うちへ来てくれた日は、寒い日だったけれども、譲原さんはやっぱり小鼻に汗を出していた。その時もわたしは、譲原さんの病気がどんなに悪いかは知らなかった。譲原さんは自分の病気のことをちょっと話して、何しろ少しでも栄養をとろうと思えば、住む場所をえらぶゆとりがなくなるから、今いる田村町のアパートも身体にわるい条件なのは分っているけれども、なかなか動けないといった。それを譲原さんは、あっさりとした口調で、わたしたちみんながこの日頃のやりくりについて話すときと同じように話した。感傷を訴えもしなかった。だからわたしは、その日も譲原さんの身体のことよりも、放送に気をつかわせまいとして、お互いにらくな気分で話しましょうよということを強調してわかれた。
この放送は、譲原さんが自由にしっかりとよく話して、好評だった。
それっきり、わたしは譲原さんに会わずにしまった。去年の夏から自分も具合がわるくて、暮から正月へかけては非常によくない状態におちいった。ときどき譲原さんはどうしているだろうと思っていたところへ、無名戦士の墓へ葬むられた譲原さんのことを知って、自分が病気なだけにわたしのうけた衝撃ははなはだしかった。
無名戦士の墓には、わたしにとって忘れられないひとびとがいる。今野大力、今村恒夫、本庄陸男、黒島伝治など。とくに今野大力と今村恒夫は、一九三〇年から三三年にかけてのプロレタリア文学運動のなかで、ふかく日常的にもつながりあった仲間であった。譲原さんは、この人々との関係からみれば、たった二度だけ会った友達だった。だけれども、日本が民主的になってゆくはずのこんにちに、やっぱり譲原さんがこのようにして死んだということは、わたしに限りない思いを与える。今村恒夫、今野大力、これらの人たちは、直接その身体にうけた拷問が原因で死んだ。譲原さんの身体に今野大力の耳のうしろに残っていたような傷はなかったろう。しかしこれらの人々がもっと生きられるいのちを、もっと育つ才能を半ばで野蛮な力に殺されたということに、ひとつのちがいもない。
譲原さんの遺稿として新日本文学に「朝鮮やき」がのっている。みじかい作品だけれども感銘がふかい。北海道の鉱山に働きながら朝鮮の独立運動のために闘っていた一家を中心としてかかれている物語りである。緊密によくかかれている。そして最後は敗戦後の東京で目撃した朝鮮人の解放のよろこびの姿で終っている。譲原さんが清瀬療養所に入院してから書いたものらしい。絶望的な病状におちいりながら、ああいう作品をかいて、ああいう歓喜の状況をむすびとした譲原さんの気持をつらぬいていたのは、解放へのますます激しい欲望であり、生きることへの要求であったことがしみじみとうけとれる。そして彼女のそれらの要求は全く正しいものだった。譲原さんを知っている人は多勢ではないかもしれない。けれども、彼女は、彼女を知っている人の心に決して消えることのない人の一人である、と感じている。
〔一九四九年四月〕