内宮と外宮の間にあるから間の山というのであって、その山を切り拓いて道を作ったのは天正年間のことだそうであります。なお委しくいえば、伊勢音頭で名高い古市の尾上坂と宇治の浦田坂の間、俗に牛谷というところあたりが、いわゆる間の山なので、そこには見世物や芸人や乞食がたくさん群がって、参宮の客の財布をはたかせようと構えております。
伊勢の大神宮様は日本一の神様。畏くも日本一の神様の宮居をその土地に持った伊勢人は、日本中の人間を膝下に引きつける特権を与えられたと同じことで、その余徳のうるおいは蓋し莫大なもので、伊勢は津で持つというけれども、神宮で持つという方が、名聞にも事実にも叶うものでありましょう。
伊勢の人は斯様な光栄ある土地に住んでおりながら、どうしたものか「伊勢乞食」というロクでもない渾名をつけられていることは甚だ惜しいことであります。
「伊勢乞食」という渾名がどこから出たか、それにはいろいろの説があります。第一、参宮の道者をあてこんで、街道の到るところに乞食が多いからだという説もあります。また、伊勢人は一体に物に倹しく、貨殖の道が上手なところから、嫉み半分にこんな悪名をかぶらせたのだという説もあります。また、文化のころ世を去った古市寂照寺の住職で乞食月僊という奇僧があって、金さえもらえば芸妓の腰巻にまで絵を描いたというその月僊和尚の、世間から受けた悪名をそのまま伊勢人全体の上へ持って行ったのだという説もあります。
そんなことはどうでもよろしいが、伊勢の国に乞食の多いことは争われないので、そうしていま申す間の山あたりには、それが最も多いのであります。
源氏車や菊寿の提灯に火が入って、水色縮緬に緋羅紗の帯が、いくつも朧の雪洞にうつって、歌吹の海に臙脂が流れて、お紺が泣けば貢も泣く頃には、右の間の山から、中の地蔵、寒風の松並木、長峰の里あたりに巣をくった名物の乞食どもが、菰を捲いて、上り高のさしを数えて、ぞろぞろと家路をさして引上げて来るのであります。秋に入ったとはいえ、陽気を受けたこの土地は、なかなか夜風の涼しさが肌に心地よいくらいで、昼は千早振神路山の麓、かたじけなさに涙をこぼした旅人が、夜は大楼の音頭の色香の艶なるに迷うて、町の巷を浮かれ歩いていますから、夜の賑いも、やっぱり昼と変らないくらいであります。
それも寒風の松並木のあたりへ来ると、グッと静かになって、昼の人出はどこへやら、常明寺から響く鐘の音が、ここばかりは陰に籠るかと聞きなされて、古市の町の明るい灯を見ながら、この鐘の響を聞くと、よけい、寂しさが身に沁みるように思われます。
「夕べ、あしたの鐘の声……なんだかお玉さんのようだねえ」
並木の蔭に立ち止まって、後ろを振返ったのは、片手に三味線を包んだ袋を抱えた、まだ年の若い女の子であります。
「どうしたのでしょう、呼んでみようかしら、お玉さあ――ん」
お玉さあ――んという声が並木の梢を伝って、田圃の方へ消えて行くと、また常明寺の鐘が鳴る。
「ほんとに、どうしたのでしょう、わたし淋しくなる、もう一度、呼んでみましょう」
二
古市を知るものは伊勢音頭を知る。間の山を知る者はお杉お玉を知らねばならぬ。
「お玉さあーん」
寒風の松並木のあたりで、連れの名を呼んでみた女の子は、申すまでもなくお杉でありました。
「あいよ」
女にしてはキッパリした声で、向うの闇の間から返事をして、駈足の気味でこちらへ来るのは、やっぱり同じ年頃の娘姿であって、小腋には同じように三味線の袋に入れたのを抱え、身なりもお対の黄八丈の大振袖で、異うのは頭に一文字の菅笠をいただいていることでありました。
「何をしていたの」
「草履が切れそうになったから」
お玉はお杉の立つところへ追いついてから、少し息を切って、それから二人は肩を並べながら、松並木を東へと歩んで行くのであります。
「今日は少し遅いよ、父さんが怒るだろう、かまやしないけれど」
お杉はこう言って空を仰ぐと、その頭の上を驚かすように、烏の群が唖々と過ぎて行く。
「まだ、烏が飛んでいるよ、暢気な烏だねえ」
お杉は口が軽い、歩きながらも何か言ってみねば納まらない性質であった。
「あの烏はどこへ行くのでしょうね」
お玉は黙って、烏の過ぎ行く方をながめていたが、
「朝熊山の方に巣があるのでしょうよ」
「鳥は古巣へ帰れども……お玉さん、お誂え向きだね。あれ、まだ常明寺の鐘が鳴っているよ、夕べあしたの鐘の声……ね、ほんとにお玉さんのお誂えの通りだよ」
「そうですねえ」
お玉は、にこやかに笑った。
「けれども陰気だねえ。わたしはあんな陰気な歌よりは、投げさんせ、抛らさんせで、陽気にやる方が好きだけれど」
お杉はお玉の面色をうかがうようにしたが、お玉は真直ぐに向いたきりで何とも言わなかったから、お杉はまた、
「それでも、お玉さんがあの歌をうたうと、お客様がみんな感心してしまうのだからね。わたしだってなんだか悲しくなって、気を引かれてしまいますわ」
「今は流行らないんだけれど、あれが本歌だと、お母さんが、そ言って教えたもんだから」
お玉は申しわけのように、これだけを言った。それから二人の間には、話の蔓がしばらく切れて黙って歩いて行って、
「あれ、ここは谷村道だよ、それではお玉さん、ここでさよなら」
「あ、そうでしたねえ、さよなら」
お杉とお玉とはここで別れる。お玉に別れたお杉は、スタスタと畷道を谷村の方へ急いで参ります。
お玉は少しのあいだ立ち止って、お杉の行く後ろ影を見送っていましたが、
「わたしも急ぎましょう、今日は帰ってから古市へ呼ばれるお約束があった」
前より少し急ぎ足になって、例の黄八丈の大振袖の前を胸に合せて、袋に入れた三味線を乳呑児のように抱き、一文字の菅笠を俯向きかげんにして、わが家の拝田村の方へと急ぐのであります。
三
それから、いくらもたたない後、お玉の姿を古市の町の通りで見かけることができました。
姿は前と同じですけれど、今度は笠をかぶらず、笠の代りに頭から手拭をかけて後ろへ流し、小腋にはやはり袋に入れた三味線をかかえていましたが、
「ムクよ、もうここでよいからお帰りよ」
やさしい言葉をかけられたのは、拝田村の住居から附いて来た逞しい一頭のムク犬であります。
ムクは、お玉に頭を撫でられながら尾を振ってその面を見上げている、お帰りと言われても帰ろうともしませんから、
「今夜は、もう家へ帰ってお休み」
お玉は、ここから犬だけを帰して、自分ひとり、めざす方へ行こうとするのでありました。
いつも柔順に言うことを聞くはずのムクが、帰れと言われても今宵はそれを聞き分けずに、お玉が歩きだすとムクはやっぱり後をついて来るのでありました。
「ムクや、お帰りというのに」
少し言葉を強めて叱るようにして追ってみたが、犬はどうしても帰ろうとしませんので、お玉は石を拾って打つ真似をすると、ムクは身を躍らして後ろへは逃げず、行手の方へ走る。
「困るねえ」
お玉は仕方なく、追わんとした犬に導かれて、古市の町の人込の中を、面を人に見られないようにして行くと、
「あれは間の山のお玉ではないか」
町の人は早くも、お玉の姿を見つけ出して、
「お玉に違いない、お玉が、また逗留のお客様に呼ばれて間の山節を聞かせに行くのだ」
土地の人は、よく知っていて見逃さない。お玉が通ることが、特に町の人の眼を惹くのはほかに理由もあるのであります。
「あれ、案の定、犬がいるわ、ムク犬が跟いて行くわ」
お玉を併せてムク犬をも見逃さないのであります。
古市の町には、茶屋があり遊女屋があり見世物もあり芝居もあるのに、そのなかで、通りかかるお玉の姿が人の口の端にのぼるほど、それほどお玉は土地の人にも旅の人にも覚えられているのでありました。
そうして、お玉が行けば、間の山節を唄いに行くものと思われ、お玉が行くと言えば、ムク犬が跟いて行くもののように、土地の人には覚えられております。
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
誰やらが言い出したのを、子供が覚えて、
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
と言って、ムク犬を見かけると、最初は棒を出したり石を投げかけたりしたものでしたが、
「そんな悪戯をするものではありませんよ、怒ると食いつきますよ」
と言って、お玉がいつもムク犬の前に立ち塞がるものだから、子供はベソをかいて引上げる。
そうかと言って、ムク犬がひとりでいる時には、子供はかえってそれに近寄ることを致しません。
ムク犬はこの界隈のあらゆる犬より強いのです。ムク犬は容易に怒らず、容易に吠えないけれど、時あって怒って吠える時には、六尺の男が戦慄し、街道を通る牛馬でさえ、立ちすくんでしまうことがあるくらいですから、子供らの歯には合いません、ムク犬もまた子供を嚇すようなことは嘗てしたことがないのです。
お玉はよく間の山節をうたい、ムク犬はよくお玉を守る。
この二つの主従は、いまや古市の大楼、備前屋の前へ来て立ちどまりました。
四
古市の大楼には柏屋、油屋、備前屋、杉本屋などいうのがあります。これらの四軒には、いずれも名物の伊勢音頭というものがあります。
源氏車に散らし桜を染め抜いた備前屋の暖簾の前に、お玉とムク犬とが尋ねて来た前から、この家では伊勢音頭が始まっておりました。
今宵、その折の音頭のお客というのは、五人連れの若い侍たちでありました。
「これは勤番のお侍でもなく、御三家あたりの御家中でもなく……左様、やはり、お江戸の旗本衆のお若いところ」
備前屋の主人は、この五人連れの若い侍たちを見て、こんなふうに目利をしてしまいました。
その頃、どこの色里へ行っても、やはり江戸の者がいちばん通りが良かったそうであります。諸大名の家中にも、上品に遊ぶ者や活溌に遊ぶものもずいぶん無いではありませんでしたが、どうしても江戸の旗本あたりのように綺麗にゆかなかったそうであります。それで京都あたりでも、ほんとにあの社会で好かれたものは薩長でもなく、土佐や肥前でもなく、やはり江戸の侍であったということであります。
東男に京女という諺はいつごろから出来たものか知らないが、事実はこの時代にやはりそうであったものだそうであります。あの頑固な三河武士が、そんな大した通人に出来上ってしまったということが、やがて徳川の亡びた理由であると、賢しげに説いている人もありましたが、事実はやはりその通りであったかも知れません。
音頭はいま一踊り済んだところで、上の欄間から吊した五十幾つの提灯と、踊りの間いっぱいに立てられた燈とが満楼を火のように明るくしている中で、五人連れの若侍は陶然として酔って好い気持になっております。
「間の山節はまだ見えぬかな」
中程にいた黒羽二重、色が白くて唇が紅くて、黒目がち、素肌を自慢にする若いのは、どこかで見たことのあるような侍ですが、間の山節を待ち兼ねて言葉に現われますと、これは芝居に出てくる万のに似た仲居の年増。
「はい、もうこれへ参りますはずでござりまする、どうぞ、もう一つお過ごしあそばされませ」
名物の伊勢音頭を見たから、その次にこの五人連れの若い侍たちは、もう一つ名物の間の山節を聞こうというのでありました。それを承わった備前屋では、使を拝田村へ立てて、お玉を呼びにやったのであります。呼びにやった時からは、もう大分たっているから、来なければならないはずなのであります。
「遅いではないか」
「昼のうちは間の山へ稼ぎに参りまして、家へ帰ってから、出直してお座敷のお客様へ出ますものでございますから、それで、その間に、いくらか手間が取れるのでございますが、もう見えまする」
間の山節の来る間を芸妓や仲居が取持っているのでありますが――お客様が待っているほどに取巻どもは気が進みません。それは間の山節なるものが、名こそ風流にも優美にも聞ゆれ、実は乞食歌に過ぎないというさげすみと、何を言うにもお玉風情の大道乞食がという侮りがあるからであります。それでもやはり間の山節というと、この楼でもお玉を招かねばならぬことになっているのでありました。
「お杉お玉も、昔からこの土地に幾代もございまして、今のお杉お玉はその幾代目に当りますことやら、わたくしどもでさえよく存じませぬが、お玉だけは、今までのお玉とお玉が違うのだそうでございますよ」
万のに似た仲居は、気が進まないながら、客の問いによって、お玉の来歴を少しばかりでも説いて聞かさねばならぬ義務があるのであります。
「声がよいのと、三味線が上手なのと、面が少しばかり見よいと申すのが評判でお玉は大当りでございますが、ナニあなた、殿様方の前でございますが、あれは女乞食の出来のよいので、こちらの音頭の衆などの前へ出ましたら、月の前の星でございます、それでも名物となると、なんでもないことまでお客様のお気に召しますと見えまして……」
「いや左様ではあるまい、間の山節を昔ながらの調子で聞かすものは、古市古けれども、今のあのお玉とやらのほかにはないということじゃ。それにお前がいう通り、声がよくて三味が上手で、面が好ければ申し分はないではないか。早くその名物が見たい、いや聞きたい」
「その、なんでございます、おっしゃる通り間の山節というのを昔の型で聞かすというのが、あの子の売り物でございます、それは、母親から正伝を伝えられたと申すことでございますが、なに、それは傍で聞いていてほんとに陰気な歌なのでございます、三味の手にしましても数の知れたものでございます、誰も真似手がないというので、わざと捻ったお客様が買被りをなさるのでございます。あんな歌を真似てみようという茶気が、こちら衆の女子の中にはないと申すのが、ほんとうなのでございます、手前共の音頭などは、お聞きに入れました通り、陽気なもの陽気なものと骨を折りまして、
かざり車や、御車や、御室あたりの夕暮に、花の顔みるたのしみも……
歌でさえ、この通り花やかなものでございましょう。それにあなた、あの子の唄う間の山節の文句と言ったら、
夕べあしたの鐘の声、寂滅為楽とひびけども……
こうなんでございます、まるでお経ではございませんか、合の手にはチーンとか、カーンとかお鉦を入れたくなるではございませんか」「うむ、それそれ、その夕べあしたの鐘の声というのよ、それがほんものの間の山節ということじゃ。今は廃れたという話だから、せっかく来ても聞けるか聞けないかと、心配をしながら来てみたのじゃ。なるほど伊勢音頭も花やかでよい、花やかで面白いけれども、それ数奇者には得て癖がありがち、家に容貌なら品行なら申し分のない女房を持ちながら、かえってその女房より容貌も位も十段も劣った女に溺れて、迷い込む者もあるものよ」
「左様におっしゃれば、そのようなものでござりましょう、殿様方もさだめて左様なお物好きでいらせられればこそ、お江戸の美しい花にもお見飽きあそばして、古市くんだりまでこうしてお調戯にお下りあそばしまする、鯛も売れれば目刺も売れる、それで世の中は持ったものでございますね、よくしたものでございますよ。なんに致しませ、間の山節とやらも一度お聞きあそばしますも旅のお話の種でござりましょう。もう参りそうなもの」
この仲居、なかなか口が達者です。この時、程近いどこかの大楼でまた賑かな伊勢音頭の拍子、
「ヨイヨイヨイヤサ」
五
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
ムク犬を連れたお玉は、ちょうどこのとき備前屋の前に立って、片手で源氏車の暖簾を分けて、楼の中へ首をさし入れたのでありました。
「あ、お玉さんかえ、お客様がお待ち兼ねですよ」
奥へ沙汰をすると、例の万のに似た仲居が出て来て、
「さあ、お玉さん、裏口へお廻りよ、いつもの通りあの石燈籠の蔭からね。中から木戸をあけて上げますよ」
「ハイ、有難うございます」
万のは差図をするような言いぶりでありました。お玉は差図をされた通りに通り抜けて石燈籠の蔭から中庭の方へ参りますと、中からまた一人の仲居が木戸をあけてくれる。導かれて、入って行って見ると、前の五人づれの若侍の大一座。
「間の山のお玉が参りました」
仲居の万のが跪まると、一座の眼は庭先から導かれて来るお玉の方へと一度に向いてしまいます。
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
縁側の前で、お玉は正客の若侍の方と、取巻きの連中の方へと御挨拶を申し上げます。
「間の山のお玉か、待ち兼ねていた、さあこれへ」
黒羽二重の若侍は、気軽に座敷へ呼び上げようとすると、お玉は遠慮をして縁より上へは頓に上ろうとも致しません。取巻きの連中もまた、さあこれへ上れということを言いません。
「早う、お玉の席をこしらえてやるがよい、その毛氈を敷いて、見台が要るならば見台を」
お客の方から催促されても、お玉もそれきり上へあがろうともしなければ、取巻連中もまた客から言いつけられたように、席をこしらえてやろうとする気配もなく、眼と眼を見合せておりますから、席がなんとなくテレて参ります。
「いいえ、こちらでよろしゅうございます、こちらの方がよろしゅうございます」
お玉が辞退しますと、それを機会に万のが、
「お玉さんの勝手なのだから、あそこへ敷物を敷いておやり」
「承知致しました」
万のより一段下の仲居は、もうちゃんと心得たもので、薄縁を二枚、押入から取り出して、クルクルと庭へ敷き並べ、その上へ、色のさめた毛氈を一枚、申しわけのように載せて、自分はサッサと座敷へ上って参ります。
「お玉さん、席が出来ました」
「有難うございます」
お玉は大事そうに三味線を抱えて、草履を克明に脱ぎ並べて、その席へ身を載せて、上の方へお辞儀をして、袋をはずして中から三味線を取り出しにかかる模様が慣れたものであります。
ここにおいて、先にお玉を座敷へ上げようとして席のテレかかったのを不思議に思った若侍たちは、
「ははあ、なるほど」
と感づきました。お客がお玉を聞くには、いつでもこうして聞くのである。楼でお玉を聞かせるには、いつでもこうして聞かせるのである。結局、お玉は縁より上へはあがれぬ身分か。
お玉はおもむろに袋から三味線を取り出しました。黒ずんだ色をした三尺の棹、胴も皮もまた相当に古色を帯びた三味線であります。
帯の間から撥を取り出して音締にかかる、ヒラヒラと撥を扱って音締をして調子を調べる手捌きがまた慣れたものであります。
「撥捌きがあれでまんざら捨てたものではございません、ああして弾き出してから、お客様が面をめあてにお鳥目を投げますると、あの撥で、その鳥目をはっしはっしと受け止めながら、三味をくずさないのが、お杉お玉の売り物なのでございます」
万のは仔細らしく講釈をしましたが、客はそんな講釈を耳に入れず、お玉の方ばかり見ていました。
「あの形がいいね」
侍たちの間での囁き。
「後ろにあるのは、太秦形の石燈籠、それを背中にして、あの通り三味を構えた形は、女乞食とは見えぬ、天人が抜け出したように見ゆる」
「ははあ、なるほど」
先刻の黒羽二重のは、何かまた一人で感に入って膝を丁と打ちます。
「趣向だな、座敷へ上げないで庭で聞かすところが趣向だわい」
独合点をして納まります。通がってみたい人には往々、なんでもないことを何かであるように、我れと深入りをした解釈を下して納まる人があることであります。
先刻、お玉が座敷へ通されないことを、身分が違う、つまり人交りのできないさげすみの悲しさで、そうした侮りの待遇を受けても、自分もそれで是非ないものと思っており、周囲もまたそれを侮りともさげすみとも思っていないという麻痺した習慣のせいだとばかり思っていた黒羽二重は、ここに至って、そうでない、わざと地下へうつして、蓆の上から聞くことが、この歌の歌い手と、この節の風情に最もよくうつり合うものであるから、それだから、わざと庭へおろして聞かせるように趣向を凝らしたものだと、黒羽二重はこういうように独合点をしてしまったほど、それほど、庭の中へ、燈籠を少し左へ避けて後ろへあしらった、お玉の形がよかったものであります。それから、おもむろに間の山節の歌、
