この集には、一九三七年、三九年、四〇年の間にかいた十篇の小説と亡くなった父母について記念のための随筆二篇が収められている。
 一九三七年と云えば、中国への侵略戦争を拡大しながら日本の内部のあらゆる部面に軍事的な専制が強力にしかれはじめた時期であった。二・二六事件があったのが前年の三六年のことである。
 一九三八年(昭和十三年)一月から中野重治と私と他に数人の評論家が、思想傾向の上から内務省として執筆させることを望まない、という表現で、事実上の執筆禁止をうけた。その前後から雑誌や単行本に対する取締りがひどくなって、少しでも日本の軍事行動に対して疑問を示したり、戦争によって人民生活が不安にされて行くことをとりあげた文章は禁止された。一月ごとにその程度と範囲が際限なくひろがって、客観的に公平に、国際問題や経済、政治問題をとり扱った内容さえ忌諱にふれた。日本のなかに、客観的な真実、学問上の真理、生活の現実を否定して、日本民族の優秀性と、侵略的大東亜主義を宣伝する文筆だけが許される段階に入りつつあった。ジャーナリストたちは、規準のわからない発禁つづきに閉口して、内務省の係の人に執筆を希望しない作家、評論家の名をあげさせた。その結果十人足らずの氏名があげられたということであった。
「ある回想から」という私の文章のなかで割合くわしくふれているけれども、中野と私とは内務省へ行ってそういう理由のはっきりしない執筆禁止について抗議した。それから、私は、当時、保護観察所と云って、治安維持法にふれたことのある人々を、四六時中つけまわして思想的生活的に制約することを仕事にしていた役所へ行って、検事であるその所長に会って話した。当時はまだ、作家の生活権を奪うということからの抗議に対しては内務省も保護観察所も、耳を傾けなければならない立場だった。同じ事情におかれた評論家の中には、早速内務省へ個別的に自分の思想的立場を釈明した文書を出した人があり、そういう人にはすぐ特別のはからいをしたという役人の言葉であった。
 中野も私も、そういうことはしまいということに相談をきめた。そして、一九三八年まる一年と翌年の初夏まで、私はかいたものの発表が出来なかった。中野重治も同じようなことであったと思う。
「その年」という小説は、こういうひどい時期の記念の作品となった。『文芸春秋』が、一九三九年の春、もうそろそろ私も作品発表が可能らしいという見込みで、「その年」の原稿を印刷にする前に内務省の内閲に出した。やがて、内閲から戻されて来た原稿をもって『文芸春秋』の編輯者が目白に住んでいたわたしのところへ来た。そして、当惑して原稿をさし出し、何しろ赤鉛筆のスジのところはいけないって云うんですが、ということだった。原稿をあけてみて、わたしはおこるより先に呆れ、やがて笑い出した。原稿には、実によく赤鉛筆がはいっていて、それは各頁、各行だった。赤鉛筆のとぎれているところをひろって読めば、そのところは、ただ「そうしているうちに」とか「であるはずなのに」という風な箇所だった。はじめから赤鉛筆を手にもって、べたスジをひくことにして読みはじめたものであることが一目瞭然であった。赤スジのないところには、文章さえのこっていないのだから、小説として発表が出来るわけもない。「その年」のようにおだやかな作品でさえもそういう取扱だった。即ち小説は一九三九年の九月にかいて十一月の中央公論に発表された「杉垣」が、禁止以来はじめての作品である。それまで、ちょっとした随筆を二三篇かき、その一つであった「清風おもむろに吹き来つて」という随筆がきっかけとなって、明治から現代までの文学史と婦人作家の研究にとりかかった。「その年」の原稿は、日本の言論抑圧の標本として、赤鉛筆の姿をそのまま、いつか多くの人の目にふれる機会をもつだろう。
「朝の風」という作品は、作者が心いっぱいにもっている思いを、そのまま自然に表現の出来ないために、まるで猿ぐつわのすき間から洩れる声のようになっている。口だけ動かしているが声がききとれないような作品とも云える。見える見えない周囲の圧迫は、こんな不具な作品しかうませなかった。こういう事情で作品を歪まされたのは、わたし一人のことではなかった。
