人物

道成寺和尚おしょう  妙念
僧徒     妙信
僧徒     妙源
僧徒     妙海
誤ち求めて山に入りたる若僧
女鋳鐘師  依志子
三つのすがたに分ちあらわれたる鬼女  清姫

今は昔、紀ノ国日高郡に道成寺と名づくる山寺ありしと伝うれど、およそ幾許いくそばくの年日をへだつるのころなるや知らず、情景はそのほとり不知の周域にもとむ。
僧徒らの衣形は、誤ち求めて山に入りたる若僧を除き、ことごとく蓬髪ほうはつ裸足はだしにして僧衣よごれ黒みたれど、醜汚の観を与うるに遠きを分とす。
全曲にわたり動白はすべて誇張をきらう。

     場面

奥の方一面谷の底よりい上りし森のくらやみ、測り知らず年を経たるが、下手しもてようようにこずえ低まり行きて、明月の深夜をかたどりたる空のあお色、すみかがやきて散らぼえるも見ゆ。上手かみて四分の一がほどを占めて正面の石段により登りぬべき鐘楼そびえ立ち、その角を過れるみちはなお奥に上る。下手舞台のつくる一帯は谷に落ち行く森に臨み、奥の方に一路の降るべきが見えたり。下手の方、路の片隅かたすみによりて月色うずをなし、陰地には散斑ばらふなるあおき光、木の間をれてゆらめき落つ。風の音時ありて怪しき潮のごとく、おののける々の梢を渡る。

     第一段

誤ち求めて山に入りたる若僧と僧徒妙信とあり。若僧が上手鐘楼の角により奥の方を伺える間、妙信は物おじたる姿にて中辺に止まり、若僧のものいうをまつ。不安なる間。
若僧 (女人の美をそなえたる少年、とし二十に余ることわずかなれば、新しき剃髪ていはつすがたいたましく、いまだ古びざる僧衣をまとい、珠数じゅずを下げ、草鞋わらじ穿うがちたり。奥の方を望みつつ)やっぱり和尚様でございます。ちょうどいま月の流れが本堂の表へこぼれるようにあたっているので、蒼い明るみの真中へうしろ向きに見えて出ました――恐ろしい蜘蛛くもでも這い上るように、一つ一つ段へつかまりながら――
妙信 (年齢六十に近く白髯はくぜんたくわえ手には珠数を持てり。若僧のものいえる間ようよう上手に進み行きついに肩を並べつつ)今さっき本門の傍でうめいていると思ったが、いつのまにか上って来たのだな。ああして狂気の顔が、水にれたされこうべのように月の中へ浮んで、うろうろ四辺あたりを振り向いた様子は、この世からの外道ともいおうばかりだ。
若僧 あ、――
妙信 あんなにおどり込んで、また本堂の片すみにつく這いながら、自分の邪婬じゃいんは知らぬことのように邪婬の畜生のとわめくのがはじまろうわ。
若僧 もう呻くような声がきこえて参ります。
妙信 (必ずしも対者にもの言うがごとくならずして)だがとやかくいうものの今夜という今夜こそ、あのように乱れた心の中はへびの巣でもあばいたように、数知れぬむごたらしい恐れがうごめいて、どんな思いをさせていようも知れぬことだ。
若僧 (妙信に向い)ほんとに悪蛇あくじゃ怨霊おんりょうというのは、今夜の内に上って来るのでございましょうか。
妙信 (若僧のもの問えるを知らざるがごとく、すでに鐘楼の鐘を仰ぎて憎しげに)みんなこの鐘が出来たばかりよ。なまじ外道の呻くようなをひびかしたばかりに、山中がこんな恐ろしい思いをせねばならぬわ――
若僧 (迹りてひそやかに強く)今夜のうちにその悪霊は、きっと上って来るのでございましょうか。
妙信 (始めて顧り視て)ほんとにのぼって来ようぞ。わしにはもうじとじとしたのろいの霧が山中にまつわって、木々の影まで怪しくゆらめいて来たような気がするわ。それにしても和主おぬし不憫ふびんなが、何にも知らずこんな山へ迷い込んで来たばかりに、のがれることも出来ない呪いの網にかかってしまったのだ。――ええ、そんな恐ろしい眼の色をせぬものよ――最前からまだ話もしなかったが、この鐘には、仔細しさいあって悪蛇の執念が久遠にかかっているのだ。その呪いでこれまでは作るのも作るのも、供養に一と打ちすると陶器すえもののようにこわれてしまったのが、今夜ばかりはどうしてか、一つ一つに打ち出す呻き声がさっきのように谷底の小蛇の巣や蜘蛛の網にまでひびいて行ったのだから、ほんとにどのようなしかえしが来ようも知れぬ、こんなやくのない見張りをしているうちには、どこからかうろこの音を忍んで這い上って来るにちがいないのだ。
間。
妙信 (不安なる姿にて左右を顧※[#「目+乏」、25-上-1]しつつ鐘楼の石段に腰をおろして)さあ、このような恐ろしい晩に、黙っているのはよくないことだ。怪しい声音がいろいろのくらやみから聞え出す、それにあの風の音よ。ここへ腰をおろして話でも始めないか。離れているとつい寒気などがして来るわ。
