それは九月の末のことであった。豊雄は例によって師匠の許へ往っていると、東南の空に雲が出て、雨が降って来た。そこで、豊雄は師匠の許で、傘を借りてかえったが、飛鳥神社の屋根が見えるようになってから、雨が大きくなって来たので、出入の海郎の家へ寄って雨の小降りになるのを待っていると、「この軒しばし恵ませ給え」と云って入って来た者があった。それは二十歳には未だ足りない美しい女と、十四五の稚児髷に結うた伴の少女とであった。女は那智へ往っての帰りだと云った。豊雄は女の美に打たれて借りて来た傘を貸してやった。女は新宮の辺に住む県の真女児と云うものであると云って、その傘をさして帰って往った。
豊雄はそのあとで、そこの主人の蓑笠を借りて家へ帰ったが、女の俤が忘られないので、そればかり考えているとその夜の夢に女の許へ往った。そこは門も家も大きく、蔀おろし簾垂れこめた住居であった。真女児が出て来て、酒や菓子を出してもてなしてくれたので、喜しき酔ごこちに歓会を共にした。豊雄は朝になって女に逢いたくてたまらないので、朝飯も喫わずに新宮へ往って、県の真女児の家はと云って尋ねたが、何人も知った人がなかった。そのうちに午時も過ぎたところで、東の方からかの稚児髷の少女が来た。女の家は直ぐそこであった。それは門も家も大きく、蔀おろし簾たれこめた夢の中に見たのとすこしもかわらない家であった。少女が入って往って、「傘の主詣で給うを誘い奉る」と云うと、真女児が出て来て、南面の室に豊雄をあげた。板敷の間に床畳を設けた室で、几帳御厨子の餝、壁代の絵なども皆古代のもので、倫の人の住居ではなかった。真女児は豊雄に御馳走した。真女児は己はこの国の受領の下司県の何某が妻であったが、この春夫が歿くなったので、力と頼むものもない。「昨日の雨のやどりの御恵に、信ある御方にこそとおもう物から、今より後の齢をもて、御宮仕し奉らばや」と云った。豊雄は元より願うところであるが、「親兄弟に仕うる身の、おのが物とては爪髪の外なし、何を禄に迎えん便もなければ」と云った。真女児は貴郎が時どきここへ来ていっしょにいてくれるならいいと云って、金銀を餝った太刀を出して来て、これは前の夫の帯びていたものだと云ってくれた。
豊雄は真女児に是非泊ってゆけと止められたが、家へ無断で泊っては叱られるから、明日の晩泊ってもかまわないようにして来ると云って帰って来たが、朝になって兄の太郎は、地曳網のかまえをするつもりで、外へ出ようと思って豊雄の閨房の前を通りながら見ると、豊雄の枕頭に置いた太刀が消え残の灯にきらきらと光っていた。太郎は驚いて聞くと、某人からもらったものだと云った。父親も聞きつけてそこへ来、母親も来て詮議すると、直接それを云うは恥かしいと云うので、太郎の妻がそれを聞くことになった。そこで、豊雄が真女児のことを云うと、嫂は、「男子のひとり寝し給うが、兼ていとおしかりつるに、いとよきことぞ」と云ってその夜太郎に豊雄に女のできたことを話した。太郎は眉を顰めて、「この国の守の下司に、県の何某と云う人を聞かず、我家保正なればさる人の亡くなり給いしを聞えぬ事あらじを」と云って彼の太刀を精しく見て驚いた。それは都の大臣殿から熊野権現に奉ったもので、そのころ盗まれた神宝の一つであった。父親は太郎からそれを聞いて、「他よりあらわれなば、この家をも絶されん、祖の為子孫の為には、不孝の子一人惜からじ、明は訴え出でよ」と云って大宮司の許へ訴えさした。大宮司の許へ来て盗人の詮議をしていた助の君文室広之は、武士十人ばかりをやって豊雄を捕えさした。
豊雄は涙を流して身の明しを立てようとした。助の君はそこで豊雄を道案内にして、武士を真女児の家へやった。大きな家ではあるが、門の柱も朽ち、簷の瓦も砕けて、人の住んでいるような所ではなかった。豊雄は驚いた。武士は付近の者を呼んで、「県の何某が女のここにあるはまことか」と云うと、鍛冶の老人が出て、「この家三とせばかり前までは、村主の何某という人の賑しくて住侍るが、筑紫に商物積みてくだりし、その船行方なくなりて後は、家に残る人も散々になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、この男のきのうここに入りて、漸して帰りしを奇しとてこの漆師の老が申されし」と云った。とにかく内を見極めようと云って、門を開けて入って探していると、塵の一寸ばかりも積った室の中に古き帳を立てて花のような女が一人いたが、武士が入って往くと大きな雷が鳴って、それとともに女の姿は見えなくなった。室の中を見ると、狛錦、呉の綾、倭文、、楯、槍、靭、鍬などの彼の盗まれた神宝があった。
そこで豊雄の大盗の疑いは晴れたが、神宝を持っていた罪は免がれることができないので、牢屋に入れられていたのを、豊雄の父親と兄の太郎が賄賂を用いたので百日ばかりで赦された。豊雄は知った人に顔を見られるのが恥かしいので、大和の姉の許へ往った。その姉の家は泊瀬寺に近い石榴市と云う所にあって、御明灯心の類を売っていた。某日豊雄が店にいると、都の人の忍びの詣と見えて、いとよろしき女が少女を伴れて薫物を買いに来た。少女は豊雄を見て、「吾君のここにいますは」と云った。それは真女児の一行であった。豊雄は、「あな恐し」と云って内に隠れた。女は豊雄を追って往って、「君公庁に召され給うと聞きしより、かねて憐をかけつる隣の翁をかたらい、頓に野らなる宿のさまをこしらえ、我を捕んずときに鳴神響かせしは、まろやが計較りつるなり」と云い、神宝のことに関しては、「何とて女の盗み出すべき、前の夫の良らぬ心にてこそあれ」と云った。姉夫婦は真女児の詞に道理があるので疑いを晴らして、「さる例あるべき世にもあらずかし、はるばるとたずねまどい給う御心ねのいとおしきに、豊雄肯わずとも、我々とどめまいらせん」と云って、豊雄の傍に置き、そのうちに豊雄にすすめて結婚さした。
三月になって一家の者が野遊びに往くことになった。真女児は、「我身稚より、人おおき所、或は道の長手をあゆみては、必ず気のぼりてくるしき病あれば、従駕にぞ出立ちはべらぬぞいと憂けれ」と云うのを無理に伴れて往った。そして、何某の院に往き、滝の傍を歩いて往ったところで、髪は績麻をつかねたような翁が来て、「あやし、この邪神、など人を惑す」と云うと、真女児と少女は滝の中に飛び込んだが、それと共に雲は摺墨をうちこぼしたる如く、雨は篠を乱して降って来た。翁はあわてて惑う人々を案内して人家のある所まで伴れて往ってくれた。翁は当麻の酒人と云う神奴の一人であった。翁は豊雄に向って、「邪神は年経たる蛇なり、かれが性は婬なる物にて、牛と孳みては麟を生み、馬とあいては竜馬を生むといえり、この魅わせつるも、はた、そこの秀麗に奸けたると見えたり」と云って誡めた。
豊雄は夢のさめたようになって紀の国へ帰った。一家の者は豊雄がこんな目に逢うのも独りであるからだと云って、妻になる女を探していると、柴の里の庄司の一人女子で、大内の采女にあずかっていたのが婿を迎えることになり、媒氏をもって豊雄の家へ云って来た。豊雄の家でも喜んで約束をしたので、庄司の家では女子を都へ迎いにやった。その女子の名は富子、やがて富子が都から帰って来ると、豊雄はその家に迎えられたが、二日目の夜になって、豊雄はよきほどに酔って、「年来の大内住に、辺鄙の人は将うるさくまさん、かの御わたりにては、何の中将、宰相などいうに添いぶし給うらん、今更にくくこそおぼゆれ」などと云って戯れかかると、富子は顔をあげて「古き契を忘れ給いて、かくことなる事なき人を時めかし給うこそ、こなたよりまして悪くなれ」と云ったが、その声は真女児の声であった。豊雄はわなわなとふるえた。「他人のいうことをまことしくおぼして、強に遠ざけ給わんには、恨み報いん、紀路の山々さばかり高くとも、君が血をもて峰[#「峰」は底本では「蜂」]より谷に灌ぎくださん」と怪しき声は云った。「吾君いかにむつかり給う、こうめでたき御契なるは」と云って屏風のうしろから出て来たのは彼の少女であった。
翌日になって豊雄は閨房から逃げ出して庄司に話した。庄司は熊野詣に年々来る鞍馬寺の法師に頼んで怪しい物を捉えてもらうことにした。鞍馬法師は雄黄を鎔いて小瓶に入れ、富子の閨房へ往ってみると、枯木のような角の生えた雪のように白い蛇が三尺あまりの口を開け、紅の舌を吐いて室の中一ぱいになっていた。法師は驚いて気絶したがとうとう死んでしまった。
