一

 伊藤喜兵衛いとうきへえは孫娘のおうめれて、浅草あさくさ観音の額堂がくどうそばを歩いていた。其の一行にはお梅の乳母のおまき医師坊主いしゃぼうず尾扇びせんが加わっていた。喜兵衛はお梅を見た。
「どうじゃ、お梅、今日はだいぶ気あいがよさそうなが、それでも、あまり歩いてはよろしくない、駕籠かごなと申しつけようか」
「いえ、いえ、わたしは、やっぱりこれがよろしゅうございます」
 お梅はじぶんの家の隣に住んでいる民谷伊右衛門たみやいえもんと云う浪人に思いを寄せて病気になっているところであった。其の伊右衛門は同じ家中かちゅう四谷左門よつやさもんの娘のおいわとなれあいで同棲いっしょになっていたが、主家の金を横領したので、お岩が妊娠しているにもかかわらず、左門のために二人の仲をさかれていた。乳母のお槇はお梅の母親のおゆみから楊枝ようじを買うことを云いつけられていた。
「お楊枝を買うことを忘れておりました、お慰みに御覧あそばしませぬか」
 お槇はお梅をはじめ一行を誘って楊枝店へ往った。楊枝店には前日から雇われている四谷左門の養女のおそで浴衣ゆかたを着て楊枝を削っていた。喜兵衛が声をかけた。
「これこれ、女子おなご、いろいろ取り揃えて、これへ出せ」
 お袖は知らぬ顔をしていた。喜兵衛はしゃくにさわった。
「此の女めは、何をうっかりしておる、早く出さぬか」
 お袖がやっと顔をあげた。
「あなたは、高野こうや御家中ごかちゅうでござりますね」
「さようじゃ」
「それなれば、売られませぬ」
「なんじゃと」
御意ぎょいにいらぬ其の時には、どのようなたたりがあるかも知れませぬ、他でお求めになるがよろしゅうございます」
 尾扇が喜兵衛の後からぬっと出た。
「こいつ出すぎた女め、そのままにはさしおかぬぞ」
 傍へ来ていた藤八五文とうはちごもんの薬売の直助なおすけが中に入った。
「まあ、まあ、どうしたものだ、そんな愛嬌あいきょうのない」それから尾扇に、「これは昨日雇われたばかりで、楊枝の値段もろくに判らねえ女でございます、どうかお気にささえないで」
 喜兵衛は尾扇をおさえた。
「打っちゃって置くがいい、参詣のさまたげになる」
 喜兵衛はお梅たちをうながして往ってしまった。直助は其の後でお袖にからんだ。
「お袖さん、大事の体じゃないか、つまらんことを云ってはならんよ。それにしても考えてみれば、四谷左門の娘御が、楊枝店の雇女になるなんどは、これも時世時節ときよじせつあきらめるか。申しお袖さん、おめえもまんざら知らぬこともあるまい、いっそおれの情婦いろになり女房になり、なってくれる気はないか」
 直助はお袖に寄りそうた。お袖はむっとした。
奥田将監おくだしょうげんさまは、わたしの父の左門と同じ格式、其の将監さまの小厮こものであったおまえが、わたしをとらえて、なんと云うことだ、ああ嫌らしい」
「おまえだって、こんな処へ来る世の中じゃないか、そんな事を云うものじゃねえやな」
 直助はお袖の肩へ手をかけた。
「ええもう知らないよ」
 お袖は其の手をりはなして引込んで往った。直助は苦笑した。
「あんなに強情な女もないものだ」

       二

 宅悦たくえつの家では、藤八五文の直助が、奥まったへやでいらいらしていた。直助はお袖の朋輩から、お袖が宅悦の家で地獄かせぎをしていると云うことを聞いて、金で自由にできることならと思って来ているところであった。其処には行燈あんどんはあるが、上から風呂敷をかけてあるので、室の中は真暗であった。
「ぜんたい、どうしたのだ」
 其処へお袖が入ってきた。
「おう来たのか、来たのか」
 お袖は手さぐりで直助の傍へ寄って往った。
「待ちかねたよ、お袖さん」
「え」
 お袖は其処ではおもんと云うことにしていたので驚いた。
「驚くこたあねえよ、おれだよ」
 お袖は其の声で初めて直助と云うことを知った。
「まあおまえは」
 お袖はいきなりって障子を開けて逃げた。直助は追っかけた。
「まあ、まあ、お袖さん」
 直助はお袖のたもとをつかんだ。お袖はもう逃げられなかった。
「なんぼなんでもおまえと此の顔が」
「逢わされねえのはもっともだが、お袖さん、おまえは孝行だのう」
 お袖は袂で顔をおおって何も云わなかった。
「まあ坐るがいい、おめえがこんな商売をするのも、みんな親のためだ、おれは何もかも知っている」
「は、はい」
「だからさ、おれの云うことを聞いて、今日かぎり、きれえさっぱりと足を洗ったらどうだ。こんなことが親御に知れたら、昔かたぎの左門さまじゃ」
「わたしも、それが」
「そうだろうとも」懐の紙入から金を出して、「まあ、此の金で、左門さまにあわせでも買ってせるがいい」
 お袖は直助の顔をしみじみと見た。
「すみません」
「なに、そんな遠慮はいらねえ、そのかわり、彼方あっちへ往って、ゆっくり話そう」
「でも、そればっかりは」
「いいじゃねえか、いつまでもそうつれなくするものじゃない」
 直助はお袖を引っぱるようにして室の中へ入った。其処へ宅悦の女房のおいろが顔を出した。
「お紋さん、ちょっと」
 お袖は困っているところであった。お袖はすぐ起って出て来た。
「なに、おばさん」
「お客さんだよ」
 お色はお袖を他の室へ伴れて往った。
「おとなしいお客さんだから、大事にしておやりよ」
 お色は其のまま往ってしまった。お袖はちょっと考えていたが、思いきって障子を開けて入った。
「お休みになりまして」
 客がもそりと体を動かした。
「一人で寝るくらいなら、こんな処へ来るものか、此方こっちへよんなよ」
 お袖は寄らなかった。
「お願いがございます」
「なんだ」
「わたしの家は、もと武家でございましたが、容子ようすあって父が浪人いたしまして」
 お袖は真実ほんとうそをごっちゃにして、客の同情に訴えて、関係しないで金をもらっていた。
「そう聞けば、気のどくだが、親のために花魁おいらんになる者もある。それとも許婚いいなずけでもあるのか」
「いえ、そう云うわけでも」
「そんなら何もいいじゃねえか」
 客の手がお袖に来た。
「あれ」
 お袖は思わず飛びのいた。其のはずみに行燈にかけてあった風呂敷がぱらりと落ちた。同時に二人が声をたてた。
「やあ、そちは女房」
「おまえは、与茂七よもしちさん」
 客はお袖の許婚の佐藤さとう与茂七であった。与茂七は主家が断絶して家中の者がちりぢりになった時、それにまじって姿をかくしているところであった。与茂七は火のようになった。
「これお袖、このざまはなんだ、男ほしさのいたずらか。あきれて物が云われねえ」
 お袖は口惜くやしそうに歯をくいしばった。
「そりゃ、あんまりむごい与茂七さん。おまえこそ、現在わたしと云う女房がありながら、こんな処へ来なさるとは」
 お袖には後暗いことはなかった。二人の心はすぐ解けあった。
 間もなく与茂七とお袖は宅悦の家から『藪のやぶのうち』と書いた提燈ちょうちんを借りて出て往った。其の時直助が出て二人の後を見送ってきっとなった。
「目あては提燈だ」

