大震災から三年過ぎた年の話である。昨今隆盛を極めているアパートメントの走りがそろそろ現れた頃で、又青年子女が「資本論」という魔法使いの本にかれだした頃でもあった。生活の形式にも内容にも大きな転換期が訪れようとしていた。「近代」が、また「今日」が、始まろうとしていたのである。
 涅槃ねはん大学校という誰でも無試験で入学できる学校の印度哲学科というところへ、栗栖按吉くりすあんきちという極度に漠然たる構えの生徒が、あたかも忍び込む煙のような朦朧もうろうさで這入はいってきた。強度の近眼鏡をかけて、落着き払った顔付をしているから、何かしら考えている顔付に見えたが、総体に、このような「常に考えている」顔付ほど、この節はやらないものはない。当節の悧巧りこうな人は、こういう顔付をしないのである。尾籠びろうな話で恐縮だが、人間が例の最も小さな部屋――豊臣秀吉でもあの部屋だけはそう大きくは拡げなかったということだ――で、何かしら魔法的な力によってどうしても冥想めいそうに沈まなければならないような驚くべき心理状態に襲われてしまうあの空々漠々たる時間のあいだ、流石さすがに悧巧な人間も万策つきてこんな顔付になることがあるという話であるが、あの部屋に限って二人の人が同時に存在することが決してないという仕組みになっているものだから、まったくの話が、あんな勿体もったいぶった顔付を臆面もなく人前へさらすのは不名誉至極な話である。だから当今「常に考えている」顔付をあくまで見たいという人は、精神病院へ行くよりほかに仕方がない。あすこの鉄格子のあちら側には即ち必要以上に考え深い人達が、その考え深いという性質や容貌を認められて、幸福な保護を受けているわけなのである。
 然し、たまたま時世が時世であったから、人々は栗栖按吉の考え深い顔付を見ると、さては、という必要以上に大きな空気をごくりと呑んで、つまりこういう顔付が刑務所の鉄格子のあちら側にある顔だと思いこんでしまうのだった。即ち、これが「主義者づら」だと思ったのである。
 生憎あいにくなことに、この男には育ちの浅いところがあり、というのは、つまり諸々の人間はすでに数万年以前にゴリラとかチンパンジーというものから人間になってしまったというのに、この先生の祖先だけはようやく二三百年ぐらい前にコンゴーのジャングルからやおら現れてきたばかりだという面影があった。諸君も御承知であろうけれども、ゴリラとか獅子とかがまとか、みんな考え深い顔付をしている。あの顔付は危険だ。動物園の鉄格子の外側へ野放しにして、所もあろうに涅槃大学の印度哲学科でもうひと苦労考える苦労を重ねるという、思い余った挙句には突然爆裂弾を投げつけたりピストルを乱射したり、それはもうみんなこの顔付のてあいなのである。穏良な坊主の子弟のことだからこの怪物の入学には一方ならずおびえた形で、だから少しぐらい神経衰弱になっても試験のある学校へ行くべきであったと今更嘆いてみたのであったが、栗栖按吉に話しかけられることがあると、気の毒なほどひやりと顔色を変えるのであった。が、幸いにして、読者ももとより御承知の通り、蟇やゴリラはめったに人に話しかけない
 栗栖按吉という男が、この時まで、何処どこで何をしていたかということになると、これが皆目分らない。筆者も色々調べてみたが、どうも、さっぱり分らない。このとき二十一歳だったが、それでも誰だったかの話によると、その前年のことであるが、大菩薩峠にほど近い奥多摩山中の掘立小屋、これは伴某という往年の夢想児が奥多摩の高原を牧場にし峠から谷底まで牛でうようよさせるつもりで建てた小屋だということだが、牛なんか、まことにもって胸がすくほど、一匹もいないじゃないか。ところがこの掘立小屋を借り受けて、霧を吸い木の芽をくい、弓でもってモモンガーを退治してすき焼をつくり、人間は一ヶ月五円でもって楽々と生活ができるものだと悟りをひらき、勿体ぶった顔付をして深山を散策したり本を読んだりしていた男が、どうもこの男じゃなかったかという話がある。この小屋には燈火がないから、日が暮れると、突然ねてしまうほかに手がないのだ。と、ここにこの男は容易ならぬことを発見した。というのは、この男が眠っている顔の真上に当る棟木に、毎晩一匹の蛇がまきついているのを発見したわけである。昼になるともう姿がないところを見ると、蛇のねどこに相違ないが、蛇だってまき加減の具合や何かで悪夢を見るかも知れないからアッというまに足いや腹をすべらして墜落したら、いやこれはもう目も当てられない。この男が悟りをひらいていない証拠には、暗闇の部屋の片隅で、真剣な懊悩おうのうの様子といったらないのである。数日後には風にまぎれて山から姿が消えてしまった。それから涅槃大学へ現れるまで、とんと見た人がなかったのである。
 涅槃大学の印度哲学科には十三人の生徒がいた。栗栖按吉という場違い者を除いてみると、あとはみんな素性の正しい坊主であった。
 坊主の子供が大学へはいる。一番先に何をする。一番先に毛を延すのだ。必要以上にポマードをたっぷりつけて、ああ畜生めなんだって帽子などいう意味のはっきりしないものがあるのだろうと考えるのだ。と、容易ならぬ事件が起きた。突然栗栖按吉がクリクリ坊主になって登校したのである。これはもう革命を愛する精神だ。十二人の同級生は悲憤の涙を流したのだった。
 まったく、なさけなくなるのである。栗栖按吉は小学校の一年生と同じように大きな帽子をかぶっている。帽子の中には新聞紙が三日分も折りこんであるのである。按吉は教室へ這入ってくると、やがて大きな帽子をぬぎ、ハンケチを持たないから、ポケットから鼻紙をだして、クリクリ坊主をふくのであった。
