わたくしは舊幕府の家來で、十七の時に京都二でうの城(今の離宮)の定番ぢやうばんといふものになつて行つた。江戸を立つたのが、元治ぐわんぢ元年の九月で、例の蛤御門はまぐりごもんたゝかいのあつてから二個月かげつのちの事である。一體私は親子の縁が薄かつたと見えて、その十七の時に兩親に別れてからは、片親と一緒に居る時はあつたが、兩親と一緒に居ることは殆んどなかつた。誠に私が非常な窮迫の折に死んだ母親の事などを考へると、今でも情けない涙が出る。
 其中そのうちに將軍家の長州進發といふ事になつた。それが則ち昭徳院せうとくゐんといふ紀州きしう公方くぼう――慶喜けいき公の前代の御人ごじんである。すこぶる人望のある御人であつたが大阪の行營ぎやうえいこうぜられたので、そこで慶喜公が其後そのゝちを繼いで將軍となられたのである。
 其頃、江戸の、今の水道橋内すゐどうばしうちさきちやうの所に講武所といふものがあつた。其所そこは幕府の家來が槍だとか、劍だとか、じうだとか、鐵砲だとかを稽古するところで、私の親父は其の鎗術の世話心得せわこゝろえといふ役に就いて居た。で講武所總體は右の御進發の御供おんとも、親父も同じく大阪に滯在するうち徒目附かちめつけといふ役に轉じた。そこで私も京都の方をして、親父と一緒に大阪に來て居た。
 丁度その時は親父の親友に御目附おめつけ木城きしろ安太郎やすたらうといふ人が居た。私も其以前そのいぜんから知つて居る人。――何處どこで聞いたか私の大阪に來てゐるといふことを知つて「直太郎なほたらう(私)も當地ださうだ。遊んでゐるなら私のうちの書生に寄越よこしたらうだ。」といふ話。親父も喜んでわしに話す元來御目附といへば天下の樞機にあづかる人。其人のうちれば自然海内かいだいの形勢も分かるであらう。わたくしが京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、渡りに舟と喜んで、木城氏の所へ行つた。無論其時分は文學者にならうなどといふ料見はない。(もつとも今も文學者のつもりでもないが。)むしろさういふ御目附、即ち當時の樞機に參する役人にならうと思つて居た。然しその時分の役人になるといふのは、今のそれとは心持に於いて違つて居る。其時分の我々は何處どこ迄も將軍家の譜代の家來だから、其の役人になるも、金を貰つて身を賣るではなく、主君なる將軍家に我が得た所を以て奉公をする。いはゆる公儀の御役おやくに立たうといふごく單純な考へであつた。然して此心は大抵な人が皆同じであつたらうと思つて居る。
 兎角するうちに、木城氏はくわんしう荒地くわうち開墾御用係といふものを命ぜられた。そして御勘定奉行ごかんぢやうぶぎやう小栗下總守をぐりしもふさのかみといふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。わしもその一行のうちに居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分だいぶ怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬうちに江戸と京都と干戈相見あいまみゆる時が來るであらう、愈々いよ/\うなつたら仙臺せんだい會津あいづ庄内しようないと東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井うすゐ、この両口りようぐちを堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、むを得ずんば打捨うつちやる覺悟であつたので、さてこそ關八州を開墾して兵食を足さうといふ考へが起つたのである。隨分泥棒をつかまへて繩をふと云ふやうな話であるが、然も其時は事實あれ程の急劇きふげきな變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しくても、まだ五年や十年の幕府の命脉はあるだらうと思つて居た。
 そこで農事に委しい人を頼まうといふことになつて相馬さうま藩から二みやきんらう尊徳そんとく翁の、其頃五十餘の大兵だいへうな人)をび、伊豆の代官江川えがは氏の手附てづき河野鐵平かうのてつへいといふ人をもめした。其外にも開墾水理に明るい人が幾らもやつて來た。兎に角、まだ其頃までは幕府の勢力があつたので其御用となることは、さういふ人達に取つては非常な榮譽であつたのである。それでわざ/\遠いところから來て呉れた。
