一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一九四五年一月二日
 明けましておめでとう。爆竹入りの越年でしたが、余り近い所へ落ちもせず、しずかな元日でした。その上昨晩は思いのほか通して眠れたのでけさは特別よい二日です。寿江子が帰って来ていて、大晦日は、わたしが床に入ってしまってからブーの間にすっかりテーブルに白布をかけ、飾り、お正月にしてくれました。三十一日によそから届いたリンゴもあり。いまは、おそい御雑煮をたべて、炬燵のところに小机をもちこみ、足先を温くしてこれを書いて居ります。書いている紙の右端に風にゆれる陽かげがおどって居ります。

この春はよき春なりとのらすれば妻も勇みて若水を汲む

このなますたうべさせたき人ぞあり俎の音冴ゆる厨べ

 三十一日の五時に壕に入ったとき、暁方の風情を大変面白く思いました。月がまだ西空に高くて、空気は澄み、しかしもうどこやらに朝の気配があって、暁の月と昔の人が風流を感じた気分がよく分りました。この節は何年ぶりかで早朝の景気のいい冬靄と、草履の下にくだける霜と朝日に光る小石の粒などを眺めて歩きますが、こういう冬の刻限の戸外の景色などというものは滅多に見ません。自然の景物の観賞というのも様々の時代の特色があることね。この頃のわたし達は壕に入るとこの風流で。それにしても三十一日の暁の景色は優美でした。
 そちらはいかがな元日でしたろうか。大局的嘉日でしたというわけでもありましょうか。それが窮極のおめでたさね。
 今年はわたしも今月中に家に来る人のしまつをつけて仕事にとりかかります。セバストーポリの塹壕の中でトルストイは幼年時代を書いたし、カロッサにしろアランにしろ塹壕生活の時期を泥にまびれただけではすごして居りません。わたしも、わたしたちの壕生活期に収穫あらしめようと思ってね。それにはどうしても今までの生活ではやれません。チジョサン[自注1]によび立てられてかけ出していたのでは、ね。サイレン丈で結構です。一日に一貫した心もちで過せる時間がなくては何をかくどころではないわ。あんなに手紙さえおちおち書く間がなかったりして、ねえ。四月から去年一杯相当骨を折ってわたしの手は勲章ものにひどくなったのだから、今年はもう本職に戻ってもよろしいでしょう。
 留守に来て貰う人のことはなかなかむずかしゅうございます。この前の手紙で申しあげた伝八さんなる夫婦は、二人の生活費をこちらもちという条件なら承知するのです。しかし生活費は刻々上騰ですし、わたしはそれこそ大局的に可及的営養をとらなくてはならないしすると、生活費の負担は案外でしょうと思われます。ここの生活はどうやるにしろ、国府津の 280 の内からですから、雑支出を加えて容易でないでしょう。机に向っている時間、何か彼か考えを辿っていられる時間をとろうという計画なのです。国がハガキよこしてね、僕があっちへ行ったら敵機も追っかけてきて初空襲ありとありました。こっちへ暮す期間は益※(二の字点、1-2-22)少いでしょう。あちらはもう雪だそうです。壕が庭でさむいし、子供づれだし、大変でしょう。手伝いがみんないなくなるらしいし。国も良人、父として苦労しているのも薬です。あの健康であの年であの知慧で、ひとからサービスだけされて暮すというのは法外ですものね。おのずから成立いたしません、今の時代には。
 きのうの元日はうれしい元日で友達が三人来ました。一組の夫妻、この人は旦那さんが青森へ行くために。もう一人は先日山西省の学術探検から戻った人。いろいろの経験をして来たのですが、一米の間に二発ずつという風な機銃の集注をうけない限り、なかなかゆとりなきゆとりというものもあるものなのね。人間が、そんな風な危険に善処して、勉強もするだけして来ると、颯爽としたところが出来て、こころよいものですね。人は、その人なりの道によって、何か鍛えられる道を通ることが大切ね。そして、鍛えられるということを招く先ず第一の生活態度のまともさが大切ね。まともに生きない人には、天は決して人間鍛錬というような貴重な門を開きません。
 年末に、おせいぼ、お年玉として書いて下すったお手紙。さっきお正月らしく元禄袖を胸の前にかき合わせて、もんぺの足どりも可愛ゆく門まで見に行きましたが、まだ来ていなかったわ。
 この間の晩、一時間半おきには起されて、外へ出たとき、床に入っていてすぐ眠れず、うっとりしていて、昔の人の素朴さということを思いました。昔の人は、一筋のえにしの糸、と云いならわしました。そしてそれは紅色と思っていたのよ。だから妹背山のお三輪は采女うねめの背に赤い糸を縫いとめて、それを辿って鹿の子の髪かけをふり乱しました。何となしほほ笑みます。えにしの糸が一筋なら、それはどんなに単純でしょう。一途というのも、とり乱しに高まるのが昔の情の姿だったのでしょうか。えにしの糸の色は無色透明よ、それはとりも直さずあらゆる天地の色をこめているということです。七色八色虹の如く多彩であって、それはあらゆるよろこびと感動とのニュアンスに照り輝きます。或るときは渡る風にも鳴ります。そのそよぎは伝わって光か風かという風に色のすべてをきらめかせ、人の力でとどめることも出来ません。色と色とは云いようなく快い互の諧調を知っていて、ちがった色どりをもってくることは不可能です。その色がそこにあるのでなければ、この色はそこに生じないという、そういう工合の調和です。えにしの糸は、天のかけ橋、虹の色という調子のものよ、ね。しかし、ちっともそれは芝居にはならないわ、壮厳微妙ですから。大らかすぎ、精神において演劇発生史以前ですからね。芝居と講談にならないということは大変慶賀すべきことなのね。西郷南洲はあらゆる芝居と講談と小説のたねにつかわれるが、日本の建設のためにあれだけの仕事をした大久保利通は講談にならない、木戸も講談にならない、これは何事かを語っていますね、と、鷺の宮の小父ちゃん[自注2]の言にしては犀利なり。きょう、ずくんでいられていいお年玉頂いたと思います、ありがとうね。

[自注1]チジョサン――「中條さん」のこと。
[自注2]鷺の宮の小父ちゃん――壺井繁治。

 一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月十日
 さて、例の小机を膝の上にのせ、ああもう三時になってしまった、と思い乍らこれをかきはじめます。けさ、ふと気になってポストを見に行きましたら、入っていました。見ると、一月八日のなのよ。去年のおせいぼ、待ちかねているのにどうしたのでしょうね、未着です。お歳暮のしるしとしてすこしほめて下すったと伺ったからもしかすると、着かないのは余り珍しいなかみで、わたしのところへ来る筈のとは一寸様子がちがう、というわけではないのかしら。(勿論これはふざけ)
 昨夜はちょくちょく起きましたが、大スピードで八時に床につきましたから第一回のまでに五時間ばかり眠っていて、あと途切れ途切れでもどうやら、きょうはよく働きました。けさ早く衣料疎開五十キロ五ヶというのを発送しに男が来ます。五時に起きてつらかったけれ共七時すこし過にモンペの紐を結び乍ら二階から下りて来たら、なかの口がパッと開いて朝日がさし込んで、そこを「お早うございます」といい乍ら、その男が這っているの。笑ってしまった。玄関のタタキに荷作りした菰包みがおいてございます。それを中から錠をあけなくてはならないから。
 この男は小柄で黒いリスのような眼をしたヒシの実のような形の顔をした男で実に重宝男です。元来は煙突掃除だったのが生来の器用が時勢につれて「世に出て」(その男の表現)今では主として、荷物の世話をして「金に不自由はしなくなりました」荷作り、リアカーの運搬、いかけ、大工の真似、出来ないのはドロの方と植木屋の由。生きたものと、他人のものとには手が出ない由です。器用らしく小さい男で、いいとっさまで、昨今の苦労は、いくらかたまる金をどうしてもちのいいものに代えるか、という問題です。家作も買ったそうですが、これには自信もないのよ、やければ其っきりだから。なかなか面白い話しかたで、八日に荷作しながら「お宅の旦那さまは、いい方ですが、どうして印ばんてんなんか召すんです?」というの。成程ねえ。わたしは台所で洗いものをし乍ら「動きいいんだとさ。あの人は美術学校なんか出ていて、昔あすこの生徒は豚にのって学校へ行ったっていう位だから、印バンテンなんかちょいと着たいんだろう。」「そう云えば絵をかく方なんか、みんなちょいと風が変っていますね。わたしの知っているおとくいの旦那で、社長さんなんですが、うちへ帰ると、きっと酒屋のしめる前かけね、あつしの、あれをかけるんです。旦那又酒屋さんですかっていうと、ああ、これをしめたら暖くてやめられないよ、という話でしてね」そこでわたしが又云うの「下町のひとは、着るもののしきたりなんか堅いけれども、山の手のものは平気だね、めちゃめちゃで」「マァそうですな、かまいませんね」つまり馬崎というその男は、ひどい風をしてのんきなのは私一人だけでないことを知っているというわけです。
 三※[#濁点付き小書き片仮名カ、517-17]日だったかの新聞に衣料疎開七日迄受つけとよんで、開成山へふとん類を送ってやったのです。一人ですっかり菰をかけるだけにしたから、へばりよ。荷作りも随分やって上達いたしました。姉なんかというものは妙なものね。こんなに骨を折って、やっぱり皆が助かるだろうとそんなものを送ったりして。別にたのまれもしないのに。
 八日のお手紙、あんなに寒そうにしていらっしゃるのに、こうしてお手紙よむと、ちっともそんな風に思えず、一層沁々と拝見いたします。健気であればある丈いじらしくいとしいという心もちは、母だけがもつ心もちではないと思います。今年の正月は、全くわたしもすがすがしい気分が主潮をなしていて、清朗であり、そこに光りもとおして居りますけれど、思えば思えば御苦労さま、というところもひとしおで、そのすがすがしい清朗さに、云うに云えないニュアンスを優しく愁わしく添えて居ります。こんな風にして、わたしたちの清朗さも、単に穢れなき浄潔から益※(二の字点、1-2-22)人間的滋味を加え、わたしたちの人生から滴るつゆは、益※(二の字点、1-2-22)人間生活の養いとなりまさるのでしょう。その肌に立つ一つ一つの鳥肌が、アナトール・フランスならば、真珠というでしょう。わたしの手や腕が、こんなにひびだらけになり、踵の赤ぎれが痛くてびっこ引いて居りますが、それも生活の赤き縫いとり飾りだと思ってね。赤い糸の、こまかいびっちりの十字いなんかそうざらにはないわ。ほめて頂戴。でも、原始の人たちの生活のように春を待ちますね。動物はどんな気もちで春を待つのでしょう。
 昨日、いつもお正月にお目にかける寄植の鉢をたのめました。すこし時おくれですが、其でもやがて小さい梅の花も咲き福寿草も開くでしょうと思って。ささやかな眺めとして、ね。凍らないもののあるのはたのしいから。留守番の人は一寸申上たように始めの若い夫婦にきまりました。生活費と云っても配給もの丈でしたら、この節として仕方ないでしょう。それに一方の人は、余り大勢で壕に入りきれないし、この数年のうちに揉まれてすこしルンペン性が出来ていて、万※[#濁点付き小書き片仮名カ、518-16]一失業したりしたとき、うちがやけずにいたりしたら、いつか一つ一つと何か見えなくなって行くような可能もあり、実は一番そこを気にして居りました。だから自分の腕で働き、小僧さんから叩き上げ、人物を見こまれて肴町の春木屋という鳥やの娘をもらっているその男の方が、小堅くていいでしょう。細君が来ましてね、厚みのあるきもちのいい人よ。ざっくばらんに何でも話してあっさりやろうということにし、そのひとは良人のために好きなものをこしらえて食べさせたいだろうから台所はその人がして、わたし掃除ということにしました。うれしいわ。少くともこれ迄よりよほど楽になります。この夏時分はひどうございましたもの。日比谷から帰ると六時、それから台所をして夕飯八時でした。
 そちらが早朝なのは辛いけれども、夜は何にもしないで臥ることを専門に考えて、在宅日の午前、そういう日の午後と活用すれば本当にようございます。ともかく主軸となって台所やってくれる人が出来るのはうれしいわ。マンスフィールドの日記なんかよんでも、本腰で仕事しようとすると先ず家事担当者をいろいろ苦心していて、どこも女は同じと思いました。その夫婦は大体七月頃までこちらにいて、あとはどこかへ勤めが変るのだそうです。ラジオやさんです、技術徴用で会社の電機具の方に働いているのですって。国男がその人の少年時代から知って居りまして、その方がいいでしょう。国は感情的だから、そういう人のことなら忍耐出来ることも、わたしの方から来た人の場合辛棒しにくいでしょうし、又おのずからコマの会う面があるのでしょうから。
「ボンボンの歌」について。歳月の風雪に耐えるとあり、本当に詩の力は不思議と思うの。詩は風化作用を受けないものと見えるのね、それが本ものでさえあれば。うたの力が人間をして風雪に耐えしめる、とさえ思われるでしょう? ところが、そのような古びない魅力を創ったのは、外ならぬ人間なのだと思うと、その人間の大切さ。いかばかりでしょう。お約束の指頭花も御披露いたしましょうね、幾度自分でお読みになったものにしろ、愛誦歌であればあるほど、読ませて聴く趣も深いでしょう。読まれる一つの節は、こころのうちにあるもう一つの節を、次から次へと呼びさまして、ね。
 東海道線は、公用軍用鉄道のようで、なかなか普通で切符は買えません。何とか考えましょう。あちらへ行ったらちょいとでは帰れないかもしれないわ。だって、あっちなら、夜も、すっかり寝間着に換えて眠れるのでしょう? 食べるものよりもわたしは其が欲しゅうございます。とび起きて、モンペはく丈にして眠るのには馴れてもいやです、もし行けるとして月末でしょうね、さもなければ二月初旬。(こっちの方でしょう)実におみやげがなくて閉口ね。おみやげを当にしていらっしゃらないにしろ、自分のこころもちとして、何年ぶりかで、はいこんにちわ、ケロン。としているのは気が弾まないわねえ。下駄はないし。あなたの衣料切符の点がすこしのこっていて、一月二十日までですから、羽織の紐でも買っておきましょう、行くにしろ行かないにしろ。(行かないというより、行けないかもしれないにしろ)そういうものはみんな送っておいて、自分は例のノラクロ姿にヘルメット背負って弁当二度分もって、或は何里も徒歩連絡の決心で行かなくてはならないのだからかなりの仕事となりました。罹災者として以外の旅行は益※(二の字点、1-2-22)困難ね。
 寿江子は一昨々日千葉へ一寸帰り、今又来て居ります。あのひとも千葉を動く気になって居ります。主として経済上の理由から。あっちはちゃんとした野菜や何かの配給がないから物価の高騰が菜っぱ一本に響いて迚もやれないらしいの。二人家内で四銭の野菜などというものは、大きい蕪1/4に小カブ一つよ。葱ですと、二本です。やって行けなくはあママが、其しもやはり土台で、天井知らずのものしかないというのは生活の安定性がなくてやり切れないらしく、北多摩の辺に見つけたがって居ります。せいぜい見つけて頂戴と云っているのよ。ここがやけたら目下ユリちゃんは行くところがないのですから。
 国男たちきっと新年のハガキもあげないのでしょう、御免なさいね寿江子だって。云っているくせに。うちの連中ってひどくナイーヴで眼玉に映っていないとケロリとしてしまうのね、わたしだって同じ扱いうけたのだわ、但、そのときは寿が熱心で助りましたが。では又寒さを呉々も御大事に。
〔欄外に〕
 「風に散りぬ」について一寸おもしろい話ききました、次の手紙で。

 一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月十三日
 けさ、二十九日(十二月)のお手紙到着しました。ありがとう。
 まず昨夜の話からいたしましょう。ゆうべは、一昨夜眠り不足のままでしたから九時頃大いそぎで湯たんぷをかかえて二階へ上りました。寿江子はいやがらせに「いいの、床へ入るとどうせすぐよ」と申します、「いいとも。五分だっていいよ」と床へ入って、さて一眠りして気がつくと鳴らないじゃないの。まあ、と枕の下から時計出してみたら十二時。じゃあ三時頃かな、と又いいこころもちに眠って、又目がさめたら、まだ鳴らない。おはなしのようでしょう? 時計を出したら五時すぎなのよ。さてさてきょうはめっけものだ、これなら朝も大丈夫と、又もや一つね返りを打って、一息に九時半まで眠りました。凄いわねえ。ずっと眠る心持よさ。いつもこうして眠っていたのね、そちらもおらくでしたろう? よかったわねえ。そんな風に臥ましたからきょうは元気だし、天気もよかったし、寿江子が台所に働いている間、ポストへ行きました。そして二十九日のに、やっとめぐり合ったという次第です。
 いかにもいいおせいぼだったのにおくれておしかったこと。其でも結構なお年玉であることに変りはございません。
 本当に去年はなかなかの年でした。精一杯にやってその日その日を送ったので、回想というところまで時間のへだたりがまだ生じて居りませんが、わたしたちの生活の中で、色調つよき年であったことは疑いありません、四月以降相当でした。でも、おかげさまで病気に戻りもしなかったからようございました、それというのもブランカとしてはここでどうしても暮す、という不動の目的があるからやれたので、さもなければ一寸辛棒しませんでしたろう。腹を立てたりしてね。特にわたしとして内部の収穫多き一年でした。船酔いでもありそうな日は、とあり、あんまり適切なので笑えました。あなたお酔いになる? わたしは、船と飛行機は駄目です、普通の酔いかたで、みっともないが単純なのではないのよ、到って行儀よくて何一つ胃から逆流させませんが、血液循環がどうにかなって、脳の貧血、全体の貧血が起り、眼をあけたまま夢中になってしまって、飛行機なんか下りて半日は病人です。それが一定の時間を超すと、そのまま死ぬのですって。閉口ねえ。ですから、船酔いのありそうなとき、良質の空気が助けとなるということの適切さは、それこそ命の素というわけです。あなたも、余り気持よくなさそうに船酔いでも、と書いていらして面白いこと。泳ぎの上手い人は酔わないのじゃないの? やっぱり酔うの? 尤も船酔い、人当りいろいろ毒素は放散されますものね。
 親舟子舟のいきさつは、相当もう保証つきと思われます。子船としての便宜、というようなこせついたことを考慮する段階は主体的にも客観的にももう通過してしまったと思われます。子船が丈夫に役立つようになったというばかりではなく、ね。あの船たちは、綱を切られてしまうか、それとも、親船にきっちりとうまくはめこになって更に遠洋の航海に耐えるか、二つに一つという時をいつか経たと思います。そして、幸組合わせうまく造られていて、工合よく堅牢にきっちり航行態勢が整えられたのであると見えます。見た眼にさえその姿はすがすがしいでしょうと思うのよ。そして、人間の生活ということについて、すこし心ある人ならば、新しく思いを誘われるところもあるでしょうと思うの。そこに人生詩のかくれた力、芸術家たる所以、作品をして永生させる根源の力がひそんでいると信じます。人生は森厳であり、そこ迄行ったとき、初めて萎靡イビすることのない美しさ、平凡になり下ることのない高邁さが生じるので、もしそんなところに行けるとしたら、肺活量のゆたかさについて感謝しなくてはならないと思います。それにね、「空気」ということを、わたしは幾重にも興深く感じます。空気は恐怖を感じさせない不思議な力をもって居ります。いい空気ほどそうよ、それは美味であるし快適であるし、益※(二の字点、1-2-22)こころよく其の裡に心も身も浸そうと欲するものです。わたしに、そういう空気があり、混濁した瓦斯っぽい中で息苦しくなると、その空気を心から吸い、そして元気をとり戻します。その空気の流れるとおりいつかついて行って、そこには特別な躊躇だとか狐疑だとかいうものはちっとも起りません。これは考えれば考えるほどびっくりして、マア何と性に合っているのだろう! と満悦と恐縮を感じます。だってそうだと思うのよ、すこし謙遜な人間なら、自分に、それ程性の合う天のおくりものをさずかったら、ありがたさに恐縮せざるを得ないと思います。しかも、その空気は、本質の良質さを明瞭にするために、実におどろくべきテストを経るのですものね。実に恐縮です。そして、そのような滴々是珠玉のような空気によって、わたしが健やかにされ、天質のプラスの面を引き出されてゆくのかと思えば、殆ど空おそろしい位です。自分に果して十分の消化力があるかどうかと、畏れます。あに、精励ならざるを得んや、というのは真実であるとお察し下さい。
 お手紙がうれしかったせいもあって、きょうは二階へ水を運び上げ火の用心をし、さてそれからチャンスと思って風呂をたきつけました。いい工合によく燃えついていい気分で、台所の裏で石炭集めしていたら、どこかでザアザア水が流れる音がきこえ出しました。又どっかで水道パイプが破裂したのかと思ってき口へ来て見たら、どうでしょう、いい焔を上げていたカマの口から、地獄の洪水みたいに黒い水がザアザア流れ出して居ります。循環パイプのカマなのよ。上り湯のパイプがわるくなっているのを思い出しすぐ上り湯をあけました。それが原因だと思っていたら、さっき、みかんの皮(ミカンの少々の皮、ふろに入れると手のアレ直し)を出しに浴槽をあけたら、湯槽の方の太いパイプがそこ抜けになってしまってすっかり減っているの。ああやれやれと歎息してしまいました。これで哀れなブランカは何日かヒビだらけの手でお湯に入れなくなりました。今こんなパイプの直しなんかおいそれと引受けるところはありませんし、どうなることでしょう。もしかすると、これで当分フロおじゃんということかもしれません。そしたら目白の家でつかっていた丸形のをお医者様のところから引上げてでも来るしかないでしょう。一休みして、二階へ干したふとん始末に上ったら又ここでも水騒動。太郎が生れたときこしらえた大ダライに水を満々と張ったはいいが、いつも風呂場のタタキにあってわからなかったスキがあって畳がすっかり水を吸っているというさわぎです。バケツでかい出して屋根からすててね。漸々ようよう其でコメディア・フィニタ。ブランカも多忙でしょう? この頃は何でも老朽で、其を直せませんから、こうやって用が二重になったりいたします。
 老朽と云えば毛糸足袋下。はいてみたら、何と云ってもこっちが暖いわ。いくら私がこしらえたって薄いものは薄いのですもの、あなたがおやせになったせいばかりとは申せません。今年はじめて別のをおはきになったのですものね、鷺の宮であなたの足袋を縫ってくれるというので、ネルや帯芯をもってゆき、もう出来ましたって。近々足元がいくらかましにおなりでしょう。鷺の宮やてっちゃんは、歳月で褪せない暖いこころがあって、うれしゅうございます。
「風に散りぬ」の話というのはね、この間偶然、あちらに永年いた婦人に会い、その人はよく様子を知って居り「今昔物語」の紹介なんかしている人ですが、その人にどうしてあの作品は大作なのに終りがああ弱くて、展望的でないのだろうと話したら曰く、「そこが南部の伝統ですね、ヴェラ・キャーサの作品なんかとその点全くちがいます。南部は今でも南北戦争を争っていますよ、経済的にすっかり駄目になっていて回復出来ないでいましたからね。尤も今度の戦争のあとは異って来るでしょうが。今度のルーズヴェルトの選挙でも半分は南部の投票でした」今までは棄権ばかりしていた由、北部の重工業がドシドシ南部に移動したのだそうです、人的資源と労働力の低廉を求めて。そしたら黒人の大量的北部移動が起ったそうです。今はメキシコから労働力を入れるに大童の由。そしてこのことはメキシコのメキシコ的主張のバックとなるわけでしょう。アメリカ発達史以後の話でわたしには面白うございました。殆どこれで全部ぐらいの話でしたが。
 今夜又ずっと眠りたいことね。何かおまじないをしましょうか。昔岡本一平がフーオンコロコロという占いを漫画で描いたことがあります。それで占ったらわたしは、勲章下げて空のおはちをかきまわしている図というのに当り、今だに苦笑いたします、おまじないの方は一寸思い当る方法ございませんね。わが身を小さき珠となし、その懐に眠らばや。

 一月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二十九日
 きょうは、大御無沙汰のあとで久々にゆっくり書きはじめました。しかもきょうの手紙はね、百合子というだけのさし出し書きではすこし不足で、危くふっとぶことを免れたブランカより、という風な書きかたが入用です、昨夜九時すぎに来た一機が照空燈(サーチライトをこういうのよこの頃は。)に捕えられて上空に来かかり、きっと割合腰抜けだったと見えて周章していきなり、ポタンコ ポタンコとやりました。京浜地区警戒を要すというラジオでいつも壕へ入る仕度いたします。菅谷夫妻は、いつも泰然ですが、昨夜はいち早く来て主人公外へ出て、壕のふちに立っていたら、来ましたよ、来ましたよ、ホラそこ、真上でいやがる、というの、わたしには全然見えません。入りましょうよ、と細君と壕に入ったらとたんに何と云ったらあの音響と地響が表現出来るでしょう。つまり夢中になってしまうような音がして叫ぶようにキューンという鋭い音がいたしました。思わずかたまってちぢみこみました。又、キューンというの。焼夷弾よ、見なくちゃ、さア、ととび出して見ても分らない、うちに、パン、パーンとごく近くで落ちたのが爆発する音がいたします。近いわ、そのつもりで。とわたしは二階へかけ上り、あっちこっちあけて様子を見たら南の高村さんの屋根の裏がもう火の手です。やっぱり電話局よ、白いからね、と見ているうちに火はひろがり外へ様子見に行った菅谷君の話では電話局の前の通りで林さんというお医者もやけてしまったらしいとのこと。細君は、肴町の通りの春木屋という鳥やね、あすこが生家ですから、そっちを心配し御亭主はかけて見にゆきそこらの状況が分りました。細君も実家を見にゆきたいというのよ。風が北だからこっちは安心だから行くといいわと云ったら息せき切って戻って来て、奥さんそれどころじゃありません、団子坂の角がやけていて門の前から非常線で通れません、というの。じゃ一寸見て来るから、と門へ出たら門から非常線で団子坂の角の米やがあったの御承知でしょうか、あすこから鴎外の家のあったところ、そのずーっと先まで火の由。いろいろの情報を綜合してこちらは丁度巨人の歩幅の間に入った小人のような位置だったと分りました。うしろと斜前、横、爆弾でした。それぞれ小一丁もはなれて居りましょうか。
 第二次、第三次と来たときまだ火が見えて心配し、電燈もとまり警報もきこえず月明りをたよりに土足で家じゅう歩きました。日大病院もやけました。相当の範囲ね。こちらの側は、団子坂の角あたりと、その線をのばしてすこし上へ上ったところで星野という家につき当る角がありました、あの一寸入ったところ位で止りました。
 けさは疲れて八時前御見舞に来てくれた国男の友人に会ってから又、湯タンプをあつくして眠り十一時までぐっすり眠りました。千駄木小学校・駒中・郁文へ避難した人々が一時集っていて、こちらの前の通りの人通りは遑しゅうございます。
 水が不足ね、何しろ乾いて居りますし。凍って居りますし。大体どういう風と分ったのはいいが、あんまり瞬間の判断も出来ない程の突嗟のことで、其には閉口ね。本当の塹壕生活ならいいが、こうして日常性とそういう異常性とが交錯した生活はこれから益※(二の字点、1-2-22)大変でしょう。こちらの組の米、味噌、マッチ類の配給所もやけてしまいました。今度の月番は大変でしょう、こちらは丁度昨日で終りました。マアこんな風で、ブランカもつつが[#「恙」は底本では「※[#「恙/虫」、527-5]」](妙ねすこし)なかったことをおよろこび下さい。机の上に、内科読本など揃えてそのままとんでは哀れを止めてしまいます。
 二十五日のお手紙、ありがとう。一昨日頂きました。あなたのお手にも紅糸綴りが出来ましたって? まあ。ねえ。ことしはあなたが瘠せていらっしゃるばかりでなく三十年来の寒気の由です。そのために、どこもここも凍りついて水道のパイプはこわれるし、直す資材はないしこちらなんか大不自由して居ります。十年ぶりに起きておすごしになるにしては愛嬌のなさすぎる寒中です。残念なことです。こう凍りついてキンキンかたいと、春ある冬の詩趣だけでお暖り下さい、と思うには、ブランカもすこし人間くさくて空々しいほどの詩情は披露いたしかねます。そのくせ、つくろい物はのろのろおっかけというのではどうも器量が上らないこと夥しい次第であると思います。手袋もそんなでは何とかいたしましょうね。変に指をひっぱってはめたようなずらしたような工合にしていらっしゃると目につきましたが、おそらくあれはつまり指先は持って生れた皮ばかりという手袋になっていたのだったのね。
 さて、こちらの留守番の人夫婦。他人と棲むとしては申し分ないとすべきと思います。〔中略〕面白いことにね、この節の暮しというものは、元はよく、ホラ、御飯だけ炊いて貰っておかずは各自という共同生活がありましたろう、あれがこの節は、おかずは一緒で御飯は別なのよ。この間うち、朝起きて顔をみるやどうしてこう御飯が足りないんでしょう! と頬っぺたの赤い、がっしりした細君が訴えるの、そちらへ行くというその朝の忙しさの中でさえ。寿が、十五日にこの二人が来ても帰らずずっといて、あの人が又お飯好きです、それでぐっと食いこむのね、そこで、御飯は別々ということにして面倒でもこちらとあちらと炊くのよ。そしたらすっかりそういう煩悶も解消で工合よくなりました。〔中略〕しかしこうして他人が来ても、前もって居るという話になっていないあの人がいるという点なんか、ぐーっと押しで無視して、こんどは用のない人の粘りで粘られるから、わたしのような人間はゴーが煮えます、キモがいれます、島田の言葉で申すと。わたしは自分のしたいこと、手紙かくことさえ時間がない暮しだのに、〔中略〕
 さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。
 きのう(三十日)帰りに三丁目から南江堂へまわりました。あのひろい間口の店が半分だけになっていて、本と云えば全くあの棚にチョビリこの棚にチョビリで埃だらけの台に雑誌が並んで居ります。衛生の部には工場能率増進についての本が二三冊、営養関係の本と申せば乳幼児に関するものだけ。お話の外です。国民服を着て奥で喋っている男に訊いたら曰く「さアわかりませんな、この頃ちっとも扱いませんから」そこで別送の雑誌一つ買って一円七銭のところを五十銭出したら突かえして「こまかいのありませんか。雑誌なんかおことわりしたいんですから」という挨拶です。びっくりしてしまいました。自信がないのね。医者の本を扱っているくせに学問の恒久性というものがちっとも分っていず、商売のつまらなさでくさっているのね、こんな代表的な本やでこんな人間が今の時期店番をしているということは一つの恥辱の感じがしました。本を買いたい人は、呉服屋へ行くのじゃあるまいし、熱心に探求心をもっているのですから。そのくせ、その男は奥じゃ変に亢奮して飛行機のおっこちたときの話かなんかやっています「映画にある通りそっくりですな、こう」と手真似してね。実に今の下らないタイプをまざまざと見学いたしました。仕方がないから向い側のやっと開いている一軒古本やへまわって見ました。やはりありません。金原の、あの叢書ね、あれの腸間膜の病気についてのが売れのこり、小児の梅毒か何かの本があり、歯科の本があり医事年鑑などばかりです。何とも手のつけようのない有様です。さがしても見ましょうが(神田辺を)目白の先生にたのんで見ましょう、何かあるかもしれません。そしてこちらの営養の本を見つけましょう、仰云っていたのを、ね。本のないこと、本のないこと! 一寸通って御覧になってもあの通り街の店の八分通りはしまって居りますものね。
 それから肴町へ出て、非常線を通して貰って焼あとを通りました。相当なものです。東京からみればそれは一部に軽微な被害ですが、界隈に住むものとしてはつよい印象です。鴎外のいたところもどこも分らなくなっていて、煙の彼方に根津かどこかの樹立がぼんやり見えて居ります。団子坂のすぐ角まで、左側――そちらの方の側は、表からひとかわで止りましたが。林さんという医者の低い煉瓦の門が四角くのこっていて、そこに瀬戸ものの表札がわれもせずきれいにのこって居りました。面白いものね。そういう風にしゃんときれいに表札がのこっていたりすると焼けてもその人の命はつつがないという晴々した感じでした。このお医者はこちらの古馴染でわたしも世話になり、日頃電話局の前だからあぶないものだと云っていましたから気にして居りました、見舞ったら一家無事で何よりでした。
 十二時頃帰ったら昨日はこちらもお見舞の人が多く、国は三十一日までという所得税の申告書きでねばっていて、到頭わたしは手紙もかけず。ですから今日はうれしいのよ。
「指頭花」が氷結したような工合になって居ります。しかし、氷花の中につつまれて、咲いている不思議な可愛い花の姿は又格別の眺めです。忙しくて、びっくりして、火がボーボーで、でもちらりちらりと燦く霜柱の宮のなかに、ちんまりと暖かそうに、浄らかにおさまっている花を髣髴して、いい心持です。詩の御披露までに氷はとけませんけれど。
 二十五日のお手紙に、氷の裡で詩も作れないのが現実とありましたけれども詩の功徳は不思議なものよ。凍っても生きている花の美しさがあるし、詩の生れ難いほどの凍結のきびしさを縫って、猶点綴する花飾りが想われますし。ことしの冬は、氷垂つららのなかにこめられた指頭花ですね。そこに独特の可憐さもございます。