       三

 乞食こじきに化けて観音裏の田圃道たんぼみちを歩いていた庄三郎は、佐藤与茂七に逢って衣服を取りかえた。与茂七は宅悦の家で借りて来た提燈も庄三郎にやって、
「非人に提燈はいらぬもの、これも貴殿へ」
 と云って往ってしまった。庄三郎はじぶん風采なりを提燈ので見て、
「こんななりをしてて、仲間の乞食に見つかっては大変じゃ」
 庄三郎はそれから富士権現ふじごんげんの前へ往った。ほこらの影から頬冠ほおかむりした男がそっと出て来て、庄三郎にねらい寄り、手にしている出刃で横腹をえぐった。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」
 頬冠の男は直助であった。直助は『藪の内』と書いた提燈を目あてにしていたので、庄三郎を与茂七とのみ思いこんでいた。
「これでもか、これでもか」
 惨忍ざんにんな直助は庄三郎をりさいなんだ。
「これでいい、これでいい」
 直助は思いだして出刃を傍の垣根の中へ投げすてた。と、跫音あしおとがいりみだれて駈けだして来る者があった。直助はあわてて傍へ身を隠した。それは四谷左門と伊右衛門の二人が、斬りあいながら来たところであった。伊右衛門は途中で左門に逢ったので、お岩を返してくれと頼んだが、左門が承知しないので左門を殺そうとしていた。
「おのれ、老ぼれ」
「おのれ、悪人」
 左門は斬られて血みどろになっていた。伊右衛門が追いすがってまた一刀をあびせた。左門は倒れてしまった。伊右衛門はそれに止めをさした。
「強情ぬかした老ぼれめ、刀のさびは自業自得だ」
 其の時傍の闇から直助が顔を出した。
「そう云う声は、たしかに民谷さん」
 伊右衛門は直助の方をきっと見た。
「奥田の小厮こものの直助か、どうして此処へ」
 其の時向うの方で下駄の音がした。伊右衛門と直助は祠の後へ隠れた。下駄の音は近よって来た。それは糸盾いとだてを抱えた辻君つじぎみ姿のわかい女であった。
「こんな遅くまで、父さんは何をしていらっしゃることやら」
 小提燈をけた女が走って来たが、よほどあわてていると見えて、辻君姿の女にどたりと突きあたった。
「これは、どうも」
 小提燈の女は丁寧に頭をさげた。辻君姿の女は其の顔に眼をつけた。
「あ、おまえは妹」
 小提燈の女も対手あいてに眼をつけていた。
「あなたはあねさん」
 辻君姿の女はお岩で、小提燈の女はお袖であった。お岩は物乞に往っている父親の左門を、お袖は途中で別れた与茂七の後を追うて来たところであった。お袖はお岩のあさましい姿をはっきり見た。
「あなたは、まあ、あさましい、辻君などに」
 お岩はお袖の顔をきっと見た。
「おまえこそ、与茂七さんと云うれっきとした所天おっとがありながら、聞けば此のごろ、味な勤めとやらを」
「え、それは」
「これと云うのも貧がさすわざ、ととさんが二人に隠して、観音さまの地内で袖乞をしておられるから、わたしも辻君になってはおるものの、肌身までは汚しておらぬ」
「それはわたしも同じこと、恥かしい勤めはしても、肌身までは汚しませぬ。それにこんなことをしていたばかりに、今晩与茂七さんに逢うて、同伴いっしょに来る道で、与茂七さんにはぐれたから、それを探しに」
「わたしもととさんがあまり遅いから、それが気がかりで」
 其の時お岩は地べたで何か見つけた。
「おまえの傍に、それ血が」
 お袖は提燈をかざした。其のあかりでお岩は左門の死体、お袖は庄三郎の死体を見つけた。
「あ、たいへん、こりゃととさん」
「こりゃ与茂七さん」
 お岩は左門の死体に、お袖は与茂七の死体にすがりついて泣いた。祠の陰から此の容子を見ていた伊右衛門と直助が、わざとらしく跫音を大きくして出て来た。
「女の泣声がする、ただ事ではないぞ」伊右衛門はそう云いお岩の傍へ往って、「おまえは、お岩じゃないか」
 お岩は顔をあげた。
「あ、おまえは伊右衛門さん」
 直助はお袖の傍へ往った。
此方こっちにいるのはお袖さんか」
 お袖は泣きじゃくりしていた。
ととさんと同じ所で、此のように」
 お岩とお袖は悲しみのあまり自害しようとした。伊右衛門は芝居がかりであった。
「うろたえもの、今姉妹が自害して、親、所天おっとかたき何人たれが打つ」
 お岩はそこできっとなった。
「それでは、別れた夫婦仲みょうとなかでも、讐うちのたよりになってくださりますか」
 伊右衛門はお岩をじぶんものにできるので心でほくそ笑んだ。
「別れておっても、去り状はやってないから、やっぱり夫婦、舅殿しゅうとどのの讐も打たし、妹婿の讐も打たす」
 直助はお袖を云いくるめた。
「こうなるからは、是非ともおまえの力になる」

