文七元結

三遊亭圓朝

鈴木行三校訂編纂




        一

 さてお短いもので、文七元結(ぶんしちもとゆい)の由来という、ちとお古い処のお話を申上げますが、只今と徳川家時分とは余程様子の違いました事で、昔は遊び人というものがございましたが、只遊んで暮して居ります。よく遊んで喰って往(ゆ)かれたものでございます。何(ど)うして遊んでて暮しがついたものかというと、天下御禁制の事を致しました。只今ではお厳(やかま)しい事でございまして、中々隠れて致す事も出来んほどお厳しいかと思いますと、麗々と看板を掛けまして、何か火入れの賽(さい)がぶら下って、花牌(はなふだ)が並んで出ています、これを買って店頭(みせさき)で公然(おもてむき)に致しておりましても、楽(たのし)みを妨げる訳はないから、少しもお咎(とが)めはない事で、隠れて致し、金を賭(か)けて大きな事をなさり、金は沢山あるが退屈で仕方がない、負けても勝っても何うでも宜(よ)いと、退屈しのぎにあれをして遊んで暮そうという身分のお方には宜(よろ)しゅうございますが、其の日暮しの者で、自分が働きに出なければ、喰う事が出来ないような者がやりますと、自然商売が疎(おろそか)になります。慾徳ずくゆえ、倦(あ)きが来ませんから勝負を致し、今日で三日続けて商売に出ないなどということで、何うも障(さわ)りになりますから、厳(やかま)しゅう仰(おっ)しゃる訳で、併(しか)し賭博(ばくち)を致しましたり、酒を飲んで怠惰者(なまけもの)で仕方がないというような者は、何うかすると良い職人などにあるもので、仕事を精出して為(し)さえすれば、大して金が取れて立派に暮しの出来る人だが、惜(おし)い事には怠惰者だと云うは腕の好(よ)い人にございますもので、本所(ほんじょ)の達磨横町(だるまよこちょう)に左官の長兵衞(ちょうべえ)という人がございまして、二人前(ふたりまえ)の仕事を致し、早くって手際が好くって、塵際(ちりぎわ)などもすっきりして、落雁肌(らくがんはだ)にむらのないように塗る左官は少ないもので、戸前口(とまえぐち)をこの人が塗れば、必ず火の這入(はい)るような事はないというので、何(ど)んな職人が蔵を拵(こしら)えましても、戸前口だけは長兵衞さんに頼むというほど腕は良いが、誠に怠惰(なまけ)ものでございます。昔は、賭博に負けると裸体(はだか)で歩いたもので、只今はお厳(やかま)しいから裸体どころか股引も脱(と)る事が出来ませんけれども、其の頃は素裸体(すっぱだか)で、赤合羽(あかがっぱ)などを着て、「昨夜(ゆうべ)はからどうもすっぱり剥(むか)れた」と自慢に為(し)ているとは馬鹿気た事でございます。今長兵衞は着物まで取られてしまい、仕方なく十一になる女の子の半纒(はんてん)を借りて着たが、余程短く、下帯の結び目が出ていますが、平気な顔をして日暮にぼんやり我家(わがや)へ帰って参り、
 長「おう今帰(けえ)ったよ、お兼(かね)……おい何(ど)うしたんだ、真暗(まっくら)に為(し)て置いて、燈火(あかり)でも点(つ)けねえか……おい何処(どこ)へ往ってるんだ、燈火を点けやアな、おい何処……其処(そこ)にいるじゃアねえか」
 兼「あゝ此処(こゝ)にいるよ」
 長「真暗だから見えねえや、鼻ア撮(つま)まれるのも知れねえ暗(くれ)え処(とこ)にぶっ坐(つわ)ッてねえで、燈火でも点けねえ、縁起が悪(わり)いや、お燈明でも上げろ」
 兼「お燈明どこじゃアないよ、私は今帰ったばっかりだよ、深川の一の鳥居まで往って来たんだよ、何処まで往ったって知れやアしないんだよ、今朝宅(うち)のお久が出たっきり帰らねえんだよ」
 長「エヽお久が、何処(どけ)え往ったんだ」
 兼「何処(どこ)へ往ったか解らないから方々探して歩いたが、見えねえんだよ、朝御飯を喰(た)べて出たが、それっきり居なくなってしまって、本当に心配だから方々探したが、いまだに帰(けえ)らねえから私はぼんやりして草臥(くたび)れけえって此処にいるんだアね」
 長「ナ…ナニ知れねえ、年頃の娘だ、え、おう、いくら温順(おとな)しいたってからに悪(わり)い奴にでもくっついて、え、おう、智慧え附けられて好(い)い気になって、其の男に誘われてプイと遠くへ往(い)くめえもんでも無(ね)え、手前(てめえ)はその為に留守居をしているんじゃアねえか、気を附けてくれなくっちゃア困るじゃアねえか」