 もっとも栗栖按吉がクリクリ坊主になったのは革命を愛する精神のせいではなかった。彼なみに、やむべからざる理由があったためなのである。頃はすでに初夏だった。長い頭髪がなかったら、きっと涼しいに相違ない。或朝按吉はふと考えた。その上彼は当時神経衰弱の気味があって、頭にもやがかかっていて、どうもはっきりしてくれない。人間はゴリラやライオンに比べれば確かに頭脳優秀であるが、ゴリラやライオンが床屋へ行くということを誰もきいた人がない。だから頭髪は刈るべきである。否、るべきであるのである。するともうきっと頭が良くなるのだ。――床屋の親父は迷惑した。剃刀かみそりのいたむことといったらものの三日もがなければならないだろう。そこで彼はこう言った。
「ねえ旦那。頭に傷がつくかも知れないね。なにぶん頭というものは、唐茄子とうなすぐらいでこぼこのものでがすよ。ヘッヘッヘ」
「或る程度まで我慢します」と、按吉は冷静に答えたのだった。頭には頭蓋骨というものがある。頭を剃るということとハムマーで殴ることとは違うから、脳味噌に傷のできる憂いはない。それを充分心得ている顔付だった。フレンド軒は横を向いて息をのんだ。この唐変木とうへんぼくめ、御好み通り傷の十は進上してお帰しするから覚えていろと心に決めてしまったのだった。
 ところで栗栖按吉はここに奇怪な発見をして度を失った。というのは、毛髪を失った頭の熱いことといったら、これを一体誰が信じてくれるだろう。普通汗をかくというが、クリクリ坊主の頭からは汗が湧出し流れるのである。目へ流れこみ、鼻孔をふさぎ、口へ落ち、耳にたまり、遠慮会釈もなく背中へ胸へ流入する。これはもう頭自体が水甕みずがめにほかならないと信じるようになるのであった。
 人体に於て最も発汗する場所はどこか? 頭! 毛髪はなんのために存在するか? 汗をふせぐためである! ああ。医学博士でも生理学者でも、ここまで知っている筈はない。なぜなら彼等には毛髪があるから。――まったくもって栗栖按吉の思考にうっかりこだわっていると、私まで愚かな奴だと思われてしまう。私は急いで話をすすめなければならない。
 無意味な先生は誰かと云えば、先生よりも物識ものしりの生徒の先生と、涅槃大学校の印度哲学科の先生であった。ここの生徒は耳と耳の間が風を通す洞穴になっていて、風と一緒に先生の言葉も通過させてしまう。然し先生はそんなことを気にかけない。先生は喋るために月給をもらっているが、教えるために月給をもらっていないからであった。
 こんなにあっさりしたクラスに、先生の言葉を真剣にきいている生徒がいたらどうだろう。実際笑止で、気の毒なほど惨めなものだ。耳と耳の中間の風洞に壁を立て、先生の言葉をくいとめようと必死にもがいているのである。なんのためだか、てんで意味が分らない。一目見て、これはもう助からないほど頭の悪い奴だという印象を受けてしまうのである。第一こいつは何のために学校へ来ているのだろう。あまりのことに――いや、まったくだ。物質の貧困よりも、このような精神の貧困ほど陰惨で、みじめきわまるものはない。そこで先生は泣きだしたいほどがっかりして、学生の本分とは何か、とか、学校の精神は何か、もっと正々堂々たれ、惨めであるな、高邁こうまいなる精神をもて、そんなことを口走りたくなるのであった。
 即ち栗栖按吉がこのようなたった一人の惨めな生徒であったのである。
 もっともこんな男でも、たったひとつ効能のあることが分ってきた。というのは、涅槃大学校の印度哲学科というところは、時々先生がわざわざ三十分も遅れたあげく教室へ出向いてくるのに、生徒の影がひとつもないということがあるのであった。即ち坊主の子供達は就職の心配がないのであるし、世襲の職業に情熱や興味を持っていないからなのである。時間制の月給をいただいていらっしゃる先生達は、人のいない教室に四五十分もうたたねしたり鼻唄うたったりしながら風をひいたりするのであった。そこで教務課長というような人が級長を呼び寄せて言うのである。君達の立場は分るのであるが、など同情深く口籠ったりしながら、籤引くじびきで受持ちの講義を決めるのはどういうものだね。つまり各々の講座には必ず一人の学生が決死の覚悟で出席する。いや、即ち君、これは学生の義務というものじゃからね、などと言い渡すのだった。と、栗栖按吉のクラスでは、まさにその心配がないではないか。
 ここに坊主の子供達が御布施をくれたって俺はでないねという講座が二つあるのである。梵語ぼんご巴利パーリ語の講座であった。ところが栗栖按吉が何より情熱傾けてこの講座へせっせと通う。調べてみると、一日に七八時間も文法書をひっくりかえしたり辞書をめくっているという話なのである。梵語の先生は大変心のやさしい方であった。新学期の第一日新入生を大変やさしくにこにこ見渡して(この時だけは一同出席していた)梵語というものは何年おやりになっても決してうだつの上らないものでございます、と仰有おっしゃるのである。四五年前大変熱心に勉強なすったお方がありまして、今もって私のところへここはどうだ、これは何だ、とおききにいらっしゃいます。この方は日がな一日梵語の勉強をなすっていらっしゃる、ところが梵語は辞書をひけるまでがまず一苦労、却々なかなか探す単語がおいそれと辞書から顔を出しません。いやはや梵語学者と申しましても、みんなそれぞれ怪しいものでございます、と仰有るのである。だからもう決して無理に梵語の勉強をおすすめは致しませんと、大変やさしく親切に言葉をつくして仰有るのだった。これでも梵語に出席しようという奴は、馬鹿でなければ礼節を知らない無頼漢のひとりであるに相違ない。