       四

 雑司ヶ谷ぞうしがやの民谷伊右衛門の家では、伊右衛門が内職の提燈を貼りながら按摩の宅悦と話していた。其の話はお岩のさんの手伝に雇入れた小平こへいと云う小厮こものが民谷家の家伝のソウセイキと云う薬をぬすんで逃げたことであった。其の時屏風びょうぶの中から手が鳴った。宅悦は腰をあげた。
「はい、はい、お薬でござりますか」
 宅悦が屏風の中へ入って往くと、伊右衛門は舌打ちした。
「此のなけなしの中へ、餓鬼がきまで産むとは気のきかねえ、これだから素人の女房は困る」
 宅悦は屏風の中から出て七輪へ薬の土瓶をかけてあおぎだした。伊右衛門はにがにがしい顔をした。
「お岩の薬か、生れ子の薬か」
「これは、お岩さまのでござります」
 其の時秋山長兵衛あきやまちょうべえが走るように入って来た。
「民谷氏、小平めをつかまえましたぞ、って逃げた薬は、これに」
「これはかたじけない」伊右衛門は貼りかけていた提燈を投げ棄てるようにして、長兵衛から小風呂敷の包みをもらい「して、小平めは」
 其処へ関口官蔵せきぐちかんぞう中間ちゅうげん伴助はんすけが、小平をぐるぐる巻きにして入って来た。宅悦は小平を口入した責任があった。
「てめえ故に、な、おれまでが、難儀しておるぞ」
 伊右衛門は惨忍なことを考えていた。小平ははらはらしていた。
「どうぞ、おゆるしなされてくださりませ」
「ならん、たわけめ、素首そっくびを打ち落とすやつだが、薬を取りかえしたことだし、それに、昨日立てかえた金をかえせば、生命いのちだけは助けてやるが、其のかわりてめえの指を、一本一本折るからそう思え」
 小平は身をふるわせた。
「旦那さま、お慈悲でござります、そればかりは、どうぞ」
 長兵衛がついと出た。
「やかましい」と怒鳴りつけて、それからみんなに、「さあ、猿轡さるぐつわをはめさっしゃい」
 官蔵、伴助、宅悦の三人は、長兵衛に促されて手拭で小平に猿轡をはめ、まずびんの毛を脱いた。其の時門口へお梅の乳母のお槇が、中間に酒樽さかだる重詰じゅうづめを持たして来た。
「お頼み申しましょう」
 伊右衛門はそれと見て、三人に云いつけて小平を壁厨おしいれへ投げこませ、そしらぬ顔をしてお槇を迎えた。
「さあ、どうか、これへこれへ。御近所におりながら、何時いつも御疎遠つかまつります、御主人にはおかわりなく」
「ありがとうござります、主人喜兵衛はじめ、後家ごけ弓とも、よろしく申しました。承わりますれば、御内室お岩さまが、お産がありましたとやら、お麁末そまつでござりますが」
 お槇はそこで贈物を前へ出した。伊右衛門はうやうやしかった。
「これは、これは、いつもながら御丁寧に、痛みいります、器物いれもの此方こちらよりお返しいたします」
「かしこまりました」それから懐中かいちゅうからちいさなきいろな紙で包んだ物を出して、「これは、てまえ隠居の家伝でござりまして、血の道の妙薬でござります、どうかお岩さまへ」
 伊右衛門はそれを取って戴いた。
「これはお心づけかたじけのう存ずる、それでは早速」と云って伴助を見て、「これ、てめえ、白湯さゆをしかけろ」
 其の時屏風の中で嬰児あかんぼの泣く声がした。お槇が耳をたてた。
「おお、ややさま、男の子でござりまするか」
 伊右衛門は頷いた。
「さようでござる」
「それはお芽出とうござります、それでは」
 お槇の一行が帰って往くと、長兵衛と官蔵がもう樽の口を開け、重詰を出して酒のしたくにかかった。伊右衛門はにんまりした。
「はて、せわしない手あいだのう」