豊雄が往ってみると美しい富子となっていた。豊雄は己のために人に迷惑をかけてはすまないから、己は怪しいものの往くところに従いて往くと云った。庄司はそれをとめて、小松原の道成寺へ往って法海和尚に頼んだ。法海和尚は「今は老朽ちて、験あるべくもおぼえ侍らねど、君が家の災を黙してやあらん」と云って芥子の香のしみた袈裟を執りだして、「畜をやすくすかしよせて、これをもて頭に打被け、力を出して押しふせ給え、手弱くあらばおそらくは逃去らん」と云った。庄司は喜んで帰って、その袈裟をそっと豊雄にわたした。豊雄は富子の閨房へ往って隙を見て、袈裟を被せ、力をきわめて押しふせた。そこへ法海和尚の轎が来た。和尚は何か念じながら豊雄を退かして袈裟を除ってみると、そこには富子がぐったりとなっている上に三尺ばかりの白い蛇がとぐろをまいていた。和尚はそれを捉えて弟子が捧げている鉄鉢に入れた後で、又念じていると屏風の背から一尺ばかりの小蛇が這いだして来た。和尚はそれも捉えて鉄鉢にいっしょに入れ、彼の袈裟を上からかけて封をし、それを携えて帰りかけたので、豊雄はじめ一家の者は掌をあわせ涙を流して見送った。そして、寺に帰った和尚は、本堂の前を深く掘らせて、彼の鉄鉢を埋めさし、永劫が間世に出ることを戒めたのであった。
この『蛇性の婬』の話は、上田秋成の『雨月物語』の中でも最も傑出したものとせられているが、しかし、これは秋成の創作でなしに支那の伝説の翻案である。支那の杭州にある西湖の伝説を集めた『西湖佳話』の中にある『雷峰怪蹟』がその原話である。雷峰とは西湖の湖畔にある塔の名で、呉越王妃黄氏の建立したものであるが、『雷峰怪蹟』では奇怪な因縁から出来たものとせられている。著者も嘗て西湖に遊んで南岸の湖縁に聳え立った五層の高い大きな塔の姿に驚かされた一人である。その西湖には南岸の雷峰塔に対して北岸に保叔塔と云うのがある。
雷峰怪蹟
宋の高宗帝が金の兵に追われて、揚子江を渡って杭州に行幸した際のことであった。杭州城内過軍橋の黒珠巷と云う所に許宣という壮い男があったが、それは小さい時に両親を歿くして、姐の縁づいている李仁と云う官吏の許に世話になっていた。この李仁は南廊閣子庫の幕事であった。許宣はその李幕事の家にいて、日間は官巷で薬舗をやっている李幕事の弟の李将仕と云う人の家へ往って、そこの主管をしていた。
許宣はそのとき二十二であった。きゃしゃなな顔をした、どこか貴公子然たるところのある男であった。それは清明の節に当る日のことであった。許宣は保叔塔寺へ往って焼香しようと思って、宵に姐に相談して、朝はやく起きて紙の馬、抹香、赤い蝋燭、経幡、馬蹄銀の形をした紙の銭などを買い調え、飯を喫い、新らしく仕立てた衣服を着、鞋も佳いのを穿いて、官巷の舗へ往って李将仕に逢った。
「今日、保叔塔へお詣りしたいと思います、一日だけお暇をいただきとうございますが」
清明の日には祖先の墓へ行って祖先の冥福を祈るのが土地の習慣であるし、両親の無い許宣が寺へ往くことはもっとものことであるから、李将仕は機嫌好く承知した。
「いいとも、往ってくるがいい、往ってお出で」
そこで許宣は舗を出て、銭塘門のほうへと往った。初夏のような輝の強い陽の照る日で、仏寺に往き墓参に往く男女が街路に溢れていた。その人々の中には輿に乗る者もあれば、轎に乗る者もあり、また馬や驢に乗る者もあり、舟で往く者もあった。
許宣は銭塘門を出て、石函橋を過ぎ、一条路を保叔塔の聳えている宝石山へのぼって寺へと往ったが、寺は焼香の人で賑わっていた。許宣も本堂の前で香を燻らし、紙馬紙銭を焼き、赤い蝋燭に灯を点しなどして両親の冥福を祈った。そして、寺の本堂へ往き、客堂へあがって斎を喫い、寺への布施もすんだので山をおりた。
山の麓に四聖観と云う堂があった。許宣がその四聖観へまでおりた時、急に陽の光がかすれて四辺がくすんで来た。許宣はおやと思って眼をった。西湖の西北の空に鼠色の雲が出て、それが陽の光を遮っていた。東南の湖縁の雷峰塔のあるあたりには霧がかかって、その霧の中に塔が浮んだようになっていた。その霧はまた東に流れて蘇堤をぼかしていた。眼の下の孤山は燻銀のくすんだ線を見せていた。どうも雨らしいぞ、と思う間もなく、もう小さな雨粒がぽつぽつと落ちて来た。許宣は四聖観の簷下に往って立っていたが、雨は次第に濃くなって来て、雨隙が来そうにも思われなかった。空には微墨色をした雲が一めんにゆきわたっていた。許宣はしかたなしに鞋を脱ぎ襪も除ってそれをいっしょに縛って腰に著け、赤脚になって四聖観の簷下を離れて湖縁へと走った。
許宣はそこから舟を雇うて湧金門へまで帰るつもりであった。不意の雨に驚いて濡れながら逃げ走っている人の姿が、黒い点になってそこここに見えた。湖のなかにも小舟が右に左にあたふたと動いていた。それは皆俗に杭州舟と云っている苫を屋根にした小舟であった。その小舟の中に舳を東の方へ向けて老人が艫を漕いでいる舟があって、それがすぐ眼の前を通りすぎようとした。許宣はどの舟でもいいから近い舟を呼ぼうと思って、その舟に声をかけようとしたところで、どうもその船頭に見覚えがあるようだから竹子笠を冠っている顔に注意した。それは張河公と云う知己の老人であった。許宣はうれしくてたまらなかった。
「張さん、張さん、おい張さん」
許宣の声が聞えたとみえて、船頭は顔をあげて陸のほうを見た。
「おれだ、おれだ、張さん、湧金門まで乗っけてくれないか」
船頭は許宣を見つけた。
「ほれ、主管さん……」
船頭は驚いたように云って艫をぐいと控えて、舳を陸にして一押し押した。と、舟はすぐ楊柳の浅緑の葉の煙って見える水際の沙にじゃりじゃりと音をさした。許宣は水際へ走りおりた。
「気の毒だが、湧金門までやっておくれ、保叔塔へ焼香に往ってて雨を喫ったところだ」
「そいつは大変でしたね、早くお乗んなさい、わっしも湧金門へいくところじゃ」
「そうか、そいつはちょうど宜い、乗っけてもらおう」
許宣は急いで足を洗って舟へ乗った。船頭は水棹を張って舟を出し、舳を東へ向けて艫を立てた。
「もし、もし、船頭さん、すみませんが、乗せてってくださいまし」
ふくらみのある女の声がするので許宣は苫の隙から陸のほうを見た。背のすらりとしたな女が青い上衣を着た小婢に小さな包を持たせて雨に濡れて立っていた。
「張さん、乗っけてやろうじゃないか、困ってるじゃないか」
「そうですな、ついでだ、乗っけてやりましょうや」
船頭はまた舟を陸へやった。絹糸のような小雨の舳に降るのが見えた。
「どうもすみません、俄に雨になったものですから……」
艶かしい声がして女達は舟へあがって来た。そして、な女の顔がもう苫屋根の下にくっきりと見えた。
「どうもすみません、お邪魔をさせていただきます」
女はおちついた物越しであいさつをした。許宣はきまりがわるかった。彼はあわてて女のあいさつに答えながら体を後の方へのけた。
「さあ、どうぞ」
女はそのまま入って来てその膝頭に喰つくようにして坐った。女の体に塗った香料の匂がほんのりとした。許宣は眩しいので眼を伏せていたが、女の顔をはっきりと見たいと云う好奇心があるのでそろそろと眼をあげた。黒い潤みのある女の眼がじっと己の方を見ているのにぶつかった。許宣はあわててまた眼をそらした。
「あなたは、どっちにお住居でございます」
女は執着を持ったような詞で云った。許宣のきまりのわるい思いはやや薄らいで来た。
「過軍橋の黒珠巷です。許と云う姓で、名は宣と云います、あなたは」
「私は、白と申します、私の家は白三班で、私は白直殿の妹で張と云う家へ嫁いておりましたが、主人が歿くなりましたので、今日はその墓参をいたしましたが、こんな雨になって、困っているところを、お蔭さまでたすかりました」
「そうでしたか、私も両親を早く歿くしておりますので、今日は保叔塔寺へ往ったところで、この雨で、困って湧金門まで舟を雇おうと思って、来て見ると知己の舟がいたので乗ったところでした、ちょうど宜しゅうございました」
舟は府城の城壁に沿うて南へ南へと往った。絹糸のような雨が絶えず苫屋根の外にあった。
「家を出る時は、好いお天気でしたから、雨のことなんかちょっとも思わなかったものですから、困ってしまいました、ほんとに有難うございました」
