一

『女性日本人』の編輯に従事して居られるY氏が見え、今度同誌で、各異る年代にある人々の、年齢感ともいうべきものを蒐集されるまま私は非常に興味あり、また有益なことだと思います。
 一体私共は余り無反省に年をとり過ぎます。年齢を云々することは、何故人生にとって意義あることなのか、省察する暇もなく、口真似のように「いくつ、いくつ」と云う。
 甚しい場合、時に日本等に於ては、年をとっていると云う一事実のみが、或る階級的権威を持つ場合があります。内容は重きを置かれない。為に、老若と云う時間的な差は、全く相互の人間的連鎖を破壊し、一つ地上に生活していながら草木に対する程の愛さえ、互に持ち得ない場合があるのです。科学者の或る者は、自然の大律である淘汰の原則によって、そうであると云うかも知れません。生物学的の立場からのみすれば、その言も正しいかも知れない。けれども、思想の上から見ると、これ等、殆ど悲劇的な離反の大部分は皆各自の生活を、悠久な人類の歴史的存続というところまで溯らせて考察する明に欠けているからと思われるのです。
 多くの人間は永くて自分と子との一生ほか、生活意識の延長として持ちません。前後を截断して非常に短い時間の内容を、種々な迷執を持つ「我」を主として価値を定め、批判しようとするから、勢い、狭量な、自己肯定に堕し易い。
 人類の生活は時というものに関する認識が、今日程明白に意識されない時代から初まっていました。時に、時という命名を行ったのは人類です。
 太古の祖先等は、出生と死――発生と更新の律動リズムを大きな宇宙の波動と感じて生活していたに違いありません。今の私共のように外面的にこせこせと、一年二年など、数えあげていたのではないでしょう。生れ出た人間は、太陽を浴び、雨に濡れ、朝に働き夜に眠りして、徐々に育って来た。脆弱ぜいじゃくであった四肢には次第に充実した筋力が満ち男性は山野を馳け廻って狩もすれば、通路の安全を妨げる大岩も楽々揺がせるようになる。
 女性は、いつかふくよかな胸と輝く瞳とを得、素朴な驚異の下に、新たな生命をこの地上に齎して来る。――毛皮を纏い石を打合わせて火を造った時代にも彼等は、自分達の生れない先から生きており、今は白髪となった者達を、大切に思うことは知っていたでしょう。わが骨肉の老朽を自ら感じる者等は活力に溢れ、日々の冒険で世界を拡張させて行く者共に、絶大な期待と信任を覚えたに違いない。彼等は一つ一つに新たな発見をすることが如何程、自分等皆の生活に重大な意義を持っているか、複雑な近代人の持ち得る以上の直覚で覚ったことでしょう。一人の人間が生きることは、何等かの意味で認識の拡張を意味し、屡の失敗に於てさえも尚、貴重な経験の一部を、全群の生存の為に寄与しているからこそ、長時間の生活、日々が愛され、尊まれたのです。
 この時代から見れば、私共現在生きる社会は、原人の夢想だにし得なかった大統一と同時に大分裂に支配されています。自然を征服し得たことは、人生に多大の霊光を与えた。四肢に集注されていた生活力は頭脳に分与されました。賢こくなった人間、豊富になった筈の人間精神の明確なるべき今日の人の多くがそれなら、果してひたすら発育して自己の肉体、精神の内感のみによって、宇宙に満ちる時の推移を直感するほど、深刻であるでしょうか。それほど迄に、切実に人類の全生活、運命に即した敏感を持っていましょうか。
 云うことを許されれば、時の概念は、余り皮相的にあまり抜け目なく、地球の面に割りあてられすぎました。さながら碁盤の目のように一つの石、人間が動けば必ずどこかの筋目に入らないと安心しない。四角のどの目にか入れば入ったという事実そのものがさも意義あることらしく、咳払いをする。
 極言すれば、私共の生存が、時で計られるのを全然忘れる必要があると思います。社会の歴史から客観すれば、或る個人がどの時代に生きたということは問題になっても主観としては、これ等の知識からまるで放たれ、もっとももっとも朴直な而も純な太古の心を以て、わが宇宙をわが愛で認識し、整理してこそ甲斐があると思います。もっと無邪気に、雄々しく個人と人間全部のアタッチメントを感じてよいと思います。
 そこに於てこそ、自分が苦しみ、悦びしつつ経て行く生活過程に絶対無二な意義を感じ得るとともに、近くは親同胞、配偶者、あらゆる友、生きている者全部の営みに、尊敬と理解、同感を持ち得るのではないでしょうか。
 私は暖い篝火の囲りに円座を組み、神代の人達が、一日の行業について、各覚えた何ものかを語り合うように異った境遇、個性によって得たところに就て語り合いたく思います。

          二