       五

 伊右衛門は喜兵衛の家から帰って来た。伊右衛門は喜兵衛の家へ礼に往ったところで、たくさんの金を眼の前へ積まれて、一家の者から、
「ぜひともむこになってくれ」
 と云われたので、
「お岩と云う、れっきとした女房があり、それにこどもまであるから」
 と云って、ていさいのいいことを云った。するとお梅が帯の間から剃刀かみそりを出して自害しようとするので、驚いていると、今度は喜兵衛が、
「伊右衛門殿、わしを殺してくだされ」
 と云って、お梅の可愛さのあまり、伊右衛門とお岩の仲を割くために血の道の妙薬と云って、顔のかたちの変わる毒薬をお槇に持たせてやったと云った。
 伊右衛門はそこでお梅を女房にすることにして帰って来たところであった。伊右衛門は上へあがってお岩の寝ている蚊帳の傍へ往った。嬰児あかんぼに添乳をしていたお岩は気配を感じた。
「油を買ってきたの」
 お岩は伊右衛門の留守に、油を買いに往った宅悦が帰って来たのだと思った。伊右衛門は顔をさし出すようにした。
「おれだよ」
 お岩は其の声で伊右衛門だと云うことを知った。
「伊右衛門殿」
「うむ、今帰ったが、さっきの薬を飲んだか」
「はい、のお薬を服むと、其のまま熱が出て顔が痛うて」
「そうか、顔が」
「痺れるようでござりました」
 お岩はそう云いながら蚊帳の裾をめくって出て来た。伊右衛門は其の顔に注意した。お岩の顔は紫色にれあがっているうえに、左のまぶたが三日月形に突きつぶしたように垂れていた。それは二目と見られない物凄い顔であった。伊右衛門はさすがに驚いた。
「や、かわった、かわった」
 お岩はさっき宅悦がじぶんの顔を見て驚いたと同じように、伊右衛門が驚いたので不思議でたまらなかった。
「私の顔に、何か変わったことでも」
 伊右衛門はあわててそれをさえぎるようにした。
「な、なに、ちょっとの間に、おまえの顔色がよくなったから、やっぱりの薬がきいたと見える」
 お岩は何かしら不安であった。
「顔色がよくなっても、私はなんだか」と云いかけて、急にしんみりして、「もし私が死んでも、此の子のために当分後妻のちぞえをもたないように頼みます」
 お岩は醜くなった眼に涙を浮べた。伊右衛門はかんで吐き出すように云った。
「後妻か、そりゃ持つさ、一人でいられるものか。おまえが死んだら、すぐ持つつもりじゃ」
「え」
「そんなことは、あたりまえじゃないか」
「まあ、なんと云う薄情な」
「どうせおれは薄情だ、こんな薄情者にいつまでもくっついてないで、い男でも持って、親仁おやじの讐を打ってもらうがいいよ」
 伊右衛門は今夜喜兵衛がお梅を伴れて来ることになっているので、それまでに何とかしてお岩を追いだすようにしなくてはならなかった。お岩は歯をくいしばった。
「何と云う情ないことを、こんな可愛い児まであるに」
「何が可愛い、そんなに可愛けりゃ、くれてやるから伴れて往け。きさまのような不義者ふぎものは、一刻いっときもおくことはできん、さっさと出て往ってくれ」
「何と申します、いつ私が不義をいたしました」
「しらばくれてもだめだ、きさまはの按摩と不義をしているのだ」
「あんまりな、そりゃ、あんまりでござります」
 お岩は泣きくずれた。伊右衛門はふと思い出したことがあった。
「そうは云っても、我鬼がきまで出来たことじゃ」きろきろと四辺あたりへ眼をやり、落ちている櫛を見つけてそれを取り、「いものがある、これでも持って往こうか」
 お岩は其の手にすがりついた。
「あ、それはかかさんの、形見の櫛、そればっかりは、どうぞ」
 伊右衛門はじろりと見た。
「いけねえのか」
「そればっかりは、どうぞ」
 お岩は一所懸命であった。伊右衛門はしかたなく櫛を投げだした。
「それじゃ、何か出せ、急に金のいることができた」
 出せと云っても金になるような物は、これまで全部持ち出しているのであった。お岩は暫く考えていたが、思いだしたようにしてちあがった。
「それでは、私の」
 お岩は帯を解き、襦袢一枚になって、泣く泣く其の衣服を伊右衛門の前へさし出した。伊右衛門はそれをひったくるようにした。
「これだけじゃ、しょうがない。そうじゃ、蚊帳がある」
 お岩はあきれた。
「其の蚊帳を持って往かれては、坊やが」
「我鬼なんかどうでもいい、蚊がくうなら、親のやくめじゃ、追ってやれ」
 伊右衛門はさっさと蚊帳をはずして、泣きしずむお岩を尻眼にかけて出て往った。

