十月十八日、空が晴れて日の光りが麗しかった。十二時少し過ぎ、私はHの停留場で電車を下りて家へ歩いて行った。賑かなM町通りを通っていると、ふと私はたかしに玩具を買って行ってやろうかと思った。玩具屋の店先には種々なものがごたごた並べてあった。私はその方にちらりと目をやって頭を振った。そんな考えが私に起ったのは、非常に珍らしかったのである。そして何だか変だった。空を仰ぐと、青く澄み切った大空が円く悠久な形を取って私自身を淋しくなした。
 私は何時ものように性急に歩きながら、寺の間の静かな通りを自分の家に帰って行った。
 玄関にはいると、つねが一人私を出迎えた。私は一種の物足りなさを感じた。私が勤めから帰って来ると、いつも芳子かS子さんかまたは常かが、堯を後から抱えるようにして歩かして出迎えるのが普通だった。堯は笑い乍ら飛びはねるようにして出て来るのであった。
 私は黙って靴を脱いで茶の間に通り、それから座敷の方を覗いた。いつもの蒲団を敷いて堯は寝ていた。芳子が側に坐っていた。
「どうかしたの。」と私は云った。
「ええ。」と芳子は不安らしい眼を挙げた。そしてこんなことを話した。――十時頃堯はいつものように昼寝をした。十二時に眼を覚した。がっかりしているようで元気が無かった。額が熱かった。熱をはかると九度八分に上っていた。驚いてまた寝かすと、そのまま眠ってしまった。
 堯は咋年の一月十一日に生れて、丈夫に育っていった。所が六月に百日咳にかかった。丁度私達のことをよく知ってるSという小児科専門の医学士が居たので、その人にて貰って、そうひどくならないうちに癒ってしまった。それから八月の末に消化不良にかかった。ごく軽かったので近くのTという医師に診て貰って居たが、いつまでもよくならなかった。いつの間にか病気は慢性になった。私はまたS医学士の手を煩わした。病気がひどくなって危険なことも二三度あった。私に似て呼吸器も弱かった。がS氏の手当に依ってどうかこうか生命を取り留めた。S氏は大学の研究所の方の忙しい仕事の合間にいつも私の家を見舞ってくれた。病気が軽くなると、芳子は堯をだいて常を連れて、大学のS氏の許へ通った。そして今年の五月頃からはもう時々しか薬も取らなくていいようになった。粥をすすって魚肉を食べるようになった。百日咳以来約一年間に及ぶ病気に衰弱し切った身体も、少しずつ恢復してゆくようだった。私達は一年間の心労からほっと息をついた。
「よくもったものだ」とふり返って考えた。そしてその頃からT式抵抗療法の方のKという女の人に毎日私の家へ来て貰って、十分か十五分ずつ腹を揉んで腸の働きを活気づけて貰った。八月末からは、K氏にも三日に一度位来て貰えばいいようになった。九月なかばからは一週に一度になった。
 堯は少しずつ、ほんの少しずつ、一年間の衰弱から脱して肥っていった。もう他人の手をからないでも、自分一人で生長してゆけるようになった。時々便の加減が悪かったり熱が出たりしたが、それもすぐに癒った。物につかまって歩けるようになった。そして頭の方も著しい発達をして来た。何でもよく分っていた。私達は喜んだ。N神社の祭礼には、小さな万燈まんどんを買ってやると、それを手に持って、後ろから人に身体を支えさせながら、家の中を駆け廻った。
 芳子は二度目の児を妊娠していた。九月末か十月初めに出産の予定だったが、まだそれらしい模様も見えなかった。少し後れても心配はいらないと産婆は云った。「心臓の鼓動が多いようだから屹度女のお児さんでございますよ。」と云われた。それで男と女と一人ずつで丁度よくなるのであった。
 私はその日、堯の顔を覗き込んだ。よく眠っていた。額に手をやると、まだ熱があったが、少しは減じたようだった。でもとにかく一寸した時にかかりつけの近くのU医師を呼ぶことにした。「大丈夫だ!」と私は云った。
 私達だけ食事をした。食事の時はいつも、堯は私の足座あぐらの中に坐って物を食べた。その日は堯が眠っているので、珍らしく餉台の前に一人で坐ると、私は妙に物淋しかった。
 食事がすんで暫くすると、堯は眼を覚した。抱いてやってもぐったりしていた。食麺麭の切れを持たしたが食べようともしないですぐに捨ててしまった。食物を取るようになってからも、昼と晩とだけ堯は粥を食べて、朝はいつも山羊乳に食麺麭を食べていた。それから食事の間にも、砂糖分の多い菓子は腸にいけなかったので、物を欲しがる時はいつも食麺麭をやっていた。それを堯はいつも大変喜んでたべた。毎日、少し遠かったが品がいいのでA堂から、麺麭を配達して貰っていた。がその日はその麺麭をも手にしなかった。「どうしたんだろう。」と私は芳子と顔を見合った。然し別に堯は泣きもしなかった。ただしきりに眠そうであった。
 間もなくU医師はやって来た。一通り診察がすんだ。腸に大分食物が停滞しているとのことだった。然し別に心配するほどではないとのことだった。長い間ひどい腸の病気に悩んで来た後だったので、そしてそういうことはよくあったので、私は別に驚きもしなかった。
 氷枕で頭を冷やし、また額も冷してやった。四時すぎに一回便通があったが、大して悪い便でもなかった。五時に医者の許から貰って来た薬を与えた。熱をはかると七度六分に下っていた。
「やっぱり何でもなかったようだね。」と私は云った。
「熱が下れば宜しいんですわね。」と芳子は答えた。
 然し私達は何だか心の底で不安だった。妙に堯は睡眠を欲しているらしかった。それでも食事の時にははっきり眼を開いていたので、私は褞袍にくるんでいつものように足座の中に抱いてやった。粥を止して、麺麭をやった。その二片を堯は食べた。それから山羊乳を五勺足らず飲んだ。
 六時すぎに下痢が一回あった。真青な便だった。八時頃また一回下痢した。青い色が妙に濃く黒ずんでいた。そしていつもうとうとと眠っていた。
 私達は悪いと思うとまた急に不安になった。堯については私達は昨年以来たえず腸で脅かされて来た。その上咋年の夏以来私達の近しい身内の者で病死した人が三人もあった。病気や死に対して神経が苛ら苛らしていた。で堯も容態が悪いようだったら、すぐにS医学士かまたはU医学士に診察を願おうと思った。U氏というのは、小児科では秀抜な手腕を有すると定評のある人で、最近小児科専門の病院を建てていた。