小婢が主人の横脇でもそもそと体を動かす気配がした。
「私も姐の家に世話になって、日間は親類の薬舗へ勤めておりますので、暇をもらって、やっぱり雨のことは考えずに、来たものですから、ひどい目に逢いました、皆、今日は困ったでしょうよ」
許宣は気もちをいじけさせずに女と話すことができた。
舟はもう湧金門の外へ来ていた。小さな白い雨は依然として降っていた。女は何か思いだしたように己の体のまわりをじっと見た後に、小婢の耳に口を着けて小声で囁いて困ったような顔をした。と、小婢の眼元が笑って女に囁きかえした。それでも女は困ったような顔をしていた。
「あのね、なんですが」
小婢の顔がこっちを見た。許宣は何事だろうと思った。
「今朝、家を出る時に、急いだものですから、おあしを忘れてまいりました、誠に恐れ入りますが、どうか船賃を拝借させていただきとうございますが、家へ帰りましたなら、すぐお返しいたしますが」
「そんなことは宜いのですよ、私が払いますから」
舟はもう水際へ着いていた。女はきまりわるそうにもじもじしていた。
「さあ、舟が着きました、あがりましょう」
許宣は腰につけた銭袋から幾等かの銭を執って舟の上に置いた。
「どうもすみません」
女はそう云って鞋を穿いて小婢といっしょにあがって往った。許宣もその後からあがったがそれは赤脚のままであった。
もう日没になっているのか四辺が灰色になって見えた。女は許宣のあがって来るのを楊柳の陰で待っていた。
「あの、なんですけど、雨もこんなに降りますし、もう日も暮れかけてますから、私の家へまいりましょうじゃありませんか、拝借したお銭もお払いしとうございますから」
許宣は女の家へも往きたかったが、姐の家に気がねがあるので往けなかった。
「もう遅うございますから、またこの次に伺います」
「そうですか、……それでは、また、お眼にかかります、どうも有難うございました」
女はのこり惜しいような顔をして別れて往った。小婢は包を持って後から歩いていた。許宣ものこり惜しいような気がするので、そのまま立っていて今度見直すと、二人の姿はもう見えなかった。許宣は気が注いて船頭に一言二言別れの詞をかけ、楊柳の陰から走り出て湧金門を入って、ぎっしり簷を並べた民家の一方の簷下を歩いた。彼はそうして近くの親類へ往って傘を借りようとしているのであった。彼の眼の前にはさっきの女の姿が花のように映っていた。
許宣は三橋巷の親類へと往った。親類では夕飯の時刻だからと云って引留めようとしたが、許宣は家の外に幸福が待っているような気がして、家の内に置かれるのが厭だから、強いて傘ばかり借りて外へ出た。ぱっとさした傘に絡まる軽い爽かな雨の音。
洋場頭に往ったところで、聞き覚えのある優しい女の声がした。
「おや、あなた」
許宣は左の方を揮り向いた。そこの茶館の簷下にさっきの白娘子が独り雨を避けて立っていた。
「や、あなたでしたか、さっきは失礼しました」
「さきほどは有難うございました、どうも雨がひどいものですから、婢に傘を執りに往ってもらって待っているところでございます」
「そうですか、それは……、では、この傘を持っていらっしゃい、私はすぐそこですから、傘が無くっても宜いのです」
許宣は己の手にした傘を女に渡そうとしたが、女は手を出さなかった。
「有難うございますが、それではあんまりでございますから、宜しゅうございます、もう、婢がまいりましょうから」
「なに、宜いんです、私は、もう、すぐそこですから、傘をさすほどのことはないのです、さあお持ちなさい、傘は私が明日でも執りにあがりますから」
「でも、あんまりですわ」
「なに、宜いのです」
許宣は強いて柄を女の前に持って往った。
「ではすみませんが、拝借いたしましょうか、私の家は荐橋の双茶坊でございます」
女はほっそりした長い指を柄にからませた。
「そうですか、それではまたお眼にかかります」
許宣は女に気をもまさないようにと、傘を渡すなり簷下に添うてとかとかと歩きだした。それといっしょに女も簷下を離れて石を敷いた道の上に出て往った。
許宣はその夜寝床に入ってからも白娘子のことを考えていた。な眼鼻だちの鮮かな女の姿が心ありそうにしてこっちを見ていた。彼は誘惑に満ちた女の詞を一つ一つ思いだしていた。と、物の気配がして寝室の帳を開けて入って来た者があった。許宣はびっくりしてその方へ眼をやった。そこには日間のままの白娘子の艶かしい顔があった。許宣は嬉しくもあればきまりもわるいので何か云わなくてはわるいと思ったが、云うべき詞が見つからなかった。
女は寝床の上にいつの間にかあがってしまった。許宣は呼吸苦しいほどの幸福に浸っていたが、ふと気が注くとそれは夢であった。
翌朝になって許宣は平生のように早くから舗へ往ったが、白娘子のことが頭に一ぱいになっていて、仕事が手につかないので、午飯の後で口実をこしらえて舗を出て、荐橋の双茶坊へ往った。
許宣はそうして白娘子の家を訪ねて歩いたが、それらしい家が見つからなかった。人に訊いても何人も知っている者がなかった。許宣は場所の聞きあやまりではないかと思って考えてみたが、どうしても双茶坊であるから、やめずに町の隅から隅へ訪ねて往った。しかし、それでもどうしてもそうした家がなかった。彼はしかたなしに諦めて、くたびれた足を引擦るようにして帰りかけた。と、東西になった街の東の方から青い上衣の小婢がやって来た。
「おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
許宣は腹の裏を見透されるように思って長い間探していたとは云えなかった。彼はそうして小婢に伴れられて往った。
おおきな楼房があって高い牆を四方に廻らしていた。小婢はその前に往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
許宣はこんな大きな家に住んでいた人が何故判らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢に随いてそこの門を潜った。
二人は家の中へ入って中堂の口に立った。
「奥様、昨日御厄介になった方が、いらっしゃいました」
小婢が内へ向いて云った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、こちらへね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
白娘子の詞について小婢が云った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
許宣は入りにくいので躊躇していた。と、小婢がまた促した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
許宣はそこで心を定めて入った。室の両側は四扇の隔子になって一方の狭い入口には青い布の簾がさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手に掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容を見た。中央の卓の上に置いた虎鬚菖蒲の鉢が、先ず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅の絵を掛けて、その中間になった所にも何かの神の像を画いた物を掛けてあった。神像の下には香几があって、それには古銅の香炉と花瓶を乗せてあった。
白娘子が濃艶な顔をして出て来た。許宣はなんだかもう路傍の人ではないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして有難うございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうど婢さんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持って来た。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにはゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品を持って来た。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、ま、お一つ、そうおっしゃらずに」