        二

 かね「留守居をして居るったッて、斯(こ)んな貧乏世帯を張ってるから、使いに出す度(たび)一緒に附いては往かれませんよ、だが浮気をして情夫(おとこ)を連れて逃げるような娘(こ)じゃアありません、親に愛想(あいそう)が尽きて仕舞ったに違いないんだよ、十人並の器量を持ってゝ、世間では温順(おとな)しい親孝行者だといわれてるのに、お前が三年越し道楽(ばか)ばかり為(し)て借金だらけにしてしまい、家(うち)を仕舞うの夫婦別れをするのという事を聞けば、あの娘だって心配して、あゝ馬鹿/″\しい、何時(いつ)までも親のそばに喰附(くっつ)いてれば生涯うだつ[#「うだつ」に傍点]はあがらないから、何処(どこ)へか奉公でもするか、何(ど)んな亭主でも持つ方が、襤褸(ぼろ)を着てこんな真似をしてこんな親に附いて居ようより、一層(いっそ)の事好(い)い処へ往って仕舞おうとお前に愛想(あいそ)が尽きて出たのに違いない、あの娘が居ればこそ永い間貧乏世帯を張って苦労をしながらこう遣(や)っていたが、お久が居ないくらいなら私は直(すぐ)に出て往っちまうよ」
 長「お久が居なけりゃア此方(こっち)も出て往っちまわアな、だからよう、己が悪(わり)いから連れて来て呉んな、父(ちゃん)が悪いッて是から辛抱するから、え、おい、お願(ねげ)えだ、己だってポカリと好(い)い目が出れば、又取返(とりけえ)して、子供に着物の一枚(いちめえ)も着せてえと思って、ツイ追目(おいめ)に掛ったんだが、向後(きょうこう)もうふッつり賭博(ばくち)はしねえで、仕事を精出すから、何処(どこ)へか往ってお久をめっけて来てくんナ」
 かね「めっけて来いたっていないよ」
 長「いねえ/\と云ったって何処(どっ)か居る処(とけ)え往ってめっけて来やアな」
 かね「居る処(とこ)が知れてるくらいなら斯様(こん)なに心配はしやアしない、お戯(ふざ)けでないよ、私もお前のような人の傍(そば)には居られないよ」
 長「居られねえたって……えゝ、おい、お久を何(ど)うかして……」
 かね「何う探しても居ないんだ」
 長「居ねえって……え、おい」
 かね「お前の形(なり)は何(な)んだね、子供の着物なんぞを着てさ、見っともないじゃアないか」
 長「見っともねえったって、竹ン処(とこ)のみい坊の半纏(はんてん)を借りて来たんだ」
 かね「お尻がまるで出て居るよ、子供の半纒なぞを着て、好(い)い気になって戸外(おもて)をノソ/\歩いてゝさ」
 とグズ/\云って居ると、表の戸をトン/\叩き、
 男「御免ください」
 かね「はい只今開けます……誰か来たよ、お前隠れ場が……仕様がないねえ」
 男「どうか開けておくんなさい、御免なさいまし……えゝ誠に暫(しばら)く、何時(いつ)もお達者で」
 長「へえ…誰だっけ忘れちまった、何方(どなた)でしたかえ」
 男「エヽ私は角海老(かどえび)の藤助(とうすけ)でございます」
 と云われて長兵衞は手を打ち、
 長「おう、違(ちげ)えねえ、こりゃアどうも、すっかり忘れちまッた、カラどうも大御無沙汰になっちまって体裁(きまり)が悪いんでね、こんな処(とけ)え来てしまったんで、誠にどうもツイ…」
 藤「お内儀(かみ)さんが、一寸(ちょっと)長兵衞さんに御相談申したい事があるから、直(すぐ)に一緒に来るようにという事で」
 長「お前(めえ)さんの処(とこ)は余(あんま)り御無沙汰になって敷居が鴨居で往(い)かれねえから、何(いず)れ春永(はるなが)に往きます、暮(くれ)の内は少々へま[#「へま」に傍点]になってゝ往かれねえから何れ…」
 藤「兎や角(こ)う仰しゃるだろうが、直にお連れ申して来いと、お内儀さんが仰しゃるので」
 長「直にったって大騒ぎなんで、家内(うち)に少し取込(とりこみ)があるんで、年頃の一人娘のあまっちょが今朝出たっきり帰(けえ)らねえので、内の女房(やつ)も心配(しんぺえ)してえるんでね」
 藤「お宅(うち)の姉(ねえ)さんのお久さんは宅へ来ておいでなさいますよ、其の事に就(つ)いてお内儀さんが貴方(あなた)に御相談があるので」
 長「エヽ…お久がお前(めん)処(とこ)に往ってるとえ」
 かね「あらまア本当に有難う存じます、何処(どこ)へ参りましたかと存じて心配して居ましたが、御親切に有難う存じます…お前さん直(すぐ)に往って連れて来ておくれよ」
 長「じゃアまアなんだ……直に後(あと)から往きますからお内儀さんへ宜しく」
 藤「直に御同道しろと申しましたから」
 長「直にったって何(な)んですから、直(じき)に後から参ります、左様なら宜しく」
 かね「何んだよお前、御親切に知らせて下すったのに何故直(すぐ)に往かないんだよ」
 長「なぜったって此の形(なり)じゃア往かれねえ……手前(てめえ)のを貸しねえ」
 かね「いやだよ私の着物がありゃアしないよ」
 長「手前は宅(うち)に居るんだからこの半纒を着て居やアな」
 かね「そんなものを着ては居られません、お尻がまるで出てしまうよ」
 長「湯巻(ふんどし)を締めてりゃア知れないよ」
 かね「人が来ても挨拶が出来ないよ」
 長「面と向って話をして、後(あと)へ退(さが)る時に立てなければ後びっしゃりをすればいゝ」
 かね「おふざけでないよ」
 長「そんな事を云わねえで貸しな」
 と無理やりに女房の着物を引剥(ひっぱ)いでこれを着て出掛けました。

