私は二年あまり前に、『イデオロギーの論理学』を出版したが、今度の書物は全く、それの具体化と新しい領域への展開なのである。が、そればかりでなく、又その敷衍と平易化とでもあることを願っている。
 イデオロギーの問題が、一般社会から云っても又階級的に云っても、至極重大な客観的な意味を有っていることを、今更口にする必要はないであろう。併しこの問題は世間の人々が想像しているように、それ程決って了った問題でもなければ、又充分に検討し尽されつつある問題だとさえも云えない。それは甚だ多くの未知のものを吾々に約束しているように見える。私はそこで、事物をイデオロギー論的に取り扱うための基本的な計画を立てて見ることにした。それがこの書物である。
 だから私にとって、イデオロギーの問題は単に一つの顕著な大事な問題というだけではなく、可なりの広範さと普遍さとを有った原理的な問題として現われる。この書物は単に読者にとっての手引きであるばかりでなく、又著者自身の科学的労作にとっての入門書なのである。それで今の場合、イデオロギーに関する歴史的叙述に立ち入る余裕がなかったのは遺憾である。
 第二部の批判的な各章は以前発表したものを元にし、之を短かくし且つ訂正したものである。併しこの各章が、単なる批判ではなくて、実は夫々一定の公式を導き出すためのものだという点を、注意して欲しい。
 一九三二・一〇
東京
戸坂潤
[#改ページ]


第一部「社会科学」的イデオロギー論の綱要




 云うまでもなくそれ自身としてはブルジョアジーのものである処の、わが国に於ける文壇や論壇、又学壇をさえ一貫して、マルクス主義的・社会科学的・認識が今日では可なりよく普及していると見て好い。一部分の、無意識的にか又は故意にか、敢えて迷蒙に止まろうと欲しているとしか考えられない諸反動分子は例外として、わが国のインテリゲンチャ層は大勢から云って、マルクス主義的・社会科学的・諸範疇を夫々の程度に承認し、而も之を相当日常化して使っているだろう。イデオロギーという言葉乃至概念も亦例外ではない。
 諸種の反動的な「学者」や「専門家」達にとっては、それにも拘らずこの概念は、あまり好ましくない、厄介な、又は軽視されねばならぬ、ものであるように見える。之は高々一群の学徒にしか過ぎない社会学者達だけが口にしても好い言葉であって、その社会学者達自身さえが止むを得ない必要のない限り真面目に用いてはならぬ言葉である、と彼等は考えているようである。
 こう考えて見ると、イデオロギーという概念を承認するかしないか、又どの程度に夫を承認するかは、その国のインテリゲンチャがどの程度に進歩的であるか無いかの標準になる。蓋しインテリゲンチャの最も手近かな問題は、要するに知能的な――インテリゲンツの――問題であって、従って文化とか意識とかが彼等の何よりもの生活問題になるのが普通だから、彼等にとってはイデオロギーが最も手近かな問題であり、即ち又イデオロギーの問題は、彼等によってこそ最初に取り上げられる理由があるのである。
 わが国のインテリゲンチャも国際世界の大勢に従って、資本主義制度の社会的停滞と共に次第に無用のものとなり、それだけ自然の結果として低能化して来た今日、丁度ドイツの学生達が反動的であるように――彼等はその進歩性をフランス大革命への感激の涙と共に流し去って了った――反動化しつつあるのは事実である。そうだとすればたといイデオロギーという言葉が一般的に適用していても、イデオロギーという問題そのものはわが国のインテリゲンチャにとって、次第に意味を失って行くかも知れない。インテリゲンチャはその唯一の特有な社会的能力である処の彼等のインテリゲンツ(知能)を失って了う、イデオロギーなどという問題は彼等にとってどうでも好くなる。この問題は、自己満足的な低劣なジャーナリズム(ジャーナリズムは併し本来そういう低劣なものではないのだが)の欲するままに躍っては消える流行に過ぎないと云うことにもなるだろう。
 イデオロギーの問題は少くともインテリゲンチャが進歩的である限り、常に支配的な問題に止まるだろう。又止まらねばならぬ。だが、インテリゲンチャの反動化――併しそれはインテリゲンチャのインテリゲンツ喪失・低能化・自己喪失と一つである――と共に、イデオロギーの問題も亦消滅すると考えたならば、夫は大きな誤りだと云わねばならぬ。否この問題はプチブル・インテリゲンチャなどの眼の前からは、出来るだけ早く消え失せて行くがいい。その時こそは、この問題が、大衆自身の本当のインテリゲンツの興味の対象となることの出来る時なのである。

 イデオロギーの問題は、或る意味に於ける観念乃至意識の問題である。で観念乃至意識が又或る意味に於ける根本問題の一つである限り、イデオロギーも亦――或る意味に於ける――一つの根本問題でなくてはならぬ。――だが「観念」乃至「意識」の問題とは抑々何であるか。
 一体近世哲学の何よりもの特色は、それが色々の意味でではあるが結局「意識の問題」から出発するという点に横たわる。すでにデカルトは自己意識――我考う故に我在り――を哲学的省察方法の立脚地としたことは能く知られている。ライプニツやカントの問題が意識――表象者モナド・意識一般――であったことは云うまでもないが、最も意識の問題から遠いと考えられるスピノザさえが、実体概念の必要な一条件として、それ自身によって考えられ得るという点をつけ加えるのを忘れない。フィヒテの純粋自我、シェリングの自由意志の省察、ヘーゲルの絶対精神等々、凡そ近世の、特にドイツ的精神の伝統にぞくする、哲学――実はドイツ観念論――では、総て意識がそれの問題であり、従って又その出発の地盤となっている。
 近代哲学を代表するフッセルルの本質直観やベルグソンの直覚は、意識の構造又は実質をどうやったらば捉えることが出来るか、ということに答えている処の哲学的手段であるし、新カント学派の課題と雖も、結局はこうした意識の問題を解くための別な装置を見出すことに外ならなかった。
 だが意識の問題は無論決してデカルトなどから始まったのではない。ヘブライ思想とギリシア思想との結合者であった処の、併し結局ヘブライの宗教意識の神学的組織者であった処の、教父聖アウグスティヌスにまで、吾々はこの問題を溯らせることが出来るだろう。意識は、近世に於ける資本主義的な個人の自覚によって初めて公然と哲学の日程に上ったのではあるが、それよりも前に、すでに人間の宗教的な内面性の観念と同伴して、哲学の問題にまで提出されていたのである。尤もそれが哲学に対する殆ど完全な支配権を得たのは近世以来のことであると云って好く、又同じ近世に於てもその支配する形態は様々であるが、――例えば表象として自覚として自我として理念として等々――、吾々はその終局の起源をヘブライ思想が哲学体系にまで組織化されたこの時期に求めねばならぬだろう。
 処で更に、これ等の意識の哲学が、観念の哲学としてみずからを特色づけることによって、哲学史上の生存権を得ることが出来た、この点を注意せねばならぬ。そして観念の哲学――それは観念の問題から出発する――は、今云ったヘブライ思想に先立って、ギリシア思想の代表的な伝統の一つに外ならない。と云うのは、夫はプラトンの世界観によって後々の不抜な思想体系のための礎石として置かれたのである。聖アウグスティヌスも近世に於けるカント又ヘーゲルも、観念の問題から出発する観念の哲学としてである限り、全くプラトニズムの範に従って出来上った。之が哲学思想に於ける観念論に外ならない。
 かくて意識の問題から出発する従来の凡ゆる哲学は、それであるが故に又必然的に観念論に帰着する。――云い換えれば、従来、意識の問題は常に、観念論によって、観念論的に取り扱われることが、本格的であったということが判る。
 従来の多くの支配的な哲学――吾々はそれを正当な理由で広く観念論と呼ぶことが出来る――は、意識(乃至観念)から出発する、それがこの哲学の問題の地盤であり問題解決の鍵の所有者であり、又最後の解答者でもあるのだ。

 だが実際、意識とは何であるか。
 意識は無論哲学者だけにとっての科学的問題ではない、之を何よりもの固有な問題とするものは寧ろ心理学者であるように見える、心理学とは、心(Psyche)の、即ち又意識の、学でなければなるまい。併し心理学と雖も、一旦之が意識だと一応決められたものに就て、その意識の構造・機能・諸条件が何であるかは明らかに出来ても、抑々如何なるものを意識と呼ばねばならぬかは、最も基本的な問題であるにも拘らず、決して一義的には科学的に決定出来ない。それは必ずしも心理学が発達していず又はその基本的な省察が未熟であるからではなくて、其他の諸科学全般に於てもこの点に余り大した相違がないのである。でこの点は恰も一般に科学にとっての基礎概念――心理学では夫が意識である――が、もはや単純には科学にだけぞくし得ない処の常識的日常概念と接触している最もデリケートな活き活きした点である、ことを告げている。実際、意識という概念は、それが専門的な心理学者によってどう決定され又どう是正されようとも、それとは可なり独立に、世間的に、常識的に、併し定義すべからざる厳密さを持った一定概念として、通用しているのである。
 殆んど総ての概念がそうであるが(例えば感覚は心理学的に云えば一つの単純な心的要素に過ぎないが日常的には認識・判別・批評的判断・性格的能力・などの極めて複雑な力を意味する――センス)、専門的な概念――夫はやがて術語となる――は他方に於て日常的な概念と平行し複合しているのを常とする。と云うのは科学的諸概念は元々常識的な言葉から洗練し出されたものに外ならないからである。
 処で、意識が、心理学的な、或いは最も著しい場合を採るのが好都合とすれば実験心理学的な、概念であると共に、同時に吾々が日常用いている一つの常識概念でもあるということが、この概念の色々な困難を用意する。――心理学者は、だから、どれ程科学的であろうとも、必ずしも意識という概念の説明に於て権威を有つものではない。心理学的意識概念は、常識的な概念乃至用語のセンスによって、裏切られる。――一つとして数学の名辞のように定義出来る日常概念はない、誰が一体机を定義出来るか、誰が一体家を定義出来るか。こうした概念の諸規定はそれに対立した諸規定によって、順々に否定されることによって、初めてほぼ纏った一つの概念となることが出来る。ヘーゲルが指摘する通り、凡そ概念と呼ばれる限り、それは弁証法的なものであらざるを得ない。――意識の概念も亦そうした弁証法的な概念であることを今、忘れてはならぬ。
 心理学、その代表的なものは実験心理学であるが、この科学にとって、意識とは常に個人が有っている意識のことを意味する。考え方によっては個人ばかりではなく団体も亦――群集・法人・民衆・国民等々――意識を有つと云われなくはないが、そうした団体のもつ意識も実は、個人の有つ意識の概念を基準として、初めて意識の名を与えられることが出来る。個人のもつ意識という概念は、一切の意識の概念のモデルと考えられる。個人の意識群集の意識とが異ることを、或る心理学者達がどれ程強調しようとも、両者が同じく意識と呼ばれる理由は、外でもない両者とも同じく、個人的意識――もはや必ずしも個人のもつ意識に限られない――だという処に横たわる。
 実際、実験心理学(従って、又一般に心理学)が、生理学――それは生物個体に関する理論である――にその物質的基礎を求めなければならない以上、その意識の概念は個人的意識である外はない。――だがこの点は、謂わば哲学的心理学(F・ブレンターノの『経験心理学』やナトルプの『一般心理学』)・現象学・哲学(「先験心理学」其他)などに於ても、今まで少しも変る処はないのである。哲学的心理学や現象学乃至哲学などに於ける「意識」は、――最も特徴ある場合を採るとして――それが如何に「純粋意識」(フィヒテ、フッセルル)であろうと「意識一般」(カント)であろうと、要するに個人のもつ意識(それは個人意識とか経験的意識とか呼ばれる)から蒸溜されたものであって、個人の意識の外に横たわるにも拘らず依然として個人的意識の概念に依っていることを免れない。
 哲学者――実は観念論者――は好んで意識の超個人性を又は超意識性をさえ主張するが、そうした主張は、自分が観念論者乃至超観念論的観念論者であることを証拠立てているまでであって、却って皮肉にも意識概念の個人性を、個人主義的見解を、暴露しているに過ぎない。

 かくて哲学と云わず科学(今は特に心理学)と云わず、従来、観念論の組織の上に立ち又は之と友誼関係を結んでいる諸体系にとって、意識とは個人的意識の謂だったのである。意識は全く意識主義的に、個人主義的に、だがそれは結局観念論的に、しか取り扱われなかった(以上の意識の概念に就いては、第六章に詳しい)。
 こういう取り扱い方によれば、意識の問題は、意識そのものを道具としてしか解決出来ない、意識を説明するものは意識自身である。意識は最後のもので最初のものだ、ということになる。――では併し、意識と他の諸存在との関係――意識も亦一種の存在 Bewusstsein であるが――との関係はどうやって与えられるか。意識乃至観念が凡てである(尤もこの場合意識乃至観念の概念は色々に都合好く偽装してではあるが)、では他の諸存在はどうなったか。それこそは観念論者に聞くがいい。
 だが意識は決して、単なる意識としてあるのではなくて、何物かの意識としてしかないのである。或る形の観念論の主張に従って、一切の存在が意識として初めて、意識されることによって初めて、存在出来るというならば、それだけ却って一層、一切の意識は何物かの意識だということにならなければならぬ。併しそうすると、意識はもはや意識として独立するものとしては意味を失うのであって、却って意識は或る意味に於て他の存在に依存せねばならぬということになる。と云うのは、仮に意識を担うと考えられる主体――個人――が転変しようとも、一定の意識を形づくる処の存在そのものは転変しないかも知れず、従ってその意味に於て意識の内容は意識の主体――個人――を超えて一定形態を保つことが出来る、というのである。
 自我とか精神とかいう何か意識の担い手を意識と呼ぶのではなくて――だが哲学では大抵それを意識と考える――、意識現象の一定内容を意識と考えるならば、意識は当然意識以外の存在に依存せねばならぬという必然性が出て来るのである。
 でこういう理由からすれば、別に何の形而上学的範疇*――例えば純粋自我・純粋意識其他に関する処のもの――の手を借りなくても、而もより決定的に、意識の概念は個人――意識の担い手・主体――を超えて理解出来るし、また理解されねばならぬ。こうして得られた意識の概念こそ、本当の――形而上学的範疇を借りない処の――超個人的意識である。従来の哲学に於ける所謂超個人的意識――純粋意識・意識一般・絶体意識・等々――は、なおまだ、超個人的に考えられることを強制された個人的意識に過ぎなかった。
* 普通、哲学概論式な概念によれば、形而上学的とは「認識論的」又は「現象学的」に対立する。だが吾々によれば、単に存在の意味の解釈を与えることに終始し、従って存在の意味の秩序を以て存在そのものの秩序と思い誤る処の、理論的方法が、形而上学的である。
 併し有力なそして又実際尊重すべき従来の観念論の或るものによれば、意識の概念はすでに略々今云った意味に近い点にまで引き寄せられていないのではない。超個人的意識は歴史的意識として、個人を超越せしめられる。歴史を遍歴する処の理念として、歴史的伝統の主体である精神(例えば客観的精神)として、又歴史的理性として、――人々はヘーゲルやディルタイ等を考えるべきだ――、それは鮮かに個人を超越する。例えばフィヒテに於ける(個人の)経験的意識から純粋自我の超個人的な(?)意識への超越は、決してこのように鮮かではない。と云うのは後者の場合に於ては、その所謂超個人的意識が、個人の意識からの形而上学的な超越の結果であったために、依然として個人的な意識の範疇の外へ出ることが出来なかったが、前者の場合は之と異って、個人的意識が実際に超個人的な意識にまで超越したと、一応は見られねばならぬのである。
 凡ゆる意味に於ける文化、広く理解された学術や芸術、又同じく広い意味での道徳や宗教まで入れて一切の文化は、従来こうした超個人的な意識という範疇によって理解され又取り扱われて来た。歴史主義歴史哲学、又文化哲学文化社会学は、そうした超個人的意識の内容に関する学に外ならない。個人的意識は今や歴史的意識に改変される。

 併し従来の所謂「歴史哲学」――それはドイツ観念論の嫡出子である――は、観念論的歴史観を以て貫かれているのを特色とする、人々はこの点に注目せねばならぬ。だから又そういう「歴史哲学」の根本概念としての歴史的意識も亦、おのずから観念論的に理解されるべき大勢の下に立たざるを得ない。それは併し取りも直さず、個人的意識の範疇によって歴史的意識が理解されねばならぬのが大勢だ、ということに外ならぬ。――だから、歴史的意識は元々個人的意識から超個人的意識への超越のために持出されたものであるにも拘らず、元の個人的意識を本当に超越して了っては結局行き処を持たなくなり、戸まどいせざるを得なくなる。そういう破目に立たされる。
 個人的意識から超個人的意識へのこの歴史哲学的飛躍は、前の形而上学的飛躍と、結局の結果に於ては、大差がない。「歴史哲学」は実際、つまる処歴史の形而上学(或いは又社会の形而上学)にまで行きつくべきものなのであった。
 本当の歴史的意識――超個人的意識のそういう一種の規定――の概論は無論、そのような形而上学的な意識の概念であってはならぬ、それは取りも直さず歴史的な意識の概念でなければなるまい。だが、歴史的ということは同時に又社会的ということでもあるのを忘れてはならないのである。実際「歴史哲学」・歴史主義・「文化哲学」、又「文化社会学」さえが、その歴史の概念を、そして又その社会の概念をさえ、決して充分に社会的規定の下に照らし出してはいない。それであればこそ此等の科学が、要するに「歴史哲学」・歴史主義・「文化哲学」・「文化社会学」等々であって、それ以上のものではあり得なかったのである。
 超個人的意識はだから、今や単に「歴史的意識」ではなくて更に同時に、社会的意識でなければならなくなる。――意識が依存する処の存在、意識を規定する処の存在、それが単に歴史ではなくて更に又社会でなければならなくなったわけである。それは純粋自我とか神性とかいう形而上学的存在ではなく、――又歴史哲学的な――「歴史」というような半形而上学的な存在でさえなくて、正に歴史的社会と呼ばれる存在でなければならなくなった。――歴史的社会が意識を決定する、意識は歴史的社会に依存する、意識は歴史的社会に於ける一つの特殊な存在である。それは社会的意識である、之こそが本当の超個人的意識なのである。

 そう云っても併しまだ規定は根本的には不充分である。社会的意識――この超個人的意識――はもはや全く個人的意識ではないにも拘らず、やはりまだ個人主義的に取り扱われるのが、之までの伝統であるように見える。と云うのは、社会的意識は社会心理学にとっての対象であるが、この社会心理学なるものが、全く個人心理学からの類推か拡大かに帰着するのであって(ル・ボンの『群集心理学』やマクドゥーガルの『社会心理学』を見よ)、結局個人として個人のもつ意識から出発して社会の又は社会人の意識を取り上げようとするものに外ならないからである。だからここでは社会的意識が、まだ殆んど社会自身の契機からは問題とされずに、依然として意識の契機から、即ち又個人的意識の契機からしか取り上げられていない。で意識が、歴史的社会の存在に依存し、夫によって規定されるなどという、折角の超個人的・社会的・意識の特色は、いつの間にか話題の外に逐放されて了っている。在るものは独立な意識という存在であって(但しそれが社会意識と形容されるのではあるが)、社会などは実は問題でさえないのである。――処でそういうものが取りも直さず観念論ではなかったか。
 さてそこで今や吾々は、超個人的意識・歴史的意識・社会的意識――そして之等のものが心理学的な術語としての意識に較べて意識という常識概念に却ってより忠実なのである――が、これまで述べてきたような観念論型の体系によっては、充分に把握出来ないということを見透すことが出来る。――意識の問題は、その提出の仕方を全く新しくされねばならぬ。
 意識の問題は実は、それが意識という常識概念にも相応するためには、直接に頭初から、意識の問題自身としてでは却って解くことが出来ない。観念論的乃至個人主義的な出発によっては解くことが出来ない。意識の問題は却って、もはや一応は意識でないものの問題として、歴史的社会自身の問題に従属することによって、初めて正当に解決への軌道に上ることが出来る。

 歴史的社会に就いての観念論に対して、だから吾々は、歴史的社会に就いての唯物論を、史的唯物論乃至唯物史観を、対立せしめねばならぬ。唯物史観は決して、ブルジョア・アカデミーなどに取っての議論や批判の対象となるために生れて来たものではなく、プロレタリア階級の生存闘争の武器として発達して来たものであるから、学位論文式な観点から之を弄ぶことは全く無意味であるだけに、それだけ実質的な生きた観点から把握しておくことが何時でも必要なのであるが、今は唯物史観の一般的な叙述は省こう*。必要なのは唯物史観による社会と意識――超個人的・歴史的・社会的意識――との関係である。
* 唯物史観の輪郭に就いては拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」(岩波講座・『教育科学』【本全集第三巻所収「社会科学論」】)で取り扱った。
 マルクスが、『経済学批判』の序文に於けるかの唯物史観の公式で、最も簡単に示している通り、物質的生産力による生産諸関係――それを人々は経済関係とも社会関係とも名づける――が、歴史的社会の全構築物(技術・経済・政治・法制・諸文化・諸観念を含んだ)に於て、終局の決定要因をなしている。この全構築物に於ける一切の作用の交互関係は、この一方向きの規定関係によって、初めて統一的に組織的に秩序立てられることが出来る、と云うのである。さてこの社会に於ける生産諸関係が決定要因となって、この決定要因によって決定されるものを唯物史観乃至マルクス主義は広くイデオロギーと呼ぶ。蓋し社会の全構築の基底をなすもの――下部構造――が生産諸関係であり、それの上に依って立つ構築物――上部構造――がイデオロギーだ、と一般的にまず規定しておいてよい。
 処で社会の全構築に於て、今基底にあると云ったものは、単にマルクス主義に依ってばかりではなく、何かの意味で物質的なものと考えられているだろう。仮に之までをもなお心的観念的意識的なものと考えてみても、この下部構造と上部構造とを区別するものとして、この下部構造に於ける意識(一般的に之を代表者として)の物質的特色を指摘しなくてはなるまい。例えば衝動や本能(M・シェーラーやマクドゥーガル)は、これに基く精神的なものに対して、物質的と考えられている。――で下部構造がそうだとすれば、上部構造は、何か心的・観念的な性質によって特色づけられるのが当然である。だから人々は、この上部構造を捉えて、社会の「精神史」を描いたり、「文化史」や「文明史」を書こうとするのである。こうした云わば社会的なる精神、社会的人間の意欲の所産、この上部構造としてのイデオロギー、之は取りも直さずかの社会的意識を云い表わすに最も適切で普遍的な概念でなければならぬ。
 イデオロギーの概念がマルクス主義によって見出されたために初めて、意識の問題は、生きた具体的な歴史的規定の下に、提出されることが出来る。――だがイデオロギーの概念はこう云っただけではまだ決して明らかではない。

 イデオロギーと云う言葉は可なり不思議な意味の変遷を嘗めて今日に至っている。この言葉が、デステュット・ド・トラシやカバニスが哲学の本領として提唱した観念学(id※(アキュートアクセント付きE小文字)ologie)の名から始まったことは能く知られている。――この人達(イデオローグ)の思想によれば、凡ゆる哲学的諸問題は、観念(乃至意識)の研究を基礎として解答されなければならない。まず観念がその起源・発生に就いて、感覚論的に、従ってその限りは唯物論的に(何故なら例えば感覚論者エルヴェシウスはフランス唯物論者の先駆者であるから)、取り扱われねばならないのである。処がこのイデオロジーの哲学史上の役割は、恰も、コンディヤックの感覚主義をば或る意味では之と全く反対の極に立っているメヌ・ド・ビランの主意的観念論――直覚主義――にまで媒介する契機に相当していなければならなかったから、本来或る意味で唯物論的な――尤もフランス風の機械論的唯物論にぞくするのであるが――出発を有っていたこのイデオロジーも、おのずからその特色を変更せざるを得なくなってきた。メヌ・ド・ビランは人間学の歴史に於ける最も重大な結節点の一つであり、人間の内面的・内部的・条件を取り扱かうことを主眼としたが、こうした内部的人間学が、その思想の連りを今云ったイデオローグから引いていたことを忘れてはならぬ。
 イデオロジーはだから云わばフランス唯物論とフランス観念論――例えば所謂モーラリスト(之はモンテーニュから始まる)の如き――との中間に位する(実はすでにデカルトに於てそうであったのであるが)。之は十八世紀のフランス唯物論を標準にして云えば、その副産物又は副作用と考えられるだろう。吾々はこれを「フランス・イデオロギー」と呼ぶことが出来る。
 併しイデオロジーは、それが問題の出発点を――従ってその到着点をも――観念(乃至意識)の研究に限定して了ったから、その解決は、当然或る意味に於て観念的とならざるを得なかったのは、自然の勢だろう。ここではもはや事物は現実的な・着実な・説明を期待することが出来なくなる。それは一歩誤れば空疎な言説・科学上の徒らな大言壮語・に堕ちて行く。ナポレオンがド・トラシを指して「イデオローグの巨頭」と呼んだことは有名だが、それは恐らくこの意味に於てであったろう。こうなればイデオロジー(イデオロギー)という言葉はすでに嘲笑と非難とをしか意味しない。――そこでマルクスは、恐らくこの「フランス・イデオロギー」に対比して、ドイツの唯物論者達の観念性を指摘するために、その『ドイツ・イデオロギー』(Die Deutsche Ideologie)を書いた。十八世紀のフランス唯物論の副作用がフランスのイデオロジーであったと同じく、十九世紀のドイツ唯物論がドイツ・イデオロギーという副作用を持ったというわけである。
 無論こういう云わば綽名としての言辞は、それだけでは科学的な概念にはなれない。だがイデオロギーという言葉が、その本来の真面目な意味内容が何かあった又あるにも拘らず、同時にかかるアイロニーでもあるが、実はこの概念の根本的な実質内容を暗示している。イデオロギーは唯物史観によれば、社会の上部構造――意識――であると共に又虚偽意識なのである。この場合それは利害好悪によって歪曲された意識を云い表わす。
 で上部構造――広義の意識――としてのイデオロギーをもう少し分析しよう。この意識――超個人的・歴史的・社会的・意識――は併し、歴史的社会によって規定された限りの意識であった。と云うのは、仮に意識というものがあってそれが歴史的社会という存在によって限定されたとして、イデオロギーとしての意識はこうした限定を受けない前の意識を意味するのではない、そうではなくてこうした限定を受けた後の意識を意味するのである。処が意識という存在は歴史的社会とは一応別な存在であるから、その限り一応の自主性を有つので、一応は逆に自分が歴史的社会を限定すると考えられ得ねばならぬ。実際、吾々が歴史を造り社会を変革し得るのである。それにも拘らず、終局に於ては意識が歴史的社会によって限定される、そのことはすでに述べた。では一応は意識も亦歴史的社会を規定することと終局に於ては歴史的社会だけが意識を規定することと、どこで異るのか、一応終局に於てとの区別は何か。それはこうである、単独な個々の場合々々に就いて云えばその場その場限りでは意識も亦歴史的社会を決定する(同時に歴史的社会が意識を決定することは云うまでもない)、一応の場合々々はそうなのである、だが意識活動の多数の場合が一群となって統一的に組織的に一定形態を与えられるためには、逆に歴史的社会が意識を決定する外に道はない、それが終局に於ける場合だというのである。
 意識としてのイデオロギーはそれ故、もはや単なる意識ではなくて、一定形態の下に歴史的社会によって決定された限りの意識――そして之こそ意識の内容ある内容なのだが――、意識形態(乃至観念形態)でなければならない。で、意識の概念はイデーの概念ではなくてイデーの諸形態・イデオロギーの概念となる、意識の問題がイデーの問題としてではなく、正にイデオロギーの問題として提出されねばならなかった所以はここにある。
 意識形態としての社会上部構造・イデオロギーは併し、単純ではない。夫は諸段階に区別される必要がある。イデオロギーの第一の段階は与えられた経済的地盤の上に生じる政治的秩序であり、第二の段階は、直接には同じく経済的地盤から、間接にはこの第一段階の政治的秩序の全体から、制約される処の社会人の心理である、そして最後に第三段階は、この心理の諸特徴を反映する諸観念形態――狭義の――だと考えられる。或いはもっと要約して云えば、政治秩序(第一)と観念文化形態(第二・第三)とに分たれる。
 だがイデオロギーは、こうした社会的上部構造一般を意味するばかりではなく、同じく政治的乃至文化的イデオロギーの間に於ても、諸イデオロギーにそれぞれの内容を入れて考える時、――そしてそのように内容を入れて考えなければ如何なる概念も形式主義的にしか把握されない――、夫々のイデオロギーが他のイデオロギーから自らを区別する処の対立的特色自身を云い表わさねばならない。と云うのは、イデオロギーAがイデオロギーBと異る点に於て、初めてAとBとは、内容的にイデオロギーの資格を得る。イデオロギーという概念は単に一定の(イデオロギーと呼ばれる)現象を総括して命名するだけの言葉ではなくて、そうすることによって同時に、この現象内の個々の場合の区別をも云い表わす処のものでなければならない。丁度個人という概念が人間一般を指し示すばかりではなく、それによって個人と個人との区別をも意味するように。
 それ故イデオロギーは、単に社会上部構造の諸段階によって区別されるばかりでなく、それぞれの段階のイデオロギーの対立を同時に指し示さねばならぬ。――イデオロギーは実際、社会上部構造が歴史的に経て来たイデオロギーの諸形態を意味し、従って又それぞれの時代に於ける社会で対立している諸形態のイデオロギーを意味する。イデオロギーはこの意味に於て、イデオロギー一般であると共に、又イデオロギー形態ででもなくてはならない。
 上部構造一般としての、即ちイデオロギー一般としての、イデオロギーは、歴史的社会の何時の時期にも必ず意味を有つ存在でなければなるまい、意識を有たない社会は存在し得ないからである。だがイデオロギー形態としてのイデオロギーは、或る一定の社会条件の下では対立物として対立しないと考えられるならば、その時にはもはや意味のない概念となるだろう。一種類しかイデオロギーのあり得ない――そうした理想的な――社会に於ては、イデオロギーの諸形態という概念は意味を失って了う。――で、イデオロギーとは、イデオロギーという一つのものが、幾つかの対立物に分裂し、そして又その対立が一つのものにまで解消することを理想とする、そういう弁証法的な概念である。ここにイデオロギー概念の一切の諸特性が潜んでいる。

 唯物史観によれば社会の下部構造――生産諸関係――は経済的搾取関係によって特色づけられる。要するに余剰価値乃至利潤の追求がこの下部構造を規定する。だからこの経済的関係と直接に結合している社会的(その限り又政治的)関係としては、社会階級の対立が結果する。その意味に於て社会の下部構造は初めから階級対立によって特色づけられていたわけである。そこで、こうした下部構造の上に――直接に又間接に――立つ筈であった社会上部構造(イデオロギー・イデオロギー形態)は、階級性によって性格づけられざるを得ない。イデオロギーは今や実は階級イデオロギー――階級的世界観階級意識である。イデオロギー諸形態の対立は、階級性による対立だったのである*。
* 実際殆んど凡ての場合イデオロギーとは政治的な概念である。それは革命の意識と関係づけられて理解される場合が多い。
 無論イデオロギーという概念を人々は勝手に都合の好いように規定することは出来る。例えば生物学的本能に動機されて一定形態の観念を持つ時、その観念はイデオロギーと呼ばれることも出来る。そういう可能性はそして無論決してそのものとして誤りではあり得ない、可能性とは誤りでないということの証拠であろう。だが誤っている点は、イデオロギーをこういう風に規定することが、全く部分的な見解でしかないということを知らない点である。イデオロギーの概念を統一的に組織的に把握するものは唯物史観の外にはないが、その唯物史観によれば、イデオロギーとは終局に於て階級イデオロギーの外ではないのである。色々のイデオロギーがあるのではない、そしてその内の一つのものが階級のイデオロギーなのではない、凡てのイデオロギーが階級イデオロギーに帰着しなければならない、と云うのである。
 階級は併し社会の全体ではない、それは社会の部分にすぎない(但し大事なことは夫が社会に於ける単なる部分ではなくて対立的な部分だということなのだが)、そうすれば階級イデオロギーは、即ち又イデオロギーは、社会全体を代表する観念ではなくてその一部分をしか代表しない観念となるだろう。一応そうである。でそうすればイデオロギーは決して社会全体に対して通用出来ないもので、夫は自分が代表する一つの階級にしか通用しない、ということになりそうである。それは階級の利害――併しそれは要するに個人主観の利害である――に動機される処の階級的偏見でしかない、夫は階級の主観性から来る虚偽意識に外ならぬ、人々はよくそう云うのである。――だが無条件にそうなのではない、或る場合には、そうであるが、他の場合にはその正反対でさえある、ということを今注意しよう。
 階級は社会の単なる部分ではなくて、対立的な部分である。二つの階級が並立していて、之を総括するものが社会だと考えてはならぬ(社会学者はそういう風にしか考えないかも知れないが)。二つの階級が対立していて、この対立物の張り合いが――現在の――社会の内容をなしているのである。だから二つの階級を精々「公平」に較べて見ると、夫々が全体社会を代表し又は夫にとって変ろうと欲している。二つの部分が夫々全体であることを要求する。ブルジョアジーは社会全体がブルジョア社会に止まることを欲するし、プロレタリアは社会全体がプロレタリアの独裁下に立つことを要求する、であればこそ初めて、二つの階級は対立するのである。袋の中の二つの球は――仮に衝突したり摩擦し合ったりしても――まだそれだけでは対立してはいない、単に並存しているに過ぎない。
「公平」に観てもそうなのであるが、実在は決して道徳的俗物の欲するように公平ではない。存在は傾向を、運動方向を、必然的な勢を、有ってしか存在でない。で二つの階級の存在も亦決して「公平」に考えられてはならぬ。抑々社会の運動の必然的傾向・必然的方向を発見すること自身が、唯物史観の目的であった。そしてその為に階級という範疇が必要となったのである。唯物史観は決して「公平」な理論ではない。――で、唯物史観によれば、階級社会はプロレタリアの階級が、ブルジョアジーの階級と対立することを通じて之を克服することによって、初めて真に社会としての社会に――階級なき社会に――まで進歩することが出来る。二つの階級の夫々の歴史的役割はだからすでに明らかではないか。
 プロレタリアの階級は進歩的な階級である、と云うのは、この階級がブルジョアジーの階級に対して歴史的優位を持つというのである。
 だがこの階級の歴史的優位はそれだけでは今の場合まだ何物でもない。階級のこの歴史的優位が階級イデオロギーイデオロギー的優位として現われない限り、今の場合の問題にはならない。処で実際この階級の歴史的優位は、この階級の――主観的な――利害の追求が終局に於て社会自体の――客観的な――利害に一致すると云うこと、それが自己の実践及び観念客観的可能性と一致すること、によって示される。だからこの階級の階級イデオロギーは又、この階級の――主観的な――利害に相応することによって又社会自体の――客観的な――利害に一致し得ることがその特色となる。主観的な意欲が客観的な条件を充たすのである。だがそういうことが取りも直さず、真理ということではないか。之がこの階級のイデオロギーのイデオロギー的優位である。それはもはや階級的偏見や階級の主観性から来る虚偽意識などではない、却って正に之こそが、生きた真理意識なのである。
 イデオロギーが虚偽意識となるか真理意識となるか、主観的偏見であるか客観的な洞察であるかは、全く、それが如何なる階級のイデオロギーであるかから決定されて来る。歴史的社会の範疇である階級が、意識の論理的範疇である真理・虚偽の決定者だったのである。――歴史的社会的存在論理を決定する*。
* 私はこのただ一つの一般的な命題を証明するために『イデオロギーの論理学』(鉄塔書院)【本巻所収】を書いた。
 一方の階級イデオロギーに立てば――主観的及び客観的利害の意識を通じてさえ――真理が発見されるのであり、之に反して他方の階級のイデオロギーに立てば真理は――主観的利害の意識などに妨げられて――蔽い匿されて了う。真理と虚偽との中から真理を選択させるものが、プロレタリアの階級意識なのである。階級性真理を選ばせる。――だが、そうは云っても階級性そのものが真理を成り立たせるのではない、客観的真理は主観的な階級性を超越して通用しなければならない。尤もそう云っても、単純に機械的に、真理は客観的でなければならず之に反して階級は主観的に過ぎないなどと、考えることは許されない。問題は、主観的な階級が或る場合何故客観性を有つことが出来又有たねばならぬかということの、具体的な弁証法的な理解にあるのである(例えば自然弁証法に於て、自然の客観性と階級の主観性とを無媒介に対立させて、之かあれかを問うことなどは、独りよがりな饒舌家がしそうなことである)。
(プロレタリア)イデオロギーの――主観的な――階級性が論理上の客観性を持ち得また持たねばならぬということは、社会の持つ歴史的必然性からの直接な結果に外ならない。歴史的社会がその内的必然性によって是非ともかくかくに運動せねばならぬという関係それ自体の構造が、実はやがて真理というものの構造に外ならない。歴史的社会にこの歴史的必然性があるからこそ、それは自然史的に分析されることも出来る。所謂「歴史的必然性」とは、一種の自然必然性に外ならない。
 でイデオロギーの真理性は、歴史的社会の――一般的に云えば併し自然の――必然的運動機構の、反映だったのである。この反映を実現する手段として、階級が、階級性が、横たわる。云うまでもなく、この階級乃至階級性の媒介過程は、イデオロギーが歴史的社会に就いての意識であるか、それともより根源的な所謂自然に就いての意識であるかによって、その段階を異にする。自然科学のイデオロギー性に於ける階級性は、社会科学の夫に較べて、著しく低い段階に位置する。だがそうであるからと云って、自然科学のイデオロギー性乃至階級性を苟にも無視して良いと考えるものがいるとしたら、それは知らず知らずに、自然自体に対する――例えば夫と社会との連関というような点に就いての――弁証法的理解を怠った者だと云わねばならぬ。
 かくてイデオロギーは、単に社会の上部構造という社会的な存在であるばかりではなく、それが夫々の一定の形態物――観念形態――であることから、論理的な価値物とならねばならない。意識の問題は吾々によればイデオロギーの問題であったが、そうであることによって意識の問題――意識という存在の問題――は所謂価値の問題にまで成長するのである。
 所謂価値は吾々のイデオロギーの概念によって初めて、その誕生の不思議なカラクリを示される。所謂「価値論」によれば、価値は存在とは完全に別である、それは存在からは発生しない。だがそうすれば一体価値はどこから生れるのであるか、空から天降ってでも来るのであるか。こうした困難を恰も弁証法的に解決するものがイデオロギーの概念である。イデオロギーは一つの存在物である、だがそれ故にこそ夫は一つの価値物となる、夫は真理或いは虚偽を云い表わすのである*。
* イデオロギーをば、歴史の運動に取り残された意識と考えることは、一般に行われる処であるが、意味のあることだ。なぜなら之は、イデオロギーが何故虚偽意識となるかということの一つの説明を与えるからである。イデオロギーとは要するに歴史的存在に追いつけない意識だから虚偽だという主張なのである(歴史的存在を追い越して了った意識は之に反してユートピアと考えられる)。――だが、之では真理意識としてのイデオロギーは理解するに由がない。イデオロギーの価値的規定は単に歴史の時間的なメカニズムだけからは与えられない、社会の云わば空間的な――階段による――メカニズムを用いなければならない理由が茲でも明らかだろう。
 単なる意識は高々存在(自然・歴史的社会)の単なる反映を云い表わす概念である。イデオロギーは、意識形態は、之に反して存在の反映を具体的に叙述する処の概念である。イデオロギーは存在から出発し、存在から分離し、或いは存在から分裂し、そして終局に於て又存在に一致するという、観念乃至意識の、必然的な運命を物語る概念なのである。所謂「意識の問題」――諸形式の観念論・ブルジョア哲学の根本問題――は処が、こうした形の問題を提出することが出来ない、「イデオロギーの問題」が初めて意識の問題をば、解き得る公式にまで造り変えるのである。
[#改段]


