一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二日  第一信
 さて、あけましておめでとう。除夜の橿原神宮の太鼓というのをおききになりましたか? 私たち(この内容は後出)は銀座からすきや橋に向って来た左角にある寿司栄の中でききました。
 おだやかに暖い暮でしたが、正月になったら、きのうは風、きょうは又大層寒いこと。私は羽織を二枚着て居る有様です。
 ずっとお元気? かぜは? 私のズコズコも悪化しない代り少々万年で。でも、実に吉報があります。それはね、島田から送って下すった炭が十俵無事三十日夜到着。私どもはワーッというよろこびかたで、もうこれで正月になった、という次第でした。うれしいでしょう、何てうれしいのでしょう。ですからきっと私のズコズコもなおるでしょう。佐藤さんのところでお年よりもいられて炭なしに閉口故、一俵あげました。佐藤さんフロシキを頭からかぶってかついで行った。この頃の良人にはこんな役もふえて来て居ります。
 いろんなことが押しつまってあってね、三十日にフヂエが無断帰還を敢行、つまり逃げました。可笑しいでしょう? 二十八日の夜中会から速達が来ました。二十九日目をさまして何かときいたら、おふくろさんがかぜをひいたからかえってくれと云って来た由。東京で三十、三十一日はどんな日だか分っているのだから、私はおこってね、正月二日にかえっていいから三十日三十一日はいてくれなければ困ると云ったら(ことをわけて云ったから)何とも尤もで、では一寸かえってそのことを云って来ますというわけで、私はそのまま外出。タカちゃんに晩かえりますと云って出ました。私は図書館へ開いていたらゆくつもり。そしたら二十六日に終っている。がっかりして午後早くかえって来て、二人で夕飯たべて、さて十時頃になって、どうしたろうと戸棚みたら包ナシ。ハハアと大笑いしたり、ふんがいしたり派出婦根性をおどろいたり。
 タカちゃんは却っていん方がのんきな、というから、では二人でやって、若い小さい娘でもタカちゃんがいれば一人でなくていいから、たのもうというわけに納りました。タカちゃんもゆっくりした気になって島田でやっていたとおりよく働いてくれて、本当にいい娘です。
 三十日は夕方、佐藤さん夫妻と戸塚へゆき、おそくまで久しぶりに喋って遊んで来ました。いねちゃん二十九日にかえったの。健造たちのうれしい顔ったら! 何てうれしそうなんだろう、顔にウレシイとかいてある、と私が云うと、とろけそうな顔に笑って、体をよじっている。その稲ちゃんのところで又一人にげられたの、可笑しいでしょう、二人小さい女の子がいた上の方が、姉娘。よくない娘だったからまアいいのですって。皆、暮から正月へ荒っぽい金がほしいのね。派出婦なんかきっと三十日から三箇日ぐらいやとわれて、ガタガタやって、よけいに金をとるというわけなのでしょう。短く働いて数をこなして、ティップなんかあっちこっちで貰いたい、そういうわけなのね。こんなところでも私は日本の風習の混乱を感じます。何か手つだって貰った女へのような心づけのしかたをして、しかし派出婦として高く日給とるだけには技能もなく、おもしろいわね。派出婦のスポイルのされかたがよくわかりました。家庭笑劇一幕。
 三十一日は一日二人で働いて、私は二階の本の整理。文庫本がまとまらなくてやり切れないので、去年の冬、牛込の方、というところから送られて来た戸棚の本箱、どっかの古物屋でお買いになったらしいの、あれを二階へあげて、あなたの坐ってつかっていらした大きい机の上にのせて、そこへ文庫大半しまって、大変まとまりました。久しぶりで床の間の板が見えて来て気持よくなりました。
 それから、あなたからのお年玉である『秋声全集』も床の間の本棚の方へ入れて、夕方やっとすみ。二人きりで夕飯の仕度するより、外へ出てたべようと云うプランでしたが、どうともおなかがすいてやり切れなくなって来たので、たかちゃんがお国流に煮たお煮しめでちょっと夕飯たべて、門松をうちつけて、それから誘いに来た佐藤夫妻と栄さんのうちへ行きました。
 そしたらね、ここに又一つ話があります。それは栄さんの妹さんが小豆島から来るとき、子供の一切の衣類、自分の平常着、その他木綿、毛糸(但皆ナリ)の全財産を大きい布団ケースに入れて送って、それはもう三ヵ月近い先のことでしたが、未だ着かず。遂に紛失ということがわかったのですって。ひどいわねえ。どこかへ間違って配達されたらしいの。そしたらあけて見て、そのままぽっぽらしいのです。まだ編んでないような毛糸もどっさりありました由。先ず子供のものでは大困り。皆着たきり雀の正月よ。栄さんと繁治さんケンカしそうになったりして。それからマアこれが三十一日でよかった、そとへでも出ようよ、というわけで、壺井の二人、うちの二人、佐藤さんの二人、この一隊が銀座へ出ました。一人も暮の銀座をこれまで歩いたことなしの連中なので(私のほかは)それぞれ珍しく。たかちゃんふしぎな気がしましたって。それでもかえりの省線かけられて、かえってふろに入ってねたのが、午前三時。
 元旦にはゆっくりおきて、九時頃お雑煮こしらえて、二人ともちゃんとおしゃれして、おとそのんで、あなたのおめでとう武運長久をやって、一日ゆっくりして、たかちゃんのお喋りをききました。
 いろいろの風があちらの元旦とちがいますってね。おとそしたりしないのだってね。面白がっていた。私は去年は病院ですし、その前の年はミルクホール問題の正月ですもの、ことし位はのんびりしたくて、ちゃんとやったわけです。
 本年は年賀郵便というものは大減です。1/10[#「10」は縦中横]以下です。宮本顕治先生として鱒書房というのからお年賀が来て居ります、廻送いたします、お出先へ(!)。晨ちゃんがよこしています。多摩川保養園というのに入っている様子です。
「人の世の深き苦み笑み耐へて 生きぬく君を尊しと思ふ」こんな和歌がかいてあります。「経過は順調故一層闘病精神を発揮し徹底的に克服するつもり」とかいています。こんな歌をよむ心は、やはり本人もさまざまの感懐があるからのことでしょう。戸ダイさんがアパートで炭なしらしく、賀状もこんなのにてれくさいと思ったら、床やのおやじが電気ストーヴをかしてくれて、手のかじかみがなおったからとかいてくれました。「メーターがおそろしく早い勢で廻転いたします」とあります。炭、米、アパートへは真先にことわる由。そういうのね。
 今年のお正月通信はなかなか特徴的でしょう、おのずから。
 野原の富雄さんは、きのう年賀電報という派手なものをくれました。多賀ちゃんと二人ハアハア笑いました。「段々父さんに似てきちょるかしれん」というわけで。
 きのうは多賀ちゃんも云いたい話みんなして、二人きりだから、よかったようです。フミ子を夏休みによこしたいらしく、それもよいということになりました。四年になると卒業前上京します、旅行で。でも、私は例によって、時間のかち合いで何をしてやることも不便だったりしたらつまらないから、夏来ればゆっくりして、私は仕事していても姉ちゃんとどこへでも行けばいいし、それでハアいいということになりました。達ちゃん五月にかえり、六月には三年の御法事、夏はフミ子、冬達ちゃんが結婚でもしたら、なかなか出入りのはげしい一年です、六月にはたかちゃんがお留守いですから、誰かもう一人いれば安心なわけ。
 島田の方もお元気で何よりです。たかちゃんに手紙をよこしたりなさり、はなれて見ると、又可愛ゆさもわかりお互にようございましょう。
 二十七日ごろ、てっちゃんに手紙おかきになりましたのね。アラとやきもちをやいた次第です。てっちゃん、昨年の分皆もって来てくれ、又いろいろ興味をもって拝見しました。
 良ちゃんお母さん、弟が新宿の方の家を解散して、林町のすぐわきに六月ごろから住んでいるということ、初耳でしょう?
 二十九日にね、林町へまわって四時ごろ団子坂の方へと来たら、黒毛糸のジャケツの若いひとが、私にしきりに笑顔しながら近づいて来るの。この辺に、こんな笑顔してくれる人いない筈と思って見たら本郷の独文へ通っている弟さん。智慧ちゃんのなくなったときむせび泣いていた弟さん。「すぐそこにいます」というの。「いつから?」「夏から」本当にびっくりしました。ホラ団子坂の方へ行くと、右手に小さい印刷所があって、そこを右に曲ると、カギの手にバスの停留所のところへ出る道がありましたでしょう、あすこの左側の二階家です。「じゃお母さんにお挨拶して行きましょう」というわけでね、そしたらお母さん大よろこびでした。原さんに教えて私につたえて、と云ったのですって。眠らない赤ちゃんでとりまぎれたのでしょう。「元の家は銀行にわたしまして」とのこと。あすこには娘さんの一人の稼いだ一家と同じ家で、その方からのことでしょう。
 こちらはお母さんと二人きり。動坂に娘さんが家をもっていて、そちらへ行ったらいろいろ賑やかには暮していられる由。ただすこしその家は日当りがよくないのですけれども。ちっともしおれてもいず、感心なお母さんです。年を召して、そういう大きい境遇の変化にああ明るく耐えているということは立派なことだと思いました。団子坂を通るといやでもよるようなところ故、折々よってあげましょう。年よりたちは、どこの人も、子供の友達が出入りしてくれることをよろこびます、しんからね。子供への愛がそういう形でてりかえして。
 きのうはちょっと「北極飛行」をよみはじめ、深く心を動かされました。こういう底からの明るさ、信頼、合理的であることの当然さ、感慨無量というところです。あの筆者の性格も何と面白いでしょう、ああいうメカニカルな仕事をする人が、公文書でなんかかけないとあの物語をかく、しかしそれはあくまで科学に立った形象性として。ああいう天質の成長というものの中にどの位文化の多面さ、ゆたかさ、自由があるか、そのことでひとしお感動しました。もし私があの書評をかくとすればそのところにつよい光をあてます。新しい文化の傑出したタイプです。本当に感慨無量で、目に涙が浮ぶようでした。訳者は「小説(文学作品)とは云えないが」云々と云っている。しかし、文化の分裂の形であらわれる小説よりは質において遙に上です。あの中には人間の美がさっぱりと輝やいています。あれも本当に、いいお年玉です、いいものを下さいました、ありがとう。ああいうよろこびをもって小説家が仕事出来たら。きっとそうお思いになったでしょうねえ。創ってゆくよろこびが躍動してそれは天真爛漫にさえ見えます。
 人間に希望、よろこび、慰めを与え得る文字、というものの価値は大したものです。日本の作家はこれまで、そういうものを通俗な事件そのものの目出度しや、ある心の境地や諦めやで与えようとしてだけ来ていますが、芸術の到達し得るところは、そんなところではないわ、ねえ。芸術は、悲劇をもやはり人間精神の高いよろこびの感動として与え得るべきです。苦痛の中にそのものが描かれてゆくことのなかに、大きい一つのコンソレイションがあるべきです。アランがそのことを云っているのは面白く思いました。なぐさめることではなくて、なぐさめられる心、それについて。芸術家の現実を統括してゆく力として。詩性として。もちろんこの判断はアランの限度のうちで云われているのですけれども。(哲学的に、ね)文学の面白さとこの人間精神のコンソレイションの関係は面白いこと。誰もつきつめて居りませんものね。私は自分の文学はそういう輝きで飾りとうございます、では又。このおしまいの部分は、面白いのよ、私の成長の歴史として。又かきます。

 一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二日  第二信
 お喋りのつづき。
 小説の面白さと精神のコンソレイションの話。この関係の微妙さと、高低の相異のひどさは、考えると面白いこと。精神に与えるコンソレイションが宗教で代られた(文学における宗教味)時代もあり、道徳で代られた時代があり(ピューリタン時代)文学、すくなくとも小説のこのものは、現実そのもののようなねばり、多様性、動き、関係を、すっかり掌握してゆく作家の写実ではなくて、そこに一つの見とおしをもっている感覚にまで及んだ知性、そういうリアリティーが、精神に与える満足と慰安と生活への鼓舞というもの。
 あなた覚えていらっしゃるかしら、いつか書いた私の手紙に、悲劇はない、というような意味のことをかいていたのを。自分の生活感情として。覚えていらして? ところが、あれは、主観に立ってだけのことで、それも今からは浅いと思われます。卑俗な云いかたでのそれはないにきまっているが、悲劇は人生にあります。悲劇とか不幸とか云うものはあります。(私の自分のことではなく)私はこの夏暑いところでいろいろきいていて、悲劇の悲劇であることをはっきり感じたことがあります、一人の婦人の善意の遭遇しためぐり合わせについて。作家として、テーマの本質をつかみ出すこと、その理解によって全体を見とおす平静さと悲劇はない、ということとは大したちがいです。そうでしょう? 私はその点では、未熟であったと思います。主観的であり箇人的ですね、そこでおさまっていられるとすれば。これは所謂悲劇への否定から出発していて、そのものとしてはやはり或る健全さへの探求の一つですが。今は、精神を高め、はげまし、愛し、涙そそぎ、しかも勇敢に前へ出ようとする力を与えるものとしての悲劇を理解するし、それがかきたいと思う。
 この点は、小さいようで、しかし作家としての成育では随分大切なことです。小説がかける心というものの真髄的な要素の一つですと思う。これが、私の小さいあなたへのお年玉よ。どうぞ御納め下さい。私にはやがてコメディアというものの精神もわかるかもしれませんね。トラゲディアとコメディアとの精神はまるであっちこっちとの極ではくっついていますもの。私は益※(二の字点、1-2-22)自分を無くしたいと思います、無私にありたいと思う。そして生活のあのうねうね、このうねうねに、うねうねして入ってゆきたいと思う。自分の道というものを押して来た作家、それが成長のあるところで飛躍してこの歴史的無私になり得るということは大変むずかしいことで、又そうでなければ、押して来た、ということの歴史的な意味の失われることで、なかなか面白い。
 多賀ちゃんと寿江子の生活上の力というものについて、やはり同じことを感じます。多賀ちゃんはどこでも生活してゆける力をもっている。寿江子はそうではないわ。そういうことから又自分の環境というものを私は考え直すのですけれど。今年もよく勉強しましょうね、質のいい仕事しましょうね。一月号の仕事は、その点もマアお年玉組です。てっちゃんが心からいろいろよろこんでくれましたから、私はこう云ったの。「どうぞ御亭主さんのところへその半分でも書いてやって下さい。私が自賛出来ないし、もししたら『己惚うぬぼれは作家の何よりの敵だよ』ときっと云うわ」と大笑いしたわけです。でもね、夜、床に入って考えて、もし、一言あなたからましだね、ぐらいに云われたら、どんなにうれしいだろうと思って。どんなに満悦だろうと思って。
 ああ、それからこれは笑い草の部ですが、『科学知識』の十一月号でしたか十二月号でしたか、およみになったのね、戸川貞雄の文芸時評。アンポンねえ。苦笑いなさる顔が見えて、自分も笑いつつ何だか手のひらが汗ばむようだった。あの筆者が歴史の性質を否定していることはあのひとの問題ですがね、でも作家とすれば自身肯定している部分で肯定されないなんてことは、やはり辛棒しにくいことですから。
 一月の「広場」なんかは、評者がやはり判ってはいないわ、本当のところは。しかし、重点のおかれているところには、やはり重点をおいて居ました。そのひとの主観からの色どりでほめていたりして。(二日のつづき)
 あのね、お正月らしい色どりにこの封筒へ第一信入れようとしたら、厚くなって入り切らないので、このしっぽはこれでおやめにして、薄いうち、こんな封筒おめにかけます。子供だましだけれど、でもね。
 五日に『文芸』二月号しめきるので、私のお正月もきのうだけというようです。急に寒くもなって人の出足はにぶいようです。
 ではこのつけたしはこれで。四日に一寸参ります。どうしようかしら。でも玉子のお挨拶だけにしておきましょうね。出ていらっしゃるにも及ばないのだし、さむいさむいし、ね。ねまきの袖を凧のようにして、さむいさむいと仰云るのおもい出した、では。

 一月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(六義園の写真絵はがき※(ローマ数字1、1-13-21)※(ローマ数字2、1-13-22))〕

 一九四〇・一月四日。きのう林町へ年始に出かけましたが、余り天気もおだやかでいい心地だったので、駕籠町のすこし手前で不図六義園の庭を思い出し、急におりて一めぐりしました。なかなかいい散歩場で多賀ちゃんと二人およろこび。ふらふら歩いてから又電車にのって、林町では歌留多という珍しいスポーツをいたしました。百人一首など何年ぶりでしょう! あなたはお上手らしいという定評でしたがいかが? そう? ※(ローマ数字1、1-13-21)

 ※(ローマ数字2、1-13-22) 一九四〇・一・四。この六義園は柳沢吉保が造ったのだそうです。岩崎がもっていたのを開放したものの由です。ところどころにある茶室に座って見とうございました。入場料五銭。札を売るところの男は、「このエハガキを下さい二組」と云ったら「オーケイ」とメリケンのアクセントで申しました。びっくりしました。林町へ二人でとまって、けさ、そちらへ行って玉子の御挨拶いたしました。多賀ちゃんのもどうぞ。余り人出で事故頻出。人間の数に合わせてのりもの不足の故でしょう。

 一月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月五日  第三信
 きょうはおだやかないいお天気。そして、二十八日のお手紙が到着。二十七日おかきになったてっちゃん宛のにやきもちをやいていたら、私へはやはり別にあったわけでした。ありがとう。独特の暮になりました、本当に。でもいいわ、スロウ・アンド・ステディについては、わがことなのですから。熱がどうか平坦になるように。かぜを引いていらっしゃるというのではないのでしょう? どういうわけかしら。呉々もお大切に。多賀ちゃんの手術について、又家の人員の移動について、もうこまかくおわかりの時分でしょう。今又二人なのよ。今年は多賀ちゃんに寂しい正月させては可哀そうと思い、林町で歌留多とったりして例年にない正月でした、又独特の正月であったわけです。多賀ちゃんはこまかく人の心もちも分り、いろいろいい子だけれど、妙に文学的というところはなくてさっぱりしていて、いい子です。うちのことして貰って私、机にばかり向っていて、何だかすこし気の毒のようです。でも、まあ当分小さい子の見つかる迄これでやりましょう、三月になって多賀ちゃんの稽古がいそがしくなれば、又考え直してもよいことですし。
 達ちゃん隆ちゃんにはもう着いたかしら。どうかしら。三越で、あなたの仰云っている通のこと私もよんでいるのできいたら、箇人関係では倍ですって! これで十分と云ってはいけないからなんでしょうと云っていました。箇人関係は倍というのは耳にのこって居ります、カンづめ等随分ね上り品不足。
 倉知のタダシがかえりました。あの男は三年ぶりです。暮の二十日すぎに金沢からクルミの砂糖菓子を一箱送って来たのですって。林町では何だろうと云っていて、じゃきっとかえっているとさがさしてやっとわかったのですって。今はもう通信も出来るのでしょう。新聞にはかかれて居りません。あっちこっちの戦友の慰問をして旅行する由。あの男も向うきずを太原でうけてどんな人相になっていることやら。この男には実の家族ナシです。林町でもどんな心持でいるかわからなくて(三年のうちに)菓子を送って来るところ、還って来る人の心もいろいろのニュアンスがあるわけですね。はっきりと迎えてくれる顔を描ける人、そうでない人、そうでない人はあっちにいても、こっちへかえるのも出るのも、どっちも可哀そうね。緑郎は音沙汰なし。何か仕事みつけるなら結構です。寿江子すこし糖が出るそうです。やっとすこし勉強はじめたら、すぐね。
「北極飛行」読み終り。いい本というものをよんだうれしさです。たくさんいろんなことが考えられます。仔熊の約束をする子供たちのことその他、この著者は家族というものを、平静な、均等なボリュームで、ちゃんと自分たちの生活のなかに出しているでしょう、私はあの点でもいろいろ感にうたれました。家族というものについての感覚がここでは何とひろく、公然とそして社会的な自信をもって扱われ、存在していることでしょう、私は実に愉快に感じました。ここには生活の日常的の明るさが最も合理的なものの上に立って、あきらかに在って、この筆者は私たちのぐるりのような荊妻豚児的家庭の感情ももっていないし、公のことと私のこととを妙に区別した一昔前の新しさもなくて、何と全統一の感じがあるでしょう。この感動は、私が自分で見ききしていた時分には、まだ社会感情として一般にここまで来ていなかったということと思い合わせて一層深うございます。よろこびとは何と合理的で透明でしょう、私たちは何とそういうよろこびをよろこばんと希うでしょう、ねえ。この感動で屡※(二の字点、1-2-22)涙をこぼしました。人間のよろこびは、何と大きくひろく動くものとしてあり得るでしょう。そして、ある挨拶をおくる言葉を、心からあなたにもあげたいと思って。この本のなかにはどっさりの忘られぬ響があります、ね、そうだったでしょう?
 今年のお正月は、こういう本ではじまって幸先よしの感じです。私はこの本とサンクチュペリの「夜間飛行」と何か日本の飛行をかいた本とくらべて何かにかいて見たいと思います。文学としてね。
 きょうはどっさり勉強しなければなりません。もううちの正月は終りです。夜は栄さんが仕上げた小説をもって来るでしょうし。
 二十八日のがきょうついたところを見ると、私の二十八日夜の分もあなたのところへはきょうかあしたのわけでしょうね。
 きょうはどうかして眼がすこしマクマクします、春のように。
 これからの仕事が終ったら、築地を観てその印象をかきます、芝居も久しぶりです。芝居は大した景気だそうです、一般に。ラクまで売切れとか。柳瀬さん年賀状をよこし近々箇展ひらくとか。光子さんまだアメリカなのでしょうか。どんなにしてやっているのでしょう、変に腕達者にならなければいいけれど。旦那さんそれでなくても売れる画のこつがわかりすぎている傾き故。
 では、どうぞどうぞお大切に。シャツなしのところへお正月の挨拶を。

 一月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月九日  第四信
 きのうからひどい風ね。凧のうなりがそちらでもきこえましょう? どうしていらっしゃるかしら。寒くなったし。風邪は引いていらっしゃいませんか。本当に本当にたべられたくなったら又玉子になろうかしらと思って居ります。
『文芸』の仕事「ひろい飛沫しぶき」を書き終り。次の古典読本のための下拵え中。そして、いつか三笠のためにかいた百十五枚ほどの文学史めいたものをよみ直しましたが、これは今日の目で見るとどこか下手です。本質に間違いはないが、整理が下手にされているし、その整理の下手さは何かしら、客観性の不足が私としては感じられ、あの節出なくて惜しくもないという気がしました。
 この位長いものとして初めて書いて企画がはっきりしなかったのね、きっと。『文芸』の仕事は、そういう点では随分ためになっているとびっくりします。マアこんなお習字があったから『文芸』の方のも行けたのかもしれないけれども。今月のうちに、五十―一〇〇かくのですが、不可能でもなさそうです。こんどは一つよく整理して、一目瞭然しかも文学の正しい詩に貫かれたものをかきましょう。章をよく分けて。
 今どんなにしていらっしゃるのだろう。ふところ手して、何かよんでいらっしゃるかしら。それとも横になっていらっしゃるかしら。多賀ちゃんとの二人ぐらしで、私のくらしもいろいろ微妙にディテールが変化いたします。なるたけ外出のときは一緒にゆきますしね。それから第一のちがうことは、一日のうちに何かにつけて、顕兄さん、顕治さんということが出てね。ごく自然に。わたしはすこしふざけて、自分だけの心持をこめて、「ひどい風! 御亭主さんどうしているんだろうね」などとも申します。これまで、こんな相手はなかったから。寿江子とは又ちがって。そしてね、これは又一層たべられたさをも誘うわけです。何かすこし家庭らしいのですもの。女中さん相手にばかりくらしていたのとくらべれば。それに多賀ちゃんはなかなか頭が早くて、私が林町に暮せない雰囲気やいろいろもうすっかり理解していますし。面白いでしょう? 私は今のうちの空気、大変味って居ります。何処かに私のしこりをほぐすものがあります。しこりがほぐれて、こまかいいろいろの腱だの筋だのがわかって来るような生活の感情は、やはり面白いし、ああこっていたと今にして思うところもあってね。多賀ちゃんでさえこう感じる、そのことを追って思ってゆけば、私がどんな情景を描くか不要多言で、その心も亦、大変きめのこまかい明暗にとんだものです。すっかりお分りになるでしょう? 私は自分のそういう明暗が、はっきりあなたの中にもてりかえしていて、わかっていると感じているのだから。面白いわねえ。どこもしこらしていないで、四通八達で、深く深くふれてゆくそういう達人になりたいこと、仕事の上で。生活の上で。実に腰のきまった、ね。私はまだ本気になると堅くなるところがあって、そして、この四通八達はリアリズムの極致なのだから面白い。主観的なおさまりでないところが興味があります、そして無私であって。
 又「北極飛行」になりますが、あれをよんで、人間を育てるものは何かと考え、何か激しく求めて喘ぐような感情を経験しました。あの筆者は、自分がどんな新しいものとして生きているか、きっと私たちがその姿を見てうめくように感じる程分ってはいないでしょう。人間の成長はそういう風だからおそろしいと思います。ああいうものをよむと、私は七度でも生れかわりたいと感じました。あすこへ文化が育つまで、世代から世代と生れかわって辿りついて、その光の中に出て見たい、そういう気が切実でした。これまで一度の生涯というものへの愛惜は随分つよく感じて生きて来ているけれど、七度もと思ったのは初めて。益※(二の字点、1-2-22)業がつよくなったのよ、ばけるようになったのね。そちらはいかが?
 私はこれまで自分はお化けになれないと思っていたけれどもこの分ではやや有望です。
 ふと思いついてひとり笑えます。だって、私は義務読書の中で、一度もこんなばけたい話まではしなかったから。ニヤリとなさるだろうと思って。でも、それは私の具象性でしかたがないのでしょう、見たもの、ここにあるもの、見たところで今日あるもの、その三つの点が生々しく関係しあって、そこの街の匂いとともに顔をうって来るのだから、どうもこたえるわけです。「広場」の後篇なのですものね。
 お化けなんて可笑しいけれども、せん、盲腸をきったとき、手紙のこと一寸申上げたでしょう、覚えていらっしゃるかしら。「役に立たなくてよかったね」と云っていらした手紙のこと。よく云うでしょう? 自分のごく親愛なものが死ぬとき、そのひとのところへ現れるって。父さえ私のところへはあらわれなかったから、自分のような性質のものは、やっぱりきっとあっさりしちまって迚も挨拶なんかしないだろうし、おばけにもなれそうがない、と思ったのでした。可笑しいでしょう、そして、それは残念だから手紙かいてちゃんと用心していたのだから。ちゃんと化けられる自信がつくまで、手紙はすてられないわ。これは本当よ。
 あなたの方の御様子が分らないので、こんな半分のんきそうな(本当はそうではないのだけれど)ことかいていて、どんな御気分のところへ着くのかしらなどとも思います。ああ、でもいずれにせよ、秋風よこころあらば、なのだから同じことですけれども。
 寿夫さんから手紙来。おたよりを頂いたと。体がよくないのだそうです。どうしたのか。のみすぎでしょう。年賀のあいさつに、お酒をやめろというと野暮のようだが、体は正直な生きものだから、と書いてやりました。
 林町の連中は皆丈夫。多賀ちゃんもさいわい、風邪もひきません。これは何より。私のはまだ、何度も鼻をかみます。今夜どうしても出かけなければならないのに、こんな風でいやだこと。乾いて、こう風がふいて。東京の一番わるいところですね。
 一月も、もうじき二十三日ね。火曜日ね。満月は二十五日。大変くわしいでしょう、当用日記にはこういうこともあります。二十三日までに玉子何箇になるでしょう。
 呉々かぜをおひきにならないように。あなたは何日がお書き初めでしたかしら。

 一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月十三日  第五信
 けさ書き初めをいただきました。(六日づけ)ありがとう。風邪をお引きになったのでもなかったのね。そのことを主に心配していたので安心しました。
 私のかぜは随分グズグズでしたが、それが今年の風邪の特色らしくて、やっと昨今大体全快になりました。私は、体の条件で、すこしわるい機会に引くとそのかぜは迚も永くつづくのです、もう大丈夫故どうぞ御安心下さい。多賀ちゃんも元気です。島田の方も御元気。達ちゃんと同じ石津隊のひとが(同日に出た人)先日かえりました由。そして三月ごろはかえれるというそうです。段々そんなこんなでお母さんの御希望も具体性が加って来て、さぞおうれしいでしょう。私は本当に達ちゃんの顔を見たら安心します。そして、私たちは仕合わせであったと思います。隆ちゃんはどこか南の方でしょうか、今、日本の九月十月の気候のところにいるそうです。さむいのは可哀そうですが、それはマアいいこと。ハガキで例の如くわかるのはそれだけです、それから丈夫でいる、ということと。お嫁さんのことその他、おっしゃるとおりね。こちらで人が見つけられないのですから。勿論私は直接何とも云えないから、ただあなたにお話しするわけなのですが。全くとびはなれたところからでは、生活の習慣がちがったりして、双方それに適応出来ず、ね。やっぱりお母さんのお気にも叶うことが大切な条件ですし。岩本の小母さんという方は、お母さんより遙か常識家で、お母さんのそういう面に拍車を加える作用をしているので、いろいろになるような様子です。最小抵抗線でのもの事のおっつけ方は、ここが参謀らしく何となく悲喜劇ですね。岩本の小母さんという方は、現在の御自分の暮しに大変満足していらっしゃり、息子の小学教員の云うことを唯一の真理と思っていられるので、息子殿の口うつしでお母さんにもペチャペチャの由。でもマア話対手として御退屈まぎらしにはいいでしょうけれど。永い間にそういうものの作用が、お母さんの聰明さを曇らしはしまいかといくらかは気がかりです。今のところ、しかし私たちには現実的に別のプランというものもないのですし、お嫁のことも。
 栄さんたちのプレゼントのこと。それはいいでしょう。きっとよろこんで「じゃそうしましょう」というでしょう。丸善へでも行って見ましょう。きれたのを、でもとりすてになすっては駄目よ。又ちゃんとつくろって、大事大事にとっておいてつかわなければなりませんから。純毛は大人用は本年はないでしょうね、折角のおくりものでも。
 ユリのエッチラオッチラは本年も勿論つづけて居ります。五冊をのりこしたら、フーと大息をつくと思います。目に見えぬ土台というのは適切な表現です。本当にそれは目に見えぬ土台ね。年が経ってからききめがなるほどと感じられるような味がわかります。一昨年中によんだ何冊かのものについてもやはり同じことを感じます。或本をよんで、一旦はもう忘れたようになっていて、しかしどこかに蓄積されている。作品をよんでもそうです。但、私にはまだその底をつくていの理解が不足しているから、その肌身についての身につきかたが、例えば「北極飛行」などとは雲泥の差です。そこは遺憾ね。しかし追々読書力もひろく深く高くなって、消化しきれるようになるでしょう。実際わかるということのうちに、何といくつもの段階があることでしょうね。その段階の多さがやっとこの頃になってわかったようなところもあります。
 小説のこと。今のところ、この前の手紙にもかきましたように、本月一杯に今日の文学を歴史的に見たもの百枚以内書いて、来月は「三月の第三日曜」をかいて、それから『文学者』へ何か短いものを書いて、それから『中公』の書き下し長篇へとりかかります。この長篇の話はきまったばかりで、まだこまかい話はきいていず。しかし確定はして居ります。うれしいから一生懸命かくつもりです。それにかかる前に『文芸』のつづきのもの、もう四五回分書いてしまおうと思います。そして長いものをかきはじめたら、余り他に気を散らさず書きます。私はどこへも行けないから、うちの条件をよくして。『文芸』の方のは『改造』から出るでしょう。ついでに「伸子」文庫にしないかきいて見るつもりです、性質から云えばそうしていい本ですから。
 あれやこれやで、多賀ちゃんは、野原へ、となりの桶屋さんの娘でこの三月青年学校を出る娘をこちらによこさないか、手紙をかいてくれました。きっと多賀ちゃんがいれば来るでしょう。どうも見込みがありそうです。そうすれば大助りね。私はやはり、何でもたのんでして貰える人がいないと困ります。多賀ちゃんがいれば、一人ぼっちの感じはないからその位若い娘(十六七?)でも大丈夫ですから。三月から多賀ちゃんの仕事も始りますから。もし実現したらいいこと。その娘は三年ぐらいはずっといるつもりですって。多賀ちゃんだって今年一杯はいそうです。洋裁が三月から十月まで。それから一ヵ月ぐらい帽子のことを習ってね。十一月でしょう? そしたら年の暮は野原でということがせいぜいでしょうから。こちらの生活に入りこんで見ていて多賀ちゃんには随分いろいろのことがわかったようです。私が田舎で暮すのは不便ということの意味もわかったようです、ただ水道、ガスの問題ではなく。
 四日のはまだですって? もう、お正月用封筒の手紙はついているわけですね。でも、お正月になってかいたのはまだ? 寄植でぼつぼつ咲いているのは何? 福寿草でしょうか、梅はないでしょう?
 梅と云えば、今年は一つ楽しみが出来ました。それはね、あのエハガキをお目にかけた六義園ね、あすこの梅見に出かけようと思って。私の好きな好きな紅梅も、一本ぐらいはどこかにありそうで。いつも桜や桃を見たいと思うのですが、そんな場所へわざわざ出かけてゆく折がなくて。六義園なら何のことはないし。
 詩の話も愛読して下すってありがとう。なかなか味いつきぬ趣がありますでしょう。お互に一つ本をよんでいるわけですが、やはり又それについての話も伺いたいのは面白い心持ね。話しかたというものに独特な味いがあります、それからそれを話す様子にも。その情景にも。そしてね、こんなことも思います。人間にも鳥のように、声で唱うしか表現の出来ないような情感もある、と。その声を大抵は胸の中にたたんで暮すのね。人間の胸がもしもアコーディオンであったらどんなに色様々の音を発することでしょう。人間の芸術に音楽があるわけですね。うたう心というものは面白いものですね。うたわんと欲する心も美しい。前奏のメロディーが委曲をつくしてリズムがたかまり、将にデュエットがうたわれようとするときの光彩にあふれた美しさ。全く陸離たる麗やかさ。光漲るなかに何と大きい精神の慰安が在ることでしょう。そういう美しさは涙を浮ばせるものであって、その涙のなかにこころを洗う新しく鮮やかなものがこもっていて。「ああわれは竪琴」という短い詩があります。絃をはられた竪琴が、ああわれは竪琴と、やさしくつよくかき鳴らされることを希っているソネットです。このソネットは目の中に見入り、膝の上に手をおいて、ゆるやかなふしでうたわれるうたですね。一年のうちに一月はユリの詩の月ですから、どうしたって。では、どうぞかぜをおひきにならないように。

 一月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(北京・牌楼の写真絵はがき)〕

 一九四〇・一・一四。栄さんのおくりものの手袋をお送りいたします。このエハガキもおくりものです、徳さんの。いろいろのがあります、涼しそうなのは夏に、ね。あしたは朝玉子をあげにゆきます。それから夕方は、小樽のおばあさんとてっちゃんのところ。でも、急に天気が変ったからどうなりますか、雪でもふればおやめでしょうが。私は雪見に出かけますが。雪は何となし家にじっとしていられない心持です。つるさんの本お買えになりましたか? 今仕事の下拵のためにこまかく読んで居ります。

 一月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月十九日  第六信
 きのうは妙な一日でした。何だかそちらが一日じゅう気がかりで、電車にのったりしていて人にもまれながら何か急に気になって。どこか工合がおわるいのではないかしら、そんな風に思いました。けさ、十三日づけのお手紙いただいて、すこし安心したけれども。しかし何しろ十三日ですものね。やっぱりどうしていらっしゃるだろうと思われます。本当にいかが? どんな顔つきしていらっしゃいますか? 熱の工合などは? このお手紙にはそういうことがちっともかかれて居りませんね。即ち、ましでしょうか。どうかそうであるように。
 四日のがお金でしたってね。では十五日の玉子もお金? 玉子でなければいやですのに。四日は、しかし正月の間で品が一層揃わず、そんなことだったのかもしれません。
 御用の方からシャツのことわかりました。すぐ今ほして送ります。地図もわかりました。『朝日年鑑』の新しい分はいかがでしょうか、送りましょう、ね。
 雪も雨もふらないでも、何と何日もかかることでしょう。てっちゃんの手紙、僕は苦笑とあって消されてあるので笑いました。あのひとは、ここに云われているとおり、苦労の時期をまともに生きようとする作家として見る心持や、あなたへの親密さや、そういうものでやっぱりいくらかはあなたに安心をおくることになるだろうという心持で、作品のことなどかいてあげるのね、きっと。
 あの文芸批評について、私の感じたことかいた手紙はもう御覧になったわけでしょう? 大分前ですものね。仲々分らない人が多いということを全く同じに感じました。そのわからなさの範囲のひろさと云ったら! 今年の仕事への祝福をありがとうね。量質ともに粗末でないものを生んでゆきたいと思います。
 それにつれて、いつぞやのお手紙の中にモチーフが豊富になるように云々と云われていたことについて、それがモチーフと云われている味の深さをよろこんでかいたことがあったでしょう? モチーフとテーマということの今日の文学でのありようは風変りです、つるさんの評論集の中に、このモチーフについて志賀が、テーマはあってもモチーフが自分のなかに生れなければかけないというのに対して、横光は芸術のモチーフというものを知らないのね、自分の感覚として持っていないで、世界像を整理しようとする意欲としているのは面白いこと。この二三年はこのモチーフを知らず意欲を知っている連中の仕事師ぶり、生活ときりはなされた題材を平気でまとめてゆく意欲がバッコしているわけです。モチーフというものが、生活と芸術とへの全く積極的な態度なしには生れないというところは面白いし。又自分としては過去の何年かに書いたものの、その点モチーフの的確さの点でいろいろ省るところがあります。又そのことばではなくても、あなたがいろいろ云っていらしたことについて。モチーフのゆたかさは、生活感(芸術家なら当然そこに芸術家としての勘も入っているものとして)の鋭さ深さ、生々しい柔軟さですから、なかなか面白い。テーマが、題材との関係で、積極性を求めて云われたとき、このモチーフにふれて、芸術的分析を十分にして云われなかったことも思い出します。当然のこととしてのみこんでしまっていたと思う。本来的に会得されていたものとして。でも、私一人のことについて考えて見るとテーマとモチーフのことは微妙で、たとえば「小祝の一家」ね、あれなどモチーフがはっきりしている部だけれども、でも、やっぱりもう一層自覚されていたら、もっと作品の上でのふくらみ動き流れるもののたっぷりさがあったと思います。このことは、大変大変面白い点よ。私はモチーフなしにかける作家ではなく生れついているわけですが、テーマのとらえかた、とらえられたテーマの正当性、というか、そんなものへのよりかかりが或ときは生じていたと思う。失敗の部に入る作品は、大体こういうところにその原因があったとも思います。テーマはその骨組みは頭脳的なものでもとらえられるのですから。
 いろいろと目を白黒させないように、などと! ああわかったわ、あなたは、すこしユリがのぼせて目玉クルクルさせて、そういうところ御覧になりたいのでしょう? ところが、これはあにはからんやというところです、決してソワつかないのよ。泰然としてね、それは正月でしたからすこしよふかしもいたしましたけれども、大体は早ねで、本よみも、すてては居りません。いずれ、表を。と云って礼儀ぶかくひき下るのよ、大した奥様ぶりよ。フーンでしょう?
 多賀ちゃんは、年若い仕合わせに、なるたけさしつかえのないところへは一緒に出かけ、変化も多く暮して居ります。大島のよく似合う着物羽織一組買ってやりました。これは知っている人がお払いはいつでも、チビチビで売ってくれるのです。お金で月給やるようなわけ合のものではありませんから。ところが、表は出来たが裏がないのよ。赤い赤絹もみの布がどこにもないのです、織元でひき合わぬ由。三月になって洋裁がはじまったら多賀ちゃんとしての一日の割当が出来ますから、そしたらそんなに一緒にも出ません。
 富ちゃんの年賀電報、そうでしょう? それに、最大の謝意ということ、よくわかります。
「北極飛行」本当にすきです。幸福ということは、どういうことかなどとよく論議されたが、主観と客観の幸福がああいう形で一致し得るということは、何という明るいよろこびでしょうね。多くの世界では、その二つがくいちがっていて、客観的な条件は、その歴史性でとらえてだけ主観的に体得される幸福のよりどころとなり得る関係です。
 小樽のおばあさんをつれて、てっちゃんの家で夕飯をたべていたとき、静岡の大火のことがわかりました。(十五日)何しろあすこは鶴さんの故郷ですからびっくりしていたら、いいあんばいに、六千戸もやけたその外廓で、わずか一二町のところで、三軒ともたすかりましたそうです。よかったこと。今の火事は本当に気の毒です。ものがないもの。そしたら皆おじけづいてね、動産ホケンかけようと云いました。本だって何だって大変です。このラワンの机が今こしらえたら70[#「70」は縦中横]ぐらいですって。二十円そこそこのものでしたが。48.00 だったこのシモン Bed なんか大した財産というので大いに笑いました、鉄成金になった、と云って。十倍として見ろ、なんて云うんですもの! この動産ホケンのことは真面目に考えて居ります、僅の掛金ならやります。
『中公』の書き下し長篇の話、本きまりになりました。顔ぶれはどういうのかその選びかたが分らないみたいです、女では、岡本かの子、私きり。男では石川、丹羽、石上(新しい人です)そのほか。いろんなところから書き下しが出ているが質のちゃんとしたもの、長篇とはかかるものなりというにたるもの、そういうものを出したい由。紙数が制限されてのびのびかけないから、そういう文学上の意義を完了させたい由。四百五十枚ぐらいの由。七八千刷る由。一割二分の由。四五月ごろからかきはじめることになりそうです。それ迄にすっかりいろいろすませて、それに全部かけます。印税をすこしずつつかって兵糧にして。ああと思うのよ、本当にかきたいものを、と思って。しかしよくよく構成をねって私はかきたいこと、書きたい情景、いろいろ出来るだけ活かして見るつもりです。今はまだまだそこに行っていず。手前ですまさなければならないもの一杯だから。これを二月一杯にすませ、三月以後はほかの仕事は大体のばして。三ヵ月びっしりかかってかき上げます。たのしみです。二年に一冊長篇かくことにして、勉強するのもいいと出版部の人とも話しました。マアこれも先のこと。
 東京堂あたりへ行って見ると何とどっさりひどい本が(粗末な装幀で)出ているでしょう。書くものの身になると大安売りの姿で悲しゅうございます。だからしっかりした本が出来たらと思います。文学としてしっかりしていて、本のこしらえとしてもチャンとしたの。
 今にきっと、私の手紙はその小説の誕生についての話で一杯になることでしょうね。先ず、あなたにそこに現れるすべての人物を紹介したいわけですから。
 仕事の配分と時間のこととを考えると、ユリもそうのんべんだらりとしていられないね、とお思いになるでしょう?
 私は、この長篇にかかる前の勉強としてモチーフということについて大いにこねるつもりです、文学上の理論としてというより、作家として自分の内部的なもののありようを見きわめるという意味で。私たちの文学において、このモチーフが気質的なものでもないし、主観的なものでもないし、しかも生活の中で生活されたものから生じるというところ、そこを自分に向ってマザマザとさせたいわけです。鶴さんの本を殆ど終りますが、六芸社の本を出してよみ合わせて様々の感想にうたれます。六芸社の本のなかで、小説的現実と云われていること、描写で追求しなければならないと云われていること、いろいろ又味い直し、この筆者の芸術的感情の本ものであること、しかし歴史の中では、いつも全面を万遍なく云い切れないということなども感じました。作家として、この筆者の芸術性を具体的に示す責任を感じるわけです、いつも感じること乍ら。ではどうぞお元気に。二十三日にね。

 一月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二十一日  第七信
 本当は仕事しなければいけないのですが。ね、こっちのペンをもっているくせに。御機嫌はいかがでしょう、寒さもこんなに乾くとあらっぽくていやですね。こんな冬にはやっぱり、春のような冬とは思えないでしょうね、きっと。
 ゆうべも、二十三日にはどうなさるかしら、そして自分はどうしようかしらと思いました、夕方からは座談会があって出かけます、花を朝たっぷり買おうと思います、それからそちらへ行って玉子と花とをあげましょうね、そして、どうしようかしら。あなたもそうお考えですか。それとも考えるまでもなく、という条件でしょうか。こちらには、そこがよく分らないのでどうだろうと思うのです。無理をおさせしてはわるいし、いやだから、玉子にして置こうかとも思い、或は、とも思い。でもあなたのことだから妙な義理立てはなさりますまいから、という結論に達しているわけです。それでいいかしら。
 さあ、元気を出して仕事しましょう、でもまだヒンクスのGをつかっているのは心がけいいでしょう? 文房堂へこの紙がましだから買いに行ったら、原稿紙はどうかということで、ついこの間 68S だったのが 75S になった由。私のつかっているのは一レン 4000 で二六円二〇銭かでした。この紙は目つけものです、もとの仕入でしょう。もとかいていたポクポクのよりはずっと楽です、つかれかたがまるでちがいます、第一こんな先のちびたGなんかであっちではこの字はかけませんものね。ひと仕事して夕飯の仕度に多賀ちゃんと五時すぎ外へ出たら、マア、何という月でしょう。空は一面青くて月ばっかり出ているのですもの!「ああちくしょう」と云ったら、多賀ちゃんが、「何で?」ときくの。「だって月が出てるじゃないの」勿論これはきわめて非論理な問答です。あんまり飛躍していると思ったと見えて多賀ちゃんも、ついについて来かねて、折かえし質問はいたしませんでした。
 昔の伝説ではないけれども、二十日すぎると私は何となし落付けなくなります。
 二十四日
 すこし風立っているけれどもおだやかな日ですね、きのうはやっぱり特別な二十三日になりました。朝早く九時すぎそちらへ行って、四時すぎまで居りました。マルグリット・オオドゥウの「街から風車場へ」という小説の終りの部分をよんでしまって、それから三和土たたきの上にみかんの皮やキャラメルの紙のちらかっているところを眺めたり、どっさりの男の子や女の子の顔が、何て一つ一つおふくろさんの顔に似ているのだろうと思って念を入れて、その子の対手の女や男まで思い泛ぶようにして見たりしました。午後になってから気分が楽天的になって、いろいろ書いているもののことについて考えたりして居りました。一日同じ建物にいたわけ。
 それから、大変待たせて、云々という御挨拶を伺って、家へかえりました。五時には家を出なければなりません。四時半ごろについたら、てっちゃんが丁度来て茶の間に待っていました。いきなり旋風を捲きおこす形で私が入って行ったので、ホウホウという次第です。それから大いそぎでお雑煮をたべて、着物きかえて、そこへ入って来た彌生子さんと一緒に家を出ました。
 座談会は木々高太郎、奥むめを、私よ。『新女苑』。十時すぎ散会。かえりに目白駅まで送られて、そこで自動車をおりました。
 写真屋の横からずっと入って、左へ行くところを右へぬけました。先のうちの前。門はしまって、寝しずまっている。月は中天にあるから濃い自分の影が足の前に落ちて居ります。そして街燈の灯はぼやけて、もっと大きい薄い私の影をすこしはすかいのところへ投げるので、砂利をふむ草履の音をききながら、あすこの道をゆく私には二つの影があるのよ。二つの影は何という感じを与えるでしょう! ブッテルブロードをもってかえっていらっしゃるあなたの影も二つあったのだと思います。胸の中で生きものがねじられるようです。そして、歩いて来たの。
 特別な疲れかた故、多賀ちゃんが風呂をわかしておいてくれたのが本当にうれしく。ゆっくり入って、そして、思い出すの。何て夢中で入ったお湯だったろうと。床に入って薄くあかりつけて、なかなか眠りが来ず。しずかな寝息がきこえるようなのですもの。っとその寝息の感じを聴いていて、又胸の中の生きものが体をねじるのを感じます。そして、バロックの装飾に、アトラスが下半身は螺旋らせんの柱によじられた形でつかってあるのなどを思い出し、そういう様式化のなかに何という残酷さがひそんでいるのだろうなどと考えます。
 あなたは体がよくおありにならないから、私のなかの生きものが身をよじる話なんかしてはいけないのだ、とも思うの。自分がこんな気持で、座談会で、女の生活のいろいろのことについて話す。生活というものの複雑なおもしろさ、そして又女の生活の自然な開花を希う私の心に女として何と痛切なモティーヴがあるだろうと思ったり。
 涙は出さず、眠りました。
 けさ、ひどく早く半ば目がさめ、夢のように、ああ今朝と思いました。暫くそこにある情景のなかにいて、又眠って、けさはおそくおきました。
 そしたらくたびれは大分ぬけて居ります。きょうは一日家居。『日本評論』に十五枚ほどつるさんの評論の書評をかきます。評論対評論風にではなく、作家があの本から得て来るものについてかくのです、その方がよむひとにわかりやすいから。
 その前にどうしても手紙かかずには居れなく、しかもやっぱりこういう手紙を。でも私は書きつつ、ああいいよ、と云われている声や眼やすべてを感じて居ります。これは正銘だと思います。単数で表現されているものではないと思われもします。ああだけれども、やっぱりこの顫音は消えないわ。いろいろな頭のはたらき。いろいろな日常の動き。ひとへの心くばり。それについてふと消えたかと思うと、又きこえるこの顫音。私はそれにきき入って、それを愛して、そして、一つの顔にじっと目をおいているの。それは何と近々としているでしょう。私の指先が何とまざまざ感じるでしょう。
    ―― 花マルのようなマーク ――
 さて、私は一張のヴァイオリンのひき手のように、ここで絃の調子を変えようとします。幾分の努力で。
    ―― 花マルのようなマーク ――
 余り空気が乾燥しすぎているのが有害なのだそうですね、特に。お体の様子あらましわかって居ります。どうぞ呉々もお大事に。いろんな場合決して決して無理なさらないように。そのことからおこって来る結果について私の不平はありようないのですから。しかし私は心からいろいろが体にふさわしいようになることを願っています。これは全く心から願っていることです。私に出来ること、とあれこれ考えます。けれども、どうも見当がつきません。
             草の絵
 私がいそがしいので、多賀ちゃんもこのごろはいいおかみさんです。きのうなどね、こんなことがあったの。
 何しろそういうわけでかえるのが大層おそくて、郵便局がしまってしまって為替来ているのがとれず。あわただしく又出かける仕度しながら、「困っちゃった、かわせのまんまよ、けさの五円はもう小さい小さい紙くずになったし、いやね」と云ってそのまま出て、かえりに更紗のさいふをあけて見たらカワセの紙がないの。おや落したかとすこしあわてて見直したらね、小さく畳んだ十円が入っているの。いつの間の仕業でしょう。なかなかいいおかみさんではありませんか。ハハアと感服して、格子入るとすぐ、大いにほめました。「資格があるよ」と云って。しかし、ここに又微苦笑があってね、心ひそかにおもえらく、どうかこの娘も、こんな気のはずみがおこるような御亭主をもたせてやりたいものだ、と。それはそうですものね。やはり対手によりけりですものね。鳴らない楽器はひけない道理ですものね。
 そちらにどんなカーネーションとバラが届きましたろうか。カーネーションの花にも匂いがあるのよ、御存じでしょうか。きのうは花をかえなかったけれども、机の上には、濃紅のバラが二輪あります。半開の手前です。
 おひささんがこの間遊びに来ました。そして是非来てくれというので、二月八日に行く約束しました。龍宮荘というのへゆくのよ。面白いでしょう? 旦那君のいないとき、昼間行くの。そのアパートにもやっぱり鼠が出ます、「人がいても出ます」とよろこんでいるのよ、「ここと同じこんで」と。可愛い気質です。そして、あなたに重ね重ねよろしくとのことでした。お体をお大事に、と。でも、このことづては例えば昨夜のようなときも何人かから貰いますから、大変どっさりなわけなのだけれど。では又ね。本当に悠々ゆうゆうと、ね。どうぞ。

 一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二十五日  第八信
 きのうは電報をどうもありがとう。前便を出しかたがた市場へ、小樽のおばあさんにあげる手袋を買いに行っていたあとにつきました。本当にありがとうね。くりかえし、くりかえし、いろいろによみます。僅の字でもいろいろの声がして。ところが、それでもきょうは何だか病気のようになって午後までていました。風邪気のようでもあったのですが。何だか体じゅう切ないようで。ゆたんぽを二つもこしらえて背中と脚とあたためて、ひる頃妙なさむけはとれて、一時間ほど眠って、目がさめたらずっと楽になって、それから夕刻まで一気に仕事しました。何とおかしいでしょう。
 御気分はいかが? 私の病気がうつらないように。肺炎が大流行です。そのための特効薬がないので死亡率は高うございます。私はチフスと肺炎では死んでいられないと思って用心です。きょうはそれで、午後から夜にかけての会は電報を打ってことわり、欠席。きのうだって九時そこそこに床に入ったのに。きょうもまたそうします。
 多賀ちゃんはきょう帝劇で「早春」と「花のある雑草」という映画をみて来ました。ひとりで、切符が来ていたので。面白かったそうです。来てから初めての映画ですから面白かったでしょう。まだ芝居は築地の「建設の明暗」(中本たか子)だけだし。なかなか遊べませんね。いつかの手紙で申していた多賀ちゃんのとなりの娘、あれは来ないときまりました。工廠が出来るから村の内でいくらも就職できますからって。それはそうです。そこで、小学校の女先生の知り合いから、十五ぐらいの娘さんをたのむことにしました。夜の時間を勉強にやってやりましょう。お裁縫なり。これは多分できましょう。そしたら私も一安心。その子のおっかさんはどこかで働いているそうですから休みの日を同じになるようにしてやって、母子で休日をたのしめばようございます。
 今年の二十三日のために、何を頂きましょう。数々のほかに。去年はこの万年筆でした。なかなかよく役に立って、こまかいケイに沿うていろいろの幾万の字は皆このペンがつむぎ出したのですもの。今年は何を頂きましょう。何を下さりたいでしょう? こうして机の上を眺めて何がたりないかしら。私として何が欲しいかしら。このガラスのペン皿は決してとりかえたくないし。ベッドのよこのスタンドは、あの水色のよ。よくもつでしょう? これもこれでよし、と。時計だって何しろ夏は十五分ぐらいおくれるという、可愛いい生物があるのだし。何とマア私は何不自由ないのでしょう(!)こんな折でないと私はきっと一つ帯留を買うことにしたでしょう。でも、今は駄目です。石にふさわしい金属もつかえないのですから。従ってそういう種類のものは駄目。本当に何かほしいこと。どうかお気が向いたら考えて下さい。あまりじきこわれるものもいやだと思うし。
 私のお誕生日の祝の品先渡しというので、栄さんが新村出の『辞苑』をおくりものしてくれました。「座左」におきます。座右では手勝手がわるいから、座左、よ。栄さんは本月の『新潮』「暦」百五十枚ばかり、『文芸』に「廊下」四十枚ばかり、『中央公論』に「赤いステッキ」三十枚ほど発表しました。これは順々になる筈だったのに先方の都合でミンナ出テシーイマッタというわけです。栄文壇ヲ席捲スと私たちは云って大笑いなの。「廊下」についてはこの前一寸書きました。三つの中では「暦」が一等でしょう。栄さんのものとしてもこれまでの中で一等でしょう。栄さんもこれからが本当のウンウンです。でも面白いと思います。昔、栄さんのところで御飯たべさせて貰った某女史は、あの栄さんが、と申した由です。文学は普通の人からかかれるべきものです。最も豊富な意味での普通の人から。変りものが即ち才能者ではますますなくならなくてはたまりませんからね。×作家が東朝の五十年記念一万円の懸賞に当選しました。「桜の国」という題。大陸にからめたものの由です。二人の婦人作家が三十何枚かの筋書だけ出して、それで通して貰うつもりだったとは、トーチカ心臓だ、というような話もどこからかつたわる。藪の雀のかしましさというような趣もあります、こういう話は。でもたまにはこれも一種の解毒ではないかしら、などと思いながら書いている次第です。
『キング』の地図、おそくて御免下さい。もうじきお送り出来ると思います。もう返品になってしまっているので。
 堀口大学からオオドゥウの『街から風車場へ』を貰い、よみ終り面白うございました。この作者のものは「孤児マリイ」、「マリイの仕事場」そしてこれがいいし、私としてはこれをなかなか買います。「光ほのか」が、どんな材料からつくられたかが推察されましたが、つまりは「光ほのか」は作為的であって失敗です。
 省線の台数が減り、本数もへり、間が四分、八分、八分となるそうです。いよいよここはいいことね。目白の女子大が神奈川県との境の方へ敷地を買って、小学校、女学校、皆そちらへうつすプランを立てましたって。そしたら今年の入学志願者はぐっとへった由です。そうでしょう。ますます子供の通学ということは親の心痛事になって来ているのですものね。私でさえ多賀ちゃんが洋裁習うといってひっくりかえるバスにでものり合わしたらいやだと歩いてゆけるところをよろこびますもの、自分だってふとこわい気がいたします、折々。この頃バスは信用してのれません。どんなに輪がへって、脳天までビリビリしても市電が安心とは。
 こんどいつか気分のましなとき、又お手紙を待っています。お話して、と子供がねだる心持は、こうして考えてみるとなかなか面白いと思います。子供がお話、といってゆく相手との心のつながりが。子供はよく申しますね、長い長いお話して、と。ねえ。

 一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二十九日  第九信
 きょうの風のひどさ! 二階の南の空は正に黄塵万丈です、ガラス戸をあけるとすぐ目の中が妙になります。一天かき曇っています。こんなに干天で吹くのだから。火事がこわいこと。
 お体の工合いかがかと思います。しきりにそう思っています、熱が落付きませんか? 風邪をおひきになりましたか? いけないわねえ、そう思っている次第です。何しろこういう旱天は体に実にわるくて、丈夫なものもすこしずつ異常です、太陽の黒点がすっかりこっち(地球へ)向いているからなのですってね。もうそろそろそれが移動している由です。来月の雨がそこで希望をもって待たれるのでしょう。
 何だか様子が分らないので大分気になりますが、こちらからは呉々もお大切に、というしかない次第です。
 私の病気は大体直って、或は直して、ずっと平常です。二十七日につるさんの本のおよろこびをやりました。ごく内輪な顔ぶれでしたが、なかなか呑気のんきで久しぶりに愉快だったし、つるさん夫妻もうれしかったようで、肝入役は一安心です。五時半と云うきめだったのに六時半になっても来ず。「きょうは手ぶらで来ていいの知っているのだから、変だ」「妙だ」「何散髪しているのサ」「そうだろうがね」というようなことで七時半まで待って、仕方なく食事にかかろうというときは全く愁眉をよせました。私の気のもみかたをお察し下さい。つとめがえりでおなかがペコペコの連中なのですもの。
 いよいよあきらめて食べるものを運ばせたら、そこへ、ヤアとひょこひょこやって来て! 二十八日(きのう)お仲人をやるのにどうしても金がいるし、髪はきらなくてはならないし、それでおそくなったのですって。電話のない国ではあるまいし。ああよかったよかった、とやっとたべはじめて十時までそこにいて、かえりました。稲ちゃんが、その場へ人にたのんでかりた紋つきと袴とを入れた大きい箱をもって。
 この日には、つるさんが通知して、てっちゃんとS夫妻もつらなりました。互に何とか彼とか接触が多いので、いつまでもさけ合わせていても不便なばかりだから一つこの機会ということが云われたので。食卓で自己紹介して(みんなが)一般的に知り合いとなったわけでした。大勢の中でしたから、知らない人もあって(何人も)万事自然でよかったと思います。これは初めてのことでしたから改めて一寸。
 そしたらきのう、てっちゃんが急いで来たから何かと思ったら勤め口がありそうなのですって。産業組合か何かの仕事で地味なもの。月給六、七十円の由。どうしようかと、私に相談に来てくれたというわけです。「ほかに相談するひともないもの、宮本しか」とポーと赤くなっている。「結構でしょう? つとめて見たらいいと思う」と申しました。一度もつとめ人の生活をしないで暮せるというような生活は今の世の中では例外です。いきなり食える食えないのことではなくて、やはりてっちゃんが電話一つかけられないとそれで通っている生活なんて、大ぼっちゃんで変です。いきなりいやにサラリーマンになってはやり切れないでしょうから、そんなところが小手しらべに大いによいでしょうと申しました。あなただってきっとそうおっしゃるでしょう? 子供がすこし成長してくれば、フラフラのお父さんなんかはよくありませんし。どうするか、多分きめるのでしょう。赤ちゃんの世話にかまけすぎて一日というのも人生として勿体ないもの。
『日本評論』へ『現代文学論』の書評をかねて文学感想をかきました。すこし面白いと思います。青野季吉が作家の凝視ということをかいている、二月『中公』。「文芸時評」。作品と作家とが離縁している。手芸的作品が多い。小説の本質的危険はここにあると思うと、現実を凝視せよ、と云っているのです。しかし只現象をおった凝視だけで、作品は作者との関係で血肉的なものになるのではない。そこにはテーマとモチーフとのいきさつがあり、作品、作家、作品をうむ現実、作品への作家のつながり工合が問題となるのでしょう。そのことを中心にして、書評しました。
 線が細い。わかりにくい。いろいろ云う人もあります。線の細さはきわめて人間と結びついたものがあって、二月『文芸』に、批評家としての生い立ちをかいているなかに、論理の発展、論理が自分より上位にいるようなてれくささへ、特に文芸批評にあるてれくささというようなものをかいている。それにふれて、そういうてれくささで著者が書こうとするものの中を、一気に謂わば息をころして歩きぬけているようなところから来ているというようなことも書いたりして。増刷したそうです。
 それからきのうは「三つの女大学」をかきました。益軒のと福沢諭吉のと菊池寛のと。諭吉が語っているところは力にみちて居ります。それが寛に到ると、実に低下している。そこに語られる女の生活の歴史のありよう。『文芸』の仕事に必要な勉強からいろいろこんな副産物が出ます。
 これから又『文芸』の仕事の下拵えです。これはやってよかった仕事でしたね。もう二百枚越しているわけです。あともう三四回。それに文学は翻訳文学だった時代、「小説神髄」以前の女の活動について加えなければなりません。S子さんが年表をつくっています。こんな表をつけようと思います。
『哲学年表』の通りの形式二頁見開きにして、左に社会、婦人、次文化、文学、婦人作家と横並べにして。社会、婦人には女学校令が出た、女の剪髪禁止とか、戦争その他。文化文学は一般。ラジウムの発見、トルストイの作品、日本の透谷、そんなものを入れ、右手に寥々と婦人作家が出現して来るというわけです。見くらべて、それで何か学べるというようにしたくて。七十六頁ですね、『哲学年表』が。その位でしょう。これはきっと婦人作家のためのなかなかいい激励でしょう、だって、どんな仕事して来ているか一目瞭然となるわけですものね。その中には、詩集、歌集、感想集なども入れるつもりです。
 明日は、父の五回目の命日です。多賀ちゃんをつれて青山へ行って、どこかで林町の連中と落ちあって夕飯をたべることになりましょう。林町はああいうガラン堂だし炭を不足しているし、そのさむさと云ったらないのですって。この頃一寸行く気がしないようで。さむいのよ、食堂椅子にしましたけれど、ストーブ倹約ですから。小劇場にいるように落付かないの。お正月に一寸つづけて行ってこの頃すっかりごぶさた。
 可愛いふっくり美人は、頭のおできがひどくなってホータイですって。可哀そうに。どうもすこし反応が鈍い方だと云って居ります。せかせかした娘よりはいいでしょう。
 太郎はあいかわらず。壺井さんのところの妹さん母子、越後の高田へゆく筈のところ風雪ひどく汽車不通。そのため大阪の方は電燈が不足で、大阪高島やは、百匁ローソクを何百本とか並べて商売をしている由。東京でもローソクは大事です。(ウチにもあります)
 明日青山へ出かける前、栄さんに眼医者へつれて行って貰います、私たち二人。多賀ちゃんのを念のために診て貰ったら先天性母斑というのですって。ホクロとちがう由。それは放っておくと、いくらかずつ肥大するたちのものの由。自信をもってキズにしないでとってぬって(くけるのですって)あげるが、一つでも線にのこるとその細胞から又出来るからレントゲンでやくがいいとガン研究所へ紹介されました。そのお医者が病気、めったな人にひどい光線あてられて、こんどは視力がどうというのではこわいから、明日二人で行って、お礼やら何やら。ケイオーの桑原さんはこういう風に云ってくれませんでした。医者が社交的だなんて、何てバカらしいことでしょう。私はこれからこちらの人のところへゆきます。
 本当に御気分どうでしょう。メンソラを鼻の中におぬりになると幾分かわいた息が楽のようですけれど。お大切にね、呉々お大切にね。

 二月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二日  第一〇信
 一月三十日づけのお手紙一日に着きました。二人宛にめずらしいこと。どうもありがとう。二十四日に下すった電報勿論頂きました。二十四日に手紙かいて、それを出しに行っていた間に電報いただいたのだったと思います。きっと又その後すぐつづけてかいた手紙御覧になっている頃でしょう。私はつづけて一つと、あと二十九日と、かいて居ります。そして、これ。明日は父の命日でというようなこと二十九日にかきました。そちらのは二十七日づけ下すったのが三十一日についています。
 さて、せめてバラやカーネーションが美事だったとはいささか心なぐさむことだと思います。よかったこと。でも玉子がお金とはすこしつまりませんね。だって、お金では、ね。私の素志が実現されようもないのですもの。やっぱりないのでしょう。そちらではあがれていますか? こっちは市場で午後四時ごろ売るのですが、前から行っていてうまく買わないとすぐなくなります。随分玉子たべません。たまに多賀ちゃんが買って来ると私がよろこぶので、子供みたい、と笑います。あの子は特別よ、だって玉子たべあきて育ったのですものね。今は野原には一羽も居りませんが。鶏舎がまことに堂々たるもので、そこを改造して朝鮮人工夫の家族がすんでいます、そして冨美子がそこの子とよく遊んでやっています。四日には、多賀ちゃんも行きましたから。
 風邪ひいていらっしゃらないのは本当に何よりね。それだけ考えても、遠出しないでいらっしゃる報は十分だと思わなければならないわけです。本当にそれはうれしいと思います。二十七日のお手紙に少量血をお出しになったとありますが、あれは二十二日より前ね。(ああ二十一日とあるわ)風邪と道づれではなかったのね。それならば結構でした。私はかぜがお伴かと思って。本年はすこしわるい人は皆苦手の由です。喀血がふえているそうです。二十三日の七・四はある方ですものね。こうやって体のことを書いて下さると、私は気が休まるの。あなたが知らして下さらなければ、私はまるで見当さえつかないのですもの。その心持は不安です。こまかい様子話して下さると、ほかのいろいろの気持も、それを中心として、合理的に落付くのよ。おわかりになるでしょう? だから書いて下さることは、私の健康のためにも必要なことです、この頃ではそうよ、全く。さもないと、何だか、又体じゅうが小枝の折れたもので、出来ているような気持になったりするから。
 シャツは、わかりました。手袋、もっといいのを上げたかったけれど、ともかくあれは毛でしたから。よく栄さんにお礼を申しましょう。
『東京堂月報』のことわかりました。すぐちゃんとします。『年鑑』ね、ダブりました。それに、附図があったので、とりいそぎ送りましたけれど、では『キング』の地図だけお送りして見ましょうね。『キング』の方には中国の部がありますが、ヨーロッパの方は特別なよさがなかったので、先ず『年鑑』を、と思った次第でした。
 桶屋の娘さんのことについては御話いたしました通り。米のことが出ましたね。この頃の話題です、どこでも。
 一ころ大変ひどくて、お米少々に甘藷を一貫目もって来て、このイモを買ってくれなければ米はおいてゆけないと云ったような町もあったそうですが、近頃ややましになっています。うちは幸、あさかの方からのをつかっていて、直接そのうきめは見ませんが、県外輸出を禁じているので送り出しが自家用でもむずかしくて一俵は送れないようです。半俵ぐらいだそうです。うちは古くて、私の名づけたクサレ米をたべています。去年とりよせてあった俵で、そういうひどいのに当ったわけです。でも、どうやら間には合って居ります。炭は、あっちこっちに救援で、佐藤さんのところ、中野のところ、稲ちゃんのところと一俵ずつわけました。
 石炭が問題です。この頃は倹約で二日つづけてお湯を立てては二日ぐらいおくのですが、疲れるとこの二日がなかなかもちにくうございます。今少々あるのがきれたらさて、どうなるのでしょうか。まきでたいては時間が大変だし。マッチも大切な大切なものよ。うちではタバコのみがないからややおだやかですが。林町へおみやげに小さいマッチ二つ買って行ってやると、アーと歓声があがります。いろいろと面白い。
 三十日は、多賀ちゃんの眼の医者へ行って、皮膚科の人に紹介されて、それから信濃町へおりて外苑をずっと歩いて墓参いたしました。丁度林町の一行と落合ってそこから霊岸橋のたもとの大国屋といううなぎやへ行って、夕飯をたべました。かえりに林町へまわって、お風呂へ入ったらかえれなくなって泊りました。三十一日は、午後から夕方まで約束があって人と会い。つくづく日本の婦人運動をする人というものの質について考えました。統計というものの正当なつかいかたをも知っていない。そして、紡績資本家にごまかされている。そういう風です。女の立場、女の心持というものに、主観的なものばかりで、科学的なものが実に欠けているのです。
 一日は、どうしたとお思いになりますか? こればかりはあなたにもお分りにならないでしょう、議会(衆議)傍聴です。これも、その婦人運動家との話同様、私には初めてのことです。そしていろいろの感想あり。『週刊朝日』から行ったのですが。
 急に電力統制になったので、どこもかしこもバタバタです、印刷所などにやはり直接こたえますから。それは〆切りのくり上げということになって、私にもこたえるの。
「第三日曜」までの間にまだいくつもはさまっていて閉口気味です。でも、栄さんにたのんで援軍やって貰うことにしたから何とかなりましょう。面白いものね。口述筆記をして貰うのにS子さんは誰も駄目なの。一々内心で反応するから。栄さんは楽なばかりでなくよくゆくの。可笑しいものですね。人の気質は。私はきっとあなたの口述はうまくとりましょう。多賀ちゃんは余り内容とびはなれていて字からしてむりです。馬琴は目が駄目になって、そういうお嫁さん相手に書いたのだから同情いたします。母の晩年も、そういう人がたのんであって、それでいろいろヨーロッパ旅行記などかいていました。よく、字がひどいと云っておこっていた。
 この頃の日常はなかなかいい方だと思います。多賀ちゃんも大体すっかり馴れて、こまかいこと皆してくれていますし。
 三月下旬、小さい子が来る前、もしかしたら一人臨時に見つかるかもしれず。たかちゃん愉快にやって居ります。いろいろの人の集るところへも、やはりかまわないときはつれてゆく方針です。そしてそこにあるよいもの、下らないものについて、自分の判断をはっきりさせてゆくことは大切ですから。家族的な圏境ばかりでなく。
 二十三日にいただくものね、ああこう考えていましたが、今年はお風呂の寒暖計にします。これは必要だし、永年もつし、大好きなお湯につかうもの、休みのためにつかうもの、新しい活動の力のためにつかうもので大変いいから。やすいものでも可愛ゆいもの、そういうものだからいいでしょう?
 本月(一月)の表は、あらまし次のようです。手帖とり出し眺むれば、
  甲 4(九時台よ)
  乙 22[#「22」は縦中横](十時―十一時)
  丙 3
  丁 2
起床はこの頃七時平均です。起床の丙が本月は三日ほどあります。お正月の二日とあと二十四日と、二十八日。(これは丁の翌朝)
     読書は六十一頁。
 読書は、長いものかく間だけは、やすみたいのです。私の計画では、それまでによんでしまいたいのですが。そしたらいいことね。これが終れたら、あとすこしウリヤーノフのものつづけてよみます。終れたらという字が、ひとりでにかけて、笑えてしまいました。フーフー工合がおのずから流露している次第で。ああなんとあなたはスパルタの良人でしょう。スパルタ人の母とか妻とか云う表現はあったが、これは私の新造語にしろ、スパルタの良人というものもあるわね。すこしは同感でしょう?
 ところで、十三日は(二月)すこし風変りな誕生日をしとうございます。ついこの間同じ顔で御飯たべて、その世話をやいてへたばったから又同じようにうちでやるのは、くたびれます。それはあなたのお誕生日にいたしましょう。そして私は十二日に鵠沼にいる女友達で小原さんというのを見舞に行ってやって、それのひきつづきで十三日はどこかで過したいと頻りに多賀ちゃんと計画しています。又一昨年の二月十三日をすごした熱川あたがわへ行こうかとも考えます。或は国府津の家へ、とも。多賀ちゃんも「ああ楽しみ」と云っているが。
 国府津、ホラあの式で又フロなしですから(水もないのよ今は)それを考えると渋ります。鵠沼のあずまやがつぶれたのでいやね。さもなければあすこへ一晩泊ったのに。その娘さんは私を先生と手紙へかくひとですから、そこの部屋へは泊れないの。その頃まで大車輪でね、そして二日ほど息ぬきして、そして、又はじめます。私多賀ちゃんとあっちこっち歩くのすきです、寿江子みたいに気が重くないし、ひとを心持の上でひきまわさないから。折角風邪ひかずにいらっしゃるのですから猶々お大切に。もう二日で寒はあけます、余寒が却ってきびしいから、お大切にね。

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月三日  第十一信
 今朝はこんな大きい字で雪のおよろこびをかきます。本当によい雪よ、よい雪よ、ですね。何と息も体の工合も楽々となりましたろう。余りかっと眩ゆくないのも休まる心持です。
 ゆうべ御飯たべて多賀ちゃんが台所のガラスをあけたら「あら雪じゃ」というの。「ホウ雪?」と出て見たら竹垣の上に柔かく三四分もう積っていて。「いいね、いいね」と云って床に入りました。よくつもったこと。
 只さえじっとしていられない雪なのに、このごろの雪故、速達出しに出かけたら、アスファルトの上はこわいこと。すこし雪があって下駄の歯がすべって。雪道を葉の青々と黄色い花をつけた春の菜種の花をもってかえりながら、動坂の三月だったか二月末か、ひどく雪のつもった夜、私は繁治さんと高円寺の方へゆく用があって、あなたに何かの雑誌を買うことをたのまれ、新宿のところで本屋の店を出た途端、すべってころんだことを思い出しました。そのとき繁治さんは手をかしておこしていいのかわるいのか、というむずむずした表情をして傍に立っていました。そんなことを思い出し思い出し歩いて。雪のある朝は陸橋の上から池袋の方を眺めた景色もなかなか絵画的です。東京には雪のないとき、この陸橋の下を屋蓋に白く雪をのせた黒い貨車がつづいて通るときも、何か遙かなる心を動かされて面白うございます。
 雪や雨はすきです。風は夏の風、でも微風よりつよいと閉口です。
 きょうはこれから『文芸』のつづきをかきます。「真知子」に扱われている世界にふれてかきます。鉄兵の「愛情の問題」にある誤りが「真知子」のなかでも別の形で出て居ります。
 そちらのバラやカーネーションもこんな光線のなかで、やはり新しく眺められましょう。きょうの雪は私にとって二重三重のよろこばしさです。あなたも皮膚のしっとりした快さでしょう? 本当によかったこと。この雪に向って歓迎の窓をあけたのは発送電の親方のみではありません。では又。お大切に、風邪ひかずを願って居ります。

 二月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月七日  第十二信
 お手紙をありがとう。きょうの雪もゆたかだけれども、私の方も珍しくたっぷりです。
 きのうね、小説をかく女のひとが来ていて、そのひとは珍しく来たひとなので話していたら、二月一日づけのお手紙が来ました。多賀ちゃんがだまって例のチャブ台の上においたので、私はチラリとそれを目に入れて、どうしたって手を出さずにはいられやしない、黙って封を切ったら詩の話が書いてあるのですもの。どうして話しの合間によめるでしょう。上の空になって、それでも相手しながら、手紙の上へ手をおいて、話しました。
 多賀ちゃんとの暮しだと、あなたも御一家息災というユーモアをお洩しになるし、こちらで笑う気持も自然ね。面白いものだと感じます。
 蜜入牛乳の欠乏は、お察しのとおり大変こたえます。芳しいオレンジのは、もうずっとなかったのだけれど、菜種の花のは折々あったのです、それもすっかりだから。そのせいか、それとも余り旱天つづきのせいか、全く温泉がなつかしくて。何か生理的にほしいのです。温泉はいいけれども、ちょっとのことに行かなくて。熱川のつちやね、一昨年の二月にいた、あすこ四円だったのが六円になりました。無理もないけれども。
 きのうそちらへ行ったのよ。一昨日の朝、ただしが無事にかえって来ました。それで林町へ行って、親類が集ったのでおそくなりそうなのでとまってしまい。かえりそちらへよったらお金でしか入らない都合で(物はあるけれど)つまらなかったけれども、とにかく来たしるしに。
 バラやカーネーションは、平凡と思えば平凡ですが、やはり何かを語るところもあって、すべて花はやはり美しいと思います。花をよくよく眺めていれば、なかなか感動的です。
 机の上にフリージアの花があってね、はじめピンと軽く立っていたのが、花が一つ一つひらきはじめたら、その花々の重さで茎が何とも云えないリズムをもってしなっています。
 白い花弁に一本黄色い暖い色が走っていて、よく見ると深い花底の蕊の下にいかにもしゃれた赤っぽい縞が描かれていて、この一つの花に独特さを与えるこまかい自然の変化にほんとにおどろきます。その花の独特さ、ほかにない調子、それだけにある香り、重み、そういうものをしんから知ってきりはなせないのは、その花の茎であり、花から云えば茎であるというのは何と面白いでしょう。その花にその茎、その組合わせ以外に自然は考えさせもしない、それほど互にそれらしくある。面白いわねえ。美しさというのはこういうところから生れるのだと沁々しみじみ思います。
 ゆうべは、かえって来た野上さんや何かの歓迎会があってレインボーへ行って、外へ出たら大きい牡丹雪が舞い狂って居りました。バスは前のガラスにその牡丹雪が忽ち白くつくので、折々車掌さんがヘッドの方へ出てはらって又進みます。そんなにして目白まで来て、それからすっかり白い道を一足一足家へたどりつき。夜目に雪の白さは、そこをゆく白い足袋が黒っぽく見えるほどでした。街燈の真下にかえると何か黒い小さい蛾がとびちがっているような影が雪の上をかすめている。そういう景色も面白く。たかちゃん、かえったらすぐコップに雪を入れサトーを入れたべました。「どうじゃろ東京の雪は、大味かしら」と云ったには笑いました。そうかもしれないわ。水気の多い春の雪ですから。
 雪が私の髪や肩やショールにかかる。その雪は、家を出るときよんで来た詩のこころと通じるところがあって、私は傘で雪をよけるよりは、雪よ、雪よと顔もさし出すような心持です。頬っぺただの、額だの、唇だの。雪がふりかかります。真直に躊躇なく降りかかるの。雪の片々に心をもたせかけて歩きます。そんな雪の夜の道。早春の雪ね。
 なるべく手紙をたくさんかいて、と云って下さり、本当にありがとう。うれしいと思います。勿論それも、体の無理なく、ということの範囲で、ね。申すまでもないことですが。この頃、妙なわるい風邪が流行しています。雪が降ってへるということがないらしいの。用心いくらしていても、何ともかかるのはさいなんのようなところがあるので、この間うちから、もし、ユリが又病気になってしまって、動けなくなったらと思い、ずっとお目にかからないでいることが大変切なく思われました。理研レバーでもふせぎきれませんから。送って下すった衣類というのは袷類でしょうか。そうならいいけれど、もし別のでしたら袷、きもの、羽織送って下さい。ちゃんとしておきたいから。いろいろと心せわしいようなところもあります。
 今年は創作の実のり多い年となりそうというよろこびが、このお手紙にもかかれています。私はどんなにそれを願っているでしょう、どんなにか。病気になんかかかりたくない心持分って下さるでしょう? かかってしまえば最善をつくすだけですが。せめて今年は本当に無病息災でと思います。
 つるさんの本。いろいろそうです。石坂の「若い人」の評ね、あんなのは、あのひとの弱点に立ってかかれているのです、当時の心理として。あの文章のよって立っている心理のありようについては、あの当時その原因をいねちゃんも私ももとより知る前だったから、何だか変だと二人で不賛意を表現したのでした。そういうこともやはり微妙にうつっています。けれどもあれが精一杯よ。キリキリよ。力量(箇人の)のことでは勿論多く云えますが、その枠の形の大きさでは一杯よ。
 あれで、余り骨を折ったから、はやりかぜにかかるだろうと云っているほどですもの、あたりで。空気のわるさは旱天と云うとこんなかというばかりですものね。
 二月六日にかいて下すったお手紙、けさ(七日)つきました。私は、ですから何だか毎日手紙頂いたような気よ。第四信とありますが、五信よ。
 森長さんへのこと、岡林さんへのこと。わかりました。それは結構でしょう。森長さんへ二度目の分ほどいるでしょうか。今すぐわかりません、というのはね、何しろそんなわけで、大蔵省方面の条件の整備について、私大いにまわらぬ頭をひねっているのです。ところがそっちがまだ大体のプランというところまで組立たないので、この二三日のうちに底をはたいていいのかどうか。ちょっとお待ち下さい。それを条件に入れてプランを立てて見ますから。不得手中の不得手でどうもすみませんが。
『東京堂』一月号のこと、きょう、この手紙と一緒に送り出します。「風と共に」は第一の方でしょうと思います。世界名作全集が四五月ごろから中央公論から出ます。これはいくつもそんなプランのある中で一番いいでしょうから買います。一番下らぬのが新潮の。
 地図は『年鑑』の附録の方でしょう? テリヨキのあるのは。
 寒暖計いいでしょう? 買いました。水銀にあかい色のついたのです。お湯のだものいいわねえ。本当に実用的で親愛で。特製詩集は、表紙の装幀に何かののようなふっくりした薄赤い二粒の円い珠飾りのついたののことだろうと思います。ありがとう。よろこびということばを、ひとくちに浅く云わず、その一つ一つの響きを大切に区切って味うと、これは何と深く立体的な句でしょう。心の峯々のようなボリュームさえあります。詩集が私の生活にもたらされてから、はじめてそういうよろこびの感じが実感のなかにとらえられているのもうれしいことです。この頃ひらく頁には、希望という句もあるのですが、それは非常にユニークなもので、何というのかしら、希望の先駆、それは人が希望と呼んでいるそういうものになるのだろうかというような極めて複雑微妙な格調のものです。ニュアンスのごく濃いものです。よろこびの豊富横溢している数章と、この希望のそよぎは風の中にあって、という句との間には、時間という虹のそり橋が描かれています。しかも、瞬間に圧縮されるめずらしい形での生活としての時間が描かれていて、なかなか興味つきぬものがあります。插画が作者たちの手で入念に描かれていて面白いこと。
 紀さんは、なかなかよく経験して来ています。責任(部下の生命その他)を深く知って来たというだけでも人間の重みが加りました。生活のモラルのなかで、責任という感覚は大抵、一家の範囲を出ないのが多いから。(一家の父、一家の主等々。日常的世帯的)勿論、あり得る最大限のひろさでそれが感じられているのではないけれども。皆が価値評価に対する従来のめやすを揺られるところは大変面白い。歴史の中ではっきりしためあてがあって経過されてゆく事情、条件というすじが通っていないから、現象的にああだのにこう、こうだのに一方にはああ、と並べて、変な空漠を感じている。これは面白いことね。
 やっぱりそうだけれども、紀さんが、歴史というものに大変興味をもってかえったのは面白いと思います。現在につくられつつある歴史という感じまで来て。緑郎は、もう送金が出来ないからかえるしかないでしょう。達ちゃんたちのことを、紀さんがかえったのでしきりに思います。干魚ひものが大変便利でうまいそうですから送ってやります。ではこれで。益※(二の字点、1-2-22)お大切に。

