まち子は焼けるやうに、椽からすべるやうに降りて、高い椽の下の柱の所にわづかばかりの日影を求めて、その中にちいさく佇んだ。
 そして、いつものやうにうっとりと、明地あきちのなかに植ゑた黄色や、赤の小さい瑪瑙のやうなのや、また大きな柿のやうなトマトを親しげに見まもりながら、またいつもの鶏が来てその實をつゝきはしないかと心をくばった。
 太陽が、頭の上に火のやうに燃えたって、自分の行為のすべてに干渉するやうな、すべてが熱苦しくわづらはしい夏のさかり、それが漸くすぎて十一月とはなったものゝ、この南のはてには、木の葉の紅葉するといふ事も、落ちるといふことも、殆んど見られない。夏のさかりに姿を見せないやうな蚊がいま頃漸く出て来たり、赤土の上を匍ふとげとげしい、少しも草といふやはらかみのない草の上のをちこちに、土人の舌のやうな、あくどい真紅な花や、また真青な土人の腕の入墨のやうな花が漸くこの頃見えて来て、それに、きび畑が背たかくかぎりなくつゞくばかり。自然はます/\力強く暴虐に微笑してゐる。まち子の弱々しい、優しい心はとても親しむべきすべがなかった。彼女は、ちいさい時から、花の美しさ、やさしさ、自然の暖かさ、安らかさに育ぐまれて来た。彼女の生れた家は、北国の大きな農園のなかにあった。
 彼女が輪まはしに駈けめぐる小路のあたりにはやはらかなクローバーが白い花をつけ、エルムのやさしい梢は彼女の頭の上に押しひろがって、ゆたかな影を与へて居た。そしてまた母の留守の時は温室のなかの藤椅子の上に美しいチューリップや、アネモネの上に瞳をすゑておとなしく暮したのであった。
 まち子はその中に大きくなって、いつか十八の年を後に見た時、丁度貴婦人が秘蔵の宝玉を商人に手わたしする時のやうに父母の誇りと、いたはりの瞳に送られて、良人の手に渡された。
 宝玉を得た男は、勇んで南のはてに走って、自分の事業にたづさはらねばならなかったのである。
 まち子は、良人の手にたづさへられてこの南の地に来てから、朝早く良人が会社に出かけたあとを夕方まで、茫漠として自然に対して悲しい瞳を伏せないわけにはいかなかった。新らしい土地に来て、わづかばかりの隣近所にも親しみはなし、雇人すら十分に言葉が通じない。しらじらと涙がつたっても、いたづらに乾くばかりで花に情は求め得られない。空を仰げばとて、空の青さにうるほいも親しみもないのだ。
 まち子は、良人ばかりが、只良人ばかりが天地にたった一つの優しい花だと思ひ定めて、ひたすらに、只何事もすがっては居たけれども、うら若いをんなの心に男はあまりに偉大であった。
 このごろ、ネルのきものに漸くやすらかになった時を、まち子は、花でなくともなにかやはらかな野菜のやうなものでも、この赤土の上に育てゝ見たいと、かすかに踊る心を持って、一日小さな土人の子を相手に土をやはらかにして、ほうれん草を植ゑてみた。
 すると、それはまち子が一心に土の上を眺めるまもなく青い芽を出した。
 その芽はなんとも云はれない、丁度恋の思出がめぐみ出したやうな、なつかしみと、やはらかさと光りとを持って居るやうに見えた。
 まち子は、その寸にもたらない青い芽を赤い土の上に喜びにかゞやく瞳を持ってしみ/″\と眺めた。彼女は二三日その青い芽によって、どれだけ慰められたことだらう。
 ところが、その芽の生ひ立ちはあまりに早かった。その芽がやがて二三寸ものびたと思ふ時、もはやその先には白い花がついて居た。その、よごれたやうなみにくい小さな白い花の為めに、その茎はもはや硬く、その葉は赤く土によごれて居るのであった。
 彼女は佇んで、その茎に手をふれた時、その葉に指を触れた時、驚いて立ち上った。そしてじっとその見すぼらしく、かたく育ったほうれん草を足元に見つめて、なげやったやうな心のうちにしみ/″\と涙のわくのを覚えた。あまり強い日光は、あまり強い母の慈愛のごとく、遂に可憐な草の芽をも自由に生ひ立たせなかった。すべては彼女の心にふるべくもない。
 まち子は、それからだん/\かたくなに土にまみれゆく草と、強い日光とをうらめしげに椽の柱によって見てゐた。そしてこの南の天地は、すべて強いものゝみさかゆるのであらうかと思はるゝまで草の葉もすべて針のやうな鋭さを持ってゐることが、恐ろしくなって来た。
 けれども、女の優しい果物の露のやうな、慈愛の心は、なにか、――丁度自ら赤子を造るやうに、自分の心に眼に愛するものを造らずに置かない。まち子はまたやがてトマトを植ゑた。ありあまる日光は直ちにトマトの芽を出させて花を咲かせた。そして宝玉のやうな実が強烈な日光のなかに一人、慈愛深く微笑んだ時、彼女は只歓喜した。前から心ひそかに空想にふけって居た、いつかはこの自分の肉体のなかから、心のなかから生れて来るといふ赤子の象徴のやうにも見えて、また物珍しくもあった。
 彼女は、毎日あきずにその美しい果実のつやと、大きさとを見た。すべてがかたくなに荒々しいなかに、なぜこの実ばかりが天使のやうにけがれなく、優しいのか。
