一

「奇体な名前もあるもんですなあ……慾張った名前じゃありませんか。」
 電車が坂道のカーヴを通り過ぎて、車輪の軋り呻く響きが一寸静まった途端に、そういう言葉がはっきりと聞えた。両腕を胸に組んで寒そうに――実際夕方から急に冷々としてきた晩だった――肩をすぼめていた佐伯昌作は、取留めのない夢想の中からふと眼を挙げて見ると、印半纏しるしばんてんを着た老人の日焼した顔が、髭を剃り込んだ※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)をつき出し加減にして、彼の横から斜上ななめうえの方を指し示していた。其処には、車掌と運転手と二つ並んだ名札の一つに、木和田五重五郎という名前が読まれた。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
 そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢としが突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸やおやだぬきって有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
 日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、うっすらとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
 日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面しらふなのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
 ――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
 先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
 そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎輔の家へ行ってみた。けれど、玄関から勝手馴れた茶の間へ通るうちに、重苦しい憂鬱がすっかり心を鎖してくるのを、彼ははっきり感じた。
「やあ、どうしたい?」
 彼の姿を見ると、片山禎輔はいつもの定り文句を機械的に口から出して、長火鉢に伏せていた少し酒気のある顔を挙げた。それから一寸眉根を曇らせた。昌作は黙って長火鉢の横手に坐ったが、禎輔が何か苛立っていること、先刻から苦しい思いに沈んでいたこと、宛も何かの中に落込んで出口を求めようとしているらしいこと、などを漠然と感じた。そしてそれが、不思議にもこの自分昌作に関係していることのような気がした。彼は次の言葉を待った。がその言葉は、彼の予期しない方面へ飛んでいった。
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。山上の湖水と……あまり山上でもないが、海岸に比ぶれば土地はよほど高いんだろう、まあ山上の湖水と云えば云えないこともないね。……ああ、そうそう、君は、山上の湖水なんかにどうしてうなぎがいるか知ってるかい? 鰻って奴は、必ず海に卵を産んで、その卵からかえったのが、川を遡って内地……と云っちゃあ変だが、海に遠い山間の渓流へまでやって来るんだよ。それが出口も入口もない山上の湖水にまで、どうして来ると思う? 知らないだろう? そいつが面白いんだ。何とか云う学者の説に依ると、鰻の小さい奴が、まあ幼虫だね、それが水鳥の足にくっついて山上の湖水まで運ばれるんだそうだ。面白いじゃないか。」
 声に曇りはなかったけれど、その調子は変に空疎で気が籠っていなかった。と云って、人を馬鹿にしてるのでもないらしかった。昌作は何故ともなく気圧けおされる気がして、ただじっと待っていた。禎輔の心が今そんな所にある筈ではなかった。九州の炭坑に行くか否かの昌作の返答こそ、今晩の問題であるべき筈だった。昌作はいつもの禎輔の調子からして、顔を見るなりすぐに問題へ触れられることと予期していた。所が何という他愛もない話だったろう! 或は高圧的に返答を引出すのを遠慮して、つまらないことに話を外らしながら、切り出されるのを待つつもりかも知れない、まさか、先日まであんなに急きこんでいたのを忘れたのではあるまい、などと昌作は考えてみた。けれど禎輔の話は、案外深みへはいっていった。
「いい天気じゃないか、この頃は。こんなだと実際に旅に出たくなるね。こないだ僕は久しぶりで郊外に出てみたよ。……然し、何と云ってももう秋の終りだね。いくら晴々とした日の光でも、云うに云われぬ悲愴な冷かさがある。
野ざらしを心に風のしむ身かな
 この句は僕は口の中で繰返し繰返し歩いたものだ。」
 突然、殆んど瞬間的に、心をつき刺すような眼付をじろりとまともに受けたのを、昌作は感じた。喫驚して顔を挙げると、禎輔は押っ被せて尋ねかけた。
「君はあわびとろろってものを知ってるかい?」
 昌作は知らないという顔色をした。
「君のお父さんや僕の親父などが、日本一の旨い料理だと云って話してきかしたものだ。僕はまだ食ったことはないがね。東海道の何とかいう辺鄙な駅にあるそうだ。取り立ての鮑をね、いきなり殻をはいで、岩のように堅くなった生身いきみの肉を、大根研子だいこおろしでおろして、とろろにしたものだそうだ。……残酷じゃないか、君、生身を大根研子でおろされる時の感じは、どんなだろうね。それから、栄螺さざえの壺焼だって……。」
 そうなると、もう一種の述懐ではなくて、何か他意ありそうな攻撃的な語調だった。昌作は返辞に迷って、相手の顔をぼんやり見守った。顎骨の弱った四角な顔、わりに小さな眼と低い頑丈な鼻、短く刈り込んだ口髯、顔全体が何処となく間のびしていながら、その間のびのしたなかに、強い意力と冷たい皮肉とを湛えていた。眉の外れに小さな黒子ほくろがあった。昌作の視線は次第にその黒子に集ってきた。その時、殆ど敵意に近い感情が禎輔の顔に漂った。何かどしりとした言葉が落ちかかって来そうなのを、昌作は感じた。
 けれど、丁度その時、奥の室から達子が出て来た。
「いらっしゃい。」
 下唇の心持ち厚い受口から出る、多少切口上めいた語尾のはっきりした言葉で、彼女は昌作を迎えておいて、其処に坐った。そのために室の中の空気が一変した。禎輔の顔は俄に無関心な表情になった。宛も、覗き出しかけた彼の心が再び奥深く引込んだかのようだった。妻の前に於ける彼のそういう態度の変化が、一寸昌作を驚かした。元来禎輔は、深い問題を論じ合ってる熱心な際にも、妻の達子が其処に出ると俄にくつろいだ態度を取る癖があった。妻をいたわるのか或は妻の手前を繕ろうのか、または、妻を軽蔑してか或は恐れてか、何れともそれは分らないが、兎に角俄に、余裕のある何喰わぬ態度をするのだった。その無意識的な癖を昌作は嫌だとは思わなかった。然しその晩の禎輔の態度は、単なるそういう癖ばかりではないらしかった。何かしら意識的な努力の跡が仄見えた。昌作は一寸心を打たれざるを得なかった。それと共に、今迄禎輔と対座中、自分が殆んど一言も口を利かなかったということが、ふいに頭に浮んだ。禎輔ばかり口を利いて昌作が無言でいるというようなことは、昌作が少し使いすぎて余分な金を貰いに来るような時にでも――(そんな時禎輔は別に小言も云わずに金を出してやった)――今迄に余りないことだった。昌作は変に落着かない心地になった。然し達子は彼に長く猶予を与えなかった。いつもの率直さで尋ねかけた。
「佐伯さん、どうしたの、九州へ行くことにきめて? それとも行かないの?」
 昌作は初めその問題を予期していたものの、一度禎輔からあらぬ方へ心を引張られた後なので、咄嗟に思うことが云えなかった。
「私いろいろ考えてみたけれど、やはり行った方がよくはなくって?」と達子は構わず云い進んだ。「炭坑と云えば一寸つらいようだけれど、何もあなの中へはいって仕事をするのじゃなし、普通の事務員だと云うから、却ってそんな所で働いた方が面白かないでしょうか。月給だって初めから百五十円貰えば、云い分ないでしょう。そんなよい条件はなかなか探したってあるものですか。坑主の時枝さんが、昔片山のお父さんに世話になったとかで、片山が無理に頼んだ上のことですから、きっと出来るだけの……破格の待遇に違いないわよ。手紙にもそう書いてあったわ、ねえ、あなた。」彼女は禎輔の方をちらと見やって、また昌作の方へ向き返った。「そりゃあ東京を離れるのは嫌でしょうけれど、一時九州の炭坑なんて思いもよらない処へ行ってみるのも、却って生活を新たにするのによいかも知れないわ。あなたはいつも、生活を新たにするって、口癖のように云ってたじゃないの。」
「ええ、そういう気持は常にありますが……。」と昌作は漸く口を開いた。「兎に角、生活を新たにするには、それだけの……軸が、心棒が必要なんです。それを探し廻ってるんです。所が生活を立て直す心棒なんてものは……。」
「冗談じゃないわよ。」と達子は彼を遮った。「今はそんな議論の場合じゃないわ。九州へ行くか行かないかの問題じゃありませんか。行くのが却ってその心棒とかになりはしないかと、私は云っただけよ。……でどうするの、行って? それとも行かないの?」
「そうですね……どうしたもんでしょう?」
「あら、あなたはまだ決めていないのね。でも今晩、行くか行かないかの返事をする約束じゃなかったの?」
「そのつもりでしたが、もっと詳しく聞いてからでないと……。」
「聞くって、どんなことを? もうちゃんと分ってるじゃありませんか。」
 勿論大概のことは分っていた。片山の知人の時枝という坑主が、片山の頼みで、佐伯昌作を事務員に使ってみようということになり、而も百五十円という破格の月給をくれて、なお本人の手腕によっては追々引立ててやるとのことだった。その炭坑は北九州でも可なり大きい方のもので、他に事務員も沢山居るから、初めは見習旁々遊んでいてもよいという、寛大すぎる条件までついていた。然しそういう余りに結構な事柄こそ、却って昌作を躊躇せしめたのである。
「然し私には、余りよい条件だから却って、変な気がするんです。」
「それは炭坑のことですもの、」と達子は訳なく云ってのけた、「百五十円やそこいら出して一人の人を遊ばしといたって、何でもないんでしょう。それに、時枝さんの方では、片山からの頼みだから、片山のお父さんへの恩返しって気持もあるのでしょうから。」
「一体、九州の直方のうがたって、どんな土地でしょう?」
「そりゃあ君、山があって、そして朱欒ざぼんという大きな蜜柑が出来る処さ。」と突然禎輔は冗談のように云った。「僕も一度あの朱欒のなってる所を見たい気がするね。いつか時枝君が送ってくれたのなんか素敵だったよ。綿を堅めたような真白な厚い皮の中から、薄紫の実が飛出してくるんだからね。たしか君も食べたろう?」
「ええ、あいつは旨かったですね。」
「僕はね、あの種を少し庭の隅に蒔いたものさ。所が折角芽を出すと、女中が草と一緒に引っこ抜いちまった。」
「そんなことはどうだっていいじゃありませんか。」と達子は急に苛立ってきた。「行くとか行かないとか、一応の返事を時枝さんへ出しておかなければならないと、あなたはあんなに気を揉んでいらしたじゃありませんか。向うで好意から取計って下さるのを、余り長く放っておいては、ほんとに済みませんわ。……佐伯さんだってあんまり我儘よ。今晩どちらかの返事をすると約束しておいて、まだ元のままのあやふやな気持なんですもの。そんなことじゃ、いつになってもきまりっこないわよ。私いろいろ考えた上で、屹度あなたが行らっしゃるものだと思ったものだから、もうお餞別の品まで考えといたのよ。繻絆[#「繻絆」は底本では「絆繻」]や襯衣や足袋や……そんなものまで、こうしてああしてと考えといたのよ。それなのに……。私もう知らないから、勝手になさるがいいわ。」
「そんなことを云ったって、」と禎輔が引取って云った、「佐伯君にもいろいろ都合があるだろうし、そう急に決心がつくものかね。」
 昌作は、今度は自分が何とか云わなければならない場合だと感じたが、一寸言葉が見出せなかった。彼の心には再び、何とも知れぬ惑わしいものが被さってきた。実際先達てから、行くか否かの返事だけなりとも時枝へ出しておかなければならないと、しきりに昌作へ決心を強いたのは、そして、その晩までに返事をすると昌作に約束さしたのは、禎輔自身だった。所が今急き込んでるのは達子だけで、禎輔自身はどうでもよいという投げやりの態度を取ってるのだった。その投げやりの態度の底に何かがあるのを、昌作は不安に感じた。殊にこれまで、また今後とも恐らく、自分の親戚として且つ保護者として、そして寛大な真面目な人格者として、禎輔を尊敬していただけに、昌作は猶更それを不安に感じた。
「私は今一寸気持に引掛ってることがありますから、」と昌作は突然云った、「それが片付くまで……もう四五日、待って頂けませんでしょうか。」
「ああゆっくり考えるがいいよ。今じゃなんでもないが、九州へ行くと云えば昔では……。」
 何故かそこで禎輔がぷつりと言葉を途切らした。然し昌作はその皮肉な語気からして、流刑人の行く処だというような意味合を感じた。そして慌てて弁解し初めた。
「いえ、九州だからどうのこうのと云うんじゃありません。ただ、自分の気持に引掛っていることがありますので、それを……。」
「まあどうでもいいさ。」と禎輔は上から押被せた。「誰にでもいろんな引掛りはあるものだよ。ゆっくり考え給い。時枝君の方へはいいように云っとくから。」
 そして彼は一変して急に真面目な眼色で、昌作の顔をじっと見つめた。昌作は眼を外らして次の言葉を待った。然し禎輔は何とも云わなかった。ふいに立上って柱時計を眺めた。
「もう八時だ。僕は一寸急な用があるから出掛けるよ。ゆっくりしていき給い。じきに帰るから。」
「何処へいらっしゃるの?」と達子が驚いたように彼を見上げた。
「会社の用で上田君に逢うことになってるのを忘れていた。なに一寸逢いさえすればいいんだ。」
 そして彼は羽織だけを着換えて、無雑作に出かけていった。玄関で一瞬間立止って、何やら考えてるらしかった。がそのまま黙って表へ出た。
 昌作は達子の後について茶の間へ戻ったが、何だか急に薄ら寒い気持になった。その彼の顔に、達子はじっと眼を据えながら云った。
「どうしたの、ぼんやりして? そして変な顔をして?」
「片山さんは私に怒ってらっしゃるんじゃないでしょうか?」
「なぜ?」
 達子は眼を丸くした。
「何だかいつもと様子が違ってるようじゃありませんか。」
「どうして?」
 達子の丸い眼には率直な澄んだ輝きがあった。
「そうでなけりゃ……、」と昌作は漸く落着いて云った、「……喧嘩でもなすったんですか。」
「まあ!」達子はもう我慢出来ないという風に早口で云い進んだ。「あなたの方が今日はどうかしてるのよ。いやにひねくれて、夫婦喧嘩をしたかなんて、そんなことを聞く人があるものですか。そりゃあ片山だって、あなたが余りあやふやだから、少しは厭気がさすでしょうよ。けれど怒ってなんかいませんわ。また喧嘩なんかもしやしませんわ。」
「いえ私はそんな……。云い方が悪かったら御免下さい。ただ何だか片山さんの様子がいつもと違ってるようだったものですから……。」
「誰にだって心配ごとがある時もあるものよ。」と達子は心を和らげて云った。「会社の方に何かごたごたがあって、それに頭を使いすぎなすってるらしいのよ。夜中に眼を覚したり、朝早く起き上ったりなさることが、時々あるものですから、私も少し心配になって聞いてみると、いくらか神経衰弱らしいと云って、自分を憐れむように微笑んでいなさるんでしょう。自分で微笑みを洩らしてる間は、神経衰弱なんて大したことじゃないわよ……。けれど、兎に角そういう際ですから、あなたも余り気をもませないように、早くどうにか片をつけたらいいじゃありませんか。」
 達子が自分を急き立ててるのはそのせいだなと、昌作はふと考えついた。けれど、禎輔のそうした様子の方へ、彼の心は惹かされた。禎輔が夜中に眼を覚したり、ふいに朝早く起き上ったりすることが、会社の何かの事件のためではなくて、他に深い原因があるらしいのを、直覚的に彼は感じた。そして我知らず尋ねてみた。
「その他に片山さんの様子に変ったことはありませんか。」
「まあ!……全くあなたの方が今日は変よ。一寸何か云えばすぐ片山を狂人扱いにして!」
 達子からじっと見られてる顔を、昌作は伏せてしまった。心が苦しくなってきた。黙っておれなかった。
「でもあなたは、片山さんがそんなに苦しんでいらっしゃるのに、平気で落着いていられるんですか。」
「あなたはなお変よ!……私達のことをあなたはよく知ってるじゃありませんか。片山はどんな苦しいことがあっても、その苦しみが過ぎ去るまでは決して人に云わない性質なんでしょう。私初めはそれを嫌だと思ったけれど、馴れてみると、その方がいいようですわ。なぜって、考えてもごらんなさい、片山がつまらないことに苦しんでる時――苦しみなんて大抵つまらないことが多いものよ――私まで一緒に苦しんでごらんなさい、家の中はどうなるでしょう? 二人で陰気な顔ばかりつき合してたら、堪らないじゃありませんか。苦しみを二重にするばかりですわ。片山も私もそのことをよく知っているんです。それで片山は、自分に苦しいことがあっても、私には何とも云いませんし、私はまた、出来るだけ晴々とした顔をして、片山の苦しみを和らげてやるんですのよ。でも万一の場合になったら、片山の苦しみが余り大きくなりすぎたら、私にだって、その苦しみの半分を背負うだけの覚悟は、ちゃんとついていますよ。片山もそれはよく知っています。そして私達は互に信頼してるわけですよ。」
 そういう二人の生活の調子を、昌作は知らないではなかった。然しそれは、今彼の心に変な暗い影を投じてるものとは、全く無関係な事柄だった。そして彼は、その暗い影について、その影を投じてくる禎輔のことについて、どう云い現わしてよいか、もどかしい思いのうちに、沈黙していた。達子も暫く黙っていたが、やがてまた彼を当の問題に引出しかかった。
「ねえ佐伯さん、もうあなたもいい加減真面目になって、自分で生活を立てるようになさいな。それには、此度のことは丁度よい機会じゃありませんか。こんなよい就職口は、また探そうたってありはしないわよ。それは九州なんかに行くのは嫌でしょうけれど、それかって、東京に居てどうするつもりなの。私こんなことを云うのは嫌だけれど、あなたのお母さんが亡くなられる時、片山のお父さんに預けておかれた財産だって、もうとっくに無くなってるじゃないの。片山はああいう人ですから、あなたの月々の費用なんか黙って出していますが、そして私が、もう佐伯さんも自分で働いて食べるように意見してあげた方がいいって云うと、佐伯君も人に意見される年頃でもあるまいし、何か考えがあるんだろうなどと、却ってあなたを庇ってはいますが、それをいいことにして、いつまでものらくらしていてはあなたもあんまり冥利につきはしなくって? 今度は否でも応でも、あなたは暫く九州に行って辛抱なさるが本当だと、私は心から信じきってるのよ。片山があんなに骨折ってくれたのをそのままにしておいて、一体あなたはどうするつもりなの?」
「いえ私は、九州行きを断るつもりじゃないんです。ただ……どうして片山さんが私を九州なんかに……。」
 昌作はしまいまで云いきれなかった。達子の眼に突然厳しい光りが現われたのだった。そして昌作は、自分の云おうとしてることが相手にどう響くかを感じた。達子が腹を立てるのは当然だった。それは全く忘恩の言葉だった。然し彼に云わせると、これまであんなに寛大と温情とを以て自分を通してくれた禎輔が、遠い九州の炭坑なんかに自分を追いやろうとすることこそ、最も不可解なのであった。どうせ就職口を探してくれるのなら、東京もしくは何処かに奔走してくれそうなものだった。九州の炭坑とは、全く夢にも思いがけないことだった。それとも、そういう処でなければ昌作の生活が真面目になりはしないというのなら……それまでのことだけれど。然しそれならそれと、なぜ禎輔は明かに云ってくれなかったのだろう。信念も方向もないぐうたらな生活を送ってる昌作にとっては、九州の炭坑と云えば、全く流刑に等しいと感ぜられるのだった。そのことを、明敏な禎輔が見落す筈はなかった。「追っ払おうとしてるのだ!」としか昌作には思われなかった。そしてそれが、今迄凡てを許してくれていた禎輔であるだけに、昌作には不可解に思えるのだった。本当の心を聞きたい、その上で忍ぶべきなら忍んで九州へ行きたい、というのが彼の希望の凡てだった。
 達子はふいに叫んだ。
「あなたはそんなに心まで曲ったんですか!」
 率直な達子に対しては、昌作は何とも返辞のしようがなかった。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と達子は云い続けた。「私達があなたのためを思ってやってることを、あなたは、厄介払いをする気で九州なんかへ追いやるのだと思ってるのでしょう。いえそうですわ。あなたには人の好意なんてものは分らないんです。……これでも私達は、あなたの唯一の味方と思っていたんですよ。あなたが珈琲カフェーに入りびたったり、道楽をしたり、ぐずぐず日を送ったりしているのを、そして牛込の伯父さんにまで見放されたのを……それを私達は、始終好意の眼で見てきてあげたつもりですわ。そしてあなたが自分で云ってたように、いつかはあなたの生活が立て直るに違いないと、ほんとに信じていたんですわ。それで片山は東京で方々就職口を内々尋ねて……働くことによってしか生活はよくならない、佐伯君にとっては仕事を見出すことが第一だ、と片山は云ってるのです。私もそう思っています。で、東京にいい口がないので、少し遠いけれど、九州の時枝さんに頼んで上げたのではありませんか。それをあなたは、考えるに事を欠いて、追っ払うなんて!……。」
 昌作は黙って頭を垂れていた。達子の叱責が落ちかかってくるに随って、眼の中が熱くなってきた。達子の言葉が途切れてから、暫くその続きを待った後で、少し声を震わせながら云った。
「私が悪かったんです。私は心からあなた方二人に感謝しています。けれどもただ、片山さんが何もかも、心の底まで、すっかりのことを云って下さらないような気がしたんです。それは私の僻みだったんでしょう。……もう何にも申しません。行きましょう、九州の炭坑へ。そしてうんと働いてみます。全く私には、仕事を見出すことが第一の……。」
 その時、殆んど突然に、いつも遠くを見つめてるような橋本沢子の眼が、彼の頭にぽかりと浮んだ。瞬間に彼は、或る大きなものに抱きすくめられたようにも、または行手を塞がれたようにも感じた。先が云い続けられなかった。
 彼の表情の変化に、達子は眼を見張った。
「佐伯さん、あなた何か……?」と彼女はやがて云った。
「ええあるんです。」と昌作は吐き出すようにして云い出した。
「私を引き留めてるものがあるんです。実は私は何にも云わないで、すぐにも承諾して九州へ行きたかったんです。仰言る通りどの点から考えても、私は九州へ行った方がいいんです。第一自分で自分に倦き倦きしています。今迄のように目的のない生活は、いくら私にでも、そう長く続けられるものではありません。初め片山さんからそのお話を聞きました時、私は何だか新らしい生活が自分の前途に開けて来そうな気がしました。所が行ってみようと思った瞬間に、急に堪らない淋しさに襲われたのです。自分でどうにも出来ない淋しさなんです。その時まで私は自分でも知らずにいましたが、私の心は或るものに囚えられていました。その或るものが、私にとっては太陽の光でした。いえ、前から……前からじゃありません。その時からです。東京を離れて九州へ行こうと思った瞬間からです。そして自分で自分に口実を拵えるために、片山さんの気持に、あなた方の気持に、いろんな疑いを挟んでみたのです。そうです、私は行くのが本当だと知っていながら、行かずに済むような口実が欲しかったのです。いやそればかりじゃありません。九州というのが余り思いがけない土地だったものですから、淋しさの余りに、或るものに縋りついたのかも知れません。九州と聞いて、実際島流しにでも逢ったような気がして、闇の中へでもはいって行くような気がして、そのために光が欲しくなったのかも知れません。いえ、それよりも寧ろ、前からその光を受けていたのが、突然はっきりしてきたのかも知れません。……と云うよりやはり……。」
 云いかけて彼は急に口を噤んで、暫く室の隅を見つめた。それから一変して、半ば皮肉な半ば自嘲的な調子になった。
「もう止しましょう。そんな詮議立てをしても無益ですから。どっちだって同じことです。兎に角私は今、率直に云えば、或る女に心を惹かされているんです。その気持の上の引掛りが取れるまで、もう四五日、返事を待って下さいませんか。」
「じゃあ、あなたはやっぱり……。」と達子は叫んだ。
 が昌作は云ってしまってから、非常に不快な気持になった。何故だか自分にも分らなかった。もう何にも云いたくなかった。
「それならそうと、初めから仰言ればいいのに。」と達子は云い続けていた。「私も或はそんなことではないかと薄々感じてはいたけれど、あなたがあんまり白を切ってるものだから、ついいじめてもみたくなったのよ。ごらんなさいな、あなたは隠そうたって隠しきれるものじゃないわ。……で、どんな人なの、その女っていうのは? ねえ、すっかり云ってごらんなさいな。出来ることなら何とかしてあげますから。片山に云って悪ければ、云いはしませんから。え、一体どういう風になってるの?」
 昌作は彼女の言葉をよく聞いていなかった。何だか自分自身を軽蔑したい、というだけではまだ足りない気持だった。
 二人は可なり長い間黙っていた。そして昌作は突然云った。
「いずれあなたには詳しくお話をする時が岐度来るような気がします。もう四五日待って下さい。何もかもそれまでに片をつけますから。」
 そして彼はぶっきら棒に立上った。まだ何か云いたそうにしている達子から無理に身をもぎ離すようにして、表へ出て行った。玄関の薄暗い所で、声を低めて云った。
「片山さんには暫く内密ないしょにしておいて下さいませんか。」
「ええ、その方がよければ云わないでおきましょう。……あの、佐伯さん、私がもし電話でお呼びしたらすぐに来て下さいよ、屹度ね!」
 昌作は何故ともなくほろりと涙を落したのだった。そして達子の最後の言葉は彼の耳に残らなかった。

