太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ッた声のさざめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖かく小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が身に浸みる。
少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。
「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩で行くのは、当楼の二枚目を張ッている吉里という娼妓である。
「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊という新造。
吉里は二十二三にもなろうか、今が稼ぎ盛りの年輩である。美人質ではないが男好きのする丸顔で、しかもどこかに剣が見える。睨まれると凄いような、にッこりされると戦いつきたいような、清しい可愛らしい重縁眼が少し催涙で、一の字眉を癪だというあんばいに釣り上げている。纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急いで上草履を引き摺ッている。
お熊は四十格向で、薄痘痕があッて、小鬢に禿があッて、右の眼が曲んで、口が尖らかッて、どう見ても新造面――意地悪別製の新造面である。
二女は今まで争ッていたので、うるさがッて室を飛び出した吉里を、お熊が追いかけて来たのである。
「裾が引き摺ッてるじゃアありませんか。しようがないことね」
「いいじゃアないか。引き摺ッてりゃ、どうしたと言うんだよ。お前さんに調えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」
「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」
吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏ッて離れぬ。
「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、私が御内所で叱られますよ」
「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴けておくれ」
白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。
「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴が来てるんじゃありませんか」
「善さんもお客だッて。誰がお客でないと言ッたんだよ。当然なことをお言いでない」と、吉里は障子を開けて室内に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。
「どうしたの。また疳癪を発しておいでだね」
次の間の長火鉢で燗をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼のお職女郎。娼妓じみないでどこにか品格もあり、吉里には二三歳の年増である。
「だッて、あんまりうるさいんだもの」
「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺せた。
「察しておくれよ」と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。
張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。
「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」
「そう。ありがとう。気休めだともッたら、西宮さんは実があるよ」
「早く奥へおいでな」と、小万は懐紙で鉄瓶の下を煽いでいる。
吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。
「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声をかけた。
「静かにしておくれ。お客さまがいらッしゃるんだよ」
「御免なさいまし」と、お熊は障子を開けて、「小万さんの花魁、どうも済みませんね」と、にッこり会釈し、今奥へ行こうとする吉里の背後から、「花魁、困るじゃアありませんか」
「今行くッたらいいじゃアないか。ああうるさいよ」と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。
客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。
西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商人らしくも見える。
平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員とも見れば見らるる風俗で、黒七子の三つ紋の羽織に、藍縞の節糸織と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬をぐいと緊り加減に巻いている。歳は二十六七にもなろうか。髪はさまで櫛の歯も見えぬが、房々と大波を打ッて艶があって真黒であるから、雪にも紛う顔の色が一層引ッ立ッて見える。細面ながら力身をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌は靨かとも見紛われる。とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。
吉里が入ッて来た時、二客ともその顔を見上げた。平田はすぐその眼を外らし、思い出したように猪口を取ッて仰ぐがごとく口へつけた、酒がありしや否やは知らぬが。
吉里の眼もまず平田に注いだが、すぐ西宮を見て懐愛しそうににッこり笑ッて、「兄さん」と、裲襠を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱いた。
「ははははは。門迷いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子から覗いたり、店の格子に蟋蟀をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。
吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」
「そう諦めててくれりゃア、私も大助かりだ。あいたたた。太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」
「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今晩来たのね。まだお国へ行かないの」
平田はちょいと吉里を見返ッてすぐ脇を向いた。
「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日でなくッて、紛紜日とでも言うんだろう。あッちでも始まればこッちでも始まる。酉の市は明後日でござい。さア負けたア負けたア、大負けにまけたアまけたア」と、西宮は理も分らぬことを言い、わざとらしく高く笑うと、「本統に馬鹿にしていますね」と、吉里も笑いかけた。
「戯言は戯言だが、さッきから大分紛雑てるじゃアないか。あんまり疳癪を発さないがいいよ」
「だッて。ね、そら……」と、吉里は眼に物を言わせ、「だもの、ちッたあ疳癪も発りまさアね」
「そうかい。来てるのかい、富沢町が」と、西宮は小声に言ッて、「それもいいさ。久しぶりで――あんまり久しぶりでもなかッた、一昨日の今夜だッけね。それでもまア久しぶりのつもりで、おい平田、盃を廻したらいいだろう。おッと、お代り目だッた。おい、まだかい。酒だ、酒だ」と、次の間へかけて呼ぶ。
「もうすこし。お前さんも性急だことね。ついぞない。お梅どんが気が利かないんだもの、加炭どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽ぐ懐紙の音がして、低声の話声も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。
吉里は紙巻煙草に火を点けて西宮へ与え、「まだ何か言ッてるよ。ああ、いやだいやだ」
「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言の一語も言ッて、ちッたあ可愛がッてやるのも功徳になるぜ」
「止しておくんなさいよ。一人者になッたと思ッて、あんまり酷待ないで下さいよ」
「一人者だと」と、西宮はわざとらしく言う。
「だッて、一人者じゃアありませんか」と、吉里は西宮を見て淋しく笑い、きッと平田を見つめた。見つめているうちに眼は一杯の涙となッた。
二
平田は先刻から一言も言わないでいる。酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッて、覚えず今吉里へ顔を見合わせると、涙一杯の眼で怨めしそうに自分を見つめていたので、はッと思いながら外し損ない、同じくじッと見つめた。吉里の眼にはらはらと涙が零れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐いて涙ぐんだ。
西宮は二人の様子に口の出し端を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ声をかけた。
「おい、まだかい」
「ああやッと出来ましたよ」と、小万は燗瓶を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」
「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」
「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッかし言わないで、自分も気をつけるがいいじゃアないか。ちッたアそこで燗番でもするがいいんさ。小万さんの働いておいでなのが見えないのか。自分がいやなら、誰かよこしとくがいいじゃアないか」
「はい、はい。どうもお気の毒さま」と、お熊は室外へ出た。
「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。
「あんないやな奴ッちゃアないよ。新造を何だと思ッてるんだろう。花魁に使われてる奉公人じゃアないか。あんまりぐずぐず言おうもんなら、御内所へ断わッてやるぞ。何だろう、奉公人のくせに」
「もういいじゃアないかね。新造衆なんか相手にしたッて、どうなるもんかね」
小万は上の間に来て平田の前に座ッた。
平田は待ちかねたという風情で、「小万さん、一杯献げようじゃアないかね」
「まアお熱燗いところを」と、小万は押えて平田へ酌をして、「平田さん、今晩は久しぶりで酔ッて見ようじゃありませんか」と、そッと吉里を見ながら言ッた。