許宣は気の毒だと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「それでは失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょとお待ちを願います、昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転借をいたしましたから、すぐ執ってまいります、お手間は執らせませんから」
許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いてく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも執りにあがりますから、今日わざわざでなくっても宜いのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日対手がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
許宣は白娘子に別れ、小婢に門口まで見送られて帰って来たが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、己で己を意識することができなかった。そして、翌日舗に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へと往った。
許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出て来た。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります、傘をください、ここで失礼します」
許宣はそう云ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出て来てくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょとお入りくださいまし」
小婢はそう云ってから内へ入って往った。許宣は小婢が白娘子を呼びに往ったことを知ったので嬉しかった。彼は白娘子の声が聞えはしないかと思って耳を傾けた。
人の気配がして小婢が引返して来た。小婢の後から白娘子の顔が見えた。
「さあ、どうぞ、お入りくださいまし、もしかすると、今日いらしてくださるかも判らないと思って、朝からお待ちしておりました」
「今日はもうここで失礼します、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「私の方は、毎日遊んでおりますから、お客さんがいらしてくださると、ほんとに嬉しいのですわ、お急ぎでなけりゃ、お入りくださいましよ」
「私もべつに用事はありませんが、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「御用がなけりゃ、どうかお入りくださいまし、さあ、どうか」
許宣はきまりわるい思いをせずに、白娘子に随いて昨日の室へ往くことができた。室へ入って白娘子と向き合って坐ったところで小婢がもう酒と肴を持って来た。
「もうどうぞ、一本の破傘のために、毎日そんなことをしていただいては、すみません、今日はすぐ帰りますから、傘が返っているならいただきます」
許宣はなんぼなんでも一本の傘のことで二日も御馳走になることはできないと思った。
「まあ、どうか、何もありませんが、召しあがってくださいまし、お話ししたいこともございますから」
白娘子はそう云って心持ち顔をあからめた。それは夢に見た白娘子の艶かしい顔であった。許宣は卓の上に眼を落した。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきます」
白娘子の声について許宣は盃を口のふちへ持っていったが、その味は判らなかった。許宣はそうして己の顔のほてりを感じた。
「さあ、どうぞ」
許宣は白娘子の云うなりに盃を手にしていたが、ふと気が注くとひどく長座をしたように思いだした。
「何かお話が、……あまり長居をしましたから」
「お話ししたいことがありますわ、では、もう一杯いただいてくださいまし、それでないと申しあげにくうございますから」
白娘子はそう云って許宣の眼に己の眼を持って来た。それは白いぬめぬめするかがやきを持った眼であった。許宣はきまりがわるいので盃を持ってそれをまぎらした。と、香気そのもののような女の体がそこに来てぴったりと触れた。
「神の前でお話しすることですから、決して冗談じゃありませんから、本気になって聞いてくださいまし、私は主人を歿くして、ひとりでこうしておりますが、なにかにつけて不自由ですし、どうかしなくちゃいけないと思っていたところで、あなたとお近づきになりました、私はあなたにお願いして、ここの主人になっていただきたいと思いますが」
貧しい孤児の前に夢のような幸福が降って湧いた。許宣は喜びに体がふるえるようであったが、しかし、貧しい己の身を顧みるとこうした富豪の婦人と結婚することは思いもよらなかった。彼はそれを考えていた。
「お厭でしょうか、あなたは」
許宣はもう黙っていられなかった。彼は吃るように云いだした。
「そんなことはありませんが、私は、家も無い、何も無い、姐の家に世話になって、それで、日間は親類の舗へ出ているものですから」
「他に御事情がなければ、他に御事情があればなんですが、そんなことなら私の方でどうにでもいたしますから」
そう云って白娘子は顔をあげて小婢を呼んだ。小婢がもうそこに来ていた。白娘子は何か小声で云いつけた。
小婢はそのまま室を出て往ったが、まもなく小さな包を持って来て白娘子に渡した。白娘子はそれをそのまま許宣の前へ置いた。
「これを費用にしてくださいまし、足りなければありますから、そうおっしゃってくださいまし」
それは五十両の銀貨であった。許宣は手を出さなかった。
「それをいただきましては」
「宜いじゃありませんか、費用ですもの」
白娘子はそれを許宣の手に持っていった。許宣は受けて袖の中へ入れた。
「それでは、今日はもう遅いようですから、お帰りになって、またいらしてくださいまし」
小婢がそこへ傘を持って出て来た。許宣はふらふらと起って傘を持って出た。
許宣は夜になって姐の許へかえって、結婚の相談をしようと思ったが、人生の一大事のことを、世間ばなしのように話したくないので、その晩は何も云わずに寝て、翌朝起きるなりそれまで貯えてあった僅かな[#「僅かな」はママ]銭を持って、市場に往き、鶏の肉や鵞の肉、魚、菓実、一樽の佳い酒まで買って来て、それを己の室へならべて、李幕事夫婦を呼びに往った。
「今朝は、私のところで御飯を喫べてください」
李幕事夫婦はひどく不思議に思って、許宣の室へやって来た。そして夫婦は卓の上の御馳走を見て驚いた。
「今日は、ぜんたいどうしたと云うのだい、へんじゃないか」
李幕事は突立ったなりに云った。
「すこしお願いしたいことがありますからね、どうか、まあお掛けください」
許宣はとりすまして云った。
「どんなことだ、さきに云ってみるが宜い」
「まあ、二三杯あがってください、ゆっくり話しますから」
許宣は李幕事夫婦に酒を勧めた。酒は二巡三巡した。許宣はそこで李幕事の顔を見た。
「私は、これまで御厄介をかけて、こんなに大きくなりましたが、その御厄介ついでに、も一つお願いしなくてはならないことがあります、私は、結婚をしたいと思います」
「婚礼か、婚礼は大事だから、一つ考えて置こう、なあお前」
李幕事は細君の顔を見たが、それっきり婚礼のことに就いては何も云わなかった。もすこし具体的の話をしようと思っていた許宣は、もどかしかったがどうすることもできなかった。
酒がすむと李幕事は逃げるように室を出て往った。許宣はしかたなしに李幕事の返事を待つことにして待っていたが、二日経っても三日経っても何の返事もなかった。そこで許宣は姐の所へ往って云った。