 けれども先生はやさしい心のお方だから、二学期になったというのに、まだひとり生徒が出席していても、決してお怒りにならないのだった。いつもやさしく、にこにこと講義をつづけて下さるのだが、幾分薄気味わるくお思いになるのであろう、というのは、この男が思い余った顔付をして質問したりするからで、この男が首をあげて今にも物を言いそうになると、先生は吃驚びっくりなすって目をおそらしになるのであった。
 梵語とか巴利語はなるほど大変難物だ。仏蘭西フランス語は動詞が九十幾つにも変化するということだが、そんなもの梵語の方では朝めし前の茶漬けにもならないという話なのである。それというのが後年栗栖按吉が仏蘭西語の勉強をはじめたからで、このような鈍物でも、梵語の方で悩んできたあとというものは恐しい。九十幾つの変化なんていやはや、どうも、やさしくて仕方がないのだ。覚えまいと思っていても覚えるほかに手がないという始末である。だから栗栖按吉は仏蘭西語を勉強しようという人に、こういう風に言うのであった。キ、君々々。ボ、梵語を一年も勉強してから仏蘭西語としゃれてみろ。あんなもの、朝めし前の茶漬けだぜ。え、おい、君。
 梵語の方では名詞でも形容詞でも勝手気儘に変化する。ひとつひとつが自分勝手と言いたいほど不規則を極めている。だから辞書がひけないのである。
 按吉はどこでどうして手に入れたかイギリス製の六十五円もする梵語辞典を持っていた。日本製の梵語辞典というものはないのである。これを十分も膝の上でめくっていると、膝関節がめきめきし、肩がって息がつまってくるのであった。これを五時間ものせている。目がくらむ。スポーツだ。探す単語はひとつも現れてくれないけれども、全身快く疲労して、大変勉強したという気持になってしまうのである。単語なんか覚えるよりも、もっと実質的な勉強をした気持になる。肉体がそもそも辞書に化したかのような、壮大無類な気持になってしまうのである。
 按吉の机の上にはこれも苦労して手に入れた「ラージャ・ヨーガ」という梵書とその英訳が置かれている。もう半年も第一頁をにらんでいて、その五行目へ進むことができないのだった。
 先生はやさしい心のお方だから、時々按吉をいたわって下さるのである。
「いまに原書が読めるようにおなりでしょう」先生はにこにこと仰有るのだった。
「もうひと苦労でございます」
 然し按吉にしてみると、六時間も七時間も辞書をめくった挙句あげくの果に、ようやくたったひとつの単語を突きとめて凱歌がいかをあげる程だったから、この先二苦労や七苦労で原書がお読めになるところまで行けないことを知っていた。そこで按吉の釈然とせぬ顔付を見ると、先生は更にいたわって下さるのである。
「いえいえ。梵語はもうそれでよろしいのでございます」先生はにこにこと仰有るのだった。「皆さんもう同じことでございます。五年十年おやりになっても、皆が皆まで引いた単語が現れてくれるというわけには却々なかなか参るものではございません」
 これは又心細い話である。これでは却々釈然と笑うわけにはいかないのである。そこで先生は益々浮かない顔付の生徒を見て、益々やさしく、いたわって下さる。
「梵語はあなた、まだまだ楽でございます」先生はにこにこ仰有るのである。「チベット語ときたら、これはもう私はあなた、もう満五年間というもの山口恵海先生に習っているのでございます。単語がもう何から何までひとつひとつが不規則変化。いまだに辞書がろくすっぽ引けは致しません。それでも帝大で講義致しております。大変つろうございます」
 先生は帝大でチベット語の講師を務めていらっしゃるのであった。先生がいつもにこにこしていらっしゃるので、浮かないながら、按吉は次第に心気爽快になっていた。文法もよくお知りにならず、辞書もお引けにならなくとも、帝国大学で講義していらっしゃるのである。チベット語や梵語というものは、辞書が引けず、読むことができなくとも、ちゃんとそれで読めている結果になっているのかも知れぬ。そうして栗栖按吉は辞書もろくに引けないうちに、ちゃんと原書を読んでいる気持になってしまうのだった。

 そのころ、栗栖按吉は不思議な学者と近づきになった。
 この学者はゴール共和国のラテン大学校の卒業生で、言語学者であった。東洋の二十数ヶ国語に通じているという話なのである。鞍馬六蔵という大変雄大な姓名だったが、いかにも敏捷な学者らしく、五尺に足らないお方であった。
 鞍馬先生は追分の下宿を二室占領して数千巻の書籍と共にくすぶっていたが、朝になると、大概脱脂綿にアルコールをしめして、丁寧に本を拭いていらっしゃる。というのは、最近鞍馬先生に夢遊病の症候が現れて、先生は夜中無意識のうちに歩行し、最も貴重な本箱に向って放尿し、またお眠りになる。そこで先生は毎朝目を覚して仰天し、アルコールで本をふく始末になるのであったが、夢遊病はとにかくとして、貴重な書物に放尿するに至っては、どうにも悲痛なことである。要するに夜中尿意に悩まなければいいのであるから、先生は午後になるとお茶をのまず、その上部屋の四隅へ溲瓶しゅびんを置いたが、無意識中における先生の意志はどうしても本に向って放尿せずには納まらない。生の馬肉やオットセイの肉などを食い、遂に赤蛙の生きた奴を食うところまで心をきめたが、どうしても食いたくないという意志などがあって、相反目せる精神がひとつの人体内に於てまき起す争いの結果は乱暴だ。食べられたくない赤蛙よりも、これを食べようという先生の方が、より以上にあわただしく惨澹たる悪戦苦闘をするのであった。