「そうさ」と、平田はしばらく考え、ぐッと一息に飲み乾した猪口を小万にさし、「どうだい、酔ッてもいいかい」
「そうさなア。君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管を巻かれちゃア、旦那様がまたお困り遊ばさア」
「いつ私が管を巻いたことがあります」と、小万は仰山らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞の悪いことをお言いなさんなよ」
「小万さん、お前も酔ッておやりよ。私ゃ管でも巻かないじゃアやるせがないよ。ねえ兄さん」と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」
「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた。吉里さん、さア思うさま管を巻いておくれ」
「ほほほ。あんなことを言ッて、また私をいじめようともッて。小万さん、お前加勢しておくれよ」
「いやなことだ。私ゃ平田さんと仲よくして、おとなしく飲むんだよ。ねえ平田さん」
「ふん。不実同士揃ッてやがるよ。平田さん、私がそんなに怖いの。執ッ着きゃしませんからね、安心しておいでなさいよ。小万さん、注いでおくれ」と、吉里は猪口を出したが、「小杯ッて面倒くさいね」と傍にあッた湯呑みと取り替え、「満々注いでおくれよ」
「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」
「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなくッて……」と、吉里はうつむき、握ッていた西宮の手へはらはらと涙を零した。
平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息を吐いた。
「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。
「お止しと言うのに」と、小万が銚子を奪ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。
「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」
「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と、吉里は西宮を見て、「堪忍して下さいよ。もう愚痴は溢さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。
「花魁、花魁」と、お熊がまたしても室外から声をかける。
「今じきに行くよ」と、吉里も今度は優しく言う。お熊は何も言わないであちらへ行ッた。
「ちょいと行ッて来ちゃアどうだね、も一杯威勢を附けて」
西宮が与した猪口に満々と受けて、吉里は考えている。
「本統にそうおしよ。あんまり放擲ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触らないほどにと言葉を添えた。
「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」
平田はぷいと坐を起ッた。
「お便所」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。
「放擲ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」
次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」
「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。
「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分愛想尽しをおっしゃるね」
「言いますとも。ねえ、小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐めるのはたくさん」
店梯子を駈け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰めた。
ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会なら謝罪ッておくれ」
「お馴染みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目に見つめた。
「おほほ――、妬けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵から蒸気が発ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻る。
「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦る。
小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」
「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。
「ほほほほ。可愛い虫さ」
「油虫じゃアないか」
「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。
折から撃ッて来た拍子木は二時である。本見世と補見世の籠の鳥がおのおの棲に帰るので、一時に上草履の音が轟き始めた。
三
吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
燭台の蝋燭は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈は暗し数行虞氏の涙という風情だ。
吉里の涙に咽ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」
吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚い弟はあるし、妹はあるし、お前さんも知ッてる通り母君が死去のだから、どうしても平田が帰郷ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京るという目的もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来のようにお前さんが泣いてばかりいちゃア、談話は出来ないし、実に困りきッていたんだ。これで私もやっと安心した。実にありがたい」
吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。
西宮は注ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」
「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上げた。
眼千両と言われた眼は眼蓋が腫れて赤くなり、紅粉はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。
「どうだね、一杯」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉ッて一息に飲み乾し、猪口を下へ置いてうつむいてまた泣いていた。
「本統でしょうね」と、吉里は涙の眼で外見悪るそうに西宮を見た。
「何が」と、西宮は眼を丸くした。
「私ゃ何だか……、欺されるような気がして」と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。
「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌てて遮ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」
「なに平気なものか。平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」
「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」
「いや、話したろう。幾たびも話したはずだ。お前さんが相手にしないんじゃないか。話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」
「だッて、私ゃ否ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。
「それ御覧。それだもの。平田が談話すことが出来るものか。お前さんの性質も、私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷へ出発せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に考えりゃア、無断で不意と出発て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質だと……もうわかッてるんだから安心だが……。吉里さん、本統に頼むよ」
吉里はまた泣き出した。その声は室外へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。
「へい、お誂え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。
また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは、十六七の眼の大きい可愛らしい女で、これは小万の新造のお梅である。
「平田さんもまだおいでなさらないんですね」と、お梅は仲どんが置いて行ッた台の物を上の間へ運び、「お飯になすッちゃアいかがでございます。皆さんをお呼び申しましょうか」
「まアいいや。平田は吉里さんの座敷にいるかい」
「はい。お一人でお臥ッていらッしゃいましたよ。お淋しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」
「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説いて鉢を喰ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言を、聞かなかッた罰だぜ」
「あら、あんなことを。覚えていらッしゃいよ」
「本統だから、顔を真赤にしたな。ははははは」
「あら、いつ顔なんか真赤にしました。そんなことをお言いなさると、こうですよ」
「いや、御免だ。擽ぐるのは御免だ。降参、降参」
「もう言いませんか」
「もう言わない、言わない。仲直りにお茶を一杯。湯が沸いてるなら、濃くして頼むよ」
「いやなことだ」と、お梅は次の間で茶を入れ、湯呑みを盆に載せて持って来て、「憎らしいけれども、はい」