        三

 左官の長兵衞は、吉原土手から大門(おおもん)を這入りまして、京町一丁目の角海老楼(かどえびろう)の前まで来たが、馴染の家(うち)でも少し極りが悪く、敷居が高いから怯(おび)えながら這入って参り、窮屈そうに固まって隅の方へ坐ってお辞義をして、
 長「お内儀(かみ)さん、誠に大御無沙汰をして極りがわるくって、何(な)んだか何(ど)うもね……先刻(さっき)藤助どんにも然(そ)う申しやしたんですが、余(あんま)り御無沙汰になったんで、お見違(みそ)れ申すくれえでごぜえやすが、何時(いつ)も御繁昌のことは蔭ながら聞いておりやす、誠に何んとも何うもお忙がしい中をわざ/\お知らせ下すって誠に有難うござえやす……お久ア此処(こゝ)に打(ぶ)ッ坐(つわ)ってゝ、宅(うち)の者(もん)に心配(しんぺえ)を掛けて本当に困るじゃアねえか、阿母(おっか)アはお前(めえ)を探しに一の鳥居まで往ったぜ、親の心配は一通りじゃアねえ、年頃の娘がぴょこ/\出歩いちゃアいけねえぜ、何んで此方様(こちらさま)へ来てえるんだ、こういう御商売柄(ごしょうべえがら)の中へ」
 内儀「それ処(どこ)じゃアないよ、こうしてお前の事を心配して来たのだ、這入りにくがって門口をうろ/\していたが、切羽詰りになって這入って来たんだが、私も忘れちまったあね、お前が仕事に来る時分、蝶々髷(ちょう/\まげ)に結ってお弁当を持って来たっきり、久しく会わないから、私も忘れてしまったが、此処(こゝ)へ来て、此の娘がおい/\泣いて口が利けないんだよ、それからまアどうしたんだ、何か心配事でも出来たのかというと、此の娘(こ)が親の恥を申しまして済みませんけれども、親父(おやじ)がまだ道楽が止みませんで、宅(うち)へも帰らず、賭博(いたずら)ばかり烈しく致して居りますが、あすが日、親父の腰へ縄でも附きますような事がありますと、私も見てはいられませんが、漸々(だん/\)借財が出来まして、何(ど)うしても此の暮が行立(ゆきた)たず、夫婦別れを為(し)ようか、世帯をしまおうかというのを、傍(そば)で聞いて居りますと、私も子供じゃアありませんから、聞き捨(ずて)にもなりませんので、誠に申し兼ねましたが、お役には立ちますまいけれど、私の身体を此方(こちら)さまへ、何年でも御奉公致しますから、親父をお呼びなすって私の身の代(しろ)を遣(や)って、借財の方(かた)が付いて、両親交情好(なかよ)く暮しの附きますように為てやりとうございます、私がこういう処へつとめをしていますれば、よもや親父も私への義理で、道楽も止もうかと存じます、左様(そう)なれば親父への意見にもなりますから、どうぞ私の身体をお買いなすって下さいと、手を突いて私へ頼むから、私も恟(びっく)りしたんだよ、本当に感心な事だって、当家(うち)にも斯(こ)うやって沢山抱(かゝえ)の娘(こ)もあるが、年頃になって売られて来るものは大概淫奔(いたずら)か何か悪い事を仕て来るものが多いんだのに、親の為に自分から駈込んで来て身を売るというような者が又とある訳のものじゃアないよ、本当にこんな親孝行者に苦労をさせて好(い)い気になってちゃア済まないよ、お前幾歳(いくつ)におなりだ、四十の坂を越して、何うしたんだねまア、此の娘(こ)に不孝だよ」
 長「えゝ……誠にどうも面目次第(しでえ)もごぜえやせん、そんな事と知らねえもんですからね、年頃にもなってやすから、ひょッと又悪い者が附いて意地でも附けて遠くへ往っちまったかと思って、嬶(かゝ)アも驚きやして、方々探して歩いた訳なんで、へえ、お久堪忍してくれ、誠に面目次第もねえ、汝(てめえ)にまでおれは苦労をさせて」
 と云いさして涙を浮(うか)め、声を曇らし、
 長「実は己(おら)アお内儀さんの前(めえ)だが、汝(てめえ)に手を突いて謝るくれえ親の方が悪(わり)いんだが、汝の知ってる通り、此の暮は何うしても行立たねえ訳になっちまったんだけれども、たった一人の娘を女郎(じょうろ)に売りたくもねえし、世間へ対(てえ)しても済まねえ訳だ、又本意でもねえから、然(そ)んな事を為(し)たくもねえが、何うでも斯(こ)うでも此の暮が行立たねえから、お久、親が手を突いて頼むが、何うかまア他家(ほか)さまなら願(ねげ)え難(にく)いが、此方(こちら)さまだから悪くもして下さるめえから、此方さまへ奉公して、二年か三年辛抱してくれゝば、汝の身の代だけは一旦借金の方(かた)せえ付けてしまえば、己がまたどんなにでも働(はたれ)えて、汝の処は何(な)んとかするが、然(そ)うしてくれゝば己への良(い)い意見だから、向後(きょうこう)ふっつりもう賭博(ばくち)のば[#「ば」に傍点]の字も断って、元々通り仕事を稼いで、直(じき)に汝の身受を為(し)に来るから、それまで汝奉公してえてくれ」