 孤独の先生は思うに弟子が欲しかったのだ。けれどもペルシャ語だの安南語などいうものは、先生の方が月謝を払っても習ってくれる者がない。だから遂に見出したたった一人の弟子、栗栖按吉をいたわってくれることといったら涅槃大学校の梵語の先生も及ばないという風がある。
「その程度なら、君、語学を専攻するだけの天稟てんぴんがある」と、先生は梵語の手並をためした上で、こんな思いきったお世辞を言う。涅槃大学校の梵語の先生と違って、決して笑わないから、言葉がみんなほんとのような気がするのだった。「ラテン大学の言語学科は全世界の天才が集ってくるが、中には丁度君程の才能しかない男がいたです。一年そこそこでその程度なら、日本では梵語学者になれるな」
 先生の言葉はなんとなくあらゆる物に心安い感じを起させる。ラテン大学校の天才だの安南の哲学者だのネパールの王様だのというものが友達のような気がするのである。日本の梵語学者なんてものは、どうも、俺の弟子に当る男じゃなかったかな、などいう気持についなってしまうのだった。
 ところが先生は按吉に向って、大いに見込みがあるからチベット語を伝授しようと言う。二十世紀に仏教を勉強するほどの者なら、先ずチベット語をやらなければ話にならない、と仰有るのである。梵語や巴利語の文献はいくらも残存していないが、仏教関係の文献は殆んど全部チベット語に訳されて伝わっている。だから仏教はチベットから這入らなければ二十世紀の学者として真物ほんものじゃないと仰有るのだった。
 生憎あいにくなことに按吉はもはや印度哲学にそろそろ見切りをつけだしていた。とても悟りがひらけそうもないからである。頭の毛もそろそろ生え揃ってきたし、これを機会に印度の方と手を切って、仏蘭西とか独逸ドイツとか、ハイカラなところと手を握ろうなど考えだしていたのであった。すでに印度界隈にとんと情熱がもてないところへ、それが専門の帝大の先生でも、まだ文法もよくお知りにならず、辞書もお引けにならないと仰有る。なるほど辞書はひくために存在するのであるけれども、言葉は辞書をひくために存在するのではないようである。梵語やチベット語の辞書をひくのは健康に宜しく食慾を増進させ概してラジオ体操ほどの効果があるとはいうものの、辞書は体育器具として発売されたものではない。そこで栗栖按吉は大汗かいてチベット語の伝授を辞退することに努めたが、鞍馬先生という方は他人にも意志だの好き嫌いだのというものがあることなど、とんと御存じないのである。
「いや、君々」と先生は仰有る。「チベット語は仏教のために存在する言語ではないです。君、興味のない印度哲学は即座に止すべきところだね。そしてチベット学者になりたまえ。元来チベット語の話せる人は日本に四五人いるいないの程度だぜ。即ち君は六人目だな。一ヶ国語に通じることはその国土と国民を征服したことになるんだぜ。そうだろう。君」
 どうも先生の話はうますぎる。おだてには至って乗り易い按吉だったが、言葉を征服すれば国土と国民を征服したことになるという、女の人に道を尋ねて女の人が返事をしてくれれば、女の人をわが物にしたことになるというのと同じようなものじゃないか。尤も按吉が六人目のチベット学者になりかねないのは正真正銘のところらしく、即ち帝国大学の先生が文法もよくお知りにならず、辞書もおひけにならないことでも大概察しがつくのであった。
 丁度そのころチベット語の大家山口恵海先生の所説で、古来から高麗人こうらいびとびならわしていた帰化人たちがチベット人ではないかという発表があった。現に高麗の言葉というウズマサだのサイタマだのという地名がチベット語であるし、カグラ、サイバラがチベット語で、あの文章のヤというかけ声のようなものが卑猥な意味をもったチベット語だというのである。サンバソウがチベット語で「トウトウタラリ」の全文がそっくりチベット語にほかならず、現にチベットに於ては、これとほぼ同じような踊りが行われていると言うのであった。
 この程度にわが国の古い文化に密接な関係があってみると、鞍馬先生のうますぎるおだてに乗るのは危険だと思いながらも、つい六人目の学者になるのも満更ではなさそうだという大きな気持になるのであった。
 さあ按吉がチベット語の伝授を受ける快諾をすると、先生の勇み立つこと、それ教科書だ、辞書だ、文法書だ、参考書だ、チベットの事情に関する紹介書だ、これもやる、あれもやると按吉の膝の上へ積み重ねてくれる。と、按吉がこれをひそかに注意を怠らずにいたところが――というのは、これが相当問題が臭いからで――先生がこれらの書物を忙しく取り出してくる場所が、決して本箱の腰から上に当る場所ではないではないか。してみればこれはもう洗礼を受けたあれである。けれども学問の精神は遥か高遠なところにあるべきだから、按吉は膝の上の書物がたしかに湿っていても、これは神秘な書物だから汗をかいているのだなと考える。印度では糞便の始末を指先でするほどだから言語も多少は臭いなど自ら言いきかすのであった。
 ところが、不思議な因縁で、チベット語はたしかに臭いのであった。というのは、先生は大変放屁をなさる癖があった。伝授の途中に「失礼」と仰有って、廊下へ出ていらっしゃる。戸をぴしゃりと閉じておしまいになるから、廊下でどのような姿勢をなすっていらっしゃるかは分らないが、大変音の良い円々とした感じのものを矢つぎばやに七つ八つお洩らしになる。夜更けでも陰気な雨の日でも、先生のこの音だけはいつも円々としていて、決してれた感じやかすれた響きをたてることがないのであった。それから廊下をなんとなく五六ぺん往復なすっていらっしゃるのは充分臭気の消え失せるまで姿を見せまいという礼節と思いやりの心から出た散策であろう。やがて部屋へ現れて、また「失礼」と仰有って伝授をおつづけになる。
