十二月八日 〔牛込区富久町一一二市ヶ谷刑務所の宮本顕治宛 淀橋区上落合二ノ七四〇より(封書)〕

 第一信。 (不許)[自注1]
 これは何と不思議な心持でしょう。ずっと前から手紙をかくときのことをいろいろ考えていたのに、いざ書くとなると、大変心が先に一杯になって、字を書くのが窮屈のような感じです。
 先ず、心からの挨拶を、改めて、ゆっくりと。――
 三日におめにかかれた時、自分で丈夫だと云っていらしったけれども、本当は余り信用出来なかったのです。叔父上[自注2]が、顔から脚から押して見てむくんでいないと仰云ったので、それでは本当かと、却ってびっくりしたほどです。それにしても体がしっかりしていらっしゃるのは何よりです。私とは勿論くらべものにはならないけれども、私は一月から六月中旬までの間に相当妙な調子になって、やっとこの頃普通にかえりましたから信用しなかったのも全く根拠のないことではないわけです。
 叔父上は十二月六日に林町[自注3]にお出でになり父[自注4]にも会われ、いろいろのお話を伺いました。さしいれのこと、弁護士のこと、毛糸であんだ足袋のこと、いろいろ承知いたしました。お弁当のこと、弁護士のことは、大体私もそのように考えて居りましたから御安心下さい。籍のこと[自注5]ももう余程前からの話なのですが、やっと今度お話になられ、私も非常に満足です。あなたも其を当然のことと感じて、御返事下すったということはこれも亦私にとっては様々の意味で愉快なことです。そういう私の心持はおわかりになるでしょう?
 五日に叔父上のお会いになったときは、もうあの百日カズラに髯ボーボーではなかったってね。着物は先のままであったそうですが、今日あたりは差しいれたのが届いただろうと思って居ります。帯をしていらしったというけれど、それはどんな帯だったのか、私の入れたやすもののヘコ帯かしら。それとも違うのかしら、と叔父上に伺ったら「ヤアそれは気が付かざった!」と首をちぢめておいででした。
 六日の日は、お昼を竹葉の本店へお伴して、座敷が大変お気に入り、今日七日はおひる父と三人で、銀座の星ヶ丘茶寮の出店。かえりにずっと上落合の家へおいでになり、ねころがったり起きたりよもやまのお話ですっかりくつろがれました。夕飯を壺井さん[自注6]と三人でスキヤキをたべて、それから東京駅へお送りして行って、九時ので大阪までお立ちになりました。もう五分くらいしかないので、私が寝台から出て来ようとすると、どっかで林町の父のお得意の口笛の音がするので、キョロキョロしたら、急いであつそうな顔をしながら片手に浅漬の樽を下げてお見送りに来たのでした。
 私は島田の父上[自注7]の御好物の海苔のりをおことづけ願いましたし、べったら漬もあるし、まあ東京からおかえりらしいお土産が揃って結構でした。
 お立ちになってから林町へ一緒にまわってお風呂に入って、十二時一寸前家へかえりました。栄さんがあなたのシャツ類を編んでいてくれたのが待っていて、お茶をのんであのひとはかえり、私は島田の母様[自注8]が私へ下さったお手染のチリメンの半襟を又眺めなおして、いただいたコーセンをしまって、手伝いに来ているお婆さんをやすまして、それからドテラを着てね、さて、と机に向ったわけなのです。
 机はやっぱり昔ながらのテーブルで上には馬のついた紙おさえや、ガラスのペン皿やをおいてこれを書きはじめているのですが、あなたは、上落合のこの辺を御存知かしら。
 中井駅という下落合の駅の次でおりて、小学校のつき当りの坂をのぼったすぐの角家です。小さい門があって、わり合落付いた苔など生えた敷石のところを一寸歩いて、格子がある。そこをあけると、玄関が二畳でそこにはまだ一部分がこわれたので、組立てられずに白木の大本棚が置いてあり、右手の唐紙をあけると、そこは四畳半で、箪笥たんす衣桁いこうとがおいてあり、アイロンが小さい地袋の上に光っている。そこの左手の襖をあけると、八畳の部屋で、そこには床の間もあるの。なかなか一通りなものでしょう? そこへ私は茶箪笥をおき、長火鉢をおき、長火鉢と直角にチャブ台をひかえて、上で仕事しないときは、そこに構えているわけです。八畳からすぐ台所だというのが私どもの暮しかたには大変いい工合なのですが、生憎井戸でね。朝まだ眠いのに家でガッチャンガッチャン、裏の長屋でガッチャンガッチャン。はじめのうちは馴れないので閉口でした。アラー、チブスになるわよ、とスエ子[自注9]等は恐慌的な顔付をしたが、まさかそれは大丈夫でしょうから、どうぞ御心配なさらないで下さい。水道をひく相談をはじめたら、なかなかはかどりません。井戸の水はただ。水道は最低九十三銭。だからいらないと裏の意見だそうです。尤もだと思い大多数の便宜に従います。
