第一日

 夜なかに不図目がさめた。雨の音がする。ぱらぱら寝台車の屋根を打つ音が耳に入った。私は、家にて静に夜の雨音を聴くようなすがすがしいいい心持がした。
 午前六時何分かに、鳥栖とすで乗換る頃には霧雨であった。南風崎はえのさき、大村、諫早いさはや、海岸に沿うて遽しくくぐる山腹から出ては海を眺めると、黒く濡れた磯の巖、藍がかった灰色に打ちよせる波、もやった舟のほばしらが幾本も細雨に揺れ乍ら林立して居る景色。版画的で、眼に訴えられることが強い。鹿児島でも、快晴であったし、眩しい程明るくもう夏のように暑かった故か、長崎が雨なのは却って一つの変化でよかった。私共は、急に思い立って来たので、宿も定めてはない。先年、長崎ホテルに泊って、そのさびれた趣をひどく長崎らしいと味った知人から、名を聞いて来たばかりだ。長崎駅に下りて、赤帽に訊いて見ると、もう廃業して、ジャパン・ホテルだけの由、相談をし、兎も角其処へ行って見ることになった。雲が薄くなり、稀に、光った雨脚が京都と同じように乾きの早い白い道に降る。上海などへ連絡する船宿の並んだ通りをぬけ、港沿いに俥が駛る。昼ごろの故か、往来は至って閑散だ。左側に古風な建物の領事館などある。或角を曲った。支那両替屋の招牌が幌を掠めた。首をこごめて往来をのぞくと、右手に畳を縫って居る職人、向側の塵埃ほこりっぽい大硝子窓の奥で針を働して居る洋服工、つい俥の下で逃げ出す鶏を見乍ら丸髷に結った女と喋って居る若者迄悉く支那人だ。道のつき当りから山手にかかって、遙か高みの新緑の間に、さっぱりした宏壮な洋館が望まれる。ジャパン・ホテルと云うのはあれだろう。海の展望もありなかなかよさそうなところと、只管ひたすら支那街らしい左右の情景に注意を奪われて居ると、思いがけない緑色の建物の前で梶が下りた。片手に新聞を拡げたなり持ち、空模様でも見るらしくふらりと棕櫚の鉢植のところへ出て居た背広の男が、我々に近より、極く平静に――抑揚なく挨拶した。
「いらっしゃい」
 ホールで、我々は
「一寸御飯をたべたいのだが」
と云った。
「どうぞ此方で暫くお待ち下さい」
 傍の客室に案内された。手套てぶくろをとり乍ら室内を見廻し、私はひとりでに一種の微笑が湧くのを感じた。長崎とは、まあ何と古風な開化の町! フレンチ・ドアを背にして置かれた長椅子は、鄙びた紅天鵝絨べにびろうど張り、よく涙香訳何々奇談などと云った小説の插画にある通りの円い飾玉のついた椅子。更紗模様の紙をはった壁に、二つ並んで錆た金椽の飾装品かざりものが懸って居る。其こそ我々を興がらせた。遠見に淡く海辺風景を油絵で描き、前に小さい貝殼、珊瑚さんごのきれはし、海草の枝などとり集めて配合した上を、厚くふくらんだ硝子で蓋したものだ。薄暗い部屋だから、眼に力をこめて凝視すると、画と実物ほんものの貝殼などとのパノラマ的効果が現れ、小っぽけな窓から海底を覗いて居るような幻覚が起らない限でもないのだ――大人にパノラマが珍重された時代が我々の一九二六年迄かえって来る。――
 間もなく食事を知らせる銅鑼どらが鳴った。色とりどり実にふんだんな卓上の盛花、隅の食器棚の上に並べられた支那焼花瓶、左右の大聯おおれん。重厚で色彩が豊富すぎる其食堂に坐った者とては、初め私達二人の女ぎりであった。人間でないものが多すぎる。其故、花や陶器の放つ色彩が、圧迫的に曇天の正午を生活して居るように感じられる。程経って若い亜米利加の男が一人入って来た。入口に近い定席につくや否や、彼は、押えきれないらしい大きな倦怠から、うんと伸びをした。前菜を捧げた給仕に、苦笑し乍ら呟くのが聞えた。
「ハ、ハ、眠たいです」
 もう一人、縞服の男が来て、食卓についた。二人、四つ五つ離れた各々の卓子から会話を始めた。純益何割、保険金何割、何どる、何弗の話。……暇すぎる年寄の給仕が、時々ナプキンを振って蠅を追って居る。
 ――いかにも物懶さと云い、何処やら地から生え抜き日本離れのした雰囲気と云い、面白いのだが、私共は或虫、その他心配で迚も泊る気にはなれなかった。私は旅館の相談旁々かたがた、紹介を得て来た図書館長の永山氏に電話をかけた。私、早口になると見え、電話がてきぱき相手に通じない。困難し、打ち合わせなどするうちに、後の廊下で、一人の老人が丹念に人造真珠の頸飾や、古本や鼈甲細工等下手に見栄えなく並べ始めた。