若僧 (立ちたるまま決意の語調)老僧様。のがれることも出来ない網にかかったと申されましたが、私はどのような障碍しょうがいにあいましょうと、一人で降りて行きとうございます。三善の知識が得たいばかりにわが家をもぬけ出て来ましたものを、まだ人の世の夢やかなしみのはかない姿も見わけぬうち、このように不祥な霧が若やかなかしの葉にも震えている山の中で、怪しい邪婬の火に身を巻かれとうはございませぬ。私はまだこれから、いろいろの朝と夜とで満ちた命の間に、日の光りさえ及ばぬ遠国のはてまでも経歴へめぐって、とうとい秘密が草木の若芽にも輝く御山を求めに行かねばなりませぬ。(嘆願の調)老僧様、どうぞふもとへおりる道をお教え下さいまし、ゆうべはくらやみでどこをはせ上って来たのやらもおぼえませぬ。ほんとに私は今のうちにおりて行きとうございます。(顧みつつ言う)
妙信 うら若い身に殊勝な道心だが、どのようなところに行きとうても、もうこの山へ一度上った者は、それきりで降りることが出来ないのだ。これまで寺僧のうちで幾人いくたりもぬけ出した者はあるのだが、一人として麓へ行きついた者はない。盲目めくらにされても降り得ようほど案内知った道でありながら、誰も彼も行き迷うたあげくたおれてしまうのが、ほど経て道ばたへむごたらしい屍骸しがいになって知れるのよ。寺僧も多勢おおぜいいたのだが、そんな風に一人減り二人減って、今では和尚のほかにわしたち三人が残るばかりになってしまったのだ。
若僧 (絶望の悲しみを帯べる語調)それではこの山に一度上った者は、どのようにしても降りることが出来ないとおっしゃるのでございますか。もう私も、こうしてその悪霊が忍んで来るのを、怪しい息をきながらおそれに汗ばんだ木や石なぞと一所に、今か今かとまつよりほかはどうすることも出来ないのでございましょうか。老僧様、私は不壊ふえの知識を求めて上って来たのでございます。ゆうべも日高川からこっち誰にも人にあうことがなかったので、こんないまわしい山とは知らず、足元からくずれ落ちる真黒な山路も、物ののような岩の間をとどろき流れる渓川たにがわも、慣れない身ながら恐れもなく、このような死人の息さえきこえぬ山奥で、金剛の道をきくばかりにほど遠い磯辺いそべの家をも捨てて来たのだと思いながら、知恵のよろこびにもえ立ってひた上りに上って来たのでございます。それですのに私は、もう仔細も知らぬ呪いの網につつまれて、どのようにしても遁れることの出来ない身になったのでございましょうか。老僧様。
妙信 不愍ふびんなことだが草木までも呪われたこの山にはいったからは、もうどのようなことを願うてもかないはせぬ。仔細といってもやっぱりもとは邪婬の煩悩ぼんのうだが、もう二十年も昔になる、ちょうどこんな息の苦しい五月ごろの晩だった。思いをとげたい一心を欺かれたうらみから、清姫というようよう十四になった小娘が生きながら魔性の大蛇おろちになって、この山へ男のあとを追って来たのだ。和尚のはからいに男を伏せてかくまったこの鐘よ、硫黄いおう色のほのおを吐きながらいくめぐり巻くかと思ううち、鐘も男も鉛のようにどろどろ溶けてしまったわ。まだ和尚も年は若く堅固な道人の時で、見事に魔性を追い払ってはしまったが、その場のはからいに怨みを残して、執念というものがあの頭の中へ、小虫のようにかみ入って来たのだ。恋を欺された女の心ほど恐ろしいものと言うてもない。あれほどあっぱれな善知識だったのが一日一日とたましいの奥を喰み破られて、もうこのごろでは狂気のいろに変ったざまだ。その上怪しい女鐘造りの依志子というに、胎子はらごなぞをはらまして、邪婬の煩悩になおのこと、あんなこの世からの外道とでもいう姿になってしまったのよ。この鐘も今夜はじめての出るように出来はしたが、性界も知れぬ怪体けたいの女が、胎子と一所に鋳上げた不浄な鐘だ、あのように呻くのがひびいて行ったところには、山頂きの、月の色に燃えたすぎの梢へでも、谷底の、岩の裂け目に咲くこけの花へでも、邪婬の霧が降らずにはいようもないわ。
若僧 その依志子という女人が山の中にいるのでございますか。
妙信 この山の麓に鐘造りの小屋をたてて、女人の工人たちと一所に住んでいる。男に怨みをかけた呪いのためかも知らぬが、女人ばかりは自在に山の上り降りが出来るので、ゆうべもこの鐘を車につんで真黒な装束をきせた女人たちに、き上げさしてのぼって来たが、恐ろしいことのあった晩から、鐘の出来た夜は女人禁制というおきてになって、今夜このあたりにも姿を見せずにいるのだ。
間。
妙信 (若僧に向い)まあここへじっと坐っていないかというに。そのように物も言わず立っているのを見ると、和主おぬしの姿まで何ぞ怪しいもののように見えて来るわ。
若僧は最前より妙信のものいえるを顧みざるがごとく、下手の方をながめたりしが、この時蹌踉そうろうとしてたましいうつけたる姿に歩み出づ。
妙信 (不安に目覚めざめたるがごとく立ち上り)どうしたのだ、どこへ行こうというのだ。