 台所へ出てから、二階への梯子があり(これは玄関から障子をあけても行けるのです)、二階も縁側があり、入ってすぐが六畳、奥が四畳半。六畳の方に山田のおばあちゃん[自注10]のくれた机をおいて、四畳半へテーブルと、あなたのつかっていらした本棚をおきおさまっている次第です。二階の景色はよくてテーブルの右手の小窓をあけると、小学校の庭と建物越しに下落合の高台が見え、六畳の方の小窓からもそれにつづいての景色が一望されます。小学校だからチーチーパッパで、ときどきはやかましいが、清澄なやかましさで、神経には一向にさわりません。カンカンとよく響いて鐘がなったりしてね。窓から見ていると、友達にトタン塀の隅っこへおしつけられた二年生ぐらいの男の子がベソをかいて、何か喋っていることなどがあります。下の八畳も二階も、それはよく日が当って、実にからりとした私たちに似合った家です。家賃三十円也。井戸だし、少し不便だし、だからその位なのであろうという定評です。
 達治さん[自注11]がこの一月二十日頃に入営することを叔父上がお話しになりましたか? その前に出来たらあなたに会われたらいいと思ったし(そちらにいつ頃まわるか私には見当もつかなかったから)母様の御出京の話もあったので、とりいそいで家をもったわけでした。あなたは御存知ないことだけれども、一昨年の十月末から国男夫婦[自注12]がケイオー病院のそばに家をもち、私はずっとその二階で暮して居りました。その家は、林町の母[自注13]が本年六月十三日に肺のエソでなくなり、(私が臨終の僅か五分前に辛うじて淀橋[自注14]からかえって会う事が出来た後、)引はらって、国男夫婦は林町にかえりました。私は夏ごろはずっと歩けなかったし、心臓衰弱で毎日注射していたし、すぐに家をもつことは出来ず林町の二階の長四畳へテーブルを持ちこんで、十月以後は、文学的な感想や評論のようなものを相当沢山かき半年前よりは発展をとげたということで一般に好評でした。現代文化社というところで私の最近の評論感想集[自注15]を出すそうで、多分一月頃出版の運びになるだろうと思って居ります。本年一月の『文芸』にかいた「小祝の一家」という小説は三一書房という本屋から出たいろいろな人十七人の『われらの成果』という小説集の中に集録されました。その小説集には島木健作「癩」、平田小六という「囚われた大地」という長篇小説をかいた元隆章閣の人などもはいっているし、婦人作家では私のほかにいね子[自注16]、松田さん[自注17]なども居ります。藤島まきという作家も出ました。文学におけるリアリズムの問題が、はじめ妙な傾向をもってトリビアリズムと混同して出されたし「ナルプ」は二月解散になったし、今もってその点では問題がのこされている有様です。私はそういうことについても、其だけ切りはなして云々せず、例えば窪川鶴次郎の「風雲」という小説の批評や、横光利一の大評判になった「紋章」などにふれつつ作家としての仕事ぶり生活ぶりにふれた感想そのものの書きかた、現実の生活的な問題としての文学理論上の問題の捉え方そのもので、正常なリアリズムの発展的な方法を示してゆくよう努力しているし、そのために好評でもあると思われます。小説について一九三二年の春ごろよりは又一段腰がすわったから、これからはいくらか書けます。何か、ここ一年の間に、私は作家として大分様々のものを見ききし、感情を鍛錬され、一層深く強い確信の上に立って生活するようになったから、どうぞ悠々とたのしみに私の仕事ぶりを見て下さい。十一月二十日に朝日講堂で神近さんの婦人文芸主催の文芸講演会では私の話がよろこばれ、私としても、あんなに身をいれて、わかりやすく、文学といっても一般化して云うことは出来ぬこと、文学を作るものの社会生活が反映して来ることを様々の作品の例をとって話せたことはなかったと思います。そのときの漫画はね、まるでバルザックみたいな(これは今井邦子の評)上半身の横に、一つ土瓶が描いてあるのでした。私が土瓶一つからだって、見るその人の生活によって、どんなに連想の内容がちがうかということを云ったからでしょう。文学における表現の形象性と云えば、重ね引出しを整理したら、そのことについて、あなたが中途でやめておおきになった古い、多分三四年昔の原稿が出て、その一枚を私は黒い細い枠に入れ、こうやってかいている机の横の壁にかけて居ります。わきの小窓にかかっている紫っぽいところに茶の細い格子のある毛織地のカーテンと原稿紙の字とは大変美しく釣合って、稲子にさすがだといってほめられました。まるでお話ししながら、そこに全体の仕事を感じながら、自分も仕事をしているような居心地よさです。美しさというものは何と活々したものでしょうね。何一つめずらしいものではなくて、しかもこれらのものは本当に堅実で、雄々しく美しくて鼓舞的な輝きを含んでいるのです。その枠の下の本棚は私の御秘蔵本棚とも云うべきもので、いろいろ愛する本を並べて居ります。