 人間の生存過程を、学として研究し或る法則、類別を見出す心理学者、生理学者等は、各個人の運命的な時期、年齢を、青年期、更年期と大別しているようです。
 青年期は、十六七歳から二十二三歳迄、更年期は丸四十三四歳乃至五十一二歳。丁度、美術愛好者が、古代ギリシャ建築の明美な柱列コラムを見た時、心を打れ、何はともあれ、アカンサスの葉で飾られた精緻な柱頭キャピタルと、単純で力強い柱台ベイシスとに注意を向けた如く、学徒が、狂暴な程、雑多な原質の目覚める青年期、不思議に還元的色彩を帯びる更年期を特に著しい二焦点と感じるのは、まことに興味をそそることなのです。
 けれども、各個人の実際の内省によると、必ずしも一般論の上から危期とされる時期が自己の運命には、さほど重大さを持たなかった場合もあるらしく見えます。却って、学理などの一向挙示メンションしていない年代に一人の一生にとっては見逸すべからざる動揺の生じることがある。桜は春咲く花と云っても、確定した日までは予言出来ないように、深甚な運命の戸口は、箇性の置かれた繞境、発育の程度によって、皆異なった瞬間に開かれます。教育者などが或る時陥りがちな、概念的類推にのみよらず、自己の道程を、全く自己に即して内観することの必要は、この点でも明かにされるのです。
 私は、今丁度、研究者の使う用語を以てすれば、青年期の末端、成年期に入ろうとするところにあります。文字の上では、いささかの華やかさもない時です。それにも拘らず、私一人としては慎重に思いあらためて見ずにおけない、内的転回が極最近に行われました。数年間持続した渾沌が或る程度まで整理され、兎に角落付ける光がさして来たのです。
 一体、私は、幼女の時代から、概して幸福といわれる境遇のうちに育ちました。子供にとって幸福というのは、充分な父母の愛と、相当な物資の余裕、健康、やや長じては各自の個性を認めようとする常識を両親が持っていてくれるということです。私は、幸い丈夫で、可愛がられ、今から十年前の一般から見れば自由に育って来ました。従って性格のうちに、極自然な人生に対する愛と、よき意味での大望がゆっくり芽生えました。父母の遺伝もあり、自己の傾向もあって、十七歳以後、理想主義的気質が、私の生存の柱となっていました。これを一歩突込んでいえば、異常な惨苦をなめない、健康な生活力に漲った人間が、当然感じる生活愛といえるでしょう。生を愛さずに置けない本能です。然し、実際の生活苦などは知らないのだから、最も自分の想像、期待と調和する理想主義を、知識として呼び出し、自己の情熱の名づけ親とするよりほかありません。感激熱中こそ乏しくはありませんでしたが、当時の生活には著しく、精神的訓練が欠如していました。読書を愛するとか、思索を好むとか、感受性の鋭いとか云うのは皆準備的要件で、重大なのは、どこまでそれ等のおもりに依って自己に沈潜し得るかということです。外界の刺戟によって発動した自己の感激、意望というものを、一先ず、能う限り公正な謙虚な省察の鉄敷かなしきの上にのせ、容赦なく批判の力で鍛えて見る。いよいよこれに動きがないというところで、始めて主張するなら、飽くまでも主張するという、真に人をつくる練磨が足りなかったのです、或る「問題」を考えることと、自己を磨くこととを、一様な理知の仕事の裡に混同してしまっていたのです。
 これとても、その時の私は自覚しなかった。真個に一生失ってはならない感激と独りよがりとを、ごたごたにし、人生に対する尊い愛、期待と、空想、我ままを一緒くたに持って、正面から堂々と、人生の或る扉を叩いたのでした。
 顧みて、微笑を禁じ得ません。愛らしき滑稽! 然し、自分の手で開いて見た扉の一重彼方は、私にとって、偉いダンテさえ当惑したような、紛糾の森林でした。
 様々に描き、予想し、もう自己の内部を絶頂まで披瀝して当ったのですから、彼方此方で意外な齟齬に出会っても、自己を回収することすら容易でない。自分で自分の手にあまる廻りからは、どんどん新たな、決して、私の有るべきという範疇では認めていなかった関係的いきさつが不快に、或る時には明かに不正に襲って来る。
 単純であった為、整然としていた自己というものは、極度に分裂してしまいました。分裂した一部分が、それぞれの活力と発言権とをもって対立する。
 この時、私が、実際生活上に起る諸事の軽重を弁え、兎に角自己の立てるべき処を失わずに日々を処理して行く確かさを持っていなかったことは、状態を一層混乱させました。
 大小にかかわらずことごとくが私にとっては極抽象的な「問題」の形をとって来ます。感動し、失望し、考えに耽る内なる自己と起った事柄とをしっくり対談させることを知っているようで知らない自分は、考え、考え、頭の上で思索の範囲の拡大を見るのみで、結局内部では実践的に何一つ解決されないということになる。