     二

 霧の深い晩だった。佐伯昌作は何かに追い立てられるように、柳容堂の二階の喫茶店へ急いだ。
 運命と云ったようなものがじりじりと迫ってくるのを、彼は感じたのだった。そして、達子へ対して四五日の後にと誓ったのは、寧ろ自ら自分の心へ対してだった。九州の炭坑へ行くべきなのが本当であると、彼ははっきり知っていた。片山禎輔の様子に暗い疑惑が生じたにもせよ、そんなことを考慮に入れるのは、自分が余りに卑怯なからだと思いたかった。何にも云わないで、黙って忍んで行こう!……然しその後から、橋本沢子のことが同じ強さで浮んできた。九州へ行くという意志が強くなればなるほど、同じ程度に沢子へ対する愛着が強くなっていった。九州へなんか行かないでもよいという気になれば、沢子なんかどうでもよいという男になった。昌作はそういう自分の心を、どうしていいか分らなかった。九州の炭坑のことを思うと、真暗な気がした。沢子のことを思うと、輝やかしい気がした。そういう闇の暗さと光の明るさとが、同時に、全く正比例して強くなったり弱くなったりした。そして、沢子を連れて九州へ行くことは、到底望み得られなかった。
「兎も角も俺は決心をきめなけりゃならないのだ!」
 昌作は殆んど絶望的にそう呟いて、清楚とも云えるほど上品な趣味で化粧品類が並べてある店の方をちらりと見やりながら、柳容堂の薄暗い階段を上って行った。明るいわりに心持ち狭い二階の室に出ると、彼は俄に眼を伏せて、壁際の小さな円卓に行って坐った。
 薄汚れのした古いペーパーの洋酒瓶が両側にずらりと並んで、真中に大きな鏡のついてるスタンドの向うから、きりっと襟を合した沢子の姿が現われた。彼女は昌作の方をじっと見定めて、真面目な顔の表情を少しもくずさずに、眼で一寸会釈をしながら、彼の方へ近寄って来た。彼はまぶしいような気持になった。瞬間に、そうした余りに初心うぶな自分の心を、自ら恥しくまた意外にも感じて、右手で額の毛を撫で上げながら、恐ろしく口早に云った。
「菓子と珈琲とコニャックとをくれ給い。」
 それから袂を探って煙草に火をつけながら、卓子の上に顔を伏せた。
 その時彼は初めて、何故に此処に来たかを自ら惑った。九州へ行くか行かないかについて、心に喰い込んでる彼女に片をつける、それが彼の求めてる重な事柄だった。それには、暫く沢子から離れて自分の内心を見守るのが当然の方法なのを、却って反対に、沢子の許へ来てしまったのである。沢子の許へ来て、何の片をつけるというのか? 昌作は九州行きを考えてみた時から初めて、沢子の存在が自分にとって光であるように感じただけで、外面的に云えば、二人は屡々顔を合して親しい心持になっているという以外に、何等の交渉もない間柄だったのである。二人の心がぴたりと触れ合う話を交えたこともあるけれど、それもただ友人という位の範囲を出でなかった。
「俺は今になって、初めて恋をでもするように、女性というものを知らない初心者ででもあるように、沢子に恋をしたのであろうか?」
 或はそうかも知れなかった。然し、いくら自分を卑下して考えても、単にそればかりではなかった。では一体何か?……その雲を掴むような疑問をくり返してるうちに、昌作は深い寂寥の中へ落ち込んだ。
 珈琲と菓子とを持って来、次にコニャックの杯を持って来た沢子が、彼の上から囁くように云った。
「あとで一寸お話したいことがあるから、待ってて頂戴。」
 昌作が顔を挙げて、その意味を読み取ろうとすると、彼女は澄ました顔で、さっさとスタンドの向うへ引込んでしまった。その入口の所に、も一人の女中――顔に雀斑そばかすのある年増の春子――が、壁に半身を寄せかけて佇みながら、室の中をぼんやり眺めていた。昌作は慌てて眼を外らして、やはり室の中を眺めた。
 曇り硝子に漉される電気の先がいやにだだ白くて、白い卓子の並んだ室の中は薄ら寒かった。往来に面した窓際に、若い五六人の一団の客がいた。昌作が見るともなく眼をやると、その中に見覚えのある顔が一つあった。それがしきりにこちらを見てるので、昌作はまた卓子の上に屈み込んで、珈琲とコニャックとをちゃんぽんに嘗めるように啜った。彼等は美術のことを論じ合っていた。何かの展覧会に関することらしかった。然し昌作は別に興味も覚えないで、自分一人の思いに沈み込みながら、途切れ途切れに聞えてくる単語を、上の空に聞き流していた。そのうちに、彼は我知らず耳をそばだてた。彼等の声が俄に低くなったのにふと気を引かれて、隠れたる天才だのモデルだの好悪の群像だのという語を、ぼんやり聞いてるうちに、宮原という名前が耳に留ったのである。その時表を電車が通って、次の言葉は聞えなかったが、電車の響きが静まると、わりにはっきりと、想像も手伝って、彼等の会話が聞き取られた。
 A――「好きな部類にはいるんだと、僕は思うね。」
 B――「僕は嫌いな方にはいるんだと思うよ。」
 C――「なあに、両方さ。右のプロフィルが好きな方面、左のプロフィルが嫌いな方面、なんてことになるに違いないよ。惚れてはいるが意地もあるってわけさ。」
 M――「僕には一体あの事件がよく分らないよ。細君を追ん出してまでおいて、どうしてS子と一緒にならなかったんだろう?」
 C――「そりゃあ君、恋のいきさつなんか凡人には解せないよ。」
 N――「兎に角一風変った女だね。好悪の群像なんてでたらめだろうが、絵を習ってるというのは本当なのか。」
 C――「本当さ。松本氏の画塾ということまでつきとめたんだ。好悪の群像だって今に実現するよ。何しろこんな所にいて、そして客に対して、好悪の態度をあんなに露骨に示すんだからね。画家になりきったら、好悪の群像くらい訳はないさ。君達の顔だってその中に入れられるかも知れないぜ。」
 A――「そんなら、君子危きに近寄らずだ。もう行こうよ。」
 C――「体のいいことを云って、実はもう一つの危きに近寄りたいんだろう。」
 それから話は外の方に外れて、彼等の間だけに通用する符牒の多い事柄にはいり込んだので、その声はまた高くなったが、昌作にはよく分らなかった。けれど昌作にとってはそんなことはどうでも構わなかった。彼の頭は聞き取った事柄の方にばかり向いていた。沢子が絵を習ってるということを、彼は嘗て夢にも知らなかった。それかと云って、宮原の話やなんかを考え合せると、それは確かに沢子のことに違いなかった。沢子が絵を習ってるのを今迄自分に隠していたということが、重く彼の胸にのしかかってきた。固より、沢子の以前の生活やその智力などを考えてみれば、彼女がこの喫茶店の女中になったのには何か他に理由があるに違いないとは、昌作にも推察されないではなかった。然し彼がそのことに話を向けようとすると、彼女はいつも言葉を外らしてしまった。しまいには彼も諦めて、彼女から云い出すまで待つことにしていた。所が今偶然、彼女が絵を習ってるのを知ったのである。それが、彼女自身の口からではなくて、偶然によってであるのが、昌作には不満だった。その不満から、徐々に、絶望に似た憂苦がにじみ出してきた。
 向うの連中が、春子に勘定を払って出て行った後、昌作も立ち上ろうとした。其処へふいに沢子が出て来た。その顔を見て昌作は、彼女の先刻の言葉を思い出した。彼は沈んだ声で云った。
「僕に話があるって、どんなことだい?」
「もういいのよ。」と沢子は落着いた調子で答えた。「先刻はお話するつもりだったけれど、よく考えてみると、自分でも分らなくなったから。」
 昌作は彼女の顔をしげしげと見つめた。
「私ね、思ってることを口に出したり書いたりしようとすると、何だかはっきりしなくって、よく云えないわ。」
「そりゃ誰だってそうだろう。」
「そうかしら?」
 沢子は卓の横手に坐った。昌作は彼女の絵画のことを云ってみようと思ったが、云った後で自分が益々陰鬱になりそうなのを感じた。それほどこだわってるのが我ながら不思議だった。彼はコニャックの杯をあけて、それをも一杯求めた。
 どろりとした強烈な液体の杯を昌作の前に差出して、沢子は斜横の方に腰を下しながら、ふいに云いだした。
「あなたどちらにきめて?」
「え?」
「そら、九州の炭坑とかのこと。」
 昌作は黙って唇をかんだ。
「まだきまらないの?」
「そんなに容易くきめられるものかね。」
「だって、つまりは分ってるじゃないの。」
「何が?」
「私ね、あなたが結局行らっしゃりはしないと思うわ。行こう行こうと思ってるうちに、やはり行かずじまいになるに違いないわ。」
 昌作が黙ってるので、彼女は暫くしてつけ加えた。
「そうじゃないこと?」
「そうかも知れない。が……。」昌作は急に苛立った気持を覚えて、何かに反抗してみたくなった。そして云い出した。「行くかも知れないよ。いや、行くのが本当なんだろう。僕はぐうたらだけれど、忘恩者にはなりたくない。片山さんには非常に世話になってるんだ。年齢としはそう違わないけれど、僕の第二の親とも云っていい位なんだ。中学二年の時に母を亡くして全く一人ぽっちになってからは、あらゆる面倒をみて貰ったんだからね。盛岡で、学校はしくじるし、女に……豚のような女に引っかかってどうにも身動きが取れないでいる時、片山さんはわざわざ盛岡までやって来て、僕を救い出してくれたのだ。母が亡くなる時に片山さんのお父さんに預けていた財産だって……勿論それは財産というほどのものじゃない、五六千円に過ぎないんだが、それも、僕の病気の時や、あの豚の女と手を切る時や、長い間の学費なんかに、もうずっと前から無くなってしまってる。それを、何とも云わないで、片山さんは今でも毎月僕に生活費の不足を出してくれてるんだ。そして僕のために非常に奔走して、僕には勿体ないほどのあの九州の口を探してくれた。いくら僕が恩知らずだって、はっきりした理由もないのに、断れるものか。」
 云ってるうちに彼は捨鉢な気持になったのだった。前に話したことはあるけれど、此処に持ち出さずともいい豚の女のことまで云い出して、自ら自分を鞭打ちたかったのである。彼はなお云い続けた。
「それは片山さんだって、好意が……親のような好意があるなら、僕を九州まで追いやらずともいいさ。然し僕はもう片山さんの心をあれこれと詮議立てしたくはない。何もかも黙って受けようよ。僕のような者には、全く見ず知らずの新しい世界にでもはいらなけりゃ、生活が立て直りはしないんだからね。仕事を見付け出してやることが、僕を救う途だそうだ。そうかも知れない。仕事さえあれば、朝から晩まで馬車馬のように追い立てられさえすれば、それで僕の生活が立て直るんだろうよ。其他のものは何にも……。」
 昌作は今にも自分が泣き出しそうになってるのを感じた。と一方に、自嘲の念が湧いてきた。
「下らない!」
 そう云いすてて、彼は椅子の上に軽く身体を揺りながら、チョコレートの菓子とコニャックの杯とを両手に取って、一方をかじり一方を啜った。
 沢子はその様子を喫驚したような眼で眺めた。
「あなた、何に怒ってるの?」
「怒ってなんかいやしない。……もし怒ってるとしたら、自分自身に怒ってるんだろうよ。」
「つまんないじゃないの。」
 何がつまらないか昌作には一寸分らなかった。が、それがぴたりと胸にきた。
「そうさ、全くつまらないよ。君なんかには分らない味さ。……画家なんて呑気だからね。」
「え?」
「君は画家になるつもりだっていうじゃないか。」
「私が!……。」彼女は遠くを見るような眼付をした。「あなた、それをどうして知ったの?」
先刻さっきちらと聞いたよ。」
「あ、あの嫌な人達?……どうして分ったんでしょう?」
「君が此処に来る客の顔をみんな描いて、それを好きな者と嫌いな者とに分けて、好悪の群像とかを拵えるつもりだって、云っていたよ。」
 沢子はそれには何とも答えなかった。
「どうして分ったんでしょう? 不思議ねえ。私誰にも知らせないようにしてたんだけれど。」
「別に隠す必要はないじゃないか。」
「だって、うるさいんですもの。私雑誌記者なんかしてたんでしょう……婦人雑誌じゃあるけれど……それがこんな所へはいったものだから、いろんなことを云われて困るのよ、あなたは知らないけれど、文壇てそりゃうるさいもんなのよ。」
「人が何と云おうと構わないさ。」
「だけど……。」
 彼女は急に押し黙ってしまった。その黙り方が如何にも執拗だったので、昌作は突き放されたような気がして、反撥的に黙り込んだ。
「私ね、」と長くたってから沢子は云い出した、「実は宮原さんと誓ったことがあるの、これから真面目に勉強するって。そして何を勉強したらいいかさんざん迷った上で、画家になりたいと心をきめたのよ。そしてこんな所にはいり込んだのよ。記者と違って、ここだと午前中はすっかり隙だし、普通の珈琲店よりいくらかいいでしょう。どうせ国を逃げ出してきて、自分で働かなけりゃならないから、これ位のこと仕方ないわ。そして私こっそり、松本さんのアトリエに通ってるのよ。……誰にも分らないようにするつもりだったけれど、どうして分ったんでしょう?……あなただからお話したのよ。誰にも黙ってて頂戴、ねえ。」
 昌作には、そんなことを何故に彼女がひた隠しにしてるのか、合点がいかなかった。然し別に尋ねてみる気も起らなかった。ただ宮原のことだけが少し気にかかった。宮原と彼女との関係をも少しはっきり知りたかった。それをどういう風に云い出したらよいか迷ってるうちに、沢子はしみじみとした調子で云い出した。
「あなた毎日何にもしないで暮してるって、本当?」
 昌作はただ眉をちらと動かしただけだった。
「何にもしないで暮せるものかしら? ほんとに何にもすることがなくて、そしてほんとに何にもしないで……。」
「暮せるさ。」と昌作は突然我に返ったように饒舌り出した。
「時間なんかじきにたっちまうものだよ。朝眼がさめると、床の中で新聞をゆっくり読む――これがなかなか大変なんだ、半分眠ってて半分覚めて読むんだから、蟻の這うようなものさね。普通の者には出来ない芸当だ。それから、十時頃に起き上る。髯を剃ったり髪を解かしたりしているうちに、一時間くらいわけなくたってしまう。十一時頃、朝昼兼用の食事をして、新聞にまた隅々まで眼を通したり、ぼんやり空想に――空想という奴は、時間つぶしに一番いいんだ。……夢想と云った方がいいかも知れない。眼をあけながら、時には眼をつぶって、夢をみるんだからね。日向に蹲ってる猫のようなものさ。すぐに二時三時にはなる。それから、机の上を片附けたり、何をしようかと考えたり、読みもしない書物を開いたり、火鉢の火をいじくったり、……下らないこまごましたことが無数にあるんだ。そして四時か五時頃になる。そうなると、夕食の時間を待つばかりだ。君なんかには分るまいが、待つということが、単に食事を待つんでもいい、結構な時間つぶしなんだ。夕食を済ますと、外を歩きたくなって、散歩に出る。用も当もなしに歩き廻ってると、疲れることもないし、時間のたつのも覚えない。それに電車に乗ったりなんかして、空いた電車を幾台も待ったりなんかして、家に帰る時分には、もう寝る時間になってるという始末なんだ。……何にもすることがなくて、まるで猫のようなものさ。下宿に大きな三毛猫がいるんだがね、僕が家に居ると、いつも僕の室にばかりやって来るよ。僕の室の前に来て、にゃごう、にゃごう……と二声三声鳴くんだ。返辞がないと、すごすごと帰って行くそうだ。僕が居る時には、いつまでも立去らない。障子を開けてやると、ごろにゃん、ごろにゃんと、挨拶をするのさ。ごろにゃん、ごろにゃん……。」それを昌作は可笑しな調子で繰返した。「こういう風に二三度口の中でくり返してみ給い。自分も猫になったような気がしてくるから。……僕の生活も猫と同じさ。室の中で猫と二人でじっとしている。猫の眼が細くなってくると、僕も夢想のなかでうっとりとする。猫の眼が急に大きくなると、僕もはっと自分に返る。全く猫の生活だね。」
「だって、あなたは……。」
「仕事もしてると云うんだろう。陸軍の方の飜訳をしたり、時には詩や雑文を綴ってみたりね。然しそんなのは仕事じゃないよ。仕事というのは、それで自分の生活が統一されるもののことなんだ。僕の生活にはまるで統一がない。陸軍の方の『独立家屋』なんていう変な飜訳や、死にかかった病人の脈搏みたいな韻律リズムの詩や、不健全な読書や、芝居や球突や、それから、多くは猫の生活、そんなのが、仕事と云えるものかね。僕は自分でも自分に倦き倦きしてるんだ。こんな生活を長く続けてると、どんな憂鬱と倦怠とが押っ被さってくるか、君には想像もつくまい。ロシアの小説によく、退屈でたまらないという人物が出て来るね。けれどあんなのはまだいいよ。退屈にせよ憂鬱にせよ、世界的に偉大さと深さとがあるからね。所が僕のは何もかも薄っぺらなのだ、ふやけてるんだ。九州の炭坑へでも追いやられたら……光を失って闇の中へでもはいったら。……」
 昌作は口を噤んだ。ふと無意識に出て来た言葉から衝動ショックを受けて、眼前の沢子に対する情熱が高まってくるのを感じた。胸の中に苦しい震えが起った。
 沢子は静かな調子で云った。
「あなたには炭坑よりも農場なんかの方がいいと、私思ってるわ。盛岡の農林学校に中途までいらしたでしょう、その方がよほど自然よ。農場で仕事をしながら、昆虫でも研究なさるのは、いい生活じゃないでしょうか。そら、いつかお話なすったでしょう、昆虫のことばかり書いてるフランスの何とか云う人の書物……。」
「ファーブルの昆虫記だろう。」と昌作は心が他処にあるかのように非常にゆっくりした調子で云った。「あんなものはもう嫌だよ。あの世界は大部分争闘の世界だ。僕はもっと他のものがほしい。闘いではなくて……。」
「では、詩人は?」
「詩人!」
 昌作は何故となく喫驚した。
「私あなたの詩を覚えてるわ。」
「僕の詩だって?」
「いつか酔っ払っていらした時、私に書いて下すったじゃないの。淋しければっていう題の……。」
「知らないよ。」と昌作はぶっきら棒に云った。覚えてるようでもあれば、覚えていないようでもあったが、何だか心の傷にでもさわられるような気がしたのである。
「じゃあ云ってみましょうか。初めの方は覚えていないけれど、最後のところだけちゅうに知っててよ。
[#以下3字下げ]
吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地くぼち
表か?……裏か?……
明日あす知れぬさちを占うことなかれ。
分って?」
 昌作は思い出した。それはまだ九州行きの問題が起らない前、或る晩すっかり酔っ払って、ふと沢子の許へ立寄った時、急に堪らない淋しさを覚えて、その頃作ったばかりの詩を一つ、分り易いように紙にまで書いて、云ってきかしたものだった。その三連から成る詩の、最後の一連だった。そのことが、非常に遠く薄れてる記憶の中から、今ぽかりと目近に浮上ってきた。昌作は顔が赤くなるのを覚えた、……けれど、何だか一寸腑に落ちない所があった。
 昌作は沢子にも一度その詩句を繰返さした。沢子は低い澄んだ声で繰返してから、彼の顔をじっと眺めた。
「一寸変でしょう。」
「ああ。おかしいな!」
 沢子はおどけたようなまた皮肉なような口つきをした。
「私ね、少うし言葉を変えたのよ、一日中考えて。御免なさい。いけなくなったかしら? でも、どうしてもうまくいかないのよ。一番終りの句ね、あなたのには、明日をも知れぬ幸を占う、とあったけれど……。」
「そうだ、明日をも知れぬ幸を占う、だった。……も一度君のを云ってくれない? 初めから。」
 沢子は自分自身に聞かせるかのように、細い声でゆっくり誦した。
吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地くぼち
表か?……裏か?……
明日あす知れぬさちを占うことなかれ。
 明日知れぬ幸を占うことなかれ! その感じが昌作の胸にぴたりときた。彼は次第に頭を垂れた。深い深い所へ落ちてゆく心地だった。それを彼は無理に引きもぎって、頭を挙げた。沢子はちらと眼を外らしたまま動かなかった。その顔を昌作は、初めて見るもののように見守った。広い額が白々とした面積をべていて、柔かな頬の線が下細りに細ってる顔の輪廓だった。薄いむくげが生えていそうな感じのする少し脹れ上った唇を、歪み加減にきっと結んで、やや頑丈な鼻の筋が、剃刀を当てたことない眉の間までよく通り、多少尻下りに見えるその眉の下に、遠くを見つめるような眼付をする澄んだ眼が光っていた。今も丁度彼女はそういう眼付をしていた。それがかすかに揺いで、ふと二つ三つまばたきをしたかと思うまに、彼女はいきなり両の手でハンカチを顔に押し当てて、そばめてる肩を震わした。
 余りに突然のことに、昌作は惘然とした。そして次の瞬間には、もう我を抑えることが出来なかった。とぎれとぎれに云い出した。
「泣かないでくれよ。僕は苦しいんだ。実は……僕に必要なのは、仕事でもない、九州の炭坑でもない、或る一つの……そうだ、九州へ行くのが、暗闇の中へでもはいるような気がするのは……。」
 昌作が言葉に迷ってる時、沢子は急に顔のハンカチを取去って、彼の方をじっと眺めた。その表情を見て、昌作は凡てを封じられた気がした。彼女の顔は、眼に涙を含みながら、冴え返ってるとも云えるほど冷たくそして端正だった。彼女は静かな声で云った。
「佐伯さん、あなた宮原さんにお逢いなさらない? 私紹介してあげるから。」
 昌作は咄嗟に返辞が出来なかった。余りに意外なことだった。
「逢ってごらんなさい。岐度いいわ。」
 残酷な遊戯だ! という考えがちらと昌作の頭を掠めた。けれど、率直な純な光に輝いてる彼女の眼を見た時、信念……とも云えるような或る真直な心強さを、胸一杯に覚えた。彼は答えた。
「逢ってみよう。」
「そう、岐度ね。二三日うちに、四五日うちに、……午後……晩……晩がいいわね。向うからいらっしゃることはないけれど、用があるってお呼びすれば、岐度来て下さるわ。」
 沢子は如何にも嬉しそうに、顔も声も調子も晴々としていた。昌作はそれに反して、深い悲しみに襲われた。しつこく黙り込んで、顔を伏せて、身動き一つしたくなかった。いつまでもそうしていたかった。沢子も云うことが無くなったかのように黙っていた。
 けれど昌作は、やがて立上らなければならなかった。階段に乱れた足音がして、三人連れの客が現われた。
「おい、珈琲の熱いのを飲ましてくれよ。」
 沢子はつと立ち上ってその方を振向いたが、すぐに掛時計を仰ぎ見た。
「もう遅いじゃありませんか。」
「なあに、十一時にはまだ十五分あらあね。君は僕に、一晩に三十枚書き飛ばさしたことがあったろう。因果応報ってものだよ。」
 奥から春子が出て来たのと、沢子は何やら眼で相談し合った。春子が何か云うまに、客達はもう向うの卓子に坐っていた。
 昌作はそれらの様子をぼんやり見ていた。沢子と彼等との挨拶ぬきの馴々しい調子に、一寸不快の念を覚えた。それから、彼等のうちの、一人が、何事によらず自分の見聞をそのまま小説に綴る有名な流行作家であることを、見覚えのあるその顔で認めて、可なり嫌な気がした。彼は沢子がやって来るとすぐに立上った。沢子は声を低めて云った。
「二三日か一週間か後にね、私電話をかけるから、それまで外に出ないで待ってて下さいよ。」
 昌作は首肯うなずいた。

