奇妙な夢を見た。女学校の裁縫の教室と思われる広い部屋で、自分は多勢の友達と一緒にがやがやし乍ら、何か縫って居る。先生は、実際の女学校生活の間、所謂虫がすかなかったのだろう、何かとなく神経的に自分に辛く当った音楽の先生である。自分の縫ったものについて頻りに小言を云われる。夢の中にあり乍ら、私は、十七の生徒で真個に意地悪を云われた時と同様の苦しい胸の迫る心持になった。すると、突然、今まで居るとも思えなかった一人の友達が、多勢の中から突立ち、どうしたことか、まるでまる真赤な洋服を着て、非常に露骨な強い言葉でその先生の不公平を罵倒し始めた。始めのうちは、条理が立って居たのが次第に怪しくなって、仕舞いには、何を云おうとするのか、文句が断れぎれで、訳のわからないことを口走るようになった。
 赤い洋服を着た小さい人は、気が違って仕舞ったのだ。
 場面は病院のような処となり、学校の二階のようなところと成ったり、夢特有の唐突さで変るが、どうかして自分はひどくその気の狂った人に深い愛を覚えて居る。先方もそうであるらしい。ところが、二人で二階へ昇る廊下口のような処に居ると、其処へ、一人男の人が出て来た。私の心覚えのある姓名の人であった。
 洋服を着、何心なく来かかるその男を見ると、赤い着物の気の違った女の子は、いきなり腕をからみ合って居た私を突のけて、男の方へかけて行った。そして、手を執り、首をかしげて、頻りに何か頼んで居る。何処へ行くのか知らないが
「彼方へ行きましょう、ね、行きましょうよ」
と云い乍ら、驚き、不機嫌な男の手を、ぐんぐんと引張って居るのである。
 相手は、暫く呆然とされるままになって居たが、やがてはっきり
「いやです」
と云った。それでも、気の違って居る人は承知しない。猶も執念くつきまとう。終に、男は実に断然たる口調で、
「厭だと云ったらいやです」
と云いさま、手を振もぎって、殆ど馳るように、階子段とは逆の方に歩き出した。
 赤い着物を着た娘は、血相をかえて後を追い出した。追われると心付いて、男は洋袴にはまった脚を目まぐるしく動かして逃げる。後から娘は、加速度的に速さを増して追いすがろうとする。――
 二人の後姿が、見えないようになると、何と云う訳なのか、私は、学校の舎監室に逃げ込んだ。そして、声を震わせて
「かくまって下さい」
と云い、大きな婦人の机の下に這い込んだ。可笑しいことに、其処に居る婦人は皆、西洋人である。丁度、私が紐育ニューヨークの或大学寄宿舎に居た時日々顔を合わせたような、肥満した二重顎の婦人達ばかり、スカートをパッと拡げて居るのである。
 隠れ乍らも、私の心は、深い悲哀に満されて居る。男を追って走り去った赤い洋服の娘のことが心掛りで仕方ないのである。
 涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大きい人である。大変快活な顔付で、いかつい眼や口のまわりに微笑さえ浮べて居る。
「あのは見つかりましたよ」
と云う。自分は勿論、居合わせた婦人も一斉に新たに入って来た人の方を見た。
「まあ! 何処に?」
 矢張り笑顔のまま、大きな女のひとはくるりと、私共の方に背を向けた。一目見、自分は大声で泣き出した。背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。
「河に身を投げたのだ」
と誰かが云う声が聞える。自分は、泣き泣き机の下から出た。どうしてもその小さい赤い屍を背負った人の傍を通らなければならないので、両手で眼を押え
「どうぞ見せないで下さい。見ることは許して下さい」と云い乍ら、すり抜けようとする。不思議なことに、いくら眼を瞑っても、手で押えても屍の顔ははっきり、見える。
 房さりと濡れもせずに散った栗色の髪の毛と、賑やかな襞になって居る赤洋服の襟との間に、極々小さい顔はまるで白蝋色をして居る。唇はほほえみ、つぶった双眼の縁は、溶きもしない鮮やかな草色に近い青緑色で、くっきりの西洋絵具を塗ったように隈どられて居る。
 見まい、見まいとしても顔の見える恐ろしさに、私は激しい叫び声を立てて一散に逃げようとした。狭いところを抜けようとして頻りにする身※(「足+宛」、第3水準1-92-36)きで、始めて夢が破れたのである。
 半分眼が醒めかかっても、私は夢に覚えた悲しさを忘れ切れず、うっかりすると、憐れな泣声を立てそうな程、心を圧せられて居た。時間にすれば、五時頃ででもあったろうか。

 眠りなおして八時過に起ても、私は何となく頭が重苦しいのを感じた。熟睡して醒めた後誰でも感じる、暖かに神経の末端まで充実した心持。それがなく、何だか詰らない、疲労の後味とでも云うようなものが、こびりついて居るのである。
 新奇なこともない新聞を読み乍ら食事を終った処へ或書店から人が見えた。
 髪をちょっと丸めたままの姿で、客間に行って見ると髪を長くのばし、張った肩に銘仙の羽織を着た青年が後を見せて立って居る。
 初対面の挨拶をし、自分は
「どうぞおかけ下さいまし」
と上座に当る椅子を進めた。
 はあ、と云って立って居るのでもう一度同じ言葉を繰返すと、その青年は、ひどく心得た調子で
「まあどうぞ其方へおかけ下さい」
と、まるで自分が主人ででもあるような口調で私に、彼にすすめる椅子を進めた。
「荷物がありますから」
 ちらりと小さい風呂敷包みを見、自分は何だか滑稽な、苦笑したい心持で席についた。
 用向と云うのは、その書店で編輯して居る雑誌のことにつき、或話をききたいと云うのであった。用談がすむと、二三の人の噂をし、淡青い色の巻煙草の箱を出した。
 家族に喫煙する者がないので、道具の出してないのに心付き、私は火鉢を彼の近くに押してやった。
 彼は
「いや、どうも」
と云い乍ら、こごんで巻煙草に火をつけ、一ふきふかすと、直ぐ
「其じゃあ失礼致しましょうか」
と云い出した。
 煙草を出すところから、火をつけ終るまで、悠くりした心持で見て居た自分は、突然そう云われた刹那、火をつけたばかりの煙草をどうするのだろう、と云う疑問を感じた。迂遠な私は、落付いて一休みして行く積りなのだと思って居たのであった。
 面喰い、猶も同じ疑問に拘泥して居る間に、彼は、薄平たい風呂敷包みを持って立ち上った。そして、片手の指には、火のつき煙の立つ煙草を挟んだまま、両足を開いて立ち、
「失礼しました。左様なら」
と云う。私も立って
「左様なら」
と云った。もう少しで、
「一服つけて御出かけと云う処ですか」
と云うところであった。

 出て行った音をきき乍ら書斎に入り、私は何と云う無作法な男かと思った。文学を遣ると云ったのを思い出し空恐ろしい気もする。
 夜中に見た夢が悪かったのか、男が余りがさつであった為か、私の気分は愈々悪化した。

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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