私は遂に女と別れてしまった。一つは周囲の事情が許さなかったのと、一つは私達の心も初めの間ほどの緊張を失ってしまっていたのと、二つの理由から互に相談の上さっぱりと別れてしまった。一切の文通もしないことにした。其後女は、下谷から芳町の方へ住替えたとも風の便りに聞いたが、別に私の好奇心をも唆らなかった。私は何物にも興味を失っていた。長い間のだらけ切った生活が、憂欝な退屈な重みとなって私自身の心のうちに返ってきた。私は自分の家に、八畳と六畳との素人下宿の二階に、ぼんやり日を暮すことが多くなった。其の頃私は○○商会の翻訳を受持っていたが、それも不自由しないだけの金は国許くにもとから送ってくるし時間の束縛の多い職務に極めて物臭ものぐさであった私が選んだ地位だけあって、収入は多くないが至って呑気なものであった。私がよくぼんやり日を送っているのを見て、宿のお上さんは度々私に結婚を進めて、候補者と称する女の写真まで二三枚持って来て見せたが、そういうことも私には面倒くさかった。貧乏な齷齪した生活をしてる者にとって今の社会が憂欝である如く、生活に困らない自由な呑気な者にとっても今の社会は憂欝であることを、私はつくづく経験した。
 然しそういうのは、当時の私を包んでいる雰囲気であって、心の底には私は二つの考えを持っていた。
 その一――今の社会の状態に在っては、誰も彼もが欠伸あくびをしている。金持ちも貧乏人も、忙しい者も閑な者も皆同じような一日一日をつみ重ねていって、それで一生の墓を築いている。こういう風にして世の中が続いて行ったら、遂にはどうなるだろう。皆が欠伸と倦怠とのうちに死滅するようになったら、どうだろう。考えてもたまらないことだ。凡そ憂欝な退屈くらい人間を毒するものはない。それに今の社会は、全くこの事に侵されてしまっている。このままでいいものだろうか。
 その二――今の社会では、皆が何かしら歯をくいしばっている。皆不満なのだ、皆何かしら満たされない慾望に囚われているのだ。所がそれが次第に昂じてきて、この頃ではもう、何に不満であるか何の慾望に駆られているのか、それが分らなくなってしまっている。そして彼等にはただ、くいしばった歯と齷齪した生活と疲れながら陰欝に光ってきた眼だけが残っている。中心が盲目で外部が猛獣なのだ。このままで進んでいったらどうなるだろう。これでいいものだろうか。
 右の外観上相矛盾するようで実は同じ基調の上に立つ二つの考えが、永い前から私の心の中に在った。然しそれをどうしようという気は私には無かった。私は自分が余りに怠惰で無力であると思っていた。そして絶えず奇蹟を待つような気で何かを待っていた。けれどそれも遂に徒らな空望であることを感じて私は益々倦怠と憂欝とに囚えられてしまった。
 室の中にぼんやり寝転んでいると、窓の硝子越しに十一月の晴れた空が見られた。空は徒らに高く澄み返って、一片の雲も一羽の鳥の姿さえも見えなかった。顧みると、縁側の障子には暖かそうな日の光りが一杯当っていた。それを見ると、ふと外に飛び出したくもなったが、霜枯れの葉が震えてる木の梢や、じめじめした冷い地面や、物佗びしい寒い空気や、妙に澄しきった陰険な人々の顔などが思い出されて、また私は、閉め切った暖い室の中から立ち上るのが懶くなってしまった。
 けれども夜になると、朝からつみ重なってきた退屈の量が堪えられないほどになり、食物を一杯つめ込んだ胃袋が妙に重苦しくなって、私はいつもS――にいる坂口を訪ねていった。坂口は非常に碁が好きで私と丁度いい相手だったので、いつも喜んで迎えてくれた。私が暫く行かないと、向うから誘いの葉書を寄した。坂口も隙で退屈してる男だった。昼間は会社に勤めていたが、夜になるともう家で勉強する気も起らないとみえて、妻と女中と三人きりの家庭に肥った身体をもてあつかっていた。その上人のいい彼は、私が長い関係の女と別れた前後の事情を知っていて、幾分私を慰めようとする心持ちもあったらしい。そして私の方でも、他の友人などを尋ねて無駄口をきくよりも、彼の所へ行ってすぐに碁盤に向う方が、どれだけいいか分らなかった。妻君の方とも私は前から知ってる気の置けない間柄であった。
 それに、上野からS――までの山の手線電車は、退屈しきってる私の心に或る面白さを与えた。
 夜の十二時すぎ、S――駅の歩廊プラットホームの上に在る待合所で、私はよく、十分、十五分、時には三十分近くも待たされることがあった。真中に四角な大きな火鉢が置いてあったが、中の火は大抵白い灰ばかりになっていた。扉も無い四方の入口からは寒風が遠慮なく吹き込んできた。木の腰掛に坐っていると、足の先からぞくぞくと寒さが全身に上ってきた。実際その狭い待合所の中にはいってきて、冷たい腰掛に坐る者は、老人か疲れた者ばかりだった。他の客は皆歩廊の上に立って電車を待っていた。歩廊の両側にレールが走っていた。線路の向うには幅一尺ばかりの溝があって、いつも澄んだ清らかな水が流れていた。何処からか湧き出てくる水であろう。両側は高い崖になっていて、その縁に道路が続いていた。何故にそう平地を深く掘り下げて線路を拵えたものか分らないが、改札口から橋を少し渡って薄暗い階段を下りてきて歩廊に立つと、地下室に下りて来たような感じがするのだった。それでも両側の崖に切り取られた空には、星がちらちら見えていることが多かった。
 青白く光っているレールの上を、長い貨物列車が通る時なんかは、電車の来るのが特に遅かった。貨物列車はいつも汽笛を鳴らさないで来るので、初めはそれが電車かと思っているうち、次第に近づくにつれてそうでないことが分ると、胸糞が悪くなるような温気を残して走り去る汽関車に対して私は妙に腹が立ってきた。特にその後に長く続いて人を馬鹿にしたようにごとごととぬるい速度で走り去る真黒な貨車を見ていると、老耄おいぼれた無能な醜い悪魔を見るような心地がして、私はいつもそれが通りすぎた線路の上にかっとつばきをした。
 十二時すぎには乗客はいつも少なかった。特に反対の方へ行く電車が先に来て半数ばかりに取り残される時には、夜更けの寂しさが俄に感ぜられた。皆知らず識らずに歩廊の端に歩み寄って、其処に一群れをなして佇みながら、自分達の電車のくるのを待っていた。