「姐さん、この間のことを、兄さんと相談してくれましたか」
「まだしてないよ」
「なぜしてくれないんです」
「兄さんが忙しかったからね」
「忙しいよりも、兄さんは、私が婚礼すると、金がかかると思って、それで逃げてるのじゃないでしょうか、金のことなら大丈夫ですよ、ありますから」
許宣はそう云って袖の中から五十両の銀を出して姐の手に渡した。
「一銭も兄さんに迷惑はかけませんよ、ただ親元になって儀式をあげてもらえば宜いのですよ」
姐は金を見て笑顔になった。
「おかしいね、お前、どっかのお婆さんと婚礼するのじゃないかね、まあ宜いわ、私がこれを預ってて、兄さんが帰って来たなら、話をしよう」
許宣はそれから姐の室を出て来た。姐はその夜李幕事の帰ってくるのを待っていて、許宣の置いて往った金を見せた。
「あれは、何人かと約束しているのですよ、親元になって、儀式さえあげてやれば宜いのですよ、早く婚礼をさそうじゃありませんか」
「じゃ、この金は、女の方からもらったものだね」
李幕事はそう云って銀を手に執りあげた。そして、その銀の面に眼を落した。
「た、たいへんだ」
李幕事は眼を一ぱいにって驚いた。
「何をそんなにびっくりなさるのです」
細君には合点がゆかなかった。
「この金は、邵大尉の庫の金で、盗まれた金なのだ、庫の内へ入れてあった金が、五十錠無くなっているのだ、封印はそのままになってて、内の金が無くなっているのだ、臨安府では五十両の賞をかけて、その盗人を探索しているところなのだ、宣には気の毒だがしかたがない、我家から訴えて出よう、これが外から知れようものなら、一家の者は首が無い、こいつは豪いことになったものだ」
李幕事は朝になるのを待ちかねて、許宣の置いて往った金を持って臨安府へ往った。府では韓大尹が李幕事の出訴を聞いて、銀を一見したところで、確に盗まれた銀錠であるから、時を移さず捕卒をやって許宣を捉えさし、それを庁前に引据えて詮議をした。
「李幕事の訴えによって、その方が邵大尉の庫の中の金を偸んだ盗賊と定まった、後の四十九錠の金はどこへ隠した、包まずに白状するが宜かろう」
捕卒がふみこんで来た時から、もう気が顛倒して物の判別を失くしていた許宣は、邵大尉庫中の盗賊と云われて、はじめて己に重大な嫌疑がかかっていることを悟った。
「私は、決して、人の物を盗むような者ではありません、それは人違いです」
許宣は一生懸命になって弁解をした。
「いつわるな、その方が邵大尉の庫の中の金を偸んだと云うことは、その方が姐に預けた、五十両の金が証拠だ、あの金はどこにあったのじゃ」
「あの金は、荐橋双茶坊巷の秀王墻対面に住んでおります、白と云う女からもらいました」
許宣はそこで白娘子と近づきになったことから、結婚の約束をするようになったいきさつを精しく話した。その許宣の詞には詐りがないようであるから、韓大尹は捕卒をやって白娘子を捉えさした。
捕卒は縄つきのままで許宣を道案内にして双茶坊へ往って、秀王墻の前になった、高い墻に囲まれた黒い楼房の前へ往った。それはもう古い古い家で、人が住んでいそうには思われなかった。許宣は不思議に思って眼をっていた。捕卒の一人は隣家へ走って往ってその家の事情を聞いて来た。それは毛巡税と云う者の住んでいた家で、五六年前に瘟疫で一家の者が死絶えて、今では住んでいる者は無いはずであるが、それでも時どき小供が出て来て東西を買うのを見たことがあるから、何人かが住んでいるだろうが、しかし、この地方には白と云う姓の者は無いと云うことであった。
捕卒は家の前に立って手筈を定め、門を開いて入って往った。扉は無くなり簷は傾き、磚の間からは草が生え茂って庭内は荒涼としていて、二三日前に見た家屋の色彩はすこしもなかった。許宣は驚くばかりであった。
捕卒は別れわかれになって室の中へ入った。荒れ崩れて陰々として見える室の中には、人の跫音を聞いて逃げる鼠の姿があるばかりで、どこにも人の影はなかった。別れていた捕卒はいつの間にかいっしょになって、最後の奥まった離屋へ往った。そこは一段高い室になって、一人の色の白い女が坐っていた。衣服の赤や青のな色彩が見えた。その女は牀の上に坐っているらしかった。捕卒は不審しながら進んで往った。
「われわれは、府庁からまいった者だが、その方は何者だ、白氏なら韓大爺の牌票がある、その方が許宣にやった銀のことに就いて尋ねることがあるから、いっしょに伴れて往く」
女はじっと顔をあげたが、何も云わなければ驚いた容子もなかった。
「あのおちつきすましたところは、曲者だ、捉えろ」
捕卒は一斉に走りかかっていった。と、同時に雷のような一大音響がした。捕卒はびっくりしてそこへ立ちすくんだ。そして、気が注いて女の方を見た。女の姿はもう見えなかった。捕卒は逃がしてはならないと思って、今度は腹を定めて室の中へ飛びこんで往った。女の姿は依然として見えなかったが、牀の傍には銀の包を積みあげてあった。それは紛失していた彼の四十九個の銀錠であった。
捕卒は銀錠を扛って臨安府の堂上へ搬んで来た。許宣はそこで盗賊の嫌疑は晴れたが、素性の判らない者から、私に金をもらったと云うかどで、蘇州へ配流せられることになった。
一方邵大尉の方では、約束の通り懸賞金五十両を出してそれを李幕事に与えたが、李幕事は義弟に苦痛を見せることによって得た金であるから、心苦しくてたまらない。で、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕と相談して、二つの手簡を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司の范院長と云う者に与えたもので、一つは吉利橋下に旅館をやっている王と云う者に与えたものであった。
その日になると許宣は二人の護送人に伴れられて牢屋を出た。府庁の門口には李幕事夫婦をはじめ李将仕などが来て待っていた。許宣は涙を滴してその人びとに別れの詞をかわして出発した。
三日ばかりして蘇州府へ着いた。李将仕の手簡を見た范院長と王主人は、金を使って奔走したので、許宣は王主人の許に預けられることになった。
許宣が王主人の許に世話になってから半年ばかりになった。彼はそこで毎日無聊に苦しめられていた。と、ある日王主人が室へ入って来た。
「轎に乗った女が来て、お前さんを尋ねている、鬟も一人伴れている」
許宣は心当りはなかったが、好奇に門口へ出てみた。門口には彼の白娘子と青い上衣を着た小婢が立っていた。許宣は驚きと怒がいっしょになって出た。
「この盗人、俺をこんな目に逢わしておいて、またここへ何しに来たのだ」
「私は、決して、そんな悪いものではありません、それをあなたに弁解したくてまいりました」
白娘子は心持ちな首を傾けて、さも困ったと云うようにした。
「いくら俺をだまそうとしたって、もうその手に乗るものかい、この妖怪」
許宣の後からやって来た王主人は、許宣が門前でやかましく云っていて人に聞かれても面白くないと思ったので、その傍へ往った。
「遠くからいらした方らしいじゃないか、まあ内へ入れて話をしたら宜いじゃないか」
王主人はそう云ってから白娘子の方を見て云った。
「さあ、どうかお入りください」
白娘子は体を動かそうとした。許宣がその前に立ち塞がった。
「こいつを家の中に入れては駄目です、こいつが私を苦しめた妖怪です」
白娘子は小婢の方を見て微笑した。王主人は女のそうしたなやさしい顔を見て疑わなかった。
「こんな妖怪があるものかね、まあ宜い、後で話をすれば判る、さあお入りなさい」
許宣は王主人がそう云うものを己独りで邪魔をするわけにもゆかないので、己で前に入って往った。白娘子は小婢を伴れて王主人に随いて内へ入った。家の内では王主人の媽々が入って来る白娘子のしとやかな女ぶりに眼を注けていた。白娘子は媽々におっとりした挨拶をした後に、傍に怒った顔をして立っている許宣を見た。
「私は、あなたにこの身を許しているじゃありませんか、どうして、あなたを悪いようにいたしましょう、あの銀は、今考えてみますと、私の前の夫です、私はすこしも知らないものですから、あなたにさしあげてあんなことになりました、私はこれを云いたくてあがりました」
許宣にはまだ一つ不思議に思われることがあった。