     三

 昌作は奇蹟をでも待つような気で、宮原俊彦に逢うのを待った。それは全く思いもかけないことだった。昌作が聞き知ってる所に依れば、宮原俊彦は沢子との恋のいきさつによって、二人の子供まである妻君と別れ、而も沢子と一緒にならずに、今では単なる友人として交際してると云う、謎のような人物だった。そういう俊彦に、沢子へ恋してる昌作が、沢子の紹介によって逢うということは、何としても意外だった。然し昌作は、自分自身をもてあつかって、半ば自棄的な気持に在った。何か事変ったものがあれば、尋常でないものがあれば、それへすぐに縋りついてゆき易かった。と云ってもそれは、好奇心からではなかった。否彼には好奇心は最も欠けていた。ただ何かしら、心に或る驚異を与えてくれるもの、情意を或る方向へ向けさしてくれるもの、云い換えれば、一定の視点を与えてくれるもの、それを欲しがっていたのである。そして彼は、変な風に落ちかかってきた宮原俊彦に逢う機会を、奇蹟をでも待つような気で待ちわびた。宮原俊彦に逢うことが、もしかしたら、沢子が云うように、自分のためにいいかも知れない。少くとも、沢子の以前の(?)……恋人に逢うことは、途方にくれてる自分に何物かを与えてくれるかも知れない。……
 昌作は出来る限り家の中に閉じ籠った。宮原俊彦に逢うまでは、誰にも逢うまいと心をきめた。片山夫妻へは四五日の猶予を約束していたけれど、どうせ今までぐずぐずしていた以上は、もし二三日後れたとて構うものかと思った。
 二三日か一週間外に出ないで待っていてくれ、という沢子の馬鹿げた命令を思い出して、昌作は半ば泣くような微笑を浮べながら、その命令を守り初めた。そして彼の所謂、猫と一緒の「猫の生活」が、幾日か続いた。
 それほどの寒さでもないのに、八畳の真中に炬燵を拵えて、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)の所までもぐり込んだ。胸に抱いてる猫の喉を鳴らす声が低くなってくると、彼の意識もぼやけてきた。夢をでもみるような気で室の中を眺めた。窓近くの机や本箱のあたりに、彼の生活の断片が雑居していた。友人の世話で引受けてる陸軍省の安価な飜訳……徒らに書き散らしてる詩や雑文の原稿……盛岡で私淑していたフランス人の牧師から貰った聖書バイブル……ファーブルやダーウィンなどの著書……重にロシアの小説の飜訳書……和装の古ぼけた平家物語……それからいろんなこまこましたもの。昌作はそれらをぼんやり眺めたが、いつしか眼が茫としてきて、うとうととしかけた。なにか慴えたようにはっと眼を開いて、またうとうととした午後の二時頃から、縁側の障子に日が射して来た。炬燵の中からむくむくと猫が起き出して、一寸鼻の先を掛布団の端から覗かしたが、いきなり室の真中に這い出して、手足を踏ん張り背中を円くして、大きな欠伸あくびをした。昌作も何ということなしに起き上った。炬燵の温気に重苦しい頭痛がしていた。何か重大なことでも忘れたように、眉根を寄せて一寸考え込んだ。それからはっと飛び上った。淋しければという詩のことを思い出した。けれど、机の前に行って本箱の抽出の原稿に手を触れる時分には、深い憂鬱が彼の心を領していた。……明日あす知れぬさちを占うことなかれ……沢子がなおした詩句を口の中で繰返しながら、詩稿を一つ一つ眺めてみた。三文の価値もない自分の残骸がごろごろ転ってる気がした。胸では泣きたいような気持になりながら、顔には自嘲的な皮肉な微笑が漂った。彼は詩稿をごたごたに抽出にしまって、読みつくした新聞をまた取上げた。打ちかけの碁譜がついていた。もくの数を辿りながら読んでいった。終りまでくると、碁盤を引寄せて譜面通りに石を並べ、その先を一人でやってみた。一寸した心の持ちようで、白が勝ったり黒が勝ったりした。そんなことを何度もやり直した。炬燵の上に飛び上って、顔を撫でたり足の爪の間をかじったりしていた猫は、此度は其処に蹲って、両の前足を行儀よく揃えて曲げた上に※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)をのせ、碁盤の白と黒との石が入り乱れて一つずつ殖えてゆくのを、珍らしそうに、而も退屈しのぎといった風に、ぼんやり眺めていた。うっとりした瞳の光が静に静に消えてゆくのを、少し強く石の音が響く毎に、またはっと大きく見開いた。その様子を昌作は振返って眺めた。猫も彼の顔を無心に見上げた。彼は碁盤を押しやり、炬燵の中に足を投げ出し、火鉢の縁と膝頭とに両肱をつき、掌で※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)を支えながら、暮れかかってゆく黄色い日脚を、障子の硝子越しに眺めた。猫はぶるっと一つ身を震わし、彼の膝の上にのっそり這い込んで、いずまいを直しながら、前足の間に首を挟み円くなって眠った。虎斑とらぶちのその横腹が呼吸の度に静に波打ってるのを、昌作は暫く見ていたが、やがてまた顔を上げて、障子の硝子から外に眼をやりながら、底に力無い苛立ちを含んだ陰鬱な夢想に、長い間浸り込んだ。
 けれど夜になると、その夢想の底の苛立ちが表面に現われてきて、彼を自分の室に落着かせなかった。何か思いもかけないことが今にも起りそうだった。沢子から今にも電話がかかって来そうだった。その、今にも……今にも……という思いが、彼の凡てを揺り動かした。その上彼の室は、この旅館兼下宿の、下宿の部と旅館の部との間に挟っていて、一時滞在の田舎客の粗暴な足音が、夜になると共に煩く聞えてきた。
 十分ばかりの間じっと我慢した後、昌作は急に立上った。彼が食事の時にいつも与えることにしていた練乳コンデンスミルクの溶かしたのを、室の隅でぴちゃぴちゃ舐め終った猫が、なお物欲しそうに鼻をうごめかしてるのを、彼はいきなり胸に抱き上げて、慌しい眼付で室の中をぐるりと見廻してから、それでもゆっくりした足取りで出て行った。帳場の室に猫を押しやり、話しかける主婦かみさんの言葉には碌々返辞もせずに、自分の用だけを頼んで――柳容堂からと云って電話がかかったら、つないだまま知らしてほしい、他の電話や訪客には一切、不在だと答えてほしい――と頼んで、二軒置いた隣りの撞球場たまつきばへ行った。球をついてるうちにも、始終何かが気にかかったけれど、別に仕方もなかったので、つまらないゲームに時間をつぶして、夜更けてから下宿に帰った。帰ると先ず何よりも、電話の有無を女中に尋ねて、それから冷い心で自分の室にはいった。
 四日目の午後から晩へかけて、片山からという電話が三四度かかった。一度は女中が撞球場までやって来て、昌作の意向を聞いた。探したけれど分らないと云ってくれ、と昌作は答えた。凡ては宮原俊彦に逢ってから! ということが、いつしか彼の頭の中に深く根を張っていた。逢って何になるかは問題でなかった。ただ一生懸命に待ってるために、昌作は知らず識らずそれに囚われていたのである。其他のこと一切は、憂鬱で億劫だった。
 そして偶然にも、丁度その晩八時頃柳容堂からの電話を女中が知らして来た時、昌作は突棒キューを置いてゲーム半ばに立上った。午後から風と共に雨が降り出していた。昌作は傘を手に握ったまま雨の中を飛んで帰った。電話口に立つと、覚えのある沢子の声がした。
「あなた佐伯さん?……じゃあ、すぐに来て下さいよ。今ね……いらしてるから。他に誰もいないわ。すぐにね。」
「今すぐ出かけるよ。……そして……。」
 昌作が何か云おうとするのを待たないで、沢子は「すぐにね」を繰返して電話を切ってしまった。
 昌作は自分の室に戻って、一寸身仕度をして出かけた。
 大した風でもなさそうだったが、雨は横降りに降っていた。油ぎった泥濘が街灯の光を受けて、宛も銀泥をのしたようにどろりとした重さで、人影の少い街路に一面に平らに湛えてる上を、入り乱れた冷たい雨脚が、さっさっと横ざまに刷いていた。昌作は傘の下に肩をすぼめて、膝から下は外套の裾で雨を防いだ。電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々ひえびえとした。
 途中で一度電車を乗り換え、柳容堂の明るい店先へ近づくに従って、昌作は自分の地位を変梃に感じ初めた。この四五日の間あれほど一生懸命に待っていて、そして今雨の降る中を、宛も恋人ででもあるように夢中になって逢いに行くその当の宮原俊彦が、一体自分にとって何だろう? そして自分は彼にとって何だろう? 二人は逢ってどうしようというのか? 而も沢子の面前で……。泣いてよいか笑ってよいか形体えたいの知れない感情が、昌作の胸の中一杯になった。それでも彼は行かなければならなかった。
 柳容堂の二階へ通ずる階段に足をふみかけた時、昌作は殆んど無意識的に顧みて、爪革に泥のはねかかってる古い足駄が一足、片隅に小さく脱ぎ捨ててあるのを見定めた。それから階段を、一段々々数えるようにして上って行った。
 二階に上って、第一に彼の眼に止ったものは、室の両側の壁にしつらえてある可なり贅沢な煖炉の、一方のに赤々と火が焚かれてることだった。その煖炉の前の卓子に、長い頭髪を房々と縮らした一人の男と沢子とが、向い合って坐っていた。
 昌作の姿を見ると、沢子はすぐに立上って、二三歩近寄ってきたが、其処にぴたりと立止って、サロンの女主人公といった風な会釈をした。それから彼を煖炉の方へ導いて、殆んど二人へ向って云った。
「先生よ。」
 その先生という言葉が、昌作の耳に異様に響いた。がそれよりも変なのは、初めて見る宮原俊彦の顔に、彼は何だか見覚えがあるような気がした。頬骨の少し秀でた、頬のしまった、髯のない、色艶の悪い顔、痩せた細い首、そして縮れた髪の垂れてる額の下から、近眼鏡の奥から、大きな眼が輝いていた。何処ということはないが、重にその眼に、昌作は古い見覚えがあるような気がした。
 もじもじしてるうちに、沢子が横手の椅子に腰を下ろしてしまったので、昌作は仕方なしに、一つ不自然なお辞儀をしておいて、俊彦と向い合って坐った。
「宮原です。」と俊彦は云った。「どうぞよろしく……。君のことは沢子さんから聞いてはいましたが……。」
 いきなり君と呼ばれたことと沢子さんという言葉とが、また昌作を変な気持にさした。
「私もお名前は伺っておりました……。」
 昌作はそう鸚鵡返しに答えてから、へまな挨拶をしたという気まずさのてれ隱しに、濡れた冷たい足袋の足先を煖炉の火にかざした。
「そんなに降ってるの?」と沢子が云った。
「雨はそうひどくないが、横降りなんだから……。」
「そう。御免なさい。」と彼女は雨の責任が自分にあるかのような口を利いた。
「その代り何か温まるものを持ってきてあげるわ。」
 昌作がいつもあつらえる珈琲とコニャックとを取りに、沢子が立って行った時、俊彦は落着いた調子で云った。
「沢子さんの気まぐれにも困るですね。是非やって来て君に逢えって、殆んど命令的な手紙を寄越すんですからね。こんな天気に済みませんでした。けれど、僕は何だか、君も御承知でしょうが、他に大勢客が居そうな時には、一寸来難いもんですからね。それでわざわざ、雨の降る寒い晩なんかを選んだのです。」
 別に云い渋るのでもないらしい自然な声で、真正面を向いたままそう云われて、昌作は一寸返辞に迷った。けれど、非常にいい印象を受けた。ややあって不意に云った。
「私も、他に客の居ない方がいいんです。あなたにお目にかかるのを非常に待っていました。」
 俊彦はそれを聞き流しただけで、煖炉の火に眼を落した。
 二人はそのまま黙っていた。暫くして沢子は、珈琲を二つとコニャックを一杯持って来て、珈琲の一つを俊彦の前へ差出したが、別に何とも云わなかった。昌作は眼を挙げて、彼女の様子がいつもと違ってること、何か変に気持をこじらしてることを、見て取った。それが彼の心を暗くした。沈黙が長引くほど苦しくなってきた。その沈黙を破るべき言葉を探し求めたが、なかなか見つからなかった。すると、不意に沢子が云い出した。
「佐伯さん、あなた九州行きはどうして?」
 昌作は答える前に、俊彦の顔をちらりと見た。俊彦はまじろぎもせずに煖炉の火を見つめていた。
「まだあのままさ。」と昌作は答えた。
 そして俄に彼の心に、或る何物へとも知れない憤懣の念が湧き上ってきた。片山からの電話を三四度も素気なく放りっぱなしにしたことが、何か取り返しのつかない失体のように頭を掠めた。宮原俊彦に逢って何をするつもりだったのか?「沢子の気まぐれ」からここまで愚図々々引っ張られて来た自分自身が、なさけなく怨めしかった。沢子に恋しておればこそ!…… そして沢子は、その恋を知りつつどうするつもりなのか?
 昌作が次第に首を垂れて考え込んでるうちに、沢子は俊彦の方へ話しかけていた。
「先生、私松本さんの所で、やはりお弟子の小林さんて方と、議論をしましたのよ。」
「何の?」と俊彦は顔を挙げた。
「いつか先生が手紙に書いて下すったでしょう、初めのうちは出来るだけ自己を画面に出しきるがよい、腕が進んでくるに従って、次第に自己が画面から消えて、偉い作品が出来るものだって。私がそう云うと、小林さんはまるで反対の意見なんでしょう。初めは自己を画面には出していけない、腕が進んでくるに従って、本当の自己が画面に現われてきて、立派な作品が出来るものですって。それでさんざん議論をしても、とうとう分らずじまいですから、しまいには松本さん所へ持ちこみましたのよ。」
「すると?」
「何とも仰言らないで、ただ笑っていらしたわ。好きなようにやるがいいだろうって。屹度御自分にもお分りにならないんでしょう。」
「うまく軽蔑されたもんですね。」
「あら、誰が?」
「あなた達がさ。あなた達のその議論は、第一自己というものの見方が違ってるから、いつまで論じたってはてしがつきませんよ。」
「そう、どうしてでしょう?」
「どうしてだか、僕にもお分りになりませんね。……そんなことより沢子さん、僕に絵を一枚くれる約束じゃなかったですか。」
「あら、先生に差上げるようなもの、まだ出来やしませんわ。」
 昌作は突然口を出した。
「沢ちゃんの群像って話をお聞きになりましたか。」
 その声が、昌作自身でも一寸喫驚したくらい大きかったが、俊彦は別に大して気を惹かれもしないらしく、ただ眼付きだけで尋ねかけてきた。それを沢子は引取って云った。
「あら、そんなでたらめなことを先生の前で……。嘘よ、嘘よ。」そして彼女は何かに苛立ったかのように次第に早口になりながら、而も真面目だかどうだか見当のつかない調子で、云い続けていった。「私記者なんかしたものだから、ここに居てもいろんなことを人に云われて、ほんとに嫌になってしまうわ。誰にも顔を合せないで、一人っきりでいられる仕事はないものかしら? 一日自分一人で黙っていて、勝手なことばかり考え込んでおられたら……。あなたなんか、ほんとに羨ましいわ。何にもしないで猫のような生活だなんて! 私もう何もかも放り出したくなることがあってよ。田舎へ帰っちまおうかなんて考えることがあるのよ。何をするのにも、人からじっと見られたり、余計な邪推をされたりして……私そんな珍らしい人間でしょうか? どこか、誰からも離れてしまった所へ、自分一人きりの所へ、逃げて行ってしまいたいわ。井戸の中みたいな所へ……。深い井戸を見るとね、あの底へ飛び込んだら、自分一人きりになって、静かで、ほんとにいいだろうと思うことがあるわ。」
 昌作はそれを、沢子の言葉としては可なり意外に感じた。彼女はいつも、何にも仕事がないという昌作を不思議がっていたではないか。彼は彼女の顔を見守った。
「そして、井戸の底に水がなかったらなおいいでしょうがね。」と俊彦は云った。でもその調子は別に皮肉でもなかった。
「あら、先生も随分よ。私水のある井戸のことなんか云ってやしませんわ。」
「じゃあ、初めから水のない井戸のことですか。」
「ええ。」
「でもね、逃げ出す方に捨鉢になるのは卑怯ですよ。戦う方に捨鉢にならなくちゃあ……。」
 その言葉に、昌作は一寸心を惹かれて、じっと俊彦の眼を見やった。俊彦はちらりと見返してから云った。
「君は何にもすることがないんですって? いいですね。」
「佐伯さんは、」と沢子が云った、「何にもすることがなくて困るんですって。」
「することがなくて困るというのは、なおいいですね。僕も賛成しますね。」
 昌作は先刻から、俊彦の言葉に妙に皮肉があることに気付いていた。けれどもそれは単に言葉の上だけのもので、彼自身の心持は少しも皮肉ではなく、却って率直で真面目であることをも、よく気付いていた。それで今、彼の言葉に対して苛立たしい不満を覚えた。つっかかってゆきたくなった。
「私は実際困ってるんです。」と昌作は云ってのけた。「自分には何だか生活がないような気がして、始終憂鬱な退屈な心持になってきます。晴々とした空が私にはないんです。」
「では何か仕事を見付けたらいいでしょう。」
「見付けたいんですが、それがなかなか……。」
「然し君は、一体何をするつもりですか。」
 突然の、そして自分でもよく考えたことのない、きっぱりした問だったので、昌作は一寸面喰った。俊彦はその顔をじろじろ見ながら、自分自身でも考え考え云うかのように、ゆっくり云い続けた。
「仕事を見付けるということも大切でしょうが、それよりも、何をするかという、その何かを見出すのが、更に大切ではないでしょうか。誰にでも、何でもやれるものではないでしょう。先ず何をやるか、それからきめておいて、云わば生活の方向をきめておいて、それから初めて仕事を探すべきでしょう。そうでないと、どんな仕事がやって来ても、取捨選択に迷うばかりで、手が出せやしませんからね。」
「然し私には何をやってよいか、それをきめる力が自分にないんです。」
「そりゃあ勿論誰にだって、自分が何をやるべきかは、なかなか分るものではないでしょうけれど、ただ漠然と生活の方向といったようなものは、誰にでもあるものですよ。」
「ですが……その方向を支持してくれる力が第一に……。」
「力なんて、」と突然沢子が言葉を拝んだ、「気の持ちようじゃありませんかしら?」
「気の持ちようか、または心の向け方か、そんなものかも知れませんね。」
 がその時、不思議にも、深い沈黙が俄に落ちかかってきた。三人共云い合したように、ぴたりと口を噤んでしまった。何故だか誰にも分らなかった。各自に自分々々の思いに沈み込んで、そして妙に精神を緊張さしていた。昌作はそれをはっきり感じた。沢子は遠くを見つめるような眼付を、卓子の白い大理石の面に落していた。俊彦はしまった頬の筋肉をなお引緊めて、煖炉の火に見入っていた。昌作は眼を伏せて腕を組んだ。顔をそむけて心で互に見つめ合ってるがようだった。三人の状態がこのままでは困難であること――それでいて妙に落着き払ってること――一寸何かの動きがあれば平衡が破れそうなこと――そして今にも何か変な工合になりそうなこと、それがまざまざと感ぜられた。昌作は苦しくなってきた。動いてはいけないいけないと思いながら、我知らず立上って室の中を歩き出した。涙がこぼれ落ちそうな気がした。窓の所に歩み寄ると、硝子に小さな雨滴がたまっていて、街灯の光にきらきら輝いていた。雨は止んだらしく、澄みきって光ってる冷たい空気が、寂しい街路に一杯湛えていた。おかしなことには、いつまで待っても電車が通らなかった。昌作は次第に顔を窓に近寄せていった。息のために硝子がぼーっと曇ってきた。
「佐伯さん!」
 呼ばれたので振返ると、沢子が下り加減の眉尻をなお下げて、眼をまん円くして、彼を招いていた。彼は戻っていった。
「あなた今日は、ちっともお酒をあがらないのね。」
「なに、やるよ。」
「君は沢山いけるんですか。」と俊彦が尋ねた。
「それほどでもありません。」
「うそよ。私度々あなたの酔ってる所を見たわ。」
「酒に弱いから酔うんだよ。……そしてあなたは。」
「僕は泥坊の方で、いくら飲んでも酔わないんです。その代り、時によると非常に善良になってすぐ酔っ払うんです。」
「先生は酔うと眠っておしまいなさるんでしょう。」
「沢ちゃんを一度酔っ払わしてみたいもんだな。」
「そう。」と俊彦が愉快そうに叫んだ。「そいつは面白いですね。」
「大丈夫ですよ。私も泥坊になるから。」
 そんな他愛もない話が順々に続いていった。一瞬前の緊張した気持は、いつしか何処かへ飛び去ってしまっていた。年来の友であるような親しみが、落着いたやさしい親しみが、三人を包んでいた。昌作はふと、自分がどうしてこう俄に安易な気分になったか、自ら怪しんでみた。そして、そのことがまた彼の心に甘えてきた。
 けれど、そういう会話は長く続かなかった。派手なネクタイに金剛石ダイヤ入りのピンを光らしてる会社員風の男が一人、音もなく階段[#「階段」は底本では「躊段」]から現われてきて、煖炉の方をじろじろ眺めながら、暫く躊躇した後、向うの隅の卓子に腰を下して、しきりにこちらを窺い初めた。それを一番に不快がりだしたのは、俊彦らしかった。彼は次第に言葉少なになり、はては上半身を煖炉の方へねじ向けてしまった。洋服の男は、出て行った春子と懇意な者らしく、暫く冗談口を利いていた。その声が馬鹿に低くて、昌作の方へは聞き取れなかった。それから男は、一人で珈琲をなめながら、また執拗に昌作達の方を窺い初めた。今度は昌作までが不快を覚えた。男の方に背を向けてる沢子一人がぽつりぽつり口を利いていたけれど、やがて彼女も黙り込んでしまった。それからすぐに、役女が最も不機嫌になってきたらしかった。卓子の上に両肱を置いて、石のように固くなって動かなかった。
 やがて俊彦はふいに向き返った。
「少し外を歩きませんか。」
「そうですね……。」
 昌作は語尾を濁しておいて、何気なく沢子の顔に眼をやった。沢子は一寸眉根を動かしたきりで、やはりじっとしていた。その間に俊彦はもう立上っていた。そして彼が勘定を求めると、沢子は突然大きな声で――向うの男にも聞えるような声で――云った。
「今日のは宜しいんですわ。」
 彼女は唇の端を糸切歯の先でかみしめてきっとなった。そして、俊彦はつっ立ち昌作と沢子とは坐ったままで、一瞬間待った。昌作は何とかこの場を繕ろわねばならない気がした。
「沢ちゃん一人残して可哀そうね。」と彼は囁くように云った。
 沢子は眼を挙げて、昌作と俊彦とを同時に見た。その顔が今にも泣き出しそうなのを、昌作は深く頭に刻み込まれた。
「何れまた三人で話をしましょう。」
 俊彦はそう云い捨てて、帽子掛の方へ歩き出した。昌作も引きずられるように後へ続いた。階段の上から沢子が見送っていた。
 外に出ると俊彦は突然云った。
「僕はあの男に見覚えがあるんです。いつか、四五人一緒にやってきて、隣の卓子で、僕にあてこすりを云ったので……。」
 昌作には、俊彦がそれほど憤慨してるのを怪しむ余裕も、またその言葉に返辞をする余裕もなかった。泣き出しそうになっていた沢子の顔と、後で恐らく泣いてるかも知れない彼女の姿と、それから、俊彦に離れ得ないで犬のようにくっついてゆく自分の憐れな姿とが、彼の頭に一杯になっていた。
 空はどんより黝ずんでいたが、雨はもう霽れていた。屋根も並木も街路も、それから人通りさえ、凡てのものが雨に洗われて、空気の澄んだ寂寞とした通りを、少し気恥かしいほどの高い泥足駄で、二人はゆっくり歩いて行った。俊彦は暫くたってから、こんなことを云い出した。
「僕は何だか、運命といったものが信じられる気がしますよ。運命と云っても、人間自身の力でどうにもならない、所謂生れながら定まった宿命ではありません。自分の心と一緒に動く或る大きな力です。何か或る方向へ心を向けると、それと一緒に、同じ方へ、運命が動き出すように思えるのです。自分の信念の流れと運命の流れとが、一つになるといった気持です。それを思うと非常に僕は心強くなります。神の意志とでも、自然の反応とでも、人によっていろんな名前をつけるでしょうが、僕に云わすれば、天の交感ですね。その天の交感を、自分が荷ってるということが、はっきり感ぜられるようです。そして僕は、此度は反対に、その天の交感で……運命の動きで、自分の考えの正しいかどうかを見定めたいんです。心を或る方向へ向ける時、その向け方が本当のものである時には、岐度運命の同じ動きが感ぜられますし、向け方が間違ってる時には、それが少しも感ぜられないんです。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そして、そういう本当の心の方向へ進んでゆけば、結果はどうでも、常に悔いがないと僕は信じています。……君はそう思いませんか。」そして五六歩して、昌作の答えを待たないで、彼は俄に苛立った声で云い続けた。「勿論、先刻あすこから逃げ出した意向には、運命の動きなんか伴わなかったし、それかって、悔いも伴いはしませんが……。」
 昌作は我知らず微笑を洩した。
「けれどその反対に、あすこに残るとしましたら、その意向にもやはり、どちらも伴わないではないでしょうか。」
「そうです。腹を立てちゃ駄目ですね。」
 俊彦はじっと昌作の方を顧みて、五六歩すたすた足を早めた。それからまた足をゆるめながら云った。
「君は……僕は今晩沢子さんから聞いたんですが、九州の炭坑とかへ行こうか行くまいかと、迷ってるそうですね。」
「ええ。」
「そいつはどちらなんです?」
「どちらって?……」
「行く方と行かない方と、どちらに運命の動きが感じられますか。」
 昌作は答えに迷った。
「どちらにも感ぜられないんじゃないですか。」
「ええ。どちらにも感ぜられるようでもありますし、また感ぜられないようにも……。」
「それじゃあ、それも結局、柳容堂の二階に残ってるかどうかと、同じものですね。そして君も腹を立ててるという結論になるわけですね。」
 昌作は冷たいものを真正面からぶっかけられた心地がした。そして、凡てを一瞬間に失った心地がした。黙って唇をかんだ。それを知ってか知らずにか、俊彦は他のことを云い出した。
「腹を立てるのは止しましょう。……僕はね、これも運命の動きと同じ感じですが、初対面の人に対して、自分の友になれる人となれない人とを、はっきり感ずることがよくあるんです。君に対して僕は、失礼ですが、親しい友になれそうな気がするんです。……何処かで一杯やりませんか。」
「ええ。」と昌作は殆んど無意識的に答えた。
 俊彦は帯の間から、小さな銀側時計を引出して眺めた。昌作は何とはなしに、こんな場合に彼が時計を持ってるのが、不自然な気がした。
「もう遅いから駄目ですね。」そして俊彦は暫く考えていた。
「穢い家でも構いませんか、その代り酒は上等ですが。」
「どこでも構いません。」と昌作は答えた。何もかもなるようになれという心になっていた。
 電車通りを暫く行って、それから横町へ曲って、次に路次へ曲り込むと、みよしという小意気な行灯の出てる、繩暖簾の小さな家があった。狭い板の間に、大きい粗末な木の卓子が三つ並んでいて、銚子や皿の物を並べた膳を前に、洋服や和服の数人の客が散在していた。側の畳敷の、長火鉢の前に坐っている、黒繻子の襟の着物にお召の前掛をしめた、四十恰好のお上さんに、俊彦はいきなり言葉をかけた。
「遅くなってから済みませんが、二階の室を貸して貰えませんか。」
「まあ、宮原さん、」とお上さんは云った、「ほんとにお久し振りでしたこと。……ええ、散らかってますけれど、どうぞ。今片付けますから。」
 狭苦しい梯子段を上りきった所に、四畳半の室が一方に開いていた。室の中は散らかってる所か、殆んど何にもなくてがらんとしていた。後からお上さんがやって来て、足の頑丈な餉台や、火鉢や、座布団を並べながら、俊彦と二三人の人の噂を話していった。暫くすると、からすみ、このわた、蟹、湯豆腐、鮪のぶつ切り、など誂えの料理が、錫の銚子を添えて持って来られた。天井と畳が煤けて古ぼけてるわりに、障子の紙だけが真白だった。
「どうです、どうせ裏路なんですけれど、柳容堂の二階とは随分感じが違いますね。」
 そう云う俊彦の顔を、昌作はぼんやり見守った。彼の眼に俊彦は、柳容堂の時とは全く別人のように写った。
「何だか、変な気がしますね。」
 俊彦は黙って杯を取上げた。昌作も黙ってその通りにした。可なり更けたらしい静かな晩だった。膝頭から寒さがぞくぞく伝わってきた。二人共しつこく黙り込んで、杯の数を重ねた。俊彦は突然肩を震わした。
「全く変な気がする晩ですね。」
 余り長い間を置いてだったので、昌作はびっくりして、彼の眼を見入った。その時、古い見覚えがあるような眼付をまた見出して、はっと心を打たれた。俊彦はその眼付を、膝のあたりに落して云った。
「僕は打明けて云ってしまいましょう。実は、君をどうしてくれようかと迷っていたんです。どうしてくれようかって……つまり、君の味方になるか敵になるかということです。初め僕はあすこで、非常に素直な気持で君に逢えて嬉しかったんです。所が、あの嫌な男がやって来た時、ふとその一寸前の気分が――君が窓の所へ立っていった時の変梃な気分です……君にも分るでしょう……あの気分が妙にこじれて戻って来たんです。僕があの男に腹を立てたのも、そのためです。それから僕は、運命の動きなんてものを持出して、君が深く悩んでいる九州行きに結びつけて、一寸悪戯をやってみたのです。その上君をこんな所へ引張ってきて、僕は全く自分でどうかしていました。けれど、あの運命に対する信念と、人に対する最初の印象とは、僕の本当の考えです。云わば自分の信条で君をいじめてみたようなものです。」
 俊彦は深く眉根をしかめて、じっと考え込んだ。昌作は初めて彼の心へ本当に触れた気がした。凡てのことがぼんやり分りかけてきた。俊彦が今でもなお、沢子を愛していること、その愛に自ら悩んでいること、などが分ってきた。
 ややあって、俊彦はふいに顔を挙げた。眼が輝いて、いやに真剣な様子だった。昌作も自ずと襟を正すような心地になった。
「君は沢子さんをどう思います?」
 昌作は息をつめて返辞が出来なかった。俊彦はそれでも平静な調子で云った。
「僕にはあの女のことが、どうもはっきり分りません。何処か少し足りない所があるか、それとも何処か非凡な所があるか、そのどちらかでしょうね。」
「そうですね。」と昌作は漸く答えた。「そして、考え方が、突然意外なものに飛んでゆくので、私は喫驚するようなことがあります。」
「そんな所がありますね。……それから、君は沢子さんを、処女だと思いますか。」
 昌作は大抵のことは予期していたけれど、それはまた余りに意外な言葉だった。それに対する自分の考えをまとめるよりも、相手の気持を測りかねて、黙っていた。
「え、君はどう思います? 本当の所は……。」
「そうですね、私は……。」そして昌作は自分でも不思議なほどの努力で云った。「まだ処女だと思っています。」
 俊彦は深く息をついた。
「君がそう信じてるんでしたら、僕達の物語をお話しましょう。なぜなら、沢子さんを処女だと信じてる人にしか、この話は理解出来ないような気がするんですから。……僕はまだこんなことを誰にも話したことはありませんし、今後も恐らくないでしょうが、君にだけは、妙に話したくなったんです。ただ、誓って、君の胸の中だけにしまっといて下さいよ。」
 昌作はそれを誓った。俊彦は話しだした。そして初めから、二人共不思議に心が沈んできて、暗い憂鬱な気分に閉されたのだった。勿論俊彦の話は、その内容が理知的なにも拘らず、非常に早口になったり、一語々々言葉を探すようにゆるくなったり、前後入り乱れたり、間を飛び越して先へ進んだりして、可なり乱雑なものだったが、その大要は次の通りである。

