足 一二五、八七
    ┌収入 四〇四、八一
自小作農┤支出 四八九、八五
    └不足  八五、〇四
    ┌収入 二五九、二三
小作農 ┤支出 三三六、六三
    └不足  七七、四〇
 平均、九十六円十一銭の不足である。重い税金と、五割六割の小作料の収奪はつもりもって、今日の農村の負債を約七十億円にしている。土地飢餓と食糧の不足から、貧農、中農は大衆行動で立ち上ろうとしている。満州侵略戦争は愛国の美名の下に、農村の若い働き手を戦場に奪って行きつつある。が皮肉にも凶作地の農村からの召集兵は、ろくに食っていないので、勤務演習に堪えないで、帰郷を命ぜられたとブル新聞は報道している位農村の窮乏は深い。

 同じ地球の上の国でありながら、しかも同じ労働者・農民でありながら、何という相違だ。これは全く人間と非人間の相違だ。
 何故ソヴェト同盟にばかりは、そのような社会が存在するのか? 地球六分の一を占めるソヴェト同盟ばかりは、何故そのように一つの断乎として他のブルジョア国と違う世界が建設せられているのであろうか。それはソヴェト同盟こそ、真に労働者・農民が権力を握って支配階級となっている、プロレタリア独裁[#「独裁」に×傍点]の国家だからである。
 天皇[#「天皇」に×傍点]や地主・資本家等の、労働者・農民、勤労大衆の搾取と抑圧の上に安住している者共が支配していないで、働く者が政治権力を持ち、経済、文化のすべてにわたって支配しているからだ。生産を社会化し、遂には階級というものをなくして行く目標に進んでいる労働者・農民の国だからだ。ここでは働く者が最大の権利と幸福を与えられている。
 日本では、その正反対だから、労働者・農民は、牛馬のような奴隷的生活を送らされているのだ。すべての資本主義社会のように、ここでは、働くものが一切の権利と幸福を奪われている。
 資本主義国の中でも、日本帝国主義は特に野蛮な国であることを諸君は知らねばならぬ。
 日本では、封建社会から資本主義へ移る際に天皇制[#「天皇制」に×傍点]――半封建的な官僚と大土地所有者――が勝利を占めたため、おくれた日本資本主義を列国帝国主義と対等の位置におくため、弱い隣接民族の略奪を開始した。市場と原料の略奪、奴隷的労働力搾取のための殖民地強奪が、日本の資本主義発展の第一日から必要であったのだ。殖民地奪取のための戦争が必要なのであった。ブルジョア・地主の利益のために、大衆を戦争に駆り立てる軍事的・警察的・絶対主義的体制が強められたことは、明らかである。日本帝国主義は、日清戦争によって台湾を奪い、日露戦争によって樺太を奪略し、ヨーロッパ戦争によって南洋島その他を新たな搾取の材料として来た。そして国内では殖民地の労働者よりもひどい搾取を無制限の権力によって、勤労大衆の上につづけて来たのだ。
 農村では、全農家の七割が貧農経営であって、地主による半農奴的な搾取がつづけられている。労働者は、ヨーロッパの労働者と同様の生産性をもっていながら、殖民地の労働者と同じ状態におかれている。「飢餓的労働賃銀、長い労働時間、兵士のような束縛、年期契約労働、社会立法の欠如と完全な政治的無権利――これこそ、日本労働者階級の状態を特徴づけるものだ。」(日本の状勢、日本共産党[#「日本共産党」に×傍点]の任務)(独文「コンミュニスト・インテルナチョナーレ」)
 そして、労働者・農民に対するブルジョア・地主の搾取の基礎の上に、野蛮な天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が根を下しているのだ。日本帝国主義は、国内においては、農村の半封建的搾取、労働者の殖民地的搾取、国外においては、暴力的・軍事的に隣接民族を併呑へいどん、侵略、殖民地化して、成長してきたのである。そして、有名な「田中覚え書」が示すように侵略政策こそ、二つの搾取階級の野蛮な代表者、天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配の政策であったのだ。
 それだから、日本労働者・農民の前衛は、ブルジョア民主主義革命[#「革命」に×傍点]を通じて強行的にプロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]に到達するべく闘っている。そして、現在、ブルジョア民主主義革命[#「革命」に×傍点]の段階では次のような任務を掲げて広汎な大衆闘争をまき起している。
一、天皇制の廃止[#「天皇制の廃止」に×傍点]
二、寄生的土地所有の廃止
三、七時間労働制の実現
 そして、革命的プロレタリアートは、行動スローガンとしては次のものを掲げている。
一、帝国主義戦争反対、帝国主義戦争の内乱[#「内乱」に×傍点]への転化。
二、ブルジョア=地主的天皇制の廃止[#「天皇制の廃止」に×傍点]、労働者・農民ソヴェト政府の樹立。
三、一切の地主、皇室[#「皇室」に×傍点]及び社寺の所有土地の無償没収[#「無償没収」に×傍点]、農民への交付。地主、高利貸及び銀行に対する農民の一切の負債の完全な棒引。
四、七時間労働制及び労働者の状態の根本的改善。階級的労働組合の組織化と活動の自由。
五、日本帝国主義のくびきからの殖民地(朝鮮、満州、台湾、その他)の解放。
六、ソヴェト同盟及び中国革命の擁護。
 諸君は、これらの任務を達成することは、決して遠い将来のことと思ってはいけない。ソヴェト同盟の兄弟は、実に、闘争によって、我々が今掲げているスローガンに相当する目的を美事に闘いとり、遂にプロレタリア革命[#「革命」に×傍点]を通じて支配者となったのだ。彼等は、野蛮なツァー[#「ツァー」に×傍点]を倒し、ブルジョア・地主の政府を倒し、遂に今日の幸福な生活を戦いとったのである。彼らは、我々が今掲げているスローガン「帝国主義戦争を内乱[#「内乱」に×傍点]へ転化し」武器を支配階級に向け、今日の赤軍をつくった。
 我々も、ソヴェト同盟の兄弟たちの英雄的闘争に学ぼうではないか。既に、我々のところにも、労働者・農民の大衆的闘争は、革命的プロレタリアートの指導の下にまき起っている。我々は、我々の闘争を更に勝利の確信をもって、戦うため、そして多くの教訓を得るために、いかなる闘争を通じてソヴェト同盟の兄弟たちは、勝利をかち得たかを次にみよう。

        二、ソヴェト同盟の兄弟たちは、どんな闘争を通じて勝利を得たのか

 今から十五年前まで、ロシア勤労大衆の生活というものは、ヨーロッパ資本主義国の中でも、最悪のものであった。皇帝ツァーは絶対専制主義で、大地主であり同時に大資本家であった。土地は大地主に独占され、僅か「七百人の地主が平均して各々三万デシャチンの田地を処理し、この七百人が、六十万の小所有者の三倍の田地を所有している」(レーニン)ほどであった。当時のロシア農民は高率な小作料をいたぶられ、しかも丁度日本における地主が小作料の封建的搾取のみを行って、近代企業として農業の機械化などを考慮しなかったと同じく、原始的な耕作法に放置せられておった。大地主は、農地全面積の四分の三を占めていたが、その五分の一しか耕作されていなかった。
