此の話は想山著聞奇集の中にある話である。該書の著者は、「此一条は戯場の作り狂言のようなる事なれども、にあらず、我が知音中村何某なにがし、其の時は実方みのかたの藩中に在る時の事にて、近辺故現に其の事を見聞して、よく覚え居りてつぶさに咄せし珍事也」と云って、此の話の事実であることを証明しようとし、其の事件のあった年号まで明記して、「文化八年の冬の事と覚えし由」などと云っているが、どうやら此の話は日本種でないような気がするが、ちょっと原話が思い出せないから、其の考証は後日に譲って伊勢の話として云ってみよう。
 伊勢の神戸宿の東隣になった村に久兵衛と云う農夫があったが、不作のために僅かな年貢の金に詰ってしまった。しかたなく十六歳になる一人むすめを飯盛女にすることにして、一身田と云う小さな宿場へ伴れて往き、其処の四日市屋と云う旅籠屋へ売渡して、三箇年の身の代金六両二分を受けとって帰って来た。
 一身田から在所までは三里ばかりの里程みちのりがあった。もう夕方で黄ろな夕陽が路傍に見える水田の稲の刈株に顫えついていた。久兵衛は夕陽の光を背に浴びて、※(「くさかんむり/粛」、第4水準2-86-77)条とした冬枯の田舎路を歩いていた。庚申塚のある四辻を右の方に折れ曲ろうとすると、塚の背後うしろの根本に藁畔わらぐろをしてある禿榎ちびえのきの梢に止っていた一羽の烏がついと飛んだ。
 一身田を離れると中野村と云う小村が来た。路の右手に杉林が見えて其の前が畑地になり、大根や冬菜のようなものを作ってあった。麦を蒔いたらしい土をならした畑もあった。菜畑には鳥の来ないように竹を立ててそれに繩を張ってあったが、それにも懲りず二三羽の雁が来て畑の中を掻いていた。雁は久兵衛の来たのを見るとばたばたと飛び立った。最後に飛び立った雁の一羽は、どうした拍子にか其の繩に足を引っかけて羽ばたきを初めた。久兵衛は思いがけない獲物を眼の前に見つけて心をそそられたが、其のあたりは禁猟の場所になっているので、一足往きかけたものの往くことができなかった。それでも飛べないで羽ばたきをしている雁の羽音を聞いては、其のままにして帰ることもできなかった。彼はきょろきょろと四辺あたりを見廻した。それは人影が有るか無いかを見定めるためであった。しかし、何処にも人らしい物は見えなかった。彼の体は菜畑の方へ動いて往った。
 そして、いきなり隻手かたてで雁の首を掴み、隻手で足にからみついている繩を除けて、鳥を締め殺そうとしたが人目が気になったので、見るともなしに背後うしろの方に眼をやった。と、じぶんが今通って来た路に二人伴の人影がちらと見えた。彼は吃驚して其のまま鳥を懐へねじ込んで、急いで畑から出てそそくさと歩いた。懐からはみ出している大きな鳥は、力一杯に悶掻いて逃げだそう逃げだそうとした。
 久兵衛の首には、むすめの身の代金を入れた財布の紐があった。彼はそれに気がついて隻手で其の紐を首から除け、それを雁の首に巻きつけて一呼吸いきに縊り殺そうとした。と、右の足の草鞋の紐が解けて左の足でそれを履んだのであぶなく倒れようとした。彼はしかたなく俯向いて紐を結んでいると、雁がまた大きな足掻をして懐から転げ出るとともに、抜毛をばらばらと落しながら其のまま飛んで往った。帯下に挟んでいた財布も抜けて鳥といっしょに空にあがった。
 久兵衛はあわてふためいて両手を拡げながら、鳥の飛んで往く方に走って往った。雁は高くもあがらず苦しそうな羽づかいをして飛んで往った。久兵衛は夢中になって石を拾って投げたり、枝を拾って揮り廻したりした。
 雁はやがて根上りと云う処まで往って、其処の小山の松林の上を越して、落ちかけた夕陽の光に腹を赤く染めてむこうの方へ姿をかくしてしまった。久兵衛は呆然としてつっ立った。よしなき慾心を起したばかりに、むすめを売った血の出るような金を無くしてしまった。愚かな農夫は声をだして泣いた。
 陽が落ちて風が寒くなった。久兵衛は力ない足を引摺って在所の方へ帰って来たが、我が家が近くなるに従って其の足が重くなって来た。彼は平生ふだん口やかましい女房の顔を見るのも苦しかったが、それよりも苦しいのは三日の後に差し迫っている年貢の期限であった。可愛いむすめを売る程であるから、彼は他に金をこしらえる手段はなかった。……額の抜けあがった顔がふと眼前めさきに浮んで来た。それは年貢の催促に来る名主の顔であった。それは、
「其の日までに出来なければ、いよいよ牢屋へ往かねばならんぞ」と云った時の顔であった。それを聞いて飯盛女にと進んで往った女の身の代金は、ちょっとした口腹の慾のために無くしてしまった。何と云ってももう金は帰って来ない。
 久兵衛は暗い藪陰の路を通って我が家へ帰って来た。
「……戻ったの、遅かったから心配しておった、都合が好かったの」と、地炉いろりの前にいた女房が庭の方を見て云った。
 久兵衛は黙って頷いて見せた。女房は其の顔に眼をとめた。
「どうかしたの」
 久兵衛は何か口の裏で云いながら、切れた草鞋を解いてやっと上にあがり、女房のむこうに崩れるように坐った。
「どうかしたの」
 女房は何だか気になると云うさまであった。
「えらいことが出来た」と、久兵衛は吐息といっしょに吐き出すように云った。
「え、何が」と、女房は眼を光らした。
 久兵衛は黄ろな小さな顔を曇らして、雁に財布を持って往かれた話をはじめた。
「お前さん、そんなことをして、どうするつもりだよ」と、女房は叱りつけるように云った。
「どうも、こうもない、俺はもう諦めた」と、声を落して云った。
「どう諦めたの」
「牢屋へ往くか、死んで申しわけするか、其の二つあいじゃ」
 女房は黙り込んでもう何も云わなかった。
 久兵衛は腕組をして考え込んだ。