       六

 お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から亀裂ひびの入った火鉢を出して来た。そして、それに蚊遣りをしかけながら宅悦を見た。
「いくらなんでも、あんまりじゃないか、こんなに蚊がいるのに」
 宅悦はお岩の鬼魅きみのわるい顔を避けながらもじもじしていた。
「ひどいことをするものだ、男のわしでさえ愛憎あいそがつきた。もし、お岩さん、あんな薄情な男と、何時までいっしょにいねえで、いっそわたしと」
 宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手をり払った。
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
 宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら所天おっとがどうあろうとも、私は私、けがらわしい。女でこそあれ武士の娘、不義を云いかけるとはもってのほか」
 お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
 宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうしたはずみか刀が飛んで欄間の下へ突きささった。お岩はよろよろとなった。
「は、はなして」
 お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が好奇ものずきでも、其のお顔では」
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずにんだの薬は、血の道の妙薬どころか、まあ、これを見なさるがよい」
 宅悦は櫛畳くしたとうから鏡を出した。お岩は急いで鏡に手をかけてじぶんの顔を映したが、己の顔とは思われないのでうしろを見た。
何人たれぞ後に」後には何人たれもいなかった。「こりゃ、わしかいの、ほんまにわしの顔かいの」
 お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は真箇ほんとのことを云わなくてはならなかった。
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と内祝言ないしゅうげんをするために、おまえさまを追いださなくては、つごうがわるいからでござりますよ」
 お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿かねの道具をそろえておくれ、早う、早う」
 宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
 宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めようとしたが止められなかった。宅悦はしかたなく鉄漿の道具を持って来た。お岩は体をふるわしながら鉄漿を付け、それから髪をきにかかったが、くしを入れるたびに毛が脱けて、其の後から血がたらたらと流れた。
「やや、脱毛ぬけげからしたた生血なまちは」よろよろと起きあがって、「一念とおさでおくべきか」
 宅悦は泣きだした嬰児あかんぼを抱いていた。
「これ、お岩さま、もし、もし」
 宅悦はお岩の傍へよって片手を其の肩へかけた。お岩の体はよろよろとなって倒れかかった。其処には鴨居に刺さっていた刀が落ちかかっていたので、お岩の咽喉のどは其の刀へ往った。
「う、う」
 どす黒い血がお岩の顔から体を染めた。宅悦はふるえあがった。
「た、たい、へんだ、たいへんだ」
 其の時何処どこからともなく一匹の猫が来た。
「こん畜生、死人に猫は禁物だ」
 宅悦は猫を追った。其の途端に欄間の上から大きな鼠が猫をくわえて出て来たが、すぐ畳の上へ落とした。宅悦は嬰児を寝かすなり表へ走り出た。門の外には伊右衛門がかみしもをつけて立っていた。
「按摩か、首尾はよいか」
 宅悦は夢中になっていた。
「たいへん、たいへん、たいへん、お岩さまがたいへんだ。それに、大きな鼠が、猫が」
 宅悦は狂人のようになって走った。伊右衛門は訳が判らなかった。
「なんだ、鼠がどうしたのだ。鼠、鼠と云って逃げやがったが、首尾がわるいのか。それでは、の中間姦夫まおとこにするか」それから内へ入って、「お岩、お岩」
 足もとで嬰児が泣きだした。伊右衛門はびっくりした。
「あ、もうすこしで、踏み殺すところじゃ。お岩は何処へ往った、おい、お岩」
 其の時またの大きな鼠が何処からともなく走って来て、泣き叫ぶ嬰児に咬みついた。
 伊右衛門はすばやく嬰児を抱きあげて、きょろきょろと四辺あたりを見た。其処にお岩の死骸があった。伊右衛門は駈けよった。
「や、こりゃお岩が死んでおる」刀を見つけて、「こりゃ小平めの赤鰯あかいわしじゃ、そんなら彼奴きゃつが殺したか」
 伊右衛門は一方の襖をあけた。其処には小平が昼のままの姿で押しこめられていた。伊右衛門はいきなり小平を引きずり出して、いましめを解き猿轡をった。
「やい、小平、よくもよくもきさまは、お岩を殺したな」
「めっそうな、たった今まで、両手も口もわえられておりましたに」
「それでも、それそれ、両手が動くじゃないか。さあ、云え、なんでお岩を殺した」
「そう云わっしゃるなら、わたしがお岩さまを殺した下手人げしゅにんになりますから、どうか彼のソウセイキを」
「べらぼうめ、の唐薬は、さっき質屋へ渡したのだ」
「それでは、あれは、彼の質屋に」
 小平が走って往こうとするうしろから、伊右衛門は刀を脱いて斬りつけた。
「お岩のかたき
 其処へ秋山長兵衛と関口官蔵が入って来た。長兵衛は眼をみはった。「民谷うじ、ぜんたいこれは」
 伊右衛門は小平をずたずたに斬りきざんでいた。
「不義者を成敗したのだ」
 伊右衛門はそれから長兵衛と官蔵に頼んで、お岩と小平の死骸を神田川かんだがわへ投げこました。

       七

 伊右衛門は屏風を開けてお梅の傍へ往こうとした。伊右衛門は其の夜遅くなって喜兵衛がお梅を伴れて来たので、祝言のさかずきをしたところであった。
「どうじゃ、お梅」
 伊右衛門はお梅の枕元へ座って、恥かしそうに俯向うつむきになっているお梅の顔を覗きこんだ。と、お梅が、
「伊右衛門さま、どうぞ末なごう」
 と云って顔をあげたが、それはお梅でなく物凄いお岩の顔であった。
「あ」
 伊右衛門は傍にあった刀を脱いて斬りつけた。首は刀に従って前へころりと落ちたが、落ちた首はお梅であった。
「やっぱりお梅であったか」
 伊右衛門はうろたえて隣のへやへ飛びこんだ。其処には喜兵衛が嬰児あかんぼを抱いて寝ていた。
「喜兵衛殿、たいへんじゃ」
 伊右衛門は喜兵衛を起した。それは喜兵衛でなくて嬰児を咬い殺して口を血だらけにしている小平であった。小平は伊右衛門を見た。
「旦那さま、薬をくだされ」
 伊右衛門は飛びあがった。
「わりゃ小平め、よくも子供を殺したな」
 伊右衛門の刀はまた其の首に往った。同時に首はころりと落ちたが、それはやっぱり喜兵衛の首であった。
「さては、死霊のするしわざか」
 其のまわりには青い火がとろとろと燃えていた。
 伊右衛門は刀をり揮り門口へ往ったが、門口の戸がひとりでにがたりと締って出られなかった。