 この家へ越したのが十一月二十日です。引越し通知のハガキはもう御覧になって居るでしょう? あれも壺井さん夫婦が世話をやいてくれたのです。お正月のハガキもやってくれるそうです。私たちの結婚通知の印刷物以来の恒例だからやってくれたのですって。――原泉夫妻[自注18]は四谷の大木戸ハウスというアパートで細君はトムさん[自注19]の新協劇団第一回公演では「夜明け前」に巡礼をやり、今やっているゴーゴリの芝居では何をやっているか、旦那さんの方はきっと徹夜して小説かいてるでしょう。今夜見物する予定でしたが叔父様をお送りしたからやめになりました。
 この近所には千葉で三年ばかり暮すことになった山田さんの奥さん[自注20]もいるし、河野さくらさん[自注21]が留守中のひとり暮しをして居ります。
 ところでお読みになる本について、私ははっきりしたお手紙を見るまで自分の考えで入れるしかないのですが、文学に関する本では少し古典と現代の諸潮流の作品とを系統たてて読んで御覧になりませんか。あなたが三日にまだプランをもっていらっしゃらなかったのは私には自然に感じられたし決して意外ではありませんでした。私の文学的ウンチクを示すようにいい順で一つよませて上げたいと考えて居ります。文学・美術・音楽等についての本は大体並行して一冊ずつよめるようにいれてゆきましょう。その他の種類で、あなたが実際的知識を主張していらっしゃるのは当然ではあるが私は深く満足したし、自分の考えと同じ考えを知って嬉しゅうございました。哲学についても、私はきっと同じように、今の哲学の動きに興味をお持ちになっているであろうと思うのですがどうかしら。当っていますか? もし御同意ならやはりそのようなものを心がけましょう。それを手当りばったりでなく、様々の点で順をふんで入れます。だからその順にあなたは注意をなすって下さい。よまない本があってもかまわないから。読んでしまって返す本はそちらで郵送宅下げの手続きをして下さると、一等便利でしょうと思います。これは三日に云うのを忘れました。
 この手紙はいつ頃あなたのお手許に届くでしょうね。そして、あなたのお手紙はいつ頃私のところへ来るのでしょう。私はこうやってかいていて、六つばかりのとき母がランプの灯を大きくしてロンドンにいる父のところに手紙をかいていた時の若々しい情熱に傾いた姿をまざまざと思い出します。私の手紙はきっとアメリカへ行く位かかってあなたのところへ届くのでしょうね。
 私は体によく気をつけ、健康ブラシをつかっているし、よく眠るし、美味おいしがってたべるし、いい状態です。家のことをしてくれる者が落付いたらそれから小説をかきはじめます。私は胸にたまったものを一通り吐き出してしまわなければ小説はかけないので、この月はたくさんほかのものを『文芸』や『行動』や『文学評論』やらに書いたがこんどは小説です。私は来年にはうんと長い大きい小説にとりかかります。それのかける内容が私の体について来た感じです。その身について来たものの一つの例であるが、大きい文学に必要な豊富でリアリスティックな想像力というものは、現実をよくつかんで、しって、噛みくだいていなければ生じぬものですね。そして、そういう力なしに大きい作品は書けないのだが、私は自分が過去二三年の間、そのひろくて、熱のある想像力の土台の蓄積のために随分身を粉にしたし、そのおかげで今日自身が仮令たとい僅かなりともそういう文学上の力を再び我ものにしたことを実感しているのです。私はやっと生活の上で闊達かったつであるばかりでなく文学の上でも闊達ならんとしているらしいから一層慎重に勉強をすすめるつもりです。
