螢來い山吹來い、
彼方の水は苦いな、
此方の水は甘いな、
といふ呼聲が闇の中から、賑に、併し何となく物靜に聞える。彼方の水は苦いな、
此方の水は甘いな、
丁度自分が、お祖父樣や父樣や母樣や姉樣と一所に、夕餐の團欒の最中に、此の聲が起るのだから耐らない。自分は急いで夕餐を濟まして、箸を投出すと直に、螢籠をぶらさげて、ぷいと家を飛出すのであツた。空が瑠璃のやうに奇麗に晴渡ツて、星が降るやうに煌いている晩に、螢を追駈廻してゐるのは、何樣なに愉快な事であツたらう。一體螢といふ蟲は、露を吸ツて生きて居るやうな蟲だから、性質が温順で捕へ易い。のんきなもので、敵が直ぐ頭の上に窺ツてゐるとも知らないで、ぴかり、ぴかり、體を光らしながら、草の葉裏で一生懸命に露を吸ツてゐる。其處のところを密と赤手で捕へて呉れる…… 暖い手で、握ツて遣ツても、濟アして掌を這ツてゐる奴を螢籠の中へ入れる…… 恰ど獄屋へ抛込まれたやうなものだが、些ともそれには頓着しない。相變らずぴかり、ぴかり體を光らしてゐる。それからまたふうわ、ふうわ飛んで來るのを眞ツ暗な中に待伏してゐて笹の葉か何んかで叩き落す。不意打を喰はせて俘にするのだが、後[#「後」は底本では「彼」]の連中は先へ來てゐる自分の仲間が此樣な災難に逢ツてゐるとは知らない。で、後から後から飛んで來るのを、片ツ端から叩落して、螢籠の中へ入れる。此の面白味忘れられぬから、螢狩は自分に取ツて、最も興味ある遊びの一つであツた。
興味があるから、つい家から遠く離れて、歸途には往々とんだ怖ろしい思をする事もある。けれども螢に浮されて、半分は夢中になツてゐるのだから家の遠くなる事などは氣が付かう筈が無い。恰ど智慧の足りない將軍が勝に乗じて敵を長追するようなものでつい深入する。そして思も掛けぬ酷目な目に逢はされる事もあツた。例へば夜更けてから澤山の獲物を持ツて獨で闇い路を歸ツて來ると、不意に行方から、人魂が長く尾を曳いて飛出したり、または那のかはうそといふ奴が突然恐ろしい水音をさせて川に飛込むだり、又或は何處かの家で鷄の夜啼をするのが淋しく聞えたり、それから又、何者だか解らないが、見上げるやうな大きな漢子が足音もさせないで、のそり/\闇の中から現はれて來てかき消すやうに物影に隱れて了ツたり、謂ツて見れば單純な何んでも無いやうな事柄だけれども、子供心には非常に薄氣味の惡い、其の度に、胸がどきりツとするやうな事が妄とあツた。また偶時には、うツかり足を踏滑らして、川へ陥り田へ轉げ、濡鼠のやうになツて歸ツた事もあツたが、中々其樣な事に懲はしない。自分は、螢の頃にさへなると、毎晩水の郷をうろついて夜を更かしてゐた。
そこで自分は、此の螢狩に就いて一つの談を持ツてゐる。それは不思議な事柄として、永い間……大人になツても尚だ譯の解らぬ疑となツてゐたので。前にも謂ツた通り、螢の出る季節にさへなると、自分は毎夜螢狩に出掛けて、必ず百匹位ゐ螢を捕へて來た。ところが此の螢が一匹として、一晩と螢籠の中にゐて呉れなかツた。次の朝までには皆何處へか消えて了ツて、螢籠の中には草の葉だけが殘ツてゐて、其の骸さへ無かツた。
「何うも不思議だ」
自分は、此樣な不思議な事は無いと思ツてゐた。
「何うなツて了うのだらう、豈夫消えて了うのでも無からうけれども、何處へ行くんだらう。逃げるツたツて、逃口が閉いであるのだから、其樣な事は無い筈だ。」
と思ツて種々と考へて見たけれども、何うも解らなかツた。それで、
「螢といふ蟲は、籠の中へ入れて置くと、溶けて了うのかしら?」