     四――宮原俊彦の話

 今から二年半ばかり前のことでした。団扇うちわを使ってたから、たしか夏の……初めだったと思います。その暑い午後に、婦人雑誌記者の肩書を刷り込んだ小さな名刺を、女中が僕の書斎へ持って来ました。僕はその橋本沢子という行書ぎょうしょの字体をぼんやり眺めながら、客を通さしました。そして派手な服装みなりをした若い女――何故かその時僕は、記者にしては余りに若すぎると感じたのです、そんな理屈はないんですがね――その若い記者が、遠慮なく座布団の上に坐ってお辞儀をした時、僕も一寸会釈をしながら、「初めて……」と挨拶したものです。すると、彼女は頓狂な顔をして、僕をじっと見てるじゃありませんか。僕は変な気がして、「何です?」という気味合いを見せたのです。
「だって、私先生にはもう二三度お目にかかったことがありますもの。」
 そう云った彼女の顔を僕は見守りながら、その広い額と下細しもぼそりの顔の輪廓と尻下りの眉の形とで、前に逢ったことを思い出したのです。それは間接の友人の中西の所でした。その頃僕の友人達の間に、花骨牌はながるたが可なり流行っていて、僕も時々仲間に引張り込まれたものです。それが大抵中西の家で行われた――というのは、中西の細君が、新らしい婦人運動やなんかに関係していて、まあハイカラな現代の新婦人で、男の連中と遊ぶのが好きだった――と云っちゃ変ですが、兎に角社交的な開けた性質なんですね。それで、友人と二人くらいで、外で晩飯を食って、詰らなくなって退屈でもしてくると、自然中西の家へ僕まで引張ってゆかれて、主人夫妻と一緒に花をやるといった工合です。僕もそういう風にして、何度か中西の家へ行ったものです。すると或る時、中西の細君が、「人数がも少し多い方が面白い、」と云って、階下したから女学生らしい女を呼んできました、それが沢子だったんです。勿論僕はその時、彼女に紹介されもしなければ、彼女の名前を覚えもしなかったですが――と云って、「今度は沢子さんの番よ、」などと云う言葉を耳にしたには違いないんですが、それが頭にも残らないほど、彼女の態度は……存在は、控え目で、そして遊びにも興なさそうだったのです。そんなことで二三度彼女に逢ったわけですが、そのうちに僕は自然忙しくもなるし、花にも興味を持たなくなるし、元々中西とは、花骨牌の席ででもなければ、殆んど逢うこともないくらいの間柄だったものですから、いつしか連中から遠退いて、従って、沢子に逢うことも無くなったし、彼女の存在をも忘れてしまったのです。
 所が、それから半年か……そうですね、一年とたたないうちに、彼女は雑誌記者として、ふいに僕の前に現われたのです。
「そうそう、中西さんの所でお目にかかりましたね。だが、雑誌記者たあ随分変ったものですね。」
 というような挨拶をして、それとなく、彼女の身の上を知ってみたいという好奇心が、僕のうちに萌しました。けれども彼女は当り障りのないことをてきぱきした言葉で述べながら――そのくせ、自分自身に関することについては妙に曖昧に言葉尻を濁しながら、僕の言葉をあらぬ方へ外らしてしまうんです。非常に明敏な頭を持ちながら、自分自身のことについてはまるで渾沌としてる……といった印象を僕は受けました。
 それから、来訪の用件に移ると、実は雑誌社にはいったばかりでまるで見当がつかないが、最初の原稿として何か面白いものを取って皆をあっと云わしてみたいから、神話に関する先生の原稿を是非頂きたい、と云うのです。僕が神話の研究者であることを、何処かで聞いていたとみえます。僕は承知するつもりで期日を聞きますと、一週間以内に是非と云うじゃありませんか。而もその一週間は、僕は学校の方の答案調べやなんかでとても隙がありません。
「それじゃお話して下さいませんかしら。私書きますから。」
 いつ? と尋ねると、只今、と云うんです。
 僕は苦笑しながら、兎に角話を初めました。フーシェンが山へ行って、恐ろしい姿のものを見て、石を掴んで投げつけると、その石が岩に当って火花を発し、その火が広い野原中に拡った、それがペルシャの拝火教のそもそもの火であるというようなことや、印度の火神アグニーは、枯木の材中に生命を得て来て、生れ出るや否や、自分の親である木材を食い尽そうとする、などというような、神話の起原と自然現象との分り易い関係の話を、少しばかりしてやりました。彼女は談話筆記は初めてだと云いながら、わりにすらすらと書き取っていましたが、一寸つかえると、僕が先へ話し進めるのをそのままにして、一言の断りもしないで、じっと僕の顔を見てるじゃありませんか。まるで女学校の生徒が先生の講義を筆記してるといった恰好です。僕は苦笑しながら、その引っかかってる所からまた話し直してやる外はなかったのです。
 用が済むと、彼女はさっさと帰って行きました。その後で僕は、彼女が団扇を手にしようともしなかったことと、暑いのに着物の襟をきちんと合してたことと、而も額には汗を少しにじましてたこととを、何故ともなく思い出したものです。
 僕がどうしてその日のことをこんなに詳しく覚えてるかは、自分でも不思議なくらいです。彼女が帰った後で、僕は非常に晴々とした気持になって、初めからのことを一々思い浮べてみた、そのせいかも知れません。
 が、こんなに細かく話してては、いつまでたっても話が終りそうにありませんから、これから大急ぎでやっつけましょう。その上、其後のことは僕の記憶の中でも、頗るぼんやりしていてこんぐらかっているんです。
 沢子が僕の談話を取っていってから、可なりたって、その雑誌社から雑誌を送ってきました。読んでみると、僕の話した事柄が、可なり要領よくそして伸びやかな筆致で書いてありました。これなら上乗だと僕は思いました。すると、丁度その翌日です。沢子が雑誌と原稿料とを持って飛び込んで来たものです。
「先生のお蔭で、私すっかり名誉を回復しましたわ。」
 何が名誉回復だか僕には分りませんでしたが、彼女の喜んでるのが僕にも嬉しい気がしました。雑誌は社から既に一部送って来てると云うと、でもこれは私から差上げるのだと云って、置いてゆきました。原稿料はあなたが書いたんだからあなたのものだと云うと、そんな機械的な仕事の報酬は社から貰ってると云って、それも置いてゆきました。
「私これからちょいちょい先生の所へ参りますわ。どんなお忙しいことがあっても、屹度引受けて下さいますわね。そうでないと、私ほんとに困るんですの。」
 そんな一人合点のことを云って、彼女は帰ってゆきました。それが却って僕の心に甘えたことを、僕は否み得ません。
 それから彼女は、殆んど毎月僕の所へやって来て、僕の談話を筆記してゆき、次に自分自身で雑誌と原稿料とを届けてきました。各国の神話の面白そうな部分々々の話は、婦人雑誌には可なり受けたものと見えます。彼女はいつも喜んでいました。それに彼女自身、国の女学校に居る時ギリシャ神話を大変愛読したとかで、僕の話に頗る興味を持ってくれました。長く話し込んでゆくことさえありました。そして僕の方では、月々同じものが二冊ずつたまってゆく雑誌を、嬉しい気持で眺めたものです。
 そういう風にして、僕達の間には、記者と執筆者という普通の関係以外に、友達……と云っちゃちと当りませんが、そう云った親しい馴々しい打解けた気分が、次第に深くなってきたのです。そして僕は彼女の時折の断片的な言葉をよせ集めて、彼女の身の上をほぼ知りました。
 彼女の家は、富山でも――越中の富山です――相当の家柄だったのが、次第に衰微して、彼女が女学校を卒業する頃には、可なり悲境に陥ったらしいのです。そして、或る伯父の策略から、彼女は金銭結婚の犠牲にされそうな破目になって、母親の黙許を得た上で、東京へ逃げ出してきたのです。勿論その間の事情は、僕にはよく分りません。が兎に角、彼女は東京に逃げ出してきて、前からいくらか名前を聞きかじってる――というのは、彼女はまあ云わば文学少女の一人だったのです――名前を聞きかじってる中西夫人の許へ、身を寄せたわけです。その頃僕は彼女と二三度花骨牌の仲間になったのです。そして中西の家でどういうことがあったか、或は恐らく何事もなかったのかも知れませんが、彼女は其処に居るのが嫌になって、と云った所で、国から仕送りを受けて勉強するという訳にもゆかず、女中奉公も気が利かず、仕方なしに、何とか伝手つてを求めて、雑誌社にはいったような始末です。けれど、中西の家だって雑誌社だって、結局は彼女に適した場所ではありません。彼女はどんな所に置いても大丈夫であると共に――どんなことをしても純な心を失う恐れがないと共に、また同じ程度に、どんな所にもあてはまらない――安住し得ない性質を持っています。空中にでも放り出しとくがいいような女です。君はそうは思いませんか。
 所で……どこまで話しましたかね。……そう、僕と沢子と可なり打解けた間柄になった。すると半年もたってからでしたか……そうです、年が改ってからです。松のうちに一度やって来て、殆んど一日遊んでいってから――後で僕は思い出したんですが、その半日以上もの間、彼女は殆んど僕の書斎で神話の書物をいじくってるきりで、子供や妻を相手にしようともしなかったのです、勿論彼女は僕の家庭に親しんではいなかったのですが――それから後は、やって来ることが急に少くなりました。その代りに、度々手紙をくれるようになりました。後になってから僕は、その一日のうちに、僕と彼女との間に、どういう話が交わされたか、またどういうことが起ったか、いろいろ考えてみましたが、よく思い出しません。ただ彼女が、ペルセウスとアンドロメダというライトンの絵の写真版を、いつまでもじっと眺めていたことが、変に頭に残っています。そんなつまらない絵を何で眺めてるのかと、不思議に思ったからでしょう。
 彼女の手紙にはいろんなことが書いてありました。忙しくてお伺い出来ないのが悲しい、といつも前置をしてから、次に、日常生活の些細なこと――誰の所へ行ってどういう目に逢った、社でどんな話が出た、宿のお上さんがこれこれの親切をつくしてくれた、雪が降って故郷のことを思い出す、泥濘ぬかるみの中に何々を取落して困った、今日はこういう悲しい気持や嬉しい気持になってる……などと、まるで一日の労働を終えて晩飯の時に、兄弟にでも話しかけるような調子のものでした。そして僕は、彼女がそんな事柄を書きながら、或る一種の慰安を得てることを、はっきり感じました。で僕からも自分の日常生活の断片を書き送りました。それがやはり、僕にとっても一種の慰安でした。時によると、精神上の事柄を書き合って、互に力づけ合うようなことさえありました。そして僕は、二人が東京市内に住んでいて何時でも逢える身なのに、屡々手紙を往復してるという不自然な状態には、少しも自ら気付かなかったのです。ただ、彼女と逢ってみると――もう彼女は原稿なんかも手紙で頼んできて、滅多にやって来なかったですが、それでも二月に一度くらいはやって来ました――そして逢ってみると、手紙のことはお互に口に出せないのを、はっきり感じました。何でもないことを書き合ってたつもりでも、或は何でもない些細な事柄ばかり書き合ってたためか、それが二人の心を恋に結びつけてしまって、面と向っては何だか気恥かしい心地がしたものです。馬鹿げてると云えばそれまでですが、実は、其処から凡てのことが起ってきたのです。
 梅雨の頃……六月の初め、僕の妻は肺炎にかかりました。病院にはいるのを嫌がるものですから、家にかして看護婦をつけました。そして僕も出来るだけ看護したつもりです。その僕の看護については、妻は何とも云わなかったですが、子供達に対して――二つと五つの女の児です――それに対して、僕が母親の代りをも務めてくれる所か、非常に冷淡だったと、後になって彼女は不平を云いました。或はそうだったかも知れません。何しろ僕は、士官学校と明治大学とに教師をしていましたし、その方だけでも可なり忙しい上に、神話の研究という仕事があったものですから、そうそう病人や子供達ばかりを構ってはいられなかったのです。がそれはまあ兎も角として、妻の経過は案外良好で、六月の末にはもう医薬も取らないでよいほどになりました。僕もほっと安心しました。けれど、病後の容態――精神上の状態が、余りよくありませんでした。変に神経質にヒステリックになって、つまらないことにも腹を立てたり鬱ぎ込んだりする外に、軽い神経痛を身体の方々に感ずるのです。肺炎のために神経がひどい打撃を受けて、それがなかなか癒らなかったのでしょう。
 それで、七月の半ばから子供を連れて保養旁々、妻は房州の辺鄙な海岸へ行くことになりました。僕の身分で贅沢なことは云って居られませんから、百姓家の狭い離室はなれを借りたのです。僕は士官学校がなお休暇にならないものですから――休暇は八月になってからです――東京に残っていました。そして、久しぶりに妻や子供と離れて、がらんとした家の中に寝そべってると、何とも云えぬ暢々のびのびとした気持になったものです。女中が一切の用は足してくれるし、煩わしい心使いは更にいらないし、避暑に行くよりよっぽど気楽でいいと思いました。八月になって士官学校が休暇の折にも、僕は房州へ一度も行きませんでした――それを妻は後で僕に責めたのですが……。
 妻や子供達の不在中に、僕は沢子の来訪を知らず識らず待っていたのです。二人でのんびりと他愛もない話に耽りたいと思ったのです。勿論妻が居たとて、別に僕は沢子へ対して疾しい心を懐いてるのではなかったのですから、妻の手前を憚る必要はない筈でしたが、それでも何となく気兼ねがされたのです。妻に気兼ねをするからには、疾しくないとは云え、やはり何かが其処にあったのでしょうね。実際の所、妻が房州へ行ってから、僕と沢子との手紙の往復は、ずっと数多くなりました。月に一回か二回だったのが、二三回になったと覚えています。けれど、沢子は妻の不在中一度も訪ねて来てくれませんでした。僕も明かに来てくれとは云ってやれなかったのです。或る時の彼女の手紙に、「お伺いしたいのですけれど、それをじっと押えてることを、御許し下さいましょうか。」という文句があったのを、僕は謎をでも解くような気持で、何度も心の中でくり返してみたことを、はっきり覚えています。
 八月の末になって、妻と子供達とは帰って来ました。その潮焼けのした顔を見て、僕は他人をでも見るような気でじっと見守ってやったものです。そして妻の身体は、前よりもずっと丈夫そうになっていましたが、神経は前より一層いけなくなっていました――少くとも僕はそう感じました。それは確かに僕の僻みばかりでもなかったのでしょう。……僕は間違ったのです。温泉か山にでもやればよかったのを、反対に海へやったために、彼女の神経は落着く所か、却って苛立ったに違いありません。
 妻が帰って来て間もなく、沢子がふいにやって来ました。その時、僕は変にうろたえたものです。子供を相手に絵本の話をしてやってる所でしたが、女中が彼女の名刺を取次ぐと、僕はいきなり玄関へ出て行って、どうぞお上りなさい、と云って、それからまたふいに子供達の所へ戻ってきて、初めの慌て方を取返しでもするような気で、話の続きを終りまでしてやって、それからゆっくりと、意識的にゆっくりと、二階の書斎へ上っていったものです。我ながら滑稽でした。けれどそれが妙に真剣だったのです。座についても、煙草をふかしたり、眼鏡を拭いたり、机の上の書物を片付けたりして、変に落着かないのを、更にまた自ら苛立ってるという心地なんです。そういう僕の様子を、沢子はじっと見ていましたが、やがてこんなことを云ったのです。
「奥様はお丈夫におなりなさいまして?」
 僕は答えました。
「ええすっかり丈夫に……真黒になっています。」
 それが不思議なことには、何だかこう遠い無関係な女のことをでも話してるような調子に、僕の心へは響いたのです。それから突然、沢子の眼は悲しい色を浮べました。それで初めて凡てがはっきりしました――凡てがと云って、何の凡てだかは自分にも分りませんが、兎に角、自分の心が家庭というものから離れて宙に浮いてる、といったようなことなんです。
 沢子は、神話の話や雑誌の話などを少し持出しましたが、ともすると僕達は沈黙に陥りがちでした。実際長い間黙ってることもありました――口を利くこともないといった風に、或は、口を利くのが恐ろしいといった風に……。そして彼女はやがて帰ってゆきました。
 それを僕は玄関まで送っていって、それからまた二階の書斎へ上ったのですが、何かが気になって、また階下したへ下りてきたのです。すると、妻がいきなりこう云いました。
「まあ、嬉しそうにそわそわしていらっしゃること!」
 妻の皮肉な眼付とその言葉とが、僕の胸を鋭くつき刺したのは勿論のことです。
 そして僕はいつとはなしに、ぼんやり書斎に引籠って、妻のことなんかは頭の隅っこに放り出して、沢子の若々しい面影を眼の前に描き出してる自分自身を、屡々見出すようになりました。
 僕は妻を愛していたのでしょうか? 妻は僕を愛していたのでしょうか?……勿論僕達二人は、普通の意味では愛し合っていました。けれど、何かが、本当の切実な生活感が、深い所に潜んでるもの――それは後で申しましょう――それに対する自覚が、欠けていたのです。
 僕と妻とは結婚当初から可なりよく融和して、凡そ夫婦というものが愛し合う位の程度には愛し合いました。僕は大した深酒ものまず、道楽もせず、一種の学究者でして、生活が華やかでない代りに、至って真面目だったのです。妻は所謂良妻賢母といったタイプの女で、几帳面に家事を整えてくれました。で僕達はまあ幸福な家庭を作ったわけです。所が、お互に性格の底まで触れ合うくらいに馴れ親しみ、それから次には、夫婦のかすがいと世間に云われてる子供が出来、生活が複雑になってくるに従って、妙な工合になってきたのです。妻の生活の中心は子供となり、僕の生活の中心は自分の勉強となって、而もその両方が、まるで別々の世界かの観を呈したものです。妻は子供を偶像として押立て、僕は自分の仕事を偶像として押立て、そして互に領分争いみたいな調子になってきたのです。
 現代の婦人の生活は、結婚して子供が出来ると共に、自分の生活であることを止めて、全く奉仕の生活となります。子供に奉仕するのです。凡てのことは子供を中心に割り出されます。良人の仕事なんかはどうでもいいのです。良人はただ、子供の立派な成育に必要なだけの金と地位とを得てさえくれれば、それで十分なんです。――それから第二に、彼女の精神的進歩はぴたりと止ってしまいます。否却って精神的に退歩してきます。善良なる保母、それが彼女の理想となります。――第三に、彼女は良人を十重二十重に縛り上げて、自分の従順な奴隷にしようとします。献身的な愛を要求します。
 所が、男の方から云えば、それらの凡てが間違ったものに見えます。勿論、自分自身に見切りをつけて、子供の生長にのみ望を嘱するといったような、隠退的な心境にはいった者は別ですが、そうでない者、まだ自分自身を第一に置いて考えてる者は、妻のそういう態度が心外なものに思われます。第一に、妻が真向に押立ててる偶像――子供――に対して一種の反抗心を起します。第二に、精神的に退歩してゆく妻を、愚劣な女だと軽蔑します。第三に、自分を身動き出来ないようにとする妻へ反抗して、あくまでも自由でありたいと希います。――而も一方に、彼は第一義的な自分の仕事というものを持っています。そして、その仕事に理解のあるやさしい女性の魂を必要とします。そういう女性の魂を欠いた彼の生活は、如何に落寞たるものでしょう? 所謂悟道徹底した者ででもなければ、その落寞さに堪え得ません。大抵の者は、淋しい魂の彷徨者となります。
 結婚に次いで来る幻滅デスイリュージョン――それが男の大なる躓きです。この躓きを無事に通り越す者は幸です。
 然しこんな議論はもう止しましょう。それは理屈では分らないことです。一々切り離して眺むれば全く無意味なような、日常の些細な事柄が、積りに積ってくる――その全体の重量を背に荷った人でなければ、分るものでありません。――君は、豊島与志雄氏の理想の女という小説を読んだことがありますか。何なら読んでごらんなさい。この間の消息が可なり詳しく、執拗すぎると思われる位の筆つきで書かれていますから。
 で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数[#「無数」は底本では「無新」]の小皺が寄っています。或る時彼女が庭に立って、真正面から朝日の光を受けてるのを見た時、僕はまるで別人をでも見るような気がしました。昼間の明るい光の中に出てはいけない! そう僕は咄嗟に感じたのです。……けれど、それらのことや、少し背を屈み加減にして肩を怒らしてることや、長火鉢の隅にかじりついてる時が多くなったことや、なかなか腰を立てない無精な癖がついたことや、怒りっぽい苛立たしい気分になったことや、手足の筋肉がこちこちに硬ばってきたことや……そんな無数の事柄は、肺炎の衰弱から原因してると一歩譲って考えても、どうにも我慢の出来ないのは、彼女の全体――身体と精神との全体に、一種の冷やかな威厳を帯びてきたことです。僕と意見が合おうが合うまいが、そんなことに頓着なく自分の意見を主張し、家の中を冷然と監視し、その言葉付から挙動から態度に至るまで、少しの余裕もない厳粛さを示してるのです。やさしみとかゆとりとか濡いとか柔かみとかいったようなものは、つゆほども見えないのです。一体彼女は表情の少い至極善良な――この善良ということは、鈍重ということと一歩の差ではないでしょうか――その善良な女だったのですが、それが、僕の気付かぬまに、冷やかな威厳の域へまで変化して――向上してきたわけです。
 そういう妻を見出した僕が、いくら自ら抑えても、沢子の方へ心惹かれていったのは、当然ではないでしょうか。殊に、沢子をよく知っている君には、僕が沢子へ惹きつけられていったことは、よくお分りでしょう。そして僕は、益々妻に対しては冷淡になってきました。
 それになおいけないのは……これは一寸話しにくいことですが……僕の性慾が可なり弱かった――友人等にそれとなく聞き合して比較してみると、非常に弱かったということです。生理的の欠陥があるとは自分で思ってはしませんが、兎に角、僕はなみ外れて性慾が弱いようです。所が、夫婦生活には、この性慾ということが可なり重大な条件らしいのです。大抵の女は、性慾の飽満を与えらるれば、それで自分は愛せられてるのだと思うものです。
 所で……こういう風に停滞していては仕末に終えませんから、物語だけをぐんぐん進めましょう。
 妻は僕と沢子との間を、ひそかに窺いすましていたらしいです。沢子から手紙が来ると、「あなたの恋人から……、」などと云い出したものです。「手紙よりも、じかに逢っていらっしゃい、許してあげますから、」などと云い出したものです。「馬鹿!」と僕は一言ではねつけましたが、彼女の眼付がいやに真剣になってるのを感じました。
 そのうちに、馬鹿げたことが起ったのです。僕達はごく稀に、絵画展覧会や音楽会などへ行くことがありました。そして……十一月でしたか――丁度昨年の今頃です――僕は何の気もなく或る音楽会の切符を、妻と二人分だけ前以て買いました。考えてみると、妻が肺炎になってから後二人で出歩くのは、それが初めてだったのです。その前日から丁度、道子――長女の道子が、感冒の様子で少し熱を出していました。然し大したことでもなさそうだし、折角切符まで買ってあるのだからというので、女中によく道子のことを云い含めて、僕達は出かけたのです。音楽会は、ピアノとヴァイオリンとで、演奏者の顔も相当によく揃っていて、可なり成功の方でした。