 あなたに叔父様は目のことを注意なすった様子ですが、呉々も読みすぎぬよう願います。それから風呂へ入るとき、風呂桶のフチや洗桶やをよくよく気をつけ、きたならしいバチルスを目になど入れぬよう、本当に気をおつけになって下さい。私はあなたについては下らぬ心配を一つもせず安心しているのですが、そして、私はよく仕事をして丈夫で、私の周囲の人のよろこびと希望の源泉となって丸々していれればよいと信じているのだが。そういうことを考えると非常に心痛します。用心を忘れないで下さい。鼻はいかがかしら? 便通は? そう、こんなことも今に追々わかるでしょう。もう夜が明けてしまうかしら、ではおやすみなさい。よく眠るおまじないをどうぞ。

 第一信の附録二枚。
 これを書いているのは次の日のつまり土曜日の夕方です。今日は曇ってなかなかひえます。うちの近所に美味しい餅屋があるので、林町の父のために、さっきお餅を注文したところ。庭が五坪ばかりあって、椿の蕾がふくらんで、赤い山茶花さざんかが今咲いています。その一枝をとって来て、例によって机の上におき、それを眺めて眼をやすませながら、これからバルザックについての感想をかくところです。
 ゴーゴリ全集やバルザック全集からこの頃はモリエールの全集まで出るの。バルザック協会がゲーテ協会に対するものとして出来て、なかなか古典は出版されます。出版されるのであって、真に研究されるのでないところに、文学の窮乏があるのでしょう。ドストイエフスキーなどがよみ直されるのみならず、人間の神性とか獣性とかいう問題にからんで云々され、不安の問題が上程され、その深めるための文学的努力はされずに舟橋聖一氏は文学における行動性ということを主張しているし、なかなか壮観です。その行動性のモデルのようにゴンクール賞をとった『勝利者』という小説の翻訳が出ました。小松清氏というフランスにいたことのある人がホン訳したので、まだ二三頁をよんだにすぎませんがジャーナリスティックなものだし、又エキゾチシズムがつよい。フランスでエレンブルグが書いたものを思いおこさせました。私のバルザックについてかきたいところは、ある人々によって云われているようにバルザックが何でもかでも書きたいことを書いたのだがそれは歴史を正しく反映したから、我々もそうやろうということについての不用意の点です。バルザックが、今日いう意味ではリアリストでなかったのだし、彼のロマンチシズムがその時代の必然によって、リアリズムを既に内包していたこと、その二つの矛盾が作品のすべてに実に顕著にあらわれていること、従って、林氏亀井氏保田与重郎氏の云う日本ロマン派がそのうちに内包し得るものは何であるかということなどなのです。十月にトゥルゲーニエフの研究を三十枚ばかり書いて、面白くよまれました。しかしバルザックはどういう風に出来るか。月曜日に毛糸の足袋と下着類と戦争論その他を入れます。私はこの頃になって、もう一遍一寸メーテルリンクをみて、何か発見して見たいと思うことがあります。それは、これまでの作家が運命というものについて、実に多く書いているが、メーテルリンクは彼の神秘主義で、青い鳥でそれをのりこえることを語ったと思う。賢こさというような力で、賢者がよく出たでしょう? 彼の作品には。悲劇というものも、私は又考え直して見たく思っている。メーテルリンクとは違うが(云うに及ばないとニヤリとされそうですね)私は過去の文学に規定されている悲劇というものの理解について疑問が出て来た。或る生活の中に生じる波瀾かっとうは非常に苛烈であって、異常であるが、それに対する理解が驚くべき見とおしによって貫かれていて、当事者がそれを悲劇以上の把握で捉えて生きぬく場合、それは文学に描かれて悲劇の程度に止っているであろうか。リヤ王なんかは悲劇だし、オイデプスなども悲劇に違いないわね。だが文学は内容を新たにして今日に至り、現実を、現象的につかんでだけ書き得る所謂いわゆる悲劇は、高められている、否、高められる可能性に立っていると少なくとも私は自身の文学の前面にそのようなものを感じているのだけれど。
 これはこうかくと平凡のようだが、小説をかく心持の上ではなかなか平凡ではないのよ。
 バルザックが或時代の或タイプを描いたという評言を後生大事にかついでおまもりのように云っている人があるが、或タイプといってもそれは社会的活動の関係の中で立体的に描かれなければならないので、型として、内的外的活動を規定の枠内で行為させているのは一種の善玉悪玉式で、厖大なロマンチシズムではありますまいか。人道主義的ロマンチシズムをかかげて若いゴーリキイに影響したディケンスなど、こんどよんで御覧なさいまし。クリスマスカロルなど、スエ子がきのうよんで、何だかいやな気がしたと、ひどく気分的に表現していたが主人公がここでも、全くあり得ぬようにセンチメンタルに架空的にとらえられているのです。