 二月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月九日  第十三信
 うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
 きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。二月を如月きさらぎというのは面白いことね。夕刻風にふきはらわれて暗くなりながら青くエナメルのように寂しく透明になる空の色を見て、なにか如月という感じがわかるようです。すこし今つかれて。話ししたくなって。
 まあ、この炭何と匂うのでしょう、匂うというときれいだが、ガスを出すのでしょう、胸苦しい。ガラス戸をあけ放しにして。
 さて、御機嫌はいかがでしょう。ずっと平調でしょうか。七日にかいた手紙で、いろいろ健康に危険な空気のことおわかりになったかしら。御心配下さるといけないと思って。私はいいあんばいに変調なくて居ります。神経の緊張もいくらかおさまりました。
 八日はね、大した先約で出かけました、というのはお久さんのところへ。蒲田のアパートに居ります。八日が誕生日なのですって。是非来てくれと、正月に来たとき云っていたので、約束していたので多賀ちゃんをつれて出かけました。六畳のアパートで、それでも窓がひろい空と樫の木に向っていて、大きいタンスやワードローブ、茶ダンス、デスクとぎっしり。デスクの上には『焼入れと焼戻し』というような本がのっています。デスクの前のかべには「ミレーの晩鐘」の蝋刷りと子供をおぶったもんぺの若い母が馬をひっぱってゆく時かの絵がはりつけてあります。そういう住居でおひささんは私が手製の五目ずしがすきと知っているので、わざわざこしらえてくれて居りました。ハイガ米で酢がきかないの。
 二時間ほど話してかえりには駅まで送って来て柵の外に立って動くまで見送って居りました。くりかえしよろしくと申して居りました。相変らず情のふかいひと。こういう天然の情のこまやかさと、ごく月並なものの目安とがこんがらかって年を経た後のお久さんを考えると、何といったらいいでしょう。ああ小母ちゃんよ、と思いますね。あなたへのよろしくにしても、そのうちにこめられる心持は、目白時代よりは複雑なのがわかります。彼女も妻の心がわかりかかっているのですものね。そういうところも可愛らしく思われました。結婚式を十二そうで(新宿の先の)やったのですって。東京での、よ。そのとき私をぼうとしてすっかり仕度していて、お久さんの発議でやめたのですって。来て貰うのも気の毒と。それを話して大笑い。だって急にそんなこと云われても私にはそういう場所にふさわしい黒の裾模様なんというものはもって居りませんものね。矢沢という貸衣裳屋はうちかけまでもっているでしょうけれど、私の身幅はないでしょうから。
 蒲田からはなかなか遠いこと。あの辺は水道が大変よくなくてお茶がくそうございます。あんなに戸数がひろがると思わず水圧がひくくて、出ないときがあるのですって。二階だから猶。
 池上の方の田圃の中に三の家があって三十六円也、片はじからふさがっているそうです。
 この家の二階がね、六畳一つで、スケッチに御覧になったとおりです。ここへ入って来ると、私は机に向うしかないの、ゆとりがなくて。それで余りいやだからもう一つ四畳半がのらないかと思って国男さんに相談したら、五百円でも無理のよし。防火材がなくてはならないから。坪二百円でも駄目では三で36[#「36」は縦中横]、もするわけです。
 きのう、道でルーズリーフの手帖を買おうとしたらデパートなんかにはありませんでした。ルーズリーフをつかおうというわけは、ちょいちょいいろいろかくのです、耳にとまった会話、景色、そのほかいろいろ。これまでどの位ちょっとしたノートや紙切れにかいたでしょう。けれどもそれをちっとも整理してないのです。だから、何か小説をかくとき、季節のことや何か、不便です。それでハハアと今ごろ(!)気がついて、ルーズリーフをつかって、それをはずしてファイルして月雪花からあらゆることを整理しておこうと思いついたのです。よんだものについてのメモにしろ。そしたらいざというとき引くのに楽です。これまで大衆作家やジャーナリストしかそういうことはしなかったようですが、ちがった内容でそれがされることも私たちにとっては決して不自然でないのですもの。生活の環と内容が大きくなると、やはりその必要というか便利かが生じます。
 机の引出しをすっかり空っぽにして整理しているうちにいつか、五月ごろの雨上りの景色をかいている紙切れが出て、何だかその頃の空気がぱっと顔にかかって来るように新鮮でした。だからおしいなアと思ってそして考えていて思いついたのです。仕事してゆく自分自分の方法が、こんなにしてたまって来る、見出されて来るのは面白いこと、ね。
 十三日に、どこかお湯のあるところへゆきたくてキョトキョトしましたが、おやめにいたします。無理だから。もし鵠沼にちょっと泊れるところでもあれば、一晩海のそばで眠って来ますが。きっと、一人でいろんなこと一どきに考えて、それで温泉へでも行きたくなってしまったのね。どうもそうらしく思えます。理研のレバーはよくきいて、気分としてはそんな気分でも仕事はやって居ります。何と面白いでしょう。ミケルアンジェロが、フィレンツェにいられなくなって、ローマ暮しで心は悲愁に充ちているとき益※(二の字点、1-2-22)仕事に熱中したというのをいつかよんで、そういうところまで責められている芸の術というものはこれまた稀有だといろいろ感じました。しかし、そういうことは生きかたの方向としては、もっと貧しい芸の術の場合でもあり得ると思うとたのしくなります。人間の生活のキャパシティーというものはおもしろいものね。
 キャパシティーからつづいてのわけでもないけれども、この前のお手紙で云っていらしたお礼のことね。あれは、先のことはともかく、お話しのとおりしておきましょう。考えて見れば先のことはともかくならば猶更というところもありますから。でも額はどうでしょう。やはりおっしゃるだけが適当でしょうか。私は、先に予期されていなかったこともあるし、半分でよいのではないかという気がいたしますが。どうでしょう。半分ずつにしておきたいと思います。そして早速とり計らいましょう。(信濃町のおじいさん、あちらへは、お手紙にあっただけでした。森長さんの二度目の分と同じだけ。(これは暮のうちのことですが)その位にしておかないと写しものの方のことで、しがくがつかないままゴチャゴチャになってしまうといけませんから。このところ些か芸当ですから。ポーランド人の手品がいります、何もないところから一着のズボンをつくり出すポーランド人の手品ということわざがありますが。)
 富ちゃんのお嫁さんがきまりそうです。下松で小さいあきないをしている人の娘ですって。結構です。岩本という人の妹をぜひ貰ってくれと云われたが、それは困るとことわった由。そのひとが達ちゃんのお嫁さんになってはこまる、という同じ意味でことわったそうです。きっと決定すれば富ちゃんから手紙さし上げることでしょうが。野原の小母さまの顔が見えます。きょう私へ羽織の裏のいいのを送って下さいました。
 どうかお大切に。小包つきました。袷お送り下さい、どうぞ。

 二月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十三日の夜  第十四信
 十日づけのお手紙どうも、どうもありがとう。これがどんなにしてきょうのおくりものになったかお話しいたしましょう、いろいろと重って吉日だったから。
 きのうは朝先ずそちらへゆき、フリージアとスウィートピーの花をたのみました。スウィートピイなんて子供めいているようですが、でもあの花々の柔かい色合いはやはりやさしいものを語って居りますから。フリージアもいい匂いです、ユリの花とは少しちがうけれども。たっぷりそれらの花をあげたいと思ってそのようにして、玉子が抽象的になってしまったからミカンなどを。
 それから新宿へ行って、ちょっとおかずを買って、多賀ちゃんと落合って、十一時の小田急で鵠沼へゆきました。久しぶりで海の近くの空気の心地よさ。その小原さんという娘さんは、丁度おなかをこわした後だと云って一層やつれていて、そのやつれた顔をほころばしてよろこんでくれました。すこし散歩したりしてかえって来たら雨。ああよく降って来たというわけで、九時頃鵠沼ホテルというのへ行って午後に話しておいた部屋へ上りました。いかがかと思ったが、笑ってしまって。というのは、その部屋はね、ホテルですからね、何しろ。安アパート式に西洋窓で、大きいワードローブが突立っていて、天井は白、羽目は板、間の壁は薄桃色という、つまりお祝の鳥の子餅の箱の中に入ったようなの。でもいいや、ね。とそれから入浴し、その風呂はいい心持。そして次の間に床をとったのを見たら、スタンドは気がきいているが、そこもアパートなの。そして、その主人が茶気たっぷりできっと天蓋つきの Bed を置こうとしたと見えて、天井からフレームが宙に下って来ているというわけです。
 でもいい心持に手足のばして眠って、きょうは特別とおそくまで床の中にいて、それから朝食をたべ、本をすこしよみ、正午近くパンを買って、又そのひとの室へ行きました。(鵠沼ホテル)
 そこの家は日本風の昔からある離室をいくつかもっていて、そちらの方はちゃんとした日本式のところで、茶がかっていて大分落付きます。月ぎめをやっているそうでした。90.00 から。この月ぎめというところに一寸気をひかれ離れを検分したわけです。休むとき、不意に人に来られっこのないところにいるというのは何といいでしょう。仕事いそがしいとき、人の来っこないという心持は何といいでしょう。ここなら新宿から一時間二十分、デンワもきくし、夜でも東京へ楽に出られるし、などいろいろと条件を考えたわけです。こんなことを条件に浮べて見たというわけよ。
 四時二分で鵠沼を出て、五時すぎついて、新宿で一寸夕飯たべて、かえって、幸子ちゃんのところへ門の鍵やポストのものとりにたかちゃんが行っていて、私は火をおこしていたら、「おでんわです」というので黄色いドテラの上に羽織きて出かけたら、栗林氏でした。この電話は私をすっかりなぐさめました。あああなたにも小さいおくりもの、とうれしかった。そこへこのお手紙がもって来られたという次第です。いい折のいい折についたでしょう? ねえ、そして速達にしようかと思ったとあるのですもの。これはいいおくりものでなかろう筈はないでしょう? それに、題とはこれは全くふさわしい頂きものです。この間うち考えていたのです、折々。本当にいいわ。このまま正題にします。時代の鏡という表現も云わば蛇足で、これは題にならないと思っていたのでした。本当にありがとう。実にぴったりとしたおくりものです、私たちの間にしかありようのないおくりものです。呉々もありがとう。ペン軸も。いつも原稿はペンばかりです。こんど出かけたとき、念をいれてさがして使いいい、永年使うようなのを見つけましょう。
 年表は、『哲学年表』の組みかたで社会一般、婦人一般、文化、文学、婦人作家という分けかたにして見ました。そうすると、或年、どっさり社会的な事件、婦人の問題が生じているとき、婦人作家はどう活動していたかが分って、それが貧寒であるということからも、暗示するものは少くないわけです。本当は作品を列挙すべきでしょうね。何年何年と。そこまで調べが届くかどうか。やれたらやった方がいいのですが。何とか懇話会(六日ごろの)あれは長谷川のお婆さんによろしくやられたのでした。その経験でいろいろ分ったからもう大丈夫です。どうぞ御安心下さい。
 お手紙に伊豆かどこかの小旅行は云々とあって、迚も伊豆まではのびなかったネと多賀ちゃんと大笑いしました。でも休まった工合です。休まったのが、かえってからいろいろわるくないことですっかり体に入った感じです。又明日からせっせと仕事です。大日本印刷(牛込)なんかさえ夜業全廃です、モーターをとめるから。そのため〆切りのくりあげで大したことになりました。これまで一ヵ月のうち十日間はややひまであったのが、もうすこし本当の仕事のため準備があれば、休む日はなくなります。
 読みもの、いろいろ妙なところで、骨格になって来て面白く思われます。ナイティンゲールのことがあって、その天使めいた伝説をただした伝記をかくのですが、そのことにふれて、イギリスの働く人たちの生活状態をしらべた文献がすぐ念頭にうかんで来て、やはり極めてリアリスティックな背景を描かせますし、クリミヤ戦争で兵隊が苦しんだことにしろ、それと同じ時代にそのことを関心して、前の本の親友がふれている、庶民生活のひどい扱われ方として。なかなか面白うございます。ジャック・ロンドンの「奈落の人々」がやはりふれて来ます。いろいろ大変面白く、歴史の現実の豊富を、ごっそりとすくい上げて見られるうれしさを感じます。
 私は、この頃、いつか(一昨年のころ)云っていらしたように歴史上の題材を正当に扱われるかもしれないと思うようになりました。一つ何かいい歴史小説があってもいいわね。長篇として。歴史小説の正しさのわかるものとして書けたら。
 こんどの長篇は、きょうの歴史を描くわけですが、その次一つそういう歴史をかいて見ようかと何となし楽しみです。女の生活の面から見てね。エリオットに「ロモラ」という代表的な歴史的な作品があります。ルネッサンスのイタリーを描いて。勿論これはエリオットの色と調子ではりつめられているものですが。
 いろいろ勉強がこねられて来るというのは面白いものね。この頃、やっと気まぐれでない勉強の意味がわかりかかったようです。例えば『文芸』のを一貫してここまで来ると、いろいろはっきりして、今『現代文学読本』(日本評論)のために書いている(栄さんにたのんで)「昭和の十四年間」は、一昨年正月にかいた「文学」(三笠の)よりずっとましになりました。そういう成長はたのしみです。これまでの十年のみのりをちゃんとまとめたいと切望いたします。今年『文芸』のがまとめられて、小説が一つ長いの、あと短いのいくつかとかければ私は本当にうれしいと思います、フーフーが一段落つくというのは、それに又忘れられないうれしさです。
 この長いのは、私は本気です。非常に本気です。題材は必しも「伸子」以後、つまりひろ子をそれなり扱い得ないとしても、いろいろな点では芸術的な価値で「伸子」の発展であらなければなりませんから。この完成のためには本当に本気です。ほかの仕事考えていて、そのことにふっと心がゆくと、暫く眠るのを忘れます。
 明日行こうと思っていたけれども、二三日のばした方がよいとのことですから、十六日にゆきます。十六日、十六日と思わざるを得ません。ねえ、そうでしょう、ではどうかお元気で、かぜお引きにならないようにね。

 二月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十六日  第十五信
 けさお手紙をありがとう。スィトピーはよいとして白いカード? やっぱり玉子組? 風邪の気配のことについての短いお心づけは大変いろいろ感想をもってよみました。本当にいろいろ感じて。少しと書かれていることが先へつづけて考えられるし、無用のという字の見えるところもいろいろわかり、衛生について考えて下さることよくわかります。変に神経質になるのはよくないねという声もきこえるし、無用の気づかいに至っては、気は病から、となるが、まさかユリは其那ではないのだからと、折りたたまれた心の道。面白いと思います。本当にそうよ、ネフスキー街を歩いたとき割合でこぼこでしたし角はあるし、最も人間の意力を語る大きい橋があるのですもの。
 お礼のこと一層はっきりわかりました。新しい事ム所も出来たし、二十にします。(岡林さん)切手で。
 袷、お着になったのはやはりちゃんと清潔にして置きましょう、多賀ちゃんにすぐやって貰えるのですから。お着になった方、送って下さい。
 ノートの話もありがとう。実に私はちょいちょい思い出します、心にしみついているのね。ありがたいものだと思います。大変よく整えられて居りますから。
 十二日から十三日までの暮し模様は前便のとおり。
 さてお体の工合はいかが? 熱が出ましたか? 雨で空気がいくらか柔かくなりましたが、そろそろもう春の荒っぽさがあらわれました。呉々もお大切に。
 きょうは私、自分だけの心で素朴に描いていて。勿論ああでいいのよ。ああならああでいいのよ。
 あれから多賀ちゃんと池袋で会って、有楽町へ出てフレッド・アステアとジンジャ・ロージャースの「カッスル夫妻」というのを(映画よ)観ました。この二人の舞踊家は世界の名コンビと云われる踊りてで、現代舞踏を創ったカッスル夫妻の生涯を物語りにしたものです。カッスルがイギリス生れで、欧州大戦(1918)に飛行将校として、分列式のとき、着陸の際、相手のスピードののろさから、自分の機体が先着者の真上になり、衝突をしてしまうか、自分が犠牲となるか、二つに一つとなった刹那、垂直上昇をやって、おちて死にました。(今ならこの位のはなれ業では死なないでしょう)。そんな場合の人間的な立派さが芸術家の真髄をつらぬくというところにフレッド・アステアの語らんとするものもあるらしく、カッスルが戦線から賜暇でかえったとき、余りおそいので不安におののいていた妻のところへあらわれ、二人のおどる踊りは、実に美しい情感が溢れていて、涙を誘うほどでした。深い愛のサスペンスのこもったゆるやかな優雅なふりから次第次第に高まり放胆となり燃え立つ旋回飛やくの後、再びしずかな夢に誘うようなメロディーにうつって二人の踊りては互の体を支え合いながら云いようない優しさにしずまります。
 こんな抒情詩のような踊りをこれまで見たことがありません。バレーでカップルの舞いがよくありますが、大体いつもきまっていてね。二つの蝶という型が常套です。そういう小品とも全くちがって一組の心の波動のまま、自然の横溢のままが動きのリズムにうつされていて、本当に、私がきょうという日の心持で見たのでなくても、やはりこれはカッスル夫妻への敬意を求められたでしょう。アステアという男の心のくみ立ても面白い。
 アルゼンチン・タンゴのようなもの、いわゆる情熱をそういう形で(追う、つきはなす、つきはなしたものが次には追う式)表現しないもの、ずっと調和的沈潜的なものを、あれだけに表現する男は珍しい。男の舞踏家として実に珍しい。
 私はこの一つの踊りの美しさに、大いになぐさめられました。そして、ああ私はきょうあなたにどんな優しい話をしてあげようかしらと考えました。アステアが、その踊りで語るようなものを私に語るひとに、私はどんなメロディーをつたえましょう、そんな風に考えました。
 それから富士見町へまわりました。ここでいろいろ話し二十日に日比谷へ行く用がある(ひとのこと、夏のつづき)ことがわかりました。
 私はたくさんたくさん仕事して居ります。ひる間、栄さんの方へ出かけて手つだって貰って来て、かえって、別の仕事やるという工合です。来月十日ごろから後はいく分ましになりますが。それに、よしあしね、私は勉強する、ということがわかって、若い女のひとのためのものでも、思いつきでかけないものが多くなって。いいけれど、ユニークですから。でも時間は多くかかるわけとなります。
 富ちゃんのお嫁は大体この二十二日とかに先方からの返事がある由です。島田の家へ出入りするひとのめいとかの由。ああこの字クシャクシャかいて、あなたが坦々をクチャクチャもんでいらっしゃるのを見くらべ笑えました。あの坦々のくしゃくしゃを見れば、どんなにデコボコかいやでもわかりますね。
 栄さんの「暦」その他、本になります。このひとが作家として示している自然発生のよいものとその低いものについて、低さの面をいうのはごく親しい二人の女の作家ぐらいだということを、栄さんは一つのおどろきに近いこわさとして語っていました。そのとおりです。戸川貞雄の月評家としての目安も、この人らしいことね。第一のように云っている作品について(正月)多くのひとはいろいろ疑問を呈出しているのです。
 内在的なものということを云っていらした意味、この頃、人間の問題としても芸術上の問題としても一層わかります。こういうものは全く一つの可能としてあるだけですね、そのものとして内容ではないわね。内容をあらしめる可能としてあるにすぎないというところ、何と考えさせるでしょう。そして何と多くのものが、可能性の色合いというぐらいのところで、日常にも芸術にも生きて行っているでしょう。しかしその可能を内容と成育させてゆくということは何と自分をいたわっていられないことでしょう、面白いわ、ねえ。どうぞお大事に。私もいろいろよくやりますから。

 二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十七日
 こんな紙をちぎって書いたりして、何となく女学生の恋文のようで可笑しいこと。封筒はちゃんともって来て、紙を忘れて。それでも一寸かいて、気を落付けて、それからきょうはここがしまるまでねばります。
 このノートの上に午後二時すぎの日光がチラチラして居ります、ここは日比谷よ。珍しいでしょう。あやうく潰れかかった図書館だけあって、内部の設備は実にひどうございます。市の図書館として、こんなところにあるのにしては国辱ものですね。婦人の室なんかほんとに狭くて、ぎっしりつまって四十人ぐらい。この辺の若い閲ラン者はこの辺の給仕や何かしている青少年が多い様子です、そんなこともいろいろ又考えさせます。本の出入に一人の若い人がいるきりです、その人の襟もどこかの夜学のマークがついて居ります。四年というしるしがあります。
 それでも上野になかった本が三冊とも(平林たいの)あってうれしいと思います。上野にないものであるのもある。必要にしたがって、下拵えの勉強は図書館で出来るから大分便利になりました。大抵のひと、いやと申します。自分のものをかくということになれば、せいぜいこの位のもの、それも、気分をまとめるに役に立つという程度ね、どうしても。
 私の向い側の割合年とった女のひとは一心に英作文をやって居ります。となりには女学生がいて、地理をやって居ります。小さいガスストーブが一つあります。夜になったらあっちへストーブよりへうつることですね。森長さん、岡林さん終りましたからどうぞ御安心下さい。
 私はこんなノートをつかって居るのです。そして、大きいのんきな字でたてがきをしてノートとるの。
 ではこれから一しきり本よみ。どうぞ御元気で。あったかいようで風はさむいことね。西日が右の顔半面にさして、不安です。でもお客にせめこまれる心配のないのは何よりです。ではこんな紙で御免下さい。よみかえして見ていかにも塵っぽいガタガタ図書館での手紙らしくて可笑しくなりました。これも御座興でしょう。

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十四日  第十七信
 十八日にね、一枚ばかり手紙かきかけて居りました。それにはこうかいてあります、
 ひどい風ですね、きょうは紀を夕飯によんだので、買物をしに出かけて、ビリアードの横を入って見たら、ふとんが干されて風にふかれて居りました。けさはずっと勉強していて、その間に云々と目のかわきの苦しさを訴えて居ります。本当にひどいかわきつづきでした。
 森長さん二十二日でしたか? それとも三日でしたか。ともかく、今は漸々ようようほっとなりました。
 忘れていられる時間が一日のうちに出来て、何と頭が楽になったでしょう。
 写真かえって参りました。割合早くかえって来たのも分るようでもあり、何だかというようなところもあり。
 きのうきょうで『文芸』のを終りました。「あわせ鏡」というのです。例えばたい子の小説、芙美、千代これらの人の作品は、一方に歴史をちゃんとうつして(正面から)いるもう一面の鏡なしには決して本質が明らかにされることの出来ない作家たちですから。特にたい子の作品は、反撥をモチーフとしているという全く特殊なものですから。実にひねくれているものですね、書いていておどろかれます。自分のもっているボリュームの全体でひねくれてしまった不幸な人です。
 きょうは土曜日でなければ、やれ、と机から立っておめにかかりに行けたのに。「三月の第三日曜日」はやっとこれからよ、可哀そうでしょう? 〆切が六日で校了であるそうです。でもこれは気持いっぱいにあるものですから、楽でしょうと思います。かきはじめたらなだらかにゆきそうです。娘の名は何とつけてやりましょう。弟の名は何としましょう。娘はヤスはどう? 弟は何か吉のつく名が見つけたいと思います。どうしても娘の生活が中心になりますね。そして、はじめはその日曜一日を書こうかと思ったのですが、もっといろいろかきたいから題も自然かわるでしょうと思います。
 月曜日にそちらにゆきます。明日、月曜日、すこしそのために歩きまわらなければなりませんから。何か妙な映画も見なければいけないの。「迚もいいわよ、可哀そうなのよ」という話題になるのに。
 この二月は二十九日あって一日たすかりますが、小説がのろくて困ったものです。
 うちでは多賀ちゃんの風邪がやっとなおりました。それでもまだ遠くへ出かけたりする気にならない由です。私は、さては東京に当ったと云って笑いました、富ちゃんのお嫁は大体きまりそうです。きまったら割合早く式をあげるでしょう。お祝いには、腹をしめて働くように、バックルのすこしいいのをあげようと思います。20[#「20」は縦中横]前後の。いかがでしょう、もし何かいいお思いつきがあったらお教え下さい。バックルはいつだったかデパートで多賀ちゃんと見て、「兄ちゃんこんなのよろこぶ」と云ったものだから。野原のおばさまもさぞホクホクでしょうね。私たちが、先の女のひとのことを、そのことだけやかましく云ったって駄目で、生活全体が変って来れば、と云っていたその通りだと御感服の由です。
 多賀ちゃんの方も、よくききませんが、Kという人に、はっきりといきさつを切った手紙、島田のお母さん宛の手紙と同封して送ったようです。サバサバしていると云われると、何だか却って私の方が苦しいようでもありますが、でも、生活のひろい視野が出来て、考えかたがちがったところもあるのでしょうし、それでいいところもある。余り狭いなかで反撥しての選択でもあったでしょうから。しかし、何だかやはり私は苦しいところがあります、その手紙貰った男のひとの心を考えると。この人生に持っているいろいろの可能の相異(外部的なものとしての)を考えると、気の毒です。お母さんはおよろこびのようで、「よりよい娘となって」云々とほめたお手紙がありました。
 でも多賀ちゃんは面白い娘です、内へ内へと吸収してゆく性質です。そのために考えきれないほどで、初めはひどく疲れたと云って居ります。
 いろんな女のひとがいろんな相談をもって来て、その話をわきできいているだけでも、きっと随分判断力はつよめられてゆくのでしょう。
 眼の黒子は三月に入って、私がすこしひまになってからです、ひとりで行って万々一妙なことになるといけませんから。
 林町のあか子はまっしろけですって。この頃ずっと行かないので寿江子の話です。
 そう云えば、隆ちゃんが家へお金送ったというのはびっくりいたしました。あの僅の金の中からどうしてたまるのでしょう、金のつかい道もないところの暮しなのだろうと思いやります。
 達ちゃんに送る本はこれまでも皆島田へ送りかえされて来ているそうです、多賀ちゃんと富ちゃんがよんでいたそうです。時間がないのでしょうね、そちらへたよりがありましたろうか。
 隆二さんたらこんどの手紙には饅頭まんじゅうづくしです。人を見込んで書くにあらず、自然にそうなるなり、なお悪いと笑うだろうか、とありました。この前のは羊羮づくしで、何とか彼とか菓子やの名を並べて千金賜えとあるから、そんな店があったかしらと返事にかいたら、一銭おくれということなり、と三ヵ月もたって教えてよこしました。一銭より千金たまえの方が景気よい由です。相変らずです。栄さんは妹母子を送って高田へ雪見にゆきました。二人でやっていたのは中途ですが。
 どうぞお大切に。月曜日に。

 二月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十五日  第十九信
 きのうの速達。そしてけさ二十一日づけのお手紙前後してつきました。きのうの分から。
 書物のこと承知しました。おっしゃっている本もずっとあの頃から一つ包としてあります。『年報』もそのようにしてありますから。目録念のためにかいておきましょうね。
 (1)[#「(1)」は縦中横]『朝日年鑑』  九年度
 (2)[#「(2)」は縦中横]  同     十年度
 (3)[#「(3)」は縦中横]『医典』
 (4)[#「(4)」は縦中横] 小南の本
 (5)[#「(5)」は縦中横] 浅田の本
 (6)[#「(6)」は縦中横]『経済年報』  八年度(四冊)
 (7)[#「(7)」は縦中横]  同     十四年度(四冊)
 (8)[#「(8)」は縦中横]『組織論』
 (9)[#「(9)」は縦中横]『月刊ロシア』合本 一冊
     十五冊
 只今はこれだけです。もしお気づきがあったらお知らせ下さい。
 足袋は今はくのがありませんから、純綿ではない何かお送りいたします。そちらのひどくなったのを、やはりとりすてにしないで送って下さい。古いのでも手入れをしておけば木綿は木綿の甲斐がありますから。どうぞいろいろのもの(下につけるようなものも)そのおつもりで。これは特別お願いいたしておきます。
 私の名代のこと、多賀ちゃんはもうそのつもりで心得て居ります。しかしこの間うち一緒にそちらへは行きましたが、お目にかかるための順は分っていないから明日つれて行って、すっかり教えましょう。勿論わかります。その方が私も安心ですから。寿江子はこの頃いろいろ勉強はじめていて目白へもあまり来ず、フーフー云ってやって居りますから、こちらは当に出来ません。多賀ちゃんがようございます。
 てっちゃんにはつたえました。つとめどうなったでしょうね、初めの話のところね、あすこは駄目でした。そして別のところに話がすすんで大体出来そうの様子でしたが。
 それからこの二十一日のお手紙。
 二十一日のは八信で二十三日のは九信よ。ですからこの次は十通めのわけ。そちらで数を覚えていらっしゃるのめんどうくさいでしょう? いつも前には何日にかいたとかいて下されば順はわかりますから、むりに数をおひかえにならなくてもいいのじゃないかしら。
 さて、体のこと。本当にそうです。私の御苦労は云わば問題ではありません。今年は冬が特別ひどかったし、本当に御苦労様でした。きっとこれからずっとましにおなりになるでしょう。そういう気がします。たのしみね。私も体には非常に気をつけて居ります。疲労を早く消すように、ということがモットーです。だからすこしへばったときは九時ごろからねてしまうの。八時すぎでもねてしまいます。そして、フロに入って。これがどうも何よりのようです。考えて見ると、この冬、すこしママをひいたことはあったが、そのために臥ることはありませんでした。尤も今年は特別で、かわきで工合わるくなって床にいてしまった日はあったけれども。成績はわるくありませんでした。今に窓をあけて眠るようにしてね。でも一昨年の夏、すこし妙だったとき、よく強引にしかも合理的にああいう方法でやって下すったと思います。あのとき以来の収穫です、そして、これは何年かの間に、どんなに有益でしょう。仕事をたくさんすればするほどその効力がわかるというところがあります。
 勉学の方も、どうもやはりそういうお礼をいうことになりそうですね。私はこの頃どんなに深く本当の勉強をしている人間と、そうでない人とが、相当な年になって違って来るかということを痛感しているかしれません。若い時代は何というか、特に女の作家なんかテムペラメントの流露で何とかやっているが、そろそろ本当に年を重ねて来ると、そういうものだけでは不断の新鮮さ、不断の進歩が見られなくなります。実際勉強は大切です。特に三十以後の勉強というものは、将来を何か決定します。だから、書くことでも、読むことでも、本当に真面目にやるべきです、『文芸』の仕事していて、猶そう思うのです。勉強などでも勉強して見ると猶ねうちが分るというのは面白いこと。
 多賀ちゃんのこと、前便でかきましたが、追々又いろいろ別の御相談が生じそうです。多賀ちゃんの家の事情で嫁にゆくと、小学を出たぐらいの小商人か職工さんのところへせわされるのだそうです。農家の土地もちというような家の娘が中等学校出ですって。多賀ちゃんも、こちらで暮して見ると、そういう結婚は辛いらしい様子です。そのことが段々考えられて来ている風です。田舎ではその娘のもっている生活力や成長性を見ず、只学校だけでいうから、例えば徳山高女を出た娘と、虹ヶ浜のところの実科を出たのでは全く違った扱いをするのだそうです。なかなかむずかしいようです。東京、田舎、その間には或る大したちがいがあって、多賀ちゃんはピーピーしながらも明るく楽しく人間について希望をもって生きてゆく男女を見たから、十万円ある家へ何故山崎の東京にいる娘が嫁入らないか、という疑問もすこしわかったそうです、もっとも理由は又別ですが。皆がバカたれと云っているのを、そう思ってきいていたって。こんなこと、微妙で、しかも深い問題です、女の生きる上に。だから、又何ヵ月か経つといろいろの話が出るでしょう。
 林町のあか子はまだまっしろけ。隆二さんが初雛を祝って、左の歌を下さいました。
はしきやしマダム・キュリーの絵姿もともにかかげよ桃の節句に。
菱餅と五人囃とその蔭に一葉日記もおくべかりけり。(私はうれしかったから虹色の色紙にかいてあか子にやります)

 三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十二日  第十九信
 きょうこそは、よくよく面白い手紙をかかなくてはいけませんね。こんなに御無沙汰したのは珍しいことです、本当に御免下さい。
 四日づけのお手紙を六日に頂きました。六日に『日本評論』の小説をかき終るところだったので、そのまま返事かかず。七日におめにかかりに行き。八日九日おめにかかり、十、十一日で二十七枚ほどの小説『改造』へかき終り。きのう夕方の六時にフーッと大きい大きい息をつきました。「三月の第三」というの、あれは「第四」に当るのでした、そしてやっぱり「三月の第四日曜」といたしました。二つめのは「昔の火事」というの。村がどんどん工場地帯になってゆきつつある近郊に、地主のよくばりと、その淋しい孫と、その土地から原始時代の竪穴が出て、そこで発掘が行われてゆくことと、そういう一つの生活の姿です。地主の猛之介は、「人間は儲けがなくてよろこんだり熱中したりは決してしないもの」という信念でいる。だから竪穴から土器が出るというと、それはきっと金目のものだろうと思うし、みんながいやにあっさりしていると、きっと甘いこんたんをめぐらしていると思う。竪穴の発掘のとき、つきまとっているけれど、竪穴が原始の農業生活をうつしていると知ると、「ナーンダ、昔の百姓の土小屋か」とあきらめる。孫はおやじが、じいさんと財産争いで家出していて(養子)淋しいので、発掘に来ている青年になじんで、掘る手つだいなんかしている。一つの竪穴が火事を出した痕跡があって、その火事があったという生々しい身近さから竪穴の人々の生活へ実感ももち、みんなとわかれるのも淋しい。雨のふった日、ひとりで、水のたまったその竪穴のところへ行って、そーっと土のかたまりをゴム長の先でけこむ。水の底からの声をきくような眼色で。そういうような事に土地の利害のことやいろいろ。子供の心におどろきをもって見くらべられる竪穴とその附近の近代工場の煙突や、その昔の街道の大福屋や理髪やにあらわれて来る若い者の変化など。覚えていらっしゃるでしょうか、いつか竪穴のこと話していたの、あれです。火事ということから、人間の生活らしさがグーと迫って来た印象が忘られず、いつか書きたいと思っていたの。「第四日曜」とこれとは、何と云ったらいいでしょう、二枚折の屏風のような関係です。あの面、そして、この面、その二つの面が、どこかでつながっている。そういうようなもの。でも、二つつづけてかくと、同じ様式でかくのが進まず、短い方はずっと変化した形式で、話のように、(リアルな描写ですが)かきました。ああ、そしてね、この猛之介のじいさんは畦の由兵衛という仇名の男でありました。自分の畑や田から道へ出るときは、草鞋の下をこそげて出る、一かたまりの土だって汗と金のかかった土をよそへはもち出さぬという男。猛之介は、しかし、武蔵野の黒い土の厚みを二つにはいで、そこから儲を見ようという自分の智慧に満足している。一方を地下げし、一方を地盛りし、二つを売りものとする、そのために、竪穴の水平断面があらわれたのです。面白いわね。欲一点ばりの爺、人のいい発掘家、少年、その土地のいろいろの風景よ。
 七、八日には、「昔の火事」をこねながら婦人のためのものを二十五枚(二十枚は口述)。
 二十五日に手紙さしあげて、『文芸』の仕事(二十枚)終ったのでした。だから、二十五日からきのう迄半月、全く眼玉グルリグルリで、それでも、半徹夜は六日の晩ぐらいでした。それでもちました。朝からやって、午後休んで、夜は夕飯後から十時すぎぐらい迄ウンウンやって。一日平均十一枚小説をかいたのは未曾有です。理研のレバーがこんなにきくのでしょうか、又実によくのみましたけれども。体力がへばらなくて、それでやれたという感じは初めて。夜ふかしを余りしなくなったききめだとすると、随分あなたはおえばりになるでしょうね。多賀ちゃんの功績も甚大です。あのひとのおかげというところも多々あります。ですからきのうは原稿とどけてから銀座の方へ二人で出て、夕飯をたべ、九時すぎかえったら、あの雨の音でしょう? ゆうべのいい心持で眠ったことと云ったら。ゆうべは十時半ごろ眠って、すぐ眠って、けさは九時半まで一本の棒のように眠りました。このねぼうはあなただって下さる御褒美と思いながら、ホクホクして。
 ああ、でもそういえば、私は二十五日よりあとにもう一つぐらい手紙さしあげているでしょう、「合せ鏡」という題のことかいた覚えがあるのですが。あしたうかがいましょう。何だか夢中だったのでごちゃごちゃしてしまいました。
 林町へのお手紙よみました。みんなが、いかにも心持よさそうなお手紙だと云って、返事かくと云っていました。国男が、「姉さんの大変いい気持になるものをぜひ見せてあげたいから」と云って、食堂のサイドボード(覚えていらっしゃるでしょう、壁のところに高くたっていた茶色の彫りのある棚、かがみのついた)のところへひっぱってゆくから、何かと思ったらあれでした。緑茶の話が出ていて、笑ってしまいました。咲枝、動坂の家を知って居りますからね、あの二階でのまされた緑茶ということにはひどく同情して笑って居りました。でも咲枝は感心よ、のまされた人に同情するけれども、のましたものの心底もあわれと十分察して居りますもの。それはそうよ、全く。のましたものの方は、そんなにして、自分たちの新しい生活で仕事を渋滞させまいと思っていた自分の心を、満足にも思い些か残念とも思っている次第なのですもの。
 太郎へのお手紙、すっかりよみましたそうです。ヤス子はまだ余り小さくてあそび相手にはならないので、私が、あすこをよんで、「でもヤスコは小さくてまだ遊べないね」と云ったら「キットモットオッキイと思ってるんだネ」と云っていました。太郎も返事をかくそうです。この頃幼稚園でぬり絵をやります、印刷した輪廓に色をぬるのですが、色感がよくて面白いので、かざったりしています、あの位の子の絵はなかなかおもしろい、小学へ入ると凡化します。太郎は今はオンチなの。歌は下手。ですから、絵を着目されている次第なのです。あか子は、大分真白がましになりましたが、余りおっとりしていて、すこし心配な由です。成程そう云えばそういう表情よ。美しいし可愛いしいいのですが、パッチリしたところなく、春風駘蕩たいとうで頭の中もそうかもしれません。「はしきやし」はいそがしい最中で、とても色紙買いにゆけず、そのままです。いずれかいてやりましょう。
 明日はおめにかかりにゆきます。それから多賀ちゃんの黒子の医者へつれてゆきます。一人でやると、どうも心配で。それから病人を二人見まわなければなりません。もうもう宿題なの。そうしているうちに又仕事がはじまりますから。この三四日はそんなことをして大いにのーのーとして休みます。風が激しくて、いかにも三月ですね。外へ出るのは困ること。三月の風は「第四日曜」の第一章からあらわれます。けれども、今年は大助り、多賀ちゃん、竹スダレのことお話しいたしましたろう? あれを二月十三日の分としていただいたのよ。二間一杯に下げると、光線が眩しくなくて大助りです。八月に冨美子が来れば、私は二階で一日くらしますからその用意もかねて。車がついていてね、糸でスルスルと巻き上る竹スダレの下から、まんまるなお月様が遠いむこうの屋根を眺めるという風流な姿を御想像下さい。
 今多賀ちゃんが、洋裁のところをしらべてかえりました。四月五日から、月水金、いいでしょう? 私は火木土ですから大変いいわ。場所は目白の通りの左側の角の古本屋の横入った右側、下落合一ノ四三七というところで、歩いて五分とかいてある、マア七八分でしょう、でも、これならば歩いている間にバスがひっくりかえったというこわいこともなくてようございます。速成科を四ヵ月やって、あと九月一日から又その上の課程をやります(研究科か裁断科か)そしたらこの年いっぱいでいくらかまとまりましょう。自由科というのもあって、それは回数券です。井上英語スクールと同じシステムですね。これにきまって私も大安心です。四月五日からのが丁度月水金の組で本当にうれしいこと。そうすれば二人が交互ということになりますから(大体)いいこと。稽古の方は九時―四時。これもいい時間です。家じゅうしゃんとしてやれてようございます。小さい女の子はそれこそ三月第四日曜日ぐらいに来ますでしょう。一寸した郵便局のおつかい、八百やへの使い、御飯たくこと、そんなことから段々なれれば大いにようございます、大森の方の子ですから、都会の生活には馴れているわけです。どんな子でしょうね。のんびりとよく大きくしてやりたいと思います。いろんなことを覚えさせて。多賀ちゃんも可愛がってやると楽しみにして居ります。
 お母さんのお砂糖、やっぱりこちらも一時に買えず、買いたまりましたから、きょうお送りいたします。ああ、読書の恐ろしい顔の天使が、右の肩から私をのぞきます、暫く御無沙汰していたからよ。何と嫉妬ぶかいのでしょうね。では、どうぞお大事に、本つきましたろう?

 三月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十五日  第二十信
 十一日づけのお手紙、かえったら来て居りました、ありがとう。きょうは、退屈したダルマが手をのばしたり足をのばしたりする絵があるでしょう、ああいう工合で落付きませんでしたね。
 音羽へは今夜参ります。片方は留守。「奥様は?」「お留守でございます。」これも夜かけて見ましょう。
 かえりに目白の市場で多賀ちゃんののむアスピリンをきいたら、思いがけずバイエルのがあって、六粒七十銭。それでも大いに助りました。座骨神経痛というのは風邪とともにおこるものだそうです。気がつかないでいて、いつか風邪をひいていたのね。昨日は、和泉橋へ行くときからすこし妙だったのですって。スーンと走って痛むのでクサレがひろがるのかと気を揉んだのですって。大笑いしてしまいました。夕飯のあと、私はそれは神経痛だから暖めて横になればいいだろうと云っていたけれども、まるで不安な顔つきをしているので、不安で安眠しなかったりするといけないと思って、佐藤さんに来て貰って、どこか押して、はっきり座骨神経痛と云われて安心してよく眠ったようです。湿布して横になって居ります。食慾もあるから大丈夫。ただアスピリンをのむから、胃をわるくしなければよいと思って居りますが。三四日したら直るでしょう。それまではマア、ゆっくり休んでいることです。一粒ハリバの話したら、「うちはまだマーガリンではないバタをたくさんたべているのだからよかろう」と云って居りました。「痛くてホームシックになって、すこし泣いたかい?」ときいたら、「ちっともそんなことはない」って、十八のとき広島へタイプの稽古に行っていたときは、夜よく家が恋しくて泣いたそうですが。
 大体この頃気候がわるいのね、寿江子はすこし調子わるくて、十時就寝励行(!)の由です。やっと、早ねの効験がわかったか、と私は大威張りです、はじめの頃、私が夕飯すむと、もう何となし寝る時間を気にしてそわそわしていたのを、寿江子は大分嘲弄いたしましたからね。「結局眠るということが大切だ」と云うから、「そうやって、お前の生意気が段々なくなっておめでたい」と、これも大笑いでした。
 前の手紙に一寸かいたし、おめにかかって云っていたように今度は大車輪を、私としてはうまくしのぎました、もうこれで、これからやります。昼間を私は好きだしつかえるのに、昼間を十分いかさない法はないし。私の徹夜廃業が、この間うちの条件で実行されたのはやはり、徹夜廃業が身についたのね。その代り毎日いくらかずつ仕事をいたします。ダーッとやって、ダーッとやすむ式でなくなる傾向ですし、これは大いに良好な傾向です。
 お手紙の小説のこと、全くそうね。小説というのは変ね、本当に。この頃の小説は、しかし小さき説をなす類さえ少い次第です、只話している、或は喋っている、そういうのが多いし、そういうのが迎えられます。
 写真のことも、やはりいろいろと可笑しい、だって私は十二月初めからこの間まで、あれがそこにあるということで心をなぐさめられていたのですもの。可笑しくて腹立たしい心持です。赤子アカコのはね、まだとってないのです、とりたいと思うし、そうしたら、どうしたらいいでしょうね、というわけなの。太郎とアカ子といろんなところでとった写真をおめにかけたいと思います、あの門、この門、この道、というようなところで。きっと面白くお思いになるでしょうと思って。
 起床のことは大威張なのですけれども、読む方はペコペコなの。二月は50[#「50」は縦中横]頁。三月に入ってからは迚もで、やっと十三日から、まだひどい貧弱ぶりです。決して逆転してしまうことはないのです。でも、どうぞどうぞあんまり眼玉をグルンとお動かしにならないでね。身がちぢむからね。こんな肩身のせまい思いをする気持、あなたはお分りにならないのでしょう、くやしいぐらい、ね。
 きのう「ユリは丸くなったねえ!」と仰云ったには、本当に恐縮しました。うちへかえってもハアハア笑いました。だって私はこの何年かの間に徐々に徐々に丸くなって来ていて今更おどろかれたというのは全く仰天ものでした。でもね、私は大笑いしつつ面白く思いました。だってきっときのうはそんなこと、ハハアとお思いになるぐらいどこかのんびりだったのね、きっと。顔ばかり見て、用事用事ではないところがあったのね、いくらか。
 そんなにホホウとお思いになって? 誰をか恨まんやですね。本よみのことで、こんなに肩身せまがったり、こんなに忙しがったりして、それでも痩せる方へ向かないというのは、よくよくのことだから、どうぞあなたも御観念下さい。隆二さんをやとって「はしきやし丸き女房もまたよかり」という和歌でもつくってもらいましょうか。「またま、しらたま、かくるとこなし」とでも。
 小説のことになるけれども、この頃はあなたも又改めて通俗小説のフィクション性をお思いになるでしょう、私は痛感します。現実の発展を偶然にたよるということが、フィクションの法則みたいに云われているが、それはまだしも素朴な部ですね。偶然にもあり得ないことを、必然のようにつかってテーマを運ぶのだから、通俗に堕さない文学上の判断というものが、何と大切でしょう。
 文学のこういうことに関して、どうせ門外漢には判らない、となげすてることで、一応文学の専門家と云われる人々のフィクション性をバッコさせるのですね。現実を現実として見てゆけば、作品のフィクション性から真のテーマのありどころが、やはりわからないことはないのですから。そういうことでもいろいろ深い感想が刺激されます。小説家が過去の範疇からよりひろいものとしてその常識上のカンも発育させるということは、何と大切なことでしょう。現実の真を見ようとする熱意の及ぼすひろさということも考えます。
 長篇の準備は四月に入ってからです、尤もあれこれ折にふれてはこねているけれども。私は何か気持のいい作品がかきたいの。清潔で、深くて、ブリリアントな人間の心が描きたいのです。
 時期のこともあり、結局うちにいて、毎日をよく整理して、多賀ちゃんにも出来るだけ助けて貰って、そしてその仕事はやりましょう、よそへ行くことは不自然です、そうして、今の私たちの生活として、そうしてでなければ書けないというようなものをかく必要はないと思うの。芸術の世界の感覚として、ね。これは同感でいらっしゃるでしょう? 芸術の必然にとってもこれははっきり云えると思います。ですから、この点ではガンばるつもりです。四月に入ったらそろそろほかの仕事をみんなことわります。長篇の稿料を貰うように相談してありますから何とかなるでしょう。六月六日には島田に行かなければなりません、三年ですから。こんどはいろいろな点からごく短くしか行けますまい。それ前に達ちゃんがかえるといいけれども。もし達ちゃんがそれ前にかえっても、私はそのためにかえることは出来にくいと思って居ります。どうお考えでしょう。きっとお母さんはおわかり下さるでしょうね、あなたからもよくおっしゃって下されば。
 多賀ちゃん、ひっそりして臥て雑誌よんでいるようです。これから台所へおりて、夕飯たべたら、音羽へゆきます。
 こんな風にして動いている私のふところの中には、やはり例の淡紅色の表紙の詩集が入って居ます。枕のそばにあったり、枕の下にあったり、いつの間にかその上で眠って、体の下になっていたり。机の方ではいつも左手のところにおかれます。そして、一寸つかれたときひろげて一行二行よむのですが、詩の面白さは、ほんの小さい情景をかいた短いものが、やはり心の中に入るとひろくひろく瑞々しくひろがるところにあるわけでしょう。「物干」という題のを覚えていらっしゃるかしら。季節は今ごろです。暖い春の光に質素なふとんを陽に向けてかけつらねた小さい家の物干。という描写からはじまるのですけれど。彼等は二人の子供のよう、彼等は二羽の雀のよう、という句もあるわ、覚えていらっしゃるかしら。親しい友達に一寸かくれん坊して、笑ってよろこんでいる彼等、そういうような初々しさの漲った描写もあります。
 私は屡※(二の字点、1-2-22)この詩をよみます。机の横の障子の外の竹すだれの外には、ここの物干が明るく陽に光っています。そこに折々あなたの着物だのがほされて。その間に顔を入れて陽のあったかさを感じていると、その詩の心は何とまざまざと生きて来ることでしょう。あなたの御愛誦の詩のはなしをきかせて下さい。では又、ね、お大切に。

 三月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十七日  第二十一信
 きのうから手紙かきたく。夕飯をしまって、さて、と思っていたら人が来てしまいましたので到頭昨夜は駄目。
 けさは、普通の時間に多賀ちゃんがおきましたので随分うれしかった。私はほっとして、すこしね坊。
 御飯たべてから、多賀ちゃんは、うれしそうに上機嫌で、きのう寿江子がもって来て、かえるとき忘れて行ったパンジーを、植木鉢に入れました。たかちゃんは器用にいろいろよく知っているのね。野原の小父さまの御存命のころ、台所の柿の木のところから、ずっと十円も種をまいて花つくりをしたのですってね。小父さまがくしゃくしゃして変になりかかると、そこへつれ出して楽しんだとのこと。いかにも可愛い鉢が三つ出来て、私も手や前かけを泥だらけにしながら大よろこび。
 それから二階へ上って、恐ろしい顔の天使をよんで、(吉例、読書よ)メモを見たら急にあわてました、というのは、十七日にわたす原稿が一つならずあるものだから。多賀ちゃんの病気いろいろでつい御放念だったものだから。
 あわてている最中に、一箱つまった小説をもって来た人あり。辛い浮世と申すべし。
 それから又引つづいて、百枚以上の小説を、ABCから話してあげる女教師が来て、もう西日に傾くころやっと、ここへ戻りました。
 その女教師先生は、小さい女の子の世話を予約していたのですが、急にその子の小父さんという左官やさんが引とって世話したいということになりました由。六七人小僧をおいている由。さもありなん、です。別の子をもう一人当って見るということになりましたが、どういうものか。
 多賀ちゃんが稽古に行ったって、よろしいのです、ただ一日じゅうきまって昼間は留守というのが、不用心で、それが閉口です。昼間しめておくと、例えばゴミとりさんというようなものが入れないから一回ぬけます。するとこの頃人不足で、間が永いからゴミ箱を見ると、このおユリが悲観するという哀れな状態になるの。閉口ですね。きっとこの春は空巣がバッコすることでしょう。四月から、うちも何とか方法を立てなければなりません。まだいい思案は浮ばないけれども。
 それから、この近日うちに、私は種痘いたします、珍聞でしょう? 余り天然痘が出ているから。そして市内の各方面からのひとの中に一定時間大体毎日いることになりますから。古い古いことです、右の腕にホーソーのついたあとのあるのは。円いのも、またま白玉でどうやらしのげるのに円い菊目石というようなものになったら、余り相すみませんものね。天然痘が銭湯に入ったりいろいろの芸当をやっているのをよんだら、こわくなって来ました。不思議な春ね。
 そんな有様だのに、林町のああちゃんは、小さい息子が風邪ひきで国府津へ行かれないからその代りと云って、湿布している息子を銀座へつれて行って、フジアイスでアイスクリームのましたときいて、あっこおばちゃん大憤激です。
 本当に手紙書こうと思っているのです。風邪というものを何と思っているのでしょうと。あなたにぶーぶー申して、お笑いになるでしょう、私は、でも太郎が可愛いの。そして、そういう愛されかたを可哀そうに思うの。そういう愛しかたをするああちゃんも可哀そうなの。そして、腹がたつのです。それを、こうしてここにかく心持。それは女房の心理、ね。こういうブーブーを、あなたはごくたまにしかおききにならないのですから、まあおきき下さい。
 こうして話していながら、ああ今夜は誰も来ませんように、と心ひそかに願って居ます。今夜と明日とで、こまかいいくつかのものを仕上げてしまいたいから。
 それをすましたら栄さんとやっていたものを終って、『文芸』のつづき何回分か終りまでずっとつづけてかいてしまって、さて、と長篇にとりかかる順序です。
 稲ちゃんの「素足の娘」(書下し長篇)よみはじめています。何だか、作者が抑制して書いているのと、若い十五六歳の娘を自然思い出として書いているところともあり、今までのところではブリリアントなものが少い、少くとも「くれない」より光彩がないような印象ですが、どうかしら終りまで行くと。楽しみにしてよんで居ります。
 これから自分が書こうというものについても連関していろいろ感じます。「くれない」は毎月連載されて出来たもの、これはずっと宿やでかかれたもの。そういうものについての感想もひき出されるし。
 書く必然がわからなくて、というような手紙の文句があったことを思い出したり。長篇というものはなかなかのものですね、随分しっかりした骨格がいる。石川達三のような、昨今の請負人みたいに代用品ドシドシつかってこんどはアパート、こんどは工場、これはいかがと小住宅もつくるというのもあるし。
 石川の「結婚の生態」という小説はひろくよまれるのです、そして参考になりました、というようなことが、若い娘の口から座談会に出ている。可哀そうねえ。娘さんの生活内容も。より若き世代ということはより貧しき世代であってはなりません。
『文芸』の仕事、栄さんとの仕事の必要から、その生態なるものも、解剖しなければならず。買うのが腹立たしいような本というものがあるのは奇妙至極なことね。私は寿江子のをまわさせました。
 いろんな妙てこりんなものをよまねばならず。これも修業の一つかしら。私のこの頃の読書の範囲を考えて、何ていろいろと思いました。どんな知識も有益です。大衆文学性を打破するための本当の知識などは、大いに私を愉快にしますし、自分の常識のあいまいさをも痛感します。常識の誤りに逆手をとられるというようなのは真平ね。御同感でしょう? そして、私は私らしくクスリとするの、私の読書力は、何とリアリスティックだろうと。(云いかえれば、そうね、はっきりしているだろうか、と)分りたいと思うと、分りそうもないものも分るのですもの。何と可笑しいでしょう。私の語学のように、これも気合の一種でしょうか。
 ああそれから、私はいつかアイヌのことについて、手紙の中にかきましたろうか。十九か二十のとき北海道へ長くいて、アイヌ村に暮したりして、アイヌをかきたいと思って勉強したこと、まだ私には荷にあまっていた(かんどころは今も同一ですが、分析や展開が)ので、一章だけロマンティックにかき出して、旅行のためそれなりになってしまっていたのを、この間ふと思い出して、これからならかけると面白く思ったこと、まだ書きませんでしたろうか? 長篇のこといろいろ考えていてそれを考えたのです。いつか長いものに書こうとたのしみです。非常にいろいろ面白いのです。一人の女のひと(アイヌのひと)が中心でね。ロンドンのことや何かまで出るのです。その女のひとの見た世界として。ヴィクトーリア式女のイギリスを、このアイヌの娘が見て、いろいろの感じ、いろいろの受けかた、その適応の型、いろいろ大変面白いのです。溢れるような曠野の血が一方に流れて居り、一方に無限の悲哀があり、最も消極な形でのスケールの大さをもっている女の一の心です。
 それからもう一つ、お座りのとき、竹越の『日本経済史』をよんで面白く思った、お菊という女。これは淀君の仕女ですが、当時のいろいろのそういう女の境遇をよく語っていて、面白いの、たとえば、非常に乏しい着類とか。ああいう色彩のバックにどうしてかこの女の名が出ていて、随分面白い。これは西村真次という人の随筆めいた本の中にも目次に出ていて。いつかやっぱりかいて見たいと思います。調べて。
 それからもう一つ。これは大名の妻。大した美人。だもんだから、父親が政略的にあっちこっち嫁にやっては、あとでその良人――婿と戦って、敗北させて、娘をとり戻す。最後のその伝がはじまったとき、その妻は父からの脱出の使者を追いかえして、可愛い娘二人かを手にかけ自刃します。当時の強いられた女らしさというものが彼女をそういう命の終らせかたに追いこんでいる。この娘たちも女にこの世に生れて私と同じうきめを見るならば、と自分と一緒に命を終らせている。そういう女の燃え立つ心、それは単純に良人への愛ということだけで云いきれないでしょう? 心を打つものがあって、それも同じ頃(お菊と)よんだのだが、どこにかいてあったか忘れてしまって、場所が(本の)見つからないのです、武家時代のことですが。
 近松なんかは義理というものに挾まれた武家の女の苦しみは描いて居りますが、その妻のプロテストは義理ではありませんものね。
 さあ、こんなに種明しをしてしまって、何だか、きまりわるいこと。肝心の一番手近のはまだ何ともきまらずボー漠としているのに。でもね、歴史小説にしろ、女のかく歴史小説というものの特色はあり得るという確信はあって、やはり面白うございます。これらは何年の間に出来上るでしょう。これで案外遠いものほど近いのよきっと。つまりお菊その他が、アイヌより先になり得るのです、いろいろの点から。
 ああこれだけ話して、すこし心持がよくなりました。こんな種、太郎ではないがダイジダイジで、喋らないしね。ロンドンやパリが、その女のひとの目で見られるのも面白いこと。ではどうぞお元気で。忙しすぎないように。

 三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十二日  第二十二信
 ひどい風! 南の方の空は赤茶けた埃の色でよどんだようになって居ります。
 今、妙なことして書いているの。ペンをもっている方の手首に、ホータイのあるのはけさ御覧のとおり。その上、おなかにゴムの湯たんぽをかかえこんでかいているの。変でしょう?
 きょう、そこの裏の池袋へ通じる市電の停留場にいたら、風がスースーと体にしみてしみて、何とも云えない気がしたら、かえって気分わるくて、パンをたべるとすぐ湯タンポを二つも入れて臥てしまって、午後やっとおき出し、この体たらくです。
 この間うち暖かったのに急にこうだから。春は荒っぽいこと。面白さと云えば云えるけれども。
 あなたもどうぞお体をお大切に。この頃の気候は血を出す人の多いときだそうですね。そのことについて面白いことききました。普通の人は、ドッと出ると非常に驚愕して思わず息をつめるのですって。出すのを抑えようとする反射的な動作で。すると、そのように息をつめたあとは、どうしても深呼吸になる。そして血を戻すことになり、窒息がおこったりする由。出るときは上体を斜におこしたもたれかかった姿勢で、かるい咳で出るのは出して、そして塩水のんだりひやしたりした方が大局的な安全の由。この間その話きいて、いつか書こうと思って居りましたから一寸一筆。ハッと息をつめる感覚がいかにも実感でわかるもんだから書きたかったわけです。私には成程、と思えて。自分は、息をつめそうですから。あなたはもう身につけていらっしゃる注意かもしれませんが。
 この火傷はね、十九日の制作品です。前日、二十七枚もちょっとした感想かいて、十九日の夜は星ヶ岡で座談会があって、そこからかえって、やれやれといかにものーのーしてお風呂に入って、いい心持で煙突のあっちにある歯みがきのコップをとろうとしたの、半分眠ったようなうっとりで。そしたら、自分の腕の短さ、その円さをすっかり忘れていたので、下の金具にチリッとして、本当にチリッと云ったような大きい感じでハッと目をさまし、オリーブ油をぬってねましたが、次の日われらのお医者が見てしっ布しろというので、あの形です。すこし紫色になって来たからもう大丈夫でしょう、化膿はしませんでしょう、ひきつれにもなりませんから御安心下さい。今はハンカチーフをたたんでくくっておくの。シップでふやけそうでいやなので。
 それから、今夜種痘いたします。これをしないとこわくて。いろんなこと!
 お母さんからお手紙で、やっぱりすこし風邪で神経痛がなさいましたって。そして前の河村の細君たちにいろいろ手つだいをして貰ったとおたよりですから、明日あたり何かあのひとたちのよろこぶものを送っておきましょう。お母さんにもお菓子お送りいたしましょう、サトウは一人宛十銭ですって。それも配給のあったときだけ。ですからお送りしたのでも大助りとのおよろこびです、今にそれよりはましになるそうです。
 達ちゃんから航空便が来ました由。いよいよかえる日が近づいた様子です。電報を打つと云ってあるそうですがそれは打てますまい。早ければ本月うちに任地を出発するだろうとのことです。よかったことね。全く安心です、かえった顔をお母さんはどんなに涙をたたえた眼で御覧になることでしょうね。
 そのとき私にきっとかえって欲しいとお思いでしょうが、この間手紙で申上げていたこと、考えておいて下さい。時間的には随分苦しいの。ですからもし行けばほんの三日ぐらいです。前後を入れて五日。しかしなろうことなら六月にまとめたいのですけれども。
 うれしいにつれてね、心配です。おわかりになるでしょう? 私が達ちゃんのどういう点を心配がるか。こっちで一度経験ずみだそうですから却ってましかもしれないが、もう単純ではないから、全く。すぐお嫁さん話で、もうお母さんもその一点をゴールですから、かえったら本当にちゃんとした手入れしてからでないと。よく不具な子をもったり白痴もったりしては生涯の不幸だから、そうでなくてもお嫁さんの足が曲らなくなったりしてはことですから、よくよく注意が肝要です。あるものとしての処置をすべきです。口さきでのきれいごとは誰にも通用しはしないのだから。そんなことですむ以上深刻なわけですから。
 ここまで書いて、今はもう夜です。
 おなかの苦しいのは癒って、よく夕飯をたべました。そして左腕に、もう種痘をしました。原価七厘(五人分よ)。それを薬屋では十銭に売ります。町の医者は一人前三十銭―一円とります。伝研に種切れで、きょうは五人分しか薬屋が届けて来なかった由。私のは生れて初めてのが、右に大きい紋になって一つあるきりです。つくかしら。ついたら痒くて閉口ね。その代り安心です。この間うちは人の集るようなところ随分さけて居りました。林町では浅草に近いから強制の由です。
 この頃はお忙しいから「暦」も「素足の娘」も御よみになれないでしょう。「素足の娘」一人称で書かれているものです、若い(十六七歳の)娘が性的に目ざめて来る過程、その途上におこる予期しない或男の行為。そのことから追々生活的にも目ざめて来る心持のうつりかわり。父と娘との風変りな生活。いろいろこまかいものです。決して通俗的に書かれていません。ニュアンスでよませてゆくようなものです。けれども、何だかまだまとまらないけれども、何だか感想があります、何か心にひっかかっています。このひっかかったものは面白いからしきりに考えているのですけれども。何だか変な気というかしっくりしない気というかがするところがあって。本当に何なのでしょう。いずれ又わかったら、どうせかかずにいないでしょうけれど。三人称でかかず一人称のところが、却って作者と距離をこしらえているのかとも思うけれど。眠くてしかたなくなったからまだ九時半だけれど御免なさい、ね。

 三月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十四日  第二十三信
 きょうは日曜日。可笑しい可笑しいことおきかせしましょうか。ゆうべは私眠たくて、九時半ごろ二階に上ってしまいました。いろいろあなたのおっしゃった詩の話や小さい泉子の話思いかえしながらすぐ眠ってしまいました。夜中に一寸目をさまし。そのまま又眠ってけさ、時計がうつ音で目がさめたの。おや何時かしら、ひとうつと数え、二つ三つとかぞえ、九時ごろになったのかしらといい加減びっくりしていると、八つ打ってもまだやまず、九つうってもまだやまず、どう? 十一打ってやっとやみました。ホーホーと笑い出してしまった。十時から十一時迄は十四時間よ。びっくりしてドタドタおりて行ったら多賀ちゃんが、ホーと云って笑い出しました。どういうことになったのかと思ったのですって。私のいびきは下へもきこえるのですって。それがけさは、クーともスーとも云わないで、下りて来ないし、どうしたのかと思ったって。いびきは体か頭のつかれのひどいときかくのね。十時間も眠ってあとの四時間ぶんいびきかく必要がなかったのでしょう。何と眠ったでしょう。うれしくって。いい心持で。これで一時ごろねたりしてのことなら私はこんなにホクホクして手紙になんか書かないでしょう。気がひけているわ、きっと。ところが十時に眠ったのですから、素敵だと思います。いいわねえ。自分が可愛くなってしまいました。この間うちの疲れが出ているのでしょう。こんやも又早く早くねるの。楽しみ、楽しみ。可笑しいでしょう? ひどい風だしくたびれるのよ。あなたもお笑いになるでしょう、そしてそれはよかったねとおっしゃるでしょう。
 この前の手紙、たった四枚の、あれは手紙にも疲れが出ているようなのでした。書きながらそう感じました。
 きょうはチョコンとしてよく眠ってぱっちりして、泉子をつれて、あなたの前へ坐っている、そんな感じ。この感じも大変面白うございます。
 きょうはね、すこし仕事しようと思っているのですけれどその前に、すこし、こうやっていろいろの話。多賀ちゃんは今、動物園と有斐閣へ行っているのよ、動物園で面白いグラフィックを売っているの。それを病院にいる健造にやろうと思うの。あしたそちらからのかえりに。八人の子供たちがいるのですって、その部屋には。少年の心持で、初めて病院の暮しどんなでしょう。あしたはそのグラフと『ジャングル・ブック』をもって行ってやります。たべるものは分らないから果物(オレンジ)を少々だけにして。
 このうちにたった一人、私たち二人きりの感じ面白く思います。二人っきりという特別の感じは、やっぱりほかのひとがいるとない感じね。こんなことを話している声の調子も何となく低まって、わきにいるひとにだけきこえればいい、そのひとにだけきこえる声でものを云っているといういい心持。これも親密な面白い感情。私は意味のない、それでいて深い深い心のある鳩のような声でクウーと云って見たい心持です。クウーと喉をならしながら鳩は膝から胸へ、胸から顔へ、クウーとよってゆくでしょう。それをうつひとはないわ、ねえ。
 泉子の様子をお目にかけたいこと。少女から若い娘になって、紅梅のような風情でしょうと思うのですけれど。決してわすれずたよりよこします。ふーっとせき上げて来る心持があって、覚えずたよりよこすと云った風です。つつましやかで、しかも充実した横溢性をもって溌剌としているところ、いかにも女です。そして、あなたも御存じの、いづみ子のごく仲のよかった子、その子への心持も段々成熟して来ているのは本当に面白いところです。心の成熟というものは微妙ですね。幼い思い出ばかりにとどまってはいないのね。やはりきょうにちゃんときょうを生きているのですもの。全く近く、全くさながらそのように感じる瞬間をもっているのは不思議な心の力です。私は神秘家ではないけれど、それとは全く反対の現実の活々とした豊富さという意味で、例えばいづみ子がそういう瞬間の横溢の刻々のなかで成熟し、ゆたかにされてゆくことに驚歎いたします。彼女はもとからそうでしたが、やはり敏感です。愛に感じやすくて。よろこびが戦慄のように走るとき、何と上気して気を失いそうになるでしょう。ひき入れられるような身ぶりのとき、いづみ子が声ない叫びでかすかに唇をあける様子、そのふれる感覚にまかせてゆく風情。非常に趣ふかく、昔の物語りの表現ではないがあわれふかい趣です。
 本当にあなたが御覧になったら何とおっしゃるでしょう。ふりわけがみの幼なじみが今のいづみ子に会ったらきっとおどろき、そしてどんなに恋着することでしょう。彼女にとってそれは意外ではないのですものね。自分の心は知っているのですもの。このこの成長、美しくゆたかな成長はみものと思われます。
 私はよく自分が女の芸術家に生れ合わせて、いつか何とかして、こういう微妙きわまる女のいのちの姿を描き出してみたいと思うことがあります。
 岡本かの子はそういう生の力を或点やはり感じていたのでしょうが、その表現、その再現の世界は、謂わばそういうものに感動する自分の様々の姿を鏡にうつしてみて、我から我に惚れている範囲ですし。
 アベラールとエロイーズの話、御存じでしょうか。この二人は二人で神のなかへ没入してゆくことで自分たちの愛の完成をとげようとした中世の男女ですが。かの子の世界でもなく、アベラールたちの世界でもない、リアルな情感の世界があるということ、そういうものも歴史のなかで発生していること、それが芸術化してみたいと思います。でもこれは大変むずかしいでしょう。そういう可能の諸条件というものは、作品のうしろにおかれ得ないでしょうから。単な人間性のゆたかさというものからだけ描けるものでもないのだし。
 こういう美しさが立体的に描き出されてこそ新しい文学の溢れる甘美さはあるのでしょうけれどもね。
 この頃かの子の文学の本質がわかるようです。彼女の小説は女がかいた小説ではなくて、小説の肉体は男の肉体での文章やコンストラクションや何か。いつか書いたようにあれは合作なのだが、その合作ぶりがね、妙な共通の感覚的渾一においてされていて、そういう精神状態でされていて、精神の歓喜像としての作品ですね。
 文学だからこそそういうものも生れると云えるかもしれないのに、そういうものならそういうもので、何故あの夫妻は芸術家一体としての自分たちのそういう独特性に十分のよろこびと誇りとをもって、二人の作品としておし出さなかったでしょう。何故かの子作にしたのでしょう。一平は、そういうかの子を又描いていなかったのでしょうか。
 私は川端や何か芸術がわかるというひとがこの点にふれて云わないのが妙で仕方がありません。世俗の礼儀はすてた世界だのにね。俗人なのね、彼等本心は案外。
 きょうこれから、友だちのことをかくのです。私は今有名な友達たちのことばかりはかかず、小学の時代に仲のよかった女の子のことからかきます。その子が芸者になりました。その後どうしたでしょう。
 それから女学校時代の仲よしの四人組。その後の〓〓生活の自主性のなさからのはなればなれの工合。〔約三字分不明〕一番はじめての小説を下がきを終った夕方、じっとしていられなくて馳けつけたのは、その四人組の一人の娘のところでした。そのひとは、後に、親たちを安心させろ、という手紙をよこしました、私の親たちは安心していたのに、とことんのところでは。いやね。それからあみのさんや何か。それから又今の友達たち。いろいろの時代と歴史が反映してゆく、そのままに描いて見ようと思います。こういう風にまとめてかいたことはないからきっと面白いでしょう、自分にとっても。友だちたちのなかには、友だちの男のひとたちも入れましょう。私たちが友だちという場合の自然なひろがりですから。
 友だちと云えばてっちゃん、火曜日にそちらへゆきますそうです。明日そんなことお話しいたしますが。
 詩集の話、この間の「春の物干」という題の、やっぱり面白くお思いになったでしょう? ああほんとに、そういうのもあったね、とお思いになったでしょう、「窓の灯」というのもあって私は屡※(二の字点、1-2-22)思い出します。その窓に灯がついていないとき、がっかりした心持、というかき出しの。あったでしょう? 今に灯かげは外へまで溢れる季節になりますね。では明日。

 三月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月三十日  第二十四信
 きのうの朝おきて何とうれしかったでしょう、風がなくて。三四日お話のほかでしたね。春はこれで閉口です。
 きのうときょうは多賀ちゃんのお使者で。私が無理をしていたのではなかったかとおきき下さいましたって? それからきょうは大変御機嫌がよかったって? いろいろそういう話、何度でもくりかえしてききそうになって、ああもう四度目ぐらいだ、やめとこう、と思いなおす次第です。
 きものの話ね。長襦袢がもうじき出来ます、昔、アキスにとられておしまいになってから、以来は季節ぬきのものを着てばかりいらしたから今年は、すこしまともなのをお着せいたします。さっぱりした落付いた、いいのよ。私がそんなもの選んだり縫わせたりするのは一つのうれしいことなのだからもうすこし待って着て下さい。四月五日迄に届けますから。
 本のこと、きょう、やめていいと仰云ったの一冊十五円だってね。あのリストの皆注文してこれも二冊云ってあったから、マアとびっくりして早速とりけしました。
 揃ったらおっしゃった五冊だけそのようにいたします。
 ホトトギスというものは、一声をききつけて戸をあけるともう姿は見えないというけれど、一度その空を飛んだことだけはたしかです。うちのウソは行こう行こうと鳴くばかり、ね。洒落にもなりません。
 笑っていらしたって。そうきくといくらか安心いたします。
 日当のこと、もうじきわかりますが、旅費としてそちらへ行く分なんかないのよ、そうらしい様子です。はっきりしましたらいずれ。
 お手紙はまだ着きません。ついたら、ああ御苦労さま、と云ってやりましょうねえ。本当に。この近いところを十日以上かかるためにはどんなに手紙もくたびれるでしょう、可哀そうに。
 けさは、私は妙に眼が充血して痛んで、すぐ仕事しようと勢こんでいたのに、多賀ちゃんを出してから、リンゴをすって、それをガーゼにつつんで昼まで両方の眼をひやしました。昨夜眼を洗いたいナと思ったのにホーサンがなくて、けさはもうそう。風がひどかったためでしょう。もう大体大丈夫。しかし今夜はホーサンで湿布してねます。今、一つ書き終って、河村さんや何かにハガキかいて。――そう云えば中村やの話、おききになりましたでしょう? ひどいわね。それに、ああいうところでものを買うのは女が多くて、女の盲信的なところが又いかにも郊外住居の中流人趣味があって、あすこの混雑には反撥するものがあります。※(「凩」の「木」に代えて「百」、第3水準1-14-57)月の何かを見つけてお送りいたしましょう。予約注文でおまんじゅうは十ヶですって。でも、私はニヤリとするのよ、ブッテルブロードは、あれはうちで美味につくることが出来て、ね、そうでしょう、胡瓜のきざんだののせたのなど、ね、あんなのはお世話にならないのだから、と。
 私の代りに多賀ちゃんは便利ですね。いろいろの点、島田のこともお話しになれるし、様子もおわかりになるし、寿江子がゆくより気もおけなくて本当にうれしいと思います。
 四月から来る筈だった子、駄目になりましたし、多賀ちゃんの学校の方はお話したようなわけですし、一週に二度ぐらい裁縫に行って、夜一寸英語行ったり、丁度よろしいでしょう。
 私は、今月はこまごましたものばかり多いのですが、大体十日迄にすまして、しまえる予定です。それはそれで、又あといろいろあって。なかなか四月に入って、ごたついたものぴったりやめるというわけに行かないのでこまります。今から先の分は断然おことわりです。
 新しい『文芸年鑑』一寸開いて見て、何となくハハアという感にうたれました。入っている写真もそれぞれの意味で、日本文学にとって歴史的なものをふくんで居ります。文学史というものの性質を、考えさせるものです。文学史とは、こういうものに描き出された面が果して文学史でしょうか。文学史の材料というものも考えます。文学史は其々の時代の作品に即して行かないと、どういう方へ漂流するものであるかということを真面目に沈思させるものです。
 作品をのままによんで、そこから現実をつかんで所謂文学史の内容を見きわめられるだけの文芸批評家が必要です。
 この間、『都』の「大波小波」に女の批評家出よ、という短文があってね、私は批評家にちがいないけれど小説が本分で「自分でも、謙遜だろうが『作家の感想』と云っている。」あとは板垣直子一人、その本質は、と『文芸』に出ていた批評家としての生い立ちという女史の文章にふれていて、女の批評家出よ、と云っているのです。これは、そう容易に、はい、出ました、と出ないものですね。いろいろ考えて面白かった。日本の社会、文化での女のありよう、文学での女のありよう、それらを考え合わせると、女は、女流というところでとかく一寸風よけしていてね、私だってあなたが評論をおかきになれば、おそらく「作家の感想」は※(二の字点、1-2-22)いよいよ感想に止っているでしょうし。マアこれは一寸耳をこちらへ出して、ソコイラノ評論ヲ評論ト云イ得ルトハ思ッテ居リマセンガ、私ニハホントノ評論ヤソノ骨格ガワカッテイルカラケンソンスルノデス。というわけでしょう。
 私には、どうも本当の評論をかくひとの頭の工合というか、ものの考えようというか、自分が持って生れていないものがあると思われます。
 そこまで歴史的に綜合的に生れていないように思います。勿論それでもやってはゆくのですけれど。
 いづみ子の消息かいた手紙、もう御覧になりましたでしょう? あの子には、あなたがうちの男の子にお会いになるより、会いにくいので、たよりばかりということになります。私ひとりで会ったり余りしようと思わない心持、おわかりになるでしょう? これは面白い微妙な気分ね。会わせたいという心持と、これとは決して同じでないところ。私は、はにかむのですもの。そうでしょう? そして、そこに彼女やその幼な馴染みにふさわしい美しさもあるようです。
 こんなにして手紙かくとき、手頸のやけどが、薄赤い柔皮で、こわれていたくて、きっちりと袖口を手くびにまきつけて書いて居ります。もしかしたら一日に行こうかしら。駄目かしら。今夜と明日一杯と、よく仕事して見て、その御ホービが出るか出ないか、というわけです。『文芸春秋』が十円の貯蓄公債よこしました。もし千円あたったら、何をあげましょうか。達ちゃんのお嫁貰うとき千円当れ、五百円でもいい、百円でもいいネと大いに慾をはって笑いました。

 三月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月三十一日  第二十五信
 きょうは日曜、たのしい日、という子供の唱歌があるのを覚えていらっしゃる?
 けさ、やっとつきました。二十三日にお出しになった分。どうもありがとう。いろいろたのしく拝見いたしました。
 大名の奥方のこと、そうでしたか? 私は蘇峰はよんで居りません。そうよ、朝井、今川などの戦国時代なのはわかって居りましたが。それから、この題材に関して云われていること、大変興味ふかく同感いたします。菊池寛の例も大変面白し、貴司などの行った機械的現代化への注意も面白く有益です。これは特別面白く思います、雄山閣で元から『古典研究』というのを出していましょう? あすこで歴史文学の特輯を出すのですって。それへ二十枚ほど歴史文学について来月かきます。それを書くのは、初めことわろうとしたのですが、自分がやがて書くのに勉強になると思って、かくことにしました。菊池寛のテーマ小説のことは大変面白い。その意味で。私は鴎外の歴史小説を念頭に浮べて居り、漱石の歴史を題材にしたものの態度を思い浮べて居り、そして今日の文学の歴史観の問題を浮べて居り(歴史観の欠如から来る事大主義)ました。短く古典の歴史文学(「平家物語」、「太平記」等)にもふれてみるつもりでしたが。この機械的現代化に陥らず、というところ実に深い価値があり、うれしゅうございます。歴史小説のことが嘗ていろいろ云われたとき、このことはこのような正確さで云われたのでしょうか、そうでなかったように思われますが。この一句のために、たくさんの御礼がされなければなりません。
 アイヌのこと、元はちゃんとかけなかったと今わかるところが、お手紙に云われている点です。そういう本質についての理解は全くなかったから、ヒューマニスティックなエキゾチシズムに終ったでしょう。アメリカのホーソーン(古典だけれど)に、「モヒカン族の最後――ラスト・オブ・ザ・モヒカンズ」というのがあり、インディアンをかいたものです。それと、ファジェエフの「ウゲテからの最後のもの」などくらべたら、これも又面白く一つ小さい感想がかけますね。
 作品で、一つの新しい面へ赴くとき、そういう風に、一応、文学の課題として本質的な研究と古典の見なおしなどをして、そして作品をつくってゆくこと――自分の理解一杯のところ迄理論的にはっきりさせておいて、作品をかいてゆくという一人二役性も、今のように文学の課題が出されない環境のなかではためにもなるし、作家として一つの真実な態度かもしれませんね。
『文芸』の仕事のようなことをやっても、随分私の作家としての面に有効でしたから。こういうタイプ(作家の、女の)、何だか面白いことね。いかにも文化貧困のやりくり性があらわれていることでもあるし、その半面では、婦人作家の通ヘイである自然発生性からの成長でもあり。
 充分描ければ、作品としての面白さは、大名夫人に遙にまさります。但その十分描くというところが、ね、主観的でない困難があり、その程度が、わかるような分らないような。
 一頁勉強のこと、我慢しているうちには、とかいてあって、全く破顔一笑よ。今私が何かにふれて、一昨年あたりフーフー云ってよんだものの助けを得ているように、きっとこれも二年ぐらい経ったら効力があらわれるのでしょう。実力なんてそんなものね。
 実力と云えば、四月の『図書』に、西田哲学の紹介をかいていた人があったでしょう? およみになりましたろう? 私はこの西田という人のベルグソンと東洋とをこね合わせた考えかたがふわけしてみたくて、誰かすっきりとやる人はないかと思っているが、哲学畑は一寸皆呪文にしばられている形で、面白いと思います。つまり日本哲学と称するものの、出来具合がほぐされたところが見たい。私の内在的なものはいろいろ嗅ぎつけて居るのですけれど。ああいう頭を小説の中の人間として扱いきれたらそれも面白いでしょうね。漱石が、先生という人物その他を扱い、あれは作者との関係では単純で、肯定のタイプですが、そう単純でなくね。現実反射の形としてね。阿部知二も知性というなら、せめてその位のり出せばよいのに。哲学の領域で不可能なら、小説の領域で、と云い切れたら愉快でしょうね。あの哲学の「無」なんて、随分国産のモチ(竿につける)よ。横へおしてゆくと出るところは、谷崎、永井あたりです。この頃の武者にも通じたところがある。
 明月にひらかれた詩集のはなし。ね、この文章に対して私は何ということが出来るでしょう。その詩が、一度よりは二度と味いを増しつつ朗々と吟誦されたとき感歎に声もなしという風だった、そのような状態が私にさながらそのままにかえって来るようです。ヒローたちの自然さ、逞しさと、云いようない優雅さの流れあった姿。そして、真に天真なものの厳粛さも何とあらゆる曲折のうちに充実していることでしょう。
 私は、詩集をくりひろげるごとに、ヒローの優雅な気品への傾倒を深めます。この傾倒の深さ。致命的ね。この感覚の中に生と死とが貫かれています。年毎に、こういう味いが深まってゆくというのは、何としたことでしょう。それほどあの詩は大きい実質なのですね。ね、私はあの詩が好きよ、本当にすき。あなたの手をとってそう云ったら、私は眼へ涙がいっぱいになるでしょう。そのときあなたは何とお答えになるでしょう、絣の着物の袖から手を出しながら、「ああいいよいいよ」、そうおっしゃるでしょうね。その窓の彼方には緑色に塗られた羽目があるでしょうか。
 今は夜で、あたりはごく静か。スタンドが灯り、薄紅の蝶のような蘭の花が飾られている机の上で、山羊のやきものの文鎮に開いた手紙をもたせかけ、僕は明日にはじめて芳しい詩集をひらいて、という句を、じっとよんでいる、この句の調子が、何という音楽を想いおこさせることでしょう。私は泣かないでいることが出来ません、でもそれは私がわるいのではないのよ、余り詩が美しいのがわるいのよ、美しさに感動しそれを忘れることの出来ない人間の心が、わるいのならわるいのよ。
 さて、人造バタは、のりのようということについて。全く困ったことです。どこでも手に入れにくくなりました。四月一日からタクシーが上りになりましょうし、バスもやがて今までの三区を二区にするでしょう。汽車賃は四捨五入でなくて、二捨三入で、銅貨なしのかんじょうになりました。玉子は十ヶ八十銭のわり。そちらのパンはいかがですか。この頃東京パンの食パンもとかく品切れです。いろいろの菓子類全く減りました。小豆が一升七十銭の由、どうしてアンコがつくれるのかと思います。だからきのうも笑って、果物だけはマーガリンも屑豆も入っていまいしサッカリンもないから、これからおやつは果物にしようと云ったようなわけです。これは本当のところよ、おそばだって妙に重くて粉が変になっている、あなたに鍋やきを云いつけに行った藪重、あすこも。
 あなたもバタがあがれなくなったらよく果物を召上る方がいいでしょうね。油類もいいのがなくなりました。うちでは衛生上、豚の生脂肪をとかしたのをつかいます。脱脂綿、重曹なんかもありません。眼をひやしたガーゼのきれはし、大事大事よ。きょう、手拭の端がすこしきれたの、これ木綿よ、何に使う? と大笑いでした。
 ああ、電報。夕刻つきました。あした御返事いたします。
 きょうは午後、髪を洗いました。久しぶりでさらさらと軽く柔く快い髪。私の指の間に梳かれた髪、ポマードをつけられたときには、きっと爽やかに洗われた髪。その髪。
 私は今しきりに考えて居ります、明日どうしようかと。自分で行けるかしら、行きたいけれど、と。