 S子さんに、堯の便を持ってすぐにU医師を訪れて貰った。すると、便の色は薬のためである、便通は薬に多少下剤が混じているので少し度数が多くなるかも知れない、然し心配のことはない、という答えだった。で兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]、もう夜も遅いし、翌朝まで容態を見ることにした。
 十一時頃、堯は物を欲しがった。その日は、朝食に麺麭と山羊乳とを食べ、それから夕方同じくその少量を取ったばかりだった。で芳子は葛湯を作ってやった。そしてその少量を与えた。それから堯は暫くして安らかに眠った。熱も七度三分に下っていた。
 私達は、堯の枕頭で暫く黙っていた。が何だか非常に淋しくなった。昼間M町通りを帰って来る時ふと玩具のことを考えたことを、私は話した。「これで、坊やが病気でもひどくなると、あれが虫が知らしたとでもいうようなことになるんだね。」私はそんなことを云った。「私はまた疫痢にでもなるんではないかと思って……。」と芳子は云った。
 私達は十二時頃床についた。芳子が産期近くなってから堯は私と寝るようになったが、其晩芳子は堯を抱いて寝てやった。
 その夜中に下痢が二回あった。便の色が非常に悪かった。然し朝になっても別に容態が悪いようでもなかった。熱は六度四分だった。「この分ならいい。」と私は思った。
 私は厳格なる公務を帯びている身だった。それでいつものように六時すぎに家を出た。然し絶えず気がかりだった。そして十一時家に帰って来た。
 堯は眠っていた。容態は変っていなかった。十時頃U医師が来て腸の洗滌を一回したそうである。下痢が朝一回と、私が帰って来てから一回あった。然し此度は、便に極めて少量の黒ずんだ赤いようなものが混じていた。食慾は一切なかった。
「これはいけない。」という気がした。堯は前から消化不良がひどい時でも、食慾が少しも無いということは殆んどなかったのが、急にはっと思い出された。私は少し狼狽し出した。私の帰るのを待っていた芳子も急に騒ぎ出した。
 十二時頃になると堯はひどくぼんやりして来た。「嗜眠の状態ではないかしら。」と私は思った。
大急ぎで食事を済したS子さんに至急車を走らして貰った。「U氏かS氏か、二人共居なかったら至急誰かに……。」と私は頼んだ。U医師に無断ではと思ったが、それを断る間も待ち切れなかった。
 私と芳子とは堯の枕頭についていた。堯は欠伸あくびをした。
「欠伸をするのはいい方だね。」と私は云った。
「さあどうですか。」と芳子は答えた。
 然しそんなことでもいいと思わざるを得ないほど、私の心は不安になっていた。そしてその不安は本当に形になって現われて来た。
「あなた、眼が変ではありませんか。」と芳子が云った。
 私は堯の眼を覗き込んだ。両の眼球が少し寄っていた。――芳子はそういう病人の眼を見たことがあったんだそうである。昨年の夏私が国へ帰って後、妹の病気がひどくなった時、芳子は彼女の眼が寄っているのを見た。「Yちゃんあなたの眼は変ね、大変寄っているわよ。」と云うと、妹は答えた。「そうお、何だかあたし、物が二つに見えて煩くて仕様がないのよ。」その後間もなく妹は死んだ。そう芳子は私に後で話した。
 一時すぎであった。堯は両手を少し震わした、と同時に、両眼が少しぐるりと廻転した。そしてまた後は静かになった。十分ばかりすると、また同じような事が起った。「痙攣だ!」そういう考えが私の頭に電光のように閃いた。もうどうにも出来なかった。その軽微な痙攣は頻繁に襲って来た。私達はじっと堯の小さな手を握ってやっていた。顔を近寄せたり遠ざけたりしたが、もう視力も非常に衰えているらしかった。が時々微笑んだ。
 S子さんが帰って来た。私達はほっとした。――先ずU病院へ行った。氏は往診中で七時頃でなければ帰られないそうだった。ですぐに大学の研究所のS氏の所へ行った。丁度横浜へ行かれて不在中だった。それでまたU病院へ帰って来て、副院長をと頼んだ。丁度同病院には、大学の研究所へ通っていて日曜毎に出て来られるTという小児科出の医学士の人が居た。病院から大学へ電話をかけてくれた。すぐに行くというT氏の答えだった。
 私達はT氏を待った。
 二時すぎには、堯はもう殆んど意識を失ったように見えた。何を云っても、何を見せても、ぼんやりしていた。軽微な痙攣がやはり時々襲った。
 何時の間にそんな急な変化が起ったのか。ただじっと静かに苦しみもしないで寝ているうちに、堯の体内ではどんな戦が戦われたか。「坊や、坊や、どうしたの。」そう芳子は顔を寄せて云った。
 T氏の来るのが待ち遠しかった。S子さんは自分の俥を病院に残して来たというから間違いはなかろうけれど、それでも苛ら苛らしてきた。念のため病院に自働電話をかけさしに常をやった。
 常と入れ違いにT氏が来られた。すぐに一通り病状を聞いてから、T氏は診察をした。「ひどく急激に来ましたな。兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]至急病院で手当をなすったが宜しいでしょう。」と云われた。
「脳は大丈夫でございましょうか。馬鹿になるようなことは……。」と芳子は云った。
「ええ脳の方は御心配はいりません。」とT氏は答えた。
 T氏と私達との話で、T氏はS氏と大学の同じ研究所で研究せられている友人であることが分った。大変都合がよかった。U病院の方は万事T氏に頼んだ。氏はカンフルを堯の右腕に注射して先に帰られた。
 大急ぎで間に合せの仕度をした。私は堯を毛布にくるみなおねんねこにくるんで、胸に抱いて車に乗った。堯は半睡の状態に居た。車の中で一度軽い痙攣が来た。私は、幌の中の狭い天地に眼を伏せて、堯の額に唇をおしあてた。
 三時半病院についた。二分ばかり応接室に待たされた。それから病室に案内せられた。中庭に面した二階の六畳の室で、寝台の室でないのが気持よかった。
 医員と女医と看護婦長とですっかり堯の手当が為された。胃部には温湿布があてられた。私は医員の人から、今までの堯の病状を悉しく尋ねられた。堯はもう意識を失っていた。――熱六度三分、脈搏百、呼吸三十五。