 こういう事情でともかく作品の発表が出来たのは、一九三九年も秋になってからであったのに、一九四一年には又もや一月から、発表禁止をうけた。太平洋戦争に突入する準備を強行していた日本絶対主義の軍事力は、極度に言論圧迫を行って、科学でも、文学でも、子供の歌まで侵略万能に統一した。情報局の陸海軍人が出版物統制にあたって、自分たちの書いたものを出版させて印税をむさぼりながらすべての平和、自由を窒息させた。文学報国会が大会を陸海軍軍人の演説によって開会し、出席する婦人作家はもんぺい姿を求められたというようなことは日本の文学史の惨憺たる一頁であった。
 わたしは四一年一月から一九四五年八月十五日まで、一切の書くものを発表禁止された。その間に四一年十二月九日から翌年七月末、巣鴨拘置所で病気が悪化し意識不明になるまでとめておかれた。少し眼も見えるようになった一九四三年の春から秋にかけて、調べのつづきということで、警察や検事局へよばれた。警察では、「三月の第四日曜」という小説の題に、何か特別の意味があるだろう、という問いさえうけた。三月には四度日曜がある。三十一日の月だから。彼等はそれさえ、疑いの種になる。その頃の特高警察の仕事のやりかたというものは、常識をはずれ、知識をはずれ、正気の人間に出来ることではなかった。
「今朝の雪」は婦人雑誌のためにかいた作品で、柔軟なものであるけれども、文学報国会は理由を告げず年鑑作品集に入れることを拒んだ。作品を収録するからと云って、私に送らせたのに。
 わたしの母は一九三四年六月に、歿した。わたしがその年の一月から警察にとめておかれていたときに。わたしの父は一九三六年一月、亡くなった。わたしが市ヶ谷刑務所にいたとき。直接作品にあらわれてはいないが宮本の父は一九三八年六月に亡くなった。宮本は巣鴨拘置所で拘禁生活の六年目、わたしは執筆を禁止されていた年に。父母と、こういう状況の下に死別した人々は、その頃の日本にわたしたちばかりではなかった。拘禁生活をさせられていた人々ばかりでなく、どっさりの人は戦地におくられて、通信の自由でなかった家郷の愛するものの生死からひきはなされて、自分たちの生命の明日を知らされなかった。

 きょう読みかえしてみると、日本の戦争進行の程度につれて、わたしの文章はふくみ声になって来ている。云いたいこと、表現すべき言葉がぼかされたり、暗示にとどまったり、省略されたりしている。「鈍・根・録」の冒頭の文章では警察と留置されていた自分の関係がぼやかされていて、きょうの読者の理解には不便である。「わが父」のはじめも、父の葬儀のため市ヶ谷刑務所から仮出獄したわたしが再び刑務所に戻って、裸にされて青い着物を着たときの事情が、わかりにくくかかれている。同じこの理由から、前巻に収められている「突堤」のはじまりの文章も分りにくい。当時は、そういうことをあからさまに書くという心持そのものが抗議をあらわすものとされていて、治安維持法の対象とされたのだった。あの頃の作者と読者とはほんとに敏感で、おたがいに片言でものを云って、それでやっと心を通わせ合って暮した。そんなに日本中が牢獄的であった。
 わたしはその頃の日本のすべての人民の苦痛と精神も肉体も不具にされていた日の記念として、きょうではおかしく意味の不明瞭に書かれている文章のまま、傷ついている姿のまま、作品をのこしておく。愛する日本が、また再び作家にかたことを云わせるような非条理な強権に決して屈することのないように。言論の自由ということは、どんなに人間の社会生活にとって基本的に主張されなければならない重大な権利であるかということについて忘れないために。
   一九四八年二月十四日
〔一九四八年二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「宮本百合子選集 第五巻」安芸書房
   1948(昭和23)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年7月24日作成
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