        四

 久「私は、固(もと)より覚悟をして来た事だから、何時(いつ)までも奉公しますけれど、お前また私の身の代を持ってってしまって、いつものように賭博(ばくち)に引掛(ひっかゝ)ってお金を失してしまうと、お母(っかあ)がまたあゝいう気象だからお前に逆らって、何(な)んだ彼(か)んだというとお前が又癇癪を起して喧嘩を始めて、手暴(てあら)い事でもして、お母の血の道を起すか癪でも起ったりすると、私がいればお医者を呼びに往ったり、お薬を飲ましたりして看病する事も出来ますが、私がいないと、お母を介抱する人がないのだから、後生お願いだが、私は幾年でも辛抱するからお前お母と交情好(なかよ)く何卒(どうぞ)辛抱して稼いでおくんなさいよ、よ」
 長「あいよ………あいよ……誠に何(ど)うもカラどうも面目次第(しでえ)もごぜえやせんで、何(な)んともはや、何うも、はア後悔(こうけえ)しやした」
 内儀「御覧よ、こういう心だもの、実に私も此の娘(こ)には感心してしまったが、お前幾干(いくら)お金があったら此の暮が行立(ゆきた)つんだよ」
 長「へえ私(わっち)共の身の上でごぜえやすから百両(いっぽん)もあればすっかり綺麗さっぱりになるんで」
 内儀「百両(ひゃくりょう)で宜(い)いのかえ」
 長「へえ…」
 内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度(た)くもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯(こ)う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅(あんばい)の悪い時に手許(てもと)へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出(うけだ)しに来るが宜いよ」
 長「へえ私(わっち)も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
 内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰(ばち)は当らないでも神様の罰が当るよ」
 長「えゝそれは当ります、へえ有難うござえやす、貧乏世帯(じょてえ)を張ってるもんですから、母親(おふくろ)と一緒に苦労して借金取のとけえ自分で言訳に往って詫ごとをしてくれるんです……へえ、其の代りお役には立ちやすめえから、一々小言を仰しゃって下せえやし、お久、お内儀さんも斯(こ)う仰しゃって下さるから何(なん)だが、店へ出てお客の機嫌気褄(きづま)の取れる人間じゃアねえが、其の中(うち)にゃア様子も解るだろうから……己は早く家(うち)へ帰(けえ)ってお母(っかあ)にも悦ばせ、借金方を付けて、質を受けて、汝(てめえ)の着物も持って来るから」
 内儀「そんな事は宜(い)いよ、江戸行(ゆき)の時に取りに遣(や)るから……お前財布があるまい、お金も丁度他家(わき)から来たのがあるから財布ぐるみ百両貸して上げるよ、さア持っておいで」
 長「へえ、誠に何うも、有難うござえやす、じゃアお内儀さん直(すぐ)にお暇(いとま)しやす」
 内儀「早く家(うち)へ往ってお内儀さんに安心させてお上げよ」
 長「じゃアお久、宜いか」
 久「お母(っか)さんによくいっておくれよ」
 長「あい、あい」
 と戸外(おもて)へ出たが、掌(て)の内の玉を取られたような心持で腕組を為(し)ながら、気抜の為たように仲の町(ちょう)をぶら/\参り、大門を出て土手へ掛り、山の宿(しゅく)から花川戸(はなかわど)へ参り、今吾妻橋(あづまばし)を渡りに掛ると、空は一面に曇って雪模様、風は少し北風(ならい)が強く、ドブン/\と橋間(はしま)へ打ち附ける浪の音、真暗(まっくら)でございます。今長兵衞が橋の中央(なかば)まで来ると、上手(うわて)に向って欄干へ手を掛け、片足踏み掛けているは年頃二十二三の若い男で、腰に大きな矢立を差した、お店者(たなもの)風体(ふうてい)な男が飛び込もうとしていますから、慌(あわ)てゝ後(うしろ)から抱き止め、
 長「おい、おい」
 男「へゝへえ」
 長「気味の悪い、何(な)んだ」
 男「へえ…真平(まっぴら)御免なさいまし」
 長「何んだお前(めえ)は、足を欄干へ踏掛(ふんが)けて何(ど)うするんだ」
 男「へえ」
 長「身投げじゃアねえか、え、おう」
 男「なに宜(よろ)しゅうございます」
 長[#「長」は底本では「男」と誤記]「なに宜(い)い事があるもんか、何んだ若(わけ)え身空アして……お店風だが、軽はずみな事をして親に歎(なげ)きを掛けちゃアいけねえよ、ポカリときめちまってガブ/\騒いだってお前(めえ)助かりゃアしねえぜ、え、おい、何(なん)で身を投げるんだえ」

        五

 男「御親切に有難うございます、私も身を投げる気はございませんが、迚(とて)も行立ちません、もう思案も分別も仕尽しました暁(あかつき)に覚悟を極(きわ)めたので、中々容易な事ではございませんから、お構いなく往らしって下さいまし」
 長「お構いなくったって、お構いなく往(い)かれるかえ、人情としてお前(めえ)の飛び込むのを見て、アヽ然(そ)うかといって往かれねえじゃアねえか何(な)んで死ぬんだよ、店者(たなもの)だから大方女郎のつかい込みで、金が足らなくって主人に済まねえって………極ってらア、然うだろう」
 男「いえなに然(そ)んな訳じゃアないが、なに宜しゅうございます」
 長「宜しくねえよ、冗談じゃアねえぜ、え、おう」
 男「御親切は有難う存じます、私は白銀町(しろかねちょう)三丁目の近卯(きんう)と申します鼈甲問屋(べっこうどんや)の若い者ですが、小梅(こうめ)の水戸様へ参ってお払いを百金戴き、首へ掛けて枕橋(まくらばし)まで参りますると、ポカリと胡散(うさん)な奴が突き当りましたから、はっと思ってると、私(わたくし)の懐へ手を入れて逃げて行(ゆ)きましたから、何を為(し)やアがると云って、後(あと)で見ますと金が有りませんから、小僧の使(つかい)ではなし、金を泥坊に奪(とら)れたといって帰られもせず、と云って何処(どこ)へ往って相談致すという処もございませんから、身を投げるんで、大金の事でございますから何(ど)んな処(とこ)へ参りまして相談を致しても無駄でございますから身を投げるのでございます、何(ど)うぞお構いなく往らしって」
 長「百両奪られちまッたのかえ、何うも為(し)ょうがねえなア、冗談じゃアねえぜ、大店(おおとこ)なんてえもなアおおまかだなア、己(おら)ッちの身の上では百両の金で借金を残らず払って、好(い)い正月が出来るんだが、本当に、大金を奪られるような者に払いを取りに遣るとはおおまかなもんだなア、お前(めえ)もまた間抜じゃアねえか、胴巻へ入れて確(しっか)り懐へ入れて置けば宜(い)いのに、百両といえば重(おめ)え金額(かね)だ、本当に冗談じゃアねえぜ、だがの……金で生命(いのち)は買えねえや、え、おう、何処(どっか)へ相談しに往きねえな、旦那に逢って然(そ)う云いねえ、泥坊に奪られて誠に面目次第(しでえ)もござえやせん、全く奪られたに違(ちげ)え有りやせんて、え、おう何処(どっか)へ往って相談して見ねえな」
 男「へえ、相談したくも親も兄弟も無い身の上で、主人も手前ばかりは身寄頼りのない身の上だから、辛抱次第で行々(ゆく/\)は暖簾(のれん)を分けて遣る、其の代り辛抱をしろ、苟(かりそめ)にも曲った心を出すなと熟々(つく/″\)御意見下すって、余(あんま)り私を贔屓(ひいき)になすって下さいますもんだから、番頭さんが嫉(そね)んで忌(いや)な事を致しますから、相談も出来ませんが、何うしても私(わたくし)が女郎(じょうろ)買でも為(し)て使い込んだとしきゃア思われませんから、面目なくって旦那さまに合(あわ)す顔はございません、なに宜しゅうございますからお構いなく往らしって」
 長「いけねえなア、何うしてもお前(めえ)死(しな)なくッちゃアいけねえのか………じゃア仕方がねえ、金ずくで人の命は買えねえ、己も無くッちゃアならねえ金だが、お前に出会(でっくわ)したのが此方(こっち)の災難(せえなん)だから、これをお前に………だが、何うか死なねえようにしてくんなナ、え、おう」
 男「ヘエ、死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」
 長「お構(かめ)えなくッたって……じゃア往くから屹度(きっと)死なねえとはっきり極りをつけてくんなよ」
 男「宜しゅうございます、死にません、/\、へえ」
 長「冗談じゃアねえぜ、往くよ宜(い)いか」
 と云いながらバタ/\/\と二十歩ばかり駈けて来たが、何うも気に成るから振り返(かえ)て見ると、其の若い者がバタ/\/\と下手(しもて)の欄干の側へ参り、又片足を踏掛(ふんが)けて飛び込もうとする様子ゆえ、驚いて引返(ひっかえ)して抱き留め、
 長「まア待ちなよ、待ちなてえに……それじゃア何うしても金が無けりゃア生きて居られねえのか、仕様がねえなア、さア己がこれを……だが何(ど)うか死なねえような工夫はねえかなア……じゃアまア仕方がねえ……困るなア」
 男「お構いなく往らッして、御親切は解りましたから」
 長「じゃア往くよ」
 とバラ/\/\と往きに掛ったが、又飛び込もうとするから、
 長「仕様がねえなア此の人は、冗談じゃアねえぜ、金が無くッちゃア何うしてもいけねえのか」
 男「へえ、有難う存じますが」
 とさめ/″\と泣き沈み、涙声で、
 男「私(わたくし)だッて死に度(たく)はございませんけれども、よんどころない訳でございますから、何うぞお構いなく往らしって、もう宜しゅうございます」
 長「お構いなくったって往けねえやな、仕方がねえ、じゃア己が此の金を遣ろう」

