菊をたべるといふことになると聊か野蛮で小愧かしいやうな気もせぬではないが、お前死んでも寺へはやらぬ焼いて粉にして酒で飲むといふ戯れ唄の調子とも違ひはするが、愛のはてが萎れ姿を眼にするよりも一寸のわざくれに摘んで取つて其清香秀色を口にするのもさして咎めるにも及ぶまい。既に楚辞にも、秋菊の落英を餐ふ、とある位だ。ところが、此の落英の落の字が厄介で、菊ははら/\と落ちるものではないから、落は先日某君から質問された「チヌル」の事に関係のある落成の落の字と見なして、落英は即ち咲いた花だといふ説もあるが、何だかおちつきの悪い解ではある。菊の花の落ちる落ちぬについては、後に王安石と蘇東坡との間に軽い争があつた談などもあるが、話の横道入りを避けて今は抛って置く。さて、たべる菊は普通は黄の千葉又は万葉の小菊で、料理菊と云つて市場にも出て来るのであるが、それは下物のツマにしか用ゐられぬ、あまり褒めたものではない。稀に三杯酢、二杯酢などの物として、小皿、小猪口に単用されることもあるが、それにしても話題になるほどではない。たゞし菊には元来甘いと苦いとの二種あること瓢の如くであつて、又恰も瓢の形の良いのには苦性のものが多くて、酒を入れると古くなつてゐても少し苦味を帯びさせるが如く、菊も兎角花の大にして肉厚く色好いものには苦いのが多い。といつて甘い菊にも類が多いから、普通料理菊の如くに平々凡々の何の奇無きもののみではない。秋田の佐々木氏から得た臙脂色の菊の管状弁の長さ六寸に余つて肉の厚いものなどは、実に美観でもあり美味でもあつた。菊、の二字ある位であるから、其他にも大菊の中で甘いものが折々ある。此等の菊は梅の肉で保たせると百日にも余つて其の色香を保つことが出来るものであるから、我等の如き富まぬ者の寒厨からも随時に一寸おもしろい下物を得られるのである。花で味のよいものは何と云つても牡丹であるが、これは力よく之を得るに及びやすい訳にゆかぬ。ゆふ菅の花も微甘でもあり、微気の愛すべきものがあつて宜いが、併し要するに山人のかすけき野饌である。甘菊の大なるものは実に嬉しいものである。一坪の庭も無い家へ急に移つた時に一切の菊を失つて終つてから、今はもう自分は一株の甘菊をも有たぬが、秋更けて酒うまき時、今はたゞ料理菊でもない抛つたらかし咲かせの白き小菊の一二輪を咬んで一盞を呷る[#「呷る」は底本では「呻る」]と、苦い、苦い、それでも清香歯牙に浸み腸胃に透つて、味外の味に淡い悦びを覚える。
菊の名はいろ/\むづかしいのがあるが、無くもがなと嵐雪に喝破された二百年余のむかしから、今にいろ/\と猶更むづかしいのが出来る。そして古い名は果して其実を詮してゐるか何様か分らなくなつて終ふ。たべる菊、薬用の菊としては「ぬれ鷺」といふ菊が、徳川期の名で、良いものとして伝へられてゐる。所以なくしてぬれ鷺の名が伝へられてゐるのではあるまいから、何様かしてそれを得て見たいと思つたのも久しいことであるが、ほんとのそれらしいのには遇はずじまひになりさうだ。薬用になるといふのは必ず菊なら菊の其本性の気味を把握してゐることが強いからのことであらう。進歩は進歩だらうが、ダリヤのやうになつた菊よりは、本性の気味を強く把握してゐるものを得て見たい。そんなら野菊や山路菊や竜脳菊で足りるだらうと云はれゝばそれも然様である、富士菊や戸隠菊を賞してそれで足りる、それも然様である。
(昭和七年十一月)