 四月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月六日  第二十五信
 きょうはうすら寒いけれども空気が快い日でした。さっき寿江子を送りがてら買物に目白の通へ出たら桜が開いている空の上に、綺麗な星のきらめいているのが大変美しゅうございました。今桜は殆ど咲きものこらず、散りもそめず、というところです。この辺は桜があちこちにあって、毎朝上り屋敷のところへ立って、いろいろな桜の色をみます、特に風情のあるものもあったりして。
 国府津で青銅の花瓶にさしてソファーのよこの長テーブルに飾ってあった山桜の花、覚えていらっしゃるでしょうか。枝のつやが何とも云えず新鮮で、本当に桜の枝という心持がしたのを思い出します。上落合の家の二階から、ぼってりした八重桜がうるさく見えたのも、きっと手紙に書いたでしょうね。今年は何だか桜もこまかに目に映ります。面白いものね。去年の今頃は、花もあまり目につかなかったのかしら。
 さて三十日以来の手紙となりました。三十日のお手紙二日に頂きました。これは大変順調の早さに近づきました。
 多賀ちゃんもいろいろに考えているようです。そして今は女学校教師になれる検定をとりたい希望ですが、何しろ高等女学校を出ていないので、その前に一年ぐらい実科高等女学校か夜間で高等女学校の資格をもっているところに通って、そこを出てから検定をうけるなら受けなければならないというわけです。四年の最後の学年一年やるわけですが、それへの編入試験をうけるには、英語や国語やその他の勉強がいるので、先ずさしあたり国語を、友達で専門学校の国文科出の女のひとについてやることになり、次の月曜から通いはじめます。
 多賀ちゃんもいろいろ迷うでしょう。二十六七にでもなると、資格があってのことなら一向かまわないが、何もなしでそれは困るという工合。田舎では出来のいい子として通っていたし、自分でもそう思っているし、自分の力を一杯にやってみるのもよいでしょう。
 女の子というもの、そして何かはっきりしたものをつかんでいない子、しかも何か心にもっている子、というものは日本ではなかなか困難しますね。そのことについては同情いたします。
『現代』の高見順の文章よみませんでした。でも、丹羽文雄にしたって誰だって、全く云われている通りよ。その点で本当に新しい人は殆どないでしょう。そこに彼等の現代性が寧ろあるのではないでしょうか。云うところの現代性というものは、そのとなりに何を持っているか、隣りとの間にどんな思想の廊下をもっているかと考えれば、合点がゆくし――。文芸のつづきの仕事のなかで、丁度そのこと考えていたところでした。
 ×や△というような作家たち(婦人の)は、進歩しようとする意欲に立った文学の動きに、はっきり自分を対立させて出た人たちです。男心の慣習に描き出された女心をポーズとした人たちです。それなら何故横光や小林のようにその文芸理論をふりかざしてたたかわないかということ、ね。これは大変面白いところです。ジョルジ・サンドやマダム・ド・スタエルのないのはなぜか。日本の明治以来を見たって、一葉にしろ晶子にしろ、自然発生に彼女たちの芸術境をつくったのであって、既往の文学理論に対して新たなものを樹てたのは、一葉の時代は文学界のロマンチストたちであり、晶子のは鉄幹です。女が男と共に文学上の責任をとっていなかったのが歴史です。だから近代に到ると、そのおくれたところを逆に自由職業的につかって、女の作家というところで、文学運動などとはかけかまいなしに、いきなり文学の購買面と結びついてゆく。そのことを、進歩をめざす文学では共通な人生への態度とともに、共通な文学理論をもって女もその文学の成長のためには責任を自覚して動こうとしたことと対比させて書いたところでした。
 いつかあなたが下すった手紙の中に、ユリだって一人の婦人作家として片隅に存在して来て云々とありましたの、覚えていらっしゃるかしら。私は実はあのときは(二年前ぐらい)大変くやしいと思ったの。あなたは私を一つピッシャリやったような、ということ知って書いていらっしゃるのかしらと思いました。けれども、今自身で歴史的に見わたせて来ると、そのことが私の主観にどのようにくやしかろうと、客観的にはそのとおりであったと思われます。(しかし、又その片隅の存在と云われていることの内容として、たとえ片隅の存在であろうとも、とおのずから微笑するところもあるわけですが)
 この婦人作家の、片隅に一かたまり式存在には、いろいろ深い歴史性がありますね。非常にそう思う。一かたまりに片隅に片づけようとする何とはなし男の作家の作家以前、芸術以前のものがつよく作用していてね。それを、又女のくせに、あっち側へまわってしまって渡世のよすがとするものがあったりして。
 私いつか勉強というものの底力が大切といっていたでしょう。あのことは具体的にはこういうところにもかかわって来るわけです。本当に女の作家は自然発生的よ。ですからこの現実の中での限度に限られた現象描写に終って、それならばどこで特長づけるかといえば、「女らしさ」で色づけでもするしかないわけですものね。バックのこと、全くそうです。明瞭にそのことはわかります。前にもこのお手紙と同じ感想をかかれていましたが。あのときより今の方がきっと一層よくわかって来て居りましょう。そして、女の真の女らしさで、女をみていますし。女らしさを、男対女、情痴的な面での姿でだけ見るのも私にはバカバカしい。しなをしなければ色気がないという旧式な観念は、まだまだつきまとって居りますからね。私小説でない性格は、たとえ、自分のことを書いたとしても賦与されていなければならないと思います。少くとも私たちの「」は。そうでしょう?
 四月二日の速達は、二日のうちにつきました。あの日は午後からいやな会があって、夜仕事のためにおそくまでそとにいて、くたびれきっておそくかえって来たら、頼んでおいた電話のこと多賀ちゃんが一つもしていないのでいいかげん斜めになったところへあれをよんですっかり情けなくなって、それで猫をしかったでしょう、ということになったわけです。多賀ちゃんを私が叱ったのではないのよ。私があまり困って情ない顔をしたので、多賀ちゃんも責任を感じて、文楽堂へはっきりとした声でデンワかけたというわけなのです。でも、もう文楽堂はおやめです、いそぐ本は。自分たちで結局何度も行くことになったのですもの、はじめからその方がよっぽどいいわ。ですからどうぞ今後は御安心下さい。
 天然痘ひどいこと。種痘しておいて本当によかったと思って居ります。お母さんからのお手紙で六月六日にはそちらのこともあり、もし二三日しかいられないようなら却って寂しいから、せめて十日もいられるようにして来られるとき来てくれればよいとのことでした。今のところはまだはっきり申せないわけですね、何も。それから、達ちゃんの健康のことよく申上げましたら、あなたからもお話がありましたって? よくそのようにするとのことでしたからようございます。大分出発のときもおっしゃっていられましたが、それはハイと云わずには居られませんもの。でもはっきりお胸に入ってようございました。野原の方のことは、私は何もふれません。
 ああ、お菓子は紅谷で(神楽坂)ワッフルをお送りしました。あれはもちもよいから珍しいでしょう。隆ちゃんに送るものも近日中にすっかりいたしますから。今木綿のキレがないので、カンヅメ類を送る包装がうちで出来にくいのです、袋を縫っていられないから。だから三越ですっかり包装させて送ります。
 どうかいろいろのこと、お体に無理にならないように。やっぱり寝汗おかきになりますか。本当にお大切に。くれぐれもお大切に。
 私の方、全く徹夜ナシでやりました。本月ずいぶん忙しいが、これも徹夜ナシでやりとおす決心です。徹夜なしで規則正しくやるとなかなか能率的です。三月は小説を二ツ(六十枚、二十七枚)入れて一六四枚かいています。読書は十三日から三二頁。先月はすこし無理でした。疲れたままこの月の仕事をしている感じで。では又月曜日に。これから久しぶりにおふろです、水も節約。それより時間がなかったので。

 四月十一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月十一日夜  第二十六信
 きのうの夕方も今夜も何と不思議な静かさのみちた晩でしょう。この間うち余り風が吹いて家じゅう揺れて、街では吹きまくられていたから、風がなくなった、こんなにしずかなのかしらと、あたりを見まわすようです。部屋の中も明るくて、底までしずかで。本当に何だかじっとしていられないしずかさ。
 二階へ来て物干に出て見たら、西空の方にばかりどっさり星が出ていて、朧月もあって、その下に仄白く満開の桜の梢が見えます。家々の灯が四角や丸やの形で屋根の黒い波の下に見下せて、街燈がない界隈はしずかなそして不安な春の夜です。
 この頃どうしてかちょいちょい街燈がつきません、大通りはついているのですが、家のまわり。
 下弦の宵月、花の上の朧月。昼間は咲き切って、もう散りはじめた花が白くあっちこっちに見えて冷淡のように見ているけれども、こんな晩は春らしくて面白いこと。犬の吠える声が遠くにきこえたりして。こんなしずかで、しずかさに誘われて心が動くようなのこそ春宵の風情でしょう。モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)で五月、にわかに樹々が新緑につつまれて夜気の中で巻葉のほぐれるそよぎがきこえるような夜を思い出します。空気は濃くてね。公園のアーク燈に照らされた散歩道には、人の流れが絶えなくて。いくらアーク燈があかるくても照しきれない新鮮な闇がゆたかに溢れている、そんな夜の光景。ゆうべはこのしずかさが驚きで、ほら、思わずぐっすり眠って急にさめたとき、物音が耳の中で遠くにきこえるようなことがあるでしょう? あんな風でした。そして寂しゅうございました。
 今夜は割合馴れて、しずけさの中に身をおいて、何か書くのも楽しいという工合です。
 例年、私は花時分が閉口です。今年はややましな方かしら。神経が実に疲労いたしますね、今頃は。
 きのう、あなたが、いかにも悠々して気分も悪くなさそうに笑っていらっしゃるのを見たら何だか頭が楽になって。きっと、それがきいたのね。この頃うち、頭が苦しくてね、袂の下へつっこみたくて仕方がなかった。
 きょうはましですから、もう大丈夫でしょう。この数日間は、おそろしい能率低下ぶりでした。(手帖見たら、でも二三日です)そんなような顔して居りましたろう? 尤も私はいつも丸きおユリで不景気ぶりを表明しないのかもしれないけれど。
 マア多賀ちゃんの療治のこともきまって、あとは、ずっとそのお医者の忠告にしたがってやって行けばよいから一安心です。費用は今はとりません。あとで相当のことをしなければならないのですが。
 そのお医者はね、親切な人なの。津軽弁でね。ところが全く滑稽なことには、石坂洋次郎と大変よく似ている人なのです。石坂とはこの間座談会で一緒になって、その津軽べんもきいたし、顔も見たし撫で肩で小さい姿も見たし、満喫なので、白い上っぱりを着た人が、まるで似ていたら何だかこたえてしまって。可笑しいでしょう? でも作家は少くとも津軽産は一種の共通性をもっています。石坂、平田小六、深田久彌、太宰治、顔がつるんとしたようで撫で肩かどうかしらないけれども、現実に主観のこってりとしたくまをつけて、一種の執拗さ、エロティシスム、ニヒリスム、あくどさ皆ある。深田が一番都会化して、それらを知的なものにしようとして中途半端ですが。そして狡さもある、芸術家として。薄情かと云えばそうだとは云えず。やっかいなものです。平田は、北京で頭一つ叩かれては五円借りて歩いている由。この平田がナウカのあった頃かいた「囚われた大地」という小説を、房雄はトルストイの作品に匹敵するとほめました。木星社に居た人。ですから私は評論集のときから知っていたから、「あなたもわるい時世に生れて、あんな小説をトルストイの云々ともち上げられる大不幸にめぐり合うのだから、しっかりしなさい」と云ったことがありました。
 お医者様は、作家ではないし、又、種類もちがう人ですから(人となりが)私は撫で肩男一般への自分の好みを超越いたします。
 ホグベンの『百万人の数学』は大変いい本だそうです。そしたらきょう同じ著者が『飢餓と疾病の撲滅』というような題の本をかいているのを見て(ホンヤク、出版)非常に感動しました。阿知の知性を又いうが、知性とか人間性とかは、こういう真向きの暖いものもある筈です。ねえ、数学というものを万人のためのものにしようという科学上の本の親切な成功は、決して彼が巧なブック・メイカアであるからではありません。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァン・ルーンという人が「世界人類物語」をかいて、これはもう二十年も前のものですが、「聖書物語」をかいて、とにかくイエスという人の生きた時代のローマとイェルサレムとガリラヤの関係を現実に理解させましたが、どうもホグベン先生の方が、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァン・ルーンよりも一層正面向きらしい。どんな本でしょう。『百万人の数学』もどっちもよみたいと思います。近頃よみたい本の二つ。
 このぴったり人生の正面へ、という態度、くりかえし考えて又々トルストイは偉いと思うし。人間のエネルギーというものは何とおそろしいものでしょうね。充実したエネルギーをもちつづけ得る人間だけが、人生の正面へ、ぴったり向ってゆき抜けるのですね。武者なんか、人生の正面側に向ってはいるが、この頃は大分お安居あんごで、のんきに眺めて「フムなかなかよい」という工合。動かしていない、動かされていない、そういう猛烈なところがないのです。
 私はバルザックがきらいでしたが、今にわかりそうです、どうもそういう気がする。私はきょう一寸お話ししたこと、「姉さんには頭が上らない」云々のこと、全く個人的な意味でなしに、私の胸をキューとしめつけて痛ましめる、そのようなものとして、しかもバルザック的に抉り出して見たいとしきりに思います。そこにひそめられている女の苦しい涙はどの位でしょう。平気そうに通用されているデカダンスの溝のきたなさ、深さはいかばかりでしょう。石坂の「若い人」およみになりましたか? 石坂という人は、そういう溝へ腕をつっこんでかきまわして、そのヌルヌル工合をああ云い、こう云い、云いまわして、そこに満足してしかもその芯は常識よ、きわめて常識よ。ですから、田舎から出て東京に住むようになると、かくものは、地方文化的自得の表情を失って、まるで木片をついだようなものになって来ている。ここいらも面白い。
 地方文化ということは、いろいろの問題をもって「若い人」のなかに及び「麦死なず」の中にあります。鶴さんは石坂論では、モチにかかって居ります、自分の心の、感情のビラビラのもちに。石坂の面白がるようなところへ、おもしろがらされているんだもの、少くともあのときは。
 日本のこれまでの大きい作家は、どうしても、みんな人生の正面へ向いてはいるのだが、主観的な自分の態度のなかへ入ってしまう。そこが残念ですね。そんな小さい主観に煩わされず、持味なんかふっとばして、生の人生へズカズカ入って行って、而もそこに独自な美しさもあらわせたらどんなに素晴らしいことでしょう。武麟の現実にまびれるのとはちがって、ね。
 昨夜音楽をきいてチャイコフスキーの「悲愴パセテーク交響楽」をきいて、ああこのように人の心に絡みつく音を、と思いました、寿江子にそう云ったら「チャイコフスキーは二流」と云った。だから私はね、「二流でも五流でもいい、自分が、これだけ出せたら」と云いました。そしたら、やっぱりその点では唸っていました。それで面白く思ったのですが、音楽なんか余り世界的レベルからおくれているもんだから、日本の音楽をかく人間としての自分を世界の何事をかなした人々の間におく可能の点で考えられないのかしら、文学とはそれほどちがうのかしらと思いました。しかし、これは、そうばかりも思えず、寿江子の表現してゆく欲望の消極によるのでしょうとも思います。こんな些細なような言葉でも内奥は深くて、いろいろ面白うございます。ねえ、わが芸術はつたなけれども、というよろこび、わが吹く笛はとその響きゆく果を感じられるよろこびというものは、これは全く単なる才能の問題ではないのですものね。
 私はそのことを思って、思い極ったときは体が顫えるようです。私が作家としてもっている生活の条件、を思って。ああこれだけのファウンデーションと思うの、その上にもしわれらの楼閣をきずくことが出来ないとしたら、それは、果して複数で云える責任でしょうか。そう考えて、ね。私はせめて複数で云えるところ迄はこぎつけようと思う次第です。その漕ぎ方が、どうも原始的な二丁櫓ぐらいのところで、しゃくねえ。まだ十八世紀の帆船迄発達していないようでいやねえ。バルザックは、ネルソンがトラファルガーで戦ったときの位の帆船よ、いろんな色の帆をはっているが。桜の花なんかと云い出して、ここへ納るところ、めでたし、めでたし。どうぞ私のおでこにおまじないを。

 四月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(柳瀬正夢個展より(一)[#「(一)」は縦中横]「蒙古人」、(二)[#「(二)」は縦中横]「水屋」、(三)[#「(三)」は縦中横]「料理人」、(四)[#「(四)」は縦中横]「合歓の花」の絵はがき)〕

 (一)[#「(一)」は縦中横]銀座の亀屋の二階にこれ迄商品がつまっていたのが空っぽになりました。あとを画廊にしました。
 窓が小さくて光線が不十分です。そこで、正夢さんの箇展がありました。久しぶりであのひとの絵を見ました。のんきな画で恐縮と云っていました。ペシコフ爺さんに似ている蒙古人でしょう? 水彩で一番気に入っているのだそうです。
 (二)[#「(二)」は縦中横]これは小さい水彩です。緑の樹の幹が前へもっと浮き出してうしろの水屋の気勢をつたえたらどんなにいいでしょう。この種のうらみ多し。生活の音響は面白いのにね。私はもしかしたらこの絵をとるかもしれません。まだ未定ですが。描写のアクセントというものは興味ありますね、北京でひどく貧乏して細君にわずらわれたそうです。
 (三)[#「(三)」は縦中横]なかなかつかまれていると思います。でも、こういうデッサンを、勉強する室へかけてはおけませんね。そこに何かリアリズムの問題があると思います。或は人物のテーマのつかまえかたが柔かすぎるのでしょうか、つきぬけないリアリスムを感じましょう? この表情がプラスのものか、そうでないものか、画家は十分自分でわからないまま描いている、ちがうでしょうか。
 (四)[#「(四)」は縦中横]油で一番気に入っているのはこれだそうです。うしろの赤い城壁の色が目にのこって居ります。なかなか重厚です、が、というところあり、私の好みとして。画面に空気があるということは、絵でもなかなかなのですね。しみじみそう思った。空間のリズム、音響、そういうものが絵からつたわるのは大変なのね。小説と同じね。とかく後のものが前のものにくっついたりして。

 四月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月十八日  第二十七信
 今、夜の八時半。あなたはもうぐっすりおよっていらっしゃるでしょうか。それとも疲れすぎて眠れず眼が冴えていらっしゃるかしら。
 私の夜の机の上には、買ってかえって来た白いライラックの房々とした花が柔かい青葉とともに、爽やかに奇麗です。きょうは帰りに、ああ花を買おう、と思いました。そういう気分でした。あなたにあげたい房々した花を自分の机の上にさせば、花はかすかに芳しい匂いを漂わせます。かえりに新しいいい花買う心持、これは一口に云えない私の感情の溢れた形ですね。そして、私はつくづく夕飯をたべながらも、かえりの道々も思いました、こんな心持についてはあなたにお礼を云わなけりゃいけない、と。コンプリメントのこんな表現のあるのも面白いとお思いになるでしょう? 動作であらわされるいろんな心持――特に今のようなこんな心持、それを字にするのは何とむずかしいでしょう。「御苦労さま」という一句だって動作にしてみれば何とどっさりに表現されるでしょう? ねえ。熱いタオルをしぼってあげるでしょう? 櫛を出してあげるでしょう? 横にならしてあげると思います。そして、おきらいな青茶ではない番茶をあげるでしょうし。それから、それから。ひと言もいらないわ。
 何となく私にはまだ眠っていらっしゃらない気がする。視線のゆくところにあの海棠かいどうの鉢がほんのり赤い花びらをもって置かれてあるように思います。
 人間の成長、成熟の美しさということを考えました。はげちょろけの格子の襦袢をパッパッとけだして、相も変らず前のよく合わないような様子で、何と面白いでしょう。そして、しかもそこにある美しさ。やつれながら充実した精神と天真な美しさ。ああ花を買おう、という気持は、そこから発して、一つのつよいメロディーに貫かれているのです。おわかりになるでしょう? 手紙をかかないではいられないところもあるだろうではありませんか。
 こんな手紙は本当にむずかしいこと。心そのままの動きで、咲き立ての花を一枝折って、笑いながらはい、と出して、それで通じるわけあいのものです。
 大変何か話したい心持ですね、話さず或はあなたを横にならしてあげたい心持ですね。
 数時間つづけて後姿や横顔や声やを眺め、ききつづけるということだけでさえ、何かちがった夜をもたらすのだと思います。こうしていると瞬きするのが自分にわかるのに、あの時間の間、いつ瞬きしたのかしらといくら考えても分らないから可笑しいわね。
 私はおでこをぐりぐりぐりと押しつけて心からする挨拶をいたします。

 四月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月十九日  第二十八信
 心持よさそうに疲れていらっしゃったこと。安心いたしました。それにきょうは雨はあがりましたが、割合よい日でしたし。
 私は灯のついたローソクのような心持でかえって暫くぼーとしていて、それからすこし寝ようとしたのですが、たか子が出かける時間だのお客だのに区切られて眠れず。ぼーとしたつづきのようないい心持です。でもこれでは仕事は出来ず。気持はひとつところへ還ってばかりいて。可笑しいでしょう? あんぽんね。でもきっとこういう工合に神経がゆるめられて、今夜はおそらくさぞぐっすり眠ることでしょう。
 ゆうべは、すこし眠ったら明るくてたまらない気がして目をさまして、勿論真暗なの、どうしても眼の中が明るく不安なので却って例の水色スタンドをつけたら、落付きました。こんなのごくたまです。然し頭がひどく疲れていると、真暗より仄明るい方が安らかというのは可笑しいものですね、神経にのこされている緊張と光線のバランスとが在る方がいいと見えます。
 今私は煩悶中です、というのはね、この部屋、スケッチで御覧のとおりで、入ると、サア仕事するか、それとも寝るか、どっちか、と膝づめに会っているような室内の配置のゆとりなさです。Bed をたたんでしまって、あのゆったりとした坐る机を出して東の窓の下においてきれいな座布団をおいて気分をかえようか、それともベッドを畳んだら一寸休むとき不便かとかいろいろ思案中です。坐って仕事するということは出来にくいし。私こんなに仕事してアンマをとるということがないのは、坐っていないから背中が楽なため、血液循環が楽なため、と信じて居ります。
『現代』の高見の「婦人作家論」よみました。そしていろいろと通俗性を面白く思いました。面白いことね、「如何なる星の下に」というような長い小説をかいているときは、一つの独自の世界の住人のようであるが、ああいうものになると、ヌーとお楽になって毛脛出して面白いこと。ものの判断の標準の平凡さ。あすこが本音で面白いこと。大変面白かった、というのは、撫で切れるものを撫でているという意味です。彼の「ああいやなことだ」の掌にはあまるものもこの世には在りますから。
 女らしさを活かし切るだけの男らしさが、男にないということを思いつかない男があるのは、結構人ですね。男というのが彼のスケールで止っている限り、彼等にとって私が女らしくないというのは何たる自然さでしょう! 何たる女の溢るる女らしさでしょう。
 いずれにせよ、私にはかかわりないことです。そういう標準は。私は益※(二の字点、1-2-22)自然であるだけなのですもの。そして、ごちゃごちゃした男女のいきさつをだけ書く趣味のないのも私の自然で仕方がないわ。(自分のその面での芸術的価値のことは又別です)
 さて又困ったことが出来ました。ハガキが来て、古田中さんという母の従妹に当るひとの病状がよくなくて早く会いたいと云って来ました。このひとは糖尿だったのを永年放っておいてもう五十何歳かで悪化していて、私はこの間うち迚も行けなかったから、この間西川から坐布団を見舞いに送らしたら、それが気に入って愈※(二の字点、1-2-22)会いたくなったのですって。困ったこと、ではあしたでも一仕事すまして出かけなければなりますまい。このひとは、ああ覚えていらっしゃるでしょう? 私たちにあの奇麗な白藤の花をくれた夫人です。私たちごひいきのひとです。もうずっと会いたがっているのについ行けず。
 女のひとは男よりこういう病気をこじらします。男は大切な仕事があり、そのために忍耐して加養します、女はうちにいて、自分の体に自分が使われて病もわるくするし、はたにも苦痛を与えることになってしまいます。その点は林町の母もそうでした。ちっとも長生しなかった。
 何だろうユリは。何故仕事しないでこんなこと喋っているのだろう、とお思いになるでしょうか。でもきょうはそれは仕方がないとおわかりでしょう?
 この手紙御覧になる頃は、きっとムと口をしめて机についているでしょうから御安心下さい。ああ、円い大きい着物の小包がつきました。うちは本の置どころがないようです。でもね、これだけはあなたに一杯くわされたといつも呵々大笑するのですけれど、あのビール箱にいくつもの本ね。今不自由しているのよ、あれがパイになってしまったから。鴎外全集なんか、こんどかくものにも入用なのにないでしょう? 近代劇全集がないでしょう? いろんな泰西名著文庫がすっかりなくて、改版がないでしょう。あれが今売らずにあったらほんとに役に立ったのに。あんまりあなたがあっさり仰云るもんで、ふーとその気になったのが間違いのもとでしたね。(但、ここのところ、いく分誇張ある文句ナリ)
 あれから家憲が出来たのよ、申しませんでしたね。どんなボロ本も本は売るべからず、というのです。これは宮本家の家憲ですからどうぞ。この頃は古い本のが一般にずっと高くなりました。例えば一円八十銭ぐらいの本でさがして買うと一円二十銭ぐらいのところです、ものによっては三倍以上です。紙がないばかりでなくものによって上るのですから。人間にあてはめると、それに準じて価上りなわけですね。表現は妙な形体をとるが。逆のような。
 重治さん、つとめやめた話[自注1]をおききですか、円満辞職の由、ほっとしたでしょう。きっとモンペはいて、ヤヤと頭ふって、庖丁といだり干物をとりこんだり、ガリガリ頭かいてふけを落して眉間に突如竪皺をつくったりしていることでしょう。詩人出のひとって妙ね、鶴さんきょうこの頃はズボンの先のうんとつまった洋服姿で長火鉢の前に居ます。私評して曰く「毛のぬけた軍鶏しゃもに近い。」本当です。

[自注1]重治さん、つとめやめた話――中野重治は、市の知識人失業救済の仕事に勤務していた。

 四月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(木村荘八筆「庭樹」の絵はがき)〕

 四月二十七日、只今丹前を送り出します。あれをかってかえりに、偶然こんな展覧会を見ました。色がないからつまらないけれども。荘八は荷風の「※(「さんずい+墨」、第3水準1-87-25)東綺譚」あたりからこういう線をもって来て居ります。例によって芝居絵もありました、これと雪の庭が一寸面白うございました。

 四月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月三十日  第二十九信
 ふっと灯のない部屋に入って来て、ガラス越しによその家からの明りが木の葉のかげをうつしながら、おぼろ気に部屋にさしこんでいるくらがり、大変に面白い気持です。暫くそのままにいます。このなかで書けるといいのに。こんな部屋の暗さ明るさのかげの交った光景は、夏の暗い部屋を思いおこさせます。その暗い涼しい夜の部屋へどこからともなくさしこんで来ていた光りを思いおこさせます。足さぐりに来て、ぶつかる体をそこに感じるようなそんな心持を思いおこさせます、静かな明暗のうちにある深い快い眠りを思いおこします。これからの夜には、こんな明るさ暗さがこの二階の部屋にも訪れます、何と面白いでしょう。何と様々の情景をふくむ明暗でしょう。
 きょうは、朝からあの刻限まで獅子奮迅の勢で古典研究の歴史文学について二十九枚かき終り(半分はきのう)深い興味と感想をもってかき終り、そーらすんだと下りて速達にして、御飯たべてそこへ『都』のひとの来たのを、御飯たべたべ喋って(仕事のうち合わせ)出かけました。
 三日まで行かないつもりでしたけれども、どうしてもそれではもたないのですもの、仕方がないわ。御褒美をいただくというわけでダーとかけつけたわけです。
 それからのんきに根津山の新緑の美しさ、その新緑のなかに黒い幹々の新鮮な色を絵にかきたいと思いながらかえったら玄関にかけて待っている人。子供のための雑誌をやる人です。チャペックの訳をしたりしている人です、チャペックのあのつよい面よりはそうでない面からチャペックの芸術にふれ近づいて行ったという人柄の人です。私の知っている娘さんと結婚したばかり。その人といろいろ編輯上の話をしていたら『古典研究』の若い人が来て、秋の特輯の下相談です。玄関で中腰で話す。私に芭蕉の抒情性をかけとのこと。日本文学の抒情性特輯の由です。私が先頃『新女苑』に芭蕉のことかきました。それがよかったからとわざわざすすめた人がある由。しかし三十枚もそういうものをかいていたら又々私の小説は消えてしまいますから、大体においてことわります。日本文学の抒情性というものは、それは正確に扱われなければならないものではありますけれど私一人ではやりきれないわ。そうでしょう?
 そんなこんなが一応片づいて午後四時すぎ。寿江子が来て、悄気しょげて私の膝を枕にしてころがったから頭をなでていてやったら、寿江子のつかれも癒ったようですし、私の気持も又のんきになりました。寿江子は和音ワオンの教師が(作曲上のテクニック)みみっちい気持で教えおしみをすると云ってしょげているの。やがて気をとり直して、「マアいいや」というわけ。「自分はこれまでいろいろましな人にばかりふれるときが多かったが、そうやって世間普通の根性の人ともつき合ってみるのもわるくないや」というわけです。ピアノをききにゆくというので、ひとりだけ早く玉子をゆでておかかかいて出かけてゆきました。
 私はそれから今日限りの所得税申告を書き込まねばならず、急いで夕飯すまして、それをやって速達にしてかえって、やっとのうのうとしてこんやはこの手紙だけにいたします。
 随分永らくかきませんでしたね、十九日に書いたぎり何てひどかったのでしょう、でも私は今日は今日はと思っていたのよ、カタンカタンとガラスをあげたりおろしたりして、度々受箱を見ていたのよ、でも来やしない。
 二十日からきょうまでに「行人について」(『新潮』)8枚、『婦人画報』のかく月の巻頭二十枚、学生の新聞のために石川の「結婚の生態」評七枚。それからこの「歴史文学について」二十九枚、十日に六十九枚はわるくないでしょう。どれも皆勉強のいるものでしたから大変でした。
 歴史文学は本当に面白かった、鴎外、芥川、菊池の主な歴史を素材とした作品をよみました。露伴もよんだがかきませんでした。露伴は、歴史が常に権力に屈したものであるということを力説している、そして頼朝、為朝、蒲生氏郷など、なかなか面白うございますが、つまりは露伴流の人物論ですね。そして露伴の面白さも弱みも、彼が江戸っ子流の侠気と物わかりよさとをつよくもっているというところですね。彼が小説家としてねばりとおさなかった所以を過去の人たちは、彼がえらすぎるという風にいうが、そうではないわ。達観を主観的にしているからです。決して支那流の哲人でもないし、強烈な精神の独自性というのでもない。名人肌の一くせある爺さん(勿論内容豊富也)というところですね。ですから人物論としてのそれらの作品は、なかなか面白くて所謂膝を打って大笑す、というところもあるけれども、その面白さで彼は小説家でないことが語られているような工合です。
 鴎外の「阿部一族」は雄大複雑な歴史小説で封建のあらゆる枠は枠なりに肯定したところで、その中での性格相剋の悲劇、君臣の臣の負担となるその結末、情誼が、人の生かしかた、生きかた、死しかた、死なされかたなどのうちに表現されなければならなかった姿を、武家気質の範疇での感情行為の必然にしたがってよく描いています。
 しかし鴎外は、この時代の枠へ人間の心をこすりつけてはいないのよ。こすりつけられた人間の魂の熱さと重さとで枠がゆすぶれるものとは見ていません、その点彼の現実の順応性が実によく出ている。
 このことは逆に「高瀬舟」で、白河楽翁時代の江戸の一窮民の遠島されるときの物語にある財産の観念及ユウタナジイの問題を、鴎外がいきなり一般人間性という自分の主観からとりあげているところにもあらわれていると思います。一窮民と扶持ふちもちとでは同じ時代に於て財産の観念は巨大にちがいますし、ユウタナジイのことにしろ、武家のモラルは楽に死なせてやる武士の情というものを承認しているのだから、庶民の男が罪せられたのとはちがった見かたもあったわけです、その現実の相異を、鴎外の主観は何と云っても身分的な差別は失っていて一般人間性のこととして見る丈歩み出していて、その進んだところに止った意味で限界の示されている面白さ。そこから、鴎外が歴史へ働きかけてゆく作家の目と心とを否定して、抽斎などの伝記ものをかくに到った過程はよく分ります、そして鴎外は歴史に向って作家としての手をはなしてしまった。
 芥川はあくまで歴史小説をかいたのではなくて、主観の課題を「地獄変」や「戯作三昧」に表現したこと、しかも何故それを、例えば芸術性と社会性の問題の苦悩をトルストイの矛盾に於て描かず馬琴をとらえたか。そこにあるかしこさとよわさ。それが歴史の中に自分を把握させる力のなかったことと一致していて、歴史のたぎり立つとき、何となしの不安に敗北したということ。面白いわね。菊池のテーマ小説が、封建のしきたりに抗して生命への執着やその適応性や英雄打破に向ったことはプラスながら、彼にあってのその合理性は、世上云われるようにショウの相伝ではなくて極めて日本のもの彼のもので、合理性は自然主義のものをもっていて、つまりは常識のものであること、従って、芥川を死なさせた波は彼を大衆作家にしたという歴史とのかかわり合いの姿、こういう対比は大変面白くてヴィヴィドです。そしてユニークです。しかし、彼が徐々に大衆作家になりつつあるときは、日本の文学に質的な一変転がもたらされて、歴史を、寛のみたように個人の利害、ひょんなめぐり合わせ、など以上のものとして見る歴史を歴史として動く姿でかこうとして、「磔茂左衛門」や「綾里村快挙録」が生れたこと。現在の歴史小説とは、今日の現実とどういういきさつにあるか、つまり「島崎藤村」というような伝記小説の現れるのは、日本の文芸思潮のいかなる低下と喪失によるものか云々というのです。
 面白くてとりつかれたようにかきました。近頃の快作。だから、きっとさっきぱっちりしていたのでしょう。
 今月は半分はフラフラだったけれども、それでも実にこまこまと百十枚もかきました。種目は十二種よ。細かいこと。
 大分あとへのばして貰うやくそくにして五月は、前に半分までかいてある古典読本の現代文学を六七十枚かいて、『文芸』のをかき終って三回分ぐらい60[#「60」は縦中横]枚迄、まとまったのはもうそれで、小説にかかります。『都』へ十日ぐらい迄に「読者論」をかきます、これはこの二三年間の読者と作家とのありようをかいて見るつもりです。文化批評として面白いと思います、こまかく落付いてかくつもりです。
 こういう工合で、徹夜はなしです。でもこの間うちは何となし工合わるくて、朝心地よくおきられず。そういうときは、よく仕事出来るときひる間三十分か一時間、上手に一寸眠ってよく休む、そういう眠りかたが却って出来ず、眠ったら猶気分わるそうで眠れず、しかもはきはきせずという工合でした。もうすっかり緑になりましたから大丈夫よ。これからは益※(二の字点、1-2-22)パッチリです。
 読書は又肩をすくめて。ヨンジュウ八マイ(頁)。しかし私はあの「三月の第四日曜」の男の子のその後の運命を近頃現代の少年の運命としてひどく心をひかれて居ります。少年の犯罪が激増しているということは心を痛ましめます、彼等の訴えが耳に響いて来ます。その響はこのささやかなヨンジュウ八マイのなかにつよくつよく反響いたします、人間の心の代償は誰からも払われないということは。
 私の創作的アペタイトは、「第四日曜」の男の子の顔つきを髣髴ほうふつといたします。本当にいろいろのことにふれ、いろいろの心にふれたいと思います。
    ――○――
 達ちゃんかえって来て何とうれしいでしょう。きょう、「よくかえって来たね」とおっしゃいましたね。「一九三二年の春」という小説の終りの唯一の小説らしい言葉を突然思いおこしました。昔のひとはこの感情を「よくぞかえりつるものかな」と表現しました。本当によくかえって来ました。いつ頃うちへかえるのでしょうね。お祝に私がゆかない代り、あなたと二人の名で、この間お送りしただけお送りしておきましょう。
 久しぶりで随分どっさりいろいろと話しました。私はこの手紙がなるたけ早く着くようにと心から願います。
 今夜は枕の下に詩集をおき眠ります。その中からの抜きがきを近いうちお送りいたしましょうね。

 五月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二日  第三十信
 今頃多賀ちゃんが、あおい着物で、そちらで喋っている頃でしょうか、それともぼんやりこしかけてラウドスピーカアをきいている時分かしら。
 私は今『文芸』の校正が終りました。先月おくれた「転轍」を今日にまわしたのです。ゲラの紙が全く粗末なものだから字がしみて本当にきたないの。よめるかしら。よめないかしら。そう思いつつ封をしたところです。『文芸』は只でさえ、ミスの多いところです。
 ひどい風になったこと。例によってうちはガタガタ云って鳴りはためいて居ります。
 御気分はいかが? そちらは、こんな風でも、仰向いてねている顔に天井うらの無数の埃がふりかかる感じだけはありませんですね。
 きのう、私は顔を仰向け青葉のそよぎがそのまま自分の体となったような気分でかえりました。
 今年私は桜も美しいと思って見たし、若葉の色もこんなに眼や気持に沁みとおって。どこやらしず心がかえって来たのかしら(いい意味でよ)。もしそうだとすれば、うれしいことね。そして、そのよって来るところの意味で、あなたもやっぱり御満足でないこともないでしょう?
 きょうは些か閑暇ありですから、すこし詩集の話をいたします。あした、あさって、おいそがしいけれど、きっとこれはその後のすこしのくつろぎのとき着くでしょう。詩集とは別だけれども、きのうそんな心持で、夜もずっとその心持がつづいて、胸が余り優しくきつくしめられて、何だかまばたきしても、それがこたえる有様でした。だって、私がまばたきをすれば睫毛まつげはめのなかにある輝いた顔の面をあんなにさわるのですもの。さわる感じが全身をはしるのですもの。電車のところに立っているとき、後を誰か、すと掠めて羽織のそとを掠めたら身ぶるいがしました。若葉の風というものはこんなにしみるものなの? こんなに枝もたわわなものであったのね。新緑の上に鯉幟が見えます。
 詩集のなかに「五月の挨拶は」というの、覚えていらっしゃるでしょうか。大変この頃の情景にふさわしい爽やかな、しかも生命にみちた詩句です。「五月の挨拶は 若き樫の梢 みどりの小旗をかかげ」という冒頭で。うれしい五月の日、芳しい草原のなかの若い樫の木は、いのちに溢れて気品たかく、しかも天真に、一つの泉に向って挨拶しようと、ゆたかな梢をもたげつつ、燃ゆる緑の小旗をかかげます。緑の小旗は、日光にきらめき、風にゆれ、何と強靭に美しく、はためいているでしょう。泉は溢れるしぶきで、珠のかざりをつけながら、ふきあげふきあげて、梢の挨拶にこたえるのですが、泉は地のもので、そこに在るしか在りようがないという自然の微妙さに制約されているのです。この泉の自然への従順さと歎きとは非常に幽婉な趣きで語られていて、本当に面白い。緑の梢の意欲は泉につたわって、波紋となり、益※(二の字点、1-2-22)しげい水しぶきとなるのです。梢はその波紋を遠く近くとりかえされて緑の波濤のように自身を充実させます。日は高く、泉の白さ、梢の緑と光線の金色の諧調が、かけるもののない空気のうちに満ちる様子。
 泉の自然の制約をそれなり美と感じ、しかも歎くこころをうたった数節は、ゲーテの卓抜な抒情詩にまさると私は思います。美しさは人類ととものもので、しかもその細部では質的にさまざまのニュアンスを深めるところは、云いつくせない味いです。目にもとまらぬような何かの動作、そこを詩人はまことに敏感に美ととらえて、「五月の挨拶は」というような愉悦と哀愁のえ合わされたソネットをかくのだから、たしかに詩魂は生活の宝です。うたう心は、人間が精神において真直に立った姿、現象を一旦整理した上での姿として、うたの心はあらわれるから、そこに慰安(コンソレーション)がある、とアランが云っているのも本当です。
 文学論とすれば散文の本質を、訴える、かけめぐる、現実追随の叫びとして本質づけて、詩の心と対比しているところに、アランの誤りは在るのですが。アランは、でもその生活の必然から「五月の挨拶は」という詩は知らないのだし、ましてやそれが散文で猶且つどのようにうたわれ得るかを知らないのですものね。かんべんしてやらなければなりますまい。アランのうけうりをして、リアリズムとはと武りんさんの踵について走りまわる人々にも、この「五月の挨拶」のリズムは別の世界のものでありましょう。
 こんな詩をくりかえしくりかえしよみ、美しさきわまれば涙もおとして私はいろいろ考えます。自分たちがこれまでよんで来たいく巻かの詩のことについて。
 いろいろの時を経て、詩の具体性、象徴、リズムが段々高いもの、いよいよ複雑であってしかも率直な作品へとうつって、このみが育ってゆくことは面白いことね。そのことについて、きっとあなたも折々はお考えになるのではないでしょうか。少くとも私は随分度々考えます。
 四五年前、シャガールの插画のある詩集を私たちは愛読していたことがあったでしょう。あなたがおよみになり、私がよみ、又あなたへおくって、あれもよくよくよまれたものでしたが。今思えば、やはりシャガールの天井から舞いおりる愛の插画がふさわしい程度のものであったと思われます。詩人たちは、自分たちの感覚に若くて、自分のよむ詩の美しさ、その詩のテーマの美しさに我を忘れて、十分に表徴し十分に描き音楽化するところまで行っていませんでした。
 それから、何かきわめて微妙な成熟が行われて一巻は一巻へと光彩を深めて行ったおどろき。私ははっきりその一巻から一巻への進歩を思い出せます。ある程度の間が各巻の間におかれて、次に発表されたとき、反誦復唱して私たちは何とその期間にゆたかにされたもののあることを、おどろいて讚歎したことでしょう。
 詩魂の尊さは、そのようなれない進歩が最近の詩集にもうかがわれることです。これはもう何というか、現象にあしをとられての創造ではなくて、時とともに持続された美が瞬間瞬間の閃光に無限の表象をつかんで円熟してゆく一つの境地であると思います。詩人として、私はきっと大なる歓喜と恐怖とがあろうと思います。だって、あのシャガールの時代の作品は、何ていうか、云わば自然発生です。そのような諧調の組合わせは奇遇的必然ですけれども、それでも芸術化されてゆく過程のなりゆきは、自然発生でした。ところが近作になると、第一には第一詩集からの何とも云えないボリウムがかかっていることですし、詩はもう詩作されるというような位置になくて、詩人にとって生命そのものとなってしまって居りますからね。あなたはいくつかの詩から、本当にこの秘密をつかんでいらっしゃいますか? 本当につかんでいらっしゃいますか? 秀抜な文芸評論家として、本当につかんでいらっしゃいますか? 詩もその境地に到って、遂にいのちのうたとなったのであると思います。そういう程度の詩集になると、シャガールのファンタジーによる插画なんか不用になって来るところは、一層興味あるところですね。詩句をよりゆたかにする筈の插画は、シャガールがさかだちしたって、一つのより弱い説明でしかないのですものね。これも実に面白い。大衆小説に插画があって、純文学に插画のない必然もわかります。いろいろ面白いわねえ。
「五月の挨拶」のすこし先に、「わが笛のうたぐちは」というのがあります。これは絃楽器の伴奏につれてうたわれるべき一句です。覚えていらっしゃるかしら、若草に顔を近く、一茎の葦笛をふくうたです。藤村の昔の詩に「そのひとふきはよろこびを そのふたふきはためいきを」というのがありましたが、これは全く音楽の流れをもってうたわれていて、ふきならす音は冴えて笛がふくひとか、ふくひとが笛かという恍惚を単純な言葉のなかに溢れさせています。「われもうたびと、その笛を」といのちをうちかけてゆく姿は何といいでしょう。
 私は自分ではたった一つの詩をかいたこともないけれども、詩のわかることにおいては、そこいらの詩人の比でないとひそかに持するところもあるのですが、いかが? そして、あなたがどんなに詩を知っているのかといったら、おどろく人もあるだろうと笑えます。ああ現代の散文の本質はそこまで来ているのにねえ。評論の要素はそこまで活々として多彩であるのにねえ。評論はただ理屈の筋でかくものだと思っているバカ、バカ。もしそういうものならば、どこから私は評論をかく感情の必然をもっているのでしょう、ねえ。その必然の詩の精髄が分らないから、つまりひとは私をまるで知らないということになってしまうわけです。
 あなたはまだ足袋をはいておいでですか。きのう、ある女のひとでずっと反物を買っているひとが来て、あなたによさそうな紺ぽい単衣を見つけてホクホクです。羽織の下におきになるようなの。
 セルのこと、きょうおっしゃったって? 急にあつくなって、単衣まで急行? ネルの長襦袢があつぼったいのでしょう。きょうメリンスの半襦袢お送りいたします。ネルをおかえしなさいまし。私ももう羽織を着て外は歩けなくなりました。すぐ夏ですね、素足の季節ですね。ああそれからこれは多賀ちゃんが、あなたに云おうとして云えないことですって。いろんなひととよくよく見くらべて、この頃私がほんとに奇麗と思うのですって。めでたしめでたし。

 五月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月三日  第三十一信
 けさ、二十四日づけのお手紙、やっとやっと到着。こんなに永くかかってつくのに、間で殖えて二三通にもならないで、やっぱり一通の姿でついたというのは、甚だ私としては不本意な次第です。
 いろいろとありがとう。パラパラ生垣の速達のこと。緊急動員の方は一向さしつかえはないのですから、どうぞ御心づかいなく。私があれを云ったのはね、パラパラ生垣そのもののことです。こんな風にのつまったのがほしいからというだけ。白藤のひと気の毒です。この間午後ずっと居ていろんな話をしました。主人である人は、和歌や俳句をやったり本をかいたりするのだけれど、大酒毎晩で、病室のとなりが食事部屋で、そこでのんで唄って踊るのですって。そして細君はそれをつらく思って、「この間も私に出てゆけっていうわけなのかしら」と私に相談しました。或は「別の家をもつようにすすめろというわけなのかしら」と。だから私はこう云ったの、「とにかくさわぐにしろ、家でさわぐというのは、やっぱり家に対して、妻に対して自分の義務を感じているとも云えるので、今時の男が本当に何かやりたいと思って、一々女房の許可を得てやるなんて甘っちょろいものではないのだから、こっちからそんなことにさばける必要はない。したいことはしているのだから。只もう三年もの病人で、それは気もむしゃむしゃするのだろうからよくいたわって、互につらいところをしのいでゆくしかないでしょう」と申しました。この夫婦は不幸な夫婦なの。しかし、はっきりわかれず一緒にいる以上相せめぐのが習慣で暮すのは、やはりひどいことですものね。でもこのひとの話からも私は本当に結婚生活における女というものを考えます。私たちの友人たちの間でも、GさんにしろHあたりへつとめ口をさがして行ってしまったのは、やはり妻になった人が永い病気になったためです。一緒に暮せない。経済上の負担はある。いろいろ苦しいのでしょう、そして行ってしまう。良ちゃんだってやはりそのことがあります。稲ちゃんとよく話すのですが、女のひとはそういうことからも病気が不幸の意味を深めて来るのね。女ばかりと云えず男もいろいろあるでしょう。女からそうされる場合。でもやっぱり一般からは女の場合が率が多いのね。
 柳瀬さんのあのエハガキの水屋ね、あれが届いて、今右手の鴨居の上にかけて居ります。今頃の北京郊外ね、緑の色がいかにも新鮮で、画面は梢の緑、土の柔かい茶、家の灰色というさっぱりした配色です。ねだんはまだ不明。この頃いい絵が見たくて。すこし暇になったら上野の博物館へでも久しぶりで行って見ようと思います。この部屋の額と云えば、机に向って正面の左手の三尺の壁のところに原稿紙にかかれた字がかかっているの、知っていらっしゃいますか? あのスケッチにも入っている筈です。リアリズムの創作方法について書かれたもののうちの一枚です。6という番号が余白にうたれていて。この部屋へ入るひとは友達ではごく近い四五人きりです。ダイジダイジなわけよ。
 着物のこと、気候の不定なとき私も気が揉めます。この間うちは、ああ、あついと云った次の日、どうしたんだろうきょうの寒さ、そう云って羽織を着るようでしたものね。でももうこの調子でしょう。
 本についての家憲はお笑いになったでしょう。何となし書いていらっしゃるときの表情が浮びます。更始一新的行事、というのは全くそのとおりでしたし、そのことで遺憾は更々なしよ。ただ、この頃は古本が実にないし、それでマアあんなことも云って見るというようなものです。私の批評をかくということは、これはどういうのかしら。今の条件から自然になったのですね、あなたがおかきになれば私は安心して書かずにいますから。それだけは確だから。作家の感想ではあるけれど、と評論的骨格の不備について十分認めつつ一言を吐いたりする必要は客観的にもおこらなくなりますから。仕事の範囲のひろまりや成長というもののモメントは大した複雑なものですね。あのとき予定に入れてなかったというのは、何か全般のありようから極めて自然ですもの。ここにあなたが半ば私を励ますように云っていて下さるように、私だけのことではないと思います。それはそうだわ、ねえ。
 疲れ、すこしお直りになって結構。やはり初めの間は随分御注意がいります。本当に体の調子に従っておやり下さい。そのことでは私は心から安心して居ります。正に御放念です、それは私の一つの大きい仕合わせですね、よくそう思います。
 仕事のこと。きょうはすこしドンタクの日です。二三日息ぬきをして、又はじまり。三十日の日が所得税申告の〆切りで、去年からの収入を思い出してかきこんで、フーフー云いました。去年の五月頃から私の収入はあるようになって来たのですから、金額にすればまことにすこしです。『文芸』のなんか金にしたら何とひどいでしょう、文芸雑誌は相変らずよ、『新潮』なんか下げましたって、却って。いつぞや島田へ送ったりしたものの三倍から四倍以下ね。それから経費をさし引くのですが、私は多賀ちゃんと笑いました。こんな収入でそれこそハンド・トゥ・マウスで、すべて経費だわ、生きて、考えて、書いてゆくためのすべて経費だわ。これは一目瞭然ですが、税務署はこの真理が通用しません。それだけの金を得るための何かが別にあるように思うのですから、私は本代よ、たった三百円ので、仕事が出来るでしょうか、笑止千万ですが、マアそんなものです。そこから基礎控除を五百円とりのぞくのです、私のような自由職業は乙種事業というの。それでもまだ納税最低の五百円よりはすこし多いから、いくらか払うわけです。作家なんて全く何万という収入があればそれは経費をわけられますが、さもなくては経費なんて実にこまるわけですね。だからY・Nはいつか税務署とケンカしたのです、あの小説をかくにはわざわざ南洋迄行ったのですからって。
 こんどからは稿料をかきつけておきましょう、そう思うけれど、まるで蠅の子のような小さいものを一々かきとめるついそれより先に消滅するのですもの。電光石火とはよくぞ云いける、だわ。栄さんのところ、稲子さんのところ、二人分で率が高まるわけです、あの人たちは庶民金庫からかりて、よそのお倉にいたものを全部とりもどしました。そして毎月十五円ぐらいずつ金庫にかえします。
 この頃はそういう工合の暮しね、どこでも。この間うちはキャベジが一ヶ一円いくらかで、半分かっていました。半分四十何銭というキャベジには恐縮いたしました。ふだんに着るような銘仙が一反十五円ぐらいであったものが二十五円―三十円です。絹糸はボー落したが織物はそのです。デパートへゆくと、もと四五十円の反物があったそのなみに百円のもの、それ以上のものザラです。そして、本年は、これまでになかった新考案の織物が続出いたしました由。そんなキモノきて、六割南京米の入った御飯たべて、そんなびっこの生活に女は平気で、せめてキモノだけと思っているとしたら、度しがたい次第です。いろんな形式で、こんな空気は健全にされるものではありません。カフェーは夜十一時迄ですから、昼遊びの店へと変形しつつある由。同じ遊ぶにしても昼のそういう気分が生活にどれだけ深刻に作用してゆくでしょう。昼間暇のない人間は遊ばないという理屈もなり立つかもしれないけれども。
 いづみ子のたよりお気に入ってうれしいと思います。あの子と睦しい好ちゃんの様子は、見るめもうっとりさせる風情ですね。好ちゃんの爽快溌溂の姿は目にさやかなるものがありますから。わきまえのいい子だけれど、それでもあの子が自分のうれしさや元気でわれしらず身じろぎする刹那も、なかなかの若武者ぶりです。私は気に入って拍手をおくる次第です。濃紫の菖蒲の花の美しさ。
 林町のうちでは、まつがお嫁にゆくのに代りの人がなくてああちゃんは眼をキョロキョロよ。〓りにしろ誰かとしきりに心がけ中ですがありません。多賀ちゃんは来年の四月か三月まではいるそうですが、やはり誰かいなくては困ります。そのうちに又何とか事情が変るかしら。しかし昔は農家の娘が東京へ来れば白いお米がたべられると云ったのが、今は東京さいげば、南京米食わにゃならんぞい、ですからね。全然逆です。着るものだって、ちっとのお給金では銘仙もかえはしません。
 達ちゃん明日あたり島田でしょう。お母さんへお祝いの手紙さしあげたとき、かえったとき人はなかなか落付けないらしいし、むしゃくしゃして腹立ちっぽくもあるそうですから、その気分は毎日、着実に家の仕事をやってゆくのが一番いいそうだからそのようにして、フラフラにさせてしまわないよう気をまぎらすことで解決しないからと申上げておきました。まぎらせる部分は、ごくの表面です。伍長にスイセンされたのをことわってかえった由、家のことを考えて。卯女ちゃんが、栄さんの会のとき、松山さんの男の子とお手々つないで歩いていました、もう歩くの。では又。

 五月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月四日  第三十一信
 この間のときも雨になって、又きょうも雨になりました。どんな龍が昇天するというのでしょうね。疲れていらっしゃるとき、雨だとやすまるでしょう? 風がさっきみたいにゴーゴー云って吹いているよりはましでしょう? よく眠れるようでしょう。うちはたしかに雨の方がましです。ひどい風だからけさ二階の雨戸しめたままにして出て、かえって、今さあ雨だから、とあけて掃除したところです。
 あしたは日曜日なのねえ、つい忘れていて、さ、あしたは早く出かけてと云ったら、たかちゃんに笑われて、アアーンアアーンと泣きまねをいたしました。
 仕方がないからこれをかきます。きょうは、この前回よりはおくたびれにならなかったでしょうか。次まで間があるから幾分ましでしょうと思われます。
 第十二巻は買うことが出来ました。近日届きます。てっちゃんのところへのお手紙、小説がよみたいというお話、私はこの間うちから思っていたの。そうなのじゃないか、と。そうなのが自然な気がして。ですから大変よくわかります。本当にいいものをあげたいと思いますが、近頃ではいいもの飢餓でね。きょう私がもってよんでいたのは、マルタン・デュ・ガールという人のノーベル賞をとった「チボー家の人々」の第六巻です。白水社から送ってくれてずっとよんで居りますが、少くとも主人公ジャックは真実をもってかかれています。「ジャン・クリストフ」なんかも今は、又別様の面白さでおよみになるでしょうね。こんど御相談しましょう、どっちかをおよみになったら? 人間生活の奥行の深さ、向上してゆく光景を悠々と描き出したものが、という御希望に、それはこれよ、これなのですけれど、と自分のものを示せたらどんなにうれしいでしょう。
 人間生活の奥行の深さ、この表現は非常に豊かで含蓄的で、そして私のリズムに響きをつたえずにいないものをもっている。深い奥行のなかに、生きているもの、脈動しているもの、人間の行動の真の動機ともなっているもの、そういうあらゆる生々しいものがあるということは何とそれをまざまざと芸術に表現されてあるものとして読みたいでしょう。そのように表現しているものとしての作品をかきたいでしょう!
 この正月に書いた「おもかげ」と「広場」とは、そういう人間の一つの姿と歌声ですが、それはひどい風に吹きちぎられて途切れ途切れに、しかも熱烈に響く歌声のようなものとなりました。
 この二十六日づけのお手紙は、いろいろ大変面白うございます。ちょいちょいしたところが、おのずからちがったトピックのちがった語りかたとなっていて。わきに坐っていて、よそのひとと話していらっしゃるのをきいている面白さ、その面白さです。小説でいうと、題材が多すぎない程度でかかれている作品のゆとりのある面白さとでも申しましょうか。私はよくばりでしょう? オヤオヤと笑っていらっしゃるでしょう。でも私のこのよくばりは、自然なものとして自然承認されているのだから、相当でしょう? 私への一番いいおくりものだということは、国男君でさえ万々承知というのですから。
 すっかり目白のところがきのが、一通あります。てっちゃん目玉クルリとさせて、肯いている。そんなものね。
 スフ足袋物語、つめたいようでいつの間にかぬいで毛布に足を突こんでいらっしゃったという話。
 覚えていらっしゃるでしょうか、いつか夜中勉強していておなかすいて来てゆで玉子をこしらえたら、何かの工合でむいたらカラについてしまって、まるでデコボコな妙な風になってしまったことがあったでしょう、あのとき、あなたへーんな顔して見ていらしたけれど、とうとうあがらなかったことがありました。私はよくそれを思い出して、様々に人間の心の本人もはっきりは自覚しないようなニュアンスの面白さ、女はそれをたべるという気持のうちにあるつまらなさ、いろいろ思うのですが、このスフ足袋物語には、あなたのそういう自然なところが感受性のままに流露していて、本当にあなたらしい。こういうものをよむとうれしい気がいたします。そして私へ下すった二十四日の分をよみくらべたり、二十六日のその分をよみくらべたりして、あっちやこっちから眺めるように楽しんでいるというわけです。
 ああそれから、てっちゃんに話していらっしゃる三省堂の『英独仏白図解字典』というのは、これはドーソンのを訳したものか、まねしたものではないの?
 十八日も土曜日で、それは結構ですが、土曜日の次は日曜日であるというのは私にとって不便です。やっぱりこんなにして手紙かかなくてはすまないのでしょうと思って。
 もし十日に天気がよかったら、うちの二人と寿江子とてっちゃんの一家とで稲田登戸いなだのぼりとの山の青葉の蔭へ寝ころがりに出かけます。うちではたけの子の御飯のべんとうをつくります。私はすこし歩いてどっさりのんびりして来るつもりです。歩きたいひとは、どうぞとしておいて。
 きょうかえりに日比谷公園をぬけました。つよい風が欅の若葉をふきつけていて、柔かい葉房が一ふき毎に大変鋭い刷毛はけではいた三稜形になって、ああこんなタッチで描いたら面白かろうと興をひかれました。いかにも瑞々しく柔かで、それで瞬間の刷毛めはいかにも鋭いの、面白いものですね。それでられそうに鋭いの、若葉だからこそ出る鋭さで、そこが又面白いと思いました。嵐っぽい灰色の空のそういう緑の動きは美しいと思います。
 今夜はうちはみんな早寝です、雨の音を気持よくききながら早寝です、もうすぐ寝ます。
 そう云えばこの頃は水道がひどい渇水で、午後四時ごろ全く出ませんでした(きょう)。こんなおとなしい雨では、村山の貯水池の底までひりついた水が果してどの位ますのでしょうか。中途半端な都市というものの生活のシニシズムというものは。首都なればこそ水の憂いもというようね。明日は五月五日。きれいな濃紫の菖蒲の花を飾ります。

 五月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月五日  第三十三信(きのうのは二信ね)
 三日づけのお手紙けさつきました。これでなみの調子になりました。
「暦」や「素足の娘」およみになったら又いろいろ感想がおありになって面白いでしょうと思われます。栄さんのように持味と話しのうまさで、自然かくひとの到達したところとその逆のものとの関係がはっきり感じられて面白いと思います、本気で云えば面白いどころか、こわいし、自分がそうだったらどうだろうと思わせられるものではありますが。「素足の娘」についてもいろいろの印象があります、およみになってからまた。
 私のこの頃、かくのは感想と評論ですが、この頃のは随筆風ではないの。自分でも本にでもすれば、こんどはきっとしゃんと評論として押し出した題をつけるでしょうと思います。随分勉強してかいているのですもの。そういう実質の仕事しているのですから、その限りでの自信もありますから。でも私の本はそうやすやすとは出ますまい。この間も下らぬデマがあると、雑誌の広告の中ですぐ名も何もふせて、やがてデマとわかって出すという調子ですから。そういう点について、あるスタビリティが商売人に感じられないと、紙のないところを安心して儲けられるものへとゆきますから。それは彼等の打算の心理です。編輯をする人と出版をする人とでは、この点で全く相反したような見解にいて、今日の文化性としてなかなかヴィヴィッドです。文化の面からの必要とか価値とかいうとそれははっきりしているのね。その他の面からのそろばんになると、肩越しに鬼がのぞいている幻想にとらわれるのでしょう、又本当にのぞきもするしね、いやあね。
 封建的乱暴さのこと。いろいろ非常にむずかしいのです、ふだん一緒に暮していませんでしょう? いろいろ知らないわけでしょう? それを私が知っているとすれば、それは咲か寿が話したことのわけでしょう、それらのいきさつから、その二人があとで却って妙になるような場合の経験もあったりして。あのひとは昔から私がじっくり腰をすえて二時間もかかって話せば、そのことは十分わかるし納得出来るのです。けれども涙なんか出すほど本気で傾聴して「ほんとに僕は不思議と思う、だって姉さんはちっとも自分の得になりもしないのに、こんなに考えていてくれるんだもの。僕も二三日今の気持でいられたら、すこしは偉くなっているんだけれど、一晩ねるとケロリとしてしまうんだから困る」というのですものね。決して愚弄して云っているのではないのよ。本当に傾聴するのも本当だし、ケロリとするのも本当なの。女房は天下一品と云うのはうそではないのです。しかし、というのもうそではないの。ですから困ってしまう。十七八の頃からそういう二面性はつづいているのです。それにこの頃のあのひとの心には、自分の家庭はうちのこと、という感じだから、そんなに姉さんに世話をやいてもらわずといい。それより世話やかせないでくれればいい、というようなところでね。だって、あのひとは、父の遺族という名を何かにかかなければならなかったとき自分、おかみさん、太郎だけ三人かいて、寿や私は抹殺した感情ですから。これは何だか私に忘られない感じでのこって居ります。全般から来ているのです。何とも云えない強情さと妙な感情のつよさもあるから、私はまあ、こじらさないようにつきあってゆきます。勿論余りのことがあればしゃんと申しますが。性癖というものは、よくよくその人に理想とするところがなければ、それなりに年とともに一つのリリシス迄加重されてゆくのね。あのひとの頭は実に綿密なの。そして極めて計画的なの。ひどくそのいみではいい頭です。ドストイェフスキーの人物めいています、子供のとき、二階から女中さんにおとされて小児麻痺をやって、そんなことも何だか機能的に性格に作用していると思われて、それは可哀そうです。全体はおどろくべき強壮ですが、いろいろの人の内部のくみ立てね。頭がいいと云えば、なみはずれていいところもあるのに。
 写真帖のこと、私にも楽しみです、北海の砂丘、本当に見事でした。紀(太原にいてかえったの)がなかなか写真上手で、まだきれいごとですが、なかなかセンスのある作品を作って面白うございます。あっちでいい写真キを買いましたって。かえってから紀が国府津へ行ってね、あの門から入った通路のところや、庭の芝生と杉のところやなかなかいい風景をとったから、私がポストカードにやきつけて貰おうとしたら、今大抵の写真やでポストカード台紙は品切れなのですって。自分がもともっていたのがどこかにあったから、さがしてやいてあげようというようなこと云って居りました。私は紀の写真をしげしげ見て、創作の面白さがわかって、写真展なんかも見たいと思ったりして居りました。紀は結婚する対手のひとが、結婚したら今のようにつとめているのがいやと云うので閉口しています、僅しか月給とらないから、本当はともかせぎの必要があるの。
 どんな写真帖あるかしら。丸善なんか見ましょう。もうああいうのは入りませんからねえ。
 本のこと、(小説)ともかくこの『チボー家の人々』をお送りして見ます、それとマリの『街から風車場へ』と。女の作家でも、なかみの造作のそれぞれちがう姿、そのちがいにやはりその国の文化の造作の浅厚の差、単複の差、いろいろあらわれていて感想をうごかされます。(「暦」など思い浮べると)
 ああ、私は何はどうでもかまわないから、営々として勉強いたします。ただ書くだけでなくて勉強をいたします。勉強していなくてはかけないものを益※(二の字点、1-2-22)かきます。そして、あなたからときどきはおまじないと御褒美頂いて、それで結構だわ。では明日。

 五月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月七日  第三十三信
 今昼すこしすぎ。間もなく人が来ます、日大芸術科というところに創作科というのがありますかしら。そこの女のひとが記事をとりに来るのです。もう女の子六つを下にして三人の子供のあるひとです。いろいろ生活への疑問から学校に入ったのですって。ものをかきたいと思って。そういう一生懸命な心持、しかも何だかすこし勘ちがえのところがあるようなのは気の毒です。自由学園出で、御亭主も初めはその気でハニスムにしたがい、一緒にジャガイモの皮もむいていたのですって、そしたら満州へ行って四年役人暮しの間に一変してしまった由。
 それは一緒にジャガイモの皮をむくのも結構ですし、ハニのところに通っているような金持の息子がアゴで女中を使わないようにしつけるのはいいけれども、大人の現実生活としてジャガイモの皮を一緒にむくよりも、もすこし本質的なことで一緒にやれることもあるのだし。あの学校の教育の機械性が女を妙なかたいもの、皮相のものにかかずらわせてしまうのね。そういうところへ生活の協力の目安をおくなんて何て卑俗でしょう。熊さん八さんは赤ん坊のおしめだって洗います。野菜車を押して、瀧の川の坂をのぼる夫婦を見て、一日でもああいう暮しがしてみたいと涙をこぼしたのは古川辰之助の夫人でありましたというようなわけです。
 さて、お疲れはいかが? すこしずつおなおりになりましたか? きのうはすこしつめたくて、きょうは暖い代りひどい風だこと。前の家で畳干してバンバン叩いています、いかにもゴミの立つ音です。
 それからね、昨夜床に入ってから、ふといいこと思いついて、ホクホクして居ります。今に面白い静物写真帖をお送り出来そうです。日本の静物写真帖でもなかなか逸品があり得ることに思い到ったというわけです。
 話が逆にもどりますが、日大あたりの芸術科って先生はひどいのね。久野だの浅原だのというひとなのね、伊藤整なんかましな部らしい。ここの映画科でとった「日大」とかいう画は、迚もひどいものだったそうです。法政ではいろいろ学内政治のいきさつで、文科をやめにしてしまうという有様ですし。あっちへひどいかこっちへひどいかというような有様ですね。
 試験制度が変って、本年中学に入ったものの知能の低下、高校の程度の下落著しく、おどろかれて居ります。バカほどこわいものなしと、昔の人は賢いことを申しました。
 尾崎士郎が「三十代作家論」を『都』にかいています、その渾沌性について。しかし尾崎士郎自身、「人生劇場」ですこし金まわりがよくなったら、やはりきわめてあり来りの生活形態を反復している有様だから、自身の常識性に足をとられていて、やはり文学の中でものを云っている。そんなものであるものですか。昔の文学は常識からの飛躍であったとすれば、今日の彼等のとことんのところは、常識の埒外のものをもって常識のなかにとびこむ方向をとっている。つまり生活の土台はちゃんと常識の中のもののままでかためてゆくことを眼目に文学をやっているようなところがあります。だから石川なんて、尾崎の云っているように逞しい野性なんかどころか、おっそろしい皮の厚い実際性です、逞しき野性なんかという文学性で、尾崎は詩吟調の自身の文学から脱けられないのでしょう。
 尾崎は、世相が、彼等を流行児にしたのであって、云々と云っています。しかし、読者の何が、いかなる要素が、彼等を流行児にするエレメントとして作用しているのでしょうか、この辺三四年前、「大人の文学」という妙なことが云われ、大衆は批判の精神なんか持っていないし必要としていないと云われた(小林秀雄)時代から、急速な落下状態としてどういう意味をもっているのか、作家と読者とのむすびつきのモメントのことなど、いろいろ考え中です、『都』へ「読者論」を四回かきます、読者だけ切りはなして私には云えませんから、読者と作者との内的レベルの同一さがここで問題になると思うのです、現実に対して同じような低さ、俗さ、中学生程度がとりあげられるのだろうと思います、すこし本気で考えてかきます。面白いでしょう?
 これをかいたら『婦人朝日』へ三十枚の小説をかいて。やっぱり中途からついわりこみますね。ああお客が来てしまった、ではまた。
 この間に五日が経ちました。
 きょうは五月の十二日(日曜日)ひどい風。
 けさ、女のひとのためのものを六枚かき終り。お客。それがかえって。夕飯までのひと休みを。
 十日には、土曜日にたかちゃんが話したように行けませんでした。新聞のこと二回だけ書いたら行こうと思ったのですが、それがかけず。おしかったけれど、丁度何だか神経の工合で、ひどく胸がドキついて、夜中息苦しく目をさますようでしたから、休むと云っても、どっさり歩いたりしない方がいいだろうと思って。それもあったのです。どこか疲れがあって、そんな風に出ます。でも神経性で自分でもそのことにはこだわらずよく早ねをして、すこし朝長く床にいて、昼間仕事して、その位の注意で大丈夫です、みんな書くものは疲れかたがひどいことねえ。それは本当にそうだとも思えます。私なんかこんなに気をつけていてこの位ですもの、でも寝てしまうことはこの頃殆ど全くないからなかなかの好成績ですが。御心配は無用よ。食事だってよくよく気をつけて居りますから。よく野菜たべて。
 たかちゃんに、例によってと笑っておっしゃったという用件ね、どうでしょう! 自分で、これから行きます、と金曜日に私に答えたのよ。
 短篇をあつめたのが金星堂から出ます。直さんの『長男』を出したりしている昔からの店。「三月の第四日曜」をそこの主人のひとが大変感服したのですって。その題にします。これはあなたも御存じの題で私は気に入って居ります。「広場」「おもかげ」「昔の火事」「杉垣」その他『新女苑』にかいた短篇三つ。それからもと、長篇としてかき出した「雑沓」「海流」「道づれ」これはどうなるでしょうか、もう一度よくよみかえして見なければなりません。もし入れば随分分量のある本になります。三つだけで百五十枚ぐらいでしょう、あと二百八十枚ぐらいありますから。これから『婦人朝日』へかくのも入れて。
『新女苑』の六月号の裏を見たら近刊予告の中に私の感想集を出すとかいてありました。これはいつか一寸話のあったので、女のひとのためにかいたもの、随筆その他で、文芸評論は私は別にして、それだけまとめたいと思いますから。女のひとのための教養の書という性質のものをまとめるつもりです、そして、うしろに読書案内をつけます、勿論私の知っている範囲なんてたかがしれていますけれども、それでも何かの役には立つでしょう。それに本年のうちに近代日本の婦人作家がまとまれば私として三種の活動がそれぞれまとめられるわけでまあ悪くもない心持です。金星堂のは松山文雄さんに表幀たのみます、松山さんは今自分の仕事に向ってもはり切っていますから。素朴だがいいと思うの。柳瀬さんのは、透明になりすぎていて、あの画境に疑問もあります。
『都』の「読者論」は、ともかく一生懸命かきました。一部の作家が三四年大衆のための文学と云って、同時に批判の精神なんか必要としていないと、読者の文化水準にかこつけて、その提唱者たちが自己放棄をしたときから、読者と作家との正当な関係は失われたこと、そのときから読者の生活は作者の生活的現実ではなくなったこと、そして、作家は制作から実務(ビジネス)にうつったこと、作家が、読者とのいきさつを正当にとり戻さない限り、読者は作家との正当なありようをもち得ないことなどをかきました。そして文学をてだてとして、常識の日常をかためる典型として石川があらわれていること等を。
 私は作家として、やはり作家の責任というものを感じ、その面との相関的なものとしてでなくては云えません。只の社会現象としてだけ切りはなして大宅氏が、半インテリ論をするようには云えない。そして、それはごく当然のことです。
 さて、『婦人朝日』の三十枚の小説はどんなのをかきましょう。それ迄にこまごましたもの三つ四つまとめておいてね。オランダの女王は六十歳のおばあさんです。そのひとにとって自分の国の堤を切る心持はどのようでしょう。レムブラントの絵はどんなにしまわれるでしょう、ヴァン・ゴッホの絵は。おばあさんの女王は、どんな顔つきで執務して居られることでしょうね。大した働きてだそうです。その姿がフランドル派の絵のようですね。室内の絵の質も歴史とともに様々ね。

 五月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二十日  第三十四信?
 さっきかえって、マアともかく一休みと横になっていたら電報。やっぱり小説の〆切は二十三日でよろしいとのことです。フーッと大息をついて、やっと眼つきが平常になりました。どうも新聞やさん少々かけひきをしてともかく插画だけものにしてしまったのではないかしら。それにしろありがたいわけです。おっしゃるとおり明日夜まで三十枚は神業で、しかも到って人間並のが敢て試みようというのですから、つなわたりのようなわけでした。今月はすこしずつ仕事おくれました、胸がドキつくから。そんなこんなで。あなたまでいそがしがらせて御免なさい。でもたまにはいいでしょう、〆切なんて。あなたのお身にもついているものですから。
 きょうはすこしはれぼったそうでした、どうかよくお休み下さい。疲れて眠れないという晩に、あなたがあがったチョコレートのことなど思い出します。覚えていらっしゃること? 白い紙につつんで、ボンボンの粒々。そういう夜には、きまって私は居ないのね。
 きょうは、丁度中途半端な時間にそちらに行ったのですが、うちにいて、誰かに押しよせられたら目も当てられないので、とにかく出かけ、そちらで手帖出していろいろとこねて居りました。順助さんという若い男が現れます、その従妹の桃子という娘が居て、これはつとめています。二人は互に大変よく気持も分りあって好きなのだけれど、結婚はしない、恋愛には入らないということも分りあっているのです。桃子は、たっぷりやでね、従兄妹同志というようなことで、安心して子供を生めないというようなのはいやなの。「順助さん、従兄なんかに生れて来るんだもの」そういう娘。順助さんは若い勤め人。友人の妹ともしかしたら結婚していい心持になるが、娘と親とは順助が出征するかもしれない――殆どする、ということで進まない。順助はだから結婚生活をもしておきたいのに。桃子にはそれが分るのですが。今日の若い娘とその周囲とは結婚がむずかしくなって来ているにつれて女の生活の安定の目やすから対手を見る打算がつよくなって来ている。反面、青年の心にはもっとずっと人生的な思いで、妻というものを考える心持がある。それは女の今という時代を経てゆくゆきかたとちょっとちがっていて、男の心の寂しさです。桃子の母は、つとめている娘は猶対手が見つかりにくいと云ってこの頃は気を揉む。だが、それならつとめをやめていつ誰があるというのでしょう?
 現代のそういう問題をかいて見ようという次第です。三十枚では無理? こんなことでもフランスあたりと若い女の歴史の経過しかたが大変ちがって、桃子はそのことも考える、そういう娘です。題はまだないの。

 さて、ここまで二十日にかいて、二十三日にこの小説かき終り。「夜の若葉」という題です。三十四枚なり。
 きょうはもう二十八日なのですが(この間に二冊の本の原稿整理)、この手紙の前に十九日にかいていると思いますが、どうかして私の方の手帖にはかきこんでないのです。着きましたろうか、尤も十九日には、二種類の原稿をかいているのですが。どうも余りごたつくので。でも十八日は日比谷でしたからかいたわけねえ。はっきりしないなんて、御免なさい。
 きょうは上気したお顔でしたが、大分お疲れになったでしょう? うしろから見ていると、背中の左側に力が入って何だか気にかかりました。本当におつかれでしょうね、呉々お大切に。きょうは、初めての日のあとに私が手紙で書いた感想を益※(二の字点、1-2-22)切実に感じました。文学においてもリアリスムというものが、どんなに明確、客観的な土台の上になければならないかということに通じた感銘です、そして、私はつよくアダプタビリティというものの本質を覚りました。文学上の表現、再現、読者に本質のことをわからせてゆくための表現法の上の必要なアダプタビリティというものは、決して、それ自身方便的な云いまわしではなくて、表現しようとする事物の核心のはっきりしたとらえかた、テーマのはっきりした把握、その必要の範囲への理解などから生じるものであって、やはりここに云えることは真のリアリズムの生命的なリアルな動きというものです、それとしてあらわれるのが文学において正しい表現としてのアダプタビリティである、実にそう思い、大変多くのことを考えました。
 ねえ、そして、私には一つの深い深いよろこびがあります。それは時間と成長とのいきさつのことです。何年間というようにして数えられる年限、そして、その時間の外皮は文学のリアリズムを固定させるかのような条件であるにかかわらず、生活の力と生長の力はその外皮の予想を克服して実に感覚として今日をとらえているということは何といううれしさでしょう。つよくそのことにうたれました。資質のほんとの良質、それとたゆみない努力、感受性、それらに満腔の拍手を送りたいと思います。評論記述のこの美しさを書いている人自身果して私が感じるほどにつよく知っているでしょうか、或は知らず天真のところがとりもなおさず、そのよさの生粋さであるのかもしれませんけれども。ああと私は思うのよ、あの文芸評論の骨格はこのように成熟して来ている、と。
 こんな様々の感想をもって、一休みして、夕飯に下りたら島田から速達が来ています、何だろう、と云ってあけたら、「本日は至急御通知することが出来ました」という冒頭で、達治の嫁がきまり、先方はいそがしくもあるし七日以後にと申しますが、当日の式服だけでよいからということにして、お客は秋になってすることにし、式を六月六日に挙行。「六月四日に法事早メマス」とお母さん、ペンの跡淋漓りんりというはりきりかたでお書きです。前の河村の親類の高森の熊野写真館の心配で玖珂くがの迫口家の三女二十一歳とも子という人だそうです、体格良、女学校は優等、という達ちゃんかねてのぞみの条件で、おまけに美人の由です、大変結構です。多賀ちゃんも前にこのひとのことが話にのぼっていたのを知っていたそうです、玖珂の迫口というとあああの家というところだそうですね、御存じ? 父親という人はアメリカにいる由、息子も本年中学を出て今春渡米したそうです。仲人も土地では家柄だそうです、達ちゃん伍長になるとなかなか万事らくと大笑いです。
 まあこれで私たちほんとに安心いたします、よかったこと、ねえ。でも、これも大笑いなのですが、何と急なさわぎでしょう、私の閉口ぶりお察し下さい。お法事が四日では三日の桜で立たなければなりません、六日におめでたい式につらなるためには。それのための服装が入用です、東京でのようにはゆきませんから。それを大至急作らなければなりませんが、私はこの丸さ故、かり着一切だめ、出来合も間に合わず。可哀そうでしょう? 黒の裾模様というものがいるのよ、これはいくら原稿紙に描写しても着られないのですものね、あした大童です、しかも三日迄夜の目もねずの勢で仕事片づけなくては行かれないし。そういう裾模様を着て厚くて大きい丸帯をしめて、お姉様は兄の代理にいくつおじぎしたらいいのでしょうか、あなうれしや苦しや。式は高森というところの佐伯屋という家で双方出合って出合結婚(とかいてある)をなさる由です。
 お祝に、お父さんのときほど持って参りましょうね。お嫁さんとお嫁さんの実家へはどんなお土産がいるでしょう、お嫁さんへは何か私たちから記念になるものをあげるべきでしょうから。お実家へはのりのつめ合わせでもあげましょう、それでいいでしょう? 余り柄にないことすると、これからずっとのことですから。お嫁さんへは御木本から買ってゆきましょうか、指環でも。
 私は本が出る年でよかったとしんから思います。明日おめにかかってこのよろこばしき不意打ちをおきかせいたします。
 私はこれから十五枚ほどのものをかかなければなりません、そして、三日までは残念ながら二十四時間を手前勝手に区切ってつかわなければなりそうもありません、どうぞあしからず。
 富ちゃんの方はどうするのでしょう、「きのう家へかえった、あとふみ」という電報が来ました、家へかえったのは一人なのか二人づれなのか。こちらの方のことに関しては、おっしゃるとおりにいたしますからどうぞ御安心下さい。自分の感情でほどをはずれたことはしないつもりですし。又そのような立場でもないし。
 お母さんは全く上気のぼせて眼をキラつかせていらっしゃる様子が文面に溢れて居ります。どっちにしろ多賀ちゃんをつれてゆきます。そういう忙しさで私一人では助手なしでは迚もつかれてしまいますから。多賀子もあれこれで亢奮つづきです、いろいろなことがある年ね、ではこの手紙はおしまい。本当にお大事に。