        六

 長「実は此処(こゝ)に百両持ってるが、これはお前(めえ)のを奪(と)ったんじゃアねえぜ、己は斯(こ)んな嬶(かゝあ)の着物を着て歩く位(くれえ)の貧乏世帯(じょてえ)の者が百両なんてえ大金(てえきん)を持ってる気遣(きづけえ)はねえけれど、己に親孝行な娘が一人有っての、今年十七になるお久てえ者(もん)だが、今日吉原の角海老へ駆込(かっこ)んでって、親父が行立ちませんから何うか私の身体を買っておくんなさい、親父への意見にもなりましょうからって、娘が身を売って呉れた金が此処に在(あ)るんだが、其の身の代をそっくりお前に遣るんだ、己ん処(とこ)の娘は、泥水へ沈んだッて死ぬんじゃアねえが、お前は此処から飛び込んで本当に死ぬんだから、此れを遣っちまうんだ、其の代り己は仕事を為(し)て、段々借金を返(けえ)して往った処(とこ)が、三年かゝるか、五年掛るか知れねえが、悉皆(すっか)り借金を返(けえ)し切って又三年でも五年でも稼がなけりゃア、百両の金を持って、娘の身請を為(し)に往く事が出来ねえ、あゝ何(な)んでも斯(か)んでも娘を女郎(じょうろ)にするのだ、仕方がねえ、其の代り己の娘が悪い病(やめえ)を引受けませんよう、朝晩凶事なく達者で年期の明くまで勤めますようにと、お前心に掛けて、ふだん信心する不動様でも、お祖師様でも、何様へでも一生懸命に信心して遣っておくれ」
 男「何う致しまして左様な金子は要りません」
 長「己だってさ遣りたくも無(ね)えけれどお前(めえ)が死ぬというから遣るてえのに、人の親切を無にするのけえ」
 と云いながら放り付けて往きました。
 男「やい何を為(し)やアがるんだ、斯(こ)んなものを打附(ぶっつ)けやアがって、畜生め、財布の中へ礫(いしころ)か何か入れて置いて、人の頭へ叩き附けて、ざまア見やアがれ、彼様(あん)な汚ない形(なり)を為(し)ていながら、百両なんてえ金を持ってる気遣(きづけ)えはねえ、彼様な奴が盗賊(どろぼう)だか何(な)んだか知れやアしない、此様(こん)な大きな石を入れて置きやアがって」
 と撫(なで)て見ると訝(おか)しな手障(てざわり)だから財布の中へ手を入れて引出して見ると、封金(ふうきん)で百両有りましたから恟(びっく)りして橋の袂(たもと)まで追駆(おっか)けて参り、
 男「もしお前さん、今のお方もし……アヽもう見えなくなっちまった……有難う存じます、此の御恩は死んでも忘れやア致しません、左様なお方とも存じませんで悪口(あっこう)を吐(つ)きまして済みません、誠に有難う存じます、必ず一度は此の御恩をお返し申します、有難う存じます」
 と生返ったような心持になりましたから、取急いで白銀町三丁目の店へ帰って参りましたが、御主人は使いの帰りが遅いから心配でございます。
 主人「平助(へいすけ)どん、未だ帰りませんか文七は」
 平「へえ、まだ帰りません、使いに出すと永いのが彼(あれ)の癖で、お払い金などを取りにお遣りなさるのは宜しくない事で、誠に困りましたな」
 主「帰ったら能く小言をいいましょう」
 と心配して居る処へ表の戸をトン/\/\、
 文「番頭さんトン/\/\……番頭さん文七でございます、只今帰りました」
 平「旦那、文七が帰りました」
 主「よく然(そ)ういってくんな」
 平「今開けるよ……何(ど)う云うもんだなア、余(あんま)り遅いじゃアないか掛廻(かけまわ)りに往った時などは早く帰って来てくれないと、旦那のお小言が私(わし)の方へ来るから本当に迷惑だ、冗談じゃアないぜ」
 文「誠に遅くなりました、つい高橋様のお相手を為(し)て居りまして、御機嫌を取り/\種々(いろ/\)お話しになりましたので、大きに遅くなりまして誠に相済みません」
 平「旦那文七が帰りました」
 主「さア/\此方(こっち)へ遣(よこ)しておくれ、実に困ります」
 文「旦那只今、高橋様で種々世の中のお話が有りまして、又碁のお相手を致したものですから大きに遅くなりました、えゝそれから高橋様が此方(こちら)から持って参りました革の財布を御覧なさいまして、商人(あきんど)は妙な財布を持つ、少し借り度(た)い、其の代り此方の縞の財布を貸して遣ると仰しゃって、是を拝借致しまして、金子は慥(たしか)に百両受取って参りましたから、お改めなすってお受け取り下さいますように」
 主「なに金を……何を云うんだな、変な人だな、実に、文七は使(つかい)に出せないね、本当に」