 一先ず凡ての事が済むと、私は初めて落ち附いた。そして力強くなった。「屹度よくなる!」とそう思った。病院には他にも多くの入院患者が居た。廊下を歩き廻っている子供も居た。今日初めて粥を一杯許されて喜んでいる子供も居た。
 痙攣は全く起らなかった。然し、その代りに嘔吐が催して来た。白い粘液性の唾液みたいなものが少しずつ口から出た。医者は首を傾げた。食物も飲料も一切与えられなかった、それから薬も。
 間もなくS子さんが家から来た。病院に頼んで置いた附添看護婦も来た。
 堯は眠っていた。
 私は六時頃、S子さんに頼んで、家に帰った。
 芳子がじっと坐って、一つ所を見つめるような眼をしていた。
「どうしました。」
「同じようだ。」
「痙攣は?」
「ない。その代り嘔吐があった。」
「沢山?」
「いや唾液みたようなものを少し。」
 私達は大急ぎで食事を済した。
 芳子も病院に行くと云い出した。私は止めた。何時出産か分らない身体だった。もう予定の日を二週間もすぎている身体だった。俥なんかに揺られるのが一番危険だった。
「近いからゆっくり歩いてゆくわ。」と芳子は云った。
 私も遂に同意した。二人で家を出た。曇った晩だった。
「私もう覚悟しています。初っからいけないというような気が今度はしたんですから。」
 芳子は妙に鋭い直覚を持っていた。よく種々なことを前以て云い当てることがあった。
「なに大丈夫だ!」と私は云った。「いけなかったら僕等の意志で癒してみせる。」
 私達はじっと眼を据えて歩いた。
「大丈夫かい。」
「ええ。本当に思い込むと身体なんか案外どうにでもなるものですね。」
 病院について、病室にはいると、室の中にはS子さんと附添看護婦とが黙って坐っていた。
 私が居ない間にU氏が帰られて診察があったそうである。それから腸の洗滌が一回。嘔吐があるので、薬も一切与えられなかった。ただ時々食塩水を少しずつ唇へ垂らしてやった。堯は半ば無意識にそれを呑み込んだ。
 その晩は私と芳子とがついてることにした。男は病院に泊ることを許さない規定だったが特別に許された。
 S子さんは帰ったが。そして後で、常蒲団や襁褓おむつを届けて来た。看護婦の蒲団は病院で借りることにした。
 八時半すぎにU氏がまた見舞って来られた。
「疫痢ではありませんでしょうか。」と私は聞いた。
「いや疫痢は三四歳以下の幼児には殆んどありません。激烈な消化不良ですね。長い消化不良の後には恢復期によく急激なのが襲うことがあります。」
「意識は殆んどないようですが。」
「そうですね。中毒症状を呈したのです。中毒と云っても、食物やなんかの中毒ではありません。病毒が脳を侵したんですね。」
 私はもうそれ以上何も聞く必要が無かった。その上看護婦に向って、便は兎も角も[#「兎も角も」は底本では「免も角も」]消毒するようにとU氏が云われた言葉が、私達の耳にも留った。
 然し私達は落ち附いていた。そしてただU氏に頼るの外はなかった。外国人を思わせるようなU氏の風貌と、その大きい体躯と、その穏かな言葉と、世に定評のあるその手腕とは、私達をして十分信頼せしむるに足りた。
「S君の御友人だそうですね。」とU氏は云われた。「S君の子供も最近肺炎で入院していました。」
 私達は力強くなった。そしてS氏が横浜に行っていて不在なのがただ遺憾だった。
 私達は堯の手首を取ってみたり、その顔を覗き込んだりした。堯はぼんやり眼を見開いていた。両眼はもう寄っていなかった。然し何にもよく見えないらしかった。私達はその側で、どうすることも出来ない締めつけられたような自分達の心を見出した。時間がただ過ぎて行った。
 その晩十二時近くに看護婦は容態表を記入した。――熱八度二分。脈搏百二十、呼吸四十二。嘔吐八回、尿二回、便通二回、腸洗一回。
 三時頃から看護婦を寝かした。彼女は堯の左に寝た。私は堯の右に寝た。芳子が枕頭で起きていた。然し私は眠れなかった。芳子と代ったが、芳子も眠れなかった。病室の中はむし暑かった。
 そしてそのまま夜が明けた。看護婦は堯の顔にガーゼの切れをかけて室を一通り掃除した。掃除を終ると窓の上の方を少し開いたままにした。其処から曇った朝の凉しい明るみが室に流れ込んだ。然し私達にとっては、その昼も直接に夜から続いた昼であった。凡てがただ明るくなり、電燈の光りが雲を透してくる太陽の明るみに代ったのみであった。堯は無意識の眼をぼんやり見開いていた。苦痛もなければ喜悦もなかった。時々唇を動かした。その度に食塩水をやった。口元を動かしてそれを飲み込むのが、見ている私にはたまらなく嬉しかった。
 凡てが澱んだままの重苦しいそして静かな一日が続いた。過去のことが直接に未来に向って蘇っていった。――堯は独楽こまが好きだった。私は家でよくそれを廻してやった。よくなったら病院の室にそれを持って来ようと私は思った。――外に出かける時はいつも堯は後を追った。誰か着物を着更えると必ず外出するものと思っているらしかった。そして鴨居の釘に懸っている自分の外出着のちゃんちゃんを指した。外に出る時はいつもそれを着るのだった。病室にもそのちゃんちゃんを懸けて置いてやろうと私は思った。――私の家の二階の窓からは墓地の一隅が見えていた。窓際に立たせて、「ののちゃん。」と云うと、堯は小さな両手を合した。後には、何とも云わなくても、墓所の石塔の方を見て両手を合した。病室の窓際も堯がつかまって立つのに丁度よい位の高さだった。窓からは墓地は見えなかった。その代りに、月のある晩は、月が見えるだろう、月の無い晩は、月の代りに向うの円い燈が明るく点るだろう、と私は思った。
 然しそういう過去と未来との間に、大きな空虚がぽかりと穴を開いていた。其処に堯は意識を失ってじっと横わっていた。私は眼を閉じてその枕頭に坐っていた。坐っているのがつらくなって、長く寝そべって、両手に頭を抱えた。
 朝、医員が見舞って来た。九時すぎにU氏の診察があった。
「嘔吐は?」とU氏は看護婦に聞いた。
「夜中から後は一回もありません。」
 U氏はじっと患者の顔を見ていた。私は何とももう尋ねなかった。
