一

 芸術も人の心に慰めと喜びをあたえるものであるということでは、「楽しさ」において娯楽に通じているようですけれども、普通のわけ方では芸術と娯楽は二ツの別のものです。音楽にも軽音楽やダンス・ミュージック、みんなが口ずさむようないろいろな歌。舞踊でもこのごろはやっているスクウェアー・ダンスのようなものが娯楽のためのダンスであって、芸術としてのバレーとは自然ちがいます。映画や演劇は、芸術性と娯楽性のもっとも密着したものですが、「真夏の夜の夢」が笑いと、当時の大衆的な感覚――迷信その他――でシェイクスピヤの作品の中でもきわめて娯楽性が高いが、音楽、舞踊のアンサンブルは、また喜劇的要素としての職人の素人芝居をあすこに入れたことは、あの劇も単なるおとぎ話、娯楽劇としてしまわなかった要素です。
 今日、日本でいわれている娯楽性のなかには、半封建的な要素と商業主義の腐敗が非常にしみこんでいます。自覚ある市民、労働者は、必ずしもこんにちの「娯楽」に心のよろこびを見出していません。芸術が特殊な人びとの自己満足の製作から脱して、本当に大衆の心にふれるように生長してゆけば、こんにちのうすぎたない娯楽性――カストリ的ジャーナリズム、スペクタクルからみんなが救われるでしょう。
 日本でこの問題を解決する一つのモメントは、芸術におけるもっと親身なヒューマニティとユーモアであろうと思います。音楽では、職場の音楽(ラジオ)でベートーヴェンのシンフォニーの一部を送ってそれが非常によろこばれた例があります。日本では「大衆の娯楽性」というものが、いつも、愚民教育と粗悪なジャーナリズムの植民地として「いやに大切に」芸術ときりはなして扱われる悲劇をくりかえしています。

          二

(A)[#「(A)」は縦中横] 官僚が官僚くさいように、科学技術者が非常に初歩的な「科学の客観性」、冷厳な「科学的公平さ」にとらわれてきた不幸があると思います。文学者が文士くさいように。
 これからは、科学が人類の幸福を実現してゆくために貴重な方法であることを、血と肉と情熱とをもって理解されてゆくでしょう。
 日本の大学法案にすべての学問に関渉をもつ人が反対していること、研究所閉鎖に科学以外の文化の専門家が心からの反対を叫んでいること、みんなこの人類の幸福のための科学を守ろうと思うからだと信じます。
(B)[#「(B)」は縦中横] 科学技術者をテーマとした作品は、むずかしいからでしょう。多くかかれていません。ひと頃ドイツで「アニリン」とかその他科学小説がかかれましたが、その場合、科学技術者というものの特殊性がどこまでとらえられていたでしょうか。
 石油液化を扱った「オイル・シェール」(小山いと子)、ソヴェトのレオニード・レオーノフの「スクタレフスキー教授」などは、科学者の学問的情熱と社会の歴史的環境を扱っていましたが、素人眼にも科学者は成功的でありませんでした。レマルクの「凱旋門」の主人公の外科医ぶりは、外科の医者からみると、ところどころ危っかしいそうです。
 小さい作品ですが二、三ヵ月前の『近代文学』に「イポリット眼」という報告文学的小説がのっていました。これは、作者自身が眼科医であるらしくて、しっくりと医学的追求とヒューマニティがむすびつき、戦争の残酷さについて身に迫る作品でした。
 科学の側からもっと文学に入ってこなければならないのは、自然科学よりも社会科学です。

          三

 私は伺いたいと思います、「正しい文化」というのはどういう文化でしょう。そして、この言葉から私たちが直感する理性と情感とがとけあってもっとも高い人間性、もっとも複雑な人間社会の諸様相を反映する民主的な文化を意味するならば、日本の私たちの今日の現実のどこにそのような「正しい文化」があるでしょう。まじめな人びとは、少しでもよい、正しい――少くとも人間の理性を承認した文化をうち建ててゆきたいと努力しているところだ、と思います。そしてそういう方向に努力されつつある文化活動そのものを正しい文化というのではないでしょうか。
 共産主義的独裁社会形態における文化ということは、いまのソヴェトのように社会主義的民主主義の社会における文化ということでしょうか。こういう比較は現実的にこんにちの資本主義国内でどのような文化発展の可能性が保たれているかということと具体的に比較していわれるべきだと思います。
 たとえば、日本では百三十万の未就学児童があります。奴隷的大学法案が出されています。言論出版の自由というものはどうでしょうか。科学が一つの歴史的情熱となっているソヴェトと比べて、日本の科学はどんな扱いをうけているでしょう。知能労働者はこちらでは休みの家もなく、業績に対して社会的保証がありません。社会主義的民主主義の社会では、文化の仕事に従う者が、知能的労働者として非常に多くの社会的保証を受けていることは、やはり今私たちのまわりにある文化よりは、文化の正しいあり方だと思います。勤労者のいろいろな才能ののばされてゆくモメントも、資本主義社会の偶然性よりはひろい確かな公共的地盤をもっています。独占資本の独裁、商業主義の独裁のもとにおける文化の悲しむべき境遇について、ロマン・ロランが闘ったように、アインシュタインが闘いつつあるように、私たちは闘わねばならぬと思います。これが当面の任務です。
 社会主義社会での文化の諸問題――わたしとしては文学を主に考えますが、現在のところ世界各国は、社会主義国の文化の画一性を批難することが好みにあっているようです。しかし、この問題もいろいろ興味があって、人類社会のプロセスの一つとして、ある一つの社会成員が、ワンダ・ワシリェフスカヤの「虹」のような生存防衛の意識に、自発的に結集し得るようになった歴史の段階は、やはり一つの新しい一歩です。ソヴェトの防衛ということは、わたしたちが外からデマを通じて理解するよりも、はるかに基本的、人権的問題ですから。
 たとえば、社会主義社会の子供の教育は、階級の意識で画一されているという点が指摘されるけれども、私にいわせれば、子供を教えない大人というものは天下にいません。どうせ子供が教えられなければならないのなら、ファシズムや気狂いじみた民族優越主義や『国のあゆみ』、『民主主義』のような歪められたもので或る時期をひきまわされ、やがて、理性が発達すればもう一遍、現実認識の方法を自分でもちなおさねばならないような教育をされるよりも、世界の各種社会について、リアリスティックな知識をうける、或はリアリスティックに見る方法を得るという意味でましだと思います。