とも思ツてゐた。何しろ前の晩には一生懸命になツて捕へて來たのだから、朝眼が覺めると直ちに螢籠の中を檢べて見たが、何時の朝だツて一匹もゐた事が無い。で、隨分がツかりもした。けれども捕へる時の愉快な味が忘れられなかツたので、骨折損も充らないもあツたもので無い。自分は毎夜のやうに、螢征伐に出掛けた。
或る晩の事、自分は相變らず、密と家を脱出して、門の外まで出ると、
「おい、新一や、新一ぢゃないか。」
と呼止める人がある。不意だツたから、自分はびツくりして、
「だアれ……」と闇を透して見てゐると、
「私さ。」と確にお祖父樣の聲である。
「あツ……お祖父樣。」
「然うだ、お前、何處へ行くんか。」
豈夫に螢狩とにも謂へぬから、どぎまぎしてゐると、
「何か、また螢を捕へに行くんぢゃな。」
的中星を指されて、自分は忸怩しながら、默ツて垂頭いてゐた。
お祖父樣は被蔽せて、「それなら、もう止せ、止せ! 幾ら捕へて來たツて、螢といふ奴は、露を吸ツて生きてゐる蟲だから、明の朝日が出ると、みんな消えて了うのだ。」
此うまで謂はれては、自分は默ツてゐる譯に行かない。で、
「いゝえ、お祖父樣、私は螢を捕へに行くのでは無いのです。つい其處まで…… あの、お隣家の太一さんの許まで行くのです。」
「嘘を吐け! ハ……。」とお祖父樣は、さも面白さうに、併し何か底に意味があるやうに笑ツて、
「其樣な嘘を吐くもんぢやない。お祖樣は能く知ツてゐるぞ。其の螢籠は何んだ、」失敗ツた! 自分は螢籠を片手にぶらさげてゐた。此うなツてはもう爲方が無い。逃げるより他に術が無いから、後の事なんか考へてゐる暇が無い。自分は些との隙を見て後をも見ずにすたこら駈出した。
大約三四町も駈通して、もう大丈夫だらうと思ツて、自分は立停ツて吻と一息した。後を振向いて見ても誰も來る模樣が無い。そこで安心して、徐々仕事の支度に取懸ると、其處らには盛に螢を呼ぶ聲が聞える。其の聲を聞くと、急に氣が勇むで來て、愉快で耐らない。それに四方の景色も好かツた。五日ばかりの月も落ちて了ツて、四方が急に眞ツ暗になると、いや螢の光ること飛んで來ること! 其の晩は取分け螢の出やうが多かツたやうに思はれた。蛙も、元氣能く聲を揃へて啼いてゐる、面白いに取紛れて、自分は夢中で螢を追駈廻してゐた。
自分は何の位其處らを駈ずり廻ツたか、また何の道を何うして來たか知らぬが、兎に角もう螢籠には、螢が、恰ど寶玉のやうに鮮麗な光を放ツてゐる。體も大分疲れて來たから、ふと氣が付いて其處らを見廻すと、夜も大分更けてゐた。村の方を見ても、灯の光も見えなければ、仲間の者が螢を呼ぶ聲も聞えない。自分は何時か獨になツて了ツて闇の中に取殘されてゐたのであツた。
「おや、また深入して了ツた。」
と、はツと思ツて驚いたツて始まらない。また淋しい思をして歸る事かと思ふと、意久地無く、たゞ心細くなツて來る。
「あゝ! 心細い。」
何方を向いたツて、人の影が一つ見えるのではない。何處までも眞ツ暗で、其の中に其處らの流の音が、夜の秘事を私語いてゐるばかり。空は爽に晴渡ツて、星が、何かの眼のやうに、ちろり、ちろり瞬をしてをる。もう村の若衆等が、夜遊の歸途の放歌すら聞えない。螢も急に少くなツて、偶時に飛んで來る其も、何か光が薄くなツたやうに思はれる。
此樣な時に、もし家から誰か迎に來て呉れたら、自分は何樣なに悦しかツたか知れぬ。併し其樣な事を幾ら考へてゐたツて無駄だ。到底其の望は無いから、自分は淋しいやうな怖いやうな妙な心地で、斷えずびくつきながら、悄々とお家の方へ足を向けた。心はもう臆病風に取ツかれてゐるので道端の草が、ザワザワと謂ツても自分はひやりツとして縮上る。然うするとまた、薄氣味の惡い事ばかりが、心に浮んでならない。落着いて歩いてゐられなくツて、とう/\すたこら駈出して、一散に走ツて行くと、幾ら行ツても村道へ出ない。此うなると、狼狽る、慌てる、確に半分は夢中になツて、躓くやら轉ぶやらといふ鹽梅で、たゞ妄と先を急いだが、さて何うしても村道へ出ない。幾ら考へたツてもう血迷ツてゐるのだから、確な事が考へられる筈が無い。自分は愈々解らない道へ踏込むで了ツた。