 イデオロギーは、相対立する二つの規定を有っている。一方に於て夫は意識であるが、他方意識は単に意識ではなくて一つの歴史的社会的存在でもなくてはならない。そこで吾々は仮に、イデオロギー論の二つの――対立する――課題として、イデオロギーの心理学(この言葉を可なり自由に用いるとして)と呼んでおいて好いものと、イデオロギーの社会学(この言葉も亦便宜上広めて使うことにして)と呼んでおいて好いものとを、対立させて見なければならない。但しここで心理学と云い社会学と云うのが、普通そう呼ばれているものから、どれ程異っていなければならないか、夫こそ今から見ようとする点なのである。
 普通、心理学者達は意識を論理学から独立に取り扱うことが出来ると考える。或いは逆に云えば論理学は意識の分析とは独立に成り立つと仮定している。無論論理学者自身も亦この仮定で満足しているのが多くの場合である。論理学は高々、意識を極めて一部分にしか過ぎない表象、又は思考、に関する心理学的考察と関係を有つに過ぎないかのように考えられる。もし論理学乃至論理と呼ばれるものが、かの形式論理――学校論理――の外へ出ないものならば、なる程このことは本当だろう。論理の形式だけが論理学にぞくする、論理の内容は、そして論理の内容はもはや論理ではなくもっと具体的な意識内容――感情とか意志とか――であるが、この意識内容は、心理学にぞくする、ということになりそうである。
 併しこういう仮定、心理論理との独立という意識的又は無意識的な仮定は、心理学をも論理学をも、極めて滑稽な姿のものに導くだろう。心理学はもはや心理の論理的機能に対して全く手を下すことが出来なくなり、同時に又論理学は心理の論理的機能とは何も必然的関係のないものに就いて語らねばならなくなる。例えば形式論理学の教科書に於てのように、表象や観念や概念や範疇に就いて、その心理学的規定は全く無用なものとなって了うから、単に之を義務的に初めに掲げておいて、後から木に竹を継いだように之に、論理学的規定を付け加える外はなくなる。少くとも論理は意識・心理の一つの機能である、それは日常的な観念把握によれば明らかな事態である、処がこうした論理学と心理学とによれば、こういう常識的な大事な仮定が無視されて了う。論理学的なものは心理学的なものであってはならぬ、所謂論理主義はそう主張する、だが論理主義者が非難する心理主義者――その代表者は当然第一に多くの心理学者である――自身も亦、この主張を実は裏書きしている場合が多い。
 意識は心理学的諸仮説――心的要素・感覚其他――とは独立に、一つの統一的な存在である。そうでなければそれは意識として存在出来ず、又意識としての資格を保つことが出来ない。人々は之をだから「意識の統一」、「意識の流れ」、「意識の志向作用」、等々として指摘するのを怠らないのである。意識は常に意味を持つ処の、意味する処の、意識でしかない。意識はだから、云わば何か平面なようなものではなくて立体によって類推されるべきものだろう、例えば円錐とか波とかが之である。だが意識のこの立体性・統一性を成り立たせる構造は何であるか。意識の要素的諸部分の間の相互関係にしか過ぎない処の所謂「意識の構造」が何かと云うのではない、意識が一個の意識統一としてなり立つ所以のものは何か。吾々は夫を、最も広範に、併し最も正当に、外でもない一般的に論理と名づけるべきだと考える。意識の論理的機能によって初めて、意識は意識として、心理の機能を果すのである。
 だがこういうと、論理と心理とを絶対的に区別しなければならないと仮定している処の、例の心理学者や論理学者は、云うだろう。なぜ一体そういうものを論理と呼ぶことが出来るのか、なぜ又それを論理と呼ばねばならなくて他の名で呼んではならないか、と。併し、何故人々は論理学の教科書で教えるものだけを論理と考えねばならないのか。優れた芸術家に於ては、感覚(センス)――感情――はそれ自身の内部的な形成力によって必然的な一義的な作用連関の構造を張るのだし、政治的実践家の優れた者は、意志活動の無限な諸作用の内に、同じく一義的で必然的な連関を見出すのである。この連関が例えば数学的直観に於てのように一義的で必然的であるという事実は、理論的な諸作用の連関の場合と、少しも異るものではない。こうした構造形成力の必然性が吾々の謂う論理である。――もし意識を知情意に三分するのが便宜だとすれば、単に知識ばかりではなく、感情や意志も亦それぞれの形態の論理によって初めて感情や意志として機能することが出来る。ただ知識は、理論は、この論理を特に――概念的なものとして――自覚出来るが故に、特に特徴的に論理的・概念的だと考えられるに過ぎない。所謂論理――知識や思惟や理論に於ける論理――は、生きた本当の、而も日常吾々が夫を使って生きている、論理の特殊な一現象形態に外ならない。――論理とは外でもない意識の骨髄であり精髄なのである。
(論理は併し単に意識の骨髄・精髄であるばかりではない、そうあることは実は更に根本的には、論理が存在の必然的な構造に外ならないことの一つの結果に過ぎないのである――後を見よ。)
 実際、心ある心理学者乃至論理学者其他によって、論理と感情乃至意志との関係は、可なり重大な注意を払われている。T・リボーが論理の内に於ける感情の役割を見出した(『感情の論理』)ことや、G・タルドが論理の内の意欲の作用を指摘したこと(『社会的論理』)は、その代表的なものであるが、P・ラピーやT・リップスの仕事も見遁すことが出来ない*。H・ロッツェが元来情意の対象と考えられていた価値を、論理的判断――論理的価値判断――の対象と見たことも今云った点から注意されねばならぬ。――かくて、これ等の人々によれば、ともかくも論理は単なる――理論的なものに限られた――論理ではなくて、感情の・意欲の・論理にまで、即ち一般に意識のかの三つの部面の全体を支配する処の論理にまでも、普遍化される。
* P. Lapie, Logique de la volont※(アキュートアクセント付きE小文字) 及び Th. Lipps, F※(ダイエレシス付きU小文字)hlen, Wollen und Denken を参照せよ。なおG・ル・ボンの諸著述は集団意識の論理を取扱っている(例えば Les Opinions et les Croyances)。――だが何よりも有名なのはヘーゲルの所謂「思惟」――吾々は之を論理と解釈して好いのだ――である。彼によれば一切の意識内容は思惟によって貫かれている。処が人々はヘーゲルのこの考え抜かれた思想を、往々浅墓な意味に於ける没論理主義として片づけるのである。
 少くとも意識は、以上のように考えられるのでなければ、統一ある立体的な構造物として理解されることが出来ない。そしてこういう立体性を与えるものは、広義のそして又根本的な意味に於ける論理だったのである。論理の方から云っても亦、少くとも以上のように考えられなければ、内容のない形式論理学の埒外へ一歩も出ることが出来ないだろう。――イデオロギーの心理学とは、だから外でもない、イデオロギーの論理学を中心として帰趨するものである。だが夫がもはや単に心理学に止まることが出来ずに論理学でなければならない理由は、寧ろこれから後に出て来る。それはこうである。
 意識は――前に述べておいたように――存在に就ての意識でしかなかった、意識内容は存在の反映なのであった。処が存在の構造を吾々は、最も一般的に――先に述べたよりも更に一般的に――論理と呼ばねばならない理由がある。それは今述べよう。仮にそうとすれば意識の統一・立体性を与えるものが論理でなければならないということは、実は極めて当然なことではなかったろうか。存在の――必然的な――構造としての論理が、意識の構成力としての論理となって、反映するに過ぎないのである。
 では存在の必然的な構造が何故論理であるか。存在としての存在・存在それ自体・の構造は、それだけでは無論何も論理と呼ばれる理由はない、ただ夫が意識にまで反映される場合を予想し、或いはそれが意識にまで反映された結果から溯源して、初めて夫が論理として特色づけられる理由が出て来るのである。今は存在としての存在・存在それ自体・は問題ではなく、一般に存在の反映と考えられるイデオロギー――意識――が問題であったから、その限り存在は常に意識にまで反映され得る限りの存在として初めて問題となるのであるが、そうやって問題になる存在の必然的な構造が、取りも直さず常に論理として特色づけられる、と云うのである。で、存在の必然的な構造としてのこの論理が、意識の立体的な構成力の論理となって反映すればよいのである。――蓋し論理とは、存在と意識とを媒介する機能である、論理の媒介機能なくして存在の意識への反映はあり得ない。
 存在の構造は論理という機関によって初めて、意識の立体的な構築として反映する、意識――イデオロギー――はそれ故に、意識形態であらざるを得なかったのである。存在の構造は論理の機能によって、意識の形態にまで媒介・転化せしめられる。意識は元来、それ自身で独立な存在ではあり得なかった。それは終局に於て他の存在――意識と対立して考えられた存在――に依存するのであった。意識の精髄としての論理が、単に意識の限界に止まることが出来ず、意識を超えて、意識を存在にまで依存せしめる処のものとならねばならぬとすれば、それはだから至極当然ではなかった。――かくて吾々はイデオロギーの心理学を、イデオロギーの論理学にまで立体化する必要があったのである。

 イデオロギーは併し、存在の単なる直接な反映ではない、単なる存在――夫は自然によって代表される――が、歴史的社会的存在かまちを通って反映されて初めて、イデオロギーはイデオロギーの資格を得る筈であった。意識の形態を――存在から取って来て――与えるものが論理だと云ったが、具体的に云えば、この形態は実は、イデオロギーが反映しようとする対象の構造をば歴史的社会的存在の構造を通過させることによって、初めて形づくられるのであった。――それで論理も亦、この形態の具体性に対応して、具体性を有って来なければならぬ。論理は具体的な形態性を有って来なければならぬ。その形態がまず第一に範疇なのである。
 普通、範疇は根本概念を意味する。だがその際、論理という概念が意識全般を支配する骨髄として理解されねばならなかったと同じく、概念という概念も亦、観念の凡てに渡る骨髄として理解されなければならぬ。人々はよく、芸術や信仰に就いて、概念的なものを排斥せねばならぬ、というようなことを口にする。例えば芸術的感覚概念的なるものの正反対だと考える。併し概念という言葉をそういう風に使うことは全く俗物的な習慣からに過ぎないのであって(概略の観念という如き)、概念という言葉はもっと立ち入った基本的な意味の下に用いられることを必要とする。概念とは、形式論理学による学校式な定義とは一応無関係に、ヘーゲルに従って、把握の仕方一般を指さねばならない。芸術的感覚も亦そういう把握の仕方の一つに外ならない。そして人々の云う所謂概念的なるものは、理論的な把握の仕方のことを恐らく指すのであろう。だが実際には、理論的な把握さえが、人々の云うような意味では単に概念的ではないのだが。
 そこで範疇は、こういう――基本的な意味での――概念の、根本的な場合を指すべきである。尤も、アリストテレスによれば範疇は言表の類型であり、カントによれば夫は認識形成の形式であるに止まっているが、之は範疇の至極部分的な示し方にしか過ぎない。元来範疇はこれ等の人々が考えたように、社会的に又は先天的に、与えられているだけのものではない、範疇は社会的に発生するものなのである。と云うのは、仮に範疇をばこれ等の人々がするように、言葉によって云い表わされた(根本)概念だとすれば、それよりも先に言葉で云い表わされたこういう(根本)概念を産まねばならなかった処の(根本)観念が、すでに範疇の性格を持っていなくてはならないのである。範疇は、自らを範疇にまで生成する過程――歴史的社会に於ける――そのものによって初めて範疇であることが出来る。それでこそ初めて、範疇は論理の形態的構成力の因子となれるのである。
 イデオロギーの形態的構成力の因子としての範疇は云わばその発生学を有っている。範疇は存在を把握すべきであるにも拘らず、即ちその限り対象となる存在から発生するにも拘らず、なお社会的――経済的・政治的・又宗教的――発生条件によって限定される。だから同じ存在に就いても、どういう範疇が用いられるかは、具体的には、どういう社会条件の下にその存在が明るみへ出されているかに関わって来る。その限り範疇は全く社会の所産なのである*。
* 範疇のこの――なおまだ一般的である処の――規定を指摘したのはデュルケムである。だが之だけでも範疇が少くとも社会の異るに従って別であることが出来るということを明らかにするには充分だろう。レヴィ・ブリュールも亦原始的社会――そういう社会条件――に於ける諸根本観念――諸範疇――が如何に吾々の世界のものと異るかを実証する。
 範疇の発生学は同時に又範疇の系譜学でなければならぬ、と云うのは、範疇はその社会的発生によって、その歴史的系統に従って成長しなければならないのである。ギリシア人の社会はギリシア的神話を産み、それがギリシア的世界観哲学として統一を有つためにはギリシア哲学的諸範疇を有たねばならないが、それは交通手段の乏しかった古代に於ては云うまでもなく、例えば印度哲学的(バラモンの又は仏教の)或いは支那哲学的(儒教の又は易の)諸範疇とは無縁であらざるを得なかった。処がこれ等の範疇の諸系統は今日に至るまで、夫々の系統として殆んど独立に伝承されているのが事実である。今日に至ってもまだ、欧州哲学的諸範疇――それはギリシア哲学的範疇の系統的発展であって今日の吾々にとって唯一の技術的・自然科学的・社会科学的・範疇である――は、東洋哲学的諸範疇と決して共軛化されていない、まして二つのものの一致は望むことが出来ない。なぜなら欧洲哲学的範疇は現代の――文化民族による――社会全般の生きた機関(オルガノン)であるに反して、東洋哲学的範疇はすでにその成長を止めて、単に古典的な範疇として古典学的な意味をしか有っていないからである*。
* ギリシア的乃至欧洲的思想は無論古来東邦的・印度的・思想と交流している。文芸美術に就いてはこの点は特に著しい(例えばガンダハーラ芸術)。――又数学に於てのような抽象的な(非日常的な)範疇は、割合非歴史的であるだけに、発生系統と無関係に、相互の間の一致を持つことも出来る(例えばニュートンと関孝和)。――だが問題は今(日常的な)哲学的範疇に就いてである。
 範疇の異った諸系統の間には、現在吾々が見ているように、こうした自然淘汰が行われている、之が哲学的諸範疇系統の歴史的運命・必然性なのである。この歴史的必然性を、無意識にか故意にか無視することによって人々は、東洋哲学的諸範疇――例えば国学的・朱子学的・陽明学的・仏教的・等々――を欧洲哲学的諸範疇に取って代わらせたり、後者を前者に強制的にあてはめたりすることが出来る。社会組織の問題が国学によって決定されたり、弁証法が完全に華厳経にあったり何かするのである。
 社会的発生学と歴史的系譜学とを有つ(イデオロギーに於ける)哲学範疇――だが夫は実はすでに範疇体系である――は、唯物史観によって、更に階級性の別を与えられる。欧洲哲学的範疇は同時に現代に於ける東洋にも通用せねばならぬ処の範疇である。吾々はこの範疇体系を日常選択することによってのみ、電車を動かし、ラジオを聴き、経済生活をなし、政治生活をなす。なぜならこの範疇は科学的範疇に一続きなのがその特色だからである。処が人々は、或る階級イデオロギーを組織するために、是非とも、例えば国民道徳というような一定の領域に限って、特に東洋哲学的な――それは結局国粋的な――範疇体系を選ばねばならぬ。そうなると、今までは単に歴史的な反動でしかなかったこの範疇選択は、実は階級的反動――ファシズムが今日之を代表する――であったことが暴露されて来る。――だが反動理論は必ずしもこのような拙劣な形でばかり現われるのではない。同じく――一応進歩的な――欧洲哲学的範疇体系を採りながら、反動理論は形式論理的な範疇体系を選択することによって、弁証法的論理の範疇体系を拒否することが出来る。丁度社会ファシズムや社会民主主義の理論に於てのように。
 かくてイデオロギーの論理学――夫はイデオロギーの心理学の到着点であった――は、イデオロギーの範疇論となって具体化される。吾々は一般に論理学に於ける所謂「範疇論」を、こういうものにまで改造しなければならないだろう。
 イデオロギー論は、その範疇論に立脚することによってイデオロギー――意識・政治秩序・文化――に対する基本的な(但し後に見る通りまだ全部ではないが)論理的批判――之が同時に歴史的批判である――を与えることが出来る。一体論理の構造や従って又科学の構成は結局範疇体系が適宜に具体化されたものに過ぎない。そうしてこうした論理や科学と範疇体系の上で共軛関係にある処の他の一切の文化――芸術・道徳・宗教其他――も亦、その限り範疇体系によって初めて組織が与えられるのである。イデオロギーは単なる意識乃至意識(観念)形態ではない、論理的価値歴史的価値を負った夫なのである。だからこそそれは客観的な文化形態ともなることが出来るわけである。――イデオロギーの論理学なしには、何の有効なイデオロギー論もないのだが、それに必要なものがイデオロギー論的な範疇論なのである。
 イデオロギーを意識形態だとすれば、イデオロギーの心理学はかくて論理学に集約されて初めて成り立つことが出来る。社会心理と呼ばれるものや個人心理なるものは、云うまでもなく一応心理的に問題として取り上げられねばならないが、それがイデオロギーの資格を以て登場するためには、この心理学が更にイデオロギーの論理学にまで高められねばならぬ。そうしなければ意識形態文化形態とは決して媒介されずに終らねばならないだろう(第六章を見よ)。こうして一切の意識内容や文化形象は、イデオロギーの論理的範疇論によって処理されるのである*。
* イデオロギーの論理学乃至範疇論は、意識や文化の心理学的・社会学的・研究を決して除外するものではない。却って之こそがイデオロギー論の肉付けとなるものである。同様に、併し更に重大なことは、イデオロギーの論理学乃至範疇論が、イデオロギーの歴史的記述を除外する処ではなく、却ってそれ自身、具体的な内容から云えば、イデオロギーの歴史の原理的な記述だということである。一体論理とは存在の歴史的必然性の反映に外ならなかったからである。
 イデオロギーが意識として規定される側面から云うと、イデオロギー論は、イデオロギーの心理学・論理学・範疇論となった。今度は之を一つの歴史的社会的存在として規定する側面から、イデオロギーの社会学(そう仮に呼ぶとして)へ行こう。
 イデオロギーの社会学と云うと、人々は多分、社会学が近来好んで取り扱おうとする「イデオロギー論」を思い出すだろう。だが後に見るように、吾々の「イデオロギー論」は社会学者達の考える「イデオロギー論」――それは結局文化社会学乃至知識社会学の特殊な形態に過ぎない――とその根本性格を異にしているだろう。それと同じに、茲で今社会学と呼ばれるものは、社会学者達が立つ一つの立場や彼等が用いる一つの方法ではなくて、イデオロギーという意識的――夫はつまる処論理的――社会存在物に就いて、特に夫の論理学的でない契機の観察を意味するものに外ならない。意識を他の諸存在から区別する最も著しい特色の一つは、近代の哲学者達が好く指摘しているように、価値を担っているという点にあるが、その価値が、真理として――理論的・芸術的・道徳的・宗教的・真理として――常に論理的価値を意味しなければならない、吾々は論理の概念をそういうものとして規定しておいた。そこで今、意識(イデオロギー)のこの重大な特色を一応捨象して、即ちその論理学的契機を一旦無視して、他の一つの特色、契機である処の、夫が一つの歴史的存在物だという点だけを取り出したものを、イデオロギーの社会学と呼ぼうというのである。――実際所謂社会学は後に見るように、歴史的社会的存在の価値的規定を度外視することを一貫した特色としているだろう(第二部参照)。「社会学」は事物を評価することを欲しない。
 イデオロギーの社会学なるものに併し、も一つの制限を加えておく必要がある。イデオロギーは、すでに述べたような色々な意味に於て社会の上部構造であったが、上部構造という限りそれは社会の下部構造の上部構造でなければ意味がない。そこで、イデオロギーの社会学は恰も、専らこの下部構造と上部構造との連関を明らかにすることを課題とするだろうように見える。――だが、社会の下部構造――技術的・経済的・政治的・社会的・部面――であっても、唯物史観によれば、社会の必然的な歴史的発展に於ける弁証法的諸契機から構成されているのであって、その限り之は論理的構造を有つのであるから(イデオロギーはこの論理的構造を論理的価値関係――夫が論理的だ――として反映するのであった)、前のイデオロギーの論理学と雖も、矢張りイデオロギー(上部構造)と下部構造との連関を明らかにすることを課題としないではいられないのであった。だから、上部構造としてのイデオロギーを下部構造との連関に於て明らかにするのは、何もイデオロギーの社会学にだけ与えられた課題なのではない。それは本来イデオロギーの論理学の課題にぞくする。
 今必要なことは、之ではなくて、イデオロギーに固有な――他の歴史的社会的諸存在から区別された――歴史的社会的構造を取り出すということなのであるが、イデオロギーに固有な歴史的社会的構造と云えば併しその精髄は論理的構造に外ならないのだが、今は却ってこうした論理的なアクセントを全く引き去って了った残留物としてのイデオロギーが有つ処の、社会的歴史的構造を取り出して、それだけ又別に考えねばならない。そうしなければイデオロギーの論理学は終局的には具体化されず、イデオロギーの現実的な運動情勢は取り出されずに終るだろう。こうしたイデオロギーの没論理的構造を取り扱うものを、イデオロギーの社会学と呼んでおこう、というのである。
 実際、所謂――ブルジョア的――社会学が提供する社会の歴史的な又は非歴史的な諸関係形式は、その立場をさえ除外したならば、弁証法的骨髄――論理的乃至論理学的原理――によって貫かれるべき社会科学の豊富な内容となることが出来るだろうし、又そうならなければならぬのである。

 吾々は今、主に文化形態としてのイデオロギーの没論理的な歴史的社会的構造として、イデオロギーの二つの契機乃至二つの形態を対立せしめそして連関せしめよう。ジャーナリズムとアカデミズム。
 普通世間でジャーナリズムと呼ぶものは、大抵新聞紙に関係した事物を指すようである。併し云うまでもなく之は単に新聞紙又は一般に新聞現象に関係したものばかりを指すのではなくて、広く、雑誌とかキネマ・劇壇・ラジオ等々という現代に特有なイデオロギーの社会的諸物体の関係物を指している。そういう社会的諸物体を生産し又そういう諸物体を機関として表現されるような社会的意識・イデオロギー――の現代に於ける――一形態が実は、この場合のジャーナリズムの意味なのである。ジャーナリズムは、その限りイデオロギーの――現代に特有な――一形態である。実際今日の所謂ジャーナリズム――それはブルジョア・ジャーナリズムと呼ばれるべきだが――は近世に於ける欧洲の商業ブルジョアジーの台頭によって、今日の形態への萌芽を植えつけられた。十六世紀のヴェニスには近代的新聞紙の最初のもの(Notizie Scritte)が出たし、十七世紀初頭のフランクフルトアムマインやアントワープやロンドンが之に継いで新聞紙を発行している。それ以前のものは同じく新聞紙と云っても近代新聞紙の諸特徴を具えてはいなかった*。
* 併しブルジョア・ジャーナリズムが今日の隆盛を来すに至ったのはフランス革命を契機にしてであったと云われる。
 処が他方ジャーナリズムは、もっと立ち入って考えて見ると、報道物(Nachrichtenwesen[#「Nachrichtenwesen」は底本では「Nachrichtenwessen」])――そういう一つの交通関係――に外ならないとも見られねばならない。そうすれば夫は一切の過去の又現在する諸民族の――原始民族さえの――生活のある処に悉く伴うものでなければならぬ。この点から見ればジャーナリズムは決して、現代にだけ特有なイデオロギーの形態なのではない。
 併しそれがどれ程古い時代からあったにせよ、報道乃至交通というこの後の意味でのジャーナリズムも亦、人間生活の物質的な生産諸関係――社会の下部構造――に対する上部構造であるという点で、依然としてイデオロギーの資格を持っていなければなるまい。そうすれば之は、イデオロギーの――現代にだけ特有であるような――歴史的一形態ではないにも拘らず、なおイデオロギーの――云わば本質的な――一契機であると云わねばならぬ。
 元来イデオロギーは、社会の上部構造の、時代々々によって異る諸形態――イデオロギー形態――を意味すると共に、又社会の上部構造一般――単にイデオロギー――をも意味する筈であった(前を見よ)。このようにしてイデオロギーの云わば本質的な契機と歴史的な形態とを媒介することが、イデオロギーという弁証法的概念なのであるが、ジャーナリズムも亦その通りである。ジャーナリズムとは、一方に於て本質的な――昔から常に存在した――報道乃至交通関係というイデオロギーの一契機でありながら、同時にそれが、歴史的必然性に従って、今日の所謂ジャーナリズム(ブルジョア・ジャーナリズム)というイデオロギーの一形態にまで発展して来なければならなかった、その所以を弁証法的に物語る概念なのである。
 ジャーナリズムは、普通それが任意の視角からどう見られようと、イデオロギー論の問題として取り上げられるのでなければ、統一的に解明出来ないのであるが、之をイデオロギー論の視角から取り上げると、之に対立するものは是非ともアカデミズムでなければならない。――処でアカデミズムも亦、一方に於て、現在の大学や研究所というインスティチュートを生産し之によって又生産される処の、イデオロギーの現代に固有な歴史的一形態であると共に、他方に於て古来存在するイデオロギーの本質的な一契機でもなければならない*。今日のアカデミズムは欧洲の諸大学が宗教的束縛から実質的に脱却したことからその形態を決定されたのであるが、すでに他方ギリシア時代の昔からアカデミズムは存在した、例えばイオニア学派・ピュタゴラス学壇・プラトンのアカデミー等々。
* 時代によっては「アカデミー」と「大学」とは対立する。十七世紀の欧洲はその例であろう。併しこの対立は科学や文芸に於ける進歩的なアカデミーと反動的な大学との対立なのだから、イデオロギーの論理学にとっての対立であって、没論理的なこのイデオロギーの社会学の上での対立ではない。それで今の場合、アカデミズムという範疇は主として大学を云い表わすと見ても不当ではない。
 だがジャーナリズムとアカデミズムとはどう対立するか。
 ジャーナリズム(Journalism)という言葉はカエサルの官報である世界最古の新聞紙 Acta Diurna(日報)から来たと云われている。Diurna ――それが Journal と訳される――は日々(Jour)に関するものである。だから Journal とは、主観的には日記(例えばアミエルの Journal intime)などを意味するし、客観的には新聞紙などを指すこととなるのである*。ジャーナリズムとは、こうした日々にぞくするものが一つの原理となったものに外ならない。
* 新聞紙に就いては拙稿「新聞現象の分析」(『法政大学哲学年誌一九三二』【本全集第三巻所収】)を見よ。
 でジャーナリズムが日々の、その日その日の生活と関係していることを先ず第一に注意しなければならない。それは人間の日常生活にその根を有つ処のイデオロギーの一形態乃至一契機なのである。日常生活は、仮にそれが公の生活ではなくて、個人の私的生活であっても、常に何か社会的な生活である。日の光は人間社会の――私的又公的――交渉の一日を開き又閉じる、人々にとっては社会的共通生活に這入ることによって一日が始まり、この生活から離れることによって一日が終るのである。そこでは私的個人の内部的な「生」と普通考えられるものは、そのままではもはや殆んど問題になる資格を持てないし、異常なものはこの社会的共通生活から除外されるか又は之によって平均されて了うのである。
(だから、人間の特異な内面性を誇張したり、異常な生の体験に依り処を求めたりすることによって、この社会的共通生活からの脱却を企てる宗教意識にとっては、この日常生活の原理――日常性――は、何か外面的で卑俗なものとしか考えられない。それは何等の崇高さも高遠さも持たないものであるかのように貶されるのを常とする。)
 こうした日々の日常生活にその根を有っていたジャーナリズムは、普通世間の人々の平均的な知識・日常的知識と考えられる精神能力によって運ばれる。人々はこの能力を無雑作に常識と呼んでいるのである。処で常識にとっては専門的な知識は一応不用であり又時に有害でさえあると考えられる、常識は通俗的だという意味に於ても、又世間に知れ渡るという意味に於ても、ポピュラーであることが出来る、夫は例えば公衆(Public)によって支持される知識である、とそう人々は考えている。
 だが日常性乃至常識の概念をこのようなものとしてしか理解しないことは、夫自身之に対する――劣悪な意味での――常識的理解でしかない。常識は一方に於て共通的な・平均された・凡庸な・知識を意味しないのではないが、他方に於て又健全な良識(ボンサンス)をも意味しているのが事実である。元来常識―― Common sense, Gemeinsinn ――という言葉は、アリストテレスの De Anima に於ける共通感覚(共通感官・共通感)から来たのであるが、それが五官に共通であることから転じて、人間一般に共通であることに変化して来て常識となり、トーマス・リードの手によってそれが真理の直覚的な公理の提供者とさえなった。無論リードなどが考えていた人間一般は英国風の人間学――人性論(human nature の理論)――にぞくすると考えて好いから、すでに特殊な哲学史的制限を持っているのであるが、人々の常識は、この常識という概念を、実はもっと健全に理解している。というのは、凡ゆる人間に共通な根本的知識など事実あり得ないのが本当であって、実際の常識とは、世間の一般の人々(必ずしも総てである必要はない)にとって共通に通用する能力・知識及び見解を意味すると人々は考える。それは凡ゆる人間が事実立脚している公理的な知識ではなくて、却って凡ゆる人間が準拠すべき規範・理想的態度としての性格を有っている。だから知的常識の効用を却けたカントも、趣味判断に於ては美的常識――美的共通感覚(Sensus Communis aestheticus)――に根拠を求めることが出来、またそうせねばならなかった。――日常性はこうした常識が自分自身で持っている原理なのである。常識は他の何かの原理からの脱落や背反ではない、それ自身の原理を有っている。
 ジャーナリズムが日常生活に根を有ち、従って常識的であるということは、ここからもう一遍規定し直されなければならなくなる。もしそうしなければ、一般にジャーナリズムは、多くのアカデミケルが無意味に反覆しているように、何の積極的な価値も有たない処の、一つの不思議な――悪魔と同じに説明し難い――現象でしかなくなるだろう。
 ジャーナリズムの特色は実は、その現実行動性時事性(actuality)になければならなかったのである。と云うのは、それは、歴史の上からは現在性として、存在乃至事実の上からは現実性として、行為の上からは活動性として、生活の上からは社会性として、規定されねばならぬ。吾々の日常生活・常識の世界・の積極的な内容は恰もこうしたものなのである。常識の主体と考えられる公衆が、公衆として関心を持つ問題は実際、こうした規定によって理解出来る処の時事問題なのであって、時事問題とは言葉の通り、決して永久な問題ではあり得ない、公衆が健忘症である所以である。
 現実行動性によるこの時事問題は併し、常に政治的性格を有っている、日常生活は実践性――社会活動性――を有っているが、そうした実践性が含蓄ある意味での政治性に外ならない。事実所謂政治は、良い意味に於ける常識によって取り行われるべきだと、デモクラシーの理想は教えている。政治に玄人はあってはならぬ、凡ての人が、政治に干与しなければならないと。
 処がこの政治的・時事的・問題は常に、思想――イデオロギー――と呼ばれるものと結び付いている。人間の社会的実践が政治に於て最も著しいとすれば、この実践を顕著に反映する意識が、所謂思想なのである。思想とは併し常に、哲学的世界観的・意識の外ではない、政治は思想に、思想は哲学に、同伴する、政治学は元来哲学の重大な一部門であった。――処でジャーナリズムの内容は、社会人の有っている世界観・哲学・の一つの直接な表現でなくてはならない、そこでは世相が躍如として現われる。例えばジャーナリズムが何か非日常的・超常識的・非時事的・非政治的な部門の学芸を取り扱う時も、必ず之に何か思想的・哲学的・世界観的・な視角を与えることによって、之を時事化・政治化・現実行動化することを忘れないだろう。
 この現実行動性・時事性から出て来るジャーナリズムのも一つの規定は、その総合統一性である。というのは、ジャーナリズムはその世界観的統一によって、各々の専門的な諸科学を、又各々の分科的な諸文化を、初めて連関せしめることが出来る。云わばそれはエンサイクロペディックな特徴を有って来る。常識とは実際そういうものではなかったか。――元来ジャーナリズムは常に話題(Topik)に上り得るものでなければならない。話題とは凡ゆる部門的な分科的な事物が、言葉という共通な場処(Topos)をめざして集まることを示唆する言葉である。この集まる場処は市場の外ではなく、そこで一切の知識が交換され(ニュース・評判)、訂正総合され(議論)、又誇張されたり捏造されたりする(虚偽)。かくて常識――ドクサ――が養成される、神話世論が出来上るのである*。やがてここで又範疇――之は公衆に向って語ることを意味する言葉で市場と語原を同じくする――が発生し、論理が構成され、理論が出来上る。之が哲学的世界観に外ならない。哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである。
* フランシス・ベーコンの『市場の偶像』を参考せよ。
 ジャーナリズムをこう規定すれば、之に対立するアカデミズムは割合簡単に決定出来る。アカデミーという言葉が、アカデメイヤに建てられたプラトンの学壇から起こったように、アカデミズムは教壇という特殊な――一般的でない――社会的存在条件を仮定している。それが人々の一般的な日常生活の圏外に初めから逸していることを注意せねばならぬ。そこでは、常識は未熟なドクサとして、高貴な真理から峻別されねばならない。と云うのは、一定の学派的訓練によってしか見出されないような伝統的問題の解答としてしか、真理は真理として現われることが出来ぬ。アカデミズムは一般社会の現実行動的・時事的・な諸関心とは関係なく、アカデミーと呼ばれる特殊な社会圏だけにとってしか問題にならない問題に専ら関心を制限する。だから例えば社会科学などに就いて云えば、アカデミズムによる科学研究法は、科学のための科学として、純粋学の追求となって現われる。アカデミズムが難解を意味したり、衒学を意味したりしがちなのも無理ではない。――少くともアカデミズムは現実行動性・時事性によっては動かないという処に、その特色を有っている。それは何か超現実行動的・超時事的・な原理によって運ばれる処の、文化イデオロギーの一つの契機と一つの形態なのである。
 このことは併し、前に述べた連関から当然、アカデミズムの専門化を結果する筈であった。例えば科学は、言葉通り分科の学として、それぞれの専門の分科の外へ出る必要を感じることなく、展開することが出来る。諸専門部門の間の総合統一は、この視角からすれば二次的な或いは無用な配慮でしかないと考えられる場合さえ少なくない。哲学と雖も、アカデミズムにかかっては哲学的――世界観的思想的――に取り扱われなくても好い、問題は専門的な哲学的知識又は技術だけだ、と考えられる。

 さてジャーナリズムとアカデミズムとを一応こう対立させるとして、二つのものがどういう連関にあるかが問題となる。――二つのものは事物に対する人々のイデオロギー的活動の、あり得べき二つの態度なのである。イデオロギー的活動のこの二つの契機乃至形態は、夫々が社会の上部構造のものであったということから、必然的な連関を与えられる。
 抑々ジャーナリズムは歴史的社会の運動の本質に於て一つの必然的な役割を有っている。それは社会の歴史的発展の運動形式に忠実であることを一時も忘れない処の、イデオロギーの運動形式なのである。だがそれが基本的な――下部構造としての――歴史的社会の運動にあまり忠実であろうとすることから、この忠実さが却って姑息な形骸となり、結果としてジャーナリズムは歴史的社会の運動を指導する独立なそれ自身の原理を見失って了うということにもなる。かくて人々によればジャーナリズムは全く無定見な日和見に時を費すものであるかのようである。
 処がアカデミズムは丁度之に反して、この歴史的社会の運動に必要と考えられる諸形式を与えることによって之を独自に指導することを専心する処の、イデオロギーの運動形式である。だがそれが独自の原理と節操とを守ろうと力める余り、この歴史的社会の運動を促進する代りに、却ってその運動を固定せしめる、運動は惰性に落されるということになる。かくてアカデミズムは人々によれば固陋な自己満足に日を送るかのように見えるのである。
 両者は元来、基本的・下部構造的・歴史的社会の発展の運動形式に対する、上部構造・イデオロギーの、取り得べき二つの運動態度でなければならなかった。それは元々、歴史的社会の運動をイデオロギー的に促進せしめるための、相互に補い合う筈の二つの極から成立っているメカニズムだったのである。それが或る条件の下には――その条件は後を見よ――その本質に含まれていた可能性を通して、却ってこの運動の制動機ともなることが出来る。でジャーナリズムの欠陥はアカデミズムの長所に、アカデミズムの欠陥はジャーナリズムの長所に、元来は対応する筈である。アカデミズムは容易に皮相化そうとするジャーナリズムを牽制して之を基本的な労作に向わしめ、ジャーナリズムは容易に停滞に陥ろうとするアカデミズムを刺戟して之を時代への関心に引き込むことが出来る筈である。アカデミズムは基本的原理的なものを用意し、ジャーナリズムは当面的実際的なものを用意する。
 イデオロギーの二つの本質的な契機としては、ジャーナリズムとアカデミズムとは正に以上のような有機的な連関にあり、又そうなければならぬ。だが、イデオロギーの二つの歴史的形態としての両者は、即ち現代に於けるジャーナリズムと現代に於けるアカデミズムとの連関は、単にこう云っただけでは片づかない。

 現代に於けるアカデミズムは、主として現代に於ける大学の本質によってその実質を決定されている。アカデミズムは元来、何かこうしたインスティチュートの特殊な存在によって制約されているものであったが、今日の――資本主義社会に於ける――大学は、更に特殊な社会的機能を果さねばならぬ。と云うのは、元々欧洲の旧い諸大学は封建的(乃至又宗教的)旧制度の必要を充すべく出来上ったのが多いのであるが(例えばオックスフォード・ソルボンヌなど)、資本主義制度によって確立された其後の諸大学も、多かれ少なかれこの封建制度からの伝統にぞくしているものが多い(例えばドイツの新しい大学やわが国の帝国大学の如き)。だが今日では封建的残滓は資本主義の敵ではなくて却って末期的資本主義の最後の武器となる。それは懐古的国粋的――乃至ファシスト的――反動の役割を、今日の半封建的諸大学に課している。そしてこの点では純粋に資本主義的な――かの伝統から自由な理想の下に生まれた――諸大学(わが国の初期の私立大学の如き)も、今日では殆んど之と異る処はない。なぜなら殆んど凡ての資本主義諸大学が一様に、資本主義にとってのイデオロギー的機能を果すために、かの伝統に合流することによって或いは又独立に、ファシスト的反動化を行わざるを得なくなったからである。大学は事実今日資本主義国家の完全な武器となり終った。
 かくてアカデミーの機能――それがアカデミズムである――は、この大学の本質・国家機関としての機能によって、一定の予め可能であった方向に実際に歪められて来る。アカデミズムは元々それが持っていた自己の固定化惰性化の可能性を愈々実現される、そうでなければ之に反動的な役割を容易に課すことは出来ない。処が次にアカデミズムはその反動的役割の内に、今や自らの学的価値をさえ自覚しようと欲する。そうなると之はもはや単なる固定化や惰性化ではなくて、その生命であった基本性原理性の喪失でなくてはならぬ。アカデミズムは完全な廃頽物となって了うのである。――之が今日の資本主義制度下に於けるアカデミズムの歴史的形態なのである。
 処が今日のジャーナリズムも亦、資本主義によって抜くべからざる歪曲を受けている。ジャーナリズムの今日の形態は出版資本の副産物に過ぎないとも云うことが出来る程に、資本主義――印刷・製紙の技術や販売組織に現われる――は近代ジャーナリズムの抑々の発育期から之を制約している。初めから資本主義と同伴しなければならなかったという点が、――大学は之に反して初めは必らずしも資本主義の所産ではなかった――近代ジャーナリズムの生れながらの運命だったのである。だが、多くの官公立諸大学が直接に資本主義的利潤の追求を目的としないのとは異って(但し私立の企業大学は別である)、今日のジャーナリズムはそれ自身直接に利潤の獲得を目指していることを見逃してはならない。それだけジャーナリズムの資本主義による歪曲は、アカデミズムのそれに較べて深刻であらざるを得ない。
 かくて現代に於けるジャーナリズムは元々それが持っていた無定見性の可能性を実現し、センセーショナルでトリビアルなものとなる。そうしなければ商品価値を生じ得ないのである。だがそれだけではなく、そうなることによってジャーナリズムはそれに固有な当面性実際性を失って了わねばならなくなる。それは現実行動的・時事的・性格――世論の指導・評論能力――を犠牲にせざるを得ない。実際例えば今日の諸新聞紙(近代的大新聞紙)は次第にその政治的見解を均等化しつつあるだろう。――このようなものが今日の資本主義制度下に於けるジャーナリズムの歴史的形態なのである。

 さて人々は、資本主義制度の下に於けるジャーナリズムとアカデミズムとのこの二つの形態が、直接にそれ自身としては、相互の間にもはや何等有機的な連関を持てない処の、バラバラなそして相互に矛盾した、二つの現象となっている、ということを今注意せねばならない。アカデミズムはアカデミズムで歴史的社会の必然的運動から愈々全く無関係に高踏化して行くし、ジャーナリズムはジャーナリズムで又之とは独立に、この運動を断片的な諸刹那に分解することによって愈々この運動を見失って了うが、その結果として、この二つのものは、相互を傷つけるようにしか作用しない状態に陥って了っている。で二つのものが有機的な連関に齎らされそうな手懸りは、今日ではもはやどこにもない様に見える。アカデミズムとジャーナリズムとは本来歴史的社会の運動に関して、初めから有機的に連関して相互に補い合う筈の、二つの契機――二つの極――ではなかったか。この二つのものの有機的な連関を、処が、近世資本主義が分解して了ったのである。かくて今や二つのものは歴史社会自身にとっての矛盾物であるばかりでなく、そうであることによって又相互に矛盾せざるを得ないものとなる。
 救済は併し空から天降って来ることは出来ない。丁度資本主義は資本主義自身の用意した契機によって止揚されねばならないように、この二つの矛盾物は、それ自身の力関係の内から矛盾の解決の鍵を見出さねばならぬ。
 実際、今日のジャーナリズムは次第にアカデミズムの従来の領域と権威とを奪い、良かれ悪しかれその力を増大しつつある。わが国などではジャーナリズムと云えば以前は単に文壇的なものとしか考えられなかったものが、今日ではアカデミーの独壇場であった理論の世界を蚕食して、論壇が形成されるに至ったのを見る。ジャーナリズムは理論的ジャーナリズムにまで、進行したのである。アカデミズムに対するジャーナリズムのこの力関係は併し、前者が主に封建制度からの伝統を持った封建的生産物の資本主義制度の下に於ける残存物であったのに反して、後者が専ら純資本主義制度の所産であるという、歴史的推移に於ける二つのモメントの力関係を云い表わしているに外ならない。でそれだけ、アカデミズムは熟しそして老い、それが含む凡ゆるモメントをすでに叙述し展開しつくしているが、之に反してまだ若いジャーナリズムにとっては、まだその凡ゆるモメントが客観的に展開し尽されては居ない。ジャーナリズムは、その可能性がまだ悉くは実現していない、それは客観的に様々なモメントを混同している、それは多分の未来を有つ。と云うのは、今日のジャーナリズムの形態は取りも直さずブルジョア・ジャーナリズムであったが、そして近来わが国のジャーナリズムも、急速に左翼イデオロギーを閉め出し始めたが、併しこのジャーナリズムの内には近来まで、左翼イデオロギーのための余地が残されていなくはなかった。そしてより重大なことは、今日ではすでに、ブルジョア・ジャーナリズムから独立に、プロレタリアジャーナリズムが発育し始まっているという事実である。
 近代ジャーナリズムは近代アカデミズムに較べてその発生の時期が新しいにも拘らず、尤も之は当然なことだが、却ってアカデミズムよりも現に先の歴史的段階を歩いている。アカデミズムとジャーナリズムとの矛盾の止揚はだから、アカデミズムの側からではなくて、正にジャーナリズムの側から、而もプロレタリア・ジャーナリズムの内から、待望されることが出来るだろう。
 プロレタリア・イデオロギーはルーズな意味でも大衆のものである。そして一般的に云えば、ジャーナリズムも亦元来そうした意味での大衆のものだったのである。今日のアカデミズムは処が封建的貴族と資本主義的貴族とのものであった。だからイデオロギーに於けるかの矛盾を止揚するものは、まず第一に、プロレタリア・アカデミズムよりも先に、プロレタリア・ジャーナリズムでなければならないのは当然である。――だがプロレタリア・ジャーナリズムとは何か、それは大衆化の外ではない。
 ジャーナリズムは普通、通俗化・啓蒙・又は俗流化とさえ考えられている。ブルジョア・ジャーナリズムならば、確かにそういう規定でも一応は捉えることが出来るだろう。だがプロレタリアのジャーナリズムはもはやそのようなものではないし、又あってはならない。一体人々は大衆という概念を勝手にルーズに用いるのではなく充分に科学的に用いなければならぬ*。それはプロレタリア階級に組織された又はされるべき民衆を意味すべきものである。大衆化とはだから外でもない、プロレタリアの組織化に外ならない。プロレタリア・ジャーナリズムとは、ただこの意味だけに於ける大衆化だったのである。――この大衆化の進み行く先端にそして、プロレタリア・アカデミズムも亦横たわるだろう、その暁にはアカデミズムとジャーナリズムとが、初めて本来の正常な有機的連関に、現実的に到着するだろうと考えられる。
* 拙著『イデオロギーの論理学』の内の「科学の大衆性」【本巻所収】の項を参照。人々はジャーナリズムを問題にしつつ往々大衆の概念に触れるが、ジャーナリズムの概念が理論的に分析して用いられていないと同じく、大衆という言葉も全く個人的な思い付きから意味を与えられているに過ぎない場合が多い。
 イデオロギーの社会学として、少くとも吾々は一応、以上のようなジャーナリズム=アカデミズムの対立と連関とを指摘出来たが、元々この「社会学」は、それ自身だけで独立な根拠を持てるのではなくて、その根柢が[#「根柢が」は底本では「根抵が」]、かのイデオロギーの論理学に、何かの仕方で結び付かなければならない筈であった――前を見よ。それを見るためには併し、ジャーナリズムとアカデミズムとのイデオロギー的機能を(そしてイデオロギーは論理によってその骨髄を与えられる筈だったことを思い起こそう)、もう少し立ち入って検べて見なければならない。
 ジャーナリズムのイデオロギー的機能は、その批評性に求められる。ジャーナリズムは、それがどのように専門的なアカデミカルな事物を取り扱うにしても、常に之を評論的視角から取り上げねばならぬ。それは文芸批評として又学術評論として、特色を現わす。だから文学とか哲学とかいう、それ自身批評的・評論的・性格を担っているものは、それが優れたものである場合、多くジャーナリスティックな特色を持っていることが事実である。カントの批評主義の哲学が甚だ能く読まれたなどは無意味ではない。――アカデミズムのイデオロギー的機能は之に反して、その実証性に求めることが出来るだろう。と云うのは、批評性は或る意味に於ける否定であり、一般的には積極的な建設の反対であるが、この否定の反対としての肯定を吾々は実証性(Position)と名づけておこう。オーギュスト・コントは実際、その実証主義をこうした批評主義に対立させている。分科的諸科学は、自然や歴史的社会に就いて、之を直接な生まな材料として、ひたすらに探究する、それは必ずしもこの直接で生まな材料に基く諸探究を総合したり媒介したり秩序づけたりしない、要するに必ずしも批評しないのである。――以上のことは、ジャーナリズムが常識のものであり、之に反してアカデミズムが専門のものであったことからも、至極自然に理解出来る。
 だが無論のこと、この批評性の機能と実証性の機能とは、単に今云ったように区別対立しているだけではなくて、至極複雑ではあるが、併し一定の連関関係に這入っていなくてはならない。二つのものは実は、一つのイデオロギーの二つのモメントに外ならなかった、単なる批評もなければ単なる実証もあり得ない、在るものは何かの形態に於ける両者の結合でしかない。
 文学の制作は一つの実証である、それは他人の制作した作品を品しつするのではなくて、自ら生活材料を整理して形を与える処の一つの実証的な探究である。この制作は併し実は、その制作者のそれ以前の制作に対する批評を無視していなかった、ということを今注意しなければならない。この制作は批評から、この意味に於て一続きのつながりを有っていたのである、もしそうしなければ、制作の客観的な進歩は恐らく望み難いだろう。だが逆に又、批評家は或る意味に於て――少くとも可能的な制作家として――同時に作家でもなければならない、それが批評家の必要な資格なのである。そうすると批評は批評者の――可能的な――制作を仮定しないではなり立たない、そうでなければ批評は全く外部的な印象でしか無くなるだろう。この点から見れば、批評は又制作から、この意味で一続きのつながりを持っていなくてはならない。――実際の現象としては作家と批評家は資格として又個体として別ではあるが、批評と制作との間には本質的にはこうした連関が横たわっている。
 之は文学に於ける批評と制作との連関であるが、一般に文化イデオロギー――文芸や科学――に於ける批評的モメントと実証的モメントとの連関は、今のをそのまま拡大して考えることが出来る。で今度は諸科学に於ける批評的契機と実証的契機との連関を注意しよう。そこにも今云った限りの連関のあることは云うまでもないが、ここではそれ以上に、両者のより特徴ある連関の関係が浮き出して来る。と云うのは諸科学に於ては批評と実証とが極めて近く歩みよっているから、二つの連関は特別な相貌を呈して来るのである。――諸科学に於ける批評は、それ自身実証的な内容をもつのでなければ批評とならず、又その実証は予め他の実証的研究の批評を基礎にしない限り始められない。実証は批評的であり(例えば文献の整理・他の所説の歴史への顧慮・を必要とする)、又批評は実証的である(例えば新しい実験によって従前の実験の結果をたしかめたり覆したりする)。ここにあるものは批評的実証乃至実証的批評である。吾々は之を簡単なために、科学的批評と呼ぶことが出来る。
 処で之は諸科学に於ける批評と実証との連関であるが、之を再び、一般に文化イデオロギー――文芸や科学――に於ける両者の連関にまで、一般化して引きもどせば、科学的批評の概念はそれだけ一般化される。実際人々は、文芸に於ても、「科学的批評」の問題を有っているだろう。
 今、こういう操作によって取り出された科学的批評の概念こそ、イデオロギーの実証的モメントと批評的モメントとの連関、即ち又アカデミズム的契機とジャーナリズム的契機との連関の、最も特徴的な場合に外ならない。云わばそれは、アカデミズムとジャーナリズムとの数学的相乗積なのである。――ジャーナリズムのイデオロギー的機能とアカデミズムの夫とは、このような形態で以て連関するのを特徴的な場合とする。