 工場の労働者の生活がどんな非人間的条件であったか、「搾るための物を言う家畜」として扱われていたかは、ロシア全土の文盲率が世界資本主義国第一位を占めていたのでも明らかである。ロシアの労働者の労働賃銀は、西欧のそれより幾倍も安かった。外国資本が国の工業に喰い入っていた。労働時間は十時間から十三時間で、繊維労働者は一ヵ月十五(円)の賃銀さえやっととった。〔三字伏字〕の搾取、抑圧のための政府は、全力をつくしてこのような劣悪な生活条件を蹴散らして、奮起しようとする勤労大衆の反抗を暴圧した。ツァーのロシアの軍隊、憲兵は、血につながる勤労大衆を、ストライキしたからと云い、反抗を計画したからと云って虐殺[#「虐殺」に×傍点]した。大学は労働者の息子を入学させなかった。大衆を暗い陰気な讚美歌で眠り込ませる教会と、酒でもりつぶして階級的不満を忘れさせ、勤労大衆を肉体的にも精神的にも腐らすための、そして政府はそれからウンと税を儲けることの出来る酒場だけが、街のいたるところの角にあった。労働者の長い列と、罵り、わめき、パンを買うだけの金をよこせと叫ぶ女房連の列とが、給料日にはきまって酒場の前に見られたという有様であった。
 一九〇五年の始めごろ、ただならぬ空気が漂っていた。日露戦争の敗北は、新たな革命運動の波、社会民主党(ロシア共産党――ボルシェビキ――の前身)の勢力の拡大と結びついて、大衆の経済的・政治的不満を深めた。
 やがてロシア革命史上の画期的な歴史日が来た。
 一九〇五年一月は、帝政ロシアの革命的大衆の歴史にとって、忘れることの出来ぬ記念の月となった。ペテルスブルグの秘密警察の代理者ガポン僧正は、プチロフ工場の四人の労働者の解雇を契機として起ったストライキ、拡大して行く労働者運動の波を、自己の指導下におこうとして、歴史的大芝居を打とうとした。大衆の政治的不満を皇帝への請願運動に解消させようとして「十字架行列」を組織した。
 一月九日、ガポンに率いられた数万の労働者は教会旗や、聖像や、ツァーの肖像を建て、ツァーの讚歌を歌い、女子供までその後について冬宮の広場へ懇願に進んだ。ところが、この赤旗も革命歌もない行列に向って、ツァー[#「ツァー」に×傍点]が与えたものは何であったか。ネルリ門の附近で、突如、騎兵の襲撃と一斉射撃が起った。ガポンは逃げた。婦人、子供、老人にまで射撃[#「射撃」に×傍点]が続けられた。あきらかに仕組まれた芝居の指揮者、ツァー[#「ツァー」に×傍点]は、勤労大衆の請願に銃撃[#「銃撃」に×傍点]の挨拶をもって威嚇し抑圧したのである。だが、労働者のすべてが逃げまどうたのではなかった。
「労働者たちは胸間のシャツを引き裂いて、同志よ、俺達は死のう、だが一歩も退くな、と叫んだ。」武装せぬ行列は、社会民主主義者の指導の下に、バリケードを急造し、木石や間に合せの武器で抵抗した。千人余の負傷者、二百人の死者の犠牲者が数えられたが、ツァーの軍隊のために労働者は蹴散らされた。
 この日「血の金曜日」より以来、勤労大衆の胸には、今まで「地上における神の名代」としてうつっていたツァー[#「ツァー」に×傍点]に対する容赦ない憎悪が刻印された。ロシアの勤労大衆は、ツァー[#「ツァー」に×傍点]が専制政治の先頭に立っているものであることを、大きな犠牲によって知ったのである。この日から都市において、抗議ストライキの波、農村においてストライキと地主農園の破壊が起った。労働者は八時間労働制と、専制政治に対する闘争をスローガンとした。
 闘争は軍隊にも起った。一九〇五年六月、黒海艦隊に叛乱が起った。「ポチョムキン」号の水兵は、政治的要求を掲げて立ち上った。彼等は士官を捕縛し、僚艦を味方として叛乱を続けたが遂に敗北した。が、この敗北にも拘らず、それはツァー[#「ツァー」に×傍点]の支配を動揺させ、ロシア革命の武装蜂起の価値ある下地となることが出来たのである。
 一九〇五年九月以後、プロレタリアートを先頭とする政治運動の波はたかまった。十月ペトログラード(今のレーニングラード)にストライキ、武装蜂起が起った。八時間労働、市民の自由、憲法議会の召集が主要要求であった。
 十月十三日には、ペテルスブルグで最初の労働者の「ソヴェト」が待たれた。(ソヴェトとは、代表者会議という意味である。勤労大衆の意見、利益を代表して主張し、その貫徹のために闘う代表者を大衆選挙によって決定する仕組である。)
 このソヴェトは、ペテルスブルグのみでなく、全ロシアの闘争――武装蜂起、革命の指導部となった。そして、これらの革命的昂揚におされて、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の政府は十月十七日、「政治的自由」と「帝国議会の召集」を約束して、一応の譲歩を示した。だが、その約束が口約束だけだと言うことをプロレタリアートが指摘し、更に闘争をつづけた。農民運動はコーカサス、中央ロシア、ポーランド等に春の三倍もの地域において拡大した。十一月中旬、黒海艦隊の「オチャコフ」号は、新たに叛乱を起した。
 十一月には、労働者ソヴェトの数がふえた。
 十一月一日から七日まで、第二のゼネラル・ストライキが開始された。鉄道、印刷の労働者等は、労働者ソヴェトの同意の下にのみ動いた。軍隊はソヴェトに同情を寄せた。
 十二月八日から九日にかけて、ソヴェトの決議に基き、政治的総罷業は全勤労者に波及した。分散的ではあったが、バリケードが築かれ、武装叛乱が開始された。勤労大衆は軍隊を味方につけるために力を尽した。レーニンは「モスコー暴動の教訓」の中で、次のように書いている。
「モスコー暴動は恰も軍隊の獲得のための、反動と革命との間の死者狂いの最も狂暴な闘争を吾々に示したものである。」
「モスコーのプロレタリアートは十二月事件において軍隊への『働きかけ』のすばらしい教訓を吾々に与えた。例えば、十二月二十一日(八日)ストラストナ広場において、群集がコサック兵を包囲し、彼等と一緒になり、彼等と親睦をはかり、彼等を後退せしめた如き、或は二十三日(十日)プレスナにおいて、一万人の群集のうちで、赤旗をおし立てたうら若い労働婦人が『われわれを殺せ! 生きている限りわれらは旗を渡さないぞ』と叫びながら、コサック兵を目がけて突進したが如き、又コサック兵が群集の『コサック兵万歳』という叫びに面喰って、駆け去ったが如きは、永久にプロレタリアートの意識のうちに刻印されたに違いない。」
 が、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の反動勢力は、集会の解散、指導者の逮捕、コサックの襲撃等で、政治的テロルを広汎に陰惨に組織した。武装暴動が各地にひろがったにも拘らず、遂に革命は鎮圧され、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の勝利に帰した。
「十二月叛乱は革命的緊張の最高点を意味し、その敗北はプロレタリアートの退却の始まりとなった」しかし闘争は被圧迫大衆に対して巨大な意義を与えた。多くの大衆は、ツァー[#「ツァー」に×傍点]とブルジョアジーに何事も期待出来ないことを深く知り、又、ツァー[#「ツァー」に×傍点]に対する決定的闘争手段として武装暴動の必要を深く知った。