「狐に、魅されたのぢやないか。」
と考へると、心細くなツて、泣出したくなる。徑が恰ど蜘蛛の巣のやうになツてゐて、橋が妄とある土地だから、何んでも橋も渡り違へたのか、徑を曲損ねたか、此の二つに違なかツたのだが、其の時は然うは思はず、頭から狐に魅されたと思込むで了ツて、自分は氣を確に持ツた積で、ただ無茶苦茶に歩いた。めくら滅法に先を急いだ。
それでも時々、突ツ立つては方角を考へ、目標を考へながら歩いたけれども、何うしても何時も歸る道とは違ツて居た。
其のうちにだん/\と空が狹くなツて來て、左を向いても、右を向いて見ても、山の影が、黒くうぬ/\としてゐる。自分は谷間のやうな處を歩いてゐるやうになツた。それと氣が付くと、
「おや、おや、變な處へ來たぜ。此處は何處だらう、何處へ來ちやツたんだらう。」
固より星光だから能くは解らぬが、後の方へ振向いて見ても、矢張黒い山影が見える。自分は愈々弱ツて了ツた、先へ進むで可いのか、後へ引返して可いのか、それすら解らなくなツて了ツた。もう喚いても泣いても追付きはしない。
何處かの森で梟の啼いてゐる。それが谷間に反響して、恰どやまびこのやうに聞える。さて立ツてゐても爲方が無いから、後へ引返す積りで、ぼつ/\歩き始めたが方角とても確と解ツてゐなかツた。其の氣の揉めること情ないことゝ謂ツたら無い。
薄氣味惡くはある、淋しくはある、足は疲れて來る、眠くはある。加之お腹まで空いて來るといふのだから、それで自分が何樣なに困りきツたかといふ事が解る。何うかすると自分の履いてゐる草履がペツタ/\いふのに、飛上るやうに吃驚して冷汗を出しながら、足の續く限り早足に歩いた。
もし間違ツたら、終夜歩いてゐる事に覺悟を定てゐたが、たゞ定て見たゞけの事で、中々心から其樣な勇氣の出やう筈が無い。其の間にだん/\氣が茫乎して來て、半分は眠りながらうと/\して歩いてゐた。そして幾箇の橋を渡ツて幾度道を回ツたか知らぬが、ふいに、石か何かに躓いて、よろ/\として、危く轉びさうになるのを、辛而踏止ツたが、それですツかり眼が覺めて了ツた。見ると今までの處とは、處が、がらり變ツてゐた。
「全體、此處は何處であらう。」
何處だか解らぬが今まで來た覺の無い處といふだけは解ツてゐた。何うしたのか不思議や、其處らが薄月夜の晩のやうに明るい。今まで眞ツ暗であツたのに不思議に明るい。豈夫星光ではあるまいと思ツて見てゐると、確に星光では無い。螢の光だ。
「大變な螢だ。」
と思はず知らず叫んで、びツくりしたといふよりは、呆れ返ツて見てゐると無量幾千萬の螢が、鞠のやうにかたまツて飛違ツてゐる。それに此處の螢は普通の螢の二倍の大きさがある。それで螢の光で其處らが薄月夜のやうに明いのであツた。餘り其處らが明いので、自分は始、夢を見てゐるのでは無いかと思ツた。餘り其處らが奇麗なので、自分は始、狐に魅されてゐるのでは無いかと思ツたけれども自分は、夢を見てゐるのでも無ければ狐に魅されてゐるのでも無い。確に正氣で確に眼を覺まして、其の螢を眺めてゐた。餘り美しくて、餘り澤山ゐるので、頓と捕へて見やうといふ氣も起らない。自分はうツとりとして、螢に見惚れてゐると、
「おい、お前さんは、此處へ何しに來たのだ。」
