終戦後、東京都内にも小鳥がたいへん多くなった。殊に山の手の住宅街にそうである。空襲による焼野原が至るところに拡がっていて、人家はまだ点在的にしか建っておらず、植えられた樹木も灌木の如く小さい。随って、焼け残りの街衢は、荒野の中に小さな聚落をなし、こんもりとした樹木の茂みに包まれて、町ではなく村である。そういう部落の木立をしたって、小鳥たちが集まっているのであろうか。
 以前には見られなかったようないろいろな小鳥がいる。以前には聞かれなかったようなさまざまな鳴き声がする。おかしいのはチョットコイ鳥だ。姿は殆んど見せず、木の茂みの中をあちこち飛び移って、チョットコイ、チョットコイと鳴く。ちょっと来い、ちょっと来い。誰かが呼んでるのかと思って、覗いてみても、声はやみ、姿は見えず、やがてまた何処からともなく、ちょっと来い、ちょっと来い……。
 山田は溜息をつく。煩いのだ。うら悲しいのだ。心嬉しいのだ。どこか擽ったいのだ。いろんな感情がごちゃごちゃ入り交って、そしてやはり、その声が待たれるのである。ちょっと来い、ちょっと来い。
 実は、鳥の声ではない。美津子からの結び文だ。時によって変る文句を前後に置いて中身は、ちょっと来て頂けませんか。それを、紙片に鉛筆で書いて、縦に細かく折りたたみ、丁寧に一結びして、少女に持たせて寄来すのである。返事も待たず、届けっ放しだ。小鳥と同様、ちょっと来い、ちょっと来いと、鳴きっ放しだ。
 山田の方では、小鳥の声なら聞きっ放しでいいが、美津子からの結び文では、そうはいかない。彼は駒下駄をつっかけて、のこのこ出かけてゆく。
 焼け残りの部落を出はずれ、小さな商店がぽつりぽつりと建ってる荒地を少しく行くと、その先の部落のとっつきに、彼女の家がある。ちょっと来いの時、彼女はたいてい、奥の居間で、炬燵にもぐり込んでいる。もういくらかぽかぽかと、春だというのに、まだ炬燵か……とは思っても、山田もやはりその炬燵にもぐり込む。
「なにしていらしたの。」
 山田は苦笑するだけだ。男一匹、何にもしないでおられるわけはない。なにかかにか、用をしたり、考えたり、然し結局、何にもしないと同じことだ。
「いったい、どうしたんですか。」
「ただ、お逢いしたかっただけ。」
 彼女は眼尻で笑い、山田は溜息をつく。
 ちょっと来い、ちょっと来い。鳥の声と同じで、何も用はないのだ。腹を立てるほどのことでもないが、なにかしら苛ら立たしい思いで、山田は煙草を吹かす。
「また……はじまった。悪い癖だ。酒でも奢んなさいよ。」
「それこそ、悪い癖よ、なにかをいえばすぐ、お酒だって……。」
 彼女は大して酒好きではない。ただ、山田と一緒に飲むのが楽しいというのが、彼女自身の言い草である。そして、酔えばなにかと口舌が始まる。それも大した口舌ではない。つまり、下らないことをあれこれ並べ立てて、愛情の保証を求めようとするのだ。然し、愛情の保証なんて、世の中にいったい確実なものが何があるか。結婚とは、いつでも破ることの出来る形式に過ぎない。子供を拵えることは、無意識の偶然の現象に過ぎない。起請誓紙などは、古めかしい反故に過ぎない。だから、ちょっと来い……そしてすぐに来る。それだけが最も確実な保証なのだ。
「それでは、いつでも来て下さいますね。」
「この通り、来ていますよ。」
 然しそれが、週に一回とか五日に一回とかならば、まだよいが、次第に頻繁に、殆んど毎日のようになっているのである。山田の頭に憂欝なものが立ちこめる。それでも彼は、美津子の結び文を心待ちにし、それが来ないと、自分の方からのこのこ出かけて行く。彼女の方からは彼の家にあまり来ない。
「やっぱり、いらしたのね。」
 そして簡単な握手とキス。中年の男女の爛れたような情慾はそこにない。ただなにかしら投げ出しきったような愛慕だけだ。山田は泊ってゆくこともめったにない。
 そういうさなかに、事が起ってきた。
 美津子は奥の八畳の室に起居している。廊下を距てた離室みたいな造りである。母屋の方に小母さんたち一家族が住んでいる。山田の所へ結び文を持ってくる少女は、小母さんの娘だ。この一家族は美津子の親戚筋に当るが、美津子がどう言いくるめたのか、山田と彼女との関係には一切干渉しないことになっている。その他の点では、同居とも下宿ともつかない大まかな共同生活である。