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
ここへ合の手が入る。寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
し――で――のたび、人を引張って死出の旅へ連れて行きそうな音色。お玉の面はやや斜めにして、花は散りても春はさく……の時、声が甲にかかって、ひとたび冴えていた眼が眠るように、死出の旅――で低く低く沈んで、唄を無限の底まで引いて行く。鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
この時、いずれかの大楼ではまたしても賑しき音頭の声、
「ヨイヨイヨイヤサ」
遠くでは賑かな音頭、この座敷では死ぬような間の山節。
この死ぬような間の山節を、死ぬような心地で聞いていたものが、五人づれの客と、それを取巻くここの一座のほかに、まだ一人はあったのであります。
中庭から向うへ張り出した中二階の一間が、間毎間毎の明るいのと違って、いやに陰気で薄暗い。それもそのはず、こには病気に悩む女、間夫狂いをする女、それらを保養と監禁と両方の意味に使用されるところですから、ここで血を吐いて死んだ女があるとか、幽霊が出るとか、そんな噂のしょっちゅう絶えたことのない一間であります。
間の山節が始まる前に、この一間で墨をすり流して、巻紙をもうかなり長く使って、文を認めていた女。
古市の遊女は、勝山髷に裲襠というような派手なことをしなかった、素人風の地味な扮装でいたから、女によっては、それのうつりが非常によく、白ゆもじの年増に、年下の男が命を打込むまでに恋をしたというような話も往々あることでした。
ここにいま文を書いている女も、病に悩む女でありましたが、素人風がこうしているとまでに取れないほど、それほど女の人柄をよく見せるのでありました。
朱塗りの角行燈の下で、筆を走らせては、また引止め、そうして時々は泣いている。そこへ前の、
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
書きさしていた筆をハラリと落して、じっと耳を澄ましていると、お玉の弾きなす合の手が綾になって流れ散る。寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
と来たものです。鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
「ああ、間の山節が聞える、死にたい死にたい、いっそ死んでしまおうかしら」
ついと立って障子の破れから庭をのぞいて見たが、身の幅ほどにそれをあけて下を見おろすと、植込の間から、かがやくばかりなる提灯燭台の広間と、うすぼんやりの燈籠の庭では前に記したような光景であります。
広間では五人づれの若侍が、風流の気取りで聞いている。取巻きの連中は、忌々しい腹で聞いている。ここの二階では、死ぬつもりで聞いている。お玉は無心で、母親から伝えられたという節のままを天性の才能で唄っている。
野辺より彼方の友とては……
この時、表に待っていたムク犬が、低く唸るように声を引いて吠えました。ムク犬が声を立てることは珍らしい。しかし、この時の吠え声は人を驚かすほどに高い声ではなかったから、誰もムク犬が鳴いたとさえ気がつかなかったのを、弾きさしていたお玉の三味線にはそれがこたえて、お玉はハッと撥を取落すばかりにしました。ムク犬の吠える時は、お玉にとっては、きっとそれが何かの暗示になります。
二声目を聞こうとしたが、それはそれだけで納まって、それからムク犬は吠えませんでした。
お玉は、いくらかの紙包を貰って備前屋を出た時分は、もう夜もかなり更けていました。門を出ればムク犬が待っていて、尾を振って迎えるはずのが、どうしたものか影も形も見せないのです。
「ムクや、ムクはどこへ行ったろう」
お玉は呼んでみましたけれども、ムク犬は声も形もあらわしません。ムク犬が、お玉と一緒に来て、一緒に帰らぬことは今までにないことであります。ことに今宵は帰れというのを聞かないで一緒に来て、来てみれば帰る時は姿を見せぬ、さっき低く吠えた時と言い、今こうして見えなくなったことと言い、お玉の胸には安からぬ思いであります。
「ムクや、ムクや」
呼びながら、この備前屋の裏の方へ廻ってしまいますと、
「もし」
暗いところから声があったのは、尋ねるムク犬の声ではなくして、細い女の声でありました。
「はい」
お玉は足をとどめますと、裏の木戸をそっとあけて、
「お前様は、あの、お庭で間の山節を唄いなすったお玉さん」
「左様でございます」
「お見かけ申して、お頼み申したいことがありまする」
「何でございますか、叶いますことならば」
「委細はこれに認めてござりまする、この手紙とこのお金、これをお届け下さりませ、届け先は……それはこの手紙の表に書いてありまする、こうしている間も心が急く、それではお頼み申しましたぞえ……」
夜番の拍子木が聞える。
女は一封の手紙と、金包とをお玉に渡してしかじかと頼んだきりで、ふいと木戸を締めて身を隠してしまいました。
お玉は、そこはかな物の頼みようと思いましたけれども、遊女衆などの間には、こんなことはないことでもない、あれほどの頼み、引受けて宛名のところへとどけて上げるも功徳であろうと、
「御安心なさいませ、きっとお届け申し上げますから」
塀の外から請合ったが、この時はもう中からは挨拶がありませんでした。
「ムクや、ほんとにムクはどうしたのだろうねえ」
お玉はいま、女から受取った手紙と金とを懐中に入れて、しきりに犬を尋ねて、備前屋のまわりを廻ると夜番に出会します。
「間の山のお玉さんではねえか」
夜番の男もまたお玉を知っていました。
「はい」
「なんでこんなところをウロウロしているだ」
「ムクが見えませんから……夜番さん、ムクをどこぞで見ませんでしたか」
「知らねえ」
「左様でございますか」
お玉は夜番にまでムクのことを聞いてみたが、やっぱり知らないというので失望して、とうとう備前屋の周囲を一廻りしてしまいました。
いくらムクを尋ねても、ムクは声も形も見えませんから、お玉は已むことを得ず、ひとりで帰りの路に就きます。
来た時と同じように、町の隅の方の人目にかからないようなところを、手拭を頭から被って後ろへ流し、三味線を後生大事に抱えてさっさと歩いて行きます。
今宵はお客様の強っての所望で二度まで間の山節をうたい返した上、その因由などを知っている限り話させられたので、これほど晩くなろうとは思わなかった、拝田村まで帰るには淋しいところもあるのだから、こうしてみるとムクのいないことが心細い。
「お玉が帰るじゃないか」
「お玉が帰るよ」
「ひとりで帰るねえ」
「ムクがいないや、ムクを連れないでお玉が帰る」
「送ってやろうか」
「危ない」
「でも一人で拝田村まで帰すのはかわいそうだ」
「ムク犬の代りをつとめるかな、犬の代りに狼、送り狼」
地廻りの連中がこんなことを言い囃すものですから、お玉もいくらか気味が悪い、それでムクのいないことが、いよいよ物淋しくなって、足の運びは駈けるようになって行きますと、ちょうど町の外れへ来た時分に、ふいに飛び出して、お玉の裾へまつわりついたものがあります。
「まあ、ムクかえ、どこにいたの、どこを歩いていたの」
お玉は嬉しくてたまらない、腰を屈めてムクの背中を擦ってやろうとすると、ムクがその口に何か物を啣えていることを知りました。
「何だえ、お前、何か啣えているね」
頭を撫でながら、ムクの啣えているものを取りはずして見ると、それは思いがけなく一組の印籠でありました。
「おや、結構な印籠が……」
お玉はそれを、町の方へ向けてなるべく明るいようにして、仔細に見ると、梨子地に住吉の浜を蒔絵にした四重の印籠に、翁を出した象牙の根付でありましたから、
「こんな結構な印籠を、お前どこから持って来たえ、拾ったのかえ、どこで拾ったの」
犬は神妙に首を俛れております。
「これは並大抵の人の持つ品ではない、きっと立派なお侍さんの持物だよ、御番所へお届けをしよう。でもこれから帰るのもなんだかおっくうだから、明日の朝にしましょう、明日の朝、少し早く起きて、出がけに御番所へ届けるとしましょう」
お玉は、その印籠をまた懐中へ入れますと、前に備前屋で女衆から頼まれた手紙と金包とに気がついて、今宵は懐の重いことをいまさらに感づいたようでした。
「おや、足の方は泥だらけになって。それにお前、怪我をしているね。おや、この顋のところから血が……」
大した怪我ではないが、ムクはたしかに怪我をしている。
「洗って上げるからおいで、そこの流れで洗って、創を巻いて上げるから」
六
お玉が帰ってからその晩は無事でありましたが、朝になると、備前屋の楼上で二つの大変が持ち上りました。その一つの大変は、ゆうべ音頭を見て、間の山節を聞いて、酔うて寝た五人づれの侍が朝起きて見ると、一人残らず懐中のものを奪われていることでありました。
さすがに腰の物だけは残されてあったが、懐中物の全部と、印籠までも盗られてしまいました。
あっと面色を変えたものもある、なあーにとさあらぬ体に落着いて見せるのもありました。しかし大変は大変でありました。旅に来て路用を失くすることは誰にしても好い心持はしない。ことに女にうつつを抜かしている間に、肝腎のものをしてやられたのでは、あまり芳ばしい土産話にはならないのです。五人のお客も内心の腹立ちと悄気方は一通りでないのですけれども、そこは時と場合で、そうクヨクヨ言ってもおられないのであります。
お客の方が困るばかりでなく、店の方ではなおさら困ります。伊勢の古市のこれこれへ行って盗賊にやられたという噂が立つのは、大楼の暖簾の手前もある、備前屋の主人は恐縮して、家の内と外とを隅から隅まで調べさせて、役人へも訴え出ようとするのをお客たちは差留めて、
「あればあったでよし、なければないでよいから、表沙汰にしてもらいたくない」
彼等には彼等の身分というものがあって、表向きにされた時に、かえって金銭には換えられない恥を取るという懸念もないではなかったようです。
別段に他から賊の入った様子が見えないこと、これが第二の不思議であります。
備前屋の主人は、家族から雇人、芸妓遊女の類を悉く足留めをして、いちいち裸にするまでにして調べたけれども、品物は一つも出ては来ず、また、こいつが取ったろうと思われるような面付に見えるものは一人もありませんでした。
「どうもなんとも困ったことで、全く以て申しわけがないことじゃ」
備前屋の主人が額へ手を当て当惑するところへ、愚直らしい夜番の男が口を出して、
「昨夜わしが夜番をして、こちらの裏の方を廻ると、あの間の山のお玉が、その塀の裏の方をウロウロしていたが、お玉がなんですかえ、こちら様へお呼ばれなすったのですかえ」
「あ、お玉……」
と言って、主人を囲んでそこに集まるほどの者がみんな眼を見合せました。宵からここへ出入りをした者で、ここに面の足りないのはそのお玉ばかりでありました。
「お玉がなにかえ、この家の裏の方を……」
「へえ、お玉さんが裏の潜りのところから出て塀をグルリと廻って……」
「ははあ、お玉がかい」
一同は、お玉の名を言い合せてその眼が怪しく光りました。その時に、
「タタタ大変でござりまする、離れの中二階で……」
仲居の一人が第二の大変をその場へ知らせて来たのであります。
「大変とは?」
「あの離れの中二階で、お登和さんが……こうして」
「どうして?」
仲居の女はこうしてと言って、血相が変って口が利けないのを手で補って、咽喉を掻き切る真似をしたのですから、備前屋の主人は仰天しました。
「お登和が咽喉を突いたと!」
盗賊は大きくとも物品に関することであるが、ここに報告されて来た第二の大変は人命に関することでありました。
「みんな早く……」
主人は先へ立って飛んで離れの中二階へ来て見ると、屏風もなにも立て廻してはなく、八畳の間いっぱいに血汐。蘇枋染を絞って叩きつけたようなその真中に突伏した年増の遊女――それは昨晩、間の山節をここで聞いた女、また手紙と金とをお玉にそっと渡して頼んだ女、ここではお登和と呼ばれている女――
「ああ、やったな、危ないとは思ったが、とうとうやったな。早く脈を見てみるがいい、気味の悪いことがあるものか、血だ、血だ、血で辷ってはいけない、刃物を取ってしまえ、刃物に触ると怪我をする」
「あっ!」
主人が指図して雇人が抱き起して見ると凄い、咽喉笛を掻き切ったのは堺出来のよく切れる剃刀で、それを痩せこけた右の手先でしっかり握って、左の手を持ち添えて、力任せに掻き切って抉ったもので、そこから身体中の血という血はみんな出てしまって、皮膚の色は蝋のように真白くなっているところへ、その血が柘榴を噛んで噛み散らしたように滲んでいます。
「飛んでもないことをしてしまった」
「遺書のこと……豊」
それが行燈の下に置いてあります。お豊――読者のうちにはこの名を覚えている人があるでありましょう、それは同じ伊勢の国で亀山の生れ、家は相当の家でありますけれども、真三郎という恋人と思い思われてついに近江の琵琶湖に身を沈めてしまった女であります。幸か不幸か、男の真三郎は冥土へ行ったのにお豊だけはこの世に生き残って、大和の国三輪の里の親戚へ預けられている間に、京都を漂浪して来た机竜之助と会うことになってしまった。それがまた飛び放れて、紀伊の国の竜神という温泉場の宿屋のおかみさんにまでなってしまった。両眼の明を失った机竜之助を介抱して、呪いの火に焼ける竜神村をあとにしてどこへか逃れて行ったが――落着く運命はついにここでありました。
今度こそは生き返る心配はありませんでした。遺書は主人へ宛てた一通だけで、ほかにはどこを探してもそれらしいのがありません。
よくよくあの歌につまされたものでしょう、遺書の書出しに記してあるのは、
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
七
お玉の家のあるところは、拝田村の中の一部落であって、その部落は特殊の因縁つきの部落であります。
因縁つきの部落とは、あからさまに言ってしまえば「穢多」の部落なのであります。そうしてお玉もそこで生れてそこで育ったのですから、生え抜きの穢多なのであります。
一口に穢多とはいうけれども、ここの穢多は他所の穢多とは少しく来歴を異にしていました。大神宮様が大和の国笠縫の里からこの伊勢の国五十鈴川のほとりへおうつりになった時、そのお馬について来た「蠅」が今の拝田村の中の一部落の先祖だということであります。
人間の祖先と猿と同じいということは学者がいう、蠅が人間の先祖だということはここよりほかには聞かないこと。
けれども、それはわざとそんなことを言って軽蔑したがるので、蠅はすなわち隼人、隼人はすなわち大和民族のほかの古代史の一民族だともいう。
隼人をその後には訛って「ほいと」と呼ぶ。「ほいと」の中から容貌のすぐれた女の子が、お杉お玉となって間の山へ現われるというのであります。
それですから、お杉お玉のうちにはどうかすると抜群の美人が出る。「好色伊勢物語」という本に、
「その容姿麗はしくして都はづかし、三絃胡弓に得ならぬ歌うたひて、余念なく居りけるを、参詣の人、彼が麗はしき顔色に心をとられて銭を投掛くること雨の降り霧の飛ぶが如くなるを、かいふりてあてらるることなし」
お杉お玉が旅人の投げる銭を受けるのは、面を反けて受けたり、笠を傾けて受けたり、撥で発止と受けたりします。三味を弾くことの練習と一緒に、銭を受けることの練習をも子供の時分から精を出していますから、天性上手なものになると、武術の達人が投げた手裏剣をも外すの妙に至るものが出来たということであります。
水になりたやお伊勢の水に
お杉お玉が化粧の水
こういってあやかりたがるほどの両人が容貌も、それに投げつける銭と同じことで、打ち込んでみた時には必ず外される。お杉お玉が化粧の水
近寄れるけれども、触れることのできない美しさ、美しい哉、「ほいと」の娘はついに「ほいと」の娘で朽ちてしまわねばならぬ運命を持っていました。もしその美しさに触れんとならば、「ほいと」と一緒に腐ってしまう覚悟でなければならぬ。
今のお玉の母が、やはりこの部落から出て、お玉を勤めている間に、この苦しい瀬戸を越えて今のお玉を産み落したのでありました。そこに悲しい物語があって、今のお玉は現在自分の父が何者であるかを知らないのでありました。お玉の母はその後、やはりこの部落の中で味気ない一生を早く終って、間の山の正調と、手慣れた一挺の三味線と、忠義なる一頭のムク犬とを娘のために遺品として、今は世にない人でありました。
お玉は今朝、いつもより早く起きて朝飯を済ましてしまい、
「ムクや、これからお役所へ行くのだよ」
昨晩ムクが啣えて来た印籠を取り出して、それを今日は間の山へ出がけにお役所へ届けて、そのついでに昨晩、備前屋の裏口で頼まれた手紙とお金をもその頼まれたところへ届けてしまいたいと、こう思ったので、まず印籠を取り出して見ると、夜目に見た時よりもいっそう立派なものでありました。次に備前屋の裏口で頼まれたお金と手紙、どこへ届けるのだか、この手紙に書いてあるからと聞いたばかりでまだ調べて見なかったが、悲しいことにお玉は字が読めない女でありました。
字が読めなくっても、今までに不自由を感じたこともないし、それを恥だともなんとも感じたことのないほど、それほどお玉は周囲の狭い天地で育っているのでありました。
「まあいいわ、この印籠の方だけ届けておいて、この手紙の上書は誰かに読んでもらいましょう、間の山へ行けば講釈の先生もいるわ、それでも遅いことはないでしょうと、わたし思う」
お玉は手紙だけを懐中へ入れて、次にそれと一緒に頼まれたお金。
「お金のことがいっそう心配だわ、お金を預かっているのはなんだか心持が悪い」
その時に、
「お玉ちゃん」
子供の声。
これは、ついこの隣りから、同じ間の山へ莚を敷く「足柄山」の子供でありました。ことし五歳で、体に相当した襦袢、腹掛に小さな草刈籠を背負い、木製の草刈鎌を持って、足柄山を踊る男の子でありました。
「金ちゃんかえ、おや、もうお仕度が出来て。お母さんは」
垣根の外にお母さんがいる。
「お玉さん、お早う」
「お早うございます。おばさん、わたしはいま出がけに、お前さんのところへちょっとお寄り申そうと思っていたところなの、まあお掛けなさいまし」
お玉は包みかけたものをそのままにして、金ちゃんの母親を縁側へ招いて、
「おかみさん、昨晩、わたしはこんな拾い物をしたのですよ、まあごらんなさい」
包みかけたのをワザワザ解いて、ムクが啣えて来た印籠を取り出して見せると、
「おやおや、たいそう結構な印籠――金蒔絵で、この打紐も根付も安いものじゃありませんねえ」
「あんまり結構な品ですから、お役所へ届けなくては悪かろうと思いまして、それで今日は少し廻り道をして山田の方まで……」
お玉は、昨晩これを拾った始末を話そうとしている、金ちゃんの母親は目をすまして、その結構な印籠をながめていると、この時まで温和しく縁先に坐っていたムク犬が、何に気がついてか頭を立てて竹藪の中へ真直ぐに眼を注ぎました。
ムク犬が竹藪を見込んだことは、なにか仔細がありげで、お玉にはそれが気がかりにならないことはありませんけれど、話しかけた筋は通さねばなりませんから、
