西洋では五月に林檎りんごやリラの花が咲き乱れて一年中でいちばん美しい自然の姿が見られる地方が多いようである。しかし日本も東京辺では四月末から五月初めへかけて色々な花が一と通り咲いてしまって次の季節の花のシーズンに移るまでの間にちょっとした中休みの期間があるような気がする。少なくも自分の家の植物界ではそういうことになっているようである。
 四月も末近く、紫木蓮しもくれんの花弁の居住いが何となくだらしがなくなると同時にはじめ目立たなかった青葉の方が次第に威勢がよくなって来るとその隣の赤椿の朝々の落花の数が多くなり、蘇枋すおうの花房の枝の先に若葉がちょぼちょぼと散点して見え出す。すると霧島つつじが二、三日の間に爆発的に咲き揃う。少しおくれて、それまでは藤棚から干からびた何かの小動物の尻尾のように垂れていた花房が急に伸び開き簇生そうせいしたつぼみが破れてあでやかな紫の雲を棚引かせる。そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついでに柔らかい銀杏いちょうの若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に、穏やかにしめやかな雨がおとずれて来ると花も若葉も急に蘇生したように光彩を増して、人間の頭の中までも一時に洗われたように清々すがすがしくなる。そういう時に軒の雨垂れを聞きながら静かに浴槽にひたっている心持は、およそ他に比較するもののない閑寂で爽快なものである。そういう日が年のうちに一日あることもあり、ないこともあるような気がする。そうだとすると生命のあるうちにそういう稀有な日を出来るだけしみじみと味わっておかなければならない訳である。
 若かった時分には四月から五月にかけての若葉時が年中でいちばんいやな時候であった。理由のない不安と憂鬱の雰囲気のようなものが菖蒲や牡丹の花弁からかもされ、鯉幟こいのぼりの翻る青葉の空に流れたなびくような気がしたものである。その代り秋風が立ち始めてきびの葉がかさかさ音を立てるころになると世の中が急に頼もしく明るくなる。従って一概に秋を悲しいものときめてしまった昔の歌人などの気持が自分にはさっぱり呑みこめなかったのであった。それが年を取るうちにいつの間にか自分の季節的情感がまるで反対になって、このごろでは初夏の若葉時が年中でいちばん気持のいい、勉強にも遊楽にも快適な季節になって来たようである。
 この著しい「転向」の原因は主に生理的なものらしい。試みに自分のあやしげな素人生理学の知識を基礎にして臆説を立ててみるとおおよそ次のようなことではないかと思う。
 われわれが格別の具体的事由なしに憂鬱になったり快活になったりする心情ムードの変化はある特殊の内分泌ホルモンの分泌量に支配されるものではないかと思われる。それが過剰になると憂鬱になったり感傷的になったり怒りっぽくなったりするし、また、過少になると意気銷沈しょうちんした不感アパシーの状態になるのでないかと思われる。そこで分泌が過剰でもなく過少でもない中間のある適当な段階のある範囲内にあるときが生理的に最も健全な状態で、そういう時に最も快適な平衡のとれた心情の動きを享有することが出来るのだと仮定する。
 一方でまたこの分泌には一年を週期とする季節的変化があって、その最高マキシマムが晩春、最低ミニマムが初秋のころにあると仮定する。それからまたその週期的な波の「平均水準」が人々によって色々違うのみならず、同一個人でも健康状態によりまた年齢により色々ちがうものとする。さらにまたその平均水準の上下に昇降する週期的変化の「振幅アンプリチュード」がやはり人によって色々の差があり、ある人は春秋の差がそれほど大きくないのに、ある人はそれが割合に大きいという風な変異ヴェリエーションがあるものとする。
 数式で書き現わすと、この問題の分泌量Hがざっと H = H0 + A sin nt のような形で書き現わされその平均水準のH0[#「H0」は縦中横]と振幅Aとが各個人の各年齢で色々になる量だとする。そこで今いちばん適当なHの量を仮にKだとすると、上式をKに等しいと置いたときにその式を満足するような時間tに相当する時季がその人のいちばん気持のいいときになる勘定である。
 もしも H0 - A がKより大きいような人ならばその人は年中怒りっぽくまた憂鬱になりやすいし、また H0 + A がKより小さい人は年中元気がなく悄気しょげていることになる。この仮説を応用して自分の場合に当てはめてみると若い時分にはH0[#「H0」は縦中横]もAも相当大きくてしかも H0 - A がほぼKに等しかった、しかし年を取ってある時期以後H0[#「H0」は縦中横]が著しく減って H0 + A = K に近くなったという風に解釈すると一応の説明がつきそうである。もっともH0[#「H0」は縦中横]がだんだんに減って来たとすると、中年ごろに一度 H0 = K' 換言すれば夏と冬とがちょうど快適だという時期があったとしなければ勘定が合わぬことになるが、しかし実際は上のような簡単な式ですべてが現わされるはずはないので、例えば過剰や過少が寒暖の急な変り目だけに起り、そういう時期だけにそれが有効に心情を支配するのだとすれば、それでも一応はこの困難が避けられるであろうと思われる。