 十時頃から、二時間置きに人乳を五グラムずつ与えることになった。乳は女医の人のを搾るのであった。それと共に薬もその前後に与えられた。間々には食塩水も与えられた。堯は、口中に水液がたまると、口を動かしてよくそれを飲み込んだ。
 S子さんは種々なものを届けて来た。十一時頃、芳子の父のA氏が見舞って来られた。使をやって入院証書の調印を頼んだので堯の病気を知られたのである。間もなく芳子の産婆のIさんが見舞に来た。A氏の家から聞いてである。Iさんは堯をも取り上げた人だった。心配そうに堯の顔を覗き込んで首を傾げた。それから芳子の身体のことも心配している眼付をして居たが、それは何とも云わなかった。
「あなた暫く家で寝んでいらしたら。」と芳子は云った。
「お前こそ眠ったがいいよ。此処で眠ってごらん。」
 然しそれは殆んど出来ないことだった。家に帰るにも芳子はその身体では危険だった。で晩になって芳子は眠ることにして、私は少し身体を休めに家に帰った。
 常が一人で何か用をしていた。私は座敷の方に蒲団を敷かして寝た。眠れなかった。眼を開いていると、柱にはった白紙で包んだ禁厭まじないふだが眼についた。
 前月の十四日に私達はその家に引越して来たのであった。それまでのH町の家は日当りの悪い陰気な家だったが、此度のS町の家は、日当りのいいぱっと明るい二階家だった。殆んど全快した堯は、次第に丈夫になっていったのである。「此度の家は子供にいい家だ。」と私達は云った。然し、方向が悪かないかと後から親戚の人々が云い出した。第一に引越した方向が鬼門に当りはしないか。第二に、かみの便所はいいが、しもの便所が家の鬼門に当りはしないか。A氏は昔の大きい円い磁石を持って来られた。よく調べてみると、第一第二とも、鬼門より大分北に外れていた。それでもというので、R叔父は、鎮宅霊符という禁厭の札を作って持って来て下すった。それを私は座敷の柱に貼りつけた。
 私は九星とか易占とかを信じなかった。凡ては自分の意志であると信じていた。もし本当に超自然の理法があるならば、それに自分の意志を以てうち勝ってみせる、と私は云っていた。
「それであなたはいいでしょうけれど、ほかの者にはそれだけの強い力が無くて倒れることがあるかも知れませんもの。」そう芳子は云った。長い間種々な不幸のために、勝気な彼女も大分弱々しくなっていた。
「なに家の者は皆僕の意力で保護してみせる。」と私は答えた。
 然し私は本当にその力を持っているか?
 私はそんなことを考えて眠れなかった。起き上って家の中を歩き廻った。それから私は二階に上って、三畳の方の戸棚を開いた。去年の今月十一日に死んで漸く一週忌が終ったばかりの父の新らしい位牌があった。私はその前に蝋燭と線香とをつけた。そうするのは私のその時の心に如何にも自然だった。堯もよくその前に手を合したことがあった。
 仏壇の下に小さな箱があった。私はそれを開いてみた。小さい草履や鬼子母神の像などがはいっていた。
 私の家は、故郷の田舎の家は、代々子供が育たなかった。家の後を継いだのは皆養子であった。私の祖父もそうであった。祖父には数人の児があったが、その後を継いだ私の父は、やはり祖父の子ではなかった。事情あって祖母の腹に出来た子だった。それを私の母は心配して居た。そして堯が長く病気で居ることをひどく気にして、かねて信心の鬼子母神様にお詣りをするように私にくれぐれも云って来た。それで芳子は堯をつれて雑司ヶ谷の鬼子母神にお詣りをした。小さな草履を貰って来た。向う二年間鬼子母神の御側に奉仕する児となったのである。毎月一回参詣をしなければならなかった。
 私はその小さな草履を見ていると、涙ぐましい感情をそそられた。二階から下りて来てまた蒲団の中にはいった。「今年は本命だから何をしても悪い。ただじっと動かないでいなければならない。」夏に国に帰った時母から云われた言葉が思い出せた。
 目に見えない種々な超自然的な悪いことが私のまわりに立ち罩めた。「俺は凡てを征服してみせる。」と私は自分に云った。然し人が云うように、幾重にも重った私の厄を堯がもし荷っているとしたら……。「自分の力で堯を保護してみせる。堯は自分のものだ!」そう云ったが、私の心は妙に慴えていた。余りに突然な病気だった。「初めからいけないという気がした……」と芳子は云ったのだった。
 重苦しい気分のうちに、私は一時間ばかりうとうとした。眼を開くとじっとして居れなかった。私はすぐに家を飛び出した。室の鴨居に懸っている堯のちゃんちゃんが私の眼の底に残った。
 私は暫く外を歩き廻ってみたかった。然し何時の間にか、私はすぐに病院の前に来てしまった。堯は同じようにじっと寝ていた。
「大丈夫かい。」と私は云った。
「え?」と芳子は顔を上げた。私の問いが、危篤の状態に居る堯に向って為されたのか、または生れようとする腹の児に向って為されたのか、彼女は惑ったのである。
「お前の方は?」
「ええ。」と云って芳子は初めて軽く微笑んだ。
 夕方から、堯には人乳十瓦ずつ与えられるようになった。U氏が一番心配している嘔吐は全く無くなかった。
 そうしてたとえ十瓦の人乳でも落ち附いてゆけば非常な幸いであった。夕方、食塩水の腸注入をやったが、殆んど吸収せられずに出てしまった。熱も脈搏も呼吸も増してゆくばかりであった。頭にはたえず氷嚢があてられた。額をも水で冷した。然し額の方は時々しか冷せなかった。少し続けてやればすぐにチアノーゼを起しそうだった。否既に軽微なチアノーゼは起していた。夜になると、額を冷しているとすぐに頬のあたりまで冷たくなって、色が変りそうだった。
 脈が時々結滞するようになった。カンフルの注射が行われた。十瓦の人乳を飲むのに、長くかかるようになった。それがすむと非常に疲れるらしかった。
 夜U氏の回診の時、私は云った。
「脳は大丈夫でしょうか。よくなっても馬鹿になるようなことはないでしょうか。」
「ええ大丈夫です。脳膜炎を起したのではありませんから。」
 私は、U氏からじっと見つめられて恥しくなった。もうそんなことを云ってる場合ではなかったのだ。然し……。
 初めて入院前にT氏が見舞われた時、芳子が第一に聞いたのもそれだった。どうせ頭が馬鹿になるなら、苦痛なく死なしてやりたいと私達は思っていた。然し今ではその思いも何処へ行ったのか?