「いや、ありがたいな。これで平田を口説いたのと差引きにしてやろう」
「まだあんなことを」
「おッと危ない。溢れる、溢れる」
「こんな時でなくッちゃア、敵が取れないわ。ねえ、花魁」
吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。
「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」
「きっとですか」
「きっとだ、きっとだ」
「いい気味だ。謝罪せてやッた」
「ははははは。お梅どんに擽られてたまるもんか。男を擽ぐる急所を心得てるんだからね」
「何とでもおっしゃい。どうせあなたには勝いませんよ」と、お梅は立ち上りながら、「御膳はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。
誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉てた者がある。
「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。
「まア」と、お梅の声は呆れていた。
四
「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。
「善さんですよ。善さんが覗いていなすッたんですよ」と、お梅は眼を丸くして、今顔を上げた吉里を見た。
「おえない妬漢だよ」と、吉里は腹立たしげに見えた。
「さっきからね、花魁のお座敷を幾たびも覗いていなさるんですよ。平田さんが怒んなさりゃしまいかと思ッて、本統に心配しましたよ」
「あんまりそんな真似をすると、謝絶ッてやるからいい。ああ、自由にならないもんだことねえ」と、吉里は西宮をつくづく視て、うつむいて溜息を吐く。
「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加す音をさせて出て行ッた。
「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょうね。本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」
「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」
「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しながらなお考えている。
「私もこんな苦しい思いをしたことはない」
「こういうはかない縁なんでしょうよ、ねえ。考えると、小万さんは羨ましい」と、吉里はしみじみ言ッた。
「いや、私も来ないつもりだ」と、西宮ははッきり言い放ッた。
「えッ」と、吉里はびッくりして、「え。なぜ。どうなすッたの」と、西宮の顔を見つめて呆れている。
「いや、なぜということもない。辛いのは誰しも同一だ。お前さんと平田の苦衷を察しると、私一人どうして来られるものか」
「なぜそんなことをお言なさるの。私ゃそんなつもりで」
「そりゃわかッてる。それで来る来ないと言うわけじゃない。実に忍びないからだ」
「いや、いや、私ゃ否ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。
西宮はうつむいて眼を閉ッて、じッと考えている。
吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」
西宮は閉目てうつむいている。
「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」
「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来何とでもしようから」
「しかたがありません、断念らないわけには行かないのだから。もう、音信も出来ないんですね」
「さア。そう思ッていてもらわなければ……」と、西宮も判然とは答えかねた。
吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧くしながら西宮を見る。
「もう一遍」
「ええ。故郷へ発程までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」
「もう一遍」と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間はないんだよ」
「えッ。いつ故郷へ立発んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。
「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。
「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反ッて西宮へ倒れかかッた。
折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」
「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」
「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」
「平田はどうした。平田は、平田は」
「平田さんですか」
いつかお梅も此室に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。
「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」
お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝き当り障子を倒し、素足で廊下を駈け出した。
五
平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頬へ線を画き、下唇は噛まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
二人の定紋を比翼につけた枕は意気地なく倒れている。燈心が焚え込んで、あるかなしかの行燈の火光は、「春如海」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
帰期を報らせに来た新造のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳し頬を焙り、上の間へ耳を聳てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮さんはちッともお臥らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。
「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」
吉里はなお帯を放さぬ。
「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。
「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。
「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。
「失敬した、失敬した。さア出かけよう」
「まアいいさ」
「そうでない、そうでない」と、平田は忙がしそうに体を揺すぶりながら室を出かけた。
「ああ、ちょいと、あの……」と、吉里の声は戦えた。
「おい、平田。何か忘れた物があるんじゃアないか」
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干にもたれて、中庭を見下している。
研ぎ出したような月は中庭の赤松の梢を屋根から廊下へ投げている。築山の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気が足の爪先から全身を凍らするようで、覚えず胴戦いが出るほどだ。
中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を唄うのが対面の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲さんの座敷だろう。さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。
お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
三ツばかり先の名代部屋で唾壺の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸をした。
途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着いていた。
平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後から西宮の肩を抱いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。こッちですよ」と、声をかけたのは小万だ。
「え、何だ。や、小万さんか。失敬」と、平田は小万の顔を珍らしそうにみつめた。
「どうなすッたの。ほほほほほ」
「お草履をおはきなさいよ」と、お梅は上草履を平田の前に置いた。
「あ、そうか」と、平田が上草履をはくところへ西宮も吉里も追いついた。
「あんまり何だから、どうなすッたかと思ッて……。平田さん、私の座敷へいらッしゃいよ。ゆッくりお茶でも召し上ッて。ねえ、吉里さん」
「ありがとう。いや、もう行こう。ねえ、西宮」
「そんなことをおッしゃらないで。何ですよ、まアいいじゃアありませんか」
西宮はじッと小万の顔を見た。吉里は西宮の後にうつむいている。平田は廊下の洋燈を意味もなく見上げている。
「もうこのまま出かけよう。夜が明けても困る」と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車は来てるだろうな」
「もうさッきから待ッてますよ」
お梅は二客の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。
「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り、「本統にお名残り惜しゅうござんすことね。いつまたお目にかかれるでしょうねえ。御道中をお気をおつけなさいよ。貴郷にお着きなすッたら、ちょいと知らせて下さいよ。ね、よござんすか。こんなことになろうとはね」
「何だ。何を言ッてるんだ。一言言やア済むじゃアないか」
西宮に叱られて、小万は顔を背向けながら口をつぐんだ。
「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。
小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢さずにはいられなかッた。
