家常茶飯 附・現代思想

     第一場

広き画室。大窓おおまどの下に銅版の為事しごとをするたくあり。その上に為事半ばの銅版と色々の道具とを置きあり。左手に画架。その上に光線を遮るために使う枠を逆さにして載せあり。しつ真中まんなかに今一つの大いなる画架あり。そのわきに台あり。その上に色々の形をなしたる筆立ふでたてに絵筆を立てあり。筆立のうちには銅器にて腹のふくらみたるもまじれり。絵具入えのぐいれになりおる小さき箪笥たんす。その上には色々の雑具を載せあり。その内に小さき鏡、コニャック一びん、小さきコップ数個、紙巻莨かみまきたばこを入れたる箱、菓子を入れたる朱色の日本漆器などあり。そのそばに甚だ深く造りたる凭掛よりかかり椅子いすあり。凭りかかるところ堅牢けんろうに造りありて、両肱りょうひじを持たする処を広くなしあり。この椅子に向き合せて、木部を朱色の漆にて塗りたるとうの椅子あり。奥の壁は全く窓にて占領せられおる。左手の壁に押付けて黒き箪笥を据えあり。その上に髑髏どくろに柔かき帽子をかむせたるを載せあり。また小さき素焼の人形、鉢、かんむりを置きあり。その壁には鉛筆画、チョオク画、油絵とうのスケッチを多く掛けあり。枠に入れたると入れざるとまじれり。前手まえてに小さき円形まるがたの鉄の煖炉だんろあり。その上になべ類を二つ三つ載せあり。黒き箪笥のそばに、廊下よりるようになりおる入口あり。右手の壁の前には、窓に近き処に寝椅子あり。これに絨緞じゅうたんを掛く。その上にはまた金糸きんしぬいある派手なるきれひろげあり。この上の壁は中程を棚にて横に為切しきりあり。そこまで緑色の帛を張りあり。その上に数個の額を掛く。小さき写真の上を生花せいかにて飾りたるあり。棚の上には小さき、の長き和蘭陀オランダパイプをななめに一列に置きあり。その外小さき彫刻品、人形、浮彫のしなとうあり。寝椅子のすえの処に一枚戸の戸口あり。これより寝間ねまる。そのそばに、前へ寄せて、人の昇りて立つようにしたる台あり、その半ばを屏風びょうぶにて隠しあり。台の上には天鵞絨びろうどに金糸の繍ある立派なる帛を投げ掛けあり。ずっと前に甚だ大いなるたくあり。これは為事机に用いるものにて、紙、文反古ふみほご、書籍、その色々の小さなる道具を載せあり。その脇に書棚ありて、多くはあっさりしたる色の仮綴かりとじの本を並べあり。○この画室は町外まちはずれにあり。時刻はひる少し過ぎたるころなり。窓の外には鼠色ねずみいろたいらなる屋根、高き春の空、しずかに揺ぐ針葉樹の頂を臨む。○画家ゲオルク・ミルネル。丈余り高からず。二十四歳ばかり。ブロンドなり。髪は柔かく、小さなる八字ひげを生やしいる。黒のフロックコオトに黒のネクタイ。服は着たるばかりなりと覚しく、手にてしわすようにで、ほこりを払うようにたたきつつ、寝間の戸を開けて登場。く服をいじりて窓の処までしばらく外を見て、急に向き返り、部屋の内を、何か探すように、歩きまわる。さて絵具入の箪笥の上の鏡を見出みいだし、それに向きてネクタイを直さんとし、鏡に五味のかかりいるを見て、じれったげに体を動かし、ハンケチを見出し鏡をき、そのハンケチを椅子の上に投ぐ。さて鏡を手に取り、ネクタイを直す。
画家。これでい。(安心したるらしき様子にて二三歩窓の方にき、懐中時計を見る。)なんだ。まだ三時だ。大分だいぶ時間があるな。(絵具入の箪笥の処に立戻る。この箪笥は高机たかづくえの半分位の高さになりおる。その上にある紙巻莨の箱を手に取り、小言のように。)五味だらけだ。何を取って見ても五味だらけだ。(紙巻を一本取る。○戸を叩く音す。んとも思わぬ様子にて。)お這入はいんなさい。(マッチを探す。ようようマッチの箱を見出し、マッチを一本取りてる。また戸を叩く音す。うるさがる様子にて。)お這入んなさい。(その内マッチの火消ゆ。燃えさしをゆかの上に投げ、また一本摩り、莨を吸付けながら、どうでもいいというようなる風にて戸の方を見る。○モデルむすめ。質素なる黒の上着に麦藁帽子むぎわらぼうしこしらえにて、遠慮らしくしずかきたる。画家はマッチを振りて消す。)モデルか。らない、らない。また来ておくれ。(モデルの方に背中を向け、紙巻をむ。)
モデル。先生。わたしですよ。
画家。(急に向返むきかえる。)何んだマッシャかい。見違えてしまった。黒なんぞ着てるんだから。どうしたんだい。
モデル。ただ、どんな御様子かと思って。
画家。そうか。大分長く顔を見せなかったなあ。近頃ちかごろどうだい。
モデル。ええ。どうやらこうやらというような工合ぐあいですよ。この頃はわたし共に御用はおありなさらないの。
画家。うむ。この頃はおやすみだ。どうだ。少し掛けないか。
モデル。でもお出掛でしょう。
画家。なぜ。
モデル。(画家の衣服を指さす。)そんなお支度でいらっしゃるじゃありませんか。
画家。これかい。そりゃあ出掛けるには出掛けるのだが、まだ早い。まあ腰でも掛けないか。近頃はいそがしいかい。
モデル。(進みて藁椅子に腰を掛く。画家は今一つの低き椅子の背に腰を半分掛く。)いいえ。どなたも何んにもなさらないようですわ。
画家。(微笑ほほえむ。)それ見ろ。おれだって同じ事だ。
モデル。(やはり微笑む。)それで毎日毎日何をしていらっしゃるの。
画家。フロックコオトに御奉公をしているのだ。こういっては分るまい。人の処へ訪問に出掛けたり、人に案内をしてもらったりしているのだ。
モデル。急にそんな事が面白くお成りになったの。
画家。いや、面白くも何んともありゃしない。
モデル。それなのにどうしてそんな事をしていらっしゃるの。
画家。ふん。自分のために面白い事が出来なければ為方しかたがないじゃないか。
モデル。おかきなされば好いでしょう。
画家。それがかけないのだ。
モデル。かけないのですって。
画家。うむ。
モデル。うそだわ。冬なんぞは。
画家。そりゃあ冬は違うさ。十一月頃の薄暗い天気の日に、十一時頃になっても光線が足りない時なんぞは、どんなにか気をんだものだ。悪くすると一日明るくならずにしまうのだからな。あの頃もっと勉強して置けばかった。あの頃かけば幾らでもかけたような気がしてならない。この頃は、朝早くから窓一ぱいの光線が差込む。それを使わずに見ているのがしゃくに障るので、己は昼まで寝部屋の中に寝ているのだ。
モデル。それには夜遅くお帰りなさるせいもあるでしょう。(。)
画家。(真面目まじめに。)なるほど。そりゃあ遅く帰るせいもあるだろう。うむ。人間は気保養きほようもしなくてはならないからな。
モデル。ええ。保養をなすって、それから為事におかかりなさるが好いわ。
画家。なんだ。妙に己に意見をするような事をいうなあ。
モデル。(悪気わるげに。)そんな訳ではございませんが、ふいとそう思ったもんですから。それにことばのはずみですわ。
画家。詞のはずみばっかりかい。何んだかお前はいやに賢夫人らしくなったじゃないか。
モデル。(笑う。)全く詞のはずみで。(間の悪気に言いよどむ。)
画家。どうだい。お前は何か稽古けいこなんぞをした事があるのじゃないか。
モデル。一向出来ませんわ。すこおし読め出すと内が台なしになってしまったもんですから。
画家。急に貧乏になったのかい。
モデル。ええ。出し抜けでしたの。おとっさんが相場をして。
画家。そうかい。それじゃあ読めば読めるのだな。
モデル。ええ。読めますわ。小さい時にはお父さんの本棚の前に行って、見ていまして、これが読めたらと思っていたのです。それから読めるようになったら。
画家。ふん。読めるようになったらどうしたのだ。
モデル。その時はもう本なんか無くなっていましたの。
画家。そうかい。みんな差押えられてしまったのだな。
モデル。ええ。
画家。そののちどうしているのだ。
モデル。こうしていますわ。(打萎うちしおれたる様子。)
画家。そこいらにある本で好いなら。いつでも持って行くが好いぜ。(本棚を指ざす。)
モデル。難有ありがとうございます。いつかじゅうも願って見ようかと思っていましたの。(間。)
画家。格別冊数さつかずはないが、あの中にでも何かしらあるだろう。(間。)何んだってそんなに己の顔を見るんだい。
モデル。あなたは丁度いつか中のような御様子でいらっしゃるわ。
画家。いつか中とはいつだい。
モデル。あのさかんにかいていらっしゃった十一月頃と同じような御様子に見えますの。
画家。あのかけた頃のように見えるというのか。ふん。一体どんな顔だい。
モデル。そうですねえ。何んといったら好いでしょう。こう敬虔けいけんなような。
画家。なんだと。
モデル。いいえ。そうではないわ。そういっては当りませんの。
画家。そんならどうだというのだ。
モデル。そうね。作業熱のあるお顔ですわ。
画家。(紙巻を灰皿に押付けて消す。)ふん。作業熱のある顔というのは、どんな顔だい。
モデル。(しずかに)信仰のあるような顔ですわ。
画家。(真面目なる顔にてモデルをじっと見る。モデル立ち上る。)今日の己の顔はそんな風かなあ。
モデル。ええ。(間。)
画家。(間。○微笑む。)そうして見ると近い内にまたお前に来て貰わなくっちゃあならないようになるだろうかな。
モデル。(喜ばし気に。)いつでも参りますわ。
画家。(たゆたいつつ。)ふむ。事によったら。(神経質なる態度にて、あちこち歩き始む。)事によったらやられるかも知れない。かんがえはとうから幾らもあるのだ。ただ片っ方のやつをつかまえようとすれば外の奴が邪魔になる。でもどうかすると妙なことがある。せんの週だっけ。雨の降った日がもう少しで暗くなろうという時だった。こう見るものが昔話のように、黄金色こがねいろに見えたっけ。が温かに、重いようで。背景が。そしてその前にあるものが、光って、輪廓りんかくがはっきりして、恐ろしく単純に見えたっけ。妙に情を動かすように単純に見えたっけ。そうだ。前の週の木曜日だったと思う。あんな時にぐかき始めれば好いのだが。ついそんな時にいろんな事を考えるもんだから。
モデル。ほかの事が邪魔に這入るのでしょう。不断の下らない事が。
画家。(立ち留りてモデルを見る。)お前のいう通りだ。その内呼びにやるぜ。
モデル。あしたはどうでしょう。
画家。あしたかい。あんまり性急だなあ。あしたはむずかしい。第一今夜は帰が遅くなるのだ。それにこの部屋も一度大掃除をしなくちゃあ。まあ、この埃を見てくれい。(モデル娘忙がわし気にぼうを脱ぎ、上着を脱ぎかかる。)どうするのだ。
モデル。お掃除をしますわ。拭巾ふきんがあるでしょう。
画家。すぐに始めようというのか。
モデル。造做ぞうさはありませんわ。拭巾があるならお出しなさいよ。
画家。せっかちだなあ。(その内娘は左手の箪笥を開け探す。画家絵具入の抽斗ひきだしを抜きいだす。)ここだ、ここだ。(抽斗にある艶拭巾つやぶきんを二枚いだして投げる。娘はすぐに箪笥を拭き始め、その上の品物を一々いちいち拭きて工合好く据直す。画家は紙巻を一本吸付け、窓を背にして、銅版の置きある机に寄りかかり、娘のする事を見ている。)
モデル。(一方の画架の処にひざを突き、掃除をしつつしずかに。)今度おかきになるものには顔のがお入用いりようなのではないでしょうか。顔の役に立つモデルが。
画家。なぜ。(莨を喫む。)
