午後から日がさし、積った白雪と、常磐木、鮮やかな南天の紅い実が美くしく見える。
 机に向っていると、隣の部屋から、チクチク、チチと小鳥の囀りが聞えて来る。二三日雪空が続き、真南をねじれて建った家には、余り充分日光が射さなかった。寒さや陰気さで縮んでいた彼等は、久し振りに障子もあけて置ける暖かさでさぞ嬉しいのだろう、雨だれの音、小鳥の声が、入り混り優しく響く。
 全く、彼等の天候に支配されることといったら、私以上の鋭さである。紅雀、じゅうしまつ、きんぱら、文鳥などが一つがい、二つがいずついる。少し空が曇り、北風でも吹くと、元気な文鳥以外のものは、皆声も立てず、止り木の上にじっとかたまって、時雨しぐれる障子のかげを見ているのである。
 人間でも気が滅入めいり、火鉢の火でもほげたく思うような時、袖をかき合わせて籠をのぞくと、一層物淋しい心に打たれる。陽気な長閑のどかな日和の時には、晴々と子供らしく、見る者の心まで和らげる彼等は、しんだ日に猶々心を沈ませるような姿を見せる。小鳥に対して人間は、いつも楽しげな、軽快なものという先入主を以て対している。それが気の無さそうな風をして、ひっそり足をすくめていると、非常に四辺をわびしく思うのであろう。
 始め、我々が小鳥を飼ったのには、別に大した理由もなかった。去年の夏、田舎に行き、青々と葉を重ねた葡萄棚の下に、真黄なカナリアの籠の吊してあるのを見た。止り木から止り木へ、ひょいひょい身軽に移る度毎に、細く削った竹籠のすきから、巻いた柔かそうな胸毛の洩れる姿が、何ともいえず美くしかった。
「いいわね」
と私が云う。
「僕等も何か飼ってみようか」
 良人が云う。帰京すると、彼はいつの間にか大きな金網を買って来た。そして、余りの休暇の折々に、大工の音をさせて、大きな円天井の籠を拵えた。そして、
「あら、真個ほんとにお飼いになるの」
と云う間もなく、可愛い二羽のべに雀と、金華鳥、じゅうしまつなどを、持ち運びの出来る小籠で、大切そうに運び込んだのである。
 私は悦び、額をつけて中を覗いた。子供の時、弟が、カナリアと鶏、鳩などを沢山飼ったことがある。ろくに見もしないうちに、その一時の物好きが止んだので、私が自分の家の中に、こんな小鳥を持ったのは、真に久しぶりのことなのであった。
 出て行って、水浴びの出来そうな鉢を買ったり、巣を買ったり、楽しく世話をやいた。名が急には覚えられないので名刺のうらに書きつけた名札を籠の隅に貼り、良人の注意が主で、今日まで家族の一員となっているのである。
 年が更った今いるのは、多く代がわりになった。
 或るものは死に、或るものにはふいとしたことから逃げられ、新らしいのが来た。いろいろ慾が出、綺麗なのが欲しかったり、強がりのが憎らしかったりするうちに、小鳥の性格も感じられるような気がして来た。
 人間にも、顔の異るように性格の差異がある。小鳥も羽色の異う以上それの無いことはないであろう。あるものと仮定して、私の観察は意味を生ずる。
 人間の日常生活が、男といい、女という性の異いに有形無形、どれほどの影響を受けているか、やかましい理窟も云わず、手を一つ上にあげても判ることと思う。小鳥の世界にもその異いは随分あるらしい。
 曾て何かの時に買った雛子ひよこの玩具があった。いつも本棚の隅に、ふくぶくな姿を見せている。或る日、何心ない遊戯心から、それを彼等の籠の中に入れて見た。同じ仲間の剥製を、何と思って見るだろう、それが知りたかったのである。
 畳の上に手をついて見ていると、なかなか気が附かない。止り木の上に並び、暖い日を浴びている彼等は、飛びもさわぎもせずに、微かに嘴などを動かしている。
 やがて、雌のじゅうしまつが、ふいと群から離れた。ひょい、ひょいと、下の枝に来る。餌を拾おうというのであろう。うす黄色い鶏の雛子は、入口の直ぐ前、餌から一尺も此方に立たされているのである。