若僧 (立ち止り同じ姿にて)何の声とも知れませぬ。あ、あのようにくり返して私の名を呼ぶのが、そこの谷からきこえてまいります――
間。不安なる凝立。
若僧 もう何にも聞えなくなってしまいました。
妙信 心を落ちつけぬかよ、耳の迷いだ。
若僧 いいえ、か細い声でしたけれどたしかに、――ちょうど物怯ものおじした煙が木々の葉にかくれながらのぼってでも来るように、そこのくらやみからきれぎれにきこえて来ましたのです。
     第二段

若僧はもの言いもてなお下手に歩み出づる時、あわただしげにせ来たれる僧徒妙海と妙源とに行きあう。四者佇立ちょりつ
妙源 (手に珠数を持たず、中年にして容姿ことごとくあららかなり。若僧を直視するにある敵意を持ちたるが、妙信に向い)ゆうべの新入りだな。
妙信 (なお不安の姿にて)お前たちは山門の傍にいるはずなのじゃないか、何ぞの姿でも見えたというのか。
妙海 (同じく中年なれど凡常よのつね容貌ようぼうを具え手には珠数を下げたり)まだわしらが眼には見えぬというだけのことだ。もう山中の露の色まで怪しい息にくもって来たわ。
妙信 そんなことならお前たちに聞こうまでもない。わしはまた、何ぞに追いかけられてでも来たのかと思って、無益なことにつめの先までわなないた。このような晩にはあんまり人を驚かさぬものだ。
妙海 そうはいうもののこの路だ、くらやみと月明りで、いろいろに姿をかえた木や石がふるえる指をのばすように前うしろから迫って、真実、魔性の息が小蛇のように襟元えりもとへ追いかけてくる気もするぞい。
妙信 だが別に悪霊の姿というても見えぬに、どうしてそんな息せいてかけ上って来たのだ。
妙源 あんなところにたった二人で、見はりなどがしていられると思うかい。
妙海 ここいらにいては考えにも及ばぬ。ちょうどおとといの地崩れに、前の杉が谷の中へ落ち込んだので、門の下に坐っていると頭から蛇の鱗のようなつめたい月の光りがひたひたまつわりついて、お互いに見合わす顔といえば、しずくでもれて来そうな気味の悪さだ。物を言えば物を言うで、二人とも歯と歯の打ち合う音ばかり高くきこえて、常とは似つかぬ自分の慄え声が、何ぞに乗りつかれでもしはせぬかと思う怖ろしさに、言いたいことも言わぬうち、われと口をつぐんでしまうのよ。するとまた、お互いに出し入れの息のが、怪しい物のをなめずるおとのようにもきこえて来る、明るみが恐ろしさにあのやぶかげへ寄って行けば、何がひそんでいるかも見えぬ灰色のくらやみが、上から上から数知れぬ指を慄わしてざわめくじゃないか。その上に時々吹きあてる風の音が――
妙源 (最前より四辺を顧※[#「目+乏」、28-上-6]したりしが唐突に)そんな話はよさぬかい、やくたいもない。
間。
妙海 (また同じ調子をつづけて)言い合わしもせぬうちに、ここへ来れば和主おぬしがいると思って、二人とも黙ったままかけ上って来たのだが、ほんとにこんなところにいては考えにも及ばぬ恐ろしさだ。
妙信 山門の傍ばかりが恐ろしいにきまったことかい、何よりもこの鐘に悪霊の呪いがかかっているのじゃないか。こうしてまっ黒な口をあけながら物も言わぬ形を見ているうちには、さっきまでなりひびいた声より幾倍か恐ろしい邪婬の呻きが、煙のような渦をまいてあのうつろからきこえてくるわ。
間。
妙海 このような恐ろしい晩は聞きも知らぬ。またいつもと同じように一と打ちで微塵みじんにこわれてしまえばいいに、なまじあんないやらしい呻き声がひびき出したばかりよ。
妙信 さっきからわしもこの子に言うことだ。(間)だが月もあんなにまわって、だんだん夜あけ近くなって来たが、上って来ようというのならこの上時を移すまいぞ。
妙源 こんな風におびえながら。甲斐かいのない見張りをしているうちには、もうとっくに上って、どこぞ雷にさかれた巌間いわまにでも潜んでいるか知れぬことだ。
妙信 (かすかに語調を失いて)いいや上って来たものなら、何よりも先この鐘に異変が見えねばならぬのだ。蛇体のままでか、それとも鬼女の姿になってか、一番にこの鐘へ取り付きに来ようわ。
妙源 それにしてもいま眼の前に姿が見えたらどうしようというのだ、誰ぞ退散の法力でも持っているのかい。和尚はあんなざまだしよ。
間。四者のみずから知らざるがごとく相寄るは、水に沈み行く稀有けうなる群像のさまをおもわしむ。池底のごとき沈黙。
妙源 (対者を定めず)和尚はどこへ行ったのだ。
妙信 ほんとに和尚はどこへ行ったのだろう。さっきわしらがここへ来た時、ちょうど本堂の中でいつものようにわめき始めたとこだったが、気づかぬうちに声もやんだような。だが今夜こそ峰から谷へ幾めぐり、爪を立てた野猫のねこのようにはせめぐっても片時落ちついてなぞいられまいわ。