 最初はちらちらと遠くに青いスパークが見え、次に明るいヘッドライトにレールが輝らし出され、その上をすうっと電車が走って来て、瞬く間に車台が自分の前に止る時、私はほっと蘇るような心地がした。腰掛は大抵空いていた。まばらな乗客は皆黙ってぼんやり眼を開いていた。首を垂れて眠ってる者もあった。皆が安心しきってるようで、また疲れてるようであった。私はクッションの上にどかと身を落して、白い天井についてる電灯の光りをまじまじと見上げながら、煙草を吸った。そして遠い安らかな旅に出たような落付きを感じた。寒い闇夜をついて走る響きが、一層車室の中の明るみを淋しい夢のような気分にした。停車場へ電車が止る毎に、幾人かの人が出たりはいったりした。皆静かに黙っていた。車の軽い動揺に全身の筋肉が心地よくたるんで、眼がぼんやりしてきて、私はついうとうととすることもあった。電車が上野に着くと、私は立ち上るのが名残り惜しいような気がした。それから十五分許りの道を大抵歩いて帰った。家の人達はいつも寝てしまっているので、私は自分で表の戸締りをした。
 そういうことが、いつのまにか私の生活の一つの様式となってしまっていた。私はそれを週に三回位は欠かさずくり返していた。然しそのことだけは、私の日々のうちでも少しも退屈でない部分だった。碁盤の上の勝負には絶えず変化があった。電車の中で逢う人の顔も絶えず異っていた。夜更けの帰途には今にも何か変ったことが起りそうな気がした。人生とは云わないが、私の心のうちに澱んでいる退屈な憂欝を、一変してしまうようなことが何か起りそうな気がしていた。
 そしてまた実際私は、変なことに出逢ったのである。否、変なことをしたという方が適当かも知れない。
 夜更けの帰りにS――の歩廊で、見知りの顔が一つ私には出来るようになった。いつのまにその顔を見知ってしまったのか、私はその初めを少しも覚えていない。そういう初めの無い知り合いというものは全く妙なものである。私と彼とは、名前も住所も身分も互に全く知らない他人であるのに、顔だけはよく知り合っていた。S――駅で一緒になると、互に一種の親しい眼付きを交わした。電車の中でも、友人同志のように親しく相並んで腰を掛けることが多かった。上野で下りると、互にどちらの方向へ向って帰ってゆくかをはっきり知っていた(私は山下を右へ、彼は真直に広小路の方へ)。それでいて言葉を交えたことは一度もなかった。
 痩せ形の背の高い男で、いつもよく雪駄せったをはいていた。眉が濃く短く、光りの鈍い円みを帯びた眼には何処か低能らしい趣きがあったが、高い鼻と小さな口とは上品だった。その口には小供らしい愛嬌があって、屹度舌ったるい声が出そうに思われるのだった(そしてそれは実際であった)。眼鏡もかけていず、口鬚も伸していなかった。そしてそういう顔立を、下細りの頬の輪廓がとり巻いていた。※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が心地よく細っていて、額が広かった。少し離れてみると、顔の上半分に遊惰と低能との趣きがあり、下半分に女好きのする魅力が漂っていた。いつも毛皮の襟のついた二重まわしを着て焦茶のソフトを被っていた。ステッキは持っていなかった(私はいつもステッキをもっていた)。後に知ったことであるが、頭髪は角刈りにしていた(私は髪を伸していた)。
 何でもごく屡々、私達はS――駅で一緒になった。歩廊に立ちながら電車を待っていると、よく困ることもあった。私が煙草を吸っていると、彼は黙って私の方へ寄って来て、意味ありげに私の姿を見ながら眼で微笑んだ。薄暗い中に私が口に吸った煙草の火の光りで、その眼付がちらと見えた。私も何ということなしに眼で微笑み返した。然しその時はもう互の顔は薄暗かった。待合所の中の電灯はただぼんやりした明るみを歩廊の上に送ってるきりだった。私はむやみにすぱすぱ煙草を吹かした。彼は向うへ行ったり来たりした。互に何か話しかけたい思いをしながら、その機会がなかった。もしどちらからか煙草の火でも借りようとすれば、容易にその機会は掴めるのだったが、どういうものか二人共それは忘れていた。
 妙にむず痒いような気持ちを私は彼に対して覚えた。薄暗い駅内と明るい車室と寂しい夜更けの街路とを背景にするその「知り合いの他人」との出会には、何だか不思議なものが籠っていた。彼に逢わない時は妙にもの足りなかったが、逢えばまた自分の心の置場に困った。平気で言葉をかけてはいけないものだろうか? 然しそれがどうしても出来なかった。「吾々はいつも馬鹿げた遠慮を持ち合してるものだ」とも考えた。
 或る寒い夜だった。私はいつもの通り坂口の家から十二時を打つと間もなく出て来た。深い靄がかけていた。街灯の光りがぼやけて、物の輪廓が朧ろになっていた。そのくせ空を仰ぐと星の光りが冴えて冷たかった。改札口をはいって階段を下りてくると、私は其処らをぐるりと見廻した。歩廊の柱の影に彼がぼんやり立っていた。私は何のこともなく安心を覚えた。彼も私の方をじろりと眺めたが、それから何と思ってか急にあちらこちら歩き出した。
 七八人の乗客が電車を待っていた。電車は中々来なかった。待合所の中に両袖を前に畳み合して腰掛けていた婆さんが、時々外に出て来て線路の上を遠く見渡したが、何やらぶつぶつ口の中でいい乍らまた元の席へ帰っていった。婆さんが三度目にそうした時、私のと反対の電車が来た。婆さんはそれに乗った。三人ばかりの他の客もそれに乗った。そして三四人の者が後に取り残された。急に寒くなったような気がした。待合所の中へはいって火鉢の中を覗くと、消えかかった白い炭が灰の中からかき出されたまま転っていた。足の先をかざしてみたが、少しも暖くなかった。私は壁に掛ってる時間表や地図や広告のビラなどを眺めたり、片隅に置いてある肥料の切れたらしい鉢植の菊を嗅いでみたりした。その間かの男は歩廊の縁を行ったり来たりしていた。待合所の硝子の窓越しにその姿を見ていると、私もその真似がしてみたくなった。で外に出て、歩廊の反対の縁を歩いてみた。一歩ふみ外せば、三尺ばかりの低い線路だ。黒ずんだ枕木と砂利との上を、二条のレールが走って金属性の冷たい青白い光りに輝いていた。そして電灯の光りが透さない遠い闇の中に、吸われるように消えていた。
 どうしたのか電車はいつまでも来なかった。反対の電車がも一つ通りすぎても来なかった。乗客は六七人になった。皆待ちあぐんでいた。何か故障があったのではないか、人でも轢いたんではないかしら? 私は不安になって来た。