「そういうわけで、わたしは山田へ廻りますから、もし後れて、わたしの間に合わない時には、お鶴さんを頼んで下さるように、お杉さんに、そうおっしゃって下さいまし」
お玉が、金ちゃんの母親を呼び込んだのは、この言伝をしてもらいたいからでありました。
「へえ、よろしゅうございますとも」
この時に、竹藪の中を見込んでいたムク犬は、急に起き上ると驀然に藪の中をめがけて飛び込んでしまいました。
「どうしたんでしょう、ムクが落着かないこと」
お玉もまた竹藪の中を見込んで思案顔。
「狐が出たのでしょうよ」
「そうかも知れません」
ムクはしばしば狐を取り、狼を追いかけることがありました。ムクが出動をする場合は、大抵この二つの場合でありましたが、その狐も今は絶えてしまったようだし、狼もムクを怖れて、幾年にもその影を見せませんから、この村には、今ムクを起すべき非常のことが一つもなかったのです。無論、それと知ってこの村あたりを犯す盗人の類がある由もありません。
「狼が来るはずはありませんね」
金ちゃんの母親も、ムクの走り込んだ竹藪を見込んで不審顔をしています。
「ムクや、ムクや」
お玉は縁側へ立ち上ってムクを呼びますと、しばらくして物を唸りつけるムクの声、竹藪の中がガサガサすると見れば、そこから飛んで出たムクは、今度は一散に木戸の方へと走りました。
その木戸口から今、一人の人が入って来る、よくこの辺に見える薬の行商体の人でありまして、その男が木戸口からお玉のいる方へ進んで来ますと、いま竹藪から走り出したムクはその人に向って、噛みつかんばかりに猛然として迫って行きます。
行商体の男は、タジタジとしましたけれども、犬をなだめるようにして、お玉のいる方へ近寄って来ようとします。それをムクは近寄らせまいと肉薄しているようにも見えます。さすがにまだ噛みつきも、食いつきもしませんけれど、ムクの気勢を見れば、絶えて久しく現われなかった狼を追う時の眼の色が現われておりますから、
「ムク、人様を吠えてはいけませんよ」
お玉はこっちで犬を制したけれども、ムクは決して柔順になりませんでした。その男が一歩進めば一歩進むほど、ムクの気勢が荒くなるのでありました。
いかなる人が、どんな異様な風采をして来ようとも、ムクは眠れるものの如くして、嘗てそれに吠えついたことはないのに、今は全くそれと違いますから、
「この犬は気が違ったのではないかしら」
お玉も来る人に気の毒でたまらない。洪水の中をやっと泳ぐようにして行商体の男は、ムク犬の鋭い威勢を避けながら、お玉のいるところへ来て、
「お早うございます」
「お早うございます」
人間同士はあたりまえの挨拶をしたけれども、犬は人間の間に立ち塞がって、強弩の勢いを張っておりました。
「たいへん強そうな犬でございますねえ」
行商体の男はお世辞を言って、縁側へ腰を下ろしてしまいました。
「いつもこんなに吠えるのではないのですけれど……ムク、なぜそう聞きわけがないのです」
お玉は言いわけをしたり、叱ったりしながら、いま金ちゃんの母親に見せた印籠やなにかを包みに蔵おうとすると、
「ちょいと拝見、結構な印籠でございますね」
行商体の男が手を差伸べると、なお頻りに唸りつづけていたムクは、急に身を翻えして家の土間を潜り抜けて裏手の方へ飛んで行きましたが、そこでまた烈しく吠えます。
「ちょっ、どうしたと言うんでしょう、あっちこっちで吠え廻ってさ」
お玉はムクの吠えている裏口の方へ身をよじらせて、
「ムクや、ムクや」
烈しく吠えていたムクはこの呼び声で、また驀然に土間を突き抜けて、前のところへ戻って来て、行商体の男に向って鋭い睨め方。
「梨地に金蒔絵……絵は住吉の浜でございますな」
「そうでございましょう、松がよく出来ておりますね」
お玉は、行商体の男が見たいというのだからその印籠を見せると、男はそれを捻くって、しきりにながめておりましたが、
「それに紐と言い、根付と言い、安い品じゃございません」
「うちなんぞにある品ではございません、拾い物でございますよ」
「拾い物、とおっしゃると、ちと心当りがありますね、どちらで拾いました」
「昨晩、古市で」
「古市で……そうでございましたか。あのもし、あなた様は間の山へおいでになるお玉さんというのではございませんか」
「はい、私がその玉でございますが」
「そうして昨晩、備前屋へお招ばれなすったお玉さん」
「へえ、あそこはたびたび御贔屓になっておりまする、そして昨晩も」
「昨晩もあの、おいでになりましたか」
「お伺い致しました、その帰り途にこの印籠を拾いましたものですから、これからお届けに参ろうと存じます。そうして、あなた様にお心当りとおっしゃるのは……」
物狂わしいムク犬は、またしてもここを捨てておいて、土間を突き抜けて裏口へ廻ってそこで烈しく吠えます。
「まあ、騒々しいことといったら」
お玉は、どうにもムク犬が制し切れないので困っていると、行商体の男は、ジロリとお玉の面から家の中を一廻り見廻して、
「お玉さん、お前さんこのお家に一人かね」
なんだか薄気味の悪い問いぶり。
「ええ、ここは一人、向うが叔父の家」
「そうしてなにかえ、ゆうべ備前屋から帰りに連れがあったのかえ、それとも一人で仕事をして帰ったのかえ」
「連れがあったかとおっしゃるのは……」
「とぼけるな、お玉御用だ!」
懐ろから飛び出した銀磨きの十手。
「あれ――」
お玉の細い腕を逆に取る時、雷電の一時に落つるが如く飛び来った猛犬ムクは、物も言わせず大の男を縁より噛み伏せてしまいました。
「まあ、どうしたと言うんでしょう、わたしにはわからない、わたしにはわからない、わかりやしない」
お玉はあまりのことに、飛び上って、突っ立ったきりです。
行商体の男の有様こそ無惨なもので、面の全部を腮から噛まれて、銀磨きの十手を抛り出してそこへ突んのめってしまったのを、ムクはそのまま噛捨てにして、クルリと身を転ずるや、またしても土間を突き抜けて驀然に裏口へ飛んで行きました。
「御用」
表でこの騒ぎを知るや知らずや、今度は正銘の捕方が五人、比較的に穏かな御用の掛声で、ドヤドヤと裏口からこの家へ押込んで来た。その出会頭に、眼を瞋らし、歯を咬み鳴らし、両足を揃えて猛然と備えたムク犬。
「わたしは何も……わたしは何も、お役人様に召捕られるような悪いことをした覚えはありません、それだのに、何もわけをお話し下さらずにわたしを捉まえようとなさるのは、あんまり、あんまり酷い」
お玉はオロオロ声で愚痴を言いましたけれども、いま裏口から入って来る人数を見ると、わけもわからずに怖くなって、
「わたし、逃げるわ、何も悪いことをしないのに捉まっては合わないから逃げるわ、あとでわかることでしょうから逃げるわ」
お玉は無分別に、跣足で縁を飛び下りて、無暗に逃げ出してしまいました。
「それ、お玉が逃げる、逃がすな」
お玉が逃げ出したと見た捕方が追いかけようとする、真先の男に飛びついたムクは、咽喉笛をグサと啣えて、邪慳に横に振る。
「あっ」
「憎い犬め!」
次のが十手で一撃を加えるのを、その手を潜って面にガブリと噛みついた、素早いこと。
「斬れ斬れ、叩っ斬れ」
あまりの猛勢にぜひなく白刃を抜いて、一刀の下に斬り捨てんと振りかざせば、その刃を飛びくぐって、跳ねつき、唸りつける凄まじさ。
獣にも攻める獣と守る獣とがあります。山野における猛獣はすべて攻める獣であって、もし獅子を攻める獣の王とすれば、守る獣の王はまさしく犬であります。真に守ることを知る犬が、その天職に殉ずる時は獅子と相当ることすらできるのであります。ムク犬はそのよく守ることを知る犬でありました。
それがために、お玉は捕えられずに逃げ出すことができましたが、逃げ出したことが、お玉にとって幸か不幸か、それはまだわかりませんでした。仮りにも役目で向った人たちに、かかる猛烈な正当防衛を試むることの理非は、悲しい哉、ムク犬には判断がつきませんでした。
八
隠ヶ岡(尾上山)に近い荒家の中で、
十七姫御が旅に立つ
それを殿御が聞きつけて
留まれ留まれと袖を曳く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日日も好いで
産土参りをしましょうか
これはしごく暢気な鼻歌でありました。家の外には秋草の中に鶏頭が立っている。穀物だの芋だのが干してあって、蓆の上で二三羽の鶏が餌を漁って歩いていると、何に驚いてか、キャキャキャキャ、けたたましくその鶏が鳴き出して、小屋の屋根の上へ飛んで羽バタキをする、平和な田舎家の庭に不意に旋風が捲いて起りました。それを殿御が聞きつけて
留まれ留まれと袖を曳く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日日も好いで
産土参りをしましょうか
「また来やがったな」
とんぼ口から飛び出したのは、一人の子供……身の丈は四尺ぐらい、諸肌脱ぎで、手に一本の竿を持って、ひょいと飛び出したところを見れば、誰も子供が出たと思います。
しかしよくよく見れば、子供ではないのでありました。面は猿のようで口が大きい、額には仔細らしく三筋ばかりの皺が畳んである。といって年寄ではない、隆々とした筋肉、鉄片を叩きつけたように締って、神将の名作を型にとって小さくした骨格。全体の釣合いからいえばよく整うていて不具ではないが、柄を見れば子供、面を見れば老人、肉を見れば錚々たる壮俊。
ことにおかしいのはその頭で、茶筅を頭の真中で五寸ばかり押立てている恰好たらない。
「こん畜生」
いきなり手に持っていた長い竿を秋草の植込の中へ突っ込んで引き出すと、その先へ田楽刺しに刺された黒いもの。
「ざまあ見ろ」
揚々としてその竿を手元に繰り込んで来ると、その竿の先に田楽刺しになった黒い物は一疋の鼬でありました。焼鳥を串から引っこぬくように、鼬を竿の先から抜き取って、それを地面へ叩きつけると、屋根の上へ飛び上った鶏がホッと安心したように下りて来て、いま自分たちを襲うた強敵が脆くも無惨な最期を遂げたことを弔うかのように鼬の屍骸を遠くから廻って、ククと鳴いているのであります。
「かまあねえから突っついて食ってしまえ、食ってしまえ」
竿の先を巾で拭いているところを見ると、二寸ばかりの鋭利なる穂先が菱のように立てられてあるのでありました。
それを殿御が聞きつけて
留まれ留まれと袖を曳く
これがこの先生の得意の鼻歌であると覚しく、前にもこれを歌っていたが、留まれ留まれと袖を曳く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿……
この時、裏手の方で、馬を追い出せ弥太郎殿……
「米友さん、米友さん、家にいるの、よう米友さん」
息を切った女の子の声。
「誰だい、玉ちゃんかい」
「米友さん」
この子供のような年寄のような壮者のような奇妙な男の名は米友というのでありました。そこへ駈け込んで来たのは、今なにもかも夢中で我が家を逃げ出して来たお玉であります。
「どうしたんだい、玉ちゃん、跣足で、息を切って。唇の色まで変ってらあ」
「米友さん、大変なんだよ、大変が出来たんだから、わたしを隠して下さい」
「大変というのは、いったいどうしたんだい」
「わたしは何も悪いことをした覚えはないのに、お役人が来てわたしを捉まえて行こうとするもんだから、わたしは一生けんめい逃げて来たの」
「玉ちゃんを役人が捉まえるって? おかしいなあ、何かの間違いなんだろう」
「間違いなんだよ」
「何の間違いだろう」
「何だか、それがわかるくらいなら間違やしない、こうしている間にも追蒐けて来るかも知れないから、早く隠して下さいよう」
「ここへ来れば大丈夫だよ、お前あの戸棚へ入っていれば、俺がここで仕事をしている、役人が来ても知らないと言うよ」
「早く、それでは戸棚へ入れておくれ」
「まだいいよ、足音が聞えてからでいいよ」
「だってお前」
「もし役人がぐずぐず言えば、この竿で嚇かしてやらあ」
「だってお前、役人に手向いしちゃ悪いよ」
「ナニ、嚇すだけだからいいよ。そりゃそうと玉ちゃん、ムクはどうしたんだえ、ムクが付いているはずじゃないか、お前が役人に捉まろうとする時にムクは黙っていたかえ」
「ムク?」
ムク、ああそうだ。
「米友さん、ムクを助けて来て下さい、早くムクを助けて下さい、ムクは殺されてしまいます、早く」
「ムクはお前の捉まりそうな時に、やっぱり家にいたのかい」
「ムクがお役人に噛みついている間に、わたしはここまで逃げて来たのよ、ムクのおかげでわたしは助かったのだから、お前さん早くムクを助けてやって下さい」
「よし、それじゃあ、ムクを助けに行ってやろう。玉ちゃん、お前はこの戸棚の中に隠れておいで」
「米友さん、怪我をしないようにして下さいよ、お役人に手向いなんぞをしないようにさ、そうしてムクだけを助けて来て下さい」
「大丈夫だよ、安心して隠れておいで、怪我をしねえように働いて、お役人にも怪我をさせねえようにして、ムクも怪我をさせねえでつれて来るから」
「どうぞ頼みますよ」
米友は、鼬を突いた竿を手に取ってその穂先の鋭いところへ、柱にかけてあった五色の網の袋を差し込んで、それを小腋にすると、とっとと表へ飛び出しました。
九
お杉お玉らは間の山へ出て客を呼ぶ、米友は宇治橋の下に立って客を呼んで銭を乞う。お杉お玉は三味線の撥で客の投げた銭を受ける、米友はいま持っていた竿、竿の先の五色の網の袋で客の投げた銭を受け止めるのが商売で、それを「網受け」と申します。
「織田平ノ信長没落後、家臣鳥屋尾左京ト申ス者、当所ニ来住ス。傍輩ノ浪人ハ其ノ縁ヲ以テ諸大名ニ奉公ニ出デ、又左京儀ハ他家ノ主人ニ仕フル事、本意ナラズ存ゼラレ候。然レドモ浪人ノ身、渡世ノ送リ様コレ無キヤ、毎日大橋ノ下ヘ出デ竹末ニ編笠ヲ付ケ槍ノ上手故、其ノ目的ヲ以テ諸参宮人ニ銭ヲ乞ヒ百銭ニ一銭モ受ケ落スト云フコトナシ」
この鳥屋尾左京を網受けの元祖として、米友はその流れを汲んで、やはり宇治橋の下で網受けをしているけれど、身分は左京の後裔でもなんでもない、同じく拝田村系統のほいとの出であります。米友の天性は小兵で敏捷。この網受けに割振られるものは、まず槍の使い方を習わせられるのを常例とする。米友はその常例によって、旅に来た浪人から「淡路流」の槍の一手を教えられたが、三日教えられると直ぐにその秘伝を会得してしまいました。
淡路流の槍は穂先が短い、掌で掴むと隠れてしまう。穂先を左の掌で掴んで、右手で槍の七三のあたりを持つと、それで構えが出来る、その構えたところを相手が見ると、槍を構えているとは見えない、棒か竿か? と敵が当惑した瞬間に、短い穂先は掌から飛び出して咽喉元へプツリ。実に魔の如き俊敏なる槍であります。
この俊敏なる淡路流の槍を遣うべく米友の天性恰好が誂え向きに出来ておりました。
米友は槍を学ぶとしては前後にたった三日であるが、槍を扱う素質とては一日の故ではありませんでした。庭を飛ぶトンボを突く、川を泳ぐ魚を突く、今も鶏を追う鼬を突いた。そのくらいだから、宇治橋の下に立って、客の投げる銭を百に一つも受け外すということはないのでありました。それに加うるによく木登りをする、高いところから飛ぶ、広い間を飛び越える、深い水を泳ぐ。天公はいたずら者で、世間並みでないところへ世間並み以上の者を作る、お杉お玉の容貌もそれで、米友の俊敏なる天性もそれであります。
十
ここにまた話が変って、古市の町の豆腐六のうどん屋の前のことになる。この豆腐六のうどん屋でうどんを食べていたまだ前髪立ちの旅の若い侍――と廻りくどく言うよりは、宇津木兵馬といった方が前からの読者にはわかりがよいのであります。
宇津木兵馬は、紀州の竜神村で、兄の仇机竜之助の姿を見失ってから、今日はここへ来ているが、七兵衛やお松の姿はここには見えませんでした。兵馬は一人でここへ来て、一人でこれから内宮へ参詣をしようという途中にあるのでありました。
豆腐六のうどんは雪のように白くて玉のように太い、それに墨のように黒い醤油を十滴ほどかけて食う。
「このうどんを生きているうちに食わなければ、死んで閻魔に叱られる」――土地の人にはこう言い囃されている名物。兵馬はそれと知らずにこのうどんを食べていると、表が騒々しい。
「何事だ、何事だ」
店にいたものはみんな表を見る。通りかかった人が逆に逃げる。牛馬が驚いて嘶く、犬が吠えて走る、鶏が飛んで屋根へ上るという騒ぎであります。
「狂犬が出た!」
ワァーッと叫びます。怖いもの見たさの店にいた連中は飛び出して見ると、ワッワッと逃げ惑う人畜の向うから、疾風の如く飛び狂って来る大きな犬があるのであります。
「ムクだムクだ、間の山のお玉のムク犬だ」
村方の方から驀然にこの古市の町へ走り込んだムクのあとを追いかけて来るのが何十人という人、得物を持ち、石や瓦を抱えている。前には役人連、そのあとから番太、破落戸、弥次馬の類が続く。
「それ狂犬だア、逃げろ!」
追いかけたのとは反対の側から、また数十人、同じく役人、岡引、番太、破落戸、弥次馬の一連。
「そうれ、逃がすな」
ムクは古市の町の左側の大榎のところまで来た時分に、前後から挟み打ちにされてしまいました。
大榎を後ろにしてムクの眼は蛍のように光る。血を浴びた首筋の毛が逆さに立って獅子の鬣を見るようでありました。
前足を組み違えて、尾をキリキリと捲き上げて、火を吹くような声で、ウォーウォーと唸って、もはやドチラへも切れることのできない囲みの中に立ち迷うていました。
「狂犬を打ち殺せ」
石や瓦や棒片が、立ち迷うているムクをめがけて雨のように降る。
ムク犬は決して狂犬になったわけではない。主人の危急を救わんとして狂犬にさせられてしまったのでありました。かわいそうに、ムク犬もこうしていれば、けっきょく狂犬としてここで殺されるよりほかはないのでありましょう。
時に天の一方から、
「どいた! どいた! どきあがれ」
鉄砲玉のように飛びこんで来た一人の小男、諸肌脱ぎで竹の竿に五色の網。
「やいやい、ムクは狂犬じゃねえんだ、汝たちが狂犬にしちまったんだ、ムクを殺しやがると承知しねえぞ」
それは米友でありました。四尺の身体に隆々と瘤が出来て、金剛力士を小さくした形。
「イヨー米友!」
妙な役者が飛び出したと、屋根の上で見物していた弥次馬が一斉に囃し出すと、米友は網竿を水車のように廻して、
「ムクは温和しい犬なんだ、今まで人を吠えたことも、食いついたこともねえ犬なんだ、それを汝たちが寄ってたかって狂犬にしてしまいやがる、ざまを見やがれ、その温和しいムクが怒るとこんなものなんだ、一疋の畜生に何百てえ人間が、吠面あ掻いて逃げ損なっていやあがる、このうえ米友様の御機嫌を損ねたらどうするつもりだ、さあ通せ、道を開いて通せ、ムク様と米友様のお通りだから道を開いて素直に通せやい」
「イヨー米友、大出来」
「通さなけりゃ、こっちにも了簡がある、やい、早くそこの道を開きやがれ」
米友は勇気凛々として、竿を打振って行手の群衆に道を開けと命令する。
「あいつは、あの通り小兵だけれども、肉のブリブリと締まっていることを見ろ、あれで力のあることが大したものなんだ、身体のこなしの敏捷いことと言ったら木鼠のようなもので、槍を遣わせては日本一だ」
米友の手並は事実と誇張とで評判になって、恐怖の騒動の巷はここで一種の興味ある大人気を加えてしまいました。
その時、誰が投げたかヒューと風を切って飛んで来た拳大の石。
「何をしやがる」
竿の網を袋にならぬように強く張った五色の糸。それでムクの鼻面に飛んで来た石をパッと受け返す途端にまた一つ、米友の面を望んで飛んで来た石をすかさずパッと受け留めて、