 五月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月三十日  第三十五信
 ここで一寸一休み。今かの子の「丸の内草話」というのをよんでいるところです。もう電燈がついていますが、窓外はやや曇った夕方の薄明るさ。きょうはここはすいて居てしずかで、時計の音がきこえます。六時五分すぎ。そちらからずっとまわって来て、日比谷で更科をたべてそしてここへかけて居るわけです。
『ダイヤモンド』六月二十一日とおっしゃったわね、外へ出てすぐたかちゃんに電話かけて(私のかえるのは九時ですから)たのんで、フラフラ歩き出したらおやと思って、まアまだ六月になりもしないのに、と笑えました。きっと五月二十一日のを買うでしょう、それで、『チボー家』のつづき三冊速達いたしました。
 雨が今夜降るという予報です、この風はしっ気を帯びていてそんな風です、達ちゃんの御婚礼の日も降るかしら。雨降って地かたまると縁起を祝います、それもあるけれど、水道の水がたっぷりになり苗代が出来るのは一層何よりです。苗代がこしらえられないと、梅雨になったって植つけに困りますものね、山口、岡山、大変な減収です、植えつけたん別も少くなっています。
 私は、六日にお式が終って、八日に里がえりがすんだら二三日野原へとまります。それから島田へかえって帰京いたしましょう。十三日には是非かえっていなければいけませんから、十五日として、ね。十日ほどの留守です。
 今、本から目をはなし(つまらないの)鉄柵越しに見える街路の植込みの草やそとを通る自転車やらを見ていたら風がひいやりとするせいか、何だか一寸東京を離れるのがいやなようです。淋しいというとつよすぎる表現ですが。いつもこれまでこんな気がしたかしら。余り忙しいものだからかしら。どうにもこうにも行かねばならず、でさえこれだから休みになかなか出られないわけですね。三日の朝そちらへ行きましょうね。二日夜どおししても仕事を片づけるつもりですから。たか子と二人故私は安心して居眠りつづきでもかまわないから。
 婦人のためにかいたものの内容は、そういう巻頭的なものといろいろの時評を内容とした随筆と、若い女のひとのためにもなると思うような文学的評論と合わせて五百枚一寸です。題をいろいろ考えていたのですが、『明日への精神』というのはどうでしょう、もっと柔かくとも思ったけれど、これは決して堅いというのではないでしょう? 流動性もあるでしょう、頭をもたげた味もあるように思いますがどうでしょう、これはさっきそちらのドアの外で、ベンチにかけていて、フイと思い浮んだのです、校正の出る迄に考えようと思っていたものだから。わるくないでしょう? きょうかえったら原稿紙へ書いて見てもう一度見なおしましょう。(あら、となりの女のひとも手紙かいている)小説集は『三月の第四日曜』。内に入るのはそれと、「昔の火事」「おもかげ」「広場」「築地河岸」「鏡の中の月」「夜の若葉」もう一つ。「刻々」という題でかいたのをすこし手を入れて、別の名をつけて。三百枚ばかりです、短篇の方は二千しかすらないのですって。
 もう一つの方は何部するのか。この間その係のひとが赤と紺の縞のネクタイして来て、何だか上っていて、その話しないでかえってしまいました。やっぱり同じぐらいかもしれず。短篇は松山氏にあとのは寿江子がします、私にしろというのだが、それは寿江子の方がいいわ、上手ですから。『昼夜随筆』というのも寿江子がしました。
『文芸』のつづきのは今昭和十―十二です。十二―十四と大体もう一二回で終ります、そしたら自然主義の時代のところをもうすこし直して明治初年(二十年以前)をすこしかきたして、それでまとまります。秋、本に出来ます。これはいつかいただいた題よ、『近代日本の婦人作家』ちゃんとしていていいこと。
 そういえば、私が本のうしろに捺す印を黄楊つげで手紙の字からこしらえて、いつか押しておめにかけたの覚えていらっしゃるでしょうか。あれいいでしょう? 一生つかうように黄楊にしたのです、水晶ではわれますから。一番はじめ父がこしらえてくれた真円の中に百合子と図案風に入れたのはかけて、輪がかけました。
 こんどは野原へ泊りに行ってからでないと手紙かけませんでしょう、だって二階は若御夫婦の巣ですから、下にいるのだから、キャーキャーパタパタシュウシュウ(これはポンプの音よ)ですものね。お風邪めさないように。さ、又はじめます。ここの電燈はすこし暗いこと、夕飯はかえってから。では出かける迄に又。
〔欄外に〕ここにいるとお客のないことだけはたしかで、一安心ね。

 六月二日午後 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書 速達)〕

 六月二日  第三十六信
 きょうはむしあついこと。その上、私は何と上気のぼせていることでしょう! 世間では二兎を追うべからずと申しますが、仕事と、本を見つけることと、旅行の仕度と三兎を追っていて、到頭ネをあげて、『文芸』のつづきはのばしてしまいました。一日図書館が休業であったためにこの始末です。しかし、今夜眠らずそれをかいて、又明夜は汽車の中ですぐ御法事で、その次の夜はどうせ家じゅうそわついているというのよりは、却って今夜どっさり眠るのがよろしいでしょう。『セルパン』のも到頭なげ出しました。でもまアようございます。今印刷屋へ電話をかけて、そのこと云って、一息ついたところ。
 本のこと、実に思うにまかせません、今夜音羽へ行って、よく説明して来ます、明朝は行けないそうですから。富士見町の方は三日午後より七日迄留守の由です。
 私は十三日のうちにかえります、広島を夜中に通る特急にのって、こちらへは十三日の午後につくことになりましょう。
 きょうは、四日迄に砂糖とマッチの切符を購買組合にやらなければならず、おミヤさんではだめ故、手紙で送る手筈をし。うちは家族三人でマッチは普通の形の一包みです。砂糖は〇・六斤一人ずつで、一斤八です。これは別のところでは通用しない切符です。この紙の六つ切ぐらいのに、卒業証書のように東京市の印が朱で押してあって、面白いものです。こういう種類のクーポンに儀礼の様式がいかにも日本らしいところで。一ヵ月ずつ隣組でくばるのでしょうか。隣組の責任者の用事もすくなくないわけです。
 私は購買組合ですが、そういうところから物を買っていないところは、例えばふだんとっている三河屋というような店へその切符をやるのです、三河屋がその切符をまとめて、市へかえすのらしい様です。店もそういうクーポンによって配給をうけるのですから。もう島田へお砂糖もお送り出来ません。
 私が立つ迄に、お手紙がつけばいいこと、あやしいかしら。
 寿江子は七日にそちらへ上ります。私はいろいろのコンディションから、きょうは本当にくたびれていること。これからすこし横になりましょう。あした汽車にのりこんで、スーと動き出したら、どんなにヤレヤレといい心持でしょう、さぞさぞ、眠ることでしょうね。となりがたかちゃんで本当に気が楽です、体のうしろへ脚をのばさせても貰えますし。野原へ息ぬきにゆくのもたのしみです、変った町の様子や、お嫁さんの可愛さや、又こまかく申上げます。どうぞおたのしみに。

 六月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡周南町上島田より(封書)〕

 六月九日  島田第一信
 ここは野原の家の座敷の廊下です。気持のいい海辺らしい風が吹いていて、同じ廊下のところにおいてある机で冨美子が宿題をしています。すぐ庭先の鶏舎の朝鮮人の長屋で子供がヤーヤーヤーとないていて、母親が、パアパア何とかとこわいような優しいような声を出して薪をわっています。多賀子はとなりの部屋で虹ヶ浜駅へ特急券をかいにゆく仕度をしていて、富雄さんは昼寝にかえって来ているところ。
 ゆうべは初めてゆっくりたくさん眠って、きょうは何と久々にいい心持でしょう。ずっとお元気? 手紙いつ来るのかと思っていらっしゃるでしょうね。
 さて、三日に立って四日朝着いたら、駅に達ちゃんが出迎えていました。すっかり肩や胸に厚みが出て丈夫そうに艷々つやつやした五分苅ボーイです、背はあなたとおつかつよ。家へついて見たらもう御法事の仕度でごったかえっています。台所じゅういろいろのものを並べて。十一時からお式が始り。山崎の小父さん、富ちゃんなど、野原の小母さんも見えました。お祖母さまの十七年忌も一緒でしたのね。光井のお寺の、顎を上へつきあげたような顔をしている坊さんが、小坊主をつれて来てお経をよみました。この坊さんはこの間気がふれたのですって。畑で蛇をつかまえてそこにいるお百姓に、これを食えと云ったが、どうもそういうものはと辞退したら、そんなら俺が食うと云ってくってしまったのだって。光井の家へ来てどなって叫んだそうです(何と叫んだかは知らず)。その人がケロリとして(癒ったのですって)お経をあげました。
 それからおきまりのお膳が出ました、ああいうときのお膳の上のもの覚えていらっしゃる? 黒塗のおひらにパンが入っていたりいろいろ面白い。私もお客様というので、そこへ坐って頂きました。
 それからお墓詣り。それから光井の寺詣り。これは達ちゃんと私とが総代でやりました。
 三年回でしたから、私たちからのお供えとして、丸帯の立派なのをこわして仏壇の「うちしき」をこしらえてもって行きました。お気に入った様子です。光井へゆく途中はまるで昔日のおもかげなしとなりました。あの島田市までの途中も家が建ち、道普しんしているけれど、島田市から野原迄と云ったら全く全貌をあらためる、という言葉どおりです。工廠の門へ一直線になる十二間道路が今までの道の左へ山を切りひらいてずっとお寺の下まで通って、うちの裏山はすっかり赤い土肌を見せ、そこにクラブと官舎の建物が立ちました。トロッコ土掘り、トロの線路の踏切番、女がどっさり働いています。三つの池がひっそりと並んでいた山路のところね、あすこは山の頂に貯水場をつくるのだそうで、池はどこかへ消えてしまって、人夫がその辺蟻のように見えています。まだ形もきまらず、あっちこっちほりかえされ土肌をむき出し、荒々しい眺めです。しかし野原の一本ママのはずれからこっちは、やはり大した変化もなしです、まだ。しかし、この一本道の両側だけ昔からの家々がのこされて、ぐるりはすっかりこの工場の附属物でかこまれるわけです。
 魚なんか三倍ぐらい高騰していて殆ど東京なみです。もとは一匹ずつ売っていたでしょう? それが切身だって。その代り夕方でも魚が手に入るようになりました。
 四日はそれで一日バタバタで、五日は次の日の準備のために私はいろいろの包ものに字をかいたり例によって書記。
 五日は晴天で助りました。三時にお母さん、達ちゃん、私、山崎の小父さま、一つ車にのって、高森というところの佐伯屋という料理屋へゆきました。そこへ行ってから又一しきりいろいろの打ち合わせで、式がはじまったのは六時頃でした。達ちゃん、黒い紋服袴でなかなかよく似合いました。二階の座敷二つぶちぬいたところへ先ずこちらの一統が並んで着席。すると、控間から父親代りの人がトップを切ってお母さんお嫁さん(裾模様、つのかくし)の手をかいぞえの髪結がとってしずしずとあらわれて、向い側に着席。仲人の挨拶があって「これはお嫁さんからのお土産でございます」と大ふくさをかけたものをもち出しました。こちらでは徳山の岩本の主人がモーニング姿で出て、目録をあけて見て、又しまって、四角四面なあいさつをします。何だか私はへーんな気になって、この美しくて儀式ばっていて、しかも野蛮なようなことがらを眺めました。お嫁さんの方だけお土産というものをもって、そして来るのですものね。それからお盃があって、それがすんで座を改めてお祝いの席に代る間写真をとりましたが、達ちゃんは流汗淋漓です、私も。坐っているのが苦しくて。殆ど気がボーッとなる位です、達ちゃんポロポロ汗を流し(足のいたいのをこらえるため)眼をキラキラさせて(これはうれしさもあり)皆にあおいで貰っています。そこへ、私のところへ御面会になりたいという方が制服でモールつきで御来訪。敬意を表されたのだそうです。御婚礼の場所へまでわざわざ御苦労様とよく申しました。常識ではないことですからね。(下関、徳山間海港警備という新しいシステムが出来たのですって、本年から。万端の様子がそのために従前とはまるでちがいます)
 それからこんどはお仲人の河村夫妻、写真屋さん夫妻が正座になおり、新郎新婦はそれぞれの親族の末席に坐ってお膳が出ました。この御仲人は二組の内輪のもので、並んで坐って、うちわの話みたいなことしていて、ちっとも双方の親族の間に話を仲介することなどしらないのです。河村の主人、袴を膝の下に敷きこんで坐ってだまってのんでたべて、おかみさんがスーとすましてわきからその袴をちょいとひっぱると、あわてて膝の下から大切の袴をひき出して坐り直すという好風景です。お母さんというひとの武骨な指にダイアモンドが輝いています。お盃を女中がとりもってあっちこっちへ儀礼的にうけわたしするだけ。ちっとも話をしないの。互の親族は。これは大変奇妙でした。その間にお嫁さんは立って黒の裾模様を訪問着にかえ、すこし坐っていて又立って、こんどは友禅のものにかえ、又すこし立って別の着物にかえ、そしてこちらの親族の一人一人に「不束ふつつかな者でございますが何卒なにとぞよろしく」と挨拶してはお盃を出します。お酌をするの。(私はこれを達ちゃんの出征のときやったのよ)
 お嫁さんは本当に達ちゃんには立派すぎる位です。田舎者などと云うけれど(島田では大変町方と思っているのです、自分の方を!)それどころか悧溌そうなふっくりと初々しい可愛いはっきりした娘さんです。十時すぎ一つの車にお母さんと若夫婦、かみゆい、次の車の私、河村夫妻、富ちゃんとのってかえりました。近所の人が見物に出ている。井村さん、岩本さん、徳山ゆきの十時五十何分かにのりおくれて次は二時二十五分とかで、店へ一寸ふとんをかけてごろねをし、私たちはお茶づけをたべ、たっちゃんたちは二階へ彼等の巣をかまえました。
 が、巣と云っても、本当にこういう形式のお嫁とりは気の毒ね。私何だか可哀そうで、二人きりにしてやりたくて五日の日に「二人を一寸旅行に出してやったらどうかしら」と云ったの、そしたら、私がおなじみになるように「一度そんな話があったのだけれど未定ということにした」というので「そんなこと全く意味ないから是非やりましょう」と電話かけて、宿屋の交渉してやって、湯野という温泉へお里がえりからまっすぐ出かけることになりました。
 七日にはお嫁さんは丸髷にゆって、又お式のときの衣類をすっかりつけて、お母さんもその通りで、組合[自注2]の家々を挨拶してまわりました。
 八日に十時から、こんどはあたり前の髪と訪問着とでお里へ夫婦、母上とで出かけ、十二時何分かで戸田へたまで立った由です。
 まあどんなにっとしたでしょう、ねえ。六日の夜お式からかえって来て、達ちゃんが二階へゆくのに、はずみがなくてバツがわるいだろうと思って、「さあ、これをもって行っておやり」と私たちのおくりものの真珠の指環をもたせてあげてやりました。丁度薬指にはまりましたって、太い方のを買って、どうかしらと心配していたのによかったと思います、中指に入らず薬指だというのも可愛い。そんなにむっちりした娘さんなの。大体大変可愛いひとです、達ちゃんより頭脳は緻密です。何しろ女学校の優等生ですから。いかにもそれらしい字をかきます、お父さんはワイオミング州にいるのですって。でもやっぱり何を商売にしているのかは不明です。お式のとき私がお母さんに挨拶して「あちらは、何をおやりです。木材か何かですか」ときいたらお母さん「さア何と申しましょう」と云うきりなの。これもなかなか面白いでしょう? この辺ではアメリカへ行っていると云えば金を儲けるために行っている、でもう何もきかないで、安心しているのですって。だから私もきかないことにしました。何をしていたっていいのに、どうしておかみさんも云わず仲人も知らずで、それですんでいるか実に愉快です。姉と妹と弟で、弟は中学を出てやはり父の方へ行った由。
 昨夜は大笑いよ、皆二人ずつでくつろいでいると、お母さん、岩本の小母上(これは島田の家)、私と多賀ちゃん(これは野原組)、あちらの若夫婦。やっとめいめい吻っとしているのでしょう。私はきょうはやっといつもの皮膚になりました。お式のときの着物、真新しいのが帯の下すっかりちぢんでしまった。何しろ大したお辞儀の数ですから。これでもまだ簡略の由です。あたり前だと次の日即ち七日にひるは女客、夜は男客で、ごったかえすのだそうですから。
 きょうあたりはきっとお母さん何となしおねむいでしょう、さぞつかれが出たでしょう、何しろ話がきまってから十二日間というスピード婚礼ですから。お嫁さんはもう家へ来たひとという心持でいることがよくわかります。決してどうかしらとは思っていないわ。お里のお母さんには、私たちのお土産としていいパナマのハンドバッグをおくりました。
 お嫁さんにその兄夫婦からおくりものをするというようなことは例のないことなのですって。ですから大変およろこびです、かいぞえの髪結さんは、これ迄何百のお嫁さんをお世話したが云々と、さかんにここの花嫁の幸運を讚えて居りました。二人とも互が気に入っているらしいから何よりです。お里がえりに出かけるとき、達ちゃんのお仕度がかりは私でね、いいネクタイもって行ってやって、林町の銀のバックルとともに大いに光彩を添えました。コードバンの靴にスフ入りの背広で、万年筆はチョッキの胸ポケットへさすものと初めて会得して、颯爽さっそうと出発いたしました。
 この分はこれで終り、つづけてもう一つかきます。

[自注2]組合――隣組のような町内の組合。

 六月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月九日  島田からの第二信
 さて、又つづきを。
 島田宛の三日づけのお手紙ありがとう、案外に早く五日ごろ頂きました。
 あなたが達ちゃん宛におかきになった速達を、着いたらすぐ読ませて頂きました。本当に懇ろにいろいろおっしゃってあり、達ちゃんも様々に考えましたろう。夫妻ということについてあのひとはいろいろ、あちらにいる間も考えて来たようです。どういうことが夫婦として最大の不幸と不安であるかということも沁々とわかってかえったらしい風です。周囲で、その不安が非常に語られて居り、現実のこととしても多くあったらしく。
 きっとちゃんとやってゆくでしょう、ちゃんとしたそして十分愛らしい娘さんですから。お酒のことだって、本当よ。でもあなた迄それを仰云るのは、きっと多賀ちゃんお前が喋ったからだろうって、お母さんお叱りになった由。面白いわねえ、私たちには何とどっさりのことがかくされて体裁をつくろわれて在ることでしょう、そのこと考えると、可笑おかしいやら妙なやら。健康のこと、結婚話がきまってから証明書のようなものを貰ったそうです、お母さんのお話。見たところも日やけ酒やけしているが、達ちゃんごく丈夫そうですからいいでしょう。
 昨夜は富ちゃんとすっかり話してね。ここの家へ来て座敷へ通ったら紫檀の卓の上に、まるで七八十歳の爺さんでもいじりそうな、ろくでもない小さい茶道具がずらりと並べてあってね、私は何とも云えず物哀れを感じました。だって、昼間は土まびれで火薬だ土方だと、巻ゲートルで働いていて、うちへかえれば母と小さい妹とだけで、そしてこんな古道具屋のまねみたいなことしているのかと思ったら本当に哀れになってしまった。富ちゃんの気持もずっと二半でいたらしいのです、この頃は。
 でも、この家の人たちの気分というものもなかなか一つあります。何というのかしら、小父さんがずっとああいう生活で、まともな道を日々ちゃんちゃんと踏んで生活して来ていないから、こういうことに対する一同の態度も、どこやら自主的にテキパキしないで、一つの力が常に家庭に欠けている。モティーブのはっきりしない日々なのね。だから小母さんなんか富ちゃんに対して、ハラハラハラハラしながら口では二言めには、きもやき息子と云って、しかも息子にこきつかわれていらっしゃる。いろいろの家の風は複雑ですね。本当にそう思う。
 島田の家では、子供でも出来たら、子供が集注した注意で学校の勉強の出来るような場所と空気をつくってやることが必須ですし、あすこで勉強ずきの子供なんか出来っこないもの、ゆかが絶えずゆすれるような落付かなさで。友子さんは今のところそういうガサガサバタバタではないし、おそらくそうはならないでしょうが。島田の方は又モティーヴが素朴単純にハッキリしすぎている――曰ク儲けにゃならぬ。このモティーヴもなかなか苛烈に人間を追いたくって居りますからね。その根の深く広いこと、実に実におどろくばかりですから。
 しかし島田の商売はなかなかむずかしいようです。十ヵ村の肥料配給の元しめになったはいいが、あちこちから送りつける肥料の為替は皆島田の家で、一応切っておかねばならず、その嵩が常に何百円という嵩で猶加入している肥料店が、申込んで配給させた肥料を受けとるとか、受けとらないとかいうことも云えるらしいのですね、これは大したリスクなわけで、きのうも、どこそこがこの干天で何々という肥料は出まいから、受けないと云って来たと云ってカンカンでした。すると、その売れない肥料何百円――五百何十円か――はうちの負担になる由。マア何とかそこは又捌けるのでしょうが、この為替切りには大分お母さんフーフーです。御無理ないと思います。まして共同申込をした店がうちに対して受けないと云えるというようなのはいかにも統制のアナーキスティックなところで、意外のようです。
 旱天は島田あたりは幾分ましで麦も収穫されましたが、広島のあたりはひどくて、麦が雑草みたいに立っていました。そして、お父さんのおかくれになった年は、裏の田圃であのように鳴いていた蛙が今年は全く鳴きません。丁度同じ季節に来ているのですけれど。それにこの野原の庭石の白く乾いていること! 苔の美しいのがすっかり消えてしまって雑草だけのこっていること。雨がふらなかったら本当に大変ということはよく一目に理解されます。
 野原のお墓は山の奥へうつりました。今夕皆でお詣りに出かけようかと云っています。割合遠いらしい様子です。今にここが完成してしまったら、もう、いろいろの意味でおちおち来られもしないところになりそうですね。大体島田もそうです、何時にどこに行く、何日にかえるでは行ったっておちおちしなくて腹立たしい。
 これからはお母さんをお呼び出しして一緒に旅行するのが一番いい方法ということになりそうです。その方が周囲も気が楽でね。私たちは予定どおり十二日に立って十三日の午後東京へつきます。エーテル・マーニンというひとのこと、その婦人作家のこと月報ですか? 東京堂の。あの海鳥何とかいうところ? 何か微苦笑的対比があったの? 私はちっとも存じませんでした。イギリスの※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ージニア・ウルフだって小説のほか評論・感想いろいろ書いて居ります。外国のちゃんとした作家の活動の圏は皆その位です。マーニン女史のみならず。「街から風車場へ」は大学先生の甘さね、あの調子。実際、あの甘さは彼の白足袋とちょいと下げている合切袋趣味から出て居るものです、オウドゥウはああではないのですものね。おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。

 六月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十日  島田第三信
 きのうはお墓詣りに出かけず、けさ早くおきてひる前三人で出かけました。お墓は元の畑の中の場所から引越してずっとうしろの山の方です。家を出て裏の畑へ出て、新しく出来ている六間通りを一寸行って右へお社へのぼります。お社のところよく覚えていらっしゃるでしょう? あの右手の山々にずっとクラブや官舎が出来かかっているのです。お社は昔のとおりです。多賀ちゃん曰ク「東京で考えていたよりずっと奇麗さがへっちょるようだ。」お鈴を鳴らしてなかをのぞいたら、「宮本捨吉明治三十年奉納」の豊公幼時の胆と矢矧やはぎの橋の上の小六の槍の石づきをとらえている小さいごろつきのような豊公の絵があって大笑いしました。それも覚えていらっしゃる? お社のお祭のときはあの石の段々に蝋燭の火をずっとつけつらねるのですってね、それは小学校の女の子の役だったのだってね。
 お宮の裏に小松と山帰来とひうちごろの生えた砂山がありますでしょう? あすこはまるで小公園ね。すっかり水無瀬島から下松から室積が展望されますね、ああ気持がいい、いい気持、と私はよろこびました、松の梢がぎっしり古い松ぼっくりをつけていて、若々しく青い松ぼっくりも出来ていて、古い松ぼっくりはおじいさん、若い松ぼっくりは少年という風情です、あの山のいろんな茂みの間を、カスリの着物を着た男の子のあなたが遊びまわる様子を描きました。
 それから、もっと大きくなっても、きっとあすこへはおのぼりになったのでしょうね、松の蔭にねころがったでしょう? そしてそのような時代になっての心は又それらしく、ね。
 私は様々にそんなことを考えながら心持よく風にふかれ、段々奥へ入って行って、あの山からぐるりとまわって(左へ)あたり前の山中らしくぜんまいなど生えた径をぬけるとお墓がありました。そこへあのれんげ草のなかの一かたまりが移ったのです、うちのは、あのまま元の白い砂迄ちゃんとしいてありました。もって行ったお水をかけ花をさしお線香を立てお辞儀しました。ここも元は竹やぶだったところの由。よく日の当るところです。山懐ではあるけれど。こう書くと大体の見当がおわかりになるでしょうか。それから又同じところへ出て来て暫く砂の上に腰をおろして休みました。そして私は笑うの、上機嫌で。「たまの休暇としてくつろぐがよい、と云っておよこしになったが、まアこれでくつろいだということかね」と。本当に笑ってしまったのよ、あなたのたまの休暇には。考えてみれば、あなたは休暇におかえりになったことしかないのですものね。全権委任大使での出張とは、休暇と何という相異でしょう!
 けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。
 きょうは疲れも殆どぬけて体も苦しくなく軽くなりました。来る前うんと忙しく途中ひどく、すぐつづけさまで、おまけに私の条件がわるくて、相当でした。でもきょうはもう大丈夫ですけれど。
 あなたはいかが? こちらはなかなか暑うございますが。若い二人も今夜はかえって来ます。昼日中二人でよう歩かんから夜かえるのですって。そうねえ、一本道でヤレソレとのぞくんですものね。
 十三日に立ち十四日朝おめにかかります。いろいろの用事、不便をなさいませんでしたか? こちらからの手紙これがおしまいよ、きっと島田へかえると又バタバタですから。ではお元気で。

 六月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十一日  島田第四信
 寿江子から手紙で、お元気らしいというから安心いたしました。森長さんの方へ届けた書類のことも運びました由。単衣のことわからなくて又セルを入れたそうです。御免なさい。もう二日の辛棒よ。
 習俗というものは実に妙ですね。たとえば男のひとで一人前の活動をしている者なら、法事や婚礼の式がすめばその夜でも立ってゆくことに誰も不思議を感じません。ところが女だと、それ以上に忙しくても、すぐその式の後、立ってかえるなどということは、何か其事に不満でも持っているのかという風に考えて、忙しさとして決してうけとれないのね。実にこれは習俗の力だと思います。てんで忙しいということの実感がないんだもの。だから口実と思う。何て可笑しく又困ったことでしょう。
 私はきのう午後野原からかえりました。お母さん、達ちゃんが二年出征していたのに野原は只一度も慰問袋を送らなかったというお話でした、忘れかねておっしゃるお気持よくわかります、そういう場合のことですからね、何しろ。私たちが野原にいろんなことをしてやったって何にも心にこたえてはいないと仰云います、そうらしいところを今度も感じましたが、多賀子にしろ一人で身を立てることが出来る条件だけをつけてやればそれから後は自分の心がけ次第ですから、それでいいと思うの。島田の手つだいをさせられて云々というようなことがいつ迄もあってはいけませんものね。私はそこまでしたらもういいと思っている次第です。野原は或意味で心の持ちかたで底なしよ。その点、実によくない習慣です。気持にちっともしゃんとした自前のところがなくて、外の力を何とかつかうこと、それによって動くことしか考えていず、それは善意の場合でも依頼心のつよさとなって今度のように現れ、さもないときは利用するということになるのです。そういうことについて一家のカンが欠けている。お家の風のようになっている。だから頭の早い動き、というのもその間のことをクルクルと思い当るという程度になってしまってね。冨美子がましな娘であったらば、と思います。いずれにせよ、この二つの家の激しくいがみ合いつつ切れもせずというくされ縁に対して私は絶対中立ですが。
 多賀子を来年の四月頃まで世話して、この夏休みフミ子を遊ばしてやって、それで私の役目はもう十分に終ります。というようなおはなし。
    ――○――
 こちらでも切符で肥料を配給するようになってなかなか新しい事務が殖えて居ります。切符を役場へもってゆかなければなりませんし。若い二人は昨夜十一時頃旅行からかえりました。宿に電話しておいてよかった、以前とはまるでちがった人のこみかただったと達ちゃん大満足でした。花嫁も大分なれて達ちゃんにも口をきくようになりました、人の前で。今、お母さんと、肥料の切符の整理をして居ります、それをうちの帖面にひかえておいて届けるのです。いろんなそんな事務がふえて、この頃のは商売ではなくて事務だということになって来ているのがよく分ります。
 私はサッカレの「虚栄の市」をポチポチよんで第四巻までの終り。一八一二年ナポレオンの退散前後のことをかいていて、トルストイの小説を自然思い合わせ、イギリスのリアリズムというものを考えます。この「ヴァニティ・フェア」は面白い、極めてイギリスらしい小説です。こんなイギリスらしい小説の世界というものは二十世紀の初頭以後はなくなっていますね。サッカレの諷刺とゴーゴリの諷刺との性質の相異も感じます。サッカレのは諷刺においてもイギリス風よ。バーナード・ショウのつよい常識が偏見に対して一つの諷刺として存在しているように当時の英国新興ブルジョア気質、貴族崇拝に対して、サッカレの明るい眼と平静な心が、現実のものを見ていて、それが諷刺となっているというわけに思えます。
 常識というものがイギリスでは偏見に対して諷刺となり、日本の寛さんは、ショウの弟子のようなところから全く質の異った常識に立って通俗小説に行くところ(いつぞや歴史への態度でもふれましたけれど)面白いことね。老セドレとアミーリヤという娘が、株で失敗して苦しい生涯を送っていると、兄息子が印度で大した身分と金とをこさえて来て、それをひろい上げるというところもいかにもあの頃のイギリス気質ですね。ディケンズはいつも慈悲ぶかい紳士貴族を出して救いの神としたし、サッカレはもう一歩進取的で印度の役人にしてちゃんと救いの神の役を演じさせる。こういうところもいかにも面白く思います。日本の小説でこういう慈悲の神はいつも、人情としてしか登場していないことも実に意味ふこうございますね。例えば台湾で大した成功をしている長兄が云々という通俗小説の展開は余りない、人情の背景としての地理的空間は皆無であるか、或はまことに狭くて同じ国というようなところ全く面白い。日本文学の抒情性ということはこんなところにさえひっかかりをもっていて。
 きょうはよむ本が種切れなのよ、可哀想でしょう? そういうときのあなたが、お気の毒であるのと余り大きいちがいはない位可哀想でしょう?
 午後多賀子が広島からかえります、寝台券買えたかしら、あやしいものね。お母さんのおみやげに、到って世帯じみたものを頂きます、ちり紙その他。そして炭も少々送って頂きます。こちらでもお米の在りだかを毎日ききにまわってしらべて居ります。東京も一時そうでしたが。岩波文庫の広告見ていると、ディドロの「ラモーの甥」が本田喜代治訳で出ましたね、この有名な古典はどんなものでしょうね。十四日迄にあと三日ね。明後日の朝こちらを立ちます。一日のびるわけはおめにかかりまして。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 六月十二日  島田第五信
 睡い夏の午後という文句がありますけれど、本当にマア何と睡いのでしょうね。この眠さ。頭のしんがしびれるよう。余り眠いからこの手紙をかき出します。
 今、この暑いのにお母さんは徳山です。達ちゃんたちのお祝を林町から貰って是非何か何かと気をおもみになるから、ではお盆を頂いてかえりましょうと云ったら、それを買いにお出かけになりました。あしたは是非どこかまで友子さんをつれて送ると仰云るので、柳井ではとまらないし広島は遠すぎるし、さっき達ちゃんと相談して宮島までではいらっしゃって頂こうということにしました。大きい嫁、小さい嫁、両手に花(!)の思いをなさりたいのだろうと思ってなるたけ程いいところと一思案したところです。
 宮島をこしらえたのは平清盛ですが、神様は女の守神で、やきもちやきで、すきなひととは行かないところの由。だからお母さんと友ちゃんとならいいわけね。でも女の守神のくせにやきもちやきとは何と飛んだ神様でしょう。女の守りならやきもちをやかない方でよかりそうなのに、もしかしたら御亭主の浮気を割いてやるというわけでなのかしら。
 友子さんはいい子で達ちゃんも御満悦、私も同様ですけれど、今も一寸あっちの話が出て、ロッキー山脈御存じでございますか、あすこの方でロスアンジェルスには日本の人がどっさり居りますけれど、そっちには余りいないという話まで出ているのに、「お父さん、何やっていらっしゃるの」というと、笑って答えず、というのはどういうわけでしょう。何もせんさくするのではないが、やっぱりそのことになると誰も答えない、というのは少くとも私の習慣には馴れにくいのね。その辺は農業ではなくて皆小さい商売をしている人が多いというのですが。手紙でかくと、答えないということに何かありそうにきこえるかもしれませんが、格別そうでもないのかしらないけれど、でも普通なら「店をやって居ります」とか何とか一口で一寸云えるところもあるのでしょうと思うけれど。面白いのね。誰も私のようには感じていないのだから。こっちの家もしゃんとしちょる。庭もひろい。家もいい。仕度もちゃんとせて、でOKになっているのだから、私は別に申し条もないわけですが。お里がえりのとき御覧になったら、あちらの家の机の上に木星社の文芸評論集と『婦人公論』とがちゃんとおいて飾ってありましたそうです、呵々大笑的好風景ではないこと? アメリカの父さんのこともこの式の一面なのかもしれませんね。何となくいろいろ面白い。
 野原の方へどうかと云っていた広島の娘さんのこと、多賀ちゃんきのう行って見てすぐまとまるという望みはないように見て来ました。或はたかちゃんなんか口を利いたりすると、あとで大変そのひとにわるくて困ることになるかもしれません。
 この間の晩あんなに細々といろいろ話して、富ちゃん大いに感謝しているらしかったが、果して現実にどう行動するのか。私にはこう云わにゃというところかもしれず。誰に対してはこう云わにゃ、彼に対してはこう云わにゃ。まるで、では自分のためにはどうしなくてはならないのかというところがフヌケとなっていて。こういうつもりがいろいろの事情でああなったというのではなくてね、土台、ああ云っちょこう、こう云っちょかにゃ、だからいやです。お気の毒とも思いますけれども、しんの腐っているという点はやはりリアルに映ります。今度のことではあの家の悪い習慣の結果が実にまざまざとあらわれて。
 今多賀子は野原よ。あついところを又二人で泣いたり笑ったりしていることでしょう。可哀そうに。永い年月の間、日々の勤勉な生活からつつましく生きて来たのでないということは、或時期にこういう結果をもたらすのでしょうか。多賀子はあっちこっちのいがみ合いからぬけた気持で、人間の生活というものを考えてちゃんと成長しなければなりません。
 きのうから梅雨期に入ったのにこの照りつけかたいかがでしょう。まるで逆に照りつけているようね。うちの井戸水はまだかれませんけれど大恐慌よ、あちこち。もし今年雨がよく降らなければ、と皆愁い顔です、苗代は枯れませんが、これでダーと降ったらすぐぬかないと根がくさるのですって。それ田作り、植かえと大変ね。どうかして降ればようございますが。島田の川は私が初めて見たときから岸の茂みを洗ってひろくたっぷり流れていたのに、この頃は底が見えて居ります、土州が出ている、これは水源池を工場でこしらえているからですって。下の方の田はちっとも水をうけないことになりつつあります。しかし地価は上りますから、それで満足しているそうです。土地を買い上げられた人々は、皆大きい家を建て、それを抵当にしているそうです。そこへ下宿人をおく算段である由。一円何十銭坪で手ばなしたが、今は建てるに坪当り倍の経費がかかりますから。すぐそばに勝手に土地売買しているのは五十円などと云い、村のあらましも様々ね。
 さぞお母さんお汗でしょうから、今お湯をたきつけたところです。今度は吉例ユリのふろたきも只一度ですが、今年の薪はよく燃えてよ、実に見事にもえます、一年越し乾いているわけですから。雨よふれふれ。冬乾いて寒さが特別であったように、乾いた暑さは又格別のことになるでしょう、さア今日は十二日よ。あした朝九時四十二分出発よ。その汽車は東京に向って走るのよ、では。

 六月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 きょうは大分体が大儀らしい御様子に見えました。どうでしょう、大変おつかれになりましたか? 珍しくハンカチーフで顔を拭いていらしたし、セルだったし、何だかすみませんでした。すこし暑すぎて猶体が気分わるくいらっしゃるのではないかしらと思って。きっとそうだったのでしょう、おなかでくたびれていらっしゃるし。ずーっと体を曲げて立っていらして。体の工合のよくないとき、いつもそうなるのね。それで私にわかります、ああきょうはどんな工合かということが。どうかよくお休み下さい。単衣もう送りましたが。
 十日のお手紙かえってみたら着いていました。ありがとう。そちらへ行ってやっとすこし休まった気になって、かえって拝見して、ああ家へかえって嬉しい、嬉しいとつづけざまに云いました。ところで、どう? 島田からの第一の手紙、つきましたろうか。
 四日の御法事のことや六日の御婚礼のことや、くわしくお話したいから、又もう一遍かいて見ます。もし先のがついているにしろ、きっと全部同じというのでもないからお読めになるでしょうし。
 こっちを三時の「さくら」で立ってね。島田へは朝八時何分。駅に浴衣がけの達ちゃんが出ていました。体なんかすっかりがっちりしてね。出る前からみると恰幅がついたというところです。店の外へお母さんが、おお来てあったと云って出ていらっしゃり、家へ入って見ればもう河村のおかみさんその他ふじ山の婆さんなど来て御法事料理をこしらえている騒ぎです。岩本の小母さんが総指揮役。何でも二十九日ごろからずっと御出張のよしです。
 十一時に式がはじまり、野原のお寺の坊さんが来ました。この坊さんはこの間気がふれて畑で蛇をつかまえて、そこにいる人に喰えといって、くわなかったら自分で食ったそうです。でも今はケロリとしているのよ、そしてお経を二通りよみました。お祖母様の十七回忌の由です、だから二つなの。あなたの大好きなお祖母様だったという方でしょうと思って、御焼香いたしました。お父上のは三回忌ですから仏壇に飾る「うちしき」というものをこしらえてゆきました。金襴きんらんなんかこの頃織らないのですって。ですからうちにあった丸帯のちゃんとしたふさわしいのを切ってこしらえてゆきました。立派で御満足。それから御膳を頂いて(ホラおヒラにパンなんかのっているようなお膳)それからお墓へ詣り、それから達ちゃんと私とが代表で野原のお寺へゆきました。あの辺の道は何と変ったでしょう。お寺の下の道ね、あすこをずっと山へ切り通しをつけて拡げ、三つの池のある淋しい優しい風景だったところ、あの辺はすっかり赤土が露出していて貯水池をつくることをやっているのですって。土方、トロその間をハイヤがひどくゆすぶれながら走りました。昔、少年が自転車で通った山の道はもう思い出の道です。私でさえマアあすこがとおどろいて目を見はります。トロの踏切り番をどっかのおかみさんがやっている。女土方がどっさり居ります。
 島田川は水枯れで、酒場ね、何とかいう大きい、あすこの先のとこから光井の工場へ直通の大道路ができて居り、それとは又ちがってお寺の山つづき(光井の家の裏)のクラブや官舎の方へ通じる六間道路があの家のすぐ裏のところ(お宮の下)をとおっていて。昔うちのものだったという山ね、松のある、あの山なんか支那の子供のおけしの前髪みたいに、その一部だけをチョコンとクラブの山の下の赤土のところに出して居ります。
 お寺からかえって(四日)その晩は比較的早寝。五日は、いろいろ明日の準備で私は寿という字をいくつかいたでしょう。
 六日は晴天で何より。おひる御飯なんか味も分らずすまして、一時すぎから支度にかかり、三時に花婿、母上、私、山崎伯父と一つ車で高森の佐伯屋という家にゆきました。達ちゃん黒い衣類に袴、羽織でなかなかよく似合いました。そのときになっても又書くものがあってね、私は私だけ単衣だけれど大汗でそれをかいて、やがて二階の広間へ上り、こちらが着席するとそこへしずしずと嫁がたの父代理母、花嫁(かいぞえの髪結に手をとられ)、他の親類があらわれます。黒い裾模様につのかくし、まるで人形のように現れて、スーと坐ると仲人である熊野さんが何か云って、これはお嫁さんのお土産でございますと何か盛り上げてふくさかけたものを出したの。そしたらこちらから岩本の息子の正敏さんがモーニング姿で出て、目録あけたり、勿体ぶって、幾久しく御参納いたしますという。美しくて、何だか野蛮です、大変妙だった、嫁の方ばっかりそんなお土産なんて。
 それからお盃になり、親族の盃もまわし、その間の足の痛いこと、気が遠くなるばかりでした。それがやっとすんで、いよいよ写真をうつすとなり、そのときの達ちゃんの大汗といったら。パラパラとこぼれて玉をなしました。私は扇でパタパタあおいでやって、やっぱり脚の苦しいので玉の汗なのよ。花嫁さんと二人でとり、それから皆でとり、それからお祝の席となりました。その間に花嫁はスーと立っては着物をきかえてき、又スーとたっては着物をきかえて来て、三四度そうやって、やがて一人一人の前へ、不束なものでございますがよろしくと挨拶してお酌をしてまわるの。これもお嫁さんだけ。やっぱり気の毒よ。見ていて気の毒で可哀そうよ。それから十時すぎうちへかえりました、やっぱり髪結がついて。
 やれやれという工合で下でお茶づけをたべ、達ちゃん二階へゆくのに何かばつがわるそう故、指環出してやって、これもってってあげなさいと助け舟出してやりました。
 七日の朝は若い二人とも機嫌よい笑顔でようございました。お嫁さんは御飯のとき一寸下へ来るきりなの。そして夕刻から髪結が丸髷に結ってやって、又きのうの式のときそっくりの大した装をして、お母さんもそのなりをして、提灯つけて組合の家々をまわりなさいました。そしてかえって来てお嫁さんは髪を洗い、八日の里がえりの準備です。大したものでしょう? 全く飾られ、見られるための結ったり、といたり、着たりぬいだりです。ふだんだと式を家でして、そのまま夜通し客がいるのですってね。そして朝はもう女客、夜男客というのだってね。そういうお客は秋だそうです。そのときまでにお支度(キモノ、タンスその他)するのだそうです。
 八日にお母さんと三人玖珂クガまで行って、そこから湯野に出かけたわけでした。
 友子さんという子は可愛いひとよ。眼が三白サンパクっぽい(きっとそれが魅力なのよ達ちゃんに。だって婦人雑誌の口絵の女はそういう眼か、さもなくば睫毛の煙ったようなのですから)丸っぽい顔で、しなやかで、笑うときなかなかゆたかです。言葉だって何だってちっとも田舎ではありません。声もいいわ、ふくみ声の調子だけれど、ガラガラではないし。利発です、頭もこまかい。きっと大丈夫やってゆきますでしょう。ふっくりした手の指に私たちからあげた真珠の指環はめて、なかなか愛らしい花嫁です。島田のうちがヤレソレ、パタパタだからびっくりしているでしょう、せわしいんだもの。御飯たべるのも達ちゃんかげんしてゆっくりたべて上げなさい、さもないと友子さん一人のこるのだからやせちまうよ、というものだから、ちゃんとスピードおとしてゆっくりたべてあげて、達ちゃんもいい良人になろうとしているからようございます。あれなら女房は女房で、なんてことにはなりますまい。友ちゃんも達ちゃんがすきらしいわ。いいことね。
 私友子さんを見て自分が別格嫁なのを痛感した次第ですし、達ちゃんのお嫁さんの必須な人なのを一層明瞭にしました。お母さんのお傍にああいう調子でものの仰云れる若いひとが出来てやっと安心しました。こうおしね、ああおし、そうだろうという風にやっていらっしゃいます、そうでなくてはね。河村夫妻、熊野夫妻、鼻高々です。この二軒へは、まあ兄として謝意を表する意味で、塗物に銀で扇面をちらしたシガレットケース一組ずつおくりました。〔中略〕
 マア、そんなあんばいです。お祝にはお話していただけお金もってゆきました。
 我々がなかなか一役を演じていてね。木星社の文芸評論と『婦人公論』が、ちゃんと迫口サコグチの家の机の上におかれて居ります由、何と呵々大笑的好風景でしょう!
 そのおねえさんがあしたかえるという十二日の夕飯時には、お仲人である熊野夫妻が来たものだから、腰へ手拭つけて汗をふきふき台所をひきうけて、野菜サラダにキャベジまきにおつゆに何と、こしらえるというのも一つの風景です。茶の間で熊野写真屋氏がおかみさんにお前こういうものをしっちょるか、一向拵えんが、どうで、などとやっている。とにかくお仲人となると、写真とって貰うときとは全く関係がかわるから面白いところあり、又機微もあり。お母さんはお母さんで、大きい嫁は大きい嫁なりに、小さい嫁は又それなりにちょいちょいと御自慢でね。ああいう仕事するひとだから、こんなことようしまいと思っちょったらどうして上手でと、東京へ行ったとき何をたべたというようなお話で、お兄さんのお嫁さんも決して東京の奥さんたるコケンをはずかしめぬというわけです。岩本の小母さんはこま鼠で私は動かない。〔中略〕私は見物という役をひきうけます。どんな役者だって見物がなくては張合いないのだから私は見物という役を買いましょう。旅費をかけてはるばる来た見物だから、小母さま張合がおありでしょう、と笑うもんだから仕様ことなしつれ笑いでね。マア、そんな小風景もあるわけです。寝てもおきても人のなかで、私は苦しいから、ちょいとすきがあるとサッカレーの「虚栄の市」よんで。そのこと書いた手紙はつきましたか?〔中略〕
 その七日の近所まわりのおかえしと称して九日の夜にはゾロゾロお寺へ詣るように(これは達ちゃんの形容)御婦人連がお嫁さん見に来ました。
 島田もお米は混合よ。割合が東京と逆で、外米は三分です。こっちは七分だが。でも初めのうちは特別に白のをたべましたが。あなたのおなかは外米が消化よくないので故障しているのではないかしら。麦だといいのですけれどねえ。外米のカユはそれは風雅よ。全く浮世はなれて居ります。ヴィタミンが欠乏ですから(外米は)その点に特別の注意がいるそうです。あなたの方もどうぞそのおつもりで。私はオリザニンをのみますけれど。
 私の左の足の拇指のはらが素足でバタついて、何かとがめてはれて、うんで、きょうは痛いの。珍しいことがあります。メンソレつけてなおすつもり。何と仕事がたまってしまっているでしょう。実にやりきれない、校正(小説集)は出てきているし。仕事なしで(出来ないで)十日すごすことは楽ではありませんですね。ではこれは初めの手紙の改訂版よ。どうか疲れをお大切に、呉々も。

 六月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月二十二日  第四十二信 島田の五つを入れると、ね。
 ああ、ああ、あーっ、というところよ。今午後四時。やっと日本評論の「昭和の十四年間」を八十八枚終りました。やっと肩のしこりがとれたようです。永い間の宿題で、本当に胸がスーとしました。十四年間の歴史は短いようですが決してそうではなくて、この数年間の動きは実に複雑です。一貫した現代文学史は一つもないから、こんなスケッチのようなものでも、せめて若い読者にそういう意味でのものを与えたくて。
 九年以後、芸術性をよりどころとしていた純文学が、どんなに自我を喪失して、文学以外の力にその身を托すようになったか、そのことからどんなに卑俗化、誤った功利性への屈伏、観念化が生じて人間の像が消えて来たか、その再生が今日と明日の文学の課題であるという現実の必然のテーマがあるわけです。こういう歴史の部は、塩田良平氏ともう一人とで持って(初めの方)昭和に入ってからは私一人でかいたわけでした。
 ほっとして眠たいような気分。寿江子がうしろのベッドに横になって本をよんで居ります。たかちゃんは病院から林町へ。
 明日は、金星堂の本の表紙のことで松山さんのところへ行かなければなりません。それから午後は座談会。月曜日はそちらへ参ります。島田、十日間、全く人の中でしたろう、そこへかえると仕事の用事で又人々で、閉口して、本当に襖をあけて、となりの部屋へ行って(動坂の模様よ)黙って頭くっつけて、美味しいボンボンをしずかに口の中から心の中へと味いたさで苦しいようでした。立つ前フーフー仕事して行ったから、休む間なしということになって。
 もうこれから、すき間を見ては眠って、この気分を直します。でもマアこれで一つは終って、万歳ですけれど。蜜入牛乳を呑もうと思います。御褒美に二杯や三杯はいいと思うの。口をつけ、仰向いて、しんから呑もうと思います。
 ところでね、ここに一つの面白い話があります。ゆうべ、ある本屋が来て(清和)私に幸福論という本をまとめないかという話なの。まあ今とりかかれる仕事ではないから別に約束いたしませんけれども、私はこれはあなたに早速報告しなくては、と思ったの。だってその人が云うには、自分の生活に一つのまとまりをもっていて、そこから私なら書けるという気がしたのだそうですから。いろんなものをよんで。このことは大変愉快と思うのです、私たちとしてやはり愉快と思うの。そうでしょう? 私がそういう風に生活的に充実して、生き生きとした所謂いわゆる幸福について語れる者という印象を第三者に与える存在として生きているということは、私として、第一にあなたに語りたいことであるわけでしょう。そういうことから、私は自分の幸福の源泉を新たに感じる感動を押え得ませんもの、ね。ここには何か一寸には云い表し切れない複雑な美しさの綜和がこめられているのですもの。そして、一般的な場合としていうとき、そこにある人間の高さ、美しさ、こまやかさ、絶え間のない心くばりの交流について、そのほんの一部分のことしかふれ得ないのですものね。何だかなかなか面白い。きょう寿江子来たからその話したら、すぐ「ああ、それはきっと面白い」と申しました。でも勿論いくつもの仕事があるのですから、今にのことですが。武者の幸福とは又おのずから異ったものですから、まあいつかのおたのしみ。
 十九日づけのお手紙をありがとう、あれは二十日につきました。小さい離れのことは、お母さんもお考えですが、裏が新しい道路でへつられる予定なの、ですからもう何年かしてその辺の様子がすっかりちがうことが決定してでなければ建てられません。お寺の田ね、あの田とうちの間に小さい溝があるでしょう? あすこを越して無花果いちじくの樹の方がいく分入って、ずっと高い道が出来るのだそうです。そしたらひどい埃で住居にはやり切れますまい。
 達ちゃん、そろそろ落付いたでしょう。達ちゃんたらね、髭すり道具をもっていないのよ。安全剃刀がないの、不図思いついて、いつかの行李の袋に入って来たのを思い出し、ひとにやるのは私いやですが、達ちゃんだからお下りを特別の思召で使わしてやろうと思って送りました。ザラザラだったら可哀そうだもの、片方が、ね、これも姉さんの思いやり(!)
 感想集は傍題なしでやって見ましょう。表紙は寿江子がクレオンで旺な夏の樹木を描いたのをつかいます。なかなかリッチな色調でようございます。
『第四日曜』の方は松山さん昔のような表紙かいて、いろいろふさわしくないので気を揉んでいます、あした行って何とか相談しなくては。表紙は楽しみで、心配よ。なかなかいいのがありませんですから。誰のにしろ。『暦』は傑作の部よ。でも、木版にはしないのだから、あのような効果では駄目だし、私の小説は又花の表紙でもないし。
 私が七月三日迄にしなければならない仕事、例によって婦人のためのもの三つで六十枚とすこし。『文芸』の二十枚少し。大したものでしょう? お察し下さいませ。おっかなびっくりの『朝日』が女性週評をたのんでかきます、ごく短いもの。でも、ね。今月はいくつもおことわりをしてやっとこれだけ、どうしてもやめられない分を。
 夜速達頂きました。表、殆ど出来て居ますからそのように計らいます。ハラマキ、白い着物、もうそちらでしょう。鉢植は元気でしょうか。ガラス一枚に射す電光の光景を髣髴ほうふつとして、雷をきいて居りました、妙な梅雨ね。ゆっくりして詩集の話を書きたい心持です。寝冷えなさらないように。

 六月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月三十日  第四十三信
 いまやっと一かたまり仕事を片づけたところ。そして、この紙をひろげていたら、デンポー。承知いたしました。明朝そのようにしてもってゆきましょう、但、今大観堂は目録をもっているでしょうか、あやしいと思われます。本のネがピンピンでしょう、ですから目録つくれないかもしれないのです、いつぞや目録欲しいと云ったらありませんでしたね、昨年のこと。
 お手紙ついたら書こうと思っていたのに。まだよ。
 さて、よくない気候ですね。体が疲れやすくて閉口です。さぞそうでしょうね、おなかは大丈夫? あさっては御苦労さまです。雨が二十五日から本腰で、島田の方はやっと田植が出来ました由、お母さんのお手紙。友子さんがうちのことをよくやって、達ちゃんの好きそうな料理もこしらえて、と本当におよろこびで何よりです、全く見つけもののお嫁さんね。あれで達ちゃん、お母さんのおこしらえになるものは勿論何とも申しませんが、おかみさんがまずいものしかつくれないとむくれる方だから、本当によかったわね。お盆になる迄お里へ行くにも及ばないって云っている、それもうれしそうにおかきです。それは友子さんとしても決してわるいおよめの口ではないわ。人数は少いし、物がわかっているし、家庭はいざこざないし、大切な存在として、ちゃんと認められるのだし。まアめでたしめでたし。あなたの方へ達ちゃん手紙よこしましたか? 友子さんは? 達ちゃんきっと兄さんは兄さんとしてマアおかみさんがああだし、自分もこれで、と一寸わるくないのよ。
 私はね、いとど哀れな有様でした。というのはS子さんの姉さんでT子さんというのが田舎から来てね、何しろ大ファンでしょう、お忙しいのはわかっているし、すまないと思うがってなかなか雄弁で。上気せるような思いでした。それでもきょう、二十七日に渡す分をすましてやや安心です。きょうは上野図書館が定期休日。人が来やしないかとはらはらして居りましたが、どうやら今のところ無事。それでも徹夜はしないのよ、感心でしょう。私は益※(二の字点、1-2-22)徹夜ぎらいです、誰も人の来ない朝、昼間、何といい心持でしょう。
 これから『文芸』のつづきのものを書いて、それからもう一つかいて終り!
 金星堂の本の表紙、かき直しのことお話しいたしましたね。今度は大変親愛な、本のなかみに気をひかれるようないい表紙が出来ました。それは街の風景なの。ひろい見とおしのきく街、こっちは角で、裏表紙まで往来が曲って来ています。街の彼方にはタンクや煙突があって、ワヤワヤした生活の音響が感じられます、そこが上出来なのよ。その生活の音のあるところが。柔かにグレーの色と薄いタイシャっぽい色、緑、白地にそれらの色がなかなか柔かくあたたかくてようございます。
 松山さん、子供が赤痢で辻町の大塚病院に入院していて、毎日池袋から通いました。その途すがらのスケッチよ。作者にとってもひとかたならぬ通りですから、うれしいと思います。でも画家なんて面白いわね。これはモティーヴを私が出して、粗描を寿江がして(小さく)そしてたのんだもんで、合作だねって苦笑いしているの、でも傑作よ。ところが合作の気がして第三者が認めるほど傑作の気がしないらしいの。題字は黒です。
『明日への精神』は寿江子がクレオンでかいてなかなかいいけれど。この表紙は火曜日のかえり社へもってゆきます。
 この間うちから日本橋の三越に東洋経済新報社の明治・大正・昭和経済文化展覧会があって、二十九日限りというので二十八日、一家総出で見ました。なかなか面白いものでした。統計表などで年代がちがうのを、それなり扱って、或る印象の混乱しているところもあったが。目録をおめにかけます。なかに明治七年に『経済要旨』という本を西村茂樹が訳して文部省で出している本が並んでいました。面白いことね。このままで進んだのだったら孫はどんなにか祖父をよろこびとしたでしょうのにねえ。
 島田からかえってのち、私余り多忙で、何だかおちおちしないみたいで、あなたも変にお気ぜわしいようでしょう? 御免なさい。私がきょろついた眼付していると、やっぱりあなたものうのうはなされないようなのがわかるから。来月五日がすんで、さあ、もういいわと、すこしのんびりいたしましょうね。やっと、本当にかえって来た気になりましょうね、そして、あれこれお喋りもいたしましょうね。私はこんどはかえって来たというより体の前後左右から仕事にたかりつかれた工合で、忙しくて不機嫌になるという珍しい現象を呈しました。大体忙しくてもじりじりしたりしたことないのに可笑しいこと。きっと時候の故もあるのでしょうね。
 大事な詩集枕の下において、横になるとき一寸さわって、あああると思って、眠るという風です。深い深い休安、そして安息。心が肉体をとおしてだけ語れる慰安。そこにある優しさを、立派な人間たち、芸術家たちは知っている面白さ、「クリム・サムギン」の中にね、サムギンが「ああお前になって見たいと思うよ」というところがあって、私はどんなにおどろいたでしょう。女はその小説のなかで、そういう無限のやさしさ、よろこびの共感をちっとも感じないで、サムギンの心を寂しくするのですが。ほう、そうかいとお思いになるでしょう? そうなのよ。
 それからもう一つのこと、それは短編集を整理していて、感じた面白いこと。私の小説には何と月の感銘がどっさりあるでしょう、「鏡の中の月」という題があるし、「杉垣」には月空に叢雲がとんで妻と歩いている良人の顔の上にそのかげがうごくところをかいているし、更にこの「杉垣」は火の見の見える二階の白い蚊帳の裾にさす月があるの。
 重吉があらゆるこのもしい性格のうちに転身して来るのも私の一つの弱点(!)ですけれど。月はあおいあおい月以来、自然の景物のなかで、私の一生を通して特別なものになっているのね。この月光は窓にさしているだろう、屡※(二の字点、1-2-22)そう思い、それはつよい潜在になって情緒の一つの表徴のようです。
 作家のいろいろの内部的な構成なんて、実に一朝一夕ではないものですね。だから作家の生活の周囲の意味が一層云われるわけです。
 私はどうしてだか、この頃人間の心のゆたかさ、面白さ、その面白さの刻々の流れが、いやに新しくわかって来ていて、そのものが時々刻々の接触にないのが本当に本当に惜しくて仕方なく思われる折が多うございます。この心持を興味ふかく思います。何か作家としての新しい展開のモメントがここにかくれていることが感じられて。根源的には全く妻としてのそういう渇望がねじを巻かれて、そういうものへもかかわってゆく過程も面白いことね。なかなか面白いところね。では又お体を呉々お大切に。

 七月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月七日  第四十四信
 もうすっかり、本きまりの暑さになりました。なかなかでしょう、どうぞうまい工夫で、いくらかはしのぎよくお暮し下さい。私の方は、スダレをはったりして、結局二階へ籠城よ。
 六日に一番終りの原稿を送って、ホッとしてそちらへ行ったわけでした。ですから、きょうは本当に本当に久しぶりにドンタクでね。ああ、ああと、腹の底から気持のいい太い息をついて、ゆっくり朝飯をたべました。午後三時からは如水会館へゆくのよ、そこで小椋さんの結婚披露がございます。あのかたも今度はやっと結婚出来るようになって、ようございました。前の婚約していて病気になり、ずっと経済的のことを見ていてあげたひとは、去年亡くなられたのだそうです。お互に苦しかったことでしょうねえ。でも小椋さんとしては、ちゃんとするだけのことをしてあげたし、その方もうれしい心もあって生涯を終られたでしょう。なかなか一通りでない心持の後の結婚ですから、友人たちも皆おめでたいと思っているようです、対手のひとは存じませんが、いろいろわかっている人のようです。
 今月ぐらい気の張りどおしの月はなかったと思います。だってね、五月下旬からもう精一杯はりつめて、それでも大事な仕事を二つも出来ずに立って、かえって、それから五日迄、十何日という間に百四十枚以上の仕事したのよ、それぞれ勉強のいるのを。あの「昭和の十四年間」が八十八枚のうち五十枚、今度口述したり書いたりでしたし。それでも、徹夜というものはしなかったのだからほめて頂戴。二時になったと云ってシッポつかまえられましたけれど、でも、あれはねえ。そんなことが一晩もなかったと云ったら、それは余り御体裁と申すものでございましょう。我が夫は天の如し、あざむくべからず、という家憲でございますからね。昼間フーフーでやり通すから、どうやらつづいているわけでしょう。その代り、というわけで、読書は御免下さい。とてもやれませんでした。又継続しますから御安心下さい。
 私はこの頃図書館がすきと云うに近くなりました。あすこにいれば決してお客はありません。ちょいちょい何かささやき合って、こっち見るひとたちはあっても、いきなりいつかのひとのように、そばへよって来るひとはマアありませんですから。本をよむにはいいわ、そういう勉強のときは。只、ものは書けません。特別室があればいいのねえ、大英博物館の図書館のように。そうしたら、本当にどんなに有効につかえるでしょう。でも、いろいろの点からよめる本とよんでいられない本とがあってね。そのことも面白い文化の諸相です。
 ところで六月二十六日朝のお手紙の前の分というのは月が変ってもいまだに出現いたしません。どこへ行ったのでしょうね、又そちらのところではなかったのかしら。私はそれで本望だけれど、郵便やさんは字だけよむのでね、不便ね。(!)
 二十六日のお手紙の紙は、ほんとにインクがにじんでかきにくそうだこと。こちらも紙は大変よ。原稿紙は本年ぐらい間に合いそうですけれど。このような手紙の紙、もうあと一二冊で、あとはどんなものになるのやら。やっぱりインクがにじんで大きな字しか書けないようなのかもしれません。
 栗林さん、きのう待っていてね、又会ってかえりました。謄写料のこと申していました。一つ五部のがあったかしら、私がしらべて引いてくれと申しました。さっきこまかくしらべたら、五通とってあるのは全部で五種類でうち三つは、一部ずつさし引いて私たちとしては四部だけの分を払って居り、あと二種が五部のままで、それが五十九円八十四銭となります。ですから今回の分からそれだけ差引いて支払えばよいということになります。マア、これでいいのでしょう。私たちとしては仕事がダラダラとルーズでもいいということではいやだから、のことですから。こういう類のことはいつだって、そして恐らく殆ど誰がしてもたくさんの無駄はありがちのものですものね。もう一人のひとの事務所でしらべること、月曜日にいたします。
 多賀子は、すこしましになって、うちの買物なんかはシャンシャン出るようになりましたが、東京の暑さはあちらとはちがう由で(それはそうでしょう)大体体が元気ないから、余りベンレイしてられると閉口故、岡林さんのことなんか私が月曜日にいたします。
 今年の夏はいろいろと面白い心持をけいけんします。
 暑い、だけど仕事はしなければならず、又したい。そういう気持のとき、暑さにおされて、味もそっけもない風にしているのを見ると、いやねえ。暑いときこそ気をきりっとして、眼もさやかというはりがないといやになる。しかもそういう人間の精気なんて、なかなか求めたって無理です。暑いときの清涼さは、人間の積極の力からしか出ないのね。女の身じまい一つにしたってそうよ、活々いきいきした気働きのないのは閉口ね。それにつけても、暑いときこそ私は出来る限りさっぱりとして見て頂かなくてはわるいわけね。同じ汗いっぱいにしろ快く汗一ぱいでなくてはね。この点私は何点頂けるでしょう。
 ところで汗一杯はいいけれど、そして汗もなかなか面白い、どっさりの思い出をもって活気汪溢です、けれど、机にすれて、小さいアセモが出来てピリつくのよ、困りましたこと。丁度右手の下のところが。
    ――○――
 ここまできのう書いて、そちらでやっぱり汗の話が出たので、大変うれしゅうございました。四季とりどりの面白さは、何とゆたかでしょう。こもり居の夏、というような味はごく風流なものよ、滅多にない味よ、荷風だって存じますまい、おそらくは。そうして、そういう味いは、年とともに益※(二の字点、1-2-22)豊富なニュアンスを加えてまざまざとして来るというのは又何と人間の心の微妙さでしょう。年々はその光彩を鈍らせるものとして作用しないで、段々深さを加えた深い淵のような渇望を湛えてひき入れるような精気を放っているのは奇麗だと思います。
 その精気は溢れしたたって、それを語る瞳のなかにきらめきます。
 きのうも沁々思ったのですけれどね、いろいろなこと用のこと話していて、大きな声で話していて、次第にその声が低くまってゆく調子、やがて声が消える、自然に向って低まってゆく思いの面白さ、ね。その速度ははやく距離は近いわ。痛切に思います、何と情愛の断面は全面的にひらかれているのだろうと。
 虎の門へゆく電車は遠くて、こんでいて、もまれて立ちながら、私はその心の余波のなかにいるの。やっぱり大きくは声の出にくい状態で。電車の遠いのはいいわ。誰とも口をきかず、群集の中で、ひとりの心でいられるのは。二人きりでいられるのは。
 途中、時間の都合で神田へまわりました、そして仰云った61[#「61」は縦中横]という番号の改造文庫しらべましたが、この頃の番号のつけかたが変ってしまっていて、どれだか分りませんでした。又あした伺いましょう、でもきっと品切れの分でしょうね、改造文庫は実に少々よ目下。『文学発達史』しか東京堂にありませんでした、そんな工合。
 虎の門ではすっかり詳細にしらべました、手元にある分、送ってある分、その他。随分どっさりのものが送られて居りません。富士見町へ行って、そのリストとてらし合わせて、一部ずつちゃんとそろえて届ける約束しました。私が行ってやりましょう、私が行って、やれば出来ましょうから。これもそれもお使では駄目。この数日のうちに一かたつけてしまいましょう。
 そして又図書館通いをして、『文芸』のすっかりまとめて、原稿わたして、そして、本腰に長篇にとりかかりです。そしたら細かいもの皆先へのばします。
 金星堂のは七月十五日ごろ迄に本になりますでしょう、これは部数も少いけれど。
 それから、借かんの話ね、決して妙なことではなくて、全く短期間のことですから、どうか気になさらないで下さい。そのために、あなたが何かおっしゃるというような必要は決して決してないことですから。只、私の小さい水車の渇水について心配していて下さるから、その補供の道を一寸お耳に入れただけなのですから。すぐ金星堂の方のと九月に実業之日本の方のとですんでしまうのですから。
『文芸』の方の本になるのは[自注3]又次の必要のために役立てますし、大丈夫よ。今年は順調の方よ、まだまだ。
 記録のこまかい計算は明日おめにかかって。でも、私覚えちがいしていなかったので大笑いしました。やっぱり十一日でしたね、あなたのほかにもう一人九日と思っていた方もあるそうです、書記課へきいて確めてくれましたから、岡林氏が。ゆうべの雨、眠るにいい雨でしたでしょう? 休まったことね。きょうも余り暑くなくて。カッと照りつけられない日の休まった気分はいいこと。では又ね。

[自注3]『文芸』の方の本になるのは――『文芸』に連載した婦人作家研究を中央公論社から出版することになり、全体再整理をし、加筆した。附録として文化年表も作成した。それらの仕事に手間どっているうち十六年一月からの作品発表禁止で、中央公論社では出版見合わせ。遂に中絶した。そのゲラが見つかって一九四七年実業之日本社より出版『婦人と文学』。

 七月十三日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十二日
 只今は午後の一時四十五分。この図書館の室はひろくて天井も高いけれども、今は大変眠たいの。ゆうべ蚊がひどくて夜なかパチリパチリやっては目をさまして。よんだ本がつまらなくて。つまらなくてもよまなくてはならなかったのですが。そちらもきっとこんなにムーとしているのでしょうね、きょうはムーとする日です、さっさとふればいいのに。
 さっき御相談した本のこと、河出の。大変古いものだけれどまとめて見ましょうね。ここのかえりに林町へまわって作品目録を見て、河出の方でさがして貰いましょう。思いがけないこともあるものです。
 それから手紙のことね、あれはフセンをつければいいのですって。きっとそうだろうと思いましたが。あたりまえに紙を切ったのにちゃんとした所をかいて、左記へ御転送下さいと、貼りつければいいのです、そのままの上から。池袋から来て仲町で上野ゆきにのりかえるとき、むこうを見たら郵便局があったから、一寸かけて行ってききました。
 それから、もう一つ忘れたこと、それは、きょう手拭とシャボンとをお送りしたことです。その手拭は麻ですから夏は使い心地ようございます。麻の手拭は不思議にいくらギューギュー汗の顔を拭いても皮膚があれません。それにね、その手拭の両方の端に一寸した小さい花模様があります。その花の名は、よろこびの花、というのよ。暑いでしょう? ですからそんな花のついた手拭を是非つかって頂きたいと思って。もしか今つかっていらっしゃるのがあっても、それは暫くおあずけにして麻の方を使って下さいまし。どうぞ、ね。その簡単ないくらか滑稽な花模様から、きっとあなたはいろんな可笑しさや面白さをお感じになれるでしょう、その花はそんな恰好をしてついているのよ。心は一杯で手足が短いというような花なの。可笑しいわねえ。
『文芸』の最後のところの下拵えのために来ているのですけれど、所謂いわゆる輩出した婦人作家たちのものをよんでいるわけですが。どうも。大谷藤子という人は、真面目でいいけれども、その真面目さがまだ活力を帯びていないし。美川きよが小島政二郎とのことを書いた小説をよんで眠たくなったのですが、どうも閉口ね。婦人作家という職業の確立、一家をなすことに、実に汲々たるところが最近のこのひとたちの共通性です。年れいのこともある、女としての男との生活のけたをはずれていることからもある、小説をかくためには一旦常識の世界を見すてているのだから、女がその見すてたところで身を立てるということは、経済上の必要ともかさなって、職業人としての食ってゆける面へだけ敏感になるのですね。ここがしめくくりとしてあらわれる今日の現象です。婦人の評論的な活動のにぶいことと、この一家をなす必要に迫られていることから、明日の婦人作家がどうぬけ出し育って来るかが大きい課題です。これは、文化の、もっともっと大きい課題とつづいて居りますからね。今月はこれを終り迄書いて、初めの部分と自然主義のところをもっとよくして、水野仙子、小寺菊などをもっとよんで、そしてまとめます。それと『新女苑』の Book レビュー。今月は「科学の常識のために」かきましたが、来月は何にしましょうね。私は今迷っているの、もうきりあげてしまおうか、それともいようかと。ここに水野仙子の本は一冊もなくて弱ります。

 七月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 これは、この間お話のあった支払いに関することだけの手紙にいたします。
 七月八日づけのお手紙にあった九月二十二日請求の分二通というのも判りました。あれは本当にそうでした。あの節、ともかく一応と云って私が払っておいて、あちらへ話すと云って受とりを先生もって行ってしまっていたので、受とりだけしらべたのでは分らなかったのでした。帳面とつき合わせ判明いたしました。あれなんか性質から云って勿論申します。
 八月三十一日支払の分三通もわかりました。これは月曜日に行って、先ず上げるものをあげて、それからすっかりはっきりするよう、書きつけを渡します。
 今年に入ってからは、今回のが初めてです。その内わけは左の通り。
                          @5.3銭
 一、林鐘年予審             四通│ 二一二枚 │一一・二四
 一、蔵原惟人              二 │ 一九二  │一〇・五六
 一、手塚英孝              二 │ 一六四  │ 九・〇二
 一、鈴木正二 外二人            │      │
         予審決定 各二┐      │      │
         判決    二┘      │ 一四〇  │七・七〇
 一、富士谷真之助              │  @5.5  │
  (a)予審調書 六、七、八、九回   二通│ 一五六枚┐│
  (b)予審決定            二 │  七八 |│一七・八二
  (c)判決              二 │  九〇 ┘│
 一、逸見重雄 上申書          三通│ 二〇七  │一一・三九
 一、横山操 公判調書判決        二 │ 二七四  │一五・〇七
 一、宮本抜書              一 │   三  │  ・一七
 一、西沢公判調書            二 │ 三四四  │一八・九二
 一、生江健次 (予)第三回より     一 │ 二二一  │一二・一六
 一、逸見重雄 起訴状          二 │  一八  │  ・九九
?一、秋笹正之輔 上申書         四 │ 七六〇  │四〇・二八
 一、大泉検診書類            一 │   四  │  ・二二
 一、秋笹正之輔 公・調         四 │一二五六  │六六・五七
?一、秋笹正之輔 上申書         四 │ 七六〇  │四〇・二八
 一、逸見重雄 第二回公判調書      四 │ 七五六  │四〇・〇六
 一、宮本文書目録            一 │  二一  │ 一・三六
 一、山本正美 調書(十四年十二月)   四 │ 五二〇  │二七・五六
 一、逸見重雄 公判調書(十四年十一月分)四 │一〇一二  │五三・六三
                              三八四・九〇
 以上が今回分。今こうやって書き出してみると、? のつけてあるのが全く二つ同じもののようですが、どういうのでしょうね。二種類のものが偶然全く同じ枚数であったというわけでしょうか。これもきいて見ましょう。もし重複して書き出されているなら引かせるのでしょうと思いますが。
 これと、前のと合わせてすっかり勘定すると、これでやっとすっかりきっちりすることになります。どうもいろいろありがとう。私は得手でないし、現物は見ていないし、フーフーね。
 では、この手紙はこれでおしまい。
 今はひどい風です。きょうは三島の方は嵐のようです。寿江子のいた熱川の方は大雨で、人の死傷も出ました。あの辺は風当りがきついのね。では暑さお大切に。
 マアこの鳥籠二階はゆれること。鳥カゴと云えば「青い鳥」のメーテルリンクが、八十七歳とかでアメリカへにげてゆきました。ニースの家もブラッセル銀行の預金もなくなりました。当分は、シャリー・テムプル主演の「青い鳥」の権利金で暮しますと語った由。彼には、『智慧と運命』という本があります、御読みになったかしら。その『智慧と運命』はこのような彼の今日の現実でどんなに彼を助け得るものでしょうか。青い鳥の籠は、アメリカが動物移入を禁じているから禁じられて、もって上れなかったそうです。これは何だか妙なことね、青い鳥なんて、インコーか何かでしょう? 生きているそんな鳥持って歩いたりして、妙ね。女優であるおかみさんの客間趣味かもしれず。
 では本当にこれでおしまい。

 七月十五日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十四日  第四十六信
 今、別に謄写代についての手紙を一封かき終り、これをかきます、ああ、何とひどい風でしょう、グラリと二階がゆれます。あおりをくって。南の方がつよく吹くときはいつもこうです。
 七月八日づけのお手紙への返事から先ず。
 しきぶとんのことは承知いたしました。ちゃんと用意しておきましょう。スフ綿でないのがこしらえられるからようございました。でもね、この頃細君連の神経はこまかく働いて、どのうちでも、綿をうちかえしにやると、スフの方ととりかえられることを心配して居ります、私も人なみにその心配をします。人情がさもしくなる、ということは決して大きいことから成ってゆくのではないところが面白いものです。
 面白いといえば、この間、岡本一平がアインシュタインにくっついて歩いたときの書いたものをよんでいたときに、日本人が何かというと、面白い、という表現をしているということを特にあげていて、興味を感じました。東洋風の大ざっぱな、直観的な、そして腹芸的表現ですから。面白いわね、という表現でしか表現しない話ということの意味も新しく感じられて。
 私が忙しいときほど、早寝早おき大切ということはよくわかります。十日毎の表というの、全くありがたくはあるのだけれど。全くありがたくはあるのだけれど。――しかし私としていやと云い切れない次第ですから仰せにしたがって復活いたします。弱って来たりしてはいられないことは確かですから。でも、二時頃というのは毎晩のことではなかったのよ。その点は御休神下さい。
 一頁勉強のことも元よりそのつもりで居りました。私がいくらかジャーナリスティックな仕事と、そうでない仕事との見境いがつくようになって来たのもおかげですから。
 それから島田からかえりのことね。あれは偸安という意味からだけではなかったのでした。非常に疲労していたし、且つ又婚礼の場所へ御客に来たひとのことなどの関係で、その方が途中スラリとすむこともあったのでした。いずれ又お話しいたしますが。行きはおっしゃるようで行ったのですから。そして、そんなことについて、面白くもないものたちがすましこんでいるような雰囲気がすきでないことなんか自明ですしね。多賀ちゃんなんかの所謂影響のこともありますけれど、前後の事情から彼女も大いに恐慌していたから、意味はわかっていました。まさかぜいたくとは思いません。その点は大丈夫よ。念のために一こと。
 今年の夏は体の工合は案外にもちそうです、オリザニンもちゃんとよくのんでいるし、眠ること、食物のこと、よく気をつけて居りますから、何しろ、八月から長いものかき出そうといきごんでいるわけですから。
 河出の本のこと、旧作でもよいそうです、図書館でよんで見て、きめて(作品を)それから人にたのんで写して貰わねばなりません。この次は新しい方をとのこと。予約して欲しいと云って居りました、今度のに入れようと思うのは、
 一、顔       一九二三? 四 中公? 太陽?
 二、伊太利亜の古陶 一九二四、五、中公
 三、心の河     一九二四   改造
 四、小村淡彩    一九二六   女性
 五、氷蔵の二階   一九二六   女性
 六、街         二七   女性
 七、高台寺       二七   新潮
 八、白い蚊帳      二七   改造
 大体こんなところ。よく読んで見なくてはね。覚えていないのさえありますから。新しくつけ加える近ごろの作品については、大いに頭をひねります。どうも程よいものがなくて。或は何にもつけないままにしてしまってはどうでしょうか。
 新しいのは来年書き下しを、というのですが、これはまだひきうけ切りません。三千刷るので一割二分の由、作家としての条件が余り低うございますからね、保証の率がなさすぎるという意味で。
 ここまで書いたら珍しく重治さんが来て夕刻までいました。泉子さんがよるかもしれないというのでしたがよらず。いろんなこと話している間に、寿夫さんの細君になった人が来ました。これが、いつぞや上野の図書館でいきなり私にものを云いかけたとお話した女の人でした、やっぱり。名をきいたとき、どうもそうらしいと思ったのでしたが。お姉さんのようにしている方だからと云ったということですから、大いに力をつくしてそのような名誉は辞退しました、私は自分の弟は林町のが一人で沢山よ、寿夫さんが弟では任に堪えませんからね。その点は、冗談のうちにも、はっきりと申しました。だって、こまるわ、姉さんのようにして居りますのよ、なんて、ああいうひと。肉身でもないのに、じきおばさんだとかお姉さん云々とは全く趣味に合いません。
 そのうちに、おひさ君が久しぶりで水瓜をもって現れました。洋装でね、ずっとつとめて居ります。呉々よろしくとのことでした、お体いかがでしょうと。達ちゃんの御婚礼の写真みせてやったら「アラア何てお可愛いんでしょう」とほめて居りました。自分たちのときはとらなかったのですって。
 本当にひどい風です。益※(二の字点、1-2-22)明日は吹きつのるそうです。いやね。今夜は、星の光なんか吹っとばされたように月の光が皓々です。荒っぽい空ね。大家さんへお中元をあげるのに買物に出かけたら途中で又うちへ来る女の人に出会って。そのひとは風に帽子を吹きさらわれかかって、少なからずあわてました。こんな天候が不穏なのに、山へゆくためのリュックを背負って、シュロ繩や懐中電燈リュックの外へ吊って、余り科学的でない顔つきの若者が何人も省線にのっていました。あぶない気がしてしまいました。山はこわいものですもの。リュックの外へ地図をくくりつけたような男が、シュロ繩なんかもってどこをよじのぼるかと心配ですね。山でもう何人かが死んで居ります、今夏、既に。
 冨美子は八月五日ごろ上京するそうです。二十日ごろまでいるでしょう。学校からの旅行が廃止になりましたから、今度はさぞさぞよろこんで居るでしょう。多賀子と二人で遊べばいいわ。何だかまとまりのない手紙になりましたがこれで。

 七月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十七日
 こんな紙をおめにかけます。小さい字がふつり合いですね。毛筆でペンででも大きくサラサラとかくべき模様ね。どこで書いているとお思いになりますか。テーブルの上よ。黄色とグリーンの縞のオイル・クローズのかかった。――林町。珍しいでしょう。
 けさ、九段、そちらとまわり、お昼になったので林町で食事して上野へゆくためによりました。そしたら、六月十三日の母の命日にも何にもしなかったし、夏の休みにみんなあっちこっちへ行ってしまうので、きょう一日しかひまがないから青山の墓詣りをするという話なので、図書館は明日として一緒に出かけることにしました。それでここで此をかいているわけ。
 又ひどい風になりましたね。汗のところへ埃がついて閉口。今このテーブルに八月号の『婦人公論』があって、(自分も書いている分)あけて見たらアラン・ポオのアナベル・リイの美しい詩が日夏の訳でのせられています。アナベル・リイという愛する女の名が、第二節の終りにリフレインとなっていて、情緒も幽婉ですが、日夏さんはこれを、謡曲みたいに「かの帝御羽衣の天人だも」というような用語で訳して居られて、大変重いものになってしまっています。この号に、露伴の肖像もあり、面白い。この白髭の丸形のお爺さんは白い襟をちょい出して、黒い着物で、大きい四角い和本箱が二重に鴨居より高くつみかさねてある座敷にペシャンコな座布団しいて、片手をすこし遠くはなして漢文をよんでいるところを映されています。この爺さんの短い蒙古史のエピソードを戯曲化したものをこの間よんで、この老人のなかにある麗わしい心情と、現実判断の標準の常識性とのために、小説をかかなくなった心的機微を感じましたが、この写真みるといよいよそうです、芸術家が変に玲瓏となるのは考えものね。
 今泰子がこのテーブルの端にだっこされて来てお乳をのんでいます、いろいろのことで発育がおくれていてああちゃん大心痛です。可愛いようなすこし気味わるいようなところがあって。
 太郎は幼稚園をやめてしまいました。どういうわけか分らず。書生君は大したてこずりもので、近日中保証人のところへあずけるのだそうです。そうしないと安心して、国府津へもゆけないからだそうです。国府津では今年咲枝も海水を浴びるつもりだそうです。「だそうです」つづきで可笑しいこと。
 今夜、うちの手伝のひとがやっと参ります。これは吉報でしょう。岩手のお医者さんの妹で友達の紹介です。ユリのお人となりにふれることが何よりの修養とお兄さんが云ってよこしているので私は恐縮です。こまるわねえ。そして大笑いね。特別の人ではないのにね。多賀ちゃんは十一月頃受験して年内にかえるつもりのようです。それがようございましょう。
 きのう所得税のための決定が申告どおり来ました。去年四月―本年四月迄。私のような職業は百円について七円五十銭です。七百円の収入とすれば、五十二円五十銭です。それが四期、分納。十三円十二銭五厘。これが一度。六十何円の収入からそれだけ払うのも大変なわけですね。七百円は最低です。新税法の。来年は当然多くなり、しかし其を払う当時の収入は如何にや、と申す次第。涼しくもない世帯じみたお喋りで御免なさい、でも一寸面白いでしょう?