「臨安府の捕卒が往った時、あなたは牀の上にいて、大きな音がするとともに、いなくなったじゃありませんか、あれはどうしたのです、おかしいじゃないか」
白娘子は笑い声を出した。
「あれは婢に云いつけて、板壁を叩かしたのですよ、その音で捕卒がまごまごしてよりつかなかったから、その隙に逃げて、華蔵寺前の姨娘の家にかくれていたのです、あなたはちっとも、私のことなんか考えてくださらないで、あべこべに私を妖怪だなんて云うのですもの、でも、私はあなたの疑いさえ解けるなら宜いのです、これで失礼いたします」
白娘子は小走りに走って外へ出ようとした。王主人の媽々があわてて走って往って止めた。
「まあ、遠い所をいらしたのですから、二三日お休みになって、もっとお話しするが宜いじゃありませんか」
白娘子は引返しそうにしなかった。小婢がそばから云った。
「奥さん、御親切にあんなに云ってくださいますから、もすこしお考えなすったら如何です」
白娘子は小婢の方を見た。
「でも、あの方は、もう私なんかのことは思ってくださらないのですもの」
王主人の媽々は白娘子を放そうとはしなかった。
「もうすっかり事情も判ったのですから、許宣さんだっていつまでも判らないことは云わないですよ」
許宣はもう白娘子に対する疑念が解けていた。王主人の媽々は白娘子を許宣の室へ伴れて往った。許宣と白娘子はその夜から夫婦となった。
許宣の許へ白娘子が来てからまた半年ばかりになった。ある日、それは二月の中旬のことであった。許宣は二三人の朋友と散策して臥仏寺へ往った。その日は風の暖かな佳い日であったから参詣人が多かった。許宣の一行は、その参詣人に交って臥仏寺の前に往き、それから引返して門の外へ出た。そこには売卜者や物売る人達が店を並べていた。その人びとの間に交って一人の道人が薬を売り符水を施していた。道人は許宣の顔を見ると驚いて叫んだ。
「あなたの頭の上には、一すじの邪気が立っている、あなたの体には、怪しい物が纏うている。用心しなくては命があぶない」
許宣は非常に体が衰弱して気分がすぐれなかった。それに白娘子に対して抱いている疑念もあった。彼はそれを聞くと恐ろしくなった。地べたに頭をすりつけるようにして云った。
「どうか私を助けてください」
道人は頷いて符を二枚出した。
「これをあげるから、何人にも知らさずに、一枚は髪の中に挟み、一枚は今晩三更に焼くが宜い」
許宣はそれをもらうと朋友に別れて家へ帰り、一枚は頭の髪に挟み、一枚は三更になって焼こうと思って、白娘子に知らさずに時刻の来るのを待っていた。
「あなたは、また私を疑って、符を焼こうとしていらっしゃるのですね、こうして、もう長い間、いっしょにいるのにどこが怪しいのです、あんまりじゃありませんか」
傍にいた白娘子が不意に怒りだした。許宣はどぎまぎした。
「いや、そんなことはない、そんなことがあるものか」
白娘子の手が延びて許宣の袖の中に入れてあった符にかかった。白娘子はその符を傍の灯の火に持っていって焼いた。符はめらめらと燃えてしまった。
「どう、これでも私が怪しいのですの」
白娘子は笑った。許宣はしかたなしに弁解した。
「臥仏寺前の道人がそう云ったものだから、彼奴俺をからかったな」
「ほんとに道人がそんなことを云ったなら、明日二人で往ってみようじゃありませんか、怪しいか怪しくないか、すぐ判るじゃありませんか」
翌日許宣と白娘子の二人は、伴れ立って臥仏寺の前へ往った。その日も参詣人で寺の内外が賑わっていた。彼の道人の店頭にも一簇の人が立っていた。白娘子はその道人だと云うことを教えられると、そのまま走って往った。
「この妖道士、人をたぶらかすと承知しないよ」
符水を参詣人の一人にやろうとしていた道人はびっくりした顔をあげた。そして、白娘子の顔をじっと見た。
「この妖怪、わしは五雷天心正法を知っておるぞ、わしのこの符水を飲んでみるか、正体がすぐ現われるが」
白娘子は嘲るように笑った。
「ちょうど宜い、ここに皆さんが見ていらっしゃる、私が怪しい者で、お前さんの符水がほんとうに利いて、私の正体が現れると云うなら飲みましょうよ、さあください、飲みますよ」
「よし飲め、飲んでみよ」
道人は盃に入れた水を白娘子の前へ出した。白娘子はこれを一息に飲んで盃を返して笑った。
「さあ、そろそろ正体が現れるのでしょうよ」
許宣をはじめ傍にいた者は、またたきもせずに白娘子のきれいな顔を見ていたが、依然としてすこしも変らなかった。
「さあ、妖道士、どこに怪しい証拠がある、どこが私が怪しいのだ」
道人は眼をって呆れていた。
「つまらんことを云って、夫婦の間をさこうとするのは、怪しからんじゃありませんか、私がこれから懲らしてあげる」
白娘子はそう云って口の裏で何か云って唱えた。と、彼の道人は者があって彼を縄で縛るように見えたが、やがて足が地を離れて空にあがった。
「これで宜い、これで宜い」
そう云って白娘子が口から気を吐くと道人の体は地の上に落ちた。道人は起きあがるなりいずこともなく逃げて往った。
四月八日の仏生日が来た。許宣は興が湧いたので承天寺へ往って仏生会を見ようと白娘子に話した。白娘子は新らしい上衣と下衣を出してそれを着せ、金扇を持って来た。その金扇には珊瑚の墜児が付いていた。
「早く往って、早く帰っていらっしゃい」
そこで許宣は承天寺へ往った。寺の境内には演劇などもかかって賑わっていた。許宣は参詣人の人波の中にもまれてあちらこちらしていたが、そのうちに周将仕家の典庫の中へ賊が入って、金銀珠玉衣服の類が盗まれたと云う噂がきれぎれに聞えて来たが、己に関係のないことであるからべつに気にも止めなかった。
「もし、もし、ちょっとその扇子を見せてください」
許宣と擦れ違おうとした男がふと立ちどまると共に、許宣の扇子を持った手を掴んだ。許宣はびっくりしてその男の顔を見た。男は扇子と扇子につけた珊瑚の墜児をじっと見てから叫んだ。
「盗人、盗人をつかまえたから、皆来てくれ」
許宣はびっくりして弁解しようとしたがその隙がなかった。彼の体にはもう縄がひしひしと喰いついて来た。彼はその場から府庁に曳かれて往った。
「その方の衣服と扇子は、それで判っておるが、その余の贓物は、どこへ隠してある、早く云え、云わなければ、拷問にかけるぞ」
許宣は周将仕家の典庫の盗賊にせられていた。
「私の着ている衣服も、持っている扇子も、皆家内がくれたもので、決して盗んだものではありません」
府尹は怒って叱った。
「詐りを云うな、そのほうがいくら詐っても、その衣服と扇子が確な証拠だ、それでも家内がくれたと云うなら、家内を伴れてくる、どこにおる」
「家内は吉利橋の王主人の家におります」
「よし、そうか」
府尹は捕卒に許宣を引き立てさせて王主人の家へ往かした。家にいた王主人は、許宣が捕卒に引き立てられて入って来たのを見てびっくりした。
「どうしたと云うのです」
「あの女にひどい目に逢わされたのです、今、家におりましょうか」
許宣は声を顫わして怒った。
「奥様は、あなたの帰りがおそいと云って、婢さんと二人で、承天寺の方へ探しに往ったのですよ」
捕卒は白娘子の代りに王主人を縛って許宣といっしょに府庁へ伴れて往った。堂の上には府尹が捕卒の帰るのを待っていた。府尹は白娘子を捕えて来た後で裁判をくだすことにした。府尹の傍には周将仕が来てその将来を見ていた。
そこへ周将仕の家の者がやって来た。それは盗まれたと思っていた金銀珠玉衣服の類が庫の空箱の中から出て来たと云う知らせであった。周将仕はあわただしく家へ帰って往ったが、家の者が云ったように盗まれたと思っていた物は皆あった。ただ扇子と墜児がなかったが、そんな品物は同じ品物が多いので、そればかりでは許宣を盗賊とすることができなかった。周将仕は再び府庁に往ってそのことを云ったので、許宣は許されることになったが、許宣を置く地方が悪いということになって、鎮江の方へ配を改められた。
そこで許宣は鎮江へ送られることになったところへ、折好く杭州から邵大尉の命で李幕事が蘇州へやって来た。李幕事は王主人の家へ往って許宣が配を改められたことを聞くと、鎮江の親類へ手簡を書いてそれを許宣に渡した。鎮江の親類とは針子橋の下に薬舗を開いている李克用と云う人の許であった。
許宣は護送人といっしょに鎮江へ往って、李克用の家へ寄った。李克用は親類の手簡を見て護送人に飯を喫わし、それからいっしょに府庁へ往って、それぞれ金を使って手続をすまし、許宣を家へ伴れて来た。