        七

 主人「お得意先へ掛け廻りに往って、其処(そこ)でお相手をするったって碁を打つという事はありませんよ、お前は碁にかゝるとカラ夢中だから困る、お前が帰って仕舞った後(あと)を見ると碁盤の下に財布の中へ百両入ったなり有ったから、高橋様(さん)がお驚きなすって、さぞ案じて居るだろうから早く知らせて遣れと仰しゃって、彼方(あちら)の御家来が二人で提灯(ちょうちん)を点(つ)けて先刻(さっき)金子は届けて下すったのに、虚言(うそ)を吐(つ)いて……革財布は彼方で入用(いりよう)とはなんだ、ちゃんと此処(こゝ)に百金届いていますよ……其の百両の金は何処(どっ)から持って来たんだ」
 文「ヘエ……それは大変」
 主「なに」
 文「それは何(ど)うも、大変な事で」
 主「何(な)んだ」
 文「ヘエ………それじゃア私ゃ奪(と)られなかったんだ」
 主「何んだ、お前はどうも訳の解らん事を云うからしょうがない、平助どん、此の金の出所(でどころ)を調べておくれ、イエサ、未だ二十二や三になるものに、百両という大金を自由にされるような事は有るまい、お前へ店を預けて置くのに、またこれがどう云う融通をして、何処(どこ)に金を預けて置くか知れねえから此の百両の出所(でどこ)を調べてくんな」
 平「ヘエ……おい、お前私(わし)が迷惑するよ、冗談じゃアない、困るよ、疾(と)うに金は届いてる処(とこ)へ又百両持って来るてえのは訝(おか)しいじゃアないか」
 文「ヘエ/\、誠に粗忽(そこつ)千万な事を致しました、何(な)んとも何(ど)うも申訳はございませんが、実は慥(たし)かに懐へ入れてお邸(やしき)を出た了簡でございまして、枕橋まで参ると怪しい奴が私(わたくし)に突き当りながら、グッと手を私の懐の中へ入れました時に奪(と)られたに違いないと思い、小僧の使じゃアなし、旦那様に申訳がない、百両の金子を奪られては済まんと存じまして、吾妻橋から身を投げようと致す所へ通り掛ったお職人体(てい)の方が私(わたし)を抱き止めて、何ういう訳で死ぬかと尋ねましたから、これ/\と申すと、それは気の毒だ、此処(こゝ)に百両有る、これを汝(てめえ)に遣るから泥坊に奪られない積りで主人の処(とこ)へ往くが宜(い)い、併(しか)しそれは尋常(ただ)の金じゃない、たった一人の娘が身を売った身(み)の代金(しろきん)だけれども、これを汝に遣るからと仰しゃって、御親切なお方に戴いて参りましたのでございます」
 主「イヤハヤ何(ど)うも呆れちまった、何うだろう、其のお方が通らんければドブリと飛び込んで仕舞い、土左衛門になっちまったんだ、アヽ危い処(とこ)だ、ムヽ、其のお方はお前の命の親だ、御真実なお人だの、何うも百金と云う金を直(す)ぐに恵んで下さるとは有難いお方だ、その何は何処(どこ)のお方で何(な)んと云うお方様だ」
 文「ヘエ……何んてえお方だか存じません」
 主「馬鹿だねお前何うもコレ百両という大金を戴きながら、其のお方のお名前も宿所(しゅくしょ)も聞かんてえ事はありませんよ」
 文「お名前も所もお聞き申す間もないので、アレ/\といってる中(うち)に、ポンと金を打(ぶ)ッ附けて逃げて往(ゆ)きました」
 主「金を人に投げ附けて逃げて行(ゆ)く奴があるものか、お名前が知れんじゃアお礼の為(し)ようもなし、本当に困るじゃアねえか」
 文「ヘエ、誠に何うも済みませんで」
 主「ムー……娘を売った金とかいったな」
 文「ヘエ、その今年十七になるお久さんという娘の身を角海老へ売った金が百両あるから、これをお前に遣るが、娘は女郎(じょうろ)にならなけりゃアならない、悪い病を受けて死ぬかも知れないから、明暮(あけくれ)凶事のないように、平常(ふだん)信心する不動様へでも何(な)んでも、お線香を上げてくれと、男泣きに泣きながら頼みましたが、旦那さまえ、何うか店の傍(わき)へ不動様を一つお拵(こしら)えなすッて」
 主「何んだ馬鹿ア云って……コーと角海老というのは女郎屋さんだ、其処(そこ)へ往ってお久さんという十七になる娘が身を売ったかと聞けば、それから知れるが、私(わし)は頓(とん)と吉原へ往った事がないのだ、斯(こ)ういう時には誠に困る、店のものも余(あんま)り堅いのは斯ういう時に困るな、吉原へは皆(みん)な往った事がないからのう、平助どんなぞも堅いから吉原は知るまい」
 平「エヽ角海老てえ女郎屋(じょうろや)は京町の角店(かどみせ)で立派なもんです」
 主「お前吉原へ往ったのかえ」
 平「此間(こないだ)三人で…イエ何(な)にソノ」
 主「ごまかして時々出掛けるね、併し今夜は小言を云いません、夜更(よふけ)の事だから、向後(きょうご)たしなみませんといけませんよ」
 と別に小言もなく引けました。