          四

 アメリカ式民主主義というものの本質は資本主義です。したがって、その文化は、ゆたかな人々のために世界で最高の開花をとげていますが、貧しい人々、失業者たちの生活は、やはりじゃがいもを買うことに苦心しています。日本の資本主義の歴史的な弱さの上に、アメリカの文化の――いわゆる高度なる文化の――面だけをうつし植えようとすれば、現にこんにち日本代表として外国へ行ける人々が、三井一族その他の特権階級の者であるように、人民すべてのためのよりゆたかな、人間らしい生活を約束するものとはなりません。

          五

 日本の自然と社会の条件に調和される文化というものは、外から押しつけたものではないでしょう。基本的には日本の人口の大多数を占める働く人民の生存が、正当な社会的勤労によって保証されるという条件がまず確立されなければなりますまい。民族の自由と独立ということは、いまの日本のようにひと握りの特権者が、他国の資本主義擁護の政党の利益とむすびついて、自国の人民を苦しみにつきおとしている状態の時には、人民自身の生存と文化の擁護のために闘うべき中心的課題になります。現代の日本の文化の中心題目は、民族の民主的・人民的自立、再燃するファシズムとの闘い、ファシズム文化の害悪との闘いです。文化も人民解放の歴史の刻々の段階に応じて人間的表現の核を前進させつつあります。
 日本のわたしたちにとって、もっとも警戒すべきことは、封建的権力とファッシズムが、民主的という面をかぶってあらわれることです。

          六

 科学的真理という場合、当然自然科学と社会科学とが考えられます。社会科学が現代新しいファクターを加えつつ人類の社会の発展の法則をわれわれに示していることは、説明を必要としません。超階級的と思われてきた自然科学の法則が、支配階級の権力によって使用された場合、そして、その権力が侵略的であったとき、科学の真理は毒ガスとなり、爆弾となり、おそろしい殺人を行いました。地球はまわるといったガリレオ・ガリレイは、宗教裁判にかけられました。原子力の法則――科学的真理――を人類の幸福のために使うか、もっとも富める資本主義の代表者たちの特権を守るために使用するかということは、現代の人類の理性にかけられた課題です。
 自然科学の真理そのものが、直ちにそのもので階級的真理ではないにしろ、科学的真理を現実の社会に活用してゆく力の階級性――それが幸福をねがい、平和をねがい、よき人生を求めている世界の働く人民であるか、それともありあまる富と権力とによってさらに強力なスリルと利潤とを、世界人類の基礎の上に一ばくちしたいと思う者によって使われるかどうかということで、真理は全くその歴史的・人間的関係をかえます。何故なら神をつくったのは人間であり、真理として自然の法則を人間の生活の中に把握したのは人間でありますから。人間はまだ当分の間は階級的な存在ですから。