「石の投銭というのは、鳥屋尾左京以来ねえ図だ、投げるなら投げてみろ、一つ二つとしみったれな投げ方をするな、古市の町の石でも瓦でもありったけ投げてみやあがれ、それでも足りなきゃあ五十鈴川の河原の石と、宮川の流れの石とをお借り申して来て投げてみやがれ、それで足りねえ時は賽の河原へ行って、お地蔵様の前からお借り申して来い、投げるのは手前たちの勝手だ、受けるのはこっちのお手の物だ、四尺に足りねえ米友の身体に汝たちの投げた石ころ一つでも当ったらお眼にかからあ、さあ投げろ、投げろ」
米友は竿の先を手許に繰って、五色の網をキリキリと手丈夫に締め直すと、ヒューとまた鼻面に飛んで来たのを、鏡でも見るようにしてハッタと受けて、
「まだ早いやい、さあ来い!」
竿を立て直すと、それが合図となって前後左右から注文通り、ヒューヒューと飛んで来る石と瓦が雨霰。
「ムク、お前は俺の後ろに隠れていろ、その榎から背中を見せねえようにしろ、後ろからそっと忍んで来る奴があったら、おれが承知だから遠慮なく食いついてやれ、噛み殺してもかまわねえぞ」
大榎とムク犬を後ろにして立った米友。身近に来る石という石、瓦という瓦を、或いは竿を繰延べて前で受け、或いは竿を手許に繰込んで面の前で受け、或いは身を沈めて空を飛ばせ、体を躍らせて飛び上る。
「やいやい、もちっと骨身のある投げ方をしやあがれ、ぶっついたら音のするように、当ったら砕けるように投げてみねえ、米友様が食い足りねえとおっしゃる――ナニ、鉄砲だって?」
米友は屋根の上を屹と見る。生薬屋の屋根の上へ火縄銃を担ぎ上げたのは、米友も知っている田丸の町の藤吉という猟師であったから、
「ふざけちゃあいけねえぜ、米友様だってこれ、生身を持った身体だ、飛道具でやられてたまるかい。ムク、こうしちゃあいられねえぞ、俺らに続け、合点か」
身を沈めて飛び来る石瓦をかわしながら、後ろを振返ってムクに合図をすると、竿の頭から五色の網を払いのける、明晃々たる淡路流の短い穂先。それを扱いて一文字に、群衆の中へ飛び込んでしまった、その早いこと。生薬屋の屋根の上から覘いを定めようとした猟師の藤吉は、火縄を吹いて呆気に取られ、
「迅い奴だ、鉄砲玉より迅い」
人混みの中へ鉄砲は打ち込めないから手持無沙汰。
米友が飛ぶと、ムクも飛ぶ。一団になって遠捲きにしていた群衆の頭の上から、人と犬とが一度に落ちて来たのだから、ワァーッと言って崩れ立つ。
「ざまあ見やがれ」
弥次馬は崩れたが、逃げられないのは警護に出向いていた奉行の捕手。
「神妙に致せ、手向い致すと罪が重いぞ」
「好きで手向えをするんじゃねえ、汝たちが手向えをするように仕かけるから手向えするんだ、素直に俺らとムクを通してくれ、道をあけて通してくれりゃ文句はねえんだ、やい通しやがれ」
鉄砲の覘いを乱すために米友は、わざと人の中を割って働く。槍をグッと手元につめて七寸の位にして遣ってみる、隻手突きに投げ出して八重に遣う。感心なことに、皮一重まで持って行って肉へは触らせない、それで寄手の連中がひっくり返る。後ろへ廻ってはムクがいる。八面応酬して人と犬と一体、鉄砲を避けんために潜り、血路を開かんがために飛ぶ。
どちらでも風向きのよい方に傾く屋根の上で見物の弥次馬は、米友とムクが生命がけの曲芸を見てやんやと讃め出してしまいました。さいぜんは面白半分に、米友とムクとに向って石や瓦を投げつけていた連中が、いつしか米友とムクとの贔屓になって声援をする。
田丸の町の猟師の藤吉は、幾度か鉄砲を取り直してムクだけでも仕留めてやろうと覘いをつけては、つけ損う。騒ぎはますます大きくなって、古市の町はひっくり返りそうで、さしもの参宮道が一時は全く途絶えてしまう。豆腐六のうどんを食いさした宇津木兵馬は、たかが一疋の狂犬に、さりとは仰々しい騒ぎよう哉と、いざ笠を被って店を出ようとするその出鼻でこの騒ぎであるから、足を留めないわけにはゆきませんでした。人の肩越しからその気もなく覗いて見ると、さてもこの有様。
「はて」
生命がけでやる米友の曲芸。ただ見る丈四尺あるやなしの小兵の男。竿に仕かけた槍を遣うこと神の如く、魔の如く、電の如く、隼の如し。
「ああ、見事な働き」
兵馬は眼を拭って、我とも知らず人を押し分けて前へ出る。
「御所望致す、そのお手槍をお貸し下されますまいか」
暫らく見ていた宇津木兵馬は、山田奉行の役人の下僕とも見える男の傍へ寄って、その持っている槍をお貸し下されたしと申し入れます。
「槍をなんと致される」
役人は兵馬に向って尋ねますと、
「あの小兵の男、何者とも知らねど槍の扱いぶり至極めずらしい、一手応対を致してみたいと存じます」
「ナニ、貴公があの中へ出向いてみたいと言わるるか」
「左様にござる、で、卒爾ながらそのお槍の拝借をお願い致す儀でござる」
若いに似合わず大胆な言いぶりでしたから、面々は感心もし、危なくも思い、
「それは近頃お勇ましいお申し出でござるが、御覧の通り、あれは人間業でない奴、うっかり近づくよりは遠巻きに致して疲れを待つ方が得策でござる、捨てておかっしゃい」
「いやいや、あの勢いではなかなか以て疲れは致しませぬ、たとえ一時たりとも参宮の街道を、あの狼藉に任せおくは心外、よって拙者が応対をしてみたいとの所望、それを御承知願いたい」
役人は、兵馬が小賢しい物の言いようをするとでも思ったのか、
「せっかくながら狼藉を取鎮めるは拙者共の役目、貴公らのお骨折りには及び申さぬ」
「しからば是非もない」
兵馬はぜひなく立って、なお米友とムクとの働きぶりを見ようとしたが、人立ちで背伸びをしても中を覗くことができませんでした。ただ中でワァーッという声が崩れるように湧くばかり。
「そうれ来た! 逃げろ」
兵馬の前にいた黒山の人間が浮足立って崩れると、その中で米友の大音。
「やい、やい、いつまでもこうしちゃいられねえ、道をあけなけりゃあ、血を見せるぞ、血の河を流して人の堤を突切るからそう思え、俺らは悪人でねえから血を見るのも嫌えだし、見せるのもいやなんだが、汝たちがあんまり執念いから、一番、真槍の突きっぷりを見せてやることになるんだ、さあ来やがれ、今までは米友様の御遠慮でなるべく怪我のねえように扱ってやったんだ、こうなりゃ肉も血も骨も突削るからそう思え、千人に一人も逃しっこはねえぞ、淡路流の槍に米友様の精分が入ってるこの槍先の田楽串が一本食ってみてえ奴は、お辞儀なしに前へ出ろ、それがいやなら道をあけて通しやがれ」
この猛烈なる悪態で浮足立った人が総崩れになって、奔流の如く逃げ走る。兵馬に槍を貸すことを謝絶った役人連中までが逃げかかる。
「ともかくも、そのお槍をお貸し下さい」
逃げようとした槍持の手から兵馬は手槍を奪い取る、奪い取ったのではない、抛り出して逃げようとしたのを兵馬が拾い上げたまでなのでありました。兵馬がその槍を拾い取ると、
「あ、殺られた」
米友はついに捕手か弥次馬かを突き伏せてしまったと見える。
血を見ると寄手も狂う、米友はなお狂う。一人突くも十人突くも罪は同じ、それで米友は死物狂いになったらしいのであります。
曲芸気取りでやっていてさえ、米友の網竿は恐ろしい、死物狂いになって真剣に荒れ出されてはたまらない、深傷、浅傷の槍創を負って逃げ退くもの数知れず、米友は無人の境を行くように槍を突っかけて飛び廻る。ムクもまたそれに続く。
そこへスーと手槍を突き出したのが宇津木兵馬でありました。
「待て」
「馬鹿野郎、俺らの前へ槍を出す奴があるか」
兵馬の突き出した槍は米友を驚かしました。米友が何故に驚いたかといえば、自分の前へ槍を突き出すのは、餅屋の前へ来て餅を売り、川の岸へ来て水を売るのと同じことだから、それで驚いたものと見えます。なにも兵馬の槍先が最初から怖ろしいのでそれで驚いたのではありませんでした。槍を取れば、宇治山田の米友の眼中に人はなくなるのだから、驚いた後は小癪に触ってただ一突きに突き倒す気合で来たのを、中段につけていた兵馬はスーとそれを引いて、撞木返りに米友の咽喉元へ槍が行く。
「や、や、や」
米友はタジタジと後ろへさがった。
「やるな、こん畜生」
後ろへさがって米友は待の形に槍を構え直した。兵馬は敵の退いただけ、それだけ足を進めて槍もそれと合致して進む。
「それ!」
米友の懸って覘うところは兵馬の眼と鼻の間。その隼のような眼の働き。兵馬はそれに驚かず、ジリリジリリと槍をつけている。
兵馬の槍は格に入った槍、大和の国三輪大明神の社家植田丹後守から、鎌宝蔵院の極意を伝えられていることは知る人もあろう。島田虎之助の門下で、大石進の故智を学んで、刀を以て下げ針を突くの精妙を極めていることも知る人は知るであろうが、ここの見物はそんなことは知らず、米友も無論そんなことは知らず。
縁もゆかりもないところで、事を好んで危きに近寄るのは、人の難儀を見て見のがせなかったためか、ただしは多くの人の見る前で腕を現わしてみたいのか、いくら兵馬が年が若いからとて、それほど物好きに仕立てられてはいないはず。兵馬が米友に向ったのは、米友の槍の使いがあまりに奇妙不思議であったからでありました。まず手に持っているのが槍だか竿だかわからないのに、その使いぶりときた日には格も法も一切蹂躪し去って野性横溢、奇妙幻出、なんとも名状することができないのがあまりに不思議でありました。
兵馬は剣においても槍においても、そのころの大宗師の正々堂々たる格法を見習っている人でありました。それが今ここへ来て米友の仕業を見れば、まさしくこれは別の世界に驕っている人と思わないわけにはゆきませんでした。驕るにはあらず寧ろ天真流露、自ら知らずして自ら得ている人に近い。兵馬が感心をしたのはそれで、思いがけないところで思いがけない宝を掘り出したと同じ思いがするのでありました。それを取ることは明眼の人の義務であって、人のためでもない自分のためでもないという心からでした。
兵馬の知ろうとして、まだ知ることのできないのは机竜之助が音無しの構え。それにも拘らずここでは思わざる拾い物をした。
兵馬は槍を上段につけて、米友の咽喉を扼している。
米友は猿のような眼をかがやかして、槍を七三の形にして米友一流の備え。ムクはじっと両足を揃えたまま兵馬を睨んで唸っています。逃げ足の立った見物は、ここでまた引返して四方から取囲むとこれは思いがけぬ槍試合、槍を上段につけたまま兵馬が一歩進むと米友が一歩退く。
一歩一歩と兵馬は追い詰めて行く、米友は一歩一歩とさがって行く、ムクもそれにつれてジリジリと米友並みにさがる。
兵馬に米友を突くつもりのないことはわかっている。兵馬はただこうして一歩一歩と米友を追いつめてさえおれば、ついに彼は窮して槍を投げ出すものと思っているらしい。それだから兵馬は、いつも上段の位を換えずに極めて少しずつ追い込んで行く。
米友は猿のような眼をクルクルと廻して、歯を噛みならして、色は真赤になる。突き出すこともできず、払いのけることもできず、焦れてウォーウォーと叫ぶ。米友の陣立てが悪い時、それを補うのがムクの役目でなければならぬ。それが米友並みに一足ずつ引いて行ったのではムクらしくもない。気を見ることを知っているムクは、兵馬の槍先がたとえ米友の咽喉へ向いていたからにしたところで、そこで固まってしまう槍でないことを知っている。変化の働きを怖るればこそ、同じように引いて行くのではあるまいか。或いはまた、兵馬に米友を突くの心なしと見て取って、ワザと後れているのではあるまいか。
しかしながら米友は脂汗を流して、いよいよ追い詰められる。
この間がなかなか長い、見物は静まり返って手に汗を握る。
兵馬は追い詰め、米友は突き詰められて、とうとう前の大榎のところまで来てしまいました。大榎を背中にして米友はこれより後ろへは一歩も退くことはできぬ。兵馬が前の調子で進んで行けば、米友は勢いこの大榎の幹へ串刺しに縫いつけられる。
米友の五体は茹で上げたように真赤になる、筋肉がピリピリと動き出した。ムクもまたその傍まで来て、兵馬を睨んで唸っている。絶体絶命と見えた時、
「エヤア」
なんとも名状すべからざる奇声を立てて米友の竿は兵馬の面上に向って飛び出した。と思うと、竿は米友の手から離れて矢車のように宙天に飛び上る。
「エエしまった!」
米友の突き出す槍を兵馬は下からすくうて撥ね返してしまったらしい。米友の竿を撥ね返した兵馬は、その槍で直接附け入って咽喉元をグサと貫く手順であったが、それがそういかないで、槍を手元に引いてしまいました。
大榎に串刺しに縫いつけらるべきはずの米友がそこにはいない。この時、大榎の上の枝の間から声がする。
「やいやい、手前はエライ奴だ、宇治山田の米友の竿を撥ね落す奴は日本に二人とはあるめえ、その腕に惚れたから、米友が今日は綺麗に負けて逃げてやらあ、だがな、おい、役人、町のやつら、ムクを殺すと承知しねえぞ、ムクを殺すようなことがあれば、この米友が宇治と山田の町へ火をつけて焼き払うからそう思え、宇治と山田の町へ火をつけたら、手前たちはよくっても大神宮様に申しわけがあるめえ、火をつけられるのがいやだと思ったらムクを放してやれ、いいか、それ屋根から屋根へ飛んで米友様がお逃げあそばすのだ、弥次馬どきやがれ」
屋根にいた弥次馬連はこの声を聞いて、屋根から転び落つるほどに驚いて逃げ走りました。
米友は榎から屋根、屋根から屋根、瞬く間に姿を隠してしまった身の軽いこと。
十一
「いけねえ、いけねえ」
米友は茹でたようになって、隠ヶ岡のわが荒家へ帰って来ると、戸棚に隠れていたお玉が出て、
「ムクは殺されてしまって?」
「ううん、殺されやあしねえけれど助からなかった、古市の町へ逃げ込んで、大勢に囲まれているんだ、ムクのことも心配だが、お前と俺らもこうしちゃあいられねえ」
「どこへ逃げましょうね」
「どこと言って俺にも当はねえ、山の方へ逃げてみよう」
「友さん、竿をどうしたの」
「ばかばかしいやい、宇治山田の米友が商売物の竿を召し上げられちゃった」
「誰かにあれを取られたの」
「そんなことはどうでもいい、早く逃げなくちゃいけねえ、玉ちゃん、俺の背中へ乗っかりねえ」
「わたしだって歩けますよ」
「歩けるたって世話が焼けていけねえ、引担いで行くから遠慮をしなさんな」
「でも、こんな大きな姿をして負さってはきまりが悪いから、歩けるだけ歩きますよ」
「きまりが悪いどころの話じゃねえ、お前と俺はここを逃げると二度とふたたび、この土地へ足を踏ん込めねえんだ、山へ逃げ込めば山ん中で当分かくれて里へは出られねえんだ、だからここに有合せものの栗でも薯でもお米でも、みんなこの袋へ入れて俺らが担いで行くよ」
「そうしましょう、それにしてもわたしはムクのことが心配になる」
「心配しなさんな、俺らが町のやつらを嚇しといたから、やつらもムクを殺しはしめえ、生きていりゃあ、ムクのことだから、山ん中にいようと谷底に隠れていようと、あとを尋ねて来るからなあ」
「ほんとにそうだといいけれど」
「そうに違えねえ」
これらの連中の頭は実に単純を極めておりました。お玉は何の故にして自分が召捕りに来られたのだかわからない。米友もまたもとよりそれがわからない。おたがいにわからない同士で逃げ出したり助けに行ったり、泣きごとを言ったり啖呵を切ったりしている。彼等にとっては人間の出来事も偶然の天災も同じことで、地震、雷、火事の場合と同じように、当面のことだけ逃げたり避けたり反抗したりしていればよいつもりでいるのでした。
お玉には笠を被せて、身なりもなるべくお玉でないようにし、米友もまた笠を被って人目を隠し、袋へはあり合せた食料や日用品を詰め込んで肩にかけて飛び出しました。
「玉ちゃん、俺らは考えたがな、山へ逃げ込むよりもだな、これからずっと南へ行って野見坂峠というのを越すと鵜倉という浜辺へ出るからな、その浜辺から船へ乗って逃げようじゃねえか、船へ乗っちまえばお前、熊野へ行こうと宮へ行こうと勝手なもんだ、役人だって、それまで追いかけちゃ来られねえんだ」
米友がこう言い出したのは、宮川をズンズンさかのぼって、川口というところから中の郷へ来かかった時分でありました。
「それもそうだね、友さんのよいようにして下さい。けれどもね友さん、舟へ乗っちまってはムクが尋ねて来られないじゃないか」
「それもそうだな……よしよし、それじゃどっちにしろ、いったん浜辺へ着いてから、お前を隠しておいて俺らはまた引返して、もう一ぺんムクを尋ねに行って来らあ」
「それは危ないよ」
「ナニ、隠れて行きゃあ大丈夫だ」
「それだってお前、危ないさ。仕方がないからムクのことはムクとしておいて、その浜辺とやらへ早く逃げましょうよ」
「それがよかろう、俺らはムクのことは大丈夫だと思ってるんだ、あの犬は人に殺される気遣えはねえとこう思ってるんだ」
「わたしもなんだか、そう思えて仕方がないの、いつもムクがいなけりゃあモット淋しいんだが、今度はそんなに淋しいとは思わないから、きっとムクは無事なんだよ、それでわたしは安心している」
「まあ、なんにしてもここまで無事に来りゃあもう占めたもの、どこか今夜はひとつ山神の祠でもお借り申して一晩泊めてもらって、それから明日の朝、野見坂峠を越して鵜倉へ出るんだ。玉ちゃん草臥れたろう、もう一息だ、我慢しな」
「なあに、そんなに草臥れやしませんよ」
たしかに六七里は来ているから、お玉の足ではかなり草臥れていました。所帯道具を背負っているために、米友は今更お玉を背負ってやるわけにもゆきません。
「やあ橋がこわれてやがる。何だ、出逢橋だって。洒落た名前だな、出逢橋がこわれて縁切橋なんぞは気が利かねえ。飛んじまえ。玉ちゃんお前、飛べるかえ。飛べなきゃあ、どっかから丸太を探し出して橋をかけてやるがどうだい」
米友は軽々とそのこわれた板橋の間を飛び越えてしまって、荷物をそこへ下ろしているとお玉は、
「飛べますよ、このくらいのところ、わたしだって」
距離は一間ぐらいしかないのだから、お玉も何の気なしに、
「どっこいしょ」
米友が気づかっているのを無頓着に飛びは飛んだが、見事に飛び損ねてしまいました。
「あれ――」
「ソレ、だから言わねえこっちゃあねえ」
米友は喫驚して小川に陥ったお玉の手を取る。川は小さな流れだけれども、相当の深さでありました。
そういう場合における米友は注文より以上に敏捷っこいので、女を水物にしてしまうようなことはなく、お玉がおっこちるが早いか直ぐに腕を取って引き上げてしまいました。
「だから言わねえこっちゃあねえ、待っていりゃあ丸太を持って来て橋を架けてやるものを、気の短けえことったら」
米友は小言を言いながらお玉を引き上げていると、
「ふだんならこのくらいのところは何でもないけれど、今は気が急いているもんだから」
「まあ、仕方がねえ。これビショ濡れだ、上着も帯も。それに向う脛を少し摺り剥いたね、痛いかえ」
「痛かあありません」
「これじゃあ道中ができねえ、そうかと言って人の家へは寄れねえ旅なんだから、山ん中へ入ろう、まだ泊るには早いけれど、どこかでその着物を乾かすところを探さなくっちゃあな」
「そうだねえ」
「エエと、あの高えのが獅子ヶ鼻という山だ、あの山の蔭へ行ってみたら、いいところがあるかも知れねえ」
「行きましょう、人が来るといけないから早く」
二人はなお南へ行こうとした道を曲げて、西の方へ道のない山ふところを分けて獅子ヶ鼻の山の下へ出ました。
四方を見れば寂然として深谷の中にある思い、風もないから木も動かぬ、日の光が、照すのでなく覗くようにとろりとしている。
「玉ちゃん、さあ着物を脱ぎねえ」
大きな樅の木の下、岩角が自然と洞になっているところ、米友はそこを見出して自分が先に荷物を卸して、
「ここなら誂え向き、その木と木の間へいま梁をこしらえるから、そこへ着物をかけて乾かしておけば、着物の乾く間、それが屋根にならあ」
立枯の木をへし折って、それを蔓で結えて干場を拵える。
