飲酒家の酔い方には、大体二つの型がある。一つは、外部から酔っていくもので、先ず膝がくずれ、衣服の襟元がだらしなくなり、手付があやしくなり、眼付が乱れ、舌がもつれてくる、がそのくせ、意識はわりに混濁せず、どこかしっかりした理性的心棒が根強く残っている。謂わば、運動神経のみが重にアルコールに侵されるらしい。そしても一つは、内部から酔っていくもので、先ず意識の混濁と分裂が初まり、連想作用が突飛になり、想像が奔放になり、筋途立った思考が出来なくなる、がそのかわりに、姿態はなかなか崩れず、視線もしっかりしているし、言葉もはっきりしているし、儀礼的な訓練か習慣かを――実はそんなものは少しもない場合にも――想像させる。謂わば、意識中枢が先ずアルコールに侵されるらしい。顔が赤くなるのは前者に多く、顔が蒼くなるのは後者に多い。そして人は普通、単なる酒席でなく何か用件を交えた場合、前者に対しては用心の必要を感じないことが多く、後者に対しては用心の必要を感ずることが多いけれど、それは認識の不足で、実は逆に、前者に対して、必要なる場合にはより多く用心しなければならない。
 中江桂一郎と村尾庄司とは、或る小料理屋の二階で、女中も遠ざけて、二人きりで酒を飲んでいたが、中江はどちらかといえば内部から酔っていく方で、村尾は外部から酔っていく方だった。ところで、多摩結城のついの羽織着物に高貴織の下着などを着こんだ洒落た中江の方が、古びた薩摩大島などをまとっている村尾よりは、自然態度もしっかりしているのは当然らしいが、小肥りの皮膚の艶々しい中江の顔がわりに血の気が薄く、ふだん蒼白い痩せた村尾の顔が赤くほてっているのは、一寸対照的に奇異に見える。そして中江はぐいぐいと杯をあけるが、村尾は杯にやる手先を躊躇しがちである。その代り、村尾は殆んど一人で饒舌っている。饒舌るというより独白の調子だ。いや独白というよりも、心中の考えをそのまま声に現わしているものらしい。そういう饒舌り方も世にはある。相手が耳を貸そうと貸すまいと、また何と感じようと、一切お構いなしに、気の置けない親しい者が前にいるだけで満足して、やたらに饒舌り続ける。それは一種の精神的嘔吐だ。平素は至って無口だが、アルコールのせいで頭脳の平衡が破れると、何かの機縁で内生活の鬱積を吐き出すようになる。この場合、胃袋に停滞してるものを吐き出すために、喉に指先をつき込むような、そんな無理は少しも行なわれない。嘔吐の機縁となるものは、ただ自然の情勢である。こちらの何もかもを受け容れてくれる、遠慮のない、親しみのある顔が、静に微笑んでいてくれれば、それでよい。日向ぼっこをしてるうちにふとむかむかとして、げぶりとやるようなものだ。だから、ふだん無口な村尾がやたらに饒舌ってるとしても、別に不思議ではないが、その饒舌の機縁となった中江の顔が、やがていろんな変化を示してきたのは、注目に価する。初め彼の顔は、穏かにさしてる日脚のようなもので、村尾の精神的嘔吐物を静に受け容れていたが、中途から、次第に能動的な尖端を示すようになった。深く眉根を寄せる、耳を傾けながら空間を凝視する、煙草の吸口を指先で揉みつぶす、唾液をのみこんで唇をかむ、或は、ぼんやり天井を見上る、手先で後頭部をもんでみる、なま欠伸をのみころす、眼をつぶって何か遠いものを考える、など、ひどく注意の濃淡と興味の深浅とを示して、そしてその金縁の近眼鏡は常に光っている。然しそれは勿論、他意あってのことではなかった。内部から酔っていくたちの者には用心の必要は少いと、前に述べておいたが、そればかりでなく、中江と村尾との間には、互に用心しなければならないような相対的用件はつゆほどもなかったし、彼等の様子が明かに示しているように、二人は多年の知友で、偶然落合って「一杯やる」ことになったまでである。そして友人同士の「一杯やる」ということは、その時の調子で、無限の延長をもつ。
 この場合のその延長を辿るにほ、先ず、村尾の饒舌を跡づける必要がある。ところが、酔った人間の饒舌などは、そのまま文字に写せるものではない。歯でかみ砕かれて胃袋で半ば消化された嘔吐物を描写することは、至難の業であるが、まして、精神的嘔吐物に至っては猶更だ。以下暫く、筆者の多少の手加減と省略と補遺とを加えて、村尾の饒舌を少しまとめてみよう――