と突如に後から肩を叩くものがある。びツくりして振返ると、夜目だから、能く判らぬが、脊の高い痩ツこけた白髮の老人が、のツそりと立ツてゐるのであツた。螢の薄光で、微に見える其の姿は、何樣なに薄氣味惡く見えたろう。眼は妙に爛ついてゐて、鼻は尖ツて、そして鬚は銀のやうに光ツて、胸頭を飾ツてゐた。
「お前さんは誰です。」と、自分は、おツかなびツくらで訊ねた。
「私かえ、私はの、年を老ツた人さ。」と、底意地の惡さうな返事をして、自分の頭を撫て呉れる。其の聲は確に何處かで聞いたことのあるやうな聲だ。
自分は首を傾げて考へて見た。直ぐ足下には、小川が流れてゐたが、水面には螢の影が、入亂れて映つてゐる。
「おゝ! 奇麗だ。」
と自分は熟と流を見詰めると、螢の影は恰で流れるやうだ。
「何うだ、奇麗だらう。」と白髮の老人はさも自慢さうにいふ。何うも、其の聲は聞覺があるやうに思はれてならない。併し何うしても、誰の聲であつたか解らなかった。何處かで梟が啼出した。自分はぞつとしながら、
「此處は何んといふ處なんでせう。」
「此處かえ。」と老人は、洒嗄れた、重くるしい聲で、「此處はの、螢が多いから、螢谷といふ處だ。」
「えつ、螢谷ですつて?」
螢谷と聞いて、自分は顫上つた。そして逃支度をしながら、
「さ、大變だ!大變だと泣聲になつて、騒立てる。
螢谷といふのは、自分の村を流れてゐる川といふ川の水源で、誰も知らぬ者の無い魔所であつて、何が棲むでゐるのか、昔から其を知ツてゐる者が無いが、たゞ魔の者がゐると謂つて夜になると誰も來ない事になつてゐた。固より其の邊に家と謂つては無い、谷も行窮つてゐて、其の谷の凹に少しばかりの山畑があるばかり、夜は何處を見ても松林と杉林ばかりである。自分の村から二里もあるのだから、
「私は何うして、此樣な處へ來たのだらう。」
と不思議でならない。それよりはまだ、此樣な處で、白髮の老人に逢つたのが、更に不思議でならない。雖然何んとなく物靜な、しんめりとした景色の中に、流の音が、ちよろ/\と響いてゐて、數の知れぬ螢が飛んでゐるところは實に幽邃であつた。それに何んの芬だか解りませぬが、好い芬が其處ら一杯に芬つているので、自分は螢谷には、魔の者が棲むでゐるのでは無く、仙人が棲むでゐるのでは無いかと思つてゐた。
私は、薄氣味の惡いのも、怖いのも忘れて、美しい景色に心を引付けられて、
「奇麗な處だ!」と感歎しながら茫然していると、
「ぢや家へ歸らなくツても可いか。」
自分は急に悲しくなツて、「僕、家へ歸りたくツて爲樣が無いんです。」
「でも、私が、お前が螢を挿へるやうにお前を捕へて了ツたら何うする。」
「え、私を捕へるんですツて?」と自分は泣聲になツた。
老人は突出して「捕へられるのは嫌か。ぢや螢を放して了ひなさい。」
自分は命令通、直に螢を放して遣ツた。老人は悦んで、「それで可い、それで可い。では、私が、お前の家まで送ツて行ツて進げやう。だが、お前は、大分疲れてゐるやうだ。私が背負ツて行ツて進げる。」
自分は疲れてはゐるし、第一眠くてならなかツたから、遠慮をしないで、早速老人の肩へ兩手を掛けると、老人はえんやらツと立起ツて、ぽツくりぽツくり歩き出した。自分は體を搖られるので、何んとも謂へぬ好い心地になツて、うと/\と眠ツて了ツた。そして何時の間に家へ歸ツたのか、翌朝眼を覺して見ると、不思議や自分は何時もの室で安に寢てゐた。
* * * * *
これは夢であツたらうか。自分は其後も、幾度か螢谷といふ處へ行ツて見やうと思ツたけれども遂々行かれなかツた。否、行かなかツたのでは無い、行ツても見當らなかツたのだ。抑、彼の老人は何者であツたらう。之れは、永い間自分にも解らなかツた。併し自分がもう大人になツてから、其老人は自分の祖父樣であツた事が解ツた。