モデル。(立ちて左手の壁の額を掃除す。)わたしでは手と足しきゃお役に立たないのですもの。(画家は娘を見ている。娘は画家が返事をせざる故向き返り顔を見る。画家は突然紙巻を投げ捨て、画架に飛付く。)
画家。じっとしていろ。動いちゃあいけないぞ。(娘はその姿勢を崩さずにいる。画家は画室をあちこちまわり枠なぞを倒し、紙の張りある板何枚かをひっくり返して、その一枚を画架に載せ、箪笥を引開け、チョオクの入れある箱を取出とりいだし、大急ぎにてかき始む。為事に熱中しつつ。)それで好い。手はそのまま垂らしても好い。(フロックコオトの上着を脱いでゆかの上にほういだす。娘は姿勢を保ちいる。画家は為事を続く。)手はどうでも好いのだ。顔さえそうしていて貰えば好い。(娘は驚の余りに麻痺したるごとき様子にて両手をうしろに引く。画家は詞無く、為事を続く。娘、突然激しく感動したる様子にて両手にて顔を覆う。)おい。どうしたんだい。為様しようがないなあ。もう駄目だ。(娘泣く。画家チョオクを投ぐ。)ええ、くそ。もう駄目だ。
モデル。(驚きたる様子。)御免なさいよ。わたしはつい。(両手を顔より放して元の姿勢に返る。)
画家。(憤然として。)そうしていさえすれば好かったのだ。なんだってあんな真似まねをしたのだい。
モデル。(ひどく間の悪気に。)本当に御免なさいよ。つい。
画家。そんな顔になっちゃあ為方はありゃしない。今日はもうおしまいだ。(娘は悲し気に立ちいる。)おしまいだというじゃあないか。(板を壁にがたりと寄せ掛く。さてチョッキのみになりたるに心付き、ゆかの上にある上着を取上げ着る。娘、そばに寄る。)なんだ。
モデル。(間の悪気に。)お服が五味だらけになりましたわ。
画家。そんなら、掃いてくれい。(娘、ブラシを探す。画家たくを指ざす。)あそこにある。(娘、ブラシを持ち来て服を掃く。間。○戸を叩く音す。画家高声たかごえに。)お這入んなさい。
画家の姉。(戸を少し開けて透間より。)好いの。
画家。ねえさんですか。
姉。ええ。わたしよ。
画家。お這入んなさい、お這入んなさい。(モデル娘は服を掃く手をとどめ、気を置くように戸のかたを見る。○ゾフィイは老けたる処女なり。質素なる拵えにて登場。髪は真中まんなかより右左に分けいる。容貌ようぼう美ならず。されど柔和にて目付賢気かしこげなさけあり。万事察しの好き風なり。うしろの戸を締め、モデルを見てたゆたう。)好いからずっとこっちへおいでなさいよ。これがマッシャなのです。そら。好く姉さんに話したでしょう。今服の五味を取って貰っていた処です。今日はマルリンクの処へ午餐ごさんに呼ばれましたので。
姉。(進み入る。)ちょいちょいのぞいて見ようと思うのだけれど、つい御無沙汰ごぶさたになってね。(モデル娘に。)今日こんちは。(握手せんとす。娘は意外に思うらしく慌ててそっと手をいだし、一秒間程相手の手を握る。貴夫人のおのれと握手する事はありべからざるように思いおるゆえ驚きしなり。さて、艶拭巾を取りて、絵具箪笥の抽斗の、まだ開けある中にしまい、忙がわしく上着を着る。)どこへ呼ばれているのですって。
画家。(手真似にて姉に、寝椅子を指さし示し、自分も藁の椅子をそばに持ちき、腰を掛く。)マルリンクの処なのです。
姉。(寝椅子に腰を掛く。)あそこの内では今日よめさんが来るのだというではありませんか。
画家。(半ば見物けんぶつに背を向けて藁椅子に腰を掛く。)それなのです。儀式には厭だから行かないが、午餐だけは断るわけにも行かないものですからね。息子は近頃随分親しくしているのですから、断ると感情を害しますからね。それに午餐といっても極近い親類や友達ともだちの外は呼んでないのだそうです。それで燕尾服えんびふくにも及ばないといって来た位です。姉さんは近頃どうしているのですか。みんな健康ですか。おっさんは。
姉。(微笑む。)実はおっ母さんが様子を見て来いといったから来ましたよ。三日ばかりお前さんが顔を見せないもんだから、心配をなすってね。それにゆうべ夢に見たから、何事かありゃしないかというのですよ。年が寄って病気だもんだから、迷信家になってしまって困りますの。(間。)上元気のようね。
画家。そうですよ。慢性怠惰病という病気は別として。
姉。(微笑む。)まあ、その病気なら命に別条はないでしょう。
画家。(真面目に。)そうさ。しかしある意味においては人を死なすかも知れません。(間。)おっ母さんには、今からマルリンクの処へ呼ばれて行く処だったとそう言って下さい。マルリンクの処ではない。欧羅巴ヨオロッパホテルです。宴会はホテルであるのです。一体おっ母さんは何をしていますか。
姉。やっぱりいつもの通りですよ。ちょいと。マッシャさんが何か用があるのでしょう。(モデル娘のかたを顔にて示す。娘は上着を着、帽をかむり、何か用あり気に戸の近くに立ち留りいる。)
モデル。いえ。ただお暇乞いとまごいを致そうと存じまして。
画家。(少し腰を上げ、半ば向き返る。)好い好い。また来て貰おう。
姉。さようなら。
モデル。さようなら。御ゆっくりと。(退場。)
姉。あれが名高いマッシャなのね。
画家。(何か物を案じいて、気のなき返事をなす。)ええ。あれがマッシャです。
姉。去年の十一月に、あの大きい画をかいている頃、わたしに、色々話してお聞かせだったのね。
画家。(突然立ち上る。)姉さん。ちょっと御免なさいよ。
姉。ええ。
画家。(忙がわし気に戸口にき、戸を開け、外に向きて呼ぶ。)おい。マッシャ。(間。梯子はしごく足音留る。)マッシャ。
モデル。(梯子の下より。)ええ。只今ただいま。(急ぎ足にて梯子を登る音す。さて、戸の外まで帰り来たる様子なり。)
画家。さっきの事はなあ、己は何んとも思ってはいないよ。いいかい。
モデル。(梯子を駈け登りしため、息を切らしいる様子。)本当にあんまり出し抜けだもんですから、吃驚びっくりしましたのと、それにわたしははずかしくって。
画家。なに。恥かしかったのだと。何んだ。馬鹿ばからしい。だが好いよ。かきかけたスケッチはあそこにあるし、己の頭の中には印象がはっきりしているのだから。じゃあ明日あした来て貰おう。
モデル。(思い掛けぬ喜びの様子。)あの明日あした参ってもよろしいのですか。
画家。(しずかに。)うむ。午前八時か九時頃に来て貰おう。来られるかい。
モデル。ええ、ええ。
画家。それで好い。さようなら。(戸を閉じて忙がし気に帰り来て、姉に。)姉さん。済みませんでした。少し言い残したことがあったもんですから。
姉。大相たいそう勉強するのね。明日あした八時からかくなんて。
画家。なあに。どうなるか分りゃしない。ただやって見るのです。マッシャが僕に諫言かんげんをしたというようなわけで。ははは。それはそうと姉さんはマッシャに握手をしておやりなさいましたね。大変喜んだようでしたよ。
姉。そりゃあお前の話に好く聞いていたんだから、古い知合しりあいのようなんだもの。去年の冬、いろんな事を聞いたのでしょう。まあ、あたりまえのモデルとは違うのね。
画家。そりゃあ違います。
姉。だが、別品ではありませんね。
画家。僕は別品だなんといった事はないでしょう。
姉。(微笑む。)それはありませんとも。それにわたしは丁度あんな風な子だろうと思っていましたの。真面目な、しずかな顔付で、色艶が余り好くなくって。口は何事もこらえて黙っているという風な、美しい口なのね。額と目とには気高い処がありますね。目なんかは丁度あんな風だろうと想像していましたの。
画家。(詞急に。)そうでしょう。面白い目です。あの目に今日気が付いたのです。(間。)その外の事も姉さんの思っている通りかも知れません。(姉は弟の詞をかいし兼ねたるごとく、顔を見る。)僕のいったのは、あの娘の心も顔のような風かも知れないというのです。(間。突然。)そうそう。あのロイトホルド君が今に来るのですがね。姉さんはここで顔を合せるのが厭ではありませんか。
姉。いいえ。わたしは構いませんの。
画家。でもあんなに熱心に、姉さんをおよめに貰おうとしていたのを、姉さんが弾付はねつけたのですから。
姉。なあに。ちっともことを荒立てずに断ったのだから、わたしはここでったって、困りませんの。それにあの方はもう内へは来られないでしょう。おっ母さんが変に思うから。昔風の人の考では、結婚の話をし掛けて、話が破れてしまったものは、それからどんな風にして交際をして好いか分らないんですからね。しかしわたしの考では、そんな風に、因襲がどうにもめていない場合が、かえって面白い関係になるかも知れないでしょうと思いますの。そうではないでしょうか。
画家。こりゃあ面白い。ふん。因襲のほかに立った関係は面白い。僕なんぞも、そういう関係を求めているようなものです。
姉。人生というものが、そうしたものではないでしょうか。
画家。ふん。
姉。一体人間の真実の交際はみんな因襲のほかの関係ではないでしょうか。
画家。姉さんは実に面白い人ですね。
姉。笑談じょうだんは置いて、わたしがこうやってここへ来るのなんぞも、同じ道理かも知れないでしょう。
画家。姉さんが僕の処へ来るのですか。そんなら僕が弟でなくっても、姉さんはこの画室に来るでしょうか。
姉。そうね。きょうだいでないとして見ると、何んという資格で来たら好いでしょう。
画家。ただ貴夫人として、知合として、友達として。
姉。友達ですか。
画家。ええ。友達になって来て下さるか、どうだか怪しいものですね。
姉。(笑いつつ。)お前の処へなら来るでしょうよ。
画家。(やはり笑いつつ。)まあ、来て下さるものだと思って置きましょうよ。(間。真面目に。)本当に姉さんが来て下さると好いのだが。
姉。(かいせざる様子。)ええ。
画家。実は僕は寂しくって為様がないのです。こないだから姉さんの処へ越して行こうかとも思って見ました。たしか客間が一つ明いていたでしょう。それともここで寂しいと思うのは、あんまり家が広過ぎるせいかも知れません。かく姉さんとおっ母さんと僕と一しょにすまって見るという事が、出来ない事もあるまいと思うのです。晩にでもなればたれか本でも読んで、みんなでそれを聞いたって好いでしょう。あかりけて本を読むのが目に悪けりゃあ、話をしていたって好いわけです。誰かがまとまった話をして、みんなで聴いても好いでしょう。事によったら黙っていたって一人で黙っているよりは好かろうじゃありませんか。実際僕は折々そんな風にみんなと一しょになっているような心持になるのですよ。(疑念をさしはさむらしき姉の目付を見て言い淀む。)ふん。
姉。お前がそんな風に一しょにいる処を想像するのは、わたし共と一しょというわけではなくって、誰か外の人と一しょにいるような夢を見ているのではあるまいかね。
画家。(驚きたる様子。)姉さん達と一しょでなくって、誰と一しょにいる事が出来るでしょうか。
姉。それはお前はお前で因襲のほかの関係が出来るかも知れないじゃないか。
画家。(手にて拒む如きふりし、暫くを置き、温かに。)僕は幾らか姉さんのたすけになりたいと思うのです。
姉。(甚だ意外に思うらしき様子。)何んですって。わたしを助けるのですって。
画家。でも姉さんが、朝から晩までおっ母さんに付いていて世話をするのは、随分苦しいでしょう。長年の事だから。何んでも年寄というものは、どんなに世話をしても、それを難有ありがたいなんぞと思ってはくれないものです。それに病気ででもあると癇癪かんしゃくを起して無理な事もいうでしょう。随分つらかろうと、僕だって察していますよ。