 ところで、或る日、烈しい突風が吹き荒れたが、それから後、時折、美津子の室の天井裏に、ギーイ、ギーイと、大きな音が起るようになった。巨大な箱の中で木材を丸鋸で挽くような音である。風の吹く時に限るのだが、それも、余り強くなく弱くない風で、軒端に正面から吹きつける場合だけである。
 音の原因は、誰が見調べても一向に分らなかった。古い家屋だけれど軒端に穴があいてるのではなかった。然しどこからか天井裏に風が吹き入ってそこで太鼓やバイオリンの胴体みたいな作用をし、大きく鳴り響くのであろうか。または、ぴんと張りつめた薄板のようなものがどこかにあって、それが風に鳴るのであろうか。先ずそんなことしか考えられなかった。いずれ大工さんにでも頼んで調べて貰おう、ということになったが、それが延び延びになっている。
 そして或る程度の強さの風が正面から吹きつける場合、白昼でも深夜でも、時を択ばず、天井裏に、ギーイ、ギーイと、音が響くのだった。
 山田は眉をひそめた。
「まだなおさないんですか。よく気味わるくありませんね。」
「だって、べつに怪しいこともないんですもの。」
 小父さんが、押入の天井板を押し上げて覗いてみたが、どこにも異状はなかったそうである。
「怪しいことがなくったって、あんなところで音がするのは、たしかにへんですよ。」
 美津子は眼尻で笑った。
「手を見せてごらんなさい。」
「手……。」
「それ、いつかの……。」
「もういいんです。」
「なおりましたでしょう。天井の音だって、いまになおりますよ。」
 彼女は山田の手を執って、その手首を見調べた。もうどこにも斑点はなかった。先日まで、そこに紫色の斑点が二つあったのだ。それを見つけた時、山田はいやな気持ちになった。紫斑病という言葉を聞きかじっていたので、斑点を仔細に調べ、それから腕や腿をめくって眺め、風呂にはいる時にも体のあちこちを眺めた。どこにも紫色の斑点はなかった。ただ手首に二つだけ。物にぶっつけた記憶もなかったし、虫に刺された覚えもなかった。
 そして美津子に逢った時、彼女はいきなり彼の手首を見た。
「あ、御免なさい。」
 山田には何のことか分らなかったが、言われてみて思い出した。
 美津子と酒を飲んでいて、もうだいぶ酔っ払ってた時のことだ。小母さんの娘の正子が、動物づくし、魚づくし、昆虫づくしなど、きれいな絵本を持って来て見せた。
「おばちゃんに買ってもらったの。」
 おばちゃんとは美津子のことだ。
 科学的にも正確らしいそれらの絵本を、山田は正子と一緒に楽しく眺めた。たどたどしい読書に耽ってる正子よりも、きれいな絵本に見入ってる正子の方が、清らかで美しかった。その絵本を買ってやったのは美津子だ。正子の額が月光を浴びたように澄んでいた。山田は絵本を近々と覗くふりをして、彼女の方に顔を寄せ、いきなりその頭を抱いて、額にキスしてやった。唇に清冽な感じが来た。正子はしばしじっとしていたが[#「じっとしていたが」は底本では「じっとしていたか」]、首をすくめて笑い、絵本をかかえて逃げていった。
「ばかね。ばか……。」
 美津子が睥むまねをして、山田の手首をきゅっと抓った。
「あんな熱心なキス、初めて見たわ。わたしの額にも、さあ、してごらんなさい。」
 そして彼女はまた、彼の手首をきゅっと抓った。
 嫉妬でも非難でもない証拠には、彼女は笑っていた。だから、山田も忘れていたのだ。然し手首には、紫色の斑点が二つ残った。
 それも、数日でなおってしまったが、美津子の室の天井裏の音は、風の吹き工合によって、いつでも起った。
 その音に怪しいことはないとしても、美津子自身、だんだん痩せ窶れてゆくがようだった。額の小皺に汗をにじませてることがあり、夜は寝汗をかくことがあると打ち明けた。
「医者に診てもらいなさいよ。」
「大丈夫……。気候のせいでしょう。」
「それとも、天井裏の怪しい音のせいかも知れない。」
 その怪しい音ばかりでなく、山田はほかの物音にも、気を惹かれていた。それは、美津子のところにいる時よりも、自宅にいる時のことが多かった。
 夜陰深更、時として、表の街路に、馬蹄の音が聞えた。ふと眼を覚して耳を傾けると、たしかに馬の足音だった。それも、騎馬の威勢よい速足ではない。何か重い車でも引いて、遠い道を疲れながらこっとりこっとり歩いてる音だ。