「ただ生命が助かれば!」と私は思った。
 私と芳子とは、じっと眼を見合った。何とも云わないでじっと互の眼の中を見合った。
 けれども、食堂で夕食を食べている時、私達はこんなことを囁いた。
「まずいね。」
「ほんとにどうしてこうまずいんでしょう。ちっとも食べられはしませんわ。」
「勿論安いんだからね。」
「なんにも無くても家でたべた方がよござんすわね。」
「家」という一語が私達をすぐに黙らしてしまった。
 夜になって芳子は腹の工合が少し変だと云い出した。すぐ帰るように私は云った。
「まだはっきり分らないから、も少し様子を見てみますわ。」と芳子は云った。
 雨が降り出した。雨の音が病院の中を一層しいんとさした。
 堯は、嚥下作用も次第に衰えて来るようだった。十瓦の人乳を一度に飲めないで中途で止すようになった。口中にたまった液体を嚥下するのが非常な努力らしかった。私達はどうしていいか分らなかった。何にも与えないでは恢復の見込みはないし、与えることは堯にとって苦痛らしかった。それでも、……やはり人乳や食塩水を時々与えなければならなかった。薬はもう一切やらなかった。
 それでも堯の顔には、何等の苦痛の表情もなかった。きまり悪いような微笑みの影さえあった。私はあの顔を思い出した、どうかした調子に芳子の乳首を一寸なめてきまり悪そうに微笑む顔を。堯は最近では、乳房をつきつけてやっても顔を外らして吸おうとはしなかったのである。
 夜遅く、私は看護婦の容態表をじっと眺めた。
 朝――熱八度二分、脈搏百二十八、呼吸四十四、
 午――熱八度四分、脈搏百三十六、呼吸四十二、
 夕――熱九度四分、脈搏百三十四、呼吸五十二、
 夜――熱九度二分、脈搏百四十、呼吸四十五、
 尿二回、便五回、嘔気二回、カンフル注射二回、腸注入一回、人乳五瓦三回、十瓦三回。
 私は其処に敷いてある蒲団の上に身を投げ出した。そして何にも考えまいとした。それは卑怯な態度ではなかった。そして私はうとうとした。
 ふと眼を開くと、芳子は小さな机にもたれてじっと坐っていた。極度に緊張した表情をしていた。
「いけないのか。」
「ええ、そうらしいわ。」
 芳子は便所に行った。
「やはりそうらしいわ。」
「ではすぐに帰るがいいよ。」
「ええ。」そして芳子は室の隅をじっと見つめた。
 寝て居た看護婦を私は起した。
 看護婦は起きて行って、電話室へはいった。私も後からついて行った。もう一時になっていた。俥屋は中々起きなかった。それでも漸く起き上った。至急俥を二台頼んだ。
 芳子は既に軽い陣痛を覚えていた。堯の額に唇をつけた。堯は眠っているらしかった。或は覚めて居たのかも知れない。
 私は芳子の腕を取った。寝静まった病院の階段を私達は一段々々と下りた。看護婦が玄関の扉を開いてくれた。私は彼女をすぐに病室の方へ返した。
 雨は霽れていた。外は真暗な闇が深く澄み切っていた。玄関に私の腕にもたれて立ちながら、芳子は私の手を緊と握りしめた。
「坊やのことをね、坊やのことをね、お頼みしますよ。」と芳子は云った。
「ああ大丈夫。」
「しっかと手を握ってやっていて下さい、ね。」
 私達の心に堯の死の場面がはっきりと映じた。
 俥はまだ来なかった。私は外に出てみた。薄暗い寝静まった通りを透して見ると、向うに俥屋の提灯の火が見えた。
「来ましたか。」
「ああ今すぐ。」
 芳子は又私の手につかまった。
「坊やのことをね。堯をね。」
 私は返事の代りに、彼女を緊と抱いてやった。
 すぐに俥屋が来た。「S町まで、」と私は云って芳子を連れ出した。
 俥屋の一人は私達の姿をじっと透し見た。
「おや、奥様でございましたか。」
「あ、Yさんですか。」
 一人は私達をかねて知ってる俥屋の主人Yであった。彼は、私達の親戚の家や産婆のIさんの家も知っていた。好都合だった。でその主人に産婆の家へ行って貰うことにした。芳子は若い衆の方の俥に乗った。そして黙って私の前に頭を下げた。
 私は外に立って、右と左とへ別れて馳せ去ってゆく二台の俥を見送った。それから玄関の扉をしめた。病室に帰ると看護婦に玄関の締りをして来て貰った。
 私は一人で堯の枕頭に坐った。それからじっと眼をつぶった。
 芳子の方のことは心配はなかった。前からすっかりは仕度調っていた。家にはS子さんと常とが居た。Iさんもいつも私の家から呼びに行くのを待っていてくれた。丁度さし迫った用向も他に無いそうであった。それから、産が予定よりも二十日近くも後れていたが、心配なことはないとIさんは云った。Iさんはしっかりした手腕と頭とを持っていた。また難産の時には、すぐにS病院の院長に来て貰うように前から話がしてあった。
 それでも私の心は家の方へ飛んで行った。そして私は頭でじっと堯を見ていた。それが自分乍ら痛々しかった。「なんだこれ位のことに!」と私は云った。そして堯の額に唇をつけた。涙が初めて湧いて来た。涙と共に私は力強くなった。「芳子は自分の半分じゃないか。自分自身の半分のことを心配することはない。」私はそう自ら云った。芳子の悲痛な心と陣痛の苦しみとが、私自身に返って来た。そして私は自分の全部でじっと堯の枕頭に坐っていることが出来た。
 私は無理にすすめて看護婦を寝かした。
 夜は静かで何の物音もしなかった。時間がぴたりと止ったようであった。じっと眼を瞑っていると、堯の全部が私の前に見えて来た。