 七月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十八日  第四十七信? 八かしら。
 今夕刻の六時です。けさあれからずっと上野に来て。ここはこんなにひろくて風が通っているのにこんなに手がねとつくところを見ると、又きょうも三十三度でしょうか。
 十七日朝というお手紙が珍しくけさついて、その返事もここでかきます。
 その前にね、何だか気になることがあるの。あなたは「過渡時代の道標」のとき、ここで下拵えなすったとき『新潮』の昭和二年というのなどをずっとおよみになりましたか? 論文の見出しのところ(目次)へ万年筆でカギをかけたりなすったことがありましたろうか、そんなことはなさらなかった?
 線とか棒とかにやっぱり癖はあるものと思うのです、気になるというのは、二年のどこかに私の日記で「狐の姐さん」という題のがあって、それにも例外にカギがかかっているの、そして、七十二頁というところがボヤケているのを七とインクでかいてあるの。
 そんなこと気にするのはあなたにとって全く片腹お痛いことでしょうか、もしそうだったら御免なさい。でもね。七という字にも、と(字の頭のひっかかる筆づかいに)見覚えがあるように思うの。これも妄念の一種なりや。もしそうならば夏なお寒いような工合ですね。どうぞあしからず。
 あなたも、目録室を出て右へ行って、一寸段々のぼったところでおよみになりましたか、一寸遠目には暑そうなところですね。そして、やはり目録室の正面に、高間惣七のねぼけたような花園の大きい油絵がかかって居りましたか?
 やっと今、あらましの小説をよんだところです。発表年月が、はっきりしなくてどうも見つからないのもあります。
「顔」「伊太利亜の古陶」「心の河」「小村淡彩」「氷蔵の二階」「街」をよみ、「高台寺」「白い蚊帳」が見当りません。
「顔」その他、勿論今日から見ればいろいろ申すべきところありますが、作品としてつかえます。「街」はやめます。あの頃フィリッポフという白系露人の知人がいて、その生活をかいているのですが、こういうものになると、今日の読者が面白さを見出すとしても、作者はそれで満足しないものがあって、出すのはいやです。全集ならばともかく。ですからもしまだよめないのがなくても、「街」をのぞく五篇であと新しいもの一つなり加えれば一冊の本になりますし、又これで面白いと思います。題材のいろんな風なのも面白いし一寸したアイロニーもあってね。集めておいた方が確にようございます。「白い蚊帳」というのは昭二年の『改造』ですが、ここに二年の『改造』が今ないのです。出ているのかもしれないけれど。間をおいてもう一度来て見ましょう。この本の題は、もし「白い蚊帳」がつかえたらそれもいいでしょう? そういう題で出る筈でしたから。或は、新しい一作の題を、もうすこしましにしてつけてもいいわね。
 ところで、今急にあわてた心持になって居ります。毎週木曜日に『朝日』家庭欄に短い週評をかいていて、きょうその木曜でしょう? すっかりポッと忘れていて、今、あら、と思い出してびっくりした次第です。きょうは忘れるわ、それは忘れるわ。忘れられないから週評は忘れてしまうのが当り前です。
 それから、ブック・レビューのことについては確にそう思います。又、女のひとのための雑誌に書くのは、通俗教育家とはちがうという点でこそスペースがあるので、そこが又いつそのスペースがなくなるかもしれないところで、極めて微妙です。女史型言説をなしては居りませんから、その点は御安心下さい。すこし勉強して、そして、女の今日のいろんなことを社会的な生活向上の面から見て、批判的にかくという人はこの頃全くすくないのよ。ですから私でもかくことになり、小さいものにしろ、私は所謂雑文は書きませんから(本質的に)それは大丈夫です、念のために一言。
 隆二さんから稲ちゃんのこと心配した手紙が来ました。この頃どんなに仕事しているかと。わきから励してやれと。なかなかむずかしいことであるし、むずかしいものね。友人が「この頃はこういうものをかくようになったこと感慨無量です」と云ってよこした由。「素足の娘」のことでしょう。これについてはいろいろ考えますけれど、隆二さんのいうようなわけにもゆきません。作家の生涯の道は全くこわいジグザグね。その間に或る方向の一貫性をもって、いくらかでも目ざす方へ動いていればよし、としなければならないようなところもあり。「心の河」なんかよみかえし沁々とそう思います。
 そして、この一貫性は、きょうのお手紙に云われているとおり、作家としての内的な必然性に忠実であるより外にはないのだから、大したものです。
 これで、図書館一寸やめ。写す人をさがしてそれにたのみ、自分は当分家で書きます。そしてね、あなたはもしかしたら、いつでも午後二時すぎにしかこの丸いものを御覧になれなくなるかもしれません。うちは午後大したあつさなの、二階が。午後は全く頭がゆだります。ですから午前に一日分の仕事したいのです。そして、ひるをたべて、そちらへ行って、かえって、夕飯前一休みして、夜又いくらか生気を戻す。そういう時間割にしたいと考えて居ります。勝手ですけれど。一番暑いときでなくママて御免なさい。一番でも十時でなければかえれず、落付くのは午後となって、それではどうも工合わるうございますから。
 さア、きょうは、あつくて、くたびれて、脚がはれているけれど、心の中でたのしい心持のふき井戸の溢れる音をききながらいそいそとして家へかえります。朝の眼のなかによろこびがあるという、リフレインのついた小さなうたがきこえています。あの眼のなかに生きているよろこび、よろこびの可愛さ。あこがれのいとしさ。いとしいあこがれも信頼の籠に盛られれば、それは朝々にもぎたての果物のよう。そういうソネットを、ゲーテが書いたって? うそでしょう。そんな痛みのように新鮮な献身へのあこがれを、ゲーテが知るものですか。天才の半面の俗物という批評を、そういう詩趣を解さなかった生活に帰し得るのですもの。
 刺繍の模様は一輪の花でした。花の絵こんな花弁の。一つの花の花びらですから、どの一ひらもむしることは出来ないのよ。一輪の花はうすい黄色と緑。もう一輪は柔かい桃色と黄色でした。それは大変素朴で、真情的な咲きかたをしていました。その花たちは、心一杯で手足の短いような恰好をして、と私が笑いながらこの前の手紙にかいたこと、お分りになるでしょう。なかなか珍重すべき美術品なのにね。
 高い天井の電燈がつきました。西日をよけて今坐っているところは灯からは遠いところ。正面の窓がらすにシャンデリーが映っています。
 今どうしようかと考えているの、こんなにおなかすいてうちまでガマンするのかナ、それとも林町でたべようか、よると、かえるのに又面倒くサイナと、考えているの。池袋から上野へ直通の市電はなくなって、仲町でのりかえ、それが又混むのこまないの。電話かけておいて目白までかえりそうです。「タカちゃん、ごはんとおみおつけだけあるようにしておいてネ」とたのんでね。
 では、これでおしまい。又明日おめにかかります。あしたはどんな花が咲くでしょう、朝顔ばかりが朝咲く花ではないそうな。うちの萩は咲くのかしら、せいは高いのよ、たかちゃんが油カスやって迚も迚も高いのよ。風にふらふらとしてそのときはすこし気味わるい。

 七月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 又、前便かきおとしの記録のことだけを。
  五月二十四五日ごろ支払いの分。
 一、速記料 十一月二十一日分
                六六・〇〇
       十二月  二日分
 一、同   五月八日請求(四月十八日の分)三四・〇〇
 一、加藤、西村公判調書 七八六枚四七・一六(一枚六銭)
 一、西村マリ記録  三部三一・五〇
 一、証拠物写シ 五組  四三・二〇
       計    二一一・八六
 これが、五月に支払いスミの分。
  七月十五日に、新しく請求をうけその一部分を支払ったのの内わけは左のとおり
 一、木島公判調書 一二回四通 四七・五二
 一、同      三、四回四通 五九・一八
 一、袴田上申書  三通    四四・二二
 一、袴田公判記録 四通    四一・一四
 (あなたのお話で、これが二重になっているのがわかりました。)
       計    一九二・六六
 のうち、重複している分が不明だったので
            一一〇・四〇
だけ支払いずみです。重複した袴田の記録は半額をふたんするのでしょう? では残額八二・六六銭のうちから二十円五十七銭引いたもの六二・〇九銭支払えばよろしいわけでしょう。
 あついことね、この二階もややましな蒸風呂です。

 七月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十二日  第四十六信
 先ず七月十日づけの、ゴロゴロ第二信十九日に到着、どうもありがとう。おくれるというのも折にふれてはなかなか愛嬌のふかいものです。これは、ピカッ、ガラガラとはゆかず、きょうこの頃の私の胸のひろがりのなかでは遠雷のとどろきで夏らしい調子です。しかし勿論このことは、いきなり私がベソをかかないというだけで、書かれていることを、どうでもいいとしているのではないのよ。
 そして、私は何となくすこしニヤニヤもするの。だって、時々こうしてあなたが私に雷をお落しになるの、万更あなたのためにわるいばかりでもないでしょうと思って。それは、そのときは島田言葉の所謂「歯痒い」わけですが。お父さんの所謂「卑怯未練な」(これ覚えていらっしゃる? お母さんが手袋を一寸見えなくしておさがしになったとき、お父さんが床の上に坐っていらして、「ええい、卑怯未練な」と仰云ったので、私が大笑いしてさがして、「ホラ卑怯未練がみつかった、みつかった」と笑ったの)次第でしょうが。家庭の情景というもののなかにはいろいろ滑稽な面白い要素もあるもので、その意味で私が雷おとされるのも、うちらしくて至極結構です。あなたも、たしかに女房というものをもっているようなカンシャクもおこせて、悪いばかりではないわ。誰が、私のあんな他愛のないベソ顔を見る光栄を有するでしょう(!)何から何まで絵でかいたように完備した女房なんて、叱ることもなくなって、きっとあなたは退屈よ、「バカだなア」という表現にはそう云える対手にしか流露しない親密さがこもって居ります。そして、そういう人の心も、そういうとき独特のゆたかさがあるのよ。そうでしょう? 今に、私は益※(二の字点、1-2-22)ベソをかきながらよろこぶようになってゆくでしょう。
 さて、暑いこと。十年来に三十五度になったそうですから。今この机の上の寒暖計は三三度です、九一度ね。下はどの位かしら、面白いからくらべて見ましょう、風がふいても熱風です。
 二十日には口が渇いてお苦しそうでした。暑気で体から何かがしぼりとられたようなお顔の色でした。疲れたでしょう? 本当に、あつい番茶でもさア、とのませてあげたいと思いました。私の汗は玉と云おうか大雨の如しと云おうか。それでも、やっぱり私はあついお茶やおつゆをのみます、あついものをたべると、汗はひどいひどい有様でも体がダルくならないの、これは妙です、ですから、うちはその点禅坊主の方式にしたがっているわけです。暑いときの熱いものは極めて爽快です。そして、出来るだけ早くねて、窓あけて。あなたはユリが又逆戻りしそうだと御心配ですが、それは大丈夫よ、自分の気分がわるくて、能率の低下がわかっているのだから。
 ところが、二十日の日は思いがけないことがおこりました。あれから、理研の文化映画の試写へまわって、久しぶりで面白いのを見て、夕飯をうちでたべ、そろそろ寝仕度にかかろうとしていたら(十時ごろ)戸台さんの友人から電話で、盲腸だというの、入院するのに医者を、という相談なの。ケイオーということですが、あすこの三等なんか、前に耳のわるい人のことで経験しているし、変な若い人に切開されては大変だから、宮川さんがよかろうと、十一時二十分前ごろ家を出て、青山の宮川氏の家へゆき、白山の戸台さんのアパートへ案内しそれから、駒込病院に入院して、手術が終ったのが午前三時。まさに盲腸はやぶれようとしていたところでした。それにくっついていた由。おかげで命一つを拾いました。うちへかえったのは朝の七時。
 何しろ、この頃自動車がないでしょう。青山へゆくんだって省線、市電、白山にゆくのだって市電、夜なかにかえれず、朝を待つという次第で、病人のときは実に閉口ね。宮川さんは小さい体を実にマメに動してくれるので、ありがたく思いました。
 戸台さんたらお酒をのむのがバレてね、腰椎ようついの注射がきかないのですって。腰ツイがきかなければ全身もきかないのだそうで、局部で手術うけて、痛がってうなっていました。アルコールとは何とひどい害悪でしょう、こわいと思いました。命にかかわるような病気のとき、アルコールと性病とは決定的なマイナスですね。「これにこりてお酒やめればいい」と云ったら宮川氏「イヤ、安心して益※(二の字点、1-2-22)のむかもしれません」と。
 経過は大丈夫でしょう、昨夜窪川さんにもしらせてやりました。びっくりしていた由、きょう鶴さん行って見るとのことです。
 右の次第で、きのうの日曜はへばってしまっていました。昨夜は早くねて、きょうは大丈夫。しかし、余り暑いと頭の中が真白くなってボーとすることね。
 野原から冨美子は来ますまい。きょう、お話しする家の事情で。
 家をかりて勉強するというのも、第一家不足ですから適当なところないし、一室かりても女は、やっぱりキュークツなところもあってね。それに私はテーブル、椅子もちこむのも面倒で。フーフー云い乍ら結局この二階で暮すでしょう。
 新しく来たきょう子という娘は、きっちりしたいい子です。真面目な、丁寧な、いくらかヤスに似た俤のあるいい子です、心に厚みがあります。これは私が飢えていたような味ですからうれしいと思います、家も清潔になりましたし。だから暑くても辛棒出来るところも増しました。
 暑いときは、ひとがよそへゆくから、きっとお客もへるでしょう。避暑の習慣なんかないからその点は平気です。私はつくづく、お茶がのみたいときのめるのに何をか云わんやと思うのです、何だか私の気持の標準はいつもそこにあるから。
 おや、風が通るようになりましたね、
 多賀子が病院からかえって来た(レントゲンの日で)。切腹居士どうしたかしら。
 切腹居士と云えば井汲さんの旦那さん、重役になって、そういう生活から又この頃ヤーエンコでさぞうだっていることでしょうね。赤ちゃんを生もうとしている花子さん、眉毛つり上げているでしょう。
 金星堂、紙が手に入らないでまだ印刷にかかれないのですって。文芸のものはそうですって。科学のものは先にゆく由。文芸が急を要さないもの、贅沢品の一部と思われるうちは文化も稚い足どりというわけでしょう。
 十九日にかいて下すったお手紙、何だか楽しみです、きょう笑っていらした様子から。
 これから森長さんのところへ行って来ます。ついでにこれを出すために、一区切り。表は別に。
 呉々も暑さをお大切に。横になっているのが苦しい夏は休養もむずかしくてね、夏は本当に心がかりなときです。

 七月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十四日  第四十七信
 きのう二十二日朝のお手紙――夏寒物語の分――がついたら、けさは十九日の分がつきました。面白いのね、この頃は。よく、あとの雁が先になります。ついた順に二十二日づけの分から。
 やっぱり、あのチェックは夏寒なのかしら。それは一応紳士道から云えば、チェックつけるということから一つの例外ですけれど。でも、夏寒かしら。私にはどうしてもあの線の表情が見なれたものなのだけれど。独特なのよ、御存じ? 非常に一種のトーンがあって、それは、あなたが何か一寸を入れてものを仰云るとき、背骨をごく表情的にお動しになる、あの感覚がいつも線に出ている、それなのだけれど。まあ、いいわ。私はこの夏寒むは未解決のままでいいの。なかなかそこにいいところがあって。
 麻の手拭は、木綿よりアセモをなくします。くびのところにアセモが出来ていらっしゃるように思いましたが見ちがいでしょうか。枕につくところムンムンすることねえ。何かいい工夫はないものかしら。しきりに考えているのですけれど。座布団なんかは駄目ね。むしろかたいものを何かでくるんで、頸のところをすかすようにした方が、いくらかましかもしれません。水枕なんて夢物語の一つでしょうねえ。
 美術刺繍の花弁の形、なかなかいいでしょう? やっぱり夏寒む的でしょう。
 ああ、それからこの間のシャボンはアセモのこと考えてホーサン石ケンです。いくらか、普通の石ケンよりはましでしょう、あれがなくなった頃又お送りします。夏はああいうのの方が刺激がすくなくて且つ皮膚のためにようございますから。
 本の(河出)題のこと、いろいろありがとう。私はこういう風に、あなたがいろいろと考えたり相談にのって下すったりするの、大変にうれしゅうございます。季節感のことは、本当ね。よほど何かそれ自身含蓄のあるものでないと、やはり季節の感覚だけ浮きますから。
 私はいろいろと考えて、一種微苦笑を洩しています。本屋が、ガサゴソいろんな妙なものでひとわたり儲けて、さて、すこしと気が落付いて、私のものなんか出すという気になる。すると、そこには又別の条件が生じているというような塩梅で。どうもなかなか活現実ですから。
『書斎』のこと承知いたしました。
 作家の生涯が、時代、環境、家庭、資質様々の綜合ということ。何と痛切に実感するでしょう。きょうも『朝日』の学芸で、杉山平助が書いていて、山本有三が『主婦之友』とかにかいていた「路傍の石」をかきつづけられなくなったということを、作家が事実を通過して描けなくなった今日の現実を遺憾とする意味でかいていました。有三でさえという意味で。人間の心の成長、時代のうごきの必然には、明暗があるのが当然であって、そこを通過することは、天然の理法であるにかかわらず、と云っている。有三においてさえなお然り。このことには無量の意味があるわけです。或る作家にとって、例えば、一人の妻の心というものがあるとする、良人を思う心をかくとする。良人を思う心は抽象には存在いたしませんからね。きわめて具体的条件があります。その条件をぬいてかいたとして、妻の心一般であって、芸術的には独自性もありません。だから書かない。それだけその作家は宝をもちぐされている。何と痛切でしょう。作家はいつも一番かきたいテーマというものがあり、それをこそかいて力量をいっぱいに振えるのであると思います。そのテーマの一番必然なものをいつもよけているということの毒は、非常にふかいものですね。作家の渾身の努力は、いかにしてこのフショク作用にうちかつかということでありましょう。この努力がまたごくごく微妙です。
 本当に雨がサーッとふればいいことね。けさ一時曇っていただけでも大いにたすかりました。
 今年の夏は一つ修業をしようと思うの。それは風のとおるところでものをかく練習です。私は風が体に当るといやで仕事出来ない。でも、今年は二階に籠城でそんなこと云っていられないから、風が通ってもかけるようにして見ます、これは半ば生理的な原因なのでしょうね。皮膚の表面が温度を奪われ、頭の血管がどうしても充血するその間に何か不快感があるのでしょう。皮膚の弱さもあると思って、それで今年はすこし吹かれて辛棒してみます。
 上野にはソーダ水あってよ。私はのみませんが。ソーダ水というものはどうもすきません。ポートラップというもののこと、白山の小さい店でのんだこと思い出しました。覚えていらして? 私はあのとき初めてポートラップというものをのみました。
 ところで十九日づけのお手紙の前、昨夜速達頂きました。それは私の甘ちゃんと云われていることわかりますし、承認もいたします。あなたに対し、あなたの批評に対してはそうですが、たか子なんかどっかに私の手落ちでもあるような表情をするから非常に不快です。そのことでは不快です。野原にいたときも、あのときの手紙には書かなかったけれど、なかなか腹にすえかねるようなこともあったわけです。あの一家のひとは、とことんのところへゆくと、人を利用すると知らず利用するだけに頭を働かせ、到って水臭い心持で対して来るからきらい。尤も、きらいというのは子供っぽいことですが。でもきらいだわ。自分の勝手でばかりやさしい声したりして。暗黙にケンセイしたり。大変むきつけに書いておやおやとお思いになるかもしれないが御免なさい。書くと下らないようなことだが、心持では腹の立つこともあるのだから、あなたは「ホウ、ユリはむくれてるナ」と思ってきいていて下さればいいのよ。誰に云う人もないと、昔話の木こりは木の洞に自分の云いたいことを云ったというでしょう、あなたは御亭主だから、私のジリジリもおききにならざるを得ないのよ。あしからず。
 面白いのねえ。本当にまともな気持でたよりにしているのかと思うと、信頼という本当の気持は知らないで、スルリといつか利用の面へまわってしまっている。だからあいては、本気でためを思ってやって、やがて腹を立ててしまうところが出来る。
 ところで、富雄に召集がかかって八月一日に出かけます。ういう種類の召集か分らず。明日たか子が御相談いたしましょう。いやなところを思うとムカムカするが、一人の若い女が、ともかく世の中と組みあってゆくのですから、同じ利用するにしても大局的なましの方向に役立つ以上、利用されてやるつもりでは居りますから、その点は御安心下さい。
 十九日づけのお手紙。いくらかでも冷たいトマトがあればまアまアね。玉子は売りに出ていますが、痛んでいるリツが多いから。牛乳はおなかにあって居りますか? 下痢になりませんか。アメリカあたりの標準で、体のためになるのは四合五勺が単位ですね。ただそれだけはのめますまい。料理に入れるのを入れてですから。どうかうまい組合わせで栄養をおとりになるように。そのことでの倹約は全く無意味よ。味噌汁は汗をかいた体のために力がつきますが、召上るでしょうか。塩分がいるのです、汗をかくと。塩分は非常に大切のようです、肉体の疲労には。
 島田からかえりのこと、一般的なこととしてよくわかります。半徹夜なんか絶対して居りません。そうすると朝おそくなり、体がもちにくくて、暑さ一層凌ぎにくいのですから。本当に、いつかの夏、林町にいて、四十度熱出しましたね。そして、叱られたこと! よく覚えて居ります。よく眠ること。体に力のある感じにしておくこと。それはよく気をつけて居りますから。今夜も十時半には眠るでしょう。先日うちのように、一日の大部分暑い外にいると頭がボーとなります。うちにいると疲れ大分ちがいますが、いつもそうばかりもして居られず。
 読書案内のこと、はっきりそう思います。例えば「古代社会」だけで、発展が示されなければ、河出のあの結婚や何かを法律上しらべた叢書をあてがったって本質は何も知り得ないのですから。婦人伝についても、この頃多く出るのは回顧風のものね。その点婦人作家論はちがうつもりです。記録のこと、しらべました。
 これからすこし明朝渡すものかきますから、又ね。

 八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月一日  第五十三信 これで順でしょう?
 妙にこんぐらかりましたから先ず、土曜日のことから。土曜日は多賀子が立った日で、朝そちらへゆき、私は夜東京駅まで送ってやりました。家を出るときは気がつかなかったけれども、往来を歩いたら頭がクラクラして足が浮いて千鳥足の気分だものだからびっくりして、送るとすぐ家へかえりました。
 日曜日は、それでもどうしても読まなければならないものがあって、昼間じゅうそれにかかっていて、夕飯後すこし書いて早ね。月曜日にそちらへゆき、少々ピンチと云っていたのはそのことです。今まで、体がつかれて苦しい気のしたことは始終ですが、こんどみたいに、体はしゃんとしているのに頭だけ妙になってものもはっきり見えないようだし、目まいがしてあぶないようなのは初めてなので気にしていたわけです。でも、月曜日は午後の六時半から明舟町の新協劇団へ前から話にゆく約束があって、人があつまっているのにことわれないから、早く夕飯たべて出かけようとしていたところへ、てっちゃんが就職がきまったと云ってよってね、そちらへゆきたいが、では明日は私はゆかないからというようなことで、私がめの舞う話もしたわけです。二三日ひとの来ない家のことの考えないでもいいところで、フーフー眠りたいというようなことから国府津へ林町の連中がいるので、行こうかしら。行きたいけれど、やっぱりなかなか思い切って行けない、宮本が行って来いと云ってくれると行けるようなもんだけれど、など話したわけです。じゃあした話しましょう、そうね。こんな工合で、すぐ出かけて、私は虎ノ門へ出かけ十時半ごろ帰宅したわけです。
 一時間も落付いていず、私は出かける前でバタバタして別にそんなことを、話して貰うというはっきりした依頼なんかするわけもないし、半分笑い話のようにしていたのでした。私がはっきり、そんなことはいいわと云わなかったもんだから、あの人らしく親切気から妙にこんぐらかったのだろうと思います。
 私が疲れたということより、妙な話の出されかたが不愉快でいらっしゃるのはよく分りますが、元来はそういういきさつなのよ。
 こんなに頭が変という疲れかた初めてだから、私もすこしびっくりしたのです、勿論ぐたぐたな気になっているのでもないし、只早くこんな目まいなんかなおしたかったわけです。佐藤さんにきいたら、私が珍しいというのが珍しい方の由。頭をつかう人の疲労は大抵そういう形の由、私がふだんひとより丈夫で、生活に気をつけているため余り経験がないのだろうとのことです。だからどっさりたべて、よく眠って、すこし用事へらして(会やお話のことをことわって)休めばいいでしょう。土曜日には、すこし風邪気味ではあったのですが、全くあんなこと初めてだったから。今もまだ幾分クラクラです。
 国府津のあの長椅子のこと思い出したりしてね。何だかあの上へ丸まって眠ったら癒りそうな気がしたりして。私が疲れを出すと、半徹夜、不規則とすぐ結論づけられますが、半徹夜なんかで、この程度続くものではないのよ。現実の問題として。普通のひととちがう生活の条件で、昼迄寝ているということはないのだから。
 でも、きのう、あなたが、何となく頸の毛を立てた鷲のような彫刻的な顔つきで、私の疲れを承認なさらなかったとき、悲しいようでしたが、やがて面白くなって、その気持は今もつづいて居ります。疲れを承認しないこと、承認しない疲れを、生活の中に生じさせないようにやってゆくこと。つまりそれですから。随分その分量は減っているのだけれど、一年に一度はちょいと出して、三十一日のお手紙のような印象になるのね。あの手紙だけ切りはなしたら、マア私の生活というもの、考えかたというもの、何という惨憺たるものの如くでしょう。私の小市民的敏感性なるものも、あなたへの映りかたに興味をもちます。こういう表現で云われるときには、現実のこまごました場合のなかで、私のそうでもない気質で同じ対象に向ってされているあれこれのことは消されて、その面と思われる点だけ、あなたの印象に甦るのね。常に同じことが甦るのね。それは何となく不思議のようです、そのところだけが、様々の他のいろんな事実によって流動を与えられないまま固定されているというのは。実際はそんなに膠着してはいないのでしょうと思うのですが。どうでしょうかしら。全体的に云えば。
 所書のちがったお手紙二つ。どうもありがとう。五月十五日のと六月二十五日のと。生活というのは何と面白いでしょう。この二つの手紙のうちにある天気の工合、そして、三十一日のなかにある風の吹きかた。そしてこんな風も、やっぱり五月十五日のなかに云われている水をかけたり、陽にあてて暖めたり、手入れのいい植物を大切に思う、その一つのあらわれであるということも。たとえば月曜日に私がその上に漂うような心持で、目をまわしながらうっとりとして歩いていたその気持と、水曜日やきょうの気持の変化。そして、そんないろいろの気持の断面がチラリと見えるきりで、見えた断面に一日の気持が、多く支配されるというのは、私たちの独特な生活の条件ですね。こういう光景は非常に趣が深いわね。同じ詩集の中の描写でも、泉の上に太陽は出ているのだけれど、すこし風立っていて、すこし荒っぽく樹の梢がふかれる風がふいていて、雲が飛んでいる。泉の噴水は、いつものようにおのずから溢れてふき上げながらその風で漣立って、水の頂きを風の方向にふきなびかせられている。秋の情緒ですね。美しい寂寥があります。風にふかれつつ光る水の色などに。
 きょうは午後、『朝日新聞』で会がありますが電報でことわって出ません。そんな風に気をつけ、余りよみかきせず、三四日休んだらいいでしょう。ごちゃごちゃして御免なさい。ズーっと力をこめて一定に引かれていた線が、突然ゆれて力がぬけたみたいで、きっとあなたも「甚だ妙」でいらしたでしょう、私だって駭然としたのですから。こういう疲れかたは、おどろきを伴うのよ、特に「あら私目がまわる」と云ってすぐそこでつかまる手がない生活のなかで。この気分おわかりになるでしょうか。そこに手があってそれにつかまれれば、つかまったそのことで、もう疲れのいくらかは癒るのよ。これもお分りになるでしょう? 私の場合は大層な大所高処からの見解で、うっかりつかれたというと、それは通用しないのだから大したものねえ。全く大したものねえ。でも、疲れないようにいくらしたって疲れたとき、私はやっぱりそれをあなたに向って表現するしかないでしょう? それが自然なのもお分りになるでしょう? 国府津のことはもう考えていませんから。グラグラしたはずみにそんな気持になったのです。
 お客のこともわかりました。これからはそうしましょう。
 きょうはこれで終り。
 今多賀子から手紙が来ました。野原小母さんの弟さんの河村さんという方がなくなられたそうです。うちの経済の事情は、やはり多賀子が勤めなければならない程度だそうです。いずれかえって来て、よく相談にのって頂いてからきめるそうですが。
 では又明日ね。朝そちらへ行って、あとは横になったり何かしつつ。『英研』六月号でマーニン夫人てどんなひとか見でもしましょう。なおったら又図書館通いよ。では明朝。

   つけたしノ表。
      │ 朝     │ 夜   │
七月  十日│   七・〇〇│一一・三〇│書いたもの90[#「90」は縦中横]
   十一日│   六・四〇│一一・〇〇│
   十二日│   六・二〇│一一・〇〇│読んだもの、
   十三日│   六・三〇│一一・三〇│ 七月十二日から三十五頁。
   十四日│   七・〇〇│一一・〇〇│
   十五日│   六・四〇│一二・〇〇│たくさんの式の中からやっと這い出したところ。そして、すこし、このこととドイツが金本位を廃止することとはどういうのだろうかしらと思う地点に立っているところ。
   十六日│   七・〇〇│一〇・三〇│
   十七日│   六・五〇│一〇・四〇│
   十八日│   六・三〇│一一・三〇│
   十九日│   六・四〇│一一・〇〇│
   二十日│   六・四五│   ――│戸台さん盲腸サワギ
  二十一日│朝八時―一二。│ 九・〇〇│
  二十二日│   六・三〇│一〇・〇〇│
  二十三日│   七・〇〇│一一・一五│
  二十四日│   六・五〇│一〇・二五│
  二十五日│   七・〇〇│一一・〇〇│
  二十六日│   六・三〇│一〇・三〇│
  二十七日│   六・四五│一一・〇〇│多賀子出発
  二十八日│   七・〇〇│一〇・四〇│
  二十九日│   六・五〇│一一・二〇│明舟町のお話
   三十日│   七・〇〇│ 九・一〇│
  三十一日│   六・四〇│ 九・三〇│

 八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月一日  第五十三信の別口
 この間しらべた記録の配分かたの表、やっと出来ましたから、左のとおり(森長さんでしらべた分)たか子と二人で見えなくしてしまっていた分。

 十四、七  木俣鈴子手記 四通 栗、袴、山、秋
  〃    大泉兼蔵記録 二通 栗、袴、山、秋
       (八月にとった)アトの分と合わせて四
  〃    秋笹正之輔記録四通 同
  〃    予審終結決定十二通三部、栗、森、秋、袴
  〃    宮本顕治記録 二通 栗、袴、山、秋
       (八月にとった)あとの分と合わせ四
  〃    木俣鈴子記録 五通 栗、秋、山、袴
  〃    西沢隆二   二通 栗、
 十四、八  袴田里見記録 五通 栗、袴、山、秋
  〃    金季錫    ?  ?
  〃    加藤亮    ?  ?
  〃    宮本顕治抗告 四  森長さんがもっている、栗、あとは分らず
  〃    熊沢光子記録 五  栗、袴、山、秋
  〃    西沢隆二記録 四
        高橋善次郎 一冊
                 森、
        大串雅美  一冊
 十四、十  袴田公判   四  栗、袴、山(秋)ナシ
       木島記録   五  栗、袴、山、秋
       証拠物写シ     栗、袴、山、森(秋ナシ)
       大泉公判 第一回  袴、宮、栗
 十四、十二 大泉第二回 第三回 ?
 十五、二  証拠物写シ     森
       西村マリ記録 三  ?
       加藤西村公判    ?(これは岡林氏の方のしらべで、岡林氏のところに一通アリ)
  〃    林鐘年予審  四  宮、栗、秋、袴
       蔵原惟人   二
       秋笹正之輔上申四  山、袴、
        同 公判調書四  山、袴、
       山本正美調書 四  森
       逸見重雄公判 四  山、袴、
       逸見上申書  四  森
       袴田上申書  二  秋、森、
       木俣鈴子上申書二
        同 公判調書四  秋笹二部
 この間のしらべではこのようでした。きょう林鐘年と逸見上申書のお話がありましたが、林というのは、そちらに行っているように森長氏は思って居りますね。上申書の方はたしかにまだなのでしょうが。本当によくはっきりしないこと。
 ○猶、木島公判記録一、二、三、四回は山崎、岡林氏のところにある由です。
 これでいくらか見当がおつきになるでしょうか。
 写したものはこの表が全部ではなく宮本文書目録そのほか一通二通のもの、とりのけとしてあります。先に写してお送りした分と参照して御覧下さい。
 失くしたと云ってもある筈と心がけていたので出現しました。眼玉の御威光のみには非ず、念のために。キラリとすると正気づくとなど御思いになると閉口故。

 八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月四日  第五十四信
 雨ね。すこしわきへよって、場所こしらえて頂戴。ああ、これでいいわ。
 私の変なのは、やっぱり眼ですね。でも、何とひどいのでしょう。きのうかえりに近藤というお医者へ行って、計って貰ったら、右の方が 2.0 だったのが 3.0 になっていて、それは進んでいるわけです。左の方はやっぱり 2.0 でいいというわけで、もとのしらべでは左右同じな度に少し乱視の度がついていて、右が 0.5 左が 0.25 ついていたの。その乱視の度はとってしまって、単純な近視 3.0 と 2.0 となったわけです。それですぐ目鏡やへ行ってそのように新しくして、かけたら、今度は右の方はスーと頭のしん迄楽になったのに、左がまだきっちり合っていないようです、今日も左の駄目なのが益※(二の字点、1-2-22)はっきりして来ているのですが、日曜でしょう? 明日迄待たなければならないの。こうしていると、ついどうしてもよむか書くかして又つかれそうだから、栄さんのところへでも行こうかなどと考えているところ。右は楽なのに左が苦しくて、その片方の眼から頭がこの間うちの苦しさの微弱なのになって来るのがよく分ります。でも何とひどいんでしょう。
 きのう電報頂いて、ありがとう。眼ね。内科的な原因から眼がどうなっているというのではないでしょう、血圧のこと本当に大丈夫よ、尤も眼の調整がすっかりすんでいくらかでも妙ならすぐやって見ますが。
 体のこと非常に注意しているもんだから、体力で或程度まで眼の自身の力で保っていたのが、つかれたので突発的に自覚されて来たのね。
 頭のああいう工合の苦しさ、ひどい気持でした。何しろ頭でしょう、致命的な不安です、その感じを自分に誇張しまいとして(そういう精神的な不安を)。突然だし頭グラグラでまともに歩けない位だし、実際たまらない気持でした。いやねえ。これには、一つ原因があるのよ、ずっと眼を見て貰っていた桑原という医者(ケイオーの人)が、一昨年盲腸を切って入っていたとき、ふと眼のことを考えて、すこし変化しているように思って又調べて貰おうとしたの。そしたら、私の眼はちんばで右左ちがうが、度のちがいすぎる眼鏡はわるいからこのままと云ったのよ。
 私はそれを信じて居りましたからね。そしたら、きのうの話では、2.0と 3.0 ぐらいの相異は全く普通でいくらでも差をつけていいし、差がないと見える方の眼だけで見ていることになってよくない、それだろうというわけです。眼をつかうのだからそんな差はやはり大切だというの、永い間には。全く何だか分らない。執拗に自分の眼の感じで追って行くしかないわけになってしまいます。左の方のことよく明日研究してね、それでおさまるでしょう、しかし、神経はよっぽどつかれたのね。これまでにどんなに損していたでしょう。残念だこと。私は何だか段々慶応がすきでなくなります。内科のお医者で今戦争に行っている人はしっかりしていると思っているのですが、どうかしら。
 お医者などという人は、ずっと永年かかって、体の特殊な条件をすっかり知っていてもらわなければ、いざという重大なとき何の足しにもなりません。例えば私なんかこんなに丸くたって、婦人科のお医者が、丸い女につきものといういろんな条件、頭痛だとか不眠だとか、便秘だとかは一つもないのですものね。そして、やっぱり内科のお医者がそうだろうと思ういろんな条件もないのですもの、例えば私は胃腸がいい体ですし、新陳代謝もいい方です。そんなことだってやっぱり独自な条件ですもの。
 この眼、この左の眼、これがちゃんと調整されれば、そして疲れやすめしたら、もう大丈夫です。眼からの苦しさと、今ははっきりわかりました。
 さわいで御免なさい。でも、自分としては小さくさわいだつもりだったのよ。
 河出の本のために作品をうつす仕事、きのうときょう二人の若い女のひとにたのみました。一人のひとは洋画をやろうとしている、大変素質のよさそうな二十一の娘さんで、絵の具を買う金を働こうとしているの、ですから、私のこまこました仕事ずっとあればその人にとってもいいわけですが。
 きょうはもうこれでおやめね、なるたけ疲れさせない方がいいと思うから。右の眼は底まですーと自然な感じで、左の眼だけ変に意識されています、それが曲者よ。
 眼鏡をとった私の顔はどう見えて?

 八月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津町前羽村字前川より(芦ノ湖及び元箱根風景(※(ローマ数字1、1-13-21))、宮ノ下全景(※(ローマ数字2、1-13-22))、湯本温泉全景(※(ローマ数字3、1-13-23))、玉垂の滝(※(ローマ数字4、1-13-24))、箱根神社の森(※(ローマ数字5、1-13-25))、箱根町全景(※(ローマ数字6、1-13-26))の写真絵はがき)〕

※(ローマ数字1、1-13-21))こちらは八十二度から四度です、東京も余りちがわないようね。何しろ一家総出ですからなかなかの賑わいです。泰子、太郎めっきり元気で泰子はやっと食欲が出た由。私は空気のいいのとお客のないのとが何よりで、ついた日は午後二時間も眠って又早く熟睡いたしました。眼はやはりこの度でいいようです。遠く遠くと水平線をながめて居ります。
〔余白に〕全部で六枚つづき

※(ローマ数字2、1-13-22))きのう(七日)は、珍しく私が来たというので国、咲、太郎、私、従弟の紀という一行で午後から夕刻まで箱根まわりをしました。始めて通ったところで仙石原というところがひどく気に入りました、高原的な眺望で。これも初めて芦の湖を小さい汽船で渡りました。仙石原を通ったとき、私の心に一つの遠い夢想がわいて。きっとあなたのお気にも入る風景だったものだから。そこのエハガキがなくて残念です。

※(ローマ数字3、1-13-23))こちらもいろいろの生活資料が統制でおかみさん大苦心です。砂糖、炭、米、東京で切符のものは(マッチ、砂糖)こちらではどうしても手に入りません。これから来るのならば、みんな持参というわけになります。魚も十分でありません。ここは所謂避暑地でないためにこういうときは不便ですね。保田の稲ちゃんもショーユを買うのにいい顔をされないと云ってよこしました。

※(ローマ数字4、1-13-24))本をよまない覚悟でいるので、子供まじりに何だかだというのは却ってよいかもしれません。紀というのは黒鯛釣りに夢中です。太郎がそれにくっついてゆく。私やああちゃんは、赤子アカコと森閑としたあの食堂のところで風にふかれます。けさは太郎とお恭ちゃんとをつれて海岸へ出て一寸遊んでいたら、雨が落ちて来ました。頭の苦しさ大分直りました。左の目も馴れて来たようです、子供二人とああちゃんと一つ蚊帖で眠るのも珍しい味です。

※(ローマ数字5、1-13-25))ここの海岸は、あなたの御存じのころと大して変りません、風にふかれた砂丘もあすこにやはり短い草を生やしています。道路がすっかり変ったけれど。道ばたに松の生えた土堤があったでしょう? あれはもうないけれど。うちは、芝生が出来たのがちがいです。今はあのソファーによく泰子が手足をのばして眠って居ます。こうやって皆とここにいると、日頃と全くちがった空気です。子供二人はちがいますね。おばちゃんになるのも休みの一つのようです。

※(ローマ数字6、1-13-26))きのうきょうのうち何にも急な用事はおありにならなかったでしょうか。字をかくとまだすこし頭がしまるようです。でも、只いれば大分まし。字をかいてもこの頭がしまって来る気分がないようにならなくては本物でありませんね。あの位ひどくなった揚句、三四日で直そうというのは虫がよすぎるのでしょうか。目のまわるのはすっかり直りましたからいいけれど。明日はおめにかかります。きょうは一日くもりでしょう。あした雨だと草履で困りますね。

 八月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(「鴨緑江流筏」の写真絵はがき)〕

 八月十日、これは随分美しいでしょう、悠々たり千里の江ね。北京の坂井徳三さんが送ってくれた一組の一枚です。まだほかにも面白いのがあります。追々御目にかけましょう。ヴォルガを下った夏の終りのことを思い出します。けれども、この河の水のきらめきがつたえる生活の響はやはりちがうことを感じさせます。揚子江の上流の絶壁の風光はすばらしいようですが、そのエハガキはありません。

 八月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十日  第五十四信
 暑くないのだけましと思っていたのに、いけませんでしたね、顔色がわるうございました。気分、大分よくなかったのでしょう? こんな天気はよくありません、皆お大事にということでした。どうか安静にしていらして下さい。呉々も呉々もお大切に。月曜日にあのとき云っていらしたことについて御相談いたします。私の方でも出来るだけ心当りをしらべておきます、それ迄に。専門で適当な人を見つけたいと思います。
 私の眼は、左まだ研究の余地があります。月曜日にそれをやります(これは六日に)。
 五日のお手紙、それから九日にかいて下すったの、けさ、ありがとう。五日のお手紙へのお礼は、六日に申しましたね。国府津も空気こそ袋へ入れてもってかえって、あなたに吸わせて上げたいと思いますが、生活条件がハガキにちょっとかいたようでね。なかなかちょくちょくとはゆきません。その点では鵠沼はましですね、咲枝もつくづく云って居ました、何しろ海は荒くて子供(大人だって)入れないし、全くの漁師村ですから野菜もすくないし。切符のものは別途に手に入れる方法がないし。行くとき国男にたのまれて、台所で使う炭をもって行ってやったのよ、そんな工合。石炭も持って行ったのですって。ですものね。三四日一人でとはゆきません。おしいものだが致しかたなしです。バスがこの頃は大分あやしいの、昼頃はよく休んでしまうし。※(二の字点、1-2-22)いよいよ閉口です。でも何とかして折々息吸いにゆきたいとは思って居ります。大磯のようなところは町そのものが外から来る人々によって生計を立てているようなものだから、わるいところもどっさりあって、しかし、今は物資はやや円滑でしょう。全く国府津は、使えるような使えないような、ごちゃごちゃしたところとなりました。あなたの御存じの頃があれで一番住よい条件のあったときでしたね。
 パニック的手紙のこと、いつかも書いたようにさいわい大分わかって来て、本質的に所謂気にすることも少くなって居りますから大丈夫よ。夕立をやったとき、あの日は一日時々晴れた空からパラパラと来てね、そして、パラパラ雨をふらしながら、生活って何と面白いいいものだろうと思いました。あんな狭っくるしい、あんな短い時間の間にも、やっぱりああいう形でつい溢れるものがあるのですものね。そして、私はあなたに対して腹を立てている自分、あなたを恨んでいる自分をさがし出そうとして心の底をいくらさぐってもどこにもそういうものが無いので、大変不思議でした。ずーっと心の水底へ鏡をしずかに投げてやると、その小さい鏡は沈んでゆきつつ悲しさを映してはいるけれど、憎悪のかげはどこにも映すことが出来なくて、底に落付いたときには、その鏡の面一杯になつかしさが照っている、大変面白い気持でした。私たちもこうして暮して、九年の月日がけみされたことを痛切に感じました。そんないろんなことから思いかえせば、あの夕立、やっぱりなかなか可愛いと思います。
 それにつけても、飽きない心のたたずまい、あの眺め、この風景という工合に過されないのは千載のうらみですね。
 九日のお手紙、眼の本のこと、どうもこまかにありがとう。眼と神経衰弱についての本をよんで見ましょう。これで左がちゃんとすればきっといいのだろうと思いますが。眼からの疲労と云っても私は実によく眠るのよ、そして食べるのですけれど。只よんだり書いたり歩いたりが苦しいのね。しかし、もう頭が大分楽になって、少くともものを考えることが出来るようになって来ましたから(仕事について)追々ましになりましょう。こんなにしてボヤボヤしては迚もいられない、その気があって早くよくなろうとするものだから。全くあんなに気をつけていたからこの位ですんだのでしょう。
 Dのないようにするということ。大体Dはそうないし、例外ね、万一そんなときは朝よく眠るようにします、私は眠りが不足では実に能率が低下しますから。それは自分でよく心得て居ります。よく仕事したいのならよく眠らなければ駄目なのです。
 河出の本のもの二人のひとにたのんでうつしています。でもまだ自分でさがす必要のがあり。そのついでに(どうせひとをたのんだのですから)「『敗北』の文学」の批評ののっているのを見つけて、やっぱり写しておいて貰おうと思います。必要でしょうから。いろんな広汎な種類のひとの言葉がより有意義ですから。
「街」「顔」などのほかに「伊太利亜の古陶」「小村淡彩」「氷蔵の二階」「心の河」など、そして「白い蚊帳」「高台寺」等。
「伊太利亜の古陶」というのは一寸した諷刺的なものです、マジョリカの焼物をめぐって。「小村淡彩」は、鎌倉の小料理やへ来た馬鹿な女中をめぐっての風景。馬鹿な小女が、みごもっていて、馬鹿なりにその父親になってくれるものを熱心にさがしているその切な心を、はたでは只バカ扱いにしている、そういう有様。
「氷蔵の二階」は平凡社の、あなたが御覧にならなかった小さい本に入っているのです。氷屋の二階が貸部屋になっていて(アパートの前駆ね)そこに暮している若い女の生活の気持をかいたもの。「心の河」は伸子の前駆をなす種類のものです。一組の男女が、日常茶飯の些事ではいやに心持が通じたのに、生きてゆく根本のところでは何にも通じず、憎らしいと互に思う気持だけがあるとき閃きあっているのが分るという心理。
「高台寺」「白い蚊帳」は内容を覚えて居りません。これから見つける分。
 この時代のものは、概して小さいあるときの心理というようなものをとらえている作品が多うございます。まとまっている。でも深さが十分でない。題材がそういうものであるところもあるけれど、やはり作者の生活眼、生活感覚が、環境的なものに支配されていると感じます。能才者という調子があります。上すべりしているというほどではないけれども。そして今の自分としてはその能才風なところが気に入らないわけです。
 現在の私は、小さい枠に、どっさりのものを含ませたり盛ったりしようとして、未完成なものを書く傾きがありますが、それらの作品はどれもそれぞれにその世界をもってまとまっていて、つやがあって、小市民の善良さ、かしこさのつやをもっている。狭さがわかります。「顔」「伊太利亜の古陶」「小村淡彩」などは題材は面白いのです。気持も一寸とらえているけれど、生活の息が不足しています。あくどさがない、いい意味でも。濃い色とつよい息がありません。破れたところがない。その頃私は芥川の作品が殆ど大部分一種の作文だということを、理解していなくて感覚で反撥してだけいた、そのことがよくわかるようなものです。少し気持がわるくなったからもうこれでおやめ。本当にお気分はどうでしょうね。

 八月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十一日  第五十五信
 きょうの御気分はどうでしょう。さむいようなむすような天気ね。すこしはお落付きなさいましたか?
 きのうの「ひどく心配しなくていいよ」という気持と苦笑との交りあった極めて複雑な表情が、目にのこっていて、やっぱりこうして手紙かきはじめます。
 ほんとにどんなかしら。お眠りなさいましたか。
 専門家のこと、いい見当がつきました。おめにかかって申しますが。非常にふさわしいと思われる選定です。月曜日にいろいろこまかくお話しいたします、まち遠しい。
 この天候は一般に大変こたえているようです、いろんな人が調子をわるくしています。きょう『都』をみたら保田で稲ちゃんが急病で、鶴さん看病に行ったと出ています、何かしら、扁桃腺なら大したことないけれど。でも扁桃腺は腎臓になるからどうしたのかしらと心配です。あのひとも過労つづきですから。朝鮮旅行で随分無理した揚句だったし。
 私の眼の方は、きょう左の方に乱視の度の入っているのを入れかえて見ました。いく分楽になったようです。それにつれて、思いかえして、もう一度、ずっと見て貰っていたケイオーの医者のところへ行って見ることにしました。以前からのひきつづきで、責任を帯びているわけですし、私のような仕事は、眼の使いかた激しくて、一日のうち大抵ごく近距離を見ているわけですから、眼鏡はその特殊な条件も考えられなければならず。つまり右の方にだって、乱視の度がなくては、きっと害があると思いますし、その変化は、やはり前に見て貰った人にたのむ方が比較されていいわけですから。
 私はこれから一年一度の健康診断と検眼を実行いたします。こんどのようにショックうけて、さわいで苦しがって実につまりませんから。あの苦しさ! 眼鏡が合わなくなると誰でも相当バタバタやるらしいのね。めがねやでは心得たものです。
 この頃は外米にヴィタミンBが欠けているために、眼の苦情が増大しているそうです。それから酒の品質低下のために。
 ここまで書いたらお客さん、若い娘さんたち。一人は写しものをたのんでいる可愛い人。お恭ちゃんはきょう上野の博物館見物です。佐藤さんのところに、さち子さんの姪が(十五歳)来ていて、その子に見物させるというので、つれて行って貰わせてあるわけです。この間はお恭ちゃんの兄さんが二人づれで来て、よろしくとたのまれました。大切に可愛がられている娘です。だからうちへ来ても変に引こんだところなくて、家の者としての気分でいてようございます。その点では、私は仕合わせだと思って居ります。
 ここまで書いたのが十一日。きょうは十八日です。その間ずっと書きませんでした。
 けさ、十六日づけのお手紙着。ありがとう。箱根のエハガキ、やっとつきましたそうですね。山の峯々遠けれど、という次第ですね。林町の父、そんなこと云って居りましたか? ストーヴの前の光景やいろいろよく覚えていて、あの重い剣をこしらえ直した火をいじる道具をもって話していたりしたときの様子まざまざ浮びますが、その話は忘れていました。父は大変歓待したいと思ったのね。
 国府津の海では、私又別のことを思い出すの。虹ヶ浜のこと話して、私が泳げないと云ったら、そして、きまりわるいと云ったら、「夜教えてやるよ」と仰云ったこと。今年行ったらどういうわけか珍しく、この体に海の水をサアサアとあびて見たいと感じました。それにつれて、一度ならず「夜教えてやるよ」、という声を顔の近くにきき、そういうとき浅瀬の波のなかで、自分が一生懸命つかまっている腕をも感じました。そんな感じをもちながら、入口のつたの這ったポーチに腰かけて太郎のやる花火を見物したりしていました。
 眼は、昨日又行きましたが、殆ど痙攣がしずまったそうです。半月以上棒にふった甲斐がありました。でも、半月は長かったこと! そして眼鏡も度が測定出来て左が 2.5 の近視に 0.5 の乱視。右が3の近視に 0.5 の乱視ということです。今のレンズは3ですが乱視はついていないの。きのう眼鏡やへよって3に 0.5 のついたツァイスのをたのんで来ました。一時、ツァイスが入らなくなると云って一対で35[#「35」は縦中横]円もとったのよ。今は停止価格で片方7円か八円、マア十円どまりでしょう。これでもう大丈夫。よく気をつけて、仕事のどっさりあるときは薬をつけて、夜は眼をひやして寝て、それをつづけたらいいでしょう。どうもいろいろ御心配をかけました。
 パニック的手紙を、かんしゃくの問題という風に片づけるとすれば、本当におっしゃるとおりのことになります。でもそうではないと思います、私のそれに対する気持は。そんなものとは思っていないわ。そうだとすれば、或る程度まで一方的な性質で片づけられることですものね。そういううけとりかたがあるとすれば、かかれている本質が、上を流れて去るばかりです。
 きめたこと、約束したこと、それをきっちり実行するということは、私たちの生活の条件のなかでは特別な意味をもっていると思います。生活の全般のディテールがすっかり見えているときには何故それが出来なかったかよく分るけれど、そうでない場合は、実行されなかったという結果だけがそちらには見えて、しかも、それを実行するという約束が生活の接触点となっているのだから、そのことについて実行されたされぬということより、接触点が現実的に確保されないような感情への響があるわけですものね。私は、小市民的云々のこともあるけれど、それに加えて、そういう生活感情の面も重く感じます。そういうことからも生活が大切に扱われなければならない事情に私たちはおかれていると思うの、そうでしょう? 生活を大切にし愛してゆくということは具体的だから、その事情に従って、ひとには分らない要点が具体的に存在すると思います。それは全体から見れば一部のことだと云えるとしても、もしそのとびとびな一部ずつが燈台の役目をしているとすれば、その一部一部は、生活の日々の波の上にいつも光っていなければならないわけですものね。私はふざけて「あなたの雷」とも呼びますし、「かんしゃく」ともいうし、「こわいこわい目玉」ともいうけれど、それはもっと別な心持からの表現だわ。
「心の河」のこと、そうね。作者の生活と題材との関係という点からのみかたと、読者にとって今日何かかかわりのある題材ということとは、同じようで必しも同じでないという例ですね。
 いくつか写して貰ってみて、結論として感じることは、昔の作品は何と昔の作品だろうという感慨です。「伸子」の最終が、本質的な発展ではないということをおっしゃったことがありました。そのときそれが理解されたと思っていました。今、あの頃の作品をよむと、どんなにそれが真実かということが肝に銘じて、更にもう一つの脱皮に移って行った過程を書いて見たい気がする程です。
 すっかり写せたら大いに研究してみて、結局、「雑沓」「海流」「道づれ」などを入れて古いものをごく客観的題材のものだけにするようになりそうです。全集は面白いものだと逆に思います。下らない、今見れば不満な作品にも、やっぱりどこかにはその人らしい一貫した糸が細々とつづいていて、本質の変化というものが、その細き一筋にかかっているところ何と面白いでしょう。「高台寺」という小さい作品をよんで、おどろきを新にしました。批評家ママてよみますからね、これだけ時間が距っていると。時々自分の過去の仕事の総覧をすることは有益です。私のように、狭い個性の境地というものをわが芸術の島としてより立っていないものの推移の過程というものは、きわめて困難です。
 作品を集めるとすると、やっぱり、今日の未完成の方がおとといの一定の完成よりは胸くそがよろしい次第です。もし本には入れないとしてもいろいろ学ぶところあって、写し代金何円かも万更浪費ではありません。それがきっかけでたちのいい、心持のいい娘さん一人を知り合いとすることも出来ましたし。
 もうこれからの忙しさ。何しろ二十日も仕事しなかったのですから。敷布団この暑いうちにとりかえてしまいましょうか、出来て来ましたから。これまでは布地が勝手な長さに買えましたが、今度のは標準形ですから、すこし短くはないかと思います、普通はあるのだから、そうでもあるまいかと思いますけれど。木綿のわたのふとんを着せてあげようとおかみさんは大わらわよ。今夜か明夕、野原からの二人来るのではないかと思います。
 寝起の表、この前のお手紙に甲乙でつけてとあり、その方がまとまるからきょう迄十七日分をまとめて見ます、八月一日から、ね。さて、どうなるかしら。眼のためにやっぱり平常よりはAが多いこと、
 A四。B(十一時前後)十二。C(十二時)一。Dはもとよりなしです。朝は平均六時半。Aのなかにaa[#2つ目の「a」は上付き小文字]もあって九時ごろ床に入っている夜もあります。
 読むものは休みました。
 人を選ぶときの話、そうね。こういうことはやっぱり自分のリアリズムの問題ですね。そう考えるとなかなか機微をふくんでいることが分ります。自分の条件を明かにつかんでいないと、客観的多面的な検討ということも出来ず、一般的な或は一面的な標準できめるから。これは今私に比較的実感的に肯けることです、だってここにOならOという人がある。科学者として或る方法をもっていると云われている。その主張はゆずらないと云われている。ですが、その人が実際に扱っている対人的場面で、経費の関係で云々という条件に譲歩して、その科学者として曲げないと云われている持説を曲げているとすれば、同じ経費経費の条件に対しては同じ無抵抗を示すということが結論づけられます。その発見を私は、ハハアとつよく人の動きのポイントとして感じたばかりですから。曲げるような条件のないところで、学術論として集会の席上で、或はケンケン服膺ふくようする事情におかれている個人対手にその説を曲げないというほど、たやすい真直さはないのですもの。それは客観的には持説を守るということにはならないのですものね。
 何につけても具体的な確かさ、それへの即応の敏感さは大切ね。
 あなたの一寸した言葉は時々建物の根太までさっと照し出すようです。Oのことについておっしゃった一寸した言葉が、やっぱりそうでした。私なんか足の裏の皺の走りかたまで見られているようなのね、きっと。それで私は安心していられるのね、こんなに。急転した云いかたでいくらか滑稽だけれど。こういう急転のカーブが妻から良人への手紙の特質かもしれないわ。この曲線はふところのなかへ入って行くのよ。そして、そこでつたかつらと変じるのよ。

 八月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十九日夜  第五十六信
 いそいそと二階へあがって来てね。随分久しぶりの夜の机です。多賀子、冨美子、恭子、三人づれで夕飯後銀座へ夜店というものを見に出かけました、私はそれから風呂に入って、まだいくらかポッとしてめがねがくもる位の湯上り。
 きょうは三十一度でした。大体この二三日二十九から三十ぐらいだのに、残暑のあつさは格別なこたえようをするのでしょうか。
 あれからずーっと三田へまわりました。四国町に昔西村の祖母が住んでいて、向島のおばあさまと云いならわしていたのが、三田のおばあさまというのは馴染なじまなくて、妙だったのを覚えています。さつまっぱらというところで市電を下りて、歩いて行って左へ入ってそこの二階からは海が見えました。今考えてみれば祖母は一彰さんというあととりとけんかをして、秘蔵娘の住んでいたとなりに小さい家を借りて住んでいたのですね、そしてその婿さんに一文なしにさせられたというわけでしたろう。法学博士でしたからそういうことに通暁している由、よく親族会議からかえっては母がおこっていました。
 そんなこと思い出して市電にゆられて行ったら、四国町という停留場がありました。四国町もやっぱりあっちこっち向いてひろがっているのね。東電について右へ曲ると町並はすっかり裏町めきますね、あのあたりは。更に左へ入ると下うけ工場の小さいのが軒並です。薄暗いところに真黒に油じみた工作場が口をあけていて若いものが陰気に働いています。そこを行ってタバコやを曲ると、町並は一しお細かくなって、こまごました日暮しの匂いを漂わしています。駄菓子ややなんかある。そこを一町ほどゆくと右手にすこし大きい西洋建があって目をひきます。そのとなりに古風な黒板塀の家があって、黒板塀の上から盛りの百日紅さるすべりの花がさし出しています。その町すじに黒板塀の家なんかたった一軒、そのお医者さんのところだけです。なかなか一風ある家のたたずまいでしてね。門の上に、ほら昔の東京名所図絵の版画なんかにランプの入る角形の街燈が、鉄の腕で門の上についている風景がありましょう? あのとおり昔ながらの角燈がついていて、そのあたりには医者らしい広告の棒もなければ、電柱の広告もしてないの。医院ともかいてないの。普通の標札だけ出してあって、日よけの簾の二三枚たれたしもたやづくりの二階屋です。往来から見えるところに狭い待合所があって、母につれられた女の子が横になっているのが見えます。きっと病人をあずかるときは普通の二階の部屋をつかうのでしょうね、こういうところは。老いたる武士の帷子かたびら姿という感じがその家に漂っています。
 その前をとおりぬけるとすぐ三田のケイオーの正門の通りへ出たので、おやおやというわけです、丸善がついそこで。
 人の感情が年を重ねるにつれていろいろに傾く地理的な環境というようなものをも面白く感じました。一方の丘の上は自家用車が走っているようなところ。そのこっち側は、ああいう小さい庶民の営みが充ちていて、そこで、一種の気骨が聖医というものにしてゆくのがまざまざとわかるようでした。勿論人によって逆になるのだが。
 こっちから「いくらよこせ」なんぞとは云わない。だが、自分の方法に疑いが一寸でもあるならよそへ行ったがよかろう、そういう気分が、黒板塀に語られているようにも感じられました。なかなか明治ながらの角燈なんて趣味のはっきりしたものであります。家というものは本当に性格的ね。この目白の家なんか、やっぱりひとが見たら何か性格が語られているのでしょうね。
 三田の通りをすこし行って、左へ細い道を折れて行ったら田町の駅の前へ出ました。何と鮮やかにベロアの帽子が思い浮んだでしょう。私がパナマのつばのひろい帽子をすこし斜めにしてかぶって、駅前のこっち側に動いていたとき、ひょっと見たら、反対の側に立って人通りを何となし眺めていらした、あのままの駅前の通りにかーっと残暑の日光が照っています。
 ひろい車道のこっち側に、やっぱり小さいソバ屋があって、支那そばの鉢が浮びます。すべてが異様にまざまざとしています。私はオリーヴ色の傘をかざして、十年昔の光景を通りぬけます。これらすべて何と奇妙でしょう。そして私はふっと考えるの、自分はこんなにさっきのように覚えている、そんな風に果してあなたが覚えていらっしゃるようなことだったのかしら、あなたにとって、と。そう考えると一層異様です。私はほんとに何となしそれから先へ、行くところへ誘いましたね。どうして誘ったのでしょう、どうして何となしいらしたでしょう。
 きょうの漫歩はあつい漫歩であったけれど、そのあついという字にどの字をあてはめたらいいのでしょう。炎天の下に秋の夕暮の靄が湧いて、そのなかに自分たちであって今の自分たちではない、自分たちの姿を見る白昼の街は独特の趣でした。
 誰かが冗談のように電車代だと云って十四銭くれて、私も笑いながら「これ上げるわ」と十銭だまを掌へあげて、まるでさっさと「じゃさよなら」と別れました。でもどうして、まるでさっさと別れたことを、こんなにはっきり知っているのでしょう。
 膝の上の例の袋には、冨美子のお土産に三田通の青柳で買ったもなかが入っています。省線のとなりにかけた女の子が、ぐるりとエビスをまわるものだから「この電車新宿へ行きますかしら」と心配そうに訊きます。
 エビスのよこのビール会社の空地にビンの丘があって、西日にキラリと光りました。ああ、こんなにあっても足りないのかな、と感心したりして。この頃はソースにしろカルピスにしろ、ビールはもちろん、ビンなしでは買えませんから。
 体じゅうに暑さと何かが射しとおしたようなくたびれ工合でかえりました。冨美子はやっぱりくたびれたと見えて、心地よさそうにひる寝しています。冨美子は白アンがきらいだそうです。それからあっちでは枝豆だのどじょうたべないのね。枝豆やどじょうを、人間のたべない下等なもののような表情で多賀子が見たり云ったりするのを私が、そんな女くさいと笑い半分本気半分で叱ったりして夕飯すませたわけでした。この手紙はこれでおしまい。長篇の一節の筋がきめいたこの手紙。おもしろいところのある手紙、ね。

 八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(「松花江の鵜飼」の絵はがき)〕

 八月二十日。こういう鵜飼いの風景もあるのね。きょう、徳さんがスミさんにことづけて、真鍮に七宝の模様の入った支那の切手入れをくれました。スミさんは茉莉マツリ花の入った支那茶をくれました。切手入れは小さいけれども、どっしりとしていいボリュームがあってなかなか気に入りました。呉々もよろしくとのこと。きょうは少々仕事しました。カメラがいいからもっと大きく見たいことね。

 八月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月二十一日  第五十七信
 午後二時。今みんなは豊島園へ出かけました。パンのおやつを御持参で。私はひとり。これから仕事しなければならないのですけれど、何だかまだ、けさお話ししたりしたことが心にのこっていて。これをかきます。
 ゆうべ、夜なか、雷が鳴って雨が降ったの御存じでしたろうか。部屋の灯をけしてあるから、あけてある窓のすき間から雨の音に混って稲妻の光が白い蚊帖の裾にさします。眠らないでその光を見ています。笑って二階へはあがって来たけれども、横になったらやっぱり苦しいの。腹も立たないし論判する気もしない。でも何という惨酷さでしょう。思えば思うほどそこに在る淵は深く暗い感じです。日々の生活に満足し、ほかに思うことがないからとそういうことを思う人間の心に、こんな底のない、むごい考えがあり得るというのは。胸に刃ものが突きさされていて、動くとそこから血が流れるの。急所をそれは刺しているのではないのだけれど、こういう刺しようもあるかと身動きが出来ないの。そして、稲妻が白い蚊帖に射すのを見ています。
 段々躯がふるえて来ます。決して涙はこぼれないのよ、只躯がふるえます。私は声に出して云うの、「ああ、しっかりつかまえて頂戴、しっかりおさえて頂戴」と。稲妻がはためいている。こういう夜も私たちの一生のうちにあるのかと、そう思って雨のふきつける音をきいています。
 憤りの感情について考えます。怒りは素朴なところがありますね。或意味ではよろこびに転じる一番近い感情とも云える、それは手答えのある感情の動きですから。対手を対手として見る上での感情ですから。
 悲しさという感情について考えます。これもそこには涙の溢れる余地があって、涙の中にある和らぎが予想されます。
 この絶望ではない沮喪の感覚は何と表現したらいいのでしょうね。
 静かな深い深い惨酷は何と音もなく、而も思いかえす余地もなく惨酷でしょう。
 今年の初めに、初めて同じような沮喪の感覚を学びました、その折のことはちっとも話しませんでしたね。それはこんな会話なの。「××ちゃん、あれがかえって心変りしたとき困るから余り世話にならんことで。こっちから世話にならんことで。」
 笑って床に入ったけれども、非常に思いがけない言葉でしたから、その言葉は耳の中から消えないのよ。夜が明るくなる迄おきていました。大変奇妙な経験でした。けれども、こんなテーマはテーマの本質をとらえているものの間で話題になるべき種類のことではありませんから、私は黙っていたわけでした。
 本当に変な心持ね。「ようして貰うから、まさか云えん」というようなことが、自然に一方ではっきりと考えられているというのは。
 林町のものに向って私は、昔から、人間は理性をもった生きものであるという点から話して来ました。その明瞭な方法よりも、いろんな事や物や場合やを通じて人柄からひろがってゆく解説の方がふさわしいだろうと思って、その点私たちは相当根気よかったと思います。この何年かの間のそんな心くばりは、何の実質にも吸収されていないのね。してくれるからして貰っておく、それだけなのね、結局のところ。「よく気がつく」「云うことは立派なもんじゃ」その他等々はそれなのだからと素直な結論にゆかないで、それだのにどうこうなのは、こうであろうか、ああだろうか、という頭の働かせかたに導く糸口として役立つというのは、こわいような感じですね。情愛とは何でしょう。不思議な推測の形は、きっと年を重ねるにつれてくりかえされて、そのことから固定された観念のようになってゆくかもしれません。私たちの生活全体が、私の引く糸によって進行したし、しているという考えは、先入観であって、既に固定していることを考えても。
 いろんな日常の不平が一つ一つと消えて、一番あとにのこった一つの不平は、種々様々の形で私の上に凝集されるというのは何と微妙でしょう。
 仲人は『婦人公論』をもって行って有効に利用し、そして来た嫁とともに、ああいう話がされるという情景を思いやると、私はやっぱり切ないと思います。
 足元に裂けて現れたこういう深淵を、それは深淵でないと私に云うことは出来ません。そこにそれがなかったことにも出来ません。けれども、私たちの生活への意志によって、私はその淵の上にも橋は架けるでしょう。何故ならその淵にもかかわらず、対岸との交渉は継続されなければならないのですから。
 美しく描かれているままで保たれている感情を、結局は抽象的にしかあらわされない卑俗リアリズムでごたつかせる必要はないという考えで、ずっと来て居りましたが、こういう種類のことは、私ひとり黙って耐えている方がよいこととはすこし違うでしょう? これから先の複雑な推移のなかで、いろんなニュアンスをとって、その※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リエーションがあらわれたりして、葛藤めいたものになるのはいやですから。
 私たちはこれまで所謂不幸というようなものを入りこませずに生きて来ました。これからもそのように生きなければなりません。私たちは、生活の地形にはっきりと知った一つの淵をよく理解し、そこには流失の憂いのない橋を架け、必要にしたがって平静にその上を往来して、やって行きましょうね。
 私がいくらか人生を生きて来ているということは、こんな際何という仕合わせでしょう。鬼面に脅かされきらずに沮喪の感覚をもってゆけることは、お互の何という仕合わせでしょう。よろめいても倒れないことは何とよろこびでしょう。この傷からよしやいくらかの血を失っても、急所は別のところにもっている、そのうれしさというものも感じます。
 今夜も雷が鳴ります、稲妻がはためきます。こういう夜々に、心の傷をしずかに嘗め、物を思っている精神の姿は、大変あなたに近く感じられるでしょう。
 私たちは、こんなとき、一緒にいてもきっと言葉すくなく一つ心の四の瞳という工合にして蚊帖に射す稲妻の色を見ていることでしょうね。私たちはそういう人間たちだわ。別の人間たちではないわ。では御機嫌よくね。

 八月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月二十五日  第五十九信
 八月二十一日朝づけのお手紙。ありがとう。不順な天気ね、もう二百十日の先ぶれの風が吹いて来ました。今年は六つ本がまとまるなのですが。私としてはまとまることを希望し且つそのようにやってゆくしかないわけですけれど。
 あらあらマア、この夕立! 大さわぎしてあっちこっちで洗濯ものをとりこんでいます、でも気持がいいこと。この手紙をかき終ったら、冨美子が女子大というところを見たいというからつれてゆくところです。丁度夕立の間やみになって。
 冨美子は、あれから遊覧バスにのって一日東京見物をし、きのうは渋谷の海軍館と三越とを見物。きょうは女大。明日は一日鎌倉、江の島へ出かけます。二十七日は翌日立ちますから夜夕飯をたべにつれて行ってやって、伊東やで本立てを記念にかってやることにしました。
 島田へはきょう手紙かきました。あたりまえの手紙。そして冨美子のかえるときお母さんのおびあげ、友ちゃんの半エリ、達ちゃんのかみそりの刃をとぐもの、ことづけます。これからも、これまでどおりしてゆくことは致しますから御安心下さい。私が心をくばるのは、何か云いわけのような意味からでないことさえわかっていて下さればいいと思います。
 この間の夕立のこと。それはわかっているわ、それは大丈夫です、けれども、あの折は私の気持やっぱりああいう工合になったの。いろんな続きからね。けれど、つづきなしでも、私としたらやっぱり全然きかれる筈でない種類の質問という感じはあるでしょうね、きっと、いつきかれても。生活全体の感覚の問題ですものね。こんな気持も面白いと思います。人間の生活感情にいろいろなかんどころがあるのね、そのことに関しては敏感であるという、かんどころがあるのね。
 仕事のやりくりのことは、私もこのお手紙をひろげて眺めて、しみじみどういうことにしようかと考えて居る次第です。
 林町は、いつも私がいるというのではないところである方が種々の点からようございます。喋ったりとはならないけれど。もっと別のことで。
 長いものかくのには、やっぱり特別にやりくりの必要があることがわかりました。今年福島へゆこうとは思って居りません。あすこは、いろんなものの不自由はないけれども、私はせめて一週間に一度は来たいわ、或は十日に一度。それには福島は遠うございます、急行で五時間。しかもこの頃の上野のこみようは殺人的で、入場券を売り出さないのですから。鵠沼だと電車(小田急)で、電話もかかり、いざ急用というとき安心だし、どうだろうと考えて居ります。いつか(二月十三日)一晩とまりに行ったとき、離れを見て来た話、一寸いたしましたろう? あすこどうだろうと考えます。国府津、たった一人は困るわ、誰かつれてゆくとこっちが又一人になって困るということになるし。鵠沼はただいくら位でおくのか。親切でもなさそうな宿でしたしね。あなたも御存知だし、国府津がもうすこし面倒くさくないといいけれど。うちで、散々「おかず何にしましょう」で、又それがくっついてまわるのは沢山というところもあるの。これまで私は東京をはなれたくない自分の心持の面だけ肯定していて、何とかやりくろうやりくろうとして居りましたが、こうして、あなたも力をつけて下さるとうれしいと思います。思い切って出かけて仕事する気になれて。「婦人作家」のすっかり原稿わたし、評論集の原稿わたし、必要な前がき後がき皆わたし、そんな仕事の間にゆく先をきめます。毎日五枚書くとして四百枚はマア三ヵ月ね。本年一杯ですね。
 ふっと考えて、もしや今稲子さんのいる保田の二階、あとをかりようかとも思います。東京から一時間とすこし。二階だけかりるのね。ここにはずっと住んでいる人もあるし、いろんなものに不自由しまいかと思います。これで、こまごま何がない彼がないで案外やっかいなものよ。
 眼はやっとどうやら眼鏡はおさまったようです、能率はまだ低いと思います、きのうは、でも六七枚、お客の間にどうやらかきましたが。これから『新女苑』の例月の二十枚、『文芸』『婦人画報』の二十枚があります。『文芸』のは最終の部分になるでしょう。
「心の河」写してくれた人たちが、作品として、今日の若い女のひとの心の問題や気持に近くて是非ほしいというし、その意味では私も心をひかれるので、やはり入れることにしました。作品として客観的にあらわれた意味の点から入っていてもいいと思ったので。「小祝の一家」をすこしところどころ削って入れて、「日々の映り」というあいまいの題で書いたのをすこし手を入れて集めたら、いくらか系統だつのだろうと思います。「刻々」ね、あれは私自分であなたに云いまちがえたのよ、「その年」というの、母の心をかいたものは。「その年」というのは短篇集にいい題でしょう。ですから「日々の映り」を「その年」として見ようかと思います、内容はふさわしくないこともないのですから。
 只今電報つきました。すぐききましたら旅行から今朝かえりました由。そして又出かけて留守。今夜多分かえるでしょう、出さき不明の由です。夜こちらへ電話かけるとのことです。
 寿江子がおなかをわるくして寝ました。見舞いに行ってやるつもりです。あつくかければ苦しいし、おなか冷えるようだったり、今はわるい気候ですね。
 林町の連中は皆開成山です、寿江子一人留守い。それで寝ているからすこし可哀想でしょう。
 アルスの写真のこと、一寸きいて見る心当りあり、本やにもたのんで見ましょう。
 いつかの写真ブックについての感想同じでしたね。相当悪趣味なのもありましたね。『少女の友』なんかに、目の大きい夢二の絵より一層病的な絵をかいて抒情画と称して少女たちにやんやとうけていた中原淳一が、健全な銃後の少女のためによくないと禁じられました。泣いた子があったそうです。作品でも絵でも、芸術の本性からくさったものがあるということと、しかしそれを芸術外の力で掃除するということとは、一つことでないところが微妙でむずかしいところなのでしょう。
 冨美子がきっと下で待ちかねているのよ、ではね。

 八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕

 八月三十一日、手紙かいているひまがないので一筆。三十日のお手紙をありがとう。やっと昨夜『新女苑』のもの二十枚かき、きょうは『文芸』のつづきの仕事。きょうこの頃は、さすがのユリも殆ど憔悴せんばかりの思いです。めかたの減るのが分るような心持。ああ、この思いを知るやしらずや鬼蓼の風、というところね。こんなところに羽衣の天女は降りたのでしょうか。そして、菊池寛によれば伯龍を神経衰弱にしたのでしょうか。

 九月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月三日  第六十信
 虫の音がしているのに、こうやっている額に汗がにじみます、午後もあつかったことね。お話していて、いるうちに段々かーっとあつくなって、本当にあつかったこと! でも二十八度よ。二十八度だってあついときはあるのだわ。私が何だか苦しそうに汗ばかり拭くので、多賀ちゃん曰ク、きょうは湿度がたかいのでしょう、と。全くね。
 多賀子、きょうから新宿の伊セ丹の裏にあるタイプライタ学校にゆくことになりました。月謝五円五十銭、入学金二円、本代二円五十銭也。月謝は東京では皆おなじです。面白そうにしているから結構です。午後一時―三時半。時間もようございます。三ヵ月。
 今回の『文芸』の仕事は、私たちにとってなかなか忘れ難いものとなりました。とにかく一年の上つづけて来た仕事でしたから、かき終って何だか余韻永く、なかなか眠れませんでした。ヴェートウベンなんかのシムフォニーがフィナレに来て、もう終ろうとして、しかし未だ情熱がうちかえして響くあの心理のリズムは文字で表現されるものにもあって、終りはなかなかむずかしゅうございました。題は「しかし明日あしたへ」というのよ。婦人作家の成長の条件は益※(二の字点、1-2-22)困難となって来ています。けれども、
「女性のかなしいくらいふしぎな責任。
それは絶望してはならないということだ。」
 そういう永瀬清子の詩をひいてね。とくに日本の女性、日本の文学やその他の芸術の仕事をする女性は絶望してはならない、雑草のようにつよい根をもたなければならないという終りです。
『乳房』のなかには、やっぱり「小祝の一家」入って居りません。そうでしょう、いくらユリはあんぽんでも、覚えている筈ですもの。
「日々の映り」の題として私の心に浮んだ同じ必然がうつったというのは大変面白く感じました。ほかならぬそのことなのですもの。一つの道を歩いてゆく、そこにこめられている感動、一本の髪の毛にさわるその感動、渇きもとめる思いや清純なる憤りや深い哀愁が日々に映る、その意味からの題ですから。しかし題として上乗でないとは申せますね。気がついて見ると私たちの生活感が、いかにつよく歴史のうつりへの感想に貫かれていることでしょう。題は「一九三二年の春」以来、「刻々」でしょう、「その年」でしょう、「三月の第四日曜」又はこの「日々の映り」や。作家の生活の反映は微妙をきわめるものですね。
 仕事のためよそへ行こうかとふらつく気持。素直にフラつく心持として認めるのが正直のところと思われます。実験室的なものを欲するのではないの、単純に、うちのごちゃごちゃからホッとしたい気持なのね。自分が命令したり、さしずしたりしてやらないと、いくつもの顔がそろってこっち見て待っている家の暮しと、仕事と、その他と、一人っきりやっていると、いやになるのよ。そんなもの放たらかして仕事だけになりたいの。こんな心持は、仕事の源泉的ないそがしさなどとちがったものでね。きっと、二人のときがあって、フーッと云って坐ってしばらく黙っていたら、そういう日々の瞬間に消されつつゆくものが、たまって来て、かんしゃくのようになって来るのね。今の事情でもとよりそれどころではない心持ですけれども。マアときどき国府津にでも行ってムラムラをしずめてやることにいたしましょう。全体の生活の感情から云えば、私は寧ろ、より人々の中を求めています。この界隈のちんまり工合は気にかなったものではないので。一昨夜隣組のあつまりが組長さんのところであって行ったらば(防空演習について)全くお客のもてなしで、おじぎばかりして、本当にえらいことでした。すこしコミカルであってね。この辺は六日に演習です。
 九月二日のお手紙けさ着。私、そんなに五六月頃から疲れたと云って居りましたか? 忘れてしまっています。きっとそうね、その頃から変になり出したのね。眼鏡はもう落付いています。でも夜、白い原稿用紙の反射がつかれる感じで、当分は夜やらないことね。そう云えばバーナード・ショウは夜十時に必ず床に入りますって。朝早くおき、午前中仕事して、午後は読書やその他。だから八十何歳でもカクシャクとして仕事しているとかいてありました。私もカクシャクとしていなくてはならないのだから、どうしてもAだのBだのとさわがなくてはならないわけね。日本の作家は、そんなに悠々仕事してそしてやってゆくだけの経済基礎がないから、みんなあくせく消耗してしまうのです。代表作集――これは十四年度を御覧になったのでしょう? 果してこういう名にふさわしいのでしょうか、うたがわしい。十五年度の編集がはじまって、それには「三月の第四日曜」が入れられますが。そうよ、健全さ、精神の健全さというものが、高く評価されなければならず、精神の健全さは、すぐもんぺをはく形ではないというところが、今日の健全さへの常識とのたたかいとしてあらわれたりする時代です。生活の意欲に方向がないから、一皮はげばデカダンスかと思い、その逆と云えば、いいとっちゃん的人情世界への沈没かと思ったり、その点浮きつ沈みつね。文学における人間性の課題は、現実にはそこのあたりを彷徨して居ると云えるのでしょう。
 外的なものが作家に与える腐蝕作用を、いつか書いたときのお手紙よりも、このお手紙が作品のあれこれにふれての上なので、やはり実感として見られていて身近な思いです。こんな場合もあるのよ。稲ちゃんに「分身」という小説があって、それは自身のうちにあるニヒリスティックなものをただかこうとしたという作品ですが、女主人公レンは支那のひとと日本の女との間に生れているの。何とかしないではという心を、日本の心、ニヒルなものを支那の血の流れというようにみているところがあって、私には、気になるところです。魯迅の小説が描いた男はニヒルでした。けれども、今日そういう性格の象徴としてはつかえないと思うの。それにたえぬものがあるのが所謂作家でない作家の感情の健全さではないかと思うの。そのことについて作者はこだわらず、いい対象をつかんだと思っているようです。ニヒルなものと闘うというプラスが、題材をそうつかむところにあるマイナス風なものと分離されて出ている。腐蝕作用はこんな風にも出るのですね、柱の裏側を喰うのね。表側は柱だわ、ちゃんと通用する。作品批評は、今日そこまでを触れないのが通念となっています。
 島田のこと。四熊さんは学者の家ですって? だからうちに学問をするものがいるということは心持よいことでもあるのです。いろんな雑誌へ名が出るのはわるくないところがあるのです。しかし自主の標準のないのは当然ですから、人のいう一言二言でいろいろに動かされ、丁度自信のない女優のように手を叩かれるのをガツガツとするわけです。そういう文学ばかりもとめる。同時に、偉いなら金まわりがいいだろう、という結論にもなってね。いろいろ悲喜劇なわけでしょう。
 私は皮肉さや辛辣さは抱いて居りません。ぼんやりとして深い苦痛の感じがあるだけです。『大陸』という雑誌があるでしょう。そこにあの小学校先生の縁者という若い人がいて、その人がどういうわけか大層高く評価しているとかで、この間御婚礼のとき、あの面長の御主人は大変私に向ってエミアブルでした。あれやこれやがこんがらかるのね。全く荒磯の小舟波にただようのでしょう。
 あなたがこういうことも、まともな据えかたにおいて処置し、平俗なごたつきをすまいとなさるお気持はよくわかるし、私の好みでもないことです、余り月並でね(川柳にしては深刻すぎるが)。天質はそれなりに歳月を経ず、生活の具体的な作用をうけるところに悲しいところもあるわけです。いずれにせよ、きょうはじまったことでないし、又明日に終ることでもないのだから、誠意をもって、やってゆくばかりです。十年経ってこれだけ、この先の十年で、又その先の十年で、とそういう工合のものでしょう。商売は口さきのものです。それはよくなかったと思います。云うことと腹とのちがい、腹はどうか分らぬ、そのことがひょいひょいと頭をかすめるのでしょう。もうこれでこの話はうちきりよ、よくて?
 今夜は仕事せず、この手紙だけで終りで休み。明日その翌日とやって、五日には又午後ゆけますでしょう。
『明日への精神』は再校が出て居ります。二十日頃には出来るのでしょう。金星堂のものろりのろりと。
『文芸』のは今度29[#「29」は縦中横]枚で、大体二十枚ずつで十三回、間に四十枚ほどのがあるから二百五六十枚ですね。それに年表、索引がついたらすこしまとまった本になりましょう。早くまとめてわたすこと! 文芸評論をあつめる話、繁治さんの知人の本やという男、全く評価がないのよ、私がどういう作家かもしらないし、勿論かいたものよんでいないのだから、この間明舟町の引越しでちぢかまって、延期ですって。こういうのをばかというのよ。繁治さんやすうけ合いで自分でこまったかもしれないが、いい心持いたしませんでした。
 どうか夜よくおやすみになるように。苦しい気持に何といろいろの内容があるのでしょう。私はよく時間的に大変遠くにおいて感じてさえ随分切迫した感情を経験していたのですもの。そして、今の思いになってみれば其に大変加わる立体的な奥ゆきがあって、その立体的なものは、男の心とまたおのずからちがった女の心と肉体との底に眠っているものの目ざめのようなところがあって。色あいときめのこまやかなこういう苦しさ。では又ね。
   甲 三
   乙 八
   丙 二
このところ、でもいくらかごちゃついて。床に入っていて眠らなかったこと、どっちへ入れたらいいのでしょう。
本よみは休みです。じき又はじめますが。
 ではおやすみなさい。