姉。お前がそうお言いなら、わたしは打明けてお前に言いましょうがね。実はわたしがおっ母さんの世話をするのも、因襲のほかの関係なので、わたしは生涯をその関係にゆだねたというものかも知れませんよ。(画家不審らしき顔をなす。姉は沈みたる調子にて言い続く。)実はね。おっ母さんというものには、とうに別れてしまったかも知れないのですよ。そしてわたしはある縁のない人に出くわしたのね。その人が人手をらなくってはどうする事も出来ない、可哀相かわいそうな人だもんだから、わたしはその人に世話をしてやって、その人のためには、わたしがいなくなっては、どうもならないような工合になったのね。晩方ばんかたに窓掛を締めてやれば、その人のためには夜になり、午前ひるまえに窓の鎧戸よろいどを明けてやれば、その人のためには朝になるでしょう。物をべさせるのも、薬を飲ませるのもみんなわたしの手でするのでしょう。わたしの本を読んで聞かせる声にすかされて、寝る時は寝るでしょう。そういう風にその可哀相な人はわたしに便たよるのだから、わたしはまたその人のたすけになるのを自分の為事にしているのです。それが今お前に言われて見れば、わたしのおっ母さんなのね。
画家。(姉のかたへ手を差伸べて温かに。)ええ、それがお互のおっ母さんだというわけですね。
姉。(弟の手を握りて、互に目を見交す。○間。)こんな事をいってぐずぐずしていてはおっ母さんが待遠まちどおに思うでしょう。
画家。それではロイトホルド君には逢わないで帰るのですね。
姉。そう。あんまり遅くなるからね。(間。)あの人は度々お前の処へ来ますの。
画家。なにあんな風で、交際ずきというわけではないでしょう。それだからめったには来ないが、今日は誘いに寄るといっていたのです。
姉。マルリンクの一とも附合つきあっていると見えるね。
画家。そうさね。マルリンク男爵の友人というよりは、息子のロルフの友人といった方が好い位でしょう。時代が違って男爵とは話が合いそうもないのですから。
姉。そうでしょうとも。この頃のように人の思想が早く変ることはないのだから。
画家。実にそうです。勿論もちろん青年社会の思想というのは。(戸を叩く音す。)はてな。ロイトホルド君かも知れない。お這入んなさい。ああ。そうだった。
医学士ロイトホルド。(登場。せて背の高き男。)もうそろそろ出掛けても好いでしょう。(ゾフィイを見て、暫くは近眼きんがんのために、誰とも見分かず、たちまちそれと知りて。)いや。失礼しました。ご機嫌よろしゅう。
姉。(医学士に進み近付き握手せんとす。)暫らくでございましたね。只今弟と、あなたなんぞは旧思想の人だろうか、新思想の人だろうかと、おうわさをいたしていたのでございます。
学士。(ゾフィイと握手す。次に画家と握手し、鼻眼鏡はなめがねを外しつつ。)どっちでもありませんよ。強いてどっちかに入れなければならないとなりますれば、旧思想の方へ入れてお貰い申しましょう。わたくしなんぞのかんがえでは、一体新思想というものが、もうまとまって出来ているかどうだか、も少し待って見なくては分らないと思うのですから。
姉。へえ。なぜでございましょう。
学士。わたくしの考では、破壊せられた旧思想が、随即やがて新思想だとは認められないように思うのですよ。
画家。それでも君も旧思想が取片付けられてしまうということだけは認めているのですね。
姉。そしてそれを取片付けるのが当然だということも認めていらっしゃるのでしょう。
学士。そうなると、一度にはちっと問題が大き過ぎますね。事によったら骨を折って旧思想を破壊するのも徒労ではないかと思うのです。なぜというのに、折角旧思想を取片付けてしまっても、その跡の、石瓦いしかわらに覆われた地面の上には、新思想は芽ざして来ないかも知れませんから。新思想の生えて来るには、何処どこか別に新しい地面がるのではないでしょうか。
姉。それではあなたは、この世界にまだどこか人の手の触れない新しい土地があるように思っていらっしゃいますの。
学士。ええ。もし人の手の触れない土地がもうないという段になれば、それは新しい土地が海の中からき出ても好いでしょう。
画家。君は詩人ですね。
学士。そうですね。詩人なら、君なんぞの読まない旧派詩人でしょう。
画家。いや。僕は新派も旧派も読みませんよ。妙な工合で、僕も誰かの句が気に入って覚えていることはあるのです。それがロオマンチックの詩人であったり、デカダンであったりするのです。仏蘭西フランス伊太利イタリア独逸ドイツ露西亜ロシア、どの国のものだか分らなくなることもあるのです。気に入った句は、どの詩人のでもみんな一人で作ったもののように、僕には思われるのです。
学士。そりゃあ、それも一理ありますよ。どの詩人の背後にも唯一の詩人がいるのでしょうから。
画家。ふん。神だというのですか。
学士。君はそれを神と名附けますか。
画家。(答に窮する様子。)僕には分りませんなあ。(間。)
学士。(時計を見る。)しかしもう時刻が。
画家。(目の覚めたる如く。)そうだそうだ。もう遅くなる。君、車が下に待たせてありますか。
学士。待たせてありますよ。
画家。それじゃあ、ちょっと腰を掛けて待っていて下さい。姉さん。ロイトホルド君にその紙巻の箱を上げて下さい。箱のある処は分っているでしょう。僕は直ぐ来ますから。(急ぎて寝間にる。)
姉。(凭掛りの椅子を示す。)どうぞお掛けなすって。お莨を上りますか。
学士。いえ。只今は頂戴ちょうだいいたしますまい。食事ぜんですから。(ゾフィイは藁椅子を持ち来て腰を掛く。学士はその椅子を自分にて持ち来らんとしてせ寄る。)御免下さい。うっかりしていました。
姉。どう致しまして。わたくしはいつも自分の体の事は自分で致すのですから。(藁椅子に腰を掛く。学士は椅背きはいに寄りかからずに、背を真直ますぐにして腰を掛く。○間。)あなたマルリンク家とお心易こころやすくしていらっしゃいますの。
学士。そうですね。古い知合という程度ですよ。年を取った男爵は、わたくしの医者としての職業上で、よほど前からわたくしと交際していられるのです。それから今度嫁に来られるお嫁さんのお里もわたくしは知っています。
姉。それでは御縁組のある両家ともお知合なのですね。それなのに儀式にはいらっしゃらなかったのですか。
学士。いや。わたくしは婚礼の席へ行くのは大嫌だいきらいです。
姉。気味の悪いようにお思いなさるのでしょうか。
学士。そうですね。何んだかこう角立かどだって、大業おおぎょうに見せるのが不愉快なのです。
姉。それではあなたのおかんがえでは、婚礼というものは、こっそりいたした方が宜しいのですね。
学士。ええ。なるべく目に立たないようにしたいものです。とむらいの方なら、少しは盛大にしたって好いのです。死人をねたむものはありませんから。
姉。それはそうでございますね。死人なら誰も嫉みは致しますまい。そういうお心持は分りますわ。
学士。どうお分りですか。
姉。あなたは生活がおすきなのでしょう。
学士。(微笑む。)兎に角生活していますよ。
姉。それだけで沢山です。兎に角あなたは旧思想のかたではございませんのね。
学士。(微笑む。)それでは旧思想の人は生活していないとおっしゃるのですか。
姉。(たゆたいつつ。)それは同じ生活しているといっても違いますわ。
画家。(外套がいとうを着、手に帽と手袋とを持ち登場。)さあ。行きましょう。
(学士立つ。)
姉。遅くなりはしなくって。
画家。なあに。四五分で行かれるのだから。
姉。(学士に。)そんなら、御機嫌宜しゅう。もっとお話が伺いたかったのですが、為様がございませんね。事によったらまたここで偶然お目にかかれるかも知れませんね。
学士。そんな偶然な事があっても、あなたは御迷惑ではございませんか。
姉。いいえ。どう致しまして。それに偶然というものもつまりは法則があって出来るのではございますまいか。
学士。それであなたは法則というものをたっとんでいらっしゃるのですね。
姉。ある法則には服従しますわ。言って見れば。
学士。言って見れば。
姉。言って見れば、友誼ゆうぎの法則なぞがそれですね。(学士と握手せんとす。)
学士。(十分の敬意をもって、ゾフィイの手に接吻せっぷんす。)今日こんにちは色々お話を承って為合しあわせを致しました。
姉。それではそのうち。
学士。ええ。またお目にかかりましょう。
画家。まあ、兎に角梯子段の下までは一しょに行きましょう。さあ。(戸を開き、姉と学士とをいだしやり、自分も続いて退場。○舞台は一二分間空虚になりおる。さて外より戸を開け、先にモデル娘、続いてウェエベルのかみさん、ほうき、バケツ、雑巾ぞうきんを持ち、登場。)
モデル。(快活に。)さあお上さん。家番やばんのおじさんが鍵は持ってるだろうと思ったが、その通りでしたね。構わないからお這入りなさいよ。(手早く帽とジャケツとを脱ぎ捨て、大いなる白の前掛を取出とりいだして掛く。)大急ぎでやらなくっちゃあ、駄目ですよ。まだ二時間は日があるでしょう。そのうちにあらまし片付けてしまわなくちゃならないからね。さあ。この煖炉の処から始めて下さいよ。
上さん。(のろのろと。)はい、はい、もう大分遅いからね。それに随分広い部屋だ。一体あしたの朝ゆっくりにした方が好かったのに。
モデル。(じれった気に。)そんな事をいうのではないよ。あすの朝は綺麗きれいになっていなくちゃならないのだから。
上さん。(たすきを掛く。)なるほどね。(掃除道具を運ぶ。)あしたは御祝儀でもあるのですかい。
モデル。(さっさと為事にかかり、たくの上を片付けつつ、にこやかに。)ええ、ええ。あしたはお目出たい日なのよ。
     第二場

翌朝よくちょう。画家は楽気らくげ凭掛よりかかり椅子いすに掛り、たばこみ、珈琲コオフィイを飲み、スケッチの手帳を繰拡くりひろげ、見ている。戸をたたおとす。
画家。お這入はいんなさい。
モデル。今日こんちは。
画家。マッシャか這入れよ。(モデル急がしる。画家はやはりスケッチの手帳を引繰返しつつ。)為事しごとは今日は駄目だよ。)
モデル。(驚きたる様子。)おや。
画家。(微笑ほほえみ。)実際駄目なのだ。それともおれの顔はやっぱり作業熱のある顔に見えるかい。
モデル。そうではありませんけれど。
画家。ところで。
モデル。かく愉快らしい顔をしていらっしゃるわ。
画家。そりゃあそうさ。愉快な事があったのだ。
モデル。きのう。
画家。うむ。しかも遅くなってからだ。思いかけない事もあるものさ。
モデル。そんなにおうれしい事なの。本当でございますか。
画家。うむ。本当だよ。
モデル。わたしの骨折ほねおりなんかは、なんでもございませんわ。(画家はんの事か、分らぬらしく、娘の顔を見る。娘は悪気わるげに。)何んでもございませんの。今日はお為事におかかりなさいますかと思いましたので。
画家。そこで。
モデル。お部屋を綺麗きれいに致しましたの。しかし造做ぞうさもない事でしたわ。
画家。(驚きて四辺あたり見廻みまわす。画室のちり一本もなきように綺麗に掃除しあるに心付く。)うむ、なるほど。
モデル。ちっともお気がお付きなさらなかったの。
画家。(娘の顔の甚しき失望を表わせるに心付きてことば急に。)うむ。うむ。お前の掃除をしてくれたのも思いかけない事には相違ないのだ。よくやってくれた。難有ありがたいよ。