妙海 (にわかにある不安を思いつけるがごとく)和尚といえば、わしたちは山門の傍で見張りするように言われていたが、こうしてここにいる姿でも見つかろうなら、悪霊の呪いが来ないまでも、また妙良のような目にあいはせぬかの。
妙源 和尚の影がさしたら、そこの森の中へ身をかくそうまでよ。あんなぼうふらのような血の走った眼がぎょろぎょろしたとて、遠くから人の数なぞよめはせぬ。だがそれにしてもあの時は恐ろしかったな。妙良のやつ、つい和尚の来かかったのを知らず、依志子の腹のことを口走ったと思うと、骨ばかりの指がくらい付くようにのど元へかかって、見ているうちに目から鼻から血が流れ出すのよ。――
妙海 その話はやめにしよう。一つ一つ骨にからんだ腸でも手繰り出されるような妙良の悲鳴が、今だに耳の中で真赤な渦をまいて、思ってもぞっとするわ。
妙源 ――血でひたひたになった本堂の隅へ、悪魚の泳ぐように這いつくばって、とかげのような舌のきれむしりながら、「執念が何だ、邪婬の外道が何の法力に叶うかい」とわめいた眼つきは――
妙信 (戦慄せんりつ)よさぬかというに、さもないでさえ恐ろしいこの夜更よふけに、そんな話をしなくとものことじゃないか。
若僧 (唐突に妙信に向い)私はやっぱり降りて参りとうございます。たとえ行き迷うてどのような恐ろしい目にあいましても、こうして、人を沈めた沼地のようにいまわしい呪いの霧が、骨の中までしみ込んで来るところに立っているよりも、一人で路を歩いている方がいくらよいか知れませぬ。
妙海 (ほとんど何らの感情なく)もう何をいうても叶わぬわ。お前はまだ仔細も知るまいが、この山へ一度上ったからは、どのようにしても降りることは出来ないのだ。
この時若僧ははなはだしく唐突に身を動かして、下手の方より何ものかをきき出でたるがごとき姿す。
妙信 (刹那せつなに来る不安の調)どうしたのだ。
若僧 (同じ姿を保ち)怪しい物のがきこえる。女人の髪の毛がささの上を流れて行くような。
他の三人 (いささか高低を違えてほとんど同時に)え――
僧徒らはあたかもくらげの浮動するがごとき怪しき姿して物のをたずねてあり。間。
若僧 そこの杉の根元あたりで、あ、あんなに――
長き不安なる間。若僧は歩み出でて下手谷の底へ這い下れる森林の内を伺いのぞく。間。
妙源 何ぞ見えるのか。
妙信 (恐怖におののきつつ)静かにせぬかよ。
間。
若僧 くらやみが煙のようにわき上って来るばかりで何も見えは致しませぬ。(僧徒らの方を顧みつつ)物のは三度目に、この根元あたりできこえたのでございますけれど。
妙源 (腹立たしげに)ええ何もきこえたのではないのじゃないか。わけもないことを言って人を驚かす奴だ。
妙海 わしにもたしかにきこえた。ちょうどつめたい鱗が笹の葉をなでるような――
若僧 (迹りて)そのような物のではございませぬ。やっぱり女人の長い髪が、重そうに葉の上を流れて行く音でございました。(再び森の中を見て)あすこのけやきの根元からこのすそへかけて三度ばかりきこえました。
妙源 みんな恐ろしさに耳の中まで慄えるので、自分の血のめぐるおとがいろいろな物のにきこえるのだ。
     第三段

この時上手鐘楼の角より和尚妙念あらわる。僧徒らは中辺より下手の方にたたずみてそびらをなしたれば知らであり。とし五十に満たざるがごとくなれど、まなこの色、よのつねのものには似ず、面色憔悴しょうすいして蒼白く、手には珠数を下げ僧衣古びたれどみずから別をなす格位を保てり。いま僧徒らのひとしく森の方を眺め入れるを見、にわかに恐怖を見出でたるがごとく歩みを止む。若僧の顧み知りて怪しく叫ぶや、僧徒らつかむがごとく相つどう。不安なる対立。
妙念 悪霊の姿が見えたというのではないのか。
妙信 まだ私どもの眼に見えてはおりませぬ。
妙念 もうどうしても上って来る時分なのだ。お前たちのような奴は眼の前へ形が見える先に、煙のような忍びのが這ってくるのを知らないのだな。おのれがあの本堂の傍へ犬のようにつくばって、をなめずるみみずのうごめくのまで見張っている間に、お前たちはこんなところでいぎたなくくちびるゆるましながら、眠ってなんぞいたのじゃないか。
妙信 眠っているどころではございませぬ。耳の中をめぐる血のおとや、はかない出し入れの息のにまで、とかげのように怯えながら心をつけていたのでございます。ちょうどいまも、怪しいもののがきこえるなどと申す耳の迷いから――
若僧 (激しく語を迹りて)耳の迷いではございませぬ。ちょうど女人の髪の毛が笹の上を重く流れて行くようなもののが、あの欅の根元からここの裾へかけて、三度ばかり聞えたのでございます。
妙念 (にわかに激しく)そこにいるのは誰だ。
間。若僧は無言に妙念を視つめてあり。
妙信 (何物かをおそるるがごとく)ゆうべ新入りの若僧でございます。
妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