       八

 隠亡堀おんぼうぼりの流れの向うに陽が落ちて、入相いりあいの鐘がわびしそうに響いて来た。深編笠ふかあみがさに顔をかくした伊右衛門は肩にしていた二三本の竿をおろして釣りにかかった。
 傍には鰻掻うなぎかきになっている直助がいて、煙草を飲みながら今のさき鰻掻にかかって来た鼈甲べっこうの櫛を藁で磨いていた。伊右衛門はそれを見て、煙草を出して火を借りようとした。
「火を借してもらいましょう」
 直助はすまして煙管きせるの火を出した。
「お点けなされませ」そして笠の中を覗いて、「伊右衛門さんお久しゅうござります」
 伊右衛門は驚いた。
「そう云うてめえは、直助か」
「其の直助も、今では鰻掻の権兵衛」
 話のうちにうきがびくびく動きだした。伊右衛門はそれと見て竿をあげると小鮒こぶながかかっていた。
「ああ、鮒か」
 其のうちに他の標が動きだした。
「そりゃ、またかかった」
 伊右衛門は調子にのって大きな声をしながらあげた。それにはなまずがかかっていて草の上へ落ちた。伊右衛門はあわてて傍にあった卒塔婆そとうばを抜いて押え、魚籃びくに入れるなり卒塔婆を投げだした。卒塔婆は近くに倒れて気を失っていた女乞食の前へ落ちた。それはお梅の母親のお弓であった。お弓は伊右衛門に復讐するために、伊右衛門の所在ありかをさがしているところであった。お弓は卒塔婆を取りあげた。其の卒塔婆には俗名民谷伊右衛門と書いてあった。それは伊右衛門の母親が殺人の大罪を犯した我が子のために、世間をごまかすために建てたものであった。
「や、戒名かいみょうの下に記した此の名は、ととさんと娘を殺した悪人の名、それではもう此の世にいないのか」
 伊右衛門はそれを知った直助にあいずをした。そこで直助はお弓のあいてになった。
「生きてる者に、なんで卒塔婆をたてる、伊右衛門が死んでから、今日でたしか四十九日」
 お弓は無念でたまらないようにした。伊右衛門はそろそろとって往って、いきなり足をあげてお弓をった。お弓はひとたまりもなく川へ落ちて水音をたてた。直助が感心した。
「なるほど、おまえは、悪党だ」
 伊右衛門はにやりと笑った。
「これもおぬしに習ったからよ」
 此の時長兵衛が頬冠ほおかむりしてきょろきょろとして来たが、伊右衛門を見つけた。
「民谷氏、此処にござったか」
 名を云ってはいけなかった。
「これさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
 伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあったこもが落ちた。其処には水で腐ったお岩の骨ばかりの死骸があった。伊右衛門は恐ろしいので杉戸を前へついた。杉戸は其のひょうしにばったりと裏がえしになった。裏には首へ藻のかかった小平の死骸があった。

       九

 お袖は山刀を持ってせっせとしきみの根をまわしていた。其処は深川法乗院ふかがわほうじょういん門前で俗に三角屋敷と云う処であった。お袖は直助といて線香を売っているところであった。
 淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の衣服きものが風にひるがえり、其の傍の井戸端にはたらいがあって、それにはどろどろになった女物の衣服が浸けてあったが、それは金子屋かねこやと云う質屋の手代の庄七しょうしちが、質の流れだと云って洗濯物を頼んで来ているものであった。お袖は気になることがあるのか樒の根をまわすことをやめて、盥の傍へ往き、
「此の衣服きものにはどうも見覚えがある、これはたしかにあねさんの」
 其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、干物ほしものを入れねえか」
 直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、のちまでとかるう云っておいたよ」
「そうか」そして考えついてかます莨入たばこいれからの櫛を出して、「此の櫛なら、いくらか貸すだろう」
 お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、猿子橋さるこばしの下で鰻掻にかかったが、てめえ、何か見覚でもあるのか」
「ある段か、これはあねさんが、かかさんの形見だと云って、大事にしていた櫛。それに庄七さんに頼まれた衣服きものと云い、どうしたことだろう」
「おい、これ、馬鹿な事を云うな、世間には幾何いくらでも同じ物があらあな」
 直助はそれから質屋へ往こうとした。お袖は其の手にすがった。
「衣服は違ってても、櫛はたしかに姉さんの櫛、どうぞ、そればっかりは」
「てめえも馬鹿律気ばかりちぎな。だいち死んだ所天ていしゅへ義理をたてて」
 お袖は直助にせまられても与茂七のかたきが見つかるまではと云って夫婦にならずにいるところであった。お袖はやがて夕飯の準備したく庖厨かってへ往った。直助は其の間に質屋へ往くべく門口へ出た。と、其の時傍の盥に浸けてある衣服の中から、痩せ細った手がぬっと出て直助の足をつかんだ。直助はふるえあがって手にした櫛を落とした。と、盥の手が引込んだ。
「今のは、たしかに女の手だ」
 直助が考えこんでいるところへ、お袖が膳を持って出て来たが、直助が落としてある櫛を見つけた。
「姉さんが、大事がらしやんす櫛じゃと云うに、こんなにして」
 お袖は櫛を拾いあげたが、やっぱり米屋のことも気になるのであった。
栄耀えようにつかうではなし、姉さん借してくださいよ」
 と云って直助を質屋へやろうとした。そこで直助は、
「そうか、それじゃ往って来ようか」
 と云ってお袖から櫛を取ろうとした。と、また盥の中から痩せた手が出て直助の櫛を持った手をつかんだ。
「あ」
 直助は驚いてまた櫛を投げだした。が、それはお袖には見えなかった。
「おまえさん、何をそんなに。櫛を何処へやったのですよ」
「盥の中にあらあな、おまえが持ってくがいいや」
 お袖は盥の中を覗きこんだが、櫛らしいものは見えなかった。お袖はちょっと其の辺へ眼をやった後で、そっと衣服きものをつかんで振って見た。盥の水は真赤な生なましい血に変わっていた。お袖はびっくりした。と、其の中から一匹の鼠が、彼の櫛をくわえたまま飛びだした。直助はすぐそれを見つけた。
「鼠が、鼠が」
 鼠は仏壇へ往ってくわえていた櫛を置くなり消えてしまった。