モデル。(画家の方に背中を向け、余所余所よそよそしく。)どう致しまして。
画家。丁度かったのだ。今日は愉快な事があるのだから。
モデル。それではやっぱりお始めなさいますの。(画家の方へ向き直る。)
画家。為事なんぞはしない。お客があるのだ。
モデル。え。
画家。ある貴夫人が見えるのだ。
モデル。え。
画家。お嬢さんだ。
モデル。その方をおかきなさるの。
画家。そうさね。かくかも知れないよ。(思に沈む。)実にきのう程妙な日はない。お前の事だから、話して聞かせよう。お前は急がしくはないのだろう。
モデル。いいえ。`別に用事はございませんの。
画家。そんなら腰でも掛けないか。(娘はやはり立ちいる。)まあ、考えて見ても知れるだろう。宴会なんというものは随分つまらないものなのだ。儀式張っていて、退屈で。おまけに婚礼の宴会と来てはたまらない。馬鹿ばかな演説が沢山あるだろう。とんちんかんな事だらけで、可笑おかしくもないのに笑ったり何かしているのだ。勿論もちろんそんな事だという事は初めから分っていたのさ。だが己は少し気が浮々して来たもんだから、むちゃくちゃに饒舌しゃべっていたのだ。そうすると思いかけない事に出合ったよ。
モデル。その思いかけないとおっしゃるのは。
画家。うむ。己の話の分ってくれる女がいたのだ。しんから分るのだ。言筌ごんせんを離れて分ってくれるのだ。己の言う意味が分るかい。己とその女とは初めて顔を見合ったのだ。人に面倒な紹介をしてもらったわけじゃあない。あらゆる因襲を離れて出し抜けに出合ったのだ。人間と人間とが覿面てきめんに出合ったのだ。どんな工合ぐあいだか、お前には中々なかなか分るまい。食卓を離れてから、その女と隅の方へ引込んで、己は己の事を話す。女は女の事を話したのだ。何んでも、大体はお互に知り合っていて、瑣末さまつな事を追加して話すというような工合さ。何んでも、万事いわなくっても先へ知れているという工合なのだ。妙じゃあないか。
モデル。(無理に微笑む。)それは随分ね。
画家。え。
モデル。随分珍らしい事というものでございましょうね。
画家。大抵一人の人間にぶっつかろうというには、色々な準備が、支度がるものなのだ。初めの内は誤解もするし、おこるような事もあるし、場合にってはたれか死ななくては目ざす人に近寄られないというような事さえある。人の心に取入るには、強盗に這入るような事をしなくてはならない。人の防禦ぼうぎょしない折をねらっていて、奇襲をやらなくちゃあならない事もある。どうかしたわけで、先方が門の戸を開けているのを見計らって、そこへ急に、乱暴に闖入ちんにゅうしなくちゃあならない。それにきのうなんぞの工合といったらないのだ。門戸は十字に開いてある。そこへ己が飛込んだのだ。そして。(娘の方を見る。)何か言ったのかい。
モデル。いいえ。そんな事がございましたら、どんなにか嬉しい事でしょうね。
画家。そりゃあ嬉しいさ。平然として人の腹の中に這入って行くのだ。風雨を冒して、冒険的に近付くのではない。平和のままで這入って行くのだ。自然にそうなくてはならないような工合に、青天白日に這入って行ったのだ。
モデル。へえ。
画家。分るかい。
モデル。(無理に微笑む。)少しはお察し申す事が出来ますの。
画家。(微笑む。さて、うっとりとして。)そうだろう。好くは分るまいな。己が無暗むやみ饒舌しゃべるから。しかし己はきのうの工合を自分の口でいって見て、その詞を自分の耳に聞いて見たいのだ。お前がそこで聴いていてくれなくても、己は一人で饒舌しゃべりたい位なものだ。
モデル。(悲し気に。)それではわたしがうけたまわっていましても、お邪魔にだけは成りませんのね。
画家。なになに。(何か深く思うらしく。)そんな風に平和のままで相手の人間に近付くと、どの位の利益があるか分るかい。そういう時でなくっては、相手の人間の真実の処は分らないのだ。
モデル。真実の処ですって。
画家。そうさ。その人を買被かいかぶったり、見そこなったりしないで。
モデル。(何か物を思うらしく。)そうでこざいましょうとも。(詞急に。)そんな時にお感じになった事は間違いこはないと思っていらっしゃいますの。
画家。間違いこはないとも。きのう出し抜けに話合ったのを、お互に自然のように思うのと同じ事で、これから先一しょに生活して行く事をもお互に自然のように思うに違ない。
モデル。(おどろきみずから抑えて、詞急に。)そして、そのお嬢さんもあなたにすっかり身の上を打明けてお話しなさいましたの。
画家。うむ。跡になってすっかり話したのだ。初めに己が洗いざら饒舌しゃべってしまって、それから向うが話し出した。まるでずっと昔から知り合っているなかのように、極親密に話したのだ。子供の時の事も聞いたし、双親ふたおやの事も聞いた。双親とも亡くなって、一人ぼっちなのだそうだ。あんな風になったのも、そのせいかも知れなかったよ。
モデル。あんな風と仰ゃるのは。
画家。不思議に打明けるようになったのが。
モデル。そのお嬢さんが一人ぼっちでいらっしゃったからだと仰ゃるのね。
画家。うむ。丁度己のように一人ぼっちでいたのだから。
モデル。あなたのようにですって。
画家。(微笑む。)そうさ。己のように一人ぼっちなんだ。ふん。お前のようにといってもいかも知れない。お前だって一体一人ぼっちなのだろう。
モデル。(無理に笑う。)わたしですか。わたしは随分お友達ともだちがございますわ。
画家。(娘の笑うのに、ほとんど気付かざるごとく。)ほんにあんな事があるという事をきのうより前に己にいうものがあったら、己だって信じはしなかったんだろうよ。(立ち上る。)
モデル。(また悲し気になる。)そうでございますね。きのうまでは夢にも心付かない事があるものでございますね。
画家。そうさ。人生はそうしたものだ。そこが人生の美しい処なのだよ。思いがけない処がなあ。(間。)
モデル。わたしのおとっさんがよくそういましたっけ。思いかけずに死ぬるのが一番美しい死ですって。
画家。(娘の顔を見る。)何んだってそんな事を思い出したのだ。
モデル。つい思い出しましたの。
画家。お前にはそんな暗黒面でない、光明面の思い出はないのかい。
モデル。(何か言わんとしてめ、詞急に。)しかしわたしはもう。
画家。もう行くのかい。またおいでよ。
モデル。(二三歩きかかりて戻る。)もう当分伺いませんわ。
画家。なぜ。
モデル。でも当分御一しょの。(間。)あなたのお為事はだめでしょう。
画家。(娘の方を見ずに窓の処にく。)うむ。そりゃあお前の言う通りかも知れない。(突然活溌かっぱつになりて二三歩前の方へで、独言ひとりごと。)そのくせゆうべヘレエネと話しているうちにすぐにでもかき始められるように思ったのだが。(娘に。)己はそのお嬢さんに、己の絵の事をみんな話したのだ。
モデル。それでは去年の十一月におかきになったの事もお話しなさいましたの。
画家。それも話した。しかしおもにこれからかく分の事を話したのだ。今までかいた絵の事は向うにみんな知れているんだから。(娘不審気に画家の顔を見る。)そういっては分るまいが、己の既往の事が向うにみんな分ったのだから、己のかいた絵も、それがどんな絵か、どんな感情の絵かという事は向うに知れているのだ。熱心に、大急ぎで、切れ切れに話すうちに、何もかも不思議に向うに分ったのだ。しかしさっきも云う通り、おもに話したのは未来にかく絵の事だ。それは是非話さなくてはならなかったからな。
モデル。(小声に。)よくまあそんなに何もかも一度にお話しなさる事が出来ましたのね。
画家。そうさ。そのうちにこんな絵があったよ。移住者という題なのだ。広い、たいらはたがある。収穫ののちだ。何んだかこう利用してしまった土地というような風で、寂し気に、貧乏らしく見えている。そこを人が立ち去る処なのだ。一むれの人がぴったりぎ合って入日の方に向いて行くのが、暗い形に見えるのだ。多くは自分の輪廓りんかくされているように背中を曲げている。その事を話すとお嬢さんが云ったっけ、地平線に行って山にでもなってしまいそうな風に歩いて行くのでしょうねと云ったっけ。実によく呑込のみこめたものだ。己の思っている人物は地平線の方に行って山になってしまいそうなかたちに相違ない。(間。)それから、も一つこんな絵の事を話したっけ。画題は基督キリストというのだ。己がその事を言い出すと、半分いわせずにお嬢さんがそういったっけ。人物ではないでしょう。風景でしょう。期待が当来を知らせるのでしょうと、そういったっけ。おい。マッシャ。かけるような気分に早くなって見たいなあ。(両手を拡げて未来をいだく如きふりをなす。)
モデル。そうですね。実行が一番難しいのですね。
画家。そうだて。やる時は暴力でやるのだ。その日の朝だって、あたりまえの朝と変った事はないのだ。詩人なら机に向く。画かきなら画架に向く。そして出し抜けに未曾有みぞううの事を決行するのだ。一体は沈黙の内でなくては思量せられないはずの事を、言語に現わし色彩に現わすのだ。言語で言えば、丁度熱心に、大声で、息をはずませて、人が千人も前に立っていて、その詞を飢えたものが麪包パンを求めるように求めているつもりで、語り出すような工合に。
モデル。(ほとんど聞えざるほどの小声にて。)千人の人が待っているより、もっと切に待っているものがございますの。
画家。でもお前なんぞにはよくは分るまい。(疲れたる如く、手を額にかざす。)
モデル。(しずかに。)それはどうせよくは分りませんわ。
画家。もう行くかい。(絵具入えのぐいれ箪笥たんすに歩み寄り、紙巻を一本取りて火を付く。)そんならしばらく合わないかも知れないよ。ヘレエネがもう来るはずだ。お前に用がある時が来れば、そういってやるよ。
モデル。わたしに御用がおありなさる時と仰ゃるのですね。
画家。うむ。葉書をやるよ。(握手せんとして手を差伸ぶ。握手。)冷たい手だな。(初めて気の付きたる如く顔を見る。)今日は大変に血色けっしょくが悪いよ。ゆうべなかったのかい。
モデル。ええ。少ししきゃあ寐ませんでしたの。
画家。(握りたる手を放し、うわそらにて。)相変らず踊やなんぞで夜を更かすのかい。
モデル。(悲し気に。)ええ。年が年中ですわ。
画家。(笑う。)ふん。体が台なしになるよ。さようなら。
モデル。さようなら。(急ぎ足に退場。)
画家。(為事机の前に立ち、紙巻を喫みながら、部屋の内を見廻す。娘が戸を開くる時、詞急に。)おう。掃除をしてくれたのに礼もろくに言わなかったっけ。それから何んだっけ。何時頃なんどきごろにこの前を通るかい。
モデル。ここを通るのですか。おひるにはおっさんの処へ帰るのですから、もう二時間もすれば通りますわ。
画家。二時間と。丁度好い。その時少し花を買って来てくれないか。どうだ。そうしてくれるか。
モデル。(たゆたいつつ。)何んの花でございますの。
画家。さっき話したお嬢さんに上げるのだ。己の処には何んにもありゃしない。自分で買いに行くと、留守に来られるかも知れない。ここのばあさんを頼んで使にやると、おきまりでにおいあらせいとうを買って来やがる。花といえばきっとあれを買うのだ。まるで固定妄想こていもうぞうだ。何か気の利いた花を見立てて買って来てくれないか。どうだい。