お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下から上ッて来た不寝番の仲どんが、催促がましく人車の久しく待ッていることを告げた。
平田を先に一同梯子を下りた。吉里は一番後れて、階段を踏むのも危険いほど力なさそうに見えた。
「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮んだようで、上り框までは行かれなかッた。
「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。
吉里は一語も吐さないで、真蒼な顔をしてじッと平田を見つめている。平田もじッと吉里を見ていたが、堪えられなくなッて横を向いた時、仲どんが耳門を開ける音がけたたましく聞えた。平田は足早に家外へ出た。
「平田さん、御機嫌よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃えて声をかけた。
西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門を出た。
「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さようなら、御機嫌よろしゅう。どうかまたお近い内に」
車声は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。
この時まで枯木のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気のある布団の上に泣き倒れた。
六
万客の垢を宿めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深けては氷の上に臥るより耐えられぬかも知れぬ。新造の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物の尽きた小皿とを載せた盆がある。裾の方は屏風で囲われ、頭の方の障子の破隙から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽ッている。
「おお、寒い寒い」と、声も戦いながら入ッて来て、夜具の中へ潜り込み、抱巻の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳したのは、富沢町の古着屋美濃屋善吉と呼ぶ吉里の客である。
年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋に眼張のような疵があり、見たところの下品小柄の男である。
善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとかく善吉を冷遇し、終宵まったく顔を見せない時が多かッたくらいだッた。それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。
「寒いッたッて、箆棒に寒い晩だ。酒は醒めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、だめだ」と、煙管を取り上げて二三吹続けさまに煙草を喫んだ。
「今あすこに立ッていたなア、小万の情夫になッてる西宮だ。一しょにいたのはお梅のようだッた。お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来ない。来ようと思ッたッて来られないのだ。まだ去らないのかなア。もう帰りそうなものだ。大分手間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去らなきゃ去らないでもいい。情夫だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
方角も吉里の室、距離もそのくらいのところに上草履の音が発ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見が悪いな」と、障子の破隙からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺み、深く物を思う体である。
「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失くした、お千代も生家へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」
上草履はまたはるかに聞え出した。梯子を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門を開ける音がして、続いて人車の走るのも聞えた。
「はははは、去ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。きッとそうだ。きッとそうだ。そらこッちに駈けて来た」
善吉は今にも吉里が障子を開けて、そこに顔を出すような気がして、火鉢に手を翳していることも出来ず、横にころりと倒んで、屏風の端から一尺ばかり見える障子を眼を細くしながら見つめていた。
上草履は善吉が名代部屋の前を通り過ぎた。善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。
善吉は何か言おうとしたが、唇を顫わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。
「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴りに蹴った。
「おや、何をしていらッしゃるの」
いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその人を見た。
「おほほほほほ。善さん、どうなすッたんですよ、まアそんな顔をなすッてさ。さアあちらへ参りましょう」
「お熊どんなのか。私しゃ今何か言ッてやアしなかッたかね」
「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」
「どうもしやアしない。なに、どうするものか」
「じゃア、あちらへ参りましょうよ」
「あちらへ」
「去り跡になりましたから、花魁のお座敷へいらッしゃいよ」
「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」
善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。
「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」
善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。
「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」
お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。
「早くお臥みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。
上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝ているのが見える、風を引きはせぬかと気遣われるほど意気地のない布団の被けざまをして。
行燈はすでに消えて、窓の障子はほのぼのと明るくなッている。千住の製絨所か鐘が淵紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時の鐘も撞ち始めた。
「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣の懐裡へ押し込んだ。
「ちッとお臥るがよござんすよ」
「もう夜が……明るくなッてるんだね」
「なにあなた、まだ六時ですよ。八時ごろまでお臥ッて、一口召し上ッて、それからお帰んなさるがよござんすよ」
「そう」と、善吉はなお突ッ立ッている。
「花魁、花魁」と、お熊は吉里へ声をかけたが、返辞もしなければ身動きもせぬ。
「しようがないね。善さん、早くお臥みなさいまし。八時になッたらお起し申しますよ」
善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。
室の障子を開けるのが方々に聞え、梯子を上り下りする草履の音も多くなッた。馴染みの客を送り出して、その噂をしているのもあれば、初会の客に別れを惜しがッて、またの逢夜を約ッているのもある。夜はいよいよ明け放れた。
善吉は一層気が忙しくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿を眺めていた。
朝の寒さはひとしおである。西向きの吉里が室の寒さは耐えられぬほどである。吉里は二ツ三ツ続けて嚏をした。
「風を引くよ」と、善吉はわれを覚えず吉里の枕もとに近づき、「こんなことをしてるんだもの、寒いはずだ。私が着せてあげよう。おい、吉里さん。吉里さん、風を引くよ」
吉里は袖を顔に当てて俯伏し、眠てるのか眠てないのか、声をかけても返辞をせぬところを見ると、眠てるのであろうと思ッて、善吉はじッと見下した。
雪よりも白い領の美くしさ。ぽうッとしかも白粉を吹いたような耳朶の愛らしさ。匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出されていた。
善吉はややしばらく瞬きもせず吉里を見つめた。
長鳴するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。
七
忍が岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている。入谷はなお半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏が噪ぎ始めた。大鷲神社の傍の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二三個の人が現われた。鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙は風に狂いながら流れている。
一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現の界に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟やくように言ッた吉里の声は顫えた。
まだ温気を含まぬ朝風は頬にするばかりである。窓に顔を晒している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこへ行くんでしょうね」
「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」
「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」
