一

「そんな事があるものですか。」
「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、つまらないと思うあとから声がします。」
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構あるおおがまえの旅館の奥の、母屋おもやから板廊下を遠く隔てた離座敷はなれざしきらしい十畳の広間に泊った。
 はじめ、停車場ステイションからくるまを二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
 で、上靴を穿かせて、つるつるする広い取着とッつきの二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段はしごだんあがってくので、つれの男は一段踏掛けながらあわただしく云った。
「三階か。」
「へい、四階しかいでございます。」と横に開いて揉手もみでをする。
「そいつはたまらんな、下座敷は無いか。――貴方あなたはいかがです。」
 途中で見た上阪のぼりざかの中途に、ばりばりと月にてた廻縁まわりえん総硝子そうがらす紅色べにいろの屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透みとおしに高い四階は落着かない。
「私も下がい。」
「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。ほかには唯今ただいまどうも、へい、へい。」
「古くっても構わん。」
 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
 人の事は云われないが、つれの男も、身体からだつきから様子、言語ものいい、肩のせた処、色沢いろつやの悪いのなど、第一、屋財、家財、身上しんしょうありたけを詰込つめこんだ、と自らとなえる古革鞄ふるかばんの、象を胴切りにしたような格外のおおきさで、しかもぼやけた工合ぐあいが、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
 私は枕をもたげずにはいられなかった。
 時に、当人は、もう蒲団ふとんから摺出ずりだして、茶縞ちゃじまに浴衣をかさねた寝着ねまき扮装なりで、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角まっしかく
 で、二けんの――これにはかけものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこにくだんの大革鞄があるのである。
 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりとふくだみをゆすった形が、元来、仔細しさいの無い事はなかった。
 今朝、上野を出て、田端、赤羽――わらびを過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
 私は妙な事を思出したのである。
 やがて、十八九年もったろう。小児こどもがちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間まっぴるま。両側に小屋を並べた見世みせものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
 血だらけ、白粉おしろいだらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多あまたの看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
 続き、上下うえしたにおよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、ふすま黄金箔きんぱく、引手に朱のふさを提げるまで手をめた……芝居がかりの五十三次。
 岡崎の化猫が、白髪しらがきばに血を滴らして、破簾やれみすよりも顔の青い、女を宙にくわえた絵の、無慙むざんさがまなこを射る。

       二

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 とそそる。……
 が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上もみあげ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散まきちらすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴はおりはかまが一人、真中まんなかに、白襟、空色紋着もんつきの、廂髪ひさしがみせこけた女が一人まじって、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言もものいわず。
 ただ、時々……
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然もくねんとして澄まし返る。
 容体がさも、ものありげで、鶴の一声というおもむき※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがき騒いで呼立てない、非凡の見識おのずからあらわれて、うちの面白さが思遣おもいやられる。
 うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気からせば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲むしろがこいの廂合ひあわいの路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。
 正面を逆に、背後うしろ向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵あらむしろ二三枚。
 前に青竹のらち結廻ゆいまわして、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個ひとつ……※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしてもながめても、雨上あまあがりの湿気しけつちへ、わらちらばったほかに何にも無い。
 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量おもみあぶまして、筵の上に仇光あだびかりの陰気な光沢つやを持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠おおなまこに手が生えて胸へのっかかる夢を見てうなされた。
 梅雨期つゆどきのせいか、その時はしとしとと皮に潤湿しめりけを帯びていたのに、年数もったり、今は皺目しわめがえみ割れて乾燥はしゃいで、さながら乾物ひものにして保存されたと思うまで、色合、恰好かっこう、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色のせた鼠の半外套はんがいとうそでに引着けた、その一人の旅客を認めたのである。
 私はじって、――長野泊りで、明日あすは木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、くすぐったい心地がした。
 しかも、その中から、怪しげな、不気味な、すごいような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。
 少くとも、あの、絵看板を畳込たたみこんで持っていて、汽車が隧道トンネルへ入った、真暗まっくらな煙のうちで、さっと化猫が女をむ血だらけなはかまの、真赤まっかな色を投出ほうりだしそうに考えられた。
 で、どこまで一所になるか、……稀有けうな、妙な事がはじまりそうで、あぶなっかしいうちにも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。
 けれども、その男を、年配、風采ふうさい、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者きとうじゃ、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家うらないやだの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切わぎりにした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。
 一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知己ちかづきになって知れたが、都合あって、飛騨ひだの山の中の郵便局へ転任となって、その任におもむく途中だと云う。――それにいささかうたがいはない。
 が、持主でない。その革鞄である。