 四ヶ月に亘る病院生活のなかで、一番多く考えたのは、自由ということだった。病院生活は、牢獄生活と変りはない。殊に二度も死にかけた僕のような重症患者には、その感じがなお強い。法律の監視よりも医学の監視は、科学的なだけに一層厳重だ。病院で監視人としての待遇を受けていると、肉体的罪人という感銘を受ける。法律の対象は精神的罪人だが、医学の対象は肉体的罪人だ。無辜な肉体の所有者が精神的罪人として取扱われることと、無辜な精神の所有者が肉体的罪人として取扱われることと、どちらがより多く苦痛だと思うか。前者の方がより多く苦痛だろうと言う者は、人間の慾望を解しない抽象論者だ。絶対安静とグラムで測った食料とを強要されて、ベッドに寝ている時に、僕はミイラのことを想った。博物館や医科大学でミイラを見たことがあるが、よくああ冷静な顔付をしていられたものだ。永遠に自由を奪われた彼等には、最も深刻な苦痛の表情があって然るべきだ。どいつも、本当にミイラらしい顔付のものはない。が僕だって、本当に病人らしい苦脳の表情はしていなかったかも知れない。それは、回復後の自由を空想してごまかしてたからだ。この自由の空想のごまかしがなかったら、例えばミイラは、どういう気持だろう。入院したまま死んでゆく者は、一体どうなんだ。僕の病院でも、幾人も死んだ。獄死だ。不幸な人々だ。僕は幸に退院出来た。この点では医学に感謝する。が要するに、刑期が満ちたのだ。刑期が満ちた囚人は、空想していた自由を現実に味う。がその現実の自由は、何と異様なものであることか。
 自由というものは、一つのまとまったものではなかった。それは無数のものに分裂する。行動の自由、呼吸の自由、思考の自由、空想の自由、その他、身体の内外ともに四方八方へ動くことの自由だ。街路を歩いていて、自分の四通八達の自由に呆れ返って、ふと空を仰ぐと、ちっぽけな見すぼらしい空に電線が幾筋も引張られている。早朝の薄暗い頃、林の中に行くと、そんな風に蜘蛛の糸が引張られていることがある。がこの街路の蜘蛛の糸は、何と煤けた不気味なことだろう。古ぼけて、そのくせ始終何か呟いている。声には出さないが、その線の内部で、何かぶつぶつ云ってるじゃないか。それを、屋根は首垂れ窓は眼を見開いて、壁は白痴のように没表情な面で、ぼんやり眺めている。感覚遅鈍だ。その中を、地べたにくっついて、電車や自動車の車輪が、めまぐるしく廻転している。永遠の廻転。円に初め終りがないというのは真理だ。がこの真理を利用してる者よりも、利用していない者の方が忙しそうなのは不思議だ。忙しそうな顔、忙しそうな足、疲れたのや元気なのが、尽きることなく往来している。皆何かしら目的を持っている。それらの目的の方向が、あらゆる方面に交錯して、網の目を拵えている。蜘蛛の巣よりも、もっと細かな複雑な網の目だ。その中で僕は深い孤独を感ずる。自由だということは、その複雑な蜘蛛の巣のどの線にも該当しないということだ。そして、蜘蛛のいない蜘蛛の巣を見出すくらい淋しいことはない。僕は孤独で淋しい。空中に無気味な電線の糸を張り渡した蜘蛛は、どこにいるのか。歩道に目的方向の細かな巣を張りつめた蜘蛛は、どこにいるのか。どこにも見出せない。ただ、蜘蛛の巣に露の玉が光るように、きらきら光るものがある。宝石や金銀細工物や、金貨を直接連想させる紙幣などだ。紙幣はちらと姿を見せるだけだが、他のものは、時計屋の店先や宝石商の窓口に、薄い硝子越しに並んでいる。すぐ手の届くところにある。一寸手を差伸べさえすればよいのだ。「惜しいなあ!」この気持は君にも分るだろう。欲しいのではなくて、惜しいのだ。今俺のものにしなかったら、誰かのものになるだろう。誰かが買い取るか盗みとるかするだろう。人は多くの場合、必要以上に買ったり盗んだりする。本当に欲しいよりも、より多く惜しいのだ。慾だ。危いぞ、と自由な僕は考えたものだ。
 そういう慾は、自由に買物の出来る君にはよく分るまい。が君のところには、菓子折などを貰うことが屡々あるだろう。それを一月に一度か二月に一度ほどだと仮定し、そして平素ひどく粗食しているものと仮定してみ給え。僕のところは実際それなんだ。そこで、例えば洋菓子を一箱貰ったとする。蓋を開くと、舌の先にとろりとしそうな甘ったるいもので飾り立てたやつが、幾種類か並んでいる。一種顆でないのが不都合だ。この点で、羊羮だとかカステーラだとかモナカなどの菓子折は、道徳的に出来ている。一切ひときれつまめば、それ以上の慾心を人に起させない。が幾種類かの洋菓子は、それぞれに味覚をそそる。どの種類のものも一つずつ食べてみたくなる。而も形が大きい。そして胃には有害だ。必要以上に有害なものを食べる。これが慾でなくて何だ。洋菓子は宝石と類似の商品だ。宝石にまで手が出ない者は、一箱の洋菓子の各種類をつまんでみたくなる。洋菓子を食い飽きてるほどの者は、各種の宝石を一通り具えてみたくなる。慾にも階級がある。
 洋菓子をもろくに食えない身分でありながら、僕は、一つでいいから宝石の指輪が欲しかった。それもつまらないものではいやだ。すばらしい真珠か、小さくとも質のよいダイヤかだ。その指輪のケースをひそかに懐にしのばしていって、何気なく彼女の前に差出すのだ。彼女はあけてみてびっくりする。うわずって片方少し斜視の眼が、キリストを見上げるマリアのような眼付になる。白粉やけのした蒼白い頬に曙の色がさす。そして静に指輪を僕の方に押し戻して、こんなことをして頂いてはわるいと云う。あなたのお家の事情もよく分っている、こんな無駄なことをなさるより、お母さんを何か喜ばしてあげなすった方がよい、あたしはもうお志だけで充分だ、とそんなことをしみじみと云う。それを僕は無理に受取らせる。そしてしまいに、二人とも口を噤んで涙ぐむ……。