 その帰り途です。寒い風が軽く吹いて、月が輝っていました。濠に沿った寂しい道を、僕達は少し歩きました。晴着をつけお化粧をしてる妻と並んで歩くのが、僕には変に珍らしく不思議だったのです。暫く黙って歩いていましたが、妻は急に慴えたような声で、「道子はどうしてるでしょう?」と云ったものです。その時、僕の心のうちに、非常な変動が起りました。何かしらもやもやとしたものが消えてしまって、凡てがまざまざと浮んできたという感じです。自分が如何に勝手なことをしていたか、彼女を如何に苦しめていたか、彼女と自分とが如何に遠く離れてしまったか、というようなことを、しみじみと感じたのです。僕の胸は涙ぐましい思いで一杯になりました。僕は低い声で、自分自身に云ってきかせるかのように云いました。
「節子、何もかも許してくれ。僕がみんな悪かったのだ。僕はどんなにお前を苦しめたろう! そしてまたどんなに自分自身を苦しめたろう! 僕の心は誤った方向へ迷ってたのだ。今僕には何もかもはっきり分った。僕はお前を本当に愛してる。あの……沢子さんと交際するのがお前につらいなら、僕はこれから断然交際を止めてしまおう。それが本当なのだ。もう往き来もしなければ、手紙も出すまい。僕はそれを誓う。誓って絶交してみせる。ねえ、これで何もかも許してくれ。節子、二人だけの途を進もうじゃないか。」
 妻は泣いていました。僕も涙ぐんでいました。そして何かに感謝したい心で一杯になっていました。
 僕は後で考えてみて、どうしてその時そう感傷的な心地になったのか、自分でも不思議なくらいです。実際、それから家に帰ってきて、すやすやと眠ってる道子を見出して、ほっと安心した気持で妻と顔を見合した時、僕は自分でも変に気恥かしかったのです。とは云え、その感傷的な心地のうちにこそ、僕の本当の魂があったのかも知れません。
 けれどもそのことから、事情は急に険悪になったのです。宛もそうなるのが運命ででもあるように、一歩々々破綻へ押し進んでいったのです。そして僕自身は、余りにうっかりしていました。
 僕は妻へ誓いはしたものの、どうしても沢子のことを忘れる――心の外へ追い出すことが出来なかったのです。その上、妻と僕との間は、また以前通りの冷たいものになってしまったのです。あの音楽会の晩は、云わば燃えつきる蝋燭の最後の焔みたいなものでした。そのために却って、僕達の間は一層陰鬱になったのです。そして僕はそれを元へ引戻そうとは努めずに、沢子の面影へばかり心を向けたのです。
 僕は妻へ内密ないしょで手紙を書きました。勿論内容は何でもないことばかりを選んだのですが、度数は前より多くなりました。沢子からも年内に一度手紙が来ました。一度は自身で訪ねてきました。そして、神話の原稿も可なり続いたから、正月号から暫く休むという社の意向だと、済まなさそうに僕へ告げました。僕が妙に黙り込んでるので、暫くして帰って行きました。
「神話の原稿も当分いらないそうだから、これで沢子さんとの交渉も絶えるわけだよ。」
 そんな白々しいことを、いくらかてれ隠しの気味もあって、僕は妻へ云ったものです。妻は僕の方をじろりと見て、「そうですか、」と冷淡に云っただけでした。
 それから正月になって、僕は手紙を書いてる現場を妻から押えられたのです。霙交りの風が物凄く荒れてる夜でした。風の音に聞入りながら沢子のことを考えてると、何とも云えない悲愴な気持になって、こまこまと而も要所を外した文句で手紙を書き初めました。その時妻がふいに僕を襲ったのです。恐らく彼女は虫が知らしたとでもいうのでしょう。いつもは子供を口実に早くから寝てしまって、夜遅く僕の書斎へやって来るなどということは、殆んどなかったものです。所がその晩に限って嵐の音に乗じて夜更けに僕を襲った――そういう風に僕は感じたのです。襖の開く気配に振返ってみると、何かを狙いすますような眼付で、足音も立てずに僕の方へ守って来るじゃありませんか。僕は喫驚して……或る神秘的な恐怖を感じて、いきなり立上ったものです。その様子がまた、彼女には異様に思われたに違いありません。彼女は一瞬のうちに凡てを悟ったらしいのです。いきなり書きかけの手紙を掴んで、これは何です? と聞いたのです。僕はどうすることも出来ませんでした。
 それから、痛ましい場面が起りました。妻は口惜し泣きに泣きながら、僕へがむしゃらにつっかかってきました。わざわざ年賀状まで出しておいてすぐに……と云うんです。実は、僕は沢子へ年賀の葉書を書いて、これだけはいいだろうと妻へ見せたのでした。つまらない技巧を弄したものです。それから、妻は僕の手紙の文句を一々切り離して、例えば「この荒凉たる冬のように私の心も淋しい……春の柔かな息吹きを望んでいます……ともすると生活が嫌になります……理解ある友情が人生に於ての慰安です……」などという言葉……前後の文脈にうまく包み込まれてはいるが、僕の切ない心が影から覗いてるような言葉、それだけを一々取上げて、僕を責め立てるんです。次には、音楽会の帰りに自分から誓っておいて! ……あれも私を瞞着するためのお芝居だったのでしょう、と云うんです――その点に彼女は最も力を入れていました。それから始終隠れて逢ったりふみをやりとりしていらしたに違いない、などと……。其他、僕は一々覚えてはしません。彼女は恐ろしく興奮していましたし、僕も非常に興奮していました。そして、いきり立った彼女の前に、僕は何という醜い卑怯な態度を取ったことでしょう! 反抗の心がむらむらと起ってくるのを強いて押えつけて、ありもしない涙まで搾り出して、彼女の前に奴隷のように哀願したのです。今後の行いであかしを立てると誓ったのです。
 其場はそれきりに終りました。僕はそのために、何とか片をつけなければならない事情にさし迫ったのを、はっきり感じました。そして、片をつけるためと称しながら、とんでもない途へ進んでいったのです。
 僕は妻の目を偸んで、沢子へ長い手紙を書きました。――私はあなたへ一切を告白しなければならない、というのを冒頭にして、いつとはなしに彼女を愛していたこと、彼女の面影が自分の心に深く刻みつけられてること、その彼女は、遠くを見つめるような澄み切った眼でいつも自分を見つめていて、理解のあるやさしい心で自分を包んでくれる、晴々とした自由な純潔な少女――この少女というのが大切なんです――少女であること、そして、自分は妻と二人の子供まである身でありながら、不自然だとは知りながら、そして妻を愛していながら、どうしても彼女の面影を払いのけ得ないこと、などを長々と書きました。次に、妻との間が気まずくなってることを少し書きました。それから、けれど自分は今長い苦しみの後に、或る晴々とした所へ出られた、危険の恐れなしにあなたと交際し得られる自信がついてる、やがては妻の心も解けて、あなたのお友達になるかも知れないと思う、というようなことを書き、但し当分のうちだけは訪問を止してほしい、そして士官学校宛に手紙を頂きたい、と述べておいて、けれども私の告白があなたに不快ならば、あなたに苦しみをかけるならば、このままお別れするか否かは、あなたの自由にしてほしい、と手紙を結んだものです。
 実際僕は、他愛もないことを空想していたのです。自分の愛を葬ってしまって、彼女と普通の交際を続け、やがては妻をも加えて、三人で親しい友達になる、というのです。そして、士官学校では手紙を自宅へ回送しないで取って置いてくれるものですから、そちらへ手紙を貰うことにしたのです。……それから、僕の心持のうちには、自縄自縛する気もあったでしょうし、凡てを彼女の手中に託して捨鉢になる気もあったでしょうし、其他何だか自分にも分りはしません。
 やがて彼女から返事が来ました。――私は先生をなつかしいやさしい方として、兄のように、叔父のように、……いえやはり先生といった気持で、おしたいしていたのですが、それが、自分の不注意から、奥様の御心をそこなったのを、しみじみと恥じられ悔いられてなりません。お許し下さいませ。これから御交際を続けるかどうかについては、随分考えましたけれど、先生も危険がないと仰言いますし、私の方も危険なんか感じられませんから、やはりお交りしても差支えないだろうと存じます。奥様を偽ることは悲しいけれど、やはりこれまで通り、先生として親しまして下さいませ。……と云った要領の手紙でした。
 僕はそれを読んで、一種の不満を覚えました。何故かは分りませんが、恐らく僕は、彼女が僕の手紙を読んで、実は私もあなたを恋していました、もう苦しさに堪えきれません、と云ったような返事をくれることと、心の奥で待っていたのでしょう。馬鹿げています。が兎に角、彼女の返事によって、僕は急に前途が開けてきたような気になりました。空想が実際となって現われるかも知れないと思いました。そして僕は二度ばかり彼女へ、輝かしいとか晴れやかとか光明とかいう文字をやたらに使った、若々しい手紙を書いたものです。
 所が、或る晩、妻はまた僕の書斎へ押寄せてきたのです。彼女の様子で、僕はただごとでないと直様察しました。果して彼女は、糞落着きに落着き払った態度で、僕へ肉迫してきました。
「あなたにこの字がお読めになりまして?」
 そう云いながら彼女は、一枚の新らしい吸取紙を差出しています。それを見ると僕は息がつまりそうな気がしました。沢子様という僕の文字がありありと現われてたのです。
 呪われたる吸取紙哉です。吸取紙からいろんな秘密が暴露することは、西洋の小説なんかにはよくありますね。ミゼラブルにも吸取紙が重大な役目をしてる所がありましたね。実際秘密な手紙を書く折には、ペンでなしに毛筆に限ります。慌ててる余りに、吸取紙へまでは気がつきませんからね。而も日本の手紙のように、宛名を最後に書く場合には、その名前が一番吸取紙に残り易いものです。おまけに封筒までついてる始末です。
「私こんなに踏みつけにされて、そして捨てられるまで待つよりは、自分から出て行ってしまいます。」
 そう云ったきり、妻は石のように黙り込んでしまいました。僕はもうすっかり狼狽して、哀願や威嚇や誓いやを、自分で何を云ってるか分らないでくり返しました。僕の言葉が終ると、彼女は冷やかに云いました。
「見事にあかしをお立てなさいましたわね。」
 その時僕はかっとなったものです。突然調子を変えて云ってやりました。
「じゃあどうしようと云うんだ? こんなに云っても分らなけりゃ、勝手にするがいいさ。ただ一言云っておくが、変なことでもしたら、もう二度と取返しはつかないから、そう思ってるがいい。」
「私にも考えがあります。」
 それだけの言葉を交わしてから、僕達はほんとに石のように黙り込んでしまったのです。僕はもう万事が終ったという気がしました。
 然しその時、僕はまだ分別を失いはしませんでした。いろんなことを正しく……そうです、正しく考え廻したのです。妻は僕を愛していたのです。僕は結婚してからも何回か、つい友達に誘われて、待合なんかへ泊ってきたこともありますが、そんな時妻は、軽い嫉妬をしたきりで、大した抗議も持出しませんでした。然し此度は、彼女は僕の心を他の女に奪われたのです。僕の肉体上の過失は許し得ても、僕の心が他へ奪われることを許し得ない彼女の気持に、僕は理解が持てました。その上僕と沢子とのことは、病後のヒステリックな彼女の精神へ、殆んど焼印のように刻み込まれていたのです。僕は可なり激しい自責の念を覚えました。長年僕の影になって苦労してきた彼女、まだ幼い二人の子供、輝かしい前途を持ち得る沢子、それから自分の地位や身分……そんな下らないことまで考えて、僕はもうじっとしておれなかったのです。前にお話したような妻へ対する不満なんかは、忘れてしまったのです。その時の僕の心は、恐らく最もヒューメンだったに違いありません。
 妻がなお家の中にじっとしてるのを見て、僕はその間に一切の片をつけたいと思いました。沢子とも別れて自分一人の生活を守ってゆこう! そう決心しました。そして沢子と別れるために僕はまた馬鹿な真似をしたのです。せずにはいられなかったのです。
 僕はその翌朝、沢子へ簡単な手紙を速達で出しました。――明後日午後一時に、東京駅でお待ちしてる。半日ゆっくり郊外でも歩きながらお話したい。けれど、あなたの気持によっては、来るとも来ないとも自由にしてほしい。……と云ったような、まるで不良青年でも書きそうな手紙です。
 僕には沢子が必ずやって来るとの直覚がありました。その日は学校をも休んでしまって、十一時半項から東京駅へ行って、待合所の片隅に蹲ったものです。そして彼女へ何と話したものか、何処へ行ったものか、そんなことを考えていました。そのうちに、僕は何だか眠くなってきました。それほど僕の精神は弱りきってぼんやりしていたのです。
 一時よりは二十分ばかり前に沢子はやって来ました。僕は夢から覚めたようにして、彼女の絹の肩掛の藤色の地へ黒い線で薔薇の花の輪廓だけが浮出さしてあるのを、珍らしそうに眺めました。すると、「先生、どこかへ参りましょう、」と彼女の方から促したのです。その眼を見て僕は、彼女が事情を察してることを、何か決心してることを、瞬時に読み取ったのです。
 初め僕は、大森辺かまたはずっと遠く鎌倉や逗子あたりへ行くつもりだったですが、その方面には沢子の知っていそうな文士がいくらも居るらしいのを思い出して、急に方向を変えて電車で吉祥寺まで行きました。そして井ノ頭公園とは反対の方へ、田圃道を当てもなく歩き出したのです。
 不思議なことには、妻に関する言葉は一言も僕達の口へ上らなかったのです。全く忘れはてたかのようでした。それから僕の告白の手紙についても同様でした。僕達は全く無関係な取留めない事柄を、ぽつりぽつり話したものです。どんなことだったか覚えていませんが、ただ、気象学では雲を十種に区別してるけれど、僕にはその二三種きり見分けきれない、ということや、水蒸気が空中で凝結して雨になるまでの経路が、専門家にもまだはっきり分っていないそうだ、というようなことを、僕は彼女へ話したのを覚えています。というのは、北の空から薄い雲が徐々に拡がりかけていたからです。また彼女の方では、壁の中から爺さんと婆さんとが杖ついて出てくるという石川啄木の歌を読んで、童話を書きたくなったということを、僕に話したのを覚えています。
 そういう風に、何ということもなく歩いてるうちに――三月の末のわりに日脚の暖い日でした――僕は次第に或る焦燥――というほどでもないが、何かこう落着かない気分になりました。彼女もしきりに、洋傘こうもりを右や左へ持ちかえていましたが、ふいに云い出したのです。
「先生、私もっと遠くへ行ってみたい気がしますの、一度も行ったことのない遠くへ……。」
 それだったのです、僕が何かをしきりに求めながら、それが自分でも分らずにじれていた、その何かは、そのことだったのです。僕は嬉しくて飛び上りました。ほんとに愉快な浮々した……そしてどこかぼんやりした気持になりました。
 僕達は吉祥寺駅へ引返し、可なり長く待たされてから汽車に乗り、立川まで行きました。汽車の中には、気の早い観桜客はなみきゃくらしいのが眼につきました。
 立川へ行くと、意外に早く日脚が傾いて、もう夕食の時刻になっていました。季節外れではありましたけれど、川の岸にある小さな家へはいって、有り合せのものでよろしければというその夕食を取ることにしました。そして、ひっそりした二階の隅っこの室に通って、すぐ眼の下の川を眺めました。河原の中を僅かな水がうねり流れてるのを見て、「これが多摩川ですの……小さいんですのね、」と云う沢子の言葉に、僕はすっかり気がのびやかになったものです。そして夢をでも見てるような心地になったのです。現実かしら? 夢かしら? そう考えてるうちに、妻のことも家のことも、東京のことも、遠くへぼやけて消えてゆきました。世界のはてへでも来たという気持です。
 それから、夕食をしたためて、ぼんやりして、雨が少し降り出して、雨の音を楽しく聞きながら、ぽつりぽつり話をしたり、顔を見合って他愛もなく微笑んだりして、女中がお泊りですかって聞きに来たのへ、平気で首肯いて、別々の床へはいって、安らかに眠ってしまったのです。
 こう簡単に云ってしまうと、君はそれが本当でないように思われるでしょう。然し実際にその通りだったのです。僕はこう思います、妻子のある相当年配の男が恋をする場合には、その恋は極めて肉的な淫蕩なものであるか、或は極めて精神的な清浄なものであるか、そのどちらかだと。そして僕のは、全く後者だったのです。その上僕の眼には、沢子がごく無邪気な少女のように映じていたのです。前に云ったように、ごく晴れやかな娘だったのです。僕はその晩彼女と対座していながら、どうして自分はこんな若い娘に恋したのかと、幾度自ら怪しんだことでしょう。そしてその時の僕の気持は、恋ではなくて、可愛いくてたまらないといったような、そして親しいしみじみとした愛だったのです。彼女の方でも、全く信頼しきった、何一つ濁りや距てのない、清らかな澄みきった眼で、僕をじっと見ていたのです。僕達は何もかもうち忘れて、うっとり微笑まずにはいられませんでした。恋と云うには、余りに親しすぎるなつかしい感情だったのです。
 それは、一時の幻だったのでしょうか?
 翌朝、起き上って、前日来のことがはっきり頭に返ってきた時――妙に顔を見合わせられない気持で相並んで、曇り空の下の河原の景色を眺めた時、深い底知れぬ悲しみが胸を閉ざしてきて、僕は手摺につかまったまま、ほろほろと涙をこぼしたのです。沢子もしめやかに泣き出していました。暫く泣いていてから、彼女はふと顔を挙げて、「先生……」と云いました。僕もすぐに、「沢子さん……」と答えました。そして二人は、初めて唇を許し合ったのです。
 その後の僕の気持は、君の推察に任せましょう。僕達は恐ろしい罪をでも犯したもののように、慌だしくその家を飛び出して、急いで東京へ帰って来ました。その時僕の眼前の彼女は、もう可愛い無邪気な少女ではなかったのです。自由な溌溂とした若々しい一人前の女、として彼女は僕の眼に映じました。そして東京へ近づくに従って、僕は妻のことを、自分を束縛してる醜い重苦しい肉塊のように感じ出したのです。一方が若い香ばしい女性を象徴してるとすれば、一方は老衰しひねくれ悪臭を立ててる女性を象徴していたのです。……沢子はきっと口を結び眼を空に定めて端正と云えるほどの顔付で、じっと僕の横に坐っていました。飯田町駅で汽車から下りて、云い合わしたように左右へ別れる時、僕達は許し合った眼付をちらと交わしてから、まるで他人のようなお辞儀をし合ったものです。
 僕は真直に家へ帰りました。再び雨が落ちてきそうな陰鬱な空合でした。僕の心は捨鉢になっていました。玄関から大跨に飛び込んで、「昨夜は遅くなって三浦君の家へ泊ってきた、」と怒鳴るように妻へ云ったものです。妻は何とも答えませんでしたが、何かをその瞬間に直覚したらしくじっと僕を見つめました。その眼が一切の決算を求めてる、というように僕は感じました。
 そして、それが最後でした。
 翌日僕は士官学校で、沢子の手紙を手にしました――先生、もう致し方ございませんわ、私は先生を愛しております。とただその三行だけの、名前も宛名もない中身でした。僕はその文句を、幾度口の中でくり返したことでしょう。
 それから三日目に、妻は僕の不在中に出て行ったきり、二人の子供まで置きざりにして、もう帰って来ませんでした。
 僕は気がつかずにいましたが、妻はあの音楽会の晩以来、或はもっと前から、蛇のような執拗さで、僕のあらゆることを探索していたらしいのです。後で分ったのですが、僕がでたらめに口へ上せた三浦の家へも、果して僕がその晩泊ったかどうかを聞き合したのです。それからまた、僕は沢子からの手紙を本箱の抽出のいろんなノートの下にしまって、抽出の鍵は鴨居の上の額掛の後ろに隠しておいたものです。所が、彼女が出て行った翌日の晩、ふとその抽出をあけてみると、沢子からの手紙がみなずたずたに引裂いてあったのです。最後の三行の手紙も勿論でした。
 手紙を引裂いたというその仕打が、沈みかけていた僕の心を一時に激怒さしたのです。それから暫くたって後、彼女の代理としてやって来たその叔父とかに当る男が、いやに人を軽蔑した口調で、更に僕を怒らしたのです。そのうちに僕は、変に皮肉な落着いた気持になりました。そうなった時は、もう彼女と別れるの外はないと胸の底まで感じていました。それからのことはお話するにも及ばないでしょう。いろんな嫌な交渉があって、結局僕は正式に妻と別れてしまいました。思えば不運な女です、彼女には何の咎もなかったのですから。けれど僕に云わすれば、彼女も何とか他に取るべき態度が――勿論初めのうちに、あったろうと思われます。
 妻とはもう別れるの外はないと徹底的に感じだすと共に、一方に僕は、全く反対のことを感じだしたのです。三歳と六歳との二人の女の児の面倒を、女中と共にみてやってるうちに、僕はその時になって初めて、僕のこれまでの生活は、僕一人の生活ではなかったこと、僕と妻と二人の生活だったこと、僕と妻と二人で築き上げてきた生活だったこと、それが巌のように厳として永久に存在すること、……などをひしと感じたのです。ああ、それをも少し早く感じていましたら!……然しもうどうにも出来ませんでした。その生活はぷつりと中断されたのです。そして僕は、僕達のそういう生活の上へ、僕と沢子との生活をつぎ合せることが、僕にとって如何なるものであるかを、そして子供達……そうです、子供達にとって如何なるものであるかを、ずしりと胸に感じたのです。僕は何も、再婚だとか継母だとか、そういうことを云ってるのではありません。それも勿論ありますが、それよりももっと重大なこと……何と云ったらいいでしょうか……この生活の接木ということ、一方に節子が生きているのに、そして僕達の――僕と節子とです――僕達の生活が生々しい截断面を示しているのに、それへ他のものをつぎ合せるということ、それが許さるべきかどうかを、僕は泣きながら魂のどん底まで感じたのです。
 僕はもう理屈を云いますまい。このことは実感しなければ分らないことです。……そう、僕は此処へ来る途中で、運命の動き――運命の共鳴、というようなことを云いましたね。平たく云えばあれです。節子と再び一緒になることにも、沢子と一緒になることにも、どちらにも僕は自分の運命の共鳴を感じなかったのです。僕は一人で子供達と共に暮してゆこうと決心しました。そして、母を失った子供達が、多少神経衰弱……もしくは神経過敏らしくなってるのを見て、また、その未来を考えてみて、僕はどんなに悲痛な気がしましたでしょう! 然し致し方もありません。
 僕は沢子に逢って、自分の心をじかに話しました。彼女は泣きました。そして僕の心を理解してくれたらしいのです。それから長い苦しみの後に、僕達は只今のような平静な友情の域へぬけ出したのです。沢子が他に恋を得て、その人と結婚でもするまでは、僕は彼女の親しい友人として、彼女と交際を続けるでしょう。
 君は……人は、僕を卑怯だと思うかも知れません。然し卑怯だか勇敢だかは、外的な事柄できめられるものではありません。と云って僕は、勇者にも怯者にもなりたいのではありません。ただ僕の所謂天は――僕自身の天は、澄みきっていると共に変に憂鬱です。