 ここで筆者は日本帝国の国威のために一言弁じなければならないが、帝国大学の先生が辞書がおひけにならなくともそれは日本帝国の不名誉にはならないという事である。なぜならば、ラテン大学校の秀才も、やっぱり辞書がおひけにならないからであった。先生は親切な方だから、生徒の代りに御自分で辞書をひいて下さる。按吉の面前でものの二三十分も激しい運動をなすっていらっしゃるが、なかなか単語が現れてくれないのである。そのうち失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。屁をたれて、なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って、辞書を抱えて激しい運動をなさる。やっぱり単語が現れない。
 そのうち按吉はチベット語の辞典といえば学者の健康のために作られたものではないかという風に考えていて、一分や二分で単語を探しだしてしまうのはチベット語本来の性質にそむくものだという風に思っていたから、先生の激しい運動に対しても決して先生がお出来にならないせいだなどと思うことはなかったが、然し先生が失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って戻っていらっしゃる。その先生の礼節がしみじみといたわしく、大変わびしくてならないのだった。そこで按吉は或る日言った。
「先生、放屁は僕に遠慮なさることは御無用に願います。かえって僕がつらいですから」
 すると先生はその次放屁にお立ちのとき障子を開けようとして手をかけてから按吉の言葉を思い出されたのであろう、それではと仰有って振向いて、障子に尻を向けておいていつもの通り七ツ八ツお洩らしになった。そうして、その後はこの方法が習慣になったのである。ところがここに意外なことに、按吉は従来の定説を一気にくつがえす発見をした。これに就いては物識りの風来山人まで知ったか振りの断定を下しているほどであるが、大きな円々と響く屁は臭くないという古来の定説があるのである。ところが先生の屁ときたら、音は朗々たるものではあるが、スカンクも悶絶するほど臭いのである。即ち先生がなんとなく廊下を往復なすっていらっしゃったのは、けだし自ら充分に御存じのところであったのだろう。学問の精神は高邁こうまいなものであるけれども、ここに於て按吉は、チベット語の臭気に就いて悲痛な認識をもたなければならないのだった。その頃の按吉の日記の中の文章である。
外は晴れたる日なりき
今日もまたチベット語を吸いて帰れり
 この二行詩はいくらか厭世的である。先生の放屁にあてられて、彼は到頭とうとう思わぬ厭世感にかりたてられていたらしい。按吉はこの二行詩が出来上るまで詩というものを作ったことがなかったのである。ところが彼はこの時にわかにこの世には散文によっては表明しきれない何物かが在ることを痛切に知ったのである。即ちチベット語と屁の交るところの結果の如き、これは散文の能力によっては如何いかんとも表明することが不可能ではないか。こうして彼は意外にもチベット語と屁の交るところの結果から詩の精神を知り、また厭世の深淵をのぞいた。人間は、どこで、何事を学びとるかまことに予測のつかないものだ。
 この伝授がもう一年間もつづいたら按吉は厭世自殺をしなければならないような結果になったかも知れなかった。ところが、ここに天祐神助てんゆうしんじょあり、按吉は一命をひろったのである。
 天祐神助は先生が童貞を失ったことに始まる。先生は花の巴里パリに於てすら童貞を失わず、マレーの裸女にも目を閉じて、堂々童貞を一貫し無事故国へ辿たどりついてきたのに、こともあろうにおよそ安直な売春婦を相手にして、三十数年の童貞をあっさり帳消しにした。
 その結果、次のような理由によって、先生はまったく厭世的になったのである。即ち先生は按吉に言った。
「なんだ君。交接というものは実にあっけないものじゃないか。快感なんか、どこにあるのだ。君、そうじゃないか。馬鹿にしてやがる。僕は君、あの時だけは、世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚があるのだと思いこんでいたんだぜ。僕は君、一生だまされていたようなものだ。僕はもう、つくづく都会の生活がいやになったな。くにへ帰って、しばらくひとりで考えてくる」
 先生自体が神秘すぎて、按吉には、先生の厭世の筋道や内容がどうもはっきり呑みこめなかった。世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚というものをどうして三十何年も我慢していらっしゃったのか分らないし、その予想が外れたからといってどうして故郷へ帰らなければならないのかてんでわけが分らない。一生だまされていたなどと大変なことを言って嘆いていらっしゃるが、誰がどういう風にだましていたのだか一向わけが分らない。先生がこんな大変なことを言って嘆いているのをきいていると、先生が言葉という言葉をみんな覚えようとしたのは、つまりそれを総がかりにしても表現しきれないようなことを、実はどこかに表現されているのだと感違いしてせっせと勉強していたようにも思われるし、三十何年も童貞を守っていたくせに、実のところは先生年中そのことばかり考えふけっていたようにも思われるし、これはもうてんでわけが分らないのだ。