「武装をとるべきではなかった」というプレハノフの有名な日和見主義的言辞に決定的に反対してレーニンは、この闘争から多くの積極的教訓を汲み出してきた。即ちレーニンは「諸組織が運動の発展と飛躍に対して立ち遅れたのだ」「暴動の時期において、吾々は動揺しつつある軍隊[#「軍隊」に×傍点]の獲得のための闘争の任務の重要性を理解しなかったのだ」(モスコー暴動の教訓)と言って、暴動における断乎たる攻撃的指導、軍事的戦術の確立を強調している。そしてプレハノフの泣言を蹴って、「一九〇五年の『一般的演習』がなかったとしたならば、一九一七年十月革命の勝利は不可能であったろう」(レーニン・共産主義における「左翼小児病」)と一九〇五年の暴動を評価している。我々日本のプロレタリアート・農民も来るべき人民革命[#「革命」に×傍点]の勝利のために、一九〇五年の教える教訓、特に前衛党の立ち遅れの克服を今日のものとしなければならない。
 一九〇五―七年に至る第一次ロシア革命の後、一九〇七―一〇年に及ぶ、酷烈な反動の時代が来た。レーニンは、この反動の時代の特徴を次の如くとらえている。
「ツァーリズムは勝利した。すべての革命的党や反政府党は打ち敗られた。無気力、頽廃、分裂、離散、裏切り、淫猥文学とが、政治に代って横行した。哲学的理想主義の熱望が起り、反革命的思想傾向としての神秘主義が流行した。けれどもこの大敗北は同時に革命的諸党と革命的階級にとって極めて有益なる教訓であったし、歴史的弁証法の教訓、全ての政治的闘争を如何にして遂行すべきであるかという事についての理解と技術との教訓であった。真実の友は不幸の中にこそ見出されるものだ。(この真理を)敗北した軍隊はよく学ぶ」(レーニン、同書)
 この時期はいかによく隊伍をととのえて、来るべき闘争に備えるために退却すべきかを、革命的プロレタリアートが学んだ時期であった。ツァー[#「ツァー」に×傍点]の野蛮な弾圧は、いわゆる「黒百人組」等によって、革命的分子を追及した。
 次の死刑判決の数は、この時期の反動がいかに凄惨を極めていたかを如実に物語るものだ。
 年度        ――宣告数
一九〇七年      一、六九二
一九〇八年      一、九五九
一九〇九年      一、四三五
 この反動の時期に、幾多の小ブルジョア分子は、困難多い地味な闘争に堪え得ないで、非合法活動の放棄、清算主義と「合法的舞台の全部的放棄」の「左翼」清算主義に走った。我々は我国の三・一五、四・一六の後に起った、解党派、新労農党結成、或は一揆主義的極左主義的偏向を想起することが出来る。レーニンは、かくの如き日和見主義的動揺に対して真に断乎として、党の革命的目標を動揺さす分子と闘い、非合法党による合法と非合法の弁証的結合を正しく指示した。
 一九一〇年以来、新しい革命的昂揚の波がたかまってきた。ストリピンの農業改革、重工業の発達、ストライキの激増がみられた。それは一九一二年四月のレナの流血の大衆的大罷業以来、特に顕著になり、一九一四年の前半期には約二百万人(一九一〇年の二十倍)が罷業した。
 メンシェビキが、闘争綱領を「団結の自由」にまで引き下げているとき、ボルシェビキは、三つの基本的スローガンを正しく守り、益々労働者階級に対する革命的指導を広く強化した。闘争の困難の時期に、状勢にかこつけて、綱領の引き下げを行うことは各国の日和見主義者の特徴である。一九一二年、プラーグでボルシェビキの特別の党指導部が成立して以来、特に議会フラクションの指導に忽ち現われた如く、党の独自的指導は強まった。
 一九一四年に第一次世界大戦がおこり、ツァーのロシアも、勤労大衆の若い働き手を引ずり出して、この帝国主義戦争に参加した。今日、日本のブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が、帝国主義戦争によって「血路」を求めようとしているように、当時のロシア帝政も戦争を望んでいた。日本帝国主義が、今日東洋における最も野蛮な番犬であったと同様に、ツァーリズムは東欧のそれであった。この番犬は、国内の野蛮な封建的抑圧、収奪を、対外的には略奪戦争へ向けた。又戦争参加は、ロシア資本主義を支配していた、フランス、英国の金融資本の意志であり、ツァー[#「ツァー」に×傍点]は金融資本と地主の代表者として「市場」バルカンの収奪を熱望していたのだ。
 帝国主義戦争開始以来、ボルシェビキ中央委員会は、「自国帝国主義政府の敗北」「戦争を内乱[#「内乱」に×傍点]へ」のスローガンを掲げて、社会排外主義者、祖国擁護論者プレハノフ一派の裏切りと徹底的に闘争した。
 世界戦争中に、二百五十万のロシアの兵士が戦死し、約五百万人が負傷した。戦争の進行とともに、農村の働き手が大部分奪われ、家畜は勝手に徴発され、生産は低下し、生活は破滅的に窮乏した。物価は暴騰して、勤労大衆の生活を苦しめた。戦争は資本家に戦時利得を与えるだけの「好況」をもたらしたにすぎなかった。支配階級自体の中に多くの混乱が生じた。
 かくて、階級闘争は必然に尖鋭化した。闘争の尖頭には、革命的プロレタリアート、ボルシェビキが立っていた。ボルシェビキの反戦闘争は、大経営の中に確個とした根を下して進んだ。そして革命的情勢が急迫をつげてきたのである。
 一九〇五年の新しい発展として、一九一七年三月の革命がプロレタリアートの指導の下に開始された。戦争中もまなかったストライキの波は、暴動的大衆行動にまでたかまってきた。「専制主義を倒せ」「戦争をやめろ」というスローガンの下に示威運動が続けられた。
 三月三日、すべての職場の集会が持たれ、政治的要求と経済的要求が、結合された。三月八日、婦人デーにはもはや革命が開始された。十日、ボルシェビキは「凡ての者は起て」と飛檄した。十一日、諸工場、諸経営は閉鎖された。三月十二日、クロンスタットの大衆が革命の側に立った。曾て、一九〇五年、モスクワに送られ労働者鎮圧を遂行したプレオブラジェンスキー連隊の兵士が叛乱[#「叛乱」に×傍点]を最初に起した。我々は、ここにもボルシェビキが、一九〇五年の教訓を正しく遂行したことをみるではないか。
 同じ日、「国会」は混乱のうちに臨時委員会を選出し、ブルジョア的政府の組織を急いだ。叛乱した兵士と労働者は、労働者・兵士代表ソヴェトを構成した。十三日、ツァー[#「ツァー」に×傍点]の最後のもがきを撃破しつつ、ツァーの高官達が続々逮捕され、或は銃殺された。(日本[#「日本」に×傍点]においても、労農大衆の投獄、拷問、虐殺を行いつつある天皇[#「天皇」に×傍点]と、その憎むべき反動的手先に、革命の制裁を与えねばならぬ)三月十六日、革命の進展におされて、ニコライは遂に退位した。
 ツァー[#「ツァー」に×傍点]の支配は三月革命で倒された。が、政権は革命的プロレタリアートの手に握られないで、国会を基礎として、立憲民主党、十月党、メンシェビキ――ブルジョアジーの代表者「臨時政府」がつくられ、それが支配した。臨時政府より遙かに大衆の間に権威を持っていたソヴェトの指導者は、政権をソヴェトに獲得しようとしないで、ブルジョア的政治家が政権へ到達するに委せたのである。ボルシェビキの組織が、戦時、多くの被害を蒙っていたため、ソヴェトの指導部にいたのはメンシェビキであった。
 かくて、労働者階級の階級意識と組織が十分成熟していず、妥協主義者によるソヴェトの統制等という事情から、所謂、「二重権力」の時代が始まったのである。レーニンは、「国家と革命」において、「ソヴェトはブルジョア民主主義者の指導のおかげで既に骨抜きになっていたし、また、ブルジョアジーはソヴェトを解散させるには力が不十分であった」と書いている。
 新政府は、その本質において、地主と同盟したブルジョア政府だった。三月以来の「共和主義」政府は、王朝復興の意図すら持っていた。