モデル。(小声に。)薔薇ばらではどうでしょう。
画家。何でも好い。お前ならとんちんかんな事はしないから。お嬢さんは丁度お前位のブロンドな髪をしているのだ。そのつもりで見立ててくれい。
モデル。それでは髪に挿す花ですね。
画家。(じれった気に。)髪に挿されれば、挿させても好いのさ。つまり花が上げたいのだ。(間。娘かんとす。)それからなあ。ついでに少し果物を取ってきてくれい。春ばかりでは物足りない。夏もいるからなあ。柑子こうじが好い。よく真赤まっかに熟したのを買ってきてくれい。南国の甘い夏を包んでいるような柑子が好い。頼むよ。二時間ほどすれば来るんだな。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子ですね。(戸をひらく。)
画家。持って来たらな。構わずにずっと這入って来いよ。お嬢さんを見せてやるから。
モデル。(やや敵対の語気にて。)わたしがお目にかからなくちゃあならないのでしょうか。
画家。なぜ。己が見せたいのだから、好いじゃあないか。
モデル。ええ、ええ。それでは花と柑子とを持って参りますよ。
画家。うむ。さようなら。(娘退場。画家はゆるやかに部屋の内をあちこちるきいる。折々ある絵の前に立ち留まりて、何を思うともなしに絵を見る事あり。また暫く歩きて、突然為事机のそばに寄り、机の上の物を上を下へといじり廻し、終りに壁に掛けたる袋の中よりブラシを見出みいだして手に取り、上着の塵を払う。戸を叩く音す。画家はいそがわしくひとはけふたはけ払いて、ブラシを投げ捨て、大股おおまたに、二三歩にて戸の処にき、呼ぶ。)お這入りなさい。
令嬢ヘレエネ。(上品なる散歩服。極めて気高き態度。ブロンドなる髪。令嬢には少し老けたる年配。○画家は暫く詞無く、令嬢の顔を凝視す。)もうお見忘れなさいましたの。
画家。(急に物狂おしく。)ヘレエネさん。お待ち申していました。
令嬢。(画家が握手せんとして手を差伸ぶるを見て、しずかに右だけの手袋を脱ぎ、指輪をめたる、細長き、優しき手をいだす。握手。)わたくしには、あなたという事がすぐに分りましたの。
画家。でもお分りにならないはずはないではございませんか。
令嬢。しかし昼間お目にかかるのは初めてでございますからね。
画家。(少し我に返りて。)ほんにそうですね。実は少し面喰めんくらったのです。どういうわけだかあなたはきっとヴェエルをかむっていらっしゃるはずのように思っていたもんですから。
令嬢。そうでございますか。こんな風な訪問を致す時はヴェエルをかむるものでございましたかねえ。
画家。そんな事をいっちゃあいけません。ただ何がなしにそんな気がしていたのです。
令嬢。御心配なさらなくっても、ようございますよ。わたくしの這入って参ったのは、誰も見てはいませんでした。
画家。(間の悪気に。)わたしはそんな事は何んとも思ってはおりません。さあ。どうぞ。(部屋の中へれと勧むるふりす。)
令嬢。(笑いつつ。)も少しで余所余所しくお嬢様とでも仰ゃりそうな処でしたね。そうでしょう。(歩み近付く。)
画家。いや。どうも。
令嬢。お嬢様、どうぞこちらへお通りあそばしませとでも仰ゃりそうでしたのね。(手近なる椅子に腰を掛く。)
画家。(真面目まじめに。)ほんにそんな事を言いかねない処でした。
令嬢。(滑稽こっけいに。)やれやれ。もうお互のなかもそこまでになりましたかね。(二人とも笑う。)
画家。莨を上るでしょう。(紙巻の箱をいだす。)
令嬢。(紙巻を一つ取りつつ。)今日ばかりの事ですから、やっぱりヘレエネと、名を仰ゃって下さいまし。
画家。(驚きたる顔にて相手を見る。)今日ばかりとはどういうのです。あしたからはどうなるのです。
令嬢。あしたからでございますか。(間。)火を下さいまし。どうぞ。
画家。(手を動かさずに。)それでもどういうわけで。
令嬢。おやおや。自分で莨も付けなくちゃあならないのでございますのね。
画家。(慌ててマッチを付けていだす。)どうぞ堪忍して下さい。(忽然こつぜん何物をか認め得たる如く。)ヘレエネと呼べというのですね。事によったらあなたは本当はヘレエネとは仰ゃらないのではないのでしょうか。
令嬢。(莨を試るように喫む。)いいえ。全くヘレエネというのでございますよ。
画家。そうですかねえ。どうも。
令嬢。あなたは莨を上りませんの。それにまあ兎に角お掛けなさってはどうでしょう。
画家。(急に腰を掛く。)さあ掛けました。
令嬢。(微笑む。)それでおらくですか。
画家。(笑う。)楽ですとも。
令嬢。(しずかに部屋の内を見廻す。)ようございます事ね。
画家。何がです。
令嬢。この部屋が好いと申すのでございます。こういう処でどんな風にして絵をかいていらっしゃるというのが、想像が出来ますわ。(莨を捨て、両手を差伸べ、あたたかに。)本当にわたくしは、このお部屋を拝見いたすのを、昨晩からたのしみに致して参りましたのでございますよ。あなたのお身のまわりにあるこんなものを残らず。
画家。(踊り上る。)本当ですか。
令嬢。(しずかに。)ええ。舞台を拝見しなくてはと思いましたのでございます。
画家。舞台とは。
令嬢。あなたとわたくしとの生涯を送った舞台の跡を拝見いたしたいと存じまして。
画家。生涯ですと。
令嬢。きのう一日に縮めた生涯と申すのでございます。
画家。まあ、何んという妙なお詞でしょう。
令嬢。(両手にて取りいたる画家の手を放し、椅子の背に寄りかかる。)わたくしの申す詞は明瞭めいりょうでないかも知れませんが、それは御勘弁あそばさなくてはいけません。言語というものはこういう風な事を言い現わすように出来ていないものでございますから。
画家。どうしたというのです。
令嬢。あなたは今日お互に顔を合せてどう致すと思召おぼしめしていらっしゃいましたの。
画家。どうすると言ったって知れているではありませんか。あなただって同じ事でしょう。
令嬢。わたくしには分っていますの。ただ伺いたいのは、あなたがどう思っていらっしゃったかという事でございますの。
画家。わたしはただ今日から二人の生涯が始まると予期していたばかりです。
令嬢。その始まる生涯と仰ゃるのは。
画家。あなたとわたくしとの、これから渡って行く生涯です。
令嬢。おや。それではあなたはもう一遍二人の生涯を生きて見ようと仰ゃいますのでございますか。
画家。なるほど。そういえば、きのう一つの生涯を送ったと見做みなせば見做されない事はないでしょう。もしきのう一つの生涯が済んだなら、その済んだ生涯を続けて、押し広めて行かなくてはならないでしょう。それが本当に生きるというものでしょう。
令嬢。まあ。もう一生きられるものだと思召していらっしゃるの。
画家。(一歩退く。)ふん。どう思っておいでなのですか。
令嬢。でも二人が生涯にする程の事は、何もかもきのう致してしまったのではございますまいか。(画家は相手を凝視しいる。令嬢は相手の目の内に現われたる怪訝かいが、恐怖を排し去らんとする如く、拒む手付を為して。)御覧なさいまし。只今ただいまのあなたの恐しくお思いあそばす、そのお心持こころもちが、丁度昨晩のわたくしの心持と同じなのでございますよ。丁度只今のあなたのように、昨晩はわたくしが恐しく存じましたの。
画家。(はりのなき声にて、ようよう。)恐しく。
令嬢。ええ。恐しゅうございました。あなたが少しもお立ち留りなさらずに、わたくしを引きって、そらけるような生活の真中まんなかへ駈込んでおしまいなさったのですもの。過去も、現在も、未来も一しょになって分らないような生活の中へ、燃え上っている大きなほのおの中のたきぎのように、わたくしはあなたが用捨ようしゃもなく、未来に残して置かねばならないはずの生活までを、ただ一刹那いっせつなの中に込めて、消費しておしまいなさるのを、どんなにか惜く思いまして、あなたのお手にすがっておめ申したいように存じましたが、致し方がございませんでした。わたくしの心持では、こう申したいのでございました。まあお待ち下さいまし。ここで、この場でそうまであそばさない方がようございましょう。そんなに一息に何もかも過ぎ去らせておしまいなさいますな。まだこれから生きなければならないのでございますからと、そう申してお留め申したかったのでございます。それにあなたはどうしてもお聞きあそばさなかったではございませんか。そして無理にわたくしを引き摩って、先へ先へと駈けていらっしゃいましたでしょう。何もかも残さずに、すべてを得なくてはならないという風に。(詞を緩め、悲し気に。)それだもんでございますから、とうとうわたくしはあなたに総てを捧げてしまいましたの。
画家。(一瞬間令嬢を凝視し、突然そのひざに身を投げかけ、両手を肩に掛け、いだき付きて叫ぶように。)ああ。ヘレエネさん。
令嬢。(両手の間に画家の頭を挟みて抑え、目と目を見合せ、一瞬間極めて真面目になりいて、さて詞ゆるく、極めて悲し気に。)これでとうとうお別も致しましたのね。(間。)
画家。(忽然、激しく愉快を感じたる如く、一層厳しくいだき付きて。)これきりだなんて、ひどいではありませんか。あんな大勢の人の中で話をしたきりで、お互の生涯が済んだと見做されるものですか。まあ。考えて見て下さいよ。
令嬢。(優しく。)それでも済んだものは済んだのでございますから、どう致す事も出来ませんわ。あんな席で、人の中ではございましたけれど、あなたがそうあそばすものでございますから、わたくしの心の底の底まで明放して、わたくしのあなたに捧げられるだけのものは捧げてしまったのでございますの。(画家しずかに手を放す。)あなたの感情の猛烈な処も、お優しい処も、みんなわたくしには分っていますの。それですから、どんな事をあそばしたって、意外だなんとは存じませんわ。ただ一刹那のあいだではございましたけれど、あなたはただ手と手とが障ったばかりで、わたくしを裸体らたいにしておきあそばしたのでございますよ。
画家。(煩悶はんもんして。)どうぞ堪忍して下さい。
令嬢。(画家の方へ俯向うつむく。)わたくしはそれを後悔なんか致しませんの。わたくしのためにも大きい幸福でございましたわ。本当に嬉しいと存じましたわ。
画家。(ふるいつつ仰ぎ見て、頼むように。)ヘレエネさん。(令嬢の膝の上に俯伏す。)
令嬢。(画家の髪をづ。)本当にわたくしは何もかもあなたにゆるしてしまいましたの。ただ二人の間に子供を持つ事が出来ないばかりでございますわ。(画家欷歔ききょす。)あなたがそうしておしまいなさったのでございますから、為様しようがございませんわ。
画家。(小声にて。)それでも。
令嬢。ええ。
画家。どうしても今一、現実の世界で。
令嬢。いいえ。それは致さない方がよろしゅうございますの。無理に致しましても、その製作は失敗に終りますわ。
画家。ああ。
令嬢。あなたにはそんな心持は致しませんですか。わたくし共二人は、遠い遠い無人島むにんとうで、何年も何年も暮しましたのでございますわ。
画家。(あたまもたぐ。)はあ。
令嬢。そして愛の限りを味わって幾度いくたびも幾度も接吻せっぷんいたしましたの。
画家。それがもう出来ないんですか。
令嬢。(微笑む。)ええ。出来ませんわ。
画家。なぜでしょう。