        八

 翌朝(よくあさ)主人は番頭を呼んで何かコソ/\話を致しましたが、やがて番頭の平助は何(いず)れへか飛んで往(ゆ)き、暫く経って帰って来まして、またコソ/\話をしましたが、解ったと見えまして、
 主人「羽織を出してくんナ……文七や供だよ」
 文「ヘエ」
 と文七が包(つゝみ)を持って旦那の後(あと)へ随(つ)いて観音様へ参詣を致し、彼(あ)れから吾妻橋へ掛りました時に文七は「あゝ昨夜(ゆうべ)此処(こゝ)ン処(とこ)で飛び込もうとしたかと思うと悚然(ぞっ)とするね」と云いながら橋を渡って参りました。
 主人「本所達磨横町というのは何処(どこ)だえ、慥か此所(こゝ)らかと思うが、あの酒屋さんで聞いて見な左官の長兵衞さんというお方がございますかッて」
 文「ヘエ……少々物を承ります、エヽ御近所に左官の長兵衞さんて方がございますか」
 番頭「それはね、彼処(あすこ)の魚屋の裏へ這入ると、一番奥の家(うち)で、前に掃溜(はきだめ)と便所(ちょうずば)が並んでますから直(じき)に知れますよ」
 主人「大きに有難う存じます、それから五升の切手を頂戴致します、柄樽(えたる)を拝借致します、樽は此方(こちら)で持って参りますから」
 と代を払って魚屋の路地へ這入って参ります。此方は長兵衞の家(うち)は昨夜(ゆうべ)からの騒ぎでございます。
 兼「何(ど)うするんだよ、何処(どこ)へお金を遣ったんだよ」
 長「何処へって遣っちまったよ」
 兼「お金を預けた処(とこ)をお云いな」
 長「預けたんじゃアねえよ、遣っちまったんだてえに、解らねえ、昨夜(ゆうべ)から終夜(よっぴて)責めてやアがって些(ちっ)とも寝られやアしねえ、己だって遣りたくはねえが、人が死ぬってえんだ、人の命に換(け)えられるけえ」
 兼「ふん、人を助けるなんてえのは立派な大家(たいけ)の旦那様のする事だよ、娘が身を売ってお前の為に百両拵(こしら)えてくれたものを、ムザ/\他人(ひと)に遣っちまうてえ奴があるかえ本当に、何処(どっ)かへ金を預けて置いて、又賭博(ばくち)の資本(もとで)にしようと思って、本当に其の金はどうしたんだよ、何処へ遣ったんだよう」
 長「己だって遣り度(た)くはねえ、余(あんま)り見兼たから助けたんだ」
 兼「ふん、見兼て助ける風(ふう)かえ、足を掬(すく)って放り込むだろう」
 長「誰が放り込む奴があるものか」
 とグズ/\いつている処へ、
 主人「ハイ御免下さいまし」
 長「おゝ、無闇に開けちゃアいけねえよ……見っともねえ、そんな形(なり)をして、人が来たんだよ、己が挨拶をするまで其処(そこ)に隠れていねえ」
 兼「見っともないたッて誰が斯(こ)んな形に仕たんだよ」
 長「えゝ大きな声をするな、見っともねえから二枚折(にめえおり)の屏風(びょうぶ)の後(うしろ)へ引込んでな、え、もう開けても宜(よ)うがす」
 主人「御免下さいまし、長兵衞さんと仰しゃる棟梁さんのお宅(たく)は此方(こちら)で」
 長「えゝ何(な)に棟梁でも何んでもねえんで、ヘヽヽ縮屋(ちゞみや)さんかえ」
 主人「イエ私(わたくし)は白銀町三丁目近江屋卯兵衞(おうみやうへえ)と申しまして鼈甲渡世を致すもので、此者(これ)をお見覚えがございますか……何(ど)うかよく此の奉公人の顔を御覧なすって……文七此方(こちら)へ出て此のお方のお顔を見な」
 文「ヘエ/\、此のお方……アヽ、此のお方でございます、昨晩は誠に有難う存じます………旦那様此のお方が私(わたくし)を助けて下すったに違いないので」
 長「おゝ此の人だ、お前(めえ)だ、何うもまア宜(よ)かった、お前に金を遣ったに違(ちげ)えねえね……賭博(ばくち)の資本(もとで)に他(わき)へ預けたんじゃアねえ、チャンと証拠があるんだが、まア宜かったノ」
 文「ヘエ、何うも、是は何うも、昨夜(ゆうべ)は暗くって碌にお顔も見えませんでしたが、お蔭様で助かりまして有難う存じます」
 主人「其の折はまた此者(これ)が不調法な詰らん事を申し貴方に御苦労を掛けまして、何(なん)とも何(ど)うもお礼の申上げようがございません、まったくは此者が泥坊に奪られたのではございません、お屋敷へ忘れて参りましたので、此の者が宅へ帰らんうちに金子はお屋敷から届けて参りましたから、何うしたのかと案じて居りまする処へ此者が帰って参りまして、金子を出しましたから、不思議に思いまして、段々調べて見ますると、まったくは賊に奪られたと心得て、吾妻橋から身を投げようとする処へ、これ/\のお方が通ってお助けなすったという事ゆえ、取敢(とりあえ)ずお礼に出ましたが、何んとも何うも恐入りました、有難う存じます」