「さあ、干場が出来たから着物を脱ぎねえ」
お玉は解きかけながら、
「米友さん」
「何だい」
「襦袢まで湿ってるんだよ」
「なら襦袢まで脱いだらよかろう」
「襦袢まで脱げば裸になってしまうじゃないか」
「裸だって仕方が無え」
「裸になるのはいやだねえ」
「いやだって、その濡れた着物を着ちゃあいられめえ」
「それだってお前」
「何だい」
「恥かしいねえ」
お玉は、はにかんで面を赤くする。米友は猿のような眼を円くして、
「恥かしい?」
そう言って四方を見廻したが森閑たる谷の中。
「恥かしいったって、誰もいやしねえじゃねえか」
「誰もいないったって、恥かしいわ。それにお前も見ているじゃないか」
「俺らが見ていたって……」
米友は四方を見廻した面をお玉の面へ持って行くと、
「うん、なるほど、お前が裸になるのがいやなら、俺らが先に裸にならあ」
「友さん、お前が裸になってどうするの」
「俺らの着物をお前に着せてやろう」
「それではお前が裸になるじゃないか」
「そりゃそうさ、どっちかひとり裸にならなけりゃ納まりがつくめえ」
「それでもお前を裸にしちゃあ気の毒だわ」
「お前は裸になるのが恥かしいというじゃねえか、俺らは裸なんぞはちっとも恥かしいとは思わねえ、裸の方がいい心持なくらいなもんだ」
「それじゃあ済まないけれど、そうしておくれ」
「そうしてやらあ」
米友は無雑作に帯を解いて、自分の着ていた着物を脱いでクルクルと纏めてお玉に渡します。
なるほど、米友は自分で裸の方が好きだという通り、見た目にも裸の方がよろしいのでありました。着物を着ていたんでは小兵の米友の肉の締りかげんはわからないが、着物を脱ぐとはじめてその筋肉の美観が現われる。名工の刻んだ四天王の木彫を見るような骨格肉附。
「ほんとうに友さんの身体は小柄だけれどもよく締まっていること」
お玉はお愛想を言って、米友の脱いで貸してくれた着物を受取ります。
「火を焚きつけてやろう、火をひとつ」
持って来た所帯袋から米友は火打を取り出して、松葉や枯枝を掻き集めて焚火をはじめると、お玉は後ろを向いて帯を解いて上着から脱ぎかける。
「早く引き上げてもらったから、水の透らないところもあるけれど、帯の間なんぞは、こんなにグチャグチャ」
帯にも下締にも水が入っている。
「風邪でも引くといけねえ」
米友は猿のような口を尖らして火を吹く。お玉は上着を脱いでしまうと下着、その上着だけを米友が手早く取って干場へかける。
下着と襦袢とを一緒に脱いで、後向きにお玉の半月のような肩が顕れる。火を吹いていた米友が、
「それ、何か落っこった」
「調戯っちゃいけないよ」
「何か落ちたよ」
「そんなことを言うもんじゃありませんよ」
お玉は赤くなって、素早く米友の着物を着換えてしまう。
お玉は米友が、わざと調戯っているのだと思っています。
「大事なものじゃねえのかい」
「およしなさいよ」
「それ、そこに」
「いやだね」
「そこに白いものが落ちてるじゃねえか」
白いものと言われて、お玉はハッと気がつきました。米友は調戯っているのでもなければ嫌味を言っているのでもない、またそういうことの言える人間でもないのであって、事実、お玉が着物を着換えようとしてそこへ取落したものがあったのです。
「アッ、これは」
事に紛れて今まですっかり忘れていたが、これは昨晩、備前屋の裏口で幽霊のような女から頼まれた手紙――金の方は包みかけて置きっぱなしで逃げて来たが、手紙だけは懐ろへ入れていたのを、この時までちっとも気がつかなかった。落してみればその手紙、同じようにグッショリと濡れ切っていました。
「これは大切なもの、今まですっかり忘れていた」
お玉は、あわててそれを拾い取って、
「申しわけがない、こんなに濡らしちまって」
この時、米友の焚きつけた火はよく燃え上る。
「手紙かい、濡れたんなら、ここで乾かすがいい、火であぶってやろう」
大事そうにお玉は濡れた手紙を取って米友に渡しながら、
「昨晩、備前屋で頼まれた手紙、懐ろへ入れたまんまで今まで忘れていました。ああ、お金の方はどうなったかしら」
「頼まれ物は大事にしなくちゃあいけねえ。おやおや、グショグショだ、封じ目もなにも離れちゃった、このままでは手がつけられねえ。おっと待ったり、いいことがある、この笠の上へ拡げて、遠火であぶるとやらかせ」
被って来た笠の上へ濡れた手紙を置いて、封じ目もなにも離れてしまったから、爪の先で拡げて火の傍へ持って来ます。その間にお玉は米友の衣裳に着替えてしまって火の傍へ来ると、米友は干場にかけた着物を表は天日で、裏は焚火で両面から乾かすようにしておいて、二人が焚火を囲んで座を占めます。
「紙の方が乾きが早いや、もうこれカサカサになった、もとのように捲いて封じ目を拵えておいてやれ」
笠の上の濡れ手紙が乾いたから、米友はそれを捲き直そうとすると、
「友さん、お前は字が読めたねえ」
「読めなくってよ、いろはにほへとから源平藤橘、それから三字経に千字文、四書五経の素読まで俺らは習っているんだ」
米友は少しく得意の体。
「それはよかった、それではその手紙は、どこへ届けるのだか読んで下さい」
「何だって? お前、届先を聞かねえで手紙を頼まれて来るやつもねえもんじゃねえか。どれ、読んでみてやろう」
「読んで下さい、こんな騒動がなければ早く届けて上げるんでしたに」
「エート」
米友は仔細らしい面をしてその手紙の表を見て、
「女文字だね、女にしちゃよく書いてある。なんだ……大湊、与兵衛様方小島様まいる――おやおや、この宛先は大湊だよ」
「まあ大湊……それではまるでこことは方角違い、早く届ければよかったねえ」
「そうだな、宇治から大湊までは一息だが、ここからでは大変だ、逆戻りをして、また宇治山田の町を突っ切って、それからでねえと大湊へは出られねえ」
「困りましたねえ、急ぎの用なんでしょうか。あの女の方はたいへん心配そうにして、お金までつけて頼むんだから早い方がいいだろうに、さぞ頼み甲斐のない女だと思っているでしょう」
「どうも仕方がねえ、災難だから。こうなってみると、この手紙を届けるのも今日明日というわけにはいかねえし、その預かったお金というやつの行方もわからねえ、ちょうど封じ目も切れていらあ、他人様の手紙の中身を見ちゃあ悪いけれど、こういう場合だから、御免を蒙って用向をひとつ胸に納めておこうじゃねえか」
「そうして下さい、その用向によっては、せっかくの頼みだから、わたしの身は少しくらいあぶなくっても、なんとか知らせて上げなくっちゃあ」
「それでは、中身をひとつ読んでみてやれ」
米友は捲きかけた手紙をクルクルと拡げて、仔細らしい面で文面を見つめました。
一通り眼を通してしまうと米友の面色が変ります。驚いた時にいつもするように、猿のような眼がクルクルとまわります。
「玉ちゃん、こりゃ大変だぜ、大変な手紙だぜ」
「何だえ、嚇しちゃいけないよ、落着いて読んでお聞かせよ」
「お前の方が落着かねえんだ、読むと文句がうるせえから話にして聞かせるがね、この手紙を書いた女は、もう死んでるよ」
「おや、あの女の方が?」
「どんな女の方だか俺らは知らねえけんど、この手紙は、つまり遺書なんだね」
「遺書?」
「そうだよ、とてもわたしはこの世に望みは無いから死んでしまいます、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅だとよ」
「ああ、それではわたしの歌を聞いて死ぬ気になったのか知ら……それから、どう書いてあるのですよ」
「わたしは死んでしまいますけれど、あなた様はよく御養生をなすって下さいましというわけだ」
「そのあなた様というのは誰のこと?」
「それがそれ、宛名の、大湊、与兵衛様方小島という人なのよ、その小島というのは、これによって見ると男だね」
「へえ、そういうこととは知らなかった」
「それでよ、就きましてはここに二十両のお金がございます、これをお届け申しますから、これでどうかできるだけの養生をなすって、故郷へお帰り下さるように」
「そうすると、向うの人も病気で悩んでいるのですね」
「そうだ、これによって見ると、たしかに病気だね、何病とも別に書いてねえが、女が勤め奉公に出て、その血の出るような金を貢いで男の病気を癒そうというんだね」
「知らなかった知らなかった、それほどのお金だったら、あの晩に届けて上げればよかったものを。二十両のお金、家へ置きっぱなしにして来たから、もう取返すことはできない」
お玉は躍起となって口惜しがります。
「それでだね、お前、終えの方へもってきてよ、それ、お前がおはこの歌を書いてあらあ、花は散れども春は咲くよ、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅、今あの歌が聞えます、あの歌は、はじめに行基菩薩というお方がおつくりなすった歌だから、あれを冥土の土産に聞いて行けば心残りはないから、わたしの命は今晩限り、明日は、もうこの世の人でないと書いてあるよ」
「それではやっぱり、わたしの歌を聞いて死ぬ気になったのだよ、わたしがお手伝いをして殺したようなものだ、申しわけがありません、どうも済みません」
「そんなことはねえ、歌をうたう方と死にたくなる方とは別々だからあやまらなくてもいい。それで終いの方へ行って、わたしは快くあの世へ行きます。あの世へ行けば知った人はいくらでもいますけれど、この世に残るあなた様にはお頼りなさる人がひとりもないと思うと、冥路のさわりのような心地も致しますけれど、何事もこれまでの定まる縁……こんなことも書いてある、筆もなかなか見事だし、文言もうめえものだ」
「そう聞いては、わたしはじっとしていられない、わたしの身はどうなってもかまわない、友さん、わたしは大湊まで行くわ、行ってその小島さんとやらにお詫びをするわ、こうしちゃいられません」
「そうだなあ」
十二
船大工の与兵衛は仕事場の中で煙草を喫んでいました。炉の焚火だけが明りで、広い仕事場がガランとして真暗でありました。
「何とかしなくっちゃあ」
ひとりで呟いている。
伊勢の海は昼でさえも静かなものであります。夜になったのでは雌波の音一つ立たないで、阿漕ヶ浦で鳴く千鳥が遠音に聞こえるくらいのものでありました。
「困ったことだわい」
印伝革のかますから煙草を詰め替える与兵衛は船大工の親方、年はとっているが眼は光る。
「今晩は」
裏口でおとなう声。
「へーい」
内で与兵衛が返事。
「あの、大湊の与兵衛さんとおっしゃるのはこちら様で……」
「与兵衛はうちだが、お前さんは」
「古市から参りましたが」
「古市から?」
与兵衛は立たないで耳を傾けて、
「古市から? 古市のどちら様からおいでなすった」
「あの、備前屋から」
「備前屋さんから?」
与兵衛はこの時ようやく立って、
「どうも女衆の声のようだが」
戸をあけると、手拭で面を包んだ女、逃げ込むようにして家の中へ入って、
「こちら様に小島さんとおっしゃるお方がおいででございましょうか」
「小島……してお前さんは何しにおいでなすった」
「その小島さんというお方がいらっしゃるならば、その方へお手紙を内緒で頼まれて参りました」
「ああ、そうでござんしたか」
「これがそのお手紙でございますが」
「これが……」
与兵衛はお玉の手から手紙を受取って、
「それは御苦労様でございます、どうか少しお待ちなすって。その火の傍で少しの間、待っていておくんなさいまし」
与兵衛はその手紙を持って、家の内と外とを気遣うように見廻して、戸を締め切ってしまいました。
被っていた手拭を取って火の傍へ寄った女は、間の山のお玉であります。
お玉は仕事場の中へ入って炉の傍へ寄って、いま出て行った老爺の帰るのを一人で待たされていました。焚火の光で、丸太を組み渡した高い天井が白い蛇の這っているように見えました。光の届かない家の四隅は真暗で、外で千鳥の啼く声が淋しい。
「いやどうも、お待遠さま」
ようやくに裏口の戸をあけて与兵衛の帰って来たのを見て、お玉はホッと息をつきました。
「おや、お前さんは間の山のお玉さんじゃねえか」
与兵衛は今になって、それがお玉であることに気がついたのです。
「ええ、そうでございます」
お玉は恥かしそう。
「こりゃ、お見外れ申したというものだ」
与兵衛は、しげしげとお玉を見て、
「お前はお尋ね者になっているはずだな」
「ええ」
「何か悪いことをしたのかい」
「どう致しまして、間違いでございます」
「そうして、ここへどうして来なすった」
「隠れて参りました」
「どこに隠れていたんだい」
「山の方へ隠れていましたけれど、あのお手紙をお届けしないうちは気が済みませんから、一生懸命でここまで戻って参りました」
「そうかい、それは御苦労だったな。しかしこのごろはお前と米友を探すんで網の目のように筋が張ってあるはずだ、それを突き抜けて、よくこれまでやって来られたなあ」
「はい、こちら様へ参る材木の舟の中へ隠れて参りました」
「舟の中へ? それじゃなにかえ、宮川を下る筏舟の中へ隠れてこの船着へ来て、夜になって忍んでここへやって来たというわけだね」
「左様でございます、もうお手紙をお届け申しさえすれば、捕まってもかまいませんつもりで」
「よく届けておくんなすった。それで、米友も一緒に来てくれたかい」
「ええ、そこまで一緒に来てくれましたけれど、ムクを尋ねると言って古市へ忍んで行きました」
「米友が古市へ行った? そいつは危ねえ」
「それから親方さん、わたしあの手紙に附いているお金をお預かり申したんですけれど、それを失くしてしまいましたから、ぜひそのお詫びをしなければなりませんが」
「うむ、そのことは大概わかってる」
「ほんとうに済みません、そんな場合でわたしの身が危ないのですから……どうか御免なすって下さい」
「どうも仕方がねえ」
「それでは親方さん、これで御免を蒙りまする」
「まあ待ちねえ、これからお前を一足でも外へ出すのは、雛子を狼の中へ入れてやるようなものだ、待っておいで」
「それでも」
「何とかして上げる。今もそれお触れが出たところで、お前と米友は盗賊の罪に落ちている」
「もう捕まってもかまいません」
「ばかなことを言いなさるな。それから、まだ用があるのだ、実はその、お前が持って来てくれた手紙を受取った御当人が、お前に会いてえとこういうのだ」
「そうでござんすか、それではお眼にかかって、わたしからよくわけをお話し申してお詫びを致しましょう」
「向うでも聞きてえことがおありなさるようだから会って行って上げてくれ、今おれが案内してやる」
与兵衛は、また裏口から立って、仕事場の外へとお玉を導いて出ました。
仕事場の外は暗いが、右手の方の海は明るく見えます。
大湊の海は阿漕ヶ浦には遠く、二見ヶ浦には近い。静かで蒼い阿漕ヶ浦と、明るくて光る二見ヶ浦が、大湊の島で二つに分れているようになっていました。
「お玉、お前まあ、よく会って話をしてみるがいい」
海の風が神前浜の方から吹いて来て与兵衛の声を消す。お玉はよく聞えなかったから、返事をしないで黙って歩くこと暫し、
「さあ、ここへ入るのだ」
入江に近い大きな材木小屋。
お玉を入れると直ちに与兵衛は戸を立て切ってしまいました。
「手を引いてやる、暗いから用心をして来さっしゃい」
船をこわした古い材木と、削りぱなしの材木との累々たる間を、与兵衛に手を引っぱられて行くお玉は気味が悪くてなりませんでした。もし相手が与兵衛でなかったならば、お玉は一歩も中へ進み得なかったであろうと思われます。
「お玉さん、退引ならねえ行きがかりで、俺もその人を匿っているんだ、誰にも知られてはならないが、お前は別だから連れて来たんだ」
与兵衛がこれほどに匿い立てをするその人は、いかなる人で、何の義理があるか、それらもまたお玉にはわかりませんでした。
「あの、なんでございますか、男のお方でございますか、女のお方でございますか」
「男の方だよ」
暗い中を暫らく行くと、石段があって下へ下へと降りて行くようになっていて、下からは塩気を帯びた風が吹き上げて来るようでありました。
大湊は神代からの因縁のある古い古い船着であります。この小屋なども百年を数える古い建前であって、磯の香りや木の臭気でむしむしと鼻を撲つのでありました。
磯に沿うた崖と、小屋の支えになった乱杭の間の細道を歩かせられて、どうやら材木小屋の下を潜って深い穴蔵の中へ引張り込まれて行くように思われてきました。
お玉はここまで引張られて来ると、何とも言えないいやな気になってしまい、
「ああ怖い」
意地にも我慢にも、引かれて行く与兵衛の手を振り切って逃げ出したくなりました。
「どうした」
お玉は慄えながら、
「ずいぶん怖いところですねえ」
「こんなところでなければ人は隠せない」
与兵衛は、ずんずんとお玉の手を引いて行く。
お玉の怖いというのは、ただ場所柄が怖いというだけではなくて、なんだかしんしんといやな気持になってゆくのでありました。
「誰か後をついて来るような足音がします」
「そんなことがあるものか、さあここだ」
今、与兵衛の扉をあける音で気がつくと、パッと燈火の光、かなりに広い一間。
その中に朦朧として人が一人います。
十三
微かな燈火の光に朦朧として人が一人います。恐怖のうちにお玉の眼に映じたものは、その人が水色無地の着物を着て、坐って俯向きになっていたから、蓬々と生えた月代だけが正面に見えて、面は更に見えませんでした。
俯向いている下に耳盥が一つあって、俯向いているのはその人が今、巾でもって面の一部分を洗っているのであることを知ったのは、やっと中へ入っていっそう気を鎮めた後のことであります。
「小島様、お使の衆を連れて参りました」
「それは御苦労」
一句、地獄から引いて来るような声。
その声だけで、なんとなくお玉は胸へ氷を当てられたように感ずるのです。
「…………」
お玉は何とも挨拶のしようがないからそこに腰をかけたままで、俯向いた人の方を盗むようにして見ると、面の一部分を洗っていると思うたのは眼を洗っているのでありました。真鍮の耳盥へ、黒い巾を浸しては、しきりに眼のところへ持って行って、そこを叩いているのでありました。
ああ、この人は眼が悪い。
お玉は直ぐに、そう感づいてしまいました。米友から手紙を読んでもらって、手紙を受取る人が病人であろうとの暗示は得ていましたけれど、眼が悪いのだとは気がつきませんでした。それを今ここへ来て見て、はじめてそう感づいたのでありました。
「それでは、ゆっくりお話しなさいまし。お玉坊、ここは誰も来る人もなし聞く人もないから心配をしずに、よくお話し申して、お金を失くしたお詫びを申し上げるがいい、わしは家へ帰って、いいかげんの時分に迎えに来るから」
「親方さん、一緒にいて下さい」
お玉は与兵衛に縋りつきたいと思いました。たださえしんしんとして怖くてたまらないところへ、見も知りもしない人と一緒に、どうして置放しにされていられるものか、
「ああ、わたしは帰りましょう、外へ出てしまいましょう」
「何も怖がることはないというのに」
与兵衛はかえってお玉の縋るのを突き放すように先へ出て、扉をハタと締め切って、自分だけさっさと出て行ってしまいます。
お玉は取付く島がない。やっと落着いてみれば、悪気でここへ連れて来る与兵衛親方ではないし、ここにいる人だって、なにも自分を取って食おうというのでもないのだから、怖ろしいうちにもまたそこへ腰をかけてしまいました。
知れない人は、まだ俯向いて眼を洗っていましたが、そのうちにふいとお玉の眼に触れたものは、敷物の傍に置かれた大小の腰の物でありました。それで、お玉はこの人がお武家であるということを知って、いっそう心細いような、心強いような、妙に混乱しきった心持になっていると、