 ねえ、私は用心しなければいけませんね。こうやってかいていればいくらだって書いて、随筆幾つか分の手紙をかいてしまいそうです。私たちが暮して間もなくあなたは、私がどんな手紙をかくかしらと云っていらしったことがあったが、いかが? 私の手紙は。私の手紙には私の声が聞こえますか? 私のころころした恰好が髣髴ほうふついたしますか。その他さまざまの時に見える私が見えますか? 三日に余り久しぶりであなたの声を聞いて、私は今だに耳に感じがついて居ます。ここでさえペンをもっていると手がつめたい。(附録終り)
 
[自注1](不許)――この第一信は「不許可」で顕治にわたされなかった。万一のために保存されていたコピイによる。
[自注2]叔父上――顕治の父の実弟、山口県熊毛郡光井村にすんでいた。幼時から顕治を非常に愛し、小学校へはこの叔父の家から通った。
[自注3]林町――本郷区駒込林町二一 百合子の実家。
[自注4]父――百合子の実父、中條精一郎。一八六八年―一九三六年。建築家。
[自注5]籍のこと――百合子入籍の件、顕治と百合子は一九三二年二月本郷駒込動坂町に新居をもった。一ヵ月あまりののち、プロレタリア文化団体に対する全面的弾圧がはじまって、四月七日、顕治は非合法生活に入り、百合子は検挙された。そういう事情のために百合子の入籍手続がおくれていた。
[自注6]壺井さん、栄さん――壺井栄。
[自注7]島田の父上――顕治の実父、宮本捨吉。一八七三年―一九三八年。山口県熊毛郡島田村居住。
[自注8]島田の母様――顕治の実母、美代。
[自注9]スエ子――百合子の妹。
[自注10]山田のおばあちゃん――顕治の下宿の女主人。
[自注11]達治さん――顕治の長弟。顕治に代って家事経営の中心になっていた。一九四五年八月六日広島の原爆当日、三度目の応召で入隊中行方不明となった。同年十二月死去の公報によって葬儀を営んだ。十月十日に網走刑務所から解放されて十二年ぶりで東京にかえった顕治と百合子が式に列した。
[自注12]国男夫婦――百合子の弟夫婦。
[自注13]林町の母――百合子の実母。葭江よしえ。一八七六年―一九三四年。
[自注14]淀橋――淀橋警察署。
[自注15]私の最近の評論感想集――『冬を越す蕾』。
[自注16]いね子――佐多稲子。
[自注17]松田さん――松田解子。
[自注18]原泉夫妻――中野重治と原泉子。
[自注19]トムさん――村山知義。
[自注20]山田さんの奥さん――山田清三郎の妻。
[自注21]河野さくらさん――鹿地亘の妻だった人。

 十二月二十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第三信 十二月二十四日。午後。(月曜日)
 今日は。いかがですか。お体の工合、本の工合、その他いかがですか。きょうは、曇天ではあるが気候は暖かで、私は毛糸のむくむくした下へ着るものは我知らずぬいでいるくらいです。今年はこれから一月一杯オーバーなしですごせる程の暖い正月だとあったけれども、どうかしら。そちらはこの暖かさがどの位おわかりになるのでしょうね。
 十八日には思っていたよりずっと早くお手紙がついたので大変うれしゅうございました。その晩例によっておそくまで仕事をしていて、十八日の朝おきて、下の長火鉢のよこへ降りて行ったら、いろんな手紙、古本屋の引札や温泉宿の広告や、そんなものの間に、さも何でもなさそうに挾んで置かれてあった。それをとりあげ、そのまま又二階へまい戻りました。よんで、枕の横において、しばらく眠って又読みました。
 私はひとり明るい日の光を夜具にうけながら天井を眺めて、笑った。あなたがやっぱり小さい字をお書きになったから。――しかも大変よくわかるように書けるから。
 ありがとう。林町の人たちには、おことづてを一人一人につたえました。皆よろしくと申しました。島田の父上には、こちらからわかもとをお送りいたしますから上るようにと手紙をさしあげました。光井の叔父様がおかえりになってからは、あちらの皆さんのお心持も大変健康になったから何よりです。お母上のお手紙は、この間はじめてどことなくのんびりした調子でかかれてあったので、よかったと思いました。お話のあった手続のこと、私の分だけはもうすみました。御安心下さい。