 甘ったるいのは当然だ。僕はある女に――芸妓に――惚れこんでいた、或は恋をしていた。芸妓に惚れるなどは、ブールジョアのすることらしいが、こればかりは理屈ではいかない。独身者の生理的必要を満すには、いくらも安価な方法がある。然し方法を超越したところに、恋愛の存在理由がある。僕は色慾と食慾とを同一だと考えている。生理的必要からくる色慾以外に恋愛が存在するのは、生理的必要からくる食慾以外に調味法が存在すると同様だ。美意識や味覚は生存の必要条件ではない。それらは凡て慾望の上に生長する。病院で僕は、生命を維持するのに、幾グラムかの流動食で充分だったし、体力を回復するのに、僅かな粥と一汁一菜とで足りた。がその必要なだけの食物は、非常な苦痛だった。寝ながら、退院後のあらゆる美食を空想して、表にまで拵えたものだ。ただその空想を実現することは、経済状態が許さなかった。が慾望は消えなかった。鶏卵と牛肉鍋くらいが家庭での最上等の御馳走だった僕は、市内の種々の料理屋のことを、粗末な餉台に向いながら空想したものだ。そんな時僕の顔は、きっと陰鬱な影に蔽われたに違いない。僕の回復を喜んでくれてる母の顔も、やがて陰鬱になって、視線が重く下に垂れ、口も重くのろくなる。顔面の若さは主として眼付と言葉とにあるものだが、その二つが力を失ってくると、五十歳を越してる母はひどく老けてしまう。苦労を続けてる母が、気の毒になってくる。お母さん、こんど春日かすがの料理でも食べに行きましょうか、とそんなことを僕は云う。母は眼をあげて、僕の顔を偸むように見る。そんなことをするより何か他の滋養分でも……とその言葉をそっくり裏づける淋しい眼付だ。それがふびんなので、僕はある時女中に旨をふくめて、大黒屋の野菜の煮物や、鳥常の雛鳥の上肉や、広島牡蠣の殼焼など、母の好きなものを調えさして食膳を賑わしてやった。母はびっくりしたようだったが、僕の冗談につりこまれて快活になり、僕と一緒に実にうまそうに食べた。いつもより多く食べた。年老いた母がうまそうに沢山食べるのを見ると、涙っぽい擽ったさが胸にしみる。が老人のそうした食慾も、必要以上の味覚の慾だ。若い僕が、市内の贅沢な料理屋のことを空想したとて、或は芸者に恋したとて、敢て不思議ではあるまい。ただ悲しい哉、二つの慾を同時に満すことが出来なかったので、僕は恋愛の方を主とした。
 公平なところ、美人ではない。だが、味覚が個人によって異るように、美意識も個人によって異る。殊に恋愛の場合には、美意識は或る一局部に限られて、別な或る熱病みたいなものが大勢を支配する。試みに、恋人といわれる多くの女性を公平に観察してみ給え。あんな女を……と云えるのが大多数だ。鼻が曲っていたり、唇が反り返っていたり、眼が右と左とちんばだったり、耳朶が少し欠けていたり、背が低すぎたり高すぎたり、掌の幅が広かったり、方々に欠点だらけの者が多い。ところが、恋してる男の方では、それでよいのだ。それで満足なのだ。どこか一つのところに惚れこんで、その一点から全体を覗いてみるのだ。葦のずいから天井をのぞくようなものだ。それになお、恋愛は一種の電気作用だというのも、真理かも知れない。それはただ相牽く力だ。体質や気質による牽引力だ。然しともすると、一方だけが牽かれて、一方は何にも感じないことがある。僕の場合も、そういった感がないでもない。そんなら一体、どういう点から彼女を覗いたのか、それは一寸云いにくい。或は左の眼のうわずった斜視めいた眼付かも知れない。或は頬の生気のない蒼白い皮膚かも知れない。或はしまりのわるい口の舌ったるい言葉かも知れない。或は腰部が大きく胸部が腺病質に細そりしている胴体かも知れない。或は紅をさした細長い爪かも知れない。人は妙なところに惚れこむものだ。或は、そういった特殊な点ではなくて、花柳界の頽廃した雰囲気のなかで、毒をでもあおるように酒を飲む彼女の酔態かも知れない。なぜなら、真面目な時の彼女には僕は少しも心惹かれなかった。病気前から知り合いなので、どこから聞いたか彼女は、二三度病院に見舞って来たことがある。束髪に大島や或はじみなお召などを着て、小さな果物の籠や草花の鉢をさげてきた。いかがとか、いけないわねとか、お大事にとか、そんな通り一遍の挨拶より外に、何にも云うことがなかった。白粉のうすい顔の皮膚に妙に水気が乏しい。硝子窓の外の植込に雀が鳴いてるのを、珍らしそうに眺めている。ベッドからその姿を見ると、実際よりも背の低い小ちゃな冷い感じだ。そして十分かそこいらで彼女が帰っていくと、僕は何かしらほっとした気持になる。がその後でまた、しきりに彼女のことを考えてる自分自身を見出したものだ。僕の病気平癒を祈って酒を断ち、所在なげにお座敷をつとめてる彼女の姿までが、幻のように浮んでくる。
