そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ感嘆に価する安心でありました。が、やつぱりあき足りないにはあき足りない。やつぱりあなたがいつまでもあの月の雫の直立である電柱の下で、いつまでもいつまでも、私が、ポストの角からとうに曲つてしまつたのちのいつまでも、あなたから走り去つた私の背後の帯の輪の揺れ、着物の裾がひるがへつて月光に、どんな反色を見せたかといふことまでがあなたに幻影とまでなつてしまつてからでも、あの電柱の下に立ちどまつて、私に名残を惜んで下さるあなたの存在を見たかつた。私の失望といふのはそれですの。
でも、何といつても昨夜はうれしい夜でした。黙つて、黙つてゐるために、かへつて、二人とも切ない歓喜の哀愁がふかく胸をとぢたので御座いますね。月の前では、まつたく人間界の饒舌などほしいまゝにしてはすまないやうな冷厳な感じにうたれますのね、まして恋する身には……
まだ以上、このラブレターの続きはあるのですが、もはや書き続ける根気もありません。なぜなら、このラブレターは筆者が自分の熱情をもつて恋人にでも送つたらうと思はれたら大変な違ひのものなのですから。これは、或る女が、ある男から恋愛を強ひられて拒絶した。するとその男性から、『せめてこの様なラブレターでも時折は書き送つて下さい。小生は目下あまりに寂しい境遇にゐる。』と強要せられた時、その同封のなかにこのラブレターの文範がいれてありました。いふまでもなく、それゆゑ以上のラブレター文範はその男性が御苦労様にも、そのある女に自分から書いて示したものであります。ユーモラスな哀感をかんじながら私がそれを読んでゐますと、傍からそれをもらつた女性が『じようだんではありませんわ、私にそんなひまがありますか。』とふくれてをりましたが、それでもやはりその女性にも、ふくれるそばから口辺につい現はる微笑がありました。
昭和二・五