 臨時政府は、戦争を中止しなかった。「最後の勝利まで」彼等のスローガンはこうだった。全ロシアの企業の資本は、依然として資本家の資本である。社会革命党とメンシェビキは地主の財産没収を放棄した。
 殊に農民を苦しめたのは帝国主義戦争であった。「戦争から脱せよ」これが、窮乏のどん底から農民があげた心からの叫びであった。そして、それは臨時政府のブルジョア支配――社会革命党とメンシェビキの権力を倒すことを必要とした。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの決定的闘争の舞台に登場して来た。ツァー[#「ツァー」に×傍点]を倒した三月革命は、この舞台をいわば掃ききよめたのだ。
 レーニンの率いるボルシェビキは、臨時政府の戦争継続に反対して労農大衆を次第に強く広く結集して闘った。ボルシェビキ党は工場委員会、ソヴェト、その他の団体のうちへ、「すべての権力をソヴェトへ」のスローガンを掲げてった。ソヴェトこそ、プロレタリアート・農民の革命的民主的独裁の形態だった。
 ロシアの労農大衆は一九一七年三月から十月に至るまで、深刻に政治的経験をつんだ。この時期は僅か八ヵ月だったが、大衆は大きな政治的教育を革命の息吹きの中で与えられた。この時期に労働者、農民は一層革命化して特に農民は社会革命党から離れて、土地と自由の真の味方、ボルシェビキの側に結合して来た。
 この期間は二つの党派が、労働者・農民の多数を自分の側に得るために闘ったのだ。即ち小ブルジョア民主主義と、ボルシェビキ的なプロレタリア民主主義の決戦の時期であった。そしてロシアの労働者・農民は、ボルシェビキこそ、勤労大衆の民主主義の前衛であることを知った。
 三月革命から、十一月革命を過ぎて一九一八年三月頃までの全露ソヴェト大会の代議員数に現われた次のような二つの勢力の消長は、ボルシェビキの勝利の方向を示している。
第一回 一九一七年六月
 ボルシェビキ側    反ボルシェビキ
  一〇〇名        六八一名
第二回 一九一七年十一月
  三九〇名        二五九名
第三回 一九一八年一月
  四三四名        二六七名
第四回 一九一八年三月
  七三二名        三五二名
 ボルシェビキの増大に対して、臨時政府の首領、社会革命党の首領ケレンスキーは、ボルシェビキのスローガンに対抗し、「一切の権力を仮政府へ」のスローガンを唱えて、ボルシェビキの弾圧に着手した。レーニンは、そのために非合法に移って革命を指揮せねばならなくなった。が、ボルシェビキの不屈の闘争は決して臨時政府のテロルに屈しなかった。十月十六日、ボルシェビキはペトログラードのソヴェトの軍事革命委員会を組織した。十月二十六日、軍事委員会は労働者義勇隊からなる労農赤衛軍を組織した。そして臨時政府の必死の抑圧を蹴って、十月二十五日(即ち陽暦十一月七日)ペトログラード・ソヴェトの大会は召集され、指揮者レーニンはこのソヴェト会議に現われて、全露ソヴェト大会の決議によって、ブルジョアジーの臨時政府の打倒、労働者・農民の政府の樹立を宣言した。
 かくて、一九一七年十一月七日は、人類の歴史上にとって真に栄誉ある時となった。ロシアのプロレタリアートはプロレタリア革命[#「革命」に×傍点]にとって遂に自国のブルジョアジーを転覆せしめたと同時に、世界幾千万の勤労大衆に革命の威力及び階級としてのプロレタリアートの内に潜在する巨大な新社会建設の可能性を自覚させたのである。
 かくの如く、短期間にブルジョア民主主義革命[#「革命」に×傍点]を、プロレタリア革命[#「革命」に×傍点]の勝利にまで転化せしめたロシアのボルシェビキは、国際プロレタリアートの歴史の模範である。「帝国主義の一切の矛盾の結び目」であったロシア帝国主義は、世界において最も革命的なプロレタリアートの指導によって倒された。世界資本主義体制は、ロシアにおいて大きな革命的亀裂を加えられた。戦後の西欧の革命的昂揚のなかで、ロシアを除く国のプロレタリアートは、例えば、ドイツの如く、敵の攻撃に応じて直ちに、非合法に移れるが如き、確固不抜の革命的党を欠如していたために、革命に勝利することは出来なかった。だが、既に幾度か日和見主義分子を振い落し、プロレタリアート英雄主義に武装し、真に「鋼鉄」の党であったボルシェビキ党は、あらゆる困難な条件の中で最後まで革命を貫徹したのである。
 この勝利の日から、十五年が経った。ソヴェト同盟の労働者・農民は、社会主義社会建設の巨大な勝利によって、革命第十五週[#「週」はママ]年を迎えようとしている。だがそれは全く文字通り苦難の闘争を通じての建設の十五年であったのだ。
 革命後より第一次五ヵ年計画の開始に至る期間には何があったか。世界帝国主義の武力的干渉と経済的封鎖、国内では帝国主義戦争につぐ内乱のために必然に起った経済的諸組織の破壊による疲弊。ソヴェト政権の転覆を目指す反革命的旧不平分子のサボタージュ。しかし、戦時共産主義の血みどろの苦難にみちた闘争の後に「産業の建設の段階」が来た。全国民経済を新しい技術的基礎の上に建設する段階が出来た。この期間においても決して建設は旧ブルジョア分子、腐敗しつつある列国資本主義側の干渉の陰謀とデマゴギーとの闘争なしに行われたのではなかった。だが、第一次五ヵ年計画から第二次五ヵ年計画に至る社会主義建設の巨歩は、ソヴェト同盟の労働者農民の勝利に揺ぐことのない基礎をおいた。右翼的日和見主義を撃破し、トロツキーの極左的敗北主義に対して、建設の全事実が一国社会主義の可能を証明した。

        三、ソヴェト同盟の国家体制と日本の国家体制

 社会主義建設の闘争は、ひとりでに行われているのではない。ボルシェビキ党、即ち今日の共産党[#「共産党」に×傍点]の絶えざる指導が、革命前と同じくこの建設を貫いている。
 この党こそ、資本主義から社会主義の間に通らなくてはならぬプロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]を維持しているのだ。プロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]の必要と意義は何処にあるか。それはプロレタリア階級のみが決定的に最後まで何等の動揺なしに資本主義と闘い得るからだ。ブルジョアジーの支配を革命で倒した後にも、資本主義的分子は一挙にして消えて了いはしない。プロレタリアートは自己の敵を倒し、資本主義の復興と闘い、中農の動揺を克服し、階級を絶滅するためにプロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]の国家を必要とする。
 スターリンは何故プロレタリア独裁[#「独裁」に×傍点]の国家が組織されるかについて次のように説明している。
一、革命によって倒壊された地主及び資本家の反抗を粉砕し、資本の支配を復活せしめようとする彼等のあらゆる企図を一掃すること。
二、すべての勤労者をプロレタリアートを中心に糾合する精神の下に建設事業を組織すること、且つこの仕事を階級の清算と絶滅とに導く方向を目指して継続すること。
三、革命の武装、国外の敵、即ち帝国主義との闘争のための革命軍の組織。
 プロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]はこれらの任務の遂行のために必要なのである。このプロレタリア独裁[#「独裁」に×傍点]は、出来合の国家機関で間に合すことは出来ない。
「労働者階級は単に出来合の国家機関を占領して、それを自分自身の目的のために運転することは出来ぬ」(マルクス)プロレタリアートは自身の新しい国家機関を組織するためには、旧い国家権力を解体し、粉砕し、それを全く廃棄しなければならぬ。このことはプロレタリアートの武装による独裁[#「独裁」に×傍点]によってのみ可能である。「独裁[#「独裁」に×傍点]は新しい階級が旧い国家機関の助けによって命令し、管理するということのあるを許さない。反対に新しい階級がこの機関を粉砕し、新しい機関の助けによって命令し、管理するということにあるのでなければならぬ。」
「ソヴェトこそ、ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義におきかえ、プロレタリアの国家機関の基礎となる新しい組織形態である。プロレタリア独裁[#「独裁」に×傍点]の国家形態としてのソヴェト権力は、旧き組織形態と比べて比較にならぬ『力』を持っている。」
「それは、ソヴェトが最も包括的なプロレタリアートの大衆組織である点である。何故ならソヴェトは、そしてソヴェトのみがすべての労働者を例外なく獲得するからである。それは、ソヴェトがすべての被圧迫者と被搾取者、労働者と農民、兵士及び水夫を包括する唯一の大衆組織であり」、「大衆自身の直接の組織、即ち最も民主主義的な、従って最も権威ある大衆組織であり、新国家の建設及びその行政への参加を極めて容易くすると共に旧国家の破壊、新国家の建設、プロレタリア秩序のための闘争において、大衆の革命的勢力、創意及びその創造力を遺憾なく発揮せしめ得る点にある」(スターリン)
 我々は、次にこのソヴェト権力の特質を見よう。
 (一)「ソヴェト権力は、階級が存在する限りはあらゆる国家組織の中での最も偉大な且つ最も民主主義的な組織である。」しかしそれは、労働者と貧農が搾取者に対して結合し、勤労者多数者が搾取する少数者に対して支配する国家である。
 だから、プロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]を非難する「自由主義者」が好んで口にする凡ての人々にとっての自由、権利は存在しない。ただ働く者の自由と権利が確保され搾取者が当然抑圧されているのだ。
 我々はそれをソヴェトの憲法について見よう。
 第一条、ロシアは労働者、兵士及び農民代表者より成る諸ソヴェトの共和国たることを宣言す。中央及び地方の全権力は皆ソヴェトに属す。
 第六十四条、ソヴェトの選挙権及び被選挙権は宗教・民族・住所上の要件等の如何に拘らず、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国の左記男女公民にして、選挙当日満十八歳に達するもの之を享有す。
(イ) 社会に有用なる生産的労働によって生計の資を得る者並びに是等の者を労働に従事せしめるために家内労働に従事するもの、即ち工業・商業・農業その他に従事するあらゆる種類及び性質の労働者及び使用人並びに私的利益のために他人を雇傭せざる農民及びコサック。
(ロ) ソヴェト共和国陸・海軍兵卒。
 このソヴェト陸・海赤軍の兵卒が選挙権をもっていることをも、我々は特別注意しなければならぬ。ソヴェト同盟ではプロレタリアート・農民の武装せる前衛として、赤色陸・海軍兵は、少なからぬ特権を与えられている。ソヴェト役人に選挙された場合、普通の市民は、例えば教育委員一役に任じられるだけであるが、赤色陸、海兵は更にもう一つの委員会に委員として兼任する権利をもっている。ブルジョア地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]の日本に於いて、兵士は極端な抑圧の下に置かれる。彼等は選挙権、被選挙権を剥奪され、日給十五銭、読書の自由、集会の自由までを奪われている。
 ソヴェト同盟において選挙権、被選挙権を与えられぬものは左のような人々である。
(イ) 利潤を収得する目的をもって他人を雇傭する者。
(ロ) 資本の利子、企業又は土地の所有等によって生ずる収入の如く、自己の労働によらざる収入によって生活する者。
(ハ) 個人商人・商業仲介人・仲買人。
(ニ) すべての宗派の僧侶及び説教師。
(ホ) 旧警察の官吏及び使用人・憲兵・密偵並に旧ロシア王朝の一族。
(ヘ) 法律上精神に異状ありと認められたる者、発狂者並びに後見に付せられたる者。
(ト) 破廉恥罪又は金銭上の犯罪のために法律又は裁判所の宣告により一定の期間ソヴェト選挙・被選挙権を剥奪せられし者。
 我々は、ある英人ソ同盟訪問記に書かれた、ソヴェトの工場における選挙の模様を次に引用することで、ソヴェトの国家体制についての理解を一層具体的にすることが出来ると考える。
「私がそこを訪問した時、それは事実上の選挙の何日か前であったが、工場の壁には、モスクワ市ソヴェトと、それよりも重要性の少いライオンソヴェトへの、選出を求める候補者たちの、二つの人名表が掲げられてあった。そこには又、選出せられたメンバーが、死亡又は他の任務のために、長期に亙って欠席する際に、その代りとなるべき『代理人』の名をつらねたもっと短い人名表もあった。工場は、その労働者六百名毎に、一人の代表委員を選出する権利をもっていた。この工場の割当は、実際には十四名であった。ところがこの表は、それに十五名の名が列記されているという点で、特に目立った。その先頭に、レーニンの名が出ているのだ。レーニンは在世当時、そのメンバーであったから、彼らは尚、彼の記憶に対し、この感動的な敬意を払っているのであった。」「レーニンの名前の次は、彼の後を継いで、全連邦人民委員会議の議長となっているルイコフの名前があった。この工場は、革命闘争の際の先駆者であった、従って、それはその代表委員として、ソヴェト統治の、事実上の首領を選出する名誉を得るだけの権利があるのだ。残りの名前は、何れも元この工場で働いていた、労働者出身の人々の名前であった。十四名の内七名は、その表が示しているように、共産党員であった、一人は共産青年同盟員であり、他は皆『非党員』であった。十四名の中、三名は婦人であった。
[#図「ソヴェト選挙系統」入る、P516]
 ここには又、その承認を得るために、選挙人に示されている、公認共産党員の、単に過半数だけを挙げた公の表があった。それに対立するような表は、何もなかった。どんな方法で、その表が作られたのか。第一の段階として、再び立とうと思う前年度のソヴェトの委員(選挙は毎年行われる)は、彼若くは彼女の活動に関する報告をする。次に工場委員会と、各種の範疇の労働者の小グループを代表する三百名の代表者との間で、一つの集会をもつ。この集会で、候補者の名前が提出せられるのであるが、それで屡々しばしば、各候補者の活動記録及び批評について、徹底的な討論が行われる。普通、各候補者名別に、投票が行われる。こういう方法で、工場委員会の監督の下に、公の候補人名表の、最初の草案が作られる。この草案は更に、工場内の各種の部門の、別々の集会の前に持ち出されるが、これらの集会は、それに修正を加えることができる。その最後の形において、草案は工場委員会から、全工場労働者の総会に持ち出されるところの、精選されたものとなる。」(H・N・ブレールスフォード著、ソヴェト・ロシアの政治機構)