 さて、批評という言葉は実はどのような意味にでも用いることが出来るが、夫が科学的批評であるためには、批評は一定の価値評価を結果する処の批判でなければならない。そうでなければ批評は単なる評判や無駄なさし出口に過ぎないのであって、何の促進的なイデオロギー的機能を果すものでもなくなって了う。処が価値とは、すでに述べた通り、論理学的なものでなければならなかったから、価値の評価は又論理学のものでなければならない。例えば一つの或る理論が金利生活者のイデオロギーだという、そういう社会学的事実を指摘しただけでは、まだ単に科学的ではあっても批評的ではなく、又単に批評的ではあっても科学的ではない。そうではなくて、金利生活者のイデオロギーであるが故に、その理論の体系に於ける誤謬虚偽が(或いは又その部分的真理が)摘出されて初めて、批判は科学的となる。その時初めて批判は効力を発生するのである。この場合併し、金利生活者の理論体系のこの論理学的構成が金利生活者の社会的歴史的――階級的――定位の社会学的構成に対応せしめられる。イデオロギーの論理学がイデオロギーの社会科学(もはや必ずしもイデオロギーの社会学ではない)と連関せしめられるのである。イデオロギーの科学的批評――それはジャーナリズムから出て来た――は、イデオロギーの論理学とイデオロギーの社会科学との数学的相乗積にも当るだろう*。
* アカデミズムとジャーナリズムとの一般的な分析は拙稿「アカデミーとジャーナリズム」(『思想』一〇一号)及び「批評の問題」(同誌一二三号)を見よ【いずれも本全集第三巻所収】。
 かくてイデオロギーの科学的批評によって、イデオロギーの意識としての側面と、歴史的社会的存在としての側面とが、具体的に媒介される。之は外でもない、イデオロギーの社会学のメカニズム――ジャーナリズム・アカデミズム機構――のお陰であった。ここまで来てイデオロギーの論理学は初めて現実的情勢に即するまでに具体化されるのである。

 吾々は今や、イデオロギー論の課題の具体的な形態に問題を進めることが出来る。イデオロギー論は言葉通り、イデオロギーの理論だが、夫は一体イデオロギーをどうする理論なのであるか。或る種の――例えば社会学的な――イデオロギー論は、一応(だが無論初めから不充分なのではあるが)イデオロギーの存在を承認しながら(何となれば社会学者は必ずしもイデオロギーの概念を充分に承認するとは限らない)、諸々のイデオロギーを「公平」に観察して夫々を特色づけるだけで、その間の資格の前後・優劣を決定しようと欲しない。ブルジョアジーはブルジョアジーのイデオロギーを持ち、プロレタリアは又之とは異ったイデオロギーを持つ、ということを指摘して、高々夫々の社会学的必然性を解釈するに止めようとするのである。
 唯物史観によるイデオロギー論は、そして元来本当のイデオロギー論は歴史的に見ても理論的に云っても唯物論のものでしかないのだが、之に反して、諸々のイデオロギーを批判しないではおかない。それは夫々のイデオロギーの優劣・可否を判定することをこそその認識目的とする。実際、もしそうでなければ、一体イデオロギー論は何の役に立つだろうか。役に立つことを目的意識に取り入れない理論はすでに理論の第一の資格を欠いている。――処でイデオロギー論による諸イデオロギーのこの批判こそ、恰も先から云っていた科学的批評だったのである。
 再び云おう、イデオロギー論は唯物史観のものである。処が唯物史観はプロレタリア階級の歴史観に外ならない、それは階級的な見地に立ち、プロレタリア階級がブルジョアジーの階級を克服することによって歴史の進展を実践的に実現しようと欲する処の、階級性を持った歴史観なのであった。処でイデオロギー論は、プロレタリアのこの階級闘争のための理論機関の外はない。そして科学的批評は又そのための武器だったのである。
 イデオロギー論はであるから、先ずプロレタリアのイデオロギーに立つのでなければ何処にも成立しはしない。階級的判決を下し得るものは、それ自身階級性を有たざるを得ない。イデオロギー論はそれ自身一つのイデオロギーの体系であるが、イデオロギーがそうであったように、イデオロギー論は階級性を有つからと云って一般的に虚偽に帰着するものではなく、プロレタリア的階級性を有つが故に、却って真理性を有つことが出来る。科学的批評は派的であるが故に、却って初めてイデオロギーを真理にまで促進する役割を果すことが出来る。
 イデオロギー論の一般的な課題は、プロレタリア階級闘争のための理論機関として役立つことであった、ここでは諸イデオロギーはこの目的意識の下に、科学的批評の対象として取り上げられねばならぬ。それがイデオロギー論の内容となるのである。

 イデオロギー論のこの一般的な課題は、すでに今日まで、文学理論宗教批判やの形の下に、特殊化せられた。だが科学論も亦そうしたイデオロギー論の課題の特殊な場合として取り上げ直されねばならぬ――夫はすぐ後に見るだろう(第三章)。イデオロギー論はかくて要するに科学的な文化批判をその課題とする。そこで文化社会学やその一部分としての知識社会学或いは社会心理学を、之と比較し、之等を批判することによってイデオロギー論自身を具体化せねばならない――夫も亦後に吾々は見るだろう(第二部)。
[#改段]


 イデオロギー論にとっては一切の文化が、その科学的批判の対象である。一切の文化はその本質に於てイデオロギーでなければならないからである。併し之まで一般に文化の批判と呼ばれていたもの――その代表的なものは批判主義の哲学である――と、イデオロギー論とは無論一つではあり得ない。一体批判主義の一般的特色は何であったか。
 ドイツ観念哲学の用語例に従うならば、哲学は形而上学認識論との二つの部門に少くとも分けられる。吾々は今は、形而上学という概念を弁証法に対立させて用いなければならない理由があるので、そこでは形而上学という概念はおのずから又別な規定を持って来ているのであるが、それは兎に角として、哲学は一応この二つの部分に分けられるとそう近代ドイツ観念論者は考える。処が当然なことであるが、この二つのものは単に二つの部門であるばかりではなく、時代々々によってそのどれか一つが他方のものに対して支配的な位置を占める。例えばカント以前が形而上学の全盛時代であり(カント以前にも或る意味の認識論はあった――デカルトやロック又ライプニツ)、カント以後のドイツ哲学はたといそれが形而上学の形を有っていてもなお且つ認識論的特色を忘れてはいないと考えられる。そして現代は又形而上学の復興――ヘーゲル復興・スピノーザ復興・存在論への動向・其他――の時代だと云われている。だがそうなると、形而上学と認識論との区別は、もはや二つの部門の区別ではなくて、実は哲学上の二つの立場の区別となるだろう。所謂批判主義――それが特に喧伝されるようになったのは新カント学派の努力による――は、こうした一つの立場としての認識論として登場して来たものである。
 併しこの認識論(夫はとりも直さず批判主義の最近の形態に外ならぬ)は、必ずしも言葉通りに認識理論なのではない。と云うのは、之は単に認識の理論なのではなくて、正に科学的認識の理論なのである。実際カントが「認識」と呼ぶものが、又「経験」と呼ぶものさえが、ニュートンの物理学によって示されるような科学的体系に近いものを指していた。バークリやロックが問題とした「認識論」と、批判主義が立つ立場としての認識論との、重大な相違の一つは之である。前者は認識を一つの人間的能力としてしか取り上げない、之に反して後者は、認識を、科学的認識を、即ち要するに科学を、認識として取り上げる。ここでは科学という一つの文化が問題なのである。
 批判主義は認識論の名に於て、即ち科学的認識の批判の名に於て、何をなしたか。夫はこの立場からすればおのずから科学の批判でなければならないが、科学に於て批判されるべきものは科学的認識の妥当性――論理的な必然性と客観性――の権利づけであった。認識論はそうした意味で論理学となる(カントの先験的論理学)。――だが科学の権利づけはおのずから科学に於ける様々な意味での方法の[#「方法の」は底本では「方向の」]検討に導かれざるを得ないだろう、認識論は方法論となるのである。科学的認識――夫はこの立場からすれば取りも直さず科学自身である――の方法を検討することは併しながら、要するに一口で云えば科学即ち科学的認識の基礎の検討に外ならない。批判主義=認識論は科学が立ち而も科学自身は自覚していない科学の根柢を鮮明にしてやらねばならないと考える、それが科学=科学的認識の基礎づけと呼ばれている。
 この場合、科学と科学的認識とがその本質に於て同一視されていることを何よりも吾々は注目しなければならない。と云うのは、科学は何よりも先に、その認識の方法如何によって特色づけられねばならないと仮定されているのである。科学はその対象よりも先にその方法の内に自分の本質を見出さねばならない。――科学は実在に対する社会的人間の労働による獲得物でなければならないのに、ここでは実在という対象は[#「対象は」は底本では「対照は」]抜きにして方法という観念の獲得過程だけが尊重される。方法は客観から離脱した限りの主観の内で片づけられる。その意味に於て初めて、批判主義は方法論に帰着したのである*。
* この点に就いては拙著『科学方法論』(岩波書店刊行)【前出】参照。
 このことから批判主義に於ける「方法」の概念に根本的な欠陥を結果する。方法は科学的認識という主観過程の外へ出ることが出来ない、そしてそういう科学的認識が即ち科学自身だというのだから、科学自身も亦結局一つの主観過程に還元されて了う。処が実は、科学とは、抑々批判主義自身の認識目的から云っても、一つの客観的な――歴史的社会的な――文化現象ではなかったか。で、そうすると今云ったような「方法」――科学=科学的認識の――は、少くとも科学という客観物の方法としては、不充分であらざるを得なくなる。
 果して所謂批判主義によれば、科学の方法は、科学の歴史的進歩の過程と絶縁された処の、単なる科学的概念構成の基本構造としてしか理解されない。処が実際には、科学を――無論その科学的概念構成を通してであるが――歴史的に進歩させることこそ、方法――科学研究法――の元来の面目ではなかったか。方法の概念は科学的概念構成の基本構造という云わば静態を通って、科学の歴史的進歩の動力として働くという規定にまで拡大されるのでなければ充分でない。
 だから例えば、数学は凡て形式論理による概念構成を基本構造としているから、数学の方法は形式論理のものだなどと結論することは、方法という概念を科学の基本構造という静態としてしか理解しないことであって、実際には、数学の発展は歴史的な弁証法過程をその背後に持っているのである。例えば代数的な量概念は、之によって微積分的な量概念にまで進歩出来たのである。科学の静態的な基本構造と云っていたものは、実はこうした弁証法的――歴史的――発展の結果である一断面に外ならない。数学の方法を数学のこの歴史的進歩という根柢にまで具体化するならば、もはや数学の「方法」は単に形式論理のものだなどと云って片づけることは出来ない*。
* 数学や又「方法」の上で数学の支配下に立つ自然科学に、イデオロギー性=階級性があるかないかという問題、之はわが国に於ても暫らく前可なり大きな反響を呼び起こした問題であったが、この問題も今の点から原理的に解決出来る。静態――科学の超時間的な基本構造――としては数学は凡て形式論理を方法とする。だが動態――歴史的前進――としては形式論理を方法とするかそれとも又弁証法的論理を方法とするかは一層自由だと云っても好い。と云うのは前者によって数学の新しい領域は恐らく開拓されないだろう、之を開拓し得るためには是非とも後者に依らなければならないだろう。どれが数学の正しい「方法」であるかは、そこで初めて明らかになる。
 批判主義の科学批判に於ける方法の概念は、元々認識の妥当性・論理性・から引き出された。それは「真理」の問題に関わっていた。処が真理とは少くとも科学を歴史的に進歩させるものでなくて何であったか。一切の真理は意識の進歩・前進の真理である。真理は進歩の結果であり又原因なのである。それで本当の方法とは外でもない、云わば真理と進歩との相乗積、云い換えれば、所謂「論理」と歴史との相乗積、だと云って好い。――批判主義は科学の方法を併し、単なる「真理」又は「論理」によってしか理解せず、之を歴史的進歩の過程との相乗積に於ては理解しない。科学に於ける「論理」と歴史とはかくて全く絶縁されて了う。だがそういう「論理」は抑々論理ではないのである。
 だから批判主義は科学という一つの文化の批判を目的としながら、結局之を歴史的な存在として、即ち又社会的な存在として、取り扱うことが出来ない。そのことは併し外でもない、之を文化として取り扱い得ないということなのである。批判主義――文化の批判――は文化を文化としては批判し得ない。処でそれをなし遂げ得るものは正にイデオロギー論でなければなるまい。だがその時は文化も亦もはや単なる「文化」ではない、文化とは実はイデオロギーなのであった。

 イデオロギー論による文化(イデオロギー)の科学的批判に於ては、まず第一にイデオロギー(文化)がその「論理」と歴史(社会――やがて階級)との相乗積の具体性の下に取り上げられる。それが「イデオロギーの論理学」の問題だったのである。そして之が更に第二に社会に特有な一つの機構の下に――アカデミズムとジャーナリズムとの構造を通って――「イデオロギーの社会学」を自分に結び付けるのであった。
 さて科学の批判に就いて今述べたことは、適当な変換の下に、文化一般にそのまま通用する。吾々は芸術に就いて、又宗教に就いて、夫を見ることが出来よう。芸術は芸術的真理と芸術の歴史的階級的発展との二つのモメントの相乗積として、そしてそれが更にアカデミー的芸術(例えば所謂「純粋文学」の如き)とジャーナリズム的芸術(例えば所謂「大衆文学」の如き)との対立連関の状勢の下に、照らし出され得ねばならぬ。宗教も亦宗教的真理と宗教の歴史的階級的消長との統一に於て、そして更に宗教的教壇や大衆的信仰現象の対立連関を通って、吾々の目の前に浮び出て来なければならぬ。
 だが今は、科学に就いてのイデオロギー論に制限しよう、諸科学の科学的批判に問題を限定するのである。蓋し科学理論は他の一切の文化理論=イデオロギー論の典型だと考えられるからである。

 哲学に於けるイデオロギーに就いて。――凡ての哲学は神話から発生する。ギリシア神話は例えばホメロスの詩に盛られたが、詩人の物語の整理や批判がギリシア哲学の地盤となった。印度に於けるバラモン哲学・支那に於ける儒教や易哲学・わが国の国学・等々も、夫々の民族の神話から発生したものだと見ることが出来る。神話は併し民族の世界観を云い表わす、だから世界観が哲学の地盤となるわけである。
 世界観は無論民族によって夫々異っている。それではこの世界観から発生する哲学も亦、民族によって一つ一つ異らねばならぬ筈ではないか。実際人々はギリシア哲学とか印度哲学とか支那哲学という名を口にする。哲学のこの区別は歴史的事実としてはなる程事実である。だが哲学が単なる世界観と異る点は、それが世界観の合理化されたもの、科学的に組織されたもの、だという処に横たわる。一つの民族にとって合理的に見えても他の民族の眼にも合理的に見えるのでなければ、夫は決して合理的だとは云えまい。だから哲学が単なる世界観ではなくて正に哲学であるためには、その民族的特色と云うものが、一つの事実としての資格を越えてそれ以上に、哲学の本質をなすものだと考えられてはならない。今日の欧洲哲学は、歴史的発生を欧洲に有っているという事実にも拘らず、その本質に於ては、吾々の哲学ででもなければならないのである。之に対して、印度哲学や支那哲学は今日ではそのままでは全く古典学的な遺産にしか過ぎず、わざわざこの古典学的骨董品に自分の根拠を求めようとする処の、この頃流行するわが国の国粋哲学――だが之も亦実は国際現象としてのファシズム哲学の一類例に外ならないのだが――は、事実、全く歴史的な又政治的な反動分子のたわごとに過ぎない。
 ギリシア哲学を源泉とし又主流とする今日の欧洲哲学は、欧洲だけの哲学ではなくて世界の哲学なのである。単なる歴史的事実として見れば哲学の一類例に外ならないこの哲学が、では何故そのような普遍的本質を有つのか。外でもない夫が実証科学との連帯関係を常に見失わなかったからである。
 実証科学――幼稚な・迷信に類する・又発達した・科学性を有った――の知識は、人間の社会生活――物質的生産生活――にとって、欠くことの出来ない実践的知識である。今哲学がこの知識――この実践的範疇体系――と連帯責任を感じている限り、その哲学は実践的となる。と云うのは、人間の生活に役立ち生活にとって実質的な意味を有つ、哲学となるのである。之に反して哲学が之との連帯関係を無視すると、その哲学は生活に役立たず生活にとって何の実質的な意味も有たないから、おのずから歴史的に夫は淘汰されざるを得ない、そうした哲学は発達を止めるのである。
 だが、哲学が実証科学とのこの連帯性――夫を吾々は実証性と呼んでおこう――を有つか有たないかは、元来その哲学を産んだ世界観の如何から来ることを忘れてはならぬ。そこで吾々は、実践的世界観観想的世界観とを対立させることが出来るだろう。無論前者の正統的発生物――逆のマイナス符号の発生物も不可能ではない――が実証性を有った哲学となるのである。――この際例えばギリシア的世界観と云っても決して一つのものだと考えてはならぬ、世界観自身が歴史的に推移又は発達する、ギリシア的世界観と一般に呼ばれるものも実践的世界観と観想的世界観との結合の様々な諸相を歴史的に展開して見せたというのが事実である。実践的世界観と観想的世界観とは、世界観に於けるモメント又は世界観の性格を云い表わす、必ずしも歴史的に与えられた或る一つの世界観そのものの名ではない。
 実践的世界観と云ったが、古来どれ程観念的な世界観であっても或る意味に於て実践的でなかったものはない、却って多くの観想的世界観は、それが観想的であればこそ或る意味の実践性を主張する。原始仏教や儒教の「実践」哲学がそれである*。之に反して実践的世界観は、実践的であり得るが為めに却って一見観想的にさえ見えることがあるだろう。純粋自然科学の発達――そこから人間の技術が発達して来た――はそう云う世界観の齎物なのである。で、実践的世界観とは、云わば道徳的「実践」などを重んじる世界観のことでは必ずしもない、それはあくまで、科学的「実証」を重んじる世界観であったことを注意しておこう。
* ソクラテスはギリシア哲学(それは元来自然哲学であった)の内にその「実践」哲学を導き入れた。処がプラトンに来れば明らかになる通り、このギリシア人にとって最も秀でた実践は正に「観照」なのである。――「実践」が如何に非実践的であり得るかが之でも判ろう。
 さてそうすると、実践的世界観から発生する又は夫が根柢に横たわっている哲学は、当然実証性を有った哲学――但し無論かの「実証哲学」のことではない――、即ち実証科学と連帯を有った哲学、であらざるを得ない、ということになる。

 実践的世界観から裏づけられた哲学は、まず第一に唯物論的存在論である。之に反して観想的世界観に裏づけられた哲学は第一に、観念論的存在論となる。蓋し一般に存在論――存在・実在の理論――は哲学体系第一段だと考えられる(第二段に就いては後を見よ)。
 ギリシア哲学が学的な――単なる世界観ではない処の――哲学として始まったのはタレスからだと云われるが、そのタレス以来、ソフィスト達が出て来るまでのギリシア的世界観は、実証的な従って実践的な根本特色を以て貫かれている。そこでは自然や根本物質が中心の問題であり(自然観)、ピュタゴラス学徒の数の思想からが実はこの自然や根本物質の根本問題に答えるための一つの自然観であった。タレス自身が秀でた技術的知識の所有者であったことは知られている。処でこうした実証的・実践的・な世界観によって生まれたこのソクラテス以前の自然哲学は、何よりも唯物論的存在論として組織立てられている。それを最もよく代表するのはデモクリトスの原子論であった。デモクリトス的唯物論――原子論――が今日の実証科学に於ける原子論――原子物理学や量子論――の原型に当るということは必ずしも偶然ではない。
 観想的世界観は最も好くプラトンの世界観に現われる。そして夫がプラトンの存在論を決定しているのである。彼――彼は当時のアテナイ貴族の最も卓越した代弁者である――によれば、観想こそは優れた生活の態度である、思索のための思索こそは人間の最高の天命なのである。だからこの世界観による世界像は諧調的な構造美を有つ宇宙――秩序の完成――であり、彫塑的な完璧である。そこでは働くことが必要なのではなくて観ることが凡てでなければならない、存在は観想されねばならぬ。存在としての存在は見られてあるものとなる、之が元来彼のイデア――観念――の意味であった。そしてここからその存在論であるイデア論が始まる、それが観念論の原型に外ならない。
 この二つの古典的な原型で見られるように、唯物論と云い観念論という存在論に、たとえありと凡ゆる種類と分派とがあるにしても、一切の哲学は終局に於て観念論か唯物論かに帰着せしめられることが出来るのである。
 処が、一般に存在論は存在に関する哲学体系であったが、哲学体系は範疇の体系によって初めて組織立てられる。そして範疇の体系の形式を取り出して見るとそれが所謂論理学なのである。世界観は存在論を決定したが、今度は存在論が論理学を決定しなければならない。世界観―存在論―論理学。
 実践的世界観は唯物論的存在論を決定し、之に反して観想的世界観は観念論的存在論を決定した。では唯物論的存在論と観念論的存在論とは夫々如何なる論理学を決定するか。前者は(唯物)弁証法的論理を、後者は形式的論理を決定するだろう。
 唯物論的存在論によれば、存在は物質――之は物理学でいう物質の範疇とは別である――である。と云うのは、存在は終局に於て観念――人々は之を主観とか意識とか自我とか名づける――から独立に存在する、従って又観念の力を借りることなくみずから運動する、と考えられる。だからここでは観念はいつも自分の外に横たわって運動している存在を捉えなければ[#「捉えなければ」は底本では「促えなければ」]ならない。処で論理とは観念が存在を捉える[#「捉える」は底本では「促える」]ための観念形式なのだから、この場合の論理は単に論理としての論理――論理・観念の自己同一性――に立脚することに止まることは出来ずに、論理外のものの論理化として機能しなければならない。即ち論理は単に論理としての論理ではなくて、非論理的な存在に関する論理でなくてはならぬ。之が矛盾と呼ばれる特色をなす。こうした論理機能を自覚したものが弁証法的論理である。そして弁証法的論理は、今述べた処で判るように、常に唯物論的なものでなくてはならなく出来ているのである(但し弁証法は何も論理に限らない、元来夫は存在の運動法則だということを注意しておこう)。
 之に反して観念論的存在論によれば、存在とは観念ということである。だからこの場合の論理は、観念に就いての観念の把捉形式の外ではない。論理は論理・観念の自己同一性にさえ立脚すれば好い(同一律と矛盾律)。そうした論理が形式的論理なのである。――唯物論は弁証法的論理を、観念論は形式的論理を、決定する。
 観想的世界観―観念論的存在論―形式論理学。及び実践的世界観―唯物論的存在論―弁証法的論理学。まずこの二群の公式を以上のように導来しておこう。

 さてこの二群の公式は哲学イデオロギーの歴史的発生の順序と構造とを云い表わす。そして之が今のブルジョア哲学プロレタリア哲学とを区別する組織的な測定器であることを注意すべきだ。でこの公式は哲学というイデオロギーの歴史的社会的存在に関する階級的制約を云い現わすものなのである。
 だが一般にイデオロギーの階級性――それが特に微細に具体化されると党派性ともなるが――は決して、イデオロギーの今云ったような歴史的社会的存在に関する階級的制約に尽きるのではない。と云うのは、どのイデオロギーが真理であってどのイデオロギーが虚偽であるかが、イデオロギーの何よりも重大な階級性の内容だからである。
 処でブルジョア哲学とプロレタリア哲学と、いずれが科学的に真理であるか、これも亦今の公式によって、終局的に解答されることが出来ねばならぬ。それは形式的論理学と(唯物)弁証法的論理学とを、その論理としての資格に於て対比すれば出て来ることである。――一体形式的論理学は存在をその運動の現勢に於て捉えることが出来ない、それは存在を形式的な自己同一性に於てしか捉えることが出来ない、之に反して(唯物)弁証法的論理学は存在を運動のままの姿に於て捉えることが出来また捉えねばならぬ(蓋し弁証法に於ける矛盾とは、運動するものを運動のまま捉えようとする場合を、形式論理の範疇で批評したものに外ならない)。所で実際存在は、少くとも運動し得るものでなければなるまい。――だが弁証法的論理学は決して形式論理学と互角に相反撥するのではない、すでにそれは形式論理学を自分のモメントとして、一つの特殊な極限の場合として、含んでいる。存在はその静止の状態に於てのみ形式論理学の範疇に忠実なのである。で形式論理学は弁証法的論理学の一つのセクションに過ぎない。一体何れが論理として役に立ち又普遍性を持っているかは、之で判るだろう。
 夫々の世界観や夫々の存在論は、銘々他の世界観や存在論から独立であることが出来る、いずれが正しくいずれが不当であるかなどという比較を、拒もうとすれば拒むことは出来る。だが論理になるとそうは行かない、独立な二つの論理などは許されようがないのである。かくて世界観や夫によって歴史的に決定される存在論は、最後に一定形式の論理学にまで歴史的に決定されるに至って、初めて逆にその論理的な是非を溯源して判定されることになる。歴史的社会的秩序としては世界観―存在論―論理学の順序であったが、論理的秩序としてはこの逆の順序が導き出される。――かくして初めて哲学というイデオロギーの階級性が明らかにされる*。
* 以上の細かい点に就いては拙稿「イデオロギーとしての哲学」(『イデオロギー論』――理想社版の内)【本全集第三巻所収】を見よ。
 哲学に関する「イデオロギーの論理学」は大体こうだとして、吾々は之を「イデオロギーの社会学」にまで結び付ける約束であった。
 哲学イデオロギーに於けるアカデミズム――講壇哲学――は、凡ての資本主義国に於て殆んど例外なくブルジョア哲学の群に這入ることを思い出そう。そうすればプロレタリア哲学――マルクス主義哲学――はおのずから、そういう国々に於ては、ジャーナリズム哲学としてしか発生しないし又生存出来ない。処がジャーナリズム哲学と雖もアカデミーのブルジョア哲学の評論化・通俗化・俗流化に過ぎない場合が少なくない。だから今日のプロレタリア哲学――唯物弁証法の哲学――は、一方に於てアカデミズムのブルジョア哲学に対抗するばかりではなく、他方ブルジョア・ジャーナリズム哲学(例えばファッショ哲学や国粋哲学)にも対抗しなければならない。即ち今日多くの国のプロレタリア哲学は、後者の場合に於てはプロレタリア・ジャーナリズム哲学を、前者の場合に於てはプロレタリア・アカデミズム哲学を、その目標として進まねばならぬ状態に置かれているのである。
 資本主義国に於ける哲学イデオロギーは、凡てのイデオロギーがそうであるように、ジャーナリズムとアカデミズムとの収拾すべからざる分裂に陥っている。そこでアカデミズム諸哲学は自分に対する大衆の意識的なジャーナリスティックな批判によって迅速に規則的に整理される機会が殆んど全く無いから、いつもありと凡ゆる諸説の紛糾に煩わされざるを得ない。アカデミズムの哲学はそのアカデミー的研究機構によって勢力的に進歩するのではなくて、却って固陋な意識による回り道と繰り返しと重複とを通して、エネルギーを無統制に浪費せざるを得ない。同様に又ブルジョア・ジャーナリズム哲学はアカデミズムの基本的な訓練を[#「訓練を」は底本では「馴練を」]獲得する機会を有たないので、永久にその俗流性を脱することが出来ないから、諸説が切り合う整理点に到着することが出来ない。こうやってブルジョア哲学は、無意味な見渡し難い程の雑多な対立を引き起こす。このことは併しブルジョア哲学者が信じるような豊富な個性や独創を意味するのではない、全くその反対なのである。
 ソヴェート連邦に於ける哲学は、イデオロギー一般のジャーナリズム的契機とアカデミズム的契機との有機的連関の故に、ただ一つのマルクス主義哲学――唯物弁証法の哲学――がアカデミカルでありながら而もそれの大衆化――それが本当のジャーナリズムだ――を見失うことなく、追究され得る与件を持っている。恐らくこうした形の研究に於てこそ、個性や独創も組織的に活用され得るだろう*。
* 拙稿「ソヴェート連邦の哲学」(『新ロシヤ』第三号)【本全集第三巻所収】参照。――なおその国に於けるアカデミズムとジャーナリズムとの積極的な結合は、ソヴェート連邦の新聞の諸機能を見ると判る。そこではニュースとテキストとが積極的に結合されているのが特色である。
 数学に於けるイデオロギーに就いて。――数学は最も抽象的な科学だと考えられる、というのは、夫が第一に存在から最も離れており、従って又歴史的社会的制約を蒙ることが一等少ないと考えられる。多くの人々にとっては例えば数学の階級性などはあり得ない。7に5を加えれば12になるという関係は、プロレタリアにとってもブルジョアに取っても変らない真理だ、と人々は云うのである。で数学自身には――数学の応用や歴史はどうか知らないが――イデオロギーなどはあり得ない、と人々は考える。
 それは一応そうである、ここかしこに無限に見出される数学の部分々々に就いては確かにそうである。だが、それで凡ての関係が竭くされるのではない。――数学に於ける根本概念=範疇は云うまでもなく他の諸科学の範疇と連帯関係になくてはなるまい、就中哲学的諸範疇と一定の共軛関係に立つのでなければ事実数学的認識は根本的には成り立たない。数学の基礎・背後にはいつも哲学があるのである。
 P・デュ・ボア・レモンは数学者を有限論者と無限論者との二陣営の哲学者に分類したが、有限無限の問題は、そして之と直接に結び付いて連続不連続の問題は、古来数学の根本概念=範疇そのものに関係した問題であった。ところが有限無限・連続不連続とは、外でもない存在[#「外でもない存在の」は底本では「外でもない存在の」]形式的規定そのものではないか。ここで取り上げられるものは云わば形式的な存在の理論――存在論――なのである。ここでは数学的範疇はもはや単に数学のものではなくて哲学のものとなる。
 古代に於ける無限主義・連続主義はアナクサゴラスによって、又有限主義・不連続主義はデモクリトスによって代表されたと云われるが、近世数学に於ける無限主義・連続主義はライプニツ又はニュートンの微分の概念によって確立されたと云って好い。微分の概念が有つ哲学的意味を近代に至って普遍的に指摘したのはコーエン一派のマルブルク学派であった。之に反して同じく近代に於て、有限主義・不連続主義の立場に立ちながらこの無限や連続を捉えようとしたのは、デーデキントとG・カントルとによる要素(Element)の概念である。集合論はこの要素の概念から出発するのである。
 有限主義・不連続主義の系統は、B・ラッセルやクテュラの手を通って、ヒルベルトの公理主義乃至数学的形式主義に到着し、無限主義・連続主義の系統はブローエルの直観主義に到着する。元来無限乃至連続の問題は「集合論の二律背反」とか「無限者の逆説」とか呼ばれている困難を持っているのであり、そしてこれ等の二律背反乃至逆説は数学的「存在」の概念に連関して生じて来るものであったが、形式主義は有限不連続な固定的なこの数学的存在――要素・数其他――から、一切の論理的・概念表現的・意味内容を捨象して、この存在を単なる記号にして了うことによって、今云った論理的困難を脱しようと企てる。之に反して直観主義は、数学的存在の論理的な概念が仮定する固定的存在の思想を斥けて、数学的根本直観によって数を自由な生成として把捉し、そうやってかの論理的困難を解こうと試みる。だがその結果、直観主義は、形式論理の法則を悉くは承認出来なくなる、排中律の如きは破棄されねばならなくなるのである。
 エレア主義ヘラクレイトス主義とにまで還元出来るだろう数学に於けるこの二つの世界観乃至存在論は、だから実は直ちに論理学上の対立を意味している。形式論理学は、その一切の論理的意味内容を棄て去ることによって辛うじて形式論理学に踏み止まるか(形式主義――論理計算)、それでなければ形式論理学的法則の一部を棄て去らねばならぬ(直観主義)。数学は形式論理をあくまで固執するか、それでなければ先々のあてもなくこの形式論理の一部分を棄てねばならない。数学は云わば論理学的危機に立っているのである。
 この危機は併し元来例の二律背反乃至逆説の処理の仕方から結果したものに他ならなかった。この二律背反乃至逆説の論理的意味を検討し直すことによって、この危機を切り抜ける方針は見出されるべきだ。――処で二律背反なるものは、論理が論理以外のものを取り入れようとする関係を論理自身の側から名づけたものに外ならない。と云うのは、それは外でもない、弁証法を形式論理の側から局部的に名づけたものなのである(だからカントに於ても二律背反はその「弁証法」にぞくしている)。弁証法の本質は形式論理の側から見ると単なる矛盾としか写らないが、二律背反とは遂に解くべからざる一種の矛盾ではなかったか。
 文学的反省に於て逆説やアイロニーが弁証法的本質として一般的に捉えられていないのを常とするように、今の数学的認識に於ても、この二律背反が充分に弁証法的なものとして自覚されていなかった。そこから、かの数学の危機が発生して来たのである。数学の危機を解くには、少くとも、数学の認識に於ける形式論理学の仮定をすてて、弁証法的論理学を採用すれば好いだろう。実際、弁証法とは形式的に云えばエレア主義とヘラクレイトス主義との弁証法的な統一なのである。
(形式論理に対する懐疑を有つ点では直観主義は一応形式主義に優っている。だが、数学的存在を主観的な「直観」によって規定しようとした点では、直観主義は、云わば客観的な存在のモデルにも相当するだろう符号――シンボル――を数学的存在だと考える形式主義に、遠く及ばないもののようである。)
 さてここまで突きつめて来ると、数学的範疇――数学的世界観・存在論・論理――のイデオロギー性は明らかだろう。弁証法的論理学を(そして夫は唯物弁証法のことでなければならない筈であった――前を見よ)、採用するかしないかは、数学の歴史的前進にとって致命的な問題なのである。処が弁証法(唯物弁証法)的論理は、正にマルクス主義的論理学であった。之を採用するかしないかは、だから単に数学の歴史的前進だけの、又数学だけの、問題なのではない、夫は一切の範疇と連帯関係を持ち、従って又一定の社会的定位を持つ処の、問題なのである。それが数学のイデオロギー性に外ならない。
(数学に於ては、物理学や化学に於けると同じく、例えば哲学や社会科学又更に文芸や宗教などとは異って、「イデオロギーの社会学」――ジャーナリズム・アカデミズム・機構――はあまり問題にならないから之を省こう。)

 自然科学に於けるイデオロギーに就いて。――今世紀の初頭から、時間や空間、物質やエネルギー、に関する概念を次第に訂正しなければならなかった物理学は、この七八年来、遂に因果律に対する疑問にまで到着した。処が因果律の問題は、古来、自由乃至自由意志の問題と切っても切れない縁故があるという点からだけ云っても、物理学にとっては之程公共的な問題はないと共に、又之ほど致命的な問題はない。物理学に於けるイデオロギー性は、現在、この問題に連関して、そして物理学者の哲学イデオロギーを通じて、鮮かに明るみへ暴露されつつある。
 何時の時代を取って見ても、物理学の世界では――尤も何処でもそうだが――様々な異説が対立していた。例えば光の粒子説や波動説、熱に関する熱素説や熱量説、等々。だがそう云った諸説の対立は云わば物理学の内部だけの問題であって、必ずしも直ぐ様外部との交渉に影響したとは考えられないだろう。処が因果律に就いては、もはや問題は単に物理学に限られることは出来ない、すでにカントは因果の関係を先天的な範疇に依って哲学的に演繹して見せたし、それより前には哲学者ヒュームがそれの論理的通用性を拒んだと考えられるので名高い。――で物理学者は今や、この問題をめぐって二群の哲学者として対立する。決定論者不決定論者。と云うのは因果律の固執者と放擲者とである。そして注意しなければならないが、多くの物理学者が暗々裏に意識している処に従えば、決定論は唯物論に帰着し、不決定論は観念論を結果する、というのである。蓋し不決定論は、因果的必然性の外に、偶然性を許すことだが、一旦之を許せば、自然界の内にも自由自由意志を許すこととなり、それはやがて、所謂精神主義へ、又神秘思想へ、導く処のものだろうからである。
 不決定論の根拠はハイゼンベルクの不決定性の原理に基いて理解される。之に従えば、大量観察の際はとに角として、微細な現象の個々の場合に就いては、原理的に云って因果的必然性に充分の信頼を置くことが出来ない、そこでは一定の限界から先、全くの偶然性が支配しなければならぬ、と云うのである。例えば自由電子の空間的位置を充分に精密に決定――測定――するためには、之に一定度以上の光を与えなければならない、が電子のような微細な物質に光をあてることは電子の運動量乃至速度に変化を与えることになる。従ってそれだけこの電子の運動量乃至速度の測定は不精密にならざるを得ない。逆に之等を充分に精密に測定し得るためには空間的位置の測定はそれだけ不精密であらざるを得ないだろう。物理学的対象が持つ二つの量を同時に測定する場合、常に一方の量の測定の精度を犠牲にしなければ他方の精度を得ることが出来ない。
 この関係は物理学的測定それ自身が一つの物理的作用であり、従って測定は測定装置と測定されるものとの客観的な交互作用だということに由来する。物理的作用は量子論によれば一定の単位である作用量子(Wirkungsquantum)の倍数を以てしか作用し得ないから。このダイメンションに相当する範囲に於て、本来測定は不精密であらざるを得ないのである。で交互作用をなす一対である二つの量の同時測定の際に於ける夫々の精度乃至不精度Δp・Δqは、Δp・Δqh(〜はダイメンションの同一を意味する)の関係によって与えられる。――之が不決定性の原理である。
 こうした不精密さは併し、因果律の適用をおのずからそれだけ不精密にする。自由電子の位置が充分に精密に測定され得てもその運動状態がそれだけ不精密にしか測定され得ないから、次の瞬間この電子の状態は精密には決定出来ない。処が一切の個々の事物が一切の個々の瞬間に就いて、完全に精密に決定されているということが、因果律の要請ではなかったか。ここにはだから偶然性が支配する、電子の位置の如きは、一つの可能性蓋然性にすぎない。電子の存在は、電子の存在の蓋然性に外ならない、とも云われている。
 この測定に於ける不精密さは併し、決して測定という主観的な研究方法によって初めて引き起こされたものではない。量子論で云うように物理学的対象――存在――そのものが量子的であったが故に測定作用も亦量子的であらざるを得なかった迄である。問題は一対の物理学的量の客観的な交互作用の内に横たわる。だから不決定性の原理は人々が往々想像するだろうような認識主観の限界を意味するのではない。でここに出て来る偶然性は、認識主観から由来するのではなくて客観的な存在そのものにぞくしているのである、今この点を忘れてはならない。従って、存在そのものは因果的に決定されているが、偶々之を認識する場合に、認識主観がもつ制限の故に充分に因果律を適用出来ないのだ、という解釈は許されない。所謂因果律は物理学的対象それ自身に於てもはや行われないのだ、というのが不決定論者の本当の――最も徹底した――主張であるべきなのである。
 ハイゼンベルクやシュレーディンガーの不決定論に対して、M・プランクは依然として決定論を支持する。プランクはこう主張する、なる程感性の世界に於ては事件の予見はいつも一定の不精確さを脱することは出来ないが、物理学的世界像に於ては一切の事件が一定の与えられた法則に従って因果的に厳密に決定されている、で所謂不決定性は感性界の事件を物理的世界像へ移行する際の不精確に帰着するのだ、と。その実在論的傾向にも拘らずカントを通して或る意味のマッハ主義者に止まっているプランク――但しマッハは彼の有名な論敵ではあるが――は、かくてかの不決定性を結局単に人間の主観性(擬人化)に帰着せしめる。之は前に述べた処に従えば、不決定論者に対する充分な解答ではあり得ない。だから彼はその固持しようとする因果律を高々一種の発見的原理に過ぎないものにまで譲歩させる。因果律は彼によれば真理でも嘘でもないのである*。
* M. Planck, Der Kausalbegriff in der Physik, 1932, S. 11, 26.
 さて、決定論も不決定論も、因果乃至必然性の概念を機械論的にしか理解していない、そして之を固持したり排斥したりしようとするのである。決定論とは機械論的決定論であり、不決定論はこの機械論的決定論の否定でしかない。――と云うのは、両者は、一旦バラバラに他から切り離されて孤立した個々の事象、を仮定しているのであって、決定論が之を機械的な因果必然性によって機械的に結び付けることが出来ると主張するに反して、不決定論はかかる機械的結合を拒もうとするのである。いずれの場合にも、必然性――因果――と偶然性とが機械的に、動かすべからざる固定的な区画によって、対立せしめられている。
 だが実際には、他から孤立した、その意味に於て絶体固定化された個々の事象などはないのであって、如何なる個々の事象であっても常に他の事象との連関――交互作用や対立――に於てしか存在せず、又そういう連関に於てしか把握されない。その意味に於ては一つ一つの個々事象というようなものは実はないのである。量子論が一切の事象を大量現象として見なければならなかったのは、だから当然なことなのであった。それ故こうした個々事象を結合するような機械的な必然性――決定性――は実はどこにもあり得ない。
 本当の必然性は、それ自身偶然性との弁証法的な統一の下に、初めて必然性であることが出来る。存在は単純に必然的であったり、単純に偶然的であったりするのではない、必然性と偶然性との節度ある結合の下に置かれているのである。――存在は本質現象形態とを以て初めて存在する、本質は現象形態を縫って、現象形態を通じて、自らを一貫する。処でこの本質は存在に於ける必然的なるものであり、之に反して現象はこの必然的なるものの偶然的なるものの外ではない。こうして正当に理解されたものが必然性の弁証法的概念である。ここでは因果の概念も亦弁証法的に理解されねばならぬ。決定論はここでは機械的決定論ではなくて正に弁証法的決定論でなければならぬ。
 こう考えて来ると、この弁証法的決定論がかの所謂「決定論」――機械的決定論――と不決定論との和解すべからざる矛盾を解くものとして現われることは、すでに明らかだろう。――困難を解くものは、要するにここでも亦弁証法でなければならないことが判る。
 現代物理学はその問題の客観的な進歩にも拘らず、ブルジョア哲学の諸範疇――機械論・又形而上学――を棄てることが出来ないばかりに、その根本概念――因果的必然性――を困難に陥れて了っている、それを救うものは今やマルクス主義哲学の諸範疇――弁証法――の外にはないだろう。吾々はそういう結論に到着する。――でここまで来れば、物理学に於けるイデオロギー性の内容は、もはや疑う余地があるまい*。
* 以上の点に就いての多少細かい説明を拙稿「自然科学とイデオロギー」(『知識社会学』――同文館)【本全集第三巻所収】で与えた。
 物理学に於ける決定論と不決定論との対立に比較すべきものは、生物学に於ける「機械論」と「生気説」との対立である。――前者における無機的物質現象の代りに、ここでは生命の現象を置き替えれば好い。そうすれば不決定論はやがて生気説に相当するものになるのである。なお機械論は両者を通じて殆んど同一のものだと見て好い。
 素朴な生気説は機械的必然性の外に、之と独立な、又は之を或る程度だけ犯すことを許される、独自の力――生命力――を仮定する。この仮定は併しながら、丁度物理学に於ける不決定論による偶然性や自由の導入の場合に人々が想像したと同じに、物理的化学的認識の統一――それは機械論的因果必然性によって完全に支配されねばならないと従来考えられて来た――を破壊することをしか意味しない。生命力は、因果関係の外に、恰も之と逆行する処の目的論を導き入れる。目的論も丁度吾々の意識的行為がそうであるように、因果律を用いるのではあるが、結果を予見することによって初めて原因を選択するのであるから、因果そのものの逆行でしかない。(機械的)因果と目的論とは絶体的に対立する。処がそれが、生気説によれば同時に生命現象の説明原理でなければならないのである。
 だが機械論者の云うように、生命現象であっても一つの自然現象である以上、物理的化学的説明を与え得なければならないと云うのも尤もであるし、又之に反して生気論者が主張するように、生命現象は到底単なる物理的化学的現象に還元出来そうにもないというのも亦事実のように見える。二つの主張はそこで何とか調停されなければならない。
 新生気説はこの調停を目指して現われる。H・ドリーシュによれば、生物即ち有機体が他の無機体と異る点は、それが因果系列の上で・構造の上で・又機能の上で、調和性を有ち、且つ調整の能力を持っているということにある。こうしたものは所謂目的論に外ならないが、目的論にも彼によれば二つのものを区別しなければならない。第一は、事物の時間上の発展の予定された可能的運命と実現する現実の運命とが一致している場合で、静的目的論であり、第二は之に反して、この可能的運命が現実的運命と一つではなく、前者の諸可能性の内からどれか一つの可能性だけが一種の偶然性を以て選択されて実現される場合である。之が本当の――動的な――目的論だと考えられる。機械のようなものは一定の目的の下に構成されているから合目的的に運動することは間違いないが、その運動には何の偶然性もあり得ないから、その目的論は静的なものにしか過ぎない。生物に固有なものは之に反して動的目的論である、とそう彼は主張する。
 だから生物には機械的な因果の系列の外に、之と並んで、エンテレヒー(Entelechie)と名づけられる運動の決定要因がなければならず、生物はこの要因によって、他のものから区別された固有法則を持つ処の自律性を示すのである。生命の固有法則性(Eigengesetzlichkeit)とは之である。
 だが生命のこの新生気論的説明は、真の機械的説明とは少しも矛盾しない、とドリーシュは主張する。何故ならエンテレヒーなる要因は物質でもエネルギーでもなく、又物質やエネルギーを生ぜしめたり消滅せしめたりするような物理的・化学的な外延量でもない、からである。エンテレヒーはただ、物質乃至エネルギーの可能的な諸転換の内から、特に或る転換だけを現実すべく、合目的的に選択し得る嚮導原理の外ではない。夫は何も別に新しい作用を及ぼすのではなくて、ただ与えられた諸可能態の内の一つを除く凡てを、単に抑圧・制止するだけなのである。――だからエンテレヒーの仮定は自然の機械的因果律を少しも破るものではない。この因果律を少しでも破って好いと考えたのは旧生気説であり、そしてそこにこそ初めてこの生気説の困難があったのだが、ドリーシュの新生気説によればこの困難は避けられる、というのである。
 吾々は目的論一般に就いて分析している暇を持たないが、カントの目的論が自然の因果とは全く段階を異にした領域の原理であったとは異って、ドリーシュのエンテレヒーは、この機械的因果と同列に並ぶ処の自然要因の一つであったことを注意せねばならぬ。だから如何にそれが積極的な作用力を持たずに単に消極的な制止と抑圧との嚮導原理に過ぎないと云っても、その制止乃至抑圧は消極的ではあっても実際にはそうした制止とか抑圧とかいう一種の――積極的な――作用力でなくてはならぬ。之は物理的・化学的作用と干渉し合わざるを得ない。でそうすれば新生気説と雖も、この形態の下では矢張り一種の――精妙な――旧生気説にしか過ぎないだろう。だからドリーシュの新生気説は生気説と機械論とのかの二律背反を解くことは出来ない。ドリーシュの可なりに精緻なその生気説乃至目的論が、あまり科学的信用を博さないのは、恐らくこの幻滅に由来しているのではないだろうか。