 私は堯の頭に未来を期待していた。――生れた時から堯は母親の乳房でなければ、護謨の乳首に決して吸いつかなかった。――玩具に対しても、はっきりした好悪を持っていた。或物は決して手にしなかった。また或物を持ち初めると、それに執着して決して長い間手から離さなかった。――夜なんかどうかするとふと泣き出すことがあった。そういう時は、いくら乳を与えても、抱いてやっても、泣き止まなかった。その意味が私達にも後には分って来た。そういう時は、昼間持ち続けていたものが何か必ずあるのであった。それを取ってやると、すぐに泣き止んで、手に握ったまますやすやと眠った。――知らない人に対しては決して笑わなかった。他家よその人があやすとくるりと外を向いてしまった。――いつも妙に黙り込んでいた。私は演芸画報をよく買って来てやった。それを何度も何度も小さい手で披いて見ていた。――最近二三ヶ月の間は、私達の云うことが何でもよく分るらしかった。私が精神上のことで妻に厳しい言葉をかけていると、よく泣き出した。私達が楽しく話していると喜んでいた。
 然し殆んど病気し続けであったから、身体は全く発育が遅れていた。よくもつものだと私達は思った。それに高熱にも頭が少しも侵されないらしかった。白眼が青く澄んでいた。もう一年十ヶ月になるのに、発育の悪いため言葉は出せなかったが、おしっこはその度毎に大抵教えた。何かいつもよく口を利いているらしかった。それからどうしてだか知らないが、按摩の笛を大変恐がった。きゃっきゃ云って遊んでいる時でも、按摩の笛が聞えると、すぐに母親の懐に顔を伏せてしまった。
 然しそういう堯自身は今何処へ行ったのか。……私はじっと堯の顔を覗き込んだ。安らかな顔をして寝ていた。眼には硼酸水に浸したガーゼが当ててあった。角膜に少し故障があるのであった。私はそのガーゼを取ってやった。堯はぼんやり眼を開いた。何か嬉しそうに口元を動かした。すぐに食塩水をやると、それを飲み込んだ。
 私はそっと立って行って、氷嚢の氷を取り換えたり、人乳十瓦はいったコップを持って来たりした。洗面所の横に小さな箱があって、八号という札がついていた。その中に堯の病室用の氷や人乳や薬がはいっていた。あたりの空気が冷たかった。
 私が三時に与えた人乳十瓦を、堯はよく飲んでくれた。私は嬉しかった。
 じっと坐っていると、私はふと、どうしていいか分らない気持ちに襲われた。私の全身は或る大きい力で堯の方へ引き寄せられた。堯を自分の腕に胸に、強く強く抱きしめてやりたくなった。堯全部は、その全部が、私のものだった。自分のものだった。意識も何もなくてもいい。苦しみも、喜びも、堯は私の胸の中に融け込んでくる。何か大きいものが私を堯の方にぐいぐいと引きずってゆく。……私はその力にじっと唇をかみしめて抵抗していた。眼がくらみそうであった。と、突然何かがぷつりと切れた。私は白痴のようにぼかんとして、じっと堯を見つめていた、その呼吸を。そして独りでに、私の呼吸は堯の早い呼吸と調子を合していた。どうすることも出来なかった。私は堪らなくなった。其処に身を投げ出して頭をかき※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)った。
 そういう心の発作が過ぎ去ると、私は深く大きく落ち附いて静まり返っている自分の心を見出した。私は氷嚢に触ってみたり、堯の手首の脈を見てみたりした。
 四時頃だったか、急に堯の呼吸の数が多くなったように思えて来た。数を計ってみると五十七あった。不安になって来た。私は眼を閉じて自分の生命を堯の身に注ぎ込もうとした。
 夜がいつのまにか明けた。
 看護婦は室の掃除をした。私はまずい食堂の飯を食った。朝医員がやって来て、カンフルを注射した。腸に滋養注入をしたが、殆んど吸収しなかった。
 八時頃、Iさんが見舞ってくれた。私はその顔を見て、ほっと安心した。凡てが分った。
「御安産でございました。今朝の三時半に、女のお児さんで。お二人共御丈夫でございます。」
 Iさんの声は低かった。ああ、なぜ声を低める必要があろう。然し私も声が低かった。
「お影で、あり難うございました。」
 Iさんは、容態表をじっと見て、それから堯の顔を覗き込んだ。
「取ってお上げ申したら。」そう云ってIさんは堯の両眼のガーゼを取ってくれた。私はなぜかそれが嬉しくて涙が出て来た。
ぼっちゃん、坊ちゃん、お見えになりますか。」Iさんは顔を近よせたり遠ざけたりした。堯はもう何も見えないらしかった。暫くしてIさんは帰って行った。
 ややあって、A氏が見舞って来られた。S子さんがまた間もなく来た。
「御診察がすんだら、一寸帰って来て下さるようにとのことでした。」とS子さんは芳子からの言葉を私に伝えた。
 九時にU氏の回診があった。私はもう何にも聞かなかった。診察が終ると私は帰るつもりで廊下に出た。
「お分りでもありましょうが、あの通りの容態ですから、どうにも仕方がありませんね。今晩あたり危険かも知れません。午後からはついていられた方がいいでしょう。」
 私は少しも驚かなかった。そういう言葉も私の心の中に何の響きをも立てなかった。私はただ感謝の頭を下げた。
 私は駆けるようにして家に帰った。T君が来ていてくれた。
 私はすぐに八畳の座敷の方へはいった。芳子が寝たままじっと私の顔を見つめた。私は芳子の側の小さな蒲団の中を覗いてみた。と、私ははっとした。堯とそっくりの赤ん坊の顔が其処に在った。すやすや眠っていた。
 私は芳子の枕頭に坐った。蒲団の外に差出した芳子の手を私は強く握った。力強い何とも云いようの無い涙が出て来た。
 私達は暫く黙っていた。
「どうだった。苦しかった?」と私は云った。
「ええ。それでも陣痛が激しい代りに時間は早かったのです。三時半に。私はSさんの手をじっと握っていました。」
 堯の時は芳子は私の手を握っていた。
 暫くすると芳子が云った。
「如何でした?」
「同じようで別に変りは無い。」
 暫くすると芳子はまた云った。
「いけなかったのではありませんか。」