令嬢。もう無人島むにんとうから帰って来たのでございますもの。帰って来て見れば、ただの世界で、物が重りを持っていたり、日がさせば影を落したり致しますのでございますからね。そして出来事と出来事との間には、遠い道のように、年月というものがあるのでございますからね。こんな世界に帰って来て見れば、あなたとわたくしとはこれでお別に致さなくてはなりませんのでございます。
画家。(煩悶して。)そんならどうでも別れるというのですか。
令嬢。お別だけがこの世界へ帰ってからのものに残っていたのでございますわ。別なんというものは、時間に属するものですから、あの島ではそんなものはなかったのでございます。(間。)
画家。(立ち上る。)わたくしの方では、きのうの事は幕明まくあきの音楽で、せわしい調子の中へ、あらゆるモチイヴを叩き込んだものに過ぎないので、これからが本当の曲になると云いたいのですが、あなたには、何んと云ってもそう考えて下さる事が出来ないのですね。
令嬢。これから本当のオペラにしようと仰ゃるのでございますか。
画家。(うなずく。)ええ。これから本当のアクションにしようというのです。
令嬢。(微笑む。)なぜわたくしがオペラと申しましたのを、わざわざアクションという詞におかえあそばしたの。もしこの跡を続けましたら、それこそオペラでございますわ。本当のお芝居でございますわ。わたくしはそれが怖いと存じたのでございます。
画家。まあ。そんな事までいつの間に考えていたのですか。
令嬢。ゆうべ夜通し考えていましたの。(間。)
画家。(あちこち歩き始む。)何もかもノンセンスだ。(間。また歩きつつ。)不思議だ。
令嬢。ええ。不思議でございますとも。この不思議の中に立って、踏み迷わずに、しっかりしていなくってはならないのでございますわ。(画家立ち留る。)ええ。大抵の人なら迷ってしまうかも知れませんわ。そういたして、目のくるめくような楽の急調を、常の日に調べようと致すのでございましょう。しかし舞の伴奏の楽は、ただ歩く時の足取には合うはずがございませんの。不調和な、馬鹿らしいものになり勝でございますわ。お互にそんな事は致したくないのでございますからね。お互に兎に角、つばさのある情緒じょうちょを持っている人間なのでございますからね。
画家。そこまで深く考えて見たのですか。
令嬢。ええ、ええ。そんな事は、あなたの方では考えて下さらないという事が、わたくしには分っていましたの。年上でございますからね。(画家こなしあり。令嬢しずかに。)ええ。年上でございますよ。それにきのうとは違いますの。(調子を変う。)しかし兎に角、お互に普通の人間でだけは無い事が分りましたのでございますね。
画家。普通でないとは。
令嬢。新人でございますわ。何んに致せ、あの大勢のいる宴会の中で、隠れみの、隠れがさをでも持っているように致す事の出来た二人でございますから。
画家。おう。そういえばあなたはゆうべも隠れ笠という事を云いましたっけね。
令嬢。ええ。申しましたわ。そんな風になられるまで、因襲のほかに脱出しているのでございますからね。人のいたのなんぞは、ちっとも邪魔には成りませんでしたわ。今日あたりはきっとみんなで評判を致しているのでございましょう。ミルネル画伯はあの令嬢に大相たいそう取り入るようだったなんぞと云っているのでございましょうよ。あしたあたりおばの処へ参りますと、おばがきっと、ミルネルさんが訪問においでなさりそうなものだなんというのでしょう。そう致してあなたがおいでなさりはなさるまいかと二週間位は心待こころまちに待つのでございましょうよ。(笑う。)わたくし共が二十年も御一しょに暮した事は、おばさんは知らないのですからね。人はたった二時間だと思っていたのでございますから。
画家。なぜ二十年というのですか。
令嬢。(快活に。)ええ。二十年位で若死わかじにを致したものと思って見ましたの。(画家頭を振る。)幸福の真最中まっさいちゅうに死んだのでございますわ。美しい死でございましょう。こんな閲歴は外の人には出来ますまいではございませんか。
画家。(あざけりを帯びて。)あんな風になら、一人で幾生涯でも生きて見られようじゃありませんか。
令嬢。(真面目に。)ええ。それが出来ましたなら、現代人の芸術の能事のうじおわれりではございますまいか。
画家。芸術ですと。
令嬢。芸術と申しましたのは悪かったかも知れません。そんなら現代人の要求とでも申しましょうか。一つ一つの閲歴にそれ相当の調子を与える事が出来まして。それが一つ一つの全きものになりましたなら、一つ一つの生涯になりましたなら、その人は千万の生涯をけみする事が出来ましょうではございませんか。
画家。そして千万たび死ぬるのですか。
令嬢。ええ。千万たびの死をしのぐのでございます。そんな風にはお感じなさいませんか。
画家。どうしてそんな事をいうのですか。
令嬢。わたくしがどうしてそう思うのだか、お分りになりませんの。(立ち上る。)あなたは画家でいらっしゃいます。一日絵をおかきなさいますでしょう。それがただの一日でございますか。
画家。いいえ。勿論それはただの一日ではありません。多くの日をその一つの図に入れるのです。出来る事ならわたくしの覚えているだけの日をみんな入れるのです。
令嬢。それ御覧なさいまし。秘密を道破しておしまいなさいましたわ。
画家。なぜ。
令嬢。あなたはきのう宴会にいらっしゃる時、絵をかきかけて置いていらっしゃったのではございませんか。
画家。かいてはいなかったのです。しかし。
令嬢。でもかこうと思っていらっしゃったのでございましょう。
画家。かけるかも知れないと位は思っていたのですよ。
令嬢。(喜ばし気に。)そこでおかきなさったのでございますわ。あなたは作品に加える尺度をわたくしに加て、わたくしとあなたとの間を、一つの作品にしておしまいなさったのでございます。しかも不朽の作品に。
画家。(悲し気に。)あなたが不朽だといったって、その作品は今日跡もなくほろびているのです。
令嬢。あなたはそう仰ゃるけれど、あなたのおかきになった絵だって、いつだれが見てもその絵と見えるように、いつもそこにあるというわけではございますまい。そんな事はないのでございましょう。あなたの絵があるというのは、あなたの絵の生命のある処へ這入って行く事の出来る人のためにあるというわけでございましょう。その意味からいえば、ゆうべお作りなさった作品も、不朽に存在しているというものではございますまいか。
画家。(真面目に相手を見る。間。)なるほど。あなたはそんな風に考えたのですか。
令嬢。(頷く。)ええ。そう考えましてわたくしだけは、生活のために必要なあるおしえを得たのでございますの。
画家。そう云うと教というものが、必要なようですが、実は世の中には、何んといったら好いでしょうか、手本無しに生活して見ようという人も随分あるのではないでしょうか。因襲なんぞからきたった智識ちしきを自分に応用せずに、初めて人間として生れて来たもののように振舞うのですね。もしそういう人があったなら、その人は一つ一つの出来事に、それにかなった尺度を持って行って当てるわけではないでしょうか。無意識にそれに協った尺度を当てるのですね。
令嬢。それは一つか二つか、三つ位までの出来事には無意識に当てた尺度が丁度好いという事もあるのでございましょう。しかし幾ら手本無しに生活するともうしましても、そういう人でございましても、どうせ生々ういういしいのでございましょうから、何事かに出合まして、五つや六つの調子を覚えましても、それから先は分りませんから、その五つか六つの調子をあらゆるものに当て嵌める事になってしまうのでございましょう。人生に応ずるには幾千の調子がるか知れないのでございます。そこで一つ間違を致しますと、そういう人は慌てまして、きっとこれまでに覚えている因襲の内の、一番現在の場合に当嵌りそうなのを持って来て、それを応用しようと致すのでございましょう。(間。)あなたのお身の上で申して見ますれば、あなたはわたくしと結婚あそばしたのでございましょう。
画家。(正直に驚きたる様子。)いや。結婚なぞをするつもりではなかったのです。
令嬢。結婚はなさらなかったのでございますの。そんならどうあそばすはずでございましたの。
画家。そりゃあ。(間。)そうですね。そんな事をいったって駄目だし。
令嬢。いいえ。なんでも宜しゅうございますから言って御覧なさいましよ。
画家。ただ一しょになっていたのだろうというのです。
令嬢。ここにでございますか。
画家。それはここでも好いし、どこかほかへ行ったら、なお好いでしょう。あなたのおばさんがやかましそうですから。
令嬢。まあ。結婚も致さずに、ただ何がなしに御一しょにいるのでございますね。
画家。そうです。何がなしにです。そら。外の絵かきもやっているでしょう。(令嬢笑う。画家黙りて相手の顔を、何故なにゆえ笑うかと問いたげに見る。令嬢いよいよ笑う。)何がそんなに可笑おかしいのですか。
令嬢。それでも、そんな風な生活は、もうとっくに因襲になってしまっているじゃあございませんか。
画家。それでも。因襲といったって。
令嬢。ええ、ええ。同じ因襲でも、一般の社会での因襲でなくって、ある狭い仲間内での因襲でございましょう。しかし因襲は因襲でございますから、狭い仲間内の因襲だからと申しましても、特別に好いはずはないではございますまいか。そんな風に致しましたら、わたくしはやっぱり段々に扮装みなりなんぞは構わなくなりまして、化粧おしまいも致さないようになりますのでございましょう。(画家あきれて相手の顔を見おり、さてついにおのれも笑いいだす。令嬢また笑う。)それ御覧なさいましな。(間。)まあ、お互にこういたして笑っていられます間に、お暇乞いとまごいをいたしましょう。
画家。(驚く。)行くのですか。
令嬢。ええ。ただ、今一つ申して置きたい事がございます。どうぞこんな事になりましたのを、おくやみなさらないで下さいまし。もしわたくしの事を思い出して下さいますなら、どうぞ昨晩のような調子にしてお考えあそばして下さいまし。美しい調子に、メロヂイのある調子にしてお思い出しあそばして下さいまし。それだけは是非お願い申して置かなくてはなりません。わたくしの致した事を、もし不断の尺度で、日常生活の尺度で量って下さいましたら、それはわたくしのためにひどい冤罪えんざいになるのでございますから。
画家。(令嬢の手を握り、目を見合せ、黙りいる。さて。)どうもこうなれば為様がありません。日常生活の尺度で量っても好いような幸福はないものでしょうか。(手を放す。)
令嬢。そんな幸福を求めようと仰ゃるのでございますか。
画家。(急に。)ええ。
令嬢。そう仰ゃれば、わたくしがこのお部屋へ参りまして、心付いた事がございますから、御遠慮なくそれを申して見ましょうか。
画家。何んでしょう。あなたがこの部屋へ這入って、すぐに気の付いた事があるというのですね。
令嬢。ええ。あなたの仰ゃるような幸福が。
画家。そんな幸福がどこかにあるというのですか。
令嬢。ええ。何んだかこのお部屋の空気の中に、そういう幸福の影が漂っているようでございますね。
画家。ふん。
令嬢。どうもわたくしには、そんな風に感じられますの。
画家。今でもですか。