 その時重い響が遠くに聞えるような気がした。私は初めてほっとして上野行きの電車が来る線路の縁の方へ行った。他の者も其処に集った。然し電車は来なかった。重い響きは、線路の向うを渡してある橋の上を荷車が通るのであった。馬鹿に大きな荷を積んだ車を、前と後とに二人の男がついて挽いていた。小さな提灯が一つ車の横についていた。それが靄の中に浮出した向うの高い橋の上をゆるゆると通って行った。ただその響きだけが馬鹿に近くに響いていた。
 荷車が橋を通りすぎて見えなくなり、その響きも聞えなくなると、急にあたりがひっそりしてしまった。寒気がぞくぞくと背中に上って来た。乗客は皆一つ所に集ったまま立っていた。学生らしい青年が二人、大きい風呂敷包みを持った女が一人、コートを着て襟巻の中に顔を埋めてる女が一人、背広の上衣だけを引かけて紺の股引にゲートルに靴という妙な風采の男が一人、それに私と彼とだった。やがて洋服の会社員らしい男が一人加わった。それだけの者が、歩廊の柱の影に立っていた。そして次第に一つ所にかたまっていった。群から離れると非常に寒そうに思えた。特に女が二人居ることがその小さな群を妙に温くしてるようであった。暗がりと寒気との中で女というものが如何に温い感じを与えるかを、私は初めて知った。そして私は、そのコートの女に対して馬鹿馬鹿しいロマンチックな空想をさえ懐いた。襟巻の中に半ば埋った女の白い横顔にちらと視線を投げて、そのまま眼を落すと、前には冷たい線路が構わっていた。私はぞっと首をすくめて、あたりを顧みると、かの男がすぐ側に立っていた。私達は思わず顔を見合った。余り近くに居たので私は喫驚した。彼も喫驚したらしかった。その意味がはっきり互に通じ合った。二人共苦笑をした。そしていい合したようにつと群を離れて歩き出した。
「馬鹿に寒いですね。」と彼が云った。
「馬鹿に来ませんね。」と私が云った。
 両方の言葉が殆んどかち合う位に一緒に出た。私達は互に向うの言葉に答えるために顔を上げて微笑をした。すると私達はもう他人ではなく、前からの知人になってしまった。
 二人は並んで歩廊の上を歩き出した。
「いつも何処へ行かれるんです。」と彼は尋ねた。
「友人の家へ碁を打ちに行くんです。笊碁ですがね。」
「ははあ、やはり君も高等遊民の類ですね。」
 私は一寸返答に迷った。
「僕もやはりそうですよ。」と彼は続けて云った。「此度こちらに知った者が球突屋を初めましてね、前から知り合いのお上さんで気が置けないものだから、わざわざこうして出かけて来るんです。近くの球屋だと知った顔ばかりで面白くないし、それにいろいろ面倒ですからね。こちらの方が場所も珍らしいし、球も羅紗も新らしいし、場末情緒といったようなものも可なり面白いものですしね。」
「そしてまた新らしいフラウでも……。」
「いや君そう短刀直入に来られてはどうも……。」
「然し随分御熱心のようだから。」
「そういえば君も随分熱心ではありませんか。」
「僕ですか、僕は退屈で仕方がないからまあ隙つぶしに来るようなわけですよ。」
「やはり君もそうですか。僕も実は退屈してやって来るようなわけです。何をしてもさっぱり面白くありませんからね。」
 そんなことを話してるうちに電車がやって来た。なんでも三十分余も待たされたらしかった。
 車内はこんでいた。で私達は別々に離れなければならなかった。
 上野で下りた時、私達はまた一緒になった。そしてぶらぶら広小路の方へ歩いて行った。
「一寸何処かでお茶でも飲みましょうか。」と彼は云った。
 もう夜店もしまわれていたし、何処も起きてる家はなかった。幸い其処の角にあるカフェーの表が開いていたので、その中にはいった。二階の室で四五人の客が大声に何か話し合ってるのが聞えたので私達は安心してゆっくり卓子につくことが出来た。そして麦酒をのみ、料理を食って、後にはウイスキーのコップまで据えさした。
 私達は純白のテーブルクロースの上に両肱をついて、互にまじまじと顔を見合った。
「お互に名前も知らないでは変ですから、一つ名乗りをしようじゃありませんか。」そう私はいった。空腹だったので、いくらかもう酔っていた。
「やあ、すっかり名乗りを忘れていましたね。」と彼も云った。
 向うに居た給仕女ウェートレスが変な顔をして私達の方を眺めた。
 彼は村瀬という姓だった。私も自分の名前を知らした。
「ええ松本君だって、聞いたような名前ですね。」そう云って彼は濃い眉根を寄せて考えていたが、「あそう。君ではないですか、そら、梅吉といっていた妓の何は……。」
 私は驚いて彼の顔を見守った。
「やあ、やはりそうですね。君のことなら聞いたことがありますよ。君達のことをひどく心配していた小さいのを私もちょいと知っていましたから。」
「へえ、君もよくあの辺に行くんですか。」
「いやこの頃は面白くないからさっぱり行きません。体よく振られたような形になって無情を感じたわけですよ。」
「そして私のように、S――まで都落ちですか。」
「ははは、都落ちとはうまく云ったものですね。」
 そして私達はまた麦酒のコップを挙げた。
 そのカフェーを出たのは一時すぎだった。私は彼に別れて、淋しい池のふちを通って自分の家に帰った。
 私はその晩の出来事が妙に嬉しくなった。ふいに一人の知己を得たような気がした。「なぜもっと早くあの男に話しかけなかったろう。」そう思うとまた急に彼に逢いたくなった。そして、少し危ぶみながらも彼に逢えるかと思って、その翌晩また坂口を訪れ、十二時が打つといい加減に碁の勝負をきり上げて停車場へ帰ってきた。
 私が階段を下りてゆくと、「やあ!」と云って声をかける者があった。村瀬だった。
「僕は君が屹度今晩も来ると思って待っていたんです。」と彼は云った。「お蔭で電車を一つやり過してしまった。」
「そうですか。僕も君が来るような気がしたので、わざわざ出かけて来たんです。」
 私達はまた歩廊の上を並んで歩き出した。そして私はふと立ち止って、顧みた彼の顔をじっと眺めた。
「随分度々君には此処で逢いましたね。」と私は云った。
「そうでしたね。」と彼は答えたが何か他のことを考えているらしかった。
「なぜ君はもっと早く僕に言葉をかけなかったのです。」
「え!」と云って彼は眼を輝かした。「僕も君にそう云おうと思ってた所です。それではお互いっこだ。」
「そうですか。然し随分長い間互に話しかけたく思いながら妙な遠慮をして、擽ったいような思いをしたものですね。」