「お豊から手紙を持って来てくれたのはお前さんか、こっちへお上りなさい」
ようやく面を上げた人を見ると、痩せた身体に蒼白い面の色が燈火を受けて蝋のように冷たく光る。
お玉は知らない。これは机竜之助でありました。
「どうもまことに申しわけのないことを致しました」
お玉はお詫言から先です。
「とにかく、こっちへ上って、まことに済まないがこの手紙をひとつ、拙者に読んで聞かしてもらいたいが」
竜之助は手さぐりにして燭台を少し動かしました。
こう言われてお玉は、ハッと耳まで赤くなったのです。
「はい、あの……」
お玉には手紙が読めないのでした。今まで読めないで通って来たし、読めと言われたこともないのに、ここへ来て恥かしい思いをしようとは思いませんでした。
竜之助は、お玉が遠慮をしているものとでも思ったのか、
「拙者はこの通り目が不自由でな、せっかく手紙を届けてもらってもそれを読むことができない、どうぞここで代って読んでみて下さい」
静かな声で折返して頼む。
「はい、あの……」
お玉は困ってしまい、
「せっかくでございますが、あの、わたしも目が不自由なのでございまして」
「そなたも目が不自由……」
「はい」
「それはそれは」
「いいえ、目は見えるのでございますが、字を読むことができませぬ、お恥かしゅうございます」
「ははあ、なるほど」
竜之助の面に、やや気の毒そうな苦笑い。
「さてさて、二人揃うて一つの目が明かぬとは……」
お玉は真赤になってしまって、今宵という今宵、はじめて字を知らぬことの恥辱を感じたのでありました。
「それでは手紙は後のこと、この手紙を届けてくれた女の身の上を話してもらいたい」
「はい、この間の晩、古市の備前屋という家へ、わたくしが招かれて参りました」
「備前屋というのは?」
「それはあの、大楼でございます」
「大楼とは?」
「遊女屋」
「遊女屋――なるほど」
「そこへ招ばれて参りまして、その帰りにこのお手紙を頼まれたのでございます」
「その備前屋というのへそなたが招ばれて……何のために招ばれました」
「あの、歌をうたいに」
「歌をうたいに?」
「はい、わたくしは、間の山へ出ておりまする玉と申しまして、賤しい女でございまする、歌をうたいに招ばれましてその帰りに、あの家の裏口から、不意に女の方がおいでになって、このお手紙と、それから一包みのお金とをわたしに渡して、この手紙の上書にあるところへ届けてくれと申しました故、わたくしは何の気もなくお請合いを致しました」
お玉は、あの晩の筋を一通り繰返して、
「そうして翌日は、早速お届けを致しましょうと思っているところへ、どうしたわけだか知りませんが、お役人が来て、無理にわたしを召捕ってしまおうとなさるから逃げ出して、逃げ歩いて、やっとこちらへ参ったのでございまする、それ故、せっかくのお金も打捨っておいて、お手紙だけは懐へ入れておいたのを、後で気がついたようなわけでございます。そういうわけでございますから、どうぞ御免あそばして下さいまし」
お玉はお詫びの心のみが先に立つのでありました。
「ただ、それだけの御縁でございます、お名前も承わりませねば、御用向も伺いませんで」
お玉の話だけでは、決して竜之助を満足させることはできませんでした。
遊女屋――女――金、その次に来るものは――この手紙の中にその消息が言い込められてあるはず。四つの目があって一つの用をもなさぬこの場の有様は、やっぱりお玉をして恥じ且つもどかしさに堪えざらしめたので、
「それから、あの、重々申しわけがございませんが、実はその手紙の中をもう拝見してしまったのでございます」
「この手紙を、そなたは読んでしまわれたのか」
「はい」
「目の不自由なというそなたが」
「人に読んでもらいましたので」
「誰に」
燈火の穂先が慄える。お玉は罪を詰られるような心地がして、
「余儀ないわけで……途中で水の中へそのお手紙を落したものですから、それを乾かす時に、つい封じ目が切れまして、その時に懇意な人に読んでいただきました、その人は内緒を人に洩らすような人ではございませんから、どうぞ御勘弁あそばして」
「それでは、この手紙の用向は委細のみこんでいるな」
「はい」
「では、その筋を話してもらいたい」
「よろしゅうございます」
お玉は、ここでようやく度胸が据わって、大事の大事の人の手紙を見てしまったことが、今までお玉の良心に大へんな重荷であったのを、こうして打明けてしまえば、その重荷を卸した心持になってしまったのです。
「でございますけれども、あなた様、お驚きあそばしてはいけませぬ」
お玉は唾を呑んで念を押すと、
「驚きはせん」
竜之助は冷たい面の色。
「このお手紙は、あの、遺書になっているそうでございます」
「遺書に?」
「はい、それで二十両のお金、あなた様の御病気をお癒しなさるようにとのお心添えなそうにございます」
「そうか」
存外に冷やかな響きでしたから、今度はお玉の方が満足しませんでした。
「おかわいそうに、このお手紙をお書きなすって、お金と一緒に私へお頼みなすったあとで自害をなさったのでございます。死んで行くわたしは定まる縁でありますが、生きて残るあなた様のお身の上が心配と記してあるそうでございます」
お玉の口には、頼んだ女の心が乗りうつるかと思われるほど熱が籠っていたが、
「ははあ」
竜之助の張合いのないこと、気の毒とか憐れとかいうような感情の動きは微塵も認められないのみか、聞きようによっては、頼みもせぬに死んでくれたというようにも響きましたので、お玉の胸にはむらむらと不満がこみ上げて来ました。
「あの、このお方は、あなた様の御親類筋のお方でございますか、それとも御兄妹でいらっしゃいますか」
「親類でもないし、兄妹でもない、赤の他人じゃ」
「赤の他人でさえ、こんなにまでなさるのに……」
お玉は、冷やかな竜之助の態度を見て、反抗的に単純な感情がたかぶって来るのでありました。
「わたしが悪うございました、わたしが悪いのでございます」
「お前が悪いことはあるまい」
竜之助は冷々たるもの。
「いいえ、わたしが悪いのでございます、その方を殺したのはわたしでございます、あの方は自害をなすったのではございませぬ、わたしが手にかけて殺したのでございます」
「お前があの女を殺した?」
「はい、わたしが歌をうたわなければ、あの方は死ぬのではありませんでした、わたしが歌をうたったばかりに、それを聞いて死ぬ気になったのでございます、それですから、わたしが手を下して殺したのも同じことでございます」
お玉は熱狂する。
「なんだか、お前の言うことはわからない」
竜之助は冷淡。
「わからないことはございません、わたしが間の山節をうたいまして、それをあの方が離れでお聞きなすって、それから死ぬ気になったのでございます、このお手紙にもそれが書いてございます、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅と、わたしの歌が遺書の中に書き込んであるのが証拠でございます」
「それは妙な証拠じゃ、歌を聞いて死ぬ気になったからとて、その歌をうたった者が殺したとはおかしい。歌うものは勝手に歌い、死ぬ者は勝手に死ぬ……」
「勝手に死ぬ?」
お玉の極度にのぼった熱狂がこの一語で一時に冷却されて、口が利けないほどに唇がふるえましたけれど、それが過ぎると前よりも一層のぼせて、
「死ぬ者は勝手に死ぬとは、ようもまあ、そのようなお言葉が……なるほどわたくしは賤しい歌うたいでございますから、勝手に出まかせに歌もうたいましょうけれど、お死になさる人は決して酔狂でお死になさるのではございません」
「…………」
「どういうわけか、わたくしなどはちっとも存じませぬけれど、どうやらかのお方はお前様のために廓へ身を沈めて、慣れぬ苦界の勤めからこの世を捨てる気になったのでございましょう、それが死んで行く時まで、あなた様のことを心配して、あの中からお金まで都合して下さるおこころざしは、わたくしなどは他で聞いてさえ涙が溢れます、それですから、わたくしは途中で自分が捕まって殺されてもいいから、この手紙だけはお届けしなければならないと思いましたのに、そう思ってここまで参りましたのに……」
お玉は情がたかぶって着物の襟を食い裂きました。
なにも礼を言われたいために危険を冒して来たのではないけれども、人の情に対する感謝の美しい一雫を見たいものと思わないではなかったのに、この人は、情というものも涙というものも涸れ切った人なのか、そうでなければ天性そういうものを持って生れなかった人なのか。お玉は口惜しくって口惜しくって涙をこぼしてしまいました。
「こんな薄情なお方と知ったら、手紙なんぞを持って来るのではなかった」
神崎沖から押寄せる潮が二見ヶ浦を崩れて、今ここの入江に入って来たらしい。蓑を鳴らすような音が聞えます。
浪の音が、上から落ちて来るように颯と響くと、一穂の燈火がゆらゆらと揺れます。お玉はぶるぶると身震いをしました。
あんまり張りが強くなって、初対面の人を捉まえて薄情呼ばわりをしてしまったことを悔いるような気になって、今ゆらゆらと揺れた火影からその人の横顔を見ると、その人はべつだん腹を立てた様子もないし、腹を立てようとしている様子もありませんが、こう火影から覗いて見ると、どうもなんとなくこの世の人ではないような気がします。蝋のように冷たく光る白い面の色、水色がかった紋のない着流し、胡坐を組んで、一方を向いたまま身動きさえしないでいると、その人の身体のどこからか腥い風が吹き出して水のように流れる。そうすると、お玉はゾッと水をかけられたようになって、ああこの人には生霊か死霊がついている、怖い人、いやな人、呪わしい人、その思いが一時にこみ上げて、
「帰りましょう、お暇を致しましょう」
座に堪えられないほど凄くなりましたから、与兵衛が迎えに来るのも来ないのも考えておられずに、お玉は立ちかけますと、
「まあ待ってくれ」
竜之助は静かに呼びとめる。魔物に後ろ髪を引き戻されるように、お玉は立ち竦んで、
「何か御用でございますか」
後ろを振向くと、竜之助は手さぐりにして自分の膝のまわりを撫でて、長い刀を引き寄せて、
「せっかくお使をしてくれた、なんぞお礼をしたいが、見られる通り貧乏でそのうえ不自由の身じゃ、これがせめてもの寸志、どうかこれを受取ってもらいたい」
お玉は、またもここで奇異なる思いをせねばならぬ、こんな薄情な人でも自分にお礼をしようというしおらしい心があるのか知らと思わせられたのでありました。そうして、この中でお礼とは何かと見ると、刀の下緒の間に挿んであったと覚しく、それを抜き出して手に持ったのは、意外にも一本の銀の平打の簪でありました。
「まあ、この簪をわたくしに……」
思いがけないものを出されたから、お玉は三たびここで奇異なる感に打たれたのでありました。
「これはあり合せ、そなたの年頃に似合うか似合わぬか、それは知らぬ、下り藤になっているはずだが、それでも差料にさわりはあるまい」
「お礼なんぞ、飛んでもないことでございます」
お玉はそれを受けようとしなかったが、今こうして簪を一本、自分にくれようとして差出した人の姿を見ると、今の先、薄情呼ばわりをして怖い人、いやな人、呪わしい人と一途にムカムカとしてきたその人の影に、可憐しいものが見え出して来るのでありました。それは物をくれるから好い人に見え、くれないからどうというような心ではなく、真底のどこにか人の情の温か味というものがこの冷たい人の血肉の間にも潜んでいて、それが一本の簪を伝うて流れるそのしおらしさがお玉の胸を突いて、なんということなしにお玉は歔欷りあげるほどに動かされてしまったのでありました。そうしてみると、盲目になったこの薄情な人、杖も柱もなく置かれて行くこの冷たい人が憎らしくて、そうしてかわいそうであります。
「どうも有難うございます」
「泣いているのか」
「泣けてしまいました、つい、泣けてしまいました」
「なに……何が悲しい」
「なにかしら悲しくてなりませぬ」
「別に悲しいこともなかろうものを」
「御免下さいまし」
お玉は、よよとしてそこへ泣き倒れてしまいました。
泣いて泣いて、暫らくは口が利けませんでした。竜之助は冷然として燈火に顔をそむけて、お玉の泣くのに任せておきました。ただ所在なげなのは、その手にもてあました平打の簪ばかりでありました。
竜之助がはじめて京都へ上る時に、同じこの国の鈴鹿峠の下で、悪い駕籠屋からお豊が責められて、そのとき詮方なくお豊が駕籠屋に渡そうとした簪がこの簪と同じ物でありました。お豊を初めて見た竜之助が、さてもお浜によく似た女と思った後に、茶屋の老爺が拾った平打の簪を見ると、それがまたお浜の以前の定紋と同じことであった下り藤であったので、竜之助はその簪を持って京都まで上って行ったはずであります。京都から十津川までの竜之助はあの通りの竜之助で、饅頭の代りに帯刀をすら差出してしまった竜之助ですから、あの一本の簪だけを今まで持っていたはずはありません。これはおそらくその後、竜神からお豊と共に逃れて後、お豊の手から再びわが手に入れた物であろうと思われます。思い出の多かるべきはずの竜之助が、その簪に対してはさまでの惜気がなくて、なんらの縁のないお玉は、その簪のために泣かねばならなくなりました。お玉は泣き、竜之助は泣かせておくと、またも天上から落ちて来るように浪の音が蓑を鳴らして湧き立ちました。
伊勢の海は静かな海で、ことにこれより北へかけての阿漕ヶ浦は、その夕凪と朝凪とで名を得た海であります。南へ続く二見ヶ浦とても決して荒い海ではありませんけれど、二見ヶ浦を一足廻って、神崎の鼻へ出ると遽に波が荒くなります。
紀州灘や遠州灘で鳴らした波が、伊勢の海の平和を乱してやろうと、そこから押して来る、それを神崎の潜り島や俎島、その他、水底にかくれた無数の隠れ岩がやらじと遮るのですから、風浪険悪の夜は潮鳴りの声が大湊まで来るのは不思議ではありません。
ただ不思議なのはその浪が、或いは天上から落つるように、或いは地の底から来るように、この室には響いて来ることです。
十七姫御が旅に立つ……
これも不思議、その声がどこから起ったか、浪と一緒だから海から来たものであろう、微かに響いて来たのですけれども、お玉の耳には聞き洩らすことのできない声、米友の好んでうたう歌に相違ありません。そもそも自分らが今いるこの部屋は、家の奥にあるのか、地の底にあるのか、或いは海の岸にあるのか。
十四
その前の晩、大湊へ碇を卸した十六反の船がありました。船の上から大湊の陸の方をながめて物思わしげに立っているのはお松でありました。
宮川と汐合川の流れ出したところが長く洲になっていました。大湊の町の町並は点しつらねた人家の灯で丁字形になっていました。それをとびとびに一里半ゆくと、宇治山田の町が灯に明るいのであります。
小林の船倉から東の方へ突き出した洲崎には材木場の大きな建物が見えています。町は明るいのに船倉と材木場の方は真暗です。
大湊は船を造えるところであり、またそれを修理するところであるから、ここに泊っている船は、この船とばかりは限らない。
入江の方から帆柱が林のように立っている間をおりおり小舟が往来するのを、お松はそれにいちいち眼をつけていました。
お松はこうして兵馬の帰りを待っているのでした。兵馬は大神宮へ参拝するといって船を下りたまま、まだ帰らないのです。
「おやおや、宇治山田の方から、提灯のようなものがたくさん飛んで来る」
陸を見ていたお松は眼をって、
「お祭礼でもないようだし、ああ、だんだん大湊の町へ近くなる」
と見ると小林の船倉あたりから、高張提灯のようなものが二つ三つ見え出してきたから、
「おや、あそこは船倉じゃないか、お奉行様のお邸のあるところだと船頭衆が言っていた、あそこから高張が出たのは、いよいよ只事でないにきまってる」
お松が気を揉み出した時に、
「おいおい、みんな来て見ろ、町で何か騒動が始まったぜ」
船中の者共は我れ先にと船縁へ出て、そうして町の方を見物しながら、
「何だ何だ、火事か盗賊か」
「心配だから、わたし陸へ上って様子を見て来ます」
お松はたまり兼ねて、船頭の助蔵に向ってこう言いますと船頭が、
「お前さん一人はやれない、行くなら誰かつけてやるが、まあもう少し待ってみなさるがよかろう」
「どうしても行ってみます、あんなに騒がしいのは只事ではないから」
「そんなら誰か伝馬を押せやい、勝、お松さんを陸まで連れてって上げろ」
「よし来た」
水手の勝が威勢よく返事をしました。お松は伝馬に乗って岸へ行くために通い口から出直して、伝馬に乗るべく元船を下りて行きました。その後で船頭、親仁、水手、舵手らが、
「なるほど、宇治山田の町ではこのごろ火の用心が厳しいということだ、山へ逃げ込んだ悪者が火をつけに来るといって、廻状で用心していたっけ、ことによるとその火つけの悪者でも追い込んだかな」
「そうかも知れねえ」
「待て待て、汐合の水門から伝馬が一艘、無提灯でこっちへ来るようだぞ」
「お松さんの舟じゃあるめえな。エーと、宇津木様の舟が帰って来たのだろう」
「そうだろう」
「材木場を取捲いた提灯が一度に海辺へ出たぞ、海へ何か抛りこむ音がするようだ」
「海へ逃がしちゃあ、ちっと捕りにくいな、水が利く奴だと陸より海の方がよほど逃げいいから」
「やれやれ、御用提灯をつけた舟が二三ばい漕ぎ出したぞ」
「こりゃあ、向う岸の火事で済ましちゃいられなくなりそうだ」
この時、早櫓でもって、矢を射るようにこの若山丸の船腹近く漕ぎつけて来た一隻の伝馬は、篝火もなし、提灯もなし、ほとんど船の人も気がつかないでいるうちに、この船の腹のところへすうっと漕ぎつけたのでありました。
「おーい、船頭の助蔵どんはいるかい」
「うむ、俺をお呼びなさるは誰だえ」
「船大工の与兵衛だ」
「おお、与兵衛どんか」
「大急ぎで頼みてえことがある、通してもらいてえ」
「合点だ、それ梯子を下ろしてあげろ」
船大工の与兵衛老爺とこの船の船頭の助蔵とは、入魂の間柄と見えました。
船へ上って来た与兵衛は、助蔵の耳に口、
「助蔵どん、なんにも言わずに人を預かってもれえてえのだ」
岩まで行って見たけれども、お松はそこで兵馬に会うことができませんでした。
船番の人に言伝があって、帰るつもりであったけれども、山田の町にもう少し足を止める必要が起ったから帰れぬとのこと。それを聞いてお松は安心をして、元船へ帰るべくまた舟を漕ぎ戻してもらいました。
十五
山田の町を道庵先生が、今お伴を一人つれてのこのこと歩いています。道庵先生とだけでは、この土地の人にはよくわかるまいが、下谷の長者町へ行って十八文の先生といえば誰にもわかるのであります。
「先生、お薬礼はいくら差上げたらよろしゅうございましょう」と聞くと、「あ、十八文置いて行きな」と答える、それで十八文の先生、一名、安いお医者さんで有名なのであります。この十八文のためには、与八と組打ちまでした騒動があるのであります。お松なんぞもこの先生のお蔭で命を取留めたのでありました。その道庵先生が一僕を召連れて、ほくほくと伊勢参りなんぞと洒落込んだのであります。
「仙公、今夜どこへ泊るべえな」
道庵はお伴を振返って酒臭い息を吹きかけました。道庵先生が酒臭い息を吹きかけているから天下が泰平なのであります。
「そうですな、千束屋か牛車楼あたりへドンナものでげす」
お伴の仙公は額を叩く。仙公という男は江戸から道庵先生がつれて来た、野幇間とまではいかない代物であります。道庵先生はこの仙公がお気に入りというわけでもなんでもなく、伊勢参りに出かけたくなっている矢先へ、ぜひお伴を仰せつけられたいものでとか何とか言って来たものだから、よし、つれてってやるというわけで、引張って来たものであります。