 退院後、僕は出来るだけ早く彼女に逢いに行った。彼女は一寸びっくりしたらしく、それからしみじみと僕の顔を眺めた。
「でも、よくなおったものね。二度も危かったそうじゃありませんか。」
 それが、喜びや嬉しさではなく、ただ不思議だという調子だ。退院してから、そんな挨拶に接したのは初めてだ。母は涙を流して喜んでくれた。友人や同僚たちは祝ってくれた。が全快したのを不思議がって僕の顔を眺めるのは、彼女一人きりだ。而もそれが如何にも純真で朗かだ。こいつめ、とぶん殴ってやりたいほど、僕は胸がすっきりした。そしてその時から、ほんとに強く心を囚えられてしまった。床の間の軸につがいの鴛鴦が泳いでいるのは俗だが、その下の方に、梅擬うめもどきかなにかの赤い実のなった小枝の根〆に、水仙の花が薄黄色に咲いている。その花が僕にはとても可愛く思えた。その方をじっと見てると、彼女はただ退屈ざましに云う。「まだお酒はいけないでしょう。」水仙の花を相手なら、酒は飲まない方がいいが、彼女となら飲んでやれという気になる。「なに構うものか。いけなかったら、君が僕の分も飲んじまえばいい。」とそんなことから、二人とも酔うようになる。だが、僕たちの関係は淡いものだった。彼女はなんのかのといって、なかなかとこをつけさせなかった。其後もほんの数えるほどしかない。絶対に浮気しない身分でもない彼女のそうした態度が、なお僕の心を惹く所以でもあった。
 一人の女に恋する……とまではいかなくとも、一人の女を愛する、ということは、よいことだ。僕のようなみじめな勤め人の生活では、それが一条の光と張りとを齎す。ただ、僕の場合は金がかかった。現金がなくてすむという便宜があるだけに、そしてそれが実は食慾よりも愛慾の方を僕に択ばした理由の一つではあるが、そのために却って無駄なことをしたり度々彼女に逢いに行ったりして、後で困ることになる。いくら待合だからといっても、時には多少の金を入れなければ義理がわるい。病中の費用なんかは、母が大事な貯蓄でどうにかごまかしてくれたらしいが、其他のことまで母におんぶするわけにはいかない。僕は友人から金を借りた。口実を設けて、社長から賞与の前借をした。僕一身に関する他の方面の支払を停止した。が、それでも足りない。彼女に贈るべき指輪が買えるどころか、また実際そんなものがどれほどするか知りもしなかったが、懐中はいつも淋しく、喜久本きくもとへはだいぶ払いがたまっていた。どうにかしなければならない、と考えるのだが、そのどうにかという必要が、いつも、一日一日と先へ送られてゆく。今日の日が暮れると、その勢で、必要が一日先に押し出される。毎日毎日を通じて、必要という棒をむりやりに押し進めてるようなものだ。而もその棒は益々太く重くなるばかりだ。それと睥めっこをして、煙草をふかしながら、もしここに千円もあったらと空想する。僕の身分ではそれは大した金額だが、数字の上では一寸したものだ。会社の帳簿などの上では、マル一つで数万数十万が左右される。一桁の数にマルをつけると、百以下の差だし、二桁の数にマルをつけると、千以下の差だが、五桁の数にマルをつけると、十万乃至百万の差になる。同じマルにも、場合によってこんな価値の差があるのは不思議だ。マルを一つ取りこんでやれ。マルはゼロではないか。僕に零を一つくれと云ったら、人はどんな顔をするだろう。
「君の様子は少し変だ。まだ病気がすっかりなおってないんじゃないのか。」
 そんなことを社の同僚が云う。或は少し変かも知れない。僕は一人の女を愛しているのだ。それに、大病の後転地保養もしないで出勤しているのだ。それにまた……これは愉快な思附だった。室の窓から、多くのビルディングの間をぬけて向うに、大きな気球広告が風になびいていた。気球の下には、不細工な文字が並んで馬鹿げた媚態を作っている。それらの文字の代りに、一人でいいから、天女のようなマネキンガールをくっつけたら……。そしてビラを撒かせるのだ。綺麗な五色のビラだ。銀杏の葉のようなビラだ。晩秋、空が蒼く冴え返って、冷かな寒風が街路に踊り狂ったことがある。大きな銀杏の並樹が聳えて、黄色い葉に蔽われている。その葉が突風にもぎとられて、無数に乱舞する。地面も空中も一面に、真黄色な渦巻だ。そして四五時間のうちに、銀杏の並樹は蒼空の下で半ば裸になってしまった。あんな風にするんだ。羽衣をつけたマネキンガールをあらゆる人が驚異の眼で見上げる。とその乙女の手から、銀杏の葉の形をした五色のビラが、無数に降ってくる。それを拾ってみない者は、馬鹿か偽君子だ。すばらしい広告的効果がある。街路樹が黄色い葉を撒き散らしてよいとすれば、天女が五色のビラを撒き散らしたとしても、警視庁で文句のつけようはあるまい。人体では気球に重すぎるとするなら、軽いロボットを考案すればよい。このロボットの考案者は、素敵な金が儲かる。そんなことを僕は考えていたのだ。それを邪魔した声の方を振向くと、張子のような顔が真正面にこちらを向いている。