       一〇

 お袖は按摩の宅悦からお岩が伊右衛門のために殺されて神田川に投げこまれたと云うことを聞いて驚いた。それも姉が小平と不義をしたと云って、小平とともに杉戸へ打ちつけられたと聞いては、泣くにも涙が出なかった。直助はお袖を慰めた。
「憎い奴は伊右衛門じゃ、まあ気を落とさずに時節を待つがいい、きっと俺がかたきを打ってやる」
 お袖は手酌で一ぱい飲んでそれを直助にさした。
「さ、一つ飲んでくださんせ」
 直助は盃を執ってお袖に酌をしてもらった。
「これは、御馳走。それにしても女の身では、酒でも飲まずにはいられまい、他人のおれでさえ」
「其の他人にせまいために、女のわたしからさした盃」
「そうか」
「もし、もう祝言はすんだぞえ、親と夫の百ヶ日、今日がすぎれば、今宵から」
「そんならおぬしは」
「操を破って操をたてるわたしが心」
 二人は立ててある屏風の中へ入ったところで、表の戸をとんとんと叩く者があった。直助が頭をあげた。
何人たれだ」
 声に応じて外から男の声がした。
「すまねえが、線香を一もらいたい」
 直助はいまいましかった。直助は吐きだすように云った。
「気のどくだが、品ぎれだよ」
「それなら、此処にあるしきみでけっこうだ」
「だめじゃ、そりゃ一本が百より安くはならねえ、他へ往って買わっしゃるがいい」
 外の男はちょっと黙ったが、すぐあわてて声をたてた。
「あれ、あれ、盗人ぬすっとが洗濯物を持って往くわ」
 直助は飛び起きて雨戸を開けた。其処に一人の男が立っていた。
「これはどうも、つい置き忘れておりまして」
 直助は洗濯物を執って入ろうとして対手あいてに気がくなり、のけぞるようにして驚いた。
ゆうれいだ、鬼だ」
 直助は家の内へ飛びこんで、ぴしゃりと雨戸を締めて押えた。お袖も驚いて出て来た。
「何処に、何処にゆうれいが」
 其の時外の男の声がした。
「わたしはゆうれいじゃない、此処を開けてくだされ。お眼にかかれば判ります」
 お袖が其の声を聞きつけた。
「どうやら、聞きおぼえのある声じゃ」
 直助が手をった。
「いけねえ、それがゆうれいじゃ」
「それでも」
 お袖は首をかしげながら起きて往って雨戸を開けた。外の男は与茂七であった。
「おや、おまえは、与茂七さん」
「お袖か、わしは、おぬしの所在を探しておったが、かわった処で、はて面妖めんような」
「わたしよりおまえさんは、いつぞやの晩、観音裏の田圃道で人手にかかって」
「あれか、あれなら奥田庄三郎だ。の晩、おめえと別れて、庄三郎に逢い、すっかり衣裳をとりかえた」直助の方を見て、「あなたは、浅草で見知りごしの薬売、たしかに其の名も直助殿」
「あ」
 直助の驚く一方で、与茂七はお袖を見た。
「して此の人は、なんで今時分来てござる」
 お袖はちょっと困ったが、宅悦の置いて往った杖に気がいた。
「お、お、それ、按摩じゃわいな」
 お袖は死んだと思っていた与茂七が不意に現れたので、身の置きどころに困っていた。お袖は与茂七のかたきを打ってもらうために、直助に肌をゆるしたのであったが、今となっては其のためにかえってあがきがつかなかった。お袖はいよいよ腹をきめた。お袖は直助にささやいた。
「一旦、おまえに大事を頼み、女房となったうえからは、やっぱり女房、与茂七殿に酒を飲まして、わたしが手引する」
 そこで直助は外へ出てやぶの中へ身をひそめた。そこでお袖は与茂七に囁いた。
「寝酒をすすめて寝かしたうえで、行燈あんどんを消しますから」
 それで与茂七も外へ出た。お袖はそこで時刻をはかって行燈の燈を消した。それと見て直助は出刃を、与茂七は刀を脱いて家の内に入って、屏風の中を目あてに刺しとおした。同時に女の悲鳴が聞こえた。二人は目的を達したと思って屏風をはねのけた。屏風の中にはお袖が血みどろになっていた。其のとたんに月が射した。二人はあきれて眼を見あわした。
「これはどうした」
「これは」
 お袖はやっと顔をあげた。
「与茂七さん、どうか、ゆるしておくれ。それから、直助さんは、養父と姉の讐を討った後で、どうか、小さい時に別れたあにさんを尋ねて、此のわけを話してくだされ」
 お袖には幼い時に別れた一人の兄があった。お袖は苦しそうに懐から一通の書置と、ほぞの書きつけを出して直助に渡した。直助は其の臍の緒の書きつけをじっと見た。それには、『元宮三太夫もとみやさんだゆうそで』としてあった。直助は見て仰天した。直助は傍にあった与茂七の刀を取ったかと思うと、いきなりお袖の首を打ちおとした。与茂七は驚いた。
何故なぜに、そんなことを」
 直助はどしりと其処へ坐るなり、其の刀をじぶんの腹に突きたてた。
「与茂七殿、聞いてくだされ」
 お袖が探していた幼い時別れた兄は、直助であった。直助は臍の緒の書きつけによって、先刻祝言の盃を交したお袖が妹であったことを知り、其のうえ、観音裏で与茂七と思って殺したのは、もとじぶんの仕えていた主人の息子であった。直助は己のあさましい心をいながら死んでいった。

