人の生活には、一の方向が必要である。
 生活の方向とは、云い換えれば、生活する者の頭の方向、眼の方向、従ってまた、仕事の方向などを、一緒にした総称である。更に云い換えれば、自分の一生を通じて何を為すかという、その何をの謂である。
 一生を捧げて何を為そうかという、その何をが少しも定まっていない生活が世にはある。昨日は甲のことを為し、今日は乙のことを為し、明日は丙のことを為そうとする。一生の間転々として、一定の仕事に従事することが出来ない。宛も風のまにまに漂う水草のようなものである。そして一生の終りになって振返ると、結局何にもしなかったという、落寞とした気持になる。そういう人が世にはある。
 私の看る所によれば、それはいけない。
 本当の生活には、よい生活には、一生を通じて何を為すかということ、一生を何に捧げるかということ、それがはっきりしていなければいけない。それがはっきりとしていて初めて、偉大な仕事も為され、力強い生涯も生れてき、あらゆる困難に打勝つことも出来る。
 方向の定まっていない者は歩くことが出来ない。方向の定まっていない船は進むことが出来ない。
 海洋の上に在る一隻の船を想像してみる。何処をさして行くかということが一定していない時には、その船は決して何処へも行けないことになる。時折の偶然な気紛れのままに、あちらこちらに行くことはあっても、それは本当に進むのではなくて、単に彷徨し漂うのみである。而も一朝暴風雨にでも逢えば、沈没するまではそれに捲き込まれて、難を遁れ得ることは極めて少い。
 人の生活に於ても、一定の方向がなければいけない。
 そしてこの方向は、固より単に方向である以上、可なり範囲の広い漠然としたもので宜しい。例えて云えば、実業とか政治とか文芸とか農業とか、そういうくらいのもので宜しい。甲の会社と乙の会社とを問わないし、甲の畑と乙の山林とを問わない。実際その時々の生活状態によって、そう細かく決定されるものではない。然し大まかな一の方向は、必ず必要である。
 その方向によって人の生活は、一時的の多少の曲折はあろうとも、全体としては、堂々と真直に進展してゆくことが出来る。
 方向は必然に一の目的を所有する。そしてこの目的なるものは、人の生活に於ては、手近なものから最終のものに至るまで、無数に存在し得る。云わばその目的は、一定の方向の――無限の距離まで延びている一定の方向の、所々に散在する標石の如きものである。今日の目的があり、明日の目的がある。そして最終のものは、所謂理想である。理想は如何に高くても遠くても構わない。到達出来ないものであっても構わない。ただその理想に至るまでの、無限の道程を連結すべき標石が、所々に散在しておればよい。
 斯くて、動かすべからざる一定の方向があり、その無限の距離の終端に理想の高塔が聳え、それに至るまでの間処々に、大小幾多の標石が立っている、そういう生活こそ、本当にしっかりした力強い輝しい生活である。そういうものを持たない生活は、盲者の生活であり、虫けらの生活である。
 右のことさえしっかりしておれば、人は如何なる場合にもまごつくことがなく、常に堂々と進んでゆくことが出来る。

 生活の方向は、自然に定まるものではなくて、生活せんとする者が――当の人が、それを定めなければならない。そして、如何にして如何なる方向を定めるかが、極めて困難な問題となる。
 この社会にあっては、人は種々の伝統を荷い、種々の境遇に拘束されて、決して絶対に自由なものではない。自由なのは内的生活だけで――思想感情の動きだけで、外的生活は――行動は、種々雑多なものに縛られていて、決して自由ではあり得ない。
 自分の生活に一定の方向を選択せんとする時、人は各種のものを考慮する必要があり、また考慮しなければならない。方向だけを選んでも、その方向を辿り得なければ何にもならない。自己の才能や性格、周囲の事情、其他あらゆるものを熟慮して、長い時日を要して、そして次第に方向は定まってくる。
 ただ私が茲に云いたいのは、自分の生活の方向を決定するに当って、出来る限り自分の意志を尊重しなければいけないということである。
 自分の意志に依らない方向を、もしくは自分の意志に反した方向を、漠然と又は余儀なく辿る生活には、力と光とが決して生じない。そういう生活には責任感が存しない。時々の些少な責任感はあっても、自分の一生に自分が責任を持つというような、生活の礎となるべき責任感は存しない。そういう大なる責任感のない所には、本当の努力は生じない。本当の努力のない所には、力や光は生じない。
 生活の方向を決定するのに、自分の意志が加わっておればおるほど、その度合に正比例して、生活は本当の意味で自分のものとなり、力強い輝かしいものとなる。
 余儀なく駆けさせられる馬車馬で、吾々はありたくない。自分の意志によって山野を駆け廻る奔馬で、吾々はありたい。
 余儀なくさせられる生活は惨めなものである。自分で欲してする生活は、崇高なものである。余儀なくということを出来る限り少くし、欲するからということを出来る限り多くした生活、それが最もよい生活である。なぜなら、それは最も多く自分の生活だからである。
 本当の責任や努力や力や光などは凡て、自分のものだという意識から生れてくる。自分が欲して選んだのだという意識から生れてくる。俺の知ったことか! という無関心な絶望の言葉は、強いられ余儀なくされた意識からしか生じない。
 自分の生活に向って、俺の知ったことか! という言葉を投げる者は、既にもう救われざる破滅に陥っているのである。本当に生きる者にとっては、自分の生活はどこまでも自分のものである。ひっくり返して云えば、自分のものだという生活をする者こそ、本当に生きる者である。
 本当に生きるには、生活を本当に自分のものとするには、出発点に於て、云い換えれば生活の方向をきめる時に、自分の意志を以てしなければいけない。
 生活の決定は、自分の意志が多く加わっておればおるほど、それに正比例して、その生活は自分のものとなり、その生を営むものは本当に生きることとなる。