「擽ったい……なるほど君はいい言葉を使いますね。文学でもやるんですか。」
「いや文学の方は生噛りです。」
 それから暫く黙っていたが、彼は声を低くして憚るように云った。
「ねえ君、これから此処に待ち合してる者で、一度顔を見たことがある者には、誰にでも話しかけてみようじゃありませんか。」
 私は眼を輝かした。
「然し二度此処で逢うような人があるでしょうか。」
「あるですよ屹度。現にあの鳥打帽に洋服の人ですね。」と彼は向うに立ってる男を指さした。「あの人にも僕は一度此処で出逢ったことがあるんです。」
「それは面白い。やりましょう。」
「然し僕はどうも一人では何だから、二人の時にしようじゃないですか。」
「ええ僕もちと臆病の方ですから、それの方がいいですね。」
 それで私達は種々の手筈を定めた。日曜は客に妨げられることが多いし、月曜は私には商会へ行く日で用が多いし、土曜は彼の方で何か差支えがあるので、火曜と金曜と一週に二回は必ず出かけて来ることにした。そして、十二時が打つのを相図に停車場へ来ること、よく乗客の顔を見ておくこと、二度逢った者には必ず何か話しかけること(女をも含めて)、そしてそれは順番にやること。
「では一つあの鳥打帽の人にやってみませんか。」と私は云った。
「やりましょうか。」
 丁度その時、電車が来たので、その晩はそのままになってしまった。
 実にそれは不思議な面白いことだった。一度顔を見た者にはすぐに話しかけてみる、名も知らず身分も知らない者と打ち開けた談笑を交わす、そしてまた互にふいと別れてしまう、それがうまくいったら世の中の有様ががらりと変ってしまいそうに思えた。陰険だとか奸黠だとかいう言葉は不用になって、至る所バッカスのお祭りだ。
 私は次の火曜を待ちわびた。
 火曜の晩、坂口を訪れて碁を囲んでいると、私の方が勝味が多かった。「幸先さいさきがいい」と私は思った。そして十二時になるとすぐに座を立った。
 駅に来てみると、村瀬はまだ来ていなかった。電車がすぐに来たが、私はそれをやり過した。すると間もなく村瀬がやって来た。
「やあ失敬、随分待ちましたか。……そう、僕も急いでやって来たんですがね。今日はどういうものか馬鹿に勝負運がよくてね。」
「僕もそうだったですよ。屹度幸先がいいですね。」
 私達は非常に嬉しかった。そしてあたりを見廻すと、二三人の人が居るのみで、それも見たことの無いような人ばかりだった。今に誰か来るだろうと思って待っていると、いつのまにか時がすぎて電車が来た。私達は軽い失望を覚えた。わざわざも一台電車を待つだけの勇気はなかった。
 けれども次の金曜には、村瀬が一人見つけたといった。でっぷり肥ったあから顔の折鞄をマントの下に抱え込んだ男だった。私はその姿を見ると興ざめた心地がした。それで順番を村瀬に譲って、傍から見ていた。
 粗らに二三人の人が歩廊には佇んでいた。赫ら顔の男は柱によりかかるようにしてそのうちに立っていた。村瀬は何気ない風で近づいて行って、その側に立った。私は息をこらした。然し村瀬はいつまでも何とも云わなかった。「臆病なんだな」と私は思った。けれどもやがて、彼は顔を上げて私の方をちらと見たが、傍の男にこんなことを云った。
「馬鹿に寒いですね。」
 男は変な顔をして村瀬を顧みたが、それでも答えた。
「そうですね。」その声は嗄れていた。
「度々こちらへお出でですか。」
「え?」
「いつか此処でお目にかかったように思いますが。」
「そうですか。」と答えて彼は村瀬の顔を窺った。
「どちらへお帰りです。」
「家へ帰るんです。」
 そう云いすてて男はふいと向うへ歩き出してしまった。
 私は可笑おかしくなった。そしてくすりと笑うと、村瀬は帽子を取って顔の汗を拭った。
「いや駄目だ!」と彼は低い声で云った。「君が応援しないものだからひどい目に逢った。」
 向うに立ってた二人連れの男が私達を不思議そうに眺めた。幸に其処は柱の影で暗かったけれど、私は罪でも犯した者のように、帽子を深く引き下げた。
「君こういう調子じゃ駄目ですね。」
「なに今に面白い男にぶつかるですよ。そう失望したものじゃない。夫に君のやり方は上出来でしたよ。」
「ひやかしちゃいけません。」
 それでも私達は愉快になってきた。そして電車が来たのでそれに乗った。赫ら顔の男は、私達が乗るのを見届けて、別の車室に乗ったらしかった。
 然し私が恐れたように、二度目に其処で逢ったという覚えの顔に出逢うことはそれきり殆んど無かった。私達は失望してきた。
 或る時、しるし半纒を着た二人の職人が私達と一緒に落ち合った。一人は酔っ払っていた。腕を打ち振りながらしきりに何やら怒鳴り立てていた。私達が立っていると、彼はぴょこりと頭を下げた。
「旦那、酒というものはいいものですぜ。酔わなきゃ酒の味が分らねえって。ははは。酔うたその夜は、うかうかと、寝なんすきみが可愛うて……。」と彼はいつか端唄を歌い出した。
「いい景気ですね。」と私は言葉をかけた。
 彼は唄を止めて私の方を見た。
「驚いたね、旦那、わっちの懐が見えますか。これこの通りだ!」そういって彼は懐を叩いてみせた。小金の音がじゃらりとした。「懐が温かけりゃあ腹の底まで温くなるもんだ。旦那、出かけやしょうかね。」そして彼は手を上げて向うを差し示すような様子をした。
「止せよ。」そう云って連れの男が彼の手を引止めた。
「何だと、何がよせだ、べらぼうめ。」
「まあいいからこっちへ来いったら。」そう云って彼はその男を待合所の中へ引張って行った。
「俺はこのままでは帰らねえぞ。」
「ああ、いいから少し静にしろよ。」
「よし。そう事が分りゃあ神妙にするってよ。さかずきを、だ、押えて伏せてきりぎりす、はたおり虫に……。」と彼はまた歌い出した。
 私は村瀬と顔を見合した。何だかひどく馬鹿にされたような気もするし、自分自身が馬鹿げても見えた。私達は黙っていた。
 電車が来ると、かの二人も乗ってきた。どうしたのか酔っ払った男も静にしていた。彼はクッションの上に横向きに腰掛けて、頭をふらふらさしながら眼を閉じていた。
 その夜、私達はどちらからいい出したともなくまたカフェーに寄った。そして麦酒を飲んだ。それから次のような約束をした。これからは初対面の者にでも必ず一人にだけは話しかけてみること、ただ一言だけでも話をすればそれでいいこと。