 さて小栗總州そうしう、木城安太郎を兩大將に、それに附屬する我々に至るまで――わたくしはまだブランサンであつたが、一寸ちよつとお目附方の息子といふので、參謀官の見習ひといふやうなところで居た。――で或る時は庄屋名主なぬし五人組などいふ人物と引合ふ、或る時は神主や和尚さんとも談判する。十一月の廿七日かに大山おほやまの(相州)うしろの丹波山たんばやまの森へはいつた時などは雪中せつちうで野宿同樣な目をした事もある。隨分ひどい目に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野かうづけの一部を歩いて、慶應けいおう二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方ぢかたの事で、秣場まつぢやうつぶして畑地とする損益とか、河流の改修に就いての利害とか、その土地々々でいろ/\な問題に出遇つて、種々な研究をしつゝ歩いた。
 當時私の考へでは、日本の農業位ゐ勝手我儘なものはない。水田は川から水を取つてかける。だから勾配は川より低いにきまつて居る。然るに洪水の時は、其の出水をきたさせまいと云ふ。これ既に六づかしい註文である。洪水の時は、河流が眞直ぐでないから水ハケが惡いと言ひ、少しひでりがつゞくと河筋にゆとりが無いから水落が早くていけないといふ實に手前勝手をめたもので、コンナ殆んど出來ない相談といふをぼやいて一年中泣いたり笑つたり、くるしんだりして居る。ソンな詰らぬ苦情を鳴らして居るよりも、私の考へでは陸穗をかぼを作るがよい。陸穗を作るとそんな憂ひは一掃される、と斯ふいふのであつた。ところが、二宮といふ人も、それは面白いと私の流義でも右と同樣の説がある。決して足下そくか鼻元思案はなもとしあんでは無いと言つて大いに贊成して呉れた。
 それから、も一つは、蕎麥そば玉蜀黍とうもろこしを人間が常用食にして呉れると、一國の經濟が非常に助かるといふ説も出で、これには贊成もあり、反對もあつたが、蕎麥は知らぬが、玉蜀黍の方は今は亞米利加あめりかの常食だ。併し其の時分、玉蜀黍説には僕も驚かされた。先づ旅中、およそ六七十日のうち、三日にあげず寄合つて異なことを言ひ出して、互ひに意見を述べ合つて居たけれども、幕府に、肝腎の開墾資金がなかつたので、とう/\此論も沙汰止みの行はれず仕舞となつた。何しろ、それから右三年ののち、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏おくらかねがたつた三十六萬兩、即ち今の三百六十萬圓程しかなかつたといふのだから、實際幕府も情けない身上しんじやうであつたに違ひない。で金のかゝる割には、苦情の多い、荒向あれむきの利益が少ない開墾の、一時めになつたのも無理は無い。
 その翌年、すなはち慶應の三年、僕の廿さいの年には所謂いはゆる時事益々切迫で、――それまでは尊王攘夷そんわうじようゐであつたのが、何時いつにか尊王討幕になつてしまつた。所謂危急存亡のときだ。でわしも、それ迄は奧儒者の小林榮太郎こばやしえいたらうなる先生に就いて論語や孟子の輪講などをして居たが、もうソレどころで無い、筆を投じて戎軒じうけんを事とする時節だから、只だ明けても暮れても劍術を使ふ、柔術を取る、鐵砲を打つ抔といふあらツぽい方の眞似ばかりして居た。
 するうちに、其年の「慶應三年」の十二月二十五日に所謂薩州邸の燒打やきうちといふ事件が起つた。それは何故なぜかと言ふと、其の夏頃から市中に盜賊が流行はやつて仕方がない、それがどうも長い刀を差して、五人、七人、十人十五人と徒黨を組んで押し込んで來る。大きな金持のところへはいつては、百兩二百兩といふ金をふんだくる。中には鐵砲をかついではいる者もあるといふ風で、深川ふかがは木場きば淺草あさくさ藏前くらまへで、非常に恐れた。
 で、さういふ者を檢擧する爲に、新徴組しんちようぐみといふものが出來た。そのうちには、の有名な土方歳三ひぢかたとしざうや、近藤勇こんどういさむといふやうな人もはいつて居た。そして其の支配が出羽ではの庄内の酒井左衞門尉さかゐさえもんのじやう。それがしきりに市中を巡邏じゆんらする。尚ほ手先を使つて、彼等盜賊のあとを附けさせると、それが今のしば薩摩さつまぱらの薩州屋敷にはいるといふのでこの賊黨はとう/\薩藩さつぱんちうあふものだといふことが分つた。
 ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政たいせいを返上された。けれども以後の政治には、御自分等ごじぶんらあづかつて、天下の公議で事を裁決しやうといふ御腹おんはらであつたのに、其年の十二月九日の。かの有名な小御所の會議で王政一新の議を決められた。處が慶喜公を初め、會津も桑名くはなも其會議に省かれた。のみならず、其の前後、徳川征討の密勅が薩長二藩に下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心おほいたひらかならず、更に薩長彈劾の奏をたてまつる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふことで、とう/\薩州邸の燒打となつたのである。併し其時の騷ぎは大きくは無かつた。
 右の燒打をはじめとして、翌年正月の鳥羽とば伏見ふしみの戰ひ、其他すべては「文藝倶樂部ぶんげいくらぶ」の臨時増刊、第九年第二號「諸國年中行事」といふうちに、「三十五年前ねんぜん」と題して私は委しく話した事がある。又た先頃の毎日電報まゐにちでんぽうに「夜長のすさび」として月曜毎に掲載した事があるから、今更改めて言ふにも及ぶまい。
 兎に角、そんな風であるから、わたくしの青年時代は中々文筆に親しむどころの騷ぎではない。すなはち十七年のときから明治元年の二十一歳まで、東奔西走、居處なしといふ有樣だつた。ソレから其年靜岡に行くまでには馬鹿な危險の目にもおのづから出遇ツたし、今考へて見るとお話しをするにも困る程の始末だが、たゞ其頃はすこしも山氣やまぎなし、眞面目に其のつかふる所に孤忠を盡すつもりであつた。
 斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州すんしう田中たなかに移つた。其の翌年、わし沼津ぬまづの兵學校の生徒となつて調練などを頻りに遣らされた。けれども間もなく出て、靜岡の醫學校にはいつたが、其處そこから藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それがわしの放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧ひとみやすし梅澤敏うめさわとしなどゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下あさましたの集學所といふにはいつた。其の集學所に居る人間は函館はこだて五稜廓ごりやうかくの討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日いくさごツこのやうな眞似ばかりして居たが、そのうち世は漸次しだいに文化に向つて、さういふ物騷ぶつさうな學校の立ち行かう筈もないので、其中そのうちに潰れて了つた。それからわしは田舍の學校の教師になつた。
 初めて横濱毎日新聞よこはまゝいにちしんぶんはいつたのは、明治七年である。それが今日こんにちのそも/\で、それから十一年に東京日々新聞とうきやうにち/\しんぶんに來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、ただ昔から馬琴ばきん其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬へいばこうそう成長ひとゝなつた方のだから自分でも文士などゝ任じては居らぬし、世間も大かたうだらう。それだから今日こんにち書く小説もやはり其通り、とても戀愛や煩悶の青年諸氏によろこばれるやうな品物を、書けもしなければ、又た書かうといふ野心も起らない。僕はやはり僕だけの僕で居る。
(明治四十二年八月「文章世界」第四卷第十一號)

底本:「明治文學全集 89 明治歴史文學集」筑摩書房
   1976(昭和51)年1月30日初版発行
初出:「文章世界 第四巻第一一号」博文館
   1909(明治42)年8月
入力:和井府清十郎
校正:松永正敏
2002年3月11日公開
2011年5月25日修正
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