 問題の困難は併しながら機械論的因果律の概念自身の内に横たわっている。と云うのは、機械論者によっても新旧生気論者によっても、因果律は機械論的にしか把握されておらず、そう把握した因果律を仮定して問題が堂々巡りをしていたのである。処が、すでに所謂「近代物理学」に於て見たように、元来因果律そのものが機械論的に理解されることはもはや今日では許されなくなっているのである。機械論的に把握された必然性に対する同じく機械論的に把握された偶然性、そういう偶然性の概念を固執する限り、如何なる目的論――生気説――も機械論の困難を救うことの出来ないのは当然である。――因果は弁証法的に理解されねばならなかった、従って又偶然性・目的論・生気説も、弁証法的に理解されるのでなければならぬ。
 そこで弁証法的方法によれば、無機的物質と生命との間には連続的な推移があるにも拘らず、段階的な質的相違が横たわることが見のがされない。生命現象は一種の物質現象であり、従って物質現象に行われる諸法則――物理的・化学的・法則――が無論之を支配しなければならないが、そうであるからと云って、この種の法則だけで生命現象が説明されるとしたら、それは全く機械的な公式的な願望でしかあるまい。生命には生命に固有な質的特色を有った法則――それが生気説によって目的論とか何とか呼ばれた――がなくてはならない。一応こう考えれば、所謂機械論と所謂生気説とのかの二律背反は解ける筈である。
 だが、自然に、単なる物質現象と生命現象という、諸段階があるということに注意することは、まだそれだけでは弁証法的思惟にはならない。必要なものは、何故自然にそうした段階が存在するかの説明である。そしてこの説明を与えるものこそ(唯物)弁証法に外ならない。自然とは自然史的発展の結果である。生命はそうした結果の一つの外ではない。だから生命現象はその内部規定として、自然が生命にまで発展して来た自然史的過程を、そのモメントとして持っている。物理的化学的構造はそうしたモメントの一つだったのである。生命現象の有つ固有法則性は、生命に至るまでの自然の時間的蓄積に相当する。この歴史的経歴を抜きにして、直接に単なる物理的・化学的原理だけで説明しようとしても、それが無理だということは、だから極めて当然ではないか。――でこう云う意味で、生命は、少くとも機械論的にでなく、又機械論的な生気説によってでなく、正に弁証法によって把握される外に道を残さない。新物理学の進歩と並行するためにも、生物学はこの途を取らざるを得ないのである。
 自然史的発展のこの弁証法的な理解は、種の起源に就いて云えば取りも直さず進化論の思想となって現われる。反対に云えば、進化論の本質――それは自然史の弁証法的認識である――は当然に、生命のこうした弁証法的な理解にまで導く筈だったのである。――吾々は物理学に於ける不決定論の問題と、生命に関する生気説の問題と、更に種の起源に関する進化論の問題とが、期せずして、(唯物)弁証法というイデオロギー性格によって、一貫して連絡を与えられたことを、注意しなければならない*。
* 以上の点に就いては拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』【本全集第三巻所収】に多少詳しい。
 生物学のイデオロギー性は併し、数学や物理学の場合に較べて、より広範な作用を有っている。外でもない、生命はやがて社会にまで自然史的発展を有つべきものなので、ここでは社会との接触が甚だ屡々問題とならねばならないからである。例えば人々は生物学に於ける専門的知識を利用して社会問題や人生の問題を解こうと試みる。すでに進化論は、そうした社会認識の方法としても亦、一つの有力なイデオロギー・「思想」であった。このことは進化論がアメリカの教会あたりから敵視されているとか、又わが国では却って生物学者にキリスト教徒が多いとかいう、極めて卑近な例から知り得るばかりではなく、進化論がマルクス主義的唯物史観――コンミュニズム――と連帯関係にあることを注意すれば、もっと明らかに判るだろう。クロポトキンも亦生物学的認識から出発する。古典的社会学がその生物主義によって促進されたのも事実だろう。遺伝学――獲得質遺伝の問題――とか優生学とかは、極めて強い政治的・社会的な特徴を有っている。自然科学の内で最も露骨にイデオロギー性――階級性――を有つものは生物学なのである。
 この点から必然的に出て来ることであるが、生物学は数学や物理学に較べて、著しくジャーナリスティックな性質を表わすことが出来る。だから又、そこではアカデミズムとの対立が屡々重大な関心事をなすのである。G・フロイトの精神分析学――フロイト主義――は、生物学が、医学や心理学との連関に於て、云い表わされたものに外ならないが、之は今ではジャーナリズムを支配する一つのイデオロギー・思想であって、文学者達さえが之を好んで口にすることを忘れない。処が固陋な或いは慎重なアカデミズムの上では、フロイト主義は必ずしも科学的信用を有っているとは限らないように見受けられる。吾々はこの一例に於ても生物学イデオロギーに於ける、ジャーナリズムとアカデミズムとの対立を見ることが出来るのである。そして大切なことは、こうした科学は、単にアカデミズムを通してばかりではなく、又ジャーナリズムをも通して、恐らく初めて科学的発展を有つことが出来るだろうという点である。

 最後に吾々は社会科学のイデオロギーに就いて語らねばならぬ。蓋し科学に於けるイデオロギー性――階級性――が最も顕著に現われるのは、恰も社会科学に於てであるのだから。
 社会科学に於けるイデオロギー性・階級性の特色は、それがブルジョア社会科学プロレタリア社会科学という、異った二つの体系として対立するという現象の内に見られる。人々の単純な考え方に従えば、科学はどんな科学でも真理の体系でなければならず、そして真理はプロレタリアにとってもブルジョアジーにとっても斉しく真理であればこそ、初めて真理であることが出来るのだから、苟しくも科学としての科学にそうした階級的対立などがあろう筈がない、と考えられるだろう。なる程一応尤もではあるが、実際は、殆んど全く異った――併し無論共通の点がないのではない――二つの科学体系が現に存在し、而もその銘々が発達すればする程、互いに歩み寄る処ではなく却って益々その対立を深めて行くというのが事実である。だからこの対立は、この二つの科学がまだ充分に発達しないために銘々事物の異った夫々の側面をしか解明出来ないので両者の連絡が断たれている、というようなことを意味するのではない。ブルジョア社会科学はブルジョア社会科学なりに、プロレタリア社会科学はプロレタリア社会科学なりに、吾々の時代は他の諸科学に較べて決して発達の後れてはいない筈の、社会科学を持っている。それにも拘らず、そこには階級的対立が愈々著しい。
 その社会学的原因は云うまでもなく、社会科学が言葉通り社会の科学であり、従って他の諸科学に比較して、社会階級に対する関係が異質的に濃いということの内に横たわる。社会科学の理論は、ブルジョア社会科学者が何と云おうと、一定の社会的実践と直接に結び付いている。社会科学は科学である以上無論公平無私な態度と純粋な――主観的情意から純粋な――理論構成とに従わなければならないが、それは何もこの理論が実践から独立に無関係になるということを意味しない。もしそういうことが必要ならば、所謂政策的諸科学は決して科学性を有つことは出来ないだろう。
 二群のこの対立する社会科学は、そこで、事実上は――意識するとしないとに拘らず――常に夫々のプロレタリア的な又はブルジョア的な社会的実践意識・即ち階級的利害によって、成り立っている。一方の階級と利害を共にしているものは、その階級のイデオロギーによってそれに相当した社会科学を構成する、之れによればその階級の利害が――意識するとしないとに拘らず――常に擁護されるのは至極当然だろう。で、こうして真理は、社会科学に於ては二つに分裂するように見える。だが真理は無論唯一の標準をしか有たない筈だろう。そうすれば一体この真理の分裂現象は、論理学的にどう説明されるか。
 併し科学的理論は云うまでもなく理論の体系であって、抽象的な之あれという真理の断片なのではない。二つの社会科学体系が、その対立にも拘らず銘々夫々の科学性――真理性――を自負することが出来るのは、理論に於けるこうした論理の云わば、立体性に基くのである。一定の端初出発さえ与えられればあとは論理の単なる整合をたよりにして、諸考察や実証的諸事実に対する辻褄を合わせて行くことは、或る程度まで至極容易である。問題は併し如何なる端初を採用するかに存するのである。
 社会科学に於て一定の端初を選択させる動機は、一定の問題に対する関心である。例えば或る社会科学は社会を問題にすると称しながら、実は社会ではなくて個人の生活が内実の切実な問題となっている、そうすれば社会も亦個人の問題からの延長としてしか問題になることが出来ない――個人主義。之に反して社会主義的社会科学は個人の問題ではなくて社会を本当に切実にテーマとする、社会の問題こそこの社会科学の成立の動機をなしている、端初はこの問題の内に横たわる。
 同じ問題を取り扱うように見える場合でも併し、問題の提出形態によって、実は異った問題が発生する。一切の事物は如何なる動機如何なる立場からでも、夫々の形態で一応は問題になることが出来、またならねばならないだろう。で問題が端初を決定するというのは、実は問題提出の形態が理論の端初を決定するということなのであった。――さてそこで、如何なる問題を如何なる動機から如何なる形態で提出するかが、今云った理論の科学性・論理性の立体的な内容をなす。社会科学の理論を、単に――形式論理的な――整合・前後一貫の関係だけで判定すれば、ブルジョア社会科学であろうとプロレタリア社会科学であろうと、相当なものはどれも斉しく科学性を有つように見えるだろう。銘々は夫々科学的なのである。だが理論を、理論構成の動機に遡って、即ちその端初の選択の仕方によって、即ち又如何なる問題提出をするかを見て、判定するならば、二群の対立する社会科学の科学性・真理性は、もはや論理学的に同格とは云えない。そこではどの問題提出の仕方の方がより正当であるかが問題となるのである。
 だが、どの問題提出の仕方の方がより正当であるかは、外でもない、理論家がどの問題を自分自身にとっての問題として提出し得またせねばならぬような、社会的客観的・状勢の下におかれているか、によって決まるわけである。問題提出は全く社会階級の利害から決定される。――だが階級的利害は階級的主観の利害にしか過ぎないから、そう云っただけではこの利害によって決定された問題提出形態の正当さを証明するには足りない。必要なことは、一定の階級の主観的な利害が、他の対立階級の利害とは反対に、歴史的社会の運動法則客観的な物的・論理的・必然性と一致せねばならぬという点である。処が唯物史観が与える公式によれば、プロレタリアこそこうした――その主観的利害が客観的な必然性と一致する――階級なのである。
 そこでこういうことになる。プロレタリア階級はブルジョアジーとは異って、正当な問題提出を端初とすることによって、正当な理論構成を遂行することが出来る。そういうことが出来るということは併し、全くプロレタリアの歴史的社会的な必然的な位置から来るに外ならない。プロレタリア階級は一般に、ブルジョアジーとは異って、真理の体系に到達出来る客観的な事情の下に置かれている、この階級は真理をより容易に発見することが出来る。処がブルジョアジーは一般に、真理の体系に到達することが終局に於ては不可能なような客観的事情に立つから、真理を発見することがより困難であり、発見された真理にもおのずから一定の制限がなくてはならない。――之を歴史的に云い表わせば、前者による社会科学はかくて、進歩の可能性を含み、後者によるそれは行きづまり――危機や停滞――の宿命を持っている、と云うことになる。以上が社会科学のイデオロギー性、階級性の一般的な輪郭である。

 どの科学を取って見ても、社会科学に於て程、ブルジョアジーとプロレタリアとの階級対立が、科学的理論の論理的歴史的社会的な対立として、鮮かに反映しているものを吾々は見ない。すでに哲学に於ては、観念論と唯物論とが、夫に従って又形式論理的方法と(唯物)弁証法的とが、階級性の資格に於て対立したが、今はこれが社会科学という特殊科学に相応わしいように具体化・主体化される。
 社会科学――夫は元来マルクス主義に固有なものだと云っても好いが――を広く理解するなら、経済学・政治学・法律学・史学・社会学等々のマルクス主義的乃至ブルジョア的諸科学が夫に含まれるが、そこに問題となる最も一般的な範疇は例えば社会の概念と国家の概念とだろう。処でこうした諸根本概念が、観念論的に、又はそうではなくて唯物論的に、鮮かに対立した取り扱いを受けるのである。
 マルクス主義――プロレタリア・イデオロギー――によれば、社会や国家は夫々一つの歴史的範疇である。唯物史観――社会科学に於ける唯物論――によれば是非ともそうあらざるを得ない。処が殆んど凡ての又は多くのブルジョア「社会学」や「国家学」によれば、之等のものは超歴史的に理解されるべき概念となる、社会とは人間の社会生活の諸範型としての不動な社会諸関係となり、国家とは人間の社会生活の永遠な本質形式となる。マルクス主義的社会科学に於ては之等の事物は、歴史的内容から出発して内容主義的――唯物論的――に取り扱われねばならぬに反して、ブルジョア社会科学によれば之等のものは全く形式主義的に取り扱われる、社会や国家は、恰も数学の対象でもあるかのように、形式的に定義され得るかのようにさえ考えられるのである。
 この内容主義と形式主義との対立は併し、取りも直さず内容的論理による方法と形式的論理による方法との対立になる、と云うのは弁証法的方法と形式論理的方法との対立に外ならない、そのことはすでに前に見ておいた。――処が形式論理的方法が最も科学的威厳を有つように見える場合は数学に於てであると人々は想像するので(だが実はそうではなかったのだが――前を見よ)、この方法の最も発達した或いは最後の穴にまで追いつめられた形態は、数学的方法なのである。そこで例えばブルジョア経済学の最後の穴にまで追い落された形態は、当然にも、所謂数理経済学の如きものとならねばならぬ。この経済学形態――之はオーストリー学派・所謂金利生活者の経済学と不離の関係にある――の要点は、客観的な財や主観的な欲望が数量的に測定出来たり、又之に数学的操作が加え得られたり、又方程式で之の諸関係が云い表わされる、と云ったような点よりも寧ろ、経済関係が経済的均衡として把握されているという点にあるのである。社会諸関係の内から経験的乃至偶然的な――例えば戦争・革命・飢饉・震災の影響・等々の政治的意義をもつ――諸項を捨象し去って、「本質的」な可能性の上での経済的諸関係だけを取り出せば、それは恐らく経済的均衡の外にはないだろう。
 経済関係のマルクス主義的・唯物史観的・方法によれば、政治現象は経済的地盤によって終局的に決定されているわけであるから、政治現象は一定の限界に於て、その本質に従っては経済学的に予言され得る筈であった。即ち経済現象はそれだけ政治学的に予言出来るわけである、そうした政治学的予言を含むことが出来るというのが、マルクス主義経済学――弁証法的経済学――が実際に具体的現実に役に立ちつつある主な理由である。処が数理経済学の立場は、こうした弁証法というような非数学的・文学的・な方法の代りに、数学的に精密な併し数学的に抽象的な、従って夫だけでは経済現象の具体的運動の説明に就いては本質的に何の役にも立たない方法を、置き代えようとするのである。――この立場・方法によれば経済現象に於ける歴史的原理は全く捨象し去られている。だから歴史的事実は、今の処全く経験論的な統計的方法に立っている処の景気変動論というようなものに一任される外はない。そして而も、形式的な数理的方法と、経験的な統計的方法とが、一体どうやって結び付けるかは抑々問題であろう。
 数理経済学は、その方法から特色づければ、社会学的均衡理論――之は数理経済学と共にパレートが得意とした処である――の一部分に相当する。この均衡理論が社会を如何に機械論的に取り扱うか、従って如何にそれだけ非弁証法的・形式論理的に夫を取り扱わねばならぬかさえ見れば、ブルジョア経済学のこの精鋭が何であるかが判る。――之は唯物史観(歴史的唯物論)に対立する・弁証法に対立する、観念論の形式主義の・最も近代的な適用物に外ならない。
 社会や又国家がこうした対立する二つの問題提出の形態によって、階級的に把握し分けられるばかりではなく、マルクス主義的社会科学とブルジョア社会科学とでは、抑々発端の問題それ自身をさえ別にしていると云って好い。と云うのは、前者の理論が社会を問題にして出発するに反して、後者は実は社会ではなくて個人の問題を出発点とするのである。だから前者は社会を社会的存在として、即ち客観主義的見地から取り上げるに反して、後者は社会を結局個人に帰着せしめることによって、即ち主観主義的見地から、取り上げる。例えば前者によれば経済社会は商品の集積として規定し始められるが、後者によれば夫は人間性欲望から規定し起こされる。――後者は個人主義的社会科学であり、前者は之に反して社会主義的社会科学である。そしてこの区別は外でもない、観念論と唯物論との哲学イデオロギー上の対立に対応するのであった。なぜなら吾々は、観念論の問題が結局個人の――意識の――問題である所以を初めに指摘しておいたのだから。
 今マルクス主義社会科学が社会主義的だと云った通り、この社会科学は自分のイデオロギー性=階級性を最も能く自覚していることをその特色とする(ブルジョア社会科学は併し、之を自覚乃至告白することを決して肯んじないのである)。而も之は単にその理論家の主観的な意識に於て自覚されていると云うだけではなくて、理論それ自身の内に之がその規定となって織り出されているのである。マルクス主義社会科学は特に――一般にマルクス主義はそうなのだが――その階級性=イデオロギー性を著しくする。最初に述べた所謂理論と実践との統一は実際、そうでなければ得られなかっただろう*。
* 以上の点に就いては拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」(岩波講座『教育科学』【前出】)参照。
 社会科学の論理学的――即ち又歴史的――イデオロギー性=階級性はこうであるとして、なお外にその社会学的なイデオロギー性=階級性を見忘れてはならない。数学や自然科学に較べてイデオロギー性の著しかったこの科学は、それだけジャーナリスティックな特色を持っている。ジャーナリズムとは吾々によればイデオロギーの一契機乃至一形態であった。でそうすればそれだけ又、ここではジャーナリズムとアカデミズムとの対立が著しくなって来なければならないわけである。
 アカデミー乃至大学に於ける今日の社会科学は、云うまでもなく主としてアカデミズムの契機と形態とに相当する。そして夫が同時に殆んど凡てブルジョア・イデオロギーの上に立つブルジョア社会科学であることを今は注意しなければならぬ。実際、ブルジョアジーが自己の階級の経済的・政治的・社会的・文化的・利害をイデオロギーによって擁護するには、ブルジョア国家の手に成り又は統制に服する大学やアカデミー程手近かなものは又とあるまい。現代の大学は国家の恐らく最も有効なイデオロギー的機関であろう。大学は科学的権威を有っている、これを政治的権威にまで兌換しさえすれば好い。
 今日のジャーナリズムの波の上に乗っている社会科学は併しもっと複雑である。そこでは、プロレタリア・ジャーナリズムとブルジョア・ジャーナリズムとが対立する通り、マルクス主義的社会科学と、ブルジョア社会科学とが、対峙している。そして資本主義的経済機構の行きづまり、従って又ブルジョア・デモクラシーの行きづまりと共に、ブルジョア社会科学はその従来の超階級的自由主義の仮面をぬぎすてて、露骨に資本主義の擁護者として現われて来なければならなかった、それはやがてファシスト乃至社会ファシスト社会科学となって、ブルジョア・ジャーナリズムを席巻し始めつつあるように見える。
 かくて今日プロレタリア・ジャーナリズム――夫は実は大衆化と呼ばれるべきであった――の上に立っているプロレタリア的・マルクス主義的・社会科学は、(ブルジョア)アカデミズムとブルジョア・ジャーナリズムとに於ける――だがこの二つは無論結び付き合うことを忘れない――ブルジョア社会科学に対峙しているのである。夫がこのブルジョア・イデオロギーを克服して、プロレタリア・アカデミズムにまで自らを建設する日は何時であるか。――社会科学に於けるイデオロギー性=階級性の具体的状勢は大体こうである。
(吾々は以上、諸科学に就いて行って来たイデオロギー論を、同じ仕方によって、芸術・道徳・宗教へまで拡大して適用すれば好い。その基本的な機構と機構に沿うた理論の技術とは併し、この諸科学のイデオロギー論で尽きているだろう。吾々はいつか之を今云った文化全般に及ぼす機会を持ちたいと思う。)

 だが、も一つの重大な根本問題を忘れてはならぬ。吾々のイデオロギー論自身のイデオロギー性=階級性に就いて。吾々の――マルクス主義的――イデオロギー論は、マルクス主義哲学乃至マルクス主義社会科学の一部分である。観念・意識・文化、要するにイデオロギー、を取り扱う限りのマルクス主義哲学、乃至社会科学で之はあったのである。でそうすれば吾々のイデオロギー性=階級性に就いてはもはや説明を必要としない筈ではないか。イデオロギー論とは実は、階級の闘争のための観念的技術なのである(第二章を見よ)。
 イデオロギー論と最も切実な関係に立つものは併し(ブルジョア)「社会学」である。吾々の云わば社会科学的イデオロギー論に対して、「社会学」は云わば社会学的イデオロギー論とも云うべきものを対立させる。それには意識するとしないとに関係なく、深い階級的=イデオロギー的理由のあることだ。吾々は次に之等のものを批判しなければならない(第二部)。
[#改段]


第二部「社会学」的イデオロギー論の批判




 イデオロギー論は一種の文化理論であった。処が最近、ブルジョア社会学の世界に於ても亦文化理論――「文化社会学」――が勢力を有つようになって来たことを注意しよう。文化社会学なるものは、ではどのような歴史的なイデオロギー条件を持っているか。
 K・マンハイムは、一切の問題が終局に於ては、社会的・又は社会学的・な観点に立つことによって、初めて正当に解決出来る――社会学化――と主張しているが、彼のこの主張は至極特徴的なものだと考えられる。
 だが彼が茲で社会学と呼んでいるものは、特にドイツの産物である処の、かの形式社会学のことではない。彼と彼がぞくする一群の社会学者達とによれば、社会学は元来歴史的に云っても歴史哲学からの発生物であったのだから、歴史理論を抜きにしては何の社会学もあり得ない。社会学とは形式の学――形式社会学の如き――ではなくて、歴史的な現実の学でなければならないと云うのである。
 併しこの社会学に、もう一つの限定を加えなければその限界が明らかにならない。人々は寧ろ社会学という名に値いする最もプロパーな現象を、ドイツに於てよりも却って、フランスや又はアメリカに於て見出さねばならないだろう。ドイツ社会学の多くは、謂わば哲学的であると云っても好い。ドイツに於ける殆んど唯一の優れた実証主義社会学者――その意味で又古典型の社会学者――と云われるF・オッペンハイマーさえ、多分にドイツ哲学的なラッツェンホーファーの学徒に数えられる。処が之に反して、フランスに於ける社会学は、始めから謂わば科学的であったと云わねばならぬ(後には之が科学主義社会学主義となる)。サン・シモン乃至コントの古典的な社会学がすでに、コント自身が云うように、社会物理学として特色づけられた。アメリカ社会学の古典はスペンサーであるが、彼がダーウィニズムを社会理論へまで拡大したものであったことは改めて云うまでもない。フランス社会学――スペンサーも亦無論この系統にぞくする――が併し、矢張り一つの歴史哲学(そこではサン・シモンやコントに先立ってコンドルセを忘れてはならぬが)から出たということ、或は寧ろ夫がフランスの歴史哲学自身であったということを考えに入れねばならぬと云うならば、そういう歴史哲学自身が、ドイツのものに較べて、著しく科学的であったと云うまでである。――フランス(又アメリカ)社会学は、「文明」の社会学である。コントは実証的科学の発達が人類の進歩だと考えた。フランス歴史哲学乃至社会学は「進歩」の理論である。之に反してドイツの歴史哲学は「展開」の理論であるか(ヘーゲル)、或いは展開の理論でさえなくて「類型」の理論にすら帰着する(ディルタイ)。ドイツの社会学は――文明に対立させれば――「文化」の社会学なのである。
 さてこの特色は、ドイツに於ては、形式社会学に対立した例の有力な社会学――H・フライアーによれば「現実科学としての社会学」――を、この形式社会学に対立させても亦特色づける。で結果として、ドイツに於て形式社会学に対立するものは、従って又今日当然にも形式社会学の批判者として現われるものは、一般に、文化社会学的な特色を持って来なければならないわけである。――だからマンハイムが現代を社会学化の時代だと考えたことは、実は、現代が文化社会学化の時代だということを意味するに外ならない。このことは、ドイツ独特な歴史哲学――之はドイツ観念論の優れた伝統にぞくする(ヘーゲルを見よ)――を離れては、今の場合、そして就中一種の歴史主義から離れては、全く理解出来ない。
 無論、社会学が文化社会学的だと云っても、凡ての社会学が「文化社会学」だと云うのではない。云う迄もなく文化社会学なるものは社会学の単に一部分に過ぎない。併しそれにも拘らず、今や、文化社会学が社会学全体の中で占める指導的で代表的な位置は、おのずから決って来る。――文化社会学は(ドイツに於ける)社会学の最も中心的な課題であり又最も尖鋭な形態である、夫がやがて(又してもドイツに於ける)社会学全体の今後の運命を担う者でなければならない、ように見える。――之が(ドイツ)社会学の趨勢であり、之が文化社会学の現代に於ける意義であるように見える(所謂知識社会学――夫は文化社会学の更に部分であり又は伴侶である――が今日流行する理由は、一つにはここにあるのである*)。
* 知識社会学が何ものであり、又何故造り出されたかは、第五章を見よ。
 そこで今、注意しなければならないことは、文化社会学は文明の社会学ではなかった、それは例えばフランスのものではなくて本来ドイツのものであった、という点である、なる程一旦文化社会学という概念が出来れば、之をフランスにでも、アメリカにでもイギリスにでも、ロシアへでもイタリアへでも日本へでも、適用することは出来る。それにも拘らずドイツのものは依然ドイツのものであり、ドイツに特有なものである。――一体、文化という概念はドイツ固有のものだと考えられて好い、文化批判の哲学文化哲学やの故郷は、ドイツに於てしか見出せないだろう。精神 Geist の概念――之はドイツ人にとっては文化の概念と切っても切れない縁がある――は併し、より一層ドイツ的である。それはゲルマン民族の、或いはもっと正確に云えば、最も純粋なゲルマン民族ドイツ人の、本質としての、民族精神の謂である*。ヘーゲルこそはゲルマーネン哲学の代表的な最後の組織者であったが(後を見よ)、恰も彼によれば、世界史はゲルマン民族の民族精神実現のための遍路に外ならなかった。その意識に於ける表現がそしてかの『精神の現象学』だったのである。文化の概念は、ゲルマン民族精神と切っても切れない関係に置かれている。文化精神とは(民族も入れていいが)全く一続きの範疇をなしている。
* 愛国哲学者フィヒテの如きは、ドイツ語がラテン語から最も注意深く純粋に保たれているのを理由として、ドイツ民族が最も純粋なゲルマン人であることを証明する(Reden an die deutsche Nation ※(ローマ数字4、1-13-24))――封鎖的商業国家のこの著者は、ドイツ・ファシズム(国家社会主義 Nationalsozialismus)の理論的先駆者の一人に数えられる。ヒトラーは、その党の綱領で、ドイツ精神とドイツ民族(特にユダヤ人排撃)とドイツ文化とへの努力を約束する。そのためには「社会主義」などはどうなっても好い。
 処で、こうした精神文化とを根本概念としている文化社会学が、特にゲルマン的・ドイツ民族的・な社会学であることは、至極当然なことではないだろうか。――処が更に、文化(Kultur)が、単に主体的な教養訓練を意味しないと同じに、精神(Geist)は、単に主観的な意識心理を意味するのではない。社会や国家というような――ヘーゲルの言葉を用いるならば道徳的な或いは寧ろ習俗倫理的(Sittlich)な――実体が、取りも直さず客観的な精神に外ならなかった。だから、文化は無論のこと、精神も亦元来、歴史的な特色を持っていなければならないのである。で文化社会学が、元来一般に歴史哲学に基く筈の社会学を代表するということは、即ち又、それが直接に歴史哲学(例えば歴史主義其他)に由来し又その上に立つことを意識しているということは、甚だ当然なことではないか。

 文化社会学――夫はドイツを故郷とする――は、(ドイツの)歴史哲学から発生した。その歴史的な由来から云っても、それは多分に、謂わばドイツ風に哲学的であり且又歴史的である。だから文化社会学は、文化哲学と呼ばれるものに極めて近いものであったり、又歴史社会学と呼ばれて好いようなものであったりすることが出来るわけである。――だが(ドイツの)歴史哲学から、どうやってわが文化社会学が発生したか、それをもっと具体的に説明しよう。――
 近世ドイツに於ては、無論様々な前社会学的又は前社会科学的な、社会理論が存在した。だが社会学乃至社会科学と呼ばれる科学が、所謂哲学から或る特定な意味で独立したのは、L・v・シュタインとK・マルクスとからであったと云われる。その場合、此の科学の条件であり地盤であった哲学は、外でもないヘーゲルの哲学、中でも当然、その法律哲学――夫が国家という範疇を通じてヘーゲルの歴史哲学と最も直接に結ばれている――であった。ヘーゲルの法律哲学に於けるかの Sittlichkeit の根本秩序によれば、血縁によって結ばれた家族の上に、私有財産のアトミスティークたる市民社会」が、そしてこの社会の上に神的イデーの地上の実現である国家が、君臨する。すでにホッブスやルソーなどによって、単純に自然法的にそして前理論的にしか把握されていなかったものを、その哲学的本質に従って、市民社会として、歴史的発展の契機として、理論的に範疇化したということ、社会概念のこの哲学的発見、之は今の場合、ヘーゲルの何よりもの功績であった。だがそれにも拘らず、茲で見出されたこの社会は、ゲルマン民族的な、否文明の遅れた封建プロイセン王国的な(当時ドイツ人は啓蒙された資本主義的フランスをどれ程「外国崇拝」したか、そしてそのフランスが又如何に熱心にイギリスの工業を模倣しようとしたかを見よ)、国家の概念に、従属しなければならなかった。ヘーゲルによって社会は国家から独立した、が夫はなお国家に隷属している。でそこにはまだ独立な社会の学はあり得ない*。――社会の学は、社会学乃至社会科学は、だから、社会の地位を国家の地位に対して高めることから始まらねばならない。そこにシュタインとマルクスとがある。
* もう少し後の時代になっても、社会学は独立の学として容易には認められなかった。H・トライチュケの著書 Die Gesellschaftswissenschaft はこの点に関する有名な資料である。
 シュタインはヘーゲルと異って、国家と社会とを、互格な相互作用に於てあるものとして、両者を斉しく人間共同体の概念の内に吸収した。国家秩序と社会秩序との矛盾抗争こそこの共同体の生命だと云うのである。フランス社会主義乃至共産主義を最もよく学んだこのヘーゲル学徒は、併しまだヘーゲルの充分な批判者ではあり得ない。彼は必ずしも社会を国家の上に置こうとはしなかった、処がそうしない限り、実はヘーゲルのアンチテーゼにもジュンテーゼにも立つことが出来ない。――ヘーゲルに於ける国家と社会との地位を全く逆転したものこそ、同じくフランス社会主義及び共産主義の最も優れた理解者であったヘーゲル学徒マルクスである。今や社会は階級対立の社会として、そして国家は支配階級の機関として、全く両者の間の秩序を新しくする。社会――階級――は、国家(嘗て夫は民族であった)の上に位する。国家・民族の問題は、社会・階級の問題へ、展開することによって、初めて具体化され止揚される、即ち解決されるのである。
 ヘーゲルの哲学を足場として、(ドイツに於けるブルジョア社会学と、(もはや単にドイツのものではない処のマルクス主義社会科学とが、始まった。二つのものに共通な点は要するに、国家という範疇を、ヘーゲル的体系の内で占める高みから引き降したという処に横たわる(序に人々は今の場合、ラサールの国家理論の有つ歴史的意味がどう評価されねばならぬかを見るが好い*)。だが之は直ちに、ヘーゲル哲学体系そのもの――そしてその特色はヘーゲルの歴史哲学によって代表される――の変革を意味することを注意せねばならぬ。ヘーゲルの精神の哲学をば、即ち神的理性・イデー・の自己発展としての精神の体系をば、より現実的・物質的・社会的・なものの地盤の上で建て直おすことから、これ等の社会理論は始まるわけである。吾々は之を簡単にそして一般的に次のように言い表わそう、――歴史哲学によって精神的なものと考えられるものを、社会的な見地から取り扱うということの内に、社会学乃至社会科学の始まりがあったのだと。
* 社会学は凡て、コントでもそうであったが、Oppositionswissenschaft として始まった。――だが「社会学」は如何なるものとして終るだろうか。
 之がドイツ社会学乃至社会科学の、歴史哲学からの発生であるが、さて、(ドイツの)文化社会学は、こういうドイツ「社会学」――夫はL・v・シュタインの系統にある――にぞくする一つの特殊な場合に外ならない。之がマルクス主義的「社会科学」――吾々は邦語によって之を社会学から区別出来る――の系統にぞくさないことは、初めから明らかである。なぜなら、マルクス主義的社会科学は、ドイツから始まったにも拘らず、そして今日に至るまでドイツに於て比較的多くの支持者を持っているにも拘らず、決してドイツ的ではない――現に人々は之をユダヤ的とさえ云っているではないか――、処がわが文化社会学は、恰も之に反して、ゲルマン民族的・ドイツ国民的であることを忘れなかったのだから。文化社会学は真正な「社会学」である、それはその後のドイツ社会学を代表するものであった――前を見よ。だからわが文化社会学も、ドイツ社会学一般と同じに、――吾々は繰り返そう――歴史哲学によって精神的なものと考えられたものをば、社会的見地から取り扱うということから始まる。ただこの場合かの精神的なるものが、特に文化という概念によって特色づけられるというまでである。で今歴史哲学が精神の哲学・文化の哲学であるならば、わが社会学は、精神の社会学・文化の社会学でなくてはならないというわけである。