 私はじっと芳子の眼を見守った。精神が張り切ったような朗らかな澄み切った眼だった。
 暫くして私は云った。
「まだ大丈夫だ。然し覚悟はしていなければならない。」
 芳子は首肯いた。
「帰る時に、Uさんの言葉では、今晩あたりがむずかしいということだった。」
 芳子はまた首肯いた。
「いいかい。本当にしっかりしていなければならない時が来たんだ。どんなことがやって来てもじっとして居れるだけの心は養っておかなければならないと、僕がいつも云っていたのは此処のことだ。私達の出発が既に初めっから生命がけですからとお前はよく云って居たろう。あの気持ちをはっきり握っていなくちゃいけない。特にお前は今大事な身体だ。神経過敏にはなっていても、精神感動を起してはいけないんだ。いいかい、分るだろう。」
 声は低かったが、私の言葉は怒鳴りつけるようだった。芳子は黙って首肯いた。暫くして私はまた赤ん坊の顔を覗き込んだ。指先でその頬に触ってみた。絹のように柔かだった。
 芳子は、何とも云えない引き締った笑顔をした。私はその時ふと日数をくってみた。堯の誕生日は一月十一日だった。丁度その日から今日まで二百八十日余りになっていた。吉とも凶ともつかない気持ちが私に湧いて来た。然し私は力強くなった。手をしっかり握りしめた。
 私は次の室に来て暫くT君と話した。堯の容態をきいてT君はきっと唇を結んでいた。
「また来るから。」とT君は帰る時に云った。
「ああ。然し大丈夫だ。いけなくても今夜の夜中だろう。いや、あしたの夜明けが危険かも知れない。」と私は云った。
 私はぼんやり室に寝転んで天井を見つめていた。
「あなた!」と芳子が云った。
「何だ?」
「早く病院の方へ。」
「うむ。」
 私はそれでも暫くじっとしていた。そして十一時すぎに家を出かけた。
「今度帰って来る時は、堯を抱いて来るかも知れない、俥だったらそうだから。」
 芳子は首肯いた。
「いいかい。」そう云って私は芳子の眼を覗き込んだ。「分るだろう。」
「ええ。」と芳子はきっぱり答えた。
 私は外に出た。空には薄い雲が流れていた。日の光りが時々陰った。
 堯と生れた児とが一つになって私の上に被さった。一は死であり、一は生であった。二つ共愛だった。その両面がぐるぐる廻転した。私は眼が廻りそうになった。と、突然その二つが遠い所へ飛び去ってしまった。私は妙に訳の分らぬ自分自身を見た。そしてその時、堯の姿が、万灯を持って飛びはねてる堯の姿が、はっきり私の頭に映じた。「よくなる、よくなる。」そう私は心に叫んだ。「なにじっとこらえてみせる。」そうも叫んだ。
 病院の近くで、私の家の方へやって来るA氏に出逢った。私はただ頭を下げた。病院の入口でT氏に出逢った。T氏はその強度の近眼鏡の下から私に挨拶をした。
「今すぐ私も診察に参ります。」
 私は力強くなった。
 病室にはいると、堯はやはり静に寝ていた。手首を取ると脈が殆んど指先に感じなかった。ふっ……ふっと喘ぐような急速な呼吸をしていた。
 私はじっと唇をかみしめて眼を閉じた。
 十二時すぎに医員と女医とが見舞って来た。
「仕方がありませんね。」と医員は云った。「手首には殆んど脈搏を感じないのですから。」
 カンフル注射が胸に行われた。反応は殆んど見えなかった。暫くして注射の跡を検すると、其処だけ肉がぽつりと高くなって、カンフルは注射されたまま吸収されずに残っていた。
「心臓が弱って来たのです。」
 心臓が弱って来たのは昨日の夕方あたりからであった。なぜヂガーレンの注射を初めにしないかと私は思ったが、それはもう恐らく出来なかったのであろう。
「お知らせなさる所がありましたら……。」
 私はその言葉をその時聞いた。然し私は「いいえ。」と答えた。実は知らすべき親戚や友人が少しあったが、私はその場合に大勢の人が来るのを欲しなかった。出来るなら看護婦やS子さんをも遠ざけたかった。私はただ堯と二人で居たかった。
 看護婦は容態表を記入した。
 朝――熱九度三分、脈搏百三十四、呼吸五十四。
 午――熱九度一分、脈搏百五十四、呼吸五十六。
 便二回、嘔気一回、カンフル三回、滋養腸注一回、人乳十瓦二回。
 もう殆んどどうにも出来なかった。重苦しいそして盲目な時間が過ぎて行った。一瞬の休止もなく或る大きい力で押し進んでいるものの前に、私の叫びや意力が如何に小さかったか。然しそれも凡て私のものではないか。
 T氏も回診して来られた。
「どうも仕方がありませんね。」と云われた。
 一時に、特にU氏が見舞って来られた。私はもう何とも云わなかった。U氏も黙って居られた。私達はただ低くお辞儀をした。
 私は堯の喘ぐような呼吸をじっと見ていた。「ぼんちゃんぼんちゃん!」と私は心の中で云った。それは堯が生れて間もない頃私がいつも呼んだ言葉だった。それから私はまた暫くして、「堯、堯!」と心の中でくり返した。私の心の中で、堯が遠くへ遠くへ私から離れてゆくような気がした。私は堯の手をじっと握っていた。もう私のうちには、希望も絶望も無かった。身体の内部がじりじりと汗ばんで来た。
 附添看護婦が立ってゆくと、医員と看護婦長とがはいって来た。
「もう最期です。」と医員は云った。
 私には分らなかった。唇をかみしめた。
 暫くすると、喘ぐような堯の息が一つ長く引いた。とぷつりと呼吸が止ってしまった。じっと見ていると、軽く胸の中でぐぐーという妙な搾るような音がかすかにした。
 水のはいった小さいコップに筆が添えて持って来られた。私はそれで堯の唇を。濡してやった。
「お気の毒様で……。」と看護婦が云った。
 S子さんが声を立てて泣いた。
 云い知れぬものが胸の底からこみ上げて来た。私ははらはらと涙を落した。私はどんなに堯を愛していたことか。そしてどんなに愛し方が足りなかったことか!