 或る期間の後、私は、全く人生に対して懐疑的になりました。真実と愛があれば、救われる等という信仰は、消える虹のように見えた。どんな焔でも、傍から水をざぶざぶかけられたのでは、輝やいていられないと思う。私は、更に新たに形作った生活の形式、形式の黙許している種々なる関係に腐ったものがあるに違いないと感じました。その為に、自分は、目に見えて毒されて行く。こうしてはいられない。これを征服するか、征服されてしまうか? 征服された暁を考えると、そこには生きるに堪えないほど、威力を失い、自己の滅却された憐れな我姿を見ます。
 征服しなければ自己を守り得ないとすれば、私は、原因となる対象を全部否定し、生活圏外に放擲してしまわなければならない。約言すれば、自箇の天性があれほどいつくしみ信じ、暖く胸に抱いて来た愛の、対人的可能を、絶対に否定し尽さなければならないように見えて来たのです。無明のうちに安住することは本能が承知しない。はっきり自分にもその惨憺さのわかる遣りなおしも、ただ時間とほか、考えられなく成って来たのです。或る状態の裡からあるがままの自己をひっさげて出て来さえすれば、精神を自由にすることが出来ると思い込みかけたところに、この期の致命な危険が隠されていました。今思うと、実におそろしい。情熱は反動的に働く性質を有つ為本性とはぐっと歪んだ路に、自己を強いようとしかけたのです。
 どうなるか、息も楽に出来ない緊張の最中、私には、外面的に見ると妙な救が現れました。それは、私に非常な好意を持っていてくれる或る人が、私の当時の心境を察し、抱いている爆薬のような企図を、大層慫慂してくれたことです。ところがその人が不用意の間に発した一言が、私には霹靂のようなショックを与えました。かえって事態は、まるで逆転してしまいました。私は思わずはっとし、まるで異なった角度から、驚いて我というものを眺めなおし得たのです。
 私は更生といってよいほどの溌溂さを以て、自己の内的配置の移動を覚えました。永い間忘られていた純粋な歓喜が心を貫いて、涙をとどめ得なかった。何といおうか、人格の芯の芯まで光りが射し込み、自己内部に拘わっているものの純不純が一目瞭然とし、我というものに対して取るべき態度、延いては外界と自己との均衡がその時の最善に於てきっぱりと、わかったのです。
 この位置のきまったという感は、恐らく、次にまた大きな危期が来る迄、私の生活の基礎となりましょう。世の中というものを仮に大きい、複雑な諸質、諸力の活動している生物体と見ると、その裡に入った一細胞としての個性は、何等かの意味で、各自の在るべき場所を得なければなりません。精神的自信を持ち得る確さに於て。
 ところが、いわゆる、境遇の変化という通路によって、新たな有機体の中に這いったものは、そう容易に自己の場所を心的に見出し得るものではないと思います。押され自らも押し、種々な力の牴触を経て、しっくりと或る処に真から落付く。それから徐ろに周囲の養液を吸収し、整理し、発育して、自己の本質的な営みというものを明かにして行く。勿論、この期に得た、明瞭らしい外囲との相対的関係も、或る時間を経、進化の道程に不必要な老廃物となったら、必ず破れ、第二次的渾沌が生じましょう。然しそれを見越しても、その時にはその時必然の階梯を、みっしり踏んで置くことは大切と思うのです。
 私は、これ等の貧しい内省の裡から決して、一般的な訓戒や警告を抽き出そうとは思いません。多くの若い婦人は、決して、私ほど甘えて人生を見てはいられなかったでしょうし、「本むし」の弊も持たれないでしょう。けれども、最も低い声で囁けることは、こんな自己と外界との劇しい揉合いを誰でも一度は経験するとしたなら、いざ自己の落付こうとする時、殆ど無意識にとる精神的態度の如何によって、次期の渾沌が生ずる迄の幾年かの人格的趨勢を暗示されるのではないかということです。
 何故なら、性格の最も生産的な時期といえる成年、中年の時代が、時には余り沈滞した光彩ないものとして一般に感じられることが多くあり過ぎますから。
〔一九二三年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「女性日本人」
   1923(大正12)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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