 この素人学説はたぶん全然間違っているか、あるいはことによると、もう既にこれといくらか似た形でよく知られていることかもしれない。しかし自分がここでこんなことを書きならべたのは別にそうした学説を唱えるためでも何でもないので、ただここでいったような季節的気候的環境の変化に伴う生理的変化の効果が人間の精神的作用にかなり重大な影響を及ぼすことがあると思われるのに、そういう可能性を自覚しないばかりに、客観的には同じ環境が主観的にある時は限りなく悲観されたり、またある時は他愛もなく楽観されたりするのを、うっかり思い違えて、本当に世界が暗くなったり明るくなったりするかのように思い詰めてしまって、つい三原山へ行きたくなりまた反対に有頂天うちょうてんになったりする、そういう場合に、前述のごとき馬鹿げた数式でもひねくってみることが少なくも一つの有効な鎮静剤の役目をつとめることになりはしないかと思うので、そういう鎮静剤を一部の読者に紹介したいと思ったまでのことである。
 兼好法師の時代にはもちろん生理学などというものはなかったが、あの『徒然草』第十九段を見ると「青葉になりゆくまで、よろづにたゞ心をのみなやます」とか、また「若葉の梢涼しげに茂りゆく程こそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと、人のおほせられしこそ、げにさるものなれ」などといっているところを見ると、この法師もその当時は H0 - A = K の仲間ではなかったかと想像されて可笑しい。それに引きかえて『枕草子』に現われて来る清少納言の方はひどく健康がよくてAが小さくH0[#「H0」は縦中横]がいつもKに近いという型の婦人であったように見えるのである。
『徒然草』の「あやめふく頃」で思い出すのはベルリンに住んではじめての聖霊降臨祭プフィングステンの日に近所の家々の入口の軒に白樺の折枝を挿すのを見て、不思議なことだと思って二、三の人に聞いてみたが、どうした由来によるものか分らなかった。ただ何となく軒端に菖蒲を葺いた郷国の古俗を想い浮べて、何かしら東西両洋をつなぐ縁の糸のようなものを想像したのであったが、後にまたウィーンの歳の暮に寺の広場で門松かどまつによく似たもみの枝を売る歳の市の光景を見て、同じような空想をたくましゅうしたこともあった。こんな習俗ももとは何かしら人間の本能的生活に密接な関係のある年中行事から起ったものであろうと思うが、形式だけが生残って内容の原始的人間生活の匂いは永久に消えてしまい忘れられてしまったのであろう。
早苗さなえとる頃」で想い出すのは子供の頃に見た郷里の氏神の神田の田植の光景である。このときの晴れの早乙女さおとめには村中の娘達が揃いの紺の着物に赤帯、赤だすきで出る。それを見物に行く町の若い衆達のうちには不思議な嗜被虐性変態趣味をもった仲間が交じっていたようである。というのは、昔からの国の習俗で、この日の神聖な早乙女に近よってからかったりする者は彼女達の包囲を受けて頭から着物から泥を塗られ浴びせられても決して苦情はいわれないことになっていたのである。
 そういう恐ろしい刑罰の危険を冒して彼女らを「テガイニイク」(からかいに行く)という冒険には相当な誘惑を感じる若者も多かったであろうが、中にはわざわざ彼女達につかまって田の泥を塗られることの快感を享楽するために出かける人もあるという話を聞いたことがあったようである。
 一度実際に泥を塗られている場面を見たことがある。その時の犠牲は三十恰好の商人風の男で、なんでも茶がかったあわせの着流しに兵児帯へこおびをしめていたように思う。それが下駄を片手にぶらさげて跣足はだしで田のあぜを逃げ廻るのを、村のアマゾン達が巧妙な戦陣を張ってあらゆるみちを遮断しながらだんだんに十六むさしの罫線のような畦を伝って攻め寄せて行った。その後から年とった女達がくわの上に泥を引っかけたのをげて弾薬補給の役目をつとめるためについて行くのである。とうとうつかまって顔といわず着物といわずべとべとの腐泥ふでいを塗られてげらげら笑っている三十男の意気地なさをまざまざと眼底に刻みつけられたのは、誠に得難い教訓であった。維新前の話であるが、通りがかりの武士が早乙女に泥を塗られたのを怒ってその場で相手を斬殺した事件があって、それを種に仕組んだ芝居が町の劇場で上演されたこともあったようである。
 これらの泥塗事件も唯物論的に見ると、みんな結局は内分泌に関係のある生化学的問題に帰納されるのかもしれない。そういえば、春過ぎて若葉の茂るのも、初鰹の味の乗って来るのも山時鳥やまほととぎすの啼き渡るのもみんなそれぞれ色々な生化学の問題とどこかでつながっているようである。しかしたとえこれに関して科学者がどんな研究をしようとも、いかなる学説を立てようとも、青葉の美しさ、鰹のうまさには変りはなく、時鳥の声の喚び起す詩趣にもなんら別状はないはずであるが、それにかかわらずもしや現代が一世紀昔のように「学問」というものの意義の全然理解されない世の中であったとしたら、このような科学的五月観などはうっかり口にすることをはばからなければならなかったかもしれないのである。そういう気兼ねのいらないのは誠に二十世紀の有難さであろうと思われる。
(昭和十年五月『大阪朝日新聞』)

底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
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