 とにかく分らないことばかりだが、按吉の身にしてみると、これでとにかく、こっちの方は自殺がひとつ助かったという甚だ明朗な事柄だけが沁々しみじみ分ってきたのである。青天白日の思いであった。そうして先生が童貞を失ってくれたことを天帝に向って深く感謝する思いによって心は暫くふくらんでいた。先生の相手をつとめた売春婦にお礼を述べたいものだなどと、忘恩的なことを一向に平然として考えているほどであった。
 尤も先生が童貞を失ってくれたおかげで、名誉あるわが帝国にはひとりの奇怪なチベット博士が生れずに済んだという国民ひとしく祝盃を挙げなければならないような隠れた功績もあるのであった。

 その昔、泉州堺の町に、表徳号を社楽斎という俳人があった。仙人になる秘薬の伝授を受け、半年もかかって丸薬をねりあげて、朝晩これを飲んだあげく、もうそろそろ飛行の術ができるだろうというので、屋根の上から飛び降りて、腰骨を折ってしまった。
 この時以来、できないことをすることを「シャラクサイ」ことをする、というようになったという話である。
 按吉は、時々深夜の物思いに、ふと、俺はどうも社楽斎の末裔まつえいじゃないかなどと考えて、心細さが身に沁むようになっていた。若い身そらで、悟りをひらこうなどとは、どう考えても思慮ある人間の思想じゃない。第一、辞書だの書物の中に悟りが息を殺して隠れているということは金輪際ないではないか。その昔、猿の大王だの豚の精だのひきつれて、こういう思想で、天竺てんじくへお経をとりにでかけた坊主もいたけれども、あそこには生死をかけた旅行があった。按吉ときては、電車にゆられて学校へ行くだけではないか。
 第一、印度の哲人達を見るがいい。若い身そらで、悟りをひらこうなどと一念発起した青道心はひとりもいない。どれもこれも、手のつけられない大悪党ばかりである。言語道断な助平ばかりで、まず不惑ふわくという年頃までは、女のほかの何事も考えるということがない。仏教第一の大哲学者は後宮へ忍びこんで千人の美女を犯す悲願をたて、あらかた悲願の果てたころに、ようやく殊勝な心を起した。これにつづく更に一人の大哲人は、母親を犯してのちに、ようやく一念発起した。おまけにこの先生ときては、天晴あっぱれ悟りをひらいて当代の大聖人と仰がれるようになってから、夢に天女とちぎりをむすんで、夢精した。これを弟子に発見されて有象無象うぞうむぞうにとりかこまれて詰問を受け、聖人でも夢と生理は致し方がないものだとフロイド博士に殴られそうなことを言って澄している。徹頭徹尾あくどい聖人ばかりであるが、按吉は我身と社楽斎のつながりについてひそかに心細さが身に沁むたびに、このことに就て、特にこだわらずにはいられなかった。社楽斎がいきなり仙人になることは先ず以て不可能だが、大悪党が聖人になることは確かに不可能ではない筈だ。
 ところで、話は別であるが、印度の哲人とは違った意味で、日本の坊主が、実に又、徹頭徹尾あくどいのである。
 仏教の講座に出席する。先生方はみんな頭の涼しい方で、なかには管長猊下げいかもあり、衣をつけて教室へでていらっしゃる。一切皆空を身につけて、流石さすがに悠々、天地の如く自然の態に見受けられたが、淡々として悟りきった哲理の解説にもかかわらず、悟りの明るさとか、希望とか、そういうものの爽快さを、どうしても感じることができなかった。そうして、それを感じさせない障碍しょうがいは、哲理自体にあるのではなく、それを解説していらっしゃる先生方の人柄――むしろ、肉体(実に按吉はその肉体のみはっきり感じた)にあるのだと確信するより仕方がなかった。実に、暗い。なにかしら、荒涼として、人肉の市にさまようような切なさであった。不自然で、陰惨だった。
 按吉は、時々、お天気のいい日、臍下丹田せいかたんでんに力をいれて、充分覚悟をかためた上で、高僧を訪ねることが、稀にはあった。坊主は人の頭を遠慮なくぶん殴るという話で、三十棒といったりして、ひとつふたつと違うから、出発に際して、充分に覚悟をきめる必要などがあったのである。天日ためにくらし、とはこの時のことで、良く晴れた日を選んで出ても、道中は実にくらく、せつなかった。けれども流石に高僧たちは、按吉のような書生にも、大概気楽に会ってくれたし、会ってみれば、実に気軽にうちとけて、道中の不安などは雲散霧消が常だった。そうして、各の高僧達は、各の悟りの法悦をきかせてくれた。けれども、ここでも、やっぱり人肉の市をさまようような切なさだけは、教室の中と変りがなかった。
 こういう立派な高僧方にお会いすると、どういうわけだか、人間とか、心とか、そういうものを感じる前に、いきなり肉体を感じてしまう。この世には温顔という言葉があるが、その実際が知りたかったら、高僧にお会いするのが第一である。即ち、肉体は常に温顔をたたえ、さながら春の風、梅花咲くあのやわらかな春風をたたえていらっしゃる。そうして、お別れしてしまうまで、肉体の温顔が、ただ、目の前いっぱいに立ちふさがっているのである。そうして、肉体の温顔が、ニコニコと、きさくに語って下さるのである。ナニ、美女もただの白骨でな、と、肉体の温顔がニコニコと仰有る。又、あるときは、これを逆に、イヤ、ナニ、美女のやわらかい肉感というものは、あれも亦よろしいものじゃヨ、と、こう仰有って大変無邪気にたのしそうにニコニコとお笑いになり、あれにふれるとホンマに長生きするのでのう、と仰有るのである。
