月評をして、あらゆる情実より脱せしめよ。
 情実は、真実を蔽い隠す最も危険なる霧である。この霧を通して眺むる時、物の輪廓はぼやけ、物の色彩は輝きを失う。そして其処には怪しい畸形な幻がつっ立ってくる。
 情実に囚われた批評が文壇にも如何に多いかは、私が茲に喋々するにも及ぶまい。勿論吾々は、全く面識のない人の作品に接する時と、親しい友人の作品に接する時とは、その間の気分に多少の差異がある。然しその気分に評価の眼を乱されまいと努むるのは、批評家の最も公正な態度であろう。友愛の情と批判の知とは別物である。後者が前者の機嫌を取る時には、もはや其処には阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]しか存しない。後者が厳正であればあるほど、前者は益々純真な光りを放ってくる。そして作者その人に対する理解は、作品に対する理解を益々深からしむることにのみ益立つであろう。
 情実批評の例として、対人関係から来る阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]的批評や反感的批評、評家が創作家でもある場合に於ける自己標準の退嬰的批評や他日を予想する下心的批評、それらの卑屈なものを私は茲に持ち出すまい。私が一例として持出したいのは、創作当時に於ける作者の状態を勘定に入れた批評である。多忙中に無理に書いた作品、病中に強いて書いた作品、原稿料のために余儀なく書いた作品、そういう作品を批評する場合に、作者の多忙や病気や貧窮や其他を勘定に入れて、誤れる安価な同情を押売するのは、却って作者を毒し文壇を害するものである。
 一度作品を公に発表する以上、その作品が如何に※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)急の間に不満足に生み出されたものであろうとも、それが一個独立した作品として無条件に蒙るべき正当な批判を、そのまま受け容れるだけの覚悟は作者の方に在る筈である。創作当時の不利な情状をいつまでも作品にくっつけて、その情状の酌量を批評家に要求するほどのずるさは、作者の方にない筈である。情状酌量は、ただ作者自身の胸の中にしまっておくがよい、そして公正な批判を甘受するがよい。未来に対する信念や力や自省や努力やは、そういう所から生じてくる。峻厳な批判こそ真に人を救うものである。
 評家の側より之を観れば、情状酌量の批評を事とする時には、恐らく一人としてその煩に堪え得る者はあるまい。その月に発表せられた作品全部に対して、もしくは批判せんとする作品全部に対して、その創作当時の各作者の事情を知悉することは恐らく不可能であろう。随って、甲には情状を酌量して乙には情状を酌量しないという偏頗な結果を来す。偏頗は文壇を害するものである。寧ろ一切の情実を去って、直接作品のみに対する公正な批判を下すべきである。――但し、私は茲で月評のことを云うのである。

 月評をして、字義通りに月評たらしめよ。
 私は月評と他の批評とを明確に区別したい。作品を評価するに、それが創作せられた当時の事情をも酌量し、また作者の性格天分にまで探り入ること、換言すれば、作品と作者とその周囲とを眼界に取り入れた批評、そういう批評の存在を私は是認する。否、そういう批評こそ真の批評であると信じている。最も必要な批評であると信じている。既に名を成した作家を正当な途に進ましむる助けとなるものは、未だ名を成さない作家を世に紹介するものは、天才をして益々光り輝かしめ愚才をして死滅せしむるものは、そういう批評であると信じている。根本に於ては人とその芸術とを切り離し得ないものであると信ずる私は、右のような批評こそ真に望ましいものであると思っている。
 然しながら、月評はそういう批評とならないのが至当であろう。月評家は己の眼界を、単に作品のみに限らなければいけない。その作者の素質なり傾向なりは、之を言外の領域に放逐するがよい。勿論、各作品には、如何に投げやりに書かれた作品にも、作者の生きた血と肉とが含まれている。其処から作者の本質に探り入ることも、優れた評家には出来得るであろう。然しそういう努力は月評には不要であると私は云いたい。何処よりか突然降来った作品、作者より切離された作品、その作品の独立した芸術的価値、それだけで月評の対象には充分である。芸術はその作者に即したものではあるが、また具象的独立性をも有するものである。その独立した作品そのものに対する批判のみで充分である。作者の素質なり傾向なりを一々論議する時には、月評はやがて自身の死滅を来さなければならない。なぜなら、作者の素質傾向は短い時間の間に変化するものではないから。――然し、各作家が一年に一篇位の創作をしか発表しないか、或は一人の評家が一二年に一回位の月評をしかしないかするならば、事情は自ら異ってくる。けれどもそれは、現在の文壇に求められないことである。
