世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、その解決を求めて、時代から時代へと動いて行く。ヨウロッパで云へば、十八世紀は個人的自覺の時代、所謂個人主義自由主義の時代であつた。十八世紀に於ては、未だ一つの歴史的世界に於ての國家と國家との對立と云ふまでに至らなかつたのである。大まかに云へば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云ひ得るであらう。然るに十九世紀に入つては、ヨーロッパといふ一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが對立したが、更に進んで窮極する所、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が對立するに至つた。これが第一次世界大戰の原因である。十九世紀は國家的自覺の時代、所謂帝國主義の時代であつた。各國家が何處までも他を從へることによつて、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考へた。そこには未だ國家の世界史的使命の自覺といふものに至らなかつた。國家に世界史的使命の自覺なく、單なる帝國主義の立場に立つかぎり、又逆にその半面に、階級鬪爭と云ふものを免れない。十九世紀以來、世界は、帝國主義の時代たると共に、階級鬪爭の時代でもあつた。共産主義と云ふのは、全體主義的ではあるが、その原理は、何處までも十八世紀の個人的自覺による抽象的世界理念の思想に基くものである。思想としては、十八世紀的思想の十九世紀的思想に對する反抗とも見ることができる。帝國主義的思想と共に過去に屬するものであらう。
 今日の世界は、私は世界的自覺の時代と考へる。各國家は各自世界的使命を自覺することによつて一つの世界史的世界即ち世界的世界を構成せなければならない。これが今日の歴史的課題である。第一次大戰の時から世界は既に此の段階に入つたのである。然るに第一次大戰の終結は、かゝる課題の解決を殘した。そこには古き抽象的世界理念の外、何等の新らしい世界構成の原理はなかつた。これが今日又世界大戰が繰返される所以である。今日の世界大戰は徹底的に此の課題の解決を要求するのである。一つの世界的空間に於て、強大なる國家と國家とが對立する時、世界は激烈なる鬪爭に陷らざるを得ない。科學、技術、經濟の發達の結果、今日、各國家民族が緊密なる一つの世界的空間に入つたのである。之を解決する途は、各自が世界史的使命を自覺して、各自が何處までも自己に即しながら而も自己を越えて、一つの世界的世界を構成するの外にない。私が現代を各國家民族の世界的自覺の時代と云ふ所以である。各國家民族が自己を越えて一つの世界を構成すると云ふことは、ウィルソン國際聯盟に於ての如く、單に各民族を平等に、その獨立を認めるといふ如き所謂民族自決主義ではない。さういふ世界は、十八世紀的な抽象的世界理念に過ぎない。かゝる理念によつて現實の歴史的課題の解決の不可能なることは、今日の世界大戰が證明して居るのである。いづれの國家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各國家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各國家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云ふことは、各自自己を越えて、それぞれの地域傳統に從つて、先づ一つの特殊的世界を構成することでなければならない。而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かゝる世界的世界に於ては、各國家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的發展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戰によつて要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。我國の八紘爲宇の理念とは、此の如きものであらう。畏くも萬邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である。十八世紀的思想に基く共産的世界主義も、此の原理に於て解消せられなければならない。
 今日の世界大戰の課題が右の如きものであり、世界新秩序の原理が右の如きものであるとするならば、東亞共榮圈の原理も自ら此から出て來なければならない。從來、東亞民族は、ヨーロッパ民族の帝國主義の爲に、壓迫せられてゐた、植民地視せられてゐた、各自の世界史的使命を奪はれてゐた。今や東亞の諸民族は東亞民族の世界史的使命を自覺し、各自自己を越えて一つの特殊的世界を構成し、以て東亞民族の世界史的使命を遂行せなければならない。これが東亞共榮圈構成の原理である。今や我々東亞民族は一緒に東亞文化の理念を提げて、世界史的に奮起せなければならない。而して一つの特殊的世界と云ふものが構成せられるには、その中心となつて、その課題を擔うて立つものがなければならない。東亞に於て、今日それは我日本の外にない。昔、ペルシヤ戰爭に於てギリシヤの勝利が今日までのヨーロッパ世界の文化發展の方向を決定したと云はれる如く、今日の東亞戰爭は後世の世界史に於て一つの方向を決定するものであらう。

 今日の世界的道義はキリスト教的なる博愛主義でもなく、又支那古代の所謂王道といふ如きものでもない。各國家民族が自己を越えて一つの世界的世界を形成すると云ふことでなければならない、世界的世界の建築者となると云ふことでなければならない。我國體は單に所謂全體主義ではない。皇室は過去未來を包む絶對現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し來つた所に、萬世一系の我國體の精華があるのである。我國の皇室は單に一つの民族的國家の中心と云ふだけでない。我國の皇道には、八紘爲宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。
 世界的世界形成の原理と云ふのは各國家民族の獨自性を否定することではない、正にその逆である。世界と云へば、人は今尚十八世紀的に抽象的一般的世界を考へて居るのである。私の世界的世界形成と云ふのは、各國家各民族がそれぞれの歴史的地盤に於て何處までも世界史的使命を果すことによつて、即ちそれぞれの歴史的生命に生きることによつて、世界が具體的に一となるのである、即ち世界的世界となるのである。世界が具體的に一となると云ふことは各國家民族が何處までもそれぞれの歴史的生命に生きることでなければならない。恰も有機體に於ての樣に、全體が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全體が一となることである。私の世界と云ふのは、個性的統一を有つたものを云ふのである。世界的世界形成の原理とは、萬邦各その所を得せしめると云ふに外ならない。今日の國家主義は、かゝる世界的世界形成主義に基礎附けられてゐなければならない。單に各國家が各國家にと云ふことではない。今日の世界状勢は世界が何處までも一とならざるべからざるが故に、各國家が何處までも各自に國家主義的たらねばならぬのである。而してかゝる多と一との媒介として、共榮圈といふ如き特殊的世界が要求せられるのである。