 けれども、その実をあらさうと、いづこともなくさすらひ来たやうな鶏を彼女は見つけた。いつも鶏はいつの間にやら悪魔のやうにひそやかにあらはれて来たのであった。彼女は、その小さな破壊者をわづかでも近づけまいと、いつか小石を拾って投げることを覚えた。
 彼女は、今日も足元に小石をあつめたのである。そしてみまもる間もなく牝鶏が一匹の雛鶏を後に従えてトマトのそばに現はれた。
 まち子は、その時ふとつれて歩く牝鶏のさまを茫然と見て居た。そしてその雛どりの一羽しか見えないのを不思議に思って見ながらも、手はいつか小石を拾って居た。一つの小石が飛んだ時、それは見当違ひであったので牝鶏がふと首を上げたばかりであったのに、なにげなく抛った第二の小石は、牝鶏の為めにも、またまち子の為めにも運命の恐ろしさだった。
 小石は牝鶏をこして、牝鶏のかげに餌をあさる雛鳥の眉間に手強く命中した。雛鳥は、そのまゝ起き上らない。牝鶏は、立ちどまってくくと鳴いた。
 まち子は、只怖れた。かくまでに死といふものが偶然であったかと云ふ事を考へたのではないが、夕方雛鳥が帰らなかった時に、その飼主のことを思って小石がなにげなく雛鳥の眉間に落ちたといふ事は自分の意志でなく力でなく、宇宙の不思議であるとしても、あまりに美しいリボンを頭につけることすら学校の教師に罪悪と教へられたまち子は、雛鳥の死はどれだけ大きな罪悪となって身にふりかゝる事かと考へたのである。
 罪悪といふものが、彼女は心から芽ぐんで来るものだと云ふことを知らない。
 罪悪といふものは頭の上から頭巾のやうに誰れかにかぶせられるものだと思ってたのだ。
 まち子は、不意に悲しみに疲れたやうに、椽に腰を降ろして、使ってゐる土人の子をよんで、雛鳥をたしかめにやった。
 彼女は、自分でそれをたしかめる事は、とても出来ない。絶望の時、その正反対のよろこびといふ事が、ふと頭にひらめくけれども、それとても自分でたしかめるのは恐ろしい。まち子は、茫然と考へてゐた。
 土人の子供は、急いで見て来て、やはり死んでるとつげた。雛鳥は動かなかった。
『どうしやう、中村さんの家の鳥なのね。』
 彼女は、きのふその鳥の飼主を知ったのを恨めしさうに云った。
『きび畑に投げて来やう。』
 土人の子はそばに茫然立って云った。
『いけない、いけない。』まち子は、そのまゝ橡側にかけ上って、廊下を小走りに電話室に行って、大事件のやうに鈴をならして会社に電話をかけた。
 良人は電話口でまち子の云ふ事を聞いて居たが、たちまち笑ひ出して、『そんな事は、ほっといたらいゝ、』といって取り合はない。
『どうしやう――』と再び電話口で哀願したけれども、男はその時、笑ふより処置がなかったと見えて、矢張り笑ってる。
 まち子は、電話を切って、茫然と廊下を引きかへしながら、
『ほっとかれる事ぢゃない』と繰り返してまた椽に佇みながらやっぱり、中村さんの家にあやまりに行かねばならないと考へた。
 いつか、時は移った。きづついたものゝ終りを思はせるやうに日は凄く、真紅にたゞれて落ちて行く。西日が土の上にも赤い。雛はやはりトマトの影に小さな骸をよこたへてゐる。
 まち子の瞳は、いつか茫然とうるんで居た。そしてそのうるんだ瞳のなかに雛鳥の淡い褐色の初毛が、かすかに動いてるのを見た。
 彼女は、やがて驚いて眼を見はった。雛鳥は、むく/\と起き上って二足三足歩きかけては、よろ/\と倒れた。が、またよた/\と起き上ったかと思ふと、ふらりふらりと、恰も自分の身体を自分でもて遊んで居るやうに、また宙に迷ってる魂の為めにいづこともなく支配されて行くやうに、西日に彩どられた空と土との間にさゝやかな身体を一軒おいた隣りの自分の巣へと運んで行った。
 小鳥にとってトマトの葉かげに起き上らなかった暫しは、苦しい夢であったか、楽しい夢であったかわからないが、その夢は恐ろしい永遠といふものに結びつけられずに、とにかく目覚めた。彼女はぼんやりと雛鳥の後影を見まもりながら、雛鳥の夢に結びついた自分の罪悪がまた夢のやうに消えて行ったことを思って目を見はった。そして空を仰いだ時、もはや雛鳥の影は見えなかった。
 まち子は、再び気がついて廊下を電話室に走った。そしてあはてゝ鈴をならすと、大声で、
『雛鳥が生きかへりました』と云った。
 良人は電話口で笑ひ出したが、やがて事務を取ってる友人に何事か話したものと見える。一度にワーッといふ笑声が、彼女の耳元にひびいて来た。彼女も、それきり何も云はずに嬉しげに微笑して受話器を放れた。そして再び橡の前に立止った。トマトは依然として美しい。そして夕暮がやはらかな懐しい夜を運んで来るのだ、まち子は今宵も幸福である。
(「反響」大正3・7)

底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房
   1970(昭和45)年6月15日発行
入力:小林徹
校正:福地博文
1999年7月15日公開
2005年12月29日修正
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