あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)


自序

 何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。 それからその次へ。
 私がこゝに最近二ヶ年間の作品を随処に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として読んでもらママためにではない。 私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるから、その時の参考に。 同じ意味で父と母へ。 もう一つに、色々と友情を示して呉れた友人へ、しやうのない奴だと思つてもらつてしママうために。

尚、表紙の緑色のつや紙は間もなく変色しやぶけたりして、この面はゆい一冊の本を古ぼけたことにするでせう。


三月の日

 昼頃寝床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。 何んといふわけもなく気やすい気持ちになつて、私は顔を洗ママはずにしまつた。
 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。
 机のひき出しには白銅が一枚残つてゐる。
 障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。


五月

 鳴いてゐるのは※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)だし、吹いてゐるのは風なのだ。 部屋のまん前までまはつた陽が雨戸のふし穴からさし込んでゐる。
 私は、飯などもなるつたけは十二時に昼飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。 昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。 そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく満足してゐるところであつた。

 から瓶につまつてゐるやうな空気が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに桜が咲いてゐる。 雨戸を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。
 筍を煮てゐると、青いエナメルの「押売お断り」といふかけ札を売りに来た男が妙な顔をして玄関に入つてゐた。 そして、出て行つた私に黙つて札をつき出した。 煮てゐる筍の匂ひが玄関までしてきてゐた。 断つて台所へ帰ると、今度は綿屋が何んとか言つて台所を開けた。 半ずぼんに中折なんかをかぶつてゐるのだつた。 後ろ向きのまゝいゝかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戸を開けたまゝ行つてしまつた。


秋冷

 寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗ママはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。 私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。


ひよつとこ面

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。 此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。 雨が降つてゐた。 そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。 勿論リンは鳴るのであつた。 このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ママづつ頭をぶつつけてゐるのだ。 火鉢、湯沸し、ママぶとん、畳のやけこげ。 少しかけてはいるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。 しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。 夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。 そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。


詩人の骨

 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。 他の人から私が三十一だと思つてゐてもらママほかはないのだ。 親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。 又、今年と去年との間が丁度一ヶ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。 几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに残らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と称び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覚えこんでゐたつていゝのだ。 私は来年六つになるんだと言つても誰もほんとママ[#「ママ」はママ]にはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみママうともせずに暗算で私の三十一といふ年を数へ出してしまママだらう。
 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾万年かの後にその頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を払ママはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。 そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。


年越酒
 
 庭には二三本の立樹がありそれに雀が来てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰ママにしてみてもありふれたことだ。 冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。 俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。 「ツェッペリン」が飛んで来たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散歩」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。
 今日は今年の十二月の末だ。 俺は三十一といふ年になるのだ。 人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。 そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。 しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。
 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出会つた」と俺に挨拶した男があつた。 俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。 俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、実際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも気づかずにゐたのだ。 これはいけないといふ気がしたが、何がいけないのか危険なのか、兎に角その人ごみが一つの同じ目的をもつた群集であつてみたところが、その中に知つている顔などを考へることは全く不必要なことではないか。 人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。 一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。 そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。




 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。 庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。 雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。 私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。 それなのになんといふ迂濶なことだ。 私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんママうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言ママきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計位ママはわざわざネジを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。 人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんママうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。 ――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。 私はつまらなくなつてゐた。 気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。 ちり紙をママめてこすると、そこは赤くなつた。


第一課 貧乏

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。 檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。 見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。 縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。 そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。
 私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪ママねて来た。 何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。 私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。 どこかで遠くの方で※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)も鳴いてゐる。 誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してママ可笑しくなつた。


へんな季節

 次の日は雨。 その次の日は雪。 その次の日右の眼ぶたにものもらひが出来た。
 午後、部屋の中で銭が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。
 少しでも払ママママと思つてゐた肉屋と酒屋はへんに黙つて帰つて行つた。
 私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。 ないものはないのであつた。 盗つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。
 天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。