 文化社会学としての文化社会学は、アルフレッド・ヴェーバー*から始まる。
* 彼の文化社会学の最も簡単な叙述は Handw※(ダイエレシス付きO小文字)rterbuch der Soziologie (A. Vierkandt) S. 284, “Kultursoziologie” の内にある。
 ヴェーバーによれば、歴史とは元来「精神的・文化的・諸階層」に分たれることが出来る。文化的ということはとりも直さず精神的ということであり、又心的ということである。処で文化乃至精神は主として生物学的なものに対立せしめられて考えられる、その意味では国家や法律さえが、生物学的形象であってまだ文化ではない*。であるから、歴史の固有に歴史的なものは、例えば人間の生物学的な衝動や意欲の作用などの内にあるのではなくて、それに対立する真に歴史的なモメントである処の、「固有に文化的な部分」、「純粋に精神的なるもの」の内に横たわらねばならない**。文化社会学は、一般に文化の、即ち又一般に精神の、科学である。だから夫は、とりも直さず、固有に歴史的なるものの科学に外ならない。文化社会学は(形式社会学や其他のものと反対に)、一つの歴史理論――そしてこの歴史の性格が即ち文化・精神であった――なのである。
* Alf. Weber, Ideen zur Staats- und Kultursoziologie (1912―1927) S. 45 ――之は Der soziologische Kulturbegriff, 1912 という論文を含む。
** Alf. Weber, Prinzipielles zur Kultursoziologie, S. 9―11.
 だが文化社会学は単なる歴史学ではない、もしH・リッケルト等に従って、歴史学が個々の歴史的事件を叙述するものであるなら、文化社会学は、歴史的事件の間に一定の規則性を見出すものでなければならない、それは「歴史的・社会的・な Konstellation」に立って歴史内容を処理する。元来歴史の個別性規則性とは、所謂方法論などが仮定するように相互に反撥するものではない。両者の間には完全に現実的な、物的に捉え得るような、連絡が横たわっている。だから歴史学が歴史学であるためにも、夫はもはや単なる歴史学に止まることは出来ないだろう、歴史家は同時に「社会学者」でもあることを必要とする。歴史学は「歴史社会学」になるのでなければ、歴史理論となることが出来ない。そういう歴史社会学――歴史理論――が即ち文化社会学に外ならない、と彼は主張する*。
* Ideen, S. 4―8.
 もしそうならば、文化社会学は要するに歴史哲学ではないか、と問われるだろう。実際それは歴史哲学から発生し、従って又歴史哲学を背景としている筈であった。それは歴史哲学の一つの新しい形態に外ならない。――だが歴史哲学が、何か先天的な歴史理論であったに反して、而も之と平行して、文化社会学の仕事は、ひたすら実証的経験的・な研究に基かなくてはならない、夫は帰納的方法を用いなければならない、と考えられる。なる程――後に見るように――このことは別に、歴史を自然的な因果律を用いて説明しようと企てることではない。却って夫は分析的な従って又当然直観的な方法に従うことを意味するだろう。だがそうかと云って又夫が、例えば厳密な現象学的方法――本質直観――などによることにはならないのだ、とそうヴェーバーは警告する*。
* Ideen, S. 6―12.
 文化は、歴史は、精神的であった。その奥底には本来、文化哲学が、歴史哲学が、内在していなければならない。だがこの精神的なものが、歴史に於て、物体的形象となって現われるということも亦事実である*。歴史的世界の最も深刻な意味――それが精神である――は、単に形而上学的・哲学的・に問題となるばかりではなく、現象の世界・形態の世界・の内にあるものとしても亦、取り上げられることが出来、又そうでなければならない。優れて精神的であった歴史乃至文化は、社会現象の平面にまで引き降ろされる。夫が文化社会学なのである*。――精神は今や、ヴェーバーの文化社会学によって、ヘーゲル風のイデーの高みから、社会的存在の地上にまで、引き降ろされる。
* Ideen, S. 48.
 かくて狭義に於ける精神・文化・歴史は、「社会過程」の床の内に横たえられる。否、社会過程そのものがすでに、人間の自己発動的な自然的衝動力や意欲の力を、社会的な一般形式にまで齎すものに外ならないから、それだけですでに――生物学的なものに対しては――歴史的だとも考えられねばならない。即ち又それ自身すでに――広義に於て――精神的・文化的でなければならないのである。で、一切の歴史内容が凡て、この社会過程の床の内に横たわると考えられるのは、至極尤もである。――処でそれにも拘らず、この全歴史的過程の内から更に又特に精神的・心的・である処の過程だけを、抽出することが出来るだろう。そこで彼は云っている、吾々の心からは「完全に異った二つの世界」が造り出される、第一は知識的な直観や概念や思考から生じる処の客観的・普遍的・非人格的な世界であり、第二は感情を地盤として生じる処の個性的・具体的・人格的な世界である。前者は単なる知能に対応し、之に反して後者は生活全体の歴史的運命を反映する*。ヴェーバーによれば前者は「文明過程」であり、後者が「文化の運動」と名づけられる処のものである。――で吾々は今や三つの範疇を得た、「社会過程」・「文明過程」及び「文化動向」。そして後の二つは、第一の社会過程の床の内に横たわっているわけである。尤もこの三つのものは事実としては決して別々に独立しているのではなく、ただ吾々が観念に於て之を分離して表象出来、又そうする必要がある、と云うまでである。実際文化社会学は、この三つのものを夫々区別することによって、却って初めて三者の間の相関的な交互の動的連関を捉えることを企てる。
* Ideen, S. 33.
 さてヴェーバーの文化社会学に於て最も特色のあるものは、その特有な文化概念、従って又文明過程文化運動との厳重な区別、である。
 同じく社会過程の内に横たわりながら、文明過程と文化動向とは、彼に依れば、全く異った展開法則に従う。二つは夫々に特有な法則性と作用とを示すなら、一定の認識目的の下では二つのものを判然と分離析出することが出来る。文明過程――数学的・自然科学的・及び技術的・知識などが之にぞくするプロパーなものであるが――の運動形態の特色は、文化の動向と異って、合理的主知的であることを見ねばならぬ。と云うのは、夫は因果的・機械的・な過程として展開し、論理的普遍妥当的必然的な継起を有つ。だからそこでは、展開の夫々の点に就いて、例えば正不正というような論理的価値標準をあて嵌めることも出来る。と云うのは、文明の運動は、その内容の正当ならぬモメントが排除されて正当なモメントだけが残ってゆくように行われると云うのである。文明過程は云わば直接的積極的な進歩をなす。多くの実証主義者が信じた通り、――コントとスペンサーはヴェーバーの好敵手である――、文明の運動過程は進化なのである(所謂進化理論はただこの点にのみ当て篏まる)。こういう運動法則に従う文明の世界には、人間の――物質的――生活の一定の目的に役立つべく存在を変容し形成する処の、技術手段が与えられている、之は合目的的・実用的・な領域である。こう云ってヴェーバーは文明を特色づける*。
* 以上は Prinzipielles, S. 11, 12, 21, 23, 29, 42, ……及び Ideen, S. 3 ……を見よ。
 併し精神的・文化的・であるべきであった歴史の過程を、一概にこの文明の概念によって律しようとすることは、ヴェーバーによれば進化論者実証主義者の根本的迷蒙である。それは人間の精神的存在の単なる半面をしか知らない者の考えに過ぎない。彼等は文化の概念を少しも理解していない。処が文化こそ優れて精神的・歴史的・な精髄でなくてはならなかった。
 文化は文明と異って、非合理的である、それは知性の所産ではなくて全人格感情の所産であった。そこでは生命感が、が支配する。だからもはやそこには、論理的な・因果的・直線的・積堆的な・進歩も進化もない。文化は夫々の時代の一定の定位の範囲を限って、その範囲内で作用を有つことが出来るだけである。文明が時代と共に進歩しても、文化は――哲学体系・宗教・芸術等を考えよ――別に進歩するものではない、ただ夫が異った時代の定位に移って、異った作用を有つようになるという迄である。この意味に於て文化は一遍々々完了するものであり、一回的なものである。文化には没落や静止、劇変や改革や復興があるだろう。併し夫には何等の方向目的もない。だから文化は、本来発見と呼ばれるような働きをする筈がない(発見 Entdecken とは既にあるものを単に顕わにすることに外ならない)。文化は常に創造でなければならぬ、文化は発出・エマネーションである。で、こういう謂わば自由な詩的象徴の世界で人々は、文化の発展の段階の代りに、高々文化の成功不成功・高低・の時代区別をし得るに過ぎないだろう。尤も一見無規則に見える文化のこの運動にも、一定の週期性リズムとを見出すことは出来る。吾々は諸文化状態を類型化すことが出来るからである。――文化の世界は普遍妥当的・必然的・な客観界ではない、実際それは文明とは異って、人間の物質生活の目的に役立つような合目的性も実用性も有っていない。それは却って反目的的でさえあることが出来る。そこでは何の技術手段も提供されない、夫は単に、感情の象徴が夫々異った配列に於て並存している処の世界に過ぎないのだ、とそうヴェーバーは主張する*。
* 以上は Prinzipielles, S. 22, 25, 28, 29, ……及び Ideen, S. 34, 40, 42, 46, 54, ……を見よ。
 もはや読者は気付いただろう、アルフレッド・ヴェーバーによる文化の概念が、夫が文明の概念から区別されることによって、まず第一に、如何に審美的――又ロマン派的――性格を与えられたかを。文化とは外でもない、感情による象徴的影像の外ではないのである。それは生物的生命の存続などにとっては過剰物である、否それだけではない、吾々が生活の全形式を、生活の全根本原則を、そのためには犠牲にしても構わないような、何か高貴的な芸術作品の如きものなのである。実際彼によれば、文化の内容には二つの側面しかない、人格が世界を自己の内に取り入れるという側面と、反対に人格が世界形象の統一を構成するという側面と。後者はイデーであり前者が即ち芸術作品である。後者は予言者のものであり前者が芸術家のものである、と彼は考えるのである*。人々は云うまでもなく茲でシェリングの象徴詩的・審美的・――又ロマン派的――な哲学体系を連想しなければならない。処が第二にこのロマン派的理論は、おのずから、そのドイツ風な形而上学的宗教的・背景を示さずにはおかない。その時文化は、正にかのドイツ民族風の、形而上学的・宗教的な本質を暴露しなければならないのである。そこでヴェーバーは文化を定義して云っている、「吾々の形而上学的存在が有つ統一への意志が、吾々自身の内面的存在の全体性と外界で之に対立している全体性とに向けられる時、この統一への意志が創造するもの、即ち又、人格性と世界との総合を現わすもの、之が文化であり文化的作意である」と**。文化は全体者であり、永遠者を意欲し、常に新しき絶対者である、夫は全世界の最深の奥義である。処でかかる世界の形而上学的な奥義は、宗教的世界観に於ては、恰もと呼ばれるものに相当する。単なる事実的存在の世界からの救済こそ、文化の使命である、文化は人類の運命なのだ、彼はそうつけ加えることを決して忘れない***。
* 以上は Ideen, S. 40―42 を見よ。
** Ideen, S. 41―42.
*** 以上は Ideen, S. 40―42[#「S. 40―42」は底本では「S 40―42」], 44, 48 を見よ。
 文明と文化とがこうやって圧倒的に区別されて来ると、二つのものの間の価値の高下はすでに明らかである。文化は、人々が私的生活をさえ犠牲にしなければならない人格的――倫理的――な規範となる。文化に左袒すべきである人格は、文明過程の客観化物――経済・法律・更に又国家までも入れて――と戦わねばならない当為を有つ。文明は文化の敵である。嘗てスコラ哲学の時代又シェークスピアやミケランジェロの時代には、文化は具体的な内容を有っていた、それがデカルトの合理主義と普遍化主義によって、内的形象を失って外的形態に支配される世の中となった。かくて現代は機械論の支配の下に立たされている。夫々の時代は夫々の時代に特有な文化を持つが、現代の文化が機械論にまでなり下ったことは誠に悲しむべき現象だ、と彼は慨嘆するのである。だが「予言者」の常として、彼は決して希望を失わない、だから吾々は須らく現代の機械主義を超越すべきである、汎科学主義は去れ*。
* 以上 Ideen, S. 40, 45, 47 を見よ。
 ヴェーバーによる、審美的・ロマン派的な、そして形而上学的・宗教的な、芸術家風にして予言者風な文化の概念は、おのずから、彼の文化社会学そのものを、科学の或る一定の類型にぞくせしめざるを得ない。吾々は今之を解釈学的なものと呼ぶことにしよう*。
* 解釈学的な見地に立つ理論は、存在を変革する代りに之を解釈する。と云うのは、存在の代りに存在の意味を解釈するのである。存在と存在の意味とをすりかえる点に於て、夫れを正当には形而上学的と呼ぶべきだと吾々は考える。――最近H・フライアーはそういう理論を一括して「ロゴス科学」と名づけた。彼に従えばディルタイこそそういう科学の多くの代表者の一人である(H. Freyer, Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft, S. 21 ff.)。
 彼によれば文化――そして之は間接にはその対立物である文明をも部分として含まねばならなかったが(初めを見よ)――は、精神の、社会に於ける表現である。夫は人間の生活結合と之に応じる態度との表現であり、心的本質心的表現なのである。精神はこの表現を通して、文化的面貌・文化的骨相を示す。そこには歴史的・社会的 Konstellation が与えられる*。――だが読者は注意しなければならない、表現という概念が本来芸術=詩にプロパーなものであったという点を。審美的象徴こそ表現のプロパーな特色ではないか。そうすれば表現がすぐ様、第一に個性的・個体性格的・な表現を意味せねばならぬことは至極尤もだろう。――で精神のこの表現である文化は、おのずから個性的・個体性格的なものと考えられるのも当然である。実際ヴェーバーによればそれは一回的な完了物であった。だからそこで普遍化的・合理化的・な因果づけや進歩観が支配的であり得なかったのは初めから当然である。従って又文化は高々類型化される外に途を有たなかったのである(前を見よ)。
* Prinzipielles, S. 29, Ideen, S. 10―12, 15, 27―28 を見よ。
 表現は――この概念の性格から云って――常に類型的でしかない。で文化は、文化社会学によれば、形態学的に取り扱われる外はなくなる。文化社会学は「文化形態学」となる。ヴェーバーはこの科学をゲーテが行なおうとした自然の形態学の仕事に較べている、それは文明進化論などに較べれば一つの新しい科学である、と彼は宣言するのである*。――形態学的見方は、類型化的方法は、併し、凡そ事物を説明することは出来ないし、又それを企ててはならない。与えられた与件を他の与件にまで分解して了う――因果的説明はそうである――代りに、与えられた全体をそのものとして、そのまま受容することが、この方法の本来の願望である。まして表現に就いては、之を説明するという言葉自身が無意味だろう。表現は理解される外はない。表現の唯一の認識範疇は理解である、そして理解されたもの同志の連関を理解することが解釈である。文化は、それが精神の表現である限り、理解される外に、通路は持たない**。文化社会学が解釈学的である所以が之である。
* Prinzipielles, S. 43; Ideen, S. 51 参照。
** Ideen, S. 14 参照。
 かくて、文化社会学の根本的な特色は、その観想的な性格に帰着する。なる程この文化社会学は、先天的と考えられたような所謂文化哲学乃至歴史哲学ではなかった、それは社会という現実の存在にその足場を求める、即ち又歴史そのものの内部にまで足を踏み立てねばならなかった。だからヴェーバーはこの科学を現在の問題から出発せしめる。だからそれは時代々々の、又は之を代表する人々の、観点に制約されるという本質を有っている。文化社会学は単なる純粋認識や純粋理論ではない。それだけ之は実践的なものに制約されていなければならないように見える。文化の創造は、現在的実践的・な精神的行為と考えられる。――だがこうした現在観とそれに伴う限りの実践的見地も、単に、殆んど凡ての歴史主義が得意とする処のものに過ぎない*。そういう実践的見地がなお非実践的・観想的であり得或いは寧ろ常にそうである外はないということ、それを今日人々は、多くの例で見ることが出来る。ここで認識乃至理論を決定するものは解釈に外ならなかったが、処が、この認識乃至理論を、真に実践的な――物質的な――実践につきあてて見るのでない限り、解釈は実際自由に何とでも付くものである。従ってそこには結局何の客観性も成り立つことが出来ない筈である。先に観点と呼んだものは、実は客観性のこの否定に外ならなかった。ヴェーバーによれば文化社会学にとっては、根本材料を外にして、正確な論証を求めることは許されない(彼は之をその集団主義的見地からの結論だと考える)。個人主義的見地に立つマックス・ヴェーバーが指摘したような社会科学の客観性――客観的可能性評価からの超越など――は、あまりにも合理主義的でありすぎた、というのである。文化社会学の理論が、如何に非実践的・観想的なものに甘んじるかは、この点からも明らかだろう**。――併し解釈学的なものは本来常にこうある外はない。
* ヴェーバーの文化社会学は併し、汎歴史主義に反対する、歴史は常に永遠なるものによって裏づけられている。その限り之は単なる歴史主義――相対主義――ではないかのようにも見える。だがそれが理論自身の客観性の問題になると、完全に相対主義=歴史主義を暴露する(次を見よ)。そうして文化社会学が結局、所謂歴史主義の一つの変容に過ぎなかったことを証拠立てる(Ideen, S. 49 参照)。
** Ideen, S. 20―25 を見よ。
 最後に吾々は云うことが出来る、ヴェーバーの文化社会学、それは恐らく、ドイツ乃至其他の所謂「文化社会学」を最もよく代表するものであるが、夫は、ドイツの形而上学的・宗教的・観念論の、解釈学的な――ロマン主義的・歴史主義的な――合理化の一つの形式である、と。そこで取り扱われた文化の概念は、外でもない、ドイツ民族精神の概念によって貫かれている。
* だからヴェーバーは当然、自然主義的・唯物論的・歴史観を呪わざるを得ない。彼はE・トレルチの、精神と自然との――公平な――二元論にさえ反対する。唯物史観に於ける社会の上部構造などという範疇は――この言葉はM・シェーラーさえが使っているが(後を見よ)――文化社会学の傍あたりへさえ寄ってはならない(Ideen, S. 27―8)。
 さてこうした性格を固有している所謂「文化社会学」の主張を、例えばマルクス主義的文化理論乃至社会理論の成果と、直接に対決させて見ることは、可なり野暮なことだろう。吾々は別な途を択ぼう。
 ドイツ民族精神の哲学は、或る意味に於て、すでにヘーゲルを以て終っている。ヘーゲル以後ドイツ民族的「精神」の正面的な・体系的な・無条件な肯定の哲学――(今の場合の)社会学ではない――はもはや見ることが出来ない。その後に見られるものは高々、超歴史的な単に一般的な範疇として理解された限りの、イデーとか「文化」とか「精神」だけであると云って好いだろう。そしてヘーゲルの「精神」の哲学は、マルクスの「物質」の哲学――だがそれが「社会学」ではなかったことを忘れるな――によって代られた。処が物質の哲学はもはやすでに「哲学」ではない、でドイツ観念論哲学は或る意味に於て、ここに終ったのである。
 ドイツ民族は、即ち又ドイツ国家は、過去数十年来あれ程目醒しく台頭して来たにも拘らず、今日ではすでに、全く行きづまって了った。大戦後のドイツは、例えばナポレオンに征服されたドイツ――そこにはヘーゲルが生きていた――とは、全くその発展の切線方向を異にしているのを見ねばならぬ。かしこにはドイツ新興資本主義の隆々たる前途があり、ここにはその垂直的な下向線がある。今や、問題はドイツ没落救済とでしかない。救済主はアメリカであるかソヴェートであるか、それともヒトラーであるか。これは経済的・政治的な問題である。――だがドイツ民族的「精神」は、ドイツ的「文化」は、又この問題と平行しないではいない。ドイツ的精神・文化も亦今や没落に瀕している。それは救済されねばならない。だがドイツ精神・ドイツ文化はヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の、代表者でなければならなかった。だから問題は、ヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の没落と救済との問題である。――恰も、債務者ドイツの救済は英米仏の又ドイツそのものの資本主義自身の救済であるように。
 そこでわが文化社会学はどうなるか、文化社会学は同語反覆的に、文化の――即ち又精神の――没落を喰い止めるべき歴史的使命を負わなければならぬ。併しそのためには、精神――即ち又文化――を、その従来の高踏的な君臨の王座から引き降ろし、之を出来るだけ他のものに対して譲歩させる外に、もはや道は残されていない。そうして後に却って初めて、精神は、文化は、救済され得るだろう。――マックス・シェーラーの「文化社会学」はそこで、恰もこう云った謂わばメシア的予言を背景として現われる。

 マックス・シェーラーの文化社会学は、文化に於ける精神が、文化ならぬ他のものに対して譲歩せねばならぬということから、その問題を始める。
 彼は人間の歴史的・社会的・生活の内に、実在的要因観念的要因とを区別する。人間の主体にとって前者に相当するものが生命の根本動力としての衝動――栄養・生殖・権力の――であり、之に反して後者に相当するものが所謂精神である。――今前者に就いては、人間的衝動の根柢理論として実在社会学(Realsoziologie)が成り立ち、之に反して後者に就いて、精神の理論として成り立つものが、とりも直さず、彼の文化社会学(Kultursoziologie)なのである*。
* M. Scheler, Probleme einer Soziologie des Wissens (in “Versuche zu einer Soziologie des Wissens”)(之は Wissensformen und die Gesellschaft に含まれている)S. 36 ――なおシェーラーの知識社会学はこの文化社会学の一部分である。
 かくて衝動は、人間生活の下部構造に相当し、之に反して精神は、その上部構造に相当する。と云うのは、前者は――E・フッセルルの現象学的術語を使えば――基底(Fundament)であり、そして後者が之によって基底づけられた(fundiert)ものに外ならぬ、と云うのである。衝動は、その現象学的構造本質法則から云って、精神に先立つ。このことは併し、シェーラーに特有な現象学の方法に従えば、決して、単に静止的・超時間的な本質関係を意味するだけではない、衝動と精神との上下のこの階層関係は、社会の歴史的発展に際しても亦行われるのでなければならない、この関係は亦発展前進法則でもなければならない、と彼は主張する*。――実際、現象学的な所謂本質に、この意味に於て可変的な性質を与えるのでなければ、歴史的社会的存在の「現象学」的分析ほど、無意味なものは又とあるまい。
* Probleme, S. 12.
 精神は衝動の上部構造である、歴史的社会――それはシェーラーによれば要するに人間生活である――の根本動力は、従来の有態で露骨な観念論の体系とは反対に、精神ではなくて却って生物的な衝動であった。精神は今やその限り少くとも衝動の前には譲歩しなければならない。
 そこで精神はシェーラーによって、極めて謙遜な役割を振り当てられることとなる。精神それ自身は、根本的には可能的な文化内容を実現するとか働きとかいうべきものを少しも持っていない。それは単に文化内容の可能的な様態を予め決定出来るだけである。精神は本来から云うと、文化内容の決定要因ではあっても、決してまだその実現要因ではない。この可能的な文化内容に選択を施すことによって、之を実現に齎す処の要因――その意味に於ては消極的な実現要因――は、精神自身ではなくて、却って実在的・な衝動による・生活諸関係なのである*。――原理的にすでにそうであるが、文化の実際の歴史的内容になると、即ち一定の実在的要因と一定の観念的要因とがすでに結合して与えられている文化の実際内容になると、之に対する精神の働きかけ方は、更に一層制限されて来る。こう云った文化内容が新しく可能的になるためにも――前の場合よりも一段前である――もはや精神は無力である。この文化内容が可能的になること自身の、可能性も実現も、すべて実在的要因によって決まるのであって、かくて精神に残されるものは、わずかに、かかる文化内容が可能になること自身の可能性の内から、或る要素を阻止し他の要素を解放することによって、この可能性に動向を与え・嚮導し・浮きを与えるという、消極的な実現者の意味だけとなって了う**。――尤も実在的要因を一応無視した限りの純粋に文化的な、意味内容(Sinngehalt)――併しそれは具体的な文化内容(Kulturinhalt)ではない――に就いては、精神はなお積極的な役割を果すと考えられて好い。少数の択ばれた人々の自由意志が、そこでは之を実現する積極的な要因とも考えられる。この点を考慮に入れれば、精神と衝動的なものとは、云って見れば互角ともなるだろう。衝動的な実在要因は、精神によってモディファイされるべき因果であり、之に対応して精神的・文化的な要因は、衝動によってモディファイされるべき自由であると考えられる***。
* Probleme, S. 8―9.
** Probleme, S. 9―10.
*** Probleme, S. 9, 11, 37 ――なお、精神又は自由を、因果的自然必然性に対して、消極的な役割―― Lenkung, Leitung, Suspension 等――を果すものとして制限し、従って又その限り肯定しようとする彼の企ては、全くH・ドリーシュの生気説――ドリーシュの言葉によれば又目的論――の思想の複写である(第三章参照)。
 そう考えれば精神は衝動に対して高々互角であるに過ぎない。だが実際は、人間社会の歴史的運動の要因として、依然として、精神は衝動の下位に立たねばならない結果になる。それはこうである。シェーラーによれば、歴史は時代々々によって、歴史決定の支配的な要因を異にする、夫は三つの段階に分かたれる。第一は性・血液・人種の関係が支配的である段階、第二は政治が支配的である段階、第三は経済が支配的である段階(之は無論量質的人口諸関係・権力諸関係・経済的生産諸関係・という社会学者風の三概念に対応している)。そして、第一の段階では、精神が衝動的な実在要因を阻止すること最も大(解放は従って最小)であり、第三の段階では之に反して、この阻止が最も小(解放は従って最大)である、というのである。即ち、謂わば民族主義的な時代には、精神的要因が歴史的要因として比較的有力であり、之に反して経済主義――もしそういうものがあるなら――的な時代には、夫が比較的弱い、というわけである。さてこの三段階の交替は処でシェーラーによって、何から説明されるか。外でもない衝動からなのである。この三つのものは――前に述べた――性欲・権勢欲・食欲の三つの根本衝動によって、初めて区別される外はない*。衝動が精神を決定するのであって、その逆ではない。
* 以上は Probleme, S. 9, 31 を見よ。
 かくて結局シェーラーの文化社会学によれば、精神は、即ち又文化は、衝動の前に、譲歩しなければならない。――アルフレッド・ヴェーバーの文化社会学にとって、あれ程審美的・唯美的・な本質であった処の高踏的な「精神」――文化――は、茲まで来ると、現実的な、あまりにも非唯美的な、衝動を背景に有たねばならぬこととなる。かしこに於て創造の力を有っていた精神――文化――は、茲では単に衝動に対する消極的な嚮導だけをその役割として残される。文化・精神は、シェーラーによって、そのドイツ観念論的な王座からひき降ろされる。
 だが、精神・文化は、このようにして譲歩するのでなければ、もはや救済され得ない。シェーラーによれば、ヨーロッパ文化だけが唯一の文化ではない、世界の文化は複数なのだ、ヨーロッパ文化は東洋的――例えば印度・支那――文化と平均されることによって、却って現在の実証主義の圧迫から遁れることが出来る。――文化を文明から護るためには(元来ドイツ的であった)文化を、東洋其他にまで、コスモポリタン化されねばならぬ(ショーペンハウアー等を見よ)。そうすることによって初めて、ドイツ文化もドイツ文化として蘇生出来ようというわけである。之こそドイツ文化社会学のカトリック的使命ではないか。――であるから、シェーラーによる文化の譲歩は、実は却って、文化の文明に対する勝利を意味する。精神は、例えば全く東洋の生活術の通り、物質に譲歩することによって物質に打ち勝つ。で結局、シェーラーの文化社会学――その内容は結局知識社会学なのだが――は、ヴェーバーの場合と同じに、文明に対する文化の優越を説く処の、その名の通り、文化社会学でなければならない。
* Probleme, S. 39 ff. ――シェーラーが、文化と文明とを如何に峻別したか、即ち宗教・形而上学と実証的知識とを如何に峻別したか、それが又如何に、反実証主義的・歴史主義的方向に於てであったか、などに就いては第五章を見よ。なお第四回ドイツ社会学会(一九二四)に於て、Wissenschaft und soziale Struktur と題して行われたシェーラーの講演と、之に対するM・アードラーの批評とを見よ。
 マックス・シェーラーの文化理論の何より著しい特色は、生物的生命の原理=衝動をば、敢えて文化の史的発展の基底に据えたという点にある。そこで人々はすぐ様、G・フロイトやA・アードラーの、精神分析理論を思い出さざるを得ないだろう。実際、精神分析の理論に従えば、一般に文化は、衝動――広義に於ける性衝動・又は権力への意志――を終局の原因とする。この点で、それはシェーラーの衝動理論と好く似ているようにも見える。
 だが、今は区別が大切である。衝動を阻止し又解放するものは、シェーラーにとっては、正に精神そのものであった。衰えたりと雖も精神はそこではとにかく、衝動に対立する独立の原理となって登場する。処が精神分析によれば、精神それ自身が初めから衝動的本質と考えられる。だからこの衝動即ち又精神を、阻止し解放するものは、もはや精神自身である筈がない。フロイト主義によれば夫が、社会でなければならなかった。で、シェーラーの文化社会学に於て精神であったものはフロイト主義に於ては社会となるのである。――だから、シェーラーにとっては文化は精神そのものに過ぎないが、処がフロイト主義にとっては、文化は精神が社会の框を通った結果でなければならぬ。前者に取っては衝動から直接に文化(精神)へである。後者にとっては、衝動(精神)から社会へ、そして社会から初めて文化へ、である。――そこで人々は注目しなければならない、シェーラーの文化社会学にとっては、社会は必ずしも文化概念の構成過程に横たわらなくてもいいということを、然るに、フロイト主義的文化理論にとっては却って、社会が文化概念の欠くべからざる構成過程をなしている、ということを*。
* フロイト主義文化理論に就いては第六章を見よ。
 文化「社会学」で恰も社会という概念そのものが軽んじられているという、この多少皮肉な特色は、要するに、所謂文化社会学がまだ文化社会学としての機能を充分に果していないことを物語っている。と云うのは、ヴェーバーの文化概念を衝動との交渉にまで齎したシェーラーは、更に之を少くとも、フロイト等と同じ程度に、衝動そのものにまで徹底させなくてはいけなかった、ということなのである。そうしなければ、文化社会学は――文化の形而上学・哲学にはなろうとも――文化の社会学にはなれないと云うのである。――だがそうすれば又、精神と衝動との――夫は要するに天国と地獄との対立からの類推だと云って好いが――根柢的な区別は廃止されなければならない。と云うことは、文化文明との根柢的な区別への執着を忘れねばならぬ、ということである。処がそれは又、文明から保護されるべきである限りの文化という概念を無用に帰着させることに外ならない。そうすると、之は文化社会学の元来の使命――文化概念の救済――を、放擲することである。だから文化社会学としての文化社会学は又放擲される。――文化社会学は、文化社会学あるために、文化社会学でなくならねばならぬ。文化社会学それ自身が、今やこうした中途半端な矛盾の過程なのである。

 併し、吾々は何も、文化社会学がフロイト主義的文化理論にまで帰着しなければならぬなどと云いたいのではない、無論決してそうではない。フロイト主義的文化理論は元来それ自身に重大な制限を有っているのだから、たとい夫が文化社会学の一つの制限を指摘し得た処で、決して夫の代用物などにはなれない(第六章を見よ)。文化社会学の以上の如き矛盾を解くには、文化社会学はイデオロギー論となる外に途を有たないのである。そしてそれは(マルクス主義的)イデオロギー論の外にはないのであった。文化はイデオロギーとして取り上げられねばならないのであった(第一部を見よ)。
 所謂文化社会学――その本質が何であるかを吾々は今まで見て来たが――は併し、云うまでもなく、自らをイデオロギー論から峻別しようと欲する。現に、アルフレッド・ヴェーバーによる審美的象徴・詩的表現としての文化は、到底、経済的・階級的・基底の上に立つ上部構造――イデオロギー――ではあり得る筈がなかったし、又マックス・シェーラーによる文化社会学は、彼によって経済史観とか実証主義とかと特色づけられるイデオロギー論に対しては、恰も文化が文明に優越するだけそれだけ、優越していなければならない筈であった。――でイデオロギー論という概念を元来承認せず、又そうでなくても之を自分のものから峻別しようとするに熱心な、多くの文化社会学者達が、自分の文化社会学がイデオロギー論に帰着せしめられようとするのを見て、頭から反対するのは誠に当然なことである、吾々は夫を非難する程野暮ではない。だがそれとは無関係に、文化社会学はイデオロギー論に帰着しない限り、文化社会学ですらあり得ない、ということは真理である。
 そこで文化社会学をマルクス主義的イデオロギー論として取り上げたのは、エミール・レーデラーである。彼は――主として芸術を問題としながら――述べている、歴史に於ける文化の層が仮にどれ程動的なものと考えられようとも、文化の運動の動力は、終局に於ては、文化自身に在るのではない、夫は却って社会的諸関係の総体の内に横たわらねばならぬ、と。彼が今茲で社会的諸関係と呼ぶものは、マルクス自身の言葉に従えば、生産諸関係のことなのである。が夫がレーデラーに従えば、単に経済的・技術的な意味に於てばかりでなくて、その社会的習俗をも含めて解釈されねばならない、それは「人間の生活諸関係」に外ならない、というのである。で社会的諸関係の総体は、彼に従えばすでに「精神的な態度」を含んでいなければならない。――即ち精神がすでに物質の内に装置されているわけである、だから、こういう下部構造が上部構造の一方的な――もはや交互的ではない――規定者となるということは、同語反覆的に当然でなければならないではないか。だがレーデラーの文化社会学=イデオロギー論によれば、精神の物質に対する権利はこれだけには止まらない。文化層の社会学的考察は、文化発展の可能性とか根本概念とかという文化の内部的規定が予め明らかにされた上でなければ、成り立つことが出来ない。社会的なるものは例えば劇の芸術的価値の実現の可能性を規定出来るだけであって、劇の芸術的価値そのものを規定することは出来ない(G・ルカーチと同じに)。それは美学的考察の高々導線となることが出来るに過ぎないものだ、と彼は主張する。彼は云っている、イデオロギーとは、文化の自律ということと社会的な全基底が文化のこの自律の材料又は条件として作用するだけだということとの、概念であると。だから彼によれば、イデオロギーとは、結局精神的なるものの自律に帰着する(そして之がマルクスに対する最も忠実な解釈だそうである)。もしイデオロギーがそういうものならば、なる程彼の云う通り、農民戦争や宗教改革に於ては、イデオロギーなどは無かったに相違ない*。
* E. Lederer, Aufgabe einer Kultursoziologie (in Erinnerungsgabe f※(ダイエレシス付きU小文字)r M. Weber, ※(ローマ数字2、1-13-22)) S. 152, 153, 158, 160―161, 163―165 を見よ。
 レーデラーによるイデオロギー論としての文化社会学は、彼自身の意志とは関わりなく、要するに「文化社会学」であって、(マルクス主義的)イデオロギー論などではない。それは単に――又しても――精神の社会学に外ならなかっただろう*。実際レーデラーによれば、「文化の社会学的考察は哲学的唯物論と、原理的には何の関係もない」のである**。――この状態は吾々に何を物語るか、外でもない文化社会学が「文化社会学」である限り、イデオロギー論となることが出来ない、という既に述べた一つの事実である。だが一方文化社会学は――レーデラー自身も企てたように――イデオロギー論となるのでなければ、文化社会学でさえあることが出来なかった、それも吾々はすでに見ておいた。
* H・フライアーは文化社会学を「精神的文化の実在社会学」、「精神の実在科学」等々として規定する。そして「真に正しい形態のイデオロギーの問題」がそこでこそ取り上げられ得ると云うのである。――だが彼によれば、マルクス主義的なイデオロギー概念は、精神的連関に何等の積極的な役割をも与えない処の袋路に過ぎない。それに一体マルクス主義は、あまりに時事問題中心的であり、闘争中心的であり過ぎていけないそうである(Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft, S. 107―109.)
** Aufgabe einer Kultursoziologie, S. 149 ――吾々はレーデラーと殆んど同じ態度の「マルクス主義」をM・アードラーの知識社会学の内にも見出さねばならぬ。「知識の社会的構造」は「経験の先験的に社会的なもの」である、社会とは、カントの空間や時間や範疇と同じに、「先験的(先天的)図式である。吾々は意識と意識の法則性を最後の事実として、それから出発する」、「マルクス主義は精神的一元論から出発する」、「マルクス主義は唯物論とは何の関係もない」云々(M. Adler, Wissenschaft u. soziale Struktur ――前掲書―― S. 187, 189, 192, 210 を見よ)。
 さて吾々は要約する時に来た。
「文化社会学」と名乗る「社会学」は、ドイツ観念論哲学――ヘーゲルのカントの又遠くはスコラからさえの――社会学的な分析に外ならない。それはドイツ古典哲学の終焉の後に、社会学という保護色の下に今日まで生きのびた、落胤である(アルフレッド・ヴェーバーの歴史主義的伝統に於ける文化社会学は、この点を最も好く代表していはしなかったか)。それは云わば一つの――尤もカルヴィニズム運動などに較べるべくもなく小規模ではあるが――資本主義の精神だったのである。だから夫は今日マルクス主義的イデオロギー論と、同じ戦野に於て正面的に対峙せざるを得ない歴史的宿命を有っている。で文化社会学は今や、資本主義のこの「精神」を、即ち又文化を、その必然的な衰亡から救済するために、或いはマルクス主義と一戦を交えようとし、或いはそうでなければマルクス主義と妥協しようとする(マックス・シェーラーの文化社会学乃至知識社会学は前者であり、エミール・レーデラーの文化社会学などは後者である)。――かくて、わが「文化社会学」は、今や当然なことながら、ブルジョア観念論一般と共に、その行動と運命とを頒たねばならないだろう。「文化社会学」の終る処に、真の文化社会学が始まるのである。
[#改段]


「知識社会学」は文化社会学の一つの――併し最も主なる――部門である。吾々は今知識社会学の、論理学的なイデオロギー条件を主として分析しよう。人々はここでイデオロギーに於て、論理的条件と歴史的条件とが、どれ程完全に平行するものであるかを知るべきだ。
 知識社会学は、社会学の非常に新しい一つの分枝である。それは精々M・シェーラーから始まったとも云うことが出来るだろう。だがそう云っても、実質に於て知識社会学の名を以て呼ばれて好いようなものが、今までに無かったと云うのではない。それ処ではなく、或る意味では、知識社会学こそ社会学の最も古い領域であり、寧ろ之こそが社会学の本来の領域であったとさえ云うことが出来る。社会学を社会学として始めたものはオーギュスト・コントであるということになっているが、彼が企てた社会学は二つの目標を持っていたように見える*。第一は科学的な政治学の建設であり、第二は知識の段階づけと科学の有機的な分類であった。第一の政治的関心と第二の科学論的知識学的関心とは併し、無論直接な連りを持っている。なぜなら第二のものは実証的精神の他の精神に対する、即ちガリレイ風の物理学の他の科学に対する、優越を説明しようとするのであって、単に歴史的な又尚更百科辞典的な興味からではないのであるが、処がこの実証主義はとりも直さず――コント自身の言葉に依れば――プロレタリアにのみ固有な、否プロレタリアにのみ教えられ得る(教えるのが誰だかは後として)、哲学であるのだから。神学は上層階級の、形而上学は中流階級の、そして実証主義的科学は下層階級の、哲学なのである**。知識の進歩は社会層の政治的勢力の消長に対応せしめられる、知識学が知識社会学の形態を取らねばならなかった理由が之である。であるから、コントの社会学にとっては、知識社会学がそれの本来の領域をなしていた、と云っても、云い過ぎではあるまい***。
* コントに好意を持たない人々のためにコントの先輩サン・シモンを置きかえても好い。
** コント的プロレタリアは併し、自己の実証哲学の宣伝によって人間をキリスト者・人類にまで変革する。産業的な資本家は資本と実証哲学とを持つことによって勤勉なプロレタリアとなり又であることが出来るわけである――次を見よ。之こそがコントの言葉を借りれば「偉大なる革命」なのである(A. Comte, Discours sur l'esprit positif[#「positif」は底本では「postif」]. ※[#ローマ数字20、172-上-21] 其他)。
*** 知識社会学が社会学一般の成立の動機をなしたのは、単にコントの場合ばかりには限られない。ドイツではフィヒテやシュライエルマッハーに於てそうであったと云われる(K. Dunkmann, Soziologische Begr※(ダイエレシス付きU小文字)ndung d. Wissenschaft. ――Archiv f. systematische Philosophie und Soziologie, Bd. 30 参照)。
 併し、コントの実証主義、コント的プロレタリア科学は、実は、ブルジョアがプロレタリアに教える処の「プロレタリア科学」である。実証主義的社会学はかくて、ブルジョア即ちプロレタリアという不思議な「階級性」を担っている*[#「*」に対応する注記が底本では欠落している]。併しこのプロレタリアが実は同時にブルジョアと同じ階級性を有つのであったから、この平和なる「第三身分」はかの有名な「人類」――而もキリスト者――である外はなくなるであろう。であるから、わがプロレタリアは、階級性を担うその瞬間に、もうすでに超階級的な人間性となって了うわけである。社会学はブルジョア的階級性――それがコントではプロレタリア的階級性と考えられる――を持つ瞬間に、階級性一般を失う。その限り、社会学は階級性を有ちそして有たない(無論貴族や僧侶との階級的対立はすでに過ぎ去っている)。之は云うまでもなく全く不合理でなければならないだろう(尤もかかる不合理の成立はコントの時代の政治的条件によって合理的に説明されるのではあるが)。社会が、歴史的社会的存在が、単なる社会・社会一般・超階級社会である限り、そして「社会学」なるものが人々の云うようにこのような単なる社会的存在一般の学である限り、社会学は合理的となり得ない。実際ここでは、社会学は成立しそうに見えながら成立出来ない。社会学は一切の科学の総合であり一切の科学の王でありそうで、一切の科学の食客である。全く社会学は自己矛盾的存在とならねばならぬだろう。
 総合社会学のこの不合理性は、社会学に思い切って階級性――その歴史的・政治的・原理――を与えるか、又は思い切って初めから之を拒むか、の二つの道によってしか合理化され得ないということが、ここから結果する。思い切って社会学に階級性を認めることは、社会の歴史性を合理的に理解することであり、初めから社会学に階級性を拒んでかかることは之に反して、社会の歴史性を合理的に排斥することによって、却って合理的な一種の社会学を造り出すことである。後の方の手続きを選んだものが、就中、かの形式社会学であった。処が今日の所謂社会学は、この後の方の手続きを選ぶ点に於て、多少に拘らず、形式社会学に属する。それであればこそ、第一義的に見て大して存在理由のなさそうに見える形式社会学も相当な存在理由を見出すことが出来るのであった。丁度、総合社会学が存在し得られそうに見えながら、必ずしも存在し得るとは限らない、と反対に。
 さて知識の社会学――それは社会学の本来の領域でもあった――も亦従って、知識という社会的存在から歴史性=階級性を天引きすることによって、合理的となることが出来る。実際、予め知識からその歴史性――歴史的原理――を引き去っておけば、後は安心して自由に、恐らく天才的に、歴史的事実を引例することも出来るだろう。マックス・シェーラーの知識社会学は、この要領を見逃さなかった最も代表的な場合である。

 正にシェーラーは、コントの社会学から、その歴史的原理を完全に引き去るためにこそ、コントのかの歴史三段階説(尤も之はすでにサン・シモンにあるのであるが)を批難することから始める必要があった。それがミルやスペンサー等に関わると、マッハやアヴェナリウス等に関わるとを問わず、コントの実証主義に帰着する三段階説は、彼によれば「根本的に誤っている」のである。三つのこの段階は、科学発展の歴史的な順序に於ける段相を意味すべきではなくて、実は元来、人間精神の本質と共に与えられた三種類の永劫な精神態度と認識形式なのであるから、例えば一つのものが他のものに代って位置を占めたり、他のものの代理をつとめたりすることは出来ない。三つのものは、斉しく神話的な物の考え方から分化して来た、平行して同時に存在し得べき、類型である。この三つの完全に異った動機、認識精神のこの三つの完全に異った群別と作用、この三つの異った目標、この三つの異った人格の類型、この三つの異った社会群――この三つのものの上に、宗教形而上学実証科学とが成り立つのに外ならない*。この三つの精神的勢力の歴史運動の形態も亦、本質的に相異っている、とそうシェーラーは云っている**。
* 三種類の知識を次のようにも呼ぶことが出来る、――「救済の知識」(例えば釈尊の宗教)、「教養の知識」(例えば孔子やソクラテスの形而上学)、「労作(労働)の知識」(例えば科学者の科学)。
** M. Scheler, ※(ダイエレシス付きU)ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens. (Moralia,[#「Moralia,」は底本では「Moralia」] S. 31―33)
 知識はかくて、その凡ゆる規定に於て、その指導者の類型に於て、その淵源と方法とに於て、その運動の仕方に於て、その社会的な群集の仕方と社会に於ける機能に於て、そして最後に、階級・身分・職業に於て、凡そ三つに分類されねばならない*。宗教に於ける指導者は僧侶、形而上学では賢者、科学では研究家。そして宗教は教会・宗派・信徒団に於て、形而上学は古代的な意味での学校に於て、科学は知識の共和国・アカデミーに於て、初めて存在することが出来る、と考えられる。科学の研究家はそして、哲人(賢者)のようには、全体的な・終結した・体系を与えようとは欲しない、彼はただ、科学という無限過程を、どこかの一点で進行せしめれば好い**。科学は、その特定の内容が普遍史的発展の或る特定の一点に於てのみ通達され得るように、そういうように、「累積的な前進」をなす。形而上学は――そして宗教も亦――然るに、之に反して、夫々の条件に於て、一応の完成をもつことが出来る、諸々の形而上学は、一定数の諸類型のどれかに帰属することによって、一応の完備を持つことが出来る、それが「範疇的構造」を以て働くことが出来る所以である***。そうシェーラーは考える。
* M. Scheler, Probleme einer Soziologie des Wissens. (Versuch zu einer Soziologie des Wissens, S. 55.) ――この論文は一つの重大な増補と共に、後に、Die Wissensformen und die Gesellschaft に載っている。
** ※(ダイエレシス付きU)ber d. positiv. G―Phil. d. W., S. 35.
*** Probleme einer S. d. W., S. 24 ff.
 コントの根本的な誤謬は、シェーラーに依れば、事実上分化の過程に過ぎないものを、彼が時間上の発展段階と思い誤った処に横たわるということに帰着する。
 さて吾々は、以上述べたシェーラーの批評を批評することによって、吾々の理論を始めよう。
 まず第一に注意せねばならぬ点は、シェーラーが実証主義に対して与える殆んど予言者的な否定である。三種の知識が時間上の段階をなすのでなくて同一物からの――同時存在的な――分化にすぎないという主張は、一応、実証主義的な偏極に対する公平な或は寧ろ折衷的な訂正であるかのようにも見えるが*、実は、之によって実証主義に対して宗教――及び形而上学――を保護しようとする処の、云わば護教学的な形而上学主義が云い表わされているのを見逃してはならない**。実証科学は生物的な人間の目的に仕えるための知識にしか過ぎない。宗教と形而上学とこそ homo sapiens に固有な貴重な「専売」物なのである。彼はそう云って権威あるものの如く説く。中にも彼によって考え出された処の最高の知識としての宗教の生れながらの随喜者 homo religiosus は、ネアンデルタール人にもクロマニヨン人にも到底見出されなかったであろうことは確実である。彼は「科学主義者」コントに対する「信仰主義者」――僧侶主義者――として、自己を高めようと欲する(それ故にこそシェーラーによって初めて真の知識社会学は開始されなければならなかったわけである)。併しこの最高の知識としての宗教なるものが、第一に吾々へ批評の糸口を与えているのである**。
* シェーラーによれば現代は正に、此等三種の「精神の一面的な方向」を「平均し」「補欠」すべき時である。処が併し、そのすぐ後で、「総ての知識は終局に於て神性からの、神性に就いての、――従って神性への、神性のための、知識である。」(Scheler, Formen des Wissens und die Bildung, S. 38 f.)
** シェーラーはマックス・ヴェーバーに反対して、形而上学を単なる世界観から区別する。というのは形而上学は単なる世界観ではなくて Setzende Weltanschauung でなければならない、と云うのである。即ち彼は(自分の)形而上学的体系に対して、世界観説的な乃至は歴史学派的な懐疑をすら有たない(“Weltanschauungslehre, Soziologie und Weltanschauungssetzung” 参照)。
 宗教はただ或る特殊の宗教思想系統にぞくする人々にとってのみ一種の知識であることが出来る。他の人々にとっては却ってそれは知識――又文化さえ――の内に数えられてはならないとさえ考えられるだろう。それはそうとして、もし仮に宗教が一種の知識であり得るならば、夫は恐らくコントが名づけた通り、神学的なものと呼ぶ外はないだろう。そして神学が独立な――実証科学と対抗出来るような――知識であるためには、即ち神学が一つの真理を無条件的に人々へ説得する機能を有ち得るためには、それはその科学性の上では形而上学以外のものであり得ないことを注意すべきである。シェーラー自身も亦示している通り、宗教と形而上学とは、実証科学に対立しては同じ側に立つ。宗教が知識であるためには、神学が学であるためには、その学問性(科学性・真理性)は――他の点ではどう違おうとも――形而上学と同じでなければならない。尤も、神学とは歴史的に与えられた特殊の体験――信仰という――を解明又は基礎づけ又は擁護する学問なのだから、単なる形而上学とは根本的に別である、と云うかも知れないが、併し形而上学こそ、歴史的に与えられた特殊の体験の、解明・基礎づけ・擁護・ではないか。ただその特殊な体験というのが、必ずしも宗教的な信仰ではないというまでである。而もそれすらが殆んど凡ての場合宗教的ではないだろうか。人々は今日、一切の形而上学神学を見出すことが出来はしないか*。――そしてシェーラー自身がその好い一例に外ならなかった。
* コントの所謂三段階説は、実は二段階説なのである。何故なら、人間の知識は神学的な段階から実証的な段階に移行するというのがコントの根本的な思想なのであって、ただ之が一遍で移行出来ないために、中間の過渡期として、形而上学的な段階が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されるに過ぎないから。――それ故コントにとっても、形而上学とは、実証科学に成り切れない内の神学的残滓を意味するわけである。こう考えて見ても、形而上学の内に神学が見出されるのは当然である。
 吾々はかくて宗教を知識の内から追放する。宗教は――それが原始的な知識でない限り――知識社会学にはぞくさない。――残る問題は、形而上学(又は哲学)と科学(実証科学が之を代表する)との関係に横たわる。