「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」
「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」
吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥にもたれて考え始めた。善吉は窓の障子を閉めて、吉里と火鉢を挾んで坐り、寒そうに懐手をしている。
洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗小皿などを茶棚へしまいかけた。
「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられまい。何しろ寒くッて、これじゃアたまらないや。お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」
「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」
「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」
「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁に掛けてあッた吉里のお召縮緬の座敷着を取ッて、善吉の後から掛けてやッた。
善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気だ。これを借りてもいいのかい」
「善さんのことですもの。ねえ。花魁」
「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」
「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」
「はははは。袖を通したら、おかしなものだろう」
「なに、あなた。袖をお通しなすッて立ッてごらんなさい、きッとよくお似合いなさいますよ。ねえ、花魁」
「まさか。ははははは」
「ほほほほほ」
吉里は一語も発わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。
「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊は善吉の前に楊枝箱を出した。
善吉は吉原楊枝の房をッては火鉢の火にくべている。
「お誂えは何を通しましょうね。早朝んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐にでもしましょうかね。それに油卵でも」
「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」
「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」
吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被ッたまま吉里の後から室を出た。
「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。
吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。
「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を受け取ッて吉里を見ると、もう裏梯子を下りようとしていたところである。善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場の方へ屈ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然として顔を洗いに行ッた。
そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼はいずれもその傍に附き添い、水を杓んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。
客の羽織の襟が折れぬのを理しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会で二三度一座したことのある初緑という花魁である。
「おや、善さん。昨夜もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」
「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」
「虚言ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」
「困るなアどうも」
「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」
「なに、そういうわけでもない」
「去らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きますから」
「東雲さんの吉さんは今日も流連すんだッてね」と、今一人の名山という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去らないで、夕方までおいでなさいよ」
「僕か。僕はいかん。なア君」
「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」
「よござんすよ、お前さんなんざアどうせ不実だから」
「何じゃ。不実じゃ」
「名山さん、金盥が明いたら貸しておくれよ」と、今客を案内して来た小式部という花魁が言ッた。
「小式部さん、これを上げよう」と、初緑は金盥の一個を小式部が方へ押しやり、一個に水を満々と湛えて、「さア善さん、お用いなさい。もうお湯がちっともないから、水ですよ」
「いや、結構。ありがとう」
「今度おいでなさる時、きっとですよ」
善吉は漱をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯れながら去ッてしまッた。
「吉里さん、吉里さん」と、呼んだ声が聞えた。善吉は顔を水にしながら声のした方を見ると、裏梯子の下のところに、吉里が小万と話をしていた。善吉はしばらく見つめていた。善吉が顔を洗い了ッた時、小万と吉里が二階の廊下を話しながら行くのが見えた。
八
桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発ッている。能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。
膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息をつき得るのみである。
「吉里さん、いかがです。一杯受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で飲むという奴は、どうも淋しくッて、何だか飲んでるような気がしなくッていけないものだ。一杯受けてもらいたいものですな。ははははは。私なんざア流連をする玉でないんだから、もうじきにお暇とするんだが、花魁今朝だけは器用に快よく受けて下さいな。これがお別れなんだ。今日ッきりもうお前さんと酒を飲むこともないんだから、器用に受けて、お前さんに酌をしてもらやアいい。もう、それでいいんだ。他に何にも望みはないんだ。改めて献げるから、ねえ吉里さん、器用に受けて下さい」
善吉は注置きの猪口を飲み乾し、手酌でまた一杯飲み乾し、杯泉でよく洗ッて、「さア献げるよ。今日ッきりなんだ。いいかね、器用に受けて下さい」
吉里は猪口を受けて一口飲んで、火鉢の端に置いて、じっと善吉を見つめた。
吉里は平田に再び会いがたいのを知りつつ別離たのは、死ぬよりも辛い――死んでも別離る気はなかッたのである。けれども、西宮が実情ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、その情に迫られてしかたなしに承知はした。承知はしたけれども、心は平田とともに平田の故郷に行くつもりなのである――行ッたつもりなのである。けれども、別離て見れば、一しょに行ッたはずの心にすぐその人が恋しく懐愛しくなる。も一度逢うことは出来まいか。あの人車を引っ返させたい。逢ッて、も一度別離を告げたい。まだ言い残したこともあッた。聞き残したこともあッた。もうどうしても逢われないのか。今夜の出発が延ばされないものか。延びるような気がする。も一度逢いに来てくれるような気がする。きッと逢いに来る。いえ、逢いには来まい。今夜ぜひ夜汽車で出発く人が来そうなことがない。きッと来まい。汽車が出なければいい。出ないかも知れぬ。出ないような気がする。きッと出ない。私の念いばかりでもきッと出さない。それでも意地悪く出たらどうしよう。どうしても逢えないのか。逢えなけりゃどうしたらいいだろう。平田さんに別れるくらいなら――死んでも別れないんだ。平田さんと別れちゃ生きてる甲斐がない。死んでも平田さんと夫婦にならないじゃおかない。自由にならない身の上だし、自由に行かれない身の上だし、心ばかりは平田さんの傍を放れない。一しょにいるつもりだ。一しょに行くつもりだ。一しょに行ッてるんだ。どんなことがあッても平田さんの傍は放れない。平田さんと別れて、どうしてこうしていられるものか。体は吉原にいても、心は岡山の平田さんの傍にいるんだ。と、同じような考えが胸に往来して、いつまでも果てしがない。その考えは平田の傍に行ッているはずの心がしているので、今朝送り出した真際は一時に迫って、妄想の転変が至極迅速であッたが、落ちつくにつれて、一事についての妄想が長くかつ深くなッて来た。
