レーク・Gへ行く前友達と二人で買った洋傘をさし、銀鼠の透綾の着物を着、私はAと二人で、谷中から、日暮里、西尾町から、西ケ原の方まで歩き廻った。然し、実際、家が払底している。時には、間の悪さを堪え、新聞を見て、大崎まで行き、始めて大家と云うものの権柄に、深い辱しめを感じたこともある。また、寛永寺の傍の、考えても見すぼらしい家を、探しあきて定めようとしたことなどもある。
 丁度、その頃赤門の近くに、貸家を世話する商売人があったので、そこへ行って頼んだ。三十円位で、ガスと水道のある、なるたけ本郷区内という注文をしたのである。
 考えて見ると、それから一年位経つか経たないうちに、外国語学校教授で、英国官憲の圧迫に堪えかねて自殺したという、印度人のアタール氏を始めて見たのがその周旋屋の、妙に落付かない応接所であった。
 今顧ると、丁度その夏は、貸家払底の頂上であったことが分る。ママいて、内務省の取締りを受けない貸家周旋人が、市内には殆ど無数あった。中には随分曖昧な、家賃一ヵ年分を報酬として請求するとか、三月分を強請されて、家はどうにか見付かったが、その片をつけるに困ったとかいう噂が彼方此方にあった。私共も、自分で探していたのでは到底、何時になったら見付かるか、見当もつかないような有様であったので、窮した結果、頼んだのではあったが、始めて行った時には、不安な、油断のならない心持がした。
 多分、赤門の少し先、彼方側で、大きな土管屋か何かの横に入った処にその家はあった。とっつきは狭い格子戸で、下駄を脱ぎ散らした奥の六畳と玄関の三畳の間とをぶっ通しにして、古物めいた椅子と卓子とが置かれているのである。
 男が二人いて、それぞれ後から後から来る客にアッテンドしている。年は二十八九と四十がらみで、一目見ても過去にまとまった学歴も何もなく、或る時代、或る時期の社会的需要に応じて、職業を換えて行く種類の人間らしく見えた。よくある、商売人とも政治屋とも片のつかない一種のタイプなのである。
「お上りなさい」
と幾度も云うので、私共は、上へ上り、その椅子にやや改って腰を下した。規則をきき、一ヵ月、貸家の通知書を送って貰うために、五円ほどの金を払ったと覚えている。
 その変に捩くれた万年筆を持った男が、帳簿を繰り繰り、九段にこんな家があるが、どうですね、少々権利があって面倒だが、などと云っている時であった。
 格子の内に、白い夏服を着、丸顔で髪の黒い一人の外国人が入って来る。
 そして、貸家が欲しいと云う。そこに居合わせた、自分等を入れて四五人の人間は、一時に好意ある好奇心を感じた。
 指ケ谷辺で、二階のある家、なおよろしい。あまり高いの困ります。と、非常に語尾の強い、ややぼきぼきした言葉で、注文の要件を提出した。
 私共に応待した卓子の前にいた男は、立って行って、盲唖学校の近所にあるという一軒の家をサジェストした。
「場所は分りますか? 電車分りますか?」
「分ります。私行ったこと、よくありますから。――然し、いやなことありますまいね」
「何です?」
 男は、何方かといえば子供らしい、きかん気の子供らしいその外国人の顔を見下しながら、敷居の上から薄笑いした。
 私共も、思わず微笑した。併し、何処の人だか、見分けがつかなかった。
「あちら、こちら……ない家歩いて、金沢山取ることありませんか?」
「大丈夫ですよ、そんなこと!」
 男は、辛辣な質問に驚いたように見えた。この外国人が日本に来、こんな質問をするような経験を多くしているのかと思ったら、自分はひどく不愉快になった。
「大丈夫です、信じなさい。私は、外国の人の為には出来るだけ親切にしますから」
「――有難う……」
 帽子に手をかけ、所書を貰って彼は出て行った。
「偉いことを云いますね」
 男は、皆の顔をぐるりと見廻して、あまりハーティーでない笑をあげた。――
 それから、幾日か経ち、八月の或る日の午後(念の為にAの日記を見たら、八月の八日、土曜日で、この日は何かの必要から博物館に行った後、と書いてある)上野の停車場に止宿している、アナンダ・クマラスワミー博士を訪問した。
 新聞で、彼の来朝を知り、Aが、コロンビアの、プロフェッサー・ジャクソンの教室で紹介されたことがあるので、会ったら彼の為に何か助けられよう、と云うのであった。
 彼は、印度人で、幼少の時から英国で教育され、今はボストン博物館で、東洋美術部の部長か何かをしながら、印度芸術の唯一の紹介者として世界的な人物になっているのである。
 面長な、やや寥しい表情を湛えた彼が、二階の隅の、屋根の草ほか見えない小部屋に坐っているのを一覧し、自分は、彼の日本観を不安に感じた。
 柔い色のオール・バックの髪や、芸術観賞家らしい眼付が、雑然とした宿屋の周囲と、如何にも不調和に見えたのである。始め、彼はAを思い出さないように見えた。何となく知ろうと努め、一方用心しているように感ぜられ、自分のひそかな期待を裏切って、初対面らしい圧苦しさが漂った。彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。
 この人は、先赤門の傍で見た男ではないか!
 印度人のクマラスワミーに会いに来るからには、この人も同国の生れであろう。クマラスワミーは、簡単に、外国語学校で教えている同国人で、アタール氏だと紹介してくれた。
 暫く話してから、西日の照る往来に出、間もなく、自分は、アタールという名を忘却した。
 それから、クマラスワミーとは友情が次第に濃やかになり、十月頃彼が帰るまで、我々は、ヨネ・野口をおいては親しい仲間として暮した。種々な恋愛問題なども、率直に打明けられるほどであった。然し、アタール氏とはこのまま会う機会もなく、殆ど忘れ切って過していたのが、突然、自殺の報道とともにのった写真で、その時の彼をリコグナイズしたのであった。その刹那に、自分は、狭い部屋に窮屈そうに横坐りに坐って、日本語は少し役に立つが、文字と来たら、怪物のようにむずかしいと、ぎごちなく話した彼の姿や顔を、涙ぐむ程、はっきり思い起した。――

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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