 一眠りしたら、大分元気が恢復した。福島屋の其部屋から、遙に港内が瞰下みおろせた。塗り更えに碇泊して居るらしい大きい二隻の汽船の赤い腹の周囲を、小蒸汽が小波立てて往来する。夕飯前の一散歩に、地図携帯で私共は宿を出た。彼此かれこれ五時頃であったろうか。
 雨あがりだから、おっとりした関西風の町並、名物の甃道いしだたみみちは殊更歩くに快い。くすのきの若葉が丁度あざやかに市の山手一帯を包んで居る時候で、支那風の石橋を渡り、寂びた石段道を緑のなかへ登りつめてゆく心持。長崎独特の趣きがある。実際、長崎という市は、いつの時代にか到る処に賢く豊富な石材を利用したばかりで、すっかり風致に変化を生じた都会だと思う。木材を愛す日本人に比較し、その事業を完成したのは、所謂唐人とうじん達の手柄であろうか。長崎の市を、何等史的知識なく一巡した旅客の記憶にも確り印象されるのは、この水に配された石橋の異国的な美や古寺の壮重な石垣と繁った樹木との調和等ではあるまいか。長崎には夥しく寺がある。その寺々が皆港を見晴らす山よりに建てられて居る。沢山の石段を自然に悠くり登り、登りきった処では誰しも一息入れたく成るだろう。其時人々の前には、眼界遙かに穏やかな入海と、櫛比しっぴした町々の屋根が展開される。
 今籠町の黄檗宗崇福寺へ行って、唐門からもん前の石欄から始めて夕暮の市を俯瞰した時、その心理的効果がはっきり感じられて面白かった。
 崇福寺は由緒も深く、建築も特別保護建造物になって居るが、私共の趣味ではよさを直感されなかった。京都の黄檗山万福寺と同様、大雄宝殿其他の建物を甃の廻廊で接続させてあるのだが、山端やまはなで平地の奥行きが不足な故か、構造の上でせせこましさがある。数多あまたの柱列を充分活かすだけの直線の延長が足りないとでも説明すべきなのか。京都の万福寺の建物では智的であり意力的な線のつよさを感じたが、此方の建物から其感銘は受け難かった。時間がおそかったので、本堂の扉が住持が閉めたところであった。宝物は一つも見られず。千呆禅師が天和二年に長崎の饑饉救済をしたという大釜の前に立って居ると、庫裡くりからひどく仇っぽさのある細君が吾妻下駄をからころ鳴して出て来た。龍宮造りの楼門のところで遊んで居る息子を頻りに呼ぶ。息子は来ず、労働服をつけた男が家に帰るらしく石段をかたかた下から登って来た。唐門を入ったつき当りの低い築地ついじから枝をさし出した一叢ひとむらの紅薔薇が、露多い夕闇に美しかった。
 夜、一番賑やかという西浜町へ出て見る。鼈甲細工屋と、洋傘屋の多いのに驚いた。長崎の初夏は、女の人々に洋傘がこれ程重大がられるのだろうか。鼈甲、品質はよいのだろうが、図案もう一息。特に飾ピンなど。寄合町迄行って帰りに驟雨に会った。