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月三日
 氷のとける雪というものもありますね、初春らしいこと。氷ってしまって困っていた水道が雪で出るようになりました。これで喉をわるくしていた人もましになりましょう。でもきょうの風はさむいこと! 真北で。二十八日以来、風向きに気がつくようになりました、西北だったからこそ助ったのでしたから。焼跡の雪景というものは独得な眺めです。
 きょうの帰り、北風特に身にしみたのは、あなたの「もう駄目だね」が相当きいていたのだろうと思われます。駄目だね、はこれ迄も頻りに伺いましたが、もう、というのは耳新しいわ。たった二字ですが。御自分で気づかず仰云ったのでしょうね、気づかずおっしゃった二言に、どんな真実があるのでしょうね。でもマア気にいたしますまい。自分で自分をはげまして、もう、でも、そろそろでも到頭でもいいことにしておきましょう。駄目だね、が実際である以上、自分で其を承認している以上、上につくものへ注文してもはじまらないわけですものねえ。更に明瞭なことは、何がつく駄目であるにしろ、ブランカはやっぱり駄目だねと云われるべくあくせくするのですから。
 さて、南江堂の目録は、幸にもちゃんとありました。これを見ると、全くこういう本も出した、という記録品の感じがいたしますね、南江堂のがらん堂については前便で書きました通り、二十九日のお手紙で列挙されている本たちもその影だになしよ。しかし手帖に書いておいて(!)古本やをすこし見ましょう。古本やが用をなさなく成って居りますけれども。目白の先生にたのむときこれらを書いて見ましょう。一冊でもあればいいけれども。それから『営養食と治病食』。見つかりません。病気関係の本は一まとめにして一つの本棚に入れておいたのですが、どうしたかしら。自分で売ったりはいたしませんから、いなかった間にまぎれて行ってしまったかしらと思います。
 もう一度さがして見ましょうが。御免なさい。
 ブレブロールはそちらへ一ビン行っています。二度目と思ったのはポリタミンとごっちゃにした記憶でした。肝油は一ビンとってあります、大切にして。あとは目下品切れの由、きょうききましたら。品切れで閉口いたします、何も彼もだから、やりくりも遂につまってしまいます。
 エビオスの定量。あれは酵母剤で、そんなにむずかしいものではないらしいのですが、今もしもと思って買ってある粉末のは一日三グラム以上とあり、粒にして六粒―十粒ぐらいのものではないでしょうか。栄さんは愛用者で十粒ぐらいずつのんでいるようです。腹工合のさっぱりしないときは、すこしよけい、という風にしているようです。ビンに書いてなかったでしょうか。大体ああいう薬は、早くなくなるといけないという商売的用心から一度に二粒とよく書きますが、そういうときは、あんな性質のものは十粒(一日)ぐらいでいいのではないかしら。御自分の工合でいいのではなくって? のぼせるものでもないのだし。
「動かぬ旅行者」というのは適切だと感服いたしました、そして熱帯と寒帯とを通るということも。「絹の道」「北極への道」人類が雄々しく踏破した道は幾多ありますが、歴史は動かぬ旅行者の歴史から歴史への道というものを出現させました。本当に熱帯と寒帯と、思えば整備員の不熟練、質の低さは決定的なものです。
 今年は、お着になるものなど、怪腕をふるって、われ乍らびっくりものです。わたしは地道な人間で怪腕はよかれあしかれもち合わせないのですが、事一度裁縫に関すると、振う腕ごとに怪腕になるのだから凄じいわね。技術を習得しても怪腕に変化はいたしますまい、それはどうぞ御含み下さい。そういうことの器用人は又別でね、わたしのは、必要を極めてがんばって主張したという風な裁縫なのよ、あなたの針仕事を女性化したという程度ね、おそらく。でも、幸、わたしは、台所はしませんでした、何はしませんでしたというような消極人でないから、おそろしい綿入れだって何とか征服いたします、あなたとしては、時おくれやとんまや、その面だけがお気づきでしょうし、其は実もって尤もですが、わたしの昨今の諸事業征服は、そうそうすてたものでもないのよ、公平にみれば。気力でやりとげる的縫物でさえするのですもの(!)
 最近材料をそろえて、鷺の宮へ行って足袋縫いをいたします、ついでにお風呂に入って、国男がいるから泊って来ます。昼間風呂をわかさせてはすまないし、夕方入れば帰るのが困るし。今市電十時で終りですから。
 国男たちがゆっくり眠って休むように、と開成山へ誘います。たしかにねまきになって髪もほどいて眠って見たいわ、けれども、この一ヵ月ゴタゴタつづきで、やっと寿が帰ったと思うと国で、わたしはおちおちした自分の時間がありませんでした。一人でいたいの、実に一人でいたいのよ。本をよみ、手紙もかき、そちらでは覚えていたことをいつか忘れるような毎日でない毎日が送りたいのです。一週間、仮にのんびり眠ったとしても、食べて眠るだけに、安らかさはあるのでないから、わたしは矢張り参りません。子供たちは見たいけれども、キャーキャーワーワーで、気が安らかでないと思います。本やとの話が気にかかって居りますからね。わたし一人ならここで何とかして昼間休むことも出来るのだし。「わたしども」の暮しぶりをチャンとやれるのが、一番いいし結果的には其が休養となります、あっちこっするのは少くとも私には却って不安をまします。
 やっと人が来たのに、自分がガタクリ動いては何の甲斐もありませんものね。国は十日かおそくとも十五日いて帰る由です。あのひとも、そうやっていますが、徴用のことがあるから、どうするでしょうね、そうしたら東京にいなくてはならないでしょうが。そうなればブランカ恐慌です、御察し下さい。
 段々汽車の旅行が困難になりつつあり、其は加速度的傾向です。ブランカにとって長途の旅行はあらゆる事情から困難となります、疎開先についてあれこれと考えて居ります。好都合に近く運びたいと思います、地方半定住のことも、想像していたようにゆきそうもありません。地方的偏見がつよいから、そして混乱期のそういう偏見の結果は計らざる不幸さえ招きますから、東京にいてさえわけの分らない目に遭うものを、そういうあぶなっかしさにあうのは愚劣ですから。暮しかたはむずかしくなりまさりますね。よくよく練って研究の必要があります。それに、本が一層不便になる場合、生きた雰囲気が活溌に送りこまれることは最も必要なことでしょうと思います、そして、そういう生活雰囲気は、同じ小さい空の下で、ましてや歩くのは一本の道と限定されて会う人もとやかくという環境では、極めて流動をかきます、動いてしかも動かない旅行者に近い事情に生活することは大局からよくないでしょう? 補給の上からよくないでしょう? この頃そう考えて来て、しかし乍らここの家もいつまで無事か分らず。さてさてと思って居ります。いずれにせよ、船のいらない疎開先でなくては困ります、船はタヌキの舟でなくても沈むのよ、ユリは酔うのよ、空気は性にごく合っていても、袋に入れて吸入用にならないし、クラウゼさんの云い草ではないが、長い補給路ほど辛いのですからね。半年後に日本の旅行は全く異った相を呈するでしょう。汽車は去年の種から生えないのが不便です。電車にしてもね。人間の足幅だけで、地べたを刻んでゆく旅行が再出現したとき、どのような「奥の細道」が創られるでしょう。「十六日夜日記」が出来るでしょう。ブランカの足が刻める距離ということも冗談でない或時期の考慮にのぼって参ります。条件がいかにも複雑ね、そして反面には残酷に単純です、ふっとばされなければ、という仮定について考えてみれば、ね。この二つの面を縫って、何が先ず大切か、という判断だけが正しく進退せしめるというわけでしょう。手がかじかみます、本当にさむいのね。

 二月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月十八日
 きょうの静かさ、陽の暖かさ、身にしみるばかりです。一昨日は、相当でしたね、ヨーロッパ的規模に近づいて参りました。朝、小型数十機という情報をきいた瞬間、段階が一飛躍したと感じました。一昨日は夕飯前まで戸外(壕)と台所の板の間とで暮し、夜は国が食堂に臥てラジオの番をいたしました。わたしは、又次の日どんなにして暮さなければならないかしれないから二階でふだんのように眠りました。きのうはましでしたね。しかし遠からず、あの時はまだ延千ぐらいだったのだものと云うことでしょう。益※(二の字点、1-2-22)よく暮し度胸もよく暮したいと思います。
 国、昨夜十一時に開成山へかえりました。咲の方が手つだいいなくなって、手紙かく間もない生活となり、何かあったら全く太郎一人が対手なので、切符入手出来たのを幸、一番安全そうな時間を見計らって急に立ちました。菅谷君出張、細君田舎行。昨夜又候またぞろたった一人で、田舎から帰れるかどうか分らないから三四日は一人とあきらめていたら、けさ其でも細君帰れました。これでよかったわ。女だって二人ならば、ね。いよいよ地下生活の時期になった、と新聞で書いて居ります。これ迄も壕で昼飯をたべたことは一昨日までに一二度はありました。うちの壕は入口のフタの傾斜がゆるやかでカンノン開きで見てくれの薄板で、それが弱点ね、機銃の玉なんかいくらでも通ります。其に、生活万端やるとすると狭いわ、一人で一杯です、電燈もないし。
 国は荷物もってゆくつもりで例によってどたん場まで愚図愚図して居たら、一昨日以来一般小荷物受付中止で、家じゅうひっちらかしたまま、自分のふとんさえしまわず行ってしまいました。〔中略〕まあ今時の往来ならそんなものかもしれませんけれど。当分小包も受付中止よ。田舎からは来るのでしょうね、さもなければ、わたしたち干物よ。
 この間の火曜日、ね、お目にかかって帰って来て、午後から友達が来ました。何だか四角いものをふろしきに包んで、はいとくれました。近頃は勘がよくなっていてね、其はすぐお重とわかりました、が、どうして又こんなおみやげがあるの? と訊いたら、いやあね、お誕生日じゃありませんか、とぶたれてしまいました。本当にそうだった! マア、マアとびっくりして、よろこんで又呆れられてしまいましたが、わたしはしんから可笑しゅうございました。だって、火曜日にお会いして、十三日なのをわたしは勿論忘れていたし、あなただって決して特別に意味のありそうな顔つきをしていらっしゃいませんでした。こうしてみると、誕生日そのものよりも、日々をどう生きているかということが切実なのだと改めて思い又、いかにもいそがしいのだと痛感いたします。忙しがって生きて、誕生日を忘れているのも今時のお目出度さなのかもしれません。十二月二十日に国が開成山に発ち、その午後寿が来て、一月二十九日、国の帰る日まで居りました。それからきのう迄、国がひとを使う使いかたと云ったら。使っているようでは一つもないけれど。〔中略〕
 わたしはきょうは、本当にお風呂にでも入って髪でも洗ってさて、と自分の暮しをとり戻したさっぱりしたよろこびをあらわしとうございます。残念なことにどっちも出来ないわ。お風呂はボイラーの底抜けが直らず、目白からもって来た桶はまだ煙突がないの、おまけにすこし底があやしいのよ。髪を洗うことは、疲れすぎて昨夜風邪ぎみでしたから、やめなければなりません。
 きょうは、どこの家でもくつろいでいるのね。こうやっていると、カナリアの囀る声に混って、うれしそうにさわいでいる隣の子供の丸い足音、人の声がいたします。さっき台所の裏の氷った道を、組長さんの近藤さん(うらのはなれに住んでいる画家)が鼻歌をうたい乍ら通りました、そんな気分なのよね、だれもが。国が来たらお米の不足の騒ぎまでひとりで才覚しなくてはならぬ始末でした。国という人は永生き性よ。留守の間に二人分配給のあった米が、不足な訳はない、という根拠で、わたしが気をもんで苦心していても感じないか或は一言もふれないのよ。凄いわ。そして、自分は「田舎のおなか」で東京暮しをいたします。寿が逗留していたにしろ、寿は米をもって来るべきであり、従って来た筈であり、わたしが寿にお米なしでは駄目だと云えないということはあり得ないこと、なのね。そういう生活態度は何か憎悪を起こさせます。そして、こうやってあなたに毒気を吹きかけたくなるのよ、御免なさい。わたしは、私たちの生活上必要な一つの〔検閲で削除され不明〕だと考えてこういう生活もちゃんちゃんやって行こうと決心していて、それで大分辛棒いいのですけれど、まだまだね。どうしても毒捨袋の口がゆるんで、ついあなたに何か訴えてしまうから。
 図書館ゆきのこと、金・土と実現不能で気にして居りましたら、目白の先生が昨夜見舞によってくれました。早速お手紙を引きくらべて顧問になって貰ったところ、今の雑誌は百害あって一利なし「医者さえ騙かされるんだから」読まないに如かざるものの由です。『戦争と結核』という本はおよみになった方がいいから探してくれる由。営養の本の中では桜井『栄養科学』マッカラム『栄養新説』がよむべきものだそうです、両方とも誰かから都合してもらってくれる由。
『絹の道』はまだよんで居りません、〔検閲で削除〕親しく響きます、そして、クラブに大書されていた言葉の美しさその意味の深さ実現されたらばその勝利の人間らしい見事さにうたれます、それは、おそらくクラブの白い壁に横長く貼られた〔検閲で削除〕の赤地に白くぬき出した字で書かれていたのでしょう。〔検閲で削除〕に、そういう一ヶのクラブが立ったというそのことが既に、沙漠における人間叡智のかちどきだったのでしょうね。あっちの女のひとは髪を編み下げにしているのよ。顴骨カンコツが高い角丸の、眼の大きくない顔で、よく往来を歩いていました。沙漠に生える蕁草いらくさのように背の低いがっちりさです、かたくて。
 この頃わたしは屡※(二の字点、1-2-22)思います。鴨長明でなくても東西の賢人たちは、人間があかずくり返す破壊と建設を、ただその反覆において一つの愚行だと見て来ました。結果人間は愚かなものだ、という風にね。でも、果してそうなのだろうかと思う方は大したものだと思って。
 きょうはもう二十日となりました。早さおどろくばかりね、壕生活を、わたしはすこし張り切って居ります、というのはもとより望むところではありませんし決して永もち出来る風土的条件ではありませんが、それでもそうなったらわたしは自分のこれまでの諸生活の形態から学んだやりかたを十分活かして、最大に快活に健康に堂々とやって見ようと思って。そのときこそわたしは人間はいかに生きるかというキリキリのねうちが知られると思います、厖大な家を、ゴミだらけにしているユリちゃんばかりが、わたしではないのですもの、ねえ。

 二月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月二十三日
   二十四日
   二十五日
 きのうの吹雪は東京に珍しい光景でした、本当の吹雪で。一尺近い積りかたで庭の雪景は眺めてあきません、二階の庇が重くなったらしくて雨戸が動かなくなったり。
 父の亡くなった十一年は二月に入ると大雪つづきでした。いかめしい建物の庇合わい[自注3]にうずたかく凍って、いつまでも白く見えていた残雪の風景を思い出します。楓という樹は若葉が美しいばかりでなく、秋が見事なばかりでなく、雪を枝々につけたとき大層優美なのね、末梢が細かいから、そこに繊細に雪がついて。きのう沁々とながめました。雪景色の面白さは、こまかい処にまで雪が吹きつもって、一つの竹垣にもなかなかの明暗をつくる、そこが目に新しく面白いのね。雪は本当に面白いわ。そして、薪を雪の下から出して、サラサラとはいたらちっとも濡れていなくてすぐ燃えました、雪の下の地面は、降ったばかりのときは全く干いているのね。ほんとにこれなら雪を掘って人が寒さよけにするわけと感服いたしました。これまでも見ていたのでしょうのにね。もしこんな雪の下に芽ぐむ蕗のとうでもあったらどんなに春雪はやさしさに満ちるでしょう。昔は、わたしがたどたどと小説のけいこをしていた部屋の小庭の松の下に蕗があって、丸っこくて美味しい芽を出しました。わたしには、家のぐるりに、ちょいちょいと茗荷だの蕗だのというものがとれたらうれしいという趣味がるのよ。そして楓の多い庭がすきなのよ。季節の抑揚ある樹木が庭らしいわね。紅梅の濃いのがほしゅうございます、よせ植えはいかがな様子でしょう、それでも梅は梅なりき、という風? 蕾がそだって居りましょうか。一本の濃い紅梅の下に、蕗のとうがめぐんでいて、雪の上に陽炎かげろうが立ち、しめた障子のなかにわたしの一番仕合せな団欒があるとしたら、そんな図柄は金地の扇面にこそ描かれると思います。雪はそんなに日本らしいのね。五月の新緑のときの、灰色空の嵐、驟雨、ぬれた街路樹の青々した行列、稲妻、そんな風情はこってりとした濃い感覚からどうしても油絵でしかあらわせません。日本の美術は春嵐という六月は描けたが、人を夢中にする五月の嵐は余り表現いたしませんね、そういう自然の横溢が美しくてこわいような裡を、わきにいる人からうける安全感に護られ乍ら、顔を雨粒にうたせつつとっとと歩いたらどんなに爽快なことでしょう。こんなに書いて来たら、到頭とっておきの白状をしたくなりました。云ってもよくて? それはね、わたしは自然のいろいろの様子がごく好きです。霜のある夜や月明の夜、野原を歩いて見たいと何度思うでしょう、市街の夜更けや明け方も面白いわ。そういう心からの歩きをしたいとき、わたしは傍に自分の影しかないことを痛切に思います。わたしは、臆病というより自分の身に責任を感じるから、所謂物好きは決してしないたちでしょう? 危険においても人的組合わせにしても。そういう歩きに、つれだって歩いてほしい人がほかにどこをさがして在るでしょう?
 ブランカの慾ばりは、大より小に至る千変万化ですから、御苦労さまね。しかし、それらのまことに些細な慾をもみたしてやったらさぞ愉快だとお思いになることでしょうね。
 きょうは、何となしなめらかな感情の肌の上に、ほの明るく雪明りがさしているような工合です。どうも久しぶりであざらしのようにお風呂に入って、そのさっぱりした皮膚に、雪の白さや雪明りの空気の快よさが作用し、おまけに夜中起きずに十二時間眠った休息が及ぼしているらしいと思います。
 やっと一人になってのうのうして、おまけに雪でしょう? 人も来ず。ね、それに、一緒の細君がやっと居馴染んで来て、私の気風も分って、安心しはじめ、日常的な用心をゆるめて来たので、何となし平滑な日暮しになって参りました。これから、わたしが仕事する、ということに馴れて貰うと、万事好都合ですし、御主人が在宅なら夕飯後は自分たちのところへ引こもるから、わたしは一人で呑気。でもね、ごくなみの意味で、いい方という一括的結論に到達させるまでには、こまごました朝夕の心くばりが多いものね。そして喋るということさえ何と一つのおつとめでしょう。安心して云わないでいいことを云わないで暮せるようになる迄には。特に女のひと対手の場合。少し黙っていて暮したいようよ。
 さて、きょうはあれから南江堂や南山堂めぐりをして、いくらかの収穫がありました。金原商店で、横手社会衛生叢書というのを出して居るのですね、それが幾冊か出ていて、芥川信著行刑衛生。佐藤秀三『社会と医療機関』竹内『公衆衛生』などあり、『海軍衛生』というのも買ってみました。特殊な生活における保健状態が興味あると思って。何かの御参考になるでしょうかしら。江古田療養所から出ている『結核』これは病理的? らしい雑誌です。南山堂で『治療』というのを出していて、これは体質の治療的関係を扱った記事がどうかと思います。一寸見たところわたしには要領の説明が出来かねますが。『医学中央雑誌』というのを見つけました、各科の文献集録ですが、この号は「内科」で呼吸器を扱って居りますから。『日本臨床結核』というのも、どのようなものかしら。『結核研究』は出て居りません。
 きょうは、(二十五日)警報で一日がはじまり。又雪になって来ました。積もりそうね。こんな天気にB29[#「29」は縦中横]で壕入りは閉口と思って居ります。大挙来襲しそうに見えたのは、詳報なしの由、よこへそれたというより、手前で稼いだというわけでしょうか。Bでヘキエキするもう一つの理由は、急に食堂の大ガラス戸が二枚動かなくなりました。Bときくと全家開放なのよ。小型機ときくと雨戸をしめなくてはならず。〔検閲削除〕マア二十分後に到着ですって。〔検閲削除〕
 二十六日。きれいに積った雪が庭では一尺五寸もありそうです、ところで、昨日、手紙あすこまで書いたのが殆ど午後二時。三時すこし過には、このあたり大修羅場を現出して、一月二十八日の夜の数倍の轟音と、すぐうしろの藤堂子爵の火の子で大奮戦をして五時すぎやっと安全となりました。夜中のブザではもう体が動かず、三つ四つの轟音をふとんかぶって失敬しました。日暮里の方に向って、うちから半丁ばかりのところに大疎開道が出来たということには何かの理由があるでしょうね。一ヵ月に一度ずつ、こうしてつい十四五間先にバクダンがいくつか落ち、火と闘っていると、いやでも度胸が出来ますね。どういう線があるのかしらないけれども、うちはその線の下で、いつもほんの指のかげん(ボタンを押す)みたいなところでタマはまぬかれて居ります。しかし保たないでしょうね、ここの線はB29[#「29」は縦中横]線らしいわ、そっちの受持ちらしいのね。寿が、いい工合に前日(二十五日)来ていたので昨日は火の見張り、水くみ、けさは雪かき、情報ききと親身に活躍してくれて、大いに助かりました。いる女の人は火が近い、となると、自分のものをもってうろうろして、私が云ってやっとバケツもって出てゆく程度ですし、最後まで安全と思っていたところが案に相違して、ひるも夜も同一線に落してゆくというようなことで浮腰たって居りますし。今にきっと何とか云い出すわ。そのときわたしは是非いてくれ、とは云いたくないのよ。寿が来てもいいと云ってくれるから、そういう時は寿がここに暮してくれるよう、開成山に談判しましょう。国が用事で上京する、そのとき寿がいては困るというのは余りひとを馬鹿にした話だしするから。でもね、国に云わせれば姉さんがいるからそういうことになる、というかもしれないわ。
 けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう? 昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。日暮里駅のところでえらい目を見た目白の先生が後へも先へも行けずこちらへ逃げて来たら、火の手が余りなのでわたしが果してどうかしらと思っていたら大きい声が聞えたので安心した由、タンカの上で全く意識を失っていたときの様子[自注4]が(夏の病気のとき)すぐ思い浮んだそうでした、勿論そちらはお変りなし、ね、そう思って書いていて、急に何だか自分の安心に愕きました。あなたの御気分とこういうことの安全とは別なのにね、何と永年わたしは大丈夫と思って暮して来たことかと思います。自分も何だか大丈夫と思っているのよ。可笑しいわね。では明日。

[自注3]いかめしい建物の庇合わい――市ヶ谷刑務所の建物――父の死んだ時、百合子はこの建物の中にいた。
[自注4]タンカの上で全く意識を失っていたときの様子――一九四二年七月、巣鴨拘置所で百合子が熱射病でたおれたときのこと。

 三月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(和田三造筆「戸穏神楽舞」の絵はがき)〕

 三月七日 余り手紙のつきがおそいからこんなハガキさしあげて見ます。きのうの帰途きょう、どちらもすぐ解除で安心いたしました。雪と雨とで壕がしめって大事にしまっておいた封緘の糊がくっついてしまったので、今コタツに入れて干して居ります。これから雨が多いとしめって困ることね。パール・バックの支那の空という小説があります、お読みになる気があるかしら。近作です。「大地」などとタッチが違い、書いている場所の相異を思わせます。

 三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月十一日 ウラに書くの、やめましょうね。裏と表とがぬけてしまうとつまらないから、ね。
 二月二十三日のお手紙頂きました。ありがとう。今年のおそい大雪は、路をゴタくりにいたしましたが、おかげでうちの屋根は火の粉から守られました。きょうは、食堂の南側の陽向に背を向け、例の小机をおいてこれを書いて居ります。カナリアが風の中に囀って居り、ラジオの横に柔かい桃色と白との春らしい花があります。この花は丁度二十四日だったかいかにも春雪という感じの日に団子坂下の花やで買って帰ったのでしたが、その花屋はもうありません。カナリアの餌もどこで買ったらこれからいいのかしら。家の様子も十日の明方からすっかり変って、春木屋といううちにいる細君の実家の一家が五人ぞっくりと若い男の子女の子、母親が来て居ります。この一家は、いろいろのものを疎開し、御宿オンジュクに住居をもって居り父親は仙台の方に鉱山をやってそちらに疎開する決心して居たので、比較的元気ですしあわててもいず、ようございます。田舎行までいるでしょう。
 十日の明方には、もうバカンバンバンには辟易しているので恐縮していたら、そうでない方だったので勇気百倍、まして北風で向きがよかった上、北方上手に投弾されなかったので大助りいたしました。烈風でしたからよほど弾は流れ見ていると、殆ど横に吹き流されていました。主人公もいて(菅谷)屋根にのぼり見はりをして、ああいうとき屋根の上に男がのぼっているというのはいい心持です。となりの家では十三四の男の子がのぼり其でも一々下の母親に大体の方向を叫んでいました。男の子っていいことね。
 うちでは非常措置として土蔵の地下室に菅谷のもちものうちのものなどしまい、すっかり入ったら二階の畳をはいで、グランドフロアにしきつめ二階が燃えても地下はいくらか助かるようにしました。他人がいると、その人のこころもちを考え、こうしてここを守ることはとりも直さず自分を守ることにしてやらなければ、ね。その仕事したら手伝に来ていた荷作りの男が、自分のものも入れてくれ、ときのう荷車一台ひっぱって来て自分でしまってゆきました。
 この地下室は因縁があって、英男という弟が高等学校上級の年この中でガスを発生させて死にました。昭和二年頃。国男たちはそれでここがこわいのよ。わたしは遠方にいて[自注5]、自分の目で見て居りませんから、その弟の善魂がそこに在るならあると思うし、おバケが出るなら火消しに出てくれると信じていますからそこを十分に活用する決心いたしました。そしてわたしはベッドを食堂へ持っておりて暮す予定にして居りましたが、目下のところ人員増加で、ここで一緒に食事しているし、すこしそれはあとになりましょう。ラジオがここにありますから、ここに臥る方がいいのよ、一々二階からおりて来るよりは。
 きのう(十日)は一時間半ほどしか眠らないで体がくにゃくにゃだったけれども、御心配だといけないと思って大苦心をして、田端まで歩いて行きましたところそちらもお休みでした。帰りは、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機来て、あすこの辺からうちの辺鬼門故首をすくめて歩いていたら何事もなく帰りました、そしたら解除。
 きょうは、久しぶりにしずかな日曜日で(二十五日も四日も日曜よ)今、その連中も焼跡片づけに出て居りますしうちは一人でこれを書いて居ります。あの足袋は、たしかに傑作の一つね。材料が全く優秀なのですもの。あれが出来たときには全くうれしく何しろ生れてはじめての作品ですから、我ながらほれぼれと眺めました。同じ色の布で自分の分も裁ってございます。が、まだ縫わず、よ。足袋と下駄の鼻緒とはどうしても自分で縫う必要がおこって居ります。しかしこうして男のやる仕事(家具や荷物)も自分でやらなくてはならないから、ほっと一休みしたとき、わたしはどうしても足袋をとりあげにくいわ。本をよみたい心が押えられないし其があたり前と思うのよ。ですから、自分で縫ったものの必要切迫ながら、只今までのところあなた丈です、ああいう足袋はいていらっしゃるのは。反対にわたしはあなたのお下りよ。大量の生産品が、自家製より優秀になってこそ、です、本当におっしゃるとおりと思います、それと同時に通信販売の信用が増すということも、ね。カジョンヌイ[自注6]という言葉が、笑い話の種になっている段階は克服されなくてはなりません。
『国民食糧』お役に立ってようございました。言っていらした雑誌ね、あんなに苦心して(ここまで書いたら、静からしかった空にサイレンが鳴り出しました。)集めましたが古すぎて駄目でしたって。[自注7]残念ね。
 きょうは十二日(月)ひどい風が納って安心です。風は大きらいよ、昔から嫌だったのが、この頃は猶更。
 昨夜目白の先生が見舞に見えて、もしここが駄目になったら、目白へ行くということにきめました、何しろ焼け出されの人々を、御勝手に、とも云えませんし。そして清瀬の方に、もしかしたら部屋を見つけて貰えるかもしれない話でした。開成山開成山と思っていたってどういう風になるかしれませんから、やはり歩いて行けるところに一つ予備のある方がようございましょう。
 やけて来ている人の中に中学一年生がいてね、犬や小鳥がすきで、焼跡の始末から帰って来ると仔犬を抱いたりカナリアを見たりしているの。太郎は田舎で御飯たきをいたしますって。太郎の一生のために何にも代えられない仕合せです。犬好きの少年も太郎も可愛いと思います。十日に行ったときパール・バックの支那の空と支那短篇集『春桃』をおいて参りました。『春桃』は面白い集でした。氷瑩女史の「うつしゑ」という作品なんかも、パール・バックが描いている現実のこっち側から書いているという風なところがあって、やっぱり本国人の作品というあらそわれない味があります。アンデルセン風の話を書いている作家は大変心情的ねガルシンが思い出されるように。日本のああいう種類の作品にあの程度のものはないと思いました。「菊の花」「根」[自注8]などはましな作品でしたが小規模であったしモティーヴが、独語的(よい意味にも)でした、中国文学研究会の仕事としては有意義であったのにああいうのが続けて出なかったのは残念です。きっと興味ふかくお思いになりましょう。近頃心ひかれた作品集です。目白の先生にたのんであった本も、もち主が東京にいなくなっていたりしてなかなか手に入らぬ由、あのお手紙にあった以外の本でもよかったらとにかく貸してもらうとのことでそのようにたのんでおきました。辛い点なんかといつも思っているのではないのよ。時々丁度腕がくたびれたとき急に持ちものの持ち重りがするように、あれこれのことが畳って自分が疲れたりその結果ダラダラになったりつまりこっちが弱いモメントに御註文のテンポの重みがこたえるというわけでしょう。しかし実際問題として南江堂もなくなったし本を見つける困難は言葉につくせなくなりました。『春桃』も金沢市の古本屋から上京した本でした、そういう紙が貼ってあったのよ。昨夜瀧川という夏頃手伝っていた娘が、会いたくて思い切って福島から来ました。わたしは大助りよ、いろいろ手伝って貰えるから。きょうもあっちこっちの見舞に一緒に歩いて貰いました、何だか別のようになってしまった街々のやけたところを一人で歩く気がしなくて。この春は眼をよほど大切にしないと焼け埃で大変です。ホーサンでかえると洗います、ゴロゴロになってしまうのよひどくて。頭巾をこしらえようと思いますフードを。一陣の風がふけばその風のまきおこすホコリは髪と皮膚を滅茶滅茶にいたしますから。普通の服装では駄目です目下ゴム長を見つけ中です。わたしがフードをかぶりジャンパーを着(いつもきているの)ゴム長をはいたら、それこそ何かのマスコットのような姿になりますが、ゴム長でもなくてどうしてあの道をそちらへ行けるでしょう。わたしがマスコット姿でそちらへ通うということこそマスコットなのだわ私たちの暮しの、ね。呉々もお大切に、そちらが、狐火のようなものには丈夫なのは安心です。明日おめにかかれるかしら。くすぶってもいない顔を見て頂きましょう。
 では

[自注5]遠方にいて――当時百合子はソヴェト同盟に滞在していた。
[自注6]カジョンヌイ――「役所の」の意。
[自注7]古すぎて駄目でしたって。――監獄で雑誌は一定の時期がすぎると差入れを許さなかった。
[自注8]「菊の花」「根」――中野重治の作品。

 三月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月十五日
 けさは出かけようとして御飯を終ったとたんボーとなってしまいました、森長さんの返事をお待ち兼ねと思いウナで電報出しました、早く御手許に届くでしょうと思って。
 きょうは又曇りました、そして少し寒いこと。警報がこうして出っぱなしだと、用足しも遠方には行けないから、午後からもし平安だったら、すこし珍しいひるねということをしようと大いにたのしみです。
 七八人もの茨城屋の足音のきつい人々が、夜おそく朝早くとどろとどろとふみ歩いて、もちを焼く匂いを二階までよこして出つ入りつしていると、やはり疲れます、それに、二十五日、四日、十日、とつづけてでしたし、ね、きょうの工合はどうでしょうと思って居ります。きのうは、大洗濯いたしました。焼け出されの躾みとして、ね、洗った襦袢をもっていなくては余りですものね、いろいろ見ているとたしかに、非常の躾というものはあるのよ、女の人なんかは。着たきり雀になる以上、それは堅牢な着るもの、はくものでなくてはいけません。今、来ている瀧川さんという娘が、上っぱりを一枚縫っていてくれます。もんぺも一つこしらえました、それがとりに行きたいのにきょう、これでしょう? 成城というようなところが、こんなにも遠方になります。
 三月十八日
 けさは、目がさめてから暫く床の中にいて、いかにも土が黒く柔かくなってゆく朝のこころもちでした「春らしい朝ねえ」わたしがそう声をかけると、となりから答えがあります「本当にそうですわねえ」これは瀧川という娘よ。このひとの兄は蔵前で到頭義母(妻の母)と焼死しました。
 起きて、朝飯たべて、それから二人で畑ごしらえをしました。この娘さんは畑の畦を切り、わたしは去年の秋からこしらえてあった肥料をかけ、又土をかけ、小松菜やふだん草やを蒔きました。種が余りよくなくて自信ないけれども買いに行っていると、きょうのことにならないから、蒔いてしまいました。この節の野菜なしと来たらお話の外ですから。「この頃のような暮しだと、こわくない半日だの不安のない一時間が実にうれしいわね、玉のようね、だから、そういうとき、本当にたのしいことをしたいと思うのに、ダラダラ儲けた話でつぶれるとくやしいのよ」そんなことを云い乍ら、桜の鉢をいれかえたり、水仙の球根を植えたり、シャボテンに土をかけたりして、殆ど終ったら警報が出ました。
 今、午後三時頃。二度目の解除。わたしは、そのたのしい数刻を尊重して小机をかかえこみ、瀧川という子は、わたしの上っぱりを縫いはじめました。風が出て来て、カナリアのチイチイチイ、チチチチチというメロディアスな声を吹きちぎります。
 きのうは、朝六時にトラックが来て、春木屋の荷と人とをつんで茨城の田舎へ運びました。ここの家には今おやじと中学二年の弟とがいます。弟はずっとここから京華に通うでしょう、おやじは、東京にうちがなくなったから上京すればここに泊ります。「その代りあっちからお米や何かは運びますから」「その代りと云わなくたっていいさ、もって来てお貰いしなくちゃどうせならないにきまってはいても、ね」
 わたしたちが畑をしているとき、細君は椽にかけてつくろいものをしています、息子はムツという犬を抱いてムツが何か食当りしてくにゃくにゃだと云ってしらべています。都会の人って面白いのね、わたしたちは誰かが土いじりしていると、つい誘われて何かしたくなるのに、町の人ってものは、そういう気分が全くないものと見えるのね。
 きのうは、六時頃起きて荷出しにガタガタしたから、何となしうんざりして思い切って成城までモンペとりに出かけました。行ってよかったとくりかえしました。この頃は、わたしの歩く道はどこも焼けっ原で、はげしい人々ばかりで、風呂しきで頬かぶりして歩きます、成城には、まだこわいことが一度もないもんだから、まだ生活を味っている、という空気が往来にも漂っていて、家々の垣根もちゃんと手入れされ、芝生は芝生で日光を吸い、紅梅が咲いたりして居りました、風がなかったので、長い道ものびやかに歩き、親切に友達が縫ってくれたモンペをもらって、夜八時頃はらはらでかえりました、瀧川さんと。
 そして、こういうことを思いつきました、近いうちに、ここへ行って、二日ほど泊って、すっかり休んで来よう、と。考えて見ると、この新年以来、わたしの生活もなかなか大したもので、よく風邪もひかず、病気もしずしのいだものだと思われます、もっとひどくなるに当って、このガタガタな空気をすこしはなれて違った家で、ちがった話して、神経を休めることは大切な養生と思いました。来週のうちに、あなたの御都合のつくときそういたしましょう。土、日、は、東京がこの間うち、いつもやられたのでわたしがいないのは逃げた感じになっていけないと思って、きのうもはらはらし乍らかえった次第でした。時々そうして友人のところへ泊ったりして、段々わたしがいないことにならそうとも思います。一ヵ月に一度ぜひという用事があるという丈になれば、東京暮しにしろ場所は変り得るかもしれませんから。然しわたしの経済事情では、わたし丈別箇の生活というものを殆ど不可能にしています、そのことは、それから先の生活形態のことにも関係するので何かいい方法はないかと考え中です。生活費などというものは、この頃、予算でやれるものでなくなりましたし、或意味では、金で駄目ですから、生活の場所というものは極めてむずかしいことになって来ました。このことは、頻りに考えているのよ、疎開の先をきめる上にも。開成山へ行くのは一番すらりとした道です。しかし、あすこには行きしぶります、わたしまであっちにかたまってしまうというのは、いいこころもちがいたしません。汽車が通じないものとして考えなければなりませんものね。あすこから往復も出来ないと見るべきです、現在もう、そうなのですから。ずっとずっと遠方だって、事情が何とかなれば、行ききりだっていいと思うわ。そちらでの生活が何とかなる見とおしさえつけば。東京との連絡は絶えますし振替とか為替はきかなくなりますし金銭そのものが大いに変化いたしましょうし。どうかいい智慧を拝借。あらゆる面で旅行はむずかしくなり停滞してしまうのではないかと気にかかって居ります。疎開荷物でさえ、今たのんだら倉庫で二三ヵ月の由です。人を運ぶのも、なかなかのようよ。人には人がいります。その人が不足していて。だからわたしも案外東京ぐるりでの生活が継続するのではないかと思います。先ず第一段として、旧市内より外に暮すところを見つけようと思いますが、それもつまるところ、ここがやけてからのことでしょうね。ここがなくなれば菅谷夫婦は、自分たちの便宜によって別になるだろうと想像されます、但菅谷が徴用ですから田舎へ行くことはないでしょうが、縁辺を辿って。「タシュケント。パンの市」という昔の小説のように、食物の確保されるところへ、と向って。わたしはそういうときついてゆく気にはなれません。
 この頃又バルザックよみはじめました。「ウージェニ・グランデ」。そして、何となし思います、文学の本質は何と善良であろうか、と。大作家たる人々は共通の善良さ、善良を愛さずにいられない心の衝動を生涯もって居りますね。俗人は、善良におどろかなくなるし、感じなくなるし発見しなくなるし自分で善良でなくなることをもって大人になったと思います。そして老いさらばうのです。芸術家や政治家の偉大な人々は、人間の善良を信じ、発見し、それに動かされる衝動を枯死させない精神力をもっていて、それ故に不思議な若々しさと単純である故の高貴さをもっています。
 わたしはバルザックを生き返らして、一枚の写真を見せてやりたいと思いました。それは数日前の新聞に出ていたものです、三人の人間が並んで写っていたの、チャーチルは厚外套にくるまって、ずんぐりで、髪がうすく、眼の碧さが写真でも分る眼つきで口が大きいの、あくまで、ゆるぎなきリアリストという※(「蚌−虫」、第3水準1-14-6)ふうぼうです。
 となりに笑い乍ら話しているセオドアは、めっきりふけました。この何年かの生活のはげしさがまざまざと見えます、彼の大テーブルの上の象牙の大小の象の列は昔のままかもしれませんが。やつれて、脚の不自由なこの男は、快活だのに、雰囲気にハムレット的な優柔さ動揺があるのは何と面白いでしょう、この人の輪廓は震動して居ります。彼の精神力の限度に達しているという感じです、まさに溢れんとしているようです、矛盾が。ハムレット的雰囲気というのは、実に実に面白い、こんな写真はじめてです。右の端に元帥服を着た人は、英語で交わされる二人の話に、笑顔で向いています、アゼルバイジャンの髭はなくなって格幅よくどっしりと若々しく手を何と上品にくみ合わせて、首を二人に向けているでしょう。気品というものは、かかるもの也という風よ。チャーチルは荒海で古びた指導のあざらしのように巨大ですが、あまりのリアリズムのために美を失っています。ハムレット風の顫動は、思いやれる様々の点での興味をひくとは云え、そこに感じられるのはよろこびではないと思います。アンの「北方への旅」にあるああいう揺れ(彼女のスケールでは、気の利いたようでもあり機智的であるようにもあらわれる、あの聰明さとそうでないものとの間の微妙なニュアンス)気品人間的尊貴の美しさというものは大した大したものね。わたしははいバルザックさんと見せてやりたいのよ。人類の、こういういくつかの典型を、あなたはどこまで描けますか、と。わたしは、バルザックが困惑するだろうと思って大いに笑えるのよ。彼も大きい心情により、その強壮な心臓によって、気品にうたれるでしょうと思います。しかし彼にその気品の再現は出来ないわ。彼が生涯をその間に投じた利害の波瀾、地位の争奪、奸計のどこの糸をひっぱっても、その品位に到達する筋はないから。品位の解説をするものは、一見それと全く違った文飾ない現実でありますから。面白いわねえ。わたしは、その一葉の写真が、これこそ現代史と呼ばれるべきと思いました。
 こういう写真が、こんな粗末な、刷のわるい新聞に出る、現代は正にそういうときなのです。
 そして、わたしは、十八の少女のように、自分もどうか気品ある人間になりたいと渇望を感じます。十八の娘は、そう感じる丈です。が、今のわたしは生活によって、そういう気品の価値はいかに高いものであるかを学んで居りますから、その渇望はひとしお切実であり、謙遜であり、且つ執拗です。ねえ、ほんとうに精神の輝は何と覆えないでしょう、才能だの、賢こさだの、というものでは到底輝き出せないつやと品位がとりかこんでいるような、その立派さの極単純になっているそういう複雑さ。ああ、ああ。わたしのリズムは高くなって、わたしのささやかなオーデをうたいたくなります。「わたしは知っている」という題で。わたしは知っている、その箱は出来のわるいみにくいものだけれども裡には一かたまりの純金。無垢なる黄金、よろこびの源。世故にたけた年よりは、きっとわざとその箱をこしらえておくのだろう。余り無垢なるものが、時より早く歳月に消耗されてしまわないように、と。無垢なる黄金が、小銭に鋳られてあっちに、こっちに、散ばってしまわないように、と。生き古りて来た年より、人類の、思慮ふかい吝嗇さ、いじわるさ。それらを、わたしは知っている。こういう詩の断片もあるのよ。明日は月曜日ですが森長さんの返事をもって参ります。