 次の日いくぶん眼ぶたの腫がひいてゐた。
 朝のうちに陽が一寸出てすぐ曇つた。
 庭の椿が咲きかけてゐた。
 湯屋へ行くと、自分と似たやうな頭をした男が先に来て入つてゐるのだつた。 昼の風呂は湯の音がするだけで、いつかうに湯げが立たない。 そしてつゝぬけに明るい。 誰かゞ入つて行つたまゝの乾いた桶やところどころしかぬれてゐないたゝきが、その男とたつた二人だけなので私の歩くのにじやまになつて困つた。 私よりも若いのに白く太つてゐるので、湯ぶねを出ると桃色に赤くなつたりするのだつた。
 湯屋を出ると、いつものやうに私のわきを自転車が通つた。
 縁側に出て頸にはみ出してゐる髪をつんでゐると、友達が訪ママねて来た。 そして、金のない話から何か発明する話になんかなつた。
 友達が帰ると、又友達がやつて来た。 十二時過ぎて何日目かで風呂に入るつもりで出かけて来たのが遅くなつたと言つて、帰りに手拭と石鹸をふところから出して見せた。
 あくびが出て、糊でねばしたやうに頭の後の方が一日中なんとなく痛かつた。 一日が、ながい一時間であつたやうな日であつた。
 どしや降りになる雨を床の中で聞いてゐると、小学校にゐた頃の雨の日の控室や、ひとかたまりになつて押されて二階から馳け降りる階段の跫音が浮かんだ。 寝てゐる足が重く、いくども寝がへりをして眠つた。
 風が吹いて、波頭が白くくづれてゐる海に、黒い服などを着た人達が乗つてゐるのに少しも吃水のない、片側にだけ自転車用車輪をつけてゐる船が、いそがしく砂地になつてゐる波打際へ着いたり沖の方へ出て行つたりしてゐるのを見てゐると、水平線の黒い雲がひどい勢ひでおほママかぶさつてくるのであつた。 私はその入江になつた海岸の土堤で、誰か四五人女の人なども一緒に蒲団をかぶつて風を避けてゐた。 そしてしばらくして、暗かつた蒲団の中から顔を出すと、もうそこには海も船もなくなつてゐて、土堤にそつて一列に蒲団が列らんでゐるのであつた。
 明け方、小ママさな地震が通つて行つた。
 雨はまだ朝まで降りつゞけてゐた。 桜草の鉢をゆうべ庭へ出し忘れてゐた。
 朝の郵便は家賃のさママそくの葉書を投げこんで行つた。
 もうひと頃ほど寒くはなくなつた。
 新聞は、雨の街を人力車などの走つてゐる写真をのせてゐた。
 夕飯にしママうかどうしママうかと思つてゐると、――暖かいには暖かいが、と隣家のふたをあけたまゝのラヂオが三味線をひいた後天気予報をやり出した。
 私は便所に立つて、小降りのうちに水をくんだ。 そして、塩鮭と白菜の漬物を茶ぶ台に揃へて、その前にきちんと坐つた。
(暖かいには暖ママかいが、さて連日はつきりしない、北の風が吹いて雨が降りつのる。 この天候は日本の東から南の海へ横たはつてゐる気圧の低い谷を、低気圧がじゆずのやうに連らなつて進んでゐるためで、まだ一両日はこのまゝつゞく)――と、ラヂオは昨日と同じことを言ふのであつた。


学識

 自分の眼の前で雨が降つてゐることも、雨の中に立ちはだかつて草箒をふり廻して、たしかに降つてゐることをたしかめてゐるうちにずぶぬれになつてしまふことも、降つてゐる雨には何のかゝはりもないことだ。
 私はいくぶん悲しい気持になつて、わざわざ庭へ出てぬれた自分を考へた。 そして、雨の中でぬれてゐた自分の形がもう庭にはなく、自分と一緒に縁側からあがつて部屋の中まで来てゐるのに気がつくと、私は妙にいそがしい気持になつて着物をぬいでふんどし一本の裸になつた。
 (何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。 何がこれなればなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。 だが、「裸なら着物はぬれない――」といふ結論は、誰かによつて試ママされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。
 私はあまり口数をきかずに二日も三日も降りつゞく雨を見て考へこんだ。 そして、雨は水なのだといふこと、雨が降れば家が傘になつてゐるやうなものだといふことに考へついた。
 しかし、あまりきまりきつたことなので、私はそれで十分な満足はしなかつた。