       三

 這奴しゃつ窓硝子まどがらす小春日こはるび日向ひなたにしろじろと、光沢つやただよわして、怪しく光って、ト構えたていが、何事をか企謀たくらんでいそうで、その企謀たくらみの整うと同時に、驚破すわ事を、仕出来しでかしそうでならなかったのである。
 持主の旅客は、ただ黙々として、俯向うつむいて、街樹なみきに染めた錦葉もみじも見ず、時々、額をたたくかと思うと、両手でじっ頸窪ぼんのくぼおさえる。やがて、中折帽なかおれぼうを取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪かみのけ引掻ひっかく。巻莨まきたばこに点じて三分の一を吸うと、なかば三分の一を瞑目めいもくして黙想して過して、はっと心着いたように、火先をななめに目の前へ、トかざしながら、じっと灰になるまで凝視みつめて、慌てて、ふッふッと吹落して、あとを詰らなそうにポタリとてる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企謀たくらんだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――
 お供の、やっこ腰巾着こしぎんちゃく然としたくだんの革鞄の方が、物騒でならないのであった。
 果せるかな。
 小春なぎのほかほかとした日和ひよりの、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側むこうがわを立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖ほおづえをついていたが、
「酒、酒。」
 と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白あおじろい顔も、もう酔ったように※(「火+赫」、第3水準1-87-66)かッいきおいづいて、この日向で、かれこれかんの出来ているらしい、ペイパの乾いたびん膚触はだざわりもあたたかそうな二合詰を買って、これを背広のわきへ抱えるがごとくにして席へ戻る、といそがわしく革鞄の口に手を掛けた。
 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般いつかの時のように。
 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許くちもとばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。
 それをじっと、酒も飲まずに凝視みつめている。
 私も弁当と酒を買った。
 おおき蝦蟆がまとでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷さじきで飲むような気はしない、がけだしそれは僭上せんじょうの沙汰で。
「まず、飲もう。」
 その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッとおもてを打った、懐しく床しい、留南奇とめきがある。
 この高崎では、大分旅客の出入りがあった。
 そこここ、まばらに透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小児こどもよりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちにはさまって。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、くだんの大革鞄もそのうちの数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高をかぶったのが仕切の板戸に突立つッたっているのさえ出来ていた。
 私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶麗あでやかな女が一人腰を掛けたのである。
 待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜あだめく。
 内端うちわに、品よく、高尚と云おう。
 前挿まえざし中挿なかざし鼈甲べっこうの照りの美しい、華奢きゃしゃな姿に重そうなその櫛笄くしこうがいに対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。

       四

 一目見ても知れる、濃い紫の紋着もんつきで、白襟、長襦袢ながじゅばん。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正きちんと堅く挿した風采とりなりは、桃の小道を駕籠かごりたい。嫁にこうとする女であった。……
 指の細く白いのに、あかいと、緑なのと、指環ゆびわ二つめた手を下に、三指ついたさまに、裾模様すそもようの松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、つまを深く正しく居ても、こぼるるもすそくれないを、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重はぶたえ足袋。かすかに震えるような身をめた爪先つまさき塗駒下駄ぬりこまげた
 まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖おそれと、なんだと、えみとは、ただその深く差俯向さしうつむいて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田のびんに包まれて、かんざしの穂にあらわるる。……窈窕ようちょうたるかな風采、花嫁を祝するにはこのことばい。
 しかり、窈窕たるものであった。
 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜いとしらしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、かすか元結もとゆいのゆらめきである。
 耳許みみもとも清らかに、玉を伸べた頸許えりもとの綺麗さ。うらすくくれないの且つなまめかしさ。
 袖の香も目前めさきただよう、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足もめ悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、びんの口を抜くのを差控えたほどであった。
 汽車に連るる、野も、畑も、はたすすきも、薄にまじわくれないの木の葉も、紫めた野末の霧も、霧をいた山々も、皆く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓にもゆるがごとく見えめた妙義の錦葉もみじと、蒼空あおぞらの雲のちらちらと白いのも、ために、べに白粉おしろいよそおいを助けるがごとくであった。
 一つ、次の最初の停車場ステイションへ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしいひなめいた男女なんにょの顔が押累おしかさなって室をのぞいた。
 かさなりあふれて、ひょこひょことうりの転がるていに、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込のぞきこむ。
 私の窓にも一つ来た。
 と見ると、板戸にもたれていた羽織袴が、
「やあ!」
 と耳のとこへ、山高帽を仰向あおむけに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包ふろしきづつみおおきな懐中に入れて、茶紬ちゃつむぎを着た親仁おやじも居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」
 とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺しこん――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行はやる半コオトを幅広に着た、横肥よこぶとりのした五十恰好かっこう。骨組のたくましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目めっかちで、その眇の方をト上へ向けてしぶのついた薄毛の円髷まるまげ斜向はすっかいに、あご引曲ひんまげるようにして、嫁御が俯向うつむけの島田からはじめて、室内を白目沢山で、あぶの飛ぶように、じろじろと飛廻しに※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしていたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。