        九

 主人「私共(わたくしども)も随分大火災(おおやけ)でもございますと、五十両百両と施(ほどこし)を出した事もありますが、一軒前一分か二朱にしきゃア当りませんで、それは名聞(みょうもん)、貴方は見ず知らずの者へ、おいそれと百両の金子を下すって、お助けなさるという其のお志というものは、実に尊い神様のようなお方だッて、昨夜(さくや)もね番頭と貴方のお噂を致しましたなれども、お名前が知れず、誠に心配致しておりましたが、ようやくの事で解りましたから、御返金に参りましたが、慥(たし)か此れは角海老さんとかで御拝借の財布だそうで、封金のまゝ持って参りましたから、そっくりお手許(てもと)へお返し申します。」
 長「えゝ」
 と手に取上げて考え、
 長「金子が出たんですか」
 主「ヘエ、金子は奪られは致しません、此者(これ)より先(さ)きに宅(うち)へ届いて居りましたから二重でございます」
 長「ムヽ…じゃア此の人は奪られねえのかえ、冗談じゃアねえぜ、え、おう、己(おら)アお前(めえ)のお蔭で夜(よっ)ぴて嬶(かゝあ)に責められた……旦那ア間違(まちげえ)だって程があらア」
 主人「此者も全く奪られたと思ったので、誠に何(ど)うも何(な)んともお礼の申し上げようはございませんが、金子は其の儘お受取りを願います」
 長「だがね、これを私(わっち)が貰うのは極りが悪(わり)いや一旦此の人に遣っちまったんだから取返すのは極りが悪いから、此の人に遣っちまおう、私は貧乏人で金が性(しょう)に合わねえんだ、授からねえんだろうから、此の人が店でも出す時の足(たし)にして下さえ、一旦此の人に授かった金だから、何うか遣っておくんねえ」
 主人「イエ/\どう致しまして、奪られたら戴きます、御気象は解りましたから、併し全く二重に金を私が戴く訳で」
 長「だがね、何うも……だからよ、貰って置くから宜(い)いじゃアねえか……誠にどうも旦那ア、極りが悪(わる)いけれど、私(わっち)も貧乏世帯(じょてえ)を張ってやすから此の金はお貰(も)れえ申しやしょう」
 主人「それは誠に有難い事で、就(つ)きましては貴方のような御侠客のお方と御懇意に致していますれば、此方(こちら)の曲った心も直ろうかと存じますので、押附けた事を願って誠に恐入りますが、今日(こんにち)から親類になって下さるように、私(わたくし)は兄弟と云う者がない身の上でございますゆえ、今年からお供(そなえ)の取遣(とりや)りを致します、明日(みょうにち)あたり餅搗(もちつ)きを致しますから、直(すぐ)にお供をお届け申しますが、何(ど)うぞ幾久しく御交際を願います」
 長「冗談いっちゃアいけやせん、私(わっち)のような貧乏人が親類になろうもんなら、番ごと借りにばかり往って仕ようがねえ」
 主人「イエ/\何うか願います、それに又此の文七は親も兄弟もないもので、私(わたくし)どもへ奉公に参った翌年に親父がなくなりましたが、実に正道潔白(しょうとうけっぱく)な人間ですが、如何(いか)にも弱い方(ほう)で店でも出して遣りたいが、然(しか)るべき後見人が無ければ出して遣れんと思っておりましたが、貴方のようなお方が後見になって下されば私は直(すぐ)に暖簾(のれん)を分けて遣るつもりで、命の親という縁もございますから、親兄弟の無いものゆえ、此者(これ)を貴方の子にして遣って下さいまし、文七も願いな」
 文「何うか貴方、然(そ)うでもして下さいませんと、私(わたくし)は貴方に御恩返しの仕方がございません、不束(ふつつか)でございますが、私を貴方の子にして下されば、どんなにでも御恩返しに御孝行を尽します」
 長「ヘエ、どうも旦那ア妙ですナ、へんてこですな」
 主人「イエも何う致しまして、親子兄弟固めの献酬(さかずき)を致しましょう…先刻(さっき)の酒を、その柄樽を文七」
 文「ヘエお肴(さかな)が」
 主人「イエサもう来ているだろう」
 と云いながら腰障子を開けると、其の頃の事ゆえ、四ツ手駕籠で、刺青(ほりもの)だらけの舁夫(かごや)が三枚で飛ばして参り、路地口へ駕籠を下(おろ)し、あおりを揚げると中から出たのはお久で、昨日(きのう)に変る今日(きょう)の出立(いでた)ち、立派になって駕籠の中より出ながら、
 久「お父(とっ)さん帰って来たよ」
 長「ムーンお久……どうして来た」
 久「あの此処(こゝ)にいらっしゃる鼈甲屋の旦那様に請出(うけだ)されて帰って来たよ」
 兼「オヤお久、帰ったかえ」
 と云いながら起(た)つと、間が悪(わり)いからクルリと廻って屏風の裡(うち)へ隠れました。さて是から文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、麹町(こうじまち)六丁目へ文七元結の店を開いたというお芽出度(めでた)いお話でございます。
(拠酒井昇造速記) 



底本:「圓朝全集 巻の一」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年6月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の一」春陽堂
   1925(大正15)年9月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年5月8日公開
2002年1月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


底本:「圓朝全集 巻の一」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
   1963(昭和38)年6月10日発行
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   1925(大正15)年9月3日発行
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ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
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【表記について】

/\:二倍の踊り字(濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」)