 夕暮になつてさしかけたうす陽が消え、次第に暗くなつて、何時ものやうに西風が出ると露ママに電燈がついてゐた。 そして、夜になつた。 私は雨戸を閉めるときから雨戸の内側にゐたのだ。 外側から閉めて、何処かへ帰つて行つたのではないのだ。
 毎月の家賃を払ふといふので、貸してもらつてゐる家を自分の家ときめてゐる心安さは、便所はどこかと聞かずにもすみ、壁にかゝつてゐるしわくちやの洋服や帽子が自分の背丈や頭のインチに合ひずぼんの膝のおでんのしみもたいして苦にはならぬが、二人の食事に二人前の箸茶碗だけしかをそろへず、箸をとつては尚のこと自分のことだけに終始して胃の腑に食物をつめ込むことを、私は何か後めたいことに感じながらゐるのだ。 まだ大人になりきらない犬が魚の骨を食ひに来る他は、夜になると天井のねずみが野菜を食ひに出てくる位ママのもので、台所はいつも小さくごみつぽく、水などがはねて、米櫃のわきにから瓶などがママらんでゐる。 又、一山十銭の蕗の薹を何故食べぬうちにひからびさしてしまつたかとは、すてるときに一ツが芥箱の外へころがり出る感情なのであろうか。
 夜の飯がすんで、後は寝るばかりだといふたあいなさでもないが、私は結局寝床にママいつて、夜中に二度目をさまして二度目に眠れないで煙草をのんでゐたりするのだ。 ときには天井の雨漏りが寝てゐる顔にも落ちてくるのだが、朝は、誰も戸を開けに来るのではなくいつも内側から開けてゐるのだ。 眼やになどをつけたとぼけた顔に火のついた煙草などをくはへて、もつともらしく内側から自分の家のふたを開けるのだ。