色素が余って血液が足りないような類の色だ。丹念に鋏で刈りこまれたらしい口髭が、鼻の下に逆立っている。一体髭にしろ髪にしろ、先端が細くしなやかでなければ毛としての優雅さは持ち得ないものだが、大抵の口髭は先端も根本も同じ太さで、ぶつりと断ち切られている。針金を植えたも同じだ。それを一種の装飾だと自惚れてるからおかしい。それと対照的に、眉根に二つの皺が縦に刻まれている。そして目には、底力のない鋭利な光が浮動している。奥行がなくて角膜にだけ浮いてるその鋭利な光の動き工合に応じて、眉根の皺が深くなったり浅くなったりする。これは生活の表徴とも云うべきものだ。社債の売買応募、金融の仲介、そんなことを主としてるこの商事会社では、微妙な而も単なる数字的な駈引折衝が社員の重な仕事だった。誰かが――例えば僕が――病気で長く休んだとて、社の業務には大した支障を来さない。いつも隙だ。がいつも神経的に忙しい。こんな生活を長くやってると、神経だけが尖鋭になり、情感が遅鈍になり、血液の循環が不平衡になる。眉根の縦皺と角膜に浮動してる光とがその徴候だし僕は同僚のそれを見てると、何だか胸が重くなってきた。そこで、スチームの暖気でむうっとしてる密閉した屋内に、爽かな冷い外気を吹入れるような調子で、マネキンガール――或はロボット――のことを話してやったものだ。が彼は、それから周囲の彼等は、何の感与も起さないらしい。彼等は僕のことを、非実用的なことばかり考えてる夢想家だと見做しているが、その夢想家の馬鹿げた空想の一つとして聞き流してしまった。然しそれは、彼等が気球広告をよく眺めていない証拠になるばかりだ。誰にでもいつかは気球広告をじっと眺める時がくる。彼等にも後でその時が来たに違いない。僕のことを気球ロボット先生と綽名するようになった。
 気球ロボット先生というのは、僕としてそう嫌な綽名ではない。病後の自由と淋しさ。大都会のなかの孤独。気球もきっと同じ気持を感じてるに違いない。そして彼が常に寒い風に曝されてるように、僕の懐中も窮乏の寒さに曝されている。そのなかで、彼女に対する甘ったるい空想に耽るのだ。そんな時の金ほどつまらないものはない。僕は母をごまかして得たうちの百円を、喜久本の帳場に瓦礫のように惜しげもなく投げ出せたものだ。母は幾つかの指輪を持っていた。そのうちに、年老いてからは殆んど使わないダイヤが一つあった。それを暫く――次の賞与まで――貸してくれと僕は頼んだ。実は友人に古い借金があって、それをこんど返さねばならない義理になった、なんかと。そして、指輪を質屋に持って行くようなことをしなくても、どうにか工面してあげようという母を、無理に口説き落してしまった。母はうすうす僕の身持のことを気付いでいるらしかったが、それについては何とも云わない。命拾いをした息子、それだけが胸一杯になっているのだろう。僕の顔をやさしく見守って云うのだ。
「ほんとにねえ、お前さんに不自由はさせたくないんだけど……。」
 その言葉だけで僕はもう沢山だ。不自由……と云えばやはり不自由には違いない。だが母だって、食べさせれば大黒屋の煮物をうまそうに食べた。涙を見せるのは恥だ。そのダイヤの指輪が質屋で百五十円になったのは、拾い物をしたようなものだった。それでも、僕の懐中は淋しい。懐手をして、百五十円の紙幣を押えて、街頭の一隅に佇んでいると、往き来の人々の顔が、どれもみな金銭を目指しているように見える。蜘蛛の巣のように四方八方に交錯している彼等の目的の方向は、みな金銭を終端に持ってるように思われる。金銭がなかったら、人々はこうも多忙ではあるまい。彼等に適当な衣食住と性欲機関とを与えれば、誰も金銭などを見向くものはあるまい。少なくとも僕は見向かない。あの時でさえ、「不自由な」僕でさえ、百円の金を喜久本の帳場へ平気で投げ出した。少しも惜しい気はしなかった。単に幾枚かの紙片の位置を変えただけだ。惜しいのは、具体的な物だ。指輪だ、時計だ、衣類だ、酒だ、御馳走だ、彼女の肉体だ。
 彼女はいつも朗かな調子でやってくる。他に出ている時には、貰いをかけるとすぐにくる。別に嬉しそうな顔でもない。それかって取澄してるのでもない。そして饒舌で酒飲だ。が、その饒舌は、めちゃくちゃに下らない事柄の上を飛び廻るだけで、そして時々晴れ晴れと笑うだけで、結局のところ沈黙に等しい。唄もうたえず洒落の才能もない僕は、杯を弄びながら、いきおい黙りこみがちだ。わきから見たら、何が面白いのかと訝られるに違いない。然し傍目にそう見えるのが、惚れた男の常態だ。彼女の、斜視めいてうわずった左の眼付が、僕の眼を擽ぐる。舌が長すぎるような甘ったるい言葉附が、僕の耳を擽ぐる。白粉の下の蒼白い頬の皮膚が、僕の感傷をそそる。――あたしもう何もかも嫌んなっちゃった、といろんな苦労を訴えて、僕の肩にすがって涙ぐむ、そうした彼女を空想していた僕は、物足りなくて淋しい。彼女の手の細長い紅い爪をいじっていると、その指の根本のプラチナのなかに、小さなダイヤが涙の玉のように閃めく。