       五

 少しゆするようにした。
 指に平打ひらうち黄金きんの太くたくましいのをめていた。
 も着かぬが、乳母ではない、まましいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
 白襟に消えもしそうに、深くさし入れたおとがいかすかうなずいたのが見えて、手を膝にしたまま、肩がしなって、緞子どんすの帯を胸高にすらりと立ったが、思うにたがわず、品のい、ちと寂しいが美しい、まぶたさっと色を染めた、すすきの綿に撫子なでしこが咲く。
 ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気をんだつまの崩れに、さばいたくれない紅糸べにいとで白い爪先つまさきを、きしとしきったように、そこに駒下駄が留まったのである。
 南無三宝なむさんぽう! 私は恥を言おう。露に濡羽ぬればの烏が、月のかつらくわえたような、鼈甲べっこう照栄てりはえる、目前めのさきの島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切なくだんの大革鞄を忘れていた。
 何と、その革鞄の口に、紋着もんつきの女の袖がはさまっていたではないか。
 仕出来しでかした、さればこそはじめた。
 私はあえて、この老怪の歯が引啣ひきくわえていたと言おう。……
 いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
 重量おもみが、自然とつたわったろう、なびいた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
「御免なさいまし。」
 と呼吸いきの下で云うと、襟の白さが、さっと紫をおおうように、はなじろんで顔をうつむけた。
 赤ら顔は見免みのがさない。
「お前、どうしたのかねえ。」
 かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪かみかきしゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ひんむしる。
「革鞄に挟った。」
「どうしてな。」
 と二三人立掛ける。
 窓へ、や、えんこらさ、と攀上よじのぼった若いものがある。
 駅夫の長い腕が引払ひッぱらった。
 笛は、胡桃くるみを割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
 汽車は猶予ためらわず出た。
 一人発奮はずみをくって、のめりかかったので、雪頽なだれを打ったが、それも、赤ら顔の手もまじって、三四人大革鞄にとりかかった。
「これは貴方のですか。」
 で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
 なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事でくものか。
「これは堅い、堅い。」
「巌丈な金具じゃええ。」
 それ言わぬ事ではない。
「こりゃ開かぬ、かぎが締まってるんじゃい。」
 と一まず手を引いたのは、茶紬ちゃつむぎ親仁おやじで。
 成程、とめた風で、皆白けて控えた。あらためて、新しく立ちかかったものもあった。
 室内は動揺どよむ。嬰児こどもは泣く。汽車はとどろく。街樹なみきは流るる。
「誰の※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうじゃい。」
 と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
 彼は仰向あおむけに目をつぶった。まぶたを掛けて、朱をそそぐ、――二合びんは、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕をこまぬく。
 女はおとがい深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向さしうつむく。

       六

「この次で下車おりるのじゃに。」
 となぜか、わけも知らない娘をたしなめるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
「何てまあ、馬鹿々々しい。」
 と当着あてつけるように言った。
 が、まだ二人ともなにも言わなかった時、つれと目配せをしながら、赤ら顔の継母ままおやあらためて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――をかがめた。
 突如いきなり噛着かみつき兼ねない剣幕だったのが、ひるがえってこの慇懃いんぎんな態度に出たのは、人はすべからく渠等かれらに対して洋服を着るべきである。
 赤ら顔は悪く切口上で、
「旦那、どちらの※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうか存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体からだでございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」
 声が眉間みけんを射たように、旅客は苦しげに眉をひそめながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
 とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮かいちぢめた腕組をと解いて、一度投出ほうりだすごとくばたりと落した。その手で、ひしぐばかりしか膝頭ひざがしらつかんで、呼吸いきが切れそうなせきを続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取ききとりを願いとうございます。わたくしは、ここに隣席においでになる、窈窕ようちょうたる淑女。」
 彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、たもとをでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
 と※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわす目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたがわたくしです。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
 退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込つっこんで、革鞄の口をかしりとくわえさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりとくびって、引緊ひきしめたと思う手応てごたえがありました。
 真白まっしろすすきの穂か、窓へ散込んだ錦葉もみじ一葉ひとは散際ちりぎわのまだ血も呼吸いきも通うのを、引挟ひっぱさんだのかと思ったのは事実であります。
 それが紫にかさねた、かくのごとく盛粧せいしょうされた片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
 諸君、わたくしは謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢はいまだかつて一度もわたくしごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
 東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、わたくしがこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
 お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
 いや、ようなんですぐらいだったら、わたくしもかような不埒ふらち、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。
 たしかに御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔をあらためて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。
 余り唐突な狼藉ろうぜきですから、何かその縁組について、わたくしのために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」