 一作品だけに即した批評を以て、自分の全体を評価したものと思惟するほど、作者の方でも愚ではない。現代の作家は、自分の満足した作品のみを発表してゆくほど余裕ある者ばかりではない。また作者の方に余裕があっても、それを許すほどの余裕ある文壇でもない。作者の欠点のみを暴露した作品も時には余儀なく発表しなければならないこともある。そういう一作品に対する悪評を、自分の全芸術に対する悪評だと思惟するほど、作者の方では愚昧ではなく、また自信に乏しくもない。多くの作家にとっては、一作品が月評家に認めらるるや否やは、自分の全芸術が認めらるるや否やの謂ではない。
 私は月評のない短篇文壇が如何に淋しいかを想像出来る、そして月評の存在を肯定する。然し一月の評価は一月にして足れりではないか。

 月評をして、現在にのみ立脚せしめよ。
 月評家は、過去と未来とを眼界に取入れてはいけない、ただ現在をのみ目標としなければいけない。云い換えれば、各作家については、その過去の作品を念頭にし或は未来の期待を念頭にしてはいけない。文壇全体については、主義傾向の変易に亘ってはいけない。即ち何処までも現在の状態の記述批判でなければならない。其処に月評の真の使命が存する。
 月評家の陥る最も大なる誤謬は、各作品の間に或るハンディキャップを付して評価することである。既に名を成した作家の作品と、未だ名を成さない作家の作品とを、同一標準で律しないことである。この誤謬は現在にのみ立脚しないことから来る、過去を酌量することから来る。作品と作者とを一つにして見る他の種類の批評の分野、それを侵さんとすることから来る。
 所謂大家と称せられる作家の作品にとっては、そういう名称の下に余りに苛酷に取扱われることは、それだけの損害でなければならない。所謂新進作家と称せられる作家の作品にとっては、そういう名称の下に余りに寛大に取扱われることは、それだけの侮辱でなければならない。右と反対の取扱方は、その作品にとっては、阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]であり或は虐待でなければならない。そしてそれらは何れも当の作者には不快となる。
 自分の産み出した作品が、或は損害や阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]を受くることは、或は侮辱や虐待を受くることは、作者の快しとする所ではあるまい。大家を更に鞭撻し激励せんとする勇気と新進作家を引立てんとする同情とは、之を他の種類の批評に求むるがよい。文壇は実力の競争場である。而も勝負を争う処ではない。其処にハンディキャップを持ち出すのは一種の冒涜である。
 現在の作品を皆同一の標準で律すること、それが月評の務めでなければならない。勿論各作品が有する主張傾向色彩味雰囲気などはそれぞれ異るべきを考えれば、茲に云う標準ということは或る水準を指すものであって、点や線やではなく平面を指すことは断るまでもあるまい。斯くて聳ゆべきものは聳えしめ、埋もるべきものは埋もれしめ、成長したるものは成長したるものとし、小さき芽は小さき芽とし、各作品の如実な状態を、過去未来に亘る各作家の芸術ではなしに、各作品が形造る現在の文壇の形状を、そのままに伝えるのが、月評の使命でなければならない。なぜなら、月評はあらゆる情実を脱すべきであるから、字義通りに月評たるべきであるから、現在にのみ立脚すべきであるから、そして一月の評価は一月にして足れりであるから。但し、――私は茲に純粋の月評のことを云うのである。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月8日作成
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