 三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二十二日夜
 今、十時十五分前です。そして珍らしい状況で、この手紙をかいて居ります、鷺の宮なの。そこまではきょう申しあげていたから平凡ですが、ここへ来て二十分もしないうちにわたし一人留守番をすることになって細君とまあちゃんが出かけ、七時頃帰るのが、まだ戻りません、ひどい風ね、ここの廊下に立ってガラス戸越しに見ると、南東の方が濛々と茶色にけむって居りました。そっちが市内なのね、日の出あたりの埃のひどさお話にならず、市中塵埃全く目も口も開きかねました。細君と娘とは、野菜のために出かけました。大した骨折りよ、ね。この風、あの混む電車、距離。でも、ここの台所を見ると、あるのは、くされかかったゴボー1/3本だけです。正直な窮乏の姿よ、行かざるを得ません。
 わたしは、前の手紙でお話したように、家じゅうとどろとどろで、おまけに寿江が来、まだ開成山からの娘も居り、寿江が例のとおり気づまりないかめしい在りようをしているので気が疲れて、迚も、出かけるからと云われて一緒に出てあのひどい駅で揉み通す元気がありませんでした。それで留守番をひきうけました。七輪に火をおこし、湯をわかし、ジャリジャリの顔を洗い、髪をとかし、おむすびをたべ、そして床に入って五時まで、ゆっくりと横になって居りました。
 同じ東京でも、目下のところ第一線的地域にいる人間、やけ出された人しかいないような地域にいる者と、こうしてまだ傷かない土、春の樹木のある地域とでは、こんなにして横になっていても何とのびやかさが違うんだろうと、どこかの窓のカーテンが展かれたようないい心地です。同時に、こう考えるの。この風に、そして、旦那さんの安否が不明なのに、電話がかかれば其をのがせなくて出かけて行く生活も大抵でない、と。今は、平常ののびやかさというものは、どこにもないのがあたり前となりました。例えば、わたしの行く家で一ヵ所として室内がちゃんとしているところはないわ。いざという時外へ出すものそういうものが椽側に出ています。壕代りに戸棚が開いていて、いろいろのものが出され積み重ねられています。うちだって、先ずあの風情ゆたかな玄関が、出そこねたコモ包みで荷揚場のようです。そして内玄関へまわると、すこし広いところに焼けぼっくいの材木やトタンがきな臭くつまれて居ります。
 七時に帰るのが十時とは可哀そうね。どんなに疲れるでしょう、帰ったら顔洗うように、とお湯わかしてあったのに、もう火がないわ、きっと。でも勝手に炭をつかうとわるいし。炭どこでもないないよ。お湯を、フトンの中に入れて来ましょうヤカンを。そしたらいいわ、帰ってお茶をのむにも、ね。
 留守番の間に、厚生閣から十五年に出た『短篇四十人集』というのを見ました。十五年頃の作品の内容は、ひどいものねえ。作家と云えないような、習作が作家いって並んでいます。なかでは、尾崎一雄のが作家らしいし大人の作品です。そして、読み乍ら、どうしてどの作品も文学らしい題だけもつけないのかと作家のカンについて奇妙に思いました。最後に集めてある室生犀星の古もの(庭におく石の手洗の話)の作なんか鬼ヶ島という題だったら一寸面白いと思える文章が作品のなかにそのままちゃんとあるのに「宝」です。川端康成でさえ別の作品集の中で「母の初恋」というつまらない題を平気でつけているんですもの、これなんかはもっともっといい題をつけていい作品なのよ文学的に。だのに。やっぱりこれも作中に「愛の稲妻」という言葉があって、それの上を切って稲妻としたらずっと文学なのにね。ホンヤクして見て母の初恋なんて、文学作品の題でしょうか。婦人雑誌のよみ切り小説だって、ましな題をつけます。惜しいし奇妙ね、全く。
 日本の人は、大体一定の様式をもちません。ナイーヴね、題を見てもそれを思います。短篇が断片に通じます。それにつけても『春桃』の中の「かかし」や「記念像」を思い出します。およみになりましたかしら。いい作品でしょう、きょうは久しぶりで十五年度の作品をいくつもよんで、様々の感想にうたれます。こういう程度の作品と作家とで、出版インフレは通過したのであった、と。『ヨーロッパの七つの謎』を土曜日までに読もうとしてけさも熱心によみ、且つ考えていたので、その対比を一層つよく感じます。人間的善意というものの質量についても。
『七つの謎』は、やはり面白い本であるし真面目な教訓にみちた一巻であると思います。人間の善意というものの成長について一つの時代を画したものであり、欧州というものの連関を知らせるものでもあり、善意が、ある段階において現実の推進にとりのこされ得るものであること、そういう場合、それはその個人の悲劇にとどまらず善意の悲劇であることなどを感じさせます。
 愛というものは、いつも淳樸であり、若々しく善良でその意味では稚いけれども、愛によって賢しと云うこともあり、愛によって勁しということもあります。善意というものはやっぱり若々しく永遠に若いものだけれども歴史の段階に即して成長するということは或種の人々にとって不可能なものなのね、つまりその結果は、善意が実功をあらわさず奸悪を凌駕する雄々しい美しい決断と智謀とをもたず善意はお人よしに通じてしまい、高貴な精神も萎えてしまうのね、現実の前に。
 この『七つの謎』をよむと、欧州の或る種の良質な精神が、第一次大戦から今次の大戦までの間に経て来た苦悩と努力と混乱(現実の見かたの小ささ。代表的個人――政治家で世界の平和が支配されているように考える誤り)とがまざまざと理解されます。
 本国の運動に対してさえ良識ある者は有害としたローゼンベルグの「神話」がこちらで売れたのは、悲劇の一つです。その亜流を輩出させたのは更に。一般に他国の文化その他を摂取するとき、素地との磁力関係で、精煉された面より、より粗な面が吸着するということは注目に価すると思います。どの国でもそういう危険をもっているのね。何故でしょう、歴史の喰いちがいの大きい二者の間で特にこのことは顕著です、文学者は、飽くまでも善良で、賢くつよくなければなりません。自身の善意を、悲劇たらしめてはなりません。ジュール・ロマンは、さすがに平静を失わず七つの謎を解明しようとして居りますが、善意が悲劇に到達したそのことについての反省はされていません。善意のボン・ノム加減で赤面していません。従って彼はこの本を書くことで崩れた善意像の破片の整理をしたでしょうが、果して、次の段階で新しい善意で羽搏き得る発展をしたでしょうか。生物として六十歳という年齢は成長期でないけれど、その人間が善意を貫徹して生きようとするならば、善意そのものの永遠の若さに従順となってその成長に応じて生物的限界を飛躍しなければならないでしょう。しかしこれをなしとげたものは歴史上ごく稀です。(まあ、もう十一時すぎよ。どうしたのでしょう。すこし心配になって来ました。最後の電車で帰るのでしょうか、一人でいるのはいいけれども。どうしたのでしょうね、本当に)
 十二時すこし前になって、ヤアヤアとかえって来ました。それでもよかったわ、何事もなくて。
 けさはゆっくり目をさまして今、朝のおかゆをたべたところです、曇天ね、曇天の土、日、はいやね、あしたの朝こちらからじかに行くのは混雑するから、今夜のうちに帰らなくてはいけないわね。
 開成山へ行くのはうれしいけれども帰れないだろうと心配です。切符があっても通交証がなくて。女の軍需会社重役はないから不便此上なしです。ではこれで、おやめ。

 三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月二十八日
 三月十四日づけのお手紙、さっき頂きました(午後)。三月二日づけのは、つい三四日前に着き、これは二つへの御返事となります。
 きょうは、暖い一日でした。今、夜の八時前。食堂のテーブルに久しぶりでわたし一人。ホーサンを一杯といたビンと、黄色いガラスの瓶に二本の半開のチューリップ。南の庭に向うガラス戸はまだ雨戸をたてられず、月のある柔かい夜気が黒く見えます。廊下の方から室内をみると、夜に向ってしっとりしている大きいガラスの面やテーブルの上の花が、いかにも春宵という風情です。そういう空気を何とも云えずよろこばしいと感じながらこれをかきはじめました。どっさり、どっさりの話があります。先ず二つのお手紙について。
 そうね、こうしてお手紙をよむと三月二日ごろはまだ毎晩のように雪が降っていたのでした。お彼岸の日からすっかり春めき、ことしは珍しく明瞭に春の彼岸というものを心にとどめ、わが肌にとどめました。冬はきびしかったわねえ。このお手紙と次のお手紙との間に、梅は咲き出しているのも季節のおとずれです。そして、あなたの赤ぎれもいつか消えてすべっこくなりましたろう? わたしの手もわたしの手に戻りました。アロウスミスわたしはまだです。「風に散る」との相違は、たしかにおっしゃるとおりであろうと思います。そして、ルイスがジャーナリストとしての弱点に煩わされながらも、科学精神追求を主題としている点は、確に展望的です。文学の或る段階では、そういう主題にこころを誘われる作家が生れる程度に文学は前進しているが、そういう前進的テーマに着眼する作家の敏捷さがジャーナリスティックな迅さと相通じ、それが同時に強味で又弱点であるという興味ある現象を示すものと見えます。面白いことね、日本ではまだ科学に到着して居らず、せいぜい名人気質どまりね。横光の発明家みたいに、風格愛玩で。この間、鷺の宮で書いた手紙にも出た話と思いますけれど、川端康成の作品など、或る意味で清澄でもあり純一でありますが、何とそのテーマ、芸術の世界全体が主情的でしょう。感情のかげりひなたにとどまって、人間性格というところ迄も切りこんでいないのはおどろかれます。浅薄ではありません、末梢なのね。冬の日向に鮮やかな楓の梢の繊細なつよさの美しさめいたものがあり、植物性ねえ。ほかの同時代人のあれこれの作には、そのような楓の梢の細かい趣、そこにこめられている生命感さえないのですが。康成が一流作家であると考えられるのは、少くとも命をひそめたる楓の梢であるからでしょうが。しかし、日本の文学が、科学精神追求のテーマをジャーナリスティックにでも、文学的にでも、哲学的にでもなく、科学者生活の勇気にみちた現実に立って描ける日を待ち侘びます。わたしが自身の興味をそういうテーマにもっているから猶更ね。一歩踏み出た文学の形態は、小説という過去の枠もあふれ散文の美しさの各面を活かし(評論的にも)しかも一貫した人生に響きわたっているようなものでしょうと思います。科学精神追求のテーマも面白いが、又「米」というような主題を、多角的に描けたら(そのことで即ち科学的に)実に素敵よ。日本の作家として、ね。わたしが小説でこころに描いている二つの仕事の一つは、科学的労働の人とその研究テーマとの人間的いきさつ、結核研究者が書いてみたいの。こういう時代の困難をもしのぎつつある、ね。研究所にガスが出なくなって薪で指をくすぶらせつつサッカリンを作り、それで必要な実験器具を手に入れたりしつつ努力している人物を。それが描けたら、米のような主題の扱いそのもので新しい線を描き得るような作品を。こういう小さからぬ希望のためには、本当に丈夫で、暮し上手でなければならないと思います。二十五日のような(火)しかられかたをしたり、声も出ないようにべそかき面になったりするようでは、まだまだであると謙遜しなくてはなりません。ユリの不揃いな成長、アンポンぶりは、時にあなたを苦笑させ、時におこらせ、奈良の薬師寺の国宝の四天王の眼のように四角い四角い眼で見られるとき、ブランカは、どんなにちぢみ上るでしょう。口答えも出来ないほどちぢみます。そして、小さな丸いきんちゃくのようにちぢみ乍ら、心の底でびっくりしてあなたのシ、カ、ク、イ二つの眼を見ます。ああ昔の芸術家は、何と立派なモデルをもっていたものだろう、これは四天王にそっくりだわ。本当にそのままの、可怖い四角い眼だわ。四角い眼のまわりに睫毛があんなに生えていて、そう思って息もつかず見つめます。
 あの本のことはごめん下さい。お母さんのお手紙の調子で出しにくいようになってしまって。出しにもって行った人が、不受理で戻ったりしてそのままになってしまったから、あなたに出しましたといったことになってしまいました。
 島田行は、こんどはわたしとして大乗気です、もうもってゆく包みもこしらえ、もし途中の夜歩くといけないからカンテラまで用意しました。ほんのべん当、肩からいつもかけているカバン、風呂しき包み(いざと云えば背負えるだけの)で行きます。おみやげは、かさばらない布類でかんべんして頂くこととして。一昨日から、もう切符買いに着手しましたが、本月一杯は強制疎開が急テンポ、大量なので迚も手に入らず。どうしても来月四日以後でなければ不可能です。却って丁度いいと思います。やっぱり八日後に出かけます、寿は、こちらへ来るにしても持ってくる米がないからその配給の都合で八日に来られるかどうか分らないそうだし、てっちゃんも果してどうか分らないし。やっぱり八日まで居りましょう、その方がいいわ。そして出かけます、ゆっくりと。それまでにひまのときは、郊外へ泊りに行ってもいいでしょう? 例えば鷺の宮や成城の友達のところなど。
 ここのうちは、戦災、疎開受入れ家屋の実を果していて、次のような構成となりました。わたし、G夫妻、細君の両親、兄弟が出たり入ったり、一人の弟はこっちへ転出(配給をここでうける)Gの父(鉄道につとめ、家族赤羽で強制疎開となり)合宿暮しではやり切れないから、こちらで配給をとって一週一度ぐらい休みに来る。細君の従弟、親は疎開、一人でよそにいたらそこが強制疎開、こちらへお願い出来ましょうか。こういう組立です。だからあっちこっちから寄って来ると、八九人にもなり、さもないとG夫妻と三人となり。極めて、波のさしひきがきつく、従ってわたしは安心して、すこし風よけをいたせます。十日の払暁以来、前々便にかいた有様で、わたしとして開放的であることと、のさばることとは別であるという線をはっきり出すに、幾人いようとも数をたのむべからざることをいつとなしにしみ込ませるまでにはやはり半月はかかりました。それに裏にいた近藤さんが、妻子も自分も疎開することにきめたので裏の家もやがて空きますし。「女の、体のよわい宮本さんが、ちゃんとがんばって居られるのにどうも」という話です。「そんなことはあるものですか、わたしはここにいた方がいいからいる丈で、危険はよく分っているんですもの、どうぞ一日も早く疎開して下さい、わたしもその方がどんなにか安心よ」というのは、ね。近藤氏夫人かつて曰く「ええええ、この辺の人なんかサーッサと逃げて行きますよ、そんな人達ですよ、見ていてごらんなさい」そしてわたしたった一人の時、よく申しました、「これでお宅へ火がついたらうちはおしまいですよ。いくら消そうたって、叶うもんですか」だからね、わたしがおとなりの疎開をよろこぶわけ、おわかりでしょう。もうここの隣組でその家の人がいるところは殆どなくマヒ状態です。ひどいのは家財道具おきっぱなしで人はいません。全く焼けて下さい、という有様です。その間にはさまってブランカ火消しで落命したくはありません。
 ここが焼けて、いきなり行くところがなくてはいけないので、中野区鷺の宮三ノ三六近藤方にきめました。うらの近藤さんの老母がそこを退くのです。つい近くにもう一軒疎開手続をした家があって、そこがひろいから近藤さん一家が移る計画ですが、とっちもまだ空いてはいないので(次のドカンボーまでのことでしょうおそらく)一先ず老母の家へ近藤さんが移り、わたし達がやけ出されていったら二つの家の間で割当てて暮すという約束にしました、火にまかれるのが一番こわいわ。荷物をもった人波で動けないうちに、火に囲まれたら最後です。決して決して国民学校の地下へなんかかたまるものではないことね。麦が成熟する時期は郊外も油断なりますまい。
 十四日のお手紙、塩の物語[自注9]、感銘深くよみました。この頃の生活ではいく分その大切さが切実となって居りますし、わたしは肝臓の病気してから、ショーユより塩がすきな時があって、塩愛好です。しかし、そちらの「発見」は。塩の美味さは料理法の上から言うと、極限を意味します。最も優秀な原料を最も優秀に味わせるに料理人は苦心して塩でその持味を活かします、そして又、人間が最低の味の単位として使うものは塩です。一つまみの塩、ね。大したコンプレックスであると思います。
 調理の知識、料理法を活用せずんば、とは同感です、本当に。人間は、知能の複雑さにふさわしい食物をとるべきものです、一時間ものを書くということは、一時間歩くと同じ労作であるということがはっきりわかった食べもので生活するのが道理です。でも考えると一人の人間のもち前というものは大したものね。わたしに二時間つづけて歩けといわれたらどんなに困るでしょう。しかし二時間書きつづけることは、平常事です、もう、今日だって二時間は経ちました。快き二時間として感じます、疲れるとしても、ね。今日は友達が荷物あずかってくれるというので、午後中島田の荷と一緒に整理して夕飯まで、ひどく働きました、風邪気味の中を。だから大疲れのわけね。しかし書いていて、いいこころもちよ、やっと、やっと自分に返ったように。
 きょうも一時ごろ思いました、のどかだったでしょう? いかにも春らしくて、ね。畑の種が芽生えました。そんなこと思ってゆったりしていたら警報で、あののどかさから遑しさへの急転直下、何かきょうは面白く、新しく感じました。何たるどうでん返しでしょうね。ああいう明るい、のどかな、春の陽の下で生活はいきなりでんぐり返り、家がなくなったり死んだり、一大事が通過するのです。あきれたものね。でも人間はやはり生きて行くわ。正気を失いもしないで生きて行くわ。わたしは今のような時に、いち早く奥山に逃げこんでしまえないことを寧ろよろこんで居ります。これで、もっともっと丈夫だったらどんなに愉快でしょうね。
 あなたのお手紙を二つ並べてくりかえし読み、こんなことを感じて居ります。こうしてお手紙よむと、そこにはいつも変らぬあなたのテンポがあり、それは弾力にとみつつアンダンテで快調です。十日以後、あなたの話しぶりがいくらかお忙しそうね、プレストです。そんなにぺこなのだろうと思います、時間のないということはこの頃いつもだけれども。とかくプレスト時代ですからこうしてアンダンテのリズムをきき、ところどころカンタビーレの交っている諧調は耳ばかりか心を休め、養います。では明日ね。

[自注9]塩の物語――塩分が身体に不足していて塩の美味さを痛感した話。

 四月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月六日
 けさ、畦をこしらえた畑の土の上に雨がおとなしく降りはじめました。すこし足の先がつめたい位ね。庭の白い木蓮とコブシの薄紫色の花がいかにもきれいです、楓や山吹の芽立ちとともに。
 きのうは、暑くなかったので、昼飯後、日本橋と新宿へ参りました。この頃久しぶりで地下鉄にのりました、去年の六月、青山へ墓参にゆくとき乗った頃には、まだ地下フォームも明るかったのに、今は暗く、車内もくらく、乗車券にペンチを入れず、映画館の入口でモギリの女がやっていた通り、あいまいな顔つきの女が、手先だけ動かして切符をもぎります。
 三越のところまで乗り、何年ぶりかで内部をぬけ、ここでもびっくりしました。当然のことながら。ああいう場所に漲っていた消費的な光彩というものが根底から消滅して、それに代るものはなく、がらん堂な赤いカーペットの中二階にグランドピアノがありました。なかなか一種の感じよ。
 日本橋まで歩いて行ったら、白木屋も使えるのは一、二階だけらしく上部はくすぶった焼籠のようです。あの辺すっかり平ったくなっていて、「講演会」のあった国分ビルの横通りで、立のき先出ているのは、栄太楼のほか唯一つ。それは何とかいう人が富山県へ疎開したということです。タバコやもその横の露路も、焼けぼっくいの下に消え果てて、裏の大通りまでつつぬけになって居りました、この辺は小さい小さい店舗がぎっしり詰っていて、一間の間口で都会の生活を営んでいたのですからこうなると、もう一望の焼跡で、生活の跡はどんな個性ものこしません。日の出[自注10]あたりだと、猫の額ほどの跡にでも立退先と書いてあったりしますが、この辺の小さいところのはかなさは凄じいものね。火の粉と一緒に、生活の根がふっとんで、もう跡もなしという形です。タバコやがマッチの箱ほどの店をはっていて、その露路の、わたしの身幅ぐらいのところの左手にガラス戸があって、「東京講演会」と書いてあったのにね。講演の速記と、その原稿を再生させて、駅売りパンフレットをこしらえて、幾人かの男が生計を営んでいたのでした。森長さんに、もし分ったらば教えていただくようたのみました。駅売りパンフレットも紙なしでもう駄目でしょう。しかし速記者はやはり其で生活してゆくのでしょうから。
 銀座がやけてはじめて通りました。実に変りました。御木本もなくなったし、われらのエンプレスが支那料理やになっていたのもないし、めがねやの金田も、焼けて居ります、尾張町から日比谷へ(新宿行で)向うところ、強制疎開の家屋破壊で大変だし、麹町の通りも、新宿も。こわされている家屋を見ると、本当にこわすべきと思います。もろくて、きつけ以外ではないのですもの。そして、団子坂下あたりの店のこわされているのと、日比谷あたり麹町あたり、同じ細くやにっこい内部の組立てを露出しているのには、つよく感じを動かされます。近代都市ということは不可能な建造物です、この前の震災の後、都市計画というものを立て直し、何本かのひろい道は出来ましたが、しかし家屋については、実に惰力的態度だったのねえ。近代生活の感覚が市民の日常に入っていないし、経済力も近代都市化し得なかったわけでしょう。
 新宿のこちら側(池袋より)は被害なく用を足しました。そして、又ぐるりと電車で帰って参りましたが、初めて瞥見したところが多く、蒙っている損傷の観念もいくらか具体的になりました、そして、この傷だらけの東京に愛着を覚えます。赤坂あたりに桜が咲きはじめていてね、疎開の砂塵の間に、薄紅の花を見せて居ります。さくらは、ぐるりの景物と似合わなくて、哀れです。花を見てふと忘れていた春を感じるというだけの影響もことしの桜はもっていないようです。まあ、桜が咲いている! 言外に、さくらの間抜けさを語っているようでさえあります。ふとん包みを背負った女が電車にのって右往左往して居ります。
 島田行の切符は、二十日すぎからたのんで幾度も骨を折ってもらいましたが、駄目でした。今の切符は実に大したもので、誰も「買う」とは申しません。「手に入る」「手に入らない」と申します。「手に入れる」ことは容易でなく軍関係、強制疎開、罹災者で一杯のようです。わたしとしてはもう一つ最後の方法がありますから其を試みましょう。其が駄目だったら本当にもう駄目よ、わたしが罹災するか疎開するかしない限り。疎開は先へゆく丈で帰りは買えません。
 持ってゆく荷物をこしらえて、土蔵にしまってあります。きのうは三越へ降りたついでに、あきらまさるのためおもちゃを買いました、其は色も何もついていない、ちょいとした積木ですが、二つで十一円何十銭かでした。ほんの小さいものなの。わたしのわきで、子供をおんぶしたおかみさんが、三十何円かおもちゃを買いました。どんなのかと思ったら、三つほど小さい箱が重って渡されました、ズック製の犬と何かのゲームよ。しかし考えてみると、木とか布とか、今は貴重な品なのだから高価なのは尤もね。でも、苦笑いたしました、島田の田舎の、ものがまだゆとりあるところで、こんな木片のおもちゃが五円も六円もすると誰が思ってみるだろうか、と。
 もし切符が買えて、行けたらば、ゆっくりしていろいろ御役に立って来ましょう、どうかその点は御安心下さい。何しろ行ったらばなかなか帰れないだろうと(又切符や制限で)それを心配している位ですから。島田も状況によっては、もっと山の方へ子供やお母さんはお住みになる方がいいかもしれませんね、線路に近いし、すぐうしろは光への大道路だから。あっちも決して油断はなりません。特に今後は。光井から島田へ来るようになるかもしれないわね。〔中略〕
 わたしが、こんな気持でこの年月暮して来ているのに、安心してあなたに叱られようとしない、ということは妙なことね。云いかえると、何もあなたが、自分の仰云る原型のままをさせようと思いなさるのでもないということを、ふっと忘れて惶てたりするのは、妙なことです。人間の卑屈さというのは妙な形で妙な部分にあるものなのね、安心して叱られないのも卑屈さの一種のようです。自分の意見に自信のないのも卑屈であるが、何というかわたしの場合は、対あなたでなく、第三者に対したとき、自分の意見には常に十分自信をもって居ります、対手につよく其を主張もいたします。ここにも一つの矛盾があるのでしょう。状況から来ている点もあるのね。わたしたちは一つ家に久しく一緒に暮していろいろなことについて自分の意見ももちよって処理する夫婦の暮しかたをちっともして行かれず、いつも、短い、ゆとりのない話の間に事を運んでゆくのだし、あなたのお暮しから云って、わたしとしては、せめて自分へおっしゃることは抵抗なく流通させようという先入的なゆずりがあって、そういうものが、場合によって、却って、わたしの、ほかの誰にも示すことのない混乱や卑屈さとなるのでしょう。心理のこんぐらかりというのは、変な思わぬ結果を生じるものであると思います、わたしは心理的に生活することはさけている人間だのに、ね。そんな心理にひっかかる丈、つまりわたしは十分自身として強固でないといえます。書いて、分析して見ればこういうことと自分にも分りますが、はっとして赤面するときの気持は愧しいばかりです。妻がそんなに赤面するのを見るのは夫としてさぞ面映いことでしょう御免なさい。

[自注10]日の出――巣鴨拘置所附近の日の出町。

 四月十八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月九日
 きょうの雨は、しずかで春らしくていい心持です。わたしのすきな雨のふりぶりです。珍しい珍しいことがあるのよ、久しぶりに本当に落付いた気になれて、自分の部屋をこしらえました、寿にてつだって貰って。
 病気してから目がわるくて、光線の工合が実にむずかしくなりました。これまで、二階の奥のひろい室に机を置いて居りましたが、廊下がふかいので光が不足している上、だだ広くて、ちっとも落付かず食堂でばかり暮しました。コタツがある故もあって。冬の中は、ね。
 ところが、この節のうちの暮しは、雑多な人々が出入りして、食堂で食事いたします。小机一つひかえていても、室の空気というか、ゆかというか、人々の気配で揉まれていて、そこにいることは疲れます。
 暖くなって来たし、光線の工合もいいので、同じ二階ながら、北向きの長四帖に机と椅子と紫檀の飾棚だけをもちこんで、きょうは部屋つくりいたしました。
 この、よく働いた大テーブルに向って物を書くのは、もう三四年ぶりです、十六年の十二月九日以来よ。病気あがりの時は体の力がとぼしくて、こんな大きい机にとりつく元気がなかったし、去年の四月以来は、家政婦暮しで寸暇なく、やっとこの頃すこし自分のひまが出来はじめ、体も丈夫さが増して来て、この机がうれしくなつかしくなって来たわけです。
 この頃は、実に早寝です、十時までには床につきます。そのためか、よほど疲れが直り、又いくらか平穏なので、大助り。この北の小部屋は、短い手すりのついた(あなたが、夏、長椅子代りになさったような)はり出しがついていていきなり外が眺められます。腰かけて勉強するには、こういう工合が室の方がいいこころもちです。青い小さい柿の芽、紅い楓の芽、古びたタンク、そして垣根越しに隣りの庭の柔かい楓の芽立ち、乙女椿、常盤樹が見え、雨戸のしまった大きい家の一部が見えます。
 こうして自分の巣をこしらえられて(それ丈の人手があって)何とうれしいでしょう。去年の四月から、相当の辛棒いたしましたが、その甲斐があり、落付く一刻が千金です、島田へ行く切符が買えるか買えないか、判るまでたっぷりこの室の愉しさをたんのうしようといたします、右手のしまった襖をあけて入っていらっしゃったら、きっと、なかなかいいじゃないか、と仰云るでしょう、この室は砂壁でね、もう古いもんだから糊がぼけて、一寸さわってもザラザラ落ちるのよ、其がいやだけれども今度は智慧を出して、机椅子のほかには何ももちこまず、正面の壁が寂しいからそこへ飾棚をおいて、美しい古壺を一つ飾ってあります、すぐ傍で自然はきわめて動的ですから室内は全く静かでよく調和いたします。
 一年ばかり大ガタガタで暮し、外へ出れば傷だらけなのでこんなに落付いた味が恋しくなったのね。すてられて、雨戸を閉されている雨の庭を見下して、小さいこの室が活々と音のない活動に充ちているのは面白い光景ね、生活というものの云うに云えない趣です。
 島田から、きょうお手紙が来ました。みんなで待っていて下さいますって。ありがたいと思います。冨美子が上島田へつとめるようになって、島田へ来ていますって。あの子がいれば、随分うれしいわ。いい子です、そしてもう立派な大人で、さぞいい話し対手でしょう。ゆっくりいろ、と云って下さいます。移動申告をして来るように、とのことです。あっちもそうなったのね。しかし今こちらはすぐ移動出来かねるのよ、国男が移動して(先月末)米の精算の関係からわたしの米の配給が月初めオミットになりました。(先渡しがいつもあるのを、こういう機会に精算するから、一人きりのこされる人は、えらい目に会うの)菅谷の方へくいこんで暮しているの。ですから、せめて二十日ぐらいはこちらへ米を返さなくてはわるいから、行くとき移動はもって行けないわ、そのことを申して又手紙あげましょう。
 どうしてもしなくてはならない外出が、月一度となったらば、わたしは何年ぶりかで、満足するほど家居し、畑の世話をして、勉強して暮そうと、そのたのしみはつくせません。
 わたしは出嫌いな性分なのね、それは御想像以上だと思います、ですから、必要がすぎると忽ちじっとしてしまって、その代り、気持よい点滴のように書きたくなって来るのです。どこで暮すにしろ、天気晴朗の朝、俄然婦徳を発揮するまで、わたしは土いじりと勉強とで過したいと思います。よく
 四月十七日
 さて、さて。――
 この一行の間に、何という変りがあったでしょう。十一日の午後、てっちゃんに会ってから、袋一つもって鷺の宮へゆき十三日は潰されるばかりの電車にのって、あちらからお目にかかりに出ました。
 帰って、その晩、あの空襲[自注11]でした。幸その夜うちには、菅谷とその父、よし子の弟、従弟、妹、よし子、わたしという顔ぶれで、この附近の家としては珍しい働き手ぞろいでした。はじめ遠かったのに、いつもここは終りの一時間がピンチね。物見に出ていた男達が壕へかけこんで来て、ソラと出たときはもう裏隣りの有尾さんというところから火の手が出て、次々とうちの左手(門からは右)の一画がやられ、うちはポンプを出しホースの水を物置にジャージャーかけて働きました。いい工合に風がなくて火はおとなしくやがて吹き出した風は東南風で却って団子坂辺の火の粉をけすに気をはりました、不発が落ちました、この手紙のはじめに、雨戸の閉された家々と書いてある、それらの家々はほんの数分間で消え失せました。もうずっと久しく生活の物音はきこえなくなって居りましたが、二階の机をおいて障子をあけると一望千駄木学校が見え、きなくさい春風が、楓の若葉をゆるがせて居ります。
 一応しずまって食堂へ来て、その日の午後川崎から来た女の呉れたチューリップが紅と黄に美しく朝鮮の黒い壺にさされているのを見たら、けげんな感じでした。家をやかれた人はその感じがさぞ鮮かでしょう。
 千駄木の裏のわたしたちの愛すべき小さい家も遂になくなりました。目白のもとの家二つは、どうでしょうね、ありそうでもあり、無さそうでもあり。目白の先生は旅行中でしたろうと思います。火の見櫓が見えた二階の家もなくなってしまったわ。
 十四日に菅谷が、そちらの安否をしらべに自転車で一廻りしてくれました。それでやっと気が落ち付きました、十六日には、往復二里ほど歩いて行きました、話よりも目で見た印象は何ときついでしょう。どんなにぐるりが熱く、赤く焔の音がひどかったことでしょう。本当にどんなにあつかったでしょう、うちの火でさえ風はあつくなりましたもの。
 十八日には面会が出来るという張り出しを七八人のみんな歩いて来た連中が眺めました。体が乾きあがる感じにおあつかったのだろうと思います。
 こういう場合を予想しなくはなくて、それでも、無事にしのげて、うれしく、うれしく思えます。まだこれから先のことがどっさり在るにしろわたしたちはやっぱり距離にかかわらず、手をつないで火でも水でもかきくぐり、そして清風を面にうけるのであるという確信をつよめます。うちの方は、団子坂からこちらまでがのこって居ります、その前側も。学校側は竹垣一つです。あと焼跡。ですからこんどは逃げる場所は到ってひろくなりました、広いわ、実に実にひろうございます。
 縦の第一列になりましたから、こんどはこちらへ落ちるでしょう。その点いよいよ油断出来ませんが、同時に安全度もまして、面白いものです。