 九月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月六日  第六十一信
 四日朝のお手紙。あああなたは笑っていらっしゃるのね、私だってつり込まれて笑うけれど、馬のやせるのはたべるものがないときよ。そこが馬の馬たるところよ。私は人間で、れっきとした女で、だから肥ったってやせるときもあるというのは全くユーモラスね。しかし、ユーモラスという表現には、何と含蓄があるでしょう。何とこまかい眼差しのニュアンスがこもっているでしょう。
 この数日に経験した心持は、何かおそらく一生忘られないところがあると思います[自注4]。ね、人間の心に何年も何年も一つのことが保たれている、保たれているのは、それが散りぢりにならないのはそこに大した力がこめられているからでしょう。ある瞬間、その永年のサスペンスとなっている力の全部がうち傾いて、生活の中に滝のようにおちかかって来ようとする、そういう刹那の感覚。それは決してある事が別の状態になるというような平坦な継続ではなくて、まるで目のくるめくばかりの力の飛躍、いのちの飛躍です。しかも、そのような巨大な転換が刻下に生ずるのではなくて、今にこれだけの総量がおちかかるのだろうかとそのボリュームをはかりつつ、滝壺の深い深い深さをも感じる心というのは。それだけの力の傾きを将に間一髪のところで支えている心というのは。
 大波小波のうねりにしろ、大きい大きいうねりでした。わたしは泳ぎが出来ないで残念ですが、でも、高い高い濤にのって、その頂に運びあげられたときにも、気を失わなかっただけはめっけものであったとお思いになるでしょう? 息がろくに出来ないようになっても、バシャバシャやらなかったところだけは買って下さるでしょう。その濤のしぶきの間に益※(二の字点、1-2-22)陰翳こまやかに黒くはっきりと耀いている二つの眼を見失わなかったということは。そしてその正気の美しい眼も、正気のままにやはり同じ濤の頂に運ばれたことは、思えば思うほど忘れることが出来ない。そういう形で溢れる豊かさ、爽やかな生活力そのもののような戦ぎ。
 買いもののことを仰云ったりしたとき、そういう無垢な美しさそのいとしさに私はうち倒されるようでした。あのとき出した私の声のなかには聴えない絶叫がこもっていたようなものです。
 このお手紙のなかには本の名のことが云われていて、本は僕等の云々とかかれています。この前の手紙にちょっと私が云っていたこと、自分の心と肉体の奥でめざまされるものといっていたこと、それはあなたが本について云っていらっしゃるこのところへ真直つながるものでした。私たちは今日までの生活のうちでいろいろなものを互に与え合って、あたしはあなたにあげられるいろんなものをみなあげているけれど、それでもまだ一つはのこっていることをはっきり感じたの。私たちにもっていいものがまだ一つはあることを感じたの。傾きかかるサスペンスのなかで。現実の形であらわれたかどうかは、勿論わからないことです。けれども雄壮に滔々とおちかかる滝の水のしぶきを体に浴びるように感じながらじっと見ている滝壺の底には、そういう身震いするように生新なものさえあったのは現実です。これはあなたに大変意外? そうではないでしょう? そしてこういうことは何か極めて人間生活の優しい優しい深奥にふれたことであって、一生のうちにそう度々は語らないということもおわかりになるでしょう? 喋ることではないわ。感じ合うことだわ、そうね。こういう二人の心をうたった詩はないでしょうか。年ごとにわれらの詩集は単純から複雑へすすみ、なお清純な愛と生命の属性である簡素は失われない。真の抒情詩の美はここにあると思います。
 あの本の題は、きょうおはなししたとおりのを入れて、ゆとりと確りさのあるいい題ね。明治のごく初めの婦人作家から入って来るのですからやはり近代日本がついてようございます。きょうは『明日への精神』のための短い前がきをかきます。それから『文芸』の切りぬきを整理し、筆を入れてまとめてしまいます。〔中略〕
『文芸』といえば、雑誌の統制で文学雑誌としては『文芸』、『新潮』がのこる模様です。一枚一円五十銭が最高の『文芸』でも、文芸のための雑誌といえば、やはり誰しも愛着をもっているのはうれしいところでしょう。綜合雑誌もずっと減るでしょう。そういう会[自注5]でどこかの記者が講談社に、きみのところはいくつもあるからすこしまとめてはどうかいと云ったら、曰ク、日本は僕のところから出る雑誌さえあればほかのはなくたっていいのだ。なるほど講談社にちがいないと大いに笑いました。学校内のいろんな雑誌、学生の文学の同人雑誌なども紙がないから出すのをおやめといわれています。紙がないということでそれならいい本を出すということとは別なのです、今日の性格ね。
 詩集のはなし、詩集は本当に心をやすめ潤す力をもっているとおどろきます。手紙ひとまとめに風呂しき包みになるのもいいけれどそれらのなかにちりばめられてある詩の話も、やっぱりいっしょに包みこまれなければならないのは不便ね。そういう象嵌ぞうがんだけとり出して小さい宝ばこに入れておく魔法もなし、ねえ。
 この間うちずっと座右にあったのは、『泉と小枝』というのです。ちいさな灌木のしげみの蔭に一つの泉がふき出ています。朝も夜も滾々こんこんとあふれています。ふと、その泉のおもてに緑こまやかな枝の影がさしました。泉はいつかその枝の端々までをしめらした自分が露であったことを思いだし、しかし今映っているその枝が影であるとは知らないの。泉にはどこまでもうつつに感じられて、その小枝を湧きでる泉のなかにその底へとらえようと、いよいよ水をふきあげ虹たつばかりにふき上げます。ふき上げられた水のきらめきは、枝の影のうえにおちて自身のあまった力できつく渦巻き、ふちを溢れて日光の裡に散るばかりです。緑の小枝、緑の小枝、どんな季節の一日に、泉の面にその枝さきをひたすだろうか。枝のさきからしみわたる水の心地よさ。葉末葉末につたわって、すこやかな幹を顫慄せんりつさせる泉の深い感応。
 おのれの影に湧き立つ泉のメロディーは、いつしか緑の枝にもつたわって、枝はおのずから一ひらの葉、二ひらの葉を泉の上におとします。枝がおとすのか、葉がおのずから舞いおりるのか。水も燃えるということがある。泉のしぶきは焔のようにその葉をまきこみ、きつくきつくと渦に吸い込んで、微妙なその水底へ横たえます。しかも緑の梢は遠くというあたり、いじらしい自然の風趣に満ち満ちて居ります。
 写真の話ね。よく御存知のとおり、わたしは横向きではないこのみでしょう? はすかいがすきでもないわ。
 いつか足が痛そうに一寸ねじれて、と云っていらしたあの写真が、このお手紙のなかで又とりあげられているのをくりかえしよみます。真正面に向った姿は、云わばどんな豊富さにも力にももちこたえてゆく姿です。お母さんのかげに避難したというところ、本当にそんな風にも見えることね。でもああいう場合、私の心には自然と絶えず描かれている姿があるのでね。あすこに坐った刹那、私は自分のとなりが空気ばかりであるのを感じて胸しめつけられる思いでした。私はあのときそっと耳を傾けて、自然の耳にだけ聴える凜々しくいかにもすきな身ごなしにつれておこる衣ずれの音に、心をとられていたようなところだったと思います。私はあすこにいる、そしていない。何かそんな感じ。その内面の状態と、まるで古風なマグネシュームもち出されて大恐慌を来したのと両方でああなのね。面白い写真。今夜はどこも真暗です。でもこれは出して来ます。又ね。

[自注4]この数日に経験した心持は、何かおそらく一生忘られないところがあると思います――公判のため無理な出廷をして喀血して以来、顕治の健康はずっとよくなかった。裁判所ではあれこれの方法で顕治を出廷させようとして、ある時は拘置所へ出張して公判をつづけようとしたりした。その後、この手紙の時期になって裁判所は顕治を一時拘置所外の療養所へでも入って治療を許可するかのような口吻をもらした。そのことを顕治は百合子につげる時、「多分そんなことは実現しないだろうが」ということをくりかえしつけ加えながら、それでも万一そうなったとき必要な買物などはしておいた方がいいねと云った。顕治の拘禁生活七年目、彼が三十三歳であった。裁判所のこの思わせぶりには転向が条件として附せられていたことがわかったので、顕治は断った。九月六日の手紙と、それに対する顕治の十日の返事はこのいきさつにふれている。
[自注5]そういう会――情報局の編輯者を集めての会議。

 九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(※(丸1、1-13-1)満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、※(丸2、1-13-2)国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、※(丸3、1-13-3)国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕

 ※(丸1、1-13-1) 九月七日、サイレンが鳴ると、ソラと云って、私も昔の父の仙台平のハカマを縫い直したモンペをはいて熊の仔のような形で出ます。この度は見張りが二人ずつ三十分交代となりましたから大変便利です。この界隈はしずかな隣組で、それも仕合わせです。住居はそういうことにも関係をもって来ました。樵雪という人の絵は、岩や松が生きもののようにムーッとしていて面白いと思います。いかにも一刻な画家らしく。

 ※(丸2、1-13-2) 九月七日。何と東海道でしょう。もう一枚の肉やのエハガキとくらべて見ると、ほんとに面白いと思います。肉屋のエハガキからはスケッチもかけるし、小説もかけるようです。それだけ生活がある。マアこれは風景だ、と云えばそうではありますけれど。西太后という女のひとの生活力は大したものであったことが今日万寿山を見てもわかるそうです。エカテリナの生活力が今日でもその建物によってわかると同じでしょうか。エカテリナはヴォルテールと文通しました。西太后はその生活力を傾けて反動でした。

 ※(丸3、1-13-3) 九月七日。バックの「愛国者」の住居は長崎です。いつも海と船とが家から見はらせるところに暮している。段々よむと、主人公の心持の転換のモメントが何だかあいまいです。誇張なしにかかれているが、やはりあいまいです。もとよりそういう階級(富商)の若いものとしてはそうかもしれないが。午後から序文をもって実業之日本へゆきますが、途中でボオーボオーに出会うと電車をおりて軒下に入らなければなりません。門の前にバケツ、タライ、砂、むしろが置かれています。

 九月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月十二日  第六十二信
 十日づけのお手紙、その前の分、ありがとう。
 前にかかれている生活のことについての話は、私もそう理解してよみました。現実に私は、あなたのおっしゃるとおりの心持で話していたのですから。そして、本筋のこととして、あれは本当だということもほんとうね。
 このお手紙(けさついた方)やっぱり、私もくりかえしくりかえしよみます。私のかいた点が意外ではないということはうれしい、うれしいと思います。僕も昔から考えているのだから――昔から考えているのだから――昔というのはいつでしょう。昔というのはいつだったのでしょう、そう考えて何だかあわてたような気になります。
 ほら、動坂の家でね、私たちは、自分たちの新しい生活のために仕事が少しでも遅滞してはいけないと思って、随分辛がりながらよく夜中おきては仕事いたしましたね。あの、いやな緑茶を濃く濃くして呑んでは。それとつながった気持から、やっぱり私が別の考えようをしていたということは、はっきり思い出すことが出来ますけれど。
 ここに云われていることは精髄的な点です、ただ一つののこりものを光栄あらしめる本質です。これは私にきわめて明瞭な感覚です、一般的な動物的な欲求ではないのですものね、土台。ほかならぬ一つの心と肉体以外に連関のあることではないのですもの。私は舟橋聖一ではないから、ヒューマニティというものを動物的なところまで、煩悩までは包括して考えられませんもの。それにしても、こういうゆたかなモメントがあって、お互がお互の内に全くるつうになる心持は、何といい心持でしょう。何と一層緊密でしょう。全くたばでしょう? まるでまるでぴったりでしょう? 泣きたいほど、そうね。私たちにもたらされたこの深みのある、つやのある、みのりこそ、収穫のほめ歌でなくて何でしょう。この収穫は現実のもので、まぎれもないもので、そこにやさしいよろこびの諧調があります。私は未到のものの故に猶若々しく猶その成熟をいつくしむ自分たちを感じます。自分たちがもたないものについて、そのもたない意味を十分に知っていることから、持たない貧相さなど身につけず、却って益※(二の字点、1-2-22)ひろく瑞々しいマターナルなものに成熟することは、何と面白いたのしいことでしょう。私たちが愈※(二の字点、1-2-22)よく生きて、一人二人のもたぬものを、数千万の世代として持つようにしてゆくことは、決して根拠のない空想ではないわ。極めてリアルなことだわ。生む力が精神にもあるということは、普通何でもなく考えられているより意味のあることです。
 バックの「この心の誇り」は鶴見の娘が訳して、しかも抄訳で、日本の読者に分りよくするためと云って、自分の感想を入れたというおそろしいしろものです。いかにも親父の娘らしいでしょう? ですからこの本は、よむに苦しいような本よ。云ってみれば、文字の間にチラチラ、チラチラする作品をさぐり出して、よんでゆくようなわけですから。それでも、ここにはやっぱり面白いものがあります。男が仕事と家庭とを二つながらなくてはならないものとするように、女も生活力のつよいひとにとっては、仕事も家庭もいる。その自然であるべきことが、自然として世俗の通念に納得されない。その葛藤です。人間同士の理解には限界のあることをバックは結論としています、しかし彼女はその狭い主観的な輪が、歴史のなかでひろげられてゆくかくされた可能におかれている点は見落しているのよ。最も発展的な人間性の可能を、その意味ではつかめないのです。
 バックさんの遺憾事はいつもここのところにたぐまっています。同時に、私は文学――人智一般についても云えるが、――ノーベル賞そのものの限界もおのずとあらわれていて、実に興味ふかく思います。ノーベルはノーベルね。人間の可能性の率直な見とおしにはたえないのよ。そこまで歴史のなかの人間を評価する力はないところが面白い。「愛国者」もおしまいにゆくとこんがらかって「大地」のどこかへとけ込んでしまってね、「しかし土地があります」(都会がこわされてしまって何一つなくなったとしても)そこへ妻子をつれて来て暮しますという、そういうところへ主人公が行きます。バックの作品からこの頃感じるのですが、バック自身非常に自然力をつよく内包しているひとですね。ヴァイタル・フォースのきつい、それに導かれてうごくそういうひとね。そこに「母の肖像」のような美、「大地」のような力が湧くのですね。同じものが「愛国者」のようなものになると、所謂インテレクチュアルなものの限界があらわれて来て、本源的に「大地」へくっついてしまうのです。作者一人は何と複雑でしょう。
 私は一人の作家として自分のヴァイタル・フォースのあれこれのからくりを、どの程度見きわめているでしょうか。
 でもね、面白いでしょう? あなたはきっと微笑なさるわ。そういう点と、この手紙のはじめの方にかかれていることとは、どっかで大変結びついているのよ。丁度あなたの文芸評論と、今ここで私の前にひろげられている手紙とが、どこかで全くむすびついていると同様に。
 そうよ、文学の神通力というものは在ります。文学そのものは、そういう力をもって居ります。
 この頃は、いろいろもとから在った団体が解けて一つの別のまとまったものになるのがはやりで、雑誌協会その他が一つの出版協議会のような形になりつつあります。そこでは雑誌を八つまでの分科にわけて、たとえば婦人のためのものは第五、綜合雑誌の属すのは第七、いろいろその他に属せざるもの第八として、それぞれの分科委員会をやって、各分科代表を出そうというのだそうですが、全く大笑いなのは、『中公』は第五で『婦人公論』で当選、『改造』は短歌俳句で当選、第七に入っているのは『日本評論』『時潮』『公論』『日本及日本人』ですって、(『東朝』に出ていました)。ひどい下らない人間がゴソゴソしている証拠です、勿論こんな滑稽なことがそのまま通用しますまいが。『短歌研究』『俳句研究』が研究社の『英研』と一つかこいで、青年男女のためのものの中に入っているとは! 岩波の『文学』『教育』『哲学』が、博文館の将棋雑誌と一つ枠とは! 国辱ということを真面目に考えたことがあるのでしょうか。当今の策士は、日本を愛す真心なんてどこにもっているのでしょうと思います。十年二十年将来の日本を、どうなると思っているのでしょう。そういうことについて沈思しないおろかものが、フランスは文化主義でそのためにああなったというそらごとをおしつけるのでしょう。ゲーテはどうしてフランスに行ったでしょう、ねえ。
 眼はよく気をつけています。それに、きょうは一日在宅だから、正規の方法で糖をしらべる仕度をして居ります。この間あなたが内科的のことをもしらべよとおっしゃったとき、春、ちゃんとしらべて大丈夫だったからいいと思いましたが、やっぱりたしかめます。一番こわいのはあれよ、うちで皆やって居りますからね。頭を使うのが一番よくないなんて。
 それから、汗が出ないというのは何と体のつかれをへらすでしょう。ああ何とつかれていたろうと、今しみじみと八月を思いかえします。床のシーツがねまきをとおしてぬれるのよ。歩いてそちらに行っているとき、帯の下は洗ったようです。汗で力をすいとられるようでした。
 汗の出なくなるって、何て力がたまるだろうと、この頃は(やっぱり汗はかくけれど)ホクホクです。御同感でしょう。
 つたはまだしげって日よけに役立ちましょうか。
 歯はいかが? もとなおしたのではないのでしょう。
 きのうはあれから七時ごろ迄上野にいました。中島湘煙女史というひとは、漢学で教育されたのね。啓蒙的なことをむずかしい漢文の用語でかいています。漢詩もありました。そして、女は文学の仕事をしやすいと云っている。小さい帖面を茶の間の台所の隅においても出来るから、と。それが(文学が)どんなに女にとって大したことであるかという事実を、明治以来七十何年かの歳月が証明しているわけでしょう。文学的なひとというのではなくて、文学の教養をもった人という人です。文学のこととして一葉がああいう扱いをうける必然もわかります。一葉は小さい手帖でちょいちょい文学が出来るとは考えなかったのですから。

 九月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(モーアランド筆「救助」の絵はがき)〕

 九月十四日
 きのうときょうは秋晴れらしいいい天気ですね。うれしい報告いたします。やっぱり糖は出ていません。可愛いわね。私のこの丸っこい体。その内のからくりは、案外に精良なのかもしれませんね。糖がないということは一番うれしいことです。うれしいから一寸ハガキかきます。
 稲ちゃん呉々もよろしくと。微熱を出して居ます(稲ちゃん)大切にしなくては、ね。

 九月十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(ジオラマ筆「墨堤より鐘紡を望む」の絵はがき)〕

 九月十六日夜。まだ九時半ですが、すこし疲れ、もうねて、あした一寸そちらへゆけるようにしたいと思っているところ。熱中して一葉の補をかいて居ります。なかなか面白い。そしてね、一息かいて、椅子の背にもたれるとき、ああ今一寸そっち向いて、向いたところに顔があったら、と思います。寿江子がいてもかけるけれど、どうかしらなど思いながら。ほんとにどうかしら、この頃なら、ね。

 九月二十四日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月二十三日  第六十三信
 今上野です。お祭日で、上野は天王寺の墓地へお参りする人ゾロゾロよ。そして、この人通りは黒い紋つきをきたお婆さんや、赤い洋服を着た孫づれというのですから、動きは到ってまちまちで、あぶなっかしい賑いです。すいていると思ったらなかなかの人で、本を出して貰うのに一時間も待ちました。今度は何と御無沙汰したでしょう。九月十六日づけのお手紙十八日に頂き、十八日の速達は夜おそくつきました。そのことはお話しいたしましたね。きのう一葉を終りました。六十枚かいてしまった。ああいう風に偶像化されている人のことは、やっぱりついこまかに見てしまうものだから。あのひとと『文学界』のロマンティストたちとの交渉は非常にふかく、あの時代のロマンティシズムが生み出したひとと作品ですね。「たけくらべ」などは実にその典型です。そして『しがらみ草紙』の鴎外その他が早稲田文学派(自然主義に追々うごきつつあった)に対してロマンティシズム文学のチャンピオンとして一葉を実に押し出しています。一葉はこれらの人のほめ言葉に「ほめることばしかないのか、あやしきことなり」と云っています。あの時代のロマンティストには「たけくらべ」の美の古さ、新しさ、そこにある矛盾は彼女に向って分析してやれなかったでしょう。勿論一葉にはその力がなかったわけね。半井桃水とのいきさつも、何故あれほどの女のひとがあのひとにと云われているけれど、一つにはあの中島歌子の塾の貴族性にいつも反撥し、とけこめずにいる一葉の庶民的なものへ引かれる心もあったのでしょう。安心して貧乏ばなしが出来るのもよかったのでしょう。十五から二十五までの十年は、どんな女でも、男でも、何と圧縮された多くの経験を重ねるでしょう。この年の間にどう生きたかということで、その人の一生がきまるようね。今度一葉をかいて、しみじみと感じました。この時代に何かどっかどうかでないものが、後年何かであるということは決してないように思えて、面白いやらこわいやらです。
 きょうは、三十年から四十年までの間をすこし、かき直したくて。その下ごしらえ。
 きのう『明日への精神』の出版届けかきました。やっと出るのでしょう。あの黄楊つげの印、覚えていらして? 出来たとき手紙に捺してあげたの、覚えていらして? あの字。あれを捺すのよ、どれにもこれにも。黄楊は丈夫な木で、かけないそうです。そして、それは女の櫛になります、黄楊の小櫛。
 けさは、めをさまして、しばらく横になっていて、秋の朝の気持よいしずけさ、明るさ、すずしさをしみじみ感じました。そしてね、「朝の挨拶」という詩を思い出しました。朝、めのさめた子供が、活々とした顔をうごかしてまわりを見まわし、遊び仲間を見つけて、朝の挨拶に出かけてゆく、その足どり。それから訪ねられた女の子が、まだすこし眠たくて半ばうっとりとしながら一声一声に段々溌溂と目をさまして来る上気せた頬っぺたの朝の色。いろいろそういう描写を思い出し、やさしい心いっぱいでしずかに空を眺めている秋の朝と、そこから又別の詩がわくようでした。
 この婦人作家の仕事は、本当に誰もはかかないものになってうれしいと思って居ります。よかったわね。それに、これをやったために図書館で準備的な調べはやれる習慣がついて、私としては大しためっけものだと思います。何だか心づよい。一昨年は本が買えないということで、やっぱり生活の気分を圧せられました。ここも新刊は不十分ですけれども、それでも自分がしっかりテーマをつかみさえすれば何かは出来ます。そういう自信は小さい小さいことですが、でもやっぱり一つの生活上の実力よ。なるほど、こういうところなのだナと現実の生活力というものについて考えます。
 私の前にいるのはクリーム色のブラウスをきた娘さんで、女子医専か何かのひとらしくドイツ語の文法をひっぱって一生けんめい作文中です。右のとなりはおとなしい日本風の娘さんで、キレイにキレイに何かノートとっていて、一寸字を間ちがえるとナイフで削って、ひょっと見るといつの間にかつっぷして眠っているの。おとなしい動物らしさが可笑しいような、気持わるいような。
 お恭ちゃんの兄さんが、自分の働いている村の健康調査の仕事をまとめてレポートをつくりました。それを貰いました。農村の生活事情の分析を土台として、結核の状態、乳児の状態などしらべてあって、二年半の仕事の結果としては十分評価してよいもののようです。なかなかがんばりやなのでしょう。お恭ちゃんはこの兄さんが好きで崇拝しているのね。だから兄さんのいうとおり私のところへも来たのでしょう。いい子だけれど、すこし猫の子で、自主性が足りないの。熱血的よ。面白いでしょう? 来年ぐらいになったら、英文タイプをならうのですって。兄さんの関係で結婚の対手はお百姓さんではないでしょうから、それはいい細君の役にたつかもしれないから。
 きょうは夕刻までここにいて、夕飯は林町でたべます。開成山からかえりましたから見て来るの。あっちはお米一日に二合七勺で、豆類は一切輸出禁止です。だから名物の枝豆もおみやげになりませんでした。この冬は一人一冬炭一俵の予定だそうで、そちらの生活と平均されて来るわけです。表、今ノート忘れてかけず、この次。この次はじきかきます。汗が出ないのは何と楽でしょう、ねえ。ブロッティングが古くてクニャクニャ、おやおやこんなにすれてしまって。

 九月二十七日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月二十七日  第六十四信
 二十日にかいて下すった手紙、けさつきました。
 どんな遠くの国から遙々と来たのでしょうね。こんな手紙、こんなリズムのこもっている手紙。はるばると来た手紙。くたびれもしないで、新鮮な香りをこめて来た手紙。
 私は今晩一晩、この返事にかけましょう。ほんとにそうなるのよ、たっぷり一晩の物語。
 あのエハガキの文句は、全く省略してあって、おわかりにならなかったのね、それによみちがえてもいらっしゃるし。或は私が書き間違えたのかしら。どうしてだか、ではなくて、どうかしら、この頃なら、ね、というのでした。あれをかいたときは、一しきりかいて、すこしつかれて椅子のうしろにもたれて、一寸うしろふりかえったらベッドがあって、もしそこに一つの顔があったらば、と急にこみ上げて思った勢でかいたのでした。あなたは私がうしろにちょこなんとしていて、仕事なさいました。でも、私にその芸当は出来なかったから。となりの部屋でも、何だかときどきおまじないを頂きに行ったでしょう? そんなこと思いあわせて、今の気持、こんなに互の生活に馴れている気持ではどうなのかしら、たとえばうしろによこになっていらしたら私はどんなかしら、仕事出来るのかしら、出来そうでもあるけれど。そんなことを考えたわけでした。寿江子なんかはこの頃うしろにいても、じっとさえしていれば、普通の仕事は出来ることもあるので。面白く思ったのでした。だってこの頃はあなたの体の中にはいりこんだ邪魔ものとさえ、あなたが其を持ってやっていらっしゃるように私も馴染んでいるのですものね。
 一葉については明治二十九年来百種ばかりかいたものがあるようです。でも私は、そういう文献学的跋渉はしないで、いきなり作品と日記とその時代の生活全般とのてらし合わせで話しをすすめました。五十九枚かいてね。『文学界』のロマンティシズムと一葉の、互に交叉し合った旧さ新しさの矛盾、ロマンティシズムそのもののもっていた限界の頂点で一葉の「たけくらべ」の完成と賞讚とがあったこと、彼女のうちにあるいろいろな常識の葛藤など分析しました。
 きのうきょうは、そのつぎのロマンティシズムとして晶子、『明星』のロマンティシズムのこと、二十三枚終り。『文学界』のロマンティシズムは、日本の恋愛は痴情であるという観念に対してダンテ的愛を強調したけれど、『明星』のロマンティシズムは肉体の権利と高揚とを肯定して、一つの推進を示しているとともに、そのこと自身すでに自然主義へうつりゆく潮先を暗示するものであったこと、晶子の自然発生の感性の発揚は、しかし文学上の自覚としての文芸理論をもっていなかったこと、一葉もそうであること(これは今日までの一般の婦人作家の特長のようですから)、そこに問題が明日へのこされていること、そして、彼女のかいた評論、随筆のリアリズムと歌のロマンティシズムに分裂があって、そのことは評論に彼女独自のリズムや詩情を盛ることが出来ず、――理性を詩にまで高める力がなくて、あり来りの男のような文章(つまらない)にしていること、その分裂は多様性と云えないことなど。
 この前かいたときにはまだ足さぐりで、ゴタゴタなの。一年一貫したテーマで勉強したということは、やはり決して軽々なことではないのね。この仕事は本当に立体的な成長を語るもので、個人的の範囲をいくらか出ていて、うれしいと思います。自然主義のところで、女は文学の発足において、男が女に人間を十分認めないことに抗しているのだから、女を雌のように見る卑俗ナチュラリスムには入れなかったこと、などにふれ、反自然主義の青鞜あたりから大分手を入れないでよかりそうです。全く見ちがえるようです。断然ちゃんと気のすむまでやらなければなりません。
 河出の本、重複はさせますまい。十一月号にかく小説を入れます。それは「日々の映り」をかき直すの。
 小説についてね、私はすこしこの頃考えて居ります。
 私の評論は何故読者にとって感銘的なのでしょう。普通それは、頭脳的に云われているのよ。勤勉であること、よくくい下ること、緻密で熱があること。俗に頭がいいから云々と。でもそれはちがうと思います。私の評論には自分が腑におちるところまで辿りつめる探求があります。だから、ある感銘をもっているのだろうと考えます。決して所謂頭のよさなどという皮相のものではありません。
 小説を、どういう心の状態でかくでしょうか。昔かいたときは、あるテーマにうたれて、その一筋をたどってかいて行って、自分にわかっていたのは、そのテーマの範囲だけでした。しかし今は、自分として解決したところに立ってかいているような気がします。勿論作家は解決したところに立って(何かの形で)かくのではあるが、何というかしら、心理の解決に到った道筋をまた逆にねばって戻ってあの小路この小道という風に歩かないのね。これは問題であると思います。
 幸田露伴という人は、紅葉と対立して一つの理想を人生と文学とにもった男で、この頃の爺さんぶりなどなかなか立派です。その露伴が、いい人柄でいて何故小説はかかなくなったでしょう。一種の哲人になって、何故作家でなくなったでしょう。
 バックが、あの「心の誇り」のような限界をもちつつ何故あなたにも評価される価値をもち得ているのでしょう。非常に複雑な問題がここに私についての具体性としてかくされていると思います。
 ずっと婦人作家のことかいて来て、いろいろ考えます。そしてね、十一月の小説から少くともこの問題を、作品をかいてゆく現実のなかで自身に向って追究しようというわけです。面白いでしょう? 私はひとからいつも明るさと一貫性とでほめられますが、快活であるということは、私が苦しまず、悲しまず、憤らずにそうあるのではないわ。極めて複雑なものが統一され得る力をもっている、それを単純化して表現するだけであるとしたらつまらないと思います。そうでしょう? 私は計らず、評論で(理論家的素質からではないが)私らしい仕事まとめたから、小説を一つこのレベル以上に出そうと思います。
「山の英雄」のなかのあの文句、あなたも心におとめになったのね。「自覚した鋭い正直さ」バックは面白いわねえ。阿部知二なんかこれをでんぐりかえさせて(日常的な意味でさえ)存在しているのですものね。日本の多くの作家は、これだけ鮮明な表現で、日常性に立つ正直さをも把握していない方が多うございます。お手紙で云われているような意味では云わずとものこと。正直などということを道義的にしか感じられていないでしょう、ごく俗情に立っての。
 文学の根蔕はこの自覚された鋭い正直さ、ですね。
 本当に、この頃は疲れがへって、何とうれしいでしょう。汗のひどさなんて、人に云ったってうそかと思うでしょう。このごろは八時間労働です、平均。
 流す汗にもいろいろという話。それは全くそうね。ここにかかれている夏の詩譚は大変美しいと思います。思わず渇いた喉をうるおすつもりで、というところ、あのところのリズムには、樹かげの谿流が自身の流れに溢れながら、そこに映る影をまちのぞんでいる風情がまざまざと響いて居りましょう? 谿流にはかげをおとす樫の梢もあるという自然の微妙なとりあわせのうれしさを、何とあの作者は真心からとらえてうたっているでしょう。
 それから、もう一つの秀逸は、雄大な真夏のスロープの彼方に、かなたこなたと眺めわたされる丘々。という叙景の部分。スロープはこなた樹かげこまやかな谿谷に消え、かなた遙かに円き丘々。爽やかな夕立は歓喜の雨脚を輝やかせて、丘々をすぎ、スロープをすべり、谿流のせせらぎの上に更に白銀の滴々を走らせる、というあたり。さかんな夏の風景が実に匂い立つばかりです。
 私はちっとも詩をかかないというのは、どういうのでしょうね。文学の初歩によくかくでしょう。私はいきなり散文詩でした。それでも私の文章にリズムのないことはありません。メロディーもあります。決して音楽的でないことはないでしょう? 私はただの所謂散文家ではないつもりよ。プロザイックなどというのは文学精神の荒廃であると思います。散文の精神というのは現象追ずいではない筈です。
『明日への精神』検印しました。紙がなくて五千が三千になったから大打撃ね。どの位の定価か存じませんが。高山書院というのから出る文芸評論集は三千五百位の予定の由。題何としましょう、「現代の心をこめて」というのがいいというのだけれど。わるくはないのです。でもすこし。それにカッコして文芸評論とあると心をひかれはしますでしょうね。目下考え中です。中公、紙不足で、原稿が手に入ってから半年もかかる由。ひどい話ね。しかし金星堂のだってほぼその位になります、だからなお早くやらなくてはね。
「諸国の天女」は、つい先日手紙が来て、ずっと私のかくもの、細かいものもよんでいました由。強いという性格だけのことなのでしょうか。
 この頃は、文芸家協会再組織、評論家協会再組織、あちらこちらです。会員であることには変りなし。
 さて、例の表。中途になりましたが、九月三日以後きょう迄ね。
  甲四  乙十五  丙四
 ああ一頁、一頁。やっと十八頁、ごめんなさい。全くこれはつらいわね。血をはくホトトギスよ。全然同情お出来になりませんか、それとも少しはお出来になって? ところどころでは女学校の代数の時間のように切なくなります、あなあわれ。そして、一番私の血肉になったのは「空想より」と「家族」、それから「デュ先生反駁」などであったと思いますというと、がっかりなさること? でも一方から云えば、実に明快ね、なんて云ったら大うそですし、ね。
 あした参ります。ではもうねましょうね。又犬が啼いてるわ。

 九月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月三十日  第六十六信
 二十八日づけのお手紙、きのう着。ありがとう。
 菊さっぱりして、秋らしくて奇麗でしょう。
 三省堂の『書斎』御免なさい。あれは、やっぱり出ていないのよ。ずーっと出ないようになったまま、出ていないのです。
 二十日の手紙は、お話ししたとおり。二十六日の消印よ。座布団と手紙とは、扱いにおいておのずから違います、ねえ。
 きのう、きょうは寒いこと、セル着ていらっしゃいますか。きょうは、女のひとのためのものを二十枚かかなければならないのよ。ヘッセのことをかきましょう、随分よまれているから。ヘッセのうちにある正しいものと、ロマンティシズムにぼやかされているものとの区別、大体ロマンティシズムとはどういうものか、そんなこと。今は妙な時代でね、日本はロマンティック時代というところがありますから。壮語的ロマンティシズムと極めて低俗な万歳的地口とが、日常の感覚のなかでよりわけられずにまざっています。大した大人たちがその見本を示しているから。
 小説は、書き直しといってもそれには其だけの愛着があってのことですから、決して片々的片手間仕事にはしません。それに、この前の手紙で云っていたようにいろいろと考えていることがあるのですし。
 机の上にペラゲアの赤い花が二輪さしてあって、青い大きい生々とした葉っぱとともにいかにも鮮やかな色です。原稿紙の厚いかさなりの上にやきものの山羊がのっていて、その文鎮にあなたのお手紙よせかけて眺めてかいているのですけれど、私は、この手紙ひらいたときから、きのうから、幾度も幾度も、行為の動機は思慮深く、とかかれているところをくりかえしています。
 まざまざとそのときの苦痛が甦ります。寝ることも出来なかったし、歩く力もないようになって、夜じゅう何か畳の上を膝で居ざって歩いていた、はーっと時々苦しい息をつきながら。
 一生忘れない夜であると思います。スタンドが何とギラギラ明るかったでしょう。自分に対する何という口おしさだったでしょう。
 その苦しさが肉体のなかに甦って来て、しぼるような感じです。
 私がある一人の女のひとの真にいたましい悲劇を、しんから思いやり、苦悩の過程を辿ることが出来るのはああいう一夜のためですね。そう思います。そして、こういう苦しさは、どこにもあなたの妻であるということからの救いはないのよ。おわかりになって? あなたにかかわりない全然私のくちおしさ、苦痛であって、しかも、ことの結果があらわれれば完全にあなたの上にあらわされるということで、堪えるに堪えがたい苦痛がまさるのです。何という気持でしょうねえ。何という気持だったでしょう。ああ、といきなりは、生きていられない、という風に思います。それだと云ってどうするのだろう、つづいてそう考える。自分をそのことによってあなたから切りはなされたものと感じ、しかもそんなおそろしい孤独の状態の中から、全く密接に大事なものにかかわってゆくいきさつがまざまざと見えている。あんな気持って。
 悄気しょげてるの話ね。そういう言葉の表現で、私は一度も云いあらわした覚えはないと思います。だって、そうではないのですもの。ただ、体が随分参っているということは話したでしょうが。この手紙で、あなたが云おうとしていらっしゃることの本質はよくわかりますから、こまかく一つ一つを訂正するというような意味ではなく、ね。
 私には、あの時分、行くたんびに、どうせ命はおしくないんだろう、私だってその位のことは考えているだろうと云って居りました。そして、私が涙を出したり、哀訴したりしないので、こわい様子をしていました。それでも、顔をちがう方へ向ければ、ちがうようにあらわすのね。
 一般に云って、誰がああ云った、それでつい、というところは日常に随分ありがちなのね。こういうことは、それだけ切りはなして云えばだけれど、すこし追いつめて考えれば、たとえば女の作家が自身の芸術の理論をもっていなくて自然発生の仕事ぶりをするということと、どこかで共通ね。この頃はこのことを考えていて、そうなってゆくという作家は十中九人ですが、そうしてゆくという作家はなかなかないということを考えています。たとえば一つの大づかみの創作の理論と方向とは何人かに共通なものとしてあるわけですが(今日でも)そのなかで、チェホフの所謂自分の線というものを、持味という範囲より高めて文学史的見地から描き出してゆくものは、なかなかないわね。
 私はこの文学史的見地での自身の線がほしいと思うことがこの頃、自覚されて来た希望です。ねえ、面白いでしょう。若々しい向う見ずで仕事に熱中する時代からある段階を経て、真に仕事そのもののための情熱で仕事にうちはまってゆく時代が再び来るというのは、面白いわねえ。刻苦ということがわかって来る時代、一つのアスピレーションではなく刻苦ということが仕事の上でわかって、おのずから楽しみとなる時代。
 私は早く完成の形をとる人間ではないから、えっちらおっちらね。
 この間、津田青楓の六十一歳の還暦祝があってよばれて行って、洋画の大家たちというもママを近くから見ましたが、文学の人とちがうものですね、洋画でああなら日本画がどの位鼻もちならないものかとびっくりしました。画かきは直接社交的買い手と接触する、安井さんのような肖像画家は名士とばかりつき合うから、何だか大した先生になってしまうのね。鍋井克之は一寸面白いひとです。皮肉も云うところがあって。安井というひとの顔を見て、ああこういう顔のひとがああいうのをかくかと面白うございました。画の中の人のとおりよ、面が多くて、黒い眉して、頬ぺたのよこのところが珍しく赤くて。面と色彩とが錯交していて。石井さんはぼってりで、そういうてがたい教師風の絵だし、鍋井という人は宇野浩二の本でもああいう線の細い淡いような、そこにつよさのあるような風だし。
 私は、芸術家に還暦なんかある筈がないから若がえりのお祝だろうと思うということと、この画家が明治からのいろんな文化の波を反映して来たことの独自さを一寸話しました。門の木犀が咲きましたから、せめて匂いを、と思って、花を入れて封をするのよ。では又。

 十月四日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月三日  第六十七信
 きのうあたりからしきりにそちらに行きたい心持がいたします。でも、それに抵抗するようにして机にねばって居ります。こんな気持、子供らしいような。けれども一週間てこんなに永いのでしょうか。随分奇妙ね。たった一つの、土曜日から次の月曜日までとお思いになれて? きょうは木曜よ。
 この前の手紙、丁度これから女のひとのためのものを二十枚かくところ、というときでしたと思います。ロマンティシズムのことかくと云って居りましたろう。けれども、この問題は別にすこし深めて面白い課題となりそうなので、少年から青年にうつる時代の少年少女の心の様々のたたかい、よろこびと悲しみとを描いた文学についてヘッセの「車輪の下」を話のいとぐちとしてかきました。今、「たけくらべ」なんか随分よまれているのですって。ヘッセにしろ「たけくらべ」にしろ、そういうものを今の若いひとが心の休息所とするというのは何と可哀想でしょう。そういうことを若いひとは憤り、大人はそういう文化しか若いものに与えていないということについて大変慚愧するべきです。髪の毛を一分苅にされた頭で、その中では「たけくらべ」が訴えるものとして感じられているということは、何という深刻さでしょう。
 ロマンティシズムについては、こう思うの。これまでの文学の考えかたの型では、いつでもリアリズム対ロマンティシズムという風に扱われて来ています。そして評論をするひとたちはその型のなかで語っているけれども、ダイナミックな文学では、こういう二元的対立はもう古いと思うのです。新しい文学評論の領域でも、リアリズムの究明はまだ、その対象として或は一つの要素としてのロマンティシズムを扱うところまで行っていなかったと思います。
 この頃、自分の心持を考えてみても、そういう対立は間違っていて、ロマンティシズムはリアルなものの見とおしから来る一つの美感である筈であり、丁度岩波新書の『北極飛行』に飛行士の描いた極めてリアルな推定に立脚しての推測の美のロマンティシズムである筈であり、未来が語られるという性格でロマンティックである筈だと思います。だから、リアリズムの時代的な(歴史の中での)発展の性格に対応していかなるロマンティシズムがあるかということが、リアリズムの方から今日は見らるべきでしょう。これは分りきっているようでいて、文学の評論家は一人もしていないことなのよ。即ち、彼の内部でリアリズムのファクターはそのところまで拡張もしていないし、複雑になってもいないというわけだろうと思います。これは、(そういう現実関係を見直してゆくということは)大変有益でしょう?
 それともう一つ私がヘッセやトーマス・マンをよんで考えたのは「有用人」、「無用人」のことで、従来は世俗的無用人が芸術家であって、芸術家の側として其でよいという境地があったと思います。ところが昨今は無用人に存在権は許されない形があらわれて来ているので、その無用人の或ものは急に有用人になろうとして、そのことでは世俗的有用人との区別がつかなくなってしまっている。他のつとめ人と同じ内容で有用人になるしか知らない、つまり有用人になったつもりで文学の本質からは無用人になって、歴史の永い目ではつまり全くの無用人であるということになります。
 この歴史は十九世紀文学の流れの中から発して、日本にどうあらわれて来たか、二葉亭四迷のことを、その点から考えてね。マンやヘッセの時代の作家即無用人の考は、二葉亭のあの煩悶[自注6]とどうかかわりあっているのでしょう。十年ばかり前の文学の新しい本質をとらえたものは、無用人でなくて社会と文学に有用人でありうる統一を学んだのであり、そこにしかこの統一はないのですが、所謂「純文学」はそういう実に大事な成長の輪を一つおっことしていますからね。「純文学」における自我の崩壊、それにつれての通俗化、猥雑化と、この無用人、有用人の関係はつながりがあります。
 二葉亭についておもちになる興味の核心はどこでしょう。最も早いエゴーの目ざめとして? トーマス・マンは、家族の血統の廃頽(世俗的)のとき芸術家が出るとしています。「ブッテンブーロークの一家」でそれを語っているのだそうです。こんな考えかた――そこに発展を見るという――何とドイツ哲学亜流でしょう。結果から現象的にさかのぼる方法。二葉亭についてかいて下すったら面白いでしょうねえ。中村光夫のはよんでいませんけれど。忘れず、ね。
『明日への精神』やっと出ました。表紙は白でフランス綴です。小磯良平のトンボがかいてあって、題は朱。トンボの色は写生風で瀟洒としている(そうです)が、私は自分の量感が出ていないで余り感服いたしません、表紙なんか私がどうかしらと云うのは賛成しないのよ、だから何だかもり上って来る感じにかけていてがっかりですが、第三者はきれいですって。皆がそういうそうです。三千だけ刷ったが、第二日でもう千部刷るという話が配本の方から出ている由、まだわかりませんが。本のつくりかた雑なのよ、ですからすこし悲しいのよ。折角なのにねえ。でも、出ましたからよかったとしなければなりません。
 日本評論社の現代文学読本(何人かのひとと一緒の)案外によく出ましたって。やはり又増刷した由。一ヵ月で珍しい由。しかしこれは版権はないのですから。
 明日で金星堂の方も刷りにかかります。文芸評論の原稿もわたしずみになります。そして、中央公論社にわたしたらっとね。〔中略〕
 達ちゃんたち、組合と近所の女のひとたちをよんで秋にお祝をいたしますそうです。お砂糖が足りなくてこまるそうですが今回はこちらでもどうにもなりません。
 山田忍道の店[自注7]も、先生の気合から物をつくる術はないものと見えて、あの日本橋の角は貸事務所か陸軍病院になりそうだそうです、伊勢丹もやはり。その他この暮にはいくつかがしめるそうです。つとめている人たちはまだ知らないのでしょう。
 島田から炭お送り下さいました。これまでは一俵二円でしたが四円よ。あっちの価もそうなのね。今年の冬子供を生む人は今からハラハラです。
 この頃の夜のしーんとして圧迫する気分はそちらも同じでしょう? 何だか却って落付けません。今日まではうちのあたり割合しずかですが、夜なかどうかしらと云っているところです。うちの方は上り屋敷の前の空地へ避難するのです。
 私はどうかしてすこし風邪気です。勿論大したことなし、そしてね、バカでしょう、ゆうべは秋刀魚さんまのトゲをのどに立てたのよ。秋刀魚の骨は細くしなやかで、御飯かためてのんでもなびくばかりでとれなくて、痛いよりくすぐったくてそれは妙なの。困った揚句、喉に薬つけるような綿棒こしらえてかきまわしてフーッとやっととれました。そのときよだれを十日分ほどこぼして勿体ないことをしました。よだれはこの頃大切よ。思わず出るような美味いもの減りましたから。おいしいもの、おいしいもの。私は、ああ美味しいと歎息して、あなたがそんなにおいしいかい? と仰云ったこと思い出しました。

[自注6]二葉亭のあの煩悶――文学は男子一生の事業に非ずという彼の煩悶。
[自注7]山田忍道の店――日本橋の白木屋。

 十月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月六日  第六十八信
 十月三日づけのお手紙、きのう、ありがとう。
 土曜日に朝ゆけたら行こうと思って、ああ申上げたら、金曜の夜中フーッフーッで目をさましてしまって朝おくれて目をさましたので失礼しました。それでも、このまわりには何も落ちなくてよかったこと。
 今は一寸一筆ね。原稿を、日曜で目白市場の郵便局が休みで落合長崎まで行って貰うので、ついでに。
 これは小説ではないの、ごく短いの、その代り大いにピリリとしなければならない筈なのですが、果して如何か。
「煉瓦女工」の評は、随分こまかにしました。全く私もそう思うの。そして、文学の悪時代、出版の悪時代にめぐり合わせて、あの娘さんそのものが大分大した要素もあるらしくて、「藪入り」なんか最もましな部分の流露です。「今かくことはいくらでもある」「じゃ書くことがなくなったらどうするのかね」「そしたら小説家みたいに、嘘かいてやる」悲しき問答でしょう? 文学と云えば直木三十五しかよんだことがないというのをカンバンです。素人文学というものがここまで悪用されるとは川端康成も思わなかったでしょうね。先生という人たちものすごいのよ。新協で上演しようとしたら、先生第一声は「儲かりますぜえ」であったと唖然としていました。二十歳ですからね、私なんか、その娘さんのひととなりをきかないうちは、いろいろ心で思っていたが、今はいささかこわいと思って居ります。先生というのが政治家(この頃流)ですし。娘さん、何だかとんだ娘というところもあるらしい。
 高山の本の題、やっぱりでしょう? 一寸どうか、ね。今ほかの事で頭いっぱいで考えられず。
 外国の婦人作家のこと、永い間の仕事として面白いと思います。でも作品を一とおりよむのも、エリオットなんかあるけれども、ほかの作家のもの手に入れがたくてね。ドイツ、ロシアの作家たちも面白いわ。ロシアの過去の婦人作家というのは、妙な芸術至上主義者やギッピウスのようなシムボリストなどで。婦人の積極性(文化上)は、ああいう文盲率の高かったところでは一方ではそうなり、他方では「フ・ナロード」となるのね。一七年以後小学校の教師をしていた人が先ず文学的活動に入っていて、それも文化の上で考えさせます。ドイツの婦人作家は、ちっともしらなくて、ロマンティストのフーフ一人です。このひとの本は『ドイツ・ロマンティシスム』岩波から大した難解のが出て居ります。
 それとは別にね、この間、津田青楓の会に行ってふと思ったのですが、日本の文学者と画家の交渉を、文学者の内から文学の動きのなかから見て、画家と文学者の推移を描いたものは日本になくて、しかも或る種の文学者しか出来ない労作であって、大変面白いと思いました。私は画と音楽がすきで、普通よりはすこしわかるのよ、ですから、それを河上徹太郎のように、他の芸術分野へ、そのまま歩みこんでしまうのでなしに、どこまでも文学・作家という本筋からはなれず、そういうところからでなくては分らない課題をとってゆきたいと思って。面白いでしょうね、たのしみです。ポツリポツリと『中央公論』にでものせてね。「当世書生気質」の逍遙の插画と長原止水の絵との時代的相異。明星時代と印象派の画家たち。自然主義と写実派の画家とはどういういきさつもなかったのでしょうか。漱石と青楓。龍之介と小穴隆一。尾崎士郎と中川一政。小島政二郎と小村雪岱(※(「弓+享」、第3水準1-84-22)も入る、鏡花)。白樺と草土社。その他、おもしろいでしょう? 画家の画業の本質と代表的作家のうごきとをくらべてどういうモメントが結びつきとなっているか。たとえば、尾崎の「人生劇場」と一政とのくみ合わせは、一政の型のきまった抒情性と士郎の浪曲的感激との結合ですから。石井鶴三の「大ボサツ峠」のさし絵は、作者のあくのきつさのいい面がいかされてあの絵となっているし。
 插画にばかりでなく、「白樺」と草土社のつながり、そこにあるセンチメンタルなものなどなかなか面白いと思います。画家の説明出来ないことが語られるわけでもありますし、道楽があるでしょう? これで私もなかなかなものよ。なまじっか、じかに絵の具をいじくるよりもっとよくばりなわけね。
 音楽も、近代日本の音楽のうつりかわりを文学の方からみると、これまた面白いと思います。寿江子がもうすこしものがわかって来ると、面白いでしょう。
『明日への精神』千増刷いたします。でも、あわれ、三倍以上の借金がありますから、雲霧消散ママよ。先のとき又きくように、程々には水をやって手入れしておかなければなりませんからね。四冊本が出て、ひととおり片づく算術です。まことにいそがしい足し算、ひき算ね。「基礎」は三度ぐらいよみましたでしょうね。しかし、いいものの味は、自分の長成ママとともにわかりかたも育つ故、年々歳々あらたでしょう。
 十月の十七日に何のお祝してさしあげましょう。いい写真帖をあげたくていろいろ考え中です。今年はいつものようなこと出来ませんようです。栄さんのところはマーちゃんという娘が胸の方本ものになったらしいし、戸塚はふらふらしているし、そのほかのことで。いずれお話いたしますが。いっそ、寿江子つれて国府津へ行って二三日(十七日を中心にして)いて来ようかとも思ったりして居ります。てっちゃんが招待してくれると云っているのですが、何だかすこしちぐはぐな気もするので。いずれおめにかかりまして。
 あした夜着もってゆきます。肩当ての布がいいのが(丈夫なのが)なくて、今、台所で染物工場がはじまって居ります。袷羽織、メリンス襦袢お送りいたしました。
 ああ仕様がないわ、一筆なんて、こんなに時間かけて。木犀の花の匂りいくらかのこって居りましたか? もうあれも萩もちりました。これから菊でも植えましょう。犬考えたのよ、でも税のこと考えると。今年の所得を来年何しろ払うのですもの、その来年やいかに、でしょう? だから。

 十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十二日  第六十九信
 きょうは大笑いなおみやげだったでしょう? ゆうべきゅうにその話になりました。あなたの御誕生日のおよろこびに何かしてあげたい、じゃ本もの見て貰いましょうか。それですこし日が早すぎたけれど、何しろ赤ちゃんというものは、いろんな都合があってね、雨ふればダメ、風ふけばダメ、くしゃみが少しつづけて出ればダメ故、善はいそげというわけでした。いかが? 小坊主は。親たちに似ているのは何と可笑しいでしょう。赤坊は物理的に私にだかれにくいのよ、そのわけは、私はこのように円いでしょう、赤坊だって丸いでしょう、円いものと円いものは接触面が全く小さいのよ、だから双方工合がいいということに行かないの。これも可笑しいでしょう?
 あれから私がおしめの袋ぶら下げて家まで無事送り届けてかえりました。そして家へついた途端すっかり眠くなりました、赤ちゃんづれは気が張るのねえ。
 七日づけのお手紙と八日のつづけて十日に頂きました。七日の、開巻第一に詩話がのって居りました。「ゆあみ」の話が。八日の午後は、すこしおそいおひるたべて吻っと一休みしていたら二時なのですもの。ぱぁーっと立ちあがって、いきなり着物きかえて、出かけました。全くもたない状態となって。そしたら八日に手紙かいて下すったというので、大変満悦なわけでした。
「朝の風」は十日にかきあげ、ひる前に共同へ届けました。重吉とサヨが現れます。絵画的な周囲の光景風景の感情、その推移と結びあわされつつ、サヨの重吉への心持を描いたものです。いろんな瞬間の。そして、その瞬間瞬間のつみ重りの間にサヨの感情の成長してゆく姿を。
「日々の映り」の直しのつもりでしたが、書いて行くうち全く新しいものとなってしまって、たたみこまれている味は非常に濃やかで且つ複雑で、自分としてはこういうテーマとして、今日かける面からの扱いとして、不満でありません。「日々の映り」のなかでは割合現象的にしか扱われていなかった乙女の後日の姿も、「朝の風」の中ではもっと深められて、単にサヨの重吉に対して抱いている感情との対比という範囲よりふかめられました。一番終りはサヨの妹が赤坊を生む夜あけ、ついて行ってやったときの場面。無事子供がうまれ、高い産声がしている。丁度朝になった時刻で、サヨは電話室のよこの中庭に露のおりている石菖の鉢を見ていると、どこからかラジオ体操のレコードがきこえて来ます。そのメロディーはサヨが重吉と結婚して間もなかった頃、初々しい朝の目醒めのなかできいたものです。そのメロディーを運んで来た朝の風は、二人の体の上をもとおった。サヨは今のよろこびに通じるそのまじりけのないよろこびのために涙をおとす。そういう心持が終りです。大変深いよろこびと安心と乙女への憐れさとこの涙と、透明な清冽さのなかになかなかニュアンスがあります。詩的です。リリカルであって精神の力に貫かれたものがあります。
 こうして、爪先一分ばかり、前の作品を抜いたわけよ。ジワジワとこれから各作で前作をぬくつもりです。どうかこの作も、私からのおくりものの一つとして下さい。
 七日のお手紙のなかの「アナウンスした」を「したと聞いたが」と訂正して下すったこと、私はうれしいと思います。御話したとおりに。ああいうところに私たちの生活感情の何とも云えない思いとその思いの美しくあり得る精髄がこもっているのですものね。それは全くそうよ。もしそういう感情が私たちの生活の一つの美として感覚されていないとしたら、たとえば、この間の大きい濤に私がゆられ、ゆりあげられた何日間かの心持を、そのあとにかいた手紙のああいう情感では受けられなかったわけですものね。ああ、でも考えればあの折(こないだの)私は半ばものぐるいでした。それはそうねえ。誰がそれを咎めることが出来るでしょう!
 ロマンティシズムの問題、そうだったの? この頃のような生活の周囲の空気だと、私は正しい沈着且つリアルな「見透し」そのものが、とりも直さず人間精神の美をなすものであって、その美の自覚された美感というものが、どんなに大切なものかということを深く考えます、バックの所謂自覚された正直さという表現のもっと成長したものとして。そういうものとしての美感を心底に蔵しない者の妄動ぶりは塵煙りが舞い立つばかりです。道義的な善とはちがったもっと云わば高いもの。そういう立派な美の溢れた、命のあふれた小説をかきたいことね。
 そのことについて一つ発見があるのです。
「杉垣」など、あすこでは主人公夫婦が現実に対して一つの態度をもっていて、その態度で世相の推移に対してゆくそのところをかいたの。一定の態度をもって生きるということは武麟のリアリスムと称するものにはないから、こしらえものだと云い、私は『帝大新聞』で、散文精神と云われているものが、現実のうちに立ちあがっている精神をもっていないことを云いました。
「朝の風」なんかかいて感じるのは、主人公たちが一定の態度をもっていて、それと照らし合わせる現象を対置した構成でかかれた小説は、局面局面に解答があるわけね。「朝の風」なんかは、心持のいろんな面の動きを追求しているその過程そのものにある態度と高さとがある。小説の面白さというものの本質はここではないでしょうか。通俗家は、シチュエーションでそういうサスペンスをつくるのですし、そうでない人でも本質的見とおしはもたない転々を辿っていて、つまりある一つのことなり心理なりが、何が何だか分らないまま、わかったところ、つかんだところだけでかいている。小説の真の小説らしさ、そのいのちは作家がもっている大さとか高さとかを、過程のうちに反映してゆくところにあるのね。その証拠には、ロマン・ロランだって「ジャン・クリストフ」は実に面白いが、英雄を扱った(むき出して)戯曲は大して面白くないわ。卑俗に、読者にわかるところまで作家が下りると云うが、決して決してそうではないわ。無いことがさがし出されてかかれるのでなくて、あることが、独特ないのちを与えられて現れる、そのいのちこそその作家の高さ深さをあらわすものでなければならないのでしょう。こんなこと、すこしひとり言でしょうか。でも、私は大変いい小説がかきたいのよ。ギューッとつっこんだところのある作品がかきたいのよ。中公の長いの、ですから楽しみです。いろんな研究と発見とが出来るだろうと思います。おでこと心臓とで、ぐいぐい押してかいてみたいの。わるくないでしょう。この意味では春ごろ、てっとりばやく書かなくて本当によかったと思います。
 八日づけのお手紙、二葉亭四迷の第五巻、まだそちらにあったのね、どこに行ったのかしらと思っていたところでした。このお手紙もなかなか興味ふかく有益です。二葉亭のこういう分裂と矛盾を、今日真面目にかえりみてわが心にきいて見る作家が果して何人いるでしょう。若しそうしたら今日の自分たちのような世わたりはきまりわるくて困るでしょうね。
 私はこういう手紙折々頂きたいと思います。あなたの方に時間のゆとりがおありになるときは。たとえばヘッセについても。マンなどについても。私のほしがる心持、よくおわかりになるでしょう? 表現されるということは大切なことですね。表現するということはやっぱり大切なことです。
 それから、又一つこの頃考えていることは、古典を私たちがどこまで自身の養いにしてゆくかという点です。若いひとで小説をもって来ます。素質は素直な娘さんなの、でもそのひとの川床は浅くてかたいのよ。何故でしょう? もっとそのひとのもちものは柔かく深いように思えるのに何故自身の重みだけ深まりきらないのでしょう。これについて、そういう世代の人々が川端だの横光だのジイドだのといううらなり芸術にやしなわれて来たということの結果が、こんな貧弱さとしてあらわれていると思えます。うらなり芸術独特のほり下げのあささ、ごまかされた部分のあるがままその上を修辞の力で滑走してゆくで、一層貧弱なのね。今のような時流の間で、本当に芸術を未来に向って育ててゆく養分はコンテンポラリーには絶対にと云っていいほどありません。やはり、古典、自分、未来この三位一体しかないと思う。
 そこで、たとえばトルストイの作品なんかでも、今の若いものは読みつづけられないのですって。何故でしょう。いろいろ考えたらトルストイの作品では、彼の人生観そのものの二元性分裂が映っていて、感性的なものと思想的なものが分裂していて、レーウィンにしろ、あんなにいやなカレーニンにしろ、考えるとなると議論になるのね。考えを考えとしてだけ開陳します。現代の人々の感性はうらなりながら或る立体性にあって感性が理性となる方向――その悪い例は感性の徴象化、今日の詩なんかの――にあって、トルストイが親しめないのね。私はなんだか、ここのところを大変面白い芸術の特殊性の一つだと思います。「鏡としてのトルストイ」には、こういう表現そのもののうちにあらわれている内容の本質はとりあげられていなかったと思って。古典は何だか、そういうところまでずーっと手をつっこんでつかまれなければならないのね。そういう風に古典にずっぷりと手をつっこめる或るものがなければ、結局未来への伸延力もないというわけで、ここの微妙な生活的モメントを実に実に面白く感じます。そういう意味で、私はよく謹んで学んで、牛若丸になりたいのよ、過去と未来との間を自在にとび交いたいの。そういうつよい脚の弾力をもちたいの。その様を想像すればなかなか快いでしょう? かの子というひとは小さいすこし凸凹のある鏡台の前へぺったり坐って、自分の顔へこの色を彩って見たり、この隈どりをつけて見たりして、こわいだろう? こわいだろう? と自分におどしたり、いいだろう? きれいだろう? と自分をおだてたりした人です。その全体の姿はやはり面白いけれど、作品は一面にひどい通俗性をも持っていて。
 ああきょうは何とどっさり喋りたいことがあるでしょう。十七日はどんな天気でしょう。うちに奇麗な花をたっぷりいけて、机の上にも奇麗な花をたっぷりいけて、そして詩集や戯曲集についてのお話いたしましょうね。私は居心地よくするのが割合に上手だったでしょう?
 花の匂り、いい匂り。その匂りのなかに神経のほぐされてゆく気持、いい気持でしょう。暖く血がめぐるでしょう。おわかりになるかしら、私はあなたを丁度快適なほどに血のめぐりを暖くそして速くしてあげたいと、いつも思うのよ。休みにそれがなる程度に休ませないようにして上げたいの。これはやさしいことではないと思えます。あるところまで集注されて、それがおのずからほぐれてゆくリズムは大変とらえがたいのですものね。雲の風情はとらえがたいのですもの。
 この間うちから一度かいて見たいと思っていることがあります、それは別封で。この手紙十七日につくように。窓からヒラヒラと舞いこむおとずれになるように。では、ね。

 十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十三日  第七十信
 これは先ずお約束の表ではじめなければなりません。この十日間は好成績でないわね、第一防空演習でしょう、第二が小説でしょう、尤もあとの方で非常によくないのは九日の夜だけですけれど。
   甲 二つ
   乙 五つ
   丙 二つ
   丁が一つ
 よみもののこと、プランが変えられて、私はほんとうにほっといたします、どうもどうもありがとう。あれはすこしせめ苦めいていました。もっと早く自分からそのこと云うべきでしたね。そのことでは私は、わるかったと思うの。だって現実の日常生活の条件から、そういう方法が変えられるのは当然ですものね。私はあなたが仰云ったとき、ふとそのことを思って。私のそういう従順さのようなものは本来はあなたに対してよろこばれるものよりも、寧ろ何か自発性の足りなさとして考えられる筈のものだと思って。同感でしょう。
 けさは何というまざまざとした感覚のなかから目をさましたでしょう! 二つの腕のなかに紺大島のボリュームがひしとあざやかで、顔の前に何と紺の匂いが高かったでしょう。
 下へおりたら十一日と十二日のお手紙。こうして一組になって到着するのは、いつも片方が黄色っぽい色で片方は白い色なのね、何だか面白い。この前のもそうでした。
 十一日のお手紙、題のことで、動物園や植物園に縁のあるのばっかり多いというのは実に笑いました。本当にそうね。昆虫記のような題も少くないわね。日本の文学のある傾向もあるのね。そのこと何だか興味をうごかされ、今度一寸した感想にかいて見ようと思いました。
「日々の映り」という題への批評は適確です。名は体をあらわす式で、あれを私が書き直したい(結局別もののようになりましたが、逆から云えばそれほど)と思っただけ、作品として主観的だったのです。私は大変愉快よ、あなたのお突きの正確さが愉快です。こんな小さい道を貫いて、作品のよまれもしない内奥までふれられてゆくところが。作者の気持いっぱいで、息をのんでいて、語りつくしていなくて。この例から見ても、簡潔ということが自然主義的平凡さとちがうという意味がよくうなずける次第です。
 題はそういう意味で本当にむずかしいと思います。つまるところはその人らしい題をつけるものですね。稲ちゃんの「くれない」「素足の娘」「美しい人たち」「女三人」「四季の車」みんななかなかうまいでしょう? 一つ一つ聞くとはっとする位しゃれた題です。いかにもその人でしょう、
〔欄外に〕前の頁半ぱに切って御免なさい。余り消すことになってしまったから。
 フィクションの題にすれすれで、そうでもないところ。その味。私はこういう題をつけられないけれど、内心はうらやましいことがなくもないのよ。そして、自分なりにいかにも自分らしいのを見つけたいと、いつも思います。そして、お手紙にかかれている例にしてみても、題は歴史を語ります。ここにあげられている思いつかれた題をよんで、私は無量の感想にうたれます。こういう題の本が出るべきであるのに。そういう題がつけられていい筈のものであるのに。
 高山のは元のにします。一寸というところはよくわかるのですけれども。勿論よく考えますけれども。現代は題をつける上で、又おのずから微妙なむずかしさがあります。題だけで、そしてその題と著者の名をよみ下しただけで反撥する、そんな神経も題に対してあります。わかるでしょう? ちゃんとしすぎていて通用しない、そんな実際についておわかりになるでしょう。私だけ特別な成層圏にいるわけにゆかない。しかし、最も多く健全な酸素をもつものであろうとする、そういう努力の一つの形として、たとえば「日々の映り」の主観性もより雄弁なものにふくらまそうというわけです。
 十二日づけのお手紙しんからうれしいのですけれど、私は自分たちの生活的リアリズムのために、あなたが私の努力を十分みとめて下さりつつ、その努力の価値と意義とは、私がアマゾンであるからではなくて、毒ガスに当てられれば死ぬ人間らしい人間であるから、益※(二の字点、1-2-22)健全の価値を知ってそのためにつくし骨を惜しむまいとするところにあると、そう見て下さることで、一層うれしさがリアルです。バックの批評はちがった対象で、作家の人生的難航をかたっていますね。その具体的なものにふれることこそ生きた批評であると云える意味で。自分に対していい批評家であれたら、作家はどんなに育つ力をつよくもつことになるでしょう。作家は従来いつもガンコに主観的です。昔式の作家は皆そうね。その範囲で完成している。そういう主観性と対置されるものはいつも世俗的なかしこさで、藤村のように、こういう時代になるとせっせと子供のよみものを書こうというようなことになり、それを秋声が、ああいう人はいいと歎息してながめることにもなります。藤村の童話は、チャンバラよりは、それはよいでしょう。でもね。秋声がそう歎く歎きにはともかく現代の文学の歎きがこもって居ります。藤村がそういうところへ流れ出してゆくことには、やはり只よりましだ、結構だと云えぬ、すかんところがあるわけです。面白いわねえ。
 十二日のお手紙、改った気持になり、同時に極めて謙遜な心になって、頂きます。自分とすれば一生懸命だおれをしていた部分が今日はっきり見えます。いろいろな過程をとおってそんなに一生懸命倒れしていたことも今は活かされてはいるけれど。これまでの何年間かのものが、やや結実しかかっているとは思えます、文学的に。一生懸命倒れの時期は、どうして自分の作家としての弱点がああ自分でつかめないのでしょうね、全くそれは不シギね。一生懸命さばっかり自分に感じていて。この頃はすこし高められた形として、自分の作家としての弱点も(一生ケンメイ倒れの意味で)わかりますから、それは今年になってからの収穫だと思います。『文芸』の仕事はそのモメントとなっているのよ。何でも、ですから徹底的に勉強すべきものね。
 あの一昨年の「流行雑誌」にことわったこと。今もあれでよかったと思います。「歌のわかれ」はあれに出た作品です。これからも又きっとそういうときがおこりましょうね。極めて現実性があると思っていていいでしょう。積極的な文学上の努力であるということが、外見の消極を保たざるを得ないことは、いろんな歴史の波の間に※(二の字点、1-2-22)しばしば生じましょうね。でも一昨年のことから私はいくらか学んだところがあって、無駄ではなかったと思います。いくらかずつ、少しずつ自主的な芸術の意味がわかって、多々益※(二の字点、1-2-22)弁じ、強固な柔軟性のあふれた美しいものになりたいことね。
 昔の作家は自身の中に分裂をもっていて、本当の芸術のための仕事と、金かせぎと二通り分けて使いわけきれるものと思ってやっていて、いつも後者の現実のつよさに引き倒されて来ています。本質のはげしい作家は、云わば何でも書きますが、それは書くべき方向と質とで一貫されていて、その統一の上に何でもかけばかくので、純文学的作品と通俗的作品との区別のあるものをかくのではないわ。雑文というものは、そういう統一のある作家はどんなときもかかないわけです。その点で荒れることもないわけなのは面白いところです。
 作家と画家の交渉もこの点がやはり興味があって、たとえば尾崎士郎は「人生劇場」の美文的浪曲でそれなりになり、一政はそれに名コンビしたリリシスムとその他の何かはもっているが、その半面そこからぬけ出す努力も忘れないでいる。その相異が数年後にはどんなちがいとなってあらわれるか、そんなところ。
 実に確乎としていて、よくしっかり構成されていて、しかもその確乎さや構成そのものが、人間のピンからキリまでの感覚のむき出しの敏感さにみちたものであったらどんなによろこばしいでしょう! そういう作家こそ文学の歴史の上向のために寄与し得る作家です。
 十七日のために大変いいものをいただいて、すまない位だと思います。
 丸善へ行ったとき文芸評論のところ見ていたら『六つの肖像』という女のひとのかいた本があって、エリオット、ド・スタエル、マンスフィールド、オースティンその他の伝記があったの、十五円。いつかやろうとしている仕事のためにふと買おうかと思って、なかをすこし見たら、こまかい普通の伝記で、マアそれでもいいけれど、と十五円がおしくなっておやめにしてかえりました。ジョルジ・サンドなんかかいていないのよ。でもすこしほしいところもある。今ふらふらしているところです。アメリカの婦人作家、いろいろあるのでしょう、シェリーの研究で有名なエミ・ローエルという女詩人(大きい大きいお婆さんでした)をはじめ。図書館にない本やはり集めなくてはダメでしょうね。
 十一日のお手紙におしまいの「よろしく」という文句。ヘロインたちによろしくということば。ちゃんとつたえられました。
 この間好ちゃんもいろいろ工夫をこらしていい生活をしているという話。私にはしみじみと忘られません。いつもそのこと思うのよ。いろいろの折の美しいしおりのある態度と思い合わせて、工夫をこらしという表現も真実こもって心に響きます。大変よくわかって。でも一つ一つ具体的な細部は分らないというところに何という感情があるでしょう。深いニュアンスがそこにあります。
 好ちゃんがいい感受性をもっていて、戯曲の「谷間のかげ」をよんだときの亢奮したよろこびの表情をそれにつけ思いおこします。若々しい顔立ちが精神の歓喜のために引きしまって而も燃え立つ表情をたたえているときの輝やかしさ。精神が微妙に溌溂に動いて、対象のあらゆる文学的生命にふれ、その味いをひき出し、のこる隈なくという表現のとおりにテーマの発展を可能にしてゆく理解力。
 本がそのように読まれるよろこばしさで呻かないのは不思議と、よく話しましたね。字というものは、何と多くのもちこたえる力ももっているでしょう。其を思うと可愛いことね。感動のきわまったとき私が膝の力がぬけるとき字はやっぱりそれをもちこたえて表現してゆくのですもの。字で表現される文学の可能性の大さを感じます。文学は、人生的にみしみし鳴るおもみに耐え得て来ていることは古典が示して居りますものね。これは又別封でつづくのよ。

 十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十三日  第七十一信
 丸善で絵の本を見ていたとき、あのイギリス名画集の別の一冊に「最後の章」という絵がありました。
 いかにもイギリスらしい室内で水色の服をすーっとふくらませた若い女が、あのイギリスの炉辺にしゃがんで、二つの手をそのストーヴに向ってのばして、今よみ終ったばかりの物語か詩の最後の章の感銘を味っているところです。傍の椅子の上に伏せられたまま本があって。
 詩でも戯曲でも、はじめの第一章のつよい感銘と、終りの一章の与える感銘は決定的ですね。ですから、作品についていうとき、よく、はじめすこしよんで、中頃よんで、結びをよめば、その価値がわかるというわけね。しかし、本当の文芸批評からいうと、これはやはり本末顛倒でしょう。少くとも私はそう信じます。
 よい作家たち、旺盛な詩人たちであったなら、これから複雑をきわめ、大きい振幅とテーマの展開とがひかえている全篇の序に向ったとき、おのずから力の集注された表現で開始されるのは自然ですもの。しかも傑作ほど思わせぶりなく主題に入るというトルストイの意味ふかい技法上の必然は、あらゆる場合の真実であることもどんなにつきない興味でしょう。作品の主題そのものが、最初の章では自身のそれから先の展開を知らないで、自身に加えられる展開のための力に従順で、真白い紙をしずかにのべて、様々の方向からの描写を与えられてゆくうちに、いつしか作者とテーマ自体の動きとが一つに起伏しはじめて、作者がテーマをすすめてゆくのか、作者がテーマのリズムの緩急につれて次の章からより深くより密接な次の章へひかれてゆくか見わけのつかないときがはじまります。
 この中頃のめりはりの、すきまのない精神活動の振幅というものは、いい作家たちほど激しく大きく変化の妙をきわめますね。そして、この過程で、テーマの奥の奥まで作家の筆がたっぷりとふれられてゆくか行かないか、それもきまる。テーマが最後の完全な昇華を行うかどうかもきまります。作家が全力をつくしテーマは自身のうねりを絶頂に発揮する、こういうときの見事さ。
 あなたはヴェートーヴェンの交響楽のフィナーレにある、あの一つの迫力ある痙攣を覚えていらっしゃるでしょう? すべての精神の燃え立つ活動には、音楽でも文学がもっているようなああいう強烈な痙攣の経験があることは実に実に面白いところです。ワグナーなんかは終曲をもっと俗っぽく扱って、ヴェートーヴェンのように序曲から高め高めつよい人間と神のまじったようなサスペンスでもち来したものの必然の終曲としていないから、只音の大きい束ですが、ヴェートーベンは何とその点こわいように生粋でしょう。高まり高まって、もうテーマの発展の限りの刹那、彼は全曲のふるえるばかりなフィナーレの第一の音を響かせます。そして、大きいテーマが自然のしずまりを見出すまで、又も又もとうちかえして来るうちかえしの趣。よく御存じの第五交響楽のフィナーレ。そうでしょう?
 小説の結びの一句は何と全体のいのちの感銘の集約でしょう。多くの読者は、作者がよろこびきわまった、殆ど悲痛な感動で一字一字とおいてゆくその結びの数行を一生心に刻まれてしまいます。
 そういうほど、いのちを傾けて展開されるテーマというものは、作者にとってどんなに自分の身内のものでしょう。どんなに自分ときっても切れないものでしょう。
 三文作家は、題材さえ手近くつかめばすぐそこへ、自分を放射してしまう。そういうひとびとは、テーマの真の美しさ、輝しさ、心を魅する力をおそらく終生理解しないでしょうね。
 好ちゃんの愛読書である「谷間のかげ」から、段々熱中してしまって、上下二巻の創作物語になってしまいました。
 それというのも好ちゃんのひとかたならない生活態度が私を心から感動させる為です。同感して下さるでしょう。私は好ちゃんのことを思うと、よく感きわまって、あれの前に膝をついて、無限のいたわりと善意と希望とをこめて抱擁してやりたい心持になります。あらゆるよろこびをよろこばせてやりたいと思うの。これも同感でしょう? そしてね、人間としての素質の見事さを全面的に発育させたいと思うの。そして、それも全く望みのないことではあるまいとも思います。何より幸なことには、彼は文学がわかります、この天のたまものの力で、私が幸もし益※(二の字点、1-2-22)いい作家となり、縦横に文字を駆使する法力を身につければ、詩や戯曲は、これまで到達していたフォームとリズムをもっと進めて、リアルな趣で、更に成熟へすすめるのだろうと思います。
 このこと、あなたはどうお考えになるでしょう。極めて微妙な大切なことだと思うのですけれど。
 私の作品が一つから一つへ進歩の道標とならなければならないように、好ちゃんの成育もそのように一つの段階から一つの段階へと導きすすめられなければいけまいと思います。
 私はそのために力をおしまないつもりです。どうかあなたも助けて頂戴。好ちゃんのように卓抜な資質のものを、その一定の発展段階にとどめておくなどということ、私には堪えられないことです。彼をほめてやる言葉を私たちがひととおりしか持ち合わさないなどということは、寧ろ腹立たしいでしょう? ねえ。
 ユリは欲ばりだ、そうお笑いになりましょうか。笑われてもうれしいわ。
 ひとの美質とその生動をより深くと理解してゆけるようになるということは、つまり私たち夫婦の生育ですものね。私たちは多面的に成長しなければなりません。
 私は自分のことを云って勝手ですが、この一二年来、いろいろの点成長出来ました。そして、それは去年の夏、詩集の別冊で「素足」というのや「化粧」というのを私がよんだ頃から自覚されて来た影響です。前の手紙でかいた一生懸命倒れ式の精神が、他方にバランスをとり戻して来て、一つの発展をいたしました。私たちの生活の中では一冊の詩の別冊でも何と大きい影響をもつでしょう。
 それから後、あなたもいろんな短詩をおよみになりましたし、それを私につたえて下すって、そしてこの間のあの大波の際、今までよまれていた詩集の全巻が、初めから終りまで再読されるという戦慄的な味いで、又私のところに何かが熟しました。みんな其が文学の仕事にてりかえります。何ということでしょうね、人間の生命の様相というもの。
 あなたはどうお思いになって? 私たち互の流れ合うものも、随分この頃では川床がひろく面白い起伏で飛沫もあげるようになって来ているでしょう。
 よくそう思うの。そこにある手紙の束のなかにある私の姿、私たちの様子、どんなに次第によくなってきているでしょうか、と。どんなに段々と夫婦らしくなって来ているだろうか、と。単純なものから複雑な甘美さをもちつつあるか、と。
 ああ、きょうはどうでしょう。まる一日あなたと暮しました。
 この頃こんな大部な(!)長篇的手紙はじめてね。そして、私目玉のつれるわけ今わかりました。だってこんな細かい字、こんな全心の字、この位かけば目玉だってくたびれるわけですもの。
 これも私の十七日のおくりものの一つです。
 十七日には、寿江子と佐藤さん夫妻を赤坊ごとよんで何か皆でたべでもしましょう。私がおかみさん役してやって愉快に遊びましょう。
 十八日が臨時大祭ですから、市中はごったかえします。そちら、お休みがつづくのではないかしら、よそは休みます。
 高山の本の表紙は松山さんにたのみます。河出のは先の方でたのむのですって、誰かに。中公のは誰にしましょうね。これは絵がママ(表紙の裏)にだけあって、表は何か模様のない落付いた色の紙なんかいいのだけれども。表はじみで、表紙の裏の一寸派手なのいいでしょう?
 三月か四月に『日本評論』に小説かく約束しました。これから来年にかけて小説たっぷりかいて見ましょうね。
 もう四時よ、あきれたものね。けさ起きて、ゆっくり、日曜らしいパンたべて、二階へあがって五枚の感想をかいて、手紙かきはじめたのは十時でした。おひるに一寸おりたぎりよ。ではこんどこそ、これでおしまい。のぼせいかがでしょう? お大切に。