 何心なく下りて来た彼女は、一寸の所で、雛に心付いたらしい。そこに止り、しきりに頭を動かし、右、左に移って覗いている。――腰をおろし、さて、思い切って飛ぼうという姿をするが、また不安心で、頭を動かして下を見る。(小鳥は、物を見ようとすると、眼玉を動かさず、頭部全体を傾け、うつむけて物に向く。)頻りにそうやっているうちに、どうも敢て近づく気がしないのだろう、ちょん、ちょんと、また元の枝まで戻ってしまった。それでも気になるらしく、低い声で、喉を鳴らしているのである。
 今度は、同じ鳥の雄が来た。やはり同じ径路を繰り返す。
 可哀そうになって、私は雛の剥製を籠から出してしまった。そしてもう見えない処に置き、また様子を窺った。
 余程空腹であったと見え、戻った雌が再び下りて来る。実に注意し、気の毒なほど頭を動かし、そろそろ逃げる用心をしながら枝から枝へと伝って来るのである。先刻の黄色い変なものがいないことだけは分ったのだろう、元よりは低く降りた。而も、まだまだ下に降り切ることが出来ず、躊躇し、躊躇して足を踏みかえている。ところへ、彼女の連れ合いが来た。やはり覚えていて下を見る。が、二度三度場所をかえて覗くと、勢をつけて、さっと餌壺の際に下り立った。そして、粟を散らしながらツウツウと短い暖味のある声で雌を呼び寄せるのである。
 雌を驚かせて、気の毒には思うが、自分には、実に心深い見ものであった。こればかりでなく、新しく籠に入れられ、自分達の巣を定めようとする時にも、雌雄はその態度が異う。雌が、ふるくからいるものに驚かされて、やたらに籠中を逃げ廻ったり、そうかと思うと呑気そうに羽づくろいや身じまいなどをする間に、雄は、攻撃的に、動的に、自分等の住居を決めようとする。文鳥が始めて来た時などは、特にそれが著しく、自分は興深いことに思われた。
 じゅうしまつは、いかにも家庭的に内気である。二羽ながら巣にこもり、白と薄茶色のまだらの頭をのぞかせて、おだやかに引立つこともなく暮して行く。
 頭がつやつやと黒く、体は全体金茶色で、うす灰色の嘴と共に落付いて見えるきんぱらは、嘗て見苦しいほど物に動じたのを、私は見たことがない。雌雄も、地味な友情で結ばれているように、仲間とも馴染まず、避けず、どんな新来者があっても、こればかりは意気地なくつつかれるようなことはしない。
 見ても愛らしいのは、実に紅雀だ。四羽の雌と雄とが、丸い小さい紅や鶯茶の体で、輝く日だまりにチチ、チチと押しあいへしあいしているのを見ると、しかんだ眉も自らのびる。
 心に何もない幼児のように、ついと嘴を押して、ぴったり隣によりついた仲間の羽虫をとってやる。いい心持なのだろう。取られる方は、のびのびと眼をつぶり、頭の上にあおむけ、いつまでもいつまでもという風に喉の下などを任せている。仲間がもうやめにして自分の羽根をつくろっていても、まだもっとというように、いつまでも頭を下げようとしない。
 ツツと彼方の端から順々に押して来るので、此方の端のは、止り木の上で片脚を幼く踏張り、頸を曲げて身を支えている。それでもかなわなくなれば、構わない。彼はさっと立って頭の上から真中に割り込み、また自分で、ツツ、ツツと仲間の方によって行くのである。――
 私共の家にいる文鳥は、名こそ文鳥だけれども、どうも、「彼岸過迄、四篇」の文鳥とは、たちが異うように思われる。漱石先生の心が華奢であったのか、私の見る文鳥は、決してあれほど、ろうたくはない。こまやかな銀灰色の体がぽってりと大らかで、白い頬、黒い頭、薄紅の嘴などは、あでやかな桃の咲く頃を想わせる。春の鳥という心がする。けれども、狙いをつけていざ飛ぼうなどとする時、翼を引緊めた姿を横から見ると、大きい肉色の嘴は、何という毒々しく、猛々しく感じられることだろう……
 ――いつか四辺がひっそりとなった。小鳥はもう囀らない。はしばしがとけ、土にくまどられた雪の上に、二条三条、鋭い金の西日が止まっている。
〔一九二二年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「明星」第6号
   1922(大正11)年4月1日発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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