[自注11]あの空襲――四月十三日百合子が一人留守番していた駒込林町の弟の家の周辺が空襲をうけた。竹垣の外の細い道の隣までやけて家は残った。この前後に巣鴨、大塚、池袋にかけて大空襲をうけ、拘置所のぐるり一帯は焼野原となった。拘置所の高い塀の外にならんでいた官舎はすべて焼けた。幸い、舎房には被害がなかった。

 四月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(近江八景・粟津の青嵐(1―3)、京都平安神宮(2―3)、近江八景・堅田浮見堂(3―3)の写真絵はがき)〕

(1―3)
 二十三日づけのお手紙をきょう二十八日頂きました、この頃あんなにあつかったり煙かったりしたのに爽やかそうにしていらっしゃると思ったら、やっぱりそういうお気持よいことがあったのね、およろこび申します。こんな手紙がどこから来るのかとスタンプしげしげ見ましたがうすくて見えず。平常の時よりひとしおと眺められます、こんなエハガキ面白いでしょう? 有楽町駅のスタンドで買いました、大正頃こういう輪の人力車がありました。

(2―3)
 四月二十八日の夜。こんな飾り菓子のようなエハガキを御覧下さい。現実の色調は、まさかこれよりは遙かに典雅です。風雪という風流な力が人間と同じように其に耐える建物は淳化させて行きますから。でも、あなたは山を見てお育ちになったから空の下で視線にこたえる山の姿はおなじみ深いわけね。いつかお母さんがコンピラ詣りをなさったお伴をしたとき、内海の山々の遠景を大変興ふかく見ました、山陽道の面白味はああいうところね。

(3―3)
 こういう美しさを愛すのは、日本人独特のように思えます。月の動きに時間の推移を感じながら昔の人は光りの中に溺れて夜をあかしたのでしょうね。上等の人は、我を忘れて光を浴びていたろうし中級の人間は、風流たらんとして気をもんだでしょうね、一寸笑えますね、こういう水の上では絃の響がよいから、琵琶なんかよく聴けたかもしれません。実際は古ぼけた名所でしょうが、人間がこうして自然を生活にとり入れた形として好意を覚えます。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町江場土中條内より(封緘はがき)〕

 五月十日。
 きょうはこういう手紙です。この鉛筆書でどこから書いているか見当がおつきになりましょう。昨日寿江子と長者町へ参りました。三時十八分の汽車で。雨がさっと降って来たりしましたが、長者町の駅へ着いた時には雨上りで、その気持のよさと云ったら。焼跡を歩き焼跡の間を汽車が走り、その揚句、柔かい雨上りの海辺の土と空との夕暮で申しようありませんでした。汽車も例外に混みようが少い由。長者町の駅へついたらピシャピシャ国民車(人力車の変形)が来て、寿のリュックやわたしの袋をのせ、草道を先へゆき、わたしたちは歩いて二十丁ほどゆき雑木道を抜けるといきなり目路がひらけて夷隅川が海へ入る眺望があります。狭いこんもりした樹かげ路からちらりと光る水で快くおどろき、そのおどろきが一歩一歩とひろげられて大きやかな河口の眺めとなる変化は、千葉にしては大出来です。
 寿の家はすばらしいものよ。わたしは物置小舎と思って通りすぎました。そんな家、豆ランプです。八、六、二。障子が六枚しかなく、六枚分は文字どおりのコモ垂れです。障子に新聞がはってあります。その二畳も畳なしのゴザ。畳一枚もなし、床にカーペットをしいています。テーブル、ピアノ本棚。テーブルの上では寿が靴下つくろいをはじめ(今よ)わたしがこれをかき、マジョリカの灰皿、九谷の皿という組合わせ。趣味において貴族、形はコモ垂れ。それでも一晩で休まったことはおどろくべき位です。この間うちから過労で右腕が変になって苦しかったのにきょうはさして苦になりません。よしきりが頻りに鳴いて居ります。麦畑の中にまだら牛が二匹います。妙な牛っぽくない鳴きようをいたします。豆の花がこの破屋のぐるりに蝶のような花を開いて居ります。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封緘はがき)〕

 五月十日
 ここでも警報はあります。遠い半鐘の二点鐘です。チジョチャンと呼んで、小さい頬ぺたの丸い男の子がよちよちと訪問して来ます。チイ公というダックハウンドの雑種のような大きい耳の茶色の犬も居ります、久しぶりでのんびりしてこんなものをおめにかけます。

ひろびろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り

よしきりのここだ来啼ける河口にかかる木橋は年古りにけり

虹かゝる岬のはてのむら松は小さく群れて目にさやかなり

(こういう景色の雄大な優美さは、なかなかブランカ歌人の力量に及びません。虹の大きい切れはし、その下の岬に松むらが小さくくっきり並んで見えるのは面白い眺めでしたのにね)人麻呂はこういうスケールが得意。

青葉風肌爽やかに吹く日なりわれは若葦笛ならましを

(うたのこころはあなたにこそ、けれども玄人はこれを腰折れと申しましょう、平気よ)
 ここには大体一週間ばかりの予定で居ります、そして帰ったら又人足仕事をして荷物を何とかして田舎行の仕度いたします。すこし永く落付くために財務整理(!)がいるので本月一杯はどうしても東京にいなくてはなりません。来月おめにかかるときどちらでしょうね。煙と焼棒杙の間からお顔を見るような感じでしたから、田舎でゆっくりと出来たらさぞうれしいことでしょう。どこにしろわたしもそこで暮すのよ。そのつもりで居ります。汽車どころではなくなりましょうから。東京も外へ出て、あの焼原のどこかにぽっちり樹も青くているところがあり、そこに住んでいること思うと(焼あとを疾走する汽車の中で)殆どふしぎです。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封書)〕

 五月十日(ムッちゃんという子が来ていてやかましいの)
 三日づけのお手紙、丁度きのう出がけに頂いて、袋に入れ、こちらへくる汽車の中でたのしいおやつとなりました。これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。[自注12]虱の話。大丈夫よ。おどろきも心配もいたしません。太郎なんか田舎でゾロゾロよ。よく処置しておきましょう。水道は林町辺は十三日以来全く駄目となりポンプを使って暮して居ります。ガスも出ず、です。宅下げの本のこと、このお手紙の分もお話のあったことも承知いたしました。いろいろの古典をすっかりおよみになったのはさぞいいお気もちでしょう。
 今メレジュコフスキーの『ミケランジェロ』を読んでいて、ルネッサンスという人間万歳の時代においても、法王やメジィチや我ままな権力に仕えなければならなかった偉大な人々の苦悩に同情を禁じ得ません。ミケランジェロの憂鬱は、彼の大いさに準じて巨大に反映したルネッサンスの暗さね、明け切れぬ夜の影です。この頃沁々思うの。未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。[自注13]トルストイはアンナ・カレーニナの第一章で、不幸は様々で一つ一つ違うが幸福なんてものは一つだというようなことを云って居ります。どうして現代の歓喜がそんな単調なものでしょう。ミケランジェロが彼の雄大さで表現し得なかった歓喜が現代にあるということは、神さえも無垢な心におどろくでしょう。丁度息子のおかげで生甲斐を知った親のように、面白いわね。

[自注12]これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。――顕治からの三日づけの手紙が未決生活最後の手紙となった。大審院の判決で顕治の無期懲役に対する控訴が却下されて未決から既決の受刑者としての生活に入った。面会は一ヵ月一回となり、顕治からの発信も一ヵ月一遍となった。顕治が六月十六日網走刑務所へ送られるまでに、百合子は一度(六月一日)煉瓦色の獄衣に変って、頭も丸刈にされた顕治に面会した。彼は作業として荷札つくりをはじめていた。
[自注13]未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。――五月六日にソ連軍を先頭とするベルリン入城が公式に発表された。五月一日のメーデーにこの世界史的事実を速報せず、六日まで待って、確実ゆるぎない勝利の事実に立ってはじめて公表したソ同盟の指導者たちの態度は立派だった。この時のよろこびは百合子に新しい世界史とその文学の情熱の創造を感じさせた。新しいよろこびと笑いが人類にもたらされたと感じた。

 五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月二十日
 青葉雨というような天気になりました、薄ら寒いことね。ママがなかったりシャツがなかったりで、こういう冷気に一寸ぬくもりどころないようにお感じになっていることでしょう。人間の衣類には手と足との岐れのほかにゆとりのいるものだと思います。小鳥の羽根がこんな日にはふくらんでいるようにね。
 昨日の朝三時半に起きて、黎明の樹の下道を長者町の駅へ出て、九時前帰宅いたしました。一昨日申告して、昨日切符買えるようにしておいて。こんな一番で帰ったのは、空の安全のためと一昨夕電報がうちから来て、もう一刻もゆっくりした気でいられなかったからでした。キューヨーアリ イソギカエレ、とよむと、わたしにとって本当の急用は限られて居りますからはっとして十日間の休養一ふきでした、その前日空襲がありましたから。家の焼けるのなんかはものの数でもないけれども、ね。帰って、日暮里の道を下駄をわらないように重いものもってヨタヨタ来たらむこうから笑って来る男あり、其は菅谷君でした。何だったの? 電報、といきなり訊いたら、奥さんじゃ分らないかもしれないんですが、と、防火改修の支払受取の件なの。何だと思ったが安心いたしました。
 こんどの十日間は、わたしにとって実に名状出来ない効力がありました、先ず、という心持で、すっかりのんびりしたし、永年の生活が形の上で一変化する切かえを大変いい工合になだらかに切替えることになりましたし、それにもまして心に刻まれるのは、ああやって江場土で暮してみて、はじめて寿のいじらしさが何の障害もなく感じられて、謂わば妹一人とりかえしたようなしんみりしたよろこびがあります。東京に来ているときは、遑しいし第一、ここの家に対する苦しい反撥した気分(無限の親しさを拒絶されたところから来る)とわたしへの親愛、寿の目からみればのさばっていると写る菅谷一族への感情なんかが絡み合って、あのひとのこじれ皮肉になっている気分は、いつもわたしを焦立たせ彼女の下らなさを切なく思わせます。結局こんな人なのかと思いすてるようなところさえ出来ていたの。江場土のあの小さい葭簀を垂れ下げた家のゴタゴタの中で、寿は自分の生活としているから、そして今度わたしが行ったのは、寿にしてもそう度々くりかえされようとは思わない逗留でしたから、心からたのしく働いて暮して、わたしをのんびりさせて休ませ、能う限り営養を与えようとまじり気なくやってくれました。わたしにしろ、あの生活を見、一人でどんなにやっているかという骨折をみては、皿小鉢がきたないまんまつくねてあるのを見ても、やっぱり黙って井戸端へもち出して、きれいに洗っておいてやる気にしかならず、全く寿の存在が、ここへ帰っても、遠い江場土に小さい糸芯ランプの灯がぽつりとついていてそこに浮んでいるちょいと煤のくっついたあのひとの若い顔が見えるようになりました。いろいろの原因で動揺していて苦しい寿への愛情が落付く地盤を見出して、わたしはどんなにうれしいでしょう。わたしの生活へ関心をもつものは妹しかなく其とてもグラグラして、御都合主義で目先三寸の智慧で情けないことだと思って居りましたが、寿の暮しの実際をみると、つまり一人でまわりきれないところから来るいろいろの欠点であると思います。御都合主義と同じことになってしまうのも謂わば洗いきれずにつくねてしまった皿の類なのね。すこし落付いてピアノでも弾くためには一人であらゆることをノベ時間でやらなくてはならない生活ではどこかがきっと廻りきれません。生活上の配慮を一人で万端やって、それも不馴れだから対人的にも十分しっとりと落付き切れないようになってしまうのでしょう。菰垂れの姫よ。現代の。それをあのひとは向う意気のつよい人だから頼りなさをそのままに表現しないで、こわいものなしという風に体でも言葉でも表すから(つまりの弱気)あのひとのいじらしさがしんから分るまでには時間のみか、情況の適当なめぐり合わせが入用という手のこんだことになってしまうのね。菰垂れの家は、ぐるりに豌豆の花を咲かせながら、清純な江場土の空と柔かく深く大きい夜の中に何と小さくあることでしょう。あんなところに、ああして、あのひとがいる、ということは普通のことではないわ。ローソクの光で、夜、一人きりのとき何年ぶりかで心から弾いたピアノの響も忘れかねます。わたしの生涯のうちでも独特な意味をもった十日でした。時期といい内容と云い。たった十日がこんなに充実ししかも永続する意味をもって過されたことをよろこんで下さるでしょうと思います。わたしがいた間、もし寿に気の毒なことをしたと云えば、其は、一度ならず、あなたのお好きなものを、ついあなたに結びつけて噂してしまったことだと思います。玉子を見たりしたとき、ね。その人をその人の生活の場処でみるということは極めて大切なことね。
 さて、きのう帰って、十日朝のお手紙頂きました。これも一つの記念的おたよりと思います。
 季節としては先ず先ずね。梅雨前ということも。ことし、のみはやはり少なくないことでしょう。ことしのノミは余り皮膚とその上のものとの間が単純なのでびっくりするかもしれないわね、そして却ってとりよいかもしれません。
 きのうは帰ったばかりでしたが午後から一寸丸の内まで用で出かけました。御旅行先はまだきまっていないでしょう? 二銭、一銭のこと承知いたしました。が、これは多分江場土ででも買って貰わなくては。本郷と駒込の郵便局が一つになって駒込中学にやどかりして居ります、切手類一切なしよ。こんど中央できいてみましょう。いずれにせよ調べて送れるようにしておきます。
 本のことエハガキのこと、衣類のことわかりました、来週(きょうは日)水曜か木曜にそちらへ行き一まとめに運べる方法を講じ、すっかり自分で整理いたします。ナフタリンのことなども分りました。
 予約ものの送先変更のこと承知いたしました。そういたしましょう、田舎暮しでは雑誌がなくなったのだからこういうものも大切です。
 隆ちゃんへのたより島田へのたよりのことも定期用件のうちに加えてちゃんといたしましょう。時間がないとは決して云えなくなりましたから。
 この手紙は、同じ食堂ですが、いい工夫してかきはじめました。長原孝太郎という古い洋画家の家から低く脚を切った椅子を二つもらいました。まるでまるで低いのよ。かけいいの。そこでふと思いついて、廊下で塵に埋れている太郎が一年生になったときの学童机をもち出して、ガラスに近くおきました。今のここのメムバーでは腰かけて食事すると、公衆食堂のようだと思う人々ですから。適当な大さのテーブルなく、一方で坐っているのに聳えたつのはこまるし居心地わるく坐っていたのよ、いかにも主婦机となりました。赤いつばきのおくれ咲き一輪をさして。しかし主婦机というものは、どんなに小さくてよいかということにびっくりいたします。半ペラならこれで十分だし手紙だけならこれで十分よ。しかし小さい卓は卓面のひろがりが人に与える落付きというものをもって居りませんね。一つきりの引出しに手紙道具、右横の物入れになっているところにはノリやメモや本や名簿や家計簿や。
 こうしていささか心にいとまを生じ、部屋の模様更えなどをしていると、この夏どこですごすことになるのかしらと興を覚えます。もし急に北へ行かないならば、又一ヵ月ばかりも江場土へ行って見ようかと思います、そして、江場土という小説がかきたいのよ。北へ行くための荷もつのことや何かを一応きまりつけ、ここの人たちにもちゃんと話をつけて。わたしが北へ行っても菅谷夫婦はいるつもりらしいから結構だとよろこんで居ります。二人きりで困るならあの人たちのいい人を置けばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中釈迦内村というところに甥子の出征留守の家を紹介して貰いました。細君に子供二人。地図を見たらもうすこしで北の端れなの。余り田舎では女が勉強するのさえ驚異ですから、これはいざのとき困らないための候補地という程度に考えて居ります。では又。ペコをお大事に。風邪大丈夫でしょうか。

 五月二十一日 [自注14]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(野口謙次郎筆「十和田湖之春」の絵はがき)〕

 五月二十一日

妹は煤をつけたる顔のまゝわれ送るとて汽車にのり来る

おみやげの玉菜三つをもち重り十日目にまた焼跡に帰る

帰り来て雨戸あくれば焼跡をふかく覆ひて若葉しげれる

この年の五月若葉はこと更に眼にも胸にも濃く映るなり

[自注14]五月二十一日――千葉県長者町に暮している妹寿江のところに行ったときの手紙。

 五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月二十四日
 昨夜は、そちらの方角はおさわりなかったと存じます。それでもおやすみになれなかったことは同様でしょう。
 きのう、うちは、こんな工合だったのよ。先ず話は十九日にママります。わたしが帰って来て食堂に坐るや否やO子が、食事がたべられない、体がだるくて臥ていたと立てつづけに訴えます。細君である女が、そういう調子になれば、大体どんなことか想像されるというものですが、わたしはあなたも一つ田舎へ行って来なさい、と云いました。御目出度でないというのなら空襲神経衰弱なのかもしれないから行って来て気分をかえてさっぱりしなさい、と。台所も何も放ったらかしでやり切れなくなっていたし食物のことも変に神経質になっていたからそう申しました。御主人は二十二日に出張し、O子は昨日茨城の実家へ行き一週間は、わたし一人となりました。〔中略〕
 ひとりきりは月当番ですし何かのとき危険ですからペンさんが又ひとりもの同様な生活なので用の合間に来るということになり、昨日は二人とも喜んで一緒に過し、田舎行準備の本の小包を十三ヶ発送し、ああなんて御ハンなんだろう! と夕食もすませました。一服してさて入浴と思っていたら、なかの口に誰か来て、それは目白の先生でした。六時頃来られる筈だったのに、〔中略〕電話で伺いを立ててから来ようとしたら池袋のぐるりに公衆がなくて歩き歩き千川の避難先のうち迄帰ってしまって出て来たのだそうです。声を揃えて笑いました。〔中略〕其でもペンさんは三、四年ぶりでこの先生に会ったのだしあれこれ話しているうちに省線が間に合わなくなり、こういう顔ぶれは珍しいというわけで泊ることに一決し、客間に用意をしたわたし達は二階へひき上げようとしていたらブーがはじまりました。
 この先生はこれ迄二度ひどいときに来合わせて大いに助けて貰ったので、さて又今夜は小さくあるまいと冗談云ったらあの調子で、団子坂と肴町の間のやけのこり区域が又苅りとられました。幸うちの極近くへは落ちず。しかしシャーを三度ききました。二度目のシャーが終ったら、男が一人スタスタ入って来て御苦労さまと先生に挨拶しています。誰かと思ったら菅谷さんの父親でした。当直で田端駅に泊っていました。「奴等」が(そういうの)田舎へ行って私一人だから心配して、段々こっちなので駈けつけてくれたの。このひとはこういうこころもちの男です。〔中略〕「先生がいてよかった。おくさん一人かと思ったんで」と汗ふいていました。大変うれしゅうございました。
 六時になって朝飯炊いてみんなにたべさせ、出かけるものは出てしまい、わたしとペンと其から一寸眠りました。久しぶりだったせいでひどく疲れました。午後は眠りたいけれ共夜目がさめると困るので床につかず。〔中略〕台所の手入れをし、それからこれを書きはじめました。ボーとなっていても台所は出来るという発見をして、台所やるようになったのだからわたしも練達したものです。人造石の流し、斜に光のさす窓でものを洗っていると、ああ江場土の井戸端が恋しいと思われました。あの空気、あの青天井、水の燦くしぶきのこころもちよさ。雨の日は大困却だったのですが、それは思い出さず。くたびれて猶あの美味な空気を恋いわたります。
 江場土での暮しをこの間申しあげましたが、あの間にね、ハアディーの「緑の樹蔭」という小説をよみました。無名時代に書いたものでハアディーが半分はまだ建築家だった頃、しんから時間をおしまず村の聖歌隊の老若の男女の生活を描いたものでした。江場土での生活には時間の制限がなかったから、この時間をおしまず入念にかかれた作品の味が実にぴったりして、大作家の力量がまだ有名と、専門化によってちっともわる光りしない時代のよさ、ふっくりさ、人生への控え目な凝視というようなものを実に快く理解いたしました。それにつれてね、十五年頃あなたが屡※(二の字点、1-2-22)わたしの仕事がジャーナリズムに近すぎる、ということを警告して下さったほんとの工合(何故なら其は言葉の意味ではないのですもの、意味という点では一応は分っているのですから)が、ああ此処、こういう違い。とわかりました。何年越しに分って、余りゆっくりしたお礼ですみませんが、あなたの生活にてらしてみると、あの頃わたしに分るようで分っていなかったジャーナリスティックなわる光りになりかねない艷、空気がわたしにくっついていたのであったと、明瞭に分りました。それは現在のわたしの生活は、そういう鉛くさい、せっかちな輪転機の動きから絶縁されて居り、それでそこから解放されているからです。
 江場土での収穫の一つとして、これは小さくない獲ものと思います。
 よく、作家自身の主題とその展開の独自なテムポとおっしゃったわね。それは、普通に分るより以上のことね。丁度独自な外交術をもつということは、チャーチルには決して本当に分らないように、一人の作家が独自なテーマを独自に展開させるということは、なみなみでは私たち程度のものには会得されないのだと思います。自分に教える多くのものをもっているような生活に身を挺し得るか得ないか、それ丈の馬鹿正直さがあるかないかが第一着の問題であるし。(このすこし手前まで書いたら開成山からおけさ婆さんの婿が来ました。)
 二十六日、きのう一日そのマサカズの出入りや注文(国の、よ)で大ごたつきをして、前晩空襲だった疲れがぬけきらなかったら、昨夜又候。昨夜はわたし一人にペンぎり。しかし二人きりで気が揃っているので割合楽でしたが、昨夜は壕に土をかけて小学校の前の疎開地へ出かけました。バケツ一つずつに水を入れたのもってフトンもって。あとは何一つもたず。今か今かと見ているうちに東方の烈風が起って来て火はくいとまり、うちのあたりは黒いままのこり、二時半ごろ再び白いつるバラの咲いている門の中へ戻りました。三月四日にバク弾のおちた前通りの家が三四軒焼け、肴町の通りから団子坂の手前左へ折れて細い道にかかった、あの右側がやけ、(団子坂の手前のやけのこりだった小部分)うちの裏は二側あっちまで、やけました。一時前に停電になってしまいラジオも電燈も水道もなしよ。こうして確実にやけのこりの部分を掃かれて行くのを見ると、もうもう居るべき時でないと思います。
 わたしの田舎ぐらしの用意として、財務整理(!)のため来月初旬まではどうしても東京にいなくてはなりませんが、それ迄ここ数日大活動をして、ペンをつれて一応どこか山形辺の温泉に一先ず行き、そこで一ヵ月もいるうちに、きまればそこへ行くということにいたしましょう。温泉というのはね、マサカズの話で国の生活があの土地の生産者に寄食的にだけあって公共奉仕をしないので、不人気なのよ。「一人よけいに人をよびよせるのは、ハア其だけ自分の食い量が減るこんだから考えなさるがいいと云っているんです」作物を守っている人のこころもちはそうでしょう。わたしはそういう口にくるしい餌では生き難いし、わるい亭主をもったのと似ていて、中條さんと云えば旦那とわたしは別ですという生活はなりたちませんものね。こんなひどい東京にいて、私がこうしていられるのは、わたしの与える無形なよろこびやたよりに対してわたしに便利なように便利なようにと考えて、ナッパの一かたまりもくれる人が多いからよ。わたしたちにはわたしたちの存在の方法がおのずからございます。
 それにわたしはこの頃右の腕が過労のため(人足仕事の)痛くて髪をとかすのもやっとです。こうしてものを書くこまかい運動は割にましですが。炎症をおこすのだって。ロイマというリョーマチのモトの仕業の由。ところが現代ではそのロイマ奴の正体が不明なのよ。おイシャにきいたら、サンショの皮を入れた風呂に入ってみなさいというの。サンショの皮をペンがさがしたら、見えていた道ばたの山椒の樹が若葉がくれしてしまって、駄目なの。その腕でゆうべはシャベルもって土かけしたから、きょうの工合は物凄うございます。〔中略〕
 千葉で休んで来た力で移動の仕事やってしまって、なるたけ早くここを動きます。東京にいなくてはならないということと、ここにいるということとは別ですから。今一寸何をするにも只金を払う丈ではとてもだけれども、マサカズが来た結果すこし便宜な条件が出来ましたから、それを活用して動きます。ペンも岩手の水沢というところに母を疎開させ、自分はどこかその辺で職業をもつことにします。方向が同じで、一人で困るからいろんなこと一緒にして、わたしは一人では困る道伴れになって貰うというわけです。(五反田に近い上大崎に知った家がありましたが、やけたらしいことよ。猿町がないそうですから。)
 焼あとが多いことは大したことね。昨夜そう思いました。しかし、あとで焼ければやけるほど万事が骨折りです。いろんなものが無くなるし(乗物など)。来月そちらでお目にかかり、次の月はどうなるでしょうねえ。
 七月には、ね。いつまでもおいてきぼりにしてしまったらこまると思います。移動して出たら、もう東京へは戻れないし。でもまア、万一そういうときには又その時の策もあるかもしれません。せめて夜具フトンを、と頭を大ひねりです。〔中略〕
 チリヨケ目がねで大分注意いたしましたがきょうは目がすこしパシパシ。おや、今とんでいるのは29[#「29」は縦中横]の音よ。ラジオがないとこういうことになるのね。ではどうかお大切に。今は省線が不通です。

 六月十六日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 一九四五年六月十六日
 きょうは開成山からの手紙です。これは、いつ着くでしょうね、勿論明日わたしがここを立ってひどく混む汽車にもまれて東京へついて、それからそちらへシャツを届けに行ってそれでもまだ着かないことでしょう。もしかしたらこの次引上げの意味でこっちへ来る時分にやっと読んで頂けるのかもしれないと思います。
 こちらには、十四日に来たのよ。十日に来る予定でいたところ、うちの菅谷には切符なんか買えない由で駄目。閉口してあきらめかけていたとき一馬という咲の兄が来て自分の切符をくれる話となりました。全く望外のことで大よろこびしたけれ共十二日に来るのが来なくて、やっと十三日の午後もって来てくれました。そこで急に支度して、ペンに久喜まで送られて来ました。国の迎えが主眼で。上野では(一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペンがおりるときは窓から出ました。窓からというとこわいけれども案外なのね。大いに意を強うして郡山でも其をやらなければなるまいと思っていたところ、ともかく体は普通に降りました。大風呂敷の背負袋、国府津へなんか持って行った茶色のスーツケース(覚えていらっしゃる?)それにベン当なんか入れた袋。モンペ、くつばき。凄いでしょう。背負袋からは雨傘が突き立って居ります。
 引上げ準備のため忙殺され疲れきっていて、汽車にのったらゆっくりしたかったのに、何しろ座席の(向い合う)間に腰かけているものがあるほどの上に、あいにく向いにこしかけた男女とも罹災して大いに気合がかかりっぱなしの人物なので到頭着くまで何となししず心なし。段々夕暮れになって山際の西日が美しく日光連山から福島のダケの山並が見えて来て、短い満載列車はたった一つの灯を車室につけたまま暗く一生懸命にせっせ、せっせと煙を吐いて進みます。郡山につく一つ二つ前の汽車の情景はドーミエ風でした。
 何しろ電報は都内で丸一日がかりですからいきなり来た次第です。郡山駅がやられたというから国民車というものもないという覚悟で靴をはいて来たわけでした。駅に下りたら攻撃を受けたとは云ってもちゃんと屋根もあれば水のみ所の鏡もあり、駅全体の空気は東京で忘れられたおだやかさです。一時預りもやっていたのよ。それはほんとうに平常の生活というものを思い出させます。人の住んでいる街道、家並のある道、それは何と賑やかなものでしょう。たのしいものでしょう。月が五日で丁度八時すぎの田舎道に照して居ります。ベン当袋だけ背負ってゆっくりと歩き出し一時間すこし歩きました。殆ど人通りのない街道が畑と田との間にさしかかり、やがて子供時代から見馴れた山の神の松林。そこのあたりに大きい池が三つあって桜の繁った葉が黒々と厚くつらなっている遙か彼方に山が見えます。月は明るく蛙が鳴いているの。そこを、わたしは一人で歩きつつ、東京をどんなこころもちで思いやったことでしょう。いとしきものをのこし来にけり。焼原の真暗ななかにすこしずつ点々と灯かげが見えるような東京。いとしいものはその灯の小さい影の下に生活をしている。切ないまざまざとした光景。そこから離れてこうやって月明りの昔ながらの道を歩いている自分。全く異様で、納得しにくい感じでした。涙がこぼれかかるような思いでした。東京は可愛いわ。あんな東京で必死に生きている人々は、いじらしいいとしいと思います。東京のいじらしさには、特定の個人が中心となっているというばかりでなく、私の知っている、そして経験した様々の善意と努力とがそこにあるのですものね、ある特別な人にしても云わばその凝結のようなものだから、こういう痛烈な時期に、それがまだそこにのこっているときに自分だけ離れて来るということは本当に、出来にくいことです。あんな悲しいこころもちは初めてよ。あんな夜道は忘れ得ません。全く新しい一つの責任と義務として理解しなくては、月のうちにこちらに引上げて来るなどということは不可能そうです。そして、こうやって不意に来たここの家の生活は、わたしのそういうこころの中と不調和な日暮しです。新しい場所で新しく生活しはじめるために、暫くここで休む。そういうためにはいいのですけれども。
 今この手紙は家の東に面したからりとした客室の書院の低い棚板の上で書いて居ります。わきにミシンがのっています。客用卓が立てられています。座布団がつみ上げてあります。ふとんが出ています。それらの様子は、手の足りない旅舎の団体室の閑散な一時めいて居ります。どこにも中心のない大きい室。寝て、食べて、そして又寝に来る室。そういう風です。だが、床の間には祖父が書いて貰って昔からかかっていた安積事業詩史という字一杯の双幅がかかって居り、書院の柱には天君泰然百體從令、心爲形役乃獸乃禽という二本の聯がかかって居り、書院のランマには菊水の彫があります。いつかここへ来たときこの室のことを書いたと思います。が今は、又一つの感想がございます。この前、何と感じたか覚えて居りません。が、今のわたしの気持では、祖父の一生に貫徹した骨が一本在ったということに同感を覚えます。その骨は、時代の性格、祖父の性格などによって進歩性に立ったものでありながら主観性に煩わされ、狭いものとなり、事業の結果に対して、満足よりも人事的煩わしさをうけとったようになったらしいけれども。その菊水の彫りにしろ事業詩史にしろ聯の文句にしろ祖父はそれを自分の人生への態度から照り返したものによって自分で選び、自分でかけ、つまり自分でこしらえました。その室に今つまれているふとんざぶとん家財類。それは全然無性格よ。生活がそこに語られているとすれば、それは生存せんとする姿として在るので、生活意欲とは云いかねます。ふとんは誰でもねるし謂わば誰のでもよくて、この室に其がこうやって出し放されてあるという状況には、今日という時代、その間にこうして生存しつづける本能的な人たちが反映しているばかりです。わたしは、そこのタンスによりかかって「アンリ・ブリュラールの生涯」をすこし読み、本をおいて感じを新しくいたしました。わたしの気分には、この読み下せもしない詩史や聯にあらわされている生活意志というものに対する同感があり、その間にころがっている家財、ふとん類とが、その同感の邪魔として、又はギャップとしてうけとられると。わたしは、ここに納れない自分をむしろ祝福いたします。新しい環境は努力を求められますが、それは其なりに甲斐があって、ここのように家の在るところが村の特別場所だと同じような一種の特別的な隔離がありません。二ヵ月位すっかり休んで事情が許せば先へ移ります。もし早くなればもとより其が結構よ。ねえ。江場土に行って見て来た生活ぶりと何たる異いでしょう。ここで人間は成長出来ないわ。祖父が、謂ってみれば功成り名遂げて村からおくられた土地というようなものは、その位置が景勝であればある丈隠居ですね。でも凄じい時代の推移でこの東に向って地平線まで開いた廊下は、機銃に対してこわいところとなりました。角度がうんと大きいのですもの。あっちの方からだって、空から人が動くのが見えるのでしょうから。
「伸子」の中にかかれたこの庭は、今芝生の隅に壕がほられて、白いマーガレットが野生に咲いて居ります。きょう、わたしは杏の葉の美しい井戸端でもんぺと肌襦袢とを洗いました。あした着て帰るのに。又大汗をかくでしょう。戦闘準備よ。やっと国男が動き出します。切符の都合でどうなることか、わたしが一人先になるか、国と一緒に行けるか。一緒に行きたいと思います。帰るのは、こわく、しかしうれしいわ。心が休まるわ。でも、帰った時家がなかったらどこへ泊ろうねというような話です。親類たちも皆やけてしまったのよ。咲の兄、姉、従弟。本当に、どこに泊るのかしら。やけのこりの近所のどこかよ。今の東京を見たら国もすこしは活が入るでしょう。そして、自分の将来ということについてもいくらか真面目に考えるでしょう。
 昼飯のとき太郎が(もう五年よ。すっかりこっちの言葉になり、東京の子に見られないふっくりした少年となりました、)お父さまア(と、こっちのアクセントで)こっちさ来て商売は何なの? 商売はないよ、お前の学校の先生になろうか。先生になんだら田植しなくちゃあ。お父様だったら作業みんな良上にすんだべ、からいから。わたしがきいていておやじの点のからいというのが分らないのよ。何故さ、そんなに耕作が上手なの? そうじゃねえけんどさ、子供だから其以上説明出来ないのね。含蓄多き会話です。
 四つの健之助はまだ幼児で丸い頬をしてすこし泣きむしでおやじに大いに差別待遇をうけゲンコも貰います。妙ね、くちやかましいし閑居して不善をなすの口で、ひる太郎が神経バカ誰? と云っているのよ。こっちでは気狂いのことを神経って申します。そんなものいないよと私が云ったら、太郎が居んだと笑うの。誰なの? するとなお笑って健坊がそうきくと、健ちゃんと返事するのですって。それを親父が教えたのですって。咲が、そういう点じゃ問題になりゃしないのとひんしゅくします。止めさせる威厳がないのね。そしてそういう威厳があっては妻となっていられないのでしょう。わたしは健坊をつれて客室の方へ来て掃除をしながらおどります、手をふって。健坊も大よろこびでおどるのよ。気がからーりとするらしくて健坊はすっかりいい眼つきになります。おばちゃんよウと呼ぶのよ。ああちゃんよウ、兄ちゃんようと。泰子は全く泰然よ、仰臥したまま七歳となりました。そして健ちゃんは赤ちゃんだと思って、泣くとあやしに行きます、しかし連れられて自分も泣き出すの。話がわかるのよ。お名前は? というと、ナカジョウケンノスケと片言で申します。みんなナカジョウよ、こちらでは。
 この九日頃、おみやさんという七十何歳かの老女がここで死にました。この女のひとの一生もきのどくなものよ。でもね、従妹ベットにしろ生活力の明瞭な意力の通った女の生涯は同じ孤独にしろ親類のかかりうどにしろ物語りになるけれど、このおみやさんというように意志がないようで一生気の毒に過した女の生涯は小説にさえならないのね、植木の成長と枯死のようで。日本の女のみじめさの大部分は、少くともこれ迄はこういう工合だったのね。自然主義時代の小説がひととおり書いたらもうおしまいという位の内容のおくれかただったのね。これからの女の暮しはそうは行きません。ペンにしろ、良人はルソンです。この何年か散々要領で立ちまわった揚句、要領果てと申せます。ペンはその惨憺の意味を感じるにしては小さい人間ですが、其でもこの頃は、もっともっと大きい淋しさのためにうんと準備しなけりゃならないと思うわと申しました、今の淋しさに比べてね、絶対の喪失に対してです。そうでしょうと思います。この人たちの場合は。だって、要領よく立ちまわったつもりで、余り目前で細かく立ちまわって一まわりしてあっちへぬけてしまったのですものね。もともこもなしだわ。要領なんて何ときびしい返報をするでしょう、人生は嘘を許さないと思います。
 明日帰って一週間か十日猛烈に忙しく、又手紙もさし上げられまいと思います。
 わたしは毎日少しずつ手紙かこうと思っていたのよ。日記として。そうしなくては一ヵ月が長すぎて。ところが昨今の暮しは一ヵ月の長い感じはそのままのくせに、一日がやたらに疾走して、朝から夜まで事、事、事、でつまってしかも其は、田舎から人が突然来た、荷物をたのむ。急に切符が来た、じゃあ荷物をとって来なくちゃ。そういうことで。こっちへ一応来たらばこれはすむでしょう。わたしは予約したのよ、もうこれ丈うちのために骨を折ったんだから二ヵ月はバカにならせて貰うからって。寿は信州追分の方へ行くかさもなければ青森の方へ行くかするそうです、わたしと一緒に暮したらいいのに。或はそうなるでしょう。七月十日頃までには、いずれにせよ必ず動く由。こちらへ来る前電報して会ってきめさせました。たった四十円しか全財産もっていなかったのに切符と一緒に新橋の駅のスタンドで本を買っていて財布を下へおいてとられちまったのよ。そういう気分でいるから行くところも手おくれになるのだと例のわたしの小言が出ました。
 本気になっていず、何となし斜にかまえているからなのよ。其だけが一応全部であるけれどもあとにはまだ、という気があるから其が隙になってとられます。小事の如きだけれど、寿の半生は、其でいつでも後手ばかり打って来たのですものね。怒濤時代にあんなささやかな者が自分だけポーズして其が何であり得ましょう。ことしはノミ、蚊、蠅ひどくてあわれブランカはボツボツよ。