間。
妙信 (若僧に向い)黙っていずと、お返事をせぬかい。
妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
間。
妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
いと長き間。若僧の眼はようように鋭き凄色せいしょくを帯び、妙念は怪しき焔を吐くばかりの姿して次第ににじり迫る。さらに長き期待の堪うべからざるがごときじょうの緊張。
妙念 (破るるがごとき憤怒ふんぬの声)悪蛇の化性だな。そんな男体に姿をかえて上って来たのが、睫毛まつげまで焼きちぢらした己の眼をくらませると思うのかい。このおおどかな梵音ぼんおんが山中をゆさぶって、木の根に巣をくう虫けらまで仏願にい入るほども鳴りひびいたに、まだ執念しゅうねく呪いをかけようというのだな。――二つや三つの鐘を陶器すえもののようにこわされても、そんなことで己の法力がゆるみはしないのだ。女鐘造り依志子の一念で、女人のたましいを千という数鋳込んだ鐘に、まじないほどのひびでも入れて見い。ありがたい梵音が大空の月の壁から川床の小石までゆさぶるので、その身につけた鱗の皮が一つ一つ、はららけて落ちるまでおののき上って来たのだろう。――二十年が間呪いの執念のと小うるさく耳元にささやく声が、百足虫むかでのように頭の中を刺しまわって、何を見るにも血色の網からのぞくような気持だったが、今夜という今夜こそ、この鐘がなりひびいた祈誓の結着に、たたきひしいでくれようわ。
はためきおらび、たちまち悪獣のえさに跳るがごとく突き寄らんとするや、若僧は怪しく叫びて谷に下れる森林の中に身を退すさり、妙念これにつづきて二者の姿見えずなる。若僧の悲鳴。――その声たとえば打ち殺さるる犬等の、ゆらめき漂う煙にも似し悲鳴のごとく、またたとえば直ちに腸を引きさかるる人間のさけぶに似たり。ほとばしり出づる血の絶叫と、ねじりし出でし苦悶くもんの声と、交々こもごもにたえだえにきこゆ。
じょうに残れる三人の僧徒らは、ことごとく生色を失い、なすことを知らざるさまにおののきてあり。いまだほどへざるに悲鳴み、これに代えてさらに怖るべき物のを聞き出でたるがごとく、恐怖の流れ、みなぎり脈打つがごとき間。
妙念顕わる。さきにち入りたるほとりの雑草に、血に染みて生けるがごとき指等を絡ましめつつ這い出づ。衣形ほとんど血に濡れてあり。僧徒らはそのさま一つ腹より出でたる犬の子らのごとく、われともなしに退り行き、上手二路のわかるるほとりに止まる。
妙念 (下手あたかも月色の渦巻ける片隅に立ちたれば、いろどられたる血の色あざやかに、怪体なる微笑を浮めつつ狂喜の語調にて)たたきひしいでくれたぞ。悪蛇の奴、もうのたうつことも出来ないで、石の間に目も鼻もひしゃげた顔を垂れているわ。己の指が小蛇のよう跳りながら、生白い首にからんで喉骨のどぼねのくだけるほども喰い入ると、腸の底からき上るような声がして、もう、あのぬらめいた血のしるだ。鉛を溶かしたように熱いのが顔中にあふれて、悪蛇のうめくようは――(息のつまる笑い)ちょうどそばに細長い石があったのをへらへらした舌の中へ、喰いしばる歯をたたきって押し込むとだんだん呻くのが、きえて行く煙のように断え断えになって来た。(再び笑い)とうとうたたきひしいでくれたのだ。石の上で。――骨のかけるのが貝殻かいがらのように飛び散るのは知れたが洞穴のようなくらやみで、血味噌ちみその中を幾たびかきまわしても眼と舌との見わけはつかぬ。ただ己の眼がだんだんあつい血の蒸気ゆげにかすんで来て、しまいには苔の上から落ちていた血の滴も聞えずに、じかに打ち合う石の音ばかりするようになったのだから、もうほんとに執念深いたましいまで、どのような風が吹こうとも生き返っては来ないのだ、みんなも安心するがいい。二十年の間この山を取り巻いていた呪いの霧が、蛇の鱗のようにがれ落ちて、おおどかな梵音のひびく限りは、谷底に寝ほうけた蝦蟇ひきがえるまで、薄やにの目蓋まぶたをあけながら仏願に喰い入って来ようわ。久遠というえらそうな呪いも、二十年しかたたぬ今夜、ありがたい法力で己の爪がきほどいてしまったのだ。(なごやかなる微笑)みんなもよろこばないか。悪蛇の奴、もう血の汁も出なくなって皮ばかりにひしゃげた首を石の間に垂れているわ。(この時にわかに僧徒らの姿がいかなるかに気づけるもののごとく、容想たちまちにして忿恚ふんいを現わし、声調また激しく変ず)お前たちは何だ、なぜそんな風をして物を言わずに立っているのだ。己が悪霊をたたきひしいだ話をしているのに、なぜそんな、墓石から出た煙のように慄えているのだ。
間。僧徒らものいらえんとするも、舌こわばりであたわざるがごとし。唖口のむなしく動けるは死に行く魚等のさまに似たり。