 十月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十六日  第七十一信
 ひどい雨が又降り出しましたね。このザアザアの音。雨の音ききながらぐっすり眠るの、何といい心持でしょう。私たちほんとにほっとして居ります。あやしげな者がこのあたりから退治されたから。
 夜のしずかな人気のない往来の袋小路を照す灯の下へ、ジリリ、ジリリと黒い姿が出て来て、白い姿を垣根へおしつけたあの殺気は、強烈な印象です。怪我というほどのことがなくてようございました。往来を見おろせる窓は有益ね。高い窓からの声は、下の往来でもみ合う砂利の音や罵声をこして、四隣にひびきます。しかし近来、人気のわるくなったこと沁々と感じます。稲ちゃんのところへやはり二階づたいに入った由。誰もいなかった二階へとなりの若いものが入ってものをとった由。どっち道犬は飼いましょうか。これから冬になるし、くれにはなるし。〔中略〕
 きょう、島田の生活がどうであるにかかわらず、こっちの生活がどうであるにかかわらず、それは、と私たちのするべきこととして仰云ったことが、これまで分っていたと思っていた理解の棚の底をふっとぬいて、もう少し深いところまで自分の気持が到達した感じをひき出しました。この感じ、おわかりになるかしら。こっちの生活がどうであるにかかわらず、あっちの生活がどうであるにかかわらず。私はそんな気持で自分の親たちに対していたことがあったかしら。私はよくするということを意識していたと思われます。あなたのお気持を表してゆく、そういうところがあったようです。きょうは、でも、あなたのおなかにある深さ、自然さがそれなり私の気持のなかでするするとのびたような感銘です。〔中略〕私はこうやって、徐々に人間の優しさというものが分って来るのね。騒々しいような仰々しいような心づかいとはちがった優しさがわかって来るのね。

 十月十八日。
 きょうは何といい心持でしょう。きのうはなかなか成功的でね、只天気が不確かだったので、卯女と康子は電車の停留場のところまで折角来たのにそこからもどってしまったのが残念でした。結局は降らなかったのだけれど。
 例によってわが家のけさは、花満目です。下のタンスの上には、大阪から種をとりよせて咲かせたと花やが自慢したという大輪のダリヤが、大壺にささって居ります。こんな花びっくりなさるでしょう、まるで生きている飾提灯ほどの大きさの白、赤、黄よ。(これは佐藤さん)それから栄さんの可愛い赤い粒々輝く梅もどきと白菊。私のこれをかいている机の端には、未曾有の贅沢としてカーネーションの束がふっさりとかたまって居ります。もしここを写真にとったらどんな豪奢なおくらしかというような姿です。
 きのうはくつろいで愉快でした。〔中略〕みんな珍しいもんだから気持がよいとみえ、夕飯までいて、みそ汁と大根おろしとで御飯たべ、夜も益※(二の字点、1-2-22)話しにみが入って、おそくまでいました。
 賑やかさ、きこえましたろう? もうきっとみんなひき上げて、ユリも二階へひきあげて手紙でもかいているかな、あなたがそんな風にお思いになりそうな頃(夜八時頃)は、いろんな真面目なことや可笑しいことで大笑いの最中でした。そして豆腐の味噌汁が美味いとおかわりしていた頃よ。
 こういうやりかたはようございました。きょうが休みなので、みんなうれしくのんびりして、おみこしをあげなかったわけです。午後のお茶というのはいいことね。そして、もしのこるとすればああいうあっさりした夕飯で。うちのものがひどくくたびれなくていいと思いました。
 きょうはこれからどっさり仕事いたします。カーネーションがかすかに匂って居ります。あの菊の花咲いたでしょうか。いい題や、そのほかいいものどっさり頂いたけれど、その上なおよくばって手紙待っていたのに、きょうもまだつきません。上下二巻の物語、やっぱり同じめぐり合わせでツンドク休日におかれているのでしょうか。
 タカ二さんから久しぶりで手紙が来ました。それは十六日についたのですが、なのに一流の文体のざれ文というのが余り笑えるから御目にかけます。少し古風ゆえそのつもりで耳立てておききあるべし。「いまだのどかに暮らす頃なりしか。顕治をその二階借りする部屋に訪れ、女を口説くにはフットボールの心がけなからざるべからず。タックルせざるべからずなど例の高声にひとりうち語る。顕治本など読みてありぬ。七日ほど経て鶴次郎吾が草の庵を訪れぬ。格子引き開くるより『非常ひぞうのこといで来たり。非常のことなり』と云ふ。『何事ぞ』と云へば『百合子まぐあひせり。非常のことなり』といふ。『をのこは誰ぞ』『誰そか思ふ』『知らず』『顕治なり、宮本なり、非常のことなり』やゝあって、『いづれより云ひ初めけむ』と云へば、鶴次郎から/\と打ち笑ひ『相寄る魂なるべし』」
 最後、なかなか秀抜でしょう? ハアハア笑いました。
 うれしくてハアハア笑うというのいい心持よ。そして、私を十六日にそんなに笑わすなんて、なかなか味なことです。拈華微笑ねんげみしょう的微笑もおのずと口辺に漂わざるを得ません。だって、そうではないの、同じスポーツの用語を問いの形で出されることがあるだろうと、優雅なますらおは予想していたでしょうか。それからのサスペンスもなかなか賞翫にたえるものであると思います。ああいう瞬刻のサスペンスを、破らず深く保ちつづける情感そのものが、それから以後、きょうの心にある持続性と本質は一つであることが実にはっきり感じられますでしょう? そういうことが益※(二の字点、1-2-22)わかって来て、私はあのサスペンスの趣をいよいよ愛し尊重いたします。これは同感でしょう? 何とも云えないわかりやすさ、すきとおったようなわかり合い、それとあのサスペンスにたえるつよさとの統一はほんとに美しさがあってすきです。いろいろ、はずみというものの瞬間を知りながら、そのはずみに支配されず、こちらでそれを支配してゆく感情のたちというものはうま味があって、大切なものね。私はしみじみそう思うのよ、あなたは? ある状況のなかで、その者たちにとって肯定されていいはずみでも、何かそこに一寸かんにふれて来る何かデリケートなものがあってそれを感じとって、はずみを支配してゆく心情というようなものは、実例は小さくても、生活感情のいろんな角々、曲り角で、やはり一つの行動の感覚で、価値のあるものね。
 はずみに支配されないということは大切なことだと思われます。はずみの力を知っているということも大切であるというのと同じわけでね。
 世の中には何だかはずみだけで動く人々さえあります。
 こんなこと書いていたら、或る一つの午後の室の光景が浮んで来ました。本郷の仕事部屋。机の上に原稿紙をひろげていて、でももう三時で、五時になれば出かけようという日でした。五時に出かけるということのためにものが書けないの。
 そのことばかり何ということなし思っていて。ふと気がついて、あら、自分はそれをこんなにたのしみにしているのかしら、そう思ったら、息がつまって胸がさけそうになりました。益※(二の字点、1-2-22)机にじっと向っていられない心持になって来て、小さい室の内を歩きまわり、そして、ふと柱にかかっている懸け鏡の前へ立ち止って、そこにうつる自分の顔を見つめました。ああ、ああ、この眼! この顔! おぼえず髪をおさえながら、ああ、だめだ、だめだ、と自分に向って叫んだときの心持。しーんとした明るいすこし西日のさす仕事部屋。
 自分のとらわれたものが何であるかがわかったときのおどろき、よろこび、重大さへの直感。そんなものを表現することも考えず出かけて行った夜の街。面白いわねえ。何て謙遜であったでしょう。
 それでもねえ、そんな心の一方には、十六日に書いているような心の部分がきわめて自然発生の環境的なもののまま存在していて、やっと今、つかまれたりしているというのは、何という複雑さでしょう。私は、あの日(十六日)かえる道々大変その気持の変化について考えて居りました。そして、考えたの、本当に隅から隅まで妻なら妻を好くことが出来ることは、なかなかあり得ないことだと。自分が、わるいというのではないが、好きといえないもちものをもっていたことをはっきりわが目でみれば、いかにも沁々それが思えました。そして夫婦というものをあわれにも思いました。愛してゆく、というのは、どういうことなのでしょうね。私は好きだから愛す、と永年思って来たけれど、今はそうばかり思えません。愛すということと好きということはどこかちがって、好き、という感情のつよいひきつける力は、意志以前のようで、好きだから愛してゆくという現実もこまかくみれば、好きなところが多いものだからいやなところや辛いところをこらえて、それをへらす努力をしてゆく、その心が愛というもののようね。好きだから愛す、そんな棒のようなものではないのね、人間の心は。愛は妻なら妻のいやなところに傷けられるときもありながら、只そのいやなところを憎まない、何とかしようとしてゆく、その心ですね。人間のいやなところというのは大変悲しいものね、好きなものがどっかにいやなものもっていて、ちょいちょいそれを出す。そういうことはどんなに味気ないでしょう。私はこうやって自分のいやなものは見つけたけれど、あなたのいやなもの知らないから、何だかこの頁の二行から三行にかけての感想が声になってきこえるようです。本当にそうだったでしょう? 一体になってゆくなりかたというものは、実に実に端倪すべからざるいきさつであると感服もいたします。縦横からなのね。これは、おくりものとしたら、画面にあるかげのような関係のおくりものね。しかし、かげがあって明るみが描き出されているというおもしろさ、ね。

 十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より((1)島崎鶏二筆「竹」、(2)林重義筆「少女」、(3)竹久夢二筆の雪山の絵、(4)同、角兵衛獅子の絵はがき)〕

(1)これは好きというより何と父の作風と息子の作風とは似ているでしょう、とその見本。
 今夕方でおなかがすいていて、気がおちつかないところです。すると向いのうちからピアノが鳴って、ショパンのエチュードで「雨」という名の友情を表現した曲を一寸ひいている。実に無感情にひいています。ところが、その女のひとが洋装で出て来るときは大変すっきりしていて、身についていて、きれいなの。女の美しさなんて、こんな風にも在り得るかと思ったところです。

(2)極めてデコラティーヴな画面ですが、昔麦僊が庭園と舞妓を描いたのとは全く異った感覚があります。娘は自分のデコラティーヴに扱われていることにわずらわされず、しかも少女の重みをふくんで、なかなか美しいと思います。少女の手の紫陽花あじさいは日本画の緑青に近い鮮明な緑をうき立たせて画の焦点をつくって、少女の立ち姿の重点を下に落ち付けて居り、隅々まで構成の注意が感じられます。目立った作品の一つでした。二十三日。

(3)竹久夢二のロマンティシスムもこのあたりだと、画家としてのセンスに大分近づいているでしょう? もう一歩のところね。きのうとおととい奉祝展というのを見ましたが、たとえば版画なんかでも柚木久太が苦力クーリーの生活的なのを出しているほか、感情が遊戯的で、日本版画の感情的伝統について印象づけられました。二十三日。

(4)夢二の人生感想はここへおちいったために、彼の芸術家的気質は彼をひっぱり上げて破滅させず、ひっぱりおろして漂泊させたのだと感じました。私の十六歳ごろ夢二の装飾的画は大変美しく思われ、もっと図案化された表紙の絵など切って壁へピンでとめてトルストイよんでいました。そのコントラスト、その年頃らしくほほえまれます。

 十月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十三日  第七十二信
 十二日づけのお手紙がこちらについた一番おしまいの分で、あとはいきなり十九日の、きのうつきました。間のは、きっとあしたあたりつくのでしょう。
 もしかしたら又いつかのように御自分宛ではないの? 本当にそれは何と自然でしょう!
「南京虫」という芝居を見ました。このお手紙で、あの陽気な場面が髣髴ほうふついたします。クロプイという題。クロプイは或る歴史の時期がすぎるともう動物学の標本にしか存在しなくなるの。クロプイ的存在のすべてがそうなるのです。段々の博物学教室に若い世代の男女がぎっしりつまっていてね。びっくりして、クロプイを見ているの。人類学的標本もあらわれて来て、そういうすべてのものが、まわりにウザウザしているなかでそういう未来の図絵を示される見物は何と大笑いに笑いながら、その非存在的本質を感じることか。
 部屋をかりに行ってね、先ず私はききました。南京虫いないでしょうか。するとおかみさんは、マア、とんでもない! と両手をひろげてね。どうして、一匹だっていやしませんよ。すると、そのとき、もう私はチクリと椅子のかげからやられて、思わず立ち上って、変な顔して笑いながら、「そうかしら、多分あなたのお部屋にはいないんでしょうね」と、退散いたします。その位は流暢なものよ。おひまに、この会話を翻訳ねがいましょうか?
 でも消毒されるのは何よりです、大チブス(リードが死んだときの)はしらみと南京虫が伝播したのだそうですから。
 この紙のひろさは、たとえ1/30[#「30」は縦中横]なりとも、というお手紙だと思い、くりかえしよみ、そして又いまもよみます。
 作品と作家とのいきさつについての物語、それから詩のヒローに単純な呼び名がつけられる面白さ、可愛さ。全くすこやかさは目に浮ぶようと云われているとおりね。健やかな情感とすこやかな理性というものは、実に実に人間の生存の核心の発育力だと思います。そして、昔の人のようにその二つのものが二つの分れたものとしてはなくて、すこやかな情感はすこやかな理性に生活が貫かれて居り、そのようなすこやかさを理性が確保するのは、それにいつもすがすがしく新しい血をおくる感情の、人間らしいすこやかさがあるからであるという関係。そういう人間らしい弾力と暖かさと面白さのあふれた小説がかきたいことだと思います。
 一昔前脱皮の内面が描かれるべきであったということは非常に意味のふかい言葉だと思います。「広場」ではじめていくらかそれにふれているわけです。しかし、あの時分に描かれるようには描かれず、従って、そういう作家の発展が、日本文学の中にまるで新しい一つの典型となっているという興味ある歴史の面も浮彫られず、読者の感覚からそのような感受性もうしなわれていたりして。惜しいと思います。今日にあって、勿論、一生懸命さを否定しはしないのですし、一生懸命倒れということも、例えば内面的過程を描いてゆくそのことがとりも直さず最高の歴史的な文学のテーマにこたえていることだと思って、それを自分もひともはっきりつかまず、そういう一体の若さがあって、作品でそういう世界をとらえつつどこまでもアクティヴに生きてゆくという統一が、私などの場合では、自身の未熟さからも出来なかった。そして、いきなり「信吉」のようなものをかこうとして、そして失敗している。そこがなかなか面白いのね。文学の成長の過程は何と各自各様でしょう。一つの大きい動きのなかで、自身の成長の段階をとばさずに踏んで大局のためにプラスとなってゆく、そのように作家を育ててゆくためには、大した経験の蓄積が入用なのね。大人であることが必要なのですね。
 そんなことにつけてよく思い出すのは、万惣の二階のサンドウィッチの話です。あんなに自然にあの味を味った心理というものも面白いことね。私はそう思います。同じ話でも話し手によるというはっきりした一つの実例ね。今私が同じような物語を誰からされたとしたって、そんな物語の非文学性虚構を感じずにはいられず、大方耳もかさないでしょうから。そして、それは自然で正当なのだから。そのように非文学性を見わけられるように何故なっているかと云えば、やはり単純素朴な正直だというのは何と面白いことでしょう。ねえ。いろいろな場合、一生懸命倒れと私がいうときは大体、誠意は十分なのだけれども、それを表現してゆくにふさわしい方法やその方法の一般性に負けて自身のものを見きわめることの出来ないような場合、主として自分の一生懸命倒れを感じるのです。ほら、あなたもよく注意して下さるでしょう、或る種の作品が未完成でしかあり得ないというような先入観を持つことは間違っている、と。あれね、あれも一種の一生懸命倒れよ。この頃そう気付きます。私は小説をかくときは一番ぴったりしたテーマでしかかけないようで、そのために妙に自分で自分の足の先にせきをつくりつつ進行するような意識のせきがあって、これはフロイド的現象なのね。これは非常に有害です。小説における私の神経衰弱をひき出します。一生懸命倒れの雄だろうと思います。だから、これからずっと相当小説ばかりかく決心をしたのは、健全にしかしその意識の栓をぬいて溢れさすためです。フロイドは意識のなかのそういうものを性的なモメントでばかり見ましたが、それは彼の彼らしさです。人間生活の現実は遙に多様で、フロイドのとらえ得なかったモメントを、或る作家は歴史的に感じるのです。人間は生物的生活ばかりでないからこそ、云わばフロイドが解いてやらなければならない女の心理的重圧もあるのだから。
 そういう意味で、私は来年へかけて出来るだけ努力して、小説もある精神の栓を内部的な沸盪でふきとばしたものにするところをたのしんでいる次第です。
 こんな作家としての心の生理、面白いでしょう? 同時に何か教えるところもあると思います。かりに私が、作家というものに対してその人々の正当な成育を促そうとしてゆく場合の扱いかたのような意味で。そういう場合を考えると、いかにすぐれた文芸批評家、評論家が存在しなくてはならないかということを痛感いたしますね。個々の状況に文学的に通暁した人がいります。あらゆる部面でエキスパートが要求されるように。このエキスパートの働かせかたも面白いことですね。一般的事務家の普遍的な文化水準には達していて、おいこしているが故に文学上の優抜なエキスパートであるという、そういう文学のエキスパートも決して予想されなくはないのだと思うと、これも亦面白うございますね。気力で追いこしているばかりでなくね、もっともっと複雑にね。歴史の或る時代の姿としては十分にそうであった作家より更に幾倍かの複雑性をおりたたんで。
 こんな気持の追求から、島田への自分の心持があなたの言葉で何となしはっとして会得される機会を生じたのは又おもしろいでしょう? ずっとずっと私は文学上、生活上、自分の努力というものを自身どう見ているか、どんな心をそこから養われて来ているかということを考えつめていたら、努力の努力だおれもわかるところがあったりして、いろいろ思っていて、あなたの仰云ったことが極めて純粋な心の要素として語られていることが、自分の心のこととしてぴったりわかったのでした。それもあったもんで、ユリが、自分の気持を合理化ばっかりしているようでは云々と、一昨日おっしゃったとき私は切なかったのよ。でもあとで又考えてね、切なく感じたなんて、やっぱりまだどこかで自分を劬っている根性があるんだナと思って。
 あのときについて私は一つの大した疑問に逢着いたしましたが、大人の女のひとってものは、眼に涙が一杯でアブないときでもべそはかかないものなのかしら。可笑しくて、可笑しくて。不思議ねえ。だって、どんな小説だって、彼女は段々赤いふくれた顔になって来て、べそをかいて、涙を目にためたなんてかいてないわ。白いような顔を怨ずるが如くうち傾けて将にこぼれんとする涙をいっぱいに湛えた目で彼を見る、のよ。大変優艷なのよ、変ねえ。全く。私もどうかして、一度はそういう凄い涙の湛えぶりをしておめにかけたいものだと思いました。しかし或はそういうことにもやっぱり歴史性があるのかしら。あるのかもしれないわねえ。怨ずるが如く、という感情の土台がないと、べそになるのかしら。子供はどんな泣きを泣くときにもべそをかきます、何だかおもしろい。ちょいちょい泣くを知っている女のひとは、いろんな涙の出しっぷりを修得しているのかもしれないわねえ。オンオン泣いてはとしての技法の効果をこしますものねえ。もしかしたらあした又十六日の分への御返事かくことになるかもしれません。そうだといいけれど。ではひとまず。ああ、それから、種々な手紙が、どんな姿勢でよまれるか想像したら、大変あったかいような、ホコホコするような気がいたしました。

 十月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十五日  第七十三信
 きょうのむしあつさ、いかがでしょう、そしてこんな風! 今朝二十四日朝づけのお手紙ありがとう。
 十五日づけのは又現れません。昨日で高山の「現代の心」すっかり原稿わたしました。きょう序文をかいて送ります。河出の『朝の風』、これ、あと『文芸』のをすっかりまとめると一応一段落となり吻っとして先へすすめます。「現代の心」やっぱりいい題ね、なかなかいい題ね。この装幀は松山さんにたのんで、ふっくりしたゆたかないいのを考えて貰います、柔い紙の表紙で。たっぷりした果物なんか面白いのだけれど。ただの図案より、そういう生活の中からのものを描いて欲しいの。
 ああそう云えば『朝の風』の内容は、「朝の風」「牡丹」「顔」「小村淡彩」「白い蚊帳」「一本の花」「海流」「小祝の一家」です。相当つまって居りましょう。「海流」七十三枚か、「一本の花」八十何枚か、あと三十枚、四十枚というのですから、そんなに貧弱でもないし、かきあつめというのでもありません。このなかであなたの御存じないのはどれかしら。「牡丹」「顔」「一本の花」はいかが? 初め入れようとして入れないのは「心の河」、これはお話したとおり。それから「高台寺」、これは作者の生活的な稚さが、いやです。「街」もそういうところがあるが、「街」は人間のおかれている歴史への無知識にすぎず、「高台寺」は、ある生活にある女の鈍感さがあらわれていていやです。或る茶屋のおかみに今よめばうまく女主人公があやなされているのにそれを心付いていない鈍さがいやでやめました。「伊太利亜の古陶」もわるい。やはりその小市民風なつべこべを自覚していないで、それにのっている。面白いでしょう? そういう作品を生む生活がつづいて、やがて「一本の花」をかいて、生活への激しい疑問にぶつかっているのです。そしてその冬外国へ行っている。全集の中へ入ると、その過程として面白く、しかもね、そのいやな「高台寺」に、やはり「一本の花」及びそれ以後の動きの芽はあるのです。舞妓とさわいでいる、そんな気分についてゆけなくて、とりちらした室の床の間に腰かけて陰気な気分になっている女主人公があらわれていて。しかし短篇集に入れるのは気にかなわないのです。『朝の風』の装幀は本やでやります。別な本のをやっているのを見ましたが、割合あたたかみのある配色で、厚手なところもあり、マアいいでしょう。でも、どんなのになるか。竹村の方は私やはりかき集めは出したくないのです。だからもうすこし待って貰うことにしたいと考えます。今日の世の中で、重複したりかき集めたりした本を私が出したのでは余りですものね。それでいいでしょう? 来年早々ぐらいなら。本屋自分の方の勝手でバタバタしていて、『明日への精神』が出たことも知らないのですって。(竹村のひとは、主人とは別のひとですが)何だかそぐわないところがあって。文学書ばっかり出していて、きっと或る意味では妙な文壇ずれがしているのね。出したくないような気をおこさせるひとが来るのよ、いやね。丹羽、高見、石川なんて作家が、曰くをつけられているから、こっちを出したいんだなんて。そういう作家の見かたの商人根性も本当にきらいです。丹羽の作品集を古谷綱武の年表解説つきなんかで、物笑いのように出しておきながら。林芙美子の出版者とのいきさつもひどいものよ。実に本質は酷評している、でも女の子が買う、だから出す、「出版者が赤い舌を出すものですね。」そういうのはきいていてやはりいやよ、ね。
 さて、けさのお手紙。『書斎』のことは私三省堂へ一つねじこみたい位です。あんなに行ったりいろいろ手をかけて、いろいろ云って、そして、注文したら来たなんて。それはよかったけれど、私たちの骨折りをまるで無意味にして。実にあすこの事務は雑駁ね。店員のくんれんがなっていないのね。でも御覧になれてようございました。そのなかでのおかみさんへ注文のこと。そうねえ。「永遠の新婚の歓喜にあるわけでほむべきかな」何だかニヤリといたします。極めて複雑なニヤリよ。ごく真面目に肯定した上での、ニヤリですけれど。御亭主の身になって、注文をつけること日々に新たなりであることから永遠の新婚が祝福されるのでは、とニヤリとしたわけです。そういうところに私たちの生活の一種独特のヒューモアもあると思って。私たちの散歩、夜の散歩で、あの本郷の三角路の角の店へ行ったことがあったでしょう? あのときのうれしさ、おかしさ、いろいろ思い出して、何かそこに共通な面白さ、愉快さを感じます。
 わかりやすく書くこと、それはテーマの本質上の深さを低くめたりすることではないということ。そのことはよく考えてかいてゆくつもりです。もし私がそういう傾向に陥るとすれば私の文筆の価値はないのですから。随分いろいろのものをかいて、かけて、しかし雑文は一つもないという確信をもてることは新しい文学の作家にとって絶対の必要ですから。
 玄人芸は根気仕事というの、里見の芸談のプラスとマイナス、これにも仰云るとおりよく出て居りますね。『文学』なんぞという作品は鼻もちならないものです。ヘミングウェイ、そう? 私ももう二階が暑さで苦しいということもなくなりましたから、この二月ばかりは昼間が実に能率的につかわれます。今年の夏は多賀ちゃんが下の部屋つかっていて、私ずっと二階で、そのあつさ。大分参ったのは其もありました。午前四時間から五時間一息にやって、午後すこし仕事して。相当よ。でもやっぱり所謂速筆ではありませんね。割合展開の単純な感想だと十五枚―二十枚は一日の仕事ですけれど、小説なんかやっぱり七八枚。
 何となく小説にかきたくて、まだどうかくか分らなくている一つの気持があるの。ここに一人の女があります。その女の少女時代の生活は、母と子とのいきさつで、子供にとって、母が子供を負担としているということがどんなに苦しく腹立たしいことかということを痛感するような生い立ちでした。子供を生むということについて、無責任にはすまい。そう思って成長して来ました。その女があるときに結婚するの。その対手のひとをその女はしんからすきで、そのひかれる心は健全で、その女が対手に対する自分の感情を自覚したときには同時に母となるよろこびへの渇望もめざまされていました。しかし生活の条件へのその女の判断はそのままの形でその欲望を実現させませんでした。その判断はあやまってはいなかったのです。その夫婦は、そのような判断への確信もともにもって充足して生活して来て何年かすぎました。あるとき、そのような生活の流れへ一つの春のさきぶれの嵐のような変化の予告、予想、或は想像がもたらされました。そのことによって、女の経験した内面的な展開は極めてリアルで激烈なものでした。女の生涯には幾度女としての誕生があるでしょうか。女の性格のうちには更に新しい何ものかが開花されました。感覚の豊饒さが加えられました。新しい命へつらぬく良人への愛、新たな生命へ溢れる自分たちの命の美しさ。その昏倒的な美さのために、女は幾つもの夜々を眠りません。その夜々のうちに女は半ば可愛らしいものを自分のうちに感じるようになっているほどです。その春の嵐のさきぶれは、そのように重く生命の樹々を揺りながら、やがて雲が段々動いて、遠のいて、小さくなって、すぎ去りました。もとのような見なれた空となりました。しかし、女はもうもとの女ではないのよ。元にはもどれないのよ。そこには一つの誕生が経過されたのですから。
 しかし、女はそのような自身の開花を人生において無駄花とは感じていないのです。どういう事情であろうとも花ならば一杯に咲きひらかなければなりません。そこにそのものの自然なよろこびがあるのですから。けれども、花の嘆きも亦何と面白いでしょう。花粉に出合わなければならない花の嘆きの面白さ。その女は、天然が女である自分のなかにもう一つのみのりの可能性として与えているものを力一杯にみのらせようと一層熱心に思いはじめます。それは人間の意力でもたらされるものですから、少くともある程度までは。そして、女は知っているの、つまりは、それとこれとは一つ生命の展開であると。一つになっている二つの命の火であると。
 でも、その女のそういう意欲の半面には何となしこれまでにないテンダアなところが生じていて、こんな心をも経験します。その夫婦が、あるとき、良人の親への思いやりについて話しました。妻であるその女は良人の言葉をよく理解しているのです。でも、そのときの感情は前後のゆきがかりから、わかっているだけ其を改めて云われる悲しさのようなものがあって涙ぐんだ状態でいると、良人は、ごく自然な調子で「自分が子供をもって居る気持になって考えてみればよく分ることだから」云々、と申します。その妻は、その言葉が自分の心臓の上をその言葉のおもみと永さの限りで切りめをつけてゆくような鋭い痛みを感じました。自分たちの間に新しい命の形を表現されないという一つのことのために、その女はたくさんの俗見とたたかって来ています。俗見は最も正当な人間性の評価にあたってさえ、その女が腕のなかにかかえる小さいものをもっていないということを云い立てて、その女の合理性を非難する場合があるのです。
 女は自然に洩された良人の言葉を忘れることが出来ません。そういうことについての感じかたの相異は、命を与えるものと、与えられなければならないものとの感じかたの相異なのでしょうか。命を与えるものはモーゼのようなもので、命を与えられなければならないものは、その季節というものに限りのあることを知っているからでしょうか。しかもその女はそのような季節のかぎりをかけて、たった一つの命にしか命のあたえてとしての価値を見ていない、そのことからの感じなのでしょうか。
    ――○――
 これは、なかなかむずかしいとお思いになるでしょう? もし小説にかけなければ、もとよりそれでいいのです、ここにかいたから。云うに云えないその女の傷みの心を表現することは大変むずかしいと思います、何故ならその心持は其だけの単純なものではなくて、それだけの深いよろこびを裏にもっているものでありますから。ああ、そしてね、その女はそのとき良人に、「今ここで云えないいろんな気持があるのよ」と云っているのです。そう云っただけで良人のひとがすぐ諒解出来ないということは万々わかりながら。でも、やっぱりそう云っているの。
 小説や詩に何といろいろあるでしょう。私たちはたくさんの素晴らしい詩を知って居りますが、こういうテーマは小説にしか扱えないところ、やはり大変面白うございます。髄の味いのようなものね、それは小説です。私は詩がわかるだけでなくて小説家であることは何とよかったでしょう。では又ね。

 十一月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月三日  第七十四信
 只今、うちは急に御飯をたいたりして小さく騒いで居ります、というのはね、午後から来たいと予約していた人が急につとめの工合で来なくなったハガキが来たので、この間からママっぱへ行きたくてうずうずしていたもんだから、さアじゃ出かけようと今のりまきをつくる御飯たいているわけです。お恭、たかちゃん、私と三人で、うらの武蔵野電車にのって大泉というところまで行って来ようというのです。そこは只原っぱなの。しかしその原っぱは高原風で実に心持よいの。
 きょうは、お休みでなければ、私はどうしてもそちらへゆきたい日です。おとといからそうなのよ。けさはお休みの朝でしょう。全く「朝の風」の心持です。「朝の風」と云えば、河出の方はもう出版届けよこしました。金星堂どうかして居りますね。自分の商売の方から云ったって、早いのがいいのに。
 島田へ手紙よくかきました。経営単位として何故一台一口とするかということを、よくわかるように、古くたって新しくったって一台は一台分の稼ぎをすることよくかきました。
 そして、お母さんには、まことにいい柄の羽織を見つけたので裏も気張ったのをつけ、紐も見つくろってお送りいたしました。友ちゃんがきっと縫うでしょう。本当にしゃれた奇麗なの。傑作の部です。お母さんはああいう御気象ですから、割合いきめなのがお似合いになるのよ、面白いでしょう? 決してもっさりしたのがよくはないのよ。ですから、いつも私の見立てはヒットです。
 その点あなたもそうなの御存知? 人の気質のなかにあるリズムや線は面白いことね。画家は私をなかなか描けないと申します。全体の印象は非常に鮮明なのに、さて描写してゆくとなると、太いようで繊細で、大きいようで小さくて、それらが交錯してつくり出している感銘はいかにも捉えにくいのだって。
 それで思えらく、その人は(松山さん)人の印象の構成を静的にとらえようとしているのね。こんど話してあげようと、今かきながら思います。私はきっと非常に動的なのでしょう。顔立ちというような固定したもので、顔の全印象は出来ていないのね。生きているものをつかまなくては駄目だわ。それを松山さんは静的な線で辿るから何だか似ないもの、いのちのないものをかくのですね。これは大きい発見です。私のためにではなく、松山さんのために。松山さんにもう一つ、高山の本の装幀をたのみます。それは大根畑をかくのよ。いいでしょう? そのことまだお話ししませんでしたろう?『明日への精神』はああいうので私らしい溢れるたっぷりさがないから、高山のは大根畑の土の黒々としたゆたかさ、葉っぱの青々とした大きいひろがり、ひょいと一本ぬけ上って生えているのがあったりして、冬の大根畑は日本の豊かさのようです。それをかきたいの。只、色の工合でどんなになるか、スケッチ風のところに濃い色をさっぱりとつけるという風なのもいいということになりました。只私は赤い色が好きなのに、大根に赤いところないから唐辛子でもくっつけたいけれど、大根畑に唐辛子はないのでね、閉口中です。大根一本、唐辛子を添えて、とまるでお香のものを漬ける前のようなのもこまりますし。
 ところで、病気の人というのは何と敏感なのでしょう。竹内てるよという詩をかく女のひとは永年病気なのですが、私の本をよんで、私の手が大変暖い人だということがわかる、と云って来ました。そういう弱い人は、手の暖い人の手につかまると、冷汗がひっこんで大変心持がいいのですって。お百姓の女のひとはそういうあったかい手をしている人がよくあるそうです。
 竹内さんは、比喩的にばかり云っているのではないのよ、かの子と私の生理のちがいがかくものをよむとわかるのですって。私は話していても書いていても同じ生理の条件でいられる位健康だが、よわい人は其々の場合、生理のくみ立てをかえることになって非常に疲労がひどい由。
 気味もわるいし、感服もいたします。私の手は本当に暖いのですもの。
 こんなことも面白いと思います。だって、日本の男のひとの多くは、手の暖い女に僻易するのだそうですから。つめたい手の女の方がいじらしいのですって。
 こういう呵々大笑的趣向は別の場合に面白く現れるのよ。あの永瀬清子の詩集は、女が見ると、それが女だからこうも云うし、そういうことが何かの積極的方向だというものに満ちていて、謂わばあの本のねうちは女らしさの上向性にしかないわけです。私はそう思うの、実に女らしい本だと。よかれあしかれ。ところが、詩人たちは、詩人たちの間での彼女は紅一点ではないのですって。女史というのですって。つまり女らしくないのですって。面白いでしょう? 青野季吉をはじめ、どうして男のひとたちはこうもボリュームをもっていないのでしょうね。それだもんだから、「今のような時に文学なんかしていていいのかと思う」とか、「自分のようなものは文学でもしているしかないと思う」とか、いやなことを云うのですね。
 文学と云えば、晨ちゃんがこの頃すこし体がましになったそうです。そして、短い原稿をよこしました。文学についてかいたものです。よんで欲しいと。もしよかったら、そういう勉強もしてゆきたいと。まだあと一年ほど休養の由。よくなったと云っても、三十分ぐらい散歩していい位の由。ものなんかかいていいのかしらと思います。
 ではここまでにしておいて、かえってから又つづきを。原っぱのお話いたしましょうね。
 さて、原っぱへ日向ぼっこに出かけた三羽の鵞鳥の物語。
 裏の電車で三十分ほど行くと大泉学園という駅があって、その奥が私の気に入っている高原風な原っぱです。大泉へ、のり巻の包みをかかえておりると、もとはガタバスがあったのが、馬車になっているの。ガソリンの関係で。そらそらとそれに並んでのっかって待っていると馬車はなかなか動き出さず。「もう何分です?」「サア四十七分ありますね。」四十七分て永いのよ。そこでわきを見たらタクシーがあるので、それにかけあって、二十五丁のところ一本道をゆきました。
 そこに市民農園というのがあって、風致地区で空気が軽やかでいいのですが、そこの芝生へ坐って、さてやれと、おべん当をたべました。まわりにすこしばかり貯金局のグループが来ていてキャッチボールなんかしていて、閑静なの。やや暫く芝の上にいましたが、もう芝の下の地の冷えが感じられます。それから、心覚えの道を原っぱの方へ歩いたら、好きだった小高い芝山のところが、すっかり分譲地になっていて、小さい家が建っていて、ワイシャツにエプロンというような二人が落葉を燃いたりしているの。それらの小さい家々は日光で煙を立てそうに照らされていてね。あっちへ行ってはつき当り(ゆき止りで)して相当歩いて、かえりにはうまく馬車をつかまえてポカリポカリかえりました。三時前に、牧瀬さんという友達(メチニコフくれた人)が練馬の方に家をもっているそこへ三人ぐるみよって、おなかの大きい菊枝さんは大体坐らしといて、二人の女丈夫がパタパタやって皆で御飯たべ、九時頃眠たアくなってかえって、すぐねてしまいました。天下泰平。
 きのうは座談会の速記の校正して、下で『婦公』の小僧さんが待っているのに岡林さんから急に相談したいことがあるとかかって来たので、びっくりしました。あんなことでようございました。
 そして、思いがけないうれしいこと伺って。本当に本当にうれしい気持です。私は上機嫌よ。そして安心いたします。つまり一番はっきりした形で、現代の一般のマキシマムと私としてのプラスとマイナスが示されているわけですから。そして、もしかこのことはあなたにとって幾らか愉快ではないでしょうか、こうやって書いているもののうちにある響きが、やはり変質されないで、ほかのかきものの中にもつたわっているということが。そういう意味での感情に統一のあるということが。それが、どんな価値と性格とであるかということも。
 近頃他のものも御覧になったから、それらのもっているものとの対比も面白いでしょうね、きっと。非常にちがうところがあるのよ、それだからうれしく又苦しいのよ。わかるでしょう? 私たちはまともな資質だから。或る面白さというようなところでまとまれない。それは(まともさは)やさしく成長出来る筈のもので、しかし本来のそういう自然さがかけたときは一番まともにそれ(障害)につき当ってゆく種類のものですから。
 ああ、でも本当にうれしいこと。
 文学史の方、小林秀雄のところ、思い出される論点のつかみかたがあるでしょう? ああいうものは引用して活かすべきですが、それは出来にくかったから。引用より肉体的なわけだけれども。でも、お笑いになるでしょうね。余り私は理論的にかけないから。体あたりでばっかりやっているから。でも、生活的ではあるわ。そのことだけは確信があります。私の文芸批評がケタはずれなのは、他の人たちのようにそこに出ている作品の世界だけなでまわしていないで、ズカズカその人の作家としての人生へまで近づくからでしょう。これで、人生的深み、ゆたかさが加って来れば、やっぱり其でいい独自性がつくでしょうと思います。勉強する張り合がついて。何と気が楽になったでしょう。ああ、ああ、ああ。と頭の中がのびのびしてゆくようです。点がからくてどんな駄目が出ても、やっぱりよろこんで顎をのせてフムフムときいていそうよ。ききめがなくていけないとお思いになるでしょうか。大丈夫よ、私はキオクリョクはある方ですから。
 今年は一つよく気をつけ、早ねを益※(二の字点、1-2-22)励行して風邪引かずの冬を越したいと思って居ります。肺炎になったりするとこまるのよ、そのために必要な薬がありませんから。それからね、お恭ちゃんについて一つこまったことがわかったの、それはきょう申上げます。来年の春でもすぎたら、かえした方がよさそうなことがあるのです。健康上のことで。頭のことです。ですから、猶たっぷり眠らさなくては、ね。
 私の例の表、おくれてしまいましたが、十月は甲が割合多いわ。甲七、乙一八、丙四、丁一。炭のないことから一層甲がますでしょう。それからね、大工を入れて、台所の水口の戸の羽目がくさってプカプカなのを直し、家の中の台所から茶の間へ入る仕切りのところやお恭ちゃんの部屋へ入る三畳の障子を内からの錠をつけます。いいでしょう? そうすれば相当安心です。それに石炭入れもつくるのよ、何しろ石炭というものは、石の炭というよりは大した大切なものになりましたから。
 珍しく重治さんが卯女ちゃんつれて来ました。ではこれで一区切り。卯女子初めて来たの。では、ね。

 十一月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月六日  第七十五信
 けさ、四日づけのお手紙。どうもどうもありがとう。
 表紙も心持よく思って下すって、うれしゅうございます。小磯という人にとにかくお礼の手紙出したら(本になったとき)奥さんからあいさつで、お粗末なもので、と何かたべものの礼へ答えるような文面だったのは面白うございました。画家の細君なのにちっとも絵画として良人の仕事感じていず、何か注文として感じているところが。家庭で仕事について喋る茶間の空気がそこに出ていて。
 世間の母がというところね。全くそうだわ、それはそうだわねえと心に語りました。栄さんがさっき来たのでやっぱりその話をして、本当にそうだろうと云い合いました。私自身にそれがいくらか分っていて、ですから本当に今度はうれしかったと思います。安心した、という一言にどれだけのものがこもっていることでしょう。私にはその全量が感じられます。そして、益※(二の字点、1-2-22)ゆたかに大きくなって、安心をよろこびにまでしたいと願う次第です。
 お礼の手紙や一寸したおくりものへの答えは、ちゃんとあの当時いたしました。それは、お話したとおり。
 キュリーとナイチンゲールについて云われていることは全く当って居ります。あのとき、そのことについていろいろ考え、うまく書く方法を考えつかず、それに敗けて居ります。今になって考えれば、必しも書く方法が絶無ではなかったと思われます。その点はやっぱり弱いつかみかたでありました。フロレンスがああいう仕事についた時代のイギリスが、都市衛生について自身の安全のために関心を示さざるを得なかった、そのバックに立って彼女の活動も方向を見出したということは、どの伝記者も云っていないことで、フリードリッヒの英国労働者の生活状態についてかいたものからの勉強が助けとなっているのですけれども。
 働くひとの数のこと、この昭和四年一〇〇に対し女一一五・七というのは、繁治さんのくれた調査統計によったものでした。しらべておきましょう。どうもありがとう。誤植も玄人でもあるのね。岩波にさえあるのですからね、というのですものね。
「昭和の十四年間」について、どうかお心づきのこときかして下さい。あれは又五年ぐらいまとめ、ずーっとああいう風にかいて行って(つまり一貫した歴史性に立って文学の移りゆきを見て。文学というものの育つべき方向と、そこからの乖離の姿とをはっきり見て)やがて昭和文学史としてまとめるのを楽しみにして居りますから。ああいう密度でずーっとかかれた文学史があったら、それはやはりそのものによって文学の進んだ程度が示されるものだろうと思いますから。あの仕事なんか、やっぱり永い間のかさなりで出来ているわけです。※(二の字点、1-2-22)そもそものはじまりは『昼夜随筆』の中にある、今日の文学としての三二―三七頃までの概観と、次はそれをふえんしてかいた百枚の未発表の昭和十二年までの文学史と、その上にあれがあるのですから。十二年の暮かいたのはゲラで十三年一月からストップとなったのでしたが下手よ、まとめかたに一貫したところがなくて。一貫しているが自分のものとなり切っていなくて。
 小説の集ったものからどんな印象を得て頂くことが出来るでしょうね。きっと、そこには、こちらにはあらわれていないいろいろの時代的苦悩がきっとまざまざと出ていて又別の感想をおもちになるでしょうと思います。こっちの方は、胸につまって来る息づかいを堪えて押し出しているし、そちらは(小説は)息のせつない姿そのままのようなものですから。
 河出の二千五百よ。こちらは早いこと。短篇集として二つつづけて見ると、やはりなかなか面白いでしょうと思います。重吉は初めてあなたにおめにかかるわけですけれど、あなたはどんな歓迎ぶりをして下さるでしょうね。ねがわくは肩を一つ叩いて貰える存在であることを。早く小説の方が見とうございます。
 母の心持になって、のこと。私は勿論それがそのように云われたことは知っているのよ。ただ、あのときユリはデリケートすぎて話が出来にくいと仰云ったような状態に私がなった、一つの私としてのあのときの心持の状態を説明していたわけです。そして、あのとき、そんなに変に敏感になっていたことは、前後のいきさつからだけの、あのときだけのことでもあるのです。ですから評論をかき、「三月の第四」のようなものをかき、そしてあれがある、その三つのもののいきさつの間に語られているもの、私が私という作家を評論するのであったら、このうずをこそ分析しずにはおかないでしょう。満腔の同情と鼓舞とを与えてやると思います。そこには分裂がある、などという皮相の結論ではありません。
 こうして、自分を新しく意識し、生活の又新しいよろこびがいよせられたりして、夏前とは自然異った日々が前に期待されます。だから、今年は本質的にいい歳末ね。よく仕事もしたし、というばかりでなく。私としてはしかもくらべるものなきお歳暮頂いたし。ホクホクよ。ああ何と微笑まれるでしょう。何と微笑まれるでしょう。
 意気地を出して勉強おし、というところ。そうお? 私意気地なし? ソラ勉学勉学というの思い出します。二十日までには、やっぱりぎっしりよ。国府津へは連中どうするのでしょうか、まだ不明です。赤子アカコがきっと東京では駄目かもしれず、この間も夜中ふるえたりいたしました由。すこしずつ大きくなって来て、却って妙に弱いのね。ああちゃんには大いに同情いたします。
 婦人作家の会のことは、文学上リアクショナルなもの(プログラム)をおしつけられないようにということからで、この成立には個人的な面白いことがあり、出来たらやはり皆妙に上ずったのばかりではないから、リアクショナルなものでないようにということが本筋になって来ているわけです。いずれお目にかかって申します。大衆作家(吉屋、林、宇野)などと、すこし真面目な文学を志している(主観的に)円地、真杉その他との間にちがった流れがあり、山川菊栄と板垣とにさや当てがあり等々。仕事として、会が婦人作家のクォタリーを出して行くというようなことを今考えている様です。何しろいろいろに動く時代だから、これにしろやがてどうなるか。
 長谷川時雨は「輝ク会」を自選婦人文学者の団体として文芸中央会に自選代表となっていたわけですが、「輝ク会」は銃後運動を妙にやっていて、ちっとも文学との関係はないので、中央会から文学の団体として他の代表を出してほしいという提案があり、時雨女史周章して「輝ク会」はひっこめて、代りに何か会をまとめるという動機をおこしたわけだそうです。私はその会にも次の会にも出ませんでしたが、時雨女史は、自分がすっかり勇退すると云ったらしいが、それは辞令でね。マア変に頭をつっこまず、悠々かけまわりたい人がかけていればいいのです。会の主旨は、文学の仕事と所謂銃後運動との区別を明かにすることを第一条にしているから。婦人作家のグループがあることはわるくもないでしょうし。
 文学史のことについて。これは非常に要点にふれている注意だと思います。一九三三年以後は空白となっている、ということ、ね。ここにはいろいろ興味ある問題がふくまれていると思いました。書き直すとき、作品の箇々をとりあげて行ったら、その欠けたところが補足されるでしょう。補足される部分の作家たちは、一貫した流れの努力というような明瞭な区分で自分の見られ語られることを決してよろこびません、『はたらく一家』の序文をわざわざ広津にたのむようなもので。それに対して、筆者は不満をもっています。(あの文学史の)それを努力のうちにかぞえる気もせず、いろいろで、妙な文学に対する評価の客観性のなかに底流としておのずから存続する文学感覚を生かそうとしたのでした。しかし、それはやっぱり一つの声をのみこんでいる結果になるのですね。そこいらのことが大変有益でした。どうもありがとう。学ぶところがあります。のみこんでしまわず、必要な点は皆掘り出してちゃんと組立てるということ。「のみこんでしまう」という現象にはやはりある衰弱があるわけですね。ここいらの心理もいろいろと面白うございます。
 これはやがてあと書き足して本にするつもりですから、よく又研究して手を入れましょう。それにつけても勉強勉強よ。そう意気地がないわけでもないでしょう? 出来得べくんば、私はほんとにイクジなしのおだまやちゃんとなって見たいところもあります。あなたは大した遠い思慮がおありになるから、ずーっと先にマリアだったかソーニャ・コ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)レフスカヤだったかの伝記について、彼女がもっと甘やかされなかったらもっとよく成長出来たろうのに、とおっしゃったことがあったの、覚えていらして? 何年も何年も前のこと。彼女たちは可哀そうに、可愛がられるというより甘やかされ、その相異を知ることは出来なかったのです。私がその相異を会得しているところがあるとすれば、それは大した仕合わせでなければなりません。晶子の歌集が岩波文庫で出て、それをみると、妻としての思い、妻としての扱われかたが考えられるものがあります。きょう私は爽やかそうでしたでしょう?
 では二十日まで。手紙かくの、行くだけの時間はたっぷりかかるのよ、御存じ?

 十一月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月九日  第七十六信
 七日のお手紙をありがとう。十五日の手紙未着の分については、申上げたとおり願います。
 きのう『白堊紀』[自注8]をよんでいろいろ感じていたところであったので、このお手紙に「『敗北』の文学」について書かれていること様々に感想をそそります。あすこにあるいくつかの作品はずーっと前にもよんだのでした。そして、そのときとしての感じをうけたのでしたが、今はあれをみると歴史的に人間の成長というものが感じられ、おどろきます。一九二七年と云えば「『敗北』の文学」の前年でしょう? あの作品のもっている様々の特徴は、やはり非常にその人のものね。もとよんだときには、よむ心の主観的な感動と愛着とを先に立てて居りましたが、今はもっとちゃんと稟質としてそこにあるもの、そこから成育して来たものをくみとることが出来て、感じることも一層深うございました。何というつよく迅い成長でしたろう。音がきこえるようね。そして、そのつよい迅い成熟の過程であれらの作品にこもっているしっかりした密度の高さ、やさしさ、感受性はちっとも粗大にされていないで、その押しでのびて来ている。このところもいろいろと私には興味あるところです。「三等室より」[自注9]は、もと私の感じとれなかったような、様々の内容をふくんでいて、そのテーマの語りかたそのものにあらわれている精神史の意味で大変感銘されます。あれは二回つづけたきりですね。「古風な反逆者」[自注10]という作品からも作者の人生の現実に対する態度がよくわかります。第一巻の「狂人たち」[自注11]はあの象徴がちょっとよくつかめません。ただあの中に科白として云われている女についての感想は、その作者の年齢や何かとてらし合わせてうなずけますけれど。「陽」[自注12]という筆者への展開も面白いことね。少年の陽、自動車を見てはやさ、つよさに胸をとどろかす幼い陽から、ああいう青年の陽への成長を、私は作家として刺戟を感じます。書きたいと思います。これは本当に思っているの。
「たのしみながら、だが眼玉はぎろりとして」という様子、実にまざまざ。ブックレビューのこと。若い心であるからこそ、という点。それは真実だと思います。そして、云ってみれば、そう思うからこそ、割にあわない努力をもつくして書いてゆこうとしているわけですから、一層ここに云われている点は重要ね。
 自然科学についてのこと、お笑いになったのねえ。一笑したとかかれている、その表情が見え、おかしく、きまりわるい。〔中略〕
『白堊紀』のものをよんでつよく感じたことは、その条件としての完成の努力の力いっぱいさの点、そのように力いっぱいだから、再び一つのところへは戻れず前進するというその力を痛感して、実にその人らしいと思ったわけでした。この作者は自身の生涯をそのように高く、条件の最高に完成させようとする気魄に満ちていて、独自の美だと思います。
 こういう完成への努力が、とりも直さず常に前の自分からの成長として、ダイナミックなものとして、現れるということも面白いわね。何故ならば完成を愛す知識人は夥しいが、その場合の完成というものは飽和点としてあらわれ、つづくものは停滞ですから。そういう形で、キレイごとのすきな人々は、完成をねらって、我とわが身を金しばりにするのね。一定のその条件で一度は在り得るが、二度とはないモメントとしての完成ということを思うと、実に実に面白いことね、芸術の面で。つまり文学における典型とは其ね。何だかパーっと今会得されたところがあります。文学における典型を、人はどうして今までこの動的な完成の瞬間においてのこととして、とらえなかったでしょう。作品のうまれてゆく刻々の経過の内面から云えば、つまりはそのこと以外にないのですもの。ねえ。外からばっかり云われていた傾がありますね。これまでの追求では。例えば『現代文学論』の中でにしろ、それ以前の文芸評論にしろ。内から云うと、何とわかりやすいでしょう、創作方法としてわかりやすいでしょう。これは、わかりきっていたようなものの、一層明確な会得のしなおしです。これは面白い、と私が些か亢奮を示しているのはね、こういうことがあるのよ、『歌のわかれ』[自注13]のなかに収められている「空想家とシナリオ」の車善六という存在をどうお思いになるでしょうか、ああいうのは文学におけるリアリズムの神経衰弱的逆効果であると信じます。車善六も、それとからみあってキリキリ舞いをしている作者も一つの典型であるが、再びその作者にとってもくりかえすことの出来ない典型であり、完成です。ところが、あれのエピゴーネンが出て来ていてね。この頃は伊藤整の得能五郎、徳永直の某、そういう出現を、平野というもとからの文芸評論をかく人が、現代文学における自我の血路として一つながりに見ていて、私は大いにそれには反対なのです、血路として、客観的に文学史的に肯定されるべき方向ではないと信じます。車善六だって、あれは敗北の一つの形です。
 私は作家として、ひろい視野がある故に身を狭めざるを得ない車善六的感覚と、今のところ(今日迄)「朝の風」のような面でとりくんで来ているのですが、それはあれとは全く反対で、ああいう旋風的突然の完成に自身を捲き立ててゆけないから、正攻法で、従って、サムソンののびかかった髪の毛みたいな苦しいみっともないところがあります。〔中略〕日本の文学史が遠くない昔にさしていた拡大された生活者的我というものを、私は馬鹿正直に追求してゆきます。そこへ自我を解放しようと願います。それは単なる作品のテーマにとどまらず、日本の文学のテーマであり、作家の生涯のテーマであるものだと思いますから。
 ああ、どうぞどうぞたのしみながらぎろりぎろりとして頂戴。血路というような性質のものをもとめず、私はやはり行くべき方への道をゆきたいわ。血路というそのものが、文学として、やはり作家個人の範囲の印象です。そうではなくて? 十一月号の作品の批評を都に四回ほどかきます。もう度々いやでことわったけれど、今度は思い直してかくことにして居ります。書くモティーヴは、この数ヵ月間の文学の動揺の波をとおして各作家がどんな自身の道を進めているか、例えば火野が妙な河童物語と極めて幻想的懐古の作品をかいている、そのことと兵隊ものとの間にある時代と文学との問題をみるという風に。平野という人は、目の前に出ている作品だけ云っている、この場合も。河童への興味の一貫性というものが私にはやはり感じられます。芥川の河童、碧梧桐何とかいう俳画家[#「碧梧桐」は罫囲み]の河童。日本の河童とは果して如何なるものので、いかなる時代に出現するというのでしょうか。そういうことをかくのです。いろんなこんなこと考えているから、清潔なギロリの心地よさ! 日本文学における河童(特に近代の)は、決して噴飯ものではないのよ、そうでしょう? 私のかかる野暮は尊重されてよろしいものでしょう? 日本文学に河童が登場するとき、そこには何かの悲劇があるのですから。
「昭和の十四年間」へのサーチライトはまだ輝きませんね。それはいつ閃くのでしょう、たのしみだと思い待たれます。たとえば、このお手紙に云われているシェクスピアの女の歴史的なつながりの点ね、かきながらもうすこし詳しくかいた方がいいなとちらりと思ったところだから、私には、そこへギロリが焦点をむすぶ必然がわかり、二重にためになるのです、いいかナと思ったのに、突込まなかったということが別に一つあるのですから。御気分のいいときあちらもどうぞね。
 国民文学ということがいわれ、何故民族文学が云われないか、いろいろの声がいろいろ云いつつ何故それは云わないか、今日の国民文学というものの歴史性の複雑さ。
 本当に勉強、勉強。先ず私はこれから来年にかけて、その長い小説をみっしりとかいて、自分のまわりにある見えない魔法の輪を体の力でやぶらねばなりません。私の所謂生活者的私のところまで。ね。思いつめたる我に鬱屈するというところから、私は私として成長しぬけなければなりませんから。
 今夜は久しぶりで多賀ちゃんと二人きり。林町へきのう行ったら、三田の倉知の伯父の家を林町の父が設計して建てた、そこが今空いているので何とかして買って移りたいと熱中して居りました。
 風邪お大切にね。私の方は大丈夫のようです。では火曜日に。

[自注8]『白堊紀』――顕治が松山高等学校のころ参加していたプロレタリア文学傾向の同人雑誌。
[自注9]「三等室より」――その雑誌にのっている顕治の小説。
[自注10]「古風な反逆者」――同。
[自注11]「狂人たち」――同。
[自注12]「陽」――同。
[自注13]『歌のわかれ』――中野重治の小説集。

 十一月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十一日  第七十七信
 九日づけのお手紙、きのう頂きました。いろいろとありがとう。それについてかく前にきのうの行事を一つ。
 きのうは五時におきて、『改造』へ「板ばさみ」というものをかき(十枚)(今日の女が労働と家庭との間で、どんな板ばさみになっているかということ)それから佐藤さんにつれてもらってあすこの学校の公開にゆき、十二時にかえってから夜までお客という状態でした。そのような忙しいのに公開を見たのは、佐藤さんが自分の専攻の部の特別展を一部にやっていて、いろいろ珍しい標本だの何だのあるというし、我らの細菌をまのあたり見参してその正体も見てやりたかったし、それで出かけたわけでした。くたびれたけれど、いろいろ面白かったわ。細菌ばかりでなく、学生(ああいうところの)の気分というものもすこし感じられて。ああいうテクニカルな学校と教養というものの欠乏についても感じたし。科学精神が陶冶されていなくて医者がどんなにつくり出されつつあるかということ、ポスターやらその他の趣味でまざまざと語られて居りました。
 細菌のところでママ微鏡の下にあらわれた細菌は、まるでタンポポのわた毛がとんだあとの短く細いしんのようなものね。手書き縦線5本こんなものね。大きさも(鏡の下での)この紫色に染め出された手書き縦線4本が、あんなに活躍するとは何と妙でしょう。人間生活、日本生活のなかにこんなにビマンしているとはどうでしょう。そして、日本には百人の病人に対して二十のベッドしかなく、ナチは 123 で 23 の余分をもって居り、アメリカは 128 か 135 か、でそれだけの余分があるのです。余分、よ。感ずるところないわけには参りませんでした。それからいろいろの標本についての説明を佐藤さんからきき、得るところあります。そして、一昨年私が熱を出したときあなたのおっしゃった注意、早期の発見と治療しか道のないこともわかりました。だって、おくれてからの手当なんて非常にまだまだ対症的ですもの、根本的でないのですものね。ああいう風に少しどうかという健康状態のとき、あとの一年というときの生活法で、どっちにもなるものであることがよくわかりました。この部では質問が多いそうです。どことなく自分に懸念のあるひとが、いろいろ素人らしいききかたできくのですって。たとえば、「どの位のを結核というのですか」とか(町のお医者は「肺尖ですよ」といいますでしょう、だからね)「どの位なおったら働いていいのでしょうか」とか、それは答えるのにむずかしいのですって。個々の極めて詳細の状況を知らなくてはならないから。
 血液検査をしたり、血液の型を調べたりしていました。私は自分の型を知らなかったので見て貰いましたらAでした。そのA、B、Oのわけかたに、性格の説明がついていたりしてね。これは一見科学的な非科学性です。座興ならいいでしょうが。人間の性格は決して血の型だけでつくされてはいないから。性格学の非科学性と同じね、形式分類科学ね。あなたは何型でしょう、御存じ? 同じ型? 私の血をあげることが出来るのでしょうか。寿江もA、国男はOですって。父はBであったそうです。OはAにもBにもつかえるのね。
 私がかえってから多賀ちゃんも見にゆき、いろいろ生理の具体的なものをよく見て来て、やはり大分ためになったようです。仕事の手つだいしてくれる娘さんと一緒に行ったの。胎児の成長の過程やそのほか、やはり随分有益のようでした。よかったこと。女の生活のそういう面を知らなすぎますから。よかったと思いました。
 脳の重さもお話のたねで、世界のこれまでの統計で第一位はクロムウェルよ。一六〇〇ママは日本では桂太郎一人です。一五〇〇以下では日本人があらわれ、三宅恒方なんか多い方。そういう平均率のレベルの相異と体格、体質を考え合わせると、やはり興味を感じました。女では三宅やす子一人、一五〇〇ママ
 私は自分の生活を、とことんまで文化の役に立てる希望です。だから解剖もして貰うし、脳の重さも計って貰うし、骸骨だってあげていいわ。あなたは? そんなのいや? いつか帝大の参考室を見に行ったら、或る医学者夫妻の骨格が保存されてありました。大変可愛かったわ。どっしりとした御主人の骨格によりそって、やさしい小さい女の骨格がきれいに並んで立っていて。私の骨組みは、あんなに繊細でなくてきっと四角っぽいでしょう。でもそこにやっぱり面白いところがあります。マアこれは、茶話ね。
 さて、九日のお手紙について。
 電報頂き、わかりました。明日いろいろ伺いましょう。
 誤植について。自分の本に訂正しておいて、いつか直して貰いましょう。よく見つけ出して頂いてありがとう。
 キュリーのこと。私はこの点をくりかえしくりかえし、あちらこちらから考えて、理解のポイントの不確さの、あらわれの具体面というようなものを沁々と理解します。そういうことは何と二重の、間接の、しかも明瞭なあらわれかたをするでしょう。
 私はこの前の前の手紙であったかに、「かきかたがむずかしいので」云々と云っていたでしょう?「表現のしかたではなく」とあなたはくりかえしくりかえしおっしゃる。かきかたがむずかしいと思ってつい、というそのことにとりも直さず把握の不たしかさが示されているというのは、実に生々としているわね。大変はっきりわかったわ。
 私の頭のどこかに女らしい軽率さがあるのね。こういうことについて大変感じます。勿論、それは不十分な現実の理解に原因していると云えるけれど、たとえば、あのときの気持(書いているとき、シェクスピアのところなんか)そのこと、思っているのよ。気にかけているの。それでそこを突こまないでしまうようなところ。大きい欠点であると思います。こういう点は悲しいと思います。私のものわかりの早いところの裏にくっついている一つの弱点です。大いに気をつけます。私はもっともっとねっちりとしなくては駄目ね。もっともっと野暮ママたい精神をもたなくてはなりません。もっと追求の精神を。
 世界史との連関でということは私たちの生活の感情となっているわけです。文学史なんかそうでなくてはものの云われる意味、日本文学として云われる意味を失います。年代の区切りかた。ここに云われている意味は正しいと思います。ここにも何だかいくつかの面白い話題がふくまれて居りますね。世界文学が世紀に区切って、横たての連関で各国の文学を綜合的に語る姿を考えると、そこには湧くような旺な文化の命を感じます。そのようなよろこばしいひろやかさで文学史のかかれるのは。「広場」という小説のなかで、劇場のなかの歌声に答えるようにママ子の胸に「ああわれら、いつの日にかその歌をうたわん」というくりかえしが湧きあがるところがあります。
 そういう抒情性は文字の上から消されます。面白いでしょう? 今日の表情が、平板であらざるを得ないではないの、ねえ。小さい鏡は小さい鏡ぐるみ、より大きい鏡にうつして、その中で小ささを示すしかないような工合ね。
 ね、私は熱烈に考えているのよ、日本の文学の正統の歴史的発展は、この現実の世界史的な把握や描き出ししかない、と。そのような発展を、日本が自身窒息させるということは、大きい損失であることを学ばなければならないのですが。自分たちが日本を代表していると思っているような人々は、時を得たる人間の喜劇とシャブロンに陥っているから。ああ、何と私はもっと早く心の成長をしたいでしょう。ちょいとうっかりすると軽率になったりするところのない、そんな心配のない心になりたいでしょうねえ。
 野蛮への楯としてのヒューマニズムの話。ここも又、よ。自分ではそれが質的一般性に立って云われるべきものでないのは知っているつもりなのです。一般から云おうというつもりはないのです。その時代に、そのような楯ももち出されるプラスとマイナスの面を明らかにしたかったの。マイナスの歴史の断面から発生したプラスとでもいうような本質であるから。たとえば作品の現実では各人の各様の持味の肯定になって、石坂だの岡本だのという怪花をひらいたのだ、と。さもなければ、舟橋のように人情に堕した、と。あの部分は、これから後五年ぐらいとまとめて本にするとき、書き直されるべきですね。
 こんどこの本がまとまったことと、「朝の風」をかいたことは私にとって実に意義あることでした。本のまとまった意義は、こんな手紙もいただけるモメントとなったという意味で。「朝の風」は、私の感情の切ない底をついているという意味で。
 いろいろのこまかい、しかも実質的なこと、少なからず得て居ります。この二つの仕事から、自分として自分を分析する新しいモメントをとらえたような気もいたします。私の小説と評論とはきわめて興味ある関係なのですもの。評論でそのような仕事もしてゆく、その心の根の思いというようなところを「広場」にしろ「おもかげ」にしろかいていて、「朝の風」は叫んでいる口は見えるが声は消されたような姿をも示していて。その意味で「朝の風」は底をついたのよ。一つの大きい心理的な飛躍が準備されたと感じます。短篇集をまとめてよんだら、そのことを自分に一層はっきり知ることが出来ると思います。たとえば、これまでの作品では題材とテーマが、いつも二つのものをふくんでいるの。「広場」系のもの、それから「乳房」「三月の第四日曜」その他。主観的素材、客観的素材。それがちゃんぽんにあらわれました。「海流」がもし完成されたら、そこの中で、評論で私が統一しているような統一された自他があらわされ、身につけられたのでしょうが、それが中絶したために、そういう時代の気流のために、一方は「朝の風」で底をついたわけです。この関係は本当に微妙よ。こんなかきかたでわかって頂けるかしら。短篇集には、はっきり私の苦しみが映っていると信じます。の苦しみが映っていて、そのの苦しみが時代のものであるということがどの位語られているか。個性の道があらわれていると思うの。
 この次の長いものでは、それを統一してゆくことが会得されたようです。それは一つのよろこびよ。そして、ここまでに示されている永い期間の困難というものは、私の過去の文学の伝統だの、性格だのが原因となっていると思います。私は私小説から発生して居りますからね。人道主義的なものであっても私 からはじまって居ります。よしや多くの展開の可能をふくんでいるとしても、私 からはじまったということは文学の歴史において何ごとかであるのです。それが拡大され、拡大されてゆく過程で、ある永い期間、やっぱり自分を追求してゆきぬかなくては、本質の飛躍の出来ないところ、ひどいものねえ。
 私がもしいくらかましな芸術家であったとしたら、それはつまり、あれをかいてみ、これをかいてみ、という風に血路を求めずやっぱり自分を追いつめて、やっとのりこす底まで辿りついたところにあるでしょう。十年がかりでそこまで自分をひっぱったところにあるというのでしょう。私小説が真の質的発展をとげてゆく道というものは、こんなにも困難な、永い時間を要することです。異った質としてはじめからあらわれる次の正統な文学世代は、この永い苦しい時期を知らず、真に新しいものとしてあらわれる筈なのですが、それは現れず、一層小市民的な方向での細分された才能があらわれているということは、考えさせられます。
(おや、きょうはおみこしが出ているわ、ワッショワッショイ、ワッショワッショとやっている声がして来ました。)
 私の精神・感情には、心理学の所謂つよいつよいコンプレックスがあるわけです。それをすべて文学の仕事のためにプラスとしてママ開してゆくということが、つまり私の全生涯の仕事ね。その集合観念を、自分にとって圧迫的なものとせず、且つ知らず知らずそれに圧迫されず、それをよい、モティーヴとして活かしぬくということです。この前の手紙、私は心の病気めいたものをもっていると申しましたろう? あれもこのコンプレックスの一つね。もっともっと私は達人になって自分のコンプレックスを解放する力をもたなければならないのです。そして、それがこれからの小説の方向です。図書館、本当に可笑しかったこと。全部で三冊よ、私の送ったのは。上野、大橋、日比谷。明日は芥川の「河童」について伺います、どこに書かれているのか。

 十一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十三日  第七十八信
 お手紙(十一日づけ)ありがとう。きょうのお手紙は本当にいい手紙です。何だか酸素のたっぷりした空気、オゾンのゆたかな空気が鼻腔から快く流れ入るような感銘です。これはほんとにいい手紙です。
 そして、それにつけ、これと逆な感じを受ける気持や場所やを考えると、妙な気がします。文壇的知識人というものが、歴史的な知識人としての皮膚の新陳代謝をおくらしてゆく過程が――そして其はやはり現実の、或は目の前の身すぎ世すぎからの敗北として、同時に自分自身の旧いもちものへの敗北として――こんなに明瞭に示され感じられるというのは。
 ほんとにこれはいい手紙です。
 新しい文学が潮流としての存在をなくしたことについての考えかた、そのもののつづきとして「形式と内容」がとりあげられているところがあります。過去の業績の正しい評価を示さず、かかれているということは、云われているとおりですね。
 そして、筆者は、この「形式と内容」が、作品の内部関係でより展開されていないままになっているところから、次第に二つが分裂して其々の云いのがれ的文学傾向となってゆくことに対してあれをかいたのでしょう。「人間にかえれ」が、生産文学・農民文学などのバッコに対してかかれたように。「対象としての文学現象が論理的分析はされても歴史的分析、対象の基礎の分析が不十分なこと」これはまことに真髄にふれた言葉です。一人のひとについてだけのことでは決して決してないと思います。
 そして、更に思えるのは、論理的分析は論理の方法を知っていれば出来ることでありますが、歴史的分析はもっとその人の身についた歴史的なもの、歴史的生活力の底からしかほとばしらないということ。従って、論理的分析は頭脳的に作業され得ることになり、実生活との分離のままに行われるところがあり、そのものとして一種の形式論理になってもゆくということ。これらは、あの論文の筆者が、評論だけをかいていると人間がよくならない、小説をかかないと云々と云ったとき、私は、変で、それはそういう人もあるだろうと答えた、その機微にもふれています。私は永い間そのことが念頭からはなれず、何故と云えば、私は自分が評論のようなものをかいて、人間がよくならないと思えないし、そんな妙なことがあり得るかと思っていたので、しかし、こういう二つのもの、論理的分析と歴史的分析の関係が、はっきりつかめなかったのでした。
 私の疑問であった多くのことが、この二つのことでに落ちました。これは種々の点からあなたが思ってもいらっしゃらないようなキイポイントとなって、私に周囲の事態を理解させます。
 私には、自分でその二つの関係がつかめなかったように所謂論理的でないところがありますから。自分たちの生活の実感から私には歴史への感覚がめざまされているので、その自然発生のつよさは、感情の内部で一つのコンプレックスとなっているほど(前の手紙にかいたように、ね)でしょう? 時代を経てゆく一人一人の姿は何と複雑でしょう。
 そしてね、あなたはお笑いになるでしょう。あの本の筆者に対して、多くの人は魅力がない、肉体がないというのよ。そう評するものはと云えば、論理的推論にさえ堪えない存在であるにかかわらず。何と悲しい喜劇でしょう。
 その人に即して云えば、論理的な合理に立とうとせずにいられないだけ前進性をもっていて、その半面に真の歴史的分析は自身の生活に対してさえし得ないものをもっている。今日、ゴに熱中して徹夜していられるところがある。そういうところへの悲しさが、私の場合では又コンプレックスのかたまりを大きくしてゆくというようなわけね。(時代のありさまとの関係として)
 いろいろと実にうれしい。わかって。自分は何と自然発生でしょう。この手紙一つをしみじみと眺め、私は自分の内がモヤモヤしていて、力が弱いのをびっくりするようです。いろんなとき、どうも其は変だ、という感じをなかなかリアリスティックな根拠で分析したり構成したり出来ない。
 勉強というもののされかたをも考えます。私の場合は、自然発生のものの整理、それの混迷からの救い出し、生活的成長のため、コンプレックスを、歴史性のなかで解いてゆくために不可欠であり、他の人にとっては、論理の展開の筋を見つけ出すために読まれずに、自分の生活へ切り込む刃としてよまれる必要もあるでしょうし。
 きょうのお手紙のなかにあることは、この数回からの私の理解に瞳を入れられたところがあります。私はね、たとえば「論理的なものはとりも直さず正統な歴史的見かたしかあり得ない」という単純な確信に立っていたから、逆に、歴史性に或る程度立って云っていられることの内にある論理的なものと歴史的なものとの分裂の誤りを見つけ出されなくて、ひっかかるのです。歴史性の小さい入口から、誘いこまれて全体を肯定したりしてしまう。よくわかるでしょう? 自分のうちのモヤモヤというのはそこから発生するのです。
 本当にありがとう、ね。段々たのしくなって来ます。勉強してゆく愉快な思い、新鮮なよろこびが湧き立てられます。
 前の手紙でかいていた歴史的背景、歴史的な根拠をもつ心理的コンプレックスの、文学としての見かたもゆたかにされます。たとえば中野のスタイルと自分の制作態度とのちがい。それとの関係で云える伊藤整たちの登場人物(余計者の自覚によりつよく立ったあげくの積極性と平野の云っているところのもの)との関係など。
 友情についての話。あの中で、私は友情一般が云えないこと、仕事のなかで人生への共通態度は最もはっきり現れるのだから、その態度如何で、友達になり得る人なり得ない人との区別が生じること(つまり私的生活の中での友人になり得ない人でも公的場面でつき合ってゆく事務上の接触をもつことはあり得るのですから)、そして、一般の若い女のひとたちは、共通な人生への態度を感じると、そこにすぐ恋愛的なものを描き出してその曖昧なところをたのしむような傾向をもっているから、それに対して、私は特に友情と恋愛の感情が、女として区別されて自覚されなければ不健全だと強調しているわけだったのですが。その点不明瞭ですか? あれをよんだ女のひとの何人かは、異性の間の友情が、ああいうものであってはつまらない、と云ったそうです。その位、女の社会感情は狭いのね。公人としての同僚感と、その同僚のうちから友情が見出されるということは直接同じだとはしていないつもりですが。同じでないからあの文章の中で、同じつとめに働いている同性や異性の間で、同僚として顔をつき合わしていても、ちがった利害の対立におかれる仲間の方が多い、その中で、共通な生活態度が見出されたとき、それは友情となるが、それがすぐ恋愛的なものと混同されて、友情そのものとして成長しにくい場合が多いということを主張しているわけなのですが。きっと整理が不足しているのでしょうね。もしそういう印象を与えるとすれば。同僚感というものを、生活態度の共感という範囲に限ってだけ云われなくても、それは自然でしょう? もしそう云われれば、その同僚感において友人として必要な人、そうでない人という区別も生じないわけですから。同僚感というものは友情より広汎な、内容の錯交したものでしょう。
 しかし、これについて書かれているいろいろと複雑な心持、ヒントは非常によく感じられました。その点で、この文章をとりあげて云っていらっしゃるいろんなことも実生活的によくわかったと思います。すでに現実にいくつかの経験がありますもの、ね。そして、たとえば、前の方でそれについてかいている評論の筆者とのことについて考えてみても、友情そのものがやはりひろいというかいろいろまじっているし。でも又ふっと考えて、たとえば、同僚感という文字があの文章の中に一つもつかわれていなかったということについて考えます。そのことで、このお手紙に云われている点は(感覚というものの根源の微妙さとして)あたっていますね。それも面白いと思います。なかなかギロリはつよい光度をもっていて愉快ね。
 新しい読書は、大変活々とした感情でよまれます。もとよんだときとは又ちがいます。〓期としての生々しさがちがうから。五五一頁ある本です、よんでいるのは。
 文学について、国民文学ということも、私の考えている或は感じていることの健康さが一層明かに感じられるのですが。
 毎日の早さどうでしょう。
 きのうは、『漁村』という全国漁業組合の雑誌に婦人のための文章をかいて、漁村の婦人の生活にふれたものをかいてみるために、いろいろしらべて、年かん類勉強したら、日本は四面海もてかこまれし国なのに、漁村生活の調査が不十分にしかされていないのには何だかびっくりしました。すこしは、それについて知りたいと思いました。生活力がないのではないのですもの、富山のかみさんたちの例を見たって。海と女とのいきさつは、海女に集約されていますが(これまでは)、随分いろいろの問題があると思います。農村の女の辛苦とは又ちがったその日ぐらしの不安が時間的に農村の女より女にひまがあっても成長させないモメントとなっていると思いました。漁村の女について私たちは知らないことにおどろきました。
 島田からのお手紙で、母さんが御出勤ですって。いいわね。午後二時間ほど友ちゃんと交代ですって。なかなかいいわね。お母さんのために大変ようございます。では明後日に。