思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲の室で二上り新内を唄ッたのも、今耳に聞いているようである。店に送り出した時はまるで夢のようで、その時自分は何と思ッていたのか。あのこともあのことも、あれもこれも言いたかッたのに、何で自分は言うことが出来なかッたのか。いえ、言うことの出来なかッたのが当然であッた。ああ、もうあの車を止めることは出来ぬか。悲しくてたまらなくなッて、駈け出して裏梯子を上ッて、座敷へ来て泣き倒れた自分の姿が意気地なさそうにも、道理らしくも見える。万一を希望していた通り、その日の夜になッたら平田が来て、故郷へ帰らなくともよいようになッたと、嬉しいことばかりを言う。それを聞く嬉しさ、身も浮くばかりに思う傍から、何奴かがそれを打ち消す、平田はいよいよ出発したがと、信切な西宮がいつか自分と差向いになッて慰めてくれる。音信も出来ないはずの音信が来て、初めから終いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッたよりも市中が繁華で、平田の家も門構えの立派な家で、自分のかねて思ッていたような間取りで、庭もあれば二階もあり蔵もある。家君さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟も妹も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向もかねて想像していた通りで、二人ともいかにも可愛らしい。妹の方が少し意地悪ではないかと思ッていたことまでそのままで、これが少し気に喰わないけれども、姉さん姉さんと慕ッてくれて、東京風に髪を結ッてくれろなどと言うところは、またなかなか愛くるしくも思われる。かねて平田に写真を見せてもらッて、その顔を知ッている死去ッたお母さんも時々顔を出す。これがまた優しくしてくれて、お母さんがいたなら、お前を故郷へ連れて行くと、どんなに可愛がって下さるだろうと、平田の寝物語に聞いていた通り可愛がッてくれるかと思うと、平田の許嫁の娘というのが働いていて、その顔はかねて仲の悪い楼内の花子という花魁そのままで、可愛らしいような憎らしいような、どうしても憎らしい女で、平田が故郷へ帰ッたのはこの娘と婚礼するためであッたことも知れて来た。やッぱりそうだッた、私しゃ欺されたのだと思うと、悲しい中にまた悲しくなッて涙が止らなくなッて来る。西宮さんがそんな虚言を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分もそこに同居して、平田が故郷の方の仕法がついて出京したら、二夫婦揃ッて隣同士家を持ッて、いつまでも親類になッて、互いに力になり合おうと相談もしている。それも夢のように消えて、自分一人になると、自由にならぬ方の考えばかり起ッて来て、自分はどうしても此楼に来年の四月まではいなければならぬか。平田さんに別れて、他に楽しみもなくッて、何で四月までこんな真似がしていられるものか。他の花魁のように、すぐ後に頼りになる人が出来そうなことはなし、頼みにするのは西宮さんと小万さんばかりだ。その小万さんは実に羨ましい。これからいつも見せられてばかりいるのか。なぜ平田さんがあんなことになッたんだろう。も一度平田さんが来てくれるようには出来ないのか。これから毎日毎日いやな思いばかりするのかと思いながら、善吉が自分の前に酒を飲んでいる、その一挙一動がことごとく眼に見えていて、これがその人であッたならと、覚えず溜息も吐かれるのである。
吉里は悲しくもあり、情なくもあり、口惜しくもあり、はかなくも思うのである。詰まるところは、頼りないのが第一で、どうしても平田を忘れることが出来ないのだ。
今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく情なく感じて、何だか胸を圧えられるようだ。
冷遇て冷遇て冷遇抜いている客がすぐ前の楼へ登ッても、他の花魁に見立て替えをされても、冷遇ていれば結局喜ぶべきであるのに、外聞の意地ばかりでなく、真心修羅を焚すのは遊女の常情である。吉里も善吉を冷遇てはいた。しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇しめたのである。何だか知らぬけれども、いやでならなかッたのである。別離ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。
吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を与え、「お酌をさせていただきましょうね」と、箪笥を放れて酌をした。
善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦え出した。
九
「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。
善吉はしばらく言うところを知らなかッた。
「吉里さん、献げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すこともないんだ」と、善吉は猪口を出す手が戦えて、眼を含涙している。
「どうなすッたんですよ。今日ッきりだとか、今日が別れだとか、そんないやなことをお言いなさらないで、末長く来て下さいよ。ね、善さん」
「え、何を言ッてるんだね。吉里さん、お前さん本気で……。ははははは。串戯を言ッて、私をからかッたッて……」
「ほほほほ」と、吉里も淋しく笑い、「今日ッきりだなんぞッて、そんなことをお言いなさらないで、これまで通り来ておくんなさいよ」
善吉は深く息を吐いて、涙をはらはらと零した。吉里はじッと善吉を見つめた。
「私しゃ今日ッきり来られないんだ。吉里さん、実に今日がお別れなんです」と、善吉は猪口を一息に飲み乾し、じッとうつむいて下唇を噛んだ。
「そんなことをお言いなさッて、本統なんですか。どッか遠方へでもおいでなさるんですか」
「なアに、遠方へ行くんだか、どこへ行くんだか、私にも分らないんですがね……」と、またじッと考えている。
「何ですよ。なぜそんな心細いことをお言いなさるんですよ」と、吉里の声もやや沈んで来た。
「心細いと言やア吉里さん」と、善吉は鼻を啜ッて、「私しゃもう東京にもいられなければ、どこにもいられなくなッたんです。私も美濃屋善吉――富沢町で美濃善と言ッちゃア、ちッたア人にも知られた店ももッていたんだが……。お熊どんは二三度来てくれたこともあッたから知ッていよう、三四人の奉公人も使ッていたんだが、わずか一年過つか過たない内に――花魁のところに来初めてからちょうど一年ぐらいになるだろうね――店は失くなすし、家は他人の物になッてしまうし、はははは、私しゃ宿なしになッちまッたんだ」
「えッ」と、吉里はびッくりしたが、「ほほほほ、戯言お言いなさんな。そんなことがあるもんですか」
「戯言だ。私も戯言にしたいんだ」
善吉の様子に戯言らしいところはなく、眼には涙を一杯もッて、膝をつかんだ拳は顫えている。
「善さん、本統なんですか」
「私が意気地なしだから……」と、善吉はその上を言い得ないで、頬が顫えて、上唇もなお顫えていた。
冷遇ながら産を破らせ家をも失わしめたかと思うと、吉里は空恐ろしくなッて、全身の血が冷え渡ッたようで、しかも動悸のみ高くしている。
「お神さんはどうなすッたんです」と、ややあって問ねた吉里の声も顫えた。
「嚊かね」と、善吉はしばらく黙して、「宿なしになッちあア、夫婦揃ッて乞食にもなれないから、生家へ返してしまッたんだがね……。ははははは」と、善吉は笑いながら涙を拭いた。
「まアお可哀そうに」と、吉里もうつむいて歎息する。
「だがね、吉里さん、私しゃもうこれでいいんだ。お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快い心持に酔ッて去りゃ、もう未練は残らない。昨夜の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッかッたら怒られたかも知れないが、よそながらでも、せめては顔だけでもと思ッて、小万さんの座敷も覗きに行ッた。平田さんとかいう人を送り出しにおいでの時も、私しゃ覗いていたんだ。もう今日ッきり来られないのだから、お前さんの優しい言葉の一語も……。今朝こうしてお前さんと酒を飲むことが出来ようとは思わなかッたんだから……。吉里さん、私しゃ今朝のように嬉しいことはない。私しゃ花魁買いということを知ッたのは、お前さんとこが始めてなんだ。私しは他の楼の味は知らない。遊び納めもまたお前さんのとこなんだ。その間にはいろいろなことを考えたこともあッた、馬鹿なことを考えたこともあッた、いろいろなことを思ッたこともあッたが、もう今――明日はどうなるんだか自分の身の置場にも迷ッてる今になッて、今朝になッて……。吉里さん、私しゃ何とも言えない心持になッて来た」と、善吉は話すうちにたえず涙を拭いて、打ち出した心には何の見得もないらしかッた。
吉里は平田と善吉のことが、別々に考えられたり、混和ッて考えられたりする。もう平田に会えないと考えると心細さはひとしおである。平田がよんどころない事情とは言いながら、何とか自分をしてくれる気があッたら、何とかしてくれることが出来たりそうなものとも考える傍から、善吉の今の境界が、いかにも哀れに気の毒に考えられる。それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情のある人を、何であんなに冷遇くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したような気がする。善吉の女房の可哀そうなのが身につまされて、平田に捨てられた自分のはかなさもまたひとしおになッて来る。それで、たまらなく平田が恋しくなッて、善吉が気の毒になッて、心細くなッて、自分がはかなまれて沈んで行くように頭がしんとなって、耳には善吉の言葉が一々よく聞え、善吉の泣いているのもよく見え、たまらなく悲しくなッて来て、ついに泣き出さずにはいられなかッた。
顔に袖を当てて泣く吉里を見ている善吉は夢現の界もわからなくなり、茫然として涙はかえッて出なくなッた。
「善さん、勘忍して下さいよ。実に済みませんでした」と、吉里はようやく顔を上げて、涙の目に善吉を見つめた。
善吉は吉里からこの語を聞こうとは思いがけぬので、返辞もし得ないで、ただ見つめているのみである。
「それでね、善さん、お前さんどうなさるんですよ」と、吉里は気遣わしげに問ねた。
「どうッて。私しゃどうともまだ決心ていないんです。横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え、「どうなるんだか、自分ながらわからないんだから……」と、青い顔をして、ぶるッと戦慄て、吉里に酒を注いでもらい、続けて三杯まで飲んだ。
吉里はじッと考えている。
「吉里さん、頼みがあるんですが」と、善吉は懐裡の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去るのが否になッたから、今日は夕刻まで遊ばせておいて下さいな。紙入れに五円ばかり入ッている。それが私しの今の身性残らずなんだ。昨夜の勘定を済まして、今日一日遊ばれるかしら。遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔を少し赧めながらしかも思い入ッた体である。
「よござんすよ」と、吉里は軽く受けて、「遊んでいて下さいよ。勘定なんか心配しないで、今晩も遊んでいて下さいよ。これはよござんすよ」と、善吉の紙入れを押し戻した。
「それはいけない。それはいけない。どうか預かッておいて下さい」
吉里はじッと善吉を見ている。その眼は物を言うかのごとく見えた。善吉は紙入れに手を掛けながら、自分でもわからないような気がしている。
「善さん、私しに委せておおきなさい、悪いようにゃしませんよ。よござんすからね、そのお金はお前さんの小遣いにしておおきなさい。多寡が私しなんぞのことですから、お前さんの相談相手にはなれますまいが、出来るだけのことはきッとしますよ。よござんすか。気を落さないようにして下さいよ。またお前さんの小遣いぐらいは、どうにでもなりますからね、気を落さないように、よござんすか」