 六月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 六月十七日 開成山。
 ここでは、夜のしらしらあけから盛に飛行機がとびます。子供飛行機――つまり練習なの。しかし夢の中でその音が刺戟となり朝はいつも何か空襲の夢を見るから閉口です。けさは、あなたが何だか助けに来て下すって、門の樹蔭のようなところにかがまって、甚だそういう場合であることを残念に感じながら目をさましました。実にひどい音なのよ。今丁度昼飯時で、空のブンブンも御飯に下りていて、しずかに鳥の声がきこえて居ります。
 わたしは、梅干の種が一つ入っているお茶わんをわきにおいて又書院の棚のところに居ります。ブリュラールと。梅干は、ゆっくり横になっていて、御飯ぬかしたから(朝)お握りを一つもらってたべたからなのよ。梅干を入れて貰えるのは凄いでしょう?
 ブリュラールは、ほんとに話すように書かれているので、これをよむと心が流れ出します。こういう珍しい休みの中にいて、こういう本をよむとわたしの全心が音を立てるように一つの方向にほとばしりはじめます。そして、書き出さずにはいられないの。
 きょうほんとうは、もうここを立つ筈でした。ところが、東京へ国が来るための切符が又候出来ず、座席もない汽車にわたし一人乗って行くのもへこたれるので待ち合わせ、明日一緒にということになりました。咲は、焼けたところを見ていないから、荷物の整理なんて、自分がしたときのように出来そうに思って、欲ばりよ迚も。ああいう火と爆弾の間を縫って何かしているような気分は、もう絶対に分らなくなっているようです。疎開なんて、その点いやねえ。作家なんかがいち早く疎開したら、一生のうちにとりかえしつかないピンぼけの一区切りが出来ます。昨夜その話が出て自認しているからはたが迷惑だよ、と笑いましたが。
 ここにもよし切りが鳴いて居ります。カッコーカッコーカカカと閑古鳥もないて居ります。でも、ここでは不思議とうたが一つも浮んで来ません。ごたごた生活のせいもあるし、まだ用の途中でそれどころか、ここへ来ているのさえ用のうちだからでしょう。国も、全く、ね。わたしがわざわざ来なけりゃ動かないなんて実に、ねえ。
 こちらでは、朝日新聞が東京から来なくなって福島民報一本立てとなり地方独立単位にはじまりました。毎日、読売、朝日と併合となっていますが、地方新聞の型を脱せず、国際情報なんかありません。記事の扱いかたもバランスが妙です。こういう新聞しかよめないのは弱ったことだと思います。視野の点で非常にちがいますから。
 こちらへ来る二日前に、本類そちらからつきました。相当ありました。いろいろ。おっしゃっていらした日本地図、中華語の本、衛生の本みんな出て来て別にしておきました。東京からは第四種も駄目となり本を送るのは一層不便となりました。しかし何とかして田舎へ送っておきましょうね。
 そちら、どうしていらっしゃる? 気候不順ですから調節範囲のせまい身のまわりで御不便でしょうと思います。一寸一枚下に重ねたかったり、一つかけたかったりいたしますものね。薬はまだありましょうか。この辺の薬やはね、薬を疎開させていて何一つないのよ。焼くよりは、と東京では売り出しましたから対照が面白いこと。三越なんか売っているのは薬のみというようですって。
 わたしは江場土であんなに休んだのに、あれから一ヵ月の間にめっきりやせて、この頃は相当のものよ(やせが)病気でなくて、こんなになったのは、初めてではないかしら。あなたもいろいろでいくらか細くおなりになったと思いました。お互さまね。わたしは忠実な妻ですから、あなたが細くおなりになるにかかわらず自分は益※(二の字点、1-2-22)丸くなるという工合には行かないのよ。天の配ザイ[#「天の配剤」の左に「いかにもむずかしいハイザイね」の注記]はよろしきを得て居ります。輪はそろってまわります。
 きょうは、初夏めいた風のややきつい空の美しい日です。庭の芝の先に楓の低い生垣があって、その下は低く、ゆるい起伏ある耕地、森、町の方の煙突、そして三春方面の山並が日光にとけて見えて居ります。(これは東)北側に大きい池があって桜並木越しにダケの山々が見えて居ります。(アラ、もうお昼休みがすんだのよ。バタバタガーガーがはじまりよ)
 今年は天候不順で田も畑も困難が多いようです。きのう、国がジャガイモの花つみをしていました。林町のジャガイモは芽をつんでしまってるのよ、花は咲かないわけでしょう? 淋しいわね、それでもああいうヒヨヒヨのに実をつけるためには芽をつんでしんをとめるのですって。わたしが来る前胡瓜に手をやらなければならなかったのですが時間がなく、うちの連中はおよそそういう人達でないから、胡瓜は困ったことだと思って居りましょう。島田のおいしいうずら豆ね赤っぽいところに斑の入った、あれを蒔いたらよくのびて、これはわたしが手をやって来たから安心です。ここの畑のさやえんどうは樹がのびすぎて豆少々という姿よ。うっそうとして茂っては居りますが。キャベツが西洋の子供の絵本にあるように見事に大きく葉をひろげしんが巻きかかって居ります。林町のはどうしたかしら。虫くいになりかかっていましたが。こんな話題も入って来るとおりこういうところで暮していると、咲なんか話しかた話題実に変りますね。話しかたが変に誇張的です。どういうわけかしら。人の好意に対して誇張も加る感謝したりしているうちにああなるのかしら。そして小さい小さい話題をくどく話します。それは事が少いからね。こんな世界の大波濤の時代でも、その煽りをだけくって、狭い無智な生活にかかママんでいると、そういう工合になるのね。田舎生活のもっているこわさというものを感じます。人間生活として、果してどっちがまし(東京のこわさと)かしらなどと思います。しかし考えれば、どちらが、と対比さすべきではなくて、犬死にをせず退嬰しない、ということがなすべき生活ですね、わたしがこう感じるのもこここの人達のせいね。
 きょうはあとで、島田へも手紙さし上げましょう。そして、「北町のばっぱ」のところへ行きましょう。これは一郎爺という祖父の代からの知合いの娘でもう七十何歳かです。わたしの子供時代を通り太郎や健坊を孫扱いにして家の世話もよくやいてくれるばさまです。
 健坊がおきたら参りましょう、今二時、昼ねよ、健坊はね、さっきわたしに抱かれて体をじかに撫でられているうちにトロンコになって眠ってしまったのよ、笑い乍ら。撫でるということは何と動物らしいそして人間らしいやさしさでしょう、わたしの掌は愛するものを撫でそれを休ませ眠らせたいとどんなに希っていることでしょう。この頃は荒っぽい仕事をどっさりしなくてはならないから、この掌もいくらかは硬くなりましたけれども、愛するものを撫でるに硬すぎる掌というものはこの世にないと思うわ。ふと思いました、感覚から人間を聰明にすることは出来ないものかしら、と。聰明な人間でなくてはいい健全な感覚の鋭さもない、しかしその逆は利かないものかしら。こんなことを思ったことがあります。ここに深く結び合った二人があって一方が何かの障害で知覚を失ったとき、二人だけの最もインティームな感覚の表現が、そのものにとって正気に戻れる刺戟となり得るのではないだろうか、と。どんな精神科の医者も試みない実験でしょうと思います。しかし烈しい愛情はそれを試みさせるのではないでしょうか。ところがね、この崇高な熱狂もすこしあやしいのよ、高村光太郎氏の智恵子夫人が精神病になったときは良人が分らなかったのよ、そしておじぎばかりしたのよ。同時に又光太郎さんは、私のようなインスピレーションは抱かなかったらしいの、おじぎで心の髄をしぼられて泣き泣きそこをぞ去りにけるという風だったらしいのよ。人間は常に思いがけない奇蹟を思いつき行うものね。健坊が、余り人間らしく可愛いので(愛撫のうけかたが)わたしの掌には電気がおこりました、そして愛の独創性ということに思いが到ります。このテーマは素敵ねえ。全く万葉の詩人たちでさえも自在性に瞠目するにちがいありません。そういう自在性流露性と、知性の最高度なものとがとけ合っている味いというものは、神様をして恐縮せしめるものだと思います。「神々の笑い」というようなオリンパス的表現をヨーロッパ文学はもって来たけれども一九四五年五月は、それにまさる人間の笑いがあり得ることを文学の上に実証いたしました。神々は嘗てエデンから追放した人間が、エデンなんかいつの間にか無視して、こんな橄欖かんらんの園を建設し終せたことに、どんなにおどろくでしょう、自分たちが、人間に創られたものであったという身の程を、どんなにひしと感じたことでしょう。その哄笑には、飲まず食わずで雲の上にばかりいた神々の理解することの出来ない歓喜、苦悩の克服のよろこびがこめられて居ります。今世紀のユーモアは此の図絵よ。そして、この一巻のユーモアは、人類史におけるユーモアの質を変えました。ミケランジェロの描いた人間の宇宙的な姿、しかしそこを一貫する哀愁を、今理解すると思います。ミケランジェロは高度な人間性で人類の宇宙的質を直感したのだけれども、それは未だ少なからず渾沌の裡にぼやかされ眠らされつながれていて、どこがどうつながれていると解明出来ないままにあの哀愁をこめて巨大さであったのではないでしょうか。今、そろそろとあの巨人たちはヴァチカンの天井からぬけ出してきもちよさそうにのびをし、四肢を動かし、あの眼の玉をくるりとまわすのだと思います。宇宙的なものは真の誕生を与えられるのです。
 シェクスピアは何ぞというと申しました「神々も照覧あれ」これはロミオも叫んだし、マクベスの悪妻もうなりました。現代のブランカは、神々がどこかでかさこそさせているのを感じるなら、こう云うと思います「あなたがたも見たいの、じゃあ、さアどうぞ。余りそばへよらないでね」だって神々なんてひどい未発育よ。何万年も無邪気のままいるというんですもの。人間のすることではきっとけがをしてよ、うっかり好奇心をおこしたりすると、ね。わたしは親切ものなんですもの。
 こういう風なブランカのひとり笑いに交ってカッコーは盛に鳴いて居り、咲がおみやさんの遺品わけをして話している声がきこえます。あなたもこの冗談はお気に召すでしょう? 明日は本当に帰れましょう、おそろしいがらくたきゃらばんで帰るのよ。わたし、国、そのおみやの親類の物すごい婆さん、瀧川。(わたしの手伝いに)ではね、一日に行きそうであぶなかしくって。

 六月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 六月十八日
 きょうもまたこの棚のところへ坐りました。どうでしょう! 切符が(国のよ)夕刻までにしか手に入らず、しかも駅は何とか山のムカデのように七巻半のとぐろで、明日立つということになりました。
 わたしは腹が立ってやり切れなくなって、引こんで、ブリュラールをよみはじめました。それからすこし気がしずまってからモンペの紐に芯を入れてしまいました。そして、おべん当にする筈の握り飯を生蕃袋からとり出してたべました、その握り飯は、柏の葉にくるんであります(なかは平凡だけれど)
 それから健坊と遊び、又ブリュラールにかえり、さて又帰るべきところへと帰って来てしまった次第です。この頃の旅行って、まるで昔の旅ね、汽車にのる迄は分らないのね、そして、ここの人たちみたいに人まかせな人は、実にたよりないこと夥しいものです。今日の一日がどういう意味をもっているかということをちっとも実感として感じていません。〔中略〕
 けさは珍しく八時すぎまでしずかでした、ブンブンが。だもんだからわたしはわざわざ廊下まで出て行って「何か情報が入っていないかしら、飛んでないから」と云ったら「アラ先生大丈夫、こういうこともありますのよ」と瀧川さんが申しました。
 ブリュラールはどんな印象でしたろう。一種の書き方ね。自伝を書こうとすると、全く私自分というものにひっかかります。スタンダールが其を気にしているのが同感されます。自分の場合だったらどうかしら。おなじみの伸子をつれて来る方が話しよさそうね。時代の相異も自分というものの観かたの角度もあって、わたしは自分を、時代の一人の女、それによって語られるその時代の生活という風にしか或モティーヴをもち得ません。スタンダールのナポレオン観のポイントは、いつもよく分らないのですが、これをよんでもまだ(第五章)よく分らないわ、何と判断しているのか。この中でも特長をなしている彼の考察は、静的ね。そして、精密であるが情感を貫いて考察されず「感情生活を考察する」、という風な性質のもので、それが彼の小説をパルムの僧院のようなものにするのだろうと思いました。情熱的でしかもその情熱をいつも不安に皮肉に監視しているのね。ナポレオン後の聰明さはそういう特長だったかもしれませんね。わかるようにも思えるわ。
 才智の萌芽の信じがたいこと、「何物も天才の予告とはならない多分執着力が一つの徴候であるだろう」というのは面白く思いました。最近こういうエピソードがあったのよ。わたしのところへ女の子で舞台監督になりたいひとが来ます。日本で、女で、この仕事をしたいというのは、丁度寿が、指揮者になりたいと思っているのと同じに実現のむずかしい願望です。山本安英に相談したりしてもやはりわたしが見当つけられる範囲しか見当がつかずとどのつまり戯曲をかきました。自分で一年ほど芝居をやって。はじめ書いたのは、対話でした。次のは少女歌劇じみていました。この間もって来たのは、チエホフ風の味で、しかも十分芝居になっていて、情感もゆたかでなるほど芝居のかける人はこういうものか、と素質のちがいにおどろき、よろこびを感じました、その娘さんは戯曲のかける人なのよ。そしてそれはやはりザラにはないことです。まだ二十三四なのよ。近代文学の中で婦人のドラマティストは殆どありません。岡田禎子なんか、会話や人の出し入れの細工が面白いという程度の作家だし。
 いろんなそんな話していたらばね、そのアキ子[自注15]さんがいうのよ、「わたしが(その人)芝居やめたいと思っていたら何とかさんがふっと女の人は逃げ道があるもんだからじきやめたがったりする。いつか先生が(これはブランカよあなかしこ)芝居の人たちにお話をなすったとき、よく世間には自分にこういう才能があるかしら、わたしにやれる丈才能があるかしらと心配したり調べたりしてばかりいる人があるけれども、才能なんて、決してそういうものではない。どんな目に会っても決してやめないでやってゆく勇気が才能だっておっしゃった。本当にそう思うって申しました」というの。成程と思ってね、わたしはいつ、どこでどんな人にどういう話をしたか全然覚えて居りません。しかしそうして覚えていて何かの鼓舞としている人があるということは感動的です。
「でも、その人は自分流に解釈しているのね」とわたしは補足しました。「勇気が即ち才能という風には云えないわ、わたしは多分どんなに苦しくてもその事をやらずにいられなくてついやって行く、そういう内からの力みたいな押えられない力がもしいうならば才能だと思う」と云ったのでしょう。だってね、そうでしょう、勇気とそういう願望とは別よ。願望があるからこそ勇気があるという結果にはなるだろうが「ああそう、そうおっしゃったの、わかるようだわ」「才能なんか本人がとやかく心配しなくていいのよ、あるものならば必ず在って何とか動き出すものだから。知らず知らずよ。その位のものでなければ謂わば育ちませんよ」つけ加えて「その方、誰かしらないけれども、個人的にでなく芸術の理解という点から云うと、お気の毒ね、才能は勇気なりと要約して覚えているのだけのところという点があるわけでしょう? だからね」「全くねえ」その娘さんがお母さんと暮していて、亡父の財産が、満州にあって、あっちで後見役をしている三十何歳かの叔父さんが、満州こそ安全と主張するため、新京へ帰ったのは残念至極です。そういう話、そんな事があったので、ブリュラールのこの文句はああやっぱりこう思うのねと面白く思えました。
 男の人たちは自分の才能について、大抵の人が一とおり考えるらしいのね、人生というものを見わたしかかった年になると。それに比べて多くの女のひとたちはその問題以前のままで人生に送りこまれてしまいます。しかし、一応考える男の人たちにしろ、才能というものと処世ということとを何と顛倒し混同して考えているでしょう。真の才能というものは、こわいものだわ。持ち主をして其に服従せしめる一つの力であり、一つの人生をグイグイと引っぱってゆく強力な人間磁気です。この磁力の歴史的興味を知らなかった過去の天才たちは多く「不遇な」天才として自分自身を感じたりしたのね。ピエール・キュリーとマリとはその磁力にみちた人々であり互にひき合う魅力を満喫した人々でありそれは普通に云われる男女の間の魅力をはるかにしのぐ魅力、かけがえなきもの天と地とのようなものだったと思います。だからマリはピエールが馬車に轢かれた後は義務の感じだけで努力したというのもよくわかります、ね。
 ああ、わたしはこんなに話し対手がないのよ。こうして、何ぞというと、この隅っこへひっついてしまうぐらい。炉ばたでいろいろ喋っていますが、いつも買物の話、荷物の話、汽車の話。わたしは一人で、もう何ヵ月もそんなことばかり考えて来たのだからもう結構よ。本当に人間の話題が菰包みばかりになってしまうというのは、何たることでしょう。この状態はもう今月一杯で終られなければなりません。ここの人々は百喋って一つのコモ包を始末するという風だから猶更わたしは飽きたのね。一人でいれば退屈しないのに。
 わたしはここへ来たら極めてストイックに自分の生活プランを立て其を実行しなければなりません、どれ丈手伝い、どれ丈勉強するかということをはっきりさせて。わたしはこういうリズムのない万年休日のダラダラ繁忙は辛棒し得ません。大の男が、何を考えているか分らない眼をして炉辺に一日いるのを見てもいられません。
 わたしの人生はゴクゴクむせんで流れて居ります。胸のしめられるような思いで。ですからね、大いに智力を揮って、その熱い流れを、生産的な水源、発電所に作らなければね。
 こんな生活の中で折角のわたしが何となく気むずかしく鬱屈したユリに化してはたまりませんものね。
 ブリュラールはね、今五七頁のところです。お祖父さんが布地屋の倅に本をかしてやりこの利溌でない本ずきが、あとで継母になったマダム・ボレルという女に「マダム正直者の言値は一つしかありません」と云って、かけ引をする女の前から布をしまってしまったというところよ。可哀そうなムーニエね、きっとこのマダムは継母になったあと度々これを父親に話したにきまっていてよ「ムーニエったら」と。そして親父の遺言から何フランかをへずらしたのよ。(バルザックによれば)

[自注15]アキ子――寺島あき子。

 六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(国立公園小豆島の坂手港棧橋及洞雲山全景(1/3)、碁石山全景(2/3)、雪の志賀高原(3/3)の写真絵はがき)〕

 六月二十三日          1/3
 十九日に開成山を三人づれで立ち(国、わたし、瀧川)わたしは久喜の友人のところへまわりました。十五日にそこまで成城から行った荷物は、もう発送されていて、余り調子よく運んだのでびっくりいたしました。二十一日にかえって来ました。そしたらそちらからの世帯一切がついていて、水色花瓶も無事頂きました。わたしのは一まわり小さくて花がひわ色でした。あれは白バラのつもりですって。

 六月二十三日         (2/3)
 お手紙をありがとう。この頃のお手紙一通は妙なよみかたをするのよ、算術をやって。全体で何字あるのかしら。先ずそう思うの。それからそれを三十でわります。すると一日にどの位宛たより頂いている割かしらと。配給も徹底するとそうなります。きのうから右腕が痛み、メリケンコを酢でこねた名倉の薬をはりつけてどうやらこれが書けます。国は丸の内です。

 六月二十三日         (3/3)
 こんなエハガキはみんなそちらからの頂戴ものよ。もう忘れていらっしゃる位古いストック品でしょう。来月一日は日曜日ですね。二日におめにかかって三日に立ちますからカンベンね。
 多分そうなるでしょう。寿は追分に行く由です。本月中に何とかするつもりのようです。わたしは仰せかしこみともかく開成山へ参ります。そして東北巡行をやっていろいろ研究して見ましょう。どこもなかなか人ごみらしい風です。

 七月七日 〔北海道網走町網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(開成山大神宮(※(ローマ数字1、1-13-21))、開成山大神宮北参道(※(ローマ数字2、1-13-22))の写真絵はがき)〕

※(ローマ数字1、1-13-21)) 七月七日、きょうは又開成山から書いて居ります。六月十六日にここから巣鴨へ書いたのが戻って来てそちらのことがわかりました。急にお立ちになりましたね。道中は汽車もあの通りだしさぞお疲れになったろうとお察しいたします。シャツが一寸のことでゆきちがってしまって御免なさい。わたしもやっと安心して林町を引上げました。十二三日ごろもう一度行って最後の片づけをいたし、二十日ごろ立ってそちらに参ります。割合準備して落付くつもりでゆきます。

※(ローマ数字2、1-13-22)) 七月七日、六月十六日のは戻りましたが、そのあと書いた手紙やエハガキはどうやらそちらへ行ったようね、着きましたろうか。久々ぶりの旅行でさぞお疲れでしょう。夜の汽車のさわぎ、あつい汽車の中、夜が明けかかって青々とした山野が見えるときの御気分、いろいろ思いやりながら五日の夜汽車にのって戻りました。青森行は大変ね、北の方ははじめてでいらっしゃるから風景も印象的でしたろう。まだアカシヤの花は咲いて居りますか。海も久しぶりの眺めでしたろう。そちらの景色はパセティックなところがあるでしょう?

 七月八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 ここ二三日こちらはいくらか秋めいた空気です。空に雲が多く複雑に重っているのに山はくっきりと藍色に浮び、空の色は実にいいゴスです。ここでこの位ならば、その辺はもう秋が来ているのかしらと思います。尤も北海道は八月で夏は終りましょうけれど。わたしは、今、一寸した気候の変化についても、ざやなりけりという風に敏感よ。そして、秋の来ないうちに、そちらに落付こうとしきりに思って居ります。
 この前(六月十五日ごろだったかしら。それから十九日迄)こちらに来たときは、心痛一杯で気をもんでいて、ここの生活の空気にもなじめず気持が切のうございました。早く片づけなくては私の今後一二年間の生活に影響するような用が国のズルズルのためたまっていたので。そういうとき書いた手紙が、丁度そちらへの初便りとなってしまったのねえ。様々に印象ぶかい旅をなすって、やれとおちついて今のわたしのように風のたたずまいにも感じが動かされるようなとき、あんな詰らないくしゃくしゃ手紙御目にかけてわるかったことね。御免下さい。あの時は、ああやって書かなくては気が持たなかったのよ。
 国は十九日から七月三日迄滞京。いろいろの重要な用事を順調に果すことが出来ました。いい工合に、その間は東京がすこしひまで壕へ入ることもなかったので、本当に助りました。これでわたしの生活の事務的面が整理され、もうそちらへ行けるようになった次第です。一年か一年半は、気をもまないで休養と勉強とで暮せそうです。往復は不可能ですしここに暮すことはあながちよくもないから、そちらのどこかで暮します、その町か、すこし奥へ入ったところかどこか。面倒でないところで。保護観察所が、札幌の同じ役所へ紹介をくれました。先ずそこへ行って相談してからそちらに行く方がいいのですって。つまらない紛糾をさけるために。地方は人が尠いから目に立つからそうしないといけない由、その通りにいたしましょう。今は特別なときですから。そしてわたしは誰にも触られずに単純に暮したいから。そちらの様子は皆目存じませんからね。わたしとしても参考が必要です。鈴木義男弁護士に札幌の斎藤忠雄という弁護士に紹介を貰いました。この人は土着の人で信望のあつい物わかりよい人の由、相談にのって貰える人のあるのは心づようございます。わたしは、三つ迄札幌の農大の中で育ったし二十代には永く逗留してあちこち旅行もし宮部金吾さんや総長だった佐藤さんとおなじみでしたが、この頃の様子はすっかり変ったし自分の条件も変化して居りますから、やっぱり話のわかりいい筋の紹介が入用でしょう。
 どこに暮すのか、珍しく又茫漠とした感じです。でも北海道は、いいわ。結局は一番ようございましょう。暮しいいでしょう。スケールの大きい生活だけに暮しいいと思います。
 そちらはわたしの覚えではからりとして虫の少いところですが、いかが? 痒いことの少い夏をお過しになれたらと思います。皮膚もサラリとした感じでしょう? そして、又今は白夜でしょうか、もう過ぎましたろうか、それともその辺は違うかしら。わたしたちの生活図譜も時様々ところ様々にくりひろげられて、風景の多様さから云ってもなかなか大したものねえ。大きい歴史の時期に殆ど壮大な風景の中で過すということは。何か内部的な調和さえあります。
 わたしたちの眉宇はかくていよいよ晴れやかなりと申せます。
 実際今年に入ってはじめて安心とはこういうものか、と思うようなこころもちよ。どんなに安心したでしょう。
 七月二日には巣鴨へ行こうと計画して居りました。二十八日かに、開成山から使のついでに返送されて来た手紙(十六日に出した方)が来ました。はじめ切手不足だったのかしらと何心なく見ていたらそちらに移送とあるでしょう。まアとぽけんといたしました。二日に、二日にと思って心の首をのばしていたでしょう、ですからのめるような風で。気がぬけたようになりましたが一晩経ったら、よかったという心もちがはっきりして来ました。中途半端でないのがいいのでしょうと思ってね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園の緑の風景、父の建てた道庁や大学の姿です。そちらの方はブランクなのよ。本当に変な遠い遠い気もちがいたしました。それから地図を出してよくよく眺め、人にきき、紹介貰いに歩いているうちに、そちらの町もリアリティーをもって来たし自分のゆくこともたしかに納得されて来て、もう大丈夫よ。一人でゆくのが大変ですが、さりとて適当なおともも見つかりませんでしょう。ごく簡単な荷物で、能率的に組合わせて身軽に参りましょう。そう云っても寒いところに行くのだからかさばるわねえ。何年ぶりかで零下何度の冬を迎えるのはたのしみです、そちらのマローズはどんなでしょう、あんなに太陽が照ってキラキラかしら。
 自分のいるところに自分のこころもあるというのはいいこころもちよ。わたしはもう十何年か、東京を体がはなれているときはいつも心ばかりそちらにのこっていて、しんから楽しい旅行などしたことがなかったわ。これからは、そういうことがなくなりましょうし、そこの辺を旅行したにしろ、丁度子供が外を歩いて来てああちゃん牛がいたのよと報告するという工合に、ここはこんななのよ、マアこっちはこうよという風に話せるでしょう、そしてそういう話もふむそうかとおわかりになりましょうしね。いいわ。そちらは、暗く重い東北よりもわたしの性に合います、わたしのジャガイモ好きから丈でも。わたしを育てたのはゲルンジーの乳牛ですが、ゲルンジーは今も居りましょうし。あなたが全く新鮮にそこの環境を吸収していらっしゃる様子を想像いたします。そしてさぞ感想は多くその共感を求め表現を欲していらっしゃることでしょうと思います。万葉の歌人たちは「古今」の歌人と比較にならないほど旅を大きくして居ります。しかし陸奥どまりでしょう、津軽の海は未知の境でしたと思えます。ましてやその辺は。日本のうたはそのあたりにも拡げられました。そこに美しい詩もうたも在るようになりました。面白いわね。関先生の折紙によって、一かどの歌人でもある由のわたしは、今にそこで、いくつかの秀歌をつくるかもしれないわ。そして一生に一冊だけは歌集も作ろうという空想も実現するかもしれません。ちっとも淋しくない寂しさ。ゆたかなる寂寥というものは生産的よ少くとも文学にとっては。そちらでの生活をたのしく想像いたします。人口がまばらだということもいいわ。
 こうしてわたしはもうそちらの生活に半ば入って話して居りますが、あなたのお疲れは、さて、いかがでしょう、どんなにかこたえていらっしゃるとは思いますが、同時に、どんなにか、ほっとなすったところがあろうかとも思います。巣鴨は焼けてからは実にでしたものねえ。こんどは、わたしもここへ来て、夜の眠りの深いのにおどろきます。房総南端より、という情報が、どんなに距離をもっているかとおどろきます。十四五日までのうちにもう一度帰京して、二十日ごろそちらに立つ予定です。本月中にはお目にかかりましょうね。呉々もお大事に。

 七月九日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 七月九日
 おひるごろ炉辺に坐っていたら「郵便が来ました」「はい、どうも御苦労さま」というのが、うしろできこえました、わたしは、「遊歩場の楡樹」をよみかけて居りました。すると、咲が、はい、はい、はいとヒラヒラさせてもって来てくれたのが、七月三日づけのお手紙でした。本当にありがとうね。
 新しいようなさきの堅そうなペンで書かれた字を、うちかえしうちかえし拝見いたしました。そちらが番外地というのは愉快ね、その上は何と読むのでしょう、三眺 ミナガメというの? それともサンチョウ? 三眺めらしいわね、一度で足りず三度も眺め、しかも飽きないというわけでしょうか。いよいよ愉快ですね、三眺めの番外なんて、健之助に云わせると全くシュテキ(素敵)だネエだと大笑いです。健之助はイイネエ! という、いかにもよさそうな感歎の表現とこのシュテキだネエを知って居ります。
 夜八時頃の上野、ひどかったでしょう? あの広いところに一杯の人々とその気分。成程とお思いになったでしょうと思います。こちらへ来る日(五日)は十時の仙台行臨時でしたが、八時から列に立ったのよ。まる二昼夜おかかりになったのね、しかし順調の方でしょう。ずーっとぶっ通しでしたろうからお弁当や何かのことも不便だし、さぞ、お疲れでしょう、おなかは揉まれたせいね。どうぞお大事に。東北の美しさには、独特な原始生命が感じられるの、御同感でしょう? 西のように人馴れしていないわ、まだ歴史に織り込まれず、自然は自然のままその営みを営んでいるようで、一種情趣がございましょう?
 木造の室にお暮しなるというのは気が楽のようです。空からのことは閉口だけれども、そこの流氷とコンクリートと結びつけて考えると、凍えるようですから。やっぱり虫が少いのね、痒いことが少い夏はどんなに快いでしょう。東京から来ると、ここでさえ、こんなに蠅が少いところではなかった筈だのに、と思い、まア何と蚊がいないのだろうと、清潔さにびっくりいたします。猶更でしょうそちらは。
 この頃すこし冷えるのね、きょうも紺がすりの下に肌襦袢を着て居ります。
 隆治さんとお母さんへのたよりは、これのあとすぐ書き御近況もおしらせいたしますから御安心下さい。
 速達はおくれたところへこちらへ廻送の分となったのでしょう。このお手紙は三日にかかれ、六日目について居ります。市内では半月以上かかりましたものね。この間多賀ちゃんから手紙が来てわたしが去年から多賀ちゃんに手紙書かない、と云って歎いて来て居りました、そうだったのかしら、と信じ難く、生活の遑しさを省みました。本当にひどかったのねえ。多賀ちゃんにもゆっくり書き、お母様もこれから御心配いただかないように書きましょう。殆ど毎日書いていたそちらへの手紙が、本年になっては、この間うちあんなにまばらになってしまったのですものね。それで十分がたがたぶりがわかるというものです。ああいう風なガタガタ暮しは、もうおしまいよ、うれしいと思います。今のうち潮が高くなって来ないうち、大急ぎで、手につらまって飛石づたいにそちらへ移ってしまえば、もうそれで落付きです。この頃のことだから、どこへ行ったにしろ其々今らしいことはつきものでしょうが、其にしてもね。内地はもう2/3ばかりわたしの背後の景色となって居ります。こういう場合になったとき、経済上の理由でわたしが動けなかったりしたら、余り情けないと思って、一豊の妻を心がけていて、ようございました。つつましく暮せば一年や一年半何とかやれましょうし、そのうちには又いくらかの収入の途もつきましょう。筑摩の方からは、予約の1/3しかうけとって居ず、この間会って、あとをダラダラ借りせず、今にいくらでも入用のとき、そのときは又、片はじから返せるわけでもあるから、そのとき予約の倍も三倍も出して貰うから、と話しておきました。
 六月一日に御注文の衣類。忘れたのでなく手おくれになってしまったのでした、御免なさい。合いから夏ものみんな田舎でとりよせるのが、間に合わなかった次第です。シャツは壕の中で時機を失った到着を歎いて居ります、小包がきかないからうけとる方法もややこしくておくれました。本は、行先へ送っておいて、とおっしゃったけれど、ここまで来ていて、本人がいらっしゃらないうちそれが理由で紛失しては残念と思い送りませんでした。明日小包こしらえて送ります。ここからならすぐ出ますから。こんなところにしては珍しいでしょう、うちの門を出て草道を半丁ほどゆくと、赤いポストが立って居ります。これもそこまで入れにゆけばいいのよ。バルザックの「農民」は世田ヶ谷からかりて自分が読もうとしてもうここに来て居りますが「木菟党」はわたしのは千葉で寿に云ってやってお送りさせます。
 あっちからも小包はききますから。三冊ずつ本がおよめになるというのは本当にうれしゅうございます。わたしもそちら暮しとなり、本を一ヵ月に三冊ずつ補給するのは、どういう風に行くんでしょう。便利と不便と交※(二の字点、1-2-22)ね。本がないのが何よりの不便。かりる人もろくにありませんから。今のうち(十二三日に帰ったとき)何とか打ち合わせしておきましょう。本そのものは、やけない北海道にたくさんあるわけだけれど、人間を通して出現するわけだからそこがどう行くかしら。今度帰ったらそのことすこし本気で考えましょう。疎開のつもりで、かしてくれればいいのだわ、ねえ。ヴィタミン剤のこと承知いたしました。ほかの「かんづめ」などはいかがな都合でしょう? 江井(覚えていらっしゃる? あの律気なもとの運転手)がお見舞と云って二つくれたのがあって大切に大切にリュックに入れてここまで背負って来て居ります。安着の御祝にさし上げたいこと。
 切手のことわかりました。本と一緒に送りましょう。封緘はどうでしょう、このお手紙は何だか切手のはりようのトンマさに覚えがあるようですが。十枚も送っておきましょうね。
 連絡船についての御注意特別ありがたく頂きました。自分でも一番気になって居りました。御承知の通り、わがこゝろ 雲のごと 天かけれども 身は あはれ金槌。ですものね。必ず昼間にいたしましょう。万一ユリがゆくときではなく。きっと。この海をわたるときユリは大蛇おろちよ、こわいでしょう。太ったゆっくりした大蛇を思うと、凄味がなくて笑えるばかりね。あなたも、ちがったところで、そんなおろちを御覧になるのもわるくないでしょう? おろちのうれし涙ってあるでしょうか。「古事記」の語りてはそういう愛すべきおろちは存じませんでした。