妙念 (いよいよ激して)なぜ黙っているのだ。己のものを言うのが聞えないというのか。
再び同じき期待の緊張返り迫る。ただ僧徒らに何らの抗意なく、いたずらに戦慄おののけるのみなると、さきには陰地かげじに立てりし妙念の、今ところを異にして月色の中に輝けると異る。(並びに血のいろと)しかも場に溢れたる景調は、あたかも最前の恐るべき幻影をまた繰り返し見んとするがごときを思わしむ。同一なる恐怖の重複。
妙念 (全く同一なる怒調)お前たちもやっぱり悪蛇の化性だな。そんなにいくつものすがたに分れて、この山へ這い上って来たのだな。
妙信 (糸にあやつられて物言うごとく声音ことごとく変じて)そのような恐ろしい者ではございませぬ。私どもでございます。あなたのお身と同じこの山の僧徒たちでございます。
妙念 そんならなぜ物を言わないのだ。腐れたされこうべのように首を並べて、慄えてばかりいるのは何だ。(間)僧徒たちの姿にのりうつって、この鐘へ取り付こうとするにちがいないわ。自分の名をとなえて見ろ、一所に。
            妙信――
三人の僧徒ら (ひとしく)妙海――
            妙源――
三者同じき頭音はほとんど高低と不調となく、区々なる尾音おののき乱る。僧徒らみずから私にいだきたる恐怖に、まのあたり面あえりしごとく、おのおの疑惧ぎくの眼を交う。間。

     第四段

風の声ようようはげしくなりまさりて、不断にこずえを騒がす。僧徒らのうち左位に立てりし妙源は、この時みずから覚えざるがごとく身を退り、後の方坂路を顧みたるがあたかも何ものかを見出でて。
妙源 や、女の姿が上って来る――
他の僧徒らまた一顧するや怪しく叫び、期せずして相とらう。たとえば恐怖の流れ狂僧の枯躯こくめぐり、歯がみして向うところを転ずるごとき、間。
妙念は立てるがままに息たえし死相のごとく、生色をひそめて凝立したりしが、ややありて引き抜かるるがごとく唐突に上手坂路の一角に走り、不安なる期待の間上りくる怪体を窺視きしせるや、たちまちにして疑惧を明らかにしたる表情にて。
妙念 何だそこへかけてくるのは依志子じゃないか。どうしたのだ。
依志子走り出づ。僧徒ら卑しき犬等のごとく視合みあう。
依志子 (歳三十に近く蒼白そうはくなる美貌びぼうはなやかならざれどもすずしきみどり色の、たとえば陰地にいたる草の葉のごとくなるに装いたり。妙念にすがり鐘楼に眼を定め息を切らしつつ)妙念様――鐘は、鐘はどのようでございます。(異変なきさまを見得てやや心落ちつきしがごとく、はじめて妙念の血の色に気づき驚き身を退りつつ)ああ、血が――
妙念 鐘は見る通りまじないほどのひびも入らぬ。(再び怪体なる驕慢きょうまんの微笑)その上にもう悪蛇は血の汁も出なくなって、皮ばかりにひしゃげた首をあすこの石の間に垂れているわ。
依志子愕然がくぜんたる表情。
妙念 (妙念語りむことなく)久遠までかかっていた邪婬じゃいんの呪いが二十年しかたたぬ今夜、とうとい祈誓の法力で風に散らされて粉のように消えせてしまったのだ。悪蛇の奴、生白い男体に僧衣をまとってのろいに来たのだが、お前の一念がこの鐘を鋳上げたばかりに、己の指の爪という爪にもありがたい仏身の力がち満ちて、執念深い鱗の一とひらまで枯葉のように破り散らしてくれたのだ。
依志子 (いたましげに妙念のものいえるをうちまもり、また不安なる態に周辺を顧みて)そんなことをおっしゃって、やっぱりそれが悪蛇ではございませぬ。あの銀のようにつめたい蛇身から、生赤い血の汁なぞが流れようもありませぬし、何よりも私は、まのあたり上って来る姿にあったのでございます――
妙念 (焦ら立ち迹りて)己のたたきひしいだのが悪蛇ではない?――(下手の森の方を一瞥いちべつし、また)その上ってくるのにお前があったというのはいつだ。どこで見たのだ。
依志子 川の、日高川の傍で。三人の鬼女に分れてお山へ消えて行くのを追いながら、私はかけ上って来たのですから、もうどのようにしてもこのあたりへ来ている時でございます。(再び妙念に縋り)妙念様。どうぞ気をしずめて下さいまし、いよいよ最後の時が参りました。
妙念は不安に刻まるるがごとく、ともに周辺を眺めたりしが、僧徒らの姿を見るやまたあららかに、
妙念 お前たちは本門の傍で見張りをしているのだ、また眠りこけてなんぞいると、総身の膚膩ふにが焼き剥がれて生きながら骸骨がいこつばかりになってしまうのだぞ。早く行け、何をぐずぐずしているのだ。
僧徒ら影のごとく黙して後の坂路より降り行く。
依志子の動白は必ずしも恐怖の色に満たず。
依志子 あんな人たちが見張りに行ったって、もう何のやくにも立ちはしませんのに。
妙念 だがお前はどうしてその姿を見たのだ。川の傍へどうして行ったのだ。