 これと同じ意味のことは長屋の八さんが年中喋っているのであった。けれども、長屋の八さんはてんで悟りをひらかないから、八さんがこんなことを喋る時のだらしない目尻といったらまことに言語道断である。実にだらしなく相好そうごうくずしてヘッヘッヘとおでこを叩き、たちまち膝を組み直したりするけれども、八さんの話をきいていると、八さんの肉体などはてんで意識にのぼらない。こっちも忽ちニヤニヤして八さん以上に相好くずして坐りなおしてしまうのである。どうも悟りをひらかないてあいというものは仕方がない。夜の白むのも忘れて喋り、翌日は、酒ものまずに、ふつかよいにかかっている。
 ところが高僧のお言葉ときては、そういう具合にいかないのである。こっちも忽ちニヤニヤして、てもなく同感してしまうという具合にいかない。お言葉と同時に、先ず何よりも高僧の肉体が、肉体の温顔が、のっしのっしと按吉の頭の中へのりこんできて、脳味噌を掻きわけてあぐらをかいてしまうのだ。按吉は、思わず目をおおう気持になる。悟りのむらだつ毒気に打たれた。時には瞬間慄然とした。

 そのころ栗栖按吉に、ひとりの親友ができていた。龍海さんと云って、素性の正しい坊主であったが、まだ高僧ではなかったから、痩せ衰えた肉体をもち、高僧なみに至ってよく女に就て論じたけれども、てんで悟りに縁がないから、肉体の温顔などは微塵みじんもなかった。
 龍海さんは坊主の学校で坊主の勉強しなければならない筈であったけれども、坊主の足を洗いたいということばかり考えていて、金輪際坊主の講座へでてこなかった。そうして、絵描きになりたいのだと言っていた。生憎、龍海さんは貧乏な山寺の子供で学資が甚だ乏しいから、生きて食うのもようやくで、とても油絵の道具が買えない。水彩やパステルなどでトランク一杯絵を書いていたが、呆れたことには、女の姿の絵ばかりである。按吉は龍海さんを見くびっていたわけではないが、坊主の絵だから南画のような山水ばかり想像して、とにかく風景が多いだろうと思っていた。そこで、按吉は驚いた。むしろ唸った。絵が名作のわけではない。何百枚の絵を見終って、女以外の風景画が、花一輪すら、なかったからに外ならなかった。
「僕は、女のことしか、考えることができませんので……」
 びっくりした按吉をみて、龍海さんは突然まっかな顔をして、うつむいて言った。龍海さんは素性の正しい坊主だから、どんな打ちとけた仲になっても、あなた、とか、あります、という丁寧な言葉を使った。
 龍海さんは痩せ衰えて、風に吹かれて飛びそうな姿であったが、およ執拗しつよう頑固な決意を胸にかくしていたのであった。それは、油絵の道具をきっと買ってみせるという、小さいながらも凡そ金鉄の決意であった。そこで食事を一食八銭にきりつめ、そのためには非常に遠い食堂へ行き、通学に四マイル歩き、そうして貯金を始めたのである。愈々いよいよ予定の額になって、さて、油絵の道具を買いに行こうという瞬間に、盲腸炎になってしまった。入院し、実に貧弱な肉体ですなア、と医学博士に折紙つけられた挙句の果に、貯金をみんな、なくしたのである。
 龍海さんは意気悄沈、まったく前途をはかなんでいたが、或る日、再び元気になった。というのは、フランス帰りの放浪画家とふと知りあいになったからで、この画家の話によると、巴里まで辿りつきさえすれば、あとは一文の金がなくとも、なんとか内職で生きのびながら絵の勉強ができるという耳よりな話なのである。これは実際の経験談で、龍海さんを納得させる力があった。
 その日、ただちにその場から、忽然こつぜんとして、すでに龍海さんは貯金の鬼であった。一食八銭の食事も日に二度にきりつめ、あるときは一食にへらし、フラフラしながら学校へ来て、水をのみ、拾った金も遠慮なく貯金した。
「今日、五十銭、拾いました。すぐ、貯金して参りました」
 龍海さんは必ず按吉に白状した。まっかになって、うつむいて、白状した。龍海さんの気持としては、誰かに白状しなければならなかったに相違ない。巡査に白状するよりも、按吉に白状するのが便利であったのであろう。拾ったとき早速郵便局へ駆けつける用意ではあるまいけれども、懐中に、年中貯金通帳を入れていた。
 こうして不退転の決意をもって巴里密航の旅費を累積しはじめたのだが、同時に、忽ち、栄養不良の極に達して、亡者にちかい姿になった。按吉は不安であった。今度は盲腸どころじゃない。念願の金がたまった瞬間に、幽明境を異にして、魂魄こんぱくだけが水ものまず歯ぎしりして巴里へ走って行きそうな暗い予感がするのである。然し龍海さんは落ちついていて、目的のためには、栄養不良もてんで眼中におかなかった。
 丁度そのころの話である。
 龍海さんの先輩に当る一人の坊主――年の頃は四十二三、すでに所属の宗派では著名な人で、管長の腰巾着こしぎんちゃくをつとめており、何代目かの管長候補の一人ぐらいに目されている坊主であったが、これが何かの因縁で、ある日、按吉と龍海さんを引きつれて、浅草のとある料理屋で酒をのんだ。
 坊主が般若湯はんにゃとうをのむというのは落語や小咄こばなし馴染なじみのことだが、あれは大概山寺のお経もろくに知らないような生臭坊主で、何代目かの管長候補に目されている高僧は流石さすがに違う。却々なかなかもって、八さん熊さんと同列に落語の中の人物になるような頓間とんまな飲み方はしないのである。