おまけ 滑稽無声映画「形のない国」の梗概

 形のない国がありました。 飛行機のやうなものに乗つて国の端を見つけに行つても、途中から帰つて来た人達が帰つてくるだけで、何処までも行つた人達は永久に帰つては来ないのでした。 勿論この国にも大勢の博士がゐましたから、どの方向を見ても見えないところまで広いのだからこの国は円形だと主張する一派や、その反対派がありました。 反対派の博士達は三角形であると言ふのでしたが、なんだか無理のありさうな三角説よりも円形説の方がいくぶん常識的でもあり「どつちを見ても見えないところまで云云……」などといふ証明法などがあるので、どつちかといふと円形だといふ方が一般からは重くみられてゐました。 円にしても三角にしても面積をあらはさうとしてはゐるのですが、確かな測量をしたのではないのですからあてにはなりませんでした。 或る時、この二つの派のどちらにもふくまれてゐない博士の一人が、突然気球に乗つて出来るだけ高く登つて下の方を写真に写して降りて来てずいぶん大きなセンセイシヨンを起しましたが、間もなく、その写真に写つた馬のやうな形は国ではなく、雲が写つたのではないかといふ疑問が起りました。 そこでひきつゞいて円形派の博士達に依つて同じ方法で試ママされましたが、今度は尾の方が体よりも大きい狐の襟巻のやうなものが写つてゐました。 三角派だつてじつとはしてはゐませんでした。 やはり同じ方法で写真を写して降りて来たのですが、写つている棒のやうなものが写真の乾板の両端からはみ出してゐたので、どうにもなりませんでした。
 又、これも失敗に終つたのでしたが、大砲の弾丸に目もりをした長い長いこれ位ママ長ければ国の端にとゞいても余るだろうと誰もが思つたほど長いテイプを結びつけて打つた博士がありました。 が、まだいくらでもテイプが残つていたのに大砲の弾丸は八里ばかり先の原つぱに落ちてゐたのでした。 これはあまり馬鹿げているといふので、新聞の漫画になつて出たりしたので、真面目なその博士は「これからです」と訪問した新聞記者に一言して、青い顔をして第一回の距離をノートに書きとめて更にそのところから第二回の弾丸を打ちました。 この博士は同じことをくりかへして進んで行つてしまつたのです。 始めのうちは通信などもあつたのですが、次第にはその消息さへ絶えてしまつて、博士が第一回の発砲をしてから五年も経過した頃は、街の人達は未だにその博士が発砲をつゞけながら前進してゐることを忘れてしまひました。 気の毒なのはこの博士ばかりではないのですが、出発が出発なだけに困つた気持になつてしまひます。
 又、かうした現実派の他に無限大などと言ふ神秘主義の博士達のゐたことも事実でした。 この博士達は時間などは度外視してゐたのでせう。 雑誌や新聞の紙面に線なんかを引いたりして、測り知れないほどの面積であつても決して無限ではないとかあるとか、実に盛んな論争を幾百年つゞけてきたことであらう。 又、一ヶ年の小麦の総収穫から割り出して国の広さを測り出さうとしたアマチアもありましたが、計算の途中で麦畑でない地面もあるのに気がついて中止しました。 勿論汽車などもすでにあつたのですが、創設以来しきりなしに先へ先へと敷設してゐても、その先がどの位ママあるのかは博士達のそれと同じやうに全くはてしないばかりでなく、最初に出て行つたその汽車は今では何処へ行つても見られないやうな旧式な機関車なので、未だにそれが先へ先へと進んでゐることを思ふと、どう判断していゝのかわからなくなるのです。 それに、レールの幅が昔の三倍にもなつてしまつてゐるのですから、もし最初の人達がひきかえへして来ることになつて又幾百年かかるのはいゝとしても、何処かでレールの幅が合はなくなつてゐるにきまつてゐることが心配です。
 そこには海もありしたがつて港もあるのですが、海は陸よりもゝつとたよりない成績しかあがりませんでした。 どうしてこんな国が出来てしまつたかは大昔にさかのぼらなければなりません。 大昔といつてもただの大昔ではなく一番の大昔なのです。 千年以上も前なのか二万年も以前のことなのかわからないのです。 その大昔に、何処か或る所に一人の王様がゐて、だんだんに年寄になつて、三人か四人の王子達もすつかり大人になつてゐたのです。 そこで、一日王様は王子達を集めてそのうちから誰かを一人の世嗣に定めることになりました。 背の高さをはかつてみたり、足の大きさを較ママべてみたりしてみましたが、それでは誰にきめてよいのか王様にはわかりませんでした。 で、一人々々に「お前はどんな王国が欲しいか」と問ひますと、百までしか数を知つてゐなかつた王子は「百里の百倍ある国が欲しい」その次の王子は「百里の百倍ある国の千倍欲しい」などと答へたのですが、豆ほどの小ママさな円を床に画いて「この外側全部欲しい」と答えた王子とはとても匹敵しませんでした。 王様もその答へにはすつかり感心してしまつて、すぐ世嗣はその王子と決定したのです。 その頃は貯金などといふものが流行して、円そのものに一日いくら月幾分などと銭が少しづつ子を生むやうに利子がついたものです。 で、その利子の殖えるのをうれしがつて銭をママめてみたり利子が異数に加算される方法を発明したり、大勢の人達の貯金を上手に利用したりするママ会があつたのです。 その王子が最もよくばつてゐたといふので世嗣に選ばれたことは言ふまでもないことです。 全く、銭のない人達こそいゝ面の皮だつたのです。 いくら働ママいても、働ママけば働くほどもらつた賃金では足らぬほど腹が空くやうな仕掛に、うまく仕組まれてゐたのですからたまりません。 それとは知らずに働ママけば暮らしが楽になると思ひこんでゐた人達が大部分だつたのです。 そんなわけですから、何も仕事をしないものは「なまけもの」と言はれて軽べつされたり、銭がなければ食べないなどという規則みたいなものさへあつたのです。
