町から、何処に居ても山が見える。その山には三月の雪があった。――山の下の小さい町々の通りは、雪溶けの上へ五色の千代紙を剪りこまざいて散らしたようであった。製糸工場が休みで、数百の若い工女がその日は寄宿舎から町へぶちまけられた。娘、娘、娘、素朴でつよい百日草のような頬の娘達が、三人ずつ、五人ずつ到るところに動いて居る。共同温泉が坂のつき当りにパノラマ館のようなペンキの色で立って居た。入口のところで、久しぶりにゆっくり湯で遊んで来た一人の小娘が、両膝の間でちょっと風呂敷包を挾んだ姿で余念なく洗髪に櫛を通して居た。髪はまだ濡れて重い。通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出し、下をぞろぞろ通る娘たちを瞰下しつつ、何進行曲か、神様ばかり御承知の曲を晴れた空まで吹きあげた。
「きみちゃん、おいでよ、これ」
「サア入らっしゃい! 入らっしゃい!」
 下足番が垂幕の前で叫ぶ。物干しの上は風当りが強いが太鼓はそのまま、傍の小窓の敷居を跨いで先ず太鼓叩きが中へ入った。つづいて、クラリネットを片手に下げ、縞の羽織の裾をまくって
「うう寒い」
 ひょいと窓へ吸い込まれて仕舞った。――然し音楽は消えたのではない。赤い爪革、メリンス羽織、休み日の娘が歌う色彩の音楽は一際高く青空の下に放散されて居る。――
 町の人々はもう馴れっこに成ってしまったのだろう。よそから来た者の心に、これ等の常ならぬ町の光景は何か可憐な思いを伴って感じられた。夕方同じ町を歩いて見ると、昼間の色と動きは何処にもない。町は暗い。娘共はもうみんな何処へか帰って仕舞った。海辺で桃色の貝どもが、いつの間にか穴にかくれて仕舞ったような淋しさだ。
 宿屋は古風で、座敷の真中に炬燵こたつが切ってある。私共はその炬燵の上で夕飯を終ったばかり。日のある間急しく雪解の水のむせび流れて居たといも今は静かで、小さい町の暗さが襖の際まで迫って来るようだ。其日の新聞を読んで居ると、隣りの室で急に電話のベルが鳴った。
「あ、もしもし、下諏訪の二十九番」
 女の声だ。
「一力さんですか、すみませんがお鶴姉さん手があいてましたら電話口へおよび下さいな」
 宵は水のようだから、若い玄人くろうとじみた女の声は耳の傍に聴える。
「もしもし姉さん、あたし……わかった? 今ねえあたし中西屋さんに居んのよ、よれよれって云うんだもの……姉さん来ない? え? いらっしゃいよ、よ、ね?」
「おいおい」
 これは太い男の声が割り込んだ。
「何だって? ハッハッハッ、そんなこたどうでもいいから来いよ、風邪かぜなんか熱いの一杯ひっかけりゃ癒っちゃう、何ぞってと風邪をだしに使いやがる。――う? うむ、そうさ。――じゃ待ってるぞ」
 再び森閑とした夜気。――私共は炬燵にさし向いの顔を見合わせ、微笑んだ。こちらのささやき。
地方色ローカル・カラーよ」
「余り静かだからいい景物だ――でも、わるいおんなだな」
 程なく
「ああ冷えちゃった」
 立ったまま年増の女の云う声がした。
「お待ち遠さま、今日はごたごたさ、鮪の買い出しが足りなくって騒ぎゃるし、源ちゃんは病院へ行くって出たまんまいつまで経ってもかえんないし……あああ」
 ふっと、私は笑いたくなった。そして云った。
「本当の姉妹かしら――所帯じみてるのね」
「ふうむ――分らない」
「いつ頃っから来てるの、へえ、まあいいやね」
 そんな声がする。
「こんだあ上野公園や日比谷公園へつれてってくれないかね」
「はぐれないようにして貰わなくちゃ。先行ったとき、車で飛ばしちまっただけで何が何だか分りゃしなかったわ、足でちっとも歩かないんだもの」
 東京見物の相談であった。彼等は浮いた声も出さず熱心に話した。
「新宿は二十七日っきりだから、浅川だけだね、参拝するなあ」
「嬉しいねえ」
 年増の女は駭然として
「だけど月経がさ」
と座りなおしたような声を出した。
「フッ!」
「いや女は……」
 男は真面目に云った。
「見たような気はしないし、ちょいちょい、ちょいちょい行きたくって」
「懲りてるのさあたし、この前名古屋へ行った時、全くどこ歩いてるのか分らなかった」
 女中が、銚子を運んで行った。
「宿賃いくらですってきき合わせたら五円だって。へー、五円て云ったのよ」
「アラいやだ」
「宿賃なんか兎や角云わないさ」
「大きなこと云ってるわ!」
「兎に角じゃ十日頃としとこう、又此方廻って帰ることにしときゃいいだろう」
 女達の話しぶりには、苦笑ながら悪意のもてぬ何ものかが籠って居た。それにしても、これは、どんな種類の玄人くろうとなのだろう。
 女中を呼んで男が
「おい勘定」
と云った。
「おかえりでございますか」
「ああ」
 どやどやと出て来る。丁度こちらの室へ女中が茶を運んで来たところで唐紙が開いて居た。鼻まで襟巻でくるんだ男が無遠慮にそこから内を覗きそうにした。
「いやだよ、この人ったら」
 男のトンビの陰にかくれるようにして、顔は見えず派手なメリンス羽織の背が目に止った。私にはその羽織に見覚えがある! 今日昼間、(あの娘たちのメリンス好きなこと)町の四辻に、活動写真館の前に群れ動いて居た色どりの中に、確にその大きい矢絣りも交って居た。――
「あのお客さん――おつれなあに」
 小さい堅気の女中は切口上で
「女工さんでございます」
と答えた。山のある町の人々は、工場の煙突を見なれたように、此那こともみんな見馴れて居るのだろう。町をひたす切な若々しい色彩の氾濫も、引潮の夜、思いがけぬ屋根の下でそれ等千代紙の破片かけらがもみくしゃになることも。――其故、新聞は広告をかかげる。
    御待合開業
 今回各位の御同情により三月一日より
   御待合並にうどん店
 開業いたし親切丁寧を旨として大勉強仕候間御引立の程願上候
  うどん/きそば[#「うどん」と「きそば」は2列に並ぶ]御待合
入仙

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※手書き原稿から起こしたこの作品において、底本は「始めかぎ括弧」以下の会話分を、1字下げで組んでいます。ただしこのファイルでは、当該箇所に字下げ注記は入れませんでした。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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