 形而上学(シェーラーは茲で優越なる意味での哲学一般を意味せしめる)と実証科学、哲学と科学、は無論絶対的には一つではない。両者はたしかに一応の区別を有つ。前者が体系の内に安定し、後者が累積的進歩の道をたえず追っているという、シェーラーの指摘は必ずしも誤ってはいない。実際例えばプラトンの哲学は古典として今日に至るまでたえず人々を――夫に同情する人々をもそれに反対する人々をも――支配している、哲学に於て単なる「死せる犬」は存在しない。自分自身で哲学的に物を考える時、このことは何人にとっても証明されることだろう。而も之は、例えばガリレイの自然科学が古典として有っているのとは非常に異った意味を有っていることも確かである。――けれども両者のこの相違、この区別は絶対的なのではない、二つのものの間には動的な媒介がないのではない。シェーラーは処が、この区別を、人類と共に永遠な、本質的な、動かすべからざる、絶対的なものと考える。――或る個処ではカントの範疇ですら単にヨーロッパ人の思惟の範疇表に過ぎないと云っているこの自由主義者も、事一旦、形而上学に及べば、忽ちにして一種の絶対主義者となって現われるということを、人々は注意すべきである。
 哲学も実証科学も、それが科学性に基いた学問であるからには、之を取り行なう人は、かれが賢者であると聖者であるとに関わることなく、まず第一に何よりも研究家でなければならない筈である。哲学も科学も、不断に研究を進められねばならず、従ってその研究は累積して進歩して行かねばならない筈である。もし進歩展開の余地を持たないような完成した体系が存在するならば、それは事実上学問としてではなくて予言としてでもあろうか。ただこの進歩の仕方が哲学と科学とでは重大な相違を――但し絶対的な相違ではない――示すことが出来ると云うまでである。前者に於ては進歩は云わば螺旋状をなし、後者にあっては之に反して云わば transitive(強いて云えば直線的)に行われる。前者に於ては、歴史的展開の一定の意味での弁証法的形態が、比較的顕著であり、後者にあっては之に反して、その弁証法的形態は低度である、というに過ぎない。例えば哲学上のプラトン主義は常に何かの形をとって思想の歴史の上で回帰して来る。だがプラトン自身の体系がそのままの形を以て回帰して来ることは出来ない。哲学が螺旋状をなして進歩する所以である。又例えば観念論は螺旋の反対の極に立つ唯物論と対立する。二つは相互に否定し合う。哲学の進歩が全体として、図式的に、優れて弁証法的である所以である*。――実証科学は然るに必ずしもそうではない、そこでは同一主義の学説が回帰するとは考えられず、又は事実回帰すると考えられるような場合があっても、その回帰は哲学に於てのような重大さを持つとは思われない。実証科学の進歩が云わば直線的な所以である。その限り実証科学に於ては、対立と否定とがそれ程著しい役割を果さない、何となれば対立や否定は常に前のものの正統的発展――修正――の外形の下にも行われることが出来るからである。哲学が優れて革命的であるに反して、実証科学がそれ程に革命的――弁証法的――でない所以である。寧ろ之は改良主義的な外貌を有つことも出来るだろう**。――この区別は決して軽視すべきではない。
* 哲学の著しい政治的性格・党派性は、この螺旋の切線のヴェクトルを考えて見ることによって、画に書くことが出来る。例えば螺旋内の観念論という一点に於ける切線のヴェクトルは、唯物論という一点に於ける切線のヴェクトルと方向が正反対であるが、前者のヴェクトルをそのまま後者のヴェクトルの上にまで平行移動させれば、前者は茲に反動的な役割を持って来る。――この平行移動を時代錯誤という。
** この点に就いては曾て分析を試みた(拙著『イデオロギーの論理学』一五三頁【本巻七二ページ】以下)。
 併しこの区別、螺旋型と直線型、革命型と改良型、この区別は、決して絶対的なのではない。何故なら、直線型の曲線も任意の適当な部分を限界すれば、その内では螺旋型をなし、改良型と見えた全体も之を任意の適当な部分に区分してその部分内で見る限り、革命型をもつことが出来る、というのが、実証科学の歴史的発展の実際なのであるから。両者は同じく弁証法的に展開する。ただ夫々異った条件の下に弁証法的であるに過ぎない。人々はかくて両者の区別を――その弁証性の区別をも――絶対的にではなく、正に弁証法的に理解すべきである。――この時哲学と実証科学とは初めて有機的に媒介されることが出来る(単なる区別はまだ少しも媒介ではない)。実証科学をそれだけで全体だと見るならば、それは非弁証法的とも考えられる――数学や物理学はその意味で形式論理のものだと考えられる。かくて実証科学は弁証法的な哲学から絶対的に区別されるだろう。之に反して之をそれを含む全体に於て見るならば、実証科学は哲学と同じく弁証法的でなければならぬのである。実証科学の非弁証性は哲学の弁証性の、弁証法的な意味に於ける部分となる。――哲学と科学とはこのような特定な意味に於て弁証法的統一を有っている(自然弁証法が問題になるのは取りも直さずこの点に於てである)。
 さてこう考えると、今云って来たような哲学が、恰も形而上学の反対物であることを人々は気付くだろう。何となればこの哲学の性格は弁証法にあったのだから。そこで、吾々は前に宗教・神学を問題外に追放したが、今度は形而上学をも追放しなければならなくなる。形而上学とは、もはや一つの独立な知識の種類ではなくて、弁証法的な知識に対する不完全な知識に過ぎなくなったのだから。今や、形而上学は、もはやシェーラーに於てのように哲学を代表することは出来ない、それは哲学の新しい代表者たる弁証法の反対者として、積極的に追放されねばならなくなった。かくて純粋に単なる哲学――もはや形而上学ではない処の――と実証科学とが残される。その両者が処で、特定な意味に於て弁証法的統一をなしたのであった。――哲学と実証科学とを絶対的に区別することが如何に無意味であるかを知るためには、人々は一寸、社会科学のABCをのぞいて見れば充分だろう。一体社会科学は哲学ではなくて科学であるのか、又は科学ではなくて哲学であるのか、そして社会科学のどこまでが科学であり何処からが哲学であるのか。
 シェーラーの絶対的な三種の知識の区別は、このようにして止揚される。

 コント流の知識三段階説に対するシェーラーの批判は無力に終ったかのようである。啓蒙期フランスの思想の一変容である実証的精神(esprit)は、人間的理性の過信・歴史的不合理性の否定・であり、之に反してドイツ的「精神」(Geist)は歴史の尊重を意味する、と普通考えられないでもないに拘らず、茲では関係が逆になって現われる。知識が真理へ接近する過程に於て歴史が受け持つ役割は、少くともコントに於ては実証科学への推移として受け入れられているが、之に反してシェーラーに於ては却って斥けられる。真理に対して歴史が持つ決定力、歴史的原理は、シェーラーにあっては問題となることが出来ない。コントの思想自身がシェーラーによれば、歴史的発展段階に相応するものでなくて、却って云わば何等か地理的分布に関わるもののようである。実証科学を知識の最高形態と考える実証主義は、彼によれば偏狭な「ヨーロッパ主義」に外ならないのだそうだからである。ここでは彼は至極コスモポリタンらしく物語る。ヨーロッパ人の知識のみが知識の標準にはならない、と。併しこのコスモポリタンはただ、インターナショナルであり得るものは科学だけで、哲学は国民的民族的でなければならない、という主張をするためにのみコスモポリタンであらねばならなかったのである。コスモポリタニズムは実はインターナショナリズムの否定であり却って民族主義の弁護なのである。コスモポリタニズムとインターナショナリズムとのこの可なり苦しい対立の矛盾は、コントの実証主義が何かの意味で――コント自身の認める通り――階級性(この歴史的原理)を持つことを否定しようとするためにこそ発生する。コントの実証主義は一つの階級――コントに於ける歴史のこの実践的原動力――のものではなくて正にヨーロッパ人のものである、とそう云わねばならない理由が何処かに在ったからである。――歴史性・階級性を無視するために、特に地理性・国民性を持ち出すことは、今日では最もあり振れたファシズムのイデオロギー公式である*。
* K. A. Wittfogel, Geopolitik, geographischer Materialismus und Marxismus. (Unter dem Banner des Marxismus. ※(ローマ数字3、1-13-23)) を参照せよ。
 実証主義が「ヨーロッパ主義」であるかどうかは知らないが、少くともコント自身によればそれは何よりも先に「プロレタリア」の科学であった――但しこのプロレタリアは条件付きではあったが。実証主義はコントによって或る一つの階級のイデオロギーとして自覚されることによって初めて提出されたのが事実である。之をヨーロッパ主義として性格づけることは、之が階級理論に立脚していることを隠蔽することである。それは隠蔽である、何故なら、シェーラー自身或る個所で、階級理論に立つかのマルクス主義が結局実証主義に外ならぬと主張しているのだから。
 この隠蔽、階級理論の無視、は何故必要であったか。之は何もシェーラー一人にとって必要なことではない。――シェーラーはコント程に正直でなかったのか。併しヨーロッパの、そして(コスモポリタンの意志に反して)、それは又同時に国際的世界の、資本主義はその間に八十年の発展を遂げている。コントの同時代者マルクスが肯定の内に否定を見た処のものに、シェーラーは肯定の内に否定を感ぜざるを得なかっただろう。この感覚が彼をして特にコントの実証主義を敵手として選ばせるに充分だっただろう。併しシェーラーの――自覚すると否とに拘らず――真の敵はコントに在るのではない、コントは彼にとって単に味方からの一人の古い裏切者にしか過ぎない。サン・シモンに於けるコントのかの相弟子マルクスこそ正にシェーラーを脅かしている当のものである。否問題は、此かれの個人に対する敵対にあるのではない、その個人が代表する学派――例えば現象学派に対するマルクス主義――にあるのでもない。問題はそういう学派が生じ得た歴史的地盤にあるのである。そしてそのような歴史的地盤は無論単に学派を産むだけのものではない、それは一切のものを産む。この地盤が階級となって現われるのである。現代に於ける一切の複雑な階級乃至身分の歴史的乃至同時代的交錯は、愈々益々ただ二個の階級性格に帰着しつつあるだろう。夫々の階級は各々みずからを全体社会だと考え又はあろうと欲する。部分は全体を代表する、それは単なる部分ではなくて動的な・実践的な・弁証法的な対立した部分である。――階級はかかる階級対立としてしかない。そこで、シェーラーの階級はそのまま全社会であるかのように見える。従ってそれはヨーロッパそのものであることが出来そうである(茲で彼自身は却ってヨーロッパ主義者であることを注意せよ)。それ故シェーラーの階級の没落は即ちヨーロッパ自身の没落でなければならない、「ヨーロッパ主義」はそれ故にこそ没落せねばならなかった。
 一階級の没落の無視を合理化するには併しながら、合理化する主体の個性的・性格的条件に制約されることが必要である。そこで、「労働の知識」である実証科学は「教養の知識」である形而上学に、そしてこの形而上学は又「救済の知識」である宗教に、奉仕しなければならない(前を見よ)。労働は教養に、教養は信仰に、奉仕せねばならぬ。労働者は市民に、市民は僧侶に、奉仕せねばならぬ。それに対応して物質的な歴史社会人格的個人に、人格的個人は絶対的神に、その概念の高貴の度に於て、カトリック風な教職段階をなして下属する。神に於ては一切のものは永遠の相の下にあるであろう、かの歴史的原理の如きは悪魔である。真理はこの悪魔に渡されてはならない。だから真理は歴史的原理によって支配されてはならないのである。

 シェーラーの所謂「知識社会学」――彼によって初めて本当のものとなったという――を吾々は今や、知識社会学の中心的な課題から特色づけることが出来る*。
* シェーラーは知識社会学の問題として次のようなものを列挙する。一、科学が如何にして「文化的精髄を持ち」得るか。二、科学に於て何が文化的精髄を持ち、之に反して何がそのような特殊の表示形態から独立して「真なるもの」であるか。三、如何なる科学が共働作用を許すか、インターナショナルであり得るか、そしてどのようなものがそうでないか。四、如何なる科学とその科学の如何なる部分が民族文化が亡びても残るか(Scheler, ※(ダイエレシス付きU)ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens.)。――併し問題は羅列されることを許さない、必ず中心的な問題がある筈である。
 知識の社会学に於て、吾々は二つの概念の結び付きを見る。知識と社会。この二つが結び付くには併し二つの概念は夫々特有な特別な規定を与えられて来なければならない。まず知識の方は単なる知識としてではなくて一つの社会的存在としての知識となる。処が社会は又単なる社会ではなくて歴史社会でなければならない。そこで知識は、社会に於て歴史的に発展すべきものとして、問題とならざるを得ない。それは歴史的に変化する一つの社会的存在である。だが知識はそれが知識であるからには単に変化するだけではなくして、歴史の内で進歩乃至退歩するものでなければならぬ。と云うのは、知識は進歩乃至退歩によって真理への接近又は虚偽への偏向を意味しなければならない。そこで知識の社会学に於ては知識は、真理への歴史的な接近、乃至虚偽への歴史的な偏向、をなす一つの社会的存在として規定されねばならない。之が知識社会学の一般的な対象――問題――となる。シェーラーの知識社会学は処でどのような問題を解いたか。
 彼に於ては、知識は真理乃至虚偽――論理的価値――から全く引き離されて初めて問題となることが出来る。それは取りも直さず知識が充分にその歴史性に於て捉えられなかったがためである。論理は元来――之こそ知識の性格であるが――歴史性に於て、歴史的原理を持つものとして捉えられていなかったのだから、この論理から歴史的原理を天引するということすらが彼の問題となることが出来ない。それ故論理は彼の知識社会学の興味の対象となることは出来ない、論理は当然に知識社会学の問題の圏外に逸して了わなければならないのである。知識社会学論理学と全く無関係であり得るかのように考えられるのは至極当然なこととなる*。従って又同時に、歴史性の原理にぞくすべき階級は、高々単なる知識と関係し得るだけであって論理とは少しも関係すべきでないと考えられるのも至極尤もなこととなる。それ故、知識に関するイデオロギーの理論は――イデオロギーの大事な一特色は夫の階級性にあるのであるが――、知識の真偽内容とは少しの交渉も持たされない、知識のイデオロギー論は論理学から完全に引き離される義務があるわけである**。
* 「ただ精神的労作の名声と通用だけがみずからの社会学を持つ、或る労作の意味内容と価値内容は社会学を持つことが出来ない。」(M. Scheler, Weltanschauungslehre, Soziologie und Weltanschauungssetzung.)
** 彼によれば、階級的科学という問題は、論理の問題ではなくして、単に「社会学的な偶像論」にぞくすべきものでしかない(Die Wissensformen und die Gesellschaft)。――併しフランシス・ベーコン自身はその論理学(Novum Organum)の劈頭に、かの有名な「偶像論」を掲げたのであった。
 シェーラーはそして、真の哲学と科学とを妨害する運動の一つに就いて云っている、「プロレタリアのマルクス主義的階級イデオロギーが、誤って、ブルジョア科学に対するプロレタリア科学というような何か特殊な科学ででもあるかのようなものにまで引き上げられている、まるで科学が(イデオロギーから区別されたる科学が)或る階級の有つ機能ででもあり得るかのように」と(M. Scheler, Formen des Wissens und Bildung, S. 10)。――イデオロギーは論理と無関係である、だからプロレタリア科学などは存在し得ない、と云うのである。
 だが論理と完全に無関係に止まっていることの出来るような知識のイデオロギー論は、元来、充分な意味でのイデオロギーの理論であることは出来ない――吾々は夫をすでに第二章で述べた。知識のイデオロギー論は、イデオロギーの論理学を含まずには成り立たない。何故なら、イデオロギーという概念それ自身がすでに、それが知識に関する限り、真理虚偽との関係を離れては無意味だったからである。蓋し知識としてのイデオロギーの特色は、一定の理由で、真理だと思われているものが実は虚偽であったり、又は虚偽だと云われるものが却って実は真理であったりするような、歴史的弁証法的なものなのだから。

 マックス・シェーラーは彼の知識社会学から、歴史的原理を完全に追放する。かくて階級性は無論のこと追放される。このことは併し、同時に、その知識社会学から論理の問題を完全に閉め出すことを結果する。真理虚偽の価値関係は閉め出される。
 一般に知識社会学に於ては、歴史の否定は同時に論理の否定を意味するだろう、それを吾々は今シェーラーに於て代表的に見たのである。

 問題が知識の問題であるだけに、知識社会学が具体的になればなるだけ、即ち歴史的原理を顧慮に入れるだけそれだけ、論理との関係が愈々益々問題となって来なければならない。この極めて判り切った今までの結論は併し、必ずしも充分の注意を払われてはいなかったようである。人々は抽象的に、歴史と論理とを相互に相遠ざかる二つの方向として対立せしめて片づけるのを常とする。処が恰も知識社会学にとっては、この両つのものの切り合う一点にこそ、問題の中核が横たわっているのであった。この問題の中核がそして、知識の「イデオロギー論」であった。吾々はこの中核に従って、次に、他の人々の「知識社会学」を性格づけて行くべき順序である。
 シェーラーの形而上学的(一)な知識社会学は、主として実証主義的(二)な夫に対立した。吾々は後に歴史主義的(三)な知識社会学を見ようと思う。この歴史主義的なものに対立しそして実証主義的なものからも又形而上学的なものからもみずからを区別する処の、自然主義的(四)な知識社会学を吾々は持っている。ヴィルフレド・パレートのが夫である*。
* V. Pareto, Trattato di sociologia generale に之を見る事が出来るという。私は主に H. O. Ziegler の紹介を通じて複写する外はなかった(H. O. Ziegler, Ideologienlehre, Archiv f. Sozialw. u. Sozialp., Bd. 59. 1927)。なお G. H. Bousquet, Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)cis de sociologie d'apr※(アキュートアクセント付きE小文字)s V. Pareto を見よ。
 一般に歴史は、パレートにとっては、何の発展を有つものでもない、コント風の知識の発展段階などはあり得ない。在るものはただ歴史に於ける――平衡の破壊とその回復とを通じての――「永劫の回帰」でしかなく、歴史はそのような循環運動に外ならぬ。今この歴史的回帰に於て常に変らない根本的な基体こそは人間性なのであり、歴史というようなものは却ってこの人間的存在からの一個の切り抜きに過ぎないものである。――人間の存在の基礎はそして、欲情と利害――そのような生物学的・本能的・衝動――でなければならない、そうパレートは考える。このニーチェ的な世界観乃至人間学はであるから、結局、歴史の原理的な支配を徹底的に拒絶することを意味し、従ってその限り、シェーラーと可なり近いものを示しているかのようである*。ただシェーラーに於ては一方歴史は、永劫の回帰としてすら問題となることが出来ず、又他方、生物学的本能的な諸力も、結局精神的な諸力によって統制されているという点にだけ、両者の間の相違が在るというに過ぎないように見える(第四章を見よ)。
* 歴史的原理の否定は、取りも直さず、歴史的必然性の何等かの意味での否定である。そこでは歴史的必然性を攪き乱すものとしての偉人――偉人は必ずしも歴史的必然性の攪拌者であるとは限らないのだが――に歴史的自由が許される。ニーチェの超人はかくて山を下りローマの街へ進軍する。パレートの知識社会学がファシズムのイデオロギーへ一貫していることは、注意すべきだ。パレートの弟子ムッソリーニは、晩年のパレートをその腹心の一人に数えたのである。
 だがパレートの知識社会学にあっては、歴史的原理の代りに少くとも或る意味での実践的原理が支配している、ということは見逃してはならない。元来、歴史的原理が充分に歴史的原理としての資格を保つためには、それが同時に充分な資格に於て実践的原理でもなければならない、歴史的原理と実践的原理とは本来離れてはあり得ない――後を見よ。処で今茲で、歴史的原理の代りに実践的な原理が、従ってまだ充分な資格に於てではないが兎に角或る意味での実践的原理が、注目されている、というのである。何故なら、彼の社会学は一般に(Michels 等によれば)非論理的な行動の自然史だと考えられることが出来るのであるが、この非論理的な行動の構造を特に取り出して分析するならば、それが取りも直さず彼の知識社会学――イデオロギー論――となるのだからである。パレートの知識社会学が或る意味に於て――但し行動を問題とするという意味に於てのみ――ともかく実践的原理を有つ所以である。之は無論シェーラーなどには欠けている一つの原理であった。
 恰も前に、知識の歴史的規定が限定されて行けば行く程、同時に知識の論理的規定が愈々限定されて行く、と云ったことに相応して、今、知識の実践的規定が同時に知識の論理的規定を意味するだろうことは、そうありそうなことである。実際、その関係は彼に於て、次のような形で現われる。
(A)を人間の内部的な心理状態とする、之は歴史の一切の変化を通じて不変な人間固有の常数である。之は云うまでもなく論理的ではない処の、非論理的な残留物である。
(B)は(A)に基く処の、外部的な行動の過程であるとする。
(C)をそして、かかる(B)の、言葉=論理による是認理由づけ権利づけであるとしよう。
 そうすれば、前の所謂、非論理的行動は必ずA→B→C(又は結局同じことに帰着するがA→C)という構造を、それの単位とするものである。と云うのは、人々は先ず第一に一定の意識(A)を持つことによって、第二に之に基いて行為し(B)、自己のこの行為を第三に合理化・正当化す(C)、という順序によって、その行動――之が非論理的なのである――を終結することが出来る*。さてこの(C)が恰もイデオロギーに相当する処のものである、蓋し(C)は(B)乃至(A)の云わば上層建築に相当するのであるから。社会生活に於てはたとい絶対的なもの・真なるものと考えられるものでも、実は常に、様々な知識内容をば情意に基いた或る一つの連関にまで結合する処の、人間の本能の結果の外ではない。それはこの意識内容に対して、単に後から遅れ走せに、合理的な整合と正当性との外観を与えるための、導来物・合理的被覆でしかない、と考えられる。之がイデオロギーに相当する理由であった**。で、そうすれば茲では、真理の外観を有つ処の、併し必ずしも真理ではないものとしての、観念体系=イデオロギーが問題になっている。之は単に特殊な立場に対応する特定の観念体系だと云うだけではなくて、そうであるが故に絶対的には夫が真理性を有ち得ないものだ、ということが示されている。A→B→Cの構造の分析によって、真理価値の問題が――イデオロギー論として――一応解明されることとなる。A→B→Cは今や論理学的構造をも意味して来るわけである。であるからパレートは、非論理的行動を分析する点に於て、実は当然のことではあるが、論理の構造を問題としていたということを注意しよう。それは、非論理的行動の分析という、とにかく実践的な原理を用いた結果に外ならなかった。かくて実践的原理の適用は論理の問題を惹き起こす。このような事情はシェーラーなどにはなかった。
* 吾々が容易に連想するものは、リボーの『感情の論理』である。之は恐らく一般に、フランスの Moralistes 達の問題の一つであったと思われる。
** この合理的被覆を施すためには、必ず言葉――それが又論理であるが――を必要とする。それ故言葉は元来イデオロギーの性格を有っている。言葉は実際、この意味で言葉通りに修辞的であると云うことが出来る。修辞のイデオロギー性を明らかにしたのは、人間学の始めと称せられるアリストテレスの De Rhetorica であった。そこでは単なる論理的三段論法の代りに、政治的な修辞的三段論法とも云うべき Enthymema が分析される。
 だがこのように規定されたイデオロギーの概念はまだ甚だしく不充分であることを見ねばならない。観念の就中階級性格を有つものが優れた意味でのイデオロギーでなくてはならない、イデオロギーは政治――この歴史的原理――に関する。処でパレートにあっては、イデオロギーは単に主観的な政策であって、歴史的な政治的性格を有つ理由はまだ何処にもなかった。イデオロギーの論理的性質は、であるから、至極表面的なものに止まらざるを得なかったことは当然である。実際パレートは、どのようなイデオロギーがより虚偽であり又はより真理であるかを吾々に説明しない。どのイデオロギーも単に一個のイデオロギーとして、斉しく真理の仮面をかぶった仮象に過ぎないことを吾々は彼から聞くに過ぎなかった。イデオロギーの優劣を組織的に決定し得るような政治的標尺は問題となり得なかったからである。論理の問題を取り扱い得たように見えたパレートの知識社会学は、ただ最も表面的な論理の問題を取り上げたに過ぎなかった。
 この不充分さは併しながら、初めから寧ろ当然だったのである。歴史的原理にまで多少とも近づくかのように吾々には見えた彼の実践の概念は、彼自身にとっては実は、歴史的原理の積極的な反対物でしかなかった。実践とは単なる――行動主義的な――行為にしか過ぎず、政治――この歴史的なるもの――などでは到底あり得なかった。歴史は永劫の非歴史的な回帰である、歴史は歴史ではない。歴史的原理のこの否定が、論理の問題を皮相的なものに終らせたのであった。――実践概念は歴史概念と結び付かない限り、論理の問題を解くことが出来ない、之がパレートに於て得た吾々の結果である。
 形而上学的(シェーラー)及び自然主義的(パレート)知識社会学に反して、実証主義的知識社会学は元来、歴史的原理の尊重から出発している。コントの知識社会学が歴史哲学の否定でもなく又否定的な歴史哲学でもなくて、正に一つの肯定的な歴史哲学であったことを、人々は重ねて思い出さなければならない。処が、この歴史哲学としての実証主義的社会学がそれ自身の矛盾のために、――そしてこの矛盾は当時のフランスの社会状勢の単なる反映に外ならないのであるが、――もしみずからに特定の階級性を判然と許さないならば、必然に歴史的原理の放擲へ、歴史哲学の断念へ、辿りつかざるを得なかった、その経緯を吾々は已に見た。シェーラーやパレートの知識社会学はとりも直さずこのような事情の表われの他の一つだったのである。――だがこの推移の過程は実証主義の今云った反対者にばかり見出されるのではない。寧ろ今日の実証主義者の陣営に於てこそ、この推移の結果は着目に値いする。
 人間の知識はコントによれば、神学的段階から実証的段階に向って、発展し又進歩する。この段階的発展は単なる無段階的な発展とは異って、このような特定方向への、知識の特定の理想状態へ向っての、発展形態を云い表わすためのものである。恐らく知識が歴史的に(原始状態から文化状態へ)推移・展開発展するということを認めない人はいないだろう、併し知識がそのように単に発展すると考えることと、知識がその上で更に特定の理想状態に向って発展・進歩しつつあると考えることとは同じではない。そしてただ特定の理想状態に向っての発展を云い表わすためにのみ、あのような段階説が必要なのである。であるから今、単なる発展説と段階的発展説とは、歴史的原理の承認の度合に於て、重大な区別を与えられねばならない。処でコントは特にその内の一方なのであった、彼は段階説を採ることによって初めて、夫々の段階を一つの政治的な社会層――階級――に対応させることも出来たのである。夫々の発展段階に在る思想は夫々一定の政治的性格――この特有な歴史的原理――を与えられる。知識の歴史の所謂三段階説は実は一種のイデオロギー論なのであった*。
* 知識はコントに於ては歴史的存在の代表者である。それ故知識の歴史的三段階は直ちに歴史的存在全体の夫である。この観念主義的なる歴史観が、哲学――思想・観念――を歴史の政治的変革の原理と考えるのは当然である――前を見よ(この哲人政治的思想がやがて人道教の提唱となったということに何の不思議もない)。従って彼のイデオロギー論は決して歴史哲学(社会学)の一部分であるのではなく、正にそれの基礎をなす処のものでなければならない。彼の知識社会学はこのような種類の一種のイデオロギー論であった。
 コントの知識社会学に於ける歴史的原理の二つの契機、イデオロギー論(階級観)と段階説とは併し、新しい実証主義的知識社会学者達によって問題の範囲外に追放された。まずそこにはデュルケムがある*。
* 知識社会学に関するデュルケムの優れた思想は、原始民族社会に於ける宗教の土俗学的な材料の整理から惹き出される(E. Durkheim, Les formes ※(アキュートアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字)mentaires de la vie religieuse を見よ)。この点での実証的精神はコントの歴史哲学自身にはなかった。
 コントに於ける、知識の神学的から実証的への歴史的発展――そこにこそかの段階があったのである――は、デュルケムに於ては、宗教からの認識の社会的発生として、再生される。二つの知識形態の段階上の推移は、知識一般のもつ発生条件の問題にまで変更される。従って、そこではもはや知識の歴史的段階などは問題となる余地はないだろう。尤も、原始民族の知識と文化民族の知識との間にはたしかに或る意味での段階的な隔りはなければならぬであろう、吾々の思惟の仕方と原始民族のそれとは根本的に別だということこそはデュルケム自身が証明する処の当のものであるのだから。だがそれにも拘らず、吾々文化民族の思惟の仕方一般を明らかにするためにこそ、抑々原始民族――但し現存の原始民族――の思惟の仕方が、方法論上、必要であったということを忘れてはならない。と云うのは、社会学の方法は一般に、「歴史的方法」ではなくして「比較的方法」でなければならない、と考えられる*。そうすればそこではすでに、今云った――文化民族の知識内での――段階は平面化され、段階性を失って了っているではないか。この段階を平面化すること、之は特定の一定の方向に向って進歩するものとしての歴史の原理を、それだけ陰影の側に回すことを意味する、歴史的原理はそれだけ稀釈される、歴史とは今や単なる――非段階的な――発展でしかない。歴史的段階自身が平面化されるから、之に相応した夫々の政治的性格――階級性――は云うまでもなく完全に問題外に無言の内に押しやられる。コントに見た、かのイデオロギー論は回避される、階級性が逃避されたからである。――誠に之はコントの実証主義の正統的な継承でなければならない、何となれば実証主義が充分に歴史哲学であろうとする限り、それは結局実証主義ではあり得ないだろうからである。
* 「社会現象を、夫がぞくしている時代的な系列から引き離すことが必要である」(Durkheim, Les r※(アキュートアクセント付きE小文字)gles de la m※(アキュートアクセント付きE小文字)thode sociologique, p. 154)。「同時的共変法」は「社会学的研究の優れたる道具である」(p. 162)。
 知識の歴史的規定という知識社会学的問題――イデオロギー論が之を代表する――からの逃避は併しながら、之に代わるべき新しい知識社会学を積極的に開拓して見せることによって、至極目立たないように行なわれることが出来る。デュルケムの知識社会学はかくて、社会学的認識論という形を取らねばならない。
 カントの先験論的――論理学的――認識論は今や実証主義的――社会学的――認識論となる。範疇は先験的に演繹される代りに社会学的に実証される。元来、デュルケムによれば宗教は形而上学的な神学者や自然主義的な宗教学者達の考える処とは異って、社会的に発生した根本的な社会現象でなければならないのであるが*、認識は処で恰もこのような宗教意識によって限定され、そうすることによって初めて認識の形態を取ることが出来る、ということが証明される。で論理の範疇は全く、宗教的社会生活の現実的な諸関係から導き出されたものに外ならない。人間的思惟の内部的な構造は人間の実際的な社会生活――それが原始的には宗教的なのであるが――によって組み立てられ、そこから人間的思惟の発展が始まるのである、と説かれる。空間や時間も、夫々「社会的空間」と「社会的時間」とに基くのだ、というのである。
* デュルケムはその社会学主義から云って、宗教が超社会的な起源を有つものではないことを、宗教こそが社会的所産であることを、証明しようと企てる(Les formes ※(アキュートアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字)mentaires de la vie religieuse)。恐らく彼は之によって、社会が例えば経済的(又は政治的)に決定されるのではなくて却って宗教的に決定されるものだ、ということを云おうと企てているのではないだろう。処が例えば C. Bougl※(アキュートアクセント付きE小文字) は之を史的唯物論の反証として採用する。実は史的唯物論の準備としてこそ之は利用されるべきだと吾々は考える(引用の階級性の一例)。
 社会はもはや、単に何かの理論や科学を外部から制約するだけではない、それは理論や科学の核心にまで、論理の構成要素(範疇・概念)にまで、突き進む。かくて、論理社会的に説明しつくされるかのようである。――だがこの論理はまだ本来の論理ではなく、この社会はまだ本当の社会ではない。何故か。
 範疇乃至概念は、それ自身に於ては真理でもなく虚偽でもない、形式論理学に於ても真偽は判断まで来て初めて問題となる。範疇や概念自身は論理的に無記であることを一応人々は承認すべきだ。そうすれば範疇乃至概念は、確かに論理の要素であるにも拘らずそれ自身では論理的ではない、蓋し論理は価値に関わる、その価値が真理と虚偽とであった。であるから、範疇が社会的に決定されると云っただけでは、又は、それを基礎にして多少の展開を与えたとしてもそれだけでは、まだ本来の「論理」が「社会」的に決定されるということにはならないわけである。併し、もっと悪いことには、この「社会」すらがまだ社会ではない。なぜなら、社会の実質は歴史にあった筈だが、今は恰もこの歴史が結局、原理としては排斥されていた、優れた歴史的原理としての段階性は不問に付せられていた、からである。――人々は茲でも亦見るべきである、歴史的原理の不足は論理の問題の不足を意味することを。
 単なる論理は真理と虚偽との論理的価値対立にまで、そして単なる社会は歴史的社会階級対立にまで、掘り下げられねばならない。それは論理及び社会という概念から云って已むを得ないことなのである。そうしなければ知識社会学の中核的な課題は掴めないのである。社会学的認識論は半途の知識社会学でしかない*。実際、そのことは、社会学的認識論のイデオロギー論からの逃避となって現われた。
* デュルケムのテーマを広範に展開したものとして少くとも L※(アキュートアクセント付きE小文字)vy Bruhl の名を挙げておくべきである(Les fonctions mentales dans les soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字)s inf※(アキュートアクセント付きE小文字)rieures 及び La mentalit※(アキュートアクセント付きE小文字) primitive 其他を見よ)。
 デュルケムの実証主義的な『社会学的認識論』を継承し、之を或る意味で拡張・補足しようとしたものは、W・イェルザレムの『認識社会学』である。
 デュルケムがカントのアプリオリ主義的な認識論に代わるべきものとして提出した社会学的認識論は、到底論理的アプリオリの説明にはなり得ない、デュルケム自身は之によってアプリオリ主義と経験論との長所を総合したかのように考えていても、アプリオリ主義に対するかかる譲歩は、ただアプリオリ主義の精神を誤解することによってしか行なわれるものではない、とそうイェルザレムは考える。アプリオリ主義にとって問題になるのは範疇の妥当性の問題であってその発生の問題なのではないが、デュルケムがあそこで解いた処は正にこの発生の問題でしかなかった、そうイェルザレムは考える。で、イェルザレムによれば、デュルケム及び其の派の人々の研究に於て、真に独創的にして意味ある部分は寧ろ、認識を理解するためには、認識過程の歴史を学ばねばならぬ、ということを実証的に証明したという点にあったのである。併しすでに吾々も見たように、この点はまだ必ずしも彼等によって徹底されたとは云われない。何故ならデュルケム達が明らかにしたのは、単に認識がその歴史的発展過程に於て見られねばならないということにしかすぎず、その発展過程がどのような特定の方向に向って行なわれるかをまだ必ずしも説明していなかったからである*。之に反して、イェルザレムに於てはこうである。人間の思惟は「社会的凝結」を以て始まる。人間は初め全く、その生活を従って又その精神を、社会によって束縛されたものとして有っていた。そこで、人間生活が群畜生活を抜け出す時初めて、社会的分化によって独立な人格が出来上る時初めて、人間はこの社会的凝結を抜け出て、事実と法則との客観的な認識を有つことが出来るようになるのである**。人間が社会的な束縛から解き放たれることによって初めて人々は理論的に物を考えることを学び、従ってこの時初めて凡そ科学なるものも成り立つことが出来る。このようにして社会的束縛から解き放たれることは併しながら、人間が孤立することを意味するのではない、人間は、個人的な独立を得ることによってこそ、却って初めてコスモポリタンとしての普遍性を持つことが出来る。人間のこの個人主義的な発展傾向は却って彼を普遍的な人間性にまで導くべきである、と考えられる***。であるからイェルザレムによれば、人間の精神の発展は、社会的凝結―個人化―人間性、という三つの段階を踏むことになると云って好いだろう。――処でデュルケム達によっては、このような特定の発展段階は必ずしも明らかにされていなかった。
* W. Jerusalem, Die soziologische Bedingtheit des Denkens und der Denkformen, S. 184―7 (in “Versuch zu einer Soziologie des Wissens”).
** Jerusalem, Soziologie des Erkennens (in “Gedanken und Denker”) S. 149.
*** Die soziologische Bedingtheit......, S. 189.
 デュルケムに於ては一旦陰影の側に回されていた処の、この発展段階の思想が、今や多少その形を変えたにしても尚その精神に従って、再びイェルザレムの内に再生しているように見えることを、人々は注意せねばならぬ(それに、コント風の人間性の概念も亦再び其処に姿を現わした)。コント知識社会学の歴史的原理はかくて、少くともその一部分をイェルザレムによって復原されたかのようである。併し復原は啻にこの点だけに止まらない。
 コントはみずから voir pour pr※(アキュートアクセント付きE小文字)voir をば実証的精神と定義している、彼にあっては真理とは単に見る――理論――ためのものではなくて、正に予見するためのものであり、そして予見は人間が実践するためにこそ必要なのである。真理は実践のための方向線でなければならない。真理のこの実証的概念はそのままイェルザレムに移行するように見える*。真理概念をこのように実証主義的にする時、真理とは主観的相互の普遍的な合致を外にして、なお認識の客観的な規準となることが出来る。真理概念はかくて客観的なものに関して規定されることが出来る。処がこういう意味での客観的真理は、イェルザレムによれば一つの社会的凝結に外ならない、ここでは知識の個人的要素が全く社会的要素に吸収されて了っているだろう。処でこの社会的凝結から次第に解き放されることによって個人化して行くことこそ、人間の知識の発達だったのだから――前を見よ――、真理のこの客観的な概念はやがてその主観的な概念をも産むようになる。カントの「思惟必然性」などは之に他ならない。併しながらこういう主観的な真理概念の危険は、結局世界の客観的存在の否定を結果する処に横たわる、それは一切のものとの一致を感受しようと欲する審美的観念的な人格に適わしい真理概念ででもあろう。真理は併しその麗わしさにではなくて「仕事」の内にこそある筈である、真理は行動のための指針である。――真理概念はかくて、知識社会学が説明し得又説明しなければならない問題となって、イェルザレムの前に現われる**。
* イェルザレムの実証主義的真理概念には、多分の実用主義的・思惟経済主義的・痕跡が潜んでいる。彼の社会学的な見方が生物学的な見方に支配される限り、そうなのである(行動の概念も亦そうである、――後を見よ)。
** Soziologie des Erkennens, S. 150 ff. 参照。
 真理の概念を(行動によって)実証主義的に問題とすることは、デュルケム達の知識社会学がイェルザレムの夫に一歩を譲らねばならない点である。何故なら、イェルザレムは茲でカントに代わって、そして又デュルケムに代わって、論理的アプリオリを問題として提出し得たからである*。先にコント知識社会学の歴史的段階の原理を再生したように見えたイェルザレムは、今度は又コントに於ける真理虚偽論理の問題を、とに角復原したかのように見える。
* 彼は自分の知識社会学の課題を「人間理性の社会学的批判」と呼んでいる。之は云うまでもなくカントの『純粋理性の批判』に比較するためである。
 デュルケム達によって回避されたコントの歴史的段階の理論と真理概念の問題とは、イェルザレムの認識社会学に於て、再び受け継がれたかのように見えた。併し断定を急いではならぬ。

 コントに於ける人間精神の三つの発展段階は、単に直接に人間一般の精神の夫であるというばかりではなく、同時に夫々が社会的な階級に相応する処のものであった。夫は全く政治的な意味によって規定された三つの段階であった。人間精神の発展が政治的乃至政治学的に把握されていたのであった。処がイェルザレムに於ける人間精神のかの歴史的発展は、云うまでもなく少しも政治学的に規定されてなどはいない、人間が単に社会的な凝結から解き放たれて次第に個人化して行くという関係には、何の政治も在り得ない。そこには全く――政治学から区別された処の――社会学的なものしか存在しない。社会的存在からこのようにして政治学的なるものを引き去って社会学的なものだけ残すということは、形式社会学が物語っていた通り、それだけ歴史的原理を引き去るということを意味する(一般史は政治が中心となって記述されるという事実を注意せよ)。そしてそれは実はそれだけ社会的なもの――社会的なものではない――を引き去るということを意味する。このような社会学は、他の点でどのように実践的であるように見えても、全体に於て根本的に非実践的であらざるを得ない筈である。何故なら、政治こそは最も具体的な媒介された実践の形態だろうから。コントの歴史哲学は少くともこの点に於て――彼の政治概念それ自身が非実践的であったことは別として――実践的・政治的であった。イェルザレムは然るにそうではない、彼に於てはコントに於けるだけの歴史的原理が結局何処へか行って了っている。
 歴史的原理の喪失・政治的実践の無視は併し、イェルザレムの論理=真理の規定を極めて不充分なものとする。真理概念を規定していた一応実践的に見えるかの行動なるものは、実は単に全く行動主義的な、生物学的・実用主義的な、概念でしかない。真理概念は政治に関係づけられる代りにこの行動に関係づけられる。それ故ここで社会学的な問題となる論理は、単なる真理又は単なる虚偽としてであって、それが社会的に存在することによって或いは真理として自覚される虚偽となったり或いは虚偽として排斥される真理であったりするような、そういう社会現象としてではない。真理はその限り全く社会的制約から遊離したものとしてしか問題になることが出来ないでいる。之が少くとも知識社会学として名誉に数えられることだろうか。イェルザレムの認識社会学は、真理の実際上の社会的存在を取り扱うことが出来ない。論理の問題は実はであるからここでも亦社会学的に取り扱われ得ない。之が歴史的原理を無視した結果に外ならなかったのである。――茲でも亦、知識社会学にとって、歴史の問題が同時にそれだけ論理の問題であることを、重ねて人々は気付かねばならない。
 歴史的原理と論理の問題とを、このように回避することによって、イェルザレムの認識社会学は、イデオロギー論を回避することが出来る。だが彼は何故に歴史的原理と論理の問題とを回避しなければならなかったか。事階級に関わるからであった。彼にとっては、階級の代りに、個人か又は人間一般社会)かしかない。個人主義化し、やがてコスモポリタン化すということが、人間の精神の発展なのであった。階級の這入る余地はどこに与えられているか。階級的であると同時に超階級的であったコントの知識社会学の矛盾は、このような仕方に於て――階級性を引き去ることによって――誠に能く整理される。イェルザレムの実証主義的知識社会学の承継復原との秘密は茲に横たわる。