 新らしい王様が位についたときは勿論大変なさわぎだつたのです。 旗も立てたしアーチなども作つてその下を通るやうにし、花火もたくさんあげたのです。 「正しい数千年の歴史」なのですから、実にたくさんの祭日や記念日があり老王の退位の日もちやんと旗を立てゝ、来年からも同じ日に旗をたてることになつたことは勿論です。 王様は、盗られてはいけないといふので立派な鉄砲や剣をもたした兵隊を国境へ守備に出しましたが、何処まで行つても国境がないのですから、これが如何に大変なことであつたかは、先に述べた博士達のことででもわかる筈です。 しかし、新しい王様が少しでも国を減らそうなどとは思ひもよらなかつたことだけは、それから幾千年かの後そのまゝの広さの国を博士達が測量しママうとしたことででもわかるのです。 後から後からとひつきりなしに国境へ送られた兵隊達は二度と再び帰つては来ませんでした。 何処で暮らすのも一生と考へ、かへつてせいせいしていゝと思つた兵隊も中にはゐたのでせうが、住みなれた街から再び帰らぬ旅に出るのですから、別れにくい心残りもあつたことはあつたのでせう。
 時間が経つてその王様も死に、その次の王様も死にました。 そして、その次の王様も死んでしまつたことはあたりまへのことです。 百年も千年もの間には次々の何人もの王様が死んだし、王様でない人達だつて死んだり生れたりしたのです。 初めの頃はほんの二三人の大臣が王様のそばにゐたのでしたが、だんだんにその数が多くなつて「時計大臣」「紙屑大臣」などといふものまであるやうになつてしまつたので、数百人といふ大臣が王様の仕事の補佐をするやうになつたのです。
 時計大臣といふのは、自分の時計とちがつた時計を持つてゐる者から見つけ次第に罰金を取つたり時計をたくさん持つてゐるものに勲章を呉れたり、届けをしないで時計を止めてゐるものを罰したり、街の時計を正確に直して歩いたりするのが役目なのです。 時には、金の時計は胸ポケツト銀のは胴ポケツト銅のはずぼんポケツト、それから鉄のは足首へなどといふ法律を定めたりもするのでした。 又時計の定価をそれぞれ大きさや金属によつてきめなければならない重要な役もあるのですから時計会社の重い役にも就いてゐなければなりませんでした。 紙屑大臣といふのは、主として紙屑やさんの取締りが役目なのです。 が自分で屑拾ひに出ることもあるのです。 このほかに「鼻糞大臣」これは鼻糞を乱棒に取つては衛生的でないといふので出来た大臣ですが、このほか色々の大臣がゐるのでした。 つまらない大臣もあつたもんだと思ふでせうが、「紙屑大臣」だつて「鼻糞大臣」だつて高い位であるばかりではなく、金があつてもつてがなければなれないし、つてだけあつても金がなければどうにもならないのですから、なりたいと思ひながらなれずにゐるうちに死んでしまう人達だつてたくさんにゐたわけです。 こんな風にして、王様自身ですることがなくなつてしまひましたが、王様がなければ大臣もないわけなのですからそこはぬけ目のない人達は、よつてたかつて王様は人ではなく、神様だといふことにしてしまひました。 大臣達は、自分の思ふまゝの世の中をつくり上げると、今度はそれを保護しなければならない立場になりました。 そこで色々な特種な法律をたくさんつくつて、足らなければその時に応じて又いくらでもつくることにしました。 又、大臣の世襲といふことも問題になつたのでしたが、あまりよくない大臣はもつとよい大臣になつてからそれをきめた方が都合がよいと思つてゐたのでまとまらずにしまひました。
 それから、又、永い時間が経つて、さうした世の中が絶頂にゆきつくと、そこから又変な世の中の方へ動きかけました。 「働らかなければ食へない」といふ男の前で「それはこのことなのか」と、餓死自殺をしてしまつてみせるのがゐるかと思ふと、「大臣」の間に党派が出来て別々に異つた名称をつけてゐたり、一部の人達が過飲過食を思想的にも避けるやうになると、たちまちそれが流行になつてしまつたり、さうかと思ふと本を読むほど馬鹿げたことはない、今までは金を出して本を買はされるばかりではなくその内容まで読まされてゐたのだが、これは向ママで読者へ読んでもらママつぐなひとして渡す金高をわれわれが今まで仕払つてゐたあの「定価」といふところへ刷られてゐなければ嘘だ。 そのほかに四五日分の日当さへ出してもらはなければならないものにさへ、われわれはうつかりして自分の方から金を出して買つてゐたのだ――といふことがすばらしい人気を呼んで本が一冊も売れなくなつたり、電車の行つたり来たりするのを見てゐた二人の子供の一人が「朝の一番最ママの電車はどつちから先に来るんだ」と言つたことに端を発して、朝に就ては世の学者誰一人として何も知らなかつたことを暴露してしまつたり、最低価額の下宿住ひの或る男が、そこの賄ひだけで死なずに十分生きてゆける筈なのに、時折りカフエーなどに出入してビールやトンカツを食ふということが、どういふわけのことであるのかといふことになつて、結局は熱心な学者に依つて生きたまゝ解剖されて脳と胃袋がアルコール漬の標本になつてしまつた等々々――のさうした状態もそのまゝずママぶん永くつゞくだけはつゞいたのです。
 そして、何時の間にか電車の数が住居者の人口より多くなつてゐたり、警官の数が警官でない者の五倍にもなつてゐるのにびつくりして、最善の方法としてそのまゝに二つのものゝ位置をとりかへたりするやうなことを幾度かくりかへした頃には、人達はてんでに疲れてしまつたのです。 そして、あの大砲を打ちながら消息を絶つてしまつたりした博士達のゐた頃からでさへすでに数へきれないほどの時間が経過してしまつてゐるのに、まだこれから来る時間が無限だと聞かされた人達は何がなんだかまるでわからなくなりました。
 一方、何時の頃からか国の形も次第にわかり広さもわかつて彩色した立派な地図も出来、その国のほかにもまだたくさんの異つた国のあることを知ると、王様や大臣達は自分の国がさう広いやうには思はれなくなりましたが、その綺麗な地図の中に何一つ自分のものを持つてゐない人達はそれに何らの興味もないばかりでなく、地図の中の一里四方といふ面積が何を標準にしてきめた広さなのか更にけんとうもつかないのでありました。 王様や大臣達は彼らが面積とは何であるか知らないのに驚きました。