 初めてのお手紙で、あなたの体に注意していらっしゃること、その他、はっきりわかりました。もちろんそれらのことは、はじめから私にわかっていることであり、あなたが懸念なくいらっしゃる如く、私も全く懸念ないのですが、あなたから響ある言葉をきけば一層のことです。この間書いた手紙をよんでいらっしゃれば、私のかくもののこと、もうあらましのことは申上げたと思いますが、「小祝の一家」はいいところもあるが、今日読んでみると、全体のつかみかたが決して不正確ではないし、とり落してもいないが、まだもう一息つよくてよいところが感じられます。新鮮ではあるが、強烈さが足りないと自身に物足りないのです。部分的な力の入れかたではなく、内容にもっとぴったり迫ったところ、ね、膝づめのところ、それが不足している。おわかりになるでしょう? この感じは。「鏡餅」は去年の大晦日の或る女の感情を描いたもので、二十何枚か二晩にかいてしまった。そのような熱と、又そのような欠点をもっていたものです。それを書きあげて、『新潮』へ送ってほとんど間もなく、すっかり仕事が中断されたわけです。府中へは私もひどいママをひいたとき行きそうになって、おやめになったそうです。
 私が伺ってあげた読書のプランについてのお考えはいかがですか。少くとも文学についての順立てはどうかしら。お手紙にあった本の中その大部分は私も既に考え、或るものは買うために注文していたものであったので、自らうなずくところもありました。従って猶文学書などについて自分の立てた見とおしのそう的はずれでないことを感じた次第です。百鬼園はあなたにファブルより面白くないことは私の経験からもわかって居りました。しかし、私はあなたに面白くないものでも時には読んでいただきますから、どうぞあしからず。そして、あなたは面白かったものについてのみおかきになったのでは、何か不足しているとお思いになるでしょう? 二葉亭は古いノートを見たので入れました。又つづきを入れましょう。その他、ジイドのドストエフスキー研究とカラマゾフという風に組み合わせましょうね。一かたまりずつ印象はまとめられねばなりませんから。ダラダラと、とびとびでは、御不便でしょうと思います。しっかりかかってよむものと、おやつのようによむものとも組合わせているつもりです。それから近く、ドウデエを入れますが、その作品との連関でよまれるディケンスを入れるという風にね。テエヌ、ブランデスという順に入れましょう。バルザックもなるたけ初期から順に。私はバルザックがどちらかと云えばきらいであり、バルザックがフランスの全歴史を描いている、典型的な時代における典型的人物を描いたリアリストであるというような手紙をドイツからイギリスの或る女作家に書いた人の手紙が出たからと云って急に瑣末描写と受動性のお守りにつかおうとするようなのがいやで、腰をすえて、そのバルザックの矛盾の研究をかいているのですが、書いているうちに、やはりバルザックは巨大な、生々しい大作家であることを痛感して居ります。作家の仕事をする度胸の据え方という点で学ぶところが多くあります。テエヌはバルザックをサント・ブウヴなどとちがって社会的なひろい土台で肯定して居るところは、さすがであり、そのさすがのテエヌにしろ、今日の歴史の到達点から見ると、未だ現実の真のスプリングにふれていないところが又興味津々です。テエヌはやはり受身の考えかたですものね。バルザックの矛盾を闡明せんめいし得ぬ同時代的矛盾を自身のうちにもっている。ブランデスは品がいい天質のひとですね(彼の云いまわしを真似ると)、私はやはり同じ作家の研究について、そういう感じをうけました。そして、ところどころで思わずにやついた。ブランデスはあんなに鋭く背景となった十八世紀時代の動きを分析していながら『人間喜劇』の作者が、上品な詩的な情感をもっていたから、復古時代にテンメンとしたといっているのですもの(ブランデスの本はなかなかないので弱ります)。
 又今これをかきつづけます。今はもう夜の十二時近く。前の行まで書いて、中井から電車にのって、神田へ出かけました。さし入れの本を買うためです。本当は今朝ごく早くおきて、裁判所へ行き出来たらお目にかかるつもりだったのですが、ゆうべは、夜中になってから熱中しはじめて、いつしか夜があけ、くたびれて動けなかったので私は寝ていて、栄さんやいねちゃんが出かけ、その人々は中野の方へ用事で行き、かえりに栄さんがよって、とてもひどい順番で、年内は無駄だろうと知らせてくれました。明朝行こうとしたのをやめる代り、本は速達でお送りすることにして、それを揃えに行ったのです。