       一一

 伊右衛門は秋山長兵衛を伴につれて鷹狩に往っていた。二人は彼方此方あっちこっちと小鳥を追っているうちに、鷹がそれたので、それを追って往った。
 空には月が出てみちぶちには蛍が飛んでいた。其処に唐茄子とうなすを軒にわした家があって、栗丸太の枝折門しおりもんの口には七夕たなばたの短冊竹をたててあった。
 長兵衛がそれと見て中をのぞきに往った。中には縁側付のちん座敷があって、夏なりの振袖を※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな娘が傍においた明るい行燈の燈で糸車を廻していた。長兵衛は伊右衛門にそれを知らせた。
「美しい女が糸車を廻しております」
「なに美しい女」
「さようでござります」
「それでは其の方が案内して、鷹のことを問うてみぬか」
 そこで長兵衛が中へ入って往った。
「鷹がそれて行方が判らなくなったが、もしか此方こちらへ」
 鷹は行燈の上にとまっていた。娘はにっとして鷹を見た。
「此処におります」
 長兵衛は驚いた。
「いや、こいつは妙々みょうみょう
 伊右衛門は長兵衛の知せによって中へ入り、やがて腰の瓢箪ひょうたんの酒を出して飲みだした。伊右衛門は娘にきつけられた。
「そなたの名は」
 其の時一枚の短冊が風に吹かれてひらひらと飛んで来た。娘はそれをって、
「わたしの名はこれでござります」
 と云ってさしだした。それには、「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」と百人一首の歌が書いてあった。伊右衛門はくびをかたむけた。
「これが其方そちの名とは」
「岩にせかるる其の岩が、私の名でござります」
 伊右衛門はやがて娘を自由にして帰ろうとした。と、娘がその袖を控えたがその娘の顔はお岩の顔であった。
「あ」
 伊右衛門は飛びあがった。同時に伊右衛門の手にしていた鷹が大きな鼠になって伊右衛門に飛びかかって来た。
「さてこそ執念」
 伊右衛門は刀を抜いた。そして、無茶苦茶になって其のあたりりはらっているうちに、の糸車が青い火の玉になってぐるぐると廻りだした。

       一二

「これこれ、またおこりましたか。みんながいますぞ、いますぞ」
 伊右衛門ははっと思って眼をあけた。伊右衛門はお岩の亡霊に悩まされるので、蛇山へびやま庵室あんしつこもって、浄念じょうねんと云う坊主に祈祷きとうしてもらっているところであった。
 外には雪が降っていた。伊右衛門は行燈に燈を入れ、それから門口の流れ灌頂かんじょうの傍へ往って手桶の水をかけた。
「産後に死んだ女房子の、せめて未来を」
 するとかけた水が心火しんかになって燃え、其の中からお岩の嬰児あかんぼを抱いた姿があらわれた。
 伊右衛門は驚いて庵室の内に入った。中にはさっき狂乱して引きちぎった紙帳しちょうがばらばらになっていた。お岩の亡霊もいて入って来た。伊右衛門はふるえあがった。
「お岩、もういいかげんに成仏じょうぶつしてくれ」
 と、お岩がゆらゆらと寄って来て、抱いていた嬰児を伊右衛門の前へさし出した。
「死んだと思ったら、それでは其方そちが育てていたのか」
 伊右衛門はうれしそうにその嬰児をお岩の手から執った。同時にたくさんの鼠が出た。伊右衛門は驚いたひょうしに抱いていた嬰児を執り落した。嬰児は畳の上にずしりと云う音をたてた。それは石地蔵であった。其の時傍にいた母のおくまがきゃっと云ってのけぞった。お熊の咽喉ぶえにお岩が口をやっているところであった。
「おのれ」
 伊右衛門は刀を抜いて其のあたりを狂い廻ったが、気がいた時には、じぶんを捕えに来ている大勢の捕手を一人残らず斬り伏せていた。伊右衛門は其のまま其処そこを走り出た。と、其の眼の前へ、
「伊右衛門待て」
 と云って駈け出して来た者があった。それは与茂七であった。
「其の方は与茂七か」
 伊右衛門はきっとなって身がまえした。与茂七は刀を脱いた。
「お袖のためには義理の姉、お岩のかたきじゃ、覚悟せよ」
「なにを」
 伊右衛門は与茂七を斬り伏せようとした。と、何処からともなく又数多たくさんの鼠が出て、伊右衛門のふるっている刀にからみついた。其のひょうしに伊右衛門は刀をり落した。其処を与茂七が、
「おのれ」
 と云って肩からはすに斬りおろした。伊右衛門の体はあけに染まって雪の上へ倒れた。

底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
   1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集 物語篇」改造社
   1938(昭和13)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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