 こうして選ばれた企業からのソヴェト代議員は、前頁の図のような系統で全同盟的機構に到達して行くのである。
 (二) ソヴェト権力は、あらゆる階級社会の国家組織の中で一番国際的である。憲法第二条は云う「ロシア・ソヴェト共和国は自由なる民族の自由なる結合を基礎とし、民族的ソヴェト共和国連邦として之を組織す」ソヴェト権力は、あらゆる民族的圧迫を絶滅するものである。帝国主義日本は、台湾、朝鮮、満州等の諸民族を抑圧し、搾取している。だがソヴェト同盟では、ツァーの抑圧の下に喘いでいた諸民族は、民族個有の言語を復活し、教育・新聞も自由語が用いられ、また共和国に高等学校が建ち、内容においては社会主義的な、形式においては民族的な文化が発展しつつある。
 (三) ソヴェト権力は、プロレタリアート前衛の指導によって、容易に最も広汎な勤労大衆を国家の管理、社会主義の建設に参加さす。プロレタリアートの前衛たる共産党は労働組合によっては生産線に沿って、ソヴェトによって国家機関の線に沿って幾百千万の大衆と結びついている。指導はどのように行われているか。同志スターリンは曾て、一九二七年、アメリカ労働代表者との会談で「共産党は政府を統制していると云うことが出来るか」という問に答えて次のように云った。
「ソヴェト連邦の労働者党、即ちソヴェト連邦の共産党による政府の指導という事実は何処に現われているか?」
「それは先ず第一に、共産党がソヴェト及びソヴェト大会によって自党の候補者、常にプロレタリアートの為に忠実に奉仕しようとしているところの、自党の最も優秀なプロレタリアートの事業に献身せる職員を、国家の最も重要な地位に就かしめようと務める点に現われている。そして党は此事を大抵の場合に成就している。何故ならば、労働者及び農民は党を信頼しているからである。我が国に於ける権力機関の指導者が共産党員であること、そして之等の指導者が国内において強大な権威を有していることは決して偶然なことではない。
 第二に、党が行政諸機関の活動や諸官庁の活動を検閲し、犯された欠点や誤謬を除去し、これらの機関が政府の命令を遂行するのを援助し、又之に大衆の支持の保証を与える為に努力し且つ同時にこれらの諸機関は党の指示なしには何等の重要な決議もなし得ないという点に現われている。
 第三に、各官庁が、工業及び農業、商業或は文化的施設の方面に関して活動計画を立案する場合には、党は、これらの計画の施行期間中におけるこれら諸機関の活動の性質及び傾向を規定するところの一般的方針を与える、という点に現われている。
 通常、ブルジョア新聞は、国務に対する党のかかる『干渉』に対して『驚異』を示している。だがかかる『驚異』は全く虚偽である。資本主義諸国に於いてブルジョア諸政党が正に此の如く国務に『干渉』し且つ政府を指導し、而も此場合この指導権は、いろいろの方法で大銀行と結合しているところの、従って又その役割を民衆の目から隠蔽しようとしているところの人々の小集団の手に集中されているということは周知のことである。イギリス或はその他の資本主義諸国における一切のブルジョア政党の中には自己の手に指導権を集中している人々の小集団によって形成された秘密の内閣が存在している事を知らない者があろうか?」
 プロレタリアート独裁の国家にあって、共産党はかくの如き方法で広汎なる大衆と結合し、それを指導しているのだ。
 世界資本主義国の間に流行するソヴェト同盟に関するデマゴギーの種類は雑多であり、それらのデマゴギーは常にブルジョア世界観の卑劣さ、自信のない利己主義を曝露している。ソヴェト同盟におけるこのプロレタリアート独裁の問題も革命当時から最も多くの塵埃をぶつけられた問題であった。ブルジョア共は、階級としてのプロレタリアートの独裁を歪めて、いつもレーニンの独裁であるとか、スターリンの独裁であるとか云った。最もわらうべき例として、ソヴェト同盟は国家保安部ゲー・ペー・ウーの独裁であるというものさえある。
 日本においても、これらのデマはブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]の政府によって、盛んに撒き散らされている。しかし、プロレタリアートはプロレタリアートの独裁[#「独裁」に×傍点]が資本主義から共産[#「共産」に×傍点]主義社会へ進む唯一の途であることを公然とあらゆる場合に示している。そしてソヴェト同盟の広汎な労働者・農民大衆が、ソヴェトを通じての共産党による指導を支持していることは、既に革命後十五年の歴史が之を示している。
 ところが日本帝国主義のブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]独裁は、議会や政党や、普通選挙等の道具をならべて、いかにもすべての人民が支配に参加し得るかのような幻想を撒き散らして残虐な抑圧搾取をほしいままにしているのだ。
 それは国家の礎と称せられる日本憲法を一目見ただけで充分認めずにはおれぬ事実である。憲法第十一条にはこう明記されている。「第十一条、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「第三条、天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此憲法の条規に依り之を行う」
 或は、日本には帝国議会というものが存在しているから絶対的君主制[#「君主制」に×傍点]ではない、立憲君主制体であると云うものがあるかも知れぬ。然し、議会は如何なる権力によって絶対的に支配されているか。これも憲法が明示している。「第七条、天皇は帝国議会を招集し、其開会、閉会及び衆議院の解散を命ず」更に進んで「第十一条、天皇は陸海軍を統御す」「第十三条、天皇は戦を宣し和を媾[#「媾」はママ]じ及諸般の条約を締結す」「第十四条、天皇は戒厳を宣告す」という諸条項を読んでも我等は「立憲」が全く似而非立憲政体であることを知ることが出来る。しかも、天皇の周囲には「諮問」「輔弼ほひつ」の名にかくされた独裁[#「独裁」に×傍点]支配の最も野蛮な遂行機関として、元老、内大臣、枢密院があり、特に封建的・軍事的支配のためには、天皇[#「天皇」に×傍点]を中心として専門の元帥府、軍事参院、参謀本部、海軍司令部等がある。中国侵略戦争開始以来、二人の皇族[#「皇族」に×傍点]が夫々参謀長、軍令部長に任ぜられている。