 三省堂で語学の本など買ったのですが、どうかしら。すこしそれでやって御覧になってもし工合がわるいようでしたら、どうぞすぐおっしゃって下さい。別なのをさがします。どこもかしこも歳暮売出しの飾りで賑やかです。色彩は、はでであるが、何か通行人の影は黒い、今夜はクリスマス・イーヴなのだけれども、学生の街である神田でさえ、そのような楽しげな雰囲気はなく、うちへかえって夕刊を見て、ああ本当にと思ったほどです。中井から家へ来るまでの、ほんの一二丁の町並も、もう松飾りをしたりして、福引をやっている。うちの瀬戸さん(国府津[自注22]にいたのがお嫁に行くまで来ているのです。あなたの御存じない人)は、そこでモチアミをあてました。
 神田では三省堂を出てから夜店の古本を見て十銭でエジソン伝など掘出し、あすこの不二家へよってコーヒーとお菓子をたべ、バスで高田の馬場までかえりました。おなかをすかして、とろろで御飯をたべ、それからお風呂に入って、二階へ上ったという順序です。林町の父が私のお風呂好きはいたく評価してくれて、それはそれはたっぷりいいのをくれました。フロはあるし、こせこせした心配はないし、その上、この土曜日から小学校は正月休みでしずかだし、仕事は面白いし、私もやはりいささかの懸念もない有様です。
 小学校について、この前の手紙には大してやかましさが苦にならぬとかきましたが、その後、あなたにアンポンと云われそうなことになったのです。やっぱりやかましいの。初めはなぜやかましくなかったかと云うと、それは運動場をコンクリート? か何かで修理するために子供らは皆教室につまっていたのです。運動場ができたら、まるで雀の巣が百千あるようです。しかし、そのワヤワヤワヤはまだいいので、こまるのは体操。ここの体操の先生はいやにリズミカルで、机に向っていると勢よく、「さーア手をあげて! ハッハッハッハッ」とそういう風なのです。「そら! ホイ、ハッ」そういうの。何だか少し野師のようでしょう? でもこの小学校のせいで、私は何年ぶりかで土曜日の午後、日曜日、そして休みのつづくのをしんからたのしんで仕事する味を味わって居ります。
 一昨日は、この十日に生れた太郎[自注23]が、産院から林町へかえるので夕方から出かけました。お祖父さんのうれしがりようは全くお目にかけたいほどです。国男もせがれの顔を一日に一度見ないと気がすまないと云って、そわそわしていますし、スエ子もうれしそうだし、私は皆がそうやってよろこんでいるのが又大変愉快です。私はこれまで父が気の毒であったのが、ほっとしたようです。父は深く母を愛していた。そのことは私の想像以上のことでした。だんだんそれが分って、しかもしんからそれのわかるのは様々の意味で私一人であり、けれども父のおもりをして国府津にくらすことは不可能ですし、大乗的に行動して家も別にしたのでしたが、太郎はよい折に生れました。この太郎という名、ヌーとしていて男の児らしくていいでしょう? 姓と一緒によぶと相当なものになりそうでしょう? これは家族会議(?)できめた名で、主として私の案です。女の児なら泰子というはずでした。この頃、仕事に興じて大体机に向って一日を暮しているのですが、この間いねちゃんがきて、もう日没近くであったが中井の先の下落合の方の野っぱらを散歩して、いい気持でした。その丘の雑木林の裾をめぐる長い道は東長崎の方へまでつづいているのだそうです。夕靄ゆうもやがこめている。その方をしばらく眺めました。その野原の端を道路に沿って小川が流れていた。その小川も東長崎の方へまでつづいているのでした。その夕方はいねちゃんも久しぶりで元気で軽々と歩いたし、よかった。女が文学の仕事をする。――芸術家その他として真に発展するためには様々の困難が家庭生活の中にもある。それが現在のような時にはのしかかってくる。気分的にそれにまけてはくちおしいからねと私はつよく云い、あのひともそれはもちろんそう思うのですから、今はもう自分から坐り直して元気になったのです。
 ことしの大晦日は、どの友達のところもほとんど皆夫婦そろっているから、私は私のいないことで誰も寂しがらせないから、何年ぶりかで父とお年越しをしようかと云っているところです。お正月七日がすぎたらお目にかかりにでかけます。この頃、もうお弁当はないでしょう。そのままでようございますか? 冬のうちだけ牛乳と卵だけは召上って下さい。それからそちらでリンゴと南京豆を買って、南京豆は少ない数をよくよくかんで食べて下さい。そうしてたべると大変体によいそうです。ぜひ忘れないように。