 私達は少し酔っていた。そして心の底には淡い憤懣の情を感じていた。何故だか分らないが、かの酔っ払いの職人が何かを私達のうちに投げ込んでいったのは事実だった。
 その後は、愉快な火曜と金曜とが続いた。私と村瀬とはいつもS――駅内に待ち合して、それから電車が来る間に、最も近づき易そうな人に言葉をかけた。「寒いですね」とか、「随分待たせますね」とか、それだけの言葉をかけると、いつも短い返事は返された。そして初めの失敗にこりて、大抵はそれだけで満足した。けれど向うの調子が多少柔かだと、個人的の問題はさけて時の天気模様だの社会的出来事だのについて簡短な話をすると、向うも簡短な返事をしてくれた。電車がすぐに来て誰にも話しかける時間がない時などは、淡い失望をさえ覚えた。そして私達は、上野駅から公園前までその夜の結果を語り合っては笑った。
 あなぐらのような薄暗い寒い歩廊の上に佇んで電車を待ってる間、私達には其処に居合わす人々が親しい友人のように思えて来た。皆が寒さに肩をすくめていた。恐らく皆腹も多少空いているようだった。皆何かがほしそうな眼付をしていた。そして皆陰欝な顔をしていた。もし皆が集まって晴々と談笑することが出来たら、その寂しい夜更けの時間もどんなにか愉快になるだろう。特に私達二人はどんなに愉快だろう。
「もっとどうにかいい結果が上らないものでしょうかね。」そう度々私達は、上野の公園前でくり返した。そして知らず識らず私達は大胆になり、執拗になっていった。
 或る日私は「いい結果」に出逢った。歩廊に立って二三人の乗客を物色していると、紡績の着物と羽織とを着て毛糸の襟巻に顔を埋めた三十四五の女が眼についた。一度たしかに見たことのある姿だった。
「今日は一つ冒険をしてみよう」と私は思った。
 其処へ村瀬が急いでやって来た。「やあ」と彼は云った。するとその声に紡績の女がふり向いて、ちらと微笑をした。私はそれに力を得た。彼女は私達のことを知ってるのかも知れないと思った。
 やがて私は彼女の方へ何気ない風で近づいて行った。そして暫く黙っていた後でいい出した。
「随分遅い電車ですね。」
「ええ、私はもう十五分許りも待っていましたのですよ。」
 その時、彼女の鼻の横に大きいあざがあるのに私は気付いた。少しつまった顔立ちにその痣が一種の親しみを添えていた。
「人でも轢いて後れたんではないでしょうか。」と私はまた云った。
「まさかそんなこともありますまいけれど、せめて待たせるなら待合所へ火でもよく熾しておいてくれると宜しいんですけれどね。」
「そうですよ。夜更けの十分は昼間の三十分位には当りますからね。」
「でも電車が後れた方が面白かございませんか。」
「え?」
「あなた方には屹度。」そう云い続けて彼女は笑った。
「あなたはそれでは私達のことを知っているんですか。」
「いえ、別に……。」
 そう云いかけて彼女は私の顔をじっと眺めた。
「いやいつか見られたんですね。これは驚いた。……おい村瀬君!」そういって私は村瀬を呼んだ。
 けれど村瀬が近づいて来る間に、向うに電車が走って来た。其処は線路がカーヴをなしていたので、電車は見えたかと思うとすぐ側にやってくるのであった。私は何にも云う隙がなかった。
「何れまた。」そう云いすてて私は電車に乗った。
 電車の中では何にも云わないことにしていた。その上、女は向うの方に腰掛けてしまった。ただ時々私達の方を見ていた。
 けれどもそれだけの結果でも私には非常な成功だった。私は嬉しくなった。
「なる程女の方が男よりは進歩してますね。」と村瀬は結論した。「これから女の方をねらうとしましょうか。」
 そして私達はその「狙う」という言葉に笑い出した。
 結果は予期に反した。女の方が男よりも一層不愛想なことが多かった。
 或る時私は、一人の若い女に話しかけた。すると彼女はちらと私の顔を見たが、そのまま黙って向うへ行った。其処には五十位の老人が立っていた。女は彼に何か囁いた。と老人は一度頭を強く横に振って私の方をじっと見つめた。太いステッキを持った老紳士だった。眉根を寄せた鋭い眼の光りを私は見た。「しまった」と私は思った。何か罪を犯したような気が一寸した。
 けれども私達の心はもう非常に落付いていた。そして愉快になっていた。強い好奇心も働いていた。ただそのために以後二人連れの者には決して話しかけぬことにした。
「人間の心が一番よくうち開くのは、ただ一人で居る時に限る」と私は村瀬にいった。
 斯くしてS――駅で十二時すぎに落合った者には、種々な人が居た。重に中流以下の階級の者が多かったが、私達はなるべく自分と交渉がありそうな者を択んだ。私達の言葉をよく受け容れてくれる者は却って見すぼらしい服装をした者に多かったが、社会の階級というものが如何に親しみや距離やを人間の間に置いてるかを、私は感じた。その上、労働者などに話しかけることに、私は一種の自責の念を感じたのである。これは自分でも何故だかよく分らなかったが、然し実際の感情だった。と云って私は、自分のそういう行為が決して下らないものではないとも信じていた。本当に人間の心が素直である時には、私達のやり方は凡ての人から是認さるべきものと思っていた(然しこれは後からつけた理屈かも知れなかったが)。
 そして私達は、人間の心が如何に卑屈に出来てるか、如何に絶えず用心をし絶えず脅かされてるか、如何に敵意に満ちているかを、まざまざと見た。初めに言葉をかけると、向うの人も大抵は短かい返事をした。然し二度目に言葉をかけると、多くは返事もしないで、妙な陰険な眼付で見返した。夜更けであるのと、あたりが薄暗いのと、寂しい小駅であるのと、それがいけなかったのかも知れない。然し本当はそれがなおいいわけではなかったか。皆其処では心が淋しくはなかったか。また、もしこれが何か物でも尋ねるのであったら、皆親切に教えてくれたかも知れない。然し、用の無い言葉の方はよりよく人の心を温めるものではないか。――私達はそういうことまで考えた。理論は実行の後からついてくる、そう思って私達は二人で苦笑もした。
 然し何よりもそれは、私達の当時の生活状態では興味あることであった。