令嬢。(しずかに。)なんでももうよほど前からの事でございますね。それがあなたには分らないでいるのでございましょう、何んでもあなたの生活にぴったり寄添っているものがございますように思われますの。その隠れた幸福と、あなたの生活とは、息が合っていますように、一つ呼吸をしていますように思われますの。思い違いかも知れません。こんなのが女の直覚とかいうものでございましょう。しかし考えて御覧なさいまし。お思い当りあそばす事がありは致しませんか。(画家こうべを垂る。令嬢はしずかに画家のかたわらより離れ去る。)ね。何んでもいつもあなたのおそばにいて、あなたのお目に留らないような人がいるのではございませんか。その人は余りあなたの生活に密接な関係を持っていますので、あたたはそれを家常の茶飯のように思召てお気をお留めあそばさないのではございませんか。よくお考えなすって御覧なさいまし。ね。(しずかに戸の口に歩み寄り、しずかに戸を開き、退場。)
画家。(物思いに沈みて凝立すること暫くにして、忽然夢の覚めたるが如き気色けしきをなし、四辺あたりを見廻す。ようようにして我に返る。)ヘレエネさん。(戸口に走り寄り、荒らかに戸を開け、叫ぶ。)ヘレエネさん。(画家は暫く耳をそばだている。四辺あたりはひっそりとして物音無し。画家は再び戸を鎖し、跡に戻り、物を案ずるさまにて部屋の内をあちこち歩き、何かそこらの物を手に取りては置き、また外の物を手に取りては置き、紙巻を一本取りて火を付け、一吸ひとすい吸い、たちまちそれを投げ捨て、右手の為事机に駈け寄り、慌ただしく物をかき始む。暫くして何事をか口の内にてつぶやき、癇癪かんしゃくを起したる様子にて、その紙を引裂く。さて外の紙を取りてかき始め、暫くしてかきめ、またその紙を引裂く。さて暫くくうにらみいて、忽ち激しき運動にて両手を顔に覆い、両肱りょうひじを机に突き、死人の如く動かずにすわりいる。○暫くありて、戸口よりモデル娘きたる。しずかにためらいつつ部屋の内に進み、始終物をおそるる如く四辺あたりを見廻す。娘は片手に伊太利亜種イタリアだねの赤き翁草おきなぐさの花の大束を持ち、片手に柑子を盛りたるかごを持ちいる。さて画家の、おのれの方に背中を向けて、さきの姿勢を取りおるを見付け、驚き、しずかに。)
モデル。今日こんちは。(ひっそりとして物音無し。娘はしずか煖炉だんろに歩み寄り、その上なる素焼のびんを取りて絵具入の箪笥の上に据え、それに翁草の花を挿す。そのあいだに画家は少し身を動かし、娘を見る。さて立ち上らんとしてまた腰を落し、女のする事を見ている。娘は忽ち画家のおのれを見るに心付き、詞急に。)おやすみなすったの。(間。)花を持って参りましたの。そしてあの柑子も。
画家。(詞急に。)うむ。好い好い。(立ち上り、歩み寄る。)翁草を買って来たね。お前はその花が好きかい。
モデル。(驚く。)これではいけなかったのですか。
画家。好いとも。(花を二三本取りて、娘の髪に当てがい見る。)お前のブロンドな髪に映りが好いぜ。
モデル。(さっぱりと)そのお嬢さんがわたしの髪とおんなじならようございますが。
画家。(驚きたる顔にて相手を見、さて。)ああ、その事かい。(間。)そんな事はもう忘れていた。己はただこの花を花輪にして、お前の髪に載せたらどんな工合だろうかと思ったのだ。
モデル。(花をいじりつつ。)そうしてかいて見ようと思いなすったの。
画家。まあ、そう思ったとしてな。お前にその花輪をいただかせて見た処が、ひどく映りが好かったのだ。そこでかこうと思ったが。
モデル。え。
画家。かこうと思ったが、その時丁度かく気になれなかったとしよう。頭痛か何かするのだな。そうしたらお前はどうするい。
モデル。待っていますわ。
画家。その内に日が暮れてしまって、かけなくなったらどうするい。
モデル。そんならそのあしたまで待ちますわ。
画家。それでもお前の頭に丁度好い工合に載せた花輪が無駄になって、あした載せたらもうそんな工合にはゆかないかも知れない。そういう事になったら、お前はどうするい。
モデル。そんならわたしは、花輪を頭に載せたままで、じっとしてそのあしたまで坐っていますわ。
画家。夜通しかい。
モデル。ええ。
画家。坐っていて居眠なんぞは出来ないのだぜ。居眠りなんぞをすると花輪がゆがむからな。
モデル。居眠なんかしませんわ。
画家。折角そうしてくれても、翌日になって見れば、その花がしぼんでいるかも知れない。
モデル。(悲し気に。)え。ほんにそうでございますね。萎んだ花は。
画家。(背中を向けつつ。)役には立つまい。
モデル。それはそうでございますとも。(間。娘はやはり花をいじりいる。)お嬢さんはどうなさいましたの。まだいらっしゃいますの。
画家。お嬢さんかい。(突然立ち留り、娘をきっと見、早足に娘のそばに寄り、両手を娘の肩に置き、娘を自分の方へ向かせ、目と目を見合す。)マッシャお前かい。(娘は呆れて目を見張る。)お前はいつもここにいるのだな。(娘は何事とも分らぬらしく、一歩退く。)うむ。そんな事をいったって、お前には分らないはずだった。(手持無沙汰ぶさたに、ほとんど恐る恐る。)マッシャ。この花はお前にる。(娘はいよいよ呆れ、何事ともわきまえず、目をいよいよ大きく見張る。画家は何といわんかと、思い惑う様子にて。)それからこの柑子もお前に遣る。そしてお前と一しょに食べようじゃないか。そしてな。これからは柑子が出るたびに、いつでもお前と一しょに食べようじゃないか。
モデル。(忽然と非常なる喜に打たるる様子。)まあ。本当でございますか。
画家。(娘をいだく。)己が悪かった。勘忍してくれい。(娘は顔を画家の胸に押付く。画家はしずかに娘の髪を撫づ。娘忽ち欷歔ききょす。画家小声にて。)どうしたのだい。なぜ泣くんだい。
モデル。(泣笑なきわらい。)でもまたわたしの胸がこんなになっては、あなたがかかれないと仰ゃいますでしょう。
画家。(優しく。)ほんにお前は。
モデル。わたしは胸一ぱいになって、どう致して宜しいか分らないのですもの。(画家しずかに娘の前にひざまずき、娘を見上ぐ。娘両手にて画家の目をふさぎ、顔次第に晴やかになりて微笑み、少し苦情らしき調子にて。)あのわたしが待受けていましたのは、これまで幾度いくたびだか知れなかったのに、あなたは黙っていらっしゃったのですわ。それなのに、ひょんな時、出し抜けにこんな事を仰ゃるのですもの。(幕。)
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   (家常茶飯附録) 現代思想(対話)


太陽記者。こん度私共わたしどもの方で出すようになりました、あの家常茶飯かじょうちゃはんの作者のライネル・マリア・リルケというのは、あれは余り評判を聞かない人のようですが、一体どんな人ですか。
森。そうですね。私もくは知りません。たれも好くは知りますまい。あなたが御存じのないのも御尤ごもっともです。これまでのところでは、履歴もくわしくはおおやけにせられていないのですから。
記者。しかし少しは知れていましょう。何処どこの人ですか。
森。ボヘミア人です。それだから、現に墺匈国オオストリアの臣民になっています。八つの橋をモルダウ河に渡して両岸りょうがんまたがっているプラハの都府で、幾百年かの旧慣に縛られている貴族のうちに、千八百七十五年十二月の九日に生れたということです。それですから、今年の十二月で満三十三年になる。私なんぞよりはほとんど二十年も若い。せがれに持ってもいような男です。うちはケルンテンに代々土着していたということです。詩のうちで、「森のなかなる七つの城に、三枝みえだに花を咲かせた」いえだといっています。思想も貴族的で、先祖自慢をする処が、ゴビノオやニイチェに似ていますよ。肖像を見ると、われわれ日本人に余り縁遠くない、細おもての容貌ようぼうで、眼光が炯々けいけいとしているのです。そのくせおとなしい人だそうです。むしろ女性的にょせいてきだということです。エルレン・ケイとひどく相獲あいえていると見えますね。
記者。それでは交際が広いのですね。
森。ある意味では広いと見えます。同臭のものを尋ねて欧洲おうしゅう大陸を半分位は歩いていましょう。何でも親達おやたちは軍人にするつもりで、十ばかりのやつつかまえてウィインの幼年学校に入れたのだそうです。処が規則で縛って置きにくい性質なので、十五の時にとうとう幼年学校から退学してしまったそうです。それから大学にはいっていたことがあるらしいのですが、そのあいだの事は好くわかりません。旅行した国々はロシア、ドイツ、フランス、イタリアです。ロシア趣味はたっぷりその作品に出ています。優しい、情深い、それかと思うと、忽然こつぜん武士的に花やかになって、時として残酷にもなるような処があります。そこをショパンの音楽のようだとった人がありましたっけ。社会というものに対する態度には、トルストイ臭い処もありますね。独逸ドイツではウォルプスヴェエデの画かき村にはいり込んで、あそこの連中と心安くして、評論を書きました。都会嫌だから、伯林ベルリンなんぞには足をめないらしいのです。尤もハウプトマンは大好だいすきと見えます。フランスではロダンの為事場しごとばに入り浸りになっていて、ロダンの評を書いたのですが、ロダンを評したのだか、自家の主観を吐露とろしたのだか分からないような、すこぶ抒情的じょじょうてきな本になってしまったのです。かくおそろしい傾倒のしようなのです。全くれ込んでいるのです。イタリアでは就中なかんずくヴェネチアが好なのです。今の大陸の欧羅巴ヨオロッパは死んだ欧羅巴だというので、生気のあった時代の遺蹟を慕って、「過去の岸に沿うて舟をる」というのです。
記者。それでは画家や彫塑家の評論をる外は大抵抒情詩を遣っているのでしょうね。
森。そうです。本領は抒情詩にあるのです。跡で著述目録を御覧に入れましょう。先頃さきごろわが百首のうちで、少しリルケの心持こころもちで作って見ようとした処が、ひどく人に馬鹿ばかにせられましたよ。
記者。小説はありませんか。
森。あります。短篇集たんぺんしゅうを四冊出しています。尤も「可哀かわいい神様の事」という方は、切れていて続いているような話です。あどけない、無邪気な、そしてじょうの深い作です。子供に話すのだということになっていますが、もし子供に小説が書けたら、あんな物が出来ようかと思う程です。日本なんぞであんな物を書いたら、人がさぞ馬鹿にすることでしょう。
記者。脚本は家常茶飯の外にまだありますか。
森。いいえ。外には絶板になっているのと雑誌に出た一幕物ひとまくものと二つあるばかりです。どれもはたから失敗の作だと云ったので、作者も跡を作らないのでしょう。しかし生意気な事を言うようですが、家常茶飯は成功の作かも知れないと思います。
記者。何故なぜ失敗だと云ったのでしょう。
森。ドラマチカルでないと云うのですよ。そりゃあヘッベルの作やなんぞを見る標準で見られては駄目でしよう。イブセンのような細工もありません。しかし底には幾多の幻怪なものが潜んでいる大海のおもてに、可哀らしい小々波さざなみがうねっているように思われますね。
記老。そんな作ですか。一体家常茶飯というのはどういうわけですか。
森。原語は日常生活です。しかしそう云っては生硬になるのがいやです。家常茶飯と云うと、また套語とうごきらいがある。それでも生硬なのよりはましだと思うのは、私だけの趣味なのです。もっと優しい、可哀らしい、平易な題が欲しいのですが、見附みつかりませんでした。