 文芸家協会の年鑑は、今年私の「文学における古いもの、新しいもの」という評論をのせました。三五年度の人々の漫画を一平が描き私をも描いている。人間としての本質を把えることができず、あいまいに描いているところはかえって面白く思われました。子供の劇団がイソップ物語をやっております。切符をもらった。観にゆくつもりです。ではおやすみなさい。今はもうあなたがお寝になってから六、七時間も経っている時間です。夜番の拍子木の音が響いている。

[自注22]国府津――百合子の実父たちの海岸の家。
[自注23]太郎――百合子の甥。

 十二月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第四信。
 十二月二十六日からはじまる。今夜は火曜日の夜で、今の家に移ってから火曜日と金曜日の午後を人に会う日にきめているので、三四人来て、かえったところです。林町の父にお歳暮に母のかたみの着物でどてらを縫って貰っていたのが出来上り。
 私がこれをかくのは、ゆうべも考えてね、一時に=一晩にかいてしまおうとすると、一晩まるでつぶし、而も何だかかきたいことを落すので、時々ぽつぽつと書きためたのを、こんどはお目にかけようかと考えたのです。さっき古本やの話に、この頃ショーロホフの小説などなかなか出るようになった由。スエ子は母がなくなってから糖尿病がひどくなって来て、この頃はアコウディオンを中止で、食餌養生をして居ります。相当意志をつよくやっているのは感心ですが、可哀そうに。私は彼女の音楽について大した幻想は抱いて居りません。
 これまでの手紙で忘れていたこと=(手紙拾遺集のようになるけれども)去年の九月から、母が生前書いたものを、主として日記ですが、すっかり栄さんに読めるように書き写して貰い、一周忌までに本にして記念にする手順で居ります。実によく書いて居る。父と結婚――私もまだ生れなかった頃の日記には二人で散歩した事や毎日毎日じゃがいもを食べていたことなど、ちゃんと鵞堂流の筆蹟で書いてあって、私はその頃の生活状態、母のもっていた教養いろいろなものをおもしろく感じます。後年に至ると、もっと歴史的に興味があります。今更そのようなことがあったのかと一九三二年以後、思わずうなるようなこともある。それはいつも滑稽さと悲痛さとの混ったものです。
 そういう仕事のために栄さんは私より私の家族の心持に通暁してしまったのも亦面白いでしょう。栄さんには伝記者としての資格がついてしまったと笑うことがあります。私の机の上には、クロームの腕時計[自注24]に小さい金の留金のついたのが、イタリー風の彫刻をした時計掛にかかってのっている。この時計は不正確なような正確なような愛嬌のある奴です。この頃は大体正確でね。日に幾度か私に挨拶をされています。夏になったらこれで又三十分もおくれる気なのかしら。――
 この家、何という可笑おかしな家だろう! 二階の廊下を暗い中で歩いていたら台所の灯が足の下に透いて一条に見える。何てひどい建てかた! この話を林町の父にしたら、地震につぶれぬよう羽目にかすがいというか斜木を打ってやろうと申しました。そう云ったけれど、それなり忘れているのです。相変らずいそがしいから。この頃は国府津へ準急もとまらないから不便になりました。丹那が開通したからです。
 ○鼠に顔の上を飛ばれた話。ゴトゴトいう。おや? 耳をたてていると机のある方からやって来てカサコソ枕元をかけている。シーッ! 力をこめておどかしたら、鼠はあんまりあわてて、おそらく鼻面を向けていた方へいきなり飛んだらそこには私の顔があり、こんどは鼠より私がびっくりしてしまった。鼠は夜目が見えるだろうのに!
 ○ああそれから、天気の曇った日には、私がよろこんで仕事をしている恰好を御想像下さい。この家はそんなに日が当るのです。天気がいいと私の眼がつかれる位。いねちゃんのところもそうです。先の家の近所へ越して。曇。烈風、障子の鳴る音にまじりたこのうなりの響がする。二階のゆれるような感じ。大変寒く、手が赤くて、きたない。

[自注24]クロームの腕時計――一九三二年の春、あのとき宮本は自分の時計が粗末で不正確でこまると言って、わたしの時計と交換した。手くびにつける紐だけはそのままで。わたしの時計であって宮本に使われていた時計は、宮本の検挙されたとき無くなった

底本:「宮本百合子全集 第十九巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年2月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2004年7月30日作成
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