       七

「実に、寸毫すんごう[#ルビの「すんごう」は底本では「すんがう」]といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着しゅうぢゃくと、愚癡ぐちと、卑劣と、悪趣と、怨念おんねんと、もっと直截ちょくせつに申せば、狂乱があったのです。
 狂気きちがいが。」
 とほっと息して、……
「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出迎でむかいの人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリとじょうおろしました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温柔おんじゅうでおいでなさる、心弱い女性にょしょうは、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、はしたなく声をお立てにならないのだと存じました。
 しかし、ただいま、席をお立ちになった御容子ごようすを見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身体からだの一箇処にもあかい点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪一条ひとすじの根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。
 けれども、それもただわずかの間で、今のおもいはどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。
 自白した罪人はここにります。にげも隠れもしませんから、はばかりながら、御萱堂ごけんどうとお見受け申します年配の御婦人は、わたくしの前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、せなを抱く御介抱が願いたい。」
 一室はことごとく目を注いだ、が、淑女は崩折くずおれもせず、やわらかつまはずれの、いろある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
 ひとりかの男のみ、堅く突立つったって、頬をかしげて、女を見返ることさえしない。
 赤ら顔も足も動かさなかった。
「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
 外ではありません。それの革鞄のかぎを棄てた事です。わたくしは、この、この窓からはるかたつみそらに雪を銀線のごとく刺繍ぬいとりした、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……わたくしは目をつぶった、ほとんだ気がちがったのだとお察しを願いたい。
 為業しわざ狂人きちがいです、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個のわたくしです。
 が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見みいだせますまい、決して帰らない、戻りますまい。
 小刀こがたなをお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
 鍵は投棄てました、決心をしたのです。わたくしは皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
 ただし、この革鞄の中には、わたくし一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌いはい。実際、生命とひとしいものを残らずれてあるのです。
 が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
 小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
 わたくしは――」
 とここで名告なのった。

       八

「年は三十七です。わたくし逓信ていしん省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」
 と俯向うつむいて探って、鉄縁の時計を見た。
「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
 令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。
 駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。
 また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。
 いずれも命を致さねばなりますまい。
 それは、しかしいといません。
 が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁のうちに、わたくしが最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、わたくしが連れられて、膝行しっこうして当日の婿君の前に参る事です。
 絞罪こうざいより、斬首ざんしゅより、その極刑をお撰びなさるがよろしい。
 途中、田畝たんぼ道で自殺をしますまでも、わたくしは、しかしながらお従い申さねばなりますまい。
 あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……
 すべて、いささかも御斟酌ごしんしゃくに及びません。
 諸君が姑息こそくの慈善心をもって、些少さしょうなりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。
 妻女かないは亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」
 彼は口きっしつつ目瞬またたきした。
「一人の小児こどもも亡くなりました、それはこの夏です。可愛いでした。」
 と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、まつげを濡らした。
かない記念かたみだったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
 感ずる仔細しさいがありまして、わたくしは望んで僻境へききょう孤立の、奥山家やまがの電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
 そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端いろりばたの火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
 が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、かぎがなければなりません。
 鍵は棄てたんです。
 令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
 誓ってわたくしは革鞄を開けない。
 御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。
 おききを煩らわしました。――別に申す事はありません。」
 彼は、従容しょうようとして席に復した。が、あまたたび額の汗をぬぐった。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然りつぜんとした。
 室内は寂然ひっそりした。彼の言は、明晰めいせきに、口きっしつつも流暢りゅうちょう沈着であった。この独白に対して、汽車のとどろきは、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
 停車場ステイションに着くと、湧返わきかえったその混雑さ。
 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆いっきを思え。
 時に、継母ままおやの取った手段は、極めて平凡な、しかも最上もっとも常識的なものであった。
「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」
「いいえ、貴方。」
 判然はっきりした優しい含声ふくみごえで、きっとどめた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着そでつけの糸をきりきりと裂いた、籠めたる心にゆらめく黒髪、島田は、黄金の高彫たかぼりした、輝くおののごとくに見えた。
 紫のかさねの片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、はだを裂いたか、女の片身に、さっと流るる襦袢じゅばん緋鹿子ひがのこ
 プラットフォームで、真黒まっくろに、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目瞼まぶたの紅梅。黄金きんとかす炎のごとき妙義山の錦葉もみじに対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕にさっひるがえって、雪なす小手をかざしながら、黒煙くろけむりの下になり行く汽車をはるかに見送った。
 百合若ゆりわかの矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
 つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
 そこで知己ちかづきになった。
大正三(一九一四)年二月

底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
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