黄銅時代の為に、
○彼は丁度四月の末に幼葉をつけた古い柿のような心持のする人である。
 くすんだ色の幹や、いかつい角で曲って居る枝。その黒い枝の先々に、丸味のある柔かい若葉が子供らしくかたまって着いて居る通りに、彼の感情には、幼い、柔かい、そして瑞々した部分が籠って居るのである。
 壮年の粗硬と青年の純情さ、

 二月二十五日
 地面には、まだ昨日降ったばかりの雪が、厚く積って居る。が、空は柔かく滑らかな白雲を浮かべて晴れ渡って居た。
 雲の消え入るようにやさしいすき間には、光った月と無数の星とがキラキラと輝いて居る。
 あたりはひっそりと鎮って、足跡のない雪の夢のような表面と、愛らしい春の息を吸った空とは、そのなごやかな甘い沈黙のうちで、お互の秘語を交して居るように思われる。
 雪は、明にまだ寒さの残りを示して居ながら、あらゆる外景は、優しく柔かく、春めいて居る。黝んだ木立ちの間に、暖かく灯がちらつき、耳をすますと、溶け出した水の滴が、ひそやかに雨どよの中を流れて行く音さえ聞える。
 しめっぽい、しっとりとした、楽しげな早春の夜。

○緑色と卵色の縞のブラインドのすき間からは、じっと動かない灯と絶えず揺れ動く暖炉の焔かげとが写り、時に、その光波の真中を、若い女性らしい素早い、しなやかな人かげが黒く横切った。

○子供は、両端の小さくくれたくくり枕のような体を盛に動して家中をかけ廻った。

○弱い、疲れた日差しが、細かい木の枝や葉のもつれをチラチラと壁の上に印して居る。その黒と黄の入り乱れた色彩は、そのディムな感じからも、まるきり、黄色紙にされたエッチングを見るような気がした。

「私には不思議に思われます、真個に不思議に――。考えて御覧遊ばせ。私共はお互に独身で、本当の心から愛し合って、結婚しようとして居る。そう云う人々が一日中沢山の時を一緒に過したり、一緒に歩いたりすることが其那に騒ぎな、何かいけない事のように思われて居るのに、一方では、本当に間違った prodigality が黙って通用されて居る。

 解らない人に解らせるのは雑作もない事ですけれども、解る気のまるでない人に解らせようとすることは、不可能です。解らせようとする間に、私の命は減ってしまいます。人の悪い、間違った、不幸な生活許りを見つけ出して、俺はどうだ! と云うような人に、私は解って下さいとたのむほど、卑怯に、弱くなれません。

「御免遊ばせ。其は皆さんが種々の事を仰云るかも知れませんわ、けれども、私は彼の方を愛して居りますのよ、此からも、此からも愛します。種々な事を云っても、何をしても、結局、皆が真個に愛し合って、お互に鼓舞して、段々よりよい生活に入って行くことを望んで居るのじゃあ、ありませんこと?
 其は私は若いから(泰子は一種の表情をした。)間抜けな事は沢山するでしょう。けれども、私の持って居るそう云う希望は、間違って居るとは思いません。決して!
 私は、自分が、此こそ! と思ったものは離しゃしないことよ、どんな事があっても、何と云われれても、私の命は、私の命です。
 私の愛すものは、私の愛すものよ、
「私の愛す者よ!」と云う瞬間、泰子の激した、思い上った燃えるような眼には、さ霧のような湿りが来た。

  黄銅時代のために。
 彼等の運命より、
「彼は、彼女の眼の中に、彼の為ならばどんな事でもする。どんな罪でも犯す。彼女の身は彼の如何なる暗黒な意にも委せると云う意志を読んだような気がした。」此の心持を逆に自分は経験するのだ。
 決して、理知は暗黒な意力、或は暴威を、互の為に許しはしないのだ。が、或瞬間、情熱の爆発は、其の忘我まで自分を馳り立てる。
 彼女は――自分は――その忘我が、感情に於てふんだんの女性である自分にとって、不可抗なものである事を熟知して居る。
 其が故に、彼女はその忘我の裡に恍惚とした我をも、何の恐れなしに委せ得る人を、見出さなければならない。彼女の良人は、彼女の守護者でなければならないのである。

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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