 交通に便利な街道筋なら、夜中でも、トラックが走り、荷馬車が通うこともある。然しこの辺の街路は、日が暮れると共にひっそりしてしまい、朝日がだいぶ昇るまで大きな物は通らない。地の利が悪いのだ。それなのに、三更を過ぎた深夜、重い車を引いた馬が、こっとりこっとり歩いてゆくのだった。いったい、どういう荷物を引いてるのであろうか。何処から来て、何処へ行くのであろうか。敷石の上に蹄鉄の火花を散らすこともなく、もう疲れきって頭を垂れ、眼をしょんぼりと開いて、こっとりこっとり歩いてゆく。
 それを何度も山田は聞いた。枕の上で耳を澄ましていると、馬の足音はやがて遠ざかり、深い夜陰の彼方に没してしまい、山田も蒲団の中に頭を埋める。そして朝になって、思い出してみても、それが果して現実だったのか、夢だったのか判然としなかった。然しいずれにしても、心にはっきり残ってることに違いはなかった。
 これに比べると、太鼓の音はもっと明瞭だった。もう仄白く夜が明けかかる頃、太鼓の音が響いてきた。近くの神社からであろうか、個人の邸宅からであろうか、どこからか、太鼓の音が枕に通ってくるのである。初めはゆるやかに、ドーン、ドーンと、それから次第に急に、ドン、ドン、ドン、ドン……いつまでも単調に続く。
 最初聞いた時、山田は自分の空耳かと疑った。然し度重なるにつれて、確かに太鼓の音だということが分り、その確かさのため却って気に留めず、また眠りにはいった。それでも時折、眼を覚して聞いた。毎日のことではなく、日を置いて聞くと、太鼓の音は如何にも気紛れなものに思えた。最も確実な夜行列車の音も、時折に聞けば、気紛れなものに思えるのだ。いったい誰が、何のために、夜明け頃、太鼓など叩いているのか。気紛れなばかりでなく、その音は人をばかにしたものだった。ドン、ドン、ドン、ドン……いつまで単調に続くのか。山田はもう眠れなくなることがあった。それでもなかなか寝床から起き上りはしなかった。
 美津子は小首を傾げて考えた。
「そんな、馬の足音だの、太鼓の音だの、わたしは聞いたことがありませんわ。」
「それはあなたが寝坊だからでしょう。」
「あら、わたし、あなたより眼ざとい方じゃありませんか。」
「それでは、鈍感だからでしょう。」
 彼女はじっと山田を眺めて、真剣な眼付きになった。
「あなた、この頃、どうかなすったんじゃありませんの。なんだか、神経衰弱の気味みたいで、心配だわ。」
「神経衰弱か……。」
 山田はゆっくり繰り返して大きく欠伸をした。眼に涙が滲んだ。
「ね、はっきり言って下さらない。わたしと一緒にいると、退屈なさるんでしょう。」
「どうしてですか。」
「それをお聞きしてるんじゃありませんか。きっと、わたしはあなたにとって、退屈な女なんでしょう。」
「いや、ちっとも退屈しませんよ。第一……いつもいつも、ちょっと来いだから。」
 美津子は眼尻で笑った。
「そのくせ、わたしがお呼びしなければ、御自分からいらっしゃるのは、どういうことですの。」
「自分で退屈してるから、来てみるんでしょう。」
「退屈なすってるから……。では、愛情ではないのね。」
「いや、愛情に退屈してるのかも知れません。」
「そんなら、どうすればいいの、わたしたち。」
「このままでいいんです。ただ、も少し勉強しましょう。」
 それを考えると、山田は憂欝になった。美津子も憂欝な眼色になった。
 同じ学校に勤めてる同僚として、二人は愛し合ったのである。道徳堅固を旨とする師範出の教師が少くなってる現在では、そのことはまあ構わないとしても、なんだかすっきりしない気持ちがあった。仲間うちにも薄々は知れ渡っていた。だが、勉強、勉強、手を取り合って勉強しよう。それが最初の誓いだった。山田にも美津子にも、大きな研究のテーマがあった。春の休みになって、暇な時間も多くなった。然しそれらのこと、すべて、ちょっと来いの影で蔽われてしまったのだ。
 影の中から、いろんな物音が聞えてくる。天井裏に、ギーイ、ギーイと、風の音がする。夜中の街路に、こっとりこっとりと、駄馬の歩く足音がする。どこか近くに、ドン、ドン、ドン、ドンと、太鼓を叩く音がする。それらが山田の精神を囚えて、狭い窮屈な世界に縮めあげてゆく。