     五

 宮原俊彦の話は、佐伯昌作に、大きな打撃――と云うより寧ろ、大きな刺戟を与えた。昌作はその晩、何かに魅せられたような心地で、ただ機械的に下宿へ帰っていって、冷たい布団を頭から被って寝てしまったが、翌朝八時頃に眼を覚して起き上った。そんなに早く起き上ることは、彼としては全く近頃にないことだった。
 起き上って、珍らしく温い朝飯を食って、さて何をしていいか分らないで、火鉢にかじりついて煙草を吸い初めた時、急にはっきりと前晩のことが見えてきた。――俊彦は話し終ってから、何かを恐れるもののように黙り込んだのだった。長い話の後に突然落かかってきたその深い沈黙が、一種の威圧を以て迫ってきて、昌作も口が利けなかった。それから俊彦はふいに眼を輝かして、「子供達が待ってるに違いない、」と云いながら立上った。昌作も後に従った。俊彦は非常に重大な急用でも控えてるかのように、馬鹿々々しく帰りを急いでいた。足早に電車道をつき切って、タクシーのある所まで行ってそれに乗った。昌作も途中まで同乗した。二人は別れる時碌々挨拶も交さなかった。夜は更けていた。
 それらのことを眼前に思い浮べながら、彼はじっとしておれない心地になって、表に飛び出した。雨後の空と空気と日の光とが、冷たく冴えていた。彼は帽子の縁を目深く引下げ外套の襟を立てて、当てもなく歩き出した。歩きながら考えた。
 然し彼の考えは、長く一つの事柄にこだわってるかと思うと、それと全く縁遠い事柄へ飛んでいったりして、少しもまとまりのないものだった。がそのうちで、幾度も戻ってきて彼を深く揺り動かす事柄が一つあった。
 彼は宮原俊彦の話を、可なり自然にはっきりと受け容れることが出来たが、その終りの方、沢子と一緒になれないという所が、どうもよく分らなかった。生活の接木などという変な言葉を俊彦は用いたが、そんな深い重大なことではなく、何かごく平凡な――常識的な事柄が、彼を支配してたのであって、それへ無理に理屈をつけたもののように、昌作には思えるのだった。そしてその平凡な常識的な事柄がまた、昌作には、自分の想像もつかないことであるような気がした。非常に平凡で非常に曖昧だった。而も一方には、その平凡な曖昧なものの上に、俊彦自身が云ったように、彼の運命が重くのしかかってるらしかった。――そしてそのことが、昌作を或る暗い所へ引きずり込んでいった。彼は何だか形体えたいの知れない壁にぶつかったようで、息苦しさまで覚えた。「つきぬけなければならない、つきぬけることが必要だ、」そう彼は心で叫んだ。それと共に、沢子に対する愛情が激しく高まってきた。彼にとっては、宮原俊彦こそ、沢子へ縋りつこうとする自分を距てる毒虫のように思えた。――けれど、不思議にも、宮原俊彦に対するそういう反感は、昼間の明るい光の中でこそしっかりしているが、夜にでもなって、何か一寸した変化でもあれば、すぐにわけなく消え去っていって、全く反対のものになりそうなことを、彼は心の奥の方で感じたのである。――昌作はどうしても落着けなかった。何とかしなければならなかったが、それが分らなかった。
 彼は考え込みながら、ぶらりぶらり歩いた。そのうちに何もかも投げ出したい気持になって、わりに呑気になった。空腹を覚えたので、見当り次第の家で一寸昼食ランチを取って、それから、全く知らない碁会所へはいり込んで、日当りの悪いがらんとした広間で、主人と手合せをやった。それにも倦いて、四時頃表へ出て、またぼんやり歩き出した。そしてふと彼は足を止めた。晩秋の淋しい光が、くっきりとした軒並の影で、斜め上から街路を蔽いつくしていた。彼は急いで下宿に帰ってみた。昨日の今日だから、或は沢子から手紙なり電話なり来てるかも知れないと、突然そんな気がしたのである。
 下宿で彼を待ち受けていたのは、沢子からの便りではなくて片山からの電話だった。朝から二度ばかりかかってきたと女中が云った。
 昌作は約束の四五日が今日でつきることを思い出した。然し彼にとっては、その四五日が如何に長い時日だったろう。彼は遠い昔のことをでも思い出すように、五日前の片山夫妻との約束を考えた。そして、九州へ行かないことにいつしか決定してる自分の心に気付いて、自ら喫驚した。自然に決定されたのだ、という気がした。
「何とでもその場合に応じて断ってやれ。」
 そう捨鉢に心をきめて、彼は片山の家へ行ってみた。今から行けば丁度夕飯時分で、夫妻といつものように会食するということが一寸気にかかったけれど、構うものかとまた思い返した。
 禎輔は不在で達子が一人だった。昌作は何故ともなく安堵の思いをした。達子は彼の姿を見て、待ちきれないでいたという様子を示した。
「佐伯さん、一体どうしたの? あんなに電話をかけたのに……。昨日も今日も五六回の上もかけたんですよ。するといつも居ない、居ないって、まるで鉄砲玉みたいに、何処へあなたが行ったか分らないんでしょう。私ほんとに気を揉んだのよ。変に自棄やけにでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。一体どうしたんです? 電話をかけたらすぐに来て下さいって、あんなに頼んどいたのに……。」
 黒目の小さな輝いた眼がなおちらちら光って、受口うけぐちの下唇をなお一層つき出してるその顔を、昌作は不思議そうに見守った。
「あなたも御存じじゃありませんか、私は此頃はわりに謹直になって、酒なんか余り飲みはしません。ただ、一寸用事が出来たものですから、その方に駈けずり廻っていたんです。」
「でも昨日はあんなに雨が降ったのに、その中を……?」
「雨くらい平気ですよ。」
「嘘仰言い、懶惰ものぐさなあなたが!……それじゃ、やはりあのことで?」
 昌作は自分の心が憂鬱になってくるのを覚えた。達子が沢子のことを云ってるのだとは分ったが、それを今話したくなかった。そして言葉を外らした。
「何か僕に急な御用でも出来たんですか。」
 達子は眼を見張った。
「急な用ですって?……あなたはもう忘れたの?……四五日うちに返事をするって約束したじゃありませんか。あれから今日で幾日になると思って? 丁度五日目ですよ。まあ、馬鹿々々しい! 当のあなたが平気でいるのに、私達だけで心配して……。あなたくらい張合いのない人はないわ。片山はね、あなたがあんまり心をきめかねてるのを見て、何か岐度他に心配があるに違いないと云うんでしょう。私あなたの言葉もあったけれど、実はこうらしいって、あなたが話したあのことを打明けたんですよ。すると片山は長く考えていましたっけ。そして、そういうことなら、その方はお前が引受けて、まとまるものならまとめてやるがいい、何も九州へ行くことが是非必要というのじゃないから、他に東京で就職口を探してやろうと、そう云うんですよ。それから、一体佐伯君が恋してるっていうその女は、どういう種類の女かって、しつこく聞かれたものですから、私よく分らないけれど、お友達の妹さんかなんか、そんな風な、ハイカラな女学生風の令嬢らしいと、そう云ってしまったんですが、……どう? そうじゃなくって?」
「女学生風の令嬢だなんて、どうしてそんなことに……。」
「なりますとも。だってあなたは、その女が自分にとっては、光明だとか太陽だとか、そんなことをくり返し云ってたでしょう。あなたのように、玄人くろうとの女をよく知ってる人で……そうじゃありませんか、盛岡のことだって、またその後のことだって、考えてごらんなさいな……そういう人で、相手が芸者だの……珈琲店カフェーの女だのの場合に、それが私にとっては光明だの太陽だのと、そんなことを云うものですか。そんなことを云うからには、相手は若いハイカラな……令嬢というにきまってるわ。ね、当ったでしょう。……何もそんなに喫驚しなくったっていいわよ。」
 然し昌作が呆気あっけにとられたのは、彼女のいつもの早急な一人合点からとはいいながら、女学生なんかは大嫌いだと平素彼が云ってた言葉を忘れてしまって、どこかのハイカラな女学生風の令嬢だと勝手にきめてる、そのことに就いてだった。そしてそのことから、彼の気分は妙に沈んできて、ただ自分一人の心を守りたいという気になった。
「ねえ、もうこうなったら、仕方ないから、何もかも仰言いよ。……何処の何という人? 私出来るだけのことはしてあげるわ。」
「もう暫く何にも聞かないでおいて下さい。」と昌作は眼を伏せたまま云った。「私はまだ何にも云いたくないんです。あなたの仰言るような、そんな普通の恋じゃないんです。恋……といっていいかどうかも分りません。何だかこう……私自身が駄目になってしまいそうなんです。いろんなことがごたごたしていて、とんでもないことになりそうです。……私はもう少し考えてみます。考えさして下さい。私の心が……事情がはっきりしてきたら、すっかりお話します。是非お力をかりなければならなくなるかも知れません。けれど、今は、今の所は、自分一人だけのことにしておきたいんです。……馬鹿げた結果になるかも知れません。下らないつまらないこと、になるかも知れません。……まるで分らないんです。はっきりしてからお話します。」
「だって私、何だか心配で……。」
「私一人だけのことなんです。私一人だけのことが、どうしてそんなに……。」
「心配になりますとも!」と達子はふいに大きな声を出した。「私あなたのことなら、何でも気にかかるんだから、そう思っていらっしゃいよ。お前はどうしてそう佐伯君贔屓にするかって、片山もよく云うんですが、ええ、贔屓にしますとも! あなたのことなら何でもかでも気にかかって、一生懸命になってみせますよ。私あなたを弟のような気がしてるから……私にも片山にも弟なんかないから、あなたを弟と思ってるから、気を揉むのは当り前ですよ。」
 昌作には、何で彼女が腹を立ててるのか訳が分らなかった。けれど何故となく、非常に済まないという気がした。彼女を怒らしたのを、非常に大きな罪のように感じた。彼は突然涙ぐみながら云った。
「済みません。僕が悪かったんです。」
「悪いとか悪くないとかいうことではありません……。」そう云っておいて達子は、長く――昌作が待ちきれなく思ったほど長く、黙っていた。そして静に云い続けた。「実際私は気を揉んだんですよ。四五日とあなたが約束したでしょう、そして一方に、そういう女の人があるでしょう、そしてそのまま音沙汰なしですもの、あなたがどんなにか苦しんでるだろうと思って、自分のことのように心配したのよ。それに、片山はああ云うし、そのことも早くあなたに伝えたいと思って、昨日から幾度電話をかけたでしょう。片山はまた片山で、何だかあなたに逢うことを非常に急いでいたんです。東京にいい口があるのかも知れませんよ。私には何とも云わないで、ただ話があると云うきりですが……。そうそう、あなたがいらしたら、会社の方へ電話をかけてくれって云っていました。一寸待っていらっしゃい、今かけてみますから。」
 達子が立上って電話をかける間、昌作は変な気持でぼんやり待っていた。ハイカラな女学生風の令嬢だの、九州へは行かないでもよいだの、弟だの、禎輔から急な話があるだの、そんないろんなことが、まるで見当違いの世界へはいり込んだ感じを彼に起さした。そして、電話口から戻って来た達子の言葉は、更に意外な感じを彼に起さした。
「あの、あなたにすぐ武蔵亭へ来て貰いたいんですって。片山はあすこで二三人の人と会食することになっていて、今出かける所だと云っています。けれど、食事をするだけだから、そして、何だか嫌な人達だから、あなたが来て下されば、逃げ出すのによい口実になるから、なるべく早く来て下さいって。……丁度いいじゃありませんか。うんと御馳走さしておやりなさいよ。武蔵亭、御存じでしょう。片山の会社のすぐ近くの西洋料理屋。……私も一緒に行きたいけれど、お前が来ちゃあ都合が悪いって、人を馬鹿にしてるわ。」
 達子が平気でそう云うのを見て、昌作はまた一寸変な気がした。彼の頭に、その瞬間に、或る漠然とした疑惑が生じたのだった。禎輔の胸の中に何かがあるのではないかしら? 昌作は先日の禎輔の様子を思い出した。
 暫く考えてから彼は、達子の言葉に従って、兎も角も武蔵亭へ行ってみようと決心した。何かを得らるればそれでよいし、得られなければ上等の洋酒でも沢山飲んでやれ、とそんな気になった。そして、今からではまだ早いと達子が云うのを、下宿に一寸寄って行くからと断って、慌だしく辞し去った。
 彼が立上ると、達子は後から送って来ながら云った。
「後で、明日にでも、どんな話だったか、私に聞かして下さいよ。私一寸気になることがあるから。」
 昌作は振返った。然し彼女は先を云い続けていた。
「でも、何でもないことかも知れないわ。案外いい話かも知れないわ。……それから、その女の人のことね、気持がきまったら聞かして下さいよ。その方は私の受持だから。……私がうまくまとめてあげますから、ほんとに、心配しないでもよござんすよ。」
 昌作は外に出て、急に、何だか達子へ云い落したことがあるような気がした。といって、それが何であるかは自分でも分らなかった。考えてもおれなかった。禎輔の話というのがしきりに気にかかった。
 けれど、実際達子が云ったように、すぐに行っては食事中だと気がついて、途中で電車を下りて少しぶらついてから、まだ早いかも知れないとは思いながらも、待ちきれないで武蔵亭へはいって行った。
 片山の名前を告げると、彼はすぐボーイに案内されて、二階の奥まった室へ通された。そして一目で、自分の疑惑が事実であることを見て取った。
 一方が隣室との仕切戸になっていて、三方白壁の、天井が非常に高く思える、狭い室だった。天井から下ってる電燈の大きな笠と、壁に懸ってる一枚の風景画との外には、殆んど装飾らしいものは何もなく、真中に長方形の卓子が一つ、椅子が三四脚、そして小さな瓦斯煖炉の両側に、二つの長椅子が八の字形に並べてあった。その一方に、外套と帽子とを傍に放り出して、背広姿の片山禎輔が、先刻からぽつねんと待ちくたびれて、そして何か考えに沈んでいたという風に、腰掛けていたのである。――昌作は初め、禎輔が他の客と会食中なのでこの室に待たせられることと思ったが、一歩足を踏み入れて禎輔の姿を認めるや否や、はっと思った警戒の念から、それらのことを一目に見て取った。
 禎輔は先程からの沈思からまだ醒めないかのように、顔の筋肉一つ動かさないで、それでも落着いた声で、彼に云った。
「遅かったね。すぐに来るようにと云ったんだが……。」
 昌作は一寸どぎまぎした。
「でも、あなたは他の人と会食なさるというお話でしたから、時間をはかって来たんです。もうお済みになりましたか。」
「うむ……。」と禎輔は曖昧な答えをした。「君は食事は?」
「済みました。」
 うっかりそう遠慮深い答えをしたのに、昌作は自ら一寸面喰った形になって、急いで一方の長椅子に腰を下した。
「じゃあ、何処かへ酒でも飲みに行こうか。どうだい? 君のあそび振りも一寸見たい気がするね。」
 昌作は不快な気がした。揶揄されてるのだと思った。彼がせんにちょいちょいあそんだのは、禎輔等のそれと違って――禎輔が会社の方の交際でそんな場所に時々足を踏み入れていることを昌作は知らないではなかった――それと違って、比べものにならないほど安っぽい所でだった。而も彼は近来、そんな所からさっぱり足を抜いてしまっていたのである。
「いやに変な顔をするじゃないか。」と禎輔は云った。「酒を飲むのだって仕事をするのだって、結局は同じことだろうよ。どちらも生きてる働きなんだからね。。……だがまあいいさ。それなら、此家ここに上等の葡萄酒があるから、そいつでも飲もうよ。」
 禎輔はボーイを呼んで、料理を二三品と、フランスから来たあの上等のを瓶のまま二本ばかり持って来いと命じた。そして、それが来るまで彼はやたらに金口きんぐちを吹かして、昌作にもすすめた。昌作もやはり黙ってその煙草を吹かしながら、向うから話し出されるのを待った。が禎輔の言葉は、彼が全く予期しない方面のことだった。
「僕はね、」と禎輔は葡萄酒の杯を挙げながら云い出した。「芭蕉の句集をこないだから読み出してみたのだが、僕のような門外漢にもなかなか面白いよ。そして、ふと馬鹿なことを思いついて、こころという字があるものだけをより出してみたのさ。何でも十四五句あったようだ。みんなは覚えていないが……実際そう胸にぴんと響くのは少いようだね。
魚鳥のこころは知らず年のくれ
七夕のあわぬこころや雨中天
葉にそむく椿や花のよそごころ
椎のはなの心にも似よ木曽の旅
住つかぬ旅のこころや置火燵
 その他まだ沢山あったがね、そのうちで僕の心を惹いたのが二つあるよ。
もろもろの心柳にまかすべし
野ざらしを心に風のしむ身かな
 この二つのうちで、君、文学的に云ってどちらが傑れてるのかね。君は僕よりもこんなことには明るいのだろう……。」
 昌作は、禎輔が先日持出した句のことを思い出した。
「あなたの云われるのは、文学的価値ではなくて、思想的価値のことでしょう?」
「そう、思想的価値、先ずそんなものだね。……僕は野ざらしをの方が先達てまでは好きだったものさ。所が其後、もろもろのの方が好きになったよ。そして、君を……また自分を、余り苦しめたくなくなったのだ。」
 昌作は驚いて禎輔の顔を見つめた。が禎輔は、じっと葡萄酒の瓶の方に眼を注いで、何度も杯を重ねた。
「君、この葡萄酒はうまいだろう。こいつを一人で一本ばかりやっつけると、愉快な気持になって踊り出したくなるよ。君もっとやらないか。」
「ええ。」と昌作は答えておいて、機会を遁すまいとあせった。「それで……そのことで……私は九州へ行かなくてよくなったのですか。何だか私にはさっぱり分りませんけれど、奥さんが……。」
「ああ、達子は何と云っていた?」
「九州へ行かないでもいいし、それに……あなたが私に急なお話があるとかで……。」
「それだけ?」
 禎輔の眼付が急に鋭くなったのを昌作は感じた。彼は何にも隠せない気がした。
「それから、私の……女のことについて。」
「君はその女のことをすっかり達子に話したのか。」
「いえ、その方のことは私が引受けてやると奥さんは云われたんですけれど、まだ私の方の気持がはっきりしないものですから、詳しくは話しません。」
「それだけか、達子が君に云ったことは?」
「ええ。」
「達子は君が何処かの令嬢にラブしたんだと云ってたよ。」
「令嬢じゃないんです。」
「でも若い女なんだろう?」
「ええ。」
 禎輔はまたそれきり黙り込んでしまった。昌作は不安な予想に駆られて、苛ら苛らしてきた。
「急なお話って、どんなことですか。」
「君は、僕がなぜ九州なんかへ君を追いやるのかと疑ったね。」
 禎輔は急に額を曇らせながら、ゆっくりした調子で云った。昌作は喫驚した。そして急いで弁解しようとした。その言葉を禎輔は遮った。
「君が疑うのは道理もっともだよ。そして、実は、君がその疑いを達子へ洩らしたために、僕は可なり安心したのだ。うち明けて云えば、僕は達子に暗示を与えて、君の心を探ってみたのさ。すると、達子がうまくその使命を果したというわけだよ。」
 昌作にはその謎のような言葉の意味が更に分らなかった。禎輔はまた云った。
「君が達子へ向って、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追い払おうとなさるんでしょう、と云ったことと、それから、君に若い恋人ラヴァーがあるということとで、僕は自分が馬鹿げたことに悩んでるのを知ったのだ。そして、いろいろ考えてみて、一層何もかも君にうち明けて、さっぱりしたいという気になったのだ。……これだけ云えば、君にも大凡分るだろう?」
 然し昌作には更に分らなかった。彼は何か意外なことが落ちかかってくるのを感じて、息をつめて待ち受けた。
「じゃあ、君は知らなかったのか」と禎輔は低い鋭い声で云った。「そうでなけりゃ、忘れてしまったのだ。……いや知ってた筈だ。」
「何をです?」
「僕と君のお母さんのことを。」
「あなたと母のこと?」
 禎輔は彼の眼の中をじっと見入った。
「僕と君のお母さんとの関係さ。」
「関係って……。」
 その時昌作は、今迄嘗て感じたことのない一種妙な気持を覚えたのである。頭の中にぽーっと光がさして、すぐに消えた。そのために、もやもやとした遠い昔の記憶の中に見覚えのあるようなまたないような一つの事柄が、眼を据えても殆んど見分けられないくらいの仄かさで浮き出してきて、それが一寸した心の持ちようで、現われたり消えたりした。夢の中でみて今迄忘れていたことが、突然ぼんやりと気にかかってくる、そういった心地だった。勿論、一つの場面も一つのすがたも彼の記憶に残ってはしなかった。けれど、何だかそれをよく知っていたようでもあった。知っていながら忘れていたようでもあった。漠然と感じたまま通りすぎてきたようでもあった。或は初めから知りも感じもしないのを、今突然想像したようでもあった。――彼は見えないものを背伸びして強いて見ようとするかのように、じっと自分の記憶の地平線の彼方に眼を定めたが……ふいに、そうした自分自身に気がついて、顔が真赤になった。
「君はあの頃もう十一二歳になってたから、普通なら当然察するわけだが、頗る活発で無頓着で今とはまるで正反対の性質らしかったから、或はぼんやり感じただけで通りすぎたのかも知れないが……。」
 そこまで云いかけた時禎輔は、昌作が真赤になってるのを初めて気付いたらしく、突然言葉を途切らしてじっと彼の顔を見つめた。そして急き込んで云った。
「君は知ってたじゃないか!」
 昌作は宛も自分自身に向って云うかのように、低い声で呟いた。
「昔から感じてたことを、今知ったようです。」
「昔から感じてたことを今知った……。」そう禎輔は彼の言葉を繰返しておいて、俄に皮肉な調子になった。「なるほど、そうかも知れない。君のお母さんは利口だったからね、そして僕も利口だったのさ。そして君はうっかりしてたものだ。」
 昌作はもう堪え難い気持になっていた。彼は哀願するような眼付を、じっと禎輔の顔に注いでいた。それを見て禎輔は、非常な努力をでもするもののように、肩をぐっと引緊めて、それから落着いた調子で云った。
「許してくれ給い。僕はこんな風に云う筈じゃなかったのだが……。僕は君が非常に素直な心持でいることを知っている。そして僕も実は素直に話したいのだ。」そして暫く黙った後に彼はまた続けた。「僕が高等学校の時だ。君の家が、君とお母さんと二人きりで淋しいものだから、僕は君の家に寄宿していたね。あの時、僕は君のお母さんを姉のように募ったし、君のお母さんは僕を弟のように可愛がってくれた。そして僕達は極めてロマンチックな愛に落ちたのだった。僕は小説家でないから、それを詳しく説明出来ないが、君にも大体は分るだろう。そんな風だから、普通そういう関係にありがちな、猥らなことなんかは、少しもなかったのだ。君がはっきり気付かなかったのも、恐らくそのせいだろう。だが君も知ってる通り、僕がこちらの高等学校を出ると、わざわざ京都の大学へ行ってしまったのは、実はそのことを罪悪だと意識したからだった。然し僕は君のお母さんに対しては、今でも清い愛慕の念を持っている、姉と母と恋人とを一緒にしたような気持で……。え、君はなぜ泣くんだい?」
 昌作は禎輔の言葉をよく聞いていなかった。ただ何故ともなく胸が迫って来て、いつしか眼から涙がこぼれ落ちたのだった。彼は禎輔に注意されて初めて我に返ったかのように、そして自分自身を恥じるかのように、葡萄酒の杯の方へ手を差伸ばした。
 禎輔は彼の様子を暫く見守っていたが、やがてふいに立上って室の中を歩きだした。そして卓子のまわりを一巡してきてから、また元の所へ腰掛けて、何か嫌なものでも吐き出すように、口早に話し初めた。
「僕は君に要点だけを一息に云ってしまうことにしよう。判断は君に任せるよ。……君が盛岡であんなことになって、東京に帰ってきてからものらくらしてるのを見て、僕達は影で可なり心配したものなんだ。なぜって、僕達は間接に君の保護者みたいな地位に立ってるのだからね。そして君の心を察して、初めは何とも云わないで放っておいたが、もうかれこれ二年にもなるのに、君がまだぼんやりしてるものだから、達子が真先に気を揉み初めたのだ。そして君自身も、今に生活をよくしてみせると、口でも云い、心でも願っていたろう。それに僕は、君に一番いけないのは仕事がないからだと思ったのだ。何も僕は、君に月々補助してる僅かな金銭なんかを、かれこれ云うのではない。このことは君も分ってくれるね。……そこで、僕は君のために東京で就職口を探してみたが、僕の会社の社長にも相談してみたが、どうも思うような地位がないものだから、何の気もなく……全く何の気もなくなんだ、九州の時枝君のことを思いついて、手紙で聞き合してみると、案外いい返事なんだろう。で僕もつい乗気になって、本式に交渉して、あれだけの有利な条件を得たわけなんだ。時枝君の方では、古い話だが、僕の父の世話になったことがあって、その恩返しって心もあるに違いない。所が、この九州の炭坑ということが……偶然そんなことになったのだが、その偶然がいけなかった。九州の炭坑と聞いて、君が逡巡してるうちに、そして僕から云わすれば、九州へ行くくらい何でもないし、非常に有利な条件ではあるしするから、君にいろいろ説き勧めてるうちに、ふと僕は自分の気持に疑惑を持ち初めた。君を九州へ追い払おうとしてるのじゃないかしらと……。」
 禎輔は葡萄酒の杯を手に取りながら、暫く考えていた。
「僕自身にも何だかはっきり分らないが……前後ごたごたしていて、要領よく話せないが……要するにこうなんだ。その時になって、頭の隅から、君のお母さんと僕とのことが、ふいに飛び出して来たのさ。そして僕は、一寸自分でも恥かしくて云いづらいが、達子と君とのことを……疑ったのでは決してないが、君のお母さんと僕とのことが一方にあるものだから、今に僕が死んだら、達子と君とが同じようなことになりはすまいかと、いや、僕が生きてるうちにも、そんなことになりはすまいかと、現になりかかってるのではあるまいかと、馬鹿々々しく気になり出したものさ。君は丁度、僕が君のお母さんに馴れ親しんでたように、達子に馴れ親しんでいるからね。」
 昌作は驚いて飛び上った。それを禎輔は制して、また云い続けた。
「まあ終りまで黙って開き給え。……そこで、一口に云えば、僕は君と達子との間を嫉妬したのさ。僕が嫉妬をするなんて、がらにもないと君は思うだろう。全く柄にもないことなんだ。然しその時僕の頭の中では、僕と君のお母さんとのことと、君と達子とのこととが、ごっちゃになってしまっていた。それに、君が九州行きをいやに逡巡してるものだから、或は達子に心を寄せてるからではあるまいかと、変に気を廻してしまった。それを肯定する考えと、それを否定する考えとが、僕の頭の中では争ったものだ。そしてまた一方には、僕は嫉妬の余り君を九州へ追い払おうとしてるのだと、自分で思い込んでしまったのさ。そしてまた、それを自分で責め立てたのだ。君を追い払わなければいけないという考えと、そんなことをしてはいけないという考えとが、頭の中で争ったものだ。こう別々に云ってしまえば何でもないが、そんないろんなことが、それにまた他のことも加わって、一緒にごった返して、僕の頭はめちゃめちゃになってしまった。全く神経衰弱だね。神経衰弱にでもならなければ、こんなことを考えやしない。……それでも僕は、自分を取失いはしなかった。そして達子のあの率直な快活さも、僕には力となった。それからいろんなことがあって、結局僕は達子を使って君の心を探偵してみたのだ。そして、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追いやるのだろうかと、君が達子へ聞いたことと、君が他に若い女を愛してるということとが、僕にとっては光明だった。なぜって、君がもし達子へ心を寄せてるのなら、自分で気が咎めて、達子へ向ってそんなことを聞けるものではない。若い女の方のことは、云わないでも分りきった話だ。……それから僕は、次第に考えを変えてきて、君を九州なんかへやらない方がよいと思ったのだ。君を九州へやることは、君自身を苦しめるばかりでなく、僕をも苦しめることになるからね。然し、是非とも君が行きたいと云うなら別だが……君は行きたくはないんだろう?」
「行かないつもりでしたが、然し……。」と昌作は口籠った。
然しだけ余計だよ。そんなことは打棄うっちゃってしまうさ。……がまあ、今晩はゆっくり話をしよう。そして、このことは達子には内密ないしょにしといてくれ給い。彼女あれの心を苦しめたくないからね。」そして禎輔は何かを恐れるもののように室の中を見廻した。「もっと飲もうじゃないか。どしどしやり給い。」
 然し昌作は、云われるまでもなく、先程からしきりに杯を手にしていた。禎輔の話をきいてるうちに、頭の中が変にこんぐらかってきて、判断力を失いそうな気がしたのである。
「人間の頭って可笑しなものだ。」と禎輔は半は皮肉な半ば苛立った調子で云い出した。「思いもかけない時に、思いもかけない古いことが飛び出してきて、それがしつこく絡みつくんだからね。然し考えてみると、僕は昔の自分の罪から罰せられたようなものさ。そうだ、その罪の罰なんだ。そして、君がお母さんの子だということがいけなかったのだ。全く別の男なら、いくら達子と親しくしようと、僕はあんな馬鹿げた考えを起しはしない。然し君は、君のお母さんの子だ。それがいけないのだ。」
 昌作はその言葉を胸の真中に受けた。今にも何か恐ろしい気持になりそうだった。然し彼はそれをじっと抑えて、唇を噛みしめた。すると、禎輔は突然荒々しい声で云った。
「君は怒らないのか。……怒ってみ給い。怒るのが当然だ。」
 昌作は身を震わした。侮辱……というだけでは足りない或る大きな打撃を、禎輔の全体から受けたのである。そして、自分が今にも何を仕出かすか分らない恐れを感じた。彼はじっと、煖炉の瓦斯の火に眼を落して煙草を手にしてる禎輔の顔を、次にその眉の外れの小さな黒子ほくろを見つめた。その時、禎輔は吸いさしの煙草を床に放りつけて、眼を挙げた。その眼は一杯涙ぐんでいた。
「佐伯君、」と禎輔は云った、「僕が何で君にこんな話をしたか、その訳を云おう。普通なら、この話は僕達三人に悪い影響を与えそうだ。三人の間に或る気まずい垣根を拵えそうだ。然しそんなことは、僕と君とさえしっかりしていれば、何でもないことだ。或は却っていい結果になるかも知れない。達子は少しも知らないんだからね。それで僕は、思い切って君に打明けることにしたのだ。自分の心をさっぱりさしたい気もあった。然し実は、人間の心に、……魂に、過去のことが思いもかけない時にどんな影響を与えてくるか、それを君に知らしたかったのだ。あの盛岡の女の事件みたいな、単なる肉体上の事柄じゃない。もっと深い心の上の問題だ。それを僕は君のために、あの……。」
 禎輔は云いかけたまま、変に考え込んでその先を続けなかった。昌作は或る不安な予感に慴えて、立上って歩き出した。禎輔の調子が低く落着いてるだけに、それが猶更不安だった。その上昌作は、もう可なり酔っていた。自分でも何だか分らない種々の幻が、頭の奥に入り乱れていた。それが歩毎にゆらゆら揺めくのを、不思議そうに見守っていた。するうちに、彼はふと立止った。禎輔の様子が急に変ったのを感じたのである。禎輔はきっぱりした調子で云った。
「僕は君のことを考えたのだ。あの柳容堂の沢子と君とのことを。」
 昌作は殆んど自分の耳を信じかねた。
「君がラヴしてるというのはあの女のことだろう?」
「ええ。」と昌作は口と眼とをうち開いたまま機械的な答えをした。
「僕がそれを知ってるというのが、君には不思議に思えるかも知れないが、実はごく平凡なことなんだ。少し注意しておれば、何でも分るものさ。会社の男で、君の顔を知ってる者がいてね……君の方でも知ってるかも知れないが、名前は預っておこう。その男から僕は、柳容堂の二階へ君が度々行くということを、聞いていたのだ。そして、達子から君に恋人ラヴァーがあるということを聞いた時、何故かそれを思い出して、実はすぐに彼処あすこへ内々探りに行ったものさ。すると果してそうなんだ。……僕はこれで、秘密探偵の手先くらいはやれる自信があるね。」
 それから彼は突然、非常に真面目な表情になった。
「僕の頭にあの女のことが引掛ってたというのには理由がある。あの女が彼処に出だして間もなく、今年の梅雨の前頃だったろう、会社の或る若い男が――これも名前は預っておこう――あの女に夢中になったものさ。僕も二三度引張って行かれたが、あの女には確かに、プラトニックなラヴの相手には適してるらしいエクセントリックな所があるね。そのうち二人の関係は可なり進んだらしく、一緒に物を食いに歩いたりしたこともあるそうだ。所が可笑しいじゃないか、愈々の場合になってあの女はその男をぽんとはねつけたものさ。何でも、私はやはり……、」そして禎輔は、其処につっ立てる昌作の顔をじっと見つめた、「やはり宮原さんを愛しています、というようなことでね。」
 昌作は立っておれなくなって、長椅子の上に倒れるように腰を下した。
「このことを君はどう思う?……僕は宮原という男とあの女との関係をよくは知らない。君はもうよく知ってるだろうが……何でも宮原という男は、子供のある妻君を追ん出してまでおいて、そのくせあの女と一緒にはならずに、而も往き来を続けてるというじゃないか。二人の間には常人には分らないよほど深い何かの関係があるものだと、僕は思うよ。それからまた一方に、あの沢子という女は、胸の奥底は非常にしっかりしていながら、精神的に……或は無自覚的に、可なり淫蕩な……というのが悪ければ、遊戯心の強い女だと、僕は思うのだ。僕の会社の男が引っかかったのもそこだ。……それで、僕は君のために心配したのさ。君の方で次第に深入りしていって、最後に、私はやはり宮原さんを愛しています、とやられたらどうする?……或はまたうまく君達が一緒になったとした所で、あの女の心に宮原のことがいつ引っかかって来ないものでもない。手近な例はこの僕自身だ。頭の隅に放り込んで殆んど忘れていた遠い昔のことが、ごく僅かな機会に、全く何でもない場合に、ふいに僕を囚えてしまったじゃないか。ましてあの女と宮原とは、僕みたいな古い昔のことでもないし、そんななまやさしい関係でもない。心の奥まで、魂の底まで、深く根を下してる何かがあると、僕は思うのだ。……このことさえ君が分ってくれれば、他のことはどうでもいい。僕と君のお母さんとの話なんかも、嘘だったとしてもいいさ。ただ僕は君に、盛岡の二の舞をやってくれるなと、老婆心かも知れないが、切に願いたいのだ。こんど変なことになったら、君の生活はもう二度と立て直ることはないだろう、という気が僕にはする。」
 昌作は咽び泣きが胸元へこみ上げてくるのを覚えた。身体中が震えた。そして叫んだ。
「そうです。此度躓いたら、私の生活はもう立て直りはしません。まるで暗闇です。何にも私を支持してくれるものはないんです。私はどうしていいか分らなくなります。……此度躓いたら、もう何もかも駄目です。私自身は駄目になってしまうんです。もう立上ることが出来ないかも知れません。もう今迄のようなぐうたらな生活を続けることも出来ないし、働くことも出来ないかも知れません。全くめちゃくちゃになりそうです、此度躓いたら……。」
 然し彼の心は別なことを感じていた。それは「此度躓いたら」ではなくて、「沢子を失ったら」であった。彼はその時、沢子こそ自分の生活を照らしてくれる光であることを、ひしと感じたのだった。生活を立て直すには、仕事を見出すことが第一であると禎輔は云ったが、また、何をやるかという方向を見出すことが第一であると俊彦は云ったが、それよりも実は、沢子こそ最も必要であることを、彼は感じたのだった。沢子を失ったら、凡てが暗闇のうちに没し去るということを、感じたのだった。――そして彼は突然涙に咽んで云った。
「考えてみます。……よく考えてみます。」
 禎輔は一寸肩を聳かした。昌作の言葉とその心との距りを少し気付き初めたかのように、彼の顔をじっと見つめた。がその時昌作は、自分の心を曝すのが堪え難くなって、咄嗟に、殆んど滑稽なくらい突然に、卓子の方へ向き直りながら云った。
「少し腹が空きましたから……。実は食事をしていなかったのです。」
 禎輔は呆気あっけにとられてぼんやり眼を見張ったが、やがて機械的に立上って云った。
「つまらない嘘を云ったものだね。……だが、僕も実は碌に食事をしなかったのだ。」
 彼は冷たくなった料理を退けて、新らしく料理を註文した。勿論葡萄酒も更に一瓶持って来さした。二人は変に黙り込んで食事をした。食うよりも飲む方が多かった。
「君、今晩は酔っ払って構わないから、沢山やり給い。」
 そんなことを云いながら禎輔は、急に昌作の眼の中を覗き込んだ。
「然し、思切って恋をするのもいいかも知れない。恋は若い者の特権だと誰かが云っていた。……だが、あの女のことはなるべく早く達子へすっかり打明け給い。早く打明けなければいけないよ。」
 何故? と問い返そうと昌作は思ったが、口を開かない前にその思いが消えてしまった。彼は早く一人きりになりたかった。一人きりになって考えたかった。何を考えていいか分らなかったが、頭の中に雑多な幻影が立ち罩めて、それが酔のために、非常に眼まぐるしく回転して、自分を駆り立てるがようだった。彼はむやみと葡萄酒を飲んだ。ほてった額に瓦斯煖炉の火がかっときた。そして頭が麻痺していった。本当に酔ってしまった。禎輔も可なり酔っていた。話は当面の事柄を離れて、一般的な問題に及んでいった。その問題で二人は論じ合った。――昌作の頭には、自分が次のようなことを云ったという記憶しか残らなかった。
 ――自分は盛岡で、フランス人の牧師に一年ばかり私淑していた。そしてその牧師から、自分が本当にクリスチャンにはなれないということを、明かに指摘された。「イエス彼にいけるは主たる爾の神を試むべからずとしるされたり。」けれども自分は、神を試みてからでなければ神を信じられなかった。
「誠にまこと爾曹なんじらに告げん一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてらんもし死なば多くの実を結ぶべし。」けれど自分は、自分自身のことしか考えていなかった。「爾曹もしめしいならば罪なかるべしれど今われら見ゆと言いしに因りて爾曹の罪はのこれり。」けれど自分は、そういう罪を負ったパリサイ人になら甘んじてなりたかった。そして今でも甘んじてなりたいと思っている。……自分は人生の落伍者であり、人生に対する信念を失ってはいるが、実はその信念を衷心から得たい。そしてそれを得ることは、先ず自分自身に対する信念を得てからでなければ出来ないように思われる。自分自身をつっ立たせることが第一である……。