 生活の方向を自分の意志で決定して、而も誤りなきを得るのは、人間として完成した立派な人のみである。大抵の者は危険な誤りをなし易い。
 妥当な批判と架空的な幻との間は、殆ど区劃を許されないほどに近い。妥当な批判をなさんとしてるうちに、人は知らず識らず、架空的な幻に囚われることが多い。自分の才能や性格や境遇などを考察して、自分の生活の方向を定めんとする時に、いつしか架空的な幻を描いて、誤った方向を取る者が、殊に青年に於ては稀でない。
 要は、生活の方向の決定に、なるべく自分の意志を多く加味することにあるので、独断を以て進むことではないけれど、自分の意志をなるべく多く加味するという、その多くが往々にして危険の種となる。
 その危険を除去するには、勿論その人の人格なり知慧なりに俟たなければならない。然し私は茲にただ一つのことだけを云っておきたい。
 それは、自分の生を愛するという心である。
 如何に惨めな境遇に在り、如何に労苦のうちに悩む者も、誰が自分の生を愛しない者があろうか。外見如何に悲惨な生であろうとも、その生はその当の者にとっては極めて貴い。虫けらの生もその虫けらにとっては極めて貴い。
 然るに、この自分の生が自分にとっては貴重であるという心持――貴重だという事実ではなくてそういう心境、それを吾々は往々にして失いがちである。どうせ死ぬまでの生命だから何をしても構うものか、という投げやりの気分や、生きてるうちに出来るだけ何でもしてみたい、という脹れ上った気分や、どうせ終りは死だから齷齪するだけ馬鹿げてる、という萎縮した気分や、其他種々の気分のために、生が貴重だという心境を、吾々は往々にして乱される。
 然しながら、心を静かにして観ずる時には、生きるということが、如何に喜ばしく輝かしく貴く、また不可思議な驚異であることか! そしてそういう気持からこそ、のびのびとした力強い気魄は生れてくる。
 この気魄を失わない限り、人は常に自由な晴れやかな真摯な意志の所有者である。
 自分の生を軽視することは、あらゆる不徳の基である。と共にまた、あらゆる萎微沈滞の基である。
 自分の生を愛する気持から来る、自由な真摯な意志は、人に不撓な勇気を与えると共に、無謀笨粗な猪勇を排し去る。そういう意志を以て進む者は、常に輝かしい心と健かな希望とを失わない。そして剛毅な冒険をなすことはあっても、捨鉢な暴挙に己を投げ出すことはない。
 そういう意志にこそ、生活の方向を定むる場合に、人は自分に固執して誤りないものである。その時人は、周囲の事情から然らしむるからではなくて、自分の生が貴いが故に、不可能な方向を選びはしない。最善可能な方向を見出して、あくまでその方へ勇往邁進してゆく。

 自分の生を愛する心を以て、自分の意志で生活の方向を定め、その一筋の途を見つめて進んでゆく時には、たとえ一時的の手段を講じ一時的の迂回をなすことを、外部の事情から余儀なくされることは屡々あろうとも、人は常に健全で力強く輝かしいであろう。
 此の健全な力強い輝かしさこそ、人を本当に生かす者であり、又一面に於ては、人をして死を恐れさせないものである。
 本当に生きてる人だけが、本当に死を恐れない。人間の心の不可思議さよ!
 最も活力の盛んな青々とした木の葉は、最も地上に散り落ち難い。最も活力多く生きてる人は、最も死に縁遠い。然しながら、最も死に縁遠いものこそ、最も死を恐れない。
 死に臨んで死にたくない者は、本当に生きたいという意識を持たない者であり、もしくは誤った生き方をしていた者である。今迄自分の最善を尽してきたという自信のある者は、其処でぷつりと自分の生涯が断ち切れることを知っても、理想とか抱負とかいう目標まではまだいくらも近づいてはいなくても、凡てを落付いた気持で受け容れて、生きたという晴々しい心だけで満足して、狼狽もしなければ未練も起さない。
 喚き叫んで死を否む者こそ惨めである。泰然と死に臨む者こそ讃むべき哉である。
 穏かな気持で死に臨み得るのは、長い年月を此世で過して、もはや生きるだけの活力を失ってる、高齢の老人のみだと思うのは、大なる間違である。前途有為な壮年の人が、中途で死に見舞われるのは悲惨だと思うのも、大なる間違である。死に呑まれてゆく当人の心は、老年とか若年とかによって異るものではない。本当に生きてきた人の心は常に泰然として輝かしく、本当に生きてこなかった人の心は常に騒然として暗い。
 人は何時如何なることによって、死に見舞われないとも限らない。その期に臨んで周章狼狽するのは憐れで惨めである。
 本当によく生き得る人こそ本当によく死に得る。本当によく生きてる人こそ本当によく死の準備が――死に対する心の準備が出来ている。これを逆に云えば、本当に死の準備が出来てる人こそ本当によく生き得る。そしてこのことは、正も逆も両方とも真実であり、両方同時に真実であり、一を欠けば他は成立しない。
 斯く云う時、吾々はただに生を征服した許りでなく、既に死をも征服したのである。生と死とを自分のものにしたのである。
 実際、自分の生も自分の死も、共に自分のものではないか。それを自分の掌中に握り得ないのは、握り得ない人が悪いのである。罪は生や死にあるのではなくて、人にある。何物にも動じない力強い輝かしい心を以て、生をも死をも受け容れ得る人こそ、本当に何かを仕出来し得る。そういう所に生と死との意義があり、そういう所に生きることの喜びがある。
 生きることの喜びを、吾々は自分のものとしたい。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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