やっと、ラジオの全波が聴けるということになった。
 そのことが放送されたのは、九月下旬の或夜であった。田舎の家で、雑音だらけのラジオながら、熱心に九時のニュースをきき、世界の動きが身に伝わる感じでいたら、それにつづいて、局からのお知らせを申上げます、と全波聴取のことが告げられた。
 日本のラジオが、今日まで国内放送しか聴かれず、全波は禁止されており、それを聴くことは犯罪として見られたということは、諸外国に例のない野蛮な文化に対する抑圧であった。しかし、この十数年間の民衆の実生活は全般にわたって、その細目に及ぶまで余り切りつまり、自由を失い、発言の力がなかったから、ましてやラジオなどについては、日本のラジオは、こういうものとしてうけ入れていたように思う。もしかしたら、「日本のラジオ」という世界文化に対して考えれば極りのわるいその不具性さえ、一般の人々には明瞭に意識されてさえいなかったかもしれない。それほど、世界に向ってひらかれているべき私たちの眼、耳、そして知識と心情とは根本から封鎖されていたのである。
 その夜、局からの全波聴取のニュースを伝えたアナウンサアの話しぶりは私がこれ迄どんなニュースでもきかなかったほど、自身の感動に溢れた調子であった。アナウンサア独特の、何事を報道しても平静を失わない、はっきりしているが職業的平板さの伴った声ではなかった。アナウンサアは、全波を禁止していたこれまでの軍事的権力がどんなに封建的なものであったかということ、そのために国民は自分達の生活の実状さえ知らず、更には偽りで組立てた報道で操られて来ざるを得なかった事実を熱のある表現で説明した。今やようよう全波をきくことが出来るようになって、ラジオはラジオとして本来の機能を発揮する時機が来た。あらゆる聴取者よ、全波受信の設備をせよ。そして、日夜広々とした全世界の脈動に貫かれて生活を向上させ、新しい日本の創設のために努力するようにと、そのアナウンサアの表現は、率直で殆ど激情的でさえあった。いかにも、明暮その仕事に携っている人が、専門家として蒙っていた云うに云えない永年の不自由から、自由になった! これからこそ、と意気ごんだ気組とよろこばしい激励とに満ちていた。日本独特のダラダララジオから、こういう声が響き、外ならぬアナウンサアが、こういう人間的感動をもって、彼等も一専門家として享受するようになった解放の息吹に胸を高鳴らしているという事実は、深くわたしの心を動かしたのであった。そして、我々日本人は、今日、他の文明国の人々たちがほとんど想像もし得ないほど些細な日常事象の一つ一つについて、可能となった積極性、或は合理性をよろこんでいるのであると痛感したのであった。
 床についてからも、新鮮な勢で生活に導き入れられた、オール・ウェイブス、全波についてあれこれと考えているうちに、いろいろのことが思い出されて来た。
 ラジオ屋と警官とが一組ずつとなって、東京各区をめぐり、ひとの家に急に入って来て短波受信機の設備の有無を調べ、もしあればそれを没収したり、処罰したりしたのは、いつのことであったろう。二年ほど前の初夏の頃であったと覚えている。
 没収した優秀な機械は、逓信省や大蔵省の役人が家へもって帰って据えつけたというような巷間の噂をきいたのも、それにつづく頃ではなかったろうか。
 短波を禁止していた日本当局は、誰かが優良品を輸入するとすぐ、短波受信に必要な機械の部分品をすっかりそれから剥ぎとって来た。一寸のことではもう短波の聴けないように破壊したのち、使用をゆるした。
 いよいよ、明日からでも全波が聴けると告げられた時、そうして不具にされた設備をもっている人々は、どんなに残念に思ったことだろう。そしてまた、そこに出入りし、同じ隣組に属す何倍かの人々は、心からその残念をわかち合わずにいられなかったと思う。
 全波機は、二百円より五百円迄で製作販売されると云われたけれども、わたしが相談するどの専門家も、それで出来るとは保証してくれない。大体十倍の価格がいわれる。その上、日本の今日の技術では、全波に切り替えて行くスウィッチの製作が未熟であって、とても自由に地球をめぐる電波は捕えかねるらしい。固定させて、それぞれの聴取目的の波長にやや合わせて、幾つかをきめて切り替えて行くスウィッチならば、相当の性能をもつということである。その他、絶縁体の質の問題とかもあるときいた。
 一言にして云えば、全波が聴ける、という声、聴きたいという欲望は日本中にあまねくあるのだが、実際聴ける機械は、さし当りどこに在るのかわからない状態が生じているのである。