     六

 昌作は、夜中に、唸り声を出して眼を開いた、そしてまたうとうととした。そんなことを何度か繰返した。朝の九時頃にまた、自分の唸り声にはっと我に返ると、此度は本当に眼を覚してしまった。
 何のために唸り声を出したか、それは彼自身にも分らなかった。或る切端つまった息苦しい考え――どういう考えだかは彼も覚えていない――のためだったか、或は葡萄酒の酔のためだったか、否恐らく両方だったろう。頭の中がひどくこんぐらかって、そして脳の表皮が石のように堅くなって、そして恐ろしく頭痛がしていた。
 彼は仕方なしに、顔を渋めて起き上った。冷たい水を頭にぶっかけておいて、かたばかりの朝食の箸を取り、丁寧に髯を剃り、乾いた頭髪へ丁寧に櫛を入れ、それから、やって来た猫を膝に抱きながら、炬燵の中に蹲って、ぼんやり考え込んだ。室の中の空気が妙に底寒くて、戸外には薄く霧がかけていた。
 彼は或る計画を立てるつもりだった、もしくは、或る解決の途を定めるつもりだった。――濃霧の中にでも鎖されたような自分自身を彼は感じた。九州行きの問題も、自然立消えのようでいて、実はまだ宙に浮いていた。片山禎輔の告白によって、片山夫妻と自分との間に、新たな引掛りが出来てきそうだった。宮原俊彦に対しても、このままでは済みそうにない何かが残っていた。そして沢子! 彼女一人が、それらのものの中に半身を没しながらも、俊彦との関係や禎輔の批評などを引きずりながらも、なお高く光り輝いているように、彼の眼には映ずるのだった。そして、その沢子を得るには、どうしたらよいかを彼は考えた。慎重にやらなければいけない、とそう思った。不思議にも、この慎重ということが、今の場合彼には大事だった。もし軽率なことをしたら、高く輝いている沢子までが、いろんなごたごたしたものの中に沈み込んでしまいそうだった。そうしたら、自分自身がどうなるか分らない気がした。どんなことがあっても、沢子だけは高く自分の標的として掲げておきたかった。――そういう彼の気持を強めたのは、一つは亡き母のことだった。彼は母に対して、一種敬虔な思慕の念を懐いていた。そして母と禎輔との関係については、別に憤慨の念は覚えなかった。それを彼ははっきり考えたことはなかったが、前から知ってるようでもありまた知らないようでもあった。が何れにしても、それは遠い昔のことだった。けれども彼は、今突然はっきりしてきたその事柄から、深い絶望に似た憂鬱と寂寥とを覚えた。母のことではなく、自分自身のことが、堪え難いほど悲しく淋しかった。沢子、お前だけはいつまでも僕のために輝いていてくれ! そして彼は涙と焦燥とを同時に感じた。然し、慎重にしなければならなかった。といって、愚図愚図してもおれなかった。彼はいろんな方法を考えた。片山達子に凡てを打明けてみようか? ……宮原俊彦にぶつかっていってみようか? ……片山禎輔の力をかりることにしようか? ……沢子の前に身を投げ出してみようか? ……片山夫妻のどちらかを宮原俊彦に逢わしてみようか? ……其他種々? ……然しどれもこれも、ただ事柄を複雑にするばかりで、何の役にも立ちそうになかった。一寸何かが齟齬すれば、凡てががらがらに壊れ去りそうだった。一層ぶち壊してしまったら? ――然しその後で……?
 立てるつもりの計画が少しも立たなかったのは、彼の受動的な無気力な性質のせいでもあったが、更になお頭痛のせいだった。二三日来の心の激動と前夜の馴れぬ葡萄酒の宿酔とのために、頭が恐ろしく硬ばって痛んで、何一つはっきりと考えることが出来なかった。頭脳の機関全体が調子を狂わして、ぱったり止って動かない部分とめまぐるしく回転する部分とがあった。それで彼は前述のようなことを、秩序立てて考えたのではなくて、一緒くたにまた断片的に考えたのだった。凡てが夢のようであると共に、部分々々が生のまま浮き上って入り乱れていた。
 膝の上に眠ってしまった猫を投り出して、それが、伸びをして欠伸あくびをして、没表情な顔で振返って、またのっそり炬燵の上に這い上ってくるのを、彼はぼんやり見守りながら、いつまでも考え込んだ。頭痛のために昼食もよく喉へ通らなかった。戸外の霧がはれて、薄い西日が障子にさしてきてからも、彼はなお身を動かさなかった。
 二時頃、柳容堂から電話がかかってきた。それでも彼の心はまだ夢想から醒めきらなかった。ぼんやり電話口に立つと、沢子の声がした。
「あなた佐伯さん? ……私沢子よ。……何していらっしゃるの?」
「何にもしていない。」
「じゃあ、一寸来て下さらない? 話があるから。今すぐに。」
「今すぐ?」
「ええ。晩は他に客があるとお話が出来ないから、今すぐ。お待ちしててよくって?」
 昌作は一寸考えてみた。がその時、彼は急に頭が澄み切って、我知らず飛び上った。沢子の許へ駈けつけてゆくという一筋の途が、はっきり見えてきた。彼は怒鳴るようにして云った。
「すぐに行くよ。」
 そして沢子の返辞をも待たないで、彼は電話室から飛出して、大急ぎで出かけていった。
 けれど、柳容堂へ行くまでのうちに、訳の分らない恐れが彼の心のうちに萠した。何かに駆り立てられてるような自分自身を恐れたのか、或はこの大事な時にひどく頭がぼんやりしてるのを恐れたのか、或は一切を失うかも知れないことを恐れたのか、或は一切を得るかも知れないことを恐れたのか、或は取り返しのつかないことになりはしないかを恐れたのか、何れとも分らなかったが、多分それらの凡てだろう。恋してる女の所へ行くというような喜びは、少しも感じられなかった。そして彼は非常に陰惨な気持になり、次には捨鉢な気持になり、それから、何でも期待し得るはらを据えた而も暗い気持になった。
 彼を迎えた沢子は、何か気懸りなことがあるらしい妙に沈んだ様子だった。
「あれから何をしていらして?」と彼女は尋ねた。
「いろんなことがあったよ。」と答えて昌作は俄に云い直した。「が何にもしないで、ぼんやりしていた。例によって猫の生活さ。」
「そう。ずっと家にいらしたの。私あなたが昨日にでも来て下さるかと思って待ってたけれど、来て下さらないから、今日電話をかけたのよ。まあ……あなたは変な真蒼な顔をしてるわ。」
 昌作はふいにこぶしで額を叩いた。
「少し頭痛がするだけだよ。感冒かぜをひいたのかも知れない。……強い酒を飲ましてくれないか、いろんなのを三四杯。ごっちゃにやるんだ。感冒の神を追っ払うんだから。」
「そんなことをして大丈夫?」
 心配そうに覗き込む彼女を無理に促して、彼はいろんな色の酒を三四杯持って来させ、煖炉の火を焚いて貰い、その前に肩をすぼめて蹲った。沢子も彼の横手に腰を下した。
「あなたは本当に家にぼんやりしていらしたの?」と彼女はまた尋ねた。
「そうさ。」
「あれからどんなことをお話なすったの、宮原さんと?」
「ああ、あの晩?」彼は沢子の顔をちらと見やった。「宮原さんの述懐を聞いたよ。」
「述懐って?」
「君と宮原さんとの物語さ。」
 沢子は少しも驚かなかった。
「それからすぐに帰って寝たよ。」
「いえ、その外に……。」
「何にも話しはしなかった。もう遅かったし、宮原さんの話が馬鹿に長かったからね。そんなに話が出来るものか。」
「じゃあほんとにそれきり?」
「可笑しいな。何がそんなに気にかかるんだい。宮原さんには君が僕を紹介したんじゃないか。」
「でも、何か……むつかしい話をして、それであなたが苦しんでなさりはしないかと、ただそんな気が私したものだから……。」
「そりゃあ、苦しんだかも知れないさ。」と不機嫌に云いかけて、昌作はついむきになった。「ほんとに苦しんだよ。いくら考えても分らないからね。」
「何が?」
「何がって、僕にも分らないよ。何もかも分らなくなってしまった。何もかも駄目なんだ。もうどうなったっていいさ。」
 そしてまだ云い続けようとしているうちに、誠実とも云えるほどの沢子の眼付に彼はぶつかった。変に気が挫けて、先が続けられなかった。そして暫く黙ってた後に、馬鹿々々しい――その実真剣な――一つのことが頭に引っかかってきた。彼は云った。
「僕はいくら考えても分らない、話を聞いても分らない、まるで謎みたいな気がするが……実際僕には謎のように思えるんだ。」
「どんな謎?」
「宮原さんと君との関係さ。」
「あらいやよ、関係だなんて。ただのお友達……先生と……お弟子といったような間じゃありませんか。」
「今じゃないよ。あの時……宮原さんが奥さんと別れた時に……。」
「だって、宮原さんには二人もお子さんがおありなさるでしょう。」
「それだけの理由で?」
「ええ、それだけよ。」
 が彼女はその時ふいに、耳まで真赤になった。昌作は驚いてその顔を見つめた。けれど次の瞬間には、彼女はまた元の清澄な平静さに返っていた。彼は恥かしくなった。そして泣きたいような気持になった。
「もうそんな話は止そう。」と彼は呟いた。
「ええ、何か面白い話をしましょうよ。……そう、私春子さんを呼んでくるわ。私ね、あの人に何もかも話すことにしてるの。あの人と宮原さんが、私の一番親しいお友達よ。……そりゃあ気の毒なほんとにいい人なのよ。」
 そう云いながら彼女は立上った。昌作はぼんやりその後姿を見送った。極めて善良らしくはあるがまた可なり鈍感らしい春子と、どうして沢子がそう親しくしてるのか、昌作には不思議な気がした。二人は全く似つかわしくなかった。同じ家に二人きりで働いてるということと、春子が殆んど一人でその喫茶部全体の責任を負わせられてるということとだけでは、二人が親密になる理由とはならなかった。強いて云えば、表面何処か呑気な楽天的な所だけが相通じていたけれど、それも春子のはその善良さから来たものらしいのに、沢子のはその理知から来たものらしかった。――昌作は、やがて奥から沢子と一緒に出て来た春子の、一寸見では年配の分らない、変に厚ぼったい、にこにこした顔を、不思議そうに見守った。
「佐伯さん、お感冒かぜですって?」
 眼の縁で微笑しながら春子はそんなことを云った。
「ええ、少し。」
「それじゃ、お酒よりも大根だいこおろしに熱いお湯をかけて飲むと、じきに癒りますよ。」
 昌作が黙ってるので、沢子が横から口を出した。
「ほんとかしら?」
「ええほんとですよ。寝しなにお茶碗一杯飲んでおくと、翌朝あさはけろりとしててよ。」
「あなた飲んだことがあって?」
「ええ。感冒をひくといつも飲むんですの。でも、利くことも利かないこともあって……それは何かの加減でしょうよ。」
 そう云って春子は眼の隅に小皺を寄せて、如何にも気の善さそうに笑った。
「じゃあ何にもならないわ。私葡萄酒をお燗して飲むといいって聞いたけれど、それと同じことだわ。」
 それから二人の話は、宛も暫く振りで逢った間柄かのように、天気のことや、風のことや、頭の禿のことや、紅茶のことなど、平凡な事柄の上に飛び廻った。昌作は自分自身を何処かに置き忘れたような気持で、黙り込んでぼんやり聞き流していたが、二人の滑かな会話がいつしか心のうちに沁み込んで、しみじみとした薄ら明るい夢心地になった。そして強烈な洋酒の杯をちびりちびりなめてるうちに、心の底に、薄ら明りのなかに、或る影像が浮き上ってきた。その意外な不思議な幻想に自ら気付いたら、彼は喫驚して飛び上ったかも知れないが、然しその時その幻想は、彼の気持にとっては如何にも自然なものだった。
 ――彼は、最後の病気をする少し前の母の姿を思い浮べた。狭い額に少し曇りがあって、束髪の毛並が妙に薄く見えるけれど、ふっくらした皮膚のこまやかな頬や、少し歯並の悪い真白な上歯が、いつも濡いのありそうな唇からちらちら覗いてる所や、柔かにくくれてる二重※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)や、厚みと重みとのある胸部などは、三十四五歳の年配とは思えないほど若々しかった――と共に、三十四五歳の豊満な肉体を示していた。彼女はいつも非常に無口で、そして大変やさしかった。じっと落着いていて、愁わしげに――でも陰気でないくらいの程度に、何かを思い沈んでいた。そのくせ女中や他人なんかに対しては極めててきぱきしていて、型で押すように用件を片付けていった。家の中を綺麗に掃除することが好きだった。朝晩は必ず仏壇に線香を焚いて、長い間その前に坐っていた。ごく小さな仏壇には、ささやかな仏具と共に古い位牌が三つ四つ並んでる中に、少し前方に、新しい粗末なのが一つあった。彼はその位牌の文字が気になって、じっと覗き込んだが、どうしても分らなかった。そのうちに、何処からだかぼっと光がさしてきて、文字が仄かに見えてきた。木和田五重五郎と誌してあった。彼はその名前に見覚えがあるような気がしたが、どうしてもはっきり思い出せなかった。母は悲しい眼付をして、なおじっと坐っていた。黄色っぽい薄ら明りがその全身を包んでいた。けれど、今にも次第に暗くなってきそうだった。眼に見えるようにじりじりと秋の日脚が傾いていった。冷々とした風が少し吹いて、さらさらと草の葉のそよぐ音がした。木和田五重五郎の位牌が、野中の十字架のように思われた。雑草の中に一つぽつりと、灰白色の円いものが見えた。野晒しの髑髏だった。その上を冷たい風が掠めていった。彼は堪らなく淋しい気持になって、我知らず口の中で繰返した。――野ざらしを心に風のしむ身かな。――それをいくら止めようとしても、やはり機械的に繰返されるのだった。一生懸命に止めようと努力すると、気が遠くなって野原の真中に倒れた。胸がまるで空洞になって、風がさっさっと吹き過ぎた。自分の魂が髑髏のようになって、胸の中に……野の中に転っていた。晩秋の日はずんずん傾いていった。大きな影が徐々に落ちてきた。風が止んで非常に静かになった。彼は立ち上ってまた歩きだした。胸がどきどきして、頭がかっとほてっていた。眼が眩むようだった。細目に見開いてみると、すぐ前を厚い白壁が遮っていた。長年の風雨に曝されて、薄黒い汚点しみが這い廻ってる、汚い剥げかかった壁だった。その上を夕暮の影が蔽っていた。影の此方に四角に窓硝子があって、ぼんやり人影が写っていた。それが堪らなく淋しかった。彼は眼を外らした。表に面した窓から、小さな銀杏の並木の梢が見えていて、散り残った黄色い葉が五六枚、街路の物音に震えていた。
 彼が気がついてみると、沢子と春子とは、先程から話を途切らして、彼の顔をじっと見てたらしかった。彼は何だか顔が挙げられなくて、首垂れながら太く溜息をついた。
「熱でもおありなさるんじゃないの?」と春子が云った。
 彼は無意識に手を額へやってみた。額が熱くなって汗ばんでるのを感じた。
「なに、煖炉の火気を少し受けすぎたんだろう。何でもないよ。」
「でも変に苦しそうなお顔でしたよ。」
「一寸夢をみたようだった……。」
「夢?」
「と云って悪ければ……いややはり夢だよ。」
「おかしいですわね、眼をあいてて夢をみるなんて。」
「白日夢ってね。」
「あら……ひどいわ。人が本気で心配してるのに冗談なんか云って。」
 然し彼は、まだ先刻の幻想から本当には醒めきれないでいた。春子と言葉を遣り取りしてるのまでが、何だか変に上の空だった。けれど、彼はその時ぴたりと口を噤んでしまった。沢子の鋭い眼付に出逢ったのだった。彼女の眼には、彼がこれ迄嘗て見たことのないほどの鋭い現実的な――彼には何故となく現実的と感じられた――色が浮んでいた。
「余りこんな強いお酒を飲むからよ。」と彼女は云った。「おひやを持ってきてあげましょうか。」
 昌作は彼女の眼を見返して、彼女がごまかしを云ってることをはっきり感じた。うっかり返辞が出来ない気がした。沢子は彼の顔をじっと見ていたが、やがて突然叫んだ。
「やっぱりそうよ。あなたは何か苦しんでいらっしゃるに違いないわ。宮原さんの仰言った通りよ。」
「宮原さん……。」昌作は云った。
「ええ、宮原さんはあなたが苦しんでいらっしゃるかも知れないって……。」
 彼女は云いさして唇をかんだ。そして暫くくうを見つめていたが、ふいに立上った。
「私あなたにお見せするわ。」
 沢子が奥に引込んで行く姿と昌作の顔とを、春子は不思議そうに見比べていたが、ふいに奥深い笑みを眼の底に漂わした。
「大丈夫ですよ。心配なさらなくても……。」
 そんなことを云い捨てて、彼女は奥へ立っていった。
 沢子はなかなか出て来なかった。昌作が待ちあぐんで苛ら苛らしてると、漸く沢子はやって来た。そして一枚の葉書を彼へ差出した。
「今朝、宮原さんから来たのよ。読んでごらんなさい。」
 昌作は受取って読んだ。