 日本の軍事的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配こそ、高度に発達した独占資本を持つ日本帝国主義の侵略性を代表するものであることを示している。無限の権力を握るのは、強制徴兵令による(所謂ブルジョア一等国で強制徴兵令を採用しているところは、只日本・フランス・イタリーのみである!)約二十九万人の常備軍(武力)と、私有財産制を守るために張りめぐらされた警察力とを以て、勤労大衆を抑圧し、半封建的、半殖民地的搾取をつづけつつある一握りの少数者によって「搾取のためにつくられた強制のための特別の機構」こそ、絶対主義的、軍事的、警察的天皇制[#「天皇制」に×傍点]の帝国主義日本国家である。かくの如き日本ブルジョア国家が憲法を持ち、議会を持つというのも結果においては、勤労大衆に向っての卑劣な欺瞞として役立つに過ぎない。それは、天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が日本[#「日本」に×傍点]の資本家、地主独裁の野蛮な形態であるという現実を覆い、伝統的な神秘化によって、さも天皇[#「天皇」に×傍点]は本来、一種不可侵の道徳的優越性、絶対的尊厳を賦与されて綿々とつづくところの「神人」による支配であるかの如き迷信を、被搾取大衆に与える。憲法の保証する「集会の自由、言論の自由」「結社の自由」「出版の自由」がどんなものであるかということは、勤労大衆の眼を持ったすべての人は知っている筈である。集会で一言、半句も云わさない解散、検束、拘留は常例だ。家族的な集会にすら、警察の犬は襲撃している。
 このような天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配の本質の胡麻化しによって、支配階級の絶対主義的支配は円滑にされるばかりである。プロレタリアート・農民を搾取のもとに繋ぎとめようとして、支配階級の行う絶対主義強化の努力は、小学校の国語読本、歴史教科書類から、在郷軍人団、青年団、女子青年団等の反動組織をまで網羅している。忠君愛国主義が教化政策の根底におかれている。
 同じくブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]の糊塗のために行われるものに普通選挙がある。然し、一度でもその資格調査をうけたプロレタリアート・農民は、それが決して大衆の声を反映させるために行われる普通選挙でないことを自覚するであろう。選挙権は満二十五歳以上、一ヵ年以上同一の場所に居住した男子(女子は全然除外)に限られている。実に複雑な制限が労農大衆の革命的代表を阻止する目的でつくられてある。(我々は兵役の義務は十七歳以上から課せられていることを忘れてはならぬ)被選挙権の制限は一層広汎で男子、満三十歳以上、而も立候補のために二千円の保証金を供托しなければならず、得票がその選挙区定員数を以て有効投票数を割った数の十分の一に足りない時は、二千円をそのまま没収するという規則がある。しかも、共産党の被告、共産党支持者は、警察的抑圧によって立候補の権利すら剥奪されている。社会ファシストは天皇制[#「天皇制」に×傍点]の正体を蔽うこの偽瞞的議会のおこぼれをたたえ、労農大衆に議会による救済、議会の勝利による労農大衆の勝利等の幻想をふりまいている。が、野蛮極まりないブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配の機関の一つであることを絶対見逃してはならない。
 三・一五、四・一六の日本共産党の同志に死刑・無期懲役、その他合せて、一千二百年以上という人類史上、未曾有の求刑を下しているのもブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配である。裁判所には皇室[#「皇室」に×傍点]の紋章[#「紋章」に×傍点]が勿体らしくほり込まれ、役人共は天皇[#「天皇」に×傍点]の「委任」によって、労働者・農民を抑圧するのである。既に三千人余の共産主義者を牢獄にたたき込んだ治安維持法は、天皇[#「天皇」に×傍点]の安全と利益を守ることを最大の目的とした悪法である。
 このように、日本の天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配は、立法権も行政権も司法権も軍事権もすべて一手に治めている。このブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]国家の支配は、あらゆる人民大衆を、全く政治的無権利の状態においている。日本ほど警察権力が横暴を極め、又一方無自覚な人民大衆が、警察に対して、恐悸を持っていることは世界に稀だ。既に、幾多の革命的闘士が日本警察・監獄・憲兵の鬼畜の如き暴力によって、虐殺[#「殺」に×傍点]され、不具にされた。日本のブルジョア・地主はこの天皇[#「天皇」に×傍点]を最も強い背景として、労働者・農民の搾取・抑圧に耽っている。
 実に日本におけるブルジョア・地主的独裁の武器としての天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配は、西欧のどこのファシズムよりも、ひどく野蛮な抑圧をしているのだ。
 以上触れてきた問題のみでなく、我々の目に触れ、耳に聞く日常の一切の現実は、新テーゼの、次の如き天皇制[#「天皇制」に×傍点]国家機構の解剖が全く正しいことを証明している。
「日本の天皇制[#「天皇制」に×傍点]は、一方では主として地主という寄生的封建的階級に立脚し、他方では又急速に富みつつある強慾なブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の棟領と極めて緊密な永続的ブロックを結び、仲々うまく柔軟性をもって両階級の利益を代表し、それと同時に、日本の天皇制[#「天皇制」に×傍点]は、その独自の、相対的に大なる役割と、似而非えせ立憲的形態で軽く粉飾されているに過ぎない其の絶対的性質とを、保持している。自己の権力と自己の収入とを貪慾に守護している天皇制[#「天皇制」に×傍点]的官僚は、国内に最も反動的な警察支配を布き、国の経済および政治的生活に於てなお存するありとあらゆる野蛮なるものを維持するために、その全力を傾けている。国内の政治的反動と一切の封建性の残滓の主要支柱である天皇制[#「天皇制」に×傍点]的国家機構は、搾取階級の現存の独裁の鞏固な背骨となっている。その粉砕は日本に於ける主要なる革命的任務中の第一のものと看做みなされねばならぬ。」(独文『インプレコール』四二号)
 (四) ソヴェトの権力は最も包括的なプロレタリアートの大衆組織であると我々は前に云った。実にソヴェトの権力は大衆と密接に結びついているところに、いかなる国家権力よりも民主的で強固だ。
 ソヴェトはブルジョア議会と違って法律を審議するのみならず、それを実施する国家権力である。ソヴェト代議員はブルジョア議会の代議士と違って生産点で大衆と結びついている。「都市ソヴェトは、それを通じて脈搏つ大衆の生命を感ずる、村落ソヴェトは常に標準的な農民と接触している」
 そして大衆は彼等が選出したソヴェト代議員を監視し、その活動を批判し、代議員が職責をつくさない場合には、いつでも召還し得る権利がある。かくして我々は次のことを知るであろう。
 ブルジョア・地主的日本の国家機構に於ける中央集権は、天皇[#「天皇」に×傍点]から小さい村の村長に至るまで一連の鎖によって固く繋がれた搾取と、抑圧のための中央集権である。ソヴェト政体においての中央集権は「労働者が自由意志によって己れの武装せる力を結合させ」たものである。
 次に、この二つの種類の中央集権を、比較的近似的に示している図解を掲げて、諸君の参考にしよう。(四九―五〇頁〔本巻五二四―五二五ページ〕)[#図「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国中央及地方機関ノ交互関係」P524、「我国之国家機構図」P525]
