長篇「伸子」を書いたのは今から十年ばかり前のことで、完成までに三年位の時間がかかりました。『改造』へ一年に四度位の割で四五十枚から二百枚位まで時々載せてゆき、単行本にする時に全篇すっかり手を入れて大部ちぢめました。
 当時はもう蔵原惟人の芸術論等が雑誌に出始めて居り、プロレタリア文学運動がそろそろ緒につきはじめていた頃でしたが、私は全くそういう方面には接触がなく、世田谷の駒沢の家で、毎日五枚位ずつこの小説を書いていました。
 余談になりますが、この駒沢の家へ移ったのは、もう「伸子」を書きはじめていた私が、その最初の春に、それまで住んでいた小石川の家の二階の階子段から下まで辷り落ちてひどく体を打って耳鳴りがするようになったので、それではしばらく郊外に住んだ方がよかろうと駒沢に移ったのでした。その大家が本庄という軍人で、その人は満州に行っており、細君がしっかり者で借家の監督をやっている。その人から借りたわけでしたが、当時はぼんやりしていたが、満州事件が起ってから新聞で見ると、かつて大家であった本庄という軍人は、外ならぬ関東軍指令官の本庄大将であるのが分って、ほほう、というような訳でした。
 この小説は題が示す通り、一人の若いインテリゲンツィアの女が、人間的な生活を求めて或る一人の男と結婚をしたが、その結婚生活がその女の求めていたような理解の上に営むことが出来ないため、女も男も苦しみ、女が主動的にそれを破壊するに至った過程を描いたものでありました。「伸子」という主人公の立場から凡ての周囲の人間関係を描いて居り、作者はこの小説で、世間で、愛情と呼ばれて通用している男女の間の感情でも、それが人間的に互を高めるものでなければ、そういう大局的な見通しと叡智とを持ったものでなければ本質的な愛とは言えないこと。そのような愛でない愛を、愛として夫婦生活の上に押しつけ、当人もそれに納っているような社会の卑俗な常識に抗議をしている。一人の女のそういう経験は、その女が広い人間的生活への要求から経験されている以上、社会的な意味と内容とを持つ性質のものであるという確信が、当時の作者のいた社会認識の程度でも持たれていたのでした。
 今日の眼で観れば、この作品の結末では、作者にまだインテリゲンツィアにとって真の発展というのが、何を意味するかということが、歴史性の上からちっとも分っていなかったことが明瞭に読み取れます。「伸子」は、一つの境遇の垣は一生懸命に破ったが、その垣から出て次に女友達と暮すようになる、それだけでは、「伸子」の疑問も人間完成の要求も本質的には達せられず、結局、面は違うが、同じ小市民的層の内輪ないりんをめぐっていることになる。作者は当時、その微妙な要点を洞察するだけの客観的な社会性を自身の現実観察の眼に具えて居なかった次第でした。
 しかし、この作品は私の作家的生涯に大きい意味を持っています。千枚近い長篇を熱心に書き通したことは作家としての技術を習熟さすためには大変に役に立った、この作品が比較的好評であったこともあって、それから後いろいろな短篇中篇を書きましたが、どんな題材でも当時の私が書こうとした範囲のものでは一応小説として読ませるような技術がつきました。所謂腕が少しは出来たのであったが、このことが「伸子」を単行本にするために書き直しかけた頃から私の心に深い疑いを与えるようになりました。らくにいろいろ書け、あんまり悪口も言われなくなって来た。一つの作品から一つの作品への間に、生活上では格別の進歩もないことが分っているのに、作品だけは書けばそれなりに通用する。このことが私に不安を与えました。処女作を書いた時は少女であって世の中を知らなかったけれども、ちゃんとした芸術家の日常の人間的・生活的発展のための努力と創作とはいつも一致していること。生活の発展こそ芸術を発展させるのであって、原稿が原稿料をもたらしてそれで女一人は食べてゆけているという状態そのものだけでは、芸術家としての生き方で望ましいものではないということが反省されました。「伸子」の後に書いた九十余枚の小説「一本の花」は、こういう当時の内心の事情を反映して、私としては記念の作品です。これを書いて私はソヴェトへの旅行に出かけました。帰って後は「伸子」をもっと社会的な観点から批評し得るようになりました。今そろそろ書きはじめた長篇で、私は「伸子」の持たなかった客観的な眼で歴史の或る時期と幾つかの社会層の人間の心持、その相互的な関係を描き出したいと思っています。
〔一九三七年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「長篇小説」
   1937(昭和12)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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