 七月十日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(レスリー筆「黙想」の絵はがき)〕

 きょうは壕入りがいそがしい日です。こちらは小さい子や動けない子がいるので鳴動的ですが、全体から見ると、こわさは林町とくらべものになりません。小包をその合間にこしらえます。中華国語、三省堂日本地図・農民それに封緘十、一銭二十枚、二銭十九枚(これしかなかったのよ)村の司祭[自注16]はかりたと思ったのにありません。それにこうして見ると何と僅かの本でしょう。ほんとに何と少しばかりの本でしょう。ここでも感じますが、大きい自然の中では人間が押し出されたものが見たくて、たとえばセザンヌのような(人物)絵がほしいとお思いになるでしょう? 面白いことだと思います。

[自注16]村の司祭――バルザックの「村の司祭」。

 七月十四日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(湯島小学校六年 デジママサコ筆の絵はがき)〕

 そこは三つ眺めとよむのね。きっと美しい三つの眺めのあるところなのでしょうね、そちらも地区によって名の系統に変化があるらしいようです。
 体の痛いのと、ガタガタで、東京へゆくのもすこしおくれますが、大奮発をしてそちらまで辿りつきましょう。その上でのんびりすることにしてね。ここに風呂がないのよ。わたしは東京であれ丈疲れて来たから痛みがおこって来たのでしょう。近所の爺さまの家の渋湯に入って、大いに一がんばりいたします。

 七月二十七日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 速達)〕

 七月十四日
 このところ、払暁から、紙やペンを、お見覚えのあの袋につめこんで空をにらむ日がつづきます。こちらは子供がいるし、全体としてぼんやり安全感があるせいか(うちのものは、よ。東京に比べたら、というところがあって)緊張も準備もぼやんとして肉厚で、妙です。このゆっくり緊張でも只今のわたしは辟易よ。脚のうしろがつれたり腕がつれたりして大分、ブリューゲルの何とか聖泉の病婦人めいた形で歩いているのに、やっぱりもんぺはくし、号令をついかけるし。きょうも、今まで横になっていて(午後五時)北方の空もおだやかになりましたからこれをかき出しました。
 ここの風呂の底がダメになりました。風呂材として杉の木を截りました。それを乾して風呂やにわたしました。風呂の釜はヤキいもの釜ですって。さかさにしてふくらんだ方を底にして、平和になったらひっくりかえしてイモをやく由(!)そこまで話をきいたのは去年でした。今もってフロのFの字もありません。林町にはボロ石炭があって、幸、風呂にはちょいちょい入り、それでもって居りました。こっちはその有様でうちの男女豪傑は、風呂はこの世にまれなりけり、という貌で笑っているわ。
 この風呂については島田のお母さんも仰天なさったことがあるらしいのよ、昔、信濃町[自注17]へ十日ほどおとまりになったとき。あの優しい咲枝さんがどうして風呂ばかりは立てないかと。ひどい丈夫の皮膚に特別ポンプがついているのかもしれないわ。
 余り体が痛く湯たんぷはないし、ふと考えてさっき太郎に井戸の水を運んでもらってタライに湯をとって脚湯いたしました。すこし循環が整うだろうと思って、案の定、その手当の程度にふさわしい効果はありました。脚はいくらか爽やかとなり、頭脳も活溌になったので、忽然として、この開成山南町なる溜池のガスについて反省いたしました。「やってみること」何でも。そこで思いついて市次郎という先代からの爺さまの家の渋湯に明日から入れてもらうことにし、三四日うちに元気になって東京へはせ戻り、さて網走りまで出発いたします。わたしは臂力が足りないし疲れているから、つい男をたのんで国男にいくらかは動いてほしいと思うのですが、この人はいつか申し上げたかしら、イギリスの紳士よ。実に泰然たるものです。腹が分らない。ぐるりが動いて来てそこに出た状況で最も自分に有利な方に動くという、粘着力百パーセントの人物です。面白いわね。その国男に、この二月――七月間は私はこまかい収支帳をつくらないでおしとおし「さぞ辛棒だろうけれど御免ね。入金はしれきっているのだしわたしの努力でとにかくもち出した必要品はその幾百倍なんだから」と真平御免を蒙りました。
 さて、明日から入る渋湯はたのしみです。「なじょった湯だべ」。どんな湯かしら。「きいたらうれしいけんじょ」きいたらうれしいけれど。けんじょう、という風な力点よ。
 太郎は空スーケーホーと申します。それでもこちら生れでないから発音が軽く澄んでいて、土着の人がきくと「ハイカラ」なんですって。そちらは却って標準語でしょう。女が暮すにも伝統がないから助かると思います。しかし離れやというような建築法は用いないでしょうから(防寒上)どんなところに住むのでしょうね。そちらのある入江から北西に二つほど入江を先へ行ったところに紋別下湧別というところがあって、そこに字何とかいうアイヌ語の部落があって、そこによにげの久一が、今は出世して居りますって。この久一という人は祖母の頃、前の畑を耕していた人です。納れなかったのね狭いカンプラ畑では。そこであっさり海をわたり、どんどん行ってそこの岸でとまったのね、そして今では「馬も立てているだべ」ということです。開成山から行っている人が多いのですって。思いがけないことねえ。わたしはその久一のところへ梅干をおみやげにもって行きます。北海道に梅干はないのですって。農家では生活出来ませんが、その辺に常呂とかいうところがあって、そこいらからゆく温泉があるらしいのよ。大変好奇心があります。九月中旬まではすこし山の中でもいられるでしょう。わたしの湯恋いをお察し下さいませ。
 よほど久しい前、室蘭や虻田辺からずっと新冠まで行ったりした頃、わたしはアイヌ語がすこしわかりました。今でもおそろしく細かい断片がのこって居ります。札幌のバチラー博士[自注18]がアイヌ語字典をつくりました。パール・バックの「戦える使徒」の父とはすこしちがったのね、対象も全然ちがうから当然ですけれども。ロンドンに戻れば気の毒な浦島の子であったこの老人はどうしたでしょう。
 袋のような口をして黒いひげが二本黒子から生えていた夫人はその頃もう大変な年で、何でも銀でこしらえたものが大好きでした。父が博覧会の用事で行く毎にボンボン入れや小箱をあげていつもホクホクしていました。このお婆さんが、博士夫人になる前、何とかシャイアの淑女だったとき描いたという水彩画がありました。新しい何かのものをもって札幌に来た二人は尊敬され乍ら、お祈りをしてイギリス生粋の酸っぱいルーバープに牛乳かけてたべているうちに、日本はこの人々を消耗して、からをイギリスに戻したのでしょう。支那と日本とは西欧に対して独特ね。
 ふと気づいて書くのをやめ検温しました。疲労熱が出ていたわ。きのうもでした、(大丈夫、じき直りますから)すこし熱っぽいと連想が飛躍して、雑談以外には面白さもない文章が出来ますね、滑走風スピードになって。滑走はやめて夕飯迄横になります。又あしたね。
 七月二十七日 十四日に中絶してからきょうまでにもう十三日経ちました。
 十四日から十七八日頃まですっかりへたばって殆ど床について居りました。去年二月からの疲れが出たのです。体じゅうの筋肉が痛んで寝床に横になっているのも苦しいというのは生れてはじめての経験でした。松山[自注19]にいらした頃、体がひどく痛むことがおありになったのじゃなかったの? お母さんからそんなお話を伺ったように思います。臥て、転々反側しながら、こんな風に痛かったのだろうと思いました。なかなか楽でないものねえ。さて、市次郎の渋湯には一度入ったきり。たしかにあたたまってようございます。ここの家は、何しろ開成山の家の留守番をしていた間にセイロウまで自分の家へ運んだという連中だもんだから封鎖的で風呂も入りに行きにくいわ妙なものね、脛にきず で妙にするのね、自分から。
 十九日に急に切符が手に入ったので無理でしたが、帰京、二十四日の夜行で戻りました。もう生活の根拠のないところへ戻るのはこの頃何と不便で且つ悲しいでしょう。自分の米を背負って行くのだけれども、わたしはたっぷり背負えないから、つまりは米に追い立てられてしまうのよ。全く一人では能率も上らないし、私の健康程度では一人で東京へ往復したりする位なら田舎へ行かないがまし位よ、すこし極言すれば。十九日に行くとき郡山にはり出しが出ていて、北海道は売らないしいつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京では駄目でしたが、二十五日の朝ついて訊いたら一日三枚だけ統制官の許可で売る由。至急手配いたしました。来月早々にこちらを立ちます。この隙にね、すこし西へ行って居りますから。この間、駄目になったとき、わたしは大変苦しい気持でした。宙に浮いてしまったような気もちで。どうぞどうぞわかって頂戴。わたしはそこから島田かどちらかにしか自分の暮すところを感じられないのよ。ここはわたしに落付けない生活ぶりです。早く行ってしまいたいわ。そして、普通の場合とこういう時節とは何とおそろしい異いでしょう。わたしはこれ迄随分旅行したし、その度にいろんな荷物を林町にあずけました。その間に失ったものはありましたが大体保管されて居りました。こんどはまるで異うのよ、わたしがまとめ切れず、運び切れず、おいて来たものはすべて失われるものとなりました。自分の体力が足りなくておしいものも置いて来る気持は独特ね、わたしの子供の時代からの原稿なんかもそのままよ、灰になってしまうのよ。大事な去年頃の書類[自注20]だけはどうやら移動可能にいたしましたが、其とても全部は全く不可能でした。世界中の人々が、こういう思いをして居るわけです、国外へ急に出なければならなかった作家たちは、自分の蔵書を失う丈でも苦痛でしたろう。この頃生活上の訓練について一層思います。わたし位のものでも普通の婦人よりは遙に生活の突変になれ、突然の無一物に馴れているわけですが、どこかに在る、というのと灰になるというのとではちがうものねえ。人間がいよいよ精髄的骨格をつよめないと、失ったものが、其人にとってプラスとならずマイナスとなってしまうのね。物の不確さがまざまざとすると、わたしたちは、これから書くもの丈がリアルな存在という気がして、猶更真面目になります。
 きょうは、こちらも夏らしくなりました。そちらはどうでしょう。夏のないような夏を過していらっしゃるのではないかしらと思って居ります。緑郎はカンサスの何とか湖のキャンプへドイツにいた大使たち、近衛秀麿、スワネジ子たちと行ったようです。従弟で、フランスへ交換学生になって行っていたのはグルノーブル(スタンダールの生れた町)にいてシベリアを経て帰りました。緑郎について、生活ぶりについて、いつか私が心配して居りましたろう? やはり其処がピンぼけで、くっついてろくなことはなかったわけです。そういう気分でそういう目に遭うと、人間はなかなかましなものになっては抜け出ませんからね、惜しいことだわ。それにつけ、緑郎の細君が、ああいう生れの人だったことを残念に思います。社交的な一種の環境を外側から見る力はないでしょうからね。揉まれて妙なコスモポリタンが出来上っては人間としてローズものです。残留したということはマイナスに転じました。どうなって帰るかということには心がかりがあります。
 卯女の父さんは応召して長野の方へ行きました。卯女と母さんとは一本田[自注21]の田舎の家へ行くそうです。直さん[自注22]の細君が久しい病気の後死なれました。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。実に気の毒です。鷺の宮は相変らず。近所へ戸塚の母[自注24]と子が越して来ています。どちらも昨今は収入がないから大変でしょう。戸塚の母さんは子供たちと丈生活するようになって大分さっぱりしましたが、この七年ほどの間、生活の裏面を黙って呑みこんで作家的押し出し丈を俗的に押して来ているということのため、人間が平俗にしっかりしてキツくなって何とも云えない美しい天真さを失ってしまったことは見ていて苦しゅうございます。そしてこのことは、芸術家として代うるもののない大切な何かを失ってしまったことです。芸術が天寵であり人間の誇りである以上、芸術家は天のよみする間抜けさ、一途さをもって、正直頓馬に美しく生きなければなりません。それは叡智に充ちるということとは矛盾いたしませんものね。

[自注17]信濃町――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。
[自注18]バチラー博士――一九一八年、百合子十九歳のとき、アイヌ人に取材した小説「風に乗って来るコロポックル」を執筆した時、滞在したことのある英国人宣教師。
[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。
[自注20]大事な去年頃の書類――顕治公判関係の書類。
[自注21]一本田――中野重治の故郷、福井県一本田。
[自注22]直さん――徳永直。
[自注23]柳瀬さん――柳瀬正夢。
[自注24]戸塚の母――佐多稲子。

 七月三十日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 七月二十八日 晴 爽やかな日、縁側に、荷づくりする物を干しています。昨夜は九時すぎから、二時間おき位にボーで起きました。南の山の方に光りも見ました。
 きょうは爽やかな日となりました、暑いけれどもここらしくからりとした風が吹わたって。
 上段の卓の一方に私がこれをかいて居り、左手に太郎が頭をかいたり唸ったりし乍ら、宿題をやって居ります。空の模様のため学校は休みで、宿題が出ていたのを、急にやるので、大さわぎなのよ。うちには、机一つ勉強出来るようにはなっていないのだから、太郎のフラフラも無理なしですが。この子は数学の方が国語よりすきだって。本を並べて見ると、成程と思います、わたしだって健全な頭をもつ子供だったらやはり数学の方が面白いわ。
 この頃の子は五年で、立体なんかもやるのね。もし欠点をいうと、原理を知らなくて、キカイ的に計算法だけ(形式として)うのみにしているから、本式の数学勉強をはじめると、先ず円周率ということから、やり直しね。
 只、いくらをかけるとして学んで居りますから。しかし、太郎も、こうして勉強するのが、自然と地になっている人間がいると、落付けるらしくて何よりです。勉強なんて、つまるところ、頭の体操ですものね、大切なことです発育には。
 アナトール・フランスの遊歩場の楡の木を読みました、いろいろ感じ、アナトール・フランスという作家と自分とは、ハダの合わない感じを、新たにいたします。アナトールの文章は体温が低いのね、知力で体温が下って居るようです。現代物語なんか素材としては忌憚なく作家としてまともな突こみで、大人らしくぶつかっているのに、わきから、書きすぎていて(作家自身のインテリジェンスの平静は乱されず)というところがありすぎて、文章がやせていて(磨かれすぎていて)迫力よほど低うございますのね、バルザックは、彼のめちゃくちゃさ(人くさくて)、面白いとしみじみ思います。文学の歴史ということを思いかえします。いろいろな素質の(秀抜な)集積として現代は、より凡庸な(彼等と比較して)作家にも、ずっと前進した地盤を示して居るのですものね、問題は、作家がどこ迄其を自覚し、どこまで自分をそこできたえ得るかというところでしょう。
 バルザックは本当に面白いわ。昔トルストイに深く傾倒いたしました、そのころの年齢や何かから、トルストイのモラルが、その強壮な呼吸で、わかりやすい推論で、大いに、プラスになったのでした。けれども、明日の可能はトルストイの中にはないことねえ。妙な表現ですが、トルストイは或意味で、世界に対する声であったでしょう、バルザックは世界に対して一つの存在です。声は、整理され、或る発声により響きます、存在はそのものの存在自身で、その矛盾においてさえ、主張する生活力を示して居ります。わたしは、この頃、この、それが在るということの微妙さというか、意味ふかさを痛切に感じます。或るものが、或る在りようをするということ、そこには何より強いものがあります。ぬくべからざるものがあるわ。そしてそれが人生の底です。歴史の礎です。いかに在るか在ろうとしつつあるか、ありつつあるか。ほかに文句はいらないわ。小説もここのところがギリギリね。小説の文章というものはその意味から云って、一行も「叙述」というような平板なものがあるべきでありません。人間が考え動きしている必ず人間がついている、その脈搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしいリアリズムの点つけから云うと、志賀直哉は、やはり偉いわ、セザンヌと同じ意味で。似た限界において。漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、あのダラダラ文章イージーな寄席話術の流れがある故です。小説らしくない文章の人――山本有三、島木健作が、文学的でない人にもよまれるというのは、面白い点です。文化の水準の問題としてね。すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出来上ったりしている人物が露伴や何かの随筆をすくのも、程よい酒の味というところね。随筆とくに(日本のは)人間良心の日当ぼっこですから。ああ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プラス明日という文章をかきたいわ。のっぴきならざる小説が書きたいわ。文士ならざる芸術品がつくりたいわ。堂々と落付いていて、本質にあつい作品が書きとうございます。ブランカの精髄をそそいでね。
 今はもう夕方よ。台所から煙の匂いがして太郎は書取中です。
 ところで、生活の中にはほんの一寸したことで、実に意味ふかい徴候という風なものがあるものだと思います。この間、六七年ぶりで、戸塚の母さんに会って、暫く話しました、五月初旬の詩の話も出たりしてね、そしたら、その頃、リベディンスキーの「一週間」を又よみ出したのですって。「わたしは泣きながらよんだんですがね」というの。ほんの小さい一句です、しかしこの表現は何と報導班員らしさにみちているでしょう、そういう表現はきまりわるく思った筈の人なのにねえ。そして、又暫くしたら、又何か読んだ話が出て又同じことがくりかえされました、「泣きながらよんだんですがね」私にはどうしても忘られないの、そして、忘れないこころもちをお話しずにいられないの、大切な大切な言葉の感覚、感じかたの吟味というも、生活のやりようで、どんなにでも変るものであるということの痛烈な教訓です。そしてこういうことも、考えます、ものは――人の心は充実していれば、感傷は生じません、愛に充実したとき、一心さに充実したとき、泣きながら、という風の感傷の形は生じず、思わず、涙あふるるという形です、これは本質にちがいます。泣きながら云々という表現は、卑俗で皮厚性であるばかりでなく、感動すべき事実と自分の生活内容の自覚との間に或る、あき間が生じた心理なのね。
 そう思えば、云った人自身、その言葉の心理に、ほんとに泣ける位のものだと思います。
 でも、泣きながら、ということを寧ろあるよい感じやすさのように自分から評価して云っているようでした。わたしは、自分のこころが一箇の杏か何かであって、荒々しい指で、ピッピッと、皮をむかれるように、苦痛でした。しかし其を其ままに云うような友情はもう存在していないのねえ。友情というものが経験する最も深い苦痛の一つを経験したと思います。シヅカが、昔を今になすよしもがなと朗詠したのは、現実がいかに、きびしいものであるかという事実への歎息ね。
 或る人に対して、寛大になり遂に、内的な要求を敢てしなくなるということは人間の絶望の一方の形ね。ある見限りをしたとき、その人に対してわたしたちの心は何と平静でしょう、よしんば苦痛一杯でも、怒りはないのね。それは寂しいこころもちね、生きている間は、真に生きていたいと、どんなに、思うでしょう、わたし共、平凡な力量のものは、全く傷つかずに、生きとおす無垢な強さをもち得ないにしろ傷痕を償う立派さはどうしても身につけなければなりません。下らぬ、あくせくと苦労で自分をひっかいては勿体ないわ、でもねえ、惜しいわ。本当に惜しいわ。悧巧さなんて、其丈では何と頼りないものでしょう。
 七月二十九日
 太郎の勉強がやっとすんで、この机は又わたし一人になりました。今は「柳の衣桁」にとりかかって居ります。アナトール・フランスの鋭い洞察は、いつも手ぎれいな機智めいた表現をとるために、その意義の重さをそのままに示さないと思ったりし乍ら、しかし、眼は折々南側にくっきり浮び出て来た山並を眺め、心の底では物思いにしずんで居ります。きのう書いた手紙はまだ机の上にありますが、この封筒がそちらに届くのはいつかしら、と先ず思います。わたしたちの間の玄関や通路は又昨夜いたずら鼠にちらかされました。今朝はわたしは経験者ですから、音響で、そら落すよと叱呼したのに国ポケント突立っていて煽りでヨタついたのよ。
 あなたの御旅行は困難なうちにもいい折に当りました。わたしが其を知ったのは二十六七日頃で十日足らずのうちに大体まとめてここまでは来たのに、夕立雲にかち合ってしまって。来月五日頃に切符を入手する予定で居ります。ああ、神よ、その海渡さえ給えよ。
 きょうは夏らしい日光になって、芝庭や松が芳しい匂いを立てて居りました。その日光と大気の中にあなたの毛布をよくひろげて乾します。今年は東京でも、ここでも洗濯に出せませんので。東京には毛布うけ合う洗濯やはないし、ここは、その店の辺がけさも、で迚も大切な毛布はあずけられませんから。檜葉ひばの枝と松の枝との間に竹竿をわたして、あなたの毛布が空気を吸っている彼方には安積山の山並がございます。雑草の花が毛布の下に咲いて居ります、山百合が自然に生えて、けさ二輪大きい白い花を開きました、暑い昼間の空気にその花は高く匂います、そちらにも百合の花は咲いて居りましょうか。匂いたかく、咲いて居るでしょうか、昼もかなしけと今年も咲くときがあるでしょうか。桔梗もこの庭の野生のは色も濃く姿も大きく美しいと思います、百合も精気にみちて開いて居ります、花やの花と何という違いでしょう。
 そちらの風景の大さは想像されますが、何だか眺めていらっしゃる景色の細部がちっとも分らないこと。あたり前だけれど。そこいらの空気はどんな匂いがいたしますか? 東京から行くと、ここでさえ大気は生きている草木の芳しさでいっぱいです。松柏が多いのでなかなかいい匂いの土地です。そちらの窓から流れ込む空気には、きっと海と山との交り合った調子があるのでしょうね。清涼とおっしゃるような空気で、いやな虫もいなければ、しのぎいいことね。海に近い柔らかさは、千葉の江場土でおどろくように甘美でした。そちらの海はもっと雄大で勁いから、きっと空気の工合もちがうでしょう。流氷が大したものだそうですね。高い崖の下でうち合う流氷の音が、もし深夜にきこえたとしたら、夢も北極までひろがると申すものでしょう、北極でさえも現代では只恐ろしい白い土地ではないのですものね。
 そう思うと、まだまだわたし達の旅行の方式は古風きわまるものだと痛感いたします。そして、何と一寸した障害に困難するでしょう。まだまだやっと自然条件をいくらか克服したという程度ねえ。
 其でも余り悪口は云えないのよ、わたしの体質は航空上非常に不出来で、上空では悪性の脳貧血をおこします、五時間以上は駄目だし、其でさえピンチなのよ、貧血で死ぬのですって。だから、もし空の道が自在になったときどうしようと全くふざけでなく心配よ。しかしそうなれば又何とか対策も出来ると申すものでしょう。船と航空機は苦手です、地の生物キノコ風ね。
 七月十日に出した地図や中華国語はつきましたろうか。それとも津軽の海へのおくりものとなったかしら。それに、わたしが書くいろんな話もどういう風に届くのでしょうね、魚どもには、こういう字はきっと余り美味ではないでしょうのにね。普通に出すより書留の方が何だかましのように思えますから、これはそうするわ。この辺ですと危険な音響の方向もはっきりしているし、空気の震動も単純で林町の壕で聴く地獄の中のようなこわさはありません。対策ありという危険感よ。十分気をつけますから、呉々もお大切に。涼しすぎますまいか、おなかは大丈夫? ペコの方は? では又。
 七月三十日
 きょうも汗の出る位の日になりました、午前中、爆風で塵のおちた部屋部屋の掃除して午食まで一寸一休みのところ。気もちよく南北の風が通って、机の上の螢草の葉をそよがせて居ります。正午のニュースが、声というよりも大空の皺めいた感じできこえています。
 そちらのお天気も快晴? そして快く風が通って居りましょうか? 数行「柳の衣桁」をよみました。ローマ人は誇張の多い凡庸な国民であったということや、実利的で戦争もその点から行ったということや、ベルジュレ先生が、哀れな彼の室で弟子のルー君やナポリ学者と話す見解も極めて肯けます。そしてこれらの部分においては、バルザックよりも時代と頭とが進んで居り、洞察も正確です。アナトールの作品としてこの現代物語は大切なものだし、注意ぶかく読まるべきものなのね、それだのに、こんな半端な翻訳しか出なくて。さわがれるには智的すぎるという風な作品よ。スタンダールの態度は同じ超俗であっても趣味のきびしさ出たらめぎらい甘さぎらいだったと思います。アナトールのは趣味のよさにしろ洗煉リファインメントね。洗煉というものはむずかしくて洗煉ずきの俗っぽさがいやというもう一段上の趣味の高さがあるから面白うございます。スタンダールには、この瀟洒排斥の勇魂がありました。芥川がアナトール好きでした、何か感じるわねえ。そして作品というものは面白いと思います。思索の上での同感は必ずしも作家への愛情とならず作品への愛着となりません。同感するということと愛好するということの違いは微妙ね、人間関係におけると同じに微妙です。ロマン・ローランの「魅せられた魂」はベルジュレ先生がルー君に話したような愚劣さへの抗議をアンネットという女主人が行動として示す点は歴史的に面白いが、あれは失敗の部分のある作品です、其にもかかわらず、あれは愛好するわ。そういうものなのねえ。作家としてはその点がひどく自省されます。愛される作品とはどういうのでしょう、ただ賢い作品ではないし、只鋭い作品ではないし。ベルジュレ先生に対してナポリ学者が云って居ります。「人の心をなぐさめ聖なる言葉」を発する「正義と博愛の使徒たらんことは欲しなくなった時」フランスの魂は人々の心を打たなくなった、と。作品も同じだと思います。そしてそういう作品は作家が、生命の滴々をそそぎこまなくては創れません。滴々とそそぎ込み得る生命の内容を、生活の時々刻々によって蓄積して行かなければ。この千古の真理は、何と恒に新鮮でしょう。人間が生きる限り、老いこむこと、おラクになることを決して許さない鉄則の一つです。
 この頃一寸した事から面白いことを発見いたしました。祖父は大久保利通と共鳴してここの開墾事業に着手したのですが、当時国庫から全部の支出をしかねて、郡山の金もち連を勧誘して開成社という出資後援団体をこしらえざるを得なかったのね。開墾が出来上ると、出資者たちはおそらくその額にふさわしく農地を所有したようです。そして、小作させました。そのために現在でもここは大地主が多くて、土地に自作農が少い場所です。純真な気持で福祉を考えて開墾した祖父が完成後に心に鬱するところ多かったのも、一つにはこういうことが原因だったのでしょう。祖父は、村から住む丈の土地、野菜をつくる丈の畑を貰って終ったのですが、猪苗代疎水事業の組合があって、そこに巣喰う古狸がいてね、横領で二十年間に資産をつくり現在強制疎開を口実にうちの地面にわり込もうとして小作に拒絶されつつあります。昨夜その男が来てね「わたしはハアああいう信用ねえ人間とはつっかわねえことにしています」と意気ごんで云って居りました。何かコンタンがあると誰しも云っています。この男は、いい畑をつぶして田にして(「農業営団」にうりこんで)疎水の水をまわすとうまいことを云い今もってそこは田でも畑でもないものになってしまって水はカラカラ。今までの田から水を引くと云ってみんなに反対されているようです。うちの畑もあやうく失くなるところでした、そしたら今たべているジャガイモもキャベジもなかったわけです。大した大した恐慌でしたろう。雨が多かったのに急に暑くて湿気の多い畑のジャガイモは煮えたようになって腐りはじめました。

 八月八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月八日
 この二三日急に暑さが加りました。こんなに風の通る南北の開いた室内で、きのう、きょうは午後二時頃九十度近うございます。そちらはいかが? 今年は不順で、ひどく涼しすぎたところへ急に暑くなったので、体の調子妙で、脚気にでもなったような工合です(勿論そうではないのよ。然し暑熱に対していい脂肪絶無の食事ですから疲れやすいのでしょう)
 そちらいかがお暮しでしょう。わたしは気の毒な昔の女旅人のようにここに止って、一日一日を待ち乍ら、遙かなところばかり思いやって居ります。昭和九年の夏(六月以後)こんな気持のときが続きました。母の亡くなった年の夏で、父が居りました。夕方なんかわたしが、ついそういう顔付していたと見えて、そんなときは夕飯後、父がよく「又一まわりして来ようか」と発案しました。すると国が車庫の戸をあけて、わたしや父は浴衣がけでのり、ゆっくり涼風にふかれ乍ら、ずーっと気象台の下から濠端に出て、ひろい凱旋道路のところから桜田門の方へ出ました。そして、そこらの濠端で降りて、団扇などつかい乍ら柳の下からわたしの気になる方角を暫く眺めます、まとまりない話をし乍ら。「そろそろ動くか?」「そうね」そして又のって、ぐるりと廻って銀座の方へ出たりしてかえりました。ちょいちょいそういうことがありました。
 ここの夕暮は美しいのよ、西山に日が落ちかかると、庭の松や芝や荒れた梅やすべてが斜光をうけて透明な緑色にかがやき、芳しい草の匂いがあたりに漲ります。わたしはそういう夕方の中に椅子をもち出し、小さい本をよみ乍ら、涼み、休み、一日のガタガタのやっととりかえしをいたします。そちらの夕頃はどんな景色なのでしょう、先ずそう思います。あなたの御顔はまぎれもなくさやかですが、背景が全くないのは変に切ない気分よ。だって、一定の背景があるからこそ、それはそこにおいて描かれるのですが、何にもぐるりの景色がないのなら、その顔はどこにでも動きます。ついそこ、ついここにだって来るわ、何と其は近くに在るのでしょう、本当に、つい、ここにあるわ。ですから困るのよ、そして、わたしは屡※(二の字点、1-2-22)話しかけたいのに。
 七月のうちに行ってしまえたらと思っていたのに、いまだにいつ切符が出来るかしらと思って居る有様です。
 考えると、父は思いやりが深うございました、わたしのこころもちの内の姿も或程度は見ていたのでした。その思いやりと正直な廉恥心のようなものから父は自身の晩年に少なからぬ不如意を忍んだのでした、しかし其は気の毒のようですが、父のために慶賀いたします。もし仮に父がそういう感覚のない処置をして僅か二三年の晩年を過したとしたら、父の生涯は極めて平凡な、ありふれた老人の世俗的処置で終り、少くとも、わたし達が、其をよろこびにも誇りにも思うような初々しい、老いて猶若々しい人間らしさを感銘させることはなかったでしょう。
 今のわたしのような待ちかねたこころもちで、何一つ待つということのないような、日々の混雑と国とすれば「快い無為」(咲ばかり忙しい)生活の中にまじっているのは一修業です。本当にそちらのお暮しはいかが? 山は近くに見えるのでしょうか。
 わたし一人が遠く旅行するのは心許ないという意見があっていろいろ話が出て居りましたが、寿が、ね、一緒にそちらで暮す気になって来ました。はじめは只一人でやれない、と云っていたのですが、千葉の今いるところは、この節「雨霰れ」となって来ましたし、信州の追分なんてところは、食物の問題で到底いられるところでありません。寿の居どころについては心痛して居りましたが、自分もよくよく感じたと見えて、つまりこの際生活をすっかり切り換えて、人生の新発足をする機会を見出そうと決心したらしいのです。北海道へ行き、私はどちらかというと特殊な条件で制約されなければならないから寿はどこかすこし離れた町で、もし出来たら専門の仕事もいくらかして結婚の機会も見出そうと思う風です。
 寿が三十一歳になる迄、この十何年を病気の故ばかりでない、どうにでもなるということのために却って浪費した傾だったのを、残念に思って居りました。今になってそう思いきめたとすれば、昨今の生活が教えたところが甚大であり或意味では敗北もし、そして或は却って地道になるのではないかと思います。そういう打合わせのために、八月一日に突然参りました。開成山へ来たと云ってもここへは来ず、よそに行ってわたしを呼び、咲が宿をこしらえ、そこへ弁当なんか届けるという気の毒な始末です。
 そのときはっきりそういう話が出て、一緒に立とうかどうしようかということになり、わたしは先便で申上げたような順序で行くわけだから、先ずわたしがせめて一遍あなたにもお目にかかり、改めて寿は寿のこととして人に世話も頼んだ方がよいということになり、青森まで船にのる迄が大変だからそこまで送ってくれて、七八時間青森にいて水煙も立たないようなら其で安心して一旦かえり出直すと、いうことに決着いたしました。
 わたしとして、それは寿がどこかに来ているというのはどんなに心丈夫かしれません。そして、あの鼻ぱしのつよいいつもわたしが大事として考えることを、どうにかなると軽くあしらって来た寿が、ここで一つ考えを変える丈、様々の思いを人知れずして来たかと思うといじらしくなります。わたしは沁々思うのよ。人間は人にも云えない、というような苦労はするものじゃないわ、それは余り人間をよくしません。人間の苦労や困難は、筋さえ通っていれば、其がよしんば沈黙のうちに堅忍されていようとも天下公然のことで一つも、人に云えないことではなく、云わない丈のことです。戸塚の母さんを見てどんなに強くそう思うかしれません。芸術家は、人間中の人間なのだから、苦労は最も人間らしい苦労を公然とやるべきで、其の生活そのものは作品です。作品を半分丈かくしておけるものでないと同様にその生活も、人目にかくすところがあろうわけはありません、失敗だって何をかくす必要があるでしょう、もし当然な心の動きに立ったのなら。動機が純一ならば。ねえ。寿が、北海道へ行って暮そうと決心したことで、これまでのいらざる頭のよさ、先くぐり(すべて俗っぽさ)をすてて、あの人の本性にある粘りつよい質朴な、芸術を生むまでに到らなくても理解するこころ丈を正面に出すようになったら一寸見ものと思われます。あの人は誰からも、わたしより「大人っぽい」と思われます、それは悲しむべき点よ。寿に云わせれば、「末世に生れた」からだそうですが。そういう肯定のモメントを見出すのもバカニハデキヌことでしょう、そしてそれがあの人のマイナスだったのですが。
 九族救わる、という言葉のあるのを御存じ? 坊さんの言葉よ。一人出家するとその功徳によって九族が済度されるということがあります。
 善良なるものの影響ということを深く考えます。父の場合にしても一つの例です。その善さは、卑俗になりかかる心に一つの善さを呼びさまし、終にその生涯を美くしくあらしめましたし、寿の場合にしろ、やはりこれが成功すれば彼女の生涯も亦浪費から救われたということになります。よさをよさとしてまともに反映する、ということはうれしいことね。本当に快いことね、年月を経るにつれて、其の味の尽きないこと。人生の妙味というような表現は、大家連が月並に堕さしめましたが、その真の生きのいいところこそ、生けるしるしありと申すべき味です。そして、よさをおのずからよさとして滲透させるまでに反映するためには、鏡は恒に一点曇りなく正しい位置におかれ、そして私心あってはなりません。小さい鏡でも天日をうつし得るというのは面白いと思います。
 こうして、不規則な形にこわされたものの間で営んでいるような日常生活の中で、実にくりかえし、くりかえし人間の小ささと偉大さとの不思議な関係について考えます。人間のしなければならない下らない、下らない小さいどっさりのこと。そんな事をしなくてはならない人間が、一面になしとげて行く偉大な輝やかしい業績。その関係は、何とおどろくべきでしょう。ノミにくわれてかゆがって追いかける、そういう事。それが一つの現実だけれども人間は其だけではないわ、ノミの研究をいたしますものね、ノミの社会発生のミナモトを理解します。そして遂にノミを(くわれつつ)剋伏させます。ここが面白いのよ、そう思うと、よくくりかえしおっしゃった事務的能力が、どんなに大切かということも分ります、だって生活が混乱すればするほど些末な用が増大して労力は益※(二の字点、1-2-22)大になり、其を益※(二の字点、1-2-22)精力的に処理しなくては、人間らしいところ迄辿りつけないのですもの。わたしが、一日の間におどろくべき断続で本をよみ、一冊の本をよみ終せ、まとまった印象を得、批評し得る、という能力だって、人によれば刮目して其可能におどろきます。しかしこれはわたしの少女時代からのもちものよ、ありがたいことだと思います。そういう能力が、あらゆる面に入用だと思います。
 本と云えば、そちらの本どういう風に御入用でしょう、今月の一枚の封緘は、きっと島田へ行きましたことでしょう。何をお送りいたしましょうね、〔約百五十字抹消〕
 メリメはナポレオン三世の側近者だったって? そう? つまり彼のあわれな木偶としての境遇の目撃者であったというのは本当かしら。「柳の衣桁」の教授が書いたものの中に出ますが。アナトール・フランスは、この部分で「人間に対する好意ある軽蔑」というような言葉(要約)をして居ります、ここのところが、この作家の臍ね。ゴーリキイはあんなに(「幼年時代」その他)おそるべき無智、惨酷、苦悩を描きましたが、そこには一つも好意ある軽蔑というような冷やかなものはありません。ひたむきに対象に当って居ります、描いて居ります。一歩どいてじっと見ている、と云う風はありません。アナトールという作家は明るい頭によって洞察は鋭く正しいが、荒い風に当らず育った子供らしく、ちょいとどいているのね、目ではよくよく見ているのだけれども。謂わば、人生を実によく見るが、其は窓からである、というような物足りない賢さがあります。アナトール自身はこの「好意ある軽蔑」をもって中世紀末頃のフランスやイタリーの作家のかいた「ディカメロン」その他を、人間らしい健全なものとして評価するために使った要約ですけれ共。やっぱり終りまでよんで見たい作品ですね。
 きょう、わたしのこころもちは面白いわ。何と申しましょう。夏の日谷間を流れてゆく溪流のような、とでも申せましょうか。こうして、しっかりしたやや狭いはざまを平均された水勢で流れて来た気持が、今ふっと一つの巖をめぐって広いところへ出たはずみに、くるりくるりと渦をまいて居ります。波紋はひろがって、抑える力がないようです。流れの上に、美しい幹のしっかりした樫がさしかかっています。波紋は巖をめぐって出た勢で、大きく大きくとひろがり、渦巻く水の面に梢の濃い緑を映します。やがてその見る目にさえすがすがしい健やかな幹を波紋の中にだきこみました。この底にどんな岩が沈んでいるというのでしょうか、波紋は流れすすむのを忘れたように、その美しい樫の影をめぐって、いつまでもいつまでも渦巻きます。渦は非常に滑らかで、底ふかく、巻きはかたくて中心は燦く一つの点のように見えます。樫の樹は、波紋にまかれるのが面白そうです。時々渡る風で、梢をさやがせ波紋の面も小波立ちますが、樫はやっぱり風にまぎれて波の照りからはなれてしまおうとはせず、却って、一ふきすると、枝を動かし新しい投影を愉しむようです。樫は巧妙です。それとも知れず、しかも波紋のあれやこれやの波だちに微妙にこたえて、夏の金色の光線にしずかにとけて居ります。そこには生命の充実した静謐があります。