母のダイヤは朝露のように光っていた。それをも持出してしまった。そして彼女には小さな真珠も買ってやれないでいる。淋しい。ばかに淋しい。彼女は僕に引寄せられるままに任せる。着物の裾が夕暮の影みたいな淡い紫を畳の上に流して、島田の鬢がうすく透いてみえる。僕の眼は小さなダイヤに刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]されて、いつのまにか涙ぐんでいる。ぬるく冷えた銚子の酒は涙の源泉となる。飲めば飲むほど涙が出る。今晩、これから二人でどこかへ行ってしまおう。そして明日一日遊ぶんだ。そして……明後日の早朝には、浅間の噴火口へ飛びこんでしまうんだ。お互に、つまらないじゃないか。出かけよう。今晩、これから出かけよう。約束だ……。小指を差出すと、彼女も小指を差出して元気よく打振る。が、晴れやかに笑っている。あたしいい気持に酔っちゃったのよ。もっと飲まして頂戴。そして僕の腕から、細そりした腺病質の上体をぬけ出して、肉附のいい重い尻をずらして、呼鈴を鳴らして、ねえさん、熱いのを下さいなと、涼しい顔をしている。かと思うと、卓によりかかって、揶揄するように僕の顔を眺めながら、口移しに煙草の煙を吸わしてくれる。何一つ取留めたこともないのだ。ただ一つあるとすれば、こんど三越のホールで常盤津の会があって、自分も一寸出ることになっているから、是非来てくれと、切符を一枚僕にくれた。
 その会に行くべきか否かが、僕にとっては重大な問題だった。虫が知らしたとでもいうのだろう。当の日曜日の午過ぎまで躊躇したあとで、とうとう、一張羅のお召に草履という僕には不似合な姿で、一寸顔を出してみることにした。母がラジオの清元を楽しんでるのが、僕の決心の動機の一つだった。そういう逡巡のために、彼女……というよりここでは千代次と呼んだ方がいいが、その唄を聞きもらしてしまった。芸者衆ばかりの踊と素唄とを交えた常盤津の会で、千代次は始めの方の『松島』の唄の一人に出たのだった。それに間に合わなかったのを、僕は却って幸だと思った。後で批評を聞かれた時に困るのだ。常盤津のことなんか僕には更に分らない。全部の番組のうちで、元来能に興味を持ってる僕は、『釣り女』の踊に少しばかり感興を覚えただけだ。然しそんなことは初めから予期していた。予想に反したのは、観客全体の黒っぽさだ。会の性質上、そこにはぱっと明るい色彩が展開されてることと思っていた。派手な色彩と香料との温室だ。ところが実際は、室の中は冷かだし、香料は淡く、色はくすんでいる。痩せた浅黒い顔がいくらもあるし、背広服の男が多数だし、女は大抵じみな着物に、黒の紋付なんかをひっかけている。そしてそんなところで見る芸者は、へんに栄養不良だ。僕は満員の場内の後ろの壁際につっ立っていたが、ともすると外の廊下に足が向いた。そこの寂しい長椅子にぽつねんと腰を下して、煙草でも吹かしている方が、気楽だ。やがて、番組の合間に、がやがやと人が出てきて賑かになる。暫くすると、それがみな扉に吸いこまれていってひっそりとなる。平磯の波の届く巖の上にいるようなものだ。ところが、そのがやがやとした波の時に、僕ははっとして飛び上った。
 僕の勤めている商事会社の社長が、にこにこした顔で前に立っているのだ。五十歳ほどの、働き盛りの男だ。黒の背広に縞のズボンをはいて、チョッキの胸に細い金鎖を一筋張り渡している。
「ほう、君も来ていたのか。これは愉快だ。はっはっはっ……。」
 眼を細くして、本当に愉快そうな笑い方だ。僕は一寸口が利けなかった。がそれよりもなお吃驚したことは、裾模様に丸帯をしめた見馴れない姿の千代次が、彼――依田賢造――の横合から、今日は、とだしぬけに挨拶した。その眼が複雑にちらちら光った。依田の眼はこんどは円くなって、僕達を見比べた。なんだ二人とも知ってるのか、これは更に愉快だ。そしてはっはっは……という笑いだ。千代次の顔はもう人形のように澄し返って、横を向いて煙草をふかしている。僕は額に汗をかいた。依田は一切無頓着だった。平素は注意深い彼だが、その日はよほどうっかりしてたに違いない、或は心驕ってたに違いない。愉快だ、と繰返すんだ。こういう保養があれば、君の病後も安心だ。誰と来てるんだ。連れがなければ、是非今晩つき合ってくれ。約束したんだ、いいか。そしてその約束を僕に押しつけてしまった。僕はよほどそのまま帰ってしまおうかと思った。がお義理に、依田のあとから場内にはいりかけると、千代次は僕の袖を引張って、依田を先に通し人波を距ててから、よく御存じなんですかと聞く。僕は卒直に答えてやった。僕の会社の社長で、毎日顔を見てるんだと。その僕の顔付と調子が、余りに真剣だか或は余りに頓馬だかだったろう、彼女は眼でびっくりしてみせて口元で笑った。そして、よく来て下すったわね、有難いわ、と云った。それが皮肉でも何でもないんだ。僕はぽかんとして、彼女の後について場内にはいった。彼女は僕の側を離れなかった。立ち通してしまった。踊が一段すむと、もうおしまいだ。立去るしおを失ってぐずついてるうちに、依田につかまって、自動車に乗ることになった。そうなると、多少の好奇心も湧くものだ。