後記

泉ちやんと猟坊へ

 元気ですか。 元気でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな気がする。 だが、お前達は元気でゐるのだらう。 元気ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。 私のゐるゐないは、どんなに私の頬の両側にお前達の頬ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。 お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。
 泉ちやんは女の大人になるだらうし、猟坊は男の大人になるのだ。 それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。 それだけでよいのだ。 私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教えてゐるのではない。 ――先頭に、お祖父さんが歩いてゐる。 と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが歩いてゐる。 それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちやんが、それから三年後を猟坊がといふ風に歩いてゐる。 これは縦だ。 お互の距離がずママぶん遠い。 とても手などを握り合つては事実歩けはしないのだ。 お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。 幾つかの無責任な仮説がかさなりあつて出来た悲劇だ。
 ――考へてもみるがよい。 時間といふものを「日」一つの単位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得ママうではないか。 それは、「日」といふものには少しも経過がない――と。 例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。 雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。 そして、時間が映されてゐるのだ。 と。 ――
 又、さきに泉ちやんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言つた。 が、泉ちやんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。 そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。 「親」といふものが、女の児を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。 親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。 夫婦関係、恋愛、亦々同じ。 そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

父と母へ

 さよなら。 なんとなくお気の毒です。 親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。
 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。 又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。 何をしに生れて来るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。 しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふことは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのでせうか。 だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。 又、「親子」といふものが、あまり特種関係に置かれてゐることもわるいのでせう。 ――私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。 そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。 私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

底本:「尾形亀之助詩集」現代詩文庫、思潮社
   1975(昭和50)年6月10日初版第1刷
   1980(昭和55)年10月1日第3刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:高柳典子
校正:泉井小太郎
ファイル作成:
2008年4月15日作成
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