 八月十四日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月十三日
 きょうは盆の入りだというので、小さい子供がすこしきれいな浴衣をきたり、花を剪ったりしてざわめいて居ります。今朝五時半にサイレンが鳴りましたが事なく目下は警戒中。小型は早朝から日没までかせぎます。
 さて、こんな漫画覚えていらっしゃいますか。サラリーマンが珍しい夏休みをもらったが、どこへか行きたい、行くには金がかかる。夫婦で地図を眺めて休み中暮している図。これは苦笑が伴うにしろ笑い草ですけれども、わたしがこうして日に一度は地図を眺め、研究して日を暮しているのは、やや惨憺ものです。いろいろな地図をみます。札幌鉄道局が十四年に出した北海道旅の栞というのは、旅行者に便利に出来ていて、網走町というところを見ると、山積された木材をつみこむ貨車の絵の上に、簡単に物産の説明があり、名所(景勝)もかいてあります。これでみると、網走の町から程よくはなれた駅から二三里入ったところに温根湯温泉というのがあって、神経系の病気にいい湯のあることもわかります。それから父が旅行に使ったポケット地図。三省堂の世界地図附図。更におどろくべきはここの家の戸棚から徳川時代に作られた内浦湾附近の地図があります。そしてわたしは安積山の風にふかれ乍ら、明治十二年発行内務省地理局の印のおしてある日本地誌提要という本をひらいて、北見というところをあけます。当時は総てで八郡あり、戸数は五百十一戸、人口二千七百七十人(女七百七十八人)あり、網走は駅路の一つの町であったと書いてあります。北海道志廿五巻という本もあります。明治十七年頃そこには病院しかなかったとかいてあります。大番屋があったと。
 祖父は若年の時、貧乏な上杉藩の将来を思って北海道開発の建議をして、年寄から気違い扱いをされました。その志が小規模にあらわれてこの開成山の事業となったわけでしょう。うちでは代々地図をみる血統よ。父は若い時イギリスに行きたくてベデカーでロンドンをすっかり勉強していたために、父親が洋行帰りという詐欺にかかったのを神田の宿屋まで追っかけて行って金五十円なりをとりかえして来たという武勇伝があります。ベデカーのロンドンとその男の話すロンドンとでは違ったのですって。(一高時代のこと)
 おじいさんは、孫娘が、こうして北海道志まで計らぬ虫干しをして眺めたりすることのあるのを予想したでしょうか。札幌鉄道局の地図をみると、旅行者がいろいろ思いがけない間違いをしないように、必要な色どりが特殊区域にほどこしてあります。それをみると、わたしの切符のむずかしさが身にしみます。特に本月に入ってからはね、九日以降は。
 わたしはこうしているうちに段々一途な気になって来ます。どうしても行かなくてはすまない気がつのって来ます。その気分は、段々自分の身が細まって矢になるようなこころもちよ。雲になり風になりたいというのではなく、一本の矢となるようです。それは一条の路を、一つの方向に駛ります。そうしか行けないのよ、矢というものは。只一点に向って矢は弦をはなれます。狩人よ矢をつがえよ といういつかの詩を覚えていらして? われは一はりのあずさ弓 というの。弦が徒に風に鳴る弓のこころも ですけれども。
わがこころ ひともとの矢 まだら美しき鷹の羽の そや風を截り 雲をさきて とばんと欲つす かのもとに いづかしの 樫の小枝に いざとばん わがこころ そやの一もと。
 その矢が放ってくれる弓をもたない歎きの深さも矢のない弓の歎きに劣りません。或はもっともっと切々たるかもしれないわ。あとで、昼飯をたべたら、郵便局へ行って小包が出るかどうかきいて来ましょう。そして、もし出るようならわたしの代りに本と薬とをお送りいたしましょう。本は、本当に何がよいかわからなくて困ります。すこし支那関係のものがありますがどうかしら。御参考までに。『日本・支那・西洋』後藤末雄。『印度支那と日本との関係』金永鍵(この人は仏印の河内ハノイ、仏国東洋学院同本部の図書主任)。『支那家族研究』牧野巽 生活社版。この人は私は存じませんけれども、どういう人なのかしら。『海南島民族誌』(南支那民族研究への一寄与)スチューベル(独。民族学者)平野義太郎編。『十三世紀東西交渉史序説』岩村忍。三省堂。これは主として中世のヨーロッパ人がどんな風に東洋を知っていたかという側から書かれていてマルコ・ポーロがとまりです。創元で『河竹黙阿彌』河村繁俊。石井柏亭の『日本絵画三代志』明治からのです。著者が著者だから常識的ではありますが、気がお変りになるかもしれません。一ヵ月に一度の封緘故、本のことはよほど前もって分っていないときっとさぞ御不便でしょうと気になります。それにしてもこの前のバルザックや語学の本はついたのでしょうか。ついているのね。きっとついているのでしょう。
目録追加。
日本美術の知識 改造文庫上下 中村亮平
トルキスタンへの旅 タイクマン 神近 岩波新書
マリアット ピーター・シンプル 岩波文庫上中下、
 これはいつか私がまだ病気だった頃よんで貰ってお話していたイギリス海軍生成時代のことをかいた十九世紀はじめの小説で、ユーモアにみちていますがなかなか内容あり。これをよむとサッカレーの「虚栄の市」を思いおこします。インドで儲けはじめた時代のイギリスと、シンプル坊主活躍のイギリス海軍の時代とおのずから連関して。
 浮生六記 沈復(岩波文庫) これは沈の自叙伝。支那文学中最も愛すべき女とされている妻、芸の追想に、彼の芸術家としての諸芸術への識見が洩らされていて、文学として大なばかりでなく支那の大家族の風習や民法に対する一つのプロテストであるそうです。
『中世モルッカ諸島の香料』岡本良知。これは十五、六世紀のヨーロッパ人の発見航海時代と、香料の役割=モルッカの役割を辿ったもの。モルッカ民族の生活研究もついています。岡本という人は香料史を三田史学に発表していた由。
 雑然とした目次ですけれども、丁度東京を去る前にあちこちやけのこりの本やから見つけたものです。
 もし国訳(原文対照)支那文学古典をお読みになるのでしたら、国訳漢文大成の文学部が殆ど揃って居ります。鷺の宮にあります。少し送って見ましょうか。
 小説ではグスターフ・フライタークの『アントン物語』(これは一八五五、フライタークが「三ダースの弱小国の寄合世帯」から強力な統一ドイツとなった時代のプロシアの市民を描きドイツ文学のリアリズムの始祖としての作の由)。『借と貸』Soll und Haben という原名だそうです。有名な古典だそうですね。わたしは買ってもっているだけで未読ですが。シングの『アラン島』という文庫(岩波)。いつかアランという評判の映画がありました。アラン島に滞在して得た素材がシングの戯曲となったばかりでなく、珍しく伝統的な原始生活が観察されているらしいようです。イエーツがシングにアランへゆけとすすめたのだってね。ラシーヌのお化けを追っぱらいにアランへゆけと云ったのですって。チェホフのサガレン紀行とは又異って、しかし其の作家の生涯に影響したという点で同じように興味あるものではないでしょうか。
 神々の復活 レオナルド・ダ・ヴィンチ メレジュコフスキー これは面白いと思っていまだに覚えている小説です。岩波文庫の四冊です。
 北方の流星王 箕作元八 スウェーデン史を読物風にかいたので、これは彼のナポレオン時代史を官本でよんで面白かったので買ったままよまなかったもの。
 老妻物語 アーノルド・ベネット(岩波文庫、二冊)一九〇八の作で代表的なものの由。わたしは余り知らないので読もうと思って。オールド ワイブス テールズだから、妻というより女連という感じですね。しかしむずかしいから妻にしてしまったのでしょう。
 大帝康煕 長与善郎 岩波新書 近代の明君と「支那統治の要道」をかいた本らしいけれど、近頃の長与善郎は文章に流動性が欠けて。
 移動させてもって来た本たちは少くて、大した優秀なコレクションでもありません。ほかにセザンヌ、コロー、ゴヤ、ドガなどの本。
 さて、島田からおたよりがあったでしょうと思いますが、達治さんが応召しました。七月の中旬に。もと入隊したところの由ですが、八月十日頃こちら辺と同時に相当だったから心配です。のみならず、島田のことが気にかかります。お母さんのことを思うとわたしは切ない気がいたします。速達をおくれて拝見して、すぐ速達の手紙さしあげました。又昨日もかきました。ここからあすこまで何日かかるのでしょうね。以前のときと違いますから、達ちゃんの仕事のあとを人におさせになるということも出来ますまい。
 わたしがどれ丈たよりになるのではないけれども、お母さんを思うと黙っていられず、ともかく網走へ行ってお目にかかって相談して、その上で何とか方法を考えたいと申しあげました。こんなに北の果、西の果と心が二つに分れて苦しいことは初めてです。あなたのお気持ではユリが行って、何が出来なくてもいいから御一緒に暮すことをおのぞみでしょう。お母さんのお手紙をよんだとき閃くようにそう思いました。それがあなたのお気もちでしょうと。けれどもブランカとしては、どうしてもこのままあちらへ行ってしまって、どうなるか先の分らない生活へ入るのは余り切ないのです。そちらへ一度でも行って、お目にかかって、あなたがそうしろと仰云れば、ブランカは自分に与えられた義務だと思って、或はもう二度とお目にかかれなくなってしまうかもしれない場所へも行くだろうと思います。ここや東京やそちらと全く雰囲気の違う(家ではなくてよ、地方としてよ)あすこのことを考えると、あなたは誇張とお思いになるかもしれないけれども、わたしは涙を落さずに行く決心が出来ません。どうしても一度おめにかからないうちはいのちを惜しいと思います。
 わたしの二ツに挾まれた切ない心もちを御憐憫下さい。そして何かよい智慧をかして頂けたらと思います。多賀ちゃんに何かとお力になるように手紙出しました。
 今までとちがってあれこれの事情を綜合して考えると、お母さんのおこころのうちを思いやらずに居られません。余りまざまざと映るので、わたしは本当に切ないのです。そしてあなたも、ね。もし当分どうしてもそちらへ行けないと決定したら仕方がないから、わたしはともかく、お見舞に島田へ行って来ましょう。其も出来るかどうか分らないけれども。そしたらきっとわたしの切なさも幾分晴れるでしょう。わたしとしては、どうしてそうしてくれなかったかと、あなたが遺憾にお思いになるだろうと思うことを、そのまま放っておくことはやはり出来かねます。
 つまりはしなければならないと自分の心の命じる通りにしてみるしかしかたがないわ。ね、そして私たちの生活の一点の曇りなさを確保しなくてはなりません。しかし、先ずそちらへ行きたく熱中しているこころもちを許して下さい。

 八月十八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月十六日
 昨十五日正午詔書渙発によってすべての事情が一変いたしました。
 十日以来、空襲がなかなか盛で(結局通過した丈に終りましたが)十四日夜は九時すぎから三時近くまで国男と二人で当直いたしました。田舎暮しで何にも分らず、十五日のことは突然ラジオで承った次第でした。昭和十六年十二月からあしかけ五年でした。前大戦の時(十一月)丁度ニューヨークにいて、休戦の実に底ぬけな祝いを目撃しました。十五日正午から二時間ほど日本全土寂として声莫しという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます。生涯忘れることはないでしょう。この辺は町の住民の構成が単純ですから、そして大きくないから到って平らかです。ただ新しい未知の条件がどういう形をとって実現してくるかということについて主婦たちも心をはりつめているようです。
 昨夜、もう空襲がないということが信じられないようでした。きょう、八ヵ月ぶりで、わたしのあのおなじみのお古の防空着を洗いました。一月二十八日に肴町附近がやけたのをはじめに十四日の夜も着て居りました。汗や埃まびれだのに洗うひまがなかったのよ。

けふこの日汗にしみたる防空着を洗ふ井戸辺に露草あをし

 あっちこっちに行っている人々のことを思いやります。原子爆弾というのは一発一万トンの効果ですって。達ちゃんどうだったでしょう。隆ちゃんはどうしているでしょう、富ちゃんは。林町の家がのこったのは不思議きわまる感じです。(多分のこっているでしょう)あんなに焼けているのにあすこがのこり従ってわたしの机も在る、椅子もある、本もある、何と信じにくいことでしょう。ああ原稿紙もやけなかったのだわ。それら仕事の道具を両腕にかき抱くようです。
 経済事情が様々に変化をうけることでしょう。林町もここも国府津もやけこそしなかったけれども、一人の人間がそれ丈の家の税は払い切れなくなるのではなかろうかと思います。わたしの事情も(経済)変りましょうし、わたしの小さい小さい財布ではすべてがいきなり底の底までつき抜けてしまうけれども、今のところ既定の方針を格別変えず、網走へ行くことを中心に考えて居ります。こちらは何の話もする人なしきく人なし、山の風雨だけでしたが、東京はいろいろもっとで切符のこともなかなかはかどらないのではないでしょうか。待ち遠しさはひとしおです。ここの周囲が農民や教師が主で、急に生活事情の激変する人がないため、太郎なんかのためにはいい場所と云えると思います。食糧事情があるし、咲や子供たちは当分(何年か)ここに暮しつづけるでしょう。国は生計の必要から少くとも何かしなくてはいけないでしょう。こうやって寝ころがってはいられますまいから、これはいずれ上京するでしょう。わたしのことは、ともかくお目にかかった上でのことで、今のわたしにそれ以外のプランはありません。
 親しい友人たちに大した被害のなかったのは幸です。てっちゃんのところも家族を仙台にやって、さてあすこがあれ丈蒙ってどうかしらと思ったところ無事、世田ヶ谷の家も無事。鷺の宮も家としては無事でしょう。卯女の父さんが信州に居ることは申しあげました。たよりが来て、オホーツク海で泳いだことがあるのですって。「網走へは一度行ったことがあります。たしか網走湖というのがあって、汽車が網走へ行く前四五十分程の間軌道の両側一面にオミナエシが咲いていました。僕はまだ殆ど少年と云ってよかったが一人でつめたいオホーツク海で泳ぎました。」「僕の四十四歳の肉体は肉体としても十分使用にたえること、毎日六時半に出発して四時半にかえる迄、その間[#ここから横組み]10分,10分,20分,10分,2時半、10分[#ここで横組み終わり]の休みあり――円匙十字鍬をふるい、モッコをかつぎ、トロッコを押して決して他の兵隊に劣らない。」「文庫本一頁読むヒマもないが不断に勉強していること。境遇は僕を奴隷とし能わぬ如くであります。」そして、きょうは網走で馬車馬の競争を見た話のハガキがありました。橇をつけて走るのですって。砂地の上を。わたしは雪皚々たる一月の晴天に、橇をつけた競馬を見ました、馬種改良のためにはその方がいいのですってね。信州での生活も変りましょう。あらゆる境遇に処することを修得したものがいよいよ日本のために役立つわけでしょう。そして殆ど全人口が、それぞれの形でそれぞれの修業をしたわけです。
 庭は桔梗の花盛りです。青草が荒れた姿で背高く繁っているところに点々と澄んだ紫の花を浮上らせて居ります。きょうも練習機はとんで居ります。のっているのは若者たちでしょう。気分がわかるようね。歴史の景観の一曲一折は深刻であり、瞠目的であり、畏るべき迫力をもって居ります。悲喜を徹してそこに人類と諸民族の美と真と善とを確信するようなこころの勁さ、ゆたかさ、不抜さがいよいよ輝く時代です。いかにも心をやるように、自分の体を大空の中でくるり、くるりとひるがえすように飛ぶ音をきき乍ら、ああいう若い人に一粒ずつ不老の秘薬のようにこの「恒ある心」の丸薬をわけてやりたいようです。この波濤に処するのに素朴な純真さだけがあながち万能ではないでしょう。ラジオでくりかえされるとおり沈着であっても猶聰明でなくてはなりませんから。
 まだ覆いははずしませんが、昨夜庭へいくらか光がさす位の灯かげのまま十時ごろまで坐っていて、明るくてもいいのだという新しい現実を奇異のように感じました。よく深夜都会の裏の大通りなんかで皎々としたアーク燈のゆれているのを大変寂しく見ることがありましょう? 明るい寂しさというものを真新しく感じました。いかに視野をひろく、視線を遠く歴史の彼方を眺めやっているにしろ、不屈なその胸に、やはり八月十五日の夜、覆わないでよくなった電燈の明るさは、一つの歴史の感情としてしみ入ります。東京にいたらどんなだったでしょう。焼けのこったあちらこちらの人家のかたまりは、やはり一つの銘記すべき歴史の感情として灯の明るさを溢れ出させたでしょうか。三好達治の商売的古今調もこの粛然として深い情感に対しては、さすがよく筆を舞わすことが出来ますまい。こういう感情のまじり気なさに対して彼に云われる言葉は一つしかないわ。「極りのわるいということが分っていい頃ですよ。黙りなさい。」
 この五年の間、わたしはこんなに健康を失ったし、十分その健康にふさわしい形で勉強もしかねる遑しい日々を送りましたが、それでも作家として一点愧じざる生活を過したことを感謝いたします。わたしの内部に、何よりも大切なそういう安定の礎が与えられるほど無垢な生活が傍らに在ったことをありがたいと思います。これから又違った困難も次々に来るでしょうが、わたしが真面目である限り其は正当に経験されて行くでしょうと思います。
 五月中の手紙でテーマの積極性ということについてお話しいたしましたろうか? 多分したと思うけれども又くりかえし思うので又云うわ。くりかえしたら御免なさい。
 文学におけるテーマの積極性ということは文学上の問題として久しい前に云われました。随分いろいろにこねたわけでした。わたしは五月頃、忽然として胸を叩いて感歎したのよ。「ああテーマの積極性ということはこういうことであるのだ」と。五月の詩「五月の楡のふかみどり」のうたに連関して。云わば、はじめて鼓動としてわが胸にうったのね。一作家のテムペラメントとして内在的傾向として其は理解はしていたのですが。わかるということの段階は何と幾とおりもあることでしょう。そこで又改めて感じたのですが、文学のテーマの積極性というようなことは、よほど生活経験がいることなのね。説明してやるに骨惜しみをしては迚も分らないことなのね。文学感情=生活感情として、よ。まだまだすぐ、うんそうだというところまで日本の作家の歴史経験はつまれていません。或は最近数年間の諸経験の理性に立つ整理がされていないのではないでしょうか。この点大いに興味があります。これからは一方に輸出向日本的文学なんかが出るかもしれません。
 このことにいくらか連関があることですが、今年のはじめになって、一つの極めて有益な発見を(自分について)したことについて申上げましたろうか。別の面からはお話したように思うけれど。それは、目白にいた時分(十四年頃でしたろうか)あなたが私の仕事がジャーナリスティックな影響をうけすぎているとくりかえしおっしゃったことがありました。当時私はその警告がわかっていて、やっぱり分らなかったと思います。昨年の秋以来の見聞でわたしはどの位成長したか知れないと思います。自分の俗人的面が事にふれて痛感されたし、生活や文学について、私としては最大に(これまでと比較して)沖へ出て、明日への精神をよみかえしてみたら(この春頃)そこには根本に誤った理解はないけれども、話しかたに全くあなたのおっしゃった点が自覚されました。文章に曲線が多すぎ、其には二つの原因があります。一つは、高貴なる単純さを可能にしない理由によります。他の一つは、そのジャーナリスティックな影響であると思いました。よほど前の手紙に書いたように、あの時分わたしは面をひろくすること、接近することに熱心になっていて、その半面で足を掬われるところが生じていたのであると思います。
 自分の仕事のしぶりを時々吟味してみることは何と大切でしょう。しかしなかなかそういう機会にめぐり会えないものです。只時間として仕事と仕事との間にブランクが生じる休止はおこり得るし、わたしが例えば病気で何年も仕事出来なかったという丈のことは誰の上にもおこります。でも、その休止の機会に自分が本質的に一歩なり二歩なり前進し得るということは本当に稀有なことです。大抵は「見識が高くなる」丈なのよ。この数年の間作家として一点の愧なきと申しましたが、一つ誤りをあげるなら、それは仕事のあるもの――婦人のためのものです――が当時のジャーナリズムに影響されなかったとは云えないことです。この点は作家としての回想の中にも書き洩せないことだと思って居ります。その発見の価値よりも、寧ろそれを自覚させるに到った諸事情の価値によって。
 これを思うから、わたしは文学の進歩がどんなに大したことかと痛切に感じないわけに行かないのです。御同感でしょう? その時期でも文学史についての勉強などそして小説などは、同じ危険に同じ程度にさらされては居りません。これからわたしは文学の仕事しかしようと思わないというのは、そういう危険をおそれるからではなくて、自分のような諸条件を得て、一歩ずつ歩けるものは、たとえどんなにたどたどしくても、その最もエッセンシャルな部分に全力を注ぐべきだと思うのです。そうしなくては勿体ないと思うからよ。まして健康を損われて、あの時分のように、一日に十何時間も仕事が出来た頃とすっかり違う条件[自注25]においては、ね。
 先月の五日にこちらへ来て一ヵ月と十日ばかり(間で東京へ一週間)経ちました。そちらへ行くのがおくれてへこたれです。ただ生物的日々を過す生活というものはおそろしいものねえ。こんなに紛然、騒然として朝から夜までつづき乍ら、しかも何一つ、本当に何一つ形成され、造られ、のこされて行かない家庭生活は何と怖ろしいでしょう。自然子供が大きくなるの丈が何かだという生活は何とおそろしいでしょう。こうして手紙かいているということは、一縷のわたしたちの人生的糸です。
〔欄外に〕
 小包は何も出ません。従って本の目録も只御覧になった丈。しかし注文は頂いておきましょう。いつまでも閉っても居りますまいから。

[自注25]すっかり違う条件――一九四二年、巣鴨拘置所で倒れて以来の回復しきらぬ健康状態。

 八月二十三日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(京都三十三間堂の写真絵はがき)〕

 八月二十三日
 寿江子の安否気づかって、あちらこちらへきき合わせていたら昨夕ふらりと来ました。そして、物のはずみで国と出会って国もこっちの家へ来るようにと云い、何年ぶりかで、ここで夕飯を一緒にたべ、わたしはうれし涙をこぼしました。うれし涙をこぼしつつ、こういう生活の愚劣さに歎息いたしました。これほどの思いをしなくては、兄と妹とがマア一つ屋根に数日くらす修業も出来ないのかと思って。近日中に出発します、つまり私一人で。途中安全となりましたし、寿の方針も未定だしわたしは一日も早く行きたいし。四種がゆくのできょう、メレジェコフスキーの『神々の復活』、レオナルド・ダ・ヴィンチを描いたもの四冊(文庫)ブルックハルトのイタリー・ルネッサンスを(全部で五冊)二包として送りました。ブルックハルトのは上巻一冊だけで相すみませんが、下巻は入手出来なかったものです、或は出版しなかったのかもしれません。四種で順ぐり送っておきます。そちらであなたに御不用のものを下げて頂くことが出来ましょうと思って。それがお互様に便宜でしょう、明日郡山駅で切符は申告いたします。成功することを心から願います。

 八月二十六日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月二十四日
 夏の終りの荒っぽい天候になりました、北側の山々(安積山の山並)が、深い藍紫色に浮上って見えるようになりました。盛夏の間こちら側の北はぼんやりしているのよ。朝起きてその濃い山並を眺めやり、もう秋のこんなに近いこと、そちらのことを思います。そちらの山々はきっともっと秋めいた色をしているのだろうと思い乍ら。そして、縁側においてあるわたしの小さな行李の中みは、入れかえなければならないと。もう麻の着るものは来年まではいらないし、秋のものはもっと入用だし、戦争がすんだからにはもんぺばかりでも困るのだろう、帯も一本は入れなければなどと。
 昨日ハガキに一寸書いたとおり、十日までには必ず切符を持って来ると云っていた寿江が余り音沙汰ないのですっかり心配していたら、一昨日の夕方ひょっこり来ました。八月一日に来たとき寿は心配で一人でやれないからせめて船にのる迄送って行く。そして後から北海道へ行って暮したい、そう計画したのでした。事情が変りましたからわたし一人で結構ですし、寿が北海道へ来ない方が大局としていいでしょう。しかし寿とすれば、事情が変ったから送るのもやめたし北海道もやめた、待たしてすまなかった、というべきです。あんなに縋るように自分の身のふりかたに困ったことなどケロリとしているのよ。
 波瀾の中で一人で気をもんだのだから仕方もないとトガめませんけれども、得手勝手ねえ。そして自分の得手勝手を対手の側に理由づけるところが気に入りません。切符は駄目だったのよ、どうする? 困ったというところを、「まさか行こうと思ってるなんて思いもしなかったから」というのよ。可愛気のない心の動きね。つまりわたしの心もちも自分の都合で軽重変化するのです。決して当てに出来ないわ、それが寿の直接問題でない場合。国と寿とは、互に同じこういう点でいつもぶつかり合い、互に其を共通の欠点だと思わず対手をせめるのです。小人の必然として主我的なのねえ。その主我もリップスのところ迄も行っていないのよ。即ち自我の発展としての信義、愛の恒久性の確保というところまでさえも。些細なことですけれども、わたしが寿の身の上安否について抱いている関心の誠実さ、そちらへ一日も早く行きたいと思いつつ寿の好意を信じて待っていたこころもち。其はどちらも尊重されなくてはならないものです。寿は国と全く同じね、自分の側がそういう目に会うと棒大に感じ、自分の勝手で対手をそう傷けても威張っているのよ。
 きょう、午後から郡山へ行きます。そしてビューローで切符について相談いたします。今そういうことをする位なら何のために待ったでしょう。でも、もしかすればよかったとも云えるかもしれません。海の上が安心だし汽車もこわくはなくなったわけですから。そうとでも思いましょう。
 いろいろの条件から、わたしはどうでも動けるようにして、その気もちで参ります。短くも長くもいられるような気もちで。
 ここの生活は丁度おそろしい不揃の馬におそろしくぶぞろいな手綱をつけたチャリオットがころがって行くような生活よ。一頭の馬はじれたがって頭ばかりふり手綱をビンビンひっぱり荒びています、この馬にとっては手綱が短かすぎるのよ、
 もう一頭は重い鈍いしかしおどろくべき度胸で自分のテンポを変化させようとせず、のたりのたりゆるい手綱をたるませてダクっています。小さい仔馬まで間にからんで、わたしは総合して生活というものを感じているから、まるで何というか肱がビンとなるほど一方の手綱が張ったかと思うと、たるんだ方の手綱が其にやたらとからみつき仔馬のたづなは間で、どっちがどうか分らなくなってしまうという風に感じます。その混乱の根本解決って何もないのよ。わたしは、家庭生活のこういう面には、実に疑問を感じます、十六年の末から四年、わたしも全くよく辛棒いたしました。北の国のお百姓は、お客に行って、十分御馳走にあずかってもう結構というとき、顎の下まで一杯に手を横にしてド・シュダーというのよ。わたしもド・シュダーね。こんど事情が変って生活を変ったら、そちらへ行くにしろどうにしろもうこういう生活へは、「お客」以外になりたくないわ。反対の面から国もそうなのよ。家内に、精神のつよい活動がおこるのが負担なのです「永い間は無理だね、マア静養する間がいいんじゃないか」そうだわたしかに。わたしにとって苦痛は実直なる人、勤勉なる人、何かせんとする人が、家内に一人もいないことです。
 さて、午後の首尾はどうでしょうか、うまく行けば本当にうれしいけれども。もしうまく行けば三四日のうちに行ってしまえるでしょう、更に待つようなら、私は何とかします、勉強できるように。幸このあたりは比較的平穏で居りますから。わたしの苦手のうるささもありません、思ったよりずっと。尤もそちらへゆくのが分っているからでしょうが。いいときに東京を去ったと思います。
 今はここまでにしておいて、あとは郡山から帰ってからね。

 二十五日 半ぱな紙でごめんなさい。八行分きってあります。
 きのう、はじめて明るい電燈になりました。何と晴やかでしょう。昨夜雨がふりました。雨がふるのに外が明るいのよ、庭のいろいろのものが見えるのよ。びっくりしました。井戸のところに何年ぶりかで灯がついたの、雨がふってそれでも外が明るいのにこんなにびっくり珍しく眺めるのですものねえ。東京に街燈のつくところはどこいらでしょう。本郷では西片町と大学前通り、うちの前の通りすこし丈です。あとは街燈そのものがないのですものね。
 島木健作が鎌倉で病気により死去しました、ペンの手紙に「書いて、死んで、あとに何がのこったでしょう」と。
 二十六日に第一次進駐が開始されます。東京湾から厚木(神奈川)の方へ。厚木というところには、農民作家なる和田伝が居りましたね地主として。

 二十六日
 昨二十五日は、こちらへも監視飛行が来ました。ついこの間はああいう音がすると忽ちバリバリと猛烈だったのが、きのうは旋回いくつかしてそのまま去りました。でも頭の上にああいう音がしているママ、みんなやっぱり一種の感情です。
 さて、この第一次進駐のために全国、全海域百トン以上の船の航行制限が出て居りますので、青森までの切符は列に立てば手に入りますが、海が一寸不便です。これが解ければ今度こそ行けます。二十八日にマッカーサアが入京する由、大体それ前後に解けますのでしょう。
 外人の旅行自由、信書検閲制廃止こまかいことで日々変化があるようです。
 この頃は夜、本当にぐっすり眠るので、空気もいいし、又そろそろと丸くなり、大いに満足を感じて居ります。
 あなたの方はいかが? やはり空気はいいでしょう? あがるものに幾分地方的な変化があるようになりましたろうか。すこしはおふとりになれそうでしょうか。わたしのように生来丸いものはぴしょりとしていると、自分で力が足りない(充実感の不足)ことばかり感じられて、迚もエイヤと机に向って、おしりをちょいと出してがんばれないわ。時候は段々しのぎよくなるし、明るくなったし、丸くなって来たし、早くそちらへ行ってゆっくりものも書きとうございます。わるくすると来月に入りますね、切符の買えるのが。
 広島の原子バクダンは護国神社附近を中心に落ちた由です(ラジオ)、護国神社ってあの河の堤から入って行く公園のところでしょう? 達ちゃんいかがでしょう、本当にどうしたでしょう。四里四方瓦がとび、地中のウラニウムの放散する毒で中心地帯は人間その他の生物が棲息出来ないのですって。七十年間不毛(生物生棲不適)の地の由。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが社説で、この秘密を世界に公表すべきこと、一国が其を使用して権力を得るには余り恐るべき武器である。建設的提案と同じに世界に公表して新世界秩序の建設に役立たせるべきであるということはすべてのアメリカの理性ある人々の意見であると、書いた由ラジオでききました。アメリカはどうするでしょう。外電でいろいろの職業軍人の断片的言葉などから見て、アメリカは自身の内に戦争犯人を生みつつある感じです。(かりに、第二次大戦には、そういう人がアメリカとイギリスとに丈はなくて、天のキカン銃製造業、天使ガブリエルの航行機会社があったものとして)循環的不安があるのね、彼等にとって。原因に変化をもたらさない以上、不安は益※(二の字点、1-2-22)増大し尨大して循環するでしょう、その点が分らず、ぐるぐる廻るほど、今回の教訓は彼等にとって軽微なものであったでしょうか。もし彼等が猶そのように愚劣であり得るなら、其は意識して人間的理性の判断を拒否しているからです、何かの主観的理由によって。
 百トン以上の船が動かないため四種が一時停止となりレオナルドもブルックハルトもどこかで眠って居ります。すこしお待ち下さい。
 きょうは颱風気味でつよい南風が吹き、空は嵐模様、北山は雲に隠見して紫色に美しゅうございます。桔梗が高い茎の上で劇しく揺れて居ります。桔梗のそばに萱と実生の松の若木があって、嵐は山中の小径の眺めのような庭にふきまわって居ります。