 ここでも言いもらしてはならないことは、先ず、第一に、温顔であった。この世に顔の数ある中で、温顔の中の温顔である。常に適度の微笑をふくみ、陽春の軟風をみなぎらし、悠々として、自在である。声はあくまでやわらかく、酔にまぎれて多少の高声を発するようなことすらもない。洒脱しゃだつな応待で女中をからかい、龍海さんと按吉にさかんに飲ませて、自分は人につがれなければ強いて飲むということがなかった。
 さて、ここをでて、何代目かの管長候補は二人の青道心をひきつれて、待合という門をくぐった。
 思うに何代目かの管長候補は、二人の青道心が、酔わないうちから女を論じ、酔えば益々女を論じ、徹頭徹尾女を論じて悟らざることおびただしい浅間しさをあわれみ、惻隠そくいんの心を催したのに相違ない。高僧はどのように、又、どの程度に、女色をたのしむべきか、という具体的な教育を行うつもりであったのだ。
 芸者が来た。みんな何代目かの管長候補の長年の馴染で、芝居の話や、旅の話や、恋人の話や、凡そお経の話以外はみんなした。
 深夜になって、一同、待合の一室で雑魚寝ざこねした。朝がきた。顔を洗って、着物を着代えて、何代目かの管長候補は女の襟を直してやったり、女の帯をしめてやったり、熟練の妙をあらわして、二人の青道心をしりえに瞠若どうじゃくたらしめた。
 龍海さんも按吉も、何代目かの管長候補の厚意に対して感謝しないわけではなかった。それはたしかに純粋な厚意であったに相違ない。愚昧ぐまいな二人の青道心を、いくらかでも悟りの方へ近づけてやろうという、しかも芸者買という最も誤解され易い手段を用いて敢て後輩を導くという、容易ならぬことである。――けれども釈然とはできなかった。どうしても、なにかしら、割りきれない暗さが残った。
「なにかしら、割りきれないと思いませんか」按吉は龍海さんに訊いた。
「割りきれません! いい加減です! 鼻持ちならない!」
 そう答えて、龍海さんは、怒りのためにぶるぶるふるえた。二人はすっかり沈みこんで、がっかりしながら暫くめあてなく歩いていた。

 あれぐらいのことをするなら、なぜ堂々と女と一緒にねないのだ。そういうことが先ず第一に考えられる。問題は、然し、決して、それではなかった。
 たとい堂々と女とねても決して坊主は明朗にならない。按吉は思った。なにか割りきれない不思議な毒気は、単に女とねるねないの問題だけのせいではない。もっと、根本的なものである。坊主たちは、女を性慾の対象としか考えない。彼等が女から身をまもるのは、ただ、性慾をまもるだけの話である。
 然し、俗人は女に惚れる。命をかけて、女に惚れる。どんな愚かなこともやり、名誉もすて、義理もすて、迷いに迷う。そのような激しい対象としての女性は、高僧の女性の中にはないのである。按吉は痛感した。どちらが正しいか、それはすでに問題外だ。迷う心のあるうちは、迷いぬくより仕方がないと痛感した。そうして、こう気がついてのち、肉体の温顔だとか、むらだつ毒気だとか、そういうものを持たない人を見直すと、みんな今にも女のために迷いそうで、義理も命もすてそうなもろさがあるのに気がついた。

 そんな一日。按吉は学校の門前で、一枚のビラをもらった。
 トルコ語とアラビヤ語を一ヶ年半にわたって覚える。授業は毎日夜間二時間。そうして、一年半の後、メッカ、メジナへ巡礼にでかける。回教徒の志望者をつのるビラであった。
 その日から、締切の最後の日まで、按吉は真剣に考えた。メッカ、メジナへ行きたくなってきたのである。
 そのころ彼は、ちょうどある回教徒の聖地巡礼の記録を読んだ直後であった。巡礼者の大群はアラビヤの沙漠を横断して、聖地へ向って、我武者羅がむしゃらな旅行をはじめる。信仰の激しさが、旅行の危険よりも強い。そこで、食料の欠乏や、日射病や、疫病えきびょうで、沙漠の上へバタバタ倒れる。その屍体をふみこえて、狂信の群がコーランを誦しながら、ただ無茶苦茶に聖地をさして歩くのである。
 思いきって、沙漠横断の群の一人に加わろうかと考えた。そこに、命があるような思いがした。なにかノスタルジイにちかい激烈な気持であったのである。
 締切の日、彼は思いきって、丸ビルへでかけて行った。そうして、講習会場の入口へ来て、再び決心がつきかねて、三度その前を往復した。トルコ人が、彼を見つめて、講習会場の扉をあけて、消えてしまった。
 だが、彼はとうとう這入らなかった。トルコ人の姿が消えると、ふりむいて階段を降りた。その理由は――彼は丸ビルへくる電車の中で、すぐれて美しい女学生を見たのである。目のさめる美しさだった。彼の心は激しく動いた。
 これでアラビヤへ行こうなどとは、大嘘だと思ったのである。そうして丸ビルの階段を降りながら、生れてはじめて本当のことをした感動で亢奮こうふんしていた。これから、いつも、こうしなければならない、と自分に言いきかせながら歩いていた。
 その日から、彼は悟りをあきらめてしまった。龍海さんは巴里密航の直前に、女に迷って、行方不明になってしまった。そうして、生死が、わからない。

底本:「坂口安吾全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年2月27日第1刷発行
底本の親本:「炉辺夜話集」スタイル社
   1941(昭和16)年4月20日発行
初出:「文体 第二巻第五号(五月増大号)」
   1939(昭和14)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:宮元淳一
2006年1月11日作成
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