 コントのイデオロギー論は、プロレタリアに名を借りた処の、ブルジョアジーのイデオロギー論であった。それは恰も、フランス革命が無産者農民を動員して行われた有産者的市民の革命に外ならなかったことに対応する。ブルジョアジーの成熟と共に併しながら、プロレタリアの結束が、プロレタリアのブルジョアジーからの凡ゆる方面に於ける独立が、結果する。ブルジョアジーはその時、この次第に革命的となりつつあるプロレタリアに対抗するために、是非ともみずからの曾ての革命的性格を振り落し、或いは民主主義的、或いは絶対主義的・ファシスト的な変質を遂げねばならない。反抗的であったブルジョア的イデオロギー論も、亦イデオロギー論であることを止めて、単なる知識社会学としてみずからを性格づけねばならなかった。何となればイデオロギーなる概念は、多少とも政治的・革命的なるものとの縁を絶つことが出来ないからである。所謂――ブルジョア的――知識社会学がイデオロギー論であることを、又は其になることを、欲しないのは誠に賢明であると云わざるを得ない。
 知識社会学のこのような変質は、併しながら、であるから、プロレタリア的な知識社会学――イデオロギー論――の発生に、無意識的にか意識的にか、対応する。プロレタリア的知識社会学とは取りも直さずマルクス主義的「イデオロギー論」であった。――実際、イデオロギーと云う言葉を、今云うイデオロギー論という言葉のイデオロギーという意味に、即ち上部構造としての意識形態・乃至観念形態という意味に、初めて用いることの出来たのはマルクスその人であった*。
* イデオロギーの概念の発生と変化とに就いては森戸辰男氏「マルクス・エンゲルスのイデオロギー観」(『大原社会問題研究所雑誌』第八冊)が好い文献である。なお、G. Salomon, Historischer Materialismus und Ideologienlehre(Jahrbuch f※(ダイエレシス付きU小文字)r Soziologie, Bd. ※(ローマ数字2、1-13-22), 1926)を参照せよ。
 マルクス主義的社会科学が一般に所謂社会学を圧倒し牽制するように、マルクス主義的イデオロギー論――尤も正当なイデオロギー論はマルクス主義的のものでしかなかったのであるが――は所謂知識社会学を圧倒し牽制する。そこで知識社会学は之に反作用することによって、みずからイデオロギー論を名乗り、イデオロギー論を作らねばならなくなる。そうしなければマルクス主義的イデオロギー論の、革命的な角を取ることに成功しそうもないからである。知識社会学はその味方からイデオロギー論の出現を待望せねばならぬ。知識社会学の中心問題はイデオロギー論に集中されねばならぬ。ブルジョア社会学の陣営内に於ても、知識社会学はイデオロギー論とならねばならない必然性があるだろう。――併しそのためには又特別な地盤を必要とする。自然主義的・実証主義的・形而上学的・な見方は、処で、事実そのような地盤を提供し得ない。残るものは歴史主義でなければならない。マルクス主義が独逸観念論の必然的な発展であることを忘れない限り、歴史主義――ヘーゲルこそ或る意味でその代表者であった――こそは之を覆すに役立つ唯一の密偵であるように見える。
 かくてK・マンハイムの「歴史主義的」な知識社会学が「新学説」として重大となるわけである。吾々は彼がマルクス主義的イデオロギー論を、如何に人々に近づけ、そして又如何に之を永久に人々の手からもぎ取って了うかを、見よう。
 マンハイムによれば、知識社会学は思惟の社会学、又は認識社会学であるべきである。という意味は、知識社会学の最も重大な問題はイデオロギー論にあるというのである。何故なら知識社会学なるものは常に必ず何かの革命思想の流れから生じる一つの問題なのであるが、従ってそれは当然、例えばコントとかマルクスとかが夫々の階級の革命思想を表現したように、階級によって色分けされているものなのであるから*。――さてそこでまず第一に思惟は決して単に思惟として止まることが出来ず、必ず「みずからを超越して」存在する、ということをマンハイムは注意する。思惟は必ず例えば感情・意志・直覚・神秘的恍惚・又は実践などにまで、みずからを超越しないではいられない。思惟はこのようにして「自己を相対化す」性質を有っている。思惟は自己のこの相対化によって、存在との連関を避けることが出来ない。処でもしそうとすれば次に思惟は、思想は、特に社会的な存在の内に発生する処の、一つの存在であることを注意することが必要である。思想は社会的に制約された意識・観念である。併しこの時、意識は単なる個々の諸観念を意味するのでは充分でない、一定の組織を持った「観念体系」の概念が必要となって来る。このような観念形態こそ、イデオロギーの概念であった。さてこのようなものが知識社会学の成立のための要素である、知識社会学がイデオロギー論とならねばならない理由は茲に与えられた**。
* K. Mannheim, Das Problem einer Soziologie des Wissens (Archiv f. Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd. 63, 1925) S. 593.
** 同じく S. 589―90.
 思想は夫々理論上の――「精神上の」――「立場」に基いて性格づけられる、そして立場は又「問題」によって決定される。それ故或る一時代に存在する諸思想は、「問題の星座分布」によって位置づけられることが出来る。併しながら、この問題立場歴史的に生起することを忘れてはならない、それは「社会上」の立場――「精神上の」に対して――と関係せられることによって初めて捕捉されることが出来る*。精神上の・体系としての・立場と、社会上の立場とを、このように関係づける処に、思惟の社会学の本来の仕事が初めて生じて来る。思惟が存在と連関する仕方は併しながら、必ずしも、思惟が直接に「利害関係によって動かされる」ことには限らない(マンハイムによればマルクス主義的イデオロギー観は之だという)、そうではなくて、より広義に之を理解して、思惟が間接に利害関係によって動かされること、思惟が存在と「関数関係にある」こと、“Engagiertsein” と呼んで好いようなもの、がそれであると考えられる。思惟のスタイルは、世界観のスタイルという迂路を経て初めて、経済的・政治的・組織に対応せしめられることが出来る。階級という社会層が、世界観的な意志を経営する精神層を通じて、初めて、精神上の――もはや社会上のではない――立場に交渉するのであると考えられる。それ故認識社会学――イデオロギー論――の主な目的はこうなる。まず第一に、歴史の或る一時代に就いて精神上の・体系としての・諸立場を求め、次に之を夫々の世界観――形而上学的予想――の生きた根幹にまで溯源せしめ、第三にこの世界観を経営する世界観的な意志にまで之を帰属せしめ、第四に之を相抗争しつつある精神層に対応せしめる。そうして初めて第五に、この精神層が夫々どのような社会層――階級――に裏付けられているかを見ることになるのである**。
* Mannheim, Ideologie und Utopie にこの点は詳しい。なお彼の一般的な立場に就いては “Historismus” を見るべきである。
** Mannheim, Das Problem einer Soziologie des Wissens. S. 642―652.
 このように計画された認識社会学――イデオロギー論――が、知識社会学の他の場合とは異って、政治乃至政治学と直接の連がりに置かれることは、容易に想像されるだろう。このような知識社会学にして初めて、理論実践との関係を、従って理論と歴史との関係を、問題らしいものとして取り上げることが出来るだろう。今まで述べて来た他の知識社会学は然るに、そうではなかった*。
* “Ideologie und Utopie” は政治学が科学として如何にして可能であるか――理論と実践との問題――を問題にしている(S. 67 ff.)。ユートピアはそして、常に政治的な関心の下にのみ生れた。因みに、マンハイムによれば、存在が観念を通り越したのがイデオロギーであり、之に反して、観念が存在を通り越したのがユートピアである。
 さて、こう云って来ると、マンハイムのイデオロギー論は、マルクス主義的イデオロギー観の、マンハイム的名辞を用いた、一つの展開であるかのように見えるかも知れない。けれども、この外貌上の・個々の・一致にも拘らず、その根本的な性格に於て、之は全く反マルクス主義的であるだろう。尤も、それには何の不思議もなかった筈だが。
 マンハイムの歴史主義に於ける歴史の概念は、それがトレルチの系統にぞくすることからも想像出来るように、無論決して唯物史観ではない。歴史的とは彼にあっては「あくまで精神的」であることであり、イデオロギーの下層建築も「精神的なものに外ならない。」そればかりでなく、下層建築と上層建築とは、即ち多少とも物質的なものと優れて精神的なものとは、「交互的」関係に置かれている。と云うのは、上層と下層との区別は、単に全く精神的なるものと多少とも物質的なるものとの区別にしか過ぎず、それは存在の構造上の被規定者と規定者との区別でもなければ、分析方法や叙述方法の上での優位者と劣位者との区別でもない*。両者は凡ゆる点に於て同格・対等の位置に置かれるというのである。
* 前掲論文 S. 632.
 であるから従って又、歴史は必ずしも歴史的必然性によってのみ動くものとは考えられない。同時に、個人の・英雄の・意欲によって、それは自由に、可能性に於て、動くことが原則的に在り得なければならないと考えられる。ここでは必然性と自由とが、同列に於て混合される。それ故歴史上の変化に就いては、かの実証主義の精神であった科学的な歴史的予言―― voir pour pr※(アキュートアクセント付きE小文字)voir ――はもはや充分に成り立つとは限らない。何時ムッソリーニが出現するかも知れず、何時超論理的な――ソレル的な――暴力が力を振うかも知れない。その時、政治理論は少くとも歴史理論であることを止めねばならないだろう。――レーニン主義はムッソリーニ主義に又はソレル主義に、同列に於て、結び付けられねばならぬ。真理はコンミュニズム+ファシズム(又はアナーキズム)の内に横たわる。その問題の位置・その立場・を全く異にする二つのイデオロギエンは、どのような立場によってであるかは知らないが、幸にして結合し得るものでなければならない。――之がマンハイムの所謂政治学なるものである*。
* 以下 Ideologie und Utopie を見よ。
 夫々のイデオロギーはその立場からする夫々の「遠近法」を持っている、イデオロギーは凡てその意味に於て、相対的ではないにしても「相関的」(relationistisch)でなければならない、と考えられている。処で例えばコンミュニズムとファシズムとのように完全に相対立する遠近法を、彼は如何にして相関化すか。ここでも亦一つの特有な立場が必要であるだろうがそれは何か。それは労働者の立場でもなければ資本家の立場でもなく、又ファシストの立場でもない、そのどれでもなくて、恰もインテリゲンチャの立場であると云うのである。イデオロギエンの間の是非の判決を与え得る特権を有つものこそ、この恵まれたるインテリゲンチャの任務だと云うのである。蓋しインテリゲンチャは「自由に浮動する中間物」であるから。而も更に喜ばしいことには、恐らく教育の普及によって、資本家はもとより労働者でもが、次第にインテリゲンチャの層に繰り入れられて行くことは明らかであるから、中間層は次第に膨張しつつ益々有力となって行くに相違ない。多分今にインテリゲンチャ独裁の日も来るのであろう。――だが併しこの秀でたるインテリゲンチャは如何にして例えばコンミュニズムとファシズムとの是非を判定するか。恐らく現実――この公平無私な現実――が歴史のこの時期に於て、人々――この公平無私なる人間性――に向って示しつつある「面貌」(Aspekt)に一致するような、そのような理想的な・「理想主義的」な・「解釈」に依ってであるだろう。処で事物の是非を判定するには無論夫の解釈だけでは充分ではない、そこには恐らく何等か形而上学的な――措定的な――予想が必要であるように見える*。
* 例えば P. Eppstein はマンハイムに従って云っている、妥当性の基準は論理範疇的な形式の内にはなくして、「形而上学的判定の明白感の内に求められねばならぬようである」と(Die Fragestellung nach der Wirklichkeit im historischen Materialismus, Archiv f. Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd. 60, 1928)。
 処がこの形而上学的とも見えるものは、マンハイムによれば、とりも直さず社会学的なものに外ならないのである。イデオロギーの是非を判定し得るものは、もはやイデオロギー的な物の見方ではなくして、正に社会学的な物の見方でなければならない。蓋しイデオロギー的とは観念をそれの立場の内部から見ることであり、之に反して社会学的とは之をその立場の外から――公平に――眺めることを意味する。イデオロギー論は何等かのイデオロギーに立っては公平であることが出来ない、イデオロギーの性格を振り落した社会学によって、初めてイデオロギー論は科学的となることが出来る*。マルクス主義的イデオロギーに立つマルクス的イデオロギー論は、無論社会学的イデオロギー論によってその是非を判定して貰わなければならない。マンハイムはそう断定する。
* K. Mannheim, Ideologische und Soziologische Interpretation d. geistigen Gebilde (Jahrbuch f※(ダイエレシス付きU小文字)r Soziologie, Bd. ※(ローマ数字2、1-13-22)) ――人々によれば社会学が発達しないのは、その方法がイデオロギー的であってまだ社会学的でないからだそうである。例えば H. Ehrenberg (Ideologische und soziologische Methode. Archiv f※(ダイエレシス付きU小文字)r systematische Philosophie und Soziologie, Bd. 30, 1927)。
 マンハイムのイデオロギー論がマルクス主義的な夫と如何に根本的に相反するかを知るには、もはや之で充分だろう。吾々はこのようなイデオロギー論がどのような諸点に於て、欠陥を有っているかを、一々指摘出来る。今はただ一つの点に止めておこう。
 非イデオロギー的な・社会学的な見方、マンハイムの認識社会学・イデオロギー論のこの方法は、不幸にしてマンハイムの欲する処とは無関係に、矢張り一つのイデオロギーに基くと云わざるを得ない。なぜならそれはインテリゲンチャのイデオロギーではなかったか。インテリゲンチャこそは非イデオロギー的――超階級的――であると云うであろうか。併し彼はそう宣言することによって、単にブルジョアジーのイデオロギーに一致するまでのことである。――問題はかのわが国でも暫く前から有名になったインテリゲンチャ論に帰着して行くようである。
 階級は階級対立の観念的な否定によっては止揚されない、それと全く同じに、イデオロギーはイデオロギー対立の社会学的な媒介によっては止揚されない。イデオロギー一般を止揚し得るものは、或る一定のイデオロギーのみである、否そのような一つのイデオロギーを産む実践的な地盤だけである*。
* A. Fogarasi も亦吾々と殆んど同じ仕方によってマンハイムの Ideologie und Utopie を批判した(Unter[#「Unter」は底本では「Uuter」] dem Banner des Marxismus, 1930. 3)。――なお K. A. Wittfogel, Wissen und Gesellschaft (Unter dem Banner des Marxismus, 1931. 1) を見よ。
 マンハイムのイデオロギー論は、歴史的原理としての階級を除外することによって、イデオロギーの真偽を判定する論理的な原理を放擲する。――茲でも亦、歴史の否定は論理の問題を無視せしめる結果を伴っている、それを人々は重ねて思い起こさねばならぬ。
 吾々は最後に云うことが出来る。知識社会学が、論理の問題を実質的に――真偽価値対立の問題として――提出し得るためには、それは知識のイデオロギー論の形にまで行かねばならなかった。併しこのイデオロギー論がこの理論の問題を解き得るためには、それ自身がイデオロギー的性格を持ってかからねばならぬ。それは階級性を有たねばならず、又持つことを自覚しなければならない。そしてこの段階は歴史的原理の承認の程度に相応するのである。だから、知識社会学であり得るためには、それは所謂社会学であることを止めることこそ必要だろう。そうしなければ知識を社会的に――歴史的に――取り扱うことは出来なくなる。之は詭弁ではない。も一遍云っておこう。知識の社会学はもはや単に一種の社会学として止まることは出来ない。この社会学は単に社会的存在という一部分的の科学には止まり得ない。知識社会学――イデオロギー論――は論理の問題を、社会的歴史的等価物として明白に且つ有効に、解き得なければならないのである*。
* 「与えられた文学現象の社会的等価を発見することに努力しつつ、若しも、問題がこの等価物の発見にのみ制限され得ないということ、社会学は美学の前に扉を閉すことではなくて、反対にその前に夫を開け放つことであるということを理解しないならば、文芸批評はそれ自身の本性を裏切るものである。自らに忠実な唯物論的批評の第二段の行動は――それが批評家・観念論者の所に於てそうであった如く――、審査しつつある作品の美学的価値の評価でなければならない」(プレハーノフ『二十年間』第三版序文――蔵原惟人訳)。――「芸術社会学」の問題が何にならなければならないかが茲に明らかである。今は「美学」の代わりに「論理学」を、「美学的価値」の代わりに「論理的価値」を置き換えれば好い。
 さてあるべき知識社会学・イデオロギー論は、ただマルクス主義の内に於てのみ、発見され展開される必然性と可能性とがある。マルクス主義的なこの課題は恐らく「芸術社会学」などにも増して、より根本的な重大さを持つだろう。実際それは、殆んど凡ゆるマルクス主義的理論の隅々にまで織り込まれていると云っても好い。併しそれにも拘らず、それはまだ知識社会学自体としては、必ずしも目立たしい程充分に展開されてはいないように見える。だが、問題は、それであればこそ愈々益々重大である*。
* 之に関係を持つ著述として、吾々はさし当り、K. A. Wittfogel, Die Wissenschaft der b※(ダイエレシス付きU小文字)rgerlichen Gesellschaft とか E. Untermann, Science and Revolution とか A. Bogdanow, Die Entwicklungsformen der Gesellschaft und die Wissenschaft とかを挙げることが出来る。
[#改段]


 イデオロギーは文化であると共に又心理でもあった。而もそれは社会心理と名づけられても好いものであるように見える。恰も「社会心理学」はそうしたものを取り扱おうとする。そこで社会心理学とイデオロギー論との関係を検べて見ることが必要となるのである。――今や問題は社会意識との、吾々が最初に触れたかの関係の内に横たわる。
 社会という言葉も意識という言葉も、人々が日常之を使い慣らしているだけに、それだけ却って殆んど無限に異ったニュアンスを有った概念を云い表わす。例えば社会学者や民主主義者、又資本家や当局、が大体同じ「社会」概念を持っているとしても、それは社会科学者のもつ社会の概念とは根本的に異った点を含んでいる。心理学者や哲学者が「意識」という言葉で理解するものは、一般世人や労働運動者の理解している「意識」ではない。専門的な術語としてさえ、この言葉は決して判明なものではない。――だがこのようなニュアンスが吾々の前に無秩序に並存してあると考えてはならない。実を云えば、夫々の概念が歴史的発展の過程を経ることによって、今日にまで止揚されて来たモメントが、今日の様々なニュアンスとなって現われて来ているのである。そこで、社会と意識という二つの概念が、どういう歴史上の負担を有って今日吾々に現われているかを見よう――第一章参照。
 人間の社会は有史以前からあっただろうし、又は人間がまだ動物的な諸条件を脱しない時にすらあったと想像して好い。元来動物それ自身が或る意味では社会的であるかも知れない(エスピナの Les Soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字)s Animales によってのように)。併し社会という概念が、他の概念から特に区別されて、自覚にまで齎されたのは、可なり新しいことと考えられる。ギリシアの都市国家やローマ帝国はまだ自分に対する恰好な対立物を有たなかったが――、カエサルの国家の対立物はイエスの神の国にまで昇華して了った――、すでに中世末期のイタリヤ都市国家になれば、それは地上の神の国としての法王権に、意識的に対立しなければならなかった(ギベリニ党員ダンテの時代)。そしてやがて之等及びその他の新興封建諸国――諸王国――は、最後に、それ自身の内からその対立物として、ブルジョア社会を生み出すことによって、王国から資本主義的国家にまで変質した(この変質が今日に至って完了したものが現在に於ける帝国主義の形態である)。だから国家から区別された社会の概念は、フランス革命を契機として人々の意識に上ったと云わねばならぬ。そして今何より大事なことは、この社会の概念が、国家と対立するところの社会一般の名の下に、実は、ブルジョア社会の概念を潜在意識していたということである。この潜在意識を暴露したものがヘーゲルの利益社会(b※(ダイエレシス付きU小文字)rgerliche Gesellschaft)の概念であったのである。さてこのブルジョア社会の概念――決してそれは社会一般の概念ではない――こそが今日、社会概念一般の標準をなしその代表者となっている。今日、普通行なわれている諸々の社会概念は大抵、ブルジョア社会の外へ出でずにその埒内で理解された処の、即ちブルジョア的に理解された、社会概念なのである。それはブルジョア社会を直ぐ様社会一般にまで永遠化すか、そうでなければ、ブルジョア社会以外の社会をブルジョア社会のモデルに従って把握しようとする。社会一般は今日、多く、ブルジョア社会になぞらえられてのみ考えられる。
 意識の方はどうか。意識自身の歴史的発生は今は問題になるまいが、意識の概念の発生は前にも云った通り、アウグスティヌスに置かれている。併しここで意識と考えられるものは神にまでつながる人間の内面性に他ならない。処が今日の諸意識概念の一般的な特色は、この人間の内面性を更に自我にまで結び付ける処にこそ横たわる。自我の概念の起源は遠くルネサンスにまで辿ることが出来るが、ルネサンスに於けるヒューマニズムと呼ばれるものは、実は、人間性の発見だったのではなくて、個人が中世的ギルドから解放されることを意味したのでなければならない。人間性とはかかる個人が発見された新鮮さを云い表わすものに外ならない。ここでは人間は個性あるものとして自覚される、工人は自由な芸術家――之こそ個性の主人である――にまで向上したのである。意識は自我として、個人として、個性として、又自由として、自覚される。意識は要するに自己意識自覚)として登場した。之がやがて哲学的反省にまで齎らされると、ホッブズのアブソリュティズム(之は彼が個人の自由を余りに強く意識しすぎたことの結果であるとも云えよう)となり、デカルトの「コギト」・ライプニツの「モナド」・カントの「無上命令」等々となる。恐らくフィヒテの自己意識である「純粋自我」は、このような意識の概念の最も代表的なものであったと考えられる。個性的自由の有つ自己(自我個人的)意識――自覚――こそが、今日の意識概念の代表的なものである。意識とは今日、個人的意識を意味することが普通となっている、とそう一応云っておいて好い。
 処で恰も、この個人的意識が、かのブルジョア社会に於て、特有に重大な役割を有っていることを注意すべきである。と云うのは、個人的意識の――個人の――自由はブルジョア社会にとっての、時には幸福な又同様に時には不幸な根本原理として、意識されるからである。個人の利益は、時には見えざる手によって国家(common-wealth)――ブルジョア的共有財としての社会――の利益にまで導かれると考えられ、又時には之に反して、恐慌その他の形を取って社会に重大な不利益を齎すものと考えられる。ブルジョア社会は個人の自由を、個人的意識の自由を、要するに意識を、その原理として意識する。だからブルジョア的生活意識乃至世界観からすれば、それが社会とは個人――それが意識の所有者だと考えられる――という原理を法とする割り切れない剰余に過ぎなくなる。だからブルジョア的社会科学にとっては、社会は、個人というアトムの連合としてか、又はそうでなければ個人というアトムの連合からは理解出来ない個人外のもの――例えば強制を与える総体――としてか、理解される外はない。何れにしても、ブルジョア社会科学にとっては、社会とは個人を法とした場合の消極的形式的な剰余となる(広い意味に於ける形式社会学は茲から発生するのである)。ブルジョア的世界観にとっては、このようなものが社会と意識――個人――との関係なのである。――だが、取りも直さず之は外でもない、ブルジョア社会の概念と個人的意識の概念とによる社会と意識との関係に過ぎないのであった。
 社会を、意識すると否とに拘らず、ブルジョア社会の概念を標準として理解し、同時に之に平行して、意識を、故意であると否とに拘らず、個人的意識の概念によって理解すると、社会は個人(意識)の消極的な形式的な剰余としてしか現われることが出来なかったのだから、社会と意識(個人)との関係は、実質的には解決し得ない問題としてしか現われて来ない。今日のブルジョア社会に於て支配的である――その意味で代表的である――社会の概念と意識の概念とによっては、だから社会と意識との関係の問題は、恐らく正当に云えば、問題にさえなれない筈なのである。
 この問題はだから次のような条件の下でしか解決出来ない、即ち、一方に於て、社会が個人からの消極的形式的剰余であることをやめて、何かそれ自身の積極的な内容を得ることによって初めて、必然的に個人まで媒介されるようになり、又同時に他方に於て、意識が個人の固い殻の内に閉じ籠ることをやめて、何かの形で社会にまで連絡されるようになる、そういう条件の下で初めて、之は解き得る問題となることが出来る。社会の観念はもはやブルジョア社会の概念の水準に止まってはならず、意識の概念はもはや個人的意識の概念の範囲に止まってはならない。否、もはやそうあることが出来ないということが、社会の概念自身と、意識の概念自身とが担っている、今日の吾々の社会の必然的歴史上の負担なのである。

 ブルジョア社会の概念を社会そのものにまで一般化し永久化そうとする処の、ブルジョア的社会概念を、分析解体することによって、その反対物にまで導いたものは、マルクス主義の理論である。之によってブルジョア社会は、その内部的矛盾のために必然的に形態転換しなければならない処の、成長し且つ老いて行く一の生命過程として、特色づけられる。社会のこの過程の転換する諸要素間の差異関係であってこそ初めて、諸個人の意識内容の諸要素間のそれぞれの差異関係に、実質的に結び付けられることが出来るのである。マルクス主義的社会概念――そしてこれは取りも直さずブルジョア社会を変革するプロレタリアのもつ社会概念であるが――であって初めて、社会は自分と意識(個人)との実質的な関係を見出すことが出来る。そうでなければ、高々、要するに社会は全体で個人(意識)は部分であるとか云うことが出来るに過ぎず、両者の関係は結局、全体と部分とかいうような空虚な隙だらけの容器に盛られて了う外はない。
 だが此の際、意識(個人)の概念も亦、マルクス主義によって、従来のものから根本的に変革されなければならない。従来の個人的意識はもはや此の際、そのままでは意識概念として役立たないことが見出される。意識は個人が持つことに疑いはないとしても、その個人が吾々によれば、もはや個人としての個人ではなくして、社会人としての個人でなければならない。そうすれば個人の意識も亦、もはや個人的意識としての個人意識ではなくて、何か社会的意識としての個人意識でなければならなくなる。そればかりではない、個人を主体とする代りに、却って個人を超越した何かの社会形態――階級とか身分とかその他の集団とか――を主体とするような意識も、そこでは考えられることが出来、或は考えられねばならなくなるかも知れない。意識は個人という鎖から切り離され、個人的意識の概念から離脱しなければならない。意識は、たとい夫が個人の意識であろうとも、個人的意識の概念によって把握されてはならない。意識は何かの意味で社会的意識――尤も之は社会に就ての意識や社会が持つ意識とは限らない――でなくてはならない。吾々の社会概念による社会が、実質的に結び付くことの出来る処の意識は、何かこのようなものとして理解されねばならないのである(第一章参照)。
 さて、マルクス主義乃至唯物史観による、社会と意識との関係は、既にプレハーノフによって一応定式化せられた。社会構造に於ける基底から上層建築への展開は、彼に従えば、
一、生産力の状態、
二、この状態に制約された経済関係
三、与えられた経済的「地盤」の上に生じる社会的政治的秩序
四、一部分は直接に経済によって、一部分は経済の上に生じる社会的政治的全秩序によって、規定された、社会人の心理
五、この心理の諸特徴を反映する処の様々の諸観念形態(イデオロギー)、
の順序に従って行なわれるというのである*。併し今注意しなければならないのは、第一に、ここで観念の形態=イデオロギーと呼ばれるものは、云わば客観的に見出される文化現象を意味するのであって、必ずしも意識の一定形態――意識形態――を意味してはいない・ということである。意識形態という意味でのイデオロギーは彼によれば寧ろ、今社会人の心理と名づけられたものに相当する。事実彼は、同一の意識形態も、文化領域の異るに従って様々の観念形態を取らねばならぬということに就いて、力を極めて説いている。では第二に、この社会人の心理とは一体どういうものであるか。それは社会人の心理であるのだから、単純に個人心理――個人の意識――でないことは明らかであるが、では個人心理と夫とはどう関係するのであるか。このイデオロギーは社会心理とでも云うべきものであるのか。そうすれば社会心理とは何であるか。プレハーノフはこの点に就いて、余り問題を見出してはいないように見える。彼にとっては、恰も先に吾々が試みようとした意識概念の変革は、全く無視されて了っているか、そうでなければ何時の間にか解決済みになっているように見える。
* G. Plechanow, Die Grundprobleme des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」], S. 31 (Marxistische Bibliothek).
 社会人の心理乃至イデオロギー(意識形態としての)概念は単にプレハーノフに限らず多くのマルクス主義者によっても、まだ充分に展開されていないようである。社会と意識との実質的な関係の問題を本当に説くことが出来ないと併し、歴史社会的存在の下層建築と上層建築との弁証法的関係を、この点に就いて、唯物史観によって充分に具体化すことが出来ない。

 元来、社会人の心理――それが結局何でなければならぬかは後にして――乃至文化形象を、単に記述するに止まらず、分析し説明する為めに統一的な方法を提供したものこそは、云うまでもなくマルクス主義であった。マルクス主義は一面に於て、文化形象を説明する組織的な方法である。処で現在、このような説明原理に多少とも比較出来るものは、恐らくまず第一にフロイト主義でなければならないだろう。実際マルクス主義とフロイト主義との間には仮にその比較が不倫であるにしても、多くの類似点を指摘することが出来る。フロイト主義は一方に於て精神病理学の臨床的技術であると共に、それと平行して又一つの世界観をなしている。夫は丁度マルクス主義が社会革命の実践的方法であると共に、一つの普遍的な世界観である、という事情と似ていなくはない。併し、こと世界観に関するならば――そしてこれが世界観であればこそ初めて文化説明の原理ともなれるのだが――二つのものが同じく世界観であるという点で類似している、と云って済ますことは出来ない筈である。二つの世界観の異同・優劣が直様問題とならざるを得ない。今日、マルクス主義とフロイト主義との関係が(主としてマルクス主義者の側から)、相当真剣な問題として取り上げられるのは尤もである。
 フロイト主義を二つの層に分解することが出来る。第一は精神分析、第二はリビドー理論(精神分析はフロイト主義に限られない、A・アードラーやC・ユングの分析も存在する)。フロイト主義はリビドー理論による特殊な精神分析に基くということが出来る。フロイトの精神分析は云うまでもなく精神(Psyche)――広い意味に於ける意識――の分析である。精神は、意識の表面に現われた処の、自覚されたる又は直接に観察される意識現象、だけに尽きるものではなくて、通常の条件では意識の表面に現われることの出来ない深みに動いている。精神の本質は健康状態に於てよりも寧ろ不健康状態に於て、その構造を示すことが出来る。精神病学は云わば精神自身が自ら行なうところの最も信頼すべき実験に外ならない、とそういうP・ジャネ等の見透しに従ってフロイトは、先ず意識無意識との区別に注意する。従来精神に於ける無意識の役割は割合注目されることが少なかったが、フロイトは之を特殊な仕方によって限定した。まず第一にそれは普通無意識と呼ばれているような、単に意識されていないという状態を指すのではない。今意識されていないものもやがて、又は意識を強めることによって、意識されたものとなることが出来るだろう。そういう意識されてはいないが意識され得るような無意識は、彼に従えば真の無意識ではなくて単に「前意識」に過ぎない。真の無意識はこれとは異って、通常の条件の下では如何にしてもその内容が意識され得ないものを指す。意識の底の深みには、この無意識が横たわる。――だがなぜ無意識は意識内容となることが出来ないのか。それは前意識に於て働いている一定の検閲制度がそれを禁止するからなのである。
 検閲とは精神に対して外界から採用された禁止と命令に外ならない。即ち、意識といい無意識といい、一見全く個人心理にぞくするものには違いないが、両者の区別を与えるものとして、個人心理以外の世界がそこで役割を果している。人々は自分では意識することなしに、社会条件――遺伝・習俗・道徳・法律其他――によって抑圧されたものを、意識から遠ざけ、社会によって強制されたものだけを意識の上に齎らす。云い直せば、意識とは社会によって解放され又は強要された限りの無意識である。だから、意識はその意味に於て社会と等価物であり、之に反して無意識の――少くとも抑圧されたる――一部分は非社会性を有っている、と云っていい。
 無意識に関してフロイトはエスと自我とを区別する。前者は人間の精神の内にある非人格的な・生物学的な・深みを云い表わし、後者はこのエスの表面にあって、外界からの刺戟に対する抵抗壁の役割を有つ。エスは無意識であってその一部分がかの抑圧された無意識であり、自我はかかるエスの他の一部分を占めていてその限り無意識にぞくする。自我は併し、それだけではなく同時に前意識をも亦包括している。無意識的なものが意識的になることを抑圧するものは、とりも直さずこの自我なのであった。――抑圧の動力は、だから、自我に、個人に、存する。処がなぜ個人の自我は自分の精神にかかる抑圧を加えねばならなかったか。夫は他でもない、個人が単なる個人でなくて社会的存在でなければならぬからなのである。抑圧は個人の社会的存在の関数である。社会的存在とは併し、観念的なものとしては、社会秩序から来る命令・禁止の他ではない。で自我は、このような命令・禁止を自分の規範とせねばならない負担を有っている。この場合の理想的自我はフロイトによれば自我理想超我と名づけられる。超我の大部分も亦無意識にぞくする。――かくてエス・自我・超我の区別も亦、社会的なものの干与によって初めて与えられることを、今注意しておかねばならぬ。
 意識・無意識の構造を有つ個人の精神は併し、衝動をその実質としている。衝動は欲望を充たすことによって快を得る。精神は快を追い不快を避ける本質を有つ、欲望の実現が精神の根本傾向なのである(快感の原理)。処が、この欲望は事実上必ずしも実現され得るとは限らない、否多くの欲望は抑圧され、多くの欲望の満足は延期されるのが事実の常である。それが是非とも実現され得るためには、これ等の欲望の直接な満足の代りに、その代用物の満足が求められることになる(実現の原理)。――処でこのようにして、衝動乃至衝動の遂行を抑圧するものは他でもない社会の強制力であった。社会は自我を通じて、衝動を抑圧しそしてその抑圧された衝動が意識されることを禁止するのである(多くの精神症はここに原因しここからその症状を規定されて来る、精神分析術とは抑圧された衝動を患者に意識せしめることによって之を治療する技術である)。
 フロイトの精神分析の最も著しい特色は併しながら、この衝動を特有なリビドーと考えるに存する。リビドーとは愛の衝動であり、又自己保存(栄養摂取)の衝動と結び付ければ、自愛の衝動である。之こその衝動なのである(フロイトは後に之をの衝動に対立せしめた)。一切の精神の運動はこのリビドーを原動力として発動する。精神の根柢は生物学的生命(Vitalit※(ダイエレシス付きA小文字)t)にある。意識とはかかる精神のリビドー的実質が、社会的強制によって強制され変容されたものに他ならない。精神に対するこの社会的強制の云わば余波が、一方に於ては多くの精神症の症状となり、他方に於てはそれが昇華して文化形態となる、と考えられるのである。――それであるから、文化形態――イデオロギー――は、或る意味に於て社会的強制の所産であるが、従ってフロイトによれば、夫は又精神症の対応物に外ならないものなのである。かくて、フロイト主義によれば、イデオロギーは専ら精神病理学的に分析されねばならぬものとなる。

 フロイト主義に於ける社会人の心理乃至イデオロギーの有つ関係は略々こうである。A・コルナイは仮にこのような見地に立って記憶すべき研究を与えた*。彼――必ずしもフロイト主義者ではなく後にはその反対者にさえなったが――によれば、フロイト主義精神分析は、個人から出発する、それは個人からの類推として社会を理解する仕方である。個人に於けるは社会に於ける神話に、個人に於ける神経症は社会に於ける宗教に、又個人に於ける妄想狂は、社会に於ける哲学体系に、対応せしめられる。無政府主義と共産主義との関係は、早発性痴呆症と妄想狂との関係として理解される。そしてかかる精神症的特徴は無論かのリビドー――エロス――から説明されねばならない。フロイトの最も有名な一つの説明原理に従えば、原始的な骨肉相姦の欲望である息子が母に対する性的衝動は、家長である父の権威ある欲望によって長く抑圧されて来た、この抑圧は人類の歴史を経るに従って一つの錯綜――オイディプス錯綜――を産んだというのである(デュルケム等によって明らかにされたトーテムも亦フロイト主義によれば、オイディプス錯綜に於て殺されてあるべき父を意味するものだと説明される)。でコルナイに従えば、例えばプロレタリア・イデオロギーもこのようなオイディプス錯綜に基づく。プロレタリアは土地から引き離されているために土地に還ることを欲求している――土地錯綜。そして土地は大地たる母(Mutter-Erde)、オイディプスの母、の象徴に他ならない、というのである。コルナイのフロイト主義的イデオロギー論によれば、一切の歴史的現象は誠に珍奇な説明を見出す。フランス革命は市民たるインテリゲンチャが大地たる母へ還ろうとする運動であり、それであればこそ農民が中心とならねばならなかった。農民は無論母との姦淫を欲していたわけである。マルクス主義はブルジョアによって搾取されそうに思う被害妄想であり、プロレタリアによる人類の救済は一つの宗教妄想に他ならない。弁証法と雖も妄想狂の所産であることを免れない。万国のプロレタリアの結束は、オイディプス錯綜から来る男同志のエロティシズムだと宣告される。――云うまでもなくこの種のものは、フロイト主義的イデオロギー論乃至フロイト主義的社会理論のカリカチュアであろう。そして之は必ずしもフロイト自身の責任ではないかも知れない。だが吾々は、このカリカチュアの本質を明らかにしなければならない。なぜならそれはやがてフロイト主義的理論自身の本質でもあるだろうから。
* A. Kolnai, Psychoanalyse und Soziologie (英訳 Eden and Pedar).
 フロイト主義精神分析は無論、個人精神の、広義に於ける個人意識の、分析である。なる程その際、個人は単なる個人と考えられずに、正に社会に於ける・社会的・個人と考えられている。それであればこそ、検閲や抑圧・錯綜や昇華の概念も成り立つことが出来た。だが、この個人の有つ意識は、吾々の言葉に従うならば、あくまで個人的意識であってそれ以外の意識の概念ではない。というのは、意識――それは個人が所有するのであるが個人によって所有されるという点にその性格があるとは限らない――の概念は、専らそれが個人の所有であるという限りの意味に於てのみ、把握されているのである。この意識は如何に社会によって制約されると考えられていても、制約される意識自身が初めから個人的意識の概念によって制約されているから、社会的という規定はすでにこの意識に加えられるべく余りに立ち後れがしている。だからこそフロイト主義による個人の意識――精神――に於て、元来その社会的性格は至極表面的・付加的であらざるを得ない。――フロイト主義精神分析は、個人心理学的方法を以てその方法とする*。これが今のカリカチュアの本質なのである。
* 吾々はこの点及び他の点に就いて、I. Sapir がフロイト主義に加えた批評に同意出来る(I. Sapir, Freudismus, Soziologie, Psychologie. Unter dem Banner des Marxismus, ※(ローマ数字3、1-13-23), S. 937 f. ※(ローマ数字4、1-13-24), S. 123 f)。
 個人心理学的方法に従うフロイト主義は、即ち個人的意識の概念から出発して分析を進めるフロイト主義は、何かの意味に於て超個人的な意識(尤も哲学者の云うかの純粋意識や先験的意識のことではない)、又は社会心理学的な意識(この概念に就いては後に見よう)にぞくする処の、かの社会人の心理イデオロギーを、正当な視角から問題として取り上げることが出来ないように初めから出来ている。そこでは、社会人の心理乃至イデオロギーが、之とは全く質を異にしている個人的意識の直接な拡大か又は遠隔作用として、個人的意識の類推物又は対応物として取り扱われる外にどうしても方法が見当らないのは尤もである。フロイト主義は、一つの意味での意識を、之とは異った意味での意識で以て、直接に無媒介に説明しようとする。その説明が見当違いで皮相なものとならなければ却って不思議と云わねばなるまい。かくてこそ文化形態も、かのオイディプス錯綜の一事例に過ぎないものとして片づけられて了うのである。――フロイト主義は、云わば社会主義的理論ではなくて個人主義的理論に他ならない。
 理論を個人的意識から出発させるということは併し、一般に意識(精神)を存在の説明原理とすることを意味する。何故なら個人的意識は、或る方向に於てもはやそれ以上還元出来ない最後の基体として、登用されるのが常であるから(例えばフッセルルの現象学的還元)。だから個人的意識の概念を採用すれば、必然的に所謂観念論を採用する結果を招かざるを得ない。そのことはすでに述べた(第一章)。この時一般に意識は説明される処のものではなくて却って説明する処のものとなる。社会的歴史的現象は意識によって――即ち個人的意識によって――説明されねばならなくなる。それは様々の観念的歴史観――今之を唯心史観と呼んでおこう――を結果する。フロイト主義的社会理論は恰もそのような歴史観に立った一つの場合であったことを思い出さねばならない。
 だが或る人々は、フロイト主義を観念論乃至唯心史観(そういう言葉を許すとして)と考えることに反対するかもしれない、フロイト主義こそ、意識に関する唯物論でなければならない、というかも知れない*。併しそう云われる理由は、単に、フロイト主義による意識(精神)――夫は個人的意識であったことを忘れるな――が生理学的根拠に立って把握されているからというに外ならない。実際フロイト主義による意識(精神)の概念は、多くの哲学者達の夫とは異なって、生物学的背景を有つことをその特色としている、意識(精神)は生物学的衝動リビドー=エロスと裏表にあざなわれていた。併しながら意識乃至精神を唯物論的に取り扱うことは、これを単に生理学や生物学に結び付けることではない(それならば要するに十八九世紀の仏独の機械論的唯物論にすぎず、従って夫はまだ正当な唯物論ではない)、そうではなくて更に之を社会の物質的地盤にまで結び付けることでなければならない。物質的生産力乃至生産関係――経済関係――に結び付けられて初めて、意識(精神)は真正の意味での唯物論的取り扱いを受けたことになる。歴史はこの生産関係の内部的必然的発展に基づいて初めて統一的に発展段階を与えられるが、意識乃至精神も亦、社会のこの物質的地盤に結び付けられて理解されることによって、同時に歴史的なものとして把握されることが出来る筈なのである。処が之を単純に生理学的・生物学的基礎に立たせることは、却って意識(精神)――又生命――を歴史的なものとして理解することを妨げる。なる程フロイト主義によれば、精神(生命)を強制するところの社会は、一応云うまでもなく歴史を有つと考えられていないのでないが、その歴史性自身が物質的地盤から独立して抽象化されているから、観念的なものになって了っている。歴史が云わば生命自身に喰い入った処のものとも云えよう遺伝――これはフロイト主義で重大な役割を有っている――であっても、全く生物学的範疇の外へ出ない偽似の歴史性を持つに過ぎない。まして人間の衝動は、かりに夫が永久不変なものではないと考えられても、まだ何の積極的な歴史性を有つものでもない。――だからフロイト主義の所謂唯物論は、社会の物質的基礎を抜きにし従って歴史性を結局に於て無視する処の、生物学主義(Biologismus)に外ならない。コルナイはフロイト主義の社会分析を、デュルケムのそれと平行させ、前者は社会のイデオロギー的部分を説明することによって、後者の社会理論を補うものだと主張しているが、かりに夫が正しいとして、このデュルケムの社会理論自身が、恰も今云った意味に於ける――他の意味に於てはそうでないにしても――生物学主義に外ならない。――フロイト主義は唯物論ではない、単に生物学主義なのである。
* W・ライヒの理解する処によればフロイト主義はマルクス主義に帰着する唯物論である(W. Reich, Dialektischer Materialismus u. Psychoanalyse【Unter dem Banner des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」] ※(ローマ数字3、1-13-23). 5】)。
 フロイト主義はかくて、個人心理学的方法による生物学主義である。それが社会理論――即ち又歴史理論――に於ては観念論的歴史観を産まねばならない理由であった。この世界観を吾々は初め、マルクス主義に対立させて見たが、今や両者の根本的な相違とその優劣とがおのずから明らかとなっただろう(そしてこの両者の社会階級的な役割が、どう振り当てられねばならないかに就いても、もはや説明を必要とはしないだろう)。吾々は少くともフロイト主義を観念論に還元し、そして観念論を一つのイデオロギーとして一般的に批判するならば、それだけでもフロイト主義を形式的に批判するには充分だと考える*。
* イデオロギーとしての観念論の一般的な批判に就いては第三章を見よ。
 マルクス主義はフロイト主義と一つであるか一つでないか。両者が一応全く別のものであることに就いてはもはや何人にも異論はあるまい。それではフロイト主義はマルクス主義を取り入れることが出来るか。フロイト主義は自分の一つの説明対象としてマルクス主義を問題にすることが一応は出来た(コルナイの場合)――尤もそれは当然にも完全に失敗したものであったが。だがフロイト主義はマルクス主義の真理内容を自分の真理内容として取り入れることが出来るか。吾々はそういう試みの行われたかを知らない。逆にマルクス主義はフロイト主義を正当に説明対象とすることが出来るか。マルクス主義が統一的世界観である以上、勿論夫は出来ねばならない。W・ユリネッツの労作がその適例である*。それではマルクス主義はフロイト主義の真理内容を自分の真理内容として取り入れることが出来るか。夫を全く不可能と考えたのはユリネッツの今の論文であり、之に反対してそのまま――無論適当な解釈の下に――夫を取り入れることが出来ると主張するのはライヒである**。そして最後にザピールはライヒに対する批評に於て、フロイト主義は決してそのままマルクス主義の真理内容となることが出来ないことを明らかにした***。
* W. Jurinetz, Psychoanalyse und Marxismus (Unter dem Banner des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」] ※(ローマ数字1、1-13-21). 1.)
** W. Reich 前掲論文。彼によればフロイト主義は意識(精神)の唯物弁証法的構造を明らかにするものだと云う。だが唯物弁証法の諸公式に部分的に当て篏まるということは、まだ少しも夫がマルクス主義的であることにはならない。夫はなおその全体の性格に於て反マルクス主義的であるかも知れないから。
***[#「***」は底本では「*」] I. Sapir 前掲論文。
 だが凡そ批評の第一の真剣な目的は、批判される対象が自分の主張と一致するか否かを示すことではなくて、此の対象を如何に――積極的にか消極的にか――自分の側の発展展開に利用し得るかに横たわる。マルクス主義はフロイト主義をも亦、そういう目的意識の下に、批評対象として取り上げなければならない。問題は、フロイト主義がマルクス主義に何を寄与出来るかである。例えば、フロイト主義精神分析が社会(乃至イデオロギー)理論に、如何になり得ないかが問題ではなくて、もし多少とも――部分的にしろ――フロイト主義に真理があるならば、どういう条件の下にそれを社会理論になし得るかが問題なのである。そうして初めてフロイト主義をマルクス主義に取り入れるという言葉も、又取り入れないという言葉も、意味が生きて来るのである。――で、フロイト主義精神分析の方法であった個人心理学的方法は、どうすれば社会理論の方法に結び付くことが出来るか。ザピールはそこで両者の間に、社会心(Sozialpsyche)の研究が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されるべきだと考える。フロイト主義の批評は今や、マルクス主義に、社会心理学的研究を必要な問題として課すものだということになる*(勿論この際、フロイト主義自身が社会心理学――それが結局何でなければならないかは後にして――まで行き着くことが出来ないということは、少しも邪魔にはならない。却ってそうであればこそ、夫が問題として提出されるのである)。そして之は取りも直さず、吾々がこの章で中心にしている当の問題に外ならない。
* 「階級社会に於ては、社会心理学的研究が、根本に於て、階級心(Klassenpsyche)の探究として把握されねばならない。」(I. Sapir 前掲論文)。
 吾々はブルジョア社会学――乃至心理学――で云う所謂「社会心理学」の問題へ移る。
 ブルジョア科学に於ては、社会に就いては社会学があり、意識に就いては心理学が存在する。ブルジョア的世界観に於ける社会――ブルジョア社会――の概念と意識――個人的意識――の概念とは、吾々が最初に見た通り、容易に無条件に接合し得なかったにも拘らず、社会自身と意識自身とは云うまでもなく初めから密接に連関している。だから、ブルジョア科学に於ても、恰も、社会と意識とのこの連関を問題とする処の一つの科学が必要とならざるを得ない。それが社会心理学なのである。だからわが社会心理学は、云わば社会学と心理学との中間領域か交渉地帯かに位置するわけである。それ故夫は時には結局一つの社会学であり*、又時には言葉通り一つの心理学であり**、又時には社会学としての心理学とならねばならない***。
* この代表的なものは例えば、E. A. Ross の “Social Psychology” であろう。
** McDougall “An Introduction to Social Psychology” は結局、社会的本能に研究を集中している。
*** 「集団心理学は全然社会学に外ならない」(E. Durkheim, Sociologie et Philosophie, p. 47)。
 社会心理学の研究はそれ故、意識の分析から出発するか、又は社会の分析から出発するかのどれかである。処が多くの社会心理学はその名前が示す通り意識の分析から出発する一つの心理学だとして、自らを意識する(之に反して、とも角も社会の分析から出発して意識を取り扱おうと企てたのはデュルケムの勝れた見地であった)。処で従来の所謂心理学は個人心理の――実験的乃至内省的――研究をその勝れた性格としていたから、この新しい――社会的――心理学は、まず第一に従来の心理学に対する批判として理解される。従来の所謂心理学の対象であった個人心理に対してそれ相当の限界を指し示すことによって、社会心理学は、何か個人心理以外のものにその対象を求めねばならない。夫は従来の心理学と同様な意味に於て、とに角一つの心理学でありながら、この従来の心理学にとって適切な固有の対象であった処の個人心理の限界の外へ眼を向けようとする。夫は個人的意識の概念に立ちながら(だからそれは従来と同じ意味での心理学であることが出来た)、個人的意識以外のものと想像されるもの――社会心その他――を取り扱おうとする。それは元来凡ゆる意味で内部的である個人の意識を何かの意味で社会にまで外部化そうとしながら、却って、自分自身は元の内部的な見地に立つことを固執する。ここにすでに初めから、方法と対象との間の行き違いのあるのを忘れてはならない。社会心理学が、社会の分析からではなくて、その名の通り意識の分析から出発する限り、今云った内部矛盾の運命を免かれることが出来ないだろう。――吾々はこの運命がどういう形で実際に展開するかを見よう。