許宣は李克用の家へおちつくことができた。心がおちついて来ると共に彼は恐ろしい妖婦に纏わられている己の不幸をつくづく悲しんだ。そして口惜しくもなった。李克用は許宣が杭州で薬舗の主管をしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていてあぶなかしいと思うことがなかった。そこで主管にして使うことにしたが、他の店員に妬まれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒髟へ呼ばした。
やがて酒を飲み飯を喫って、皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒髟を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は黄昏の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷の下を歩いていた。
一軒の楼屋があってその時窓を開けたが、その拍子に何か物が落ちて来て、それが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この痴者、気を注けろ」
楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か云って引込んだ。許宣は不思議に思ってその窓の方を見ていると、もうその女が門口からあたふたと出て来た。それは白娘子であった。
「この妖婦、また来て俺を苦しめようとするのか、今度はもう承知しない、つかまえて引きわたすからそう思え」
白娘子は眼で笑っていた。
「まあそんなにおっしゃらないで、私の云うことを聞いてくださいよ、二度もあなたをまきぞえにしてすみませんが、あの衣服と扇子は、私の前の夫の持っていたものですよ、決して怪しいものじゃありません、だから疑いが晴れたじゃありませんか」
「それじゃ、俺が王主人の所へ帰った時に、何故いなかったのだ」
「それは、あなたの帰りが遅いものですから、婢と二人で、あなたを探しに往ったところで、あの騒ぎでしょう、私は恐ろしくなったから、船で婢の母の兄弟のいる、この家へ来ていたのです」
許宣の白娘子に対する怒は解けた。許宣は白娘子に随いてその家へ往ってそこに一泊したが、それからまた元のとおりの夫婦となった。
そのうちに李克用の誕生日が来た。許宣夫婦も進物を持って李家へ祝いに往った。李克用は筵席を按排して親友や知人を招いていた。
この李克用は一個の好色漢であった。彼は白娘子を一眼見てから忽ちその本性を現わした。白娘子が東厠へ往ったことを知ると、そっと席をはずして後からつけて往った。そして、花のような女のその中にいることを想像してその内へ入った。内には桶の胴のような大きな白い蛇がとぐろを捲いていた。その蛇は両眼は灯盞のように大きくて金光を放って輝いていた。李克用はびっくりして逃げ出したが逃げる拍子に躓いて倒れてしまった。
李克用の家に養われている娘が李克用の倒れて気絶しているのを見つけた。家の内は大騒ぎになって皆が集まって来た。そして薬を飲ましなどしているとやっと気が注いた。家の者がどうしたかと云って訊くと、彼は連日の疲れで体を痛めたためだと云った。
李克用の気もちが好くなったので、宴席も元のとおりになったが、やがてその席も終って客は帰って往った。白娘子はいつの間にか家へ帰っていたが、許宣に話したいことがあるのかそっと舗へやって来た。
「今晩は、みょうに気もちがわるいから、来たのですよ」
「今晩は御馳走になって宜い気もちじゃないか」
「宜い気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと云いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠へ往ってると、後からつけて来て手籠めにしようとしたのです、ほんとに厭な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたと云うでもなかろう、まあ宜いじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、またどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭のあたりで小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
許宣も人の家の主管をして身を縛られるよりも、自由に己で舗を持ちたかった。彼は白娘子の詞に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方が宜いが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持っても宜いな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
許宣は翌日李克用に相談した。李克用は己の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の云うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
七月の七日になった。その日は英烈竜王の生日であった。許宣は金山寺へ焼香に往きたいと思って再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往っていらっしゃい、しかし、方丈へだけは往ってはいけないですよ、あすこには坊主が説経してますから、きっと布施を執られますよ、宜いですか、きっと方丈へ往ってはいけないですよ」
許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の所にある金山寺の島山へ往った。揚子江の赤濁りのした流れを上下して金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群れたように浮んでいた。京口瓜州一水の間、前岸瓜州の楊柳は青々として見えた。
許宣は金山寺へあがって竜王堂へ往き、そこで焼香をすまして、あちらこちらを歩いているうちに、多くの参詣人が和尚の説経を聞いているところへ往った。許宣はここが白娘子の往ってはいけないと云った方丈だと思った。彼は急いで方丈の中を出て往った。許宣の引返そうとする顔を説経していた和尚がちらと見た。
「あの眼に妖気がある、あれを呼べ」
侍者の一人が呼びに往ったが、許宣はもう山をおりかけていたので聞えなかった。すると和尚はいきなり禅杖を持ってたちあがるなり、許宣を追っかけて往った。
山の麓では大風が起って波が出たので、参詣人は舟に乗ることができずに困っていた。山をおりた許宣もその人びとに交って岸に立って風の静まるのを待っていた。と、一艘の小舟がその風の中を平気で乗切って来て陸へ着けかけた。許宣は神業のような舟だと思って、ふいと見ると、その中に白娘子と小婢の二人が顔を見せていた。その白娘子と許宣の眼が合った。
「あなた、早くお乗りなさい、風が吹きだしたから、あなたをお迎いに来たのです」
舟は同時に陸へ着いた。許宣は喜んで水際へおりた。許宣の後には許宣を追っかけて来た和尚がいた。
「この畜ここへ来やがって何をしようと云うのだ」
和尚は舟の中を見て怒鳴りながら禅杖を揮りあげた。と、白娘子と小婢はそのまま水の中へもんどり打って飛び込んでしまった。許宣はびっくりして眼をった。そうして許宣は夢が覚めたようになった。
「あの和尚さんは、なんと云う和尚さんでしょう」
許宣は気が注いて傍の人に訊いた。
「あれが、法海禅師様だ、活仏だ」
和尚の侍者が許宣を呼びに来た。許宣は伴れられて和尚の前へ往った。
「お前さんは、あの女達とどこであわしゃった」
許宣はそこではじめからのことを話した。和尚はそれを聞いて云った。