「俺ゃ、そんなところはいやだ」
道庵先生の駄々。
「お嫌いでげすか。先年はあすこで弥次郎兵衛喜多八の両君が、首尾よく大失敗をやらかして、みんごと江戸っ児の面へ泥を塗ってしまったところでげす、そこでこのたびは道庵先生と仙公とが相提携して、その名誉回復なぞはいかがでございますな、ぜっぴお伴を致したいものでげす」
「弥次と喜多が器量を下げたのは、あすこかい。よし、そう聞いちゃ俺も道庵だ、奮発する、十両も奮発して大いに遊ぶ」
「それは頼もしいことで。しかし先生、十両とくぎって奮発なさるのがおかしゅうげすな、トテモ江戸っ児の腹を見せるんでげすから、百両とか千両とかおっしゃっていただきたいものでげすな」
「ばかを言え、俺は十八文の先生だ、勿体なくってそんなに金が使えるか」
「これは恐れ入りました」
「十八文の先生の、俺は道庵だ……」
「困りましたな、先生、そう十八文十八文とおっしゃられたんでは、きまりが悪くって」
「ナニきまりの悪いことがあるものか、盗みも隠しもしねえ、十八文の先生は俺だ、薬礼を十八文ずつ取って、その金をチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、十八文がどうした」
「わかりましたよ、わかりましたよ、ああ冷汗が出ちまった」
仙公としては、これで大いに江戸っ児で納まって行きたいところなのであります。それを道庵先生が十八文十八文というものだから、自分までが安く見られるような気がして、弱りきって山田の町を歩いて行くのであります。
道庵先生と仙公とはこうして山田の町を歩いていたが、途中で道庵先生がふいと一軒の店へ立寄りました。その店は提灯屋。
「こんにちは、提灯を一つこしらえてもらいてえが」
「へい、おいでなさいまし」
「提灯の安物を一つ」
「提灯は、小田原でございますか、ブラでよろしゅうございますか、弓張に致しますか、それともまた別にお好みでも」
「ブラがいいね、ブラ提灯のなるだけよくブラブラするブラっぷりのいいやつを」
提灯屋は、先生酔ってるなと思っておかしがると、道庵先生は店先へ腰をかけてしまいました。仙公も仕方がないからその傍に立って、今こんなところで提灯を誂えなくてもよかりそうなものをという面をしています。
「仙公や、提灯がなくては何かにつけて不自由だから、ここで一つ仕込んで行くのだ、お前、好いのを見立てな」
「いろいろ出来合いがございます、お好みによってお印を即座に入れて差上げます」
「先生、このブラ提灯のブラ下り具合が乙でげすから、これに致しやしょう」
「よしよし、それにしよう」
「そうして、お印はどう致しましょう」
「先生の御紋は何でございましたっけね」
「定紋なんぞ付けるには及ばねえ、そこんところへ十八文と書いてくんな」
「また始まった」
「十八文と入れますんでございますか、ここへ、ただ十八文だけでよろしゅうござんすか」
提灯屋はおかしな面をして道庵先生の面を見上げる。
「そうだ、十八文でよいのだ」
「先生、およしなすった方がようござんすぜ」
仙公は苦り切っている。
「ナニ構わねえ、俺が承知だ」
簡単な文句ですから、提灯屋は手提のブラ提灯へ早速「十八文」と入れてしまいました。
「さあ、仙公、これをつるして歩け」
「驚きましたね」
「驚くことはない、提灯が取って食おうと言やしまいし」
「それじゃあ先生、こうして畳んで懐中へ忍ばせて持って参ることに致しやしょう」
「ばかを言え、こうして吊るして歩くんだ、これから蝋燭屋へ行って百目蝋燭の太いのを買ってやる」
「冗談じゃありません、昼日中、提灯をつけて宇治山田の町を歩けるもんですか」
「ばかを言え、暗いところを提灯をつけて歩く分にゃ誰だって歩く、日中、提灯を点けて歩くからそこに味わいがあるのだ」
「あんまり味わいもありませんねえ」
「ぐずぐず言わずに早く歩け」
「弱ったなあ」
「弱ることはねえ、貴様はたいこもちの出来損ないだ、それがここでちょうちんもちに出世したんだ。有難く心得て持って歩け」
「先生、提灯はようござんすが、この十八文という文句を見ると、しみじみと情けなくなりますなあ」
「なんで十八文が情けねえ」
「だって先生、十八文じゃあ、あんまりあたじけねえ」
「馬鹿野郎」
道庵先生は仙公の頭を一つぽかりと食らわせました。
「こりゃ驚きましたねえ、なんぼ拙が仙公にしたところで、お打ちなさるのは酷うげすな」
仙公は頭を抑えて不平を言う。
「打ったがどうした、十八文は俺の看板だ、その看板を情けねえの、あたじけねえのケチを附けやがって、太え野郎だ」
道庵先生はプンプン憤っています。
「そりゃあね、先生、なるほど先生は薬礼を十八文ときめてお置きなさる、それは結構なことでございます、そりゃあまあ、それでようございます、ようございますけれども、なにも旅へ出てでございますな、そこでやたらに十八文十八文とおっしゃって、拙に冷汗をおかかせなさるには当るまいじゃあございませんか。それもまあようござんす、拙がひとり胸に納めていりゃあ、それで世間の人は何も知りませんや、そう思って無念を怺えて忍んでおりますといい気になって、提灯へまで十八文と書いて、それを昼日中、持って歩けというのは、なんぼなんでもあまり情けねえじゃあござんせんか。いくら旅の恥は掻捨てだと申しましても、それじゃあどうも泣きたくなりますなあ」
「馬鹿野郎、ドコまで馬鹿だか、貴様の馬鹿さの底が知れねえ……」
「こっちも底が知れねえ……」
「なんだと」
「いいえ、なんでもございません。ねえ先生、こうして旅へ出て来れば、先生様は御番料を千俵もいただく御典医で、拙は蔵前の旦那衆というような面をしたって誰も咎める者はござんせん、ワザワザ十八文と書いて、暗闇の恥を明るみへ出さずとも……」
「なんだこの野郎、もう一ぺん言ってみろ」
「暗闇の恥を明るみへ出さずとも」
「さあ、また承知ができねえ」
「そうお怒りなすっちゃ話ができません」
「暗闇の恥とはなんだ、さあ仙公、いつ俺が暗闇の恥を明るみへ出した、さあ、それを言ってもらいてえ」
「だって先生、この十八文……」
「十八文がどうしたと言うんだ、俺は十八文の医者に違えねえ、十八文が十八文と言うのがなんで恥だ、さあ、それが聞かしてもらいてえ」
「そう理窟をおっしゃっちゃ困ります」
「なにも理窟を言うわけじゃねえ、十八文が十八文で、十八文で暮らしを立てて、その十八文の中からチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、それを思うと十八文様々だ、有難くって涙が溢れらあ、十八文のおかげでこうして俺は伊勢参りにも来られるし、うまい酒の一杯も飲めようというものだ、その冥利を思えば十八文様に黙っていちゃあ済まねえ、それだから提灯へおうつし申して御一緒に大神宮様を拝ませようという了簡なんだ、それを貴様は情けねえの、あたじけねえの、ケチをつけやがって、承知しねえからそう思え」
「それはそれに違いありませんがね先生、そう物事をアケスケにやってしまっては実も蓋もありませんね、たとえ十八文にしたところで、百両百貫のような面をして……」
「まだわからねえ、この野郎、言って聞かせてやる、恥というのはな、学問のねえ奴があるような面をしたり、銭のねえ奴があるような面をしたり、薄っぺらな奴が厚っぺらの面をしたり、そんな奴が恥といえば恥なんだ、十八文はちっとも恥でねえ」
「左様ですかねえ」
「さあ持って歩け、ちょうちんもちというやつはな、貴様のような薄っぺらな人間でも大臣大将の先に立って歩けるんだ、増長しちゃいけねえぞ、手前がエライから先に立てるんじゃあねえ、お提灯様のおかげだぞ、手前のような野郎でさえそれを持てば、道庵先生の先へ立って歩ける、さあさあ、有難く心得て持って行け、持って行け」
仙公は泣きそうな面をして十八文の提灯を取り上げると、提灯屋の者は腹を抱えて笑いました。
仕方がなしに仙公は十八文の提灯をぶら下げ、道庵先生はいい気になって山田の町を通って行くと、町の中程で、
「先生、道庵先生じゃございませんか」
大きな宿屋の二階から呼び留める声。
「おや」
道庵先生見上げると、品のいい切髪の美人が欄干のところに立って、こっちを見て笑っていますから、
「やあ妻恋坂の女将軍!」
と言って先生は二階を見上げて立ち止まって、
「こちらに御逗留か」
「先生も御参宮?」
「はいはい」
「お宿は?」
「宿はまだきまらねえ」
「そんなら、ここへお泊りなさい、お相宿を致しましょう」
「そりゃ有難い」
「先生、そりゃ何です、そのお提灯は」
「はは、これこの通り」
道庵先生は大自慢で、いま買立ての提灯を仙公の手から取って二階の美人に見せました。
「十八文! いやですねえ」
「こいつも話せねえ」
「みっともないから、そんな物を持って歩くのをおよしなさい」
「それでもこの野郎が持って歩きたいというから、わざわざ持って歩かせるのさ、この野郎は仙公といって……」
「先生、よけいなことを言わなくてもいいじゃありませんか、早く行きましょう」
「さあ行こう」
仙公は女の手前、道庵先生がどんなことを喋り出すか危険でたまらないから、袖を引っぱって早く連れ出そうとしました。
「あばよ」
道庵は二階の美人を振向く。
「待っていますから、早く行っていらっしゃい」
仙公に担がれるようにして道庵はようやく小田橋のところへ来ると、橋の袂へ寄っかかって好い気持に寝込んでしまいました。
「おや、先生、こんなところへ眠ってしまっちゃいけませんねえ、おやおや、もうグウグウ鼾をかいている」
道を通る人は行倒れではないかと思って覗いて行くから仙公はきまりを悪がって、いくら起しても起きようとはしません。
「酔っぱらうといつでもこれなんですからやりきれません、決して怪しいものじゃございません」
仙公は往来の人へしきりに言いわけをして、
「先生、こんなところへ寝込んじゃあ困りますねえ、なんとかして下さい、仙公をかわいそうだと思うなら起きてやって下さい、もし先生」
「ムニャムニャムニャ」
十六
二階で見ていた切髪の女、それは伝馬町の旗本神尾の先代の愛妾お絹であります。お絹はお松を養って、今の神尾の家へ奉公に出した妻恋坂のお花のお師匠さんであります。
お絹は今、按摩に肩を揉ませながら、
「按摩さん、あの間の山のお玉とやらの詮議は、どうなりました」
「へえ、あの一件でございますか、あれはあなた、捉まりましてございます」
「エエ、捉まった? あの備前屋とやらで賊を働いた女の子が」
「いいえ、お玉の方はどこへ逃げたやら行方知れずでございますが、それと相棒の米友という奴が大湊の浜で捉まりましたそうでございます」
「米友というのは、このあいだ竿を振り廻して古市の町を荒した網受けの小さな男だね」
「エエ、そうでございます、それが大湊の浜辺へ海から泳ぎ着いたところを、隠れていた役人が大勢して、やっとのこと、生捕ったそうでございます」
「それで、泥棒の罪は白状したのかね」
「ところが、剛情な奴で、お玉の行方も申し上げなければ、お玉に手引をさせて自分が盗んでいながら、自分の盗んだことはにも白状をしないので、お奉行所でもてこずっているそうでございます」
「では、その米友という小男は、どうしても自分が盗まないと言うんだね」
「左様でございますとも、自分も盗みなんぞをした覚えはないし、お玉だって決して盗みをするような女ではないと、あべこべに啖呵を切ってお役人たちをまくし立てているそうでございます」
「そうしてみると、ほんとにあの二人が盗ったわけじゃないんだろう」
「なに、それはもう証拠が上っているんでございますから仕方がありません、お玉の家にお侍衆の印籠もあれば、それにあんなところにあるべきはずでない二十両というお金もあったんでございますから。ことによると二人がグルでやったのかも知れません、そうでなければ米友がお玉を隠し廻るはずがないのでございますからな」
「どうもその印籠やお金が女の子の家に転がっていたというのは怪しいけれど、わたしはどうも、あの二人の仕事ではなかろうと思っている」
「大きに……この町でも二通りの説がございまして、お玉や米友は決して盗みをするようなやつらではないというものと、でも証拠が上っている以上はあいつらの仕事かも知れないとこう言っているのと、半々なのでございます」
お絹の伊勢へ来たのは一人ではありませんでしたが、今は一人で残っているのでありました。その連れというのは、番町の神尾の邸へ集まる例の旗本の次男三男のやくざ者が五人、それにお絹ともに女も三四人まじっていたのでありました。最初の晩、備前屋でお玉を呼んで間の山節を聞いた若い侍たちというのはそれらの連中で、そこですっかり持物を盗られてしまったというのもそれらの連中でした。お絹の一人だけ後に残った理由としては、この盗難の跡始末を見届けて行きたいということが一つでありましょう。
按摩が帰ると薄化粧をして、身なりを念入りにととのえた、お絹のあだっぽい被布の姿はこの宿屋から出て、酔っぱらいのお医者様が来たら部屋へ通して酒を飲ませておくように宿へは言置きをして、自分は直ぐ戻るような面をしてどこへか出かけて行きました。
十七
噂の通り米友は大湊の浜でつかまってしまいました。
竿を持たせてこそ米友だけれど、素手で水の中を潜って来たところを折重なって押えられたのだから、めざましい抵抗も試むることができないで縄にかかってしまいました。
いろいろに調べられたけれどもついに白状しません。白状すべきことがないから白状しないのを、それを剛情我慢と憎まれて、よけいに苛められるものですから、米友は意地になって役人をてこずらせてしまいました。
お玉の家にあった印籠と二十両の金とがただ一つの証拠となって、それについて弁明すべきお玉がいないのだから、調方の有利に解釈されて、米友にはいよいよ不利益な証拠になってしまいました。
そこで米友は、ついに盗人と、それから町を騒がしたという二つの罪でお仕置を受けることになりました。
縄がキリキリと肉へ食い込んで、身体の各部分が瓢箪のようになっている米友は、隠ヶ岡へ引っぱられて行く道で、
「米友が来る、米友が来る」
宇治山田の町では、縛られて通る米友を見ようとて道の両側へ真黒に人立ちがしました。
米友はこれから隠ヶ岡というのへ引っぱられ、お仕置に会うのであります。
宇治山田の神領では血を見ることを忌むから、刑罰の人を殺すには刃を用いないで、隠ヶ岡から地獄谷というのへ突き落してしまうのが掟でありました。
引かれて行く米友を見物している町の人々のうちには、それを気味悪く思っているのもありました。たぶん冤罪であろうとひそかに同情を寄せているのもありました。それらの見物の中に一人、旅の姿をした男が笠を傾げて、人混みの中からとりわけて念を入れて米友の姿を見、それに対する評判を聞いているものがありました。その旅人は一夜に五十里を飛ぶ怪足の七兵衛に相違ありません。
「盗人でございますって?」
七兵衛は自分に最も手近で、そうして最もよく話をしてくれそうな見物人の一人をつかまえてこう尋ねました。
「ええ、盗人でございます」
「何を盗んだので」
「お侍衆のお金と持物をそっくり」
「どこでやりました」
「古市の備前屋というので」
「備前屋で?」
「お侍衆が音頭を見物しておいでになる時に」
「あの男が?」
「左様」
「ほんとうに、あの男がやったのでございますかね」
「証拠があるんでございます」
「その証拠というのは?」
「梨子地の印籠に二十両の金」
「はてな」
「あいつのほかに相手が一人あるんでございます」
「相手というのは?」
「それは女でございますよ」
「女?」
「間の山へ出ていたお玉という女」
「へえ、そりゃ……」
「それで女の方は捉まらず、あいつだけが捉まったので」
「それで、なんでございますか、もう白状したのでございますか」
「剛情者ですから白状しないんでございます、けれども証拠がありますから」
「それで、どうなるんでございます」
「これからお仕置になるんでございます」
「お仕置に?」
「隠ヶ岡というのへ連れて行って、あれから下へ突き落すのでございます」
「は――て」
「こちらは御神領でございますからお仕置にも血を見せないようにして、それで隠ヶ岡から下へ突き落すのでございます」
「は――て」
七兵衛は過ぎて行く米友の後ろ影を伸び上って見ていましたが、
「そいつは困ったことが出来た」
「何でございます」
「いえナニ、白状しないものをお仕置にかけて、もし本当の盗人が出た時には困りましょうなあ」
「それは困りましょうなあ」
「なんですか、その隠ヶ岡のお仕置場というのは誰でも見せてくれますか」
「山の下までは行けますがね、お仕置場のところへは入れませんや」
「へえ」
「しかし、山の下を廻って行けば行けないことはござんせんがね、そこは昼もお化けの出る古池で、人間の骨がゾクゾクしていますから、とても行かれませんや」
「左様でございますかね」
「それからその隠ヶ岡の下では、拝田村の芸人がたくさん集まって、あの男の命乞いをするといって騒いでいるそうでございますが、もうこうなってはお取上げになりますまいよ」
「左様でございますかね」
「あいつも根は正直者なんですが、ひょいとした出来心であんなことをしてしまったのでしょう、かわいそうといえばかわいそうですよ」
「それは気の毒なことをしました、どうも大きに有難う」
七兵衛はこれだけの話を聞いて、なんと思ったか、来かかった道を逆に帰って、米友のあとを追うて、見え隠れにどこまでもついて行き、
「こいつには困った、まだまだ俺もここいらで年貢を納めたくはねえのだが……」
七兵衛がこうして隠ヶ岡の下まで来ると、不意に一頭の猛犬が現われて烈しく吠えかかりました。
「叱ッ、叱ッ」
石を拾って打とうとするとその手許へ犬が飛んで来ます。
ムク犬は、どこをどうして来たか、ゲッソリと痩せていました。飛びかかる足許さえ危ないくらいに痩せていましたけれども、猛犬はやはり猛犬でありました。
「叱ッ、叱ッ」
七兵衛は先を急ぐことがあるのであります。落ちていた竹の棒を拾って一打ちと振りかぶると、犬はその手へスーッと飛んで来ました。あぶない、その手を渡って来て肩先へ噛みついた――七兵衛が少しく身をかわしたから、ムクの歯は七兵衛の肉へは透らないで、七兵衛の合羽の上を食い破ってしまいました。
「こん畜生、狂犬だな」
七兵衛は合羽へ食いついた犬の首を抱えるようにして、力任せに後ろへ取って捨てる、痩せて弱っていた猛犬は七兵衛に後ろへ取って捨てられてと倒れたが、クルリと起き上って、二三歩退いて両足を前に合せて、そうしてじっと七兵衛の面を睨んでウォーと唸りつけていました。
その形相を見て七兵衛は、この犬が並一通りの狂犬ではないことを知りました。
「ムクだ、ムクだ、ムクが出たぞ、どこから出て来たのだろう」
早くも土地の人が騒ぎ立てました。
先日、古市の町を騒がしたムク犬は、あれっきりどこへ行ったか行方知れずになってしまったのを、ここで偶然に姿を現して、また土地の人を騒がせました。
「どこにいたんだろう、あの犬はありゃ、尾上山の後ろに隠れていたんだぜ」
「痩せてるな、もとは熊のように肥っていたが今は狼みたようだ」
「あの旅人は、ありゃ何だ、見慣れない人だが、気の毒だ、お役所へ沙汰をしようじゃないか、あん畜生はホントに狂犬になったんで通る人の見さかいもなく、ああして噛みつくんだ、うっかり傍へ寄ると危ねえ、早くお役所へ沙汰をしようじゃないか」
お役所、お役人という声を聞くと、
「エエ、めんどくさい」
七兵衛は急に焦れったがって、飛びかかって来た犬の眉間のところを、拳を固めてガンと打ち据えて、自分は身を飜して一散にもと来た方へ走せ出しました。七兵衛に打たれて後ろへ飛び退いたムクは、起き直るや、驀然に七兵衛の跡を逐いかけます。