 日本の人々の生活にとって、この一二年の間にラジオの位置は、徹底的に変化した。空襲以来、すべての人は、ラジオが生活の必需品であり、それは米と一緒に守らなければならないものとして理解するようになった。一つは、報道が人々の生命の安全に直接関係したからであるし、他面では、機械がなくて、一度失ったらもう手に入り難いという事情に立っている。部屋を照す電球が買えないのと等しく、ラジオのための真空管は、普通人には買えないものの一つとなっている。
 ラジオは文化の享受面に立つものであるけれども、今日では誰の目にもそれが直接日本の生産技術の低さと繋った不自由に縛られていることが明らかとなって来た。何故それほど生産技術が低いのだろうか。そしてまた何故、これほど必需品生産は、企業家たちによって怠業の状態におかれているのだろうか。疑問は、ラジオ一つを通じてさえ今日の生産活動の渋滞の本質を知りたい願いとなって来るのである。
 今年は九月下旬から十月初旬にかけて日本西部が深刻な風水害をうけた。山陽本線は一ヵ月も故障したのであった。義弟が原子爆弾の犠牲となったため田舎へ帰ったが、急な帰京が必要となって、呉線の須波―三原の間、姫路の二つ三つ先の駅から明石まで、徒歩連絡した。須波と三原との間は雨の降りしきる破壊された夜道を、重い荷を背負った男女から子供までが濡れ鼠となって歩いた。
 姫路は、あの辺の重要都市の一つであり、空爆をうけて焼かれている。バラックの駅長事務所で、小雨に打たれて列に立ちながら、連絡について、いくらかでも具体的なことを知りたいと思ったら、若い駅員は、最後に「どことも電話が通じないんだから分らんよ」と答えた。それは、答えというよりも、寧ろ、これでもまだ訊くか、と居直ったような語気で云われたのであった。
 どうやら帰京して、上野駅で人を待つ用事が起った。待つ列車は青森発東北本線の上りで、夜の九時すぎにつく予定であった。
 大混雑をぬけて出口に立ちつくしたが、その前の信越線、八時二十分からがいつ迄経っても入って来ない。改札係の板の上には、時間表があり、定刻と、おくれて到着した各列車の時刻とが対比して書き込まれている。けれども、駅員たちは、柵の外に困却して佇んでいるわたしたち同様、その列車がそこに出現する迄は、どこで、どんな理由で、何分おくれているのかということに就ては全然知っていなかった。待っている人々と彼等との違いは、ただ彼等はちっともそれについて心配していないことと、呑気に立って喋舌しゃべっていて、相当頻繁にこそこそと入場券購入許可証とゴム印を捺した紙片をもって来る人を、出口から乗車フォームへ通してやっていることだけである。
 姫路その他の駅でも感じていた運輸事務能力の低さ、無智な不親切さが、このときも身に沁みた。
 思えばおどろくべきことだが、日本の鉄道省は、各駅間の無電連絡を一つも持っていないのではなかろうか。
 事務室で、チリチリとベルが鳴り、係員がハアハア、ハアハア、と一種の玄人らしさで返事している、あのデンワで、この多忙、繁雑、非能率な国鉄運営の難事業を処理しているのではないだろうか。
 各種の軍事施設は、おそらく優秀なラジオをもっていたろうと思われる。憲兵隊のようなところも、同様であったに違いない。そこにあったラジオの設備を、せめて運輸事務の改善のために活用することは出来ないものなのだろうか。そして、食糧の輸送に一つの強味を加えることは出来ないものだろうか。
 各地の警察連絡にはラジオが利用されるが、鉄道にはそれが利用しようともされていないというのが、今日でも、日本の現状であるのだろうか。
 わたしは全波のラジオが早く聴きたい。破産しても支払えないほどの金を払わないでも、聴けるように日本の生産技術が進んで欲しいと思う。
 ラジオただ一つをとってさえ、わたしたちの今日の生活における様々な可能性と、それを実現する手段との間には、これだけ巨大な開きが存在している。可能性が、単に可能性として止っているなら、やがてそれは可能性でさえなくなってしまう。何故なら、可能性というのは、その実現に努力献身し、その結実を確保する、という条件があって、はじめて人間生活の貴重な現実的モメントとなって来るからである。わたし達は、自分達が真に勤勉であり、進歩の実現に対して真実の努力を傾けつつあるか、ということについては、鋭い自省をもたなければならないと思う。可能性があるとき、それを実質のある現実のものとする努力を怠れば、それはもう私たち各自が、自分を責めなければならない懈怠と云われるべきなのである。
〔一九四六年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「人民評論」
   1946(昭和21)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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