 薄暗がりで眺める人間の顔は変なものだった。私達が話しかけるのに気味悪がって遠くに立ち去って、またじろじろとこちらを顧みる者の顔の中は、ただ眼と口とばかりだった。眼は冷たく鋭く輝いていた。口は妙にだらりとしていた。眼には敵意があり、口には可笑しな愛嬌さえあった。美しかるべき眼と貪慾なるべき口とのその表情の矛盾は、やがて社会生活の矛盾を示すものではなかったろうか。眼が陰険で口が可愛いいものは、動物のうちに人間ばかりのような気もした。ただその時、鼻が少しも私の注意を惹かなかったのは変だった。
 十二月の末になって、いつとはなしに私達の注意をひく男が一人現われて来た。マントを着て草履をはいていたが、或は鳥打帽を被ったり、或は中折を被ったりした。殆んど一度置き位に私達はその男をS――駅の歩廊の上で見出した。私達が寄ってゆくと彼は遠くに歩いていった。多くは待合所の中に立っていた。それで一度も言葉をかける機会が無かった。
 不思議な男だぐらいに思って気にかけずにいるうちに、いつしか正月になった。で十日ばかり私達は「休んだ。」然し正月といっても別に用のある身でもなかったので、またすぐに初めることにした。特に正月になってからは、女に出違うことが多かったので、一層面白かった。結果だけは相変らずまるで駄目だった。然し時々、面白い男や女をも見出すことがあったので、それで我慢をしていた。
 一月の二十日頃からまた例の男が姿を現わし初めた。そしていつのまにか強く私達の注意を引きつけてしまった。
 彼は時々待合所の中に立って広告のビラを見ていた。それからまた反対の電車が来ると、その方へ寄って行って中を覗くようでもあった。歩廊に立っている時はいつも、柱の影や階段の隅を選んだ。然しやがて私達は、彼の眼が絶えず私達の方へ向けられることに気付いた。広告のビラを見てる時なんか、時々ちらと私達の方を横目で見るのが、其処の明るい電灯の光りで分った。そのくせ常に私達の前を避けようとしているらしかった。私達が彼が佇んでる方へ歩いてゆくと、すぐに彼は向うへ歩き出した。私達の一人が誰かに言葉をかける時は、彼は屹度薄暗がりの中にじっとこちらを透し見ていた。それがいつもまともにこちらへ顔を向けないで、横目で睥んでいた。
「あの男はすがめかも知れませんぜ。」と私は村瀬に云った。
 背の低い肩の四角な男で、平べったい鼻の下に短い口鬚を生やしていた。いつも帽子を目深に被っていたが、額のつまっていることが顔の輪廓で察しられた。その眼が妙に陰険な光りを帯びていた。老年になって次第に零落してゆく者の眼で変に黒ずんだ鋭い光りを放つのがある。そういう眼の光りだった。普通より眼球が飛び出てるようでありながら、その光りは妙に奥深い趣きを持っていた。年齢は一寸見当がつかなかった。三十位かと思うと、四十位に見える時もあった。
 私達が電車に乗ると、彼も屹度乗って来た。然しいつも別の車室か、または私達に一番遠い隅っこに腰を下した。一度私達の方へ向けられている彼の視線を捉え得たと思ったことがあったが、いつもは別に私達の方へ注意してる風にも見えなかった。上野へ着くと、彼はすぐに何処かへ行ってしまった。その跡をつけてみるだけの好奇心も私達には起らなかった。否それよりも上野の駅を出るとすぐに彼の姿は見えなくなってしまうのであった。
「変な男ですね。一体何者だろう?」私達はよくそういう疑問をくり返した。「僕達に帰依してる者かもしれませんぜ。」とはては笑ってしまった。然し彼の黒ずんだ眼の光りが、いつとはなしに私達の心を乱しはじめた。
 或る夜、私がそっとS――駅の階段を下りてゆくと、その男が立っていた。歩廊の縁の線路のすぐ近くで、柱の影の暗い所だった。両腕を胸に組んで何か考え耽っている様子で、時々頭を横に軽く傾けていた。何をするのかしらと見ていると、いつまでたっても動かなかった。私は静に彼の方へ歩み寄った。と突然彼はふり返った。私達の息が白く凝って一つに流れた。私の顔をじっと見たかと思うと、彼は一つ陰惨な瞬きをした。それから急に右手を上げて親指の爪を噛んだ。そしてすっと向うへ歩いて行った。それが殆んど一瞬間の間であった。私は呆気に取られて、ぼんやり彼の後姿を見送った。彼は暫く向うを歩き廻っていたが、何と思ったか静に階段を上って行った。そして再び下りて来なかった。屹度そのまま駅から出て行ったものであろう。
 私は益々深い疑問に囚えられた。そしてその頃から、「油断は出来ないぞ」という気がした。
 二回に一度位は大抵彼の姿が見られた。姿が見えない時には、彼が何処かに隠れているような気もした。然しやはり私達は乗客の誰かに口を利くことは続けていた。
 所が或る時妙なことを坂口からきいた。二三日前一人の男が坂口の所へ訪ねて来て、私の身分を調べて行ったそうである。「少し縁談のことで。」とその男は云ったそうである。私がいつも火金両日にやって来て十二時になると碁の勝負もそのままにして立上るのを不審に思っていた坂口は、そしてまたその頃私が急に元気よくなったのを怪しんでいた坂口は、こうつけ加えた。「君も少し用心して身を慎んだがいいね。」
 何だか様子がおかしいので、私はそのことを帰りに村瀬に話してみた。すると村瀬は、一寸考えていたが、はたと膝を叩いた。
「分った。実は僕の方にもそういうことがありましたよ。変な男が僕の行く球屋へも来ましてね、下手な球をつきながらそれとなく、僕の身の上を聞いて行ったそうです。縁談だと云ってさんざんお上さんに冷かされた所です。」
「へえ、君の方もですか。」
「君これはうっかり出来きせんぜ。僕達は屹度誰かに悪意を持たれてるに違いありません。余り種々な人に無作法な真似をしましたからね。」
 考えてみると一々思い当るふしがあった。
 私達はその夜またカフェーに寄って、麦酒を飲みながら種々善後策を講じた。もう疑う余地はなかった。気味悪いようでも、また痛快なようでもあった。
 然しその男は果して何者だろうということが、最後の疑問として残った。或は警察の者ではないかとも思えたが、それならば、あんな風に私達の前をうろつき廻ったり、こちらに気取られるようなへまな真似をしたりする筈はなかった。否第一、もっと直接に私達に注意するに違いなかった。それでは?……私達は遂に次の結論に達した。――あの男は屹度、或る旧式な教育者か成金か貴族か、何でも金があってそして隙な人間の手下に違いない。自分の娘等が私達のために「脅かされた」ことがあるので(私達は実際立派な服装をした若い娘に話しかけたこともあった)、私達を「不良青年」とでも思って、「現行犯」を捕えて懲戒してやろうと思ってるのだ。そして余計な道義心と金と男とを使ってるのだ。