記者。この脚本に対する批評は伺われませんか。
森。それはしたくありませんね。しかしただ一つ申して置きたい事があります。それはこの脚本の主意でも何でもない。ただそのうちのエピソオドに現われている一事件です。主人公の画家のえさんとおっさんとの間の関係です。姉えさんがおっ母さんに対して尽している処を見ますと、その形跡から見れば、天晴あっぱれ孝子です。よめにも行かないで、一身を犠牲にしておっ母さんを大切にしています。そこでその思想はどうです。あの弟との対話をよく読んで御覧なさい。われわれの教えられている孝という思想は跡形もなく破壊せられてしまっています。決して母だから大切にするのではないのです。そこで今ここに一人の葡萄茶式部えびちゃしきぶがいると想像して御覧なさい。そしてその娘もおっ母さんを大切にしているのです。この娘は高等の教育を受けたので、英語が読めます。そこで現代詩人の作を読んでいるのです。この娘の思想は、脚本にある画家の姉えさんの思想と違っているでしょうか。同じでしょうか。一寸ちょっとこれだけの事でも考えて見れば、深く考えて見れば、倫理上教育上の大問題です。ねえ。そうではありませんか。私の申す事が、あなたに好くおわかりになりましたか、どうだか、知れません。一つ外の例を引いて申しましょう。あのバアナアド・ショオの脚本にゼ・デヴィルス・ヂッシプルというのがあります。主人公ヂックが牧師の内にって、牧師夫婦と話をしているうちに、牧師が余所よそへ出てしまう。そこへ敵兵が来て牧師を縛ろうとする。縛られて行けば、見せしめにはりつけか何かにせられてしまうのです。敵兵はヂックを牧師だと思って縛りに掛かる。ヂックは牧師のつもりで、平気で縛られてきます。牧師がヂックのために恩義でもある人ですか。決してそうではないのです。実は悠々たる行路の人なのです。しかしヂックは「おれは牧師ではない」というのがいやなのです。ヂックは非常な仁人とか義士とかに見えるでしょう。しかしヂックの思想はわれわれの教えられている仁だの義だのというものとは丸で違っているのです。これはわれわれの目に珍らしいばかりではありません。倫敦ロンドンで始て興行せられた時、英人にも丸で分からなかったのです。それだからヂックを勤めたカアソンという役者が、批評家に智恵ちえを附けられて、ジックは牧師のさいを愛しているので、それで牧師の身がわりに立ったということにした。そして敵兵にとらえられる時に、そっと牧師のさいの髪に接吻せっぷんしたのです。作者はこの興行の時にはコンスタンチノオプルにいたので、そんな事をせられたのを知らずにしまいました。これが家常茶飯に出る画家の姉えさんの孝行と好く似ています。こう云う処を考えて御覧なさい。どれだけの大問題がこのうちに潜んでいるかということがわかりましょう。そこでこんな風な考も、いきおい起らずにしまうわけには行きますまい。一体孝でも、また仁や義でも、そのはじめに出来た時のありさまはあるいは現代の作品に現れているような物ではなかったのだろうか。全く同一でないまでも、どれだけか似た処のある物だったのではあるまいか。それが年代を経て、固まってしまって、古代宗教の思想が、寺院のおきてになるように、今の人のう孝とか仁義とかになったのではあるまいかと、こんな風な事も思われるでしょう。何故なぜというに、現代詩人のうちには随分敬虔けいけんなような、自家の宗教を持っているらしい人があるのですからね。リルケなんぞもその方ですよ。こうなると、一面解決の端緒たんちょが見えそうになると共に、一面問題はいよいよ大きくなるでしょう。しかししやそんな風に根本の観念は生れ変って来るかも知れないとしても、宗教上に寺院の破壊が大事件たいじけんであると同じわけで、固まった道義的観念の破壊も大事件に相違ありません。それですから、何故なぜお前は家常茶飯のような危険極まる作を翻訳するのだと云う人もありましょう。そういう人の立脚地から考えて見たら、危険かも知れません。しかしこれを危険だとしておおやけにしないとすれば、トルストイでもイブセンでも、マアテルリンク、ホフマンスタアルでも、現代的思想の作というものに、一つとして翻訳して好いのは無いのです。現代文学の全体を排斥しなくてはなりません。文学上の鎖国を断行する必要があります。そんならその鎖国を実行しようと思ったら、出来るでしょうか。あなたはどう思いますか。これも大問題ではありませんか。こん風に考えてけば、問題は問題を生んで底止ていしする所を知らないのです。おたずねになるから、こんな事も言います。自分の出すものに講釈を附けて出すような事は、いやだから、なるたけしないようにしています。人はおりおりそういう事をしますが、わたくしはそれを見ると不愉快に感じます。何でも芸術品はたれの作とも、どうして出来た作とも思わずに、作其物そのものとぴったり打附ぶっつかって、その時の感じを味いたいのです。わたくしの出す物なら、製作でも翻訳でも、それで人がなんにも感じてくれなければ、それでよろしいのです。多くはそういう風で済んでしまうだろうと思います。こん度訳した家常茶飯だって、黙って出してしまえば、恐らくは誰も何とも思わずにしまいましょう。読者も家常茶飯として食べてしまいましょう。現代文学のあらゆる翻訳はみなそうなのです。そうではありませんか。
記者。伺って見れば、そんな物ですね。讃否さんぴは別として、現代思想というものが、幾分か領会せられるなかだちになるとすれば、雑誌に家常茶飯を出すのも、単に娯楽ばかりでなくなりますね。
森。そうですとも。あなたが讃否と云われました、その讃否ですがね。勿論もちろん翻訳をするものが、原作の思想に同意しているか、いないか、同意しているなら、全部同意しているか、どこまで同意しているか、それは分からないのですが、製作をするとなっても、そのへんを考えて見ると、妙なもんです。ツルゲニエフがあの虚無主義という語を始て使った小説ですね。あれの出たときの話を、あなたも御存じでしょう。あの虚無主義者と看做みなされている主人公の医学生に賛同しているというので、貴族は作者を攻撃する。虚無主義という名を附けられた青年連は、自分たちを侮辱したというので、これも作者を攻撃する。作者は板挟いたばさみになったと、自分で書いていますね。あんなわけで、芸術品は客観的に出来ている方面から見れば、容易にこんな判断は附き兼ねるものなのでしょう。そこが面白いのではありますまいか。
記者。そこに価値があるのかも知れませんね。いや。いろいろ伺って難有ありがとうございます。さようなら。
森。ああ。一寸おまちなさい。リルケの著作目録を上げますから。これです。
記者。難有うございます。それでは持って帰って拝見しましょう。
    ライネル・マリア・リルケ著作目録
     (Rainer Maria Rilkes Werke.)
  題号                 種類 発行年 発行地      備考
Leben und Lieder.            詩  1894  Strassburg i.S.  ――
Larenopfer.                詩  1896  Prag       絶板
Jetzt und in der Stunde unsres Absterbens.脚本 1896  家蔵板      絶板
Traumgekroent.              詩  1897  Leipzig      ――
Advent.                  詩  1898  同右       ――
Am Leben hin.               小説 1898  Stuttgart     ――
Zwei Prager Geschichten.         小説 1899  同右       ――
Geschichten vom lieben Gott.       小説 1900  Leipzig      (三板[#改行]1908)
Die fr※(ダイエレシス付きU小文字)hen Gedichte.(Mir zur Feier 改題)詩 1900  Leipzig und Berlin (再板[#改行]1909)
Die Letzten.               小説 1901  Berlin und Stuttgart――
Das taegliche Leben.           脚本 1901  Muenchen     ――
Das Buch der Bilder.           詩  1902  Berlin und Stuttgart(再板[#改行]1906)
Worpswede.                評論 1903  Bielefeld und Leipzig(再板[#改行]1904)
Das Stundenbuch.             詩  1905  Leipzig      ――
Die Weise von Liebe und Tod des Cornets
 Christoph von Rilke.          詩  1906  同右       ――
Neue Gedichte.              詩  1907  同右       ――
Der neuen Gedichte, anderer Teil.     詩  1908  同右       ――
Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge. 散文 1910  同右       ――

    参照書類
Ellen key, Rainer Maria Rilke. Deutsche Arbeit. Prag 1905. Heft 5, 6.
A. Michels, Apollo und Dionysos. Stuttgart 1904.
R. Freienfels, Rainer Maria Rilke. Literarisches Echo. Berlin 1907. IX, 17.
Fr. von Oppeln-Bronikowski. Blaue Blume. Leipzig 1900.
Fr. von Oppeln-Bronikowski, Rainer Maria Rilke. Mitteilungen der literarhistorischen Gesellschaft Bonn. Dortmund 1907.
Franz Wegwitz, Rainer Maria Rilke. Westermanns Monatshefte. Braunschweig 1908. Jahrgang 53, Heft 3.
(明治四十二年五月)

底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「森鴎外全集」岩波書店
入力:鈴木修一
校正:土屋隆
2008年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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