 五時前なのに、冬の日はもう沈みかけていた。依田と僕と千代次と、待合の女将らしい六十年配の女との、四人だ。自動車のなかは寒くて薄ぼんやりしている。依田と女将だけに饒舌らしておいて、僕は執拗に黙っていた。着いたのは、同じ土地ではあるが、喜久本よりは大きな家の立派な室だ。室内はもう暖めてあった。それでも、酒だ、食事だ、ふく子か初枝か若いのを一人、洋服と褞袍の着換え、などと依田は忙しかった。そして席に落付いたかと思うと、また立ち上って洋服のポケットを探ってきた。これ、今日の出来栄えのお祝いだ。その、差出された小さな紙包を、千代次が開けてみると、赤い革の楊子入だ。いつも楊子を持ってたためしがないじゃないか、不用意な奴だな。そして依田ははっはっは……と笑っている。
 そうなると、僕もやけに腰を落付けてしまった。やって来たふく子は僕には初めてのおとなしい妓だったし、依田が得意に与太をとばしてるので、千代次もふく子もその方にもって行かれて、僕は黙って酒をのむことが出来た。スピードをはやめて飲んだ。その僕の飲みっぷりを見やって、依田はふと首を傾げる。何を考えてるのか、不気味な存在だ。短く刈りこんだ硬い頭髪、裸になったら所々に黒子や痣がありそうな肥った胴体、贅肉のあり余った頬、皮膚の厚ぼったい手先、穏かな自己満足の眼付……一見したところ好人物らしいが、その重量のなかに非常な貪慾が潜んでいる。もうだいぶ酔ってきて、血液の多量を示す赤味を帯びている。血液の多量は貪慾の証拠だ。その方から眼を外らして、僕は煙草と酒とに頼ろうとした。自分の存在が彼の存在に気圧されて仕方がない。僕としてはダイヤか真珠しか買ってやれない気がしている千代次に、彼は戯れにせよ楊子入なんか買ってやって平然と笑っている。酒の時には千代次、冗談の時には千代ぼう、甘い話には千代ちゃんと、言葉の使い分けをする。彼女に対して君としか云ったことのない僕には、それらの呼び方が妬ましく聞える。が彼女には平気らしい。ヨタさんという綽名で依田に受け応えしている。ヨタさんと云われる度に、彼は得意げに微笑する。その微笑が僕の心を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]。卓の上には寄せ鍋が煮立っているが、床の間の青銅の鉢には、霧藻のかかった松の枝が寒そうにくねっている。その霧藻や白い苔を見つめていると、山奥の冷たい空気が胸に伝わる。佗びしいのだ。それが自分のことだか千代次のことだか分らない。そして何度か立上ろうとしたが、腰が動かない。酔ってもいないようだ。どうした、気球ロボット先生、と依田が声をかける。彼は気球ロボットの由来を話しているのだ。今日の『釣り女』は面白かった、気球ロボット先生の天女釣りと一ついこうじゃないか、なんかと、千代次とふく子の手を執って立上りながら、踊りの真似ごとをやりだそうとする。三味線が足りない、も一人呼んでくれ……。彼も酔っているらしい。僕も、踊るぞと立上った拍子に、ぞっと寒気さむけがして、そのまま階段を降りて行った。帰るつもりではなかったらしいが、足がひとりでに玄関に向いてしまった。女中にひきとめられるのを振払った。どうしたことか、玄関の出口で、ひょっこり千代次の姿が立現われた。僕は歯をくいしばっていたようだ。彼女は僕の耳に囁いた。
「いろいろ世話になってるものだから……。ご免なさい。あたし好きじゃないのよ。それに、ふく子さんの……。」
 その謎のような言葉だけが耳にのこった。それをかみしめるうちに、どう歩いたか喜久本の前につっ立ってる自分を見出した。それに気がついて我に返った。そして煮え返るような胸を抱いて、しっかり足をふみしめて、歩き去った。依田を殴り倒してる幻想が浮んでくる……。もう千代次が惜しいのではない。黄金の権力が呪わしいのだ。慾望は構わない。他人の慾望を蹂躙する貪慾が敵なんだ。僕を個人主義者だと笑ってはいけない。

 中江は多少興奮していた。村尾は口を噤んでから、妙に萎れていた。
「よし、出かけよう。」
 中江は元気よく立上ると、村尾もそれにつれて機械的に立上った。そして二人は、狭い裏通りを並んで歩いていった。どちらも可なり酔っていた。薄い絹の襟巻をして眼鏡を光らしている中江に比ぶれば、帽子の線を引下げてマントの襟に※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)を埋めてる村尾の方が、痩せた弱々しい身体付のせいもあって老けて見える。そして中江のしっかりした足取が、ふらついてる村尾の足取りを導いてるようだ。
 暫くすると、彼等は喜久本の一室に落付いていた。
「千代次さん、じきに参ります。」