 この考えは私達の気に入った。なぜならそういう奴等が居るからこそこの社会が浅薄で形式的で余り融通がきかなすぎて面白くないのだ、と私達は思っていた。
「兎に角こうなったら、一つ素敵な芝居をうってみようじゃありませんか。」と村瀬は云った。
「そうですね。何か名案がありますか。」
「ええ、面白いことがあるんです。」
 村瀬は私の耳に囁いた。私はすっかり喜んでしまった。
 ――あの男は私達の「現行犯」を押えようと思っているに違いない。それで懇意な女を連れて行って、前から手筈を定めてあの歩廊の上で婦人誘惑の芝居を演じることにする。それには彼奴が来ていないと損をするから、次の火曜は休んで、金曜に実行する。もし捉えられても立派に弁解は出来るし、捉えられなくても兎に角素敵な芝居にはなる。
「誰か適当な女は居ませんか。」
「さあ、僕にはありませんがね。」
「では僕が連れて来ましょう。僕の家のすぐ近くのレストーランの女中に、そんなことの好きなのが一人いますから。その代り役者には君がなるんですよ。知った間だと中途で放笑ふきだしたりなんかすると折角の計画が無駄になりますからね。」
 私は承諾した。
 多少危険だという気もしたが、どうせそれ位までゆかなくては腹の虫が納まらないような気もした。これ位のことはしてやってもいいとも考えた。またうまくいって彼奴と一緒に笑い出して、一寸そこいらまで案内して、うち解けながら談笑するのも愉快だと考えた。その男を使ってる「閑人ひまじん」も惨めだが、その男は一層惨めで、救済してやる必要がある、とも考えた。
 私は次の金曜日を待った。
 所がその金曜日になると朝から雪が降り出した。村瀬にきき合せようと思ったが、彼の番地を記憶していないので、無駄足をしても大した損ではないと思って出かけた。
 雪は小降りではあったが、夜になっても止まなかった。往来は泥濘が深く、屋根や木の枝は白くなっていた。襟巻を用いない癖の私は、マントの襟に顔を埋めて道を急いだ。
「まさか今日は来まいと思っていたよ。」と坂口は云って笑いながら、快く私を迎えてくれた。
「却って風流でね。」と私は答えた。
 其晩、私はどうしたのか敗け続けた。
「今日は君どうかしてるんじゃないか。」と坂口は云った。
 自分では気がつかなかったが、確かに私は何処か落付かないでいたと見える。
 十二時を打つと例の通り立ち上った。
 傘の上にしとしとと音を立てて降る雪の中を歩いていると、夢の中に居るような気がしてきた。少しの風もなく、重い空気が澱んでいた。村瀬は女を連れてわざわざ市内電車で遠廻りをして駅に来てる筈だった。
 S――駅に着いて、暗い階段を下りると、果して村瀬は私を待ち受けていた。私はその側へ寄って行った。
「君あれですよ。」と彼は私に小声で囁いた。向うの柱の影に、コートの中に肩をすくめた束髪の女が立っていた。私達が話してるのを見ると、一寸頭を下げて微笑みかけた。村瀬は手を上げて相図をしながら頭を振った。私の眼の中には、女の眼と口とが馬鹿に大きく残った。
 例の男は来ていなかった。私達は失望した。それでも電車を一つやり過して待ってみた。まだ来なかった。「今日は雪だから来ないのかな。」とも思った。それでも一台電車をやり過した。足の先が凍るように冷たくなって来た。時々待合所の中へはいって足先を温めた。火鉢の火はいつもより多かった。女は時々私達の方を顧みた。
 やがて階段の所に足音がした。私ははっと思った。それは殆んど直覚だった。あの男がやって来たのだ。ラクダの襟巻をして、手に洋傘を携え、足駄をはいていた。雪の夜には別に不思議でもないが、その洋傘と足駄とが私には異様に感じられた。
 彼は私達の方へは眼もくれず、真直に待合所の中へはいって行って、火鉢の上に足をかざした。それから煙草を一本取出して火をつけながら、何やらじっと考え込んでいるらしかった。私達の方をちらと顧みたが、またそのまま眼を伏せてしまった。然し私は彼の後姿で、彼の心は絶えず私達の方へ向けられてることを感じた。
 私達の外には商人体の二人連れの男と女中らしい一人の女とだけだった。皆待合所の中にはいっていた。時機は絶好だった。私は村瀬を其処に残して、向うの柱の影に立ってる女の方へ歩いて行った。女はちらと私に微笑みかけたが、急にわきを向いて取り澄した顔をした。
 私は暫く立っていたが、やがてこう云った。
「馬鹿に冷えますね。」
「はあ。」
 妙な返事だと私は思った。
「然し風が無いので助かりますね。」
「ほんとにね。」と云ったが、此度は彼女は調子を変えた。「随分電車が遅うございますこと。」
「そうです。こんな晩に待たせるのは不道徳ですよ。」
「まあ不道徳ですって……。」
 その時かの男が待合所を出て私達の方へ歩いてくるのを、私は横目で認めた。彼は四五歩先の方へ立ち止って、線路の上を遠く見渡すような様子をした。
 私達は一寸黙っていた。真黒な空から落ちてくる雪片が、向うの石垣を背景にして白く浮いて見えた。それをじっと見ていると、自分の身体も雪と共に地面に舞い落ちてゆくような気がした。すぐ前は低い線路で、その青白い色に光っているレールが、凡てのものを或るカタストロフへ引き寄せようとしているらしかった。私はふと不気味な恐怖に襲われて、側の女を顧みた。すると彼女も私の方を顧みて、眼で微笑んだ。頬の肉の豊かな、口の大きい眼に表情のある女だった。真白に白粉をつけていたので、電灯の薄ら明りと雪の反射との妙に陰影の無い明るみのうちに、その顔がぽかりと浮出して見えた。
「何処までおいでです。」と私はまた云った。
「あの清水町まで行くのでございますが。」
 私は自分が本当に芝居をしているのか、夢を見ているのか、分らないような気持ちになった。夜更けの小駅と雪と女と怪しい男と、それが一つに融け合って夢のような幻を作った。私は黙っていた。
「清水町へ行きますにはやはり公園をぬけて行ったが宜しゅうございましょうか。」と此度は女の方から云った。「急用で参りますのですが、よくあの辺は存じないものですから。」
「そうですね。もう遅いから公園下をお廻りになった方がいいでしょう。私も丁度あちらへ帰りますから御案内しましょう。」
「そう願えますれば本当に安心致します。御迷惑でございましょうけれどどうか……。」
「なについでですから、お送りいたしましょう。」