気の毒な米友は、この騒ぎのうちに隠ヶ岡から地獄谷へ突き落されてしまい、役人も非人も刑の執行を済まして、今ゾロゾロと山を下って帰って来るところであります。
十八
道庵先生は宿屋をうろつき出してしまいました。どうして、先生の気象でじっとしていられるものではありません。
それにお絹の宿屋で上等の酒を飲ませられたものだから、有頂天になってしまって、ひょろひょろと宿を出かけました。
ただ好い心持で歩くのですから、どこへどう行くかわかったものではありません。そのうちに人家を離れて、河沿いの堤みたようなところへ来ると、グンニャリとそこへ倒れてしまいました。
倒れたきりで仰向けに臥て酔眼をトロリと見開いて見ると、夜気爽かにして洗うが如きうちに、星斗闌干として天に満つるの有様ですから、道庵先生、ズッと気象が大きくなってしまいました。
「ああ、よい心持だ、長安の大道、酒家に眠るという意気はこれだな、ナニ、ここは長安の酒家じゃねえ、酒家でも堤の上でもそんなことは構わねえ、エート、天子呼び来れども船に上らずか――俺のところへはまだ天子様からお迎えは来ねえが、大名旗本にはこれでお得意が大分あるんだよ、大名旗本呼び来れども診察に行かずなんて、そんな野暮なことは俺は言わねえ、大名旗本であろうとも、乞食非人であろうとも、十八文よこす奴はみんな俺のお得意様だからどこへでも行ってやる、矢でも鉄砲でも持って来い」
先生、ひとりで大気焔を上げている。
「どうして世の中がこう面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文できまりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと言って十八文より安くもねえ、安いと高いは買いようによる」
なんだかロジックが変になってきました。道庵先生はいよいよ好い心持でウトウトとしていると、三味線、胡弓と太鼓に合せた伊勢音頭が、河波を渡って道庵先生のウトウトしかけたところへ、それがとうとうたらりと流れ込むので、先生の好い心持を、またもう一層よい心持にして、ついにそのままグッスリと夢に入ってしまいました。
暫くすると、このせっかくの好い心持になっていた道庵先生が、
「ア、痛ッ」
いやというほど頭を蹴飛ばされてしまったものです。
十八文で有頂天になっていた先生も、頭を蹴飛ばされればやはり痛いから、痛ッと言ってみたが、頭を抑えるのも気が利かないと見えて、申しわけに痛いと言っただけでまた眠ってしまおうとすると、その上へどさりと折重なった者がありました。いくら道庵先生でも踏んだり蹴ったりでは黙っていられない。
「誰だ、誰だ」
周章て跳ね起きると、
「どうも相済みません、どうか御免なすって」
折重なって倒れかかった人は、低い声をして丁寧に道庵先生にお詫びを申します。
「気をつけて歩きねえ」
「どうか御免なすって」
暗い中を通りかかって、ふと道庵先生の身体に躓いて倒れたものと見えました。おりからの夢を破られて、道庵先生の酔いも少し薄らいでいたところへ、夜の河風が襟元に吹き込んだもんだから、眼がさめて大きな欠伸をしました。見ると、一人の老人らしいのが小さな男を背中に引っかけて、しきりに道庵先生にお詫びをする。
「お怪我はございませんでしたか、ついこの通り病人を抱えておりますものでございますから」
「別に怪我もねえが、ずいぶん驚いたよ」
「どうも相済みません」
老人はお詫びを言って、道庵先生をとりなして、あえぎあえぎ向うへ行こうとするのを、
「おい、待った待った」
道庵先生が呼び止めました。
「何か御用でございますか」
「今お前さんは、病人を抱えていると言いなすったな、病人をつれてどこへ行くんだい」「へい、あの、お医者様のところまで……」
「お医者様? お医者様ならここにいる、ここにいる」
「へえ……」
「お医者様ならここに一人いるよ、ごく安いのが一人いるよ」
まだまだ先生も、決して酔が醒めてはいないのでした。
小男を背中へ引っかけた老人は、暗い中から透して見ると、なるほどその人は茶筅頭をして、お医者さんの恰好をしているから、
「あなた様はお医者様でございますか」
「こう見えても医者は医者だよ、医者は医者だが薬箱持たぬ」
医者には違いないらしいが酔っていることは確かでありました。酔っていてもなんでも医者でありさえすれば、急病人にとっては渡りに舟であります。行きかけた老人は、幸いここで見てもらおうか、どうしようかと暫らく思案の体であったが、すぐに立戻って、
「急病人でございますが、ちょっと見ていただきたいもので」
「おっと承知、さあ、病人をここへ出したり出したり」
通りかけた老人も初めはなんだか薄気味悪く思ったようでしたが、道庵先生が至って気軽でその上に酔っていると見たものですから、安心したものと見えて、背にかけた小男をそこへ卸します。
「何だい、病気は」
「へえ……あの、癲癇でございます」
「癲癇? どれどれ、おや、まだ子供だな、いやそうでもない、大人かな、そうでもない、年寄みたようでもある、おかしな野郎だな」
道庵先生は、裸体で気絶している小男の身体に眼を擦りつけて一通り見て、
「冗談じゃねえ、こんな癲癇があるものかい、これは打身だ」
「ええ……」
「高いところから落っこったんだい、それもちっとやそっと高いところから落ちたんじゃねえ。野郎、喧嘩をしたな、喧嘩をして簀捲きにされて高いところから突き落されたんだ、これここに縄のあとがある、縄でギューギュー引括られて突き落されたんだ、人をばかにしていやがる」
「先生、それに違いありません、どうかお静かに願います」
「お静かに? よし、それでは静かにしてやる」
道庵先生は、わざと段違いの低い声をする。
「まだ脈はございましょうか、見込はございましょうか」
身体を一通り撫でてみた道庵先生が、
「ある!」
「ありますか」
「生きる!」
「ほんとに生き返りますか」
「大丈夫!」
「助かりますか」
「助かる!」
「どうか助けてやっておくんなさいまし」
老人は意気込む。
「あたりまえの野郎なら、助かりっこのねえところだが、この野郎のは助かるように出来ている」
「へえ」
「息を吹き返させるのは雑作はねえが、その前に痛みどころを繕っておかねえと、息を吹き返してからかえって苦しがる」
「へえ」
「まず肩胛骨が外れている、それで左の手がブラブラだ」
「へえ」
「頸椎には異状がない」
「へえ」
「胸脇の骨が折れて肺へでも触ろうものなら見込みはないが、そこにも異状がない」
「へえ」
「脳蓋といって頭の鉢を打ち割ればこれも望みはないが、幸いにその鉢の頭も無事だ」
頭の鉢というのを鉢の頭といってのけました。当人は気がつかないで澄ましていたが、傍の老人はこの場合にもおかしさを噛み殺さずにはいられませんでした。
「腰骨にも横骨にもこれまた異状はない、右の方の脛の骨が折れている」
「へえ」
「そのほか、身体中、処嫌わず打創かすり創だが、それらは大したことはない」
おかしなお医者さんだけれども、その診方の親切なこと、そうして暗い中で、どこがどう、ここがこうということを掌を指すように言ってみせるから、はじめは険呑がっていた老人が、そぞろに信頼の念を高めてしまいました。
「おい、お爺さん、この人をこうして押えておいで」
道庵先生は小男を半分起して、そのブラリとした左の手を持って腋の下へ指を当てがい、下の方へ締めつけると、ブラブラしていた手は忽ちもとのようにひっかかります。
懐中紙入を出すと、一挺の剃刀のようなものを引き出して、それで身体のあちらこちらを一寸二寸ずつ、スーッスーッと切って廻る。
「お爺さん、手拭を持っているかい、その手拭を河原へ行って濡らしておいで、絞らないでいいよ、それから、足へ捲く布が欲しいな、その三尺で結構、ナニ、晒を持って来たって、そんならなお結構」
道庵先生は折れた右足の脛を晒で捲く、濡らして来た手拭を頭と顔へ捲いて肩井を揉んで背を打つと、
「うーん」
「そうら生き返った」
「生き返りましたか」
「早く家へ連れて行って寝かしておけ、明日また俺が行ってやる」
「有難うございます、明日も来て下さいますか」
「行ってやるとも」
「有難うございます、大湊の船大工で与兵衛とお尋ねになれば直ぐおわかりになりますから」
「大湊の与兵衛……よし来た」
「それから先生、わたしがこうしてここで先生のお世話になったことはどうぞ御内分に。人に知られると困るんでございますから」
「安心しろよ」
道庵先生はまた堤の上へゴロリと寝てしまいました。
十九
お絹は、二見ヶ浦の海岸の清涯亭という宿の離れにつづいた四阿の中で、長いこと人を待っているのでありました。やがて、編笠を被って海岸伝いにやって来る一人の武士がありました。
武士は松林の中を歩んで来る、お絹は、それを迎えるように松林の中へ入る。武士というけれども、まだごく若い人のようであります。
「宇津木さん、ここよ」
若い武士は歩みをとどめて笠を傾げてこちらを見る。
「お前様は――」
「ええ、お松の仮親のわたくしでございます、さっきから待っておりました」
この武士は宇津木兵馬でありました。兵馬は呆れたような面をしてお絹を眺めたままで立っています。
お絹の方は、いっこう平気らしく、
「宇津木さん、さだめてまたかとお驚きなすったでしょう、けれどもね、今度は前とは違いますよ、前とは違って真剣にあなたにお話をして上げなければならないことがあるのですから」
「お前様は御身分柄にもないことをなさる、嗜まっしゃるがようござるぞ」
兵馬は苦りきって、なおお絹の面を睨めていると、
「そんな悪戯をするつもりではありませんでしたけれども、ついあなたのお姿を見たものですから、こんなことになってしまって」
兵馬の真面目になって苦りきっているのが、この女にはかえって面白いことのように見えるらしく、
「この間、古市の町で、背の小さい男が竿を振り廻していた時、それへ槍をつけたのは宇津木さん、あなたでしょう、運悪くそれをわたしが見ちまったのですよ。珍らしいところで珍らしい人に会って、わたしはなんだかゾクゾクと懐しくなってしまったものだから、あれからちゃんと、あなたの行方を突き止めていたんですよ、そうしてまたあの手紙を上げて、あなたをここまでお呼び申したのですよ。よく来て下さいましたね、ホホ」
自分が綱を引きさえすれば兵馬などはどうでもなるように、呑みきっている物の言いぶりでしたから兵馬は勃然として、
「お暇を申します」
袖を振って歩き出すと、
「そんなにお怒りなさるものじゃありませんよ、まさかわたしの名で手紙も出されませんから、七兵衛の名を借りてあなたをここまでお呼び申したのは、あなたからはお松やなんかの行方も聞きたいし、わたしからはぜひともあなたにお知らせ申したいことがありますから……」
兵馬はそんな言葉を耳にも入れず、さっさと行ってしまおうとすると、
「あの、宇津木さん、兵馬さん、島田先生は死にましたよ、あなたはそれを知ってますか」
この一語は兵馬を驚かさないわけにはゆきませんでした。
「ナニ、島田先生が亡くなられた?」
ズカズカと立戻ってしまいました。
「ソレごらんなさい?」
「島田先生が亡くなられたというのは、そりゃ真実か」
「どうですか」
「そりゃ偽りだ、出立の時まであの通り壮健でござった先生が……」
「偽りなら偽りでようござんす、御信用のない者にお話をしたって詰りませんから」
「そんなはずはない、嘘だ、偽りだ」
兵馬はそれを言い消してみたけれども、決して心が安んじたわけではありませんでした。まだ老病で死なれる歳ではない、また苟且の病に命を取られるような脆い鍛錬のお方でもない、いわんや刀刃の難によって命を殞すことのあり得べきお方ではない、もし先生が死なれたとすれば、病難、剣難のほかの、人間の手ではどうしても防ぎきれない天災によって殺されたと思うことのほかには想像が届かないのでありました。
「それは偽り、嘘にきまっている」
「あなたという人は、思いのほか不人情なお方ですねえ、現在自分のお師匠様が亡くなられたのにそれも知らず、せっかくそれを知らして上げようとするのをお耳にも入れず、それで武士道とやらが立ちますならば御勝手になさいまし……わたしは人柄がこんなで身を持ち崩してしまったから、真剣に言っても浮気に取られるのが口惜しい、わたしだって時と場合によれば、ずいぶんこれで涙脆いことがありますのよ。あの御徒町の島田虎之助先生とも言われるお方が、人手にかかってお果てなさるとは……」
「ナニ、人手にかかって?」
「そのお話を聞いた時は、わたしのようなものでも涙がこぼれましたねえ、あの先生がまあ……」
「島田先生が人手にかかって……いよいよそれは偽りじゃ、嘘じゃ、人手にかかって亡くなられる、そのようなはずがない、余人ならば知らぬこと、島田先生が人手にかかって――そんなこと、そんなことのあるべきはずがない、天地が逆さになったとて」
兵馬の舌がおのずから縺れる。
「それほどわたしの言うことを御信用なさらないのなら、それでようございます、もう何も申し上げますまい。なるほど、島田先生は人手にかかるお方ではない、今の世に尋常であの先生を手にかけるような手利はないにきまっている、それはあなたのおっしゃるまでもないこと、誰でも知っていますけれど、なにも刃物ばかりが人手ではなし……」
「そんならどうして先生が」
「毒ですよ、島田虎之助先生は毒を盛られておなくなりになりました」
「毒?」
兵馬の渾身の血が逆流するかと見えました。
「それだけお話し申し上げたら、もうわたしの役目も済みました、それではこれでお暇を致しましょう」
「ま、待って、もう暫く」
攻守勢いを異にしてしまい、兵馬はお絹の袖を捉えてはなさないのでありました。
「わたしのお呼立てしたことが、真剣でしたことか浮気でしたことか、それがおわかりになれば、わたしはもうお暇を致します」
「よく教えて下された、嘘か真か、そのような疑いを申していられることではない、お礼を申し上げまする」
兵馬の眼から涙が落ちる。
「いいえ、お礼では痛み入ります。ああ、これでわたしの心持が届いて嬉しい」
「どうか御存じならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」
「知っているだけは、お話し申しましょうとも。けれども、こんなところではお話をしにくいから、あれへ参りましょう、あの清涯亭という宿、あそこに申し付けてありますから、静かなところで、ゆっくりお話し申し上げたいと思います」
「いや、それは……」
兵馬はそれを躊躇しました。
ほどなく兵馬の姿は大湊の町の船着場へ現われました。あの場ではお絹を怒らせて袖を振り切ってここへ来てしまいました。
「兵馬さん」
お松は船の仕事着ではなく小綺麗の身扮をして、船着場の茶屋に待っています。
「今日はどちらへおいでになりました」
「二見の方へ」
「藪の中やなんかをお通りなさったらしい、こんなに草の実がついておりまする」
お松は兵馬の袴の裾についた草の実や塵を払ってやる。
「松林の中を無暗に歩いたものだから、ずいぶん息も切れました」
兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。
「あ、それからお松、今日はまた珍らしい人に会ったぞ」
「珍らしい人とおっしゃるのは?」
「お前の親類じゃ、当ててみるがよい」
「わたしの親類と申しましても……」
お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それらの記憶を呼び起すとあまり好い心持はしないのでした。
「それはお前にとっては怖い人ではない、どちらかと言えば懐しい人だ、懐しい人だろうけれど、油断はできない人だ」
兵馬はわざと廻りくどく言ってみせると、
「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人――もし本郷の伯母さんでは……」
本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、そのくせ口前のよい人。
「いや、そんな人ではない。言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」
「まあ、お師匠さんに?」
お松は、絶えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いて、そぞろに昔のことが思われてたまりません。この時、町の方からがやがやと噪がしい人声、
「いや、与兵衛さん、御苦労御苦労、もうここでよろしい」
それは仙公を連れて、船大工の与兵衛に送られた長者町の道庵先生でしたから、兵馬も驚いたが、お松の方がいっそう意外な感じがして、直ぐに呼びかけようとしていますと、道庵先生はお松の方には気がつかず、与兵衛に向って、
「もうここでよろしいから帰ってくれ給え。うむ、もうどちらも大丈夫、心配することはない。野郎の方は少々跛足になるかも知れないが、身体のところは間違いっこなし、薬は飲まなくっても放っておけば自然に癒る」
「へえ、どうも有難うございます、ほんとにどうも、全く先生のおかげさまで」
与兵衛は道庵の前へしきりに頭を下げる。
「それから、あの眼の方なあ、あの眼は野郎から見ると難物だからな。しかしまあ、ああしておけば十日や二十日は持つ、そのうち江戸へ出て来るというから、来たら拙者がところへよこしなさい」
「へえ、何から何まで有難うございます」
与兵衛は繰返してお礼を言います。
ここで道庵先生が、野郎の方は少々跛足になると言ったのはもちろん米友のことで、眼の方は難物だというのはたぶん机竜之助のことでありましょう。
さきの晩、与兵衛が伝馬で若山丸へ頼みに行ったのはお玉一人であって、竜之助は、やはり与兵衛の家に隠されているものと見なければなりません。
道庵も江戸へ帰るものと見えて、すっかり旅装束になっていました。その時にお松が、
「先生、道庵先生」
「おやおや」
「いつぞや、先生のお世話になりました江戸の本郷の……」
「ああ、そうであったか、それはそれは。やはりお前さんもお伊勢参りかな」
「いいえ……」
「道庵先生」
今度は兵馬が呼びかける。
あちらからも道庵、こちらからも道庵で、先生めんくらってしまい、
「おそろしく道庵の売れのいい日だ。お前さんはどなたでしたかね」
「浪士に追われて、先生のお宅へ走り込んだことがありました、その節はえらいお世話になりました」
「そんなこともあったけかな……お前さんもなにかね、伊勢参りかね」
「いいえ違います、拙者は別に用向があって上方から――して先生はこれからどちらへ」
「拙老は伊勢参りの帰りじゃ、この与兵衛さんという人の家にお世話になってな、せっかくの好意だから、舟で桑名まで送って貰って、それから宮へ行こうというのだ、お前さんも江戸へお帰りなら、一緒に舟で行こうではないか」
「私共は、あの大船に乗るようにきまっておりますから」
「左様でござるか。それでは舟の出るまで、ドレ一ぷく」
道庵先生の一行は、与兵衛の仕立ててくれた舟で桑名から宮へ向う。
兵馬とお松とお玉とを乗せた若山丸は、十六反の帆を揚げて大湊の浜を船出する。
米友の身体も道庵先生の力によって旧に復するし、机竜之助もまた計らずも道庵先生の力によって幾分か視力を回復したらしい。七兵衛はムク犬と一緒にどこへか駈けて行ってしまった。やくざ旗本を先へ帰して、ひとり残ったお絹も、そういつまで遊んでいられるものでないから帰りの仕度をする。これらの連中の心々はそれぞれ違うけれども、そのめざして行くところは、みんな東の空であります。