 十一月二十二日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十三日  第七十九信
 今、よんでいて大変面白く思ったこと。イタリーの歴史ですが、一四年において、そこは仕合わせな例外としての一つの力を保っていたものが、その力を失って行った過程というもの。この二十五年間の世界史というものは実にウェルズなどのよくかくところではないということを痛感いたしますね。
「ロマン・ロランの会見記」が(山本実彦)出ています、『文芸』に。ロマン・ロランがもし本当にそれらの言葉を云ったのであったら、やっぱり歴史の進みというものは、ある巨大な価値をもったものの、命数をもつきさせる時期をもつものであるということを感じなければならないと思います。彼等夫妻がある都会のホテルに滞在していたとき毎日細君に花束を届けてよこした一人の人間を、そのことからいい人間、チストカが意外ないい人間という風に判断するとすれば、それは最も凡俗な女流作家或は文学少女の人物評価の基準でなければなりません。現代という時期があらゆるものの評価のよりどころを狂わせていることはどれ程の激しさでしょう。第一次の大戦より確にその点もすすんで居りますね。それはそうだわね。だってあの頃ヒヨヒヨしていたムッソリーニが今日は三巨頭の一人なのですものね。だから二十五年は面白いと思います。
 ハハアとあなたはニヤリとなさいますでしょう、「ユリはわかるものを読めば喋り出さずにはいられないのだナ」と。そして、これをかいているのは二十二日なのよ。一週間も経ちました。その間にいろんなことがあって。
 二十日までに『文芸』の方をすっかりまとめてしまおうとして熱中しているところへ、女の作家が文芸中央会というのに参加するためにどうこうと長谷川のおばあさんや間宮君にうごかされて度々来て、私はそういうことには現在自分として進まないので消極ですが、はたでドシドシつくって行ったり、そのために外出もしたり。おまけに、物干の木がくさっていて、布団をとりこもうとしてふみぬいて、片脚をおっことしてすっかり紫色にしたり。
 お手紙十四、十五、十六、十九日、こんなにたまりました。何と珍しいでしょう。
 順ぐりに御返事申します。
 文学史のヒューマニズムについて、大変こまかくありがとう。ここについて云われている点は、全く正当です。そしてね、私にしろ、それを考えていないのではないわけなのです。抽象された人間性などというものはないことを。文学に人間の息を求めるという表現は、生産文学、農民文学などに対し、低俗な文学の手段化の傾向に対し、作家が内面テーマにかかわりなくお話をかいてゆく傾向に対し、生きている人間、生きている現実において人間をかくという要求の中へ、かくものの心持としては非常にいろんなものをこめて云っているわけです。
 現代文学に二つの流れのあるということについて。比重はどうあろうとも、ということについて。くりかえしよみ、くりかえし様々の感動にうたれます。今日このことを自身に即してどれだけの人が感じているでしょう。文学の正当な成長の問題として。比重はどうであろうとも、ということは、二つの流れとして見られず、何だか一人の人たちの内に、そういう見かたがさけられず求められるようでさえあります。いつか書きましたっけか、『はたらく一家』の著者が広津和郎の序文を貰って、その中に、その作家の歴史に対して臆病なのも庶民性の一つであると書いてくれた序文のせて、その作品集を出したということ。現代文学史というものは、こういう悲しい喜劇を示します。そして、そのような歴史上の大きい現象をちゃんと文芸批評の上でとりあげにくいということ、「分身」についていつか私の疑問かきましたでしょう? あれもそうだわ。十五日のお手紙に、成長するために知性のめぐり合う風波の図景は、と思いやりについて云われているところ。ほんとうにそうです。
 しかし、そうであればあるだけ、私たちはちゃんと文学を把握しなければならないと思います。厳密に考えてみると、少なからぬ人たちが、不便な事情というもののために舌足らずにならざるを得ないということを自分に許すことから、(云いかたがまわりくどからざるを得ないでいるうちに、)いつしか、先ず根本的に健全に現実を把握して行こう、或は行くということを忘れ、その感覚を鈍くされ、つまり風化されてゆくというのは、何と恐るべきことでしょう。
 このことは本当に微妙で、そしてあぶなっかしいことです。例えば、現在の奇妙な文学論――政治の優位性、というのだそうです。――に対して、芸術至上主義さえ単純に否定は出来ないと、『現代文学論』の著者などしきりに云っている。それはそうです。しかし、芸術至上主義をそれなり肯定すれば、おちゆく先は、経来ったところを見て明らかなのですから、やはり「人間性一般」的あぶないところに落ちこみます。
 ね、私は箇性の持味で文学を解決してゆこうとはしていないのよ。そのためにバタバタよ。ですから、十四日のお手紙にある、完成や典型についてのこと、実に面白い。ヒューマニストに還元することに対する抵抗の示されている、あの十四年間の見かたの土台は肯定されていてうれしいと思いました。そしてあれは「現代文学の十四年間」とされる方がたしかにようございますね。高山の本には入れられません。むこうの本やが閉口というので。出たばかりで。あれをね、中心にして、一九三五年ごろの作品評や、これから又先の評などと合わせ、やがて一つのちゃんとした本にまとめましょう。そのときは、やはり「現代文学の十七年間」なりとすればいいわけです。これもなかなかいい題です。そういう目標で、たとえば、これからの『都』の「月評」もあれのつながりにおいて考えてかこうと思って居ります。
 いろいろ学んだところについて考えつつ。
 私小説か否かのよりどころのこと、そうだと思います。そして、自分が私小説をかいている(ここに云われている本質で)ということを云っていたのでもなかったの。
 三七年の暮にかいてあったものは、「十四年間」のなかにその本質のところをより詳細にして入れたわけでした。あのときの面白さは、ヒューマニズムの問題です。文化の擁護のための世界の動きと、こちらでの変形についてどっさり書いていました。しかし、それは竹村のに入れられないのではないでしょうか。そこいら実にデリケートです。作家論とちがうところがあって。逆に作家論の面白さ、考えられますね。作家論から追究するの面白いかもしれませんね。
 婦人だけに限定しない心持で、婦人のためのものをかくべきということは、こういうことから見ても真理だということがわかります。河上徹太郎は『婦公』だの『新女苑』だのに、文芸についての特に女のものをよくかきます。そこでは、読者を意識して文芸評論として正面から扱うと一寸厄介だが、というようなものを扱っていて、そのためにその安易につくところが作用して、しゃんとしたものの筈のところに、一種の婦人向式のところがあらわれるということ。
 女は決して甘やかされてはいけないし、婦人作家たちを見たってとことんのところではひどく扱われていると思います。例えば昨年婦人作家擡頭云々と云ったって、とどのつまり男のひとたちは、婦人作家の低さと一口に云って、婦人作家の中にも彼等より立ちまさったもののいる事実を抹殺して了うのです。婦人作家だけが、さながら低い別世界にでもいるように。
 女の悲劇は、婦人作家論の中でくりかえしくりかえし見られたことですが、常に自然発生のノラ的なものと、それを発展させず、つまりは日本の女らしさに身を屈してゆく、その間の矛盾の姿、何といつの時期にも其々の形としてあらわれていることでしょう。
 十九日のお手紙。二冊の本のこと承知いたしました。送ります。島田のお母さんのおつとめのこと。冬はお出にならないつもりだそうです。どんな風にくり合わせなさいますかしら。背戸の家の大きい柿をいりこと送って下さいました。この間の羽織のお礼ね。美味しい柿。あなたは森本というその家を御存じかしら。ハワイからかえった人が今の主人で、薄肉色のソフトなんかかぶって、麦かりをしているお爺さんです。その娘さんやっぱりハワイ生れ、ハワイ育ち、とこやさんです。ところが、一二年前すこし気が妙になって、今はしかしいい婿さんもって落付いているそうですけれど。そこの柿よ。五銭ぐらいのよし。東京では二十五銭ぐらい。
 この間からずっとくりかえし連続しているお手紙、実に実にいろいろよくて、私の餌じきのようよ。しかも、そこには数行のやさしい詩の響も交って。私はやっぱり折々大変詩をよみたいと思います。
 ああ、はじめの方にかいた女の作家たちの動きについて、あれでは何が何だか分りませんから、もすこし補足すると、文芸家協会が中心になって、十二三の文学団体をあつめ、各※(二の字点、1-2-22)二名ずつ委員を出して文芸中央会というものをこしらえました。私は文芸家協会員、評論家協会に入っているから別にどうということはないと考えていたら、そこへ一つの婦人団体の代表として入っていた長谷川時雨(もとの『女人芸術』、今の輝ク会として)に対し、もっと他に代表を出してくれと云ったらしく、(その理由としては、彼女が余り文学的でないので、)そう云われると、自分がものをかくものとしてオミットになることをおそれたらしい様子で、円地文子その他を動して日本女流文学者会というのをつくり(今活動しているようないろんな文筆家みんな入れ、山川菊栄から小寺菊まで)その会のとき、皆投票して、円地文子と吉屋信子とを新しい代表にして、やはり幹事には自分が止っているという方策をあみ出したわけです。
 私の知らなかったうちに稲ちゃんも文子さんから相談され、別段バタバタするに及ばないということになっていたら、急に別な部分を動してそういうものにしたわけです。そこは立て前として、文学に対する非文学性を否定することや婦人や子供のことに対する真に文化的な助言をし批評をするところということになったそうです。(発企人会へは出ませんでした)
 吉屋、山川というような人たちが熱心というの面白いでしょう? 私たちは、自分たちも婦人作家ということでおだやかにそこに連って居り、その点では今日文芸家協会員であり評論家協会員であるということと全く同じの意味です。きょう世話をやきたい人が活動すればするのでしょうけれど。もし万一私が何か勘ちがえをして動きまわったりしているのではないかとお思いになるといけないと思って、あらましの事情を申しあげます。
〔欄外に〕今、河出の本もって来ました。三雲という人の装幀。原画見せてよこした次の日行ったら、もう本になっているの(!)
 いろいろとこの頃面白いらしい様子です。日本文学者会という妙なものが出来て、世間的に目に立つ仕事して、存在意義を示さなければいけないというわけで、同人雑誌諸君をよんで大同団結を協議するというとき、武麟がボスを発揮して、ある同人雑誌代表は、退場したりした由。今まで、文壇的イリュージョンの輪にかこまれて出現していたいろんなあくのつよい人々を、若い人達は目前に見て、作家の魂という仮想なしに御仁体ごじんていに直面してゆくことは、文学の経験として大変いいわね。どしどし幻滅しなければいけません。そして、健全なひろい息をつくことを知らなければ。
 そして、ここは一種の保守的ギルドめいていて、女の作家は一人も入れないのよ、それも何と面白いでしょう。男の作家でも入れないのよ、丹羽文雄を入れないし、中野もいれないの、そういう調子。それから又『文芸』で評論の選者に私を入れようかと云ったら小林秀雄は鶴さんを推した由。それはそれでいいと思いますし、私はことわりますでしょう。よしんば小林秀雄がよかろうと云っても。小説の選者にと云ったら青季不承知の由。これも面白いでしょう? 宇野は賛成の由。いろいろね。そういう場面へ評論の仕事で加りたいと思わないから。しかし、それとは別に、やっぱり面白いものがあります。余り長くなるからこれだけにしておいて、表。
 十一月一日から二十一日迄。甲三、乙十七、いきなり丁一。これは偶然なの。いろいろ考えていて眠れなかった結果です。起床七時です。読書、私は本を別のになってしまったけれど一一五頁。これは十一日からの行事として。もう一つの方さがします。
 きょう寒いので、どてら、おそくなって気にして居ります。かぜお大切に。本当にもって行けばよかったこと、御免なさい。

 十一月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月二十四日  第八十信
 雨のわりにおだやかで助ります。でも、そちら冷えましょうね。ポンポコおくらして本当に気になること。
 この頃郵便小包のシステムがかわりましてね、市内小包六銭というまことに親愛なものがお廃しになったのよ。そして地方並に目方なの。すると、これまで六銭で行ったものが少くとも五倍、本などだと十倍近いのよ。なかなかうまく儲け法を見つけたものだと感服します。だもんだから、そちらへも、きっとこれ迄送っていた人が持って行くでしょうし、もって行くと、あの苦手の御老人益※(二の字点、1-2-22)疳がつのり、私は益※(二の字点、1-2-22)小包一点張りということになります。この有機的関係は、なかなか微妙で、心理的で、六銭が十倍になっても猶その方をとるという程度です。
 きょうは、きのう頂いた二十一日づけのお手紙を、すぐ返事申上げます。内容充実のがたまると本当につまらないし、あなただって何だかおいやでしょう?
 一つ一つ返事なければ、何となしひとりで大変永く話したように疲れた感じね。
 ああ、それからね、本の紙も規準で一定になったし、封筒も十三銭ときまりました。そうきまることはよろしいとして、なかなかひどいものになりました。私は、封筒だの手紙かく紙だのは買いためしてよい権利もっていると思いますが、いかが? こんな紙ももうそろそろ切れます、市中にはとうに切れているのよ。
 紙がきたなくなったとき、どんな本が出ているか、ということで、その国の文化のみならず真の国力がはかれる、ということをこの間かきました。それを痛感して居ります。
 出現しない本のこと。手許にあります。出現させましょう。十五日づけの手紙については申上げたとおり。珍しいこともあるものね。どうしたわけでしょう。ネズミがその中で子供生んだのかしら。これからもずっと気をつけていましょう。
 仕事のこと、『文芸』のかき直しに当面御熱中です。時評二十枚かいたら又それをつづけて、年表も殆ど出来上りましたから、それをまとめてわたします。
 表はさち子さんのこしらえていたの余り尨大にしてしまい、しかしあった方がいいので別の人に簡単なのをつくってもらっていて、それを本にはつけ、さち子さんの方はどこかから、何とかした形で単独に年表として出せるよう考え中です。その方が当人は満足でしょうから。本の方へはサク引もつけます。ちょっとしたのでも年表ついた方がいいね、とおっしゃったでしょう? それでとりかかったのでした。やっぱり、やってようございました。
「文学の進路」はこれは傑作の部に属す題です。何とはっきりしていて、幅があって、動いているでしょう。いいわねえ。私はこれは今つかいません。こんないい題! これはね、「現代文学の十四年」に追加してもうすこし先へ行って一冊の本にするときこそ、それにつけましょう。それこそ実にふさわしいでしょう。竹村のに「文化の希望」をわり当てておきます。一つ一つがどれもつかえるということはうれしいと思います。二重三重にうれしいと思います。
『朝の風』出来ました。お送りします。装幀は前の手紙にかいたような河出のやりかたで作者にぴったりして居りませんが、河出からどっさり出している短篇集の一つとしてはましだそうです。そして又一般から云って手にとる気になるそうです。「近代日本の婦人作家」の装幀は、こっちから画家をきめてたのむつもりですが、誰がいいかしら。結局、中川一政かしら。あのひとの抒情的ディフォーメイションが余り気に入っていないところもあるけれど、それでも、今の人としたらましの分ですから。
 文学史クロニクル風にかかれているが、という部分。ここは今日非常にいりくんだ手法の必要となっている点で、私は決してクロニクル風に平面に見ていないのよ。流れの本質のくさり(腐敗)を抉り出すことで、それへの文学的対蹠の本質を感じさせようとしているし、その点でむしろ一つの流れの中から云いすぎている、自分の流れを客観的に描き出していないという欠点が生じていると思います。いろいろ弱点がありますが、あれは只クロニクルではないわ。あの調子は只のクロニクルにあるものではないわ。それにね、前の手紙でかいたように、文学上の流れが今日は一人のひとのうちに二筋に流れているようなところや、文芸批評を許さずというドイツのまねの気風があることや、いろいろ実に大した有様です。
 流れるままにそれに添うて文学現象を並べてゆくことは文学史ではないと考えているのです。だからいろいろここに云われていること、大変有益だし、この次の仕事で高めたいと思います。
 そして、再びここで今日つけられる題の感覚ということについて、意味ふかく考えます。つけられる題で、最も健全なものをあみ出してゆく骨折りということの具体性を。
 自分のうちに二つの流れを流しつつ、それが相剋する本質であるということについて感覚が麻痺まひしているようなもののありように対して。文学史の上における文学的堅持というものと、その表現というものの間に生じる差の大さの間におっこちてしまうのね。そのおっこちまいとする方法に二つあって、一つは、文学史的足場の方を移動カメラ式にずらしてずらしてやって来て、表現の可能のそば迄もって来て、本来のカメラのありどころはあすこだったし、であるべきだが、という形。もう一つは、カメラなんかもう自分から蹴ころかしている組。
 歴史は与えられた条件でつくるという言葉のうちにあるものの人間らしい希望。骨折り。そうよ、本当にそうだわ。もしそうでないのなら、私たちの生活術にしろ、どうして成り立つでしょう。
 文芸復興の声の部分は、自分では、一方が様々の問題に面していたからとだけ感じているのではなかったけれど。そういう時期に、ここに云われているような吸引作用がおこったこと、しかも武リンや林がそういう流れをつくったところをかいていたと思いますが、そうでなかった?
 科学的批評は以下、思わず笑えました。実にそうなのですもの。そして、終りまでに語られていることの実現には方法の上での様々な周密な考慮がいって、例えば、毎月毎月短い評論をどっさりかいてゆくというようなものの書きかたをしてゆくことと、どうもいつしかひっぱられて流れにつれて走っていることになりそうです。今日、舞台の正面にいるものほど奇妙な文学踊りをおどらねばならないのだから。
 私は幸、益※(二の字点、1-2-22)お正月号のしめ飾りではない存在だから今月は、これまでのものに手を入れたりする暇もあり、そういう暇をもつ意義を十分にあらしめたい心持です。
 私として「十四年間」をかいたのは大変よかったと思います。常にあれを中心として、そこにある弱点についても忘れず、そのつづきとして、文学現象を永い見とおしでとらえてゆこうとする感覚におかれるから。多くて正確でいい仕事、もとよりそれはのぞましいけれど、ある時期には少くていい仕事もいいと思います。結果はどっちにしろ、つまりはいつも精一杯。そこね。
 それでも徹夜廃止を実行するようになってから、まる二年と数ヵ月ですけれども、私は丈夫になったと思います。特に盲腸をとってしまってからは。愈※(二の字点、1-2-22)重心をひくくして、勉強いたします。美しき精神の圭角を輝かしましょう。それなくて何の芸術でしょう。それからね、私は一つ笑われるような希望をもって居ります。それは、来年長篇をかき終ったら三四ヵ月それにかかりっきる大勇猛心をおこして、この間もうすこしのところで息を切らしてしまったもの、はじめっから読了してしまいたいということです。凄いでしょう? 何かそんないきごみもいいと思うのよ。せめてすこし本が出た折に。もし事情が許すならば。うんと倹約して、書くものはへらして。(勿論今のままにしたって、現に、正月号はしめ飾りだけでやっている、という実際ですから、自然それだけひまになるかもしれないが)ウンス、ウンスという勉強ぶり、楽しいでしょう? ものには、思い切ってやってよかったということがあるもので、何にでもそれはあるのだから。みんなは、文学文学と叫びながら文学からはなれて走る。私は書生になるの、益※(二の字点、1-2-22)書生になるのよ。『改造』に有馬と佐々木惣一との対談あり、白髪の佐々木先生、「私は書生で、どうも」と。しかしわかること云っていて面白いと思いました。宇野浩二と青野の選評を見ても面白く、青野は鑑賞に沈湎し、宇野は文学の中から却って評論的であります。「きみは理屈っぽい」と青野先生が宇野に云っている。面白いでしょう? 文学常識であるべきことを宇野は云っているにすぎないのです。
 先日来の細かいお手紙に、心からお礼申します。他人行儀のようで可笑しいけれど、でも、あすこにある声は深くひろく響くもので、文学の仕事に対する評言の髄にふれていて、私としてやっぱり心からのお礼を云いたい心持です。本当にありがとう。「朝の風」、懐古調では決してありません。

 十一月二十七日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月二十六日  第九十一信
 きょうはそちらからいそいでかえると、すこし汗ばみました。大変あったかァい日だったの?
 この頃ぱたついていて、頂いた手紙へ返事かいてばかりいて、余り気にくわないから、きょうはすこし時間のゆとりつけて、こちらからかきとうございます。
 下で実業之日本の増刷のハンコ押しています。
 きょうかえりにひどく気がついたのですが、今銀杏いちょうや紅葉が、上り屋敷のあたりでもなかなか奇麗な色です。目白の通りずーっと銀杏でしょう。あれがすっかり黄金色よ。二年ばかり前、銀杏が緑を新しく芽立たせて、雨あがりの街の色が実に美しかったときビリアードの横の方へ散歩に出て、土管おき場のわきの大きいからたちの樹の白い花を見た話、覚えていらっしゃって? あんなからたちどうしたでしょう、又いつか行って見たいと思います。この間うちずっと家にばかりいて、何かきょう沁々色づいた葉の色が目にしみました。そしてね、きっと、いろんな街の色彩が全くへってしまったから、こんなに垣根越しの秋の色どりが目に美しいのだろうと、今年の秋を感じました。多賀ちゃんがかえるとうち二人でしょう、するとお砂糖でも何でも大打撃なのよ。三人と二人とでは大ちがいですから。きょうの『都』の夕刊は、学生は震えているという記事が出て居ます、炭のこと。三十四五室もっていても一俵しかないというわけ。それにお砂糖も1/3に配給減になった由。寒いからあつい紅茶一杯ともいかない由。土、日、でなければ映画館へ学生入れず、乗物では腰かけるナ、頭いがぐり。そして炭もない。今都会へ出ている青年たちの暮しということを考えます。寒いから、かたまって本を読もうとしたりすれば、忽ちだし。青春の価値への確信を、彼等はそのような現実の中から自分で見出してゆかなければならないわけです。あらゆる非科学的な矇昧の間をよりわけて。大したものね。
 きょうお母さんからお手紙で、この間の速達に対し、およろこびでした。いろいろなこと、そちらから云って呉れると、若いものはよくきくからとありました。でも達ちゃん行くことにしているかどうかは余りはっきりいたしていませんでした。出発の日は見送りにゆくつもりでいるという風にかいてありました。二十三日に面会して、それからあとは、いつ出るのか秘密の由。それでうまく会えるのでしょうか。そこいらのことはよく分りません。
 友ちゃんも元気だそうです。お祭りで四五日おさとへかえって来るのですって。そしてね、冬の間、御出勤は女のひとたちはおやめですって。それはそうでもなさらなくてはね。もし万一お出かけになるのでしたらと思って速達のついでに脚の方をひやさない細かいこと書いてさしあげましたが、私が机に向っているような形では駄目なのね。ちょくちょく立って米をはかったりなさるのですって。それでは冬の間はいけません。もし又腎臓になったりなさると。おやめになるそうですからいいわね。
 二十八日には多賀ちゃん、寿江子、私で、歌舞伎を見ます。私としても随分久しぶり。みんなが歌舞伎は見て居りますから、「どうで、多賀ちゃんも歌舞伎へ行っちょってか」というわけでしょうから。多賀ちゃんがかえると、私も何だかくっついてちょいと行ってみたくなりました。それも無理ないのよ、だって私これ迄只の一度も全くの用事なしで行ったことないのですものね、いつだって、あっちでうんとこさお辞儀しなくてはならないようなときばっかり行っているのですから。十二月七八日以後から暫くが一番行けるけれど、でもまあ今度はおやめ。又いつか春でも、用事なしで行って、お母さん京都へお連れしようと思います。本願寺を御覧になりたいんですって。私は大市という古い家のすっぽんがたべたいわ。これは日本の食物のなかの王ね。お母さんきっとそれをあがると陽気におなりになるでしょう、おさけで煮るから。
 ああ、それからね、お母さんへお手紙の折、赤ちゃんをお守りなさるのに、おんぶしたりするような長時間のお守りは決してなさらないように云っておあげになるといいと思います、お体のために。子供の重さは日毎に加わって、体に案外きつくこたえるものです。
 お母さんは赤ちゃんが生れたら守りをしなくちゃならないときめて、うれしいながら、いくらか悄気しょげていらっしゃるのよ、先から。あたりの年よりが孫たちの世話で躰をつかっているのを見ていらっしゃるから。今は店はしもたや同然だから、体のえらいようなお守りの必要はないのですから。
 ああ、そう云えば羽織ね、大したお気に入りです。よかったことね。
 私は明日、明後日と時評をかき終って、それからこまごましたもの、月末から十二月初旬までかいて。それから『文芸』のをすっかりまとめて十日位までに完了にいたします。すこし先日来お疲れの気味なの。会の話ね、きょうお話した。あれはあのような調子でやって参ります。日本文学者会もボスぶりがなかなかで、この先週の集りには集ったもの三人とかの由。そうでしょう、流行作家たちですから。暮の稼ぎははずせませんでしょうから。いろいろおもしろいことね。同人雑誌の大合同というのを仕事に一枚加えて、よび集めて、タケリンいきなり国民文学をつくれ、と云ったのだそうです。そういったって判りはしない。皆色をなしてね、意見らしいものが出ると、同先生が座長に自選していて、そりゃ、君いかんよ、と意志表示をするのですって。さすがに若いものは正直だから静岡のは席をけってかえった由。文学をつくる人間のうつりかわりは案外こういうところからです。これも歴史の面白き有様。
 せっせ、せっせと掘る。どうだ上手に掘るだろう、気づいてみたら、頭の上はるか土がうずたかく、外の景色はいつしかうつりにけりというようなスピードですから。
 戸塚夫妻は蓼科高原に御逗留です。ここにも一つの笑話があるのよ。蓼科は日本で只一ヵ所海の気流に左右されない真の高原地帯なのですって。実に療養に理想的空気で、しかも坪五十銭で十ヵ年契約で土地をつかえるのですって。
 もうこういえばおわかりになるでしょう。あらホント? と、のり出した私が何を考えたか。十坪住宅のことは頭から消えて居りませんものね。私たちの想像力は旺盛に動き出して、そのような空気の中で安らかそうに体をのばしているひとの姿まで見えます。だって百坪で五十円よ、たった五十円よ、五百坪で 250 よ。
 そしたら、稲ちゃんの手紙でね、夏しか住みにくくて、その夏には四五千の都会人士がつめかけて、名流人の御別荘櫛比しっぴの由。ハアハア笑ってしまった。だって、五十銭ときいて私たちがハッとするころは、もう何年も前に人が行くだけ行ってしまっている。ハアハア笑って、又忽ち行雲流水的風懐になりました。芝のおじいさんのところのことなんかで、私はよけい注意をひかれたのでしたが。フーフーいって仕事している間に、そこまで時間と空間とのひろがった想像まで働かすのだから私もどちらかというとまめでしょう?
 林町はあの食堂が北向でさむいので、南の客間を食堂居間にして、上成績です。行っても家庭らしくなりました。日光もあって。私は、十二月に入ったらこの部屋をすこし模様更えして、茶の間のタンスを四畳半に入れます。ひとの来る部屋にそういうものをおくと不便ですし。二階はすこしゆとりをつけたいのです、ベッドを四畳半へおろして。只ここはおとなりの台所にくっついていて、すこしやかましいのが欠点だけれど。そして、ひる間一寸休むにこまるわ、いろいろ思案中です。きょうから玄関にはり紙をして、午後でなければお客おことわりにしました。藤村はいやな男ですが、「夜明け前」を七年かかって飯倉でかきましたものね。あのときは一切人に会わずで。私たちにそれは出来ないが、しかし、粘るところは、ざらにない力です。そういうところのよさは学ばなければ。蓼科へ行って秋声の伝記かくのだそうですが、『文学の思考』の序文が与える感想とそのこととをてらし合わせ、私はああはしまいという思い切です。勉強勉強と思うのよ。うちにねばって、休むこともうまくやることを学んで、勉強勉強と思います。原っぱへ行って休んで来て、それでいいと思うのよ。美しい詩集からいつも新鮮にされるよろこびを与えられながら。
 そういうようなわけですから、どうぞ私の殊勝な志をめでて詩集についての物語も折々おかき下さい。
 でも、今ふっと考えて奇妙なことと不思議に思いますけれど、あの詩集の中に冬のつめたさはつめたさとして一つもうたわれていないの、面白いことね。「濃い晩秋の夜の霧に」という題の覚えていらっしゃるでしょう? 遠い野末に見ゆる灯かげという句のある。そして、女主人公が、その野霧が次第にうっすりとする街へかえりながら、自分が不器用で、才覚なしだったものだから、のぞみのよこをただとおってしまったことについてのこりおしく思って歩いている心持をうたった詩。平凡のようだけれど、真情からうたわれている詩。あれだって、ちっとも寒さとして描かれていないし。「ああ、この冬は春の如く」は勿論のことですし。冬のさむさに凍らないあたたかい詩はいい心持ね。あたたかく、丁度程よく心をしめつける詩の風情の味いふかさ。
 でもね、私はこうして詩のいろいろの味いを思い浮べると、小説のこと思わずにいられなくなります。いつかも書いたようなテーマの展開の素晴らしさを。
 私には大変詩がいるのよ。
 おっしゃっていた小さい岩波の本近く手に入りますの、そしたらすぐよみましょうね。金曜日まで、まだ当分ね。火、金というのはなかなか間があるのね。今夜はこれからお風呂に入り、眠ります、早いけれど。そして、あした朝早くめをさまし、よ。ではね。

 十二月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(第十回龍子個展より「真珠潭」の絵はがき)〕

 多賀ちゃんのお土産買いをかねて、明治大正昭和插画展をいそいで最終日に見にゆきました。いろいろ実に面白く思いました。插画しかかかない插画画家というものは何と低い限界で終始しているでしょう。そのわきに川端龍子の個展あり。この風景は面白うございますね、奥の深さ、そして前方の平らかなひろがりの調子。墨だけです。いつかの仙樵の描法を思いおこし龍子の才筆の或るくずれを感じます、御同感でしょう?

 十二月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月九日  第八十二信
 五日づけのお手紙、きのういただきました。ありがとう。「朝の風」のこといろいろ。でも笑えてしまったところもあります。だって、「本旨に反する」とかいてあるのですもの。それはそうだけれど、でもやっぱりおのずと笑えて来る或る健全なユーモアがあります。
 いろいろの点よくわかります。しかしね、ああいうものになった心理にはつながりが重く長いものがあって、夏の末ごろのあの買物ばなしの大きいつよい波がしずまらず、本当に私は病気になる位のところがあったから、その心持であれに執し、同時にリアリズムの衰弱もおこしたのです。でも自分でその病気はよくわかって居ります、大丈夫よ。あれをともかく通って、私は先へ歩めるのですから。自分の病気というものを客観的にみて、そこへ二度と足をひっかけまいとするいろいろの芸術上の課題について考えられるようになりますから。
 今年一年の小説の仕事はいろいろ大変有意義であったと思います。「広場」「おもかげ」「朝の風」、そういう系列のもの、それから「第四日曜」「昔の火事」「紙の小旗」という系列。それは来年にはずっと統一されて、主観的素材のもの、客観的素材のものとが、一つの現実への情熱のなかにとかされるようになり、それで初めてやっと一束ひとたばのものとなります。
 来年は勉強した素材で、出来るだけどっさり小説をかきます、たのしみ。こまかいものを書いてくれ、と云われなかったら万々歳なのですが。今のところ余り評論もかきたくありません。片々たるものは本当にいやです。雑誌の頁数がへりますから、どこでも片々となりやすいのです。評論ならやはり一つのテーマを自分でちゃんともって、それを毎月少しずつ書いてゆくという風なら、本当に成長に役立つでしょう。その方法をきめてやりとうございます。いずれにせよ、来年は小説の年です。
「朝の風」の「アパート」のこと、あの上に、人が自由に住む云々という文章があったと思います。けれども読者がそこにあるものを感じないとすれば、やはり不十分であることは明かですが。
 二十六日からあと、きょうがはじめての手紙よ。『都』に文芸時評二十枚かいたのち、岩波の『教育』へ二十枚、「紙の小旗」二十一枚、あとこまこましたもの三十枚ほど。間では多賀ちゃんのおつき合いをいたしましたし。
 多賀ちゃん七日の夜九時十分でかえりました。荷物がとてもどっさりでね、超過二円四十銭とかとられたそうです。おまけに一つの方の量が多すぎて、駅でつめかえをしたりして、夕飯をたべて一休みして時計を見たらもう八時、ホラ大変というわけで大あわてして出かけたら、いいあんばいに学習院の角の駐車場に車がいて、それをつかまえて四十分前に東京駅へつきました。まだ車輛が入ってもいまいと思ったら、九分どおりの人がのっていて、びっくりしました。寿江子と咲枝見送りに来ていて、林町へその前々晩送別会によばれ、大よそゆきの草履を貰い、寿江子にも何か貰い、てっちゃん、佐藤さん、稲ちゃん其々からお餞別貰って、多賀ちゃん大ほくでした。
 丁度忙しい最中、家じゅうごたごたしていたので、私は疲れました。きょうは風が吹くけれど静かで、お客もなくて、ずっと机にいて一つ仕事終って、これをかいて居ります。又今夜も早くねて、あしたの朝なるたけ早くから校正をやってしまって、そちらへ行って、かえりに小川町の高山へ届けましょう。
 校正そこで待ったりしているとき出来るように一つ万年筆をかいました。3.50 也。アテナ。丸善。金ペンはありませんですからパラテナというのでペンが出来て居ります。「それで書くとこんな字になるのよ、ザラつきます。ちがうでしょう」でも校正は紙がザラですから、どうせいいの。
 多賀ちゃんのかえるついでに島田と河村と野原とみんなおせいぼをわたしてしまいましたから大安心です。丁度『明日への精神』の増刷の分が来たので大助り。歌舞伎を見せ、水谷八重子というものを初めて見物いたしました。新派というものの講談社性はどこかもうああいうひとの身にしみついているのね。八重子は情熱のとぼしい女優ですね、ひどく心情のひろがりの乏しいひとです。つまらない女優であると思いました。松井スマ子は子供のときみたぎりですが、目にのこっている生活力がありましたが。本当の芸術的なところがあったのね、八重子は何だか子役から段々仕立てあげられたというものに見えます、そういう演技とつまらなさがあります。歌舞伎では「演劇の健全性」というもののむずかしさがむき出しに出ていて。ひどいものをやっていました、全然伝統的なものは別として。明日校正わたしたら、あの岩波の小さい本を一気によんで、それから又『文芸』のつづきを一がんばりやって、二十日にはすっかりさばさばとなって、それから大した計画があるのよ。もし咲枝たちが国府津へ行ったらば三日ばかり行って息を入れて来ようというのです、いかが? 賛成して下さいますかしら。それから、暮と正月を長いもののプランでこねて、一月は半ばごろから書き出す予定。
 お恭ちゃんは多賀ちゃんがいなくなったらたよるものがなくなったから却ってしゃんとしてやりそうです。でも多賀ちゃんはようございました、ともかく腕に自信をつけたし、私たちもいろいろ手ママってもらえて。今本につける表の仕事やって貰っている娘さんに来て泊って貰うのよ、もし私が国府津へ行くことになれば。そのひとに索引もやって貰います。
 戸塚では、又蓼科へゆく由です。きょうあたり行ってしまっていやしまいかとすこし気がかりです。三十日ごろ稲ちゃんに偶然ったぎりで。
 大工に物干のぬけたところ三十日に直させ、風呂場の戸の下のくさっているところ、台所の下のくさったところ直し、用心に恭子の部屋と台所との境にカギをつけ、台所から内への境にも、便所にもカギをつけ、階段下に戸棚を切って、これまであった戸棚をよくつかえるようにしました。それだけで三十円ばかり。
 林さんが(大家さん)畳直すならということですが、半分こちらもちですし、今急に暮にかかってさわぐにも及ばないから、畳はこのまま。下の部屋の模様がえをして、タンス類を四畳半に全部うつし、本棚におきかえます。着物のもの、髪道具、顔のパタパタが、六畳にあるとすこし工合わるく、前からその計画だったのですが、ふさがっていたから。本棚は、御飯たべるにも本はうんざりと思っていたのだけれど、考えてみれば柔かい色のカーテンをかけておけばそれでいいわけですから。その二十日迄のキューキューが終ったら、一つ鉢巻をして移動をやります。林町では暮に私の慰労として坐布団をくれますって。これは大変うれしゅうございます。うちのはひどいのよ、余りだから、この間も西川で見て、そのまわりを廻っていたけれど、どうしても手が出なくて、その話が出たら何の風の吹きまわしかおくりものにしてくれるのですって。大いにうれしいと思っているところです。
 それから、十二月はうちへ炭が配給されることになりました、二俵よ。これもやっぱりうれしゅうございます。私は正直に手持ちを書いたのですが、それでも来ました。三人で二俵でしたが、二人では一俵よ多分。いろいろの可笑しな話。世田ヶ谷の方で、ボロ家が四百円に売れて、ガスの権利は千円ですって。価格統制をきめるとき水道とガスのフーッという権利というところまで考えが及ばなかったのね。儲ける人って何と頭が敏活なのでしょう、ふき出すほどうまく思いつくのね。
 この頃はいろいろな女のひとが本をかきます、本やはどこかに大迫倫子や野沢はいないかと、変なものでも出すのです。そういう著者が批評を求め、或は会いに来ます、閉口ものが少くないのは残念です。世間の波が藻を打ちあげるようです。亡くなった仁木独人の妻のようなものであったひとがやはり本をかいて出して居ります。いろんな云いまわしを知っている女のひとの喋るような文章です。或はグチとタンカの交ったようなものでもあります。十一月二十日から十日間の表。甲一、乙一、丙八。(丙は十二時前後よ)十二月も八日迄甲一(きのう)、乙一、丙五、丁一。これでは落第ね。これから当分は甲、乙づくしにいたしましょう。すっかりそしてくたびれを直します、では明日ね。

 十二月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十二日  第八十三信
 九日づけのお手紙、冒頭の用事は一昨日ときのうとで御返事出来たわけでした。
 ところで、きょうは凄いのよ、朝の仕事の第一着がこうやって手紙かいているのですから。
 きのうは『文学の進路』の校正をすっかり終って、月末から肩がつまるようだったのを吻っと体も心もくつろいだところへ、どうでしょう! 好ちゃんが実に実に珍しく訪ねて来ました。実に珍しくて。あなただってホホウとお思いになるでしょう? それもいかにもあの子らしい来ぶりなの。小さい豪傑のようなのですもの。アラまあ、と私は挨拶よりさきに体じゅう熱いようになってしまいました。
 相変らず生気溌溂でね。さっぱりと美しくてね。
 本当に進取の気象にあふれていて。あなたはお笑いになるかもしれないけれど、私は讚歎おく能わずなのです。でもそんなに長くはいないでかえりましたが。
 それできのうは思いがけず愉しき動顛をいたしました。いい心持で、何となし充実した幸福な気持になって、きょうもその気持はつづいて居ます。きっと一時で消えるものではないのだわね。私の生活のなかにずーっと交って、うれしい暖いものになるのでしょう。きのうはそれから神田の本やへ行って、すこし店が分らなくて迷子になり、校正をわたし、それから江古田の方の、私の先生だった女の国文学者のお宅へよばれて夜を過し、かえってお湯に入り、そのお湯の中で又新しく好ちゃんを思いおこし段々愉快になって、笑えました。いい月夜だったのよ、昨夜は。お気がついたでしょう? 月影は枕におちますか? それから床に入り、ぐっすりと眠って、けさは、ああああと何だか夏以来の軽やかな快活な心で目をさましました。
 ああいう訪問の効果というものは不思議ね。こんな活溌快活な印象をのこすというのは。
 あなたにもこんな訪問者をあらせてあげたいと思います。でも私はこう思うの、こんなに私が晴れ晴れといい心持になれば、それをよろこんで下さることで、おそらくあなたも幾分は愉快でいらっしゃるのだろうと。それにしても、きのう思いもかけないあの子を見たとき私が玄関のところで気を失わなかったのは見つけものね。
 小説の功徳というものについて考えます。やっぱり小説には、小説にしかないものがあるということを沁々感じます。読むひとは、評論とはまたちがったものを見出すのですものね。云ってみれば、評論一冊の傍に『朝の風』のあるということに独特な哀憐もあるわけです、それが感じられているという事実を、私は感じてうれしいの。そして、それはやっぱり私たちの生活のゆたかさや具体的なものの一つをなすのですもの。更に思うことは、積極ないろいろの生きてゆく姿の面白さ、その真の真の面白さなんて、その幾分が果して文学のうちに再現され得るのだろうか、と。非常に優しい勇気のある美しい動作にしろ、それがその現実の充実した脈搏で描き出されるということが殆ど不可能と思えることだってるわけですもの。
 五日のお手紙に「朝の風」の着想や題材はユリ独自のもの、と云われていましたけれども、それだから、というところもあるの、おわかりになるでしょう?
 九日のお手紙にあるサヨの生活条件がはっきりしていないというところ、あれは勿論作品として指されるべき点です。その点について、あれを活字でよみかえしたとき、私は大変真面目にいろいろと考えたのです、「乳房」との対比で。そして、その相異にあらわれているものから、主観的に自分の病気をはっきり感じたし、客観的に時代を感じたわけでした。そして、あれがそれらの点で底をついている作品であること、一度は通過しなければならなかったけれど、二度とくりかえせないものだということを明瞭に知ったわけです。
 そういうことについてなど、弱点を、私はきっと誰より深く理解していると思います。そういう意味でなかなか意味ふかい作品でした。一生に一つしか書かないような、ね。
 しかしながら、あすこにある情感が偽りや拵えものでないことは、それが読まれたのちのニュアンスでわかることでもあります。小説って面白いわね、本当にいいわね。こわい程興味がありますね。小説を書いてゆく、腕でかくのでなくて、自分の肉身からかいてゆくと、そこに何と面白く、複雑な錯綜も顕出して来ることでしょう。胸を抑え覚えず片膝ついた姿がそこに現れているにしろ、やはり其は親身なものです。
 勿論大丈夫よ。もしそういう状態にいつもいたとしたらそれは既に一つの心の病気ですから。
 小説のなかには私は一つの病気をばくろしていると思います。それは、夫婦の情愛についてです。私はそれをやさしい思いでしかかけないという現在の病いをもっていて、これは真面目に成長しぬけてゆかねばならないところだと思っています。(「杉垣」「朝の風」そのほか短篇)
 長い小説で、私は力一杯自分の小舟を沖へ漕ぎ出す決心です。
 この実業之日本の本に比べると、高山の方は文学に関するものばかりで、又それぞれの味をもっていることでしょう。こちらの本での柱は、明治大正文学の作品の研究でしょうね。
 感想や評論をかくときは、益※(二の字点、1-2-22)はっきりとしてわかりよく語られる歴史の見とおしというものを失わず、ゆきたいと思います。主観にかたよらずに。現代の文化の正常な前進にとって一番大切なものは、そういう視野のひろさや平静さや弾力です。
 小説では、私のこの心一杯のものを、ごくひろいところまでグーッとおし出して、人々の生活への共感に活かしてゆかなければなりません。
 晨ちゃんの論文は、大変粗笨そほんでした。政治と文学のことを論じ、各※(二の字点、1-2-22)のちがった特殊性を明かにして、二つのものが協力出来るのは、政治が現実の直視をおそれないときに可能であると云いつつ、その可能性の現実的観察はされていなくて。あの人はああいう雑な頭でしたか? では又ね、きょうは、お礼よ。

 十二月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十四日
 きのう十一日づけのお手紙、そしてきょうは十三日の朝の。ほらね、やっぱり笑えたでしょう? 本当にいい心持ね。何とも云えず愉快なところがあって、からりとして、ぐっすり眠るところがあって。何という知慧者でしょうと三歎いたします、しかもユーモラスであって。ねえ。いいわねえ。情はひとのためならず、と昔のひともわかったことを云ったものだと思われます。
 あなたのところにもある快活さ実によくわかります。笑えるという、その目元、口元まざまざと。リアリストであるということは何と幸福でしょう。
 よろこびのいろいろなニュアンスが重ねられて、生活の美しいかさね色がつくられてゆくということを考えました。たとえば、長詩の五版連出の面白さ、たっぷりさ、うれしさ、独特でしょう? それとは又違った散文の表現で、しかもバーンスの詩に近いような生活力の溢れた作品での面白さ、たっぷりさ、闊達さ。この闊達さこそ、何かこの傑作の精髄ね。二人を笑わせよろこばせる骨頂ね。
 そして又考えるのは、表現の手法の可能の上にある男の芸術家としてのちがい、女の芸術家としてのちがいの天然の面白さ。本当にそれを思います。表現の可能を逆においてみて、女性の芸術家の闊達性が同じ表現に近い手法をとったら、読者としてのあなたはどうお感じになるでしょう。こんな爽快な笑いがあるでしょうか。そうではないと思うわ。きっと心配なさるでしょうと思います。破れた(何かの均衡が)形として感じられるでしょうと。そんなところにある表現の差、微妙ねえ。何と微妙でしょう。女性の芸術の闊達性が、さすがのユリもという表現で出て、健全に明るくあり得るところ、面白いわね。ここのところ千万無量の面白さ。何か本当の男らしさ、女らしさ、その美しさ、自然さというようなものの意味で。女を女らしくあらせるほど男の充実した男らしさの面白さ。
 ぷちぷちと小さくうれしく湧き立つような心持があって、私は血液循環も爽やかに大いにがんばりのきく気になって居りますから本当によかったと思います。実に適切な読みものの選択でした。思念的なものでは全くだめな状態であったということが一層はっきりするようです。ああ些末主義をリアリスムと考えているやからに、リアリスムのこんな境地のあることを、どんな描写で学ばせることが出来るでしょうか。
 十一日のお手紙。情痴文学がそこまで歩み出せば、それは進歩であるが、もっと複雑な要素に立つ文学がそこへ腰をおろしては退歩であるということ、この関係は正しくとらえて云われていると感じます。あの『現代文学論』にしろ「文学史」にしろ、その前の方の側から云っているが、後者の側をはっきり押し出していないというところに難点があるわけです。更に、この頃の妙な文学の従属主義に対する意味で『現代文学論』の著者は、芸術のための芸術の価値を裏側から云っているわけですが、やはりそこには人間へ還れの場合にすべり込んでいるあぶなかしさのまま一歩進めているところがあって、むずかしいのね。或ものには進歩であるそのことが或ものには退歩としてあらわれるということ、そのダイナミックなもの、そこですね。このことは、いつぞやのお手紙にあった論理的把握と歴史的把握との間にある空隙のことと共に大変有益です。こういうところ私は忘られないのよ。具体的で実にわかるの。ありがとう。
 それから、友情論について。ここに云われている点、その通りです。例えば、「友人」だからと云って妻のある男が妻の知らない女を遊ぶ対手にするなんということは、それは友情というべきものでないという理解、それは、友達であるならその友達の配偶への態度に自然な限界があるべきという私の書いたものの中に云われていると思います。そういう点での友情と称するもののいかがわしさを、私はちっとも許す気をもっていません。ですから「人間関係の豊富さ」ということにかりて、そういう妙なルーズさを肯定しようとする友情に、私は常に反対なのよ。遊戯的或は擬似的な接触としての友情なんて、そういう表現をてつかいたがる連中の頽廃でしかありません。そして、その所謂友達のあいまいな性質、妻を不幸にする存在について私は沢山見本を見ていると思います。それが逆に良人を不幸にする場合だって、例えば「海流」の中にその片鱗を示していると思います。
 すべての同僚感即ち友情ではないというのは本当ね。実に本当よ。そして、これは、歴史的推移の甚しいときには、何と具体的に痛感されることでしょう。
 その点につき、私はこの頃、いろいろな人のいろいろな暮しかたというものが、つまりはそのひとのいろいろの核心的なものの位置を何と雄弁に語っているかということについて改めて考え直します。
 その意味で、いつかのお話の中で一寸出た、(『文学論』にふれてでしたが)「人への評価でもユリは」云々の話ね、やっぱり忘れず心にのこっていて時々反芻しています。ちゃんとした評価、それに準じた交友。そういうことは或る時期心の中で人々の居場処に変化を生じるのです、近いところにいたと思えた人を遠くに見なければならないという風な。そして、そのことはここに云われているひろい輪とその中の独自な輪との関係をはっきりさせていないと、何となし心を傷ましめる感じにうけとられてセンチメンタルになる傾があるのね、そして、自分の評価に自分の方でついてゆかず、ごまかして、人情主義になるのね。その点では大人になってつき合いの雑多な等差に処してゆくべきです。生活の面の多様さにつれて次第に其は分って来てはいても。一番いけないのは近い筈なのに遠いことを発見してゆく心持ね、いやね。そのくせ、それでいて、遠いきりかと云えば、ことによってはやはりそれなり近いのだから。
 この感情わかって下さるかしら。「文学史」の後半について云われていることについて、私は一寸前の手紙にもかきましたが、その心持がああいう場合にも私には作用していると思います。そこが、私の評論家でも歴史家でもないところであるわけでしょうが。
 仕事上の交渉は云々のこと。私なんか実にそうね。特にその点神経も働くわけですけれど。婦人の作家にしろ何にしろ、その点がルーズなひと、逆に個人的な何かで仕事をひろげて行こうとしたりする人で、しゃんとした社会的存在をつづけるものはありません。
 それは日本の社会がおくれているということが変な逆作用をいたしますからね。あの某々が特に接触のある某々だからと、公人として便宜を得るなどということは万々ありませんね。それを女のひとたちはおくれていることから理解しないのよ。女こそ、猶個人関係なんかけとばした仕事でものを云ってゆかなければ、すぐ個人関係の推移とともにどうにかされてしまうことを十分理解しないのです。そして、ひどい軽侮をうけている、かげでね。
 私なんか、だから特殊な便宜もないし、非個人的であることから、私を知っていたら云えないような見当ちがいの悪口も云われるけれど、そのような点でちがった質のことはひと言も云わせないところあり、そこが小面にくいということになってあらわされたりもするのよ。読者にかけている期待、読者に負うている責任、その実感とその努力とは、個人的なものを間に挾んで仕事をする人間には到底理解されないことです。読者というものは、つまり歴史の積極なものという意味でしかないのですものね。それに対して自分は何を寄与しているかという確信、それ以外に仕事をさせる力はないのですもの、それ以外に仕事をさせられないことを堪える条件はないのですもの。
 十三日の手紙。
 カレンダーと云えばね、今あるような柱暦、今年はないかもしれないのですって、実に不便ね。私は月めくりを茶の間の柱の時計の下にかけておいてね、用のある日のまわりに鉛筆でをつけて居ります。だから坐ってみると一目でわかっていいのに。日めくりなんかだと本当に困るわ。
 月曜の午後来てもいいと。あら。あら。では安静は? ずるやね。私はかぎつけていたのよ。きょうからどうせ開始の予定ですから読み了り参ります、丁度用もあるし、お金をもってゆく(そちらへ、よ)シーツもどうやら出来ましたし。
 そうね、もう僅で本年も終ります。
 多賀ちゃんのこと。多賀ちゃんが一番ためになったのは、私が若い女のひとの生活上の様々の点で、肉親であるとないとにかかわらず出来る限りしていい範囲のことはしてやるということを学んだことでしょう。あのひとのこれまでの圏境は、何かためにいいからか義理があるかしなければ、人にしてやるということを考えない中で育って来て、自分に対してされる親切も、つまりは若い女として自分の可能をのばさせてやろうとする心からだけされていて無償のものだということを知ったのはいいことでした。男のひとと女とは、若い人のもっている条件がちがい、女には特に女の先輩の力が入用です。そのことは知ってよかったのね。それで、野原の裏の地面のことああいう考えかたになったのよ。初め頃は、今更そんなこと要求されたりと、野原側で考えていてね。あのひとが少くともいくらかよりひろい見地に立つことを学び、それをきくことを学んだことは、将来の皆のつき合いのためにいいわ。
 女の少しどうかあるひとは「書生を養う」のが好きで、自分の世話した若い男が世間的に立身するのをよろこぶが、そこが私に云わせれば、古い女の古さです。女こそ女をたすけなければ、ねえ。
 多賀ちゃんはたくさんひがみをもっていて、そのトゲをなくしてかえったのは、あのひとの仕合わせよ。すこし利口な女が、やや逆境で、負けん気をもてば、狭い井の中でひがむのはさけ難いことですから。まあ私の親切の理解は様々でも満足されてうれしいと存じます。
 夜は十時、ねえ。そういえば一昨夜はかぜになりかかって九時御就床よ。それでうまくまぬがれましたが。早く早くと心がけているのですが。丙が十二時前? では乙は十一時? 私は丙は十二時前なのよ。半までは丙でごかんべんとしているのよ。ああああ、あなたをここへもって来て、この表のようにやらせてみてあげとうございます!
 長いものは毎日五―七枚という密度でやってゆくのよ、どんなにたのしみでしょう。そして、表現上の丹念さというものをも十分にとりかえします。沈潜して沈潜して仕事したいと思います。
 私が表現上の丹念さをもっているのは、一時に幾種もの仕事が出来ないという私の特性と一つになっていることで、いろいろのことから無理してもいろいろの仕ごとをやって来ているには、無理もなくはないのです。長いものは、もうそれとくびっぴきでやりたいわ。ですからきょう迄おくれたのだけれども。それに、今になるとよかったことね。
 長いものの間で、非常に作者の内的な世界が、作品の世界とは別の波調で揉まれたりしたら非常にこまったでしょうから。底をついたところがあって、そこにあらわれている芸術上のいろいろのことを自覚して考えられて、そして、そこからの成長として長いものかくのは大変いいわ。本のバカ売れる時期ではなくなりました、が、それでいいと思うの。石川達三はバカになるわけです。あんな屑をかきよごして三四万の金がゴロリゴロリと入れば、相場師よりバカになる道理です。もぐらもちの嬉しい心持ってあるかしら、私は長い小説をかかえてもぐりこんで仕事すること考えると、もぐらが柔い泥へ鼻柱をつっこんだときこんな楽しみかしらと思います。

 十二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十七日  第八十五信
 この雨は雪にはならないでしょうね。いかが? 大変おさむいでしょうけれども。
 私は昨夜は只一つも火鉢なしというところで座談会をやって、なかなか珍しい経験でした。これからずっとこうだとすれば、人を招くものは大いに心しなければなりません。洋服のひとは御免下さい、とオーバーきるのよ、でも私はそう云ってコートを着るわけにも行かないのですもの。
 きのうは愉快そうにしていらして、私は二重にうれしく、火鉢なしでも、もてたところあり。
 実にこの暮はいい暮れになりました、本当にいいおくりものいただいて。
 文庫本ね、適当なときに、適切なもので、ずっと「文学史」について云われていた諸点、自分でもいろいろと考えていた諸点はっきりして、確信がついて、何とうれしい気持でしょう。「人間に還れ」という文学上の表現が或種の作家にとってはデカダンスからの救いである(これはしかし広汎ね、生産文学から農民文学から知性の文学から生活派文学に亙るのですから。)が、或る作家にとっては逆転になるということの意味が、鮮明に見えます。一本の道の上を一つの曲り角からこっち迄そのまま辿って来るのではなくて、ぐるりとのダイナミックないきさつで質の変ったものとなるのだという、その機微は、何と文芸評論にとって、大切な精髄的なものでしょう。芸術至上主義をも否定出来ないというとき、それはありのままに云えば、やっぱりいつか又自由なあきないが出来るようになりましょうというのと同然であるということ、その評論的質のこと、何と微妙でしょう。芸術至上主義論に対して本能的疑問は「人間に還れ」より一層自然に、私にはあったわけでしたから。
 でもうれしいわ。本当にうれしいわ。私の爽快さは、名処ママと相俟って、本格のものになった様子です。益※(二の字点、1-2-22)地味に、ジャーナリスティックな埃に穢されぬ本質で勉強するよろこびを理解します。
 きょうの雨のようなものね。雨のいる条件はすべて備っていたところ、というわけでしたから。
 きょうはね、午前仕事して、午後からあなたの羽織の紐を買いに出て、夕方かえって、深い深いよろこばしい思いで殆どしんみりして、茶の間でひとりで、買って来たいい色の羽織の紐を結んだりといたりして眺めながら、考えて居りました。よく似合うわ、奇麗だことね、そう思いながら、頭のしんでは極めて遠大雄大な文学の展望を描きながら。あーあ楽しい、と思ったの。こんないい色の羽織の紐、こっち側から一寸はなれて見ていいわ、という景色のないのは残念と思いながら、こんなこまかな女房のよろこびとこんな大きい芸術のうれしさとがとけあって一つにもてるということにある条件、沁々と感じました。
 私のうれしがりかたすこし強すぎるとお思いになるかと思いますが、それは安心なすっていいのよ。わかったということも理解である場合と発見という場合とがあってね、理解が発見的境地をもたらす場合、その者にとって、他人が知っているとは全然別様に作用する発見であり得るということはあり得るのですもの。
 もうすこし仕事片づけたらこの本をもう一度よんでね、つづいて第十章のところのこまかくかいたものをよんで、そして初め間違えてよみはじめたものをよむつもりです、面白い。レバーをのむときのようよ。ああこれだけのむと、あしたもてる、そんな慾ばった感じで血の殖える感じ。
 私は痛切に感じます。私は作家として小手先の面白さでまとまるようなものに生れついていないで、その全部の育つためには自身なかなか骨を折って、ぶつかって全重量を傾けるに足る素材のいる時期に入って来ていて、しかも素材を日常の中からつかむ(そんなに大きく)には、それだけの大きい勉強がいるという、そういう作家なのね。
 あの文庫よんでいて、一つの云うのがおしいほどいいテーマを感じました。それは「海流」の中にも一寸出て来る重吉の家のあきないの推移の本当に基本をなした動きをずーっと勉強して、今日女の事務員が精米に出張している、その日への過程ね、これは一つの立派な堂々たる素材であり、テーマです。安積アサカの米屋、百姓とのいきさつ、その百姓とKとのいきさついろいろ。これは二年ぐらいあとでものになるのよ。いいでしょう? 大したヒントをとらえたでしょう? うれしさはそういう点で二重三重よ。日本と日本の家庭の一つの典型のエピック。リアルによく勉強し、楽しみです。こういう大きい作品のプランがあるといそいそね。その意味でもいい年末です。
 しかし、出版関係は大したことになるらしい様子です。紙が先ず現在つかっている量の二割の由。二十冊出した本やで四冊ですからね。配給の工合も全く変化して、今四つの大売捌が会社になって、小売ははじめ希望だけ買ってしまうのですって。そしてその手数料(小売の儲が)岩見重太郎は五割で自然科学なんかは一割の由(暫定)税務署ではならし二割と算術するのだそうだから、誰だって岩見重太郎をおく、と。大したことでしょう? 出版屋が、著者を儲けでだけしか計らなくなるのは当然です。儲る著者が石川達三ピカ一という現状は輪に輪をかけます。そして文化は益※(二の字点、1-2-22)ダラクいたします。しかも国は重大時局に面しているというわけです。
 このような来年の展望にあって、しかもやっぱり私はうれしさを感じるとしたら、文学の面白さ、歴史の面白さに所以するしかないわけでしょう。こういう時期に、勉強の価値がどんなにいきるのかということこそ面白いと思います。
 ワンワがあんぱんにつられるように、書けるものを追って顎を出してゆけば、どういうことになるでしょう。面白さ、勉強の面白さは、書けるものにかくべきことを見出してゆく力ですから。
 この暮は、島田のおせいぼなんかみんなすませたので気が大分楽です。あとは例のふたところと、眼のおいしゃだけよ。多賀ちゃんが世話になっていたお医者様二人にもちゃんとお礼いたしましたし。
 あすこの家は時代に一番わるくさらされて居りますね。だから多賀ちゃんにしろ、ぐじぐじした生活態度にすぐなって。
 二十五円で本屋をやる人に店の右側の一区切りを貸す話、きっとかえりぎわにあったのでしょう。履歴書出さないでいいのかと云ってもいいと云っていた、何故かしらと思いましたが。
 結果からちっとも生活を真に向上させる方向を示さないから、やっぱり総体の私に与える印象では、何だか張り合いぬけのした、なあーんだという感じで、よくありませんね。手紙にでも、こうして私の月給だけ入ると思うと勤めも辛いと思う気が出て、と正直に云ってよこすなら助るけれど、只「つとめもどうしようかと考えています」っきりでね。私は勤めれば、と思って着物だって身のまわりのものだって随分無理してもたせてやっているのに。だから、ひとを利用すると云われるのね。島田のおかあさんがおおこりになるところもわかります。一人の娘が境遇から与えられてゆくよさ、わるさ、何と複雑でしょう。
 でも、あなたは余り勤めをおすすめにならない方がいいわ。体が丈夫でなくて、タイプに通ったってよくへばっててばかりいたのだから。体をわるくしたりするといけませんから。生活態度は何も形で勤める、勤めないのことではないのだから。勤めないなら勤めないということの中にある態度なのだから。あの子は頭に早いところがあるから、逆に目前の適応性がつよくてそのときの空気や話にアダプトするのね。何だか裏の地べたを隆ちゃんに云々のことも大した期待を抱かせませんね。それならそれでもかまわないようなものでもあるけれど。
 客観的に今の光井の空気、その中でスポイルされてゆく村人たちの生活を思うと、一人の娘のそういう動揺もよくわかり、娘の家の存在もよくわかる、もっと貧乏で貸すところのないものはよろこんで働きに出てゆくのだから。貸せるから(高く)働かなくなる、こうして全く別の方向に押しながされるのね。いろいろやはり深いものがあるわけです。
 来年は一仕事すませたら島田へ行ってみたいと思います、いろいろ勉強かたがた。たのしみなのだけれど、あのうるささ思うと些かうんざりね。大臣格でね、どこへお出でです、何日においでです、全く、ばかばかしいのよ。光井へ泊りにゆけば、もうちゃんと御来訪で。実に時代おくれな形です。去年は特別でしたろうけれど。
 こんな紙はもう天下どこにもなし。今にきっとタイプライタの用紙にかくでしょう。普通の手紙の紙ひどくて、こまかくかけないし、ペンがひっかかるし駄目です。タイプライター用紙はいくらかましですから。封筒も、もう丸善のああいうのやそのほかありません。日本紙の封筒をつかうかもしれません。いろいろ様子がちがって参ります。
 私はこの頃せきしているのよ。大して風邪をひいたとも思わないのに、せきになりました。いきなりせきになったの。あなたは? 呉々もお大切に。
 羽織の紐、ほんとにいいのよ。そういうものにある美しさは格別ね。男のなりで思い出しましたが、佐野繁次郎ってイヤミの標本は洋画をやるが伊東胡蝶園で俳優花柳方面の白粉屋の主人なのね、成程と感服いたしました。では明日ね。

 十二月二十六日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書 速達)〕

 十二月二十五日  第八十六信
 これが今年の一番おしまいの手紙となります。きのう、ほぅとお思いになったでしょう? 現れたのが寿江子で。
 二十二日にね、『文芸』のすっかり完結して、予定の二十日より二日のびたけれど、序文、目次、年表とりそろえ『中公』が五時で終るのでフーフーかけつけて、やっと渡し、やれやれと本当に一年越しの重荷をおろしいい心持になったところ、大瀧の叔母に当る人が永く胃がんでいたのが亡くなり、そのお通夜ということになりました。
 この大瀧潤家という叔父は不運な男で、林町の母と同じ年故今六十六でしょうが、三人の妻に病死されて居ります。一番初めの妻が、父の妹のヨー子という人でした。その人の子が、基とひろ子とあって、ひろ子というのは、三井のパリパリのところへ嫁いだはいいが、ひどいきらわれようをして、病気になって結婚して一年目に離婚して死去しました。基は後つぎだが、あとの細君の子が六人いて、ソーソーたるところへ、そのお菊さんというひとも死に、あとへこのお久さんという人が来てやはりこの人も没したというわけです。又何故お菊さんとかお久さんとかいう名の人ばかり貰ったのでしょうね。
 私は、今度の叔母という人とは何かのことで家内が集らなければならなかったときしか会っていないのよ。ですから病気のこともよく知らず、見舞もしなかったので、叔父に対して余りわるいからお通夜いたしました。感謝するよ、と云っていたわ。もうすっかり白髪でね、昨日葬式でしたが、もうすっかり暗くなっている墓所でそのうつむいた白髪だけがぼんやり見えて、私は大変気の毒でした。お医者としてはヤブなのよ。それが家柄の関係で、順天堂のおやかたの次で、生え抜きです。ひとから頭を下げられてばかり来ている。そのためにひろい世間を知らなくて、あととりの息子なんかのものの考えかたと正反対で、又ちがう子がどっさりというのですから、家の内はごたごたなの。
 その点も気の毒です。しかしこの点については云わばその人の責任もあるけれど。妻に三度とも病死されるというのは偶然ながらひどい不運ね。そういうわけで、きのうは朝五時の省線でかえって、十一時迄眠って、ずっと七時迄。九時におふろへ入って、けさは十二時迄眠ってしまいました。私の表でこれは何という点でしょう。丁の下?
 さて、『中公』では、あれに気を入れていてね、なるたけ早く三月ごろに出したいと云って居りました。それに大変いいことは、うけもちの人が変って、おちついたいい本を出したいと考えている人になったの。今までみたいに、そらやれと火のつくようなことを云わない人になったの。ですから長篇も書くはり合もありますし、いろいろ心持がよくてうれしいと思います。一月になったら長篇の印税をいくらかとって、四ヵ月ぐらいの間にまとめます。その間に、一冊ぐらい本が出るとすれば、まさかまるであとは一文なしにもなりますまいでしょう。
 二十八日―五日ぐらい迄にまだ五六十枚書くものがあります。それをすませ、お正月は、あの本のつづきのものをうんとよんでね。
 今年の暮は私たちにとっていい暮だと思いますが、いかが? 十二月に入ってから、私の心持に本当に明るい展開がもたらされて、一層、しんの人間の明るさが、性格の明るさなどというものにたより切れるものでないこと、しんの明るさは正しい理解からしかもたらされないことを痛切に感じ、そのよろこびは大変ふかいのよ。いろんな場面で物を云わなければならないとき、内在的なかんでものを云うことには限度があって、(その正しさに)ね。その限度はやはり直感されていて、そこから生じる主観的な弱さがあるわけです。勉強のたのしさというものは、こういうときこんな味で分るものなのかとおどろいているわけです。こんなにユリを両面から明るくゆたかにしてくれるおくりものが与えられたということ、やっぱりいいお心持でしょう? 私は本当にうれしい気持です。こんなに段落がついて、くっきり自分の心の展開の自覚されるということはうれしいことだと思って。
 お母さんもいろいろの点で今いいお気持だし、隆ちゃんも一週間で手紙の来るところに無事で蚊にくわれもしないでいるし、それもやっぱりうれしいでしょう?
 それに、何年ぶりかで、借金しないで暮が過せて私はいい心持なの。これもまあいい心持の一つ。
 何だかひどくうれしづくめの手紙のようで滑稽だけれど、それでも、その範囲では御同感でしょう。元より一番のうれしいことは、勉強のこととあのことと、仕事のことよ。
 この勉学の収穫としてのいい心持というのは、夏から後の結果に対してばかりでなく、よく考えてみると、この三四年来のいろいろの心持の起伏の集積に対して効果を与えているのであると思います。あなたが、あきもせず、くりかえしくりかえし仰云っていることは、やがてはこのようにしてしんからわかる結果で結実するのね。そのことも大変面白いわ。そして、自分の程度がもっと高まるにつれて、くりかえしの必要のへってゆくことも面白いと思います。
 この手紙、まるで郵便船でも出るように、いそいで終って速達にいたします、二十八日に間に合わないといけないから。いろいろのことがあったけれども、総体としてはわるい年ではなかったわけでした。
 でも、クリスマスなんかは外の飾りからすっかり消えて、銀モールその他なんかどこにも売って居りません。お正月のお餅は切符でこしらえます。おとそにするみりんが買えたので、マア珍しいと笑いました。みりんなんて殆ど一年ぶりですから。
 二十八日迄のはこれでおしまいですが、本当のおしまいまでにきっと、まだもう一通は書くでしょうと思います。
 寒さお大切にね、はらまききょうもって行きます。あの羽織紐いい色でしょう? では一先ずこれで。

 十二月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月二十六日夜  第八十七信
 手紙まだ書き足りず。今夜もかきます。
 夜は机の木の肌もすっかりつめたくて、手もかじかむので、やっぱり火鉢がいりますね。今夜は二度目の火鉢よ。御倹約でしょう?「紙の小旗」をかくさわぎのとき入れたぎり。従って、大した夜更しもないこと実証也のわけね。
 きのうの手紙はいそいで、好ちゃんのことやなんかちっともお話ししず。それやこれやで結局書き足りない感じで、こうやって又紙に吸いよせられたのでしょうと思います。
 きょうは、あれから十一時すぎ十二時十分前位まで宅下げ待って、それから富士見町へまわりました。九段下へバスが池袋から出ているのよ、東京駅行。そこから九段の坂をのぼって行ったら、パラパラ降って来ました。いそいで富士見町の方へ曲って家へ辿りついたら先生オーバーを着て出かけるところ。あたふたしていて、二階へ上り、一応勘定書についての説明をきき、それからついマナイタ橋の横だから思い切って金星堂へよりました。そしたらうけもっている人恐縮し切ってちぢくまっているの、可哀想に。あすこでは興亜書房とか云って一方で赤本出しているのですって。紙は紙やからのおあてがいなのですって。間には(九月から)一冊あの本(あなたのおっしゃっていたの)を出したきりの由。その本というのは、戦傷して腰から下が全く失われた人に同情して嫁した看護婦の人の手記なのですって。そのときはいろいろ美談でしたが、実はその結婚について女のひとが、いろいろ家庭の事情に支配されていたということがあって、寧ろ気の毒に思う人もあった、その人の手記なのですって。わるい流行ね。なぜ嘘をつかせるのでしょう、幾重にも。九月以来金星堂としてはそれ一冊なのですって。経済的理由でもないらしいのよ。一月初旬には出るでしょうって、首をちぢめての態でした。表紙も刷れているの見せました。本文も刷り上っているのですって。だからきっと今度はたしかでしょう。
 おなかペコペコでかえってパンたべて、さち子さんが来て一寸話していたら、元看護婦をしていた榊原さんというひと、私の切腹のとき手つだって貰ったりした人、あのひとが結婚しているのが半年ぶりに訪ねて来ました。来年三月にお母さんになる由。そしたら、女学校の五年生で、宮田アキという歌をよむ人の娘が来て(予約)いろいろ話し、皆で夕飯たべ、今皆ひき上げたところ。その十八歳の娘さんは絵をやりたいのです、女学校出たらつとめながら。いろいろそれについての勉強方法の相談なのです。お母さんは歌よみで情熱的で(歌人風な、のよ)アテネ・フランセという名も娘は今まで知らなかったというような状態で、たよりないのね。きっと。この間朝、女大のことを私にきくと云って(勘ちがえよ)母娘づれでかけつけて来て、その娘さん一人で来させてくれ、というわけなのです、我々の家庭での最少年よ。表の仕事手伝ってくれていた娘さんは二十で、お恭ちゃんもそうですから。この頃は絵を描きたい娘さんがまわりに出来て面白いこと。絵を描きたい娘さんというのは、小説をかく娘さんより一寸ちがったところがあって面白いのよ。楽なのよ、つき合うのに。それで一味通じるところがあって。だからよく作家は画家の友達を案外好むのね。そして、その好みに作家としての傾向が語られるところも面白いと思います。芥川:小穴隆一。明星派:印象派画家。漱石:青楓。私のはまだおたまじゃくしとまでも行かない娘たち。しかし、深沢紅子のローランサンばりや、三岸節子のマチスばりや、仲田菊代の随筆サロン画風には、ちゃんと健康な批判をもって、そして、どの子も人間を描くのが面白い、というところ、又面白い。そして、これはやはりその子たちの境遇の必然よ。だって、松下則子たちのアリストクラートのように冬は暖い海、夏は涼しい山という生活はないのですもの、常に人間のなかなのですもの。これも面白いことね、非常に女流画家の(特に日本の)歴史には新しい意義です。何故なら、これ迄の画家は、ほんとに女と云えば、花、景色、静物で、人間を描いたって藤川栄子などのように主として衣服の面白さを描いていて、ね。私はこの娘たちを楽しみに思って居ります。菅野とみママ子というひとの方は、本当の画家になる決心しているの。きょうのひとは先ず子供育てることが大切で、やれるものならやるのだから、デッサンだけは今からみっしりやっておこうというの。やっぱり自分の原則をもっていてなかなかでしょう? きょうのひとは石井鶴三に見て貰いたいと云っていて、それはいいわ。お父さんというのは彫刻家なの。技術でやって行けず、工場へつとめているというような彫刻家で、それでも知人としては娘の助けになる専門家も知っているというのでしょうね。
 自分が初めて小説の長いのかいていた時分を思って、セイラーを着てスカートふくらがして坐っている娘さんを見ました。私は紫紺の袴はいていたのよ。凄いでしょう? そしてね、毎朝ぐらい鴎外が馬にのってゆくのに会ったのよ。鴎外は馬の上からいつも何となし私に視線を与え、私はそれを感じながら、自分は一寸見上げて、下を向いて通りすぎてしまうの。鴎外が私を知っていたということはずっと後に父からききました。
 茉莉さんが『明日への精神』のいい書評を『朝日』にかきました。この茉莉さんは、美学の山田珠樹のところへお嫁に行って破婚になったのよ。大した大した結婚式してね。その山田の家というのは下町の大商人で、孫は(茉莉さんの子?)白足袋はかすという家風なのだって。そんな家へやる鴎外、大臣なんかずらりと招く鴎外、そこに鴎外の俗物性が流露していて、しかも娘は、湯上りに足を出して爪を切って貰うことをあやしまないように育てたりして。茉莉さんという娘は、自分の知らないことのために不幸にされた哀れな女です。杏奴の方はずっと自分の常識で、世間の仕合わせも保ってゆくような人。杏奴は絵よ。旦那さんも。茉莉はものをかく方なのよ、どっちかというと。ここにも何かのちがいあり。
 久しぶりにお目にかかって、寿江子はいかがに見えましたか? この頃すこし勉強で糖を出して居ります。でも大分落付いて、いろんなこと分って来て、追々ましです。ましになってくれなくては困るわ。
 好ちゃんはこの次はいつ頃訪ねて来るのでしょうね、きっと私の誕生日ごろ(二月十三日)来そうな気が致します。あの子は一種のかんをもっていてね、私のよろこぶときを自然に会得するらしいの、奇妙ねえ。
 おついでのとき、どうぞよろしくね。あなただって、たよりおやりになることもあるでしょう? どんな字をかいておやりになるの? あなたのことだから、きっとこまやかにうまい工夫をこらした生活法を話しておやりになるのでしょう。
 そう云えば、鳥取の手紙すっかりおそくなって。
「寺田寅彦理博の随筆物等おもちではございませんでしょうか。又文筆家の最近の支那紀行と云った様な書物も父は読みたく思っているのですが。それからこれは一寸方面ちがいのお願いかもしれませんが、父はでてから少し随筆物をかくつもりの由にて、その資料の一つとして動物の習性のことをなるべく詳しく記した手頃の動物辞典が一冊ほしく、只今父が文通しています二人の医博に先般しらべて頂いたのですけれど、医家も全然動物学とは関係ないらしく、父の満足する結果を得ないで居ります」云々。
  鳥取県東伯郡下北條村字田井  逸子
 右のようです。私から簡単に、ふさわしい本がないので残念ながらお役に立ちかねる由返事してもよいと思って居ります。その方が却ってよさそうね。いつか云っていらしたようなことを答えられても手紙の書きぶりから推してそれを客観的に理解する力はないでしょう。ああ云った、こう云った、それがどうで、ときっと在る光景考えると、やっぱり面倒です。ですから、私からいろいろふれず辞典のないことだけ返事いたしましょう。その方が単純らしいから。お考えおき下さい。本がないというのは、それだけのことですから。又手紙よみ直して、そう考える次第です。
 きょう受とって来た請求書、つづけてかきかけましたが、いつも別封にとおっしゃるのを思い出し別にいたします。さもなければ又折角これを速達にする意味がなくなるといけませんから。
 何だか、あした、あさってで、今年は終りというの、足りませんね。思い設けないことで日をとられてしまったので。でも大体予定の仕事はしたからよかったわね。あれがまだすまないうちだったら又のびのびで閉口でしたが。装幀は中川一政にたのみましょうと思って。いつかは石井鶴三にもたのみます。この間三越で明治大正昭和插画展見ましたときね。平福百穂の美しい原画(菊池寛かの)があったが、それが表紙になったところみると、印刷のエフェクトひどいのよ。金星堂の表紙は本当に秀逸です。生活の感じがあって面白いの。『文学の進路』も松山さんで、大根畑よ。今のところだと一月中に二つ本が出るわけですが。『文学の進路』はもう印税大分くいこみよ。半分ほど。
 ああ、これだけ書いて、やっといくらかたんのういたしました。これはなかなか貴重なのよ、仕事の時間すっかり当ててしまったのですもの。だって、ねえ。ああ、まだつづきそう。もう一枚。
 そちらでは、お正月のお菓子いかが? こちらは甘味ぬきかもしれません。中村やは「午前八時にヨーカンを売リマス」ですって。私は大変くいしん棒ですが、どうもお菓子のために朝からかけまわる勇気はありません。お正月の東京と鮭とはつきものなのに、今年は鮭もないのよ。うちは組合でうまくなさそうな鮭買いましたが。ミカンはあるの。リンゴと。お互に似たようなものでしょう? そして、私は女房心で心痛しているのよ、シャボンはどうなるのだろうと思って。あなたの夏はせめてアセのおちるシャボン、泡の立つシャボンあげたいと思って。
 五六年ばかり前、上落合の時分、百円とすこしで暮していました。不思議のようね。今の物の高さ。家賃が今のままで本当に助ります。この頃はよくよくのことでなければ円タクにのりませんから。五割ましよ。一円メーターに出ると .50 足すのよ、林町迄 .80 だったのが 1.20 ね。ですもの。のりません。
 林町の連中も一家眷族けんぞくで市電よ。これは私は大賛成です。特に太郎が大馬鹿三太郎と改名しないために、大賛成です。来年小学校。これも近所の小学に入ることになります。これもよろしい、と思います。省線はこの頃一種荒い人気でね。私はいつも迚もおとなしく隅に立ちます。従来市外にひっそくしていた狂犬属が、時候の加減で真中へ出入りをしはじめたことからでしょうね。お正月の三※[#濁点付き小書き片仮名カ、21巻-232-12]日はじっと家居いたします。きょうその小さい女の子が茶色の鼻の頭の黒い小熊をくれました。大変可愛い小熊です。お恭ちゃんがスウィートピイをさしておいてくれました。なかなか皆其々でしょう? マア、もう一杯よ、何て小さい紙でしょう! 書くにつれてちぢむのよ、いやね。では本当におしまい。

 十二月二十七日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書 速達)〕

 十二月二十七日
 これは請求書だけの分です。
六月分 逸見上申書 六〇枚 四通  三・一八
 〃   同 四九六枚   二通 二七・二八
七月分 木俣鈴子上申    二通
                 一四・八五
    公・調       四通
九月分 宮本顕治 公期日変更願その他 二通 一一・九九
   ほかに、七月十六日づけ請求で、その中重複している分をさしひいて。
    木島 公・調 四(一、二回)
    袴 上申 三
                   一〇・三〇
    同 陳 一二三四 公調 四通
    木島 公(三、四) 四通
計 一九二円〇六銭のうち前の支払のとき九十円払って、今度は十円三十銭だけ足せばよい由。いつか云っていらした分はこれでしょう?
    袴田上申書     二通 三二・一六
これは森長氏にきいてみなくては分らない由、すぐには支払いません。
    加藤亮・西村マリ子公判記録 四七・一六
    ────────────────
     謄写以上   計 一四六・九二

  速記料
      三時間半  二八・〇〇
四月十八日             三四・〇〇
      待一時間半  六・〇〇
      一時間
五月十八日             一四・〇〇
      半時間
五月四日  ………………………………一〇・〇〇
五月二十八日            一六・〇〇
七月二日              一八・〇〇
七月二十日             二〇・〇〇
八月十日              一〇・〇〇
                 ──────
       以上計       一二二・〇〇
     大計    二七〇・九二

 右のうち、年内に支払うのは加藤・西村・袴田上申書計七九・三二をさしひいた分一九一・六二だけ払おうと思って居ります。
 御参考のために。

 十二月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月三十日  第八十八信
 今は夕方の五時すこし過でね。私は原稿の速達を出したかえり、目白の角の果物やの半町ほど先の右側に出ているお飾りやで、小さい松飾りとそこに下げる小飾りとを買って、自分の椅子の座蒲団の布をすこし買って、お恭ちゃんの御飯茶わんかって、そしてかえって来たら、向島の江井が来ていて、お雑煮用の鶏肉をくれました。そして、お砂糖も持って来てくれたら、林町でうちでないからと横どりをしましたって。
 パンを買うのはこの頃朝八時、夕四時、そして朝は十五分ぐらいでうり切れ。大したものでしょう? さっき出がけにちょいとあの線路に向った床やの時計を見たら四時なので、パンやへ行ったらもう列で、一人一斤半が最高です。パンその他のために列に立った経験を思いおこします、方向正反対でね[自注14]。
 私はお正月のお祝いにいつもこの重い体の下でよく役に立っていてくれる椅子座蒲団のおしゃれを思い立ち、上にのせる小さいのは鼠色地にこまかい花模様の。下のは赤無地。スフ三割入りの布地。それでもやっぱり綺麗になりました。
 寿江子がきのうから机の横のベッドにいます。風邪気味なの。もう大体いいのですが。私はこっちで仕事している。
 今夜と明朝と書いて、それでほんの暫く息をつくわけです。でも二月号の校了が七日頃で、やっぱり月初めはすっかりは遊べず。十日すぎにお恭ちゃん三四日家へかえします。大分ホームシックらしいから。
 二十七日づけのお手紙、きのう頂きました。文学史についてのこと。一貫した努力が本来あるべきであるという気持。主観的にはその流れを自身の内に感じ、責任も感じている、その筆者の心持から、云わばあれこれの現象へあの程度でも肉迫しているのだと思います。そして、文学の流れとしてそれを単純に表明し得ないところに、本当によみかえしての苦痛が在るわけだと思います。
「若い人」のあの評ね、あれは批評の精神状態の微妙さで屡※(二の字点、1-2-22)思いかえされます。あれはあの人のおくさんと私とでよんで、変だ、変だ、と云ったのよ。勿論論文としてだけよんで。そしたらあとから、丁度あれが書かれていたとき、あのことが進行中であったのでした。こわいものね。うなずけるでしょう? この間もあの著者は、自分が自分の欲望にひきずられることについて云っていました。このお手紙に云われている分裂は常につきまとっています、そして、かつてのときのように表現されず、段々大人らしくやられてゆくことによって本質的に益※(二の字点、1-2-22)その面は低下するのです。しかし決してそれを正面からとやかく云わせない構えをもって来ているから。でも私は、この頃はその人々の自主的なものにまかせるべきなのだということが分って、自分を省ること、自分がそれに馴れ合わぬこと、自分は益※(二の字点、1-2-22)野暮にまともにやること、それを中心と考えることにして居ります、個性的なことに立って云えば、その人としての云い分はいくらだってあるのでしょうから。それ以上のひろい点から云えるなら、その人は自分で自分をもっと責任的に律するでしょう。
 仕事の丹念さのこと。それで二十八日に生活費のことおききになったのね。心にかけて(そんなことまで)ありがとう。私は経済上の困難と人間的価値とは、特に現代の社会では別であると考えているのですから、その人に経済能力が奪われたって、本質がそのようなものであれば敬意をもってその状態が見らるべきと思います。儲けられるのに儲けないもの好きとか、ころがり込むところがあると思えばそんな理窟もこねている、というような人間のみかたには、一致出来ないのよ。おわかりになるでしょう? だからなるたけ無理はしないで倹約してやって行くのが一番自然でいいのです。
 一月からは当分小説に集注いたしますから外の仕事はのばして貰うようにします。小説を五枚―七枚ぐらいずつ一日にかいてためてゆくたのしさ。今からたのしみです。
 友情についての点。自然の条件の外に異性の友人をつくりたがる心は、遊びやの気持と紙一重ということは本当ですし、私のあの友情論は、そういう若いひとの漠然とロマンティックに描かれている友情という雲を、リアルな生活へひきおろして、恋愛と区別して、そして示そうとしたのが目的でした。その点できっと全体とすると、恋愛と友情とのちがうべきことを強調してあなたの云っていらっしゃるような同僚感と、更にその間でも私生活に交渉をもち得る人が友人であるという段々の区別は、明かにされていなかったのでしょうね。
 それに一般のこととして云う場合、この同僚感というものも、ずいぶん薄いものなのが普通のようです。只机をならべているというだけで、同僚感というような感情までないのが十中八九らしい。その何人かのうちでやや近い同僚感をもてるのが数人あって、更にその中の輪として友人があるのね。タワーリシチという言葉の訳の同僚というものは、若い女のひと一般には存在しないのではないの? だから同僚感というとき、その内容づけは、極く一般的な形で、同じところにつとめている人、同じ課に働いているひと、となってしまうのね。
 自分のこととして云えば話は勿論ちがいますが。同僚と友人、その区別は実にはっきりせざるを得ませんもの。そして何というか、ある人と人とをある時期が同僚として結び合わせても、その客観的な条件が変ってゆけば、それに応じて又変るのでね。そのことも何と動的でしょう。生活の地平線から消え去る多くの姿が必然にあるわけです。
 それからね、紙の質と国力の話ね、それからつづいていることね、あれを無意識に書いているということでは困るわ。あなたも大変おこまりでしょうが、私も閉口だわ。だって、そうでしょう? ひとりでにかけてしまうことではないでしょう?
 画家が白いものを浮き上らすとき、白い絵の具をぬるばかりではなくて、そのかげにこい色を塗ることで、白を浮立たせなければならないときがあります。犬が犬だよと云われて怒るとすれば、猿ではないよというでしょう。
 私はうそから出たまことということを文学論の「人間に還れ」についてだって深く考えます。題材主義のこけおどしに陥っていて、作家の内的な構造とはかかわりなく小説が製造されてゆくことに対して、題材万能から人間に還れということで、論者は人間生活として必然な現実にかえれと云ったつもりでしょうし、そういう風にしか題材主義が土台妙なところから出発していることを突くことは出来なかったでしょうが、しかしやはりそこには論者の何かがあらわれている、そういう意味でね。方便的表現のつもりのところが、いつか主屋おもや迄とられるという場合があると思うのです。ですからその意味では、舌足らずが混迷に導かれないことの戒心が実に実に必要なのね。自己暗示にだって人間はかかるのですものね。それが現代の試練だというのは真理にふれたことばです。〔略〕
 でもこの間もつくづく思ったのですけれど、あのいい本、よみかえすのが苦痛であると云うにしろ、あれだけ明瞭であり得たということは、何と沁々と今日よりも二十五六年前の歴史の相貌を顧みさせるでしょう。現代の水の浅さはどうでしょう!
 きょうはもう二十六日に出した速達見ていらっしゃるでしょうね。これは新年になってつくのでしょうか。そしたらおめでとうのわけだけれども。でもこれは今年の最終で、元日のは元日、それはおめでとうで初めましょう。もう三十日でもこの辺はひっそり閑としているわ。旅行にでも出るのでしょうか。階下でしきりに寿江のはなをすする音がいたします、家庭的(!)でしょう。では今年のおしまい、ね。
 ○おかしいおそなえ餅が組合から来ました。もち米七分づきのせいか薄黒くてね、日にやけた小坊主のようよ。

[自注14]方向正反対でね――一九二七―三〇年のモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)のパンの配給を買うときの列。

底本:「宮本百合子全集 第二十巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年10月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
   「宮本百合子全集 第二十一巻」新日本出版社
   1980(昭和54)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本で「不明」とされている文字には、「〓」をあてました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2004年8月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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