 九月三日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 九月三日
 やっと進駐による航行禁止が解けたら、余り殺到のため又切符の発売は停止中となりました。何度調べるでしょう。そして何度駄目でしょう。六月から八月と、諸事プレストで進み、変化して、きょうは胸にしみるほど山並のくっきりとした秋の晴天の下に、男の子たちが一日ベニヤ板製の補助タンクの払下になったものを燃料にするためにこわして居ります。樫の枝が風にさやさやと鳴っている下で、彼等は、声を限りに叫び、合図をし号令をかけて、独木船のようにしてころがしたり、斧で※[#「斬/手」、647-13]ったりして居ります。原始人の感じが分ります。一つこわして一つ形が変化するにつれて其にふさわしい応用を発見して遊び実に飽きず、小さい小さい健坊まで尻の上へ兵児帯を下げて、ハダシでかけまわって居ります。子供たちの此頃の遊びに安心して没頭する様子は見ものです。此まではいつも見えない緊張があって、心も身も傾けてという風ではなかったわ。遊びでも打ちこむということは大切です。子供にとっては。
 さて、この頃の毎日はラジオをきくことを欠かされません。昨二日は、宣言受諾に関する書類の正式調印で、重光、梅津両全権が東京湾のミズーリー号の上でマッカーサーやウェーンライト、パーシブルという人々、その他中国、ソ、オーストラリア、オランダ、カナダ、ニュージランドなどの代表が調印したそうです。日本人記者二名が陪観し、その艦上にペルリが下田へ来たときたてていた星条旗と真珠湾に翻っていた旗とを二つ貼ってあったということを報道しました。
 それからね、マッカーサーは、「ガラスのペン軸をとって」署名し云々と、その記者は申しました。わたしは何だかこの小さい一つの不確かな観察の中になかなか意味があるように思うのよ。物を書く人間の感覚として、昨日マッカーサーが記念的署名をするときに、貧乏謄写屋のようにガラスのペン軸を使うなどということは信じられません。きっと其は最新流行の合成樹脂の透明なのでこしらえたペン軸だったのだろうと思います。昔なら銀をつかったところでしょう。日本では、以前贅沢品ばかり売っていた店に、贈物用の櫛、シガレットケース、傘の握りなどとして並べられていて、一般の日常生活には入っていません。その記者も一瞥で、それをガラスとあやまったのではないでしょうか。こういう点に何か不確さを感じさせるような常識の差異があるわけです。そして其は、最高の科学にも通じている道です。
 昨夜、スウィスの新聞が「日本のような大国が、事態変化に応じて直ちに連合国に協力し得るということは一つの驚くべきことだ」と云っている由放送しました。ロイテル通信によれば「外交問題専門家の見解はドイツと日本とは全く違っていた、日本はバルカンの事情により近似している」と云ったと放送がありました。そういう世界の声、眼がまぢかに伝えられるのが、一区切りすると、近松門左衛門作忠臣蔵の舞台中継、さもなければ講談などというものがあります。
 それらの間に挾って、わたしはそちらへの切符のことを思い、仕事を考えて居ります。
 わたしは、ともかくどうしてもそちらへ一度行かなくてはなりません。いろいろの用事や相談にのって頂きたいこともあって。
 いろいろの人が身のふりかた――身の上相談もあって。例えば、うちの知合で、芝のおじいさんがいたの御覚えでしょうか。その人の息子がわたしに会いたいのですって。これも身の上相談よきっと。就職についてでしょう。てっちゃんもあの勤めはなくなりましょう。わたしは、しかしいそいで上京し、たよりにならない相談対手を買って出ようとはして居りません。ともかく、そちらに行き、わたしは、勉強し書いてゆくことを益※(二の字点、1-2-22)旺盛にしたく、身の上相談の先生になろうと希望していないこともお話したいと思います。
 仕事としてのスケジュールは又おのずから別です。仕事の点では十分計画をもってやって行きたいと思って居ります。当面、「昭和の十四年間」の後半二十年中旬までをまとめようときめました。これは不可欠な仕事です、日本文学が前進するためには、歩いて来た道を真面目に見直さなければならないのですから。
 中国文学研究会の仕事は消極的ではあったけれども『春桃』を出したりしていたのだし今後益※(二の字点、1-2-22)有益な活動をしなくてはなりますまい。
 アメリカ文学の高い水準での紹介(ジャーナリズムは翻訳を氾濫ハンランさせましたから、或はそういう出版インフレ時代のホンヤク丈についてさえも玉と石とをふるいわけることも必要でしょう)批評も必要です。
 これまでの外務省式のやりかたは「紹介」に止って、それに伴った歴史的展望を欠いていて、いつも卑屈な商品見本のようでした。輸出文学をアメリカに送ろうとして失敗した例が現実にあるのですものね。十六年より前の「親善」期に。
 今日では、日本の文学の到達している世界的水準を明瞭に押し出して、日本文学と同じにアメリカ、中国、ソの文学、イギリス、フランスの文学を観察し得るという能力を示さなくてはならないと思います。そういう機能を高めることは、日本の発展のために重要です。アメリカは「日本がデモクラシーを理解する迄」と事毎に申します。これは興味あることね、即ち日本はアメリカが今日包蔵しているデモクラシーのキリキリ迄民主的であっていいわけなのだし、そうしなければ日本の屈伏は無制限だし。
 文学に専心するいい雑誌をどこが出すでしょうね。金儲けでない。そして執筆する人々もジャーナリスティックでない勉強家であるというような。しかし内容も執筆範囲もひろく、執筆者の経済面も市価を保つことが、只今のような生活事情のときは必要ね。C社、Iなんかという人のぐるりは、ああいう「食いたい連」がワヤワヤだからきっとあれこれ「文化的計画」があるのでしょう。「文化」という言葉が再登場しはじめました。其は厳密に扱われて、再登場の喜劇を演じてはならない立場に置かれていると思います。
 日本文学史が世界的見地から書かれ、其ままホンヤクされれば、世界の知識人に会得され得るようなものの出ることも大切です。フランス文学にしろ堀口大学のような「専門家」は不用です。追随者は必要でありません。すべて前進させ得る見識が必要です。
 わたしは本当に勉強したいのよ。眼がこんなに弱ってしまったのが何と残念でしょう。しかし夜早くねて早くおき仕事せざるを得ないのは却っていいかもしれないわね。てっちゃんにも文学上のあれこれの希望ははなしました。わたしの書きたい小説はまあそろそろと、ね。
 旅行は、どっちを向いても極端に困難です。けれども、もしこの月半ばまで待ってみて、どうしてもそちらへ行く手筈がつかなければ(青函連絡は一艘でやっている由)忙しくなる前に、こちらから島田へ一寸でもお見舞に行って来てしまおうかと思いはじめました。
 達ちゃんの安否についてまだ御返事頂きません。丸山定夫一行十七名の移動劇団が広島の福やデパートに泊っていて、全滅いたしました。福やはわたしも知って居ります、あすこから電車で護国神社まで行った覚もあります。目下のところ一番気になるのは達ちゃんのことですから、どういう形にしろ忙しくなる迄に島田へ行くのも一つの方法と考えます。あちらに住むのは不便でしょう。子供二人にお母さん友ちゃんとわたしという組合わせでは、女である私はここにいると同様になってしまうでしょう。最悪の場合を考えても、やはり私はあちらに住まず、仕事を自由にたっぷりして、その結果で出来る丈お力になるのが一番よい方法と思います。岩本さんの娘が来ているらしいのね、文子というのはその娘さんのことなのね。そういう人がいれば猶更わたしは、あちらにいる間は若い女教師の常識で納得出来る暮しぶりでなくてはならず、それは定評をつくり、つまりお母さんのお気持に及ぼしますから(それに岩本家というところの風があなかしこだから)。途中東京へ一寸よって見てもいいかと思います。てっちゃんなんかに。(仙台からおくさん子供よびもどしたい由)そうするともう十月ね。わたしの心配は、郡山、青森、函館というようなところはいずれ進駐地でしょうから、その時はまた交通途絶いたします、よほどうまく取計らわないと今年一杯、それ又ふさがったで過してしまいそうで、あぶなかしくてたまりません。だから、どうぞして本月半ばまでにそちらに行けるようにしたいの。それにしても、あなたは何と僅かの間をお動きになったことでしょうね。
 そして、郡山が進駐地となり、その場所はどこだか、其によっては出入りがずっと面倒くさくなりましょう。双方で馴れる迄ひどく慎重らしいから、一定の地域の通ママ人の身体ケンサしているらしい風です(ラジオでの話)(横浜など)わたしはどうしても忙しくなり、動きも多くなりましょうから、そういう場合は不便でしょうと思います。東京なら広うございますけれどもね。
 七月には三日に手紙かいて下さいました。きょうは三日ね。やはりそちらもこんな秋晴れでしょうか。そして手紙書いて下さったのかしら? こちらもこの一週間ほどは夜冷えてすこし厚いかけものを出しました。今、もって行く薄どてらを縫って貰って居ります、夕方なんか羽織がいるのではないでしょうか。海はどんな色でしょう。二、八月というから九月の海は荒いのでしょうね、濤の音が聴えるでしょうか。風の音が二百十日後は変りました、乾いた音がきこえはじめました。
 竹越三叉の『二千五百年史』の四十二年版が焼けのこりの古本やにあってもって来ました。箕作元八が西洋史を扱ったのに似た方法ですね。文章が文語ですが弾力にとんでいて、やはり箕作の談論に似て居ります。三叉という人は一種の人物でしょうと思いますが、年代がずっている故か、環境がずっている故か(慶大関係)すっかり歴史の中にしかきこえない名のようです。三浦周行の『法制史研究』は面白そうなのに下だけしか買えませんでした。風邪をおひきにならないようにね。
〔欄外に〕○郡山の市は本やがありません。

 九月四日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 九月四日(一九四五年)
 只今お母さんから速達が来ました。達治さんの安否について心配して居りましたところ、やはり最も悲しいことになったようです。形は行方不明ですが、生存は万※[#濁点付き小書き片仮名カ、652-15]一にも期しがたい前後の事情です。お手紙の要点を申上げます。
 七月十七日召集をうけ広島に入隊。八月二日に休暇が出て、四日に又戻り、「六日の朝八時原子爆弾にあいました。当地も日々空襲で汽車不通」十二日に友人が広島へゆき調べてくれましたが、原隊では本人当日軽傷なるも行方不明とのこと。いろいろ調べたが不明。四五日したら患者を集合させるからとのことで又十七日の調べで生死不明、行方不明ということになったままです。
 ところが十六日に周防村の新谷という一等兵が来て、負傷後宮本と三日一つトラックにいた。傷は後頭に一寸位の破片による傷二ヶ所、顔に薄い火傷。出血は六日午後に止った。帰っているかと思って来たとのことです。十三日に帰宅命令で戻った由です。お母さんがその人の宅へ行き、いろいろ細かにおききになったそうです。達ちゃんは、手当をうけられないからと三日目にトラックへ乗ってどこかへ行ったというので、病院などもお調べになったが不明。二十四日、友ちゃんが友人の西山と同道本部へ行き、いろいろ調べたが、隊では三日いたことさえ不明の由。負傷者は十里二十里先、島へまで運んで迚も調査ができない由、兵営は全滅。何万という人だそうです。原簿がやけてしまったそうです。広島全部焦土の由。その上生きている人々は解除で四散し、全く手のつけようもないようです。「原子爆弾は一寸の傷でも受けたら毒素が体内に入り、負傷後死する人が沢山あるとのことで、新谷ママも宅へ帰って大変の熱が出て、なお生死の程も気づかわれて居ます。今だに達治の死体が分らないというのは不思議です。たとえ広島は焦土と化しても三日も生きていたのなら、どこで死んでいても様子は知れぬこともあるまいとそれが残念でなりません。」十四日に光工廠大爆撃をうけ工廠は全滅、野原に火災が起ったけれども、宮本の家は屋根を痛めたすかった由です。一同無事。岩本全焼、明石絢子宅全焼。(世田ヶ谷にいた人ね)「顕治は東京より北海道の方が無事と申しますので安心致して居ります」「何も彼も懸念の事ばかりです。」
〔欄外に〕八月五日のお手紙御覧です。
 本当にトラックに三日ものっていて、(ねるところが無かったわけでしょう)それをどこへ運ばせたのでしょう。どこかへ行こうとして(治療に)途中で容子が変ったのでしょうか、たった一人でゆく筈もなし、実に奇妙です。たった一人なら被服も滅茶滅茶で名も分らずでしょうが。原子爆弾の負傷はどんな微細なものでもそこから腐蝕して生命を奪うそうです。東大のツヅキ外科へ入って死んだ人は指の先のかすり傷でそれが全身に及ぶ由、強烈なレントゲン照射にあったと同様で細胞を破壊し、白血球の激減がおこり、輸血するとそこから腐蝕し、毛髪脱落するそうです。
 今郵便局へゆき、切符買えたらすぐ行くと打電しました。同時にそちらへも御覧の通りに打ちました。そちらの切符がまだ見とおしも立たなかったのが不幸中の幸でした。明早朝買いにゆき、買えたら最も早い機会で立ちます。多分新潟まわりでしょう。
 友ちゃんのこと、子供らのこと、お母様のお心のうち万々お察しいたすにあまりあります。健気にぐちも書いていらっしゃいませんが、どんなお気もちでしょう。申しあげようもありません。此の上は、隆治さんの無事に還る日が一日千秋です。(在外邦人はみんな帰すそうです。八十万内地に戻るそうです。)
 ともかく行って出来るだけおなぐさめもし善後策を講じ、行方をさがしましょう。心のこりというのはこのことです。三日も命があったというのにね。トラックにのって行ったらその番号の車がどこでどうなっていたかさえ分らないというのは。混乱の程思いやられます。二十六日づけのお手紙です。きょうはもう四日、九日経過しています。新谷という人は多分死去してしまったでしょう。トラック番号をきくことさえ手がかりを失ったかもしれません。隊の解散がひきつづきましたから責任不明となり、本当にわるいめぐり合わせでした。わたし達も其だけの負傷をして、相手が原子である以上、覚悟して処置しなければなりますまい。其にしても行方不明というのは。実に解せません。しかし、東京で現に五分前まで一緒の家の壕にいた我娘が遂に行方不明となった人があったりします。いろいろの場合を思いやり、生きるために努力したことを考えると涙が出ます。友ちゃんと子供らの顔にはげまされて、力をふるって自分を救おうとしたのでしょうのに。可哀想に。可哀想に。
 島田までゆけば一週間や十日で戻ることは不可能です。少くとも、暮しの見通しがつき、気持の落付きがいくらかできる迄はいてあげなくてはなるまいと思います。経済上の問題も深刻でしょうと思います。トラックを処分したりして目前にはいくらかのゆとりをおもちでしょうが、タバコと米配給の手伝い丈ではなかなかやれますまい。合同の方の仕事の権利を応召のときどういう契約にしていったか、それによっては代理として人を雇い、そのものにうちから月給を払って働いてもらうということも、これから先、人の余るときには可能でしょう、反面に不可能の条件もましますが。
 こういう事情になって、そちらへは本当にいつ行けるのでしょう。しかし、今島田へゆくことに論議の余地はないと思い、そのようにいたします。私の判断で最善をつくしますから御心痛ないように。次々と様子をお知らせいたします。

 九月十五日 [自注26]〔網走刑務所の顕治宛 山口県光市上島田より(封書 書留)〕

 九月十四日
 さて、この手紙は島田で書いて居ります。あの二階で。
 五日に、切符が買えたとき埼玉県へ打った電報が六日にわたしの行ったときまだ着いて居ませんでした。七日に、てっちゃんとうち合わせの電報もつきませんでした。こちらへは、手紙を頂き、来る決心をしたときすぐ(四日)電報うちましたが、そのウナは、十三日(きのう)わたしが来ても着いて居りませんでした。妙ね。手紙の方はどうやらこの頃よく着きますが。従って、おかあさん達にとって、きのうの午ごろ、わたしは突然現われたわけでした。
 大分苦心して郡山から島田迄の切符を買いました。それが五日。六日に出発して、その日の午後埼玉県の久喜に途中下車。荷物のことや何かいろいろ世話になった友人のところへよりました。七日はそこにいて、八日てっちゃんのところへ行く予定のところ、八日マッカーサアの東京進駐で、いくらか普段と違うというので用心して九日てっちゃんのところへ行きました。どこでもいろいろ新しい用事が出来ていて、いろいろ話し、十日に鷺の宮へ行きました。文報のことやその他あるので。十一日早朝八重洲口の列に立って急行券を買い、十二日朝五時に家を出六時半から立って、八時半の急行に乗りました。この時間にゆくと坐れました。そして、島田へ着いたのは、十三日の殆ど午頃。十二日に四時に起きたときから算えると、三十二時間かかっているわけです。汽車丈二十六時間ね。横浜辺からもう立つ人が出来はじめ名古屋で通路がふさがり大阪以西は謂わば二等も三等もないという有様でした。久喜で降りるときには窓から降りました。岩国では昇降口から出ましたが。半島へかえる人々解除の人々、それがみんな体のもてる限りの荷物をもつのだからえらいことです。托送が無事に着くためしなしというような不信用が漲っているし、解除の人々は大体自分の荷物の内容について神経過敏ですから。
 三時三十五分位に広島へ着く筈のところ七時半頃に着。いつものようにのりかえようと思って一旦降りましたが、駅は全く旧態なく地下道丈もとのままです。島田へ行くのは何時に出ますかときいたら、片腕のない少年駅手が、四時二十分! と申します。四時二十分って――午後? と訊いたら四時二十分て云ったら午前だぐらい分ってるだろう! こういうあいさつです。次は何時です? 分らん。さては、と思って又大急ぎでかけ戻り、幸停車していたもとの車にのって岩国まで来ました。ここで三十分ほどで海岸まわりの本線にのって無事つきました。
 東海道と山陽本線は、東北本線と何たる異いでしょう。いままでよりもずっと時間がかかりここまで来たのに、まるで東京からぬけきらないままのような気がします。焼跡つづきだから。急行ですからすこし大きいところにしか止らず、止ったところは皆実にひどくやられて居ります。東京も実にひどいが面積がひろく、その中にいるから、汽車で森や畑を抜け出たと思う都会毎に原形をとどめずという風になっているのを見るのとは、おのずからちがった感じです。
 広島はひどいわ。己斐は勿論のこと、五日市でしたか、あの辺までやけて居ります。爆風か爆弾かにやられたところもどっさりです、近郊で。岩国もひどいわ。光井に行ったら又おどろくのでしょう。島田では、そういう被害は一つもありませんが、駅は雑沓して、且つ気分が亢ぶって居ります。
 達治さんのことは、本当に何と云ってよいか分らず、まだ不明のままですが、一ヵ月経った今は、覚悟していらっしゃいます。それにしても不明というのは腑に落ちません。わたしとしても、ここまで来て不明だということです、ではどうも気がすまないので、二三日してすこし疲れが直ったら本部へ行ってよく調べて来ようと思います。そして、分散療養させてある各所の責任部を調べ、その各所宛返事を求めて見ましょう。帳簿には軽傷とあり又別のには行方不明とあり双方に記載されて居ますのだそうです。大混乱だったのでしょう。
 友ちゃんも可哀想に寂しそうです。子供たち二人は元気です。輝の方は勝より疳の高ぶったなかなかがむしゃらな子です。割合この辺の子供は粗暴ね、東北の子供たちと一寸又違います。おかあさんはおじちゃんをたよっておいでです。子供たちにとってこわい人がいるから、と。輝にはたしかにそうね。この子は、よく導かれ、程よい重しがつかないと自分の廻転を止めかねるような男らしく見えます。父ちゃんのビールや酒を、ちょいと目がはなれると、のんでしまうんだって。
 前の河村さんのところでは、下の写真をやる方の息子が、千葉から解除になって戻り、もう一人は隆ちゃんと同じように濠北の由です。帰った人はいろいろおみやげをどっさりもって来て、あの夫婦は自足しているようです。達ちゃんのこと、あきらめにゃいけませんと二言目には云うと友ちゃんが述懐しています。その気持はよく分るわねえ。燈を明るくし、ラジオは天気予報まで云うようになったとき、あっちこっちで帰って来るとき、もう帰る希望のなくなった友ちゃんやお母さんのお気もちは想像にかたくありません。友ちゃんは臥ることもなくて暮して居りますが。
 経済の面では、自動車を処分したり、又達ちゃんが出る前に部分品の整理をしたりしてちんまりしてゆけば輝が成人する迄はやって行けようというお話です。わたし達の出来ることはいつも乍ら些少です。基本をそうして何とかやれて行ければ大いに助かります。お母さんは「わたしのいるうちは何とかやっちゃいこうが先は長いから」とおっしゃいます。「それは全くそうですが、兄や弟が子供の二人ぐらいは何とかいたしますよ」「ほんにの、うちの兄弟は仕合せと思いやりが深いからどうにかなろうと云っちょるの」友ちゃんは自分の健康が十分でないことで消極になっているようです。「これ迄あんまりがよかったからこんなことになったやしれん」と云っているそうです。余り、というほど仕合せを感じていたのなら、せめてもです。
 卯女の父さん、てっちゃん、鷺の宮、開成山からお見舞をもって来ました。わたし達からは百円ともかくさしあげました。わたしが帰るときには、この前野原やこっちへお送りした分ぐらいおいておこうと思って居ります。必要はないと云ったって心もちのことですから。それにつけ、こういう不幸が、いくらかわたしの収入のひらけた時に起ったのは不幸中の幸と思われます。過渡的な状況ですしあれこれと妥協点が求められているし、或線で彼我一致の利害もあり複雑ですから、決して前のめりはいけないけれども、昨今の事情にふさわしい範囲で相当いそがしくなります。
 いつぞや筑摩から金を前に借りることはしない、つまり原稿をわたすことはしないと云って居りましたろう? あれはよかったわ、筑摩は、あの頃の気分で本の内容に希望をもっていました。わたしも殆ど同じ一般の空気の中にいたから自分から云い出した題目でしたが、(それは昨年の暮近く)段々こころもちが変って、書かないでよかったわ。今のこころもちで、この状況の中で、第一番に宮本百合子の出したのは、子供時代の思い出だというのではわたしも情けなさすぎます。何も可能の第一日目に出なくたって、必要なものが出されなければならず、その必要なものというのは、昭和十五年から二十年前半までの文芸批評であり、それを極めて立体的に扱ったものであり、「十四年間」と一括されたものでなければなりません。前途に展望と希望とを与え、新しい文学の働きてを招き出す息吹きにみちたものでなくてはなりません。それは、ほかの誰にでも出来るとも云えますまい。鎌倉住いの作家連は出版事業を計画中の由。所謂職業作家が、彼等の波に漂う精神をもって、新しい日本に何をもたらそうというのでしょう。
 こちらには、読まなくてはならない本をすこし持って来て居ります。
 お母さんが、そちらからのお手紙見せて下さいました。八月二十六日の分も。そして、その中に、わたしがそちらに行く計画も変化したかもしれずとあり、その通り御洞察と思いました。
 いろいろの点から、これからそちらへ行くことはやめます。網走を知らないことは残念ですが、少くとも来年の春迄の間に、わたしがそちらへ行くことはおやめにいたします。書く仕事の点から丈云っても、資料の関係や何かで東京にいないと困りますが、食物が余り閉口で、仕事出来る丈の食物がなく、其を獲得する努力をしては勉強どころではありません。こういう風に衆議一決いたしました。わたしは当分開成山にいて、仕事の出来る室か家を見つけ、一番近い足休めの場所として暮すこと。一ヵ月に一度ぐらい、上京すればいいこと。どうせ仕事をもって来たり、本やとの打合わせがありますから。そして、林町がやけていないのだからそこへは優先的に戻れますし。
 来年の春までのうちに随分あれこれと変化いたしましょう。このごろちょいちょい泉子が来てね、うれしそうに、たのしそうに、賢そうなことや手ばなしの話をいたします。何よりも心配なのは好ちゃんに御馳走するのにものがないことだそうです。わたしも其には心から同情いたします。本当にそうでしょう。好ちゃんは本当に見事に義務を守った勇士ですから泉子のこころとすれば世界の珍味もまだ足りぬ位でしょう。それだのに「ねえ察して頂きたいのよ」と申します「わたしは、これっぽっちのかんにお砂糖をためたのがあるきりよ」と二つの手で小さな丸をこしらえて見せます、「ほんのちょんびりの油があるきりだし玉子なんてどうしたら買えるでしょうね。田舎でも一ヶ二円よ」と申します。聞いている私は笑い笑い恐縮いたします。私にしろ何に一つそういう方面で顔はきかないのですもの。しかも今のようなとき泉子に「そんな心配は二の次よ」とは常識がある以上決して決して云えませんからね。好ちゃんは少くとも半年は休養して(しかも十二分の条件で)万事はそれからにしなければなりません。泉子曰く「その期間はわたしが出来る丈何でもするわ、つまり安心してのんびりしていられるようにね」泉子の計画は健気ですが、好ちゃんは御存知の通の人柄ですから、果して悠々休養するでしょうか。ねがわくば、あなたからよくよくお申しきけ下すって、それこそ展望的に悠々とするよう、泉子の出来ることは実に限りがあり且つ歯痒いでしょうが、そこが辛棒のしどころと、よくお教え下さい。泉子は言葉すくなく、しかし眼にも頬にも燿きをてりかえして居ります。わたしはちょいとひやかします「あなた案外落付いた風ね。無理しない方がよくてよ」すると泉子曰く「ええ。ありがとう。」そして笑うと、真面目になって申します「私は却って心配な位よ。だって私には私の分としてしなけりゃならないことがまだどっさりあるのよ。アンポンになる迄に。だからね今からボーッとしては大変なの。大いに奮励しておかないと安心してアンポンになれないでしょう、間に合うかしらと寧ろ心配よ」好ちゃんは幸海外にいたのではないからまさか三年はかかりますまい。緑郎なんかどういうことになるでしょう。只交戦国人として抑留されたのではないから。ベルリンなんかにいた日本人の中で動きかたが目立ったということは、単純ではありませんから。
 今ここには岩本の文子さんというのが(先生)来て居ります。子供の世話を見たり台所手伝ったりして、前坐の方の部屋に居ります。二階はあいているのよ、お母さんが昼寝におあがりになる位。二階は大変むし暑いのね。開成山では秋でしたからこんなに汗が出ると逆戻りでおどろきます。しかし、幸ノミが居りません。ついこの間畳干して大掃除なさいました由。裏に出来た道路は丁度お寺の崖をこそげとってうちの裏の細い溝のすぐ上を通って居て、そちらの道の通ママ人は自転車やオートバイで、すこし目より高いところを通り、外から内が丸見えです。竹垣を結ってあります。それでもこの間は二階に夕闇まぎれに人が入っていたとかいうことがあります。少くとも本月一杯は居ようと思います。一日に二階にいて、何か出来る時間はかなりあると思います。五つと三つというと、割合にこまかい手がいらないのね、それにおばあちゃんにしろ母ちゃんにしろ、子供たちのおかげで気のまぎれるところもあるのですから。
 そちらの夏は大変涼しかったのね。お体のために楽でしたろう? 却ってあつい光線が恋しい位でしたろう。食事のこともましなのは何よりです。長野にいた戸坂さん[自注27]という人は営養失調で死去されました。卯女のお父さんは七日に一本田の卯女のところへ行き、出来る丈早く東京へ帰ると云うハガキを開成山で貰いました。もうきっと帰って居りましょう。芝のおじいちゃんのところのひとも、此際急に就職しようとか家内工業をはじめようとかいう気でもないらしい話です。どういう職業が、ふさわしいだろうかという意味のようです。(きょうの新聞、失業、一千三百万人位の由)一ドルは十五円にきまったそうです。ラジオは建設日本の声、というのを募集して居ります。四百字詰三枚ぐらいのものです。市川房枝、赤松などという婦人たちが、婦人問題の部面に活動をはじめるようです。
 こちらも早寝になっていらっしゃいます。昨夜八時半ごろよ。わたしは一息に五時頃まで眠りました。子供たちや友ちゃんのような体の人のためには何よりです。友ちゃんと云えば今度おっしゃっていた本をもって来るのを忘れました、余り急だったので。御免なさい。林町へもよらなかったので。鷺の宮でお握りをこしらえやいてもらって来ました。林町の三組の人々の顔をズラリと並べて考えると、迚も米だけもってあの中に入って行く気になれませんでした。ジャガイモでも持って行かなくては。用もあって鷺の宮やてっちゃんのところ、埼玉で厄介になりました。では又二三日うちに。下で水の音がするわ、風呂らしいから行って見ます。ではね。

[自注26]九月十五日――十月九日の昼頃、顕治は『デタラスグカエレ、シユクシヤノヨウイアリ』という電報を東京からうけとった。発信人は東京の予防拘禁所にいた同志の一人と、弁護士の連名であった。返電を打つ手続をすると間もなく署長室によびだされた。署長は『君について命令がきた。健康の点もあるし執行停止することになった。』とつげた。そして顕治はその日の午後四時、十二年ぶりで手錠なしではじめて監獄の外に立った。顕治は無期囚として網走へゆくとき、同行の看守が不思議がるほど冬の衣類一切と本をつめた重いトランクを背負って行った。手錠をはめられている背中に。それらの着物が役に立った。顕治の天気予報は当った。
 九月初旬、山口県光市の顕治の生家へ行った百合子は、十月十日までに治安維持法の政治犯人が解放されるという新聞記事をよみ、その中に宮本顕治の名があることを見出した。十月八日に百合子は島田を立って山陽東海道線の故障のため、五日かかって東京へ着いた。当時の混乱状態で顕治からの電報も葉書も着いていなかった。顕治が十月十四日に東京の家(百合子が暮していた義弟の家)へ帰ってきてから、あと四五日経って、網走から百合子宛に打った電報と函館の宿で書いた葉書とが届いた。その葉書には『海よ早く静まれ』という一句もあった。
[自注27]戸坂さん――戸坂潤。

底本:「宮本百合子全集 第二十二巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:
「〜日〈〜日〉」と記載している箇所は、前が初出での日付、山括弧付きの後が底本での日付。初出では手紙を書き始めた日付だったが、底本では書き終えた日付、もしくは封筒の裏に書かれている日付に改められた。
「言論」1946(昭和21)年5月号(「獄中通信」と題して)
 収録書簡;1945(昭和20)年6月17日、7月30日
「女性改造」1946(昭和21)年6月創刊号(「鉄窓をへだてて」と題して)
 収録書簡;1943(昭和18)年8月29日、1944(昭和19)年1月2日
「世界評論」1949(昭和24)年11月号(「十二年の手紙」と題して)
 収録書簡;1934(昭和9)年12月24日、1935(昭和10)年3月20日〈25日〉
「世界評論」1949(昭和24)年12月号
 収録書簡;1936(昭和11)年6月26日、7月31日、8月9日
「世界評論」1950(昭和25)年新年号
 収録書簡;1937(昭和12)年6月30日、7月26日、8月8日、10月11日
「世界評論」1950(昭和25)年2月号
 収録書簡;1938(昭和13)年1月8日、6月12日、6月15日〈19日〉、8月6日
「世界評論」1950(昭和25)年3月号
 収録書簡;1938(昭和13)年9月11日、1939(昭和14)年7月6日、7月8日〈9日〉、7月17日、7月30日
「世界評論」1950(昭和25)年4・5月合併号
 収録書簡;1940(昭和15)年9月6日、1941(昭和16)年3月17日、1942(昭和17)年10月13日、1945(昭和20)年5月10日
「十二年の手紙」(宮本顕治・百合子の獄中往復書簡集)、筑摩書房
「十二年の手紙」(その一)1950(昭和25)年6月15日刊行
 収録書簡;
 1934(昭和9)年(2通)――12月7日〈8日〉、12月24日
 1935(昭和10)年(3通)――3月20日〈25日〉、5月9日2通
 1936(昭和11)年(7通)――5月25日、6月26日、7月31日、8月9日、9月11日、10月12日2通のうち1通(どちらか不明)、11月22日
 1937(昭和12)年(16通)――1月8日、1月28日、2月17日、3月26日3通のうち前の2通、4月5日2通のうち後の1通、4月10日、4月11日2通のうち1通(どちらか不明)、4月13日、4月14日、6月30日、7月26日2通のうち1通(どちらか不明)、8月8日、10月11日、11月1日、12月25日
 1938(昭和13)年(14通)――1月8日、3月20日〈24日〉、6月12日、6月15日〈19日〉、8月6日、8月8日、8月14日、9月18日2通のうち前の1通、9月19日、9月27日〈29日〉、12月15日2通のうち後の1通、12月21日、12月24日、12月30日
「十二年の手紙」(その二)1951(昭和26)年4月20日刊行
 収録書簡;
 1939(昭和14)年(14通)――1月1日、1月12日、3月18日、3月19日、3月30日、4月20日、4月21日、7月6日、7月8日〈9日〉、7月17日、7月30日、7月31日、8月11日、8月18日
 1940(昭和15)年(3通+6通)――1月25日、4月6日、4月14日4通のうち1通(どちらか不明)、
 1941(昭和16)年(11通)――1月25日、3月16日、3月30日、5月16日、7月16日、7月20日、9月10日、9月18日、10月21日、11月16日、12月7日
 1942(昭和17)年(11通)――8月7日2通、8月21日2通のうち1通、8月21日〈27日(消印)〉、8月30日3通のうち1通、9月25日、10月9日4通のうち1通、10月13日、12月3日、12月14日、12月21日
「十二年の手紙」(その三)1952(昭和27)年10月20日刊行
 収録書簡;
 1943(昭和18)年(0通)
 1944(昭和19)年(26通)――1月2日、1945(昭和20)年1月2日〈1944(昭和19)年1月2日〉、1月26日、1945(昭和20)年2月11日〈1944(昭和19)年2月13日〉、2月21日、3月22日、4月16日、4月17日、5月7日2通のうち1通、6月11日、6月26日、7月5日、7月9日、7月18日、7月23日、7月24日、7月25日、8月12日2通のうち1通、8月13日、8月14日、8月17日、9月3日、9月18日〈20日〉、10月18日、11月7日〈10日〉、12月26日
 1945(昭和20)年(32通)――1月2日、1月31日、2月20日、2月26日、3月12日、3月29日、4月6日、4月28日3通、5月10日3通、5月21日、5月26日、6月16日、6月18日〈17日〉、6月18日、6月23日3通のうち2通、7月7日2通、7月8日、7月10日、7月14日、7月27日、8月14日、8月18日、8月26日、9月3日、9月4日、9月14日〈15日〉
「展望」1951(昭和26)年3月号(「敗戦前後」と題して)
 収録書簡;1945(昭和20)年7月30日、8月14日、8月18日、9月4日、9月18日
上記以外は底本が初出。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
初出情報作成:柴田卓治
2005年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。