 其の翌朝のことであった。四日市に住んでいる漁師の一人は、伊勢の海へ漁に往くつもりで平生いつものように釣道具を持って家を出たが、海岸へ出ようとする路傍の沮洳地そじょちには、平生いつも雁や鴨がいるので石を投げて当ると時たま其の肉に有りつくことができた。漁師は其の朝も三つ四つ石を拾って往って、土手の下の沮洳地を見ると、枯蘆の中に雁の群が餌をあさっていた。漁師はそれを見ると釣道具を置いて石を投げた。不意の襲撃に驚いて雁の群はどうと云う羽音を立てながら、明け放れたばかりの微靄のある空へ飛んだが、一羽の雁は石に傷ついたのか沮洳地の上を放れなかった。漁師は喜んでまた残りの石を投げた。石は反れて其の横の方に落ちた。それでも鳥は飛ばなかった。そして、飛ばずに体をかわすようにした。
 漁師は雁はとても飛べないと思ったので、土手を駈けおりて沮洳地の枯蘆の間へ入って往った。漁師が近づくと雁はひょろひょろと逃げ出したが、飛びあがることはできなかった。漁師は透さず追って往った。鳥は枯蘆の中へ入って羽をばたばたやって足掻きはじめた。漁師は飛んで往って其の胴を掴んだ。首にかかっていた財布が枯蘆に引かかったので飛ぶことができなかったのであった。
 漁師はいきなり其の首を締めて土手へあがって見ると、其の財布には六両ばかりの金と何か書類かきつけらしいものが入っていた。
 漁師は雁を獲ったうえに金まで拾ったので、其の日は漁に往くことを廃して家へ帰り、二度寝をしている女房を起して鳥と財布を見せた。女房は財布の中の書類かきつけを開けて見た。それは四日市屋の主翁ていしゅが久兵衛に渡した証拠の一札であった。
「此の金は、むすめを飯盛に売った金じゃ、まあ、どうして雁の首にかかったろう」と、女房は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。
「そんなことはどうでもいいさ、天から授った金じゃないか」と、漁師は悦しそうに云った。
「なんぼ天から授った金でも、女を売ろうと云うには、よくよくのことがあったからじゃ、こんな金をとっては、神様のお叱りを受けるよ」
「それもそうだな、困っておるだろうなあ」
「困っておるとも、子を売った金じゃないか」
「そんじゃどうしよう」
「捨てた人に戻してやりよ」
「捨てた人が判るもんか、雁が首へかけておったじゃないか」
「四日市屋と書いてあるから、旅籠屋仲間に往って聞きゃ、判るよ」
 漁師は財布を持って家を出て、魚を持って出入する宿の旅籠屋で聞くと、四日市屋は一身田に在ると教えてくれたので、其の足で一身田の四日市屋へ往き、それから久兵衛の家を尋ねて往った。
 そして、漁師が久兵衛の家に着いたのは八時やつに近いころであった。久兵衛と女房は午飯も喫わずに地炉の傍でぽかんとしていた。
「お前さんが久兵衛さんか、お前さんは財布ぐるみ金を捨てさっしゃりはしねえのか」と、漁師は久兵衛の顔を覗き込んだ。
「六両二分入れた財布を捨てました」と、久兵衛は云った。
「そんなら、私が拾って此処へ[#「此処へ」は底本では「比処へ」]持って来た。受けとらっしゃれ」と、云って漁師は懐から財布を出した。「たしかに六両二分と、書類が入っておる」
 久兵衛夫婦の顔は活々として見えた。漁師は雁を猟った話をして聞かした。久兵衛も雁に財布を持って往かれた話をした。話の結果久兵衛は漁師に其の金を半分やろうとしたが、漁師は二朱で好いと云って二朱執ってかえって往った。

 此のことが何時となしに藩庁に聞えた。藩では二人を呼び出して漁師に青ざし五貫と米五俵とくれ、久兵衛には青ざし五貫くれた。漁師のは奇特なおこないに対する褒美であったが、久兵衛のはむすめを売った金でありながら、義理を辨えて漁師に半分やろうとしたからだと云うような変な名目であった。そして、禁猟の場所で鳥を執ろうとした罪は不問に付せられていた。

底本:「日本怪談全集 」桃源社
   1974(昭和49)年7月5日発行
   1975(昭和50)年7月25日2刷
底本の親本:「日本怪談全集」改造社
   1934(昭和9)年
入力:Hiroshi_O
校正:大野裕
2012年9月25日作成
2012年11月18日修正
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