御手紙拝見。またそんなむちゃなことを云ったって駄目ですよ、もう少し待たなくては。それから、佐伯君とは快く話が出来て、僕も嬉しい気がします。ただ、変な工合になって、誰にも話さなかったことを、僕達の昔のことを、すっかり話してしまったが、後で考えると、少し早すぎたように思われます。佐伯君のうちには、まだあなたが本当に知っていないものがあるようです。或は、後で何か苦しんでいるかも知れません。逢ったら慰めて上げて下さい。何れまた。

 昌作はそれを二度繰返して読んだ。眼の中に熱い涙がにじんでくると同時に、また反対に、呪わしい憤りが湧き上ってきた。彼は葉書の表までよく見調べてからこう云った。
「君はこれを、僕に見せるために、わざわざ持って来たの?」
 その泣くような詰問するような調子に、沢子は一寸眼を見張ったが、静に答えた。
「いいえ。お午前ひるまえに受取ったんだけれど、何だかよく分らないから、なお読みながら考えようと思って、持って来たのよ。」
 昌作はなお云い進んだ。
「君は一体僕を宮原さんに逢わして、どうするつもりだったんだい?」
 沢子は暫く黙っていたが、もう我慢出来ないかのように云い出した。
「あなたそんな風に取ったの? 私、そんな気持じゃちっともなかったのよ。……あんまりひどいわ。私あなたのことをいろいろ考えてみたの。考えると何だか悲しくなって……。」そして彼女は眼をうるました。「自分でもなぜだか分らないけれど、ただ変に悲しくなって……こんな風に云ったからって怒らないで頂戴……どうしたらいいかといろいろ考えて、そしてふと宮原さんのことを思いついたのよ。宮原さんは、そりゃしっかりした真面目な方なんですもの。私どれくらい力をつけて貰ってるか分らないわ。よくむちゃを云うって叱られるけれど、叱られて初めて、自分が軽率だったことに気がつくのよ。私何だか、あの方はいつも深いことばかり考えていらして、一目で心の底まで見抜いておしまいなさるような気がするの。そして大きい力を持っていらっしゃるような気がするの。そうじゃないかしら? 私一人そんな気がするのかしら? ……いえ、確かにそうよ。それで私、あなたも宮原さんにお逢いなすったら、屹度いいだろうと思ったの。そして私達三人でお友達になる……そう考えると非常に嬉しくって、もう一日も待っておれなかったの。私宮原さんにいつも、無鉄砲で独り勝手だと云われるけれど、自分ではよく考えてるつもりなのよ。私ほんとに悲しかったんですもの……いろんなことを考えて。それが、三人でお友達になったら、みんなよくなるような気がしたの。それをあなたは……。」
 彼女は一杯涙ぐんでいた。それが宛も小娘みたいだった。昌作は心のやり場に迷った。迷ってるうちに、いつしか自分も涙ぐんでしまった。
「だって、三人で友達になってどうするんだろう?」
「私それが嬉しいわ。」
「然し三人の友達というのは……一寸何かがあればすぐ壊れ易いものだよ。……君達だって、宮原さん夫婦と君と、躓いたじゃないか。」
「あれは私達が悪いのよ。」
「悪いって?」
「だって私達は……一寸でも……愛し合う気になったんですもの。愛し合う気になったのが悪いのよ。」
「愛し合う気になったのが?」
「ええ。」
 不思議なことには、眼に涙をためて右の会話をしてる間、沢子は勿論昌作までが、まるで十五六歳の子供のような心地になっていたのである。所が、ふと言葉が途切れて、互に顔を見合った時、あたりの空気が一変した。昌作はそれをはっきり感じた。自分の眼付が情熱に燃え立ってくるのを覚えた。沢子は少し身を退いて、薄いむくげのありそうな脹れた唇を歪み加減に引結んで、下歯の先できっと噛みしめていた。
 昌作は堪え難い気持になった。顔が赤くなった。眼を外らして首垂れると、ひどく頭痛を感じ出した。眼の前が真暗になりそうだった。ふらふらと立上って、室の中を少し歩いた。
「火に当りすぎたせいか、ひどく頭痛がするから、此処で少し休ましてくれ給え。」
 そう云って彼は、向うの隅の卓子に行って坐った。そして、沢子が持って来てくれた外套を着て、その襟を立て帽子を目深に被って、暮れてしまった戸外の闇と明るい電燈の光とを、重苦しい眼でちらと見やってから、卓子の上に組んだ両の前腕に頭をもたせた。凡てが駄目だ! という気がした。沢子が暫く傍につっ立っていたのを、それからやがて、彼女が水を持ってきてくれたのを、彼は夢のように感じながら、暗い絶望の底に沈んでゆく自分自身を見守っていた。――そして実は、昌作はその時嫌な酔い方をしていた。頭にまるで弾力がなくなって、脳の表皮だけがきつく張りきって、薄いセルロイドの膜かなんぞのように、びーんびーんと音を立てて痛んでいた。それが半ばは彼の暗い絶望を助長していた。
 けれどその絶望の底まで達すると、彼の心はわりに落着いた。窓硝子にちらちらする街路の光や、その硝子越しに聞ゆる電車の響きなぞは、いつしか彼を夢のうちにでもいるような心地になした。彼はうっとりと――而も何処か苛ら苛らと思いに沈んだ。自分が此処にこうしてつっ伏してることが、遠い記憶の中にあるようだった。それを見守ってるうちに、疲労と酔いと頭痛――遠い大きな頭痛とに圧倒されていった。一切のことが茫と霞んでいった。そして彼はぐっすり――殆んど安眠と云ってもよいほどに眠ってしまったのである。
 幾時間かたった……。
 遠い所で、調子のよい澄んだ声と、少し濁りのある調子外れの声とが、一緒に歌をうたっている――

山田やーまだのなーかの、一本あち案山子かがち
天気てーんきのよいのに蓑笠みのかちゃちゅけて
あーちゃからばーんまでたーだ立ち通ち
あーるけなーいのか山田の案山子かがち
………………………………

 歌が止むと、何かに遮られたような低い話声がする。
 ――駄目よあなたは、調子っ外れだから。
 ――ええ、私は何をやっても調子外れだけれど……だって、かがちなんて云えやしないわ。
 ――三つと六つのお子さんだから、そう云わなくちゃいけないわ。
 ――六つでまだ片言かたことを仰言るの?
 ――ええまだ。いっぽんあちかがち、なのよ。それに、宮原さんまで片言で一緒に歌っていらっしゃるから、そりゃ可笑しいのよ。
 昌作は、宮原という言葉に注意を惹かれるはずみに、はっと眼を覚した。上半身を起して振向くと、向うの煖炉の側に、珈琲碗や菓子皿が幾つも取散らされたままの卓子に、沢子と春子とが坐っていた。二人は昌作が起上ったのを見て、ぷつりと話を止めてしまった。それがまた、何か云ってならないことを云ったという様子だった。昌作はぞっと寒けを感じた――その沈黙と一種妙な探り合いの気配とから。彼は深く眉根を寄せたが、それを押し隠すように伸びをして、黙って煖炉の方へ立っていった。
「ほんとによく眠っていらしたわね。」と春子が云った。
「ええ、たべ酔ってね……。」
 その言葉に後は自ら不快になった。卓子の上の皿類を見廻しながら云った。
「僕の知った人が来やしなかったのかい?」
「さあ……いいえ誰も。幾人もいらしたけれど、滅多に見ない人達ばかり……ねえ。」と彼女は沢子の方を見た。
「ええ。」と沢子は首肯いた。
「そんなに沢山客があったの!」
「沢山というほどじゃないけれど……今もね、お児さん連れの方がいらしたんですよ。」そして春子は慌てたようにつけ加えた。「ご気分は?……少しはよくおなりなすって?」
「ええ、ぐっすりねたものだから……。」
 その時彼は時計を仰いで喫驚した。九時近くを指していた。
 二人が皿類を取片付て奥へはいって行った間、昌作はじっと煖炉の前に屈み込んだ。それは、或るうちでは最も客が込むけれど、或る家では妙に客足が途絶えることのある、一寸合間の時間だった。そして柳容堂の二階は、後の部類に属していて、今が丁度そういう時間に在った。昌作はそれをよく知っていた。やがていろんな――恐らく自分の見覚えある――客がやって来て、自分は此処から帰って行かなければならない、と彼は感じた。もしくはじっと我慢していて、沢子の帰りを待つ……然し彼はどんなことがあっても、そういう卑しいことをしたくなかった。それはただ沢子から軽蔑される――また自分で自分を軽蔑する――ばかりのことだとはっきり感じた。今だ! という気がした。
 何が今だかは、彼にもはっきりしていなかったが、彼はその日の初めから、変に調子の狂ってる自分自身を、頭痛のせいも手伝って、どうにかしなければ堪えられなかった。一方は暗い淵で一方は明るい天だ、という気がした。その中間に立っている力が、もう無くなりかけていた。心がめちゃめちゃになりそうだった。――そして彼の決心を更に強めたのは、先刻夢のように聞いた歌だった。その歌が変な風に頭へ絡みついてきて、静かながらんとした白い室の中で、自分の運命を予言する不吉な悪夢のような形になった。
 長くたって――と彼は感じたが、実は暫くたって、沢子が奥から出て来た時、彼はすぐその方へ振向いた。沢子はじっと彼の顔を見て、其処に立止った。瞬間に彼は、殆んど閃めきのように、宮原俊彦の言葉を思い出した――僕の天は澄み切っていると共に変に憂鬱です。それが、全く沢子の立姿そのままだった。彼は唇をかみしめながら、彼女の白々とした広い額を眺めた。
「沢ちゃん、僕は君に話があるんだが……。」と彼は云った。
「なあに?」
 落着いた声で答えておいて、彼女は寄って来た。
 どう云い出していいか迷ってるうちに、彼の頭へ、別なもっと重大な事柄が引っかかってきた。彼は口籠りながら云った。
「僕は真面目に、真剣に聞くんだが……それが僕に必要なんだよ……はっきり分ることが……本当のことを云ってくれない? 君と宮原さんと、どうして結婚しなかったかという訳を。」
 沢子は彼の真剣な語気に打たれたかのように、顔を伏せて暫く黙っていたが、やがてきっぱりと云った。
「宮原さんに二人もお子さんがあるから。」
「それは先刻さっき聞いたが、それだけのことで?」
 沢子はまた暫く黙っていたが、ふいに椅子へ腰を下して、ゆっくり云い出した。
「ええ、それだけよ。他に何にもありゃしないわ。宮原さんはこう仰言ったの、私には二人も子供がある、私の生活はもう固まってしまってる、けれど、あなたは若い、自由な広い生涯が前に開けている、そのあなたを私の固まってる生活の中に入れるには忍びない、忍びないだけじゃなくて、出来ないのだ……そして……まだあったけれど、私よく覚えていないの。」彼女の言葉は次第に早くなっていった。「ええ、そうよ、まだいろんなことを仰言ったけれど……私はもう固った生活を守ってゆけるとか、あなたは一つの型の中にはいるのは嘘だとか……そんなことを……私よく覚えていないけれど、それを私、幾日も考え通したのよ。そして宮原さんの仰言ることが本当だと感じたの。理屈じゃ分らないけれど、ただそう胸の底に感じたの。そしてどんなに泣いたか知れないわ。私本当は、宮原さんを愛してたの。宮原さんも、私を愛して下すったの。愛してるから一緒になれないんだって……。私が泣くと、沢山泣く方がいいって……。それで私、泣いて泣いて泣いてやったわ。自分でどうしていいか分らないんですもの。そして、構うことはないから捨鉢になったのよ、自由に飛び廻ってやれって気になって。けれど、宮原さんがいらっしゃることは、私にとっては力だったわ。私一生懸命に勉強するつもりになったのよ。」
「それじゃやはり、心から愛していたんだね。」
「ええ、心から愛していたわ。宮原さんも、心から私を愛して下すったの。」
「では結婚するのが本当だったんだ。結婚したからって、君が全く縛られるわけじゃないんだから。」
「縛られやしないけれど、私は、もっと自由にしていなけりゃいけないんですって。大きな二人の子供の世話なんか私には出来やしないんですって……。私の世界は宮原さんの世界と違うんですって……。だから、愛し合うだけで十分だったのよ。」
「そのうちに年を取ってしまうじゃないか。」
「ええ、年を取ってしまうわ。それまでの間のつもりだったわ。」
「年を取ってからは?」
「年を取ってからは……結婚するつもりだったのよ。それが本当だわ。もっともっと、いろんなことをしてから、勉強をしてから、そして世の中に……何だかよく分らないけれど、私が落着いてから……とそう思ったのよ。」
 その時、二人は突然口を噤んでしまった。そして驚いたように眼を見合った。はっきりしてきた。過去として話していたことが、実は現在のことだったのである。昌作は彼女の眼の中にそれを明かに読み取った。彼女は顔の色を変えた。物に慴えたようになって、冷たいと云えるほどにじっと動かなかった。そしてふいに、卓の上につっ伏して身体中を震わした。
 昌作は息をつめていたが、ほっと吐息をすると共に、一時にあらゆる気分が弛んでしまった。彼は云った。
「君は僕の心を知っていたじゃないか。」
 聞えたのか聞えないのか、やはり肩を震わしてばかりいる彼女の姿を、彼はじっと見やりながら、一語々々に力を入れて、出来るだけ簡単にという気持で云い続けた。
「僕の心を知っていて、それで……。然し僕は君を咎めはしない。君はそれほど真直なんだから。……けれど、少くとも僕のことを誤解しないでくれ給え。あの……何とか云う会社員……僕は片山さんから聞いたのだ……あんなあやふやなんじゃなかったんだ。僕には君が必要だったんだ。九州行きの問題が起ってから……その後で……気付いたんだが、僕に必要なのは、仕事でも、また、何をやるかっていう方針でも、そんなものじゃなかった。君ばかりだった。僕は自分の生活を立て直す心棒に、君が必要だった。こんなのは、本当の愛し方じゃないかも知れないが、然し、君がなければ僕の世界は真暗になってしまうんだった。友達……そんなではない……君の全部がほしかったのだ。君は愛する気になるのが悪いと云ったけれど、愛せずにはいられなかったんだ。然しもう……。」
 彼は終りまで云えなかった。彼にとっては、もう凡てが言葉通りに……であったという感じだった。まだ何かを待ち望んではいたけれど、それは全く空想に過ぎないことを、彼自らもよく知っていた。……すると突然、沢子は顔を挙げた。
「私にも分っていたけれど……他に仕様がなかったんですもの……宮原さんが……もし宮原さんがなかったら、どうなるか自分にもよくは……。」
 彼女は息苦しそうに顔を歪めていた。
「宮原さんがなかったら……。」と昌作は繰返した。
「自分でも分らないの。」
 その時、彼女の引歪めた顔と、白々とした冷たい額と、遠くを見つめた惑わしい眼付とを、昌作は絶望の気持で見ながら、頭の中に怪しい閃きが起った。宮原が居なかったら? ……彼は自分で驚いて飛び上った。沢子も何かに喫驚したように立上った。そして彼を恐ろしい勢で見つめた。彼は眼がくらくらとしてきた。また椅子に身を落した。
 そのまま二人は黙り込んでしまった。やがて沢子も腰を下して、煖炉の火を見入った。その冷たい彫像のような顔を火先がちらちら輝らしてるのを、昌作はじろりと見やっただけで、再び視線を火の方へ落した。
 そして二人は、黙り込んだまま、夜通しでも動かなかったかも知れない。けれど、それから十四五分たった頃、階段に二三の人の足音がした。昌作は自分でも不思議なほど喫驚して、狼狽して、俄に立上って、卓子の上にある外套と帽子とを取った。そして、勘定を払うのさえ忘れて逃げ出した。
 沢子は機械的に立上って、其処に釘付にされたようになって、彼の後ろから云った。
「佐伯さん、また明日にでも来て下さらない? 私、まだ云うことがあるから。」
「来るよ。」
 そう彼は答えたが、自分にも言葉の意味が分っていなかった。そして彼は階段の上部で、三人の客の側を、顔をそむけて駈けるように通りぬけた。
 薄く霧がかけていて、それでいながら妙に空気が透き通ったように思える、静かな寒い晩だった。昌作は夢遊病者のように、長い間歩き廻った。彼は薄暗い通りを選んで歩いた。人に出逢うと、何かを恐れるもののように顔を外向けた。古道具屋などの店先に、古い刃物類があるのを見ると、一寸立止ったが、またすたすたと歩き出した。そして、初め彼は宮原俊彦の家と反対の方へ行くつもりだったが、途々もそうするつもりだったが、いつのまにか俊彦の家のある町まで来てしまった。
 実は、彼が沢子と向い合って、「宮原さんがいなかったら……。」というくだりの会話を交して、彼女の惑わしい眼付を見た瞬間、彼の頭はまるで夢の中でのように迅速な働きをしたのだった。最初に、もう到底沢子は自分のものではない、如何なる事情の変化があろうとも、彼女の心は自分の有にはならない、ということを彼は知った。次に、自分の生活が暗闇になって、もう何にも拠り所がなく、再び立て直ることがない、ということを彼は感じた。次に、もし宮原俊彦さえなかったら……ということ――沢子の「ない」という言葉を「存在しない」という言葉に変えた意味、それが、暗い絶望の底から、一条の怪しい光となって、彼の頭にさしてきた。そしてこの最後のことが、彼の胸深くに根を張ったのだった。それが、また偶然の事情によって助けられた。彼はこれまで宮原俊彦の住所を知らなかった。所がその晩、沢子へ宛てた葉書を表までもよく見調べてるうちに、そこに書かれてる町名――番地は記してなかった――が、いつしか彼の頭に残ったとみえて、――後でぽかりと記憶に浮んできたのだった。――然し彼は、別に殺意……もしくは敵意を、はっきり懐いたのではなかった。一方には、却って反対に、絶望に陥った瞬間、彼は或る広々とした――真暗ではあるが広々とした――境地へ、自分が突然投げ出されたのを感じた。暗いなりに静まり返って落着いてる空間だった。黙り込んで煖炉の火を見ていた時、彼はそういう自分自身を見守ってたのだった。――以上の二つのことが、彼を力強く支配していた。彼は宮原俊彦の住んでる町と反対の方向へ行くつもりでありながら、知らず識らずその町へ来てしまったのである。
 来てしまって、その町名に気がつくと、彼は慴えたように立止った。一切のことが――前述のようなことが、初めて彼の頭にはっきりとうつった。その瞬間に、云いようのない感情が胸の底から湧き上った。宮原俊彦に対して、今迄の敵意と同じ強さで、情愛……思慕に等しい友情が、高まって来た。その同じ強さの敵意と友情とが、不思議にも二つながら、彼を俊彦の家へ引張ってゆこうとした。俊彦の家を探しあてて、その胸を刺すかもしくはその前に跪くか、何れかに彼を引きずり落そうとした。然し彼は、或る本能的な恐怖を感じて、それに抵抗してつっ立った。行ってはいけない! と自ら叫んだ。……彼は足を踏み出すことも足を返すことも、二つながら為し得なかった。
 宛も何かに憑かれたかのように、彼は暫く惘然と佇んでいたが、その時、もやもやとしたなかから、自分をじっと見つめてる俊彦の眼が――あの見覚えのある眼が、浮き出してきた。その力強い視線が、自分の過去をも未来をも見通して、魂をぎゅーっと握りしめてくる……といった心地だった。「いやあれは、俊彦の眼じゃない、俊彦の眼じゃない、」と彼は心に繰返しながら、ふらふらと前へ進みだした。そして数十歩行くと、眼の前が真暗になった。堪え難い頭痛がして、額がかっとほてって、胸が高く動悸して、膝に力がなかった。立っておれなくなって、其処に屈んでしまった。傍の何か小高い物に探り寄って、半身をもたせかけてるうちに、気が遠くなるのを覚えた……。
 それは約二十分ばかりの間だったが、昌作は非常に長い時間だったように感じた。気がついてみると、四五人の人影が数歩先に立って見ていた。自分は通りの少し引込んだ所にある埃箱にもたれていた。締りのしてあるらしい裏口の戸と、傍の竹垣の上から覗いてる篠竹の粗らな葉とが、彼の眼にとまった。彼は喫驚して立上った。一寸見当を定めておいて歩き出した。後ろの四五人の人影が、何か囁き合ってる気配だった。彼は俯向いて、まるで影絵のようなその人影を見やった。それが妙に彼の心を広々と――そしてせつなくさした。涙が流れ落ちそうだった。彼は明るい街路まで走り出して、少し行って、辻俥に乗った。所を聞かれると、半ば無意識的に片山夫妻の住所を告げてしまった。もう何もかも打ち捨ててしまいたかった――というよりも、何もかも無くなった心地だった。そしてその底から淋しい感激がこみ上げてきた。――自分は一思いに九州へ落ちて行こう、真暗なあなの中へでも。身を捨てて生きて働いてやれ!――そう彼は心のうちで叫んだ。そして、それは根の浅い気持で、一寸事情が変ればすぐに崩壊しそうなことを、彼は感じたけれど、また一方に、それが自分にとっては一筋の本当の途であることをも、彼は感じた。
 彼は後の方の感じを壊すまいと、じっと胸に懐いて、何とも云えない真暗な而も底深い心地になった。そして、首垂れながら涙を落した。
 片山夫妻はまだ起きていた。昌作がはいって来た姿を、頭から足先までじろじろ見廻した。
「佐伯さん、まあ、あなたは!」
 達子にそう云われて初めて、自分が真蒼な顔をして泥に汚れてることを、彼は知った。
「私はやはり九州の炭坑へ行きます。あなの中へはいってでも働きます。」
 禎輔が喫驚して、惘然と眼と口とをうち開いたのに、昌作は気付かなかった。彼は不覚にもまた涙をこぼしながら、冷く硬ばった額を押えて其処に坐った。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
※「萌」と「萠」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年4月27日作成
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