 意識の分析から出発する社会心理学は第一に、社会の心理学的研究の形態をとる。W・マクドゥーガルは、社会に関する諸科学の専門家達が心理学に対する素養に乏しいために、諸社会科学が正常な見透しを欠きはしないかを警告している*。この見方からすれば、社会の諸事象は、心理学的見地――意識から出発する――に立つのでなければ、正しく理解・説明・記述出来ないと考えられる。否、心理学的見地に立つことだけが、心理学的――それは結局個人心理学的――方法だけが、唯一の社会学的方法となる。そして若し社会学が、社会を何か人間の心と心との関係というようなものと考える限り、社会学自身の側からもこの主張は承認されねばならない筈である。――かくて社会の諸事象は意識によって、意識を説明原理として、初めて説明されることとなる。吾々は処で――前にも云ったが――凡そ存在を意識によって説明せねばならぬと考える仕方を一般に観念論と名づける。今や社会は、即ち又歴史は観念論的歴史観――云わば唯心史観――によって説明されねばならなくなる。このようにして社会心理学の本質は、第一に、観念論的歴史観を意味するのを注意しなければならない。この場合の社会心理学の宿命から云って、この多少悲劇的な乃至は寧ろ喜劇的な結末は必然であった。
* 「心の構造と作用に関して確実な真理の体系を建設することを要求し、又この知識を洗練し増加しようと努める処の心理学が、之まで、凡ての社会科学がその上で成立すべき本質的な共通の地盤としては、一般的に又実際的に承認されなかったということは、注目すべき事実である。」(McDougall, An Introduction to Social Psychology, Introduction)。
 社会心理学のこの観念的歴史観を最も露骨に示すことを恐れなかったものは、最も勝れた代表的な社会心理学者G・ル・ボンである。彼によれば、著しい歴史的な出来事は、歴史家達によって之まで決して充分な説明を与えられることが出来なかった。その理由は何より先に歴史家達が心理学的見地に立つことを忘れたからなのである。歴史家達は、歴史を動かす人物の性格――指導者や群衆の――心理に関して殆んど全く無知であった。歴史的運動の初めの衝撃は、往々人々の想像するように群衆によって与えられるのではなくて、却って幾人かの指導者達によって与えられるのであるが、この衝撃に従ってその後の運動を実行に移すものは矢張り群衆でなければならない。だから著しい歴史的諸事件は皆、群衆による運動として結果しているのである。で歴史の運動を結果する動力は、群衆に、而かも群集の心理に、横たわる。この群衆の心理を知らなければ、歴史の真の原因は見出すことが出来ず、従って歴史は不可解な謎となるだろう。――処が群衆の心理の特色は、それが決して理性的な論理を以ては動かないという点に存する。そこで支配するものは本来の推論ではなくて一種のアナロジーに過ぎず、原始人に見出だされると同じい感情の論理に外ならない。ル・ボンは之を「集合論理」(logique collective)と名づける。「群衆精神」(l'※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)me des foules)は至極衝動性暗示性に富み、丁度催眠状態と同様な一種の無意識現象を呈するのであるが、其処に動くものが、この集合論理なのである。この論理に於てはもはや理知はその部署を捨てているから、その限り夫は一種の神秘的な力によって動かされる。論理は信念――信仰――に場所を譲らなければならぬ。群衆の精神を動かすものは宗教であるということになる。だから歴史を動かすものも亦、今群衆を動かした処の宗教である。歴史の原動力は、理性ではなくして宗教である。――処が歴史家達は、群衆の心理のこの特色を知っていないがために、歴史的出来事の結局の原因を突き止めることに成功することが出来なかった、彼等は歴史が何か合理的な意識によって指導されるかのように想像しているからである。こうル・ボンは主張する*。この観念論的な歴史観に立って、彼によれば歴史家達が説明し難い最も不可解な歴史現象と考えるフランス革命を、説明するのに成功したと彼は考えている**。
* G. Le Bon, Psychologie des Foules ; Les Opinions et les Croyances 及び La R※(アキュートアクセント付きE小文字)volution fran※(セディラ付きC小文字)aise et la Psychologie des R※(アキュートアクセント付きE小文字)volutions 其他参照。――なおこの種の論理の解明はリボーやタルドの夫とは全く軌を一つにしていることを注意すべきである。
** La R※(アキュートアクセント付きE小文字)volution fran※(セディラ付きC小文字)aise ……を見よ。
 ル・ボンによる巨大な一連の社会心理学的研究の諸労作は、現代に於ける唯心史観の、恐らく最も恰好な見本であろう。なる程之まで、歴史の合理的な原因が首肯出来る程度に与えられなかった場合、このような――意識による――説明も亦、夫が一応統一的である限り、決して無益ではない。だが吾々は今、このような史観が一般にどのような欠陥を有つか、それが又どのような社会的勢力と結合しているか、又それからル・ボン自身がどのように俗流的な無責任な結論を引き出だすか、などに就いて語る必要を有たない。問題は、社会心理学という科学が、このような場合――意識から出発する場合(そうでない場合もあった筈であるが――前と後とを見よ)――如何に観念論的歴史観に到達せねばならないかを、この代表的な社会心理学者ル・ボンに於て見ることが出来る、という点に存在する*。
* ル・ボンの『群衆心理学』は最も重大な古典的文献であるが、それに対する批評も亦決して少なくない。それに就いては G. M※(ダイエレシス付きU小文字)nzner, Oeffentliche Meinung und Presse を見よ。
(この場合に於ける社会心理学なるもの――そして之は何もル・ボンだけの社会心理学に限られてはいない――の、科学としての性格は、だからすでに明らかである。人々は従って、之が階級社会に於て事実上演じる役割が何であるかを容易に知ることが出来る。)
 ル・ボンの群衆心理学を、独特な仕方で補ったのは――再び――フロイトであった。フロイトはル・ボンの群衆心理学の内に、自分の Tiefenpsychologie と同じ結論を見出す*。ル・ボンは、群衆の心理が至極催眠状態に似ていることを指摘し、群衆が原始人と同じ意識状態に置かれるものであると主張する。之等の記述はフロイトが見た精神の規定と誠に能く合致するだろう。併し何より大事な一致は、ル・ボンが群衆心理を一種の無意識現象と見た点に横たわっている。群衆は自主性を失った無意識の内に行動する。処が無意識こそはフロイトによれば、精神の深い奥底であった。ル・ボンが群衆心理に於て見た処のものは、今云った限り、実はフロイトが精神――それは併しまだ群衆の精神ではない[#「まだ群衆の精神ではない」は底本では「まだ群衆の精神ではない」]――に於て見た処のものである。だからそこで、フロイトの精神分析は、ル・ボンの群衆心理学にまで移行して然るべきではないか。こうやってフロイト精神分析学は社会心理学――特にここでは群衆心理学――の領域へと進出する(フロイト主義による社会心理学一般に就いては二に於て述べた)。フロイトはル・ボンの群衆心理学をどう補ったか。
* S. Freud, Massenpsychologie und Ichanalyse (2 Aufl.) ――以下之による。
 ル・ボンによる無意識の概念と、フロイトによるそれとの間には併し、見過すことの出来ない一つの根本的な相違が横たわっている。外でもない、フロイトの無意識は、その特有な一部分として欲望の抑圧されたものを含んでいた。そしてこの抑圧されたものとしての無意識こそ、フロイト精神分析の理論と技術との槓杆だったのである。フロイトは理論のこの槓杆を用いて、精神の諸現象を説明しようと企てる。そこで群衆心理も亦、フロイトによって同様の仕方で説明され得なければならない。ル・ボンは群衆心理の特徴を単に記述したに止まる、精神分析は、之を原理的に説明することが出来る、というのである。群衆が一種の催眠状態に陥ることは何を意味するか、群衆が原始人の意識状態に還るとは何の意味であるか、何故群衆は無意識的に原始的・反社会的な行動をとるのか。凡そ群衆によって生じる精神のこれ等の諸変化はフロイトによれば、リビドーと社会による夫の抑圧とによって説明されるわけである。――人間の精神はただ社会的歴史的(乃至遺伝による)強制によってのみ原始状態から引き離されている。人間の原始的な自己愛のリビドーは併しただ抑圧されて眠っているだけで、決して死んでいるのではない。原始的な自己愛のリビドーが有つ直接的な性的欲望と、目的の実現を抑圧された性的欲望とが、同時に存在するのが愛着(Verliebtheit)ということであるが、その際愛着の相手が自我理想――超我――となり、直接な性的欲望の目的実現が禁じられたのが、催眠の現象である。催眠(愛着も亦)は二人の人間の間の関係であるが、群衆とは恰もこの催眠を複合した処のものである。ここに群衆心理が催眠状態と同じである原因が横たわる。だが群衆の現象が催眠現象と異る処は、夫が個人の他の諸個人に対する同一視(Identifizierung)を加えているという点である。と云うのは、一つの集団内の各個人は、オイディプス錯綜に於ける嫉妬の対象たる父を意味する処の、指導者・指揮者・将軍・長老等に取って替わる代りに(それが結局許されないから)、せめて自分を之と同一視して満足しようとする。これはやがて各個人間の同一視を容易に結果する。ここに集団が――人工的な永続する群衆(例えば軍隊や教会)が――成り立つというのである。集団乃至群衆はリビドーによって成立する。それは原始的な性的欲望の一つの満足形式に外ならない、それはその限り原始時代への退行を意味する。群衆が原始人の意識状態に帰り、又時としては反社会的・犯罪的・行動に出勝ちなのは、ここから説明されることが出来る。――フロイトはこうしてル・ボンの群衆心理学に一つの説明原理を補足する。
 フロイトによれば、群衆は、集団は、従ってやがて又社会は、愛着や催眠の延長である。群衆・集団・社会の生命の本質はリビドーと名づけられる根本的な一欲望に過ぎない。――ル・ボンの観念論的歴史観(乃至社会観)は、フロイトの群衆心理学によって、誠に遺憾なく、観念論的に補足されたのを見ないか。だが一般にフロイト主義が個人心理学的方法による処の、即ち意識の分析から出発する処の、理論であった限り、群衆心理学に於けるこの不始末は初めから必然的であった。

 吾々は社会心理学を一般的に語って来ながら、ル・ボンとフロイトとの研究を通じて、何時の間にか、群衆心理学の問題に来て了った。実際、群衆心理学(又は集団心理学)は、無論社会心理学の凡てではないが、その中心をなしている。
 だが茲でも亦吾々は群衆(乃至集団)心理学なるものの科学的意図を検閲しなければならない――社会心理学の場合と同様に。夫は無論群衆乃至集団の心理学である、併し実はただそれだけではない。多くのそれは、群衆乃至集団を本質から云って第一義的に心理的乃至精神的なものと仮定し、そしてそこで初めて之を心理学的に記述又は説明しよう、という意図を有っているのである。全く、都合の好いような仮定に基けば、都合の好い説明を下すことは容易だろう。併し一般に社会がそうであるように、群衆乃至集団の本質は、第一義的に、決して心理的乃至精神的なものに求められてはならない*。何故なら、例えば階級――之は少なくとも一つの集団である――の本質は階級意識にあるだろうか。もしそうならばプロレタリアはプロレタリア的階級意識さえ持たなければ、貧乏しないで済む筈ではないか。――それにも拘らず、社会心理学者達は、群衆心理学乃至集団心理学に於て、群衆乃至集団に心的――心理的乃至精神的――本質を発見する。群衆心又は集団心(group mind)なるものがこの本質の――この実体の――名なのである。
* 群集(Masse)は単なる群衆(crowd)であるばかりではなく又大衆をも意味する。そして大衆は必ずしも単なる集団(group)と一つではない(拙稿「科学の大衆性」――『イデオロギーの論理学』【前出】の内――を見よ)。crowd と group との区別はマクドゥーガルによって与えられた(The Group Mind, p. 21 ff.)。一体 Masse の概念は従来あまり正しく分析されていないように見える。例えば G. Colm, Die Masse (Archiv f. Sozialw. u. Sozialpolitik. 1924) がその一例である。
 社会心理学は群集(乃至集団)心理学に集中されると云ったが、群衆(乃至集団)心理学の問題は更に、集団心(乃至群衆心)の問題に集中される*。W・マクドゥーガルは茲で代表的な位置を占めている(The Group Mind, 2 Ed. 1926**)。
* 「集団心という言葉が技術上不都合であるにしても、この言葉によって示される領域の研究は進捗しつつある。そしてそれが普通社会心理学と呼ばれる処のものの中心で最も本質的な部分であることが愈々益々認められて行くだろう。」(McDougall, The Group Mind, p. ※[#ローマ数字17、212-上-17])
** この「集団心」は社会心と一般に呼ばれるものの代表者である。社会心の概念はマクドゥーガルの集団心の外にいくらでも数えることが出来るだろう。Espinas の conscience multiple、デュルケム及び L※(アキュートアクセント付きE小文字)vy-Bruhl の repr※(アキュートアクセント付きE小文字)sentation collective(之は後を見よ)、ルソーの volont※(アキュートアクセント付きE小文字) g※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)rale, T※(ダイエレシス付きO小文字)nnies の Wesenwille, ヘーゲルの Volksgeist 等々(M. Ginsberg, The Psychology of Society, 1921 参照)。
 処でマクドゥーガルの集団心の概念は、その構成の過程に於て一つの無理を有っている。彼によれば社会的集団は一つの集合的精神生活を営むものであるが、これは、その社会に属する個人が単なる個人として営む精神生活の総和以上のものでなければならない。処で社会はマクドゥーガルによれば単にこの集合的な精神生活を営むばかりではなく、それ故に又一つの集合心(collective mind, collective soul)を有つものと考えられて好い、と云うのである。之が集団心の概念なのである。で問題は、社会が――個人がではない――有つ処の心という概念がどうして許せるかに存する。それは云うまでもなく個人の心で尽きない処の、超個人的な心であるが、一体吾々はそういう「心」を考えることが出来るか。マキヴァーはこの点に就いて鋭い批判を加えている*。彼に従えば心の主体である個人の二人の間に生じる心的関係は決して二人の心を含む独立した「心」という性格を有つことは出来ない。もし仮に夫が心であるならば、二人に共通な一つの心は、例えば教会の有つ心の部分でなければならず、教会の有つ心は又国民の有つ心の一部分でなくてはなるまい。かくて多くの心と心が相互に喰い込むことが出来ることになる。処が心――個人の――の特色は銘々が独立の体系の主体であって相互に喰い入ることの出来ないものだという処に横たわる。だのに二人の間の心理関係はそういう特色を有ってはいない。それは心であることが出来ない。集団心の概念は、単に、個人の心が周囲の社会的環境によって支配されるという事実を、極端な言葉で云い表わしたものに外ならない。それだのにマクドゥーガルは、個人の心の外に、集合心乃至集団心が存在するかのように考えている。こういう心の概念は成り立つことが出来ない。そう云ってマキヴァーは攻撃する。――無論マクドゥーガルは心が常に個人によって所有される処のものに外ならないことを忘れない。だが彼は一方に於て心を至極広い意味に、そして集団心の概念を許すのに都合の好いように、定義する**。彼によれば特に、心の構造機能とは区別されねばならない。心の構造は個人の心にぞくするが、その機能は必ずしも個人心理的なものには限らない、集団心は個人の心によって所有されるには違いないが、なおそれとは独立に、夫は一つの実在性を有っている、とマクドゥーガルは考える***。――だが、このような集団心の実在性――実体性――に就いては、マクドゥーガルの弁明にも拘らず、人々は依然として、合理的な概念を有つことが出来ないだろう。
* R. M. Maciver, Community, p. 76―88.
** 「吾々は心を、精神的乃至目的的諸力の組織的体系として定義して好い。こう定義された意味に於ては、高度に組織された人間社会が集団心を有つ、ということが出来る。」(McDougall, Psychology, p. 229)
*** 「で、集団心の実在性を仮定するのは、独り私ばかりではない。」(McDougall, The Group Mind, p. 19)
 集団心の概念構成がこのように無理であることは、この概念が個人心の概念と区別されるにも拘らず、飽くまで夫が個人心から区別された限りの、即ち個人心から出発して構成された限りの、心の概念だからである。実際、の概念であるならばそうある外はないだろう。――吾々の言葉に直して云うならば、集団心とは、個人の意識から出発して初めて個人の意識から区別された処の意識概念、即ち個人的意識の概念、の一つの場合に外ならない。それが個人的意識の概念にぞくしながら、それにも拘らず超個人的な――集合的な――性格を有たねばならなかった処に、この概念の無理があったのである。実際マクドゥーガルは、集団心の研究があくまで個人心理の研究から出発すべきであることを、特に強調することを忘れない。――だからこそ彼による集団心の概念が、あのように曖昧であらざるを得なかったのである。
 マクドゥーガルの社会心理学――群衆心理学乃至集団心理学・集団心の理論――は、吾々が見た之までの他の諸社会心理学と同じく、社会の分析から出発する代りに、意識の――無論其が個人的意識の――分析から出発する*。――之は観念論的社会理論の部分的な一結果に過ぎない。
* この点で、マクドゥーガルはフロイトと全く一致する。実際、マクドゥーガル自身の云う処によるとフロイト主義に於て錯綜(Komplex)と呼ばれたものは、マクドゥーガルの心理学に於ける Sentiment の概念と一致する。
 さて集団心の概念が困難である限り、之を中心とした群衆心理学の問題も、人々は解くことが出来ない。処が夫が解けなければ、群衆心理学を中心とする限りの社会心理学の問題も亦解けない。意識――それはこの場合常に個人意識の従って又個人的意識の概念である――の分析から出発する限り、社会の心理学的分析は出来ない。そういうことが今指摘された。ブルジョア科学に於ける、所謂社会心理学は、自ら掲げる問題を解くことが出来ない、所謂社会心理学は社会心理学ではあり得ない。――だから今までの結果から吾々はこう結論することが出来る。ブルジョア的社会心理学によっては、かの社会人の心理乃至イデオロギー――夫が社会と意識との連絡点を示す筈であった――を分析することが出来ないと。

 所謂社会心理学と呼ばれているものは、社会の分析を意識の分析から始めた。では、今度は逆に、社会の分析から出発して意識の分析に到着する途はないか。デュルケムの方法は一応この場合に相当する。彼の集合表象(repr※(アキュートアクセント付きE小文字)sentation collective)の概念はレヴィ・ブリュールによって展開された。集合表象と呼ばれるこの一種の社会心は、恰もル・ボンやフロイトやマクドゥーガルの群衆心理と同じく、神秘的前論理的な働き方をする。例えばそれは事物を因果関係によって関係づける代りに、participation と呼ばれる一つの仕方によって結合する。だが之等の人々の諸概念とデュルケム乃至レヴィ・ブリュールの社会心――集合表象――の概念との相違は、前者が単に云わば心理学的乃至結局は形式社会学的であったに対して、後者が特に歴史的だという点にある。と云うのは、後者は、歴史的に云って吾々文明人に先だつ処の原始民族が、実際に有っていた表象の仕方であることを実証される処に、そのアクセントを有つ概念なのである(無論この実証はこの歴史の反覆物としての現在の未開人や小児に就いて行われるのであるが)。それはもはや単なる群衆や集団の意識――表象――ではなくて第一に未開人――この歴史的社会的存在――の有つ表象であったことを忘れてはならないように出来ている。この意味で、従来の社会心の諸概念に較べて夫は著しく歴史的特色を担ってはいる、それは原始民族という現実の社会的存在から出発して得らるべき概念なのである。それだけこの社会心――集合表象――の概念は、仮空的でなくて現実的ではある。だからそれだけそれは合理的に説明されることも出来るわけである。実際、例えばマクドゥーガルの単に心理学的な集団心の概念――それは実は国民を説明するための準備なのだが――が至極不合理であったに較べて、これは遙かに合理的な説明を与えられることが出来る。集合表象は、「与えられた社会群に共通であり、時代から時代に推移し、個人を強制し、個人をして場合々々によって、この表象対象に対する尊敬・恐怖・讃嘆の感情を懐かせる」ものだというように*。もはや集合心(ル・ボンの l'※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)me collective やマクドゥーガルの group mind, collective mind)というような、個人心から独立した心が存在するのではなくて、各個人に共通な、個人としての個人の心の機能とは異って機能する、集合表象という表象の仕方が行なわれるに過ぎない。――このように説明されてこそ初めて、社会心の概念――集合心・群衆心理等々――も、一応は落ち着くべき処に落ち着くことが出来るだろう。
* L. L※(アキュートアクセント付きE小文字)vy-Bruhl, Les Fonctions Mentales dans les Soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字)s Inf※(アキュートアクセント付きE小文字)rieures, Introduction. ――序でに読者は注意すべきだ。この書物の名前が例えば社会の心理というようなものの研究を意味してはいずに、社会に於ける心的機能の研究であることを。
 デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによって与えられた、原始民族の意識と文明人の意識との相異その他に就いては、今は省こう。今大事なことは、デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによる意識の分析が、社会の分析から出発すると云う点にあるのである。それは所謂「社会心理学」と方向を反対にする。それであるからこそ却って初めてここで、社会心理学が本来目指していた問題が、一応無理なく――その深浅は別として――解かれることが出来る。ブルジョア社会心理学の泥濘から抜け出す道が茲に横たわっている。――で、吾々はこの実証主義的社会心理学を批判することによって、吾々の社会心理学――イデオロギー論――にまで抜け出ることが出来るだろう。

 実証主義の精神は常に、或る意味に於て歴史的である。それは歴史的予見のために知識を追求するのを目的とする。だが又それは、他方に於て、原因の概念を用いて歴史的運動を説明すること――これは実証主義者によれば一括して形而上学的と呼ばれる――を却ける。事物の諸現象は単に記述さるべきであり、理論はただこの諸記述の中から一定の諸法則を抽出しさえすれば好い。この場合必要になる研究方法は、おのずから、比較的方法(comparative method)であらざるを得ないであろう。併し比較法とは、実は却って現象の単純な反覆性を仮定している、もし現象が単純に等質的に繰り返さなければ、――尤もどのような現象でも何かの意味では反覆する――、現在存在する現象の比較の結果を、過去の現象にまで及ぼして結論することは出来ない筈である。実際主義――比較的方法――は歴史の単純な反覆性を仮定する。それによればコントの歴史三段階説にも拘らず、歴史の本質である発展の質的飛躍――歴史の段階的展開――は実は存在しない。歴史は実証的段階に入るや此の段階的展開を閉止する、実証的段階は不動で永久でなければならぬ。実証主義の社会学は、他の社会学乃至社会心理学に較べては、社会現象に於ける時間の要因を一応見遁さない点で、歴史的ではあるのだが(これはサン・シモンやコント等のぞくしていたブルジョアジーの一時的な進歩性を言い表わす)、その歴史が結局――ブルジョアジーのその後の反動性と共に――非歴史的なものとしてしか把握されない。だから社会は結局非歴史的なものとしてしか把握されず、即ち社会は非社会的なものとしてしか把握されない(第五章を見よ)。デュルケム乃至レヴィ・ブリュールの社会心理学は、他のブルジョア社会心理学とは反対に、意識の分析からではなくて社会の分析から出発したが、折角のこの社会が非社会的――非歴史的――にしか掴まれていなかったわけである。実証主義的社会心理学は、だから、社会の分析から出発するという方法を、徹底することが出来ない。それは正当に社会を分析し得ないのだから。ここでも社会はブルジョア社会としてしか、又はブルジョア社会を標準としてしか、理解されていない。
 社会のこの分析が正当でないことは、デュルケムの社会学主義の精神の内にも見出される。それは人間的諸事物を、自然や観念の概念を用いて解明する(自然主義・観念論)代りに、正に社会的存在として之を解明する企てであるが、それは無論好いとして、処がこの社会が飽くまで社会プロパーに止まっていて、――ブルジョア社会は永久化されて社会プロパーとなる――経済的な原因にまで掘り下げられて分析されていないという、盾の半面を持っている。夫は所謂――この概念を吾々は決して承認しないのだが――経済主義に対立する意味に於ても亦社会学主義なのである。だからデュルケムの社会学は――而も夫は一つの世界観・哲学に名づけられるに値いするが――、社会の物質的基底(物質的生産関係)の分析から出発しないで、多少ともそれが社会プロパー化された処の中途の段階から出発する。分業の概念などが之に外ならない(分業論はブルジョア社会学の最も得意とする業績である)。実際ブルジョア社会的に理解された社会は、分業の進歩によってでも進歩する外に変化の仕方を有てないだろう。
 吾々の社会心理学は、意識の分析を、社会の分析から始めねばならない。而もこの社会の分析は、所謂社会関係からではなくて経済関係(物質的生産関係)の分析から始められねばならない。そうしないと、社会は根柢的に解明出来ないのである。こうすれば社会は初めて、歴史的発展段階を有つ一つの生命過程として合理化される。こういう社会の分析から出発して初めて、意識の問題は正当に解かれることが出来る。――吾々は実は、初めからこういう立場に立って語って来た、そのために吾々は予め、プレハーノフを引用してかかったのである。

 そこで吾々はもう一遍、社会人の心理乃至イデオロギーの概念を取り上げよう。
 吾々の社会分析の結果を仮定すれば、社会は、物質的生産関係の物質的・内的・矛盾からして、階級社会を結果する。但し一つの社会という容器の中に幾つかの階級が存在するとか、又は幾つかの階級が社会部分をなすとか、云うのではない。一社会が諸階級のどれか一つによって代表されるべく置かれていると云うのである。一つの社会に対して、この階級か又はそうではなくて他の階級かが、自己同一化されねばならない。この際無論二つのものは相互に排撃せざるを得ない。だから、階級社会とは階級対立社会――階級闘争の社会――の外ではない。同語反覆的にそうなのである(だから幾つかの諸階級も二つの対立階級に集約される)。――さて、社会が階級をその性格とするから、社会人の心理も亦、階級によって性格づけられねばならない。吾々の見て来た最後の方法から云って之は必然的である。意識はまず第一に階級意識――又は階級心――として性格づけられ、そういうものとして分析されなくてはならないのである。意識はそういう意識形態として、一種の意味でのイデオロギーと見られなくてはならない(吾々は意識形態としてのイデオロギーと文化形態としてのイデオロギーとを区別する。社会人の心理――階級意識――は今、前者の意味に於てイデオロギーだと云うのである)。
 階級意識の分析で最も眼立たしいのは処で、G・ルカーチであろう。だがルカーチによる階級意識とは何であったか。それは生産過程の一定の典型的な情勢に帰属せしめられる処の合理的に適合されたる、生産過程の反作用である。と云うのは、階級意識とは、決して、個々のプロレタリアの心理的意識でもなければ、プロレタリア全体の集団心理学的意識でもない、階級の歴史的情勢が意識された処の意味(Sinn)なのである。それは無論単なる擬制ではない。併しそうであるからと云って何等心理学的実在性を有つものでもない。それは実際にプロレタリア個人によって意識された意識ではなくて、プロレタリア個人によって意識されるべきである処の――実際はまだ意識されていない――「客観的な可能性」に外ならない。この客観的可能性に過ぎない階級意識を事実として現実化することによって初めて、世界の経済的危機の実践的解決も可能になる、と云うのである*。
* G. Luk※(アキュートアクセント付きA小文字)cs, Geschichte und Klassenbewusstsein, S. 62―3, 86―8, 92 etc.
 だからルカーチに従えば、階級意識とは、要するにプロレタリアがもつ現実の意識ではなくて、あるべき理想的な意識である。それは心理的な実在から独立に理解された論理的な意味の世界である。意味とはリッケルト達に従っても、成程仮構物ではないがどのような点でも存在ではない。この新カント主義の意味論がマックス・ヴェーバーを通ってルカーチに来ているのである。階級意識は存在ではない、それは理念である、それは歴史的情勢の分析の結果初めて有たれるであろう処の意識の、非現実性――理想性――を云い表わすための概念である、決して歴史的情勢の分析を動機する処の原因を示すものではない。プロレタリアの有つ事実上の階級意識は歴史的情勢の分析の原因である、処がこの歴史的情勢の分析の結果初めて之に帰属せしめられねばならぬルカーチの階級意識は、誰によって有たれるのか。それは理論家――ルカーチがその一人――によってしか持たれない。理論家・インテリゲンチャの持ち得る階級意識は、プロレタリアの持っている階級意識の、理想・手本でなければならない。階級意識はもはや階級(プロレタリア)によって持たれることが出来ない、階級意識は非階級(インテリゲンチャ)によって初めて与えられる。こうなれば一体誰が主人であるのか。歴史に於ける理論・意識・インテリゲンチャの過重評価――所謂福本主義はルカーチの後裔である――はここに淵源している。
 ルカーチによる階級意識は、個人意識でもなければプロレタリア大衆(Massen)によって事実上持たれる群衆心理学(Massenpsychologie)的存在でもない。正に理論家によって持たれる処の、歴史の一つの説明原理――仮説――に外ならない。ルカーチはこの仮説に実在性を与えようとする、無論その実在性は明晰に把握され得ない、だがともかくも彼は之に信頼を置く。そこで彼の歴史理論――階級闘争理論――は、階級意識理論の単なる裏に過ぎなくなるわけである。彼によれば弁証法は歴史に於てしか、即ち又階級対立の意識に於てしか、存在しない。その限り、彼は結局に於て、歴史――社会――を意識によって説明しようとする形態を取らざるを得なくなるのである。
 ルカーチは社会人の心理・意識形態としてのイデオロギー――今は夫が彼の階級意識の概念で置き換えられたのだったが――を、個人の意識から区別しようとする余り、之を社会人の心理――例えばプロレタリアの心理――からさえ引き離して了う。かくて社会人の心理は実は何の実在性をも持てないような理論家専用の一つの作業仮説にまで浮揚する――丁度マクドゥーガルの集団心と同様に。かくて社会人の心理は、個人の心理から絶縁されて了う。処が事実は、社会に於ける個人が、社会に住むことによって持つ処の意識が、「社会人の心理」ではないのか。――吾々は個人的意識の概念に立て籠もることは之を却ける、それは個人意識をそのまま無条件に、機械的に、同一哲学式に、社会人の心理にまで移行させるからである。だが個人的意識の概念を禁止することと、個人の意識から絶縁せよということとは、全く別である。社会人の心理・意識形態としてのイデオロギー、プロレタリアが事実上持つ階級意識、之は社会に於ける個人の持つ個人意識(個人心理)が質的転換によって転化した処の、意識である。そして意識のこの質的転換を規定するものが社会の分析でなければならなかった。吾々は意識をこのような弁証法的概念として、――個人的意識の概念としてではなく――把握せねばならぬと云うのである。こう考えてこそ、階級意識も――その質的転化の歴史を溯源して――個人意識にまで主体化されることが出来るわけである。
 このようなものが吾々の社会心理学に於ける社会心――これはこれまでどの概念の下にも困難を伴った――である。このようなものが又、吾々に取って一般に、意識の概念なのである。こうした意識乃至社会心を代表すると考えられるものが、そして階級意識であった。夫は無論単に個人意識でもなく、そうかと云って社会理論のための作業仮説でもない。それはプロレタリアの代表的大衆――無論数学的な全部や多数ではない――の個々の心理の内に、様々の水準に於て又様々の側面を示しつつ、事実上生きている*。だがそれが階級という社会的性格によって集約されるから、それは一定形態――一定性格――の下に統一される。こうして集約され統一された限りの大衆の意識形態が、階級意識というイデオロギー――意識形態――なのである。
* L. Rudas のルカーチに対する批判はこの点で正しかった。
 吾々は今や、階級意識を代表的性格とすることによって、一般に意識形態乃至社会心の諸理論へ、分け入ることが出来る。茲には意識形態論としての(まだ文化形態論までは行かない)、イデオロギー論の多くの課題が待っている。――今は一二の例を挙げておくに止めよう。
 一、病理心理学又はフロイト主義精神分析は、吾々の社会心の概念に立って、もう一遍起用されて好いだろう。吾々は今日、個人的素質に於て非常に優れた人々が、その社会生活意識に於て病的精神状態に陥っている場合を我邦に於て相当沢山知っている。之は併し決して一個人の意識の問題として取り扱われるべきではない、それは云わば社会精神病理学的な見地から、見られなければ解決出来ない。実際これ等の人々も、単なる精神病学にとっては全く健全な患者に過ぎないだろうから。――そして注意すべきは、之が特に宗教と密接に連絡している場合が甚だ多いという事実である(例えば大本教)。元来宗教は一つの文化形態としてのイデオロギーであるが此処では夫が、何かの意味の宗教心理学を利用することによって、一つの意識形態としてのイデオロギーとして、社会精神病理学的に取り扱われねばならないだろう。
 二、イデオロギーは場合によって虚偽意識を意味する――前を見よ。併しイデオロギーの特色は、自分では決して夫を虚偽意識としては意識しない、ということにあるのである。その意味で、之はすでに一つの病的現象と見られなければならない。処が之は丁度無意識の問題に結び付いているのであって、この病的現象は、無意識的虚偽なのである。吾々は之を多くのヒステリー患者に於て見ると共に、殆んど凡ゆるブルジョア・イデオローグに於て見ることが出来る。だがフロイト主義によって個人心理の奥底に動いていると考えられたこの無意識は、実は茲では、社会によって、階級によって、操られている。ブルジョア・イデオローグは自分の階級性を承認しないから、自分が階級によって操られているのを見ることが出来ない。だからこそ自分の虚偽に就いて無意識なのである*(無意識的虚偽は虚偽なイデオロギー――文化形態としての――の体系を真理として打ち建てる、それは丁度、脳梅毒の強迫症の患者が、自分の恐怖の原因を梅毒に帰する代りに、恐怖の対象物に帰するような体系を打ち建てると変らない)。
* 拙稿「無意識的虚偽」(『イデオロギーの論理学』【前出】の内)を見よ。
 三、以上の二つに連関して、規範性(Normalit※(アキュートアクセント付きE小文字))の問題が生じる。吾々による価値論――価値意識の理論――は、この病理学的・犯罪学的・道徳学的な規範性の概念にまで結びつけられなければならないだろう。
 其他々々。併し大切な点は、社会心に就いてのこれ等の諸課題が、階級意識を中心として取り扱われない限り、纏りが付かないだろうということである。即ち之がイデオロギーの理論に立って初めて節度を与えられるだろうということである。と云うのはこうしたイデオロギーの「心理学」は、イデオロギーの論理学によって初めて骨格を与えられるだろう、ということである――第二章を見よ。

 さて吾々は最後に、意識形態としてのイデオロギーと文化形態としてのイデオロギーとの関係へ移ろう。併しなるべく簡単に(文化形態に就いては第三章を見よ)。
 文化――その形態としてのイデオロギー――は、もはや意識ではない。だがそれは云わば意識の客観化されたもの、意識の所産である。それは作品や設備機関に結び付いた主体であると云うことが出来る。だから夫は意識形態を媒介とすることによって説明されねばならない。そしてこのことは取りも直さず、階級意識を媒介とすることによって説明されねばならぬということに集中する。――実際、吾々の社会心理学は外でもない、元来このような役割を果すためにこそ、用意されねばならなかった。併し階級意識を媒介として文化現象を説明することは、もはや単に何かの意識――社会意識其他――だけを説明原理とすることではあり得ない、何故なら吾々による意識はすでに、経済関係従って又政治関係――階級――を背景に持つものであったから。文化形態は意識形態から生じるが、それは後者の単なる自己同一的な延長ではなくて、後者が最も高次な或るものに質的に転化した処のものである。それは必ずしも意識形態の内には見出されなかった処のそれ特有の歴史的運動条件に従う*。それにも拘らず之は階級意識を媒介としなくてはならない。と云うのは、それは階級を原理として分類され対立せしめられ段階づけられねばならない。例えば前にも云ったように、オーストリア学派の経済学は金利生活者階級の経済学であり、それは金利生活者の社会心理を媒介とすることを通して批評されねばならなかったのである。之が文化形態論としてのイデオロギー論の根本的な一般方針であった。だがこのことは誰でも知っている。ただ多くの人々は必ずしも夫を自覚することなしに行っているか、又は意識的に行っていないと云うに過ぎない。社会心理学はイデオロギー論となることによって、初めて文化社会学にまで媒介されるのである。
* A・ヴェーバーは「社会過程」の床の上に横たわる二つの文化形態――精神的なる「文化」と知的な「文明」と――を区別して「文化」の歴史的発展は常に突然な創造の形態を示すのだから、文化の発展に就いては統一的な原理を見出すことが出来ない、高々これを類型化すことが出来るばかりだ、と云っている(第四章を見よ)。――吾々は之と似た区別をM・シェーラーの文化社会学にも見出す(第五章)。だが文化――夫は此等の人々によれば特に精神的なものとして強調される――の運動形態が、統一的に理解出来ないのは、之をイデオロギーとして取り扱うことを知らないからに外ならない。
 社会と意識との関係は、今日多くの人々が持つような社会の概念と意識の概念とを用いては決して決定出来ない。吾々がもし両者の関係を見たいならば――そしてこの関係は吾々にとって最も重大な現在の問題の一つである――、吾々は社会をも意識をも、マルクス主義的範疇――イデオロギー論の範疇――を用いて理解する外に道がない。なぜそうであるか、一切の代表的なブルジョア社会心理学者(乃至社会学者・心理学者)及び其他が、恐らくその優れた頭脳にも拘らず、その方法の武器が拙劣なために、社会と意識との関係を説明するのに如何に失敗したか、読者は吾々と共に、夫を見なかったか。

      ――――――――――――――――

 吾々はかくて、社会意識の問題を文化の問題へ媒介することが出来た。それは社会心理学を文化社会学乃至知識社会学へ媒介することである(第四章及び第五章)。処が夫が、意識形態としてのイデオロギーを文化形態としてのイデオロギーへ媒介することに外ならない。イデオロギーの「論理学」は、イデオロギーの「心理学」と文化の「批評」との、こうした結合を与える処のものであった。それを第一部に於て吾々は見ておいた。
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其他
以上

底本:「戸坂潤全集 第二巻」勁草書房
   1966(昭和41)年2月15日第1刷発行
   1970(昭和45)年9月10日第7刷発行
底本の親本:「イデオロギー概論」理想社出版部
   1932(昭和7)年11月
※底本で使用されている「〔〕」は、底本編集部が注記した箇所に使われています。「〔〕」がアクセント分解を表す括弧と重複するため、「【】」と置き換えました。
※「*」は注釈記号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:矢野正人
校正:トレンドイースト
2010年4月20日作成
2010年11月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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