寒中、東京湾内には無数の鴨がいる。向う岸、姉ヶ崎から木更津辺の沖合には、幾千となく群をなしているし、手近なところでは、新浜御猟場沖合に、数十の群が散在しているし、其他、二三羽、四五羽の遊離群は、殆んど湾中を点綴してるといってもよい。
 それらの鴨をねらって、発動機船を乗り廻すのである。以前は、鴨は艪の音をしか知らず、モーターの音には遠くから逃げ立ったものだが、近年、湾内に発動機船の往復頻繁になってからは、わりに近くまで寄せるようになった。禁物は帆である。帆というよりも、水面に映る帆影である。
 五時頃、遅くも六時頃までには、猟地近くへ達しなければ、本当の楽しみは味えない。朝靄にとざされたなだらかな海面では、発動機の響きも、夢に包まれたような軽快さを持つ。水平線から直射する朝日の光ではなく、ぽーっと白んでくる明るみに、靄が淡くとけこんでいって、ひたひたと湛えてる海面に、黒一点、また一点、鴨の姿が見えだしてくる。鴨に交って、或は離れて、雁もいる、鵜もいる。鴎が空中低く飛んでいる。
 鴨の群へなるべく近くまで寄せるのが、運転の技巧である。寄せきって、ぱっと飛び立つところを、待ちかまえていた銃手がターンと発射する。
 ひらりと翼を裏返して、そのまま巨大な木の葉のように、水面に落ちて横たわるのがある。翼を張ったまま、ゆるやかに旋回して、着水してけろりとしてるのがある。翼を縮め首をすくめ、自身の重みで落下して、水中にもぐってしまうのがある。第一のは即死だ。第二のはびっくり仰天だ。第三のはずるい隠れん坊だ。
 そして、傷は、痛みは、流血は、どこにあるのだろう。ターンと響く銃声は、紙鉄砲の音である。空中に展ばされた灰色の翼は、自由自然の姿態である。そして、ひらひらと舞い落ちて水面に横たわったのも、水面に浮んでびっくりしてるのも、ひとかたまりになって水中にもぐってしまったのも、臨機の戯れにすぎない。なめらかな羽毛に蔽われてる彼等は、水中にあっても、空中にあると同じく、軽快自由である。傷は、痛みは、流血は、どこにあるのだろう。
 陸上の銃猟で、人は屡々痛ましい光景に接する。撃ち落された鳥の胸から、鮮血がしたたって、下敷の草葉をも染めてることがある。翼を或は足を傷ついて、足で或は翼で、渾身の努力をしながらとびかけり、物蔭を求め、叢を求めて、そこに首をつきこみ、恐怖と苦痛と流血とに喘いでるのもある。
 主体的見地から、主観的に考える時、堅固な拠り所のある大地の上で苦しむのと、掴み所のない流動してる水の上で苦しむのと、その苦悶の度は果して何れが大きいであろうか。吾々自身、重傷になやむ時、身体をよせかけ手をもたせ足をからませる物のある場所と、何の手掛りもない平面上と、どちらを選ぶであろうか。外科手術の場合、身体を緊縛することは、消極的な一面に於ては、たとえ無意識的にせよ被手術者が苦痛に堪え得る便法となるそうである。
 然しながら、吾々は手術台の上で身体を緊縛されて死することを、最も苦痛だと想像する。次は、室内、次は、広々とした野原。次に、水上。次は、空中。何等の拠り所も掴み所もない場所に於ては、苦悶も苦悶とならないかも知れない。
 この、主観と客観との交錯は、芸術のもつ魅力の一つであろう。
 事実、私は東京湾の鴨猟を余りに芸術的に見たかも知れないけれども、この鴨猟に残酷みを感ずること少いのを以て、私の心情を責める人があるとすれば、それは……理屈をぬきにして、ただ、まだ湾内の鴨猟を知らない人だと、それだけ云いたい。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月22日作成
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