善吉は何で吉里がこんなことを言ッてくれるのかわからぬ。わからぬながら嬉しくてたまらぬ。嬉しい中に危ぶまれるような気がして、虚情か実情か虚実の界に迷いながら吉里の顔を見ると、どう見ても以前の吉里に見えぬ。眼の中に実情が見えるようで、どうしても虚情とは思われぬ。小遣いにせよと言われたその紙入れを握ッている自分の手は、虚情でない証拠をつかんでいるのだ。どうしてこんなことになッたのか。と、わからないながらに嬉しくてたまらず、いつか明日のわが身も忘れてしまッていた。
「善さん、私もね、本統に頼りがないんですから」と、吉里ははらはらと涙を零して、「これから頼りになッておくんなさいよ」と、善吉を見つめた時、平田のことがいろいろな方から電光のごとく心に閃めいた。吉里は全身がぶるッと顫えて、自分にもわからないような気がした。
善吉はただ夢の中をたどッている。ただ吉里の顔を見つめているのみであッたが、やがて涙は頬を流れて、それを拭く心もつかないでいた。
「吉里さん」と、廊下から声をかけたのは小万である。
「小万さん、まアお入りな」
「どなたかおいでなさるんじゃアないかね」と、小万は障子を開けて、「おや、善さん。お楽しみですね」
小万の言葉は吉里にも善吉にも意味あるらしく聞えた。それは迎えて意味あるものとして聞いたので、吉里は何も言いたくないような心持がした。善吉は言う術を失ッて黙ッていた。
二人とも返辞をしないのを、小万も妙に感じたので、これも無言。三人とも何となくきまりが悪く、白け渡ッた。
「小万さん、小万さん」と、遠くから呼んだ者がある。
見ると向う廊下の東雲の室の障子が開いていて、中から手招ぎする者がある。それは東雲の客の吉さんというので、小万も一座があッて、戯言をも言い合うほどの知合いである。
「吉里さん、後刻に遊びにおいでよ」と、小万は言い捨てて障子をしめて、東雲の座敷へ急いで行ッてしまった。
その日の夜になッても善吉は帰らなかッた。
夜の十一時ごろに西宮が来た。吉里は小万の室へ行き、平田が今夜の八時三十分の汽車で出発したことを聞いて、また西宮が持て余すほど泣いた。西宮が自分一人面白そうに遊んでもいられないと、止めるのを振り切ッて、一時ごろ帰ッた時まで傍にいて、愚痴の限りを尽した。
善吉は次の日も流連をした。その次の日も去らず、四日目の朝ようやく去ッた。それは吉里が止めておいたので、平田が別離に残しておいた十円の金は、善吉のために残りなく費い尽し、その上一二枚の衣服までお熊の目を忍んで典けたのであッた。
それから後、多くは吉里が呼んで、三日にあげず善吉は来ていた。十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼ことがなくなり、時々耄碌頭巾を冠ッて忍んで店まで逢いに来るようになッた。田甫に向いている吉里の室の窓の下に、鉄漿溝を隔てて善吉が立ッているのを見かけた者もあッた。
十
午時過ぎて二三時、昨夜の垢を流浄て、今夜の玉と磨くべき湯の時刻にもなッた。
おのおの思い思いのめかし道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人が陣取ッていた。
浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄の種も尽きぬものか、朋輩の悪評が手始めで、内所の後評、廓内の評判、検査場で見た他楼の花魁の美醜、検査医の男振りまで評し尽して、後連とさし代われば、さし代ッたなりに同じ話柄の種類の異ッたのが、後からも後からも出て来て、未来永劫尽きる期がないらしく見えた。
「いよいよ明日が煤払きだッてね。お正月と言ッたッて、もう十日ッきゃアないのに、どうしたらいいんだか、本統に困ッちまうよ」
「どうせ、もうしようがありゃアしないよ。頼まれるような客は来てくれないしさ、どうなるものかね。その時ゃその時で、どうかこうか追ッつけとくのさ」
「追ッつけられりゃ、誰だッて追ッつけたいのさ。私なんざそれが出来ないんだから、実に苦労でしようがないよ。お正月なんざ、本統に来なくッてもいいもんだね」
「千鳥さんはそんなことを言ッたッて、蠣殻町のあの人がどうでもしておくれだから、何も心配しなくッてもいいじゃアないかね」
「どうしてどうして、そんなわけに行くものかね。大風呂敷ばッかし広げていて、まさかの時になると、いつでも逃げ出して二月ぐらい寄りつきもしないよ。あんなやつアありゃしないよ」
「私しなんか、三カ日のうちにお客の的がまだ一人もないんだもの、本統にくさくさしッちまうよ」
「二日の日だけでもいいんだけれど、三日でなくッちゃア来られないと言うしさ。それもまだ本統に極まらないんだよ」
「小万さんは三日とも西宮さんで、七草も西宮さんで、十五日もそうだっさ。あんなお客が一人ありゃア暮の心配もいりゃアしないし、小万さんは実に羨ましいよ」
「西宮さんと言やア、あの人とよく一しょに来た平田さんは、好男子だッたッけね」
「名山さん、お前岡惚れしておいでだッたね」
「虚言ばッかし。ありゃ初緑さんだよ」
「吉里さんは死ぬほど惚れていたんだね」
「そうだろうさ。あの善さんたア比較物にもなりゃしないもの」
「どうして善さんを吉里さんは情夫にしたんだろうね。最初は、気の毒になるほど冷遇ッてたじゃアないかね」
「それがよくなったんだろうさ」
「吉里さんは浮気だもの」
「だッて、浮気で惚れられるような善さんでもないよ」
「そんなことはどうでもよいけれども、吉里さんのような人はないよ。今晩返すからとお言いだから、先月の、そうさ、二十七日の日にお金を二円貸したんだよ。いまだに返金ないんだもの。あんな義理を知らない人ッちゃアありゃアしないよ」
「千鳥さん、お前もお貸しかい。私もね、白縮緬の帯とね、お金を五十銭借りられて、やッぱしそれッきりさ。帯がないから、店を張るのに、どんなに外見が悪いだろう。返す返すッて、もう十五日からになるよ」
「名山さん、私しのなんかもひどいじゃアないかね。お客から預かッていた指環を借りられたんだよ。明日の朝までとお言いだから貸してやッたら、それッきり返さないのさ。お客からは責められるし、吉里さんは返してくれないし、私しゃこんなに困ッたことはないよ。今朝催促したら、明日まで待ッてくれろッてお言いだから、待ッてやることは待ッてやったけれども、吉里さんのことだから怪しいもんさ」
「二階の花魁で、借りられない者はあるまいよ。三階で五人、階下にも三人あるよ。先日出勤した八千代さんからまで借りてるんだもの。あんな小供のような者まで欺すとは、あんまりじゃアないかね」
「だから、だんだん交際人がなくなるんさ。平田さんが来る時分には、あんなに仲よくしていた小万さんでさえ、もうとうから交際ないんだよ」
「あんな義理を知らない人と、誰が交際うものかね。私なんか今怒ッちゃア損だから、我慢して口を利いてるんさ。もうじきお正月だのに、いつ返してくれるんだろう」
「本統だね。明日指環を返さなきゃ、承知しやアしない」
「煤払いの時、衆人の前で面の皮を引ん剥いておやりよ」
「それくらいなことをしたッて平気だろうよ。あんな義理知らずはありゃアしないよ」
名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。
* * *
吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退いているのである。病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり急に老けたように見える。
火鉢の縁に臂をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造のお熊が煙管を杖にしてじろじろと見ている。
行燈は前の障子が開けてあり、丁字を結んで油煙が黒く発ッている。蓋を開けた硯箱の傍には、端を引き裂いた半切が転がり、手箪笥の抽匣を二段斜めに重ねて、唐紙の隅のところへ押しつけてある。
お熊が何か言おうとした矢先、階下でお熊を呼ぶ声が聞えた。お熊は返辞をして立とうとして、またちょいと蹲踞んだ。
「ねえ、よござんすか。今晩からでも店にお出なさいよ。店にさえおいなさりゃ、御内所のお神さんもお前さんを贔屓にしておいでなさるんだから、また何とでも談話がつくじゃアありませんか。ね、よござんすか。あれ、また呼んでるよ。よござんすか、花魁。もう今じゃ来なさらないけれども、善さんなんぞも当分呼ばないことにして、ねえ花魁、よござんすか。ちょいと行ッて来ますからね、よく考えておいて下さいよ。今行くてえのにね、うるさく呼ぶじゃないか。よござんすか、花魁」
お熊は廊下へ出るとそのまま階下へ駈け出して行った。
吉里はじッと考えて、幾たびとなく溜息を吐いた。
「もういやなこッた。この上苦労したッて――この上苦労するがものアありゃしない。私しゃ本統に済まないねえ。西宮さんにも済まない。小万さんにも済まない。ああ」
吉里は歎息しながら、袂から皺になッた手紙を出した。手紙とは言いながら五六行の走り書きで、末にかしくの止めも見えぬ。幾たびか読み返すうちに、眼が一杯の涙になッた。ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。
廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包みを取り出した。中には平田の写真が入ッていた。重ね合わせてあッたのは吉里の写真である。
じッと見つめているうちに、平田の写真の上にはらはらと涙が落ちた。忙てて紙で押えて涙を拭き取り、自分の写真と列べて見て、また泣いた上で元のように紙に包んで傍に置いた。
今一個の抽匣から取り出したのは、一束ねずつ捻紙で絡げた二束の文である。これはことごとく平田から来たのばかりである、捻紙を解いて調べ初めて、その中から四五本選り出して、涙ながら読んで涙ながら巻き納めた。中には二度も三度も読み返した文もあッた。涙が赤い色のものであッたら、無数の朱点が打たれたらしく見えた。
この間も吉里はたえず耳を澄ましていたのである。今何を聞きつけたか、つと立ち上った。廊下の障子を開けて左右を見廻し、障子を閉めて上の間の窓の傍に立ち止ッて、また耳を澄ました。
上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。
十一
午前の三時から始めた煤払いは、夜の明けないうちに内所をしまい、客の帰るころから娼妓の部屋部屋を払き始めて、午前の十一時には名代部屋を合わせて百幾個の室に蜘蛛の網一線剰さず、廊下に雑巾まで掛けてしまった。
出入りの鳶の頭を始め諸商人、女髪結い、使い屋の老物まで、目録のほかに内所から酒肴を与えて、この日一日は無礼講、見世から三階まで割れるような賑わいである。
娼妓もまた気の隔けない馴染みのほかは客を断り、思い思いに酒宴を開く。お職女郎の室は無論であるが、顔の古い幅の利く女郎の室には、四五人ずつ仲のよい同士が集ッて、下戸上戸飲んだり食ッたりしている。
小万はお職ではあり、顔も古ければ幅も利く。内所の遣い物に持寄りの台の数々、十畳の上の間から六畳の次の間までほとんど一杯になッていた。
鳶の頭と店の者とが八九人、今祝めて出て行ッたばかりのところで、小万を始め此糸初紫初緑名山千鳥などいずれも七八分の酔いを催し、新造のお梅まで人と汁粉とに酔ッて、頬から耳朶を真赤にしていた。
次の間にいたお梅が、「あれ危ない。吉里さんの花魁、危のうござんすよ」と、頓興な声を上げたので、一同その方を見返ると、吉里が足元も定まらないまで酔ッて入ッて来た。
吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子の半襟を掛けた綿入れに、緋の唐縮緬の新らしからぬ長襦袢を重ね、山の入ッた紺博多の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳も老けていたら、花魁の古手の新造落ちという風俗である。
呆れ顔をしてじッと見ていた小万の前に、吉里は倒れるように坐ッた。
吉里は蒼い顔をして、そのくせ目を坐えて、にッこりと小万へ笑いかけた。
「小万さん。私しゃね、大変御無沙汰しッちまッて、済まない、済まない、ほんーとうに済まないんだねえ。済まないんだよ、済まないんだよ、知ッてて済まないんだからね。小万さん、先日ッからそう思ッてたんだがね、もういい、もういい、そんなことを言ッたッて、ねえ小万さん、お前さんに笑われるばかしなんだよ。笑う奴ア笑うがいい。いくらでもお笑い。さアお笑い。笑ッておくれ。誰が笑ッたッて、笑ッたッていい。笑ッたッていいよ。察しておくれのは、小万さんばかりだわね。察しておいでだろう。察しておいでだとも。本統に察しがいいんだもの。ほほほほほ。おや、名山さん。千鳥さんもおいでだね。初緑さん。初紫さん。此糸さんや、おくれなその盃を。私しゃお酒がうまくッて、うまくッて、うまくッて、本統にうまいの。早くおくれよ。早く、早く、早くさ」
吉里はにやにや笑ッていて、それで笑いきれないようで、目を坐えて、体をふらふらさせて、口から涎を垂らしそうにして、手の甲でたびたび口を拭いている。
「此糸さん、早くおくれッたらよ、盃の一つや半分、私しにくれたッて、何でもありゃアしなかろうよ」
「吉里さん」と、小万は呼びかけ、「お前さんは大層お酒が上ッたようだね」
「上ッたか、下ッたか、何だか、ちッとも、知らないけれども、平右衛門の台辞じゃアないが、酒でもちッと進らずば……。ほほ、ほほ、ほほほほほほほ」
「飲めるのなら、いくらだッて飲んでおくれよ。久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んでおくれ、身体にさえ触らなきゃ。さア私しがお酌をするよ」
吉里はうつむいて、しばらくは何とも言わなかッた。
「小万さん、私しゃ忘れやアしないよ」と、吉里はしみじみと言ッた。「平田さん……。ね、あの平田さんさ。平田さんが明日故郷へ行くッて、その前の晩に兄、に、に、西宮さんが平田さんを連れて来て下さッたことが……。小万さん、よく私に覚えていられるじゃアないかね。忘れられないだけが不思議なもんさね。ちょうどこの座敷だッたよ、お前さんのこの座敷だッたよ。この座敷さ、あの時ゃ。私が疳癪を起して、湯呑みで酒を飲もうとしたら、毒になるから、毒になるからと言ッて、お前さんが止めておくれだッたッけねえ。私しゃ忘れやアしないよ」と、声は沈んで、頭はだんだん下ッて来た。
「あの時のお酒が、なぜ毒にならなかッたのかねえ」と、吉里の声はいよいよ沈んで来たが、にわかにおかしそうに笑い出した。「ほほ、ほほほほほ。お酒が毒になッて、お溜り小法師があるもんか。ねえ此糸さん。じゃア小万さん、久しぶりでお前さんのお酌で……」
吉里は小万に酌をさせて、一息に呑むことは飲んだが、酒が口一杯になッたのを、耐忍してやッと飲み込んだ。
「ねえ、小万さん。あの時のお酒が毒になるなら、このお酒だッて毒になるかも知れないよ。なアに、毒になるなら毒になるがいいんさ。死んじまやアそれッきりじゃアないか。名山さんと千鳥さんがあんないやな顔をしておいでだよ。大丈夫だよ、安心してえておくんなさいましだ。死んで花実が咲こかいな、苦しむも恋だって。本統にうまいことを言ッたもんさね。だもの、誰がすき好んで、死ぬ馬鹿があるもんかね。名山さん、千鳥さん、お前さんなんぞに借りてる物なんか、ふんで死ぬような吉里じゃアないからね、安心してえておくんなさいよ。死ねば頓死さ。そうなりゃ香奠になるんだね。ほほほほほ。香奠なら生きてるうちのことさ。此糸さん、初紫さん、香奠なら今のうちにおくんなさいよ。ほほ、ほほほほ」
「あ、忘れていたよ。東雲さんとこへちょいと行くんだッけ」と、初緑が坐を立ちながら、「吉里さん、お先きに。花魁、また後で来ますよ」と、早くも小万の室を出た。此糸も立ち、初紫も立ち、千鳥も名山も出て行ッて、ついに小万と吉里と二人になッた。次の間にはお梅が火鉢に炭を加いている。
「小万さん、西宮さんは今日はおいでなさらないの」と、吉里の調子はにわかに変ッて、仔細があるらしく問い掛けた。
「ああ、来ないんだよ。二三日脱されない用があるんだとか言ッていたんだからね。明後日あたりでなくッちゃア、来ないんだろうと思うよ。先日お前さんのことをね、久しく逢わないが、吉里さんはどうしておいでだッて。あの人も苦労性だから、やッぱし気になると見えるよ」
「そう。西宮さんには私しゃ実に顔が合わされないよ。だがね、今日は急に西宮さんに逢いたくなッてね……。二三日おいでなさらないんじゃア……。今度おいでなさッたらね、私がこう言ッてたッて、後生だから話しておいておくんなさいよ」
「ああ、今度来なすッたら、知らせて上げるから、遊びにおいでよ」
吉里はしばらく考えていた。そして、手酌で二三杯飲んで、またしばらく考えていた。
「小万さん、平田さんの音信は、西宮さんへもないんだろうかね」と、吉里の声は存外平気らしく聞えた。
「ああ、あれッきり手紙一本来ないそうだよ。西宮さんが出した手紙の返事も来ないそうだよ。だがね、人の行末というものは、実に予知らないものだねえ」と、小万がじッと吉里を見つめた眼には、少しは冷笑を含んでいるようであッた。
「まアそんなもんさねえ」と、吉里は軽く受け、「小万さん、私しゃお前さんに頼みたいことがあるんだよ」
「頼みたいことッて」
吉里は懐中から手紙を十四五本包んだ紙包みを取り出し、それを小万の前に置いた。
「この手紙なんだがね。平田さんから私んとこへ来た手紙の中で、反故にしちゃ、あんまり義理が悪いと思うのだけ、昨夜調べて別にしておいたんだよ。もうしまっておいたって仕様がないし、残しときゃ手拭紙にでもするんだが、それもあんまり義理が悪いようだし、お前さんに預けておくから、西宮さんに頼んで、ついでの時平田さんへ届けてもらっておくんなさいよ。ねえ小万さん、お頼み申しますよ」
小万は顔色を変え、「吉里さん、お前さん本気でお言いなのかえ」
「西宮さんへ話して、平田さんへ届けるようにしておくんなさいよ」と、吉里は同じことを繰り返した。
「吉里さん、どうしてそんな気になッたんだよ。そんなに薄情な人とは、私しゃ今まで知らなかッたよ。まさかに手拭紙にもされないからとは、あんまり薄情過ぎるじゃないかね。平田さんをそんなに忘れておしまいでは、あんまり義理が悪るかろうよ」
「だッて、もう逢えないと定まッてる人のことを思ッたッて……」と、吉里はうつむいた。
「私しゃ実に呆れたよ。こんな稼業をしてるんだから、いつまでも――一生その人に情を立ッて、一人でいることは出来ないけれども、平田さんを善さんと一しょにおしでは、お前さん済むまいよ。善さんがどんなに可愛いか知らないが、平田さんを忘れちゃ、あんまり薄情だね」
「私しゃ善さんが可愛いんさ。平田さんよりいくら可愛いか知れないんだよ。平田さんのことを……、まアさほどにも思わないのは、私しゃよッぽど薄情なんだろうさ」と、吉里はうつむいてじッと襟を噛んだ。
「本統に呆れた人だよ。いいとも、お前さんの勝手におし。お前さんが善さんと今のようにおなりのも、決して悪いとは思ッていなかッたんだが、今日という今日、薄情なことを知ッたから、もうお前さんとは口も利かないよ。さア、早く帰ッておくれ。本統に呆れた人だよ」
吉里は悄然として立ち上ッた。
「きッと平田さんへ届けておくんなさいよ」
小万は返辞をしなかッた。
次の間へ出た吉里はまた立ち戻ッて、「小万さん、頼みますよ。西宮さんへもよろしくねえ」
小万はまた返辞をしなかった。
吉里はお梅を見て、「お梅どん、平田さんの時分にはいろいろお世話になッたッけね。西宮さんがおいでなさッたら、吉里がよろしく申しましたと言ッておくれよ。お梅どん、頼みますよ」
お梅はうつむいて、これも返辞をしなかッた。
吉里は上の間の小万をじッと見て、やがて室を出て行ッたかと思うと、隣の尾車という花魁の座敷の前で、大きな声で大口を利くのが、いかにも大酔しているらしく聞えた。
その日も暮れて見世を張る時刻になッた。小万はすでに裲襠を着、鏡台へ対って身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て、
「花魁、大変ですよ。吉里さんがおいでなさらないんですッて」
「えッ、吉里さんが」
「御内所じゃ大騒ぎですよ。裏の撥橋が下りてて、裏口が開けてあッたんですッて」
「え、そうかねえ。まア」
小万は驚きながらふッと気がつき、先刻吉里が置いて行ッた手紙の紙包みを、まだしまわず床の間に上げておいたのを、包みを開け捻紙を解いて見ると、手紙と手紙との間から紙に包んだ写真が出た。その包み紙に字が書いてあった。もしやと披げて読み下して、小万は驚いて蒼白になッた。
一筆書き残しまいらせ候。よんどころなく覚悟を極め申し候。不便と御推もじ願い上げまいらせ候。平田さんに済み申さず候。西宮さんにも済み申さず候。お前さまにも済みませぬ。されど私こと誠の心は写真にて御推もじ下されたくくれぐれもねんじ上げまいらせ候。平田さんにも西宮さんにも今一度御目にかかりたく、これのみ心残りにおわし候。いずかたさまへも、お前さまよりよろしくお伝え下されたく候。取り急ぎ何も何も申し残しまいらせ候。
さとより
おまん様人々
写真を見ると、平田と吉里のを表と表と合わせて、裏には心という字を大きく書き、捻紙にて十文字に絡げてあッた。
小万は涙ながら写真と遺書とを持ったまま、同じ二階の吉里の室へ走ッて行ッて見たが、もとより吉里のおろうはずがなく、お熊を始め書記の男と他に二人ばかりで騒いでいた。
小万は上の間へ行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷金杉あたりの人家の燈火が散見き、遠く上野の電気燈が鬼火のように見えているばかりだ。
次の日の午時ごろ、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りのある露路の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱ぎ捨ててあり、同じ露路の隅田河の岸には、娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱ぎ捨ててあッたことが知れた。
けれども、死骸はたやすく見当らなかッた。翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流れ着いたとある新聞紙の記事に、お熊が念のために見定めに行くと、顔は腐爛ってそれぞとは決められないが、着物はまさしく吉里が着て出た物に相違なかッた。お熊は泣く泣く箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅をやっては、七月七日の香華を手向けさせた。