依志子 ほんとに私は思いもかけず恐ろしい姿を見たのでございます。この鐘が始めて響いて来ましたのは、まだ月も赤い色をして、夕やみにれた草葉の吐息がしっとりとしたにおいを野にいている時分でございました。それまでは数知れぬおそれと気づかわしさとが血管ちくだの中を針の流れるように刺しまわって、小さなめばたきをするにも乳までひびくようでございましたが、あの音が一つ一つ幾重の網を重ねたお山の木の葉からのがれて、月の色まで蒼白あおじろく驚かして行くのかと思うほどおおどかに、ひびいて来るのをきいておりますうち、だんだん恐ろしい呪いも何も忘れて、ちょうど血吸いにつかれた人たちのようにふらふらと家を出て参りました。あとからあとからとひびく鐘の音が、海の潮でも胸にぶつかるように、あちこちへ身をゆり動かすのに運ばれて、夜の更けるのも知らず、村中をどこというあてもなしにさまよい歩いておりましたが、いつのまにか川のところまで来てしまったのでございます。
妙念 (静かに強く)川の中から蛇体が上って来たのか。
依志子 いいえ水の上には銀色に濡れた月の煙が静かによどんで、ずっとしものあたりまできらきら輝いた川波は、寝入ったような深い夜の息をついておりました。私はまだうつつないありさまで、橋からこっちへ歩きつづけておりますと、不意に、露の上を素足でむような怪しい音がきこえて、四辺あたりが蒼白くかすんで来ました、私は思わずふり向いて見ますと、そこへもう、三人の鬼女に分れた悪蛇が、歩いて来るのでございます。
妙念 ええどんな顔をしていた、お前はそれからどうしたのだ。
依志子 そのまま私のそばを見返りもせず走せぬけて、水に沈んで行く魚のようにお山の方へ消えて行ってしまいました。みんなおんなじ顔なのでございます。三人とも小さな眼に眉毛まゆげもなく、川魚のはだのような蒼白い顔色に、口だけがまだ濡れている血のように赤く光って、左の肩から丈にあまる黒髪を地にしいておりました。もう私は恐ろしさどころではございませぬ。にわかに自分の心が白絹のようにはっきりして、あなたのお身と鐘とが気づかわしさに、はらの子も禁制のことも知ってはいながら、命の最後を覚悟してはせ上って来たのでございます。
妙念 (蹌踉そうろうとして正面に眼をすえたるままに歩み出でみずからに言えるがごとく声調怪しくゆるやか)三人の鬼女に分れて上って来るというのか、己の手がたたきひしいだのは悪蛇ではなかったのだな。己の身はやっぱりのがれることも出来ない呪いにまかれてしまったというのか。
依志子 (なだむるごとく寄り縋り)気を鎮めて下さいまし妙念様。(手を取りて)こんなむごたらしい血を流して、まあ青すじまでが、みみずのように。ほんとにどのような苦しい思いが、乱れた心を刺しまわるやら――(にわかにあたりを視まわして)あ、どうしたのでしょう。大変鳥がむらがって向うの方へ飛んで参ります。あんな怪しい叫びようをしてあとからもあとからも。この夜更けにどうしたというのだろう。
妙念 (依然としてうつつなき眼を定め)もうこの山から呪いの霧をひきはがすことは出来ないというのか、どんなとうとい法力をかりても、どんなおおどかな梵音をひびかしても、己の祈念が外道の執念にかなわないというのか。
依志子 (妙念の方は顧みで下手の空を仰ぎみつつ)はげしい風が向うへ吹くので、みんな飛ばされるように羽根をひろげて、ほんとに幾千とも数が知れませぬ、山中の鳥が立って行くようでございます。(新たなる聴覚の情)それに、不思議な物のがきこえて参りました、あの鳥の声々にまじって、――
この時より妙念は、心中に何事か思い当れるをみずから窺視せんとするがごとく、内に鋭き眼を放ちて凝立してあり。二者の動白各個に分る。
依志子 (ようように肉体の平らかならざるを感じつつ声調次第に変ず)だけども私は――寒さが、妙念様、つめたい蛇の鱗に肌を巻かれるような寒さが、骨の中までみて来る心持はなさいませぬか、(戦慄)何かの水が身体中からだじゅうを流れる――(胸を掴み苦悶しつつ)だんだん乳が、うみをもったはれもののように動悸どうきして、こんなに重くなって来ました、――(にわかに思い当れるがごとく)ああ、やっぱり悪蛇が来たのでございます、あの蒼い霧が、どこからともなく漂って参りました妙念様、お手をかして下さいまし、もう眼の中がうずをまいて、あなたのお姿も見えませぬ、息をするのも、――髪の毛よりも細い蛇が首へからんで息がくるしくなって来ました――
妙念 (にわかに依志子に向い、破るるがごとく、しかれども悲しみふるえて)依志子お前は己の胸の中へ、邪婬の息を吹き込んだのだな。
依志子 (身をあがきて)妙念様――
妙念 今という今、己の眼に、ありありとした物の姿が見えて来た、これまでとうとい法力だと思っていたのは、お前の腹の中でうごめいている醜い胎子のことだったのだ。お前は己の心を邪婬の爪で、ずたずたに引きさいてしまったのだな――