 我國民の思想指導及び學問教育の根本方針は何處までも深く國體の本義に徹して、歴史的現實の把握と世界的世界形成の原理に基かねばならない。英米的思想の排撃すべきは、自己優越感を以て東亞を植民地視するその帝國主義にあるのでなければならない。又國内思想指導の方針としては、較もすれば黨派的に陷る全體主義ではなくして、何處までも公明正大なる君民一體、萬民翼贊の皇道でなければならない。


 以上は私が國策研究會の求に應じて、世界新秩序の問題について話した所の趣旨である。各國家民族が何處までも自己に即しながら、自己を越えて一つの世界を形成すると云ふことは、各國家民族を否定するとか輕視するとかと云ふことではない。逆に各國家民族が自己自身に還り、自己自身の世界史的使命を自覺することによつて、結合して一つの世界を形成するのである。かゝる綜合統一を私は世界と云ふのである。各國家民族を否定した抽象的世界と云ふのは、實在的なものではない。從つてそれは世界と云ふものではない。故に私は特に世界的世界と云ふのである。從來は世界は抽象的であり、非實在的であつた。併し今日は世界は具體的であり、實在的であるのである。今日は何れの國家民族も單に自己自身によつて存在することはできぬ、世界との密接なる關係に入り込むことなくして、否、全世界に於て自己自身の位置を占めることなくして、生きることはできぬ。世界は單なる外でない。斯く今日世界が實在的であると云ふことが、今日の世界戰爭の原因であり、此の問題を無視して、今日の世界戰爭の問題を解決することはできない。私の世界と云ふのは右の如き意味のものであるから、世界的世界形成と云ふことは、地域傳統に從つてと云ふのである。然らざれば、具體的世界と云ふものは形成せられない。私の云ふ所の世界的世界形成主義と云ふのは、他を植民地化する英米的な帝國主義とか聯盟主義とかに反して、皇道精神に基く八紘爲宇の世界主義でなければならない。抽象的な聯盟主義は、その裏面に帝國主義に却つて結合して居るのである。

 歴史的世界形成には、何處までも民族と云ふものが中心とならなければならない。それは世界形成の原動力である。共榮圈と云ふものであつても、その中心となる民族が、國際聯盟に於ての如く、抽象的に選出せられるのでなく、歴史的に形成せられるのでなければならない。斯くして眞の共榮圈と云ふものが成立するのである。併し自己自身の中に眞の世界性を含まない單に自己の民族を中心として、そこからすべての世界を考へる單なる民族主義は、民族自己主義であり、そこから出て來るものは、自ら侵略主義とか帝國主義とか云ふものに陷らざるを得ないであらう。今日、英米の帝國主義と云ふものは、彼等の民族自己主義に基くものに外ならない。或一民族が自己自身の中に世界的世界形成の原理を含むことによつて始めてそれが眞の國家となる。而してそれが道徳の根源となる。國家主義と單なる民族主義とを混同してはならない。私の世界的世界形成主義と云ふのは、國家主義とか民族主義とか云ふものに反するものではない。世界的世界形成には民族が根柢とならなければならない。而してそれが世界的世界形成的なるかぎり國家である。個人は、かゝる意味に於ての國家の一員として、道徳的使命を有するのである。故に世界的世界形成主義に於ては、各の個人は、唯一なる歴史的場所、時に於て、自己の使命と責務とを有するのである。日本人は、日本人として、此の日本歴史的現實に於て、即ち今日の時局に於て、唯一なる自己の道徳的使命と責務とを有するのである。
 民族と云ふものも、右の如く世界的世界形成的として道徳の根源となる樣に、家族と云ふものも、同じ原理によつて道徳の根源となるのである。單なる家族主義が、すぐ道徳的であるのではない。世界的世界形成主義には家族主義も含まれて居るのである。之と共に逆に、共榮圈と云ふ如きものに於ては、嚮に云つた如く、指導民族と云ふものが選出せられるのではなく、世界的世界形成の原理によつて生れ出るものでなければならない。こゝに世界的世界形成主義と國際聯盟主義との根本的相違があるのである。

 神皇正統記が大日本者神國なり、異朝には其たぐひなしといふ我國の國體には、絶對の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が萬世一系として永遠の過去から永遠の未來へと云ふことは、單に直線的と云ふことではなく、永遠の今として、何處までも我々の始であり終であると云ふことでなければならない。天地の始は今日を始とするといふ理も、そこから出て來るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云ふ(舊事本紀玄義)。日本精神の眞髓は、何處までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云ふことにあるのである。八紘爲宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一體、萬民翼贊の原理である。我國體を家族的國家と云つても、單に家族主義的と考へてはならない。何處までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、國體の精華であらう。義乃君臣、情兼父子である。
 我國の國體の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我國家の主體性を失ふことではない。これこそ己を空うして他を包む我國特有の主體的原理である。之によつて立つことは、何處までも我國體の精華を世界に發揮することである。今日の世界史的課題の解決が我國體の原理から與へられると云つてよい。英米が之に服從すべきであるのみならず、樞軸國も之に傚ふに至るであらう。

底本:「西田幾多郎全集 第十二巻」岩波書店
   1966(昭和41)年1月26日発行
   1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
入力:nns
校正:土屋隆
2004年8月20日作成
2011年4月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。