 (五) ソヴェト同盟の軍隊赤軍は、社会主義を建設しつつあるプロレタリアート独裁[#「独裁」に×傍点]の国家の重要な一部隊である。裁判所が、勤労大衆自身による社会主義建設の社会的規律の防衛者・反革命の徒の断罪所であるように、それは、勤労者自身の武装である。日本帝国主義の軍隊は、天皇[#「天皇」に×傍点]の手先、軍閥・将校と強制的に徴集され牛馬の如き非人間的条件の下に働かされる「軍服をきた労働者・農民」でつくられている。が軍隊は、勤労大衆の鎮圧と、帝国主義戦争の武器としての役目を負わされている。それであればこそ、自己の階級の使命に目覚めた労働者・農民は、武器を逆に向けて支配階級を倒そうとして蹶起しているのだ。
 ソヴェト同盟の赤軍は、国内に於ける反革命の徒から、社会主義建設を守るのみならず、ソヴェト同盟へ干渉戦争をふっかけようとしている列国帝国主義の攻撃から、社会主義建設を守るのを任務としている。そして、それは単に守るだけではない。国際的規模で、資本主義と社会主義国家の闘争が成熟する日、赤軍は国際プロレタリアートの輝かしい軍隊としての威力を発揮するものだ。赤軍の中には共産党の細胞が形成され党の指導が貫徹している。
 赤軍の兵士の生活は、政治的・経済的・文化的の何れにおいても、ツァーの時代の虐待された生活と比べることの出来ぬ位にすぐれている。ツァーの軍隊(それは日本[#「日本」に×傍点]の軍隊にも云えることだ)の下劣な体刑、重い背嚢を脊負って忠誠[#「忠誠」に×傍点]のしるしとして幾時間も捧げ銃をしていることは、どこにも見られないことだ。赤軍兵士の生活について、さきに引用した一英国人の手記を紹介しよう。
「ロシアに於ける多くの愉快な経験の中で、私は、カザンに於ける赤軍の兵営の訪問のことを憶い起す。私は、初め大した興味は持っていなかった。兵営は広々として、清潔であった。兵士達は充分のものを着ていた。そして食物はうまそうであり、又分量豊かでもあった――士官達が私にはなしたように、ポーランドの軍隊で指定されているよりも、数百カロリー優っておった。兵士たちのために与えられている社交生活は、退屈を訴える余地を少しも残さなかった。というのは、壁に貼った図表に従って、毎晩劇や、キネマや、演奏会が彼等のために開催せられておったからである。一般的な政治的雰囲気は、読書室の『レーニンの隅』で供給せられた。一つの部屋では素人劇団が稽古をしておった」
「吾々は、他のどんな軍隊においてもこういう情景を、想像することも出来ない。然しそれは、この革命的軍隊の全精神及び組織の典型的なものであった。他の軍隊は政治を一切駆逐している。然しこの軍隊は、良き兵士は、彼が奉仕している目的を、意識していなければならぬという信念を基礎としているのだ。彼は、ただに国の領土の防衛者たるばかりでなく、一個の世界的理想の従僕なのだ。赤軍は、その政治教育に関する教程をもっている。そしてすべての新兵は、その小銃を使いこなすのと同じように、この教程を充分に理解することを要求せられる」
 ソヴェト同盟の勤労大衆は英雄的な建設力をもって、第一次五ヵ年計画を四年で完成し、今や第二次五ヵ年計画に着手している。一九二九年、五ヵ年計画が始まった当初から、その驚くべき生産拡張のプランと、更に驚嘆すべきその実現について多くの報告をわれわれはうけている。五ヵ年計画によってソヴェト同盟は失業者を一人もなくし全生産を或る部内では四〇パーセント―七〇パーセント増大させた。世界恐慌が停止するどころか進展しつつあるのに反して、ソヴェト同盟の社会主義建設は、巨大な成果を収めつつある。一九三二年上半期の成果は次の統計を示している。
       本年度    前年度
国有農場  一、二〇〇    五〇〇
集団農場  六、七〇〇  五、六〇〇
 動力四四パーセント増、石炭二七パーセント増、鋼鉄一一パーセント増、機械三六パーセント増(トラクター七五パーセント増を含む)そして、ブルジョア新聞ですら、「五ヵ年計画以来投資された巨額の資金は今や漸次利益をあげつつある」(八月十日朝日新聞)と報道させざるを得ないのだ。
 之に反して、列国帝国主義においては、恐慌の進展に伴って、階級闘争の激化、一連の革命的昂揚、極度の大衆窮乏――反ソ戦争のための準備がみられる。
 だが、驚くべきは、尨大な統計の字面ではない。そのことごとくがソヴェト同盟では真に勤労者の幸福のため、階級のない社会招来のためになされているのだ。ソヴェト同盟でドニェプル発電所が完成したという一事は決してただ数千万キロワット時の電力増加を意味するだけのものではない。数千万キロワット時の電力の増大、それに応じて工場が電化し、農村の電化とラジオ網が拡大するということは、ソヴェト同盟ではそれだけ早く真に自由な階級のない社会が来る、経済的基礎の昂揚を意味するものなのである。
 既に第二次五ヵ年計画の政治的内容について、本年始めの第十七回党会議は次の如く声明した。
「資本主義的要求と階級一般の最後的清算、階級的差別と搾取を生み出すところの諸原因の完全な廃棄、経済及び人間の意識内の資本主義的残滓の克服、搾取なき社会主義社会の意識的・積極的建設者への全勤労者の転化」地球の六分の一のプロレタリアートの国がプロレタリア独裁の強化によって階級なき社会への巨歩を踏み出しているのをみるのは我々の限りない悦びである。
 が、我々は、この労働者・農民の祖国を守らねばならぬ。日本のブルジョア・地主的天皇[#「天皇」に×傍点]を先駆として、列国の帝国主義がその毒爪を我等のソヴェト同盟と中国ソヴェトに向け、干渉戦争の危機が愈々いよいよ迫りつつある今日、我々は更に新なる決意を以て、我等の祖国を守らねばならぬ。反ソ干渉戦争反対、ソヴェト同盟、中国ソヴェトを守れ、と云う叫びと行動は来るべき革命第十五週[#「週」はママ]年を前にして、全世界のプロレタリアートの間にたかまりつつある。
 曾て、レーニンは書いた。「今や歴史は、他のいかなる国のプロレタリアートの総ての当面の任務のうち最も革命的な任務を、吾々の前に提出した。この任務の実現、即ち、ひとりヨーロッパの反動のみならず、更に又(今や、吾々はこう云い得るのだ)アジア反動の最強の支柱の粉砕は、ロシア・プロレタリアートを国際革命的プロレタリアートの前衛となすであろう」(何をなすべきか)既にロシアの党は美事に、このことを示し得た。
 今や、第二の革命と戦争の時代において、日本プロレタリアートの前におかれている任務の重大さは、まさに、かつてのロシア・プロレタリアートの任務にも匹敵するほどのものだ。我々の前には、世界帝国主義列強における最も反動的な城塞がそびえている。我々労働者・農民も、この城塞を不屈の闘争で攻め落し、国際的に重き歴史的任務に答えねばならぬ。
 我々、日本の労働者・農民は、アジアにおける最も野蛮な支配体制、自国ブルジョア・地主的天皇制
〔一九三二年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「拾銭文庫」第一輯、日本プロレタリア文化連盟
   1932(昭和7)年12月10日発行
※「×」傍点は底本、もしくは底本の親本で伏せ字を起こした文字。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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