     第五段

この時三つのすがたに分ち、顕われたる鬼女清姫、いずこより登りしともなく鐘楼にあらわる。
はなはだしき面色の蒼白は、赤き唇と小さき眼とのみありて、ほとんどなめらかなるがごとく見え、その形打ちひしがれたる蛇の首のごとく平たし。三つの鬼女全く同じ形相にて並びつくばいたれば、左の肩よりいと長きくろ髪、石段の上に流れ横たわる。依志子のものいうをながめてあれど、妙念もこれをそびらにしたれば知ることなし。
依志子 妙念様、そうではございませぬ、もう最期いまわに私も、物のまことを申しとうございます、私は――私は――
語終らざるに怪しく叫びてついに昏倒こんとうす。
鬼女つくばいたるままに身を退けば、黒き髪のたうちのぼりてともにかくる。妙念は鬼女の顕われしころより再び※然そうぜん[#「りっしんべん+曹」、37-上-1]としてたましいうつけ、依志子が最後の悶叫もんきょうをも耳に入らざるさまにて、まなこのいろえりたるがごとく、(観客の正面定まりなきあたりにえて)たたずみてあり。風の音いよいよはげしく、このころよりかすかなるあか色ようように月夜の空ににじみ来たる。
ややありて最前の僧徒三人、上手の坂路より逃げまどえる哀れなる獣等のごとく走せ上り、依志子のたおれたるを見さらに驚けるさまなりしがおびえたる姿にて妙念の上手に立ち――
妙信 和尚様、大事でございます。怪しいむらがお山を取り巻いて参りました。
妙海 風の勢いがはげしいので燃え上って来るのはすぐでございます、本門のところでも、山下の方にめらめらとほのおが見えたと思いますうち、もう眼の前の空が真赤に映って来たのでございます。
妙信 所詮しょせんかなわぬまでも裏山の滝津の中へ身をひそめているより道はございませぬ、和尚様。大事でございます。
妙海 (いよいよいら立ちて)あのすさまじい風の勢いが、山上さんじょう山下さんげから焔の波を渦まき返してあおり立てるのでございます。ほんとに手間を取ってはいられませぬ。あ、もうこんなに火の粉が飛んで参りました。
妙信 和尚様、どうなされたのでございます。そのうちには滝津まで降りる道さえふさがれてしまいます。和尚様。
妙源 や、あの音は、(上手の路の方に走りてさしのぞき)もうあすこの大杉まで焼き倒れたのだ。血のしぶくように火の粉をちらした煙が渦をまいて、うめきながら湧きのぼってくるわ。恐ろしい火の色が、まっ黒な木の間に姿をかくすかと思うと、もう破りさくようにおどり出してわきへ追いかけて行く、ここから見ていると山中の木々が、泣きよばって逃げまどいながら、血煙の中に仆れるようだ。(僧徒らを顧みあららかに)だがみんなどうしようというのだ。こんなところにぐずぐずして生きながら灰になるのをまっているのかい。
妙信 和尚様、ほんとにどうなされたのでございます。このようなところにおいでになっては――
妙源 妙信――
妙信と妙海とは、最前より同じき姿を保ちて佇立ちょりつせる妙念の方を顧みつつも、妙源の後につづきて鐘楼を左折し去る。次第に赤き煙、濃くなりまさりて場にみなぎる。ただ、血に彩らるることなくして蒼白く残りたりし妙念の面にも、かの仆れたる女人のしかばねにも赤きいろはむさぼるがごとくにじみつつ来るなり。
妙念 (怪体けたいなる微笑を浮べつつ声調きわめてゆるやかに)だんだん赤くなって来た。依志子、もう一度眼をあけて見ないか。血の粉を撒いたような霧が、谷の底から這い上って、珍らしい夜明けが来たようだ。空の胸まで薄皮を剥がれた肌のように生赤く、朝の風に苦しい息をついておるわ。依志子。(はじめて女体をさしのぞきて)もう一度眼をあけて見ないか、お前の顔にも赤い色がにじんで、小さな耳が、水に濡れた貝殻のように、透き通って見えて来た。依志子。(女体の傍にくずおれて這いつくばい)依志子、なぜその眼をあけないのだ、お前は死んだもののように黙っている、己たちはまだこんな夜明けを見たことがなかったのだ。(つくばいたるままにあたりを見廻して)ほんとに赤く、(すでに幕下り始む)見ているうちにだんだん赤くなって行く――
幕下りて鐘楼の欄をおおわんとする時、再び悪鬼の三女あらわれたるがごとく、その面はすでに見るよしなけれど、黒き髪石段の上にのさばり落つ。
幕は(能うべくば華美ならざるを用いたし)妙念がもの言いて後、おもむろに閉じ終る。
――終焉しゅうえん――

底本:「日本の文学 78 名作集(二)」中央公論社
   1970(昭和45)年8月5日初版発行
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2005年11月23日作成
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