        第二日

 多忙な永山氏を煩すことだから、大奮発で七時起床。短時間の滞在だから永山氏に大体観るべきところの教示を受けたいと、昨日電話して置いたのだ。紹介状には、私共二人の名が連ねてある。ところが、Y、昨晩床に入る時、大分工合を悪がった。天然痘流行の為、私達は念の為大分の臼杵うすきで種痘をした。Y、十四位のとき種痘したぎりで、どうも全感らしく、崇福寺の裏の高い段々を降る時など、気分が悪くなったらしかった。今朝、発熱し動かれない。私一人行く。
 長崎図書館は、諏訪公園内に在る小ぢんまりした図書館だ。昔、グラント将軍が来た時、滞留させるに適当なところがなく、其為に交親館というのを此処に建ててその用に供した。其を改造したものだそうだ。入口から、上野のように陰気で物々しくないのがよい。
 永山時英氏は、長崎史研究者として権威ある人。昨今出版された大部な切支丹資料研究は、插画を見た丈でも益されることが多大だ。鹿児島出身。三時間に亙って懇切に私の質問に答えたり、書庫を見せられたりした。書庫には、出島和蘭オランダ屋敷の絵巻物、対支貿易に使用された信牌、航海図、きりしたんころびに関する書つけ、シーボルトの遺物、フェートン号の航海日誌、羅馬ローマ綴の日本語にラテン語を混えた独特な趣味あるミッション・プレス等々価値あるものが沢山ある。
 其節永山氏も云われた通り、長崎市が博物館を未だ持たないのは、まことに残念なことだ。市が現在は、寧ろ歴史的背景によって存在して居るような状態でさえあるのに。各箇人としては充分に資料も持って居るのに、其を集めて博物館とする迄に到らない原因、確に永山氏の説かれる通り、長崎人の伝統的な気質――会所からの配当金で楽々生活して居た時代から、あくせく知らず――が重大な関係をもって居るだろう。その上、長崎人は、鹿児島の人々などと違い、自分達の祖先の生活に流れこんだ外国文明に、郷土文化との対立や文明史的の客観を持ち難い程、心持の上でコスモポリタンになって居るのではあるまいか。生活を来るがまま、流るるがまま、都市として持つ古さの自覚さえ忘れて、生きて居るのではあるまいか。或、真似がたい鷹揚さと云えないこともない。京都や奈良が、決して自分の年功を忘れない老人のようなのと、興味ある対照と思う。
 午後になっても、Y切なく、外出覚つかない。番頭、頼山陽の書など見せてくれる。折々、港の景色をぼやかして、霧雨がする。お喋りの間に、長崎の女性評が出た。
「ここの女の人は、鹿児島の女と随分違うわね」
「違う、違う。鹿児島の女の人、何だか皆頬ぺたなんか艷々して居るようで、活々して、笑いんぼらしいけれど、長崎の女の人はどっちかというと――さあ何て云うのか――」
「そうよ、私もそういう処が女中を見ても違うと思うわ。情が深いって云うでしょ――男の人達に対して鹿児島の女の人は割合さっぱり単純に快活で、どっちかと云うと頼りになる姉妹、母さんという感じ、ね。長崎の方は情人、或は妻的、違う?」
「其だけ、つまり性的に馴練されて居るわけだな」
「地理的関係もあるから、ね。昔のオランダ人なんかは随分、そういう長崎婦人の美点をエンジョウイしたらしいことよ。幕府では、オランダ人が細君を連れて来ることを、政策上許さなかったんですって。或人が折角夫人同伴で来たのに、上陸も許されないで直ぐ其船で追帰されなければならない悲惨なことがあったそうだけれど、出島の住人は、内心却ってい位だったんですって」
「何故?」
「だって――貴婦人が来たら困っちゃうのよ皆」

        第三日

 長崎は雨の尠いところだそうだのに、今朝も、雲母きららを薄く張ったような空から小糠雨が降って居る。俥で、福済寺へ行く。やはり、南京寺の一つ、黄檗宗に属す。この寺は、建物も大観門から青蓮堂――観音廟を見たところ、同じ辺から護法堂へ行く窟門の眺めなど、趣き深い。永山氏の紹介で、現住三浦氏が各建物を案内し大方丈の戸にある沈南蘋ちんなんぴんの絵を見せて呉られた。護法堂の布袋ほてい、囲りに唐児からこたわむれて居る巨大な金色の布袋なのだが、其が彫塑であるという専門的穿鑿をおいても、この位心持よい布袋を私は初めて見た。布袋というものに人格化された福々しさが、厭味なく、春風駘蕩と表現されて居る。云うに云われぬ楽しさ面白さ、という表情を以て無邪気極りなく格子の奥に笑って居る。
 大観門の左右にあった、高さ凡そ二尺二三寸の下馬じるしを意味する一対の石の浮彫も目に遺った。この門の前、石欄のところに、慈航燈が在る。高く櫓形に石を組みあげた上に、四本の支えで燈籠形の頂がつけられて居る。恐らく昔、唐船入津の時節、或は毎夜、そこに燈明が点ぜられたものであろう。大体、この福済寺からの眺望は、長崎らしいということでは際立ったものと思う。細雨を傘によけて大観門外に立って見ると、海路平安と銘あるそのすっきりした慈航燈を前景とし、右によって市中の教会の尖塔がひとり雨空に聳えて居る。濡れた屋根屋根、それを越すと、煙った湾内の風光が一眸におさめられる。佇んでこれ等の遠望を恣にして居るうちに、私は不図、海路平安とだけ刻まれた四字の間から、海上はるかに思をやった明末の帰化人の無言の郷愁ノスタルジーひしと我心にも感じたように思った。