          七

 婦人の科学技術者が本当に世界的な水準に一致した自身の技術をもち、社会がそれを偏見なしに信頼活用するという時代は、まだきていないのではないでしょうか。もっともその点で前進しているのは、社会機構そのものが社会主義化しているソヴェト同盟でしょう。この問題は、長年ブルジョア女性解放論者によっていわれてきたような、女性の主観的がんばりだけで達成されるものでもないし、戦時中の政府が戦争目的のために婦人技術者を養成して、いまはそれ等の人の中から売笑婦が出るような状態につきおとしているやり方でも解決しません。マダム・キュリーがあれだけの仕事をしたのには、いくつかの原因があります。しかし、基本的に科学そのものが一定段階まで進歩していたこと、当時フランスで婦人の参政権は与えられていなかったけれども、大革命を経たフランスの理性的な人々の心には、婦人の能力に対する偏見が少いという条件がありました。ピエール・キュリーが真に天才的な科学者であったということのほかに、ピエールの父親である人――キュリー夫人のしゅうとである人が、嫁のために子供の食事や、ねかしつけることをたすけたという話は、わたしども女の心に忘れられない印象を与えています。アメリカ映画のシスター・ケリーをみても、アメリカではじめての婦人開業医ブラックウェルの話をよんでも、科学における婦人の能力のために闘わなければならなかった様子がはっきり分ります。日本は、封建的偏見と闘いながら、婦人が自身の科学的技術を確立させてゆかねばならないという第一期的状態にあります。そしてその闘いは、現代において二十世紀はじまりのヨーロッパにおいてのように、個人の偶然もっている条件――才能と環境――だけに頼らず、科学技術者として勤労人民の全戦列の一翼にむすびついて前進しなければならないという時代に入っています。
 日本に資本主義社会でみられるような個人的な才能の開花、個人的な成功とその名声をたのしむような女性の経験が乏しいために、「民主的」と云われる現代では、なんとなく個人的な開花を渇望する気分があります。インテリゲンチャには、とくにこのことが強く感じられるために、却って全体としての前進に躊躇する気分もあります。しかし、日本の歴史は、遅れているだけ二重にかさなった早い面があるのだから、わたしたちはそのことをよく理解しなければいけないと思います。

          八

 婦人がますます働く期間を長く必要としてきているという動かすことのできない経済的実情。これは、すべて明瞭だと思います。婦人が働くのは結婚までという使用者の考え方は、全く安い労働力の利用ということ以外にありません。働かす条件が悪くても、どうせまだ親がかりだなどといういいわけで、職場の設備の悪いことも、厚生施設のないことも、第二の問題のように扱います。
 働く婦人自身が結婚までとピリオドをうつ気分には、働きそのものの発展性がないこと、独立的生計が営めないこと、めいめいが特殊の技術をもっていないことなどにからんで、ブルジョア婦人雑誌の封建的な現代では、エロティックな結婚病に対するまんせい的な刺戟の害毒があります。
 こんにち、大多数の婦人は、結婚するにしろ経済的能力を失わないことが大切だと思っているし、そのためには職場と家庭生活を調和させてゆく社会施設の必要を痛感してきていると思います。N・H・Kでさえも主婦の労働と、職業上の労働とをどう調節するかということについて社会の窓で放送しました。
 女性の人間的・社会的自覚がたかまれば、仕事のない男がないように、女の仕事が家庭の中だけでおわるとは考えなくなってくるのは当然です。アメリカではいま、家庭の主婦のあいだに、ハウス・ワイフということばをなくそうという希望がおこっています。主婦の仕事は、はっきりした社会労働の一つだという考えがたかまっているわけです。ハウス・ワイフのかわりに、何か社会的勤労にふさわしいよび名がないかといって、いろいろユーモラスな案もでていました。
 現代のすべての婦人は、家庭と職業を両立させたいという根本の希望で目前の苦しみや不便に耐えながら闘っていると思います。そして、男の人たちの中にもその意味を理解して、できるかぎり「新しい夫」になろうとする頼もしい人もでています。時間のかかる問題であって、もしかするとこれは三代かかって具体的に解決されてゆくようなことかもしれません。
 しかし、わたしたちは、失望しないで、おばあさん、おかあさん、自分、自分の子という生きた歴史の中に、ますます多くのパーセントで、生きよい社会の条件を拡大し確保してゆくという努力をつづけることが肝要です。若い方は、どなたも御存知です。服飾の上で自分の色彩を統一して、どれとくみあわせてもみっともなくないようになさいということを。美しくなろうと思えば、自分の体質と皮膚とをよく知って、自分によく合った化粧品をきめて、つづけてゆき、新聞にでる総ての化粧品の広告にまどわされることは不必要であることを。
 人生の進歩的な建設に、わたしたちはこの常識をもって闘うべきです。歴史の中で次第によりよいものが勝利してゆくために、わたしたちの生涯の現実そのものでパーセンテージをたかめてゆくこと。これは、はなばなしくないし、英雄にみえないかもしれません。しかし、歴史は一分から、一時間から、一日からきずかれつつあります。
〔一九四九年六・七月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「むつび」三菱鉱業研究所職員組合機関誌
   1949(昭和24)年6・7月合併号
※三菱鉱業研究所職員組合文化部からの次の質問に対する答え。
一、芸術と娯楽の境界。いわゆる大衆の求めるものが娯楽だとすれば、芸術家としてこれにいかに答えるべきか。
二、文学者としての立場から科学技術者、或はその人間性に対する忌憚ない注文。また科学技術者をテーマとする文芸作品に対する考えは?
三、共産主義的独裁社会形態における文化を正しい文化と考えるか。
四、アメリカ式民主主義文化が日本の現在の生活環境に調和し得ると思うか。
五、日本の地理的・歴史的環境のもとに当然調和される文化は?
六、科学的真理において階級的真理というものが存在するか。またその妥当性について。
七、婦人科学技術者が封建的社会機構のために進歩を阻まれている点について。
八、職業婦人が結婚までの一時的なものに考えられている点について。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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