「まあ私本当に安心いたしましたわ。屹度ですわね……そして向うの家もよく存じないものですからついでに、お宜しかったら、失礼をお願い出来ますれば……。」
 これは少し乱暴だと私は思った。却って私の方が誘惑されてる形になってしまった。それで何とか云おうと思って暫くもじもじしているうちに、どやどやと三人の学生が階段をかけ下りて来た。するとすぐに電車が来た。
「では宜しゅうございますか。」そう云って女は先に電車に乗ってしまった。
 其処へ村瀬がやって来た。私達は顔を見合して微笑した。例の男は、後ろの方に立っていた。
 電車に乗ろうとする村瀬の袖を私は一寸捉えた。村瀬は私の顔を見返したが、すぐに私の意を察したらしかった。私達は何気なく電車の後部の方へ歩いて行った。そして電車が一寸動き出したと思う瞬間に、二人共車掌台の所へ飛び乗ってしまった。
 その時である。かの男は向うで私達の素振りを窺っていたが、私達が飛び乗ったのを見ると急にかけてきて、同じく飛び乗ろうとした。と一方では、先に乗った女が私達を心配して車掌台の所へ出て来た。
「まあ何をしていらしたの」と彼女は云った。村瀬と私とは大声に笑い出した。それがいけなかったのだ。その笑声を聞いて、男は一寸身体の力をゆるめた。と一方では車台の柱につかまった手が強く彼を引いた。「危い!」と車掌は叫んだ。彼は横倒しに線路の上に引きずられ加減に転げ込んだ。
 私達は息をつめた。電車はすぐに止った。大勢の乗客が出て来た。車掌は線路に飛び下りて行って彼を扶け起した。彼は立ち上ったが、またひょいとよろめて其処に坐ってしまった。黙って顔を伏せていた。異常な感動が皆に伝った。駅夫共が線路の向うの小屋から出て来た。
 駅夫共から歩廊の上にかつぎ上げられた彼は、一人の駅夫の肩につかまって立ち上った。そして車掌に何やら云った。車掌が言葉を返すと、彼は手を振ってまた何やら云ってから、崖の上の駅の方を指した。そしてまた何か云って頭を振った。
 私達はその間車掌台の所に立っていた。何かが私達を其処に釘付にしてしまったのだ。そして私達と彼との距離は僅か五六間だったが、不思議なことには、彼と車掌とが交わした言葉は少しも私達の耳にはいらなかった。ただ彼の身振りだけがはっきり私達の眼の底に残った。俯向けた彼の顔は暗い影に包まれて見えなかった。
 やがて電車は彼を残したまま進行し出した。
「怪我をしたのですか。」と乗客の一人が車掌に尋ねた。
「怪我は別にないと自分で云ってるから大丈夫でしょう。向うが悪いのです。」と車掌は答えた。
 私達は妙に黙り込んでしまって、腰掛の上に首を垂れていた。
「私ほんとに喫驚したわ。あの人でしょう、例の男というのは。」と女は村瀬に囁いた。
「君達が余りうますぎたんだ。」と村瀬は云った。
「でも約束じゃないの。」
 それには誰も答えなかった。そして私達は、それきり上野まで黙っていた。
「兎に角余り結果がよすぎたんだ。」と村瀬は公園下を歩きながら結論を下した。
 女が何処かへ寄ろうと云うのを、またこの次にと云って私達は別れた。それにもうよほど遅くなっていた。私は一人で山下を池に沿って帰っていった。その時私は、腹立たしいのか、情けないのか嬉しいのか、訳の分らぬ心地になっていた。腹の底に云い知れぬ感情の黒いかたまりが転っているような気がした。
 翌日の淋しい夕方、妙に前夜のことが気にかかってぼんやりしていると、思いがけなく村瀬が尋ねて来た。
「花園町とばかりきいていて番地が分らないので随分探したですよ。」と彼は云った。
「そして何か起ったんですか。」
 彼は黙って懐からその晩の「毎夕」を一枚取り出して彼の前に拡げた。一番下の欄の片隅に電車事故として次の小記事が載っていた。
山の手線S――駅に於て昨夜S――署詰○○刑事は電車より誤って線路内に墜落し右腕及び右脚に数箇所の軽微なる裂傷を受けたるが右脚膝関接部の挫折は意外に重く全治一箇月を要する見込なれどもし発熱せばよほどの重患に立至るべしと
 私はその記事を読んで眼を見張った。村瀬も顔の筋肉を引しめていた。
 何とも云いようの無い暗い影が心に上って来た。そして私達は出来るだけその晩の夕刊を集め、また翌日になると種々な朝刊と夕刊とを買い集めた。然し凡ては徒労であった。それに関する記事は一つも見当らなかった。私達はまた「毎夕」を拡げてみた。○○刑事として特に名前を秘してあるのに注意を惹かれた。
 第一にあの男は果してこの○○刑事であったろうか? 刑事なら初めからあんな態度を取るわけもないし、あんなへまな結果を見るわけもなかった。然し「毎夕」の記事は一句々々同一人だということを肯定していた。ただ「昨夜」として時間が分らないことだけが疑問を生む点だった。そしてもはや、S――駅に問い合してみるか、新聞社に問い合してみるかするより外に方法はなかった。
 然し私達はそれをしなかった。
 何故に?――それは「明快な理論家」の解剖に任せよう。ただ私達は云い知れぬ陰欝な影を感じたのである。泣いていいか笑っていいか分らないようなものを感じたのである。あの男の黒い底光りのする眼が何処からか覗いていた。あの晩の「おかしな芝居」が雪を背景にして蘇ってきた。青いアーク灯の光りに輝らされた線路の上に血が滴っている幻が浮んできた。そしてそれらが一緒になって不気味な広い罠を拡げた。あの男が果して○○刑事であったかどうかは、もう問題ではなかった。
「人生は茶番じゃない、」と私は自ら云った、「うっかりしてるととんだことになるかも知れない。」
 その晩私は村瀬とゆっくりくつろいで酒を飲んだ。
「あの日はいけなかったのです、」と村瀬は云った、「キリストが死んだという金曜日でしたからね。」
 酒を飲んでいるうちに、私達のしたことが果していいことだったか悪いことだったか、分らなくなってしまった。そして兎に角もうああいうことは止そうと二人で誓った。「その方が無難だから、」と私達は結論した。そしてその平凡な結論に私達は顔を見合って微笑んだ。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「雄弁」
   1919(大正8)年2月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
2008年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。