「宿縁だ、しかし、お前さんの慾念が深いからだ、だが、災難はもうすぎたらしい、これから杭州に帰って、修身立命の人にならなくてはいけない、もし再びこんなことがあったら、湖南の浄慈寺に来てわしを尋ねるが宜い、今、わしが偈を云って置くから、覚えているが宜い、本これ妖蛇婦人に変ず、西湖岸上婦身を売る、汝慾重きに因って他計に遭う、難有れば湖南老僧を見よ、宜いかね、この偈を忘れないように」
許宣は法海禅師に別れて、身顫いしながら帰り、針子橋の李克用の家へ往った。李克用は許宣から白娘子の話を聞いて、はじめて誕生日の夜に見た妖蛇の話をした。そこで許宣は碼頭の家を畳んで、再び李克用の家へ移ったが、十日と経たないうちに朝廷から恩赦の命がくだって、十悪大罪を除く他の者はみな赦された。許宣もそれと同時に赦されたが、法海禅師の詞もあるから急いで杭州へ帰って往った。
李幕事夫婦は許宣の帰って来るのを待っていた。李幕事は許宣の挨拶が終るのを待って云った。
「お前も今度は豪い目に逢った。私はお前が蘇州へ往く時も、蘇州から鎮江へ往く時も、できるだけのことはしてやったが、それでも苦しかったのだろう、それと云うのもお前が一人でぶらぶらしてるからだ、早く家内をもらって身を固めるが宜い、そうすれば怪しい者だって寄りつかない」
許宣はそれよりもじっとおちつきたかった。
「私は、もう懲り懲りしましたから、家内はもらいません」
許宣のその詞が終るか終らないかに人声がして、そこへ入って来た者があった。それは許宣の姐が白娘子と小婢を伴れて来たところであった。
「あなたは家内があるくせに、そんな嘘を云うものじゃありません、私はあなたの家内じゃありませんか」
許宣はがたがた顫いだした。そして、声を顫わし顫わし云った。
「姐さん、そいつは妖精です、そいつの云うことを聞いてはいけないです」
白娘子は許宣の傍へ往った。
「あなたは、私と夫婦でありながら、人の云うことを聞いて私を嫌うとは、ひどいじゃありませんか、でも、私はあなたの家内ですから、他へはまいりません」
白娘子は泣きだした。許宣は急いで起って李幕事の袖を曳いて外へ出た。
「あれが白蛇の精です。どうしたら宜いのでしょう」
許宣は未だ口にしなかった鎮江に於ける怪異を話して聞かした。
「ほんとうに蛇なら、宜い人がある、白馬廟の前に、蛇捉の戴と云う先生がいる、この人に頼もうじゃないか」
李幕事は前に立って許宣を伴れて白馬廟の前へ往った。戴先生は折好く家の前に立っていた。
「お二方とも何か私に御用ですか」
李幕事はいそがしそうに云った。
「私の家におおきな白蛇が来て、災をしようとしております、どうか捉ってください」
李幕事はそう云って腰から一両の銀を出して、戴先生の掌に載せた。
「今これだけさしあげておきます、もし捉ってくだすったら、後でまたべつにお礼をいたします」
戴先生は喜んで銀を収めた。
「では、すぐ後から準備をしてあがります、お二方は一足おさきへ」
李幕事と許宣はすぐ帰った。戴先生は間もなく後からやって来たが、手には雄黄を入れた瓶と薬水を入れた瓶を持っていた。
「どこに白蛇がおります」
李幕事は白娘子のいる室を教えた。戴先生は教えられたとおりその室へ往ったが、室の扉は締っていた。戴先生は何かぶつぶつ云いながらその扉を開けようとしていると、扉は内から開いた。戴先生は内へ入って往った。内には桶の胴のような白い蠎蛇がいて、それが燃盞のような両眼を光らし、炎のような舌を出して、戴先生を一呑みにしようとするように口を持って来た。戴先生は手にした瓶の落ちるのも知らずに逃げだした。
李幕事と許宣は戴先生の結果を見に来たところであった。戴先生は二人に往きあたりそうになって気が注いた。李幕事が云った。
「先生、捉れたでしょうか」
戴先生は呼吸をはずましていた。
「蛇なら捉れるが、あれは妖怪です、私はすんでのことに命を奪られるところでした。あの銀はお返しします」
こう云って戴先生は逃げるように出て往った。李幕事と許宣は顔を見合わして困っていた。
「あなた、ここへいらしてください」
室の中から白娘子の声がした。許宣は体がぶるぶると顫えた。しかし、往かずにいてはどんなことをするかも判らないと思ったので、恐る恐る入って往った。中には白娘子が平生と同じような姿で小婢と二人で坐っていた。
「あなたはほんとに薄情な方ですわ、あんな蛇捉の男なんか伴れて来て、あなたがそんなにわたしをいじめるなら、私にも考えがありますよ、この杭州一城の人達の命にかかわりますよ」
許宣は恐ろしくてじっとして聞いてはいられなかった。彼はそのまま外へ出たが、足を止めるのが恐ろしいので足の向くままに歩いた。彼は清波門の外へ往っていた。彼はそこへ往ってから気が注いて、これからどうしたものだろうかと考えた。しかし、それからどうしていいか、どう云う手段を採っていいかと云う考えはちょっと浮ばなかった。と、金山寺の法海禅師の云った偈の句が浮んで来た。それと同時に再び畜に纏われたなら、湖南の浄慈寺にわしを尋ねて来いと云った法海禅師の詞が浮んで来た。彼はそれに力を得て浄慈寺の方へ往った。
浄慈寺には監寺の僧がいた。許宣は監寺に法海禅師のことを訊いた。
「法海禅師にお眼にかかりたいのですが」
「法海禅師は、一度もこの寺へいらしたことはないです」
許宣は力を落して帰った。そして長橋の下まで来た。許宣はこれからどうしていいか判らなかった。彼は湖水の水に眼を注けた。俺が一人死んでしまえば、何人にも迷惑をかけないですむと思いだした。彼の眼の前には暗い淋しい世界があった。彼はいきなり欄干に足をかけて飛びこもうとした。と、後から声をかける者があった。
「堂々たる男子が、何故生を軽んじる、事情があるなら商量にあずかろうじゃないか」
そこには法海禅師が背に衣鉢を負い手に禅杖を提げて立っていた。許宣はその傍へ飛んで往った。
「どうか私の一命を救うてくださいまし」
「では、また彼の畜が纏わって来たとみえるな、どこにおる」
「姐の夫の李幕事の家に来ております」
「よし、では、この鉢盂をあげるから、これを知らさずに持っていって、いきなりその女の頭へかぶせて、力一ぱいに押しつけるが宜い、どんなことがあっても、手をゆるめてはならない、わしは、今、後から往く」
許宣は禅師から鉢盂をもらって李幕事の家へ帰った。李幕事の家の一室では、白娘子が何か云って罵っていた。許宣はしおしおとした容をしてその室へ往った。白娘子は許宣を見るとしとやかな女になって、許宣に何か云いかけようとした。隙を見て許宣は袖の中に隠していた鉢盂を出して、不意に女の頭に冠せて力まかせに押しつけた。女は叫んでそれを除けようとしたが、除けられなかった。女の形はだんだんに小さくなっていった。そして、許宣がなおも力を入れて押しつけていると、女の形はとうとう無くなって鉢盂ばかりとなった。
「苦しい、苦しい、どうか今まで夫婦となっていたよしみに、すこし除けてください、私は死にそうだ」
鉢盂の中からそうした声が聞えて来た。と、その時李幕事が来て云った。
「和尚さんが、怪しい者を捉りに来たと云って見えたよ」
「それは法海禅師です、早くお通ししてください」
李幕事は急いで出て往ったが、やがて法海禅師を伴れて入って来た。
「妖蛇はこの下に伏せてあります」
禅師はそこで口の中で唱えていたが、それが終ると鉢盂を開けた。七八寸ぐらいある傀儡のようなものがぐったりとなっていた。禅師はその傀儡に向って云った。
「その方は、何故に人に纏わるのじゃ」
「私は風雨のときに、西湖に来た蠎蛇です、青魚といっしょになっておりましたところで、許宣を見て心が動いたので、こんなことになりました、それでも、曾て物の命を傷うたことがございませんから、どうか許してください」
「淫罪がもっとも大きいからいけない、それでも千年間修練するなら命は助かる、とにかく本の形を現すが宜い」
と、傀儡は白い蛇となって、その傍に青い魚の姿も見えて来た。
禅師はその蛇と魚を鉢盂に入れて、それに褊衫を被せて封をし、それを雷峰寺の前へ持って往って埋め、その上に一つの塔をこしらえさして、白蛇と青魚を世に出られないようにした。禅師はそれに四句の偈を留めた。
雷峰塔倒れ、西湖水乾れ、江潮起たず、白蛇世に出ず
許宣は法海禅師の弟子となって雷峰塔の下におり、その塔を七層の大塔にしたが、後、業を積んで病がないのに坐化してしまった。朋輩の僧達は龕を買うてその骨を焼き、骨塔を雷峰の下に造ったのであった。