 山田は溜息をつくことが多くなった。欠伸をすることも多くなった。だが、それだけのことさえ面倒なほど、気がめいってしまう日もあった。突然陽が陰ってしまうような工合に、一切のことが嫌になるのである。意力も気力も、食慾さえも、すっかり無くなって、ただどこかのすみっこに息をひそめてじっとしていたい気分が、濃く深く身内に立ち罩める。誰の顔を見るのも嫌だ、口を利くのも嫌だ、ただ、消え入りたい気持ちで、じっとしていたいのだ。枕に顔を押し当てて寝ていたいのだ。このまま死んでしまったって構わない。昏迷銷沈の中にもぐっていたいのである。
 それは一種の発作に似ていて、而もその発作に甘えきることだった。失意の極、絶望の極、落胆の極、そんなものではなく唯あらゆる意慾の停止、あらゆる思考の停止だった。深淵の上に浮ぶ一枚の木の葉に身を託してそしてそこに安らうようなものである。日の光りもなく、風もなく、漣もなく、ただ一面に茫乎としているのだ。
 そのような時、彼はただ機械的に起き上っていた。寝ていたいとの気持ちさえないのだった。家人の誰とも口を利かなかった。母のない二人の子供にさえ口を利かなかった。そしてぼんやり時を過した。殆んど完全に何もせず何も考えない時間だった。
 夜になって、ちょっと来いの結び文が届けられても、彼は何の表情も浮べなかった。然し、やがて出かけて行った。美津子のところへ行くのも行かないのも、彼にとっては結局同じことだったのだ。
 炬燵に火が入ってるので山田はそこにもぐり込んで寝そべった。
「なにをしていらしたの。」
 いつも同じ挨拶だ。彼はにやりと無意味に笑った。
 柱掛けの一輪※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)しに、もう蕾の開きかけた桜の一枝が投げ込んであった。山田はそれをぼんやり眺めた。
「もう花もじきですわね。青葉もじきですわね。」
「ええ。」
「花はどうでもいいけれど、新緑を見にちょっと旅がしたいわ。」
「そう。」
「新緑を見に、一泊か二泊、どこかへ連れていって下さると、お約束だったでしょう。」
「ええ。」
「ほんとに連れていって下さるの。」
「ええ。」
「いつ。」
「ええ。」
「それとも、旅はお嫌なの。」
「ええ。」
「はっきりしてよ。連れていって下さるか、下さらないか、どちらですの。」
「ええ。」
「わたしほんとに行きたいわ。新緑を眺めて、一日か二日、ゆっくり考えたら、わたしたちの前途も、ほんとに開けてくるような気がするの。だから、行きましょうよ。」
「ええ。」
「いつにしましょうか。わたしの方はいつでも宜しいの。」
「ええ。」
 美津子はしばらく口を噤んだ。
「あ、分った。今日は、あなたの陽が陰ってるのね。」
「そうですよ。陽が陰ってる時は、僕は誰にも逢いたくないし、誰とも口を利きたくないんです。」
 山田は半身を起した。
「黙って酒でも飲むのが一番いい。」
「それでは、わたしはどうすればいいの。」
「一緒に飲むんですね。」
 自分から言い出しておいて、山田は眼が覚めたように気付いたのである。一緒に酔っ払ったり、何か愛の保証を求め合ったり、口舌をしたり、それだけが二人の生活だったのか。もうそんなことは乗り超えてる筈ではなかったか。それなら、乗り超えた先に何があるのか。
 山田は新らしいものを見るような気持ちで眺めた。彼女の細そりした体躯、薄化粧の顔に長く墨を引いた眉、眼尻でしばしば笑う眼、それから、室の中のこじんまりした調度品、衣桁にかけてある衣類、ぽかぽか火をおこしてある炬燵……。その炬燵に彼女がいつもかじりついているように、山田は彼女の体温に寄り縋ってばかりいたのだ。
 酒はたいてい、彼女の手許に用意がしてあった。仕度が出来るまで山用はトランプを借りて独り占いを始めた。執拗に繰り返した。
 女とは退屈なものだ。愛情とは退屈なものだ。然しいったい、退屈でないものが世の中に何があるか。山田はいつまでも占いをやめなかった。
「もう宜しいじゃありませんか。」
「いや、思う通りのものが出来るまで、夜通しでも続けます。」
「饒舌るのが煩いから……。そんなら、わたし黙ってますよ。」
 黙りこくって酒を飲んだ。
 山田はふいに顔を挙げて言った。
「新緑の旅