 銚子を運んできた銀杏返の大柄の女中が、そう云いながら杯をすすめた。村尾が眼を挙げたあとを、中江が引取った。
「おやおや……。まだ誰とも云わない先にか。大した色客だな。」
「だってねえ……。それから、誰にしましょう、お馴染は?」
「うん一人でいいんだ。」
 村尾は元気なく黙っていた。考えこんでいた。頭の中に夢を一杯つめこんでるような顔付だ。中江が一人で女中相手に冗談口を利いた。二本目の銚子の時に、急いだ足音が廊下に聞えた。千代次だ。障子をあけて、村尾に視線を落すと、安心したようにつかつかとはいってきて、こんばんわと、中江の方に丁寧に挨拶をした。
「随分ねえ、村尾さん。あれっきり……。また身体でもお悪かったの。」
 村尾はぎごちなく頬の肉をひきつらしてる。笑ってるのだ。そうした二人の様子を、中江は不思議そうに眺めた。
「なあに、病気なんかするものか。尻が重かっただけさ。それを、どうだい、僕がむりやりに引張ってきたんだ。」
「あらそう。有難いわね。」
「まだ早い。実は、そのくせ、来たくてたまらなかったんだからね。まあ一ついこう。」
 千代次はなみなみとうけて、一息に干した。それを中江に返してから、ひょいと考えこんだ。斜視めいた眼が宙に据って、頬の血色の乏しさと相まって、一寸人の気を惹く。頽廃の一歩前の美しさだ。鬢の毛が目につかないほどに震えている。そのくせ、細そりした上半身は静まり返って、どこで息をしてるのか疑われる。じっと村尾の様子に目をつけてその眼を中江の方にずらしてきた。
「どうしたの……何だか変だわね。」
「そりゃあ、少しはね……。」云いさして中江は、じろりと村尾の方を挑戦的に見やった。「ヨタさんとは違うさ。」
 それが、湖面に石を投げたようなもので、村尾の頬に微笑が描かれた。彼は何か他のことを考えてたらしい。それから引戻されて、微笑と共に千代次の顔をぼんやり眺めた。千代次は晴れやかに笑ってその視線を受けとめた。
「あら、つまんないことを饒舌ったのね。」
「つまんなかないよ。」と中江はいやにしつこかった。「ヨタさんと大いに違うってことさ。」
「どこがちがって?」
「全く違う。」
「何がちがうのよ。」
「男が違うんだ。」
「まあ変なことを仰言るわね。……お杯頂戴。」
 千代次は立て続けにひっかけた。そして杯を中江の方にさしつけた。
「さあ、どこがちがうのよ。」
「どこもここも、世の中がみんな間違ってるんだ。」
 中江はもう何のことか分らなくなってたらしい。単に両手をついて、とろんとした眼で千代次を見ていた。その態度が、千代次の気に障ったらしかった。頬が一層蒼ざめてきた。しきりに酒を飲んだ。
「そんなことを仰言るなら、あたしにだって云い分はあるわよ。ひとを馬鹿にしてるわ。ヨタさんが何なの。お客だから、大事にしているだけよ。どんな人だって、お客なら、大事にするのが商売よ。」
「浮気もね。」
「そうでしょうとも、どこかの、女給さんたちなら……。あたしは、そんな好き嫌いなんか、ちっとも持ってやしないんだから。男なんて、みんな同じじゃないの、浮気なんか、ばかばかしくって……。」
「なんだって……情人いろとか恋人こいとかのことを云ってるんじゃないよ。」
「そんなもの、猶更じゃないの。あたし、好き嫌いなんかまるでないんだから、どうして、浮気なんかするのよ。」
「それじゃあ……みずてんじゃないか。」
「分んないのね。浮気なんか、ばかばかしいって云ってるじゃないの。あたしこれでも、娘さんと同じ気持よ。え、まだ分んないの。じれったい人ね。」
 千代次は本当にじれったそうに、眉根を寄せた。中江も、分らなくて眉根を寄せた。
「分る。僕は分る。」
 村尾がふいに叫んだ。そしてひどく沈痛な面持で、宙を見つめている。
「そう。有難いわ。あたし……中風でねているお父さんがあるし、抱えの身だし、つらいこともあってよ。」
 彼女はほろりと涙をこぼした。そして、ご免なさい、と云って、笑ってしまったのだ。朗かな笑いだ。
 中江は黙りこんでしまった。村尾はまた何か考えこんだ。座が白けて、変にうすら寒かった。
「何か弾きましょうよ。歌って頂戴。」
 誰も返事をしなかったが、千代次は三味線を取りに立って行った。その後ろ姿をぼんやり見送って、村尾は云った。
「本当の労働者だ。僕はまいっちゃった。」
「なあに……。」と云いかけて中江はやめた。そして両手に頬をもたせて下を向いたまま、云いなおした。「そして永遠の処女か。君の所謂慾なんか、少しも持ち合していない。あんなのが、本当のマルクス的だ。どんな強権主義のなかにも生きられる。惚れちゃいかんよ。」
 村尾は淋しい苦笑を洩した。千代次の元気のいい足音が廊下に響く……。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
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