        第四日

 運のわるいこと。今日は雲の切れめこそ見えるが、急に吹き降りの大粒な雨が落ちる。けれども、今日引こもっては、もう大浦、浦上の天主堂も見ずに仕舞わねばならない。其は残念だ。Y、天を睨み
「これだから貧棒旅行はいやさ」
と歎じるが、やむを得ず。自動車をよんで、大浦天主堂に行く。坂路の登り口に門番があり、爺さんが居る。これも、永山氏の御好意による名刺を通じると、爺さん
「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへあげるね」
と訊く。どちらでもよいように永山氏はただ大浦天主堂御中という指名にされてある。私丁寧に答える。
「どちらでもよろしいのです。拝観さえ出来れば」
 すると、爺さん、名刺を見ようともせず私にかえし
「拝観なら、私でええ。今、葬式で皆お留守だ。そこの右の方から入って見なさい。木の仕切りの中へ入りさえしなければ勝手に見なさってええ」
 私共は顔を見合わせ、当惑して笑い合った。今度はYが訊く。
「勝手に拝見してわかりますか」
「――わたしはな、もう年よりで病気だから、説明が出来ませんじゃ、ここが苦しいから――だからただ見るだけ」
 冬の日向ぼっこのような平和な愛嬌が爺さんの言葉に溢れる。
 ただ拝見することにして、右手という、正面入口の右手扉を押して見たが明かない。ぐるりと後に廻ると、開く扉はあったが、司祭控室らしく、第一、下駄で入ってはわるそうだし困って、私は、附属家の手入れをして居たペンキ屋に、掛りの人の居処を聞いて見た。灌木の茂みの間の坂を登り切ったところに、大理石の十字架上の基督像を中心とした花園がある。其処に、木造の、深い張り出しを持った一棟古風な建物があるが、其も今手入れ最中人かげもない。テニス・コウトで草むしりをして居た女から、御堂みどうでは草履をはかせないことを聞いて戻り、やっと内に入った。
 賑やかに飾った祭壇、やや下って迫持せりもちの右側に、空色地に金の星をつけたゴシック風天蓋に覆われた聖母像、他の聖徒の像、赤いカーテンの下った懺悔台、其等のものが、ステインド・グラスを透す光線の下に鎮って居る。小さいが、奥みと落付きある御堂であった。特に、ここには、正面入口の中央に、大理石で、日本信徒発見記念のマリア像が在る。
 空模様もよくなったので、私共は浦上へも行くことにした。浦上と云えば、静かな田舎であろうと思って居たところ、長崎の市の真中から電車で四十分ばかりの処だ。終点から川について教わった通り行ったが、二股道にかかり、さてどちらに行ってよいか判らない。丁度十五六の女の子が通りすがった。
「天主堂へはどっちの道を行ってよいでしょう」
 此辺の人と見かけたのに、分らぬらしく
「さあ、わたくし知りませんが」
 Y、問答をきいて居て、註釈を加えた。
「御堂ですよ」
「ああ御堂!」
 すっかり笑い乍ら、近路を行く。暫くすると右手の高台に、まだ新しく、壮大な堂が見えて来た。この堂の建設のために、信徒は三十年も応分の寄附を怠らず、或者は子を大工や左官に仕立ててその技を献納したということだ。ゆるやかな坂をのぼった処で、黒服、鍔広帽の外国宣教師が、村の子とふざけて居る。日本人の尼僧がつれ立って、礼拝堂から出て来た。大浦の天主堂を見た眼では、明るく出来立てで大きく、どこかに東本願寺というような感がしなくもない。
 内部も規模大で、祭壇の左右に合唱壇もついて居、堂々としたものだ。ここで、信徒は皆床に坐ると見え、腰掛ピューは一脚もない。大浦の祭壇や聖像は生花の束で飾られて居たが、この宏い大聖壇を埋めるに充分な花は得難いと見え、厚紙細工の棕櫚らしいものが、大花瓶に立ててある。この大会堂に信者が溢れて、復活祭でも行われる時は壮観であろう。然し私の好みを云うなら、自分は大浦の、女らしさの限りをつくしてレースや花にとりまかれた御母おんははマリア、赤や紫の光線に射られ、小さい暗い宝石の結晶のように柱列コロネイド、迫持の燃え立つ御堂の陰翳を愛する。
 市内に戻り、出島町を歩く。梅蘭芳メイランファンの芝居で聞いたような支那音楽を奏し乍ら、披露めやが横通りを通った。直ぐその下を私が通りがかりつつある一八〇〇年代の建造らしい南欧風洋館のすたれた大露台の欄干では、今、一匹の印度インド猿が緋のチョッキを着、四本の肢で一つ翻筋斗もんどりうった。

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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