 その後のことを私は殆んど何にも知らなかった。室の中には、私とS子さんと附添看護婦とだけが残った。堯の顔には白い布が被せられていた。じっと見ていると、まだ呼吸をしているように、蒲団の襟が動いて見えた。白布を取ってみると、堯は眼を少し開いていた。笑顔をしていた。額はまだ暖かかった。看護婦は眼瞼を揉んで、眼をつぶらせようとした。どうしても眼は少し開いたままで居た。「それの方がいい。」と私は云った。白布がまた被せられた。穏かな黒目がちな眼を少し見開いて微笑んでいる顔が、まざまざと私の脳裡に刻み込まれた。
 私達はそのまま坐っていた。S子さんはいつまでもハンケチを顔に押し当てていた。私はじっと堪えた。
 その時、Y君が見舞に来てくれた。玄関に出ると、私は急に顔全体が痙攣して、口が利けなかった。Y君は、堯と芳子とを思い違えていた。私は漸々、堯のこと、いけなかったことを云った。そして玄関で帰って貰った。
 埋葬認許書のことで、区役所と警察署とへ行かなければならなかった。私は使をやろうかと思ったが自分で行くことにした。「大正六年十月二十一日午後一時四十五分死亡、重症消化不良症」という死亡診断書を私は医局から貰った。
 俥屋が来た。知っている主人も来た。主人に死去の通知のため親戚へ走って貰った。そして私は、若い衆の俥に乗って、区役所と警察署とへ行って、埋葬認許書を貰って来た。埋葬地は故郷の、去年父が埋った墓地にした。
 帰って来ると、堯の身体は看護婦がすっかり清めて置いてくれた。S子さんは荷物をまとめてしまってその側についていた。私は医員と看護婦長とに挨拶に行った。階下したの応接室に丁度U氏が居られた。
「お気の毒なことでした。」と云われた。
「種々あり難う存じました。」
 私は丁寧に頭を下げた。
 俥屋が来たと通知があった。私は堯を胸に抱いた。堯はそのまま小さい両手を胸に組んでいた。
 俥は裏門の方に廻されて居た。私は一番先の俥に乗って幌を下した。次の俥に荷物がのせられた。終りのにS子さんが乗った。そして私達は裏門から出た。
 堯が死んだとは、私にはどうしても思えなかった。顔の白布を取ると、眼を少し開いて微笑んでいた。私は胸に抱きしめて、その顔に唇をつけた。冷たかった。底の知れない冷たさだった。私はその冷たさを自分の口に吸い取るように、じっと唇を押し当てた。私の全身に、冷たい戦慄が伝わった。そして私は、はっと或る恐れを感じた、或る聖なる恐れを。私はまた、堯の顔に白布を被せてやった。自分の胸の中の肉を掴み去られた感じがした。
 そしてそれが極度にせいであった。私は眼を瞑った。
 家に着くと、私は堯を抱いたまま芳子の室に通った。赤ん坊の顔に私は一番に眼を落した。
 私は全身に震えながら芳子の眼と見合した。芳子の緊張した視線が私の胸を刺した。
「何時に?」と芳子は云った。
「一時四十五分!」と私は答えた。
 私は堯を芳子の所へ抱いて行ってやった。芳子は寝ながら、堯を抱き取った。顔の白布を取ってじっとその顔を見た。微笑んだ生きた顔が其処にあった。それから、胸に組み合した小さな両手を見た時、芳子は急に堯を抱せしめた。歯をくいしばって涙をはらはらと流した。
「坊や、坊や!」と芳子は云った。「なぜお母さんが居るうちに死ななかったの! 坊や、坊や!」
 私はその側に坐って、芳子の肩を捉えた。そしてその涙にぬれた顔を私の方へ向けさした。私はその眼の中を覗き込んだ。
「堯は僕達の所へ帰って来たんだ!」と私は云った。
 芳子は首肯いた。
 私は堯をまた抱き取った。
 A氏やR叔父などがやって来た。私は皆を次の室へ通さして、間の唐紙をしめた。常に蒲団を敷かした。そして堯を抱いたまま私はその蒲団の中にはいった。赤ん坊は室の真中に小さな蒲団を敷いて眠っていた。その向うに芳子は寝たまま顔を枕に押しあてた。
 私は堯を抱きしめた。その冷たい額にまた唇を押しあてた。怪しい底深い所から来る戦慄が私の全身に伝わった。
 暫くして私は、そっと堯を寝かしたまま起き上った。芳子が私の方をじっと見守っていた。そして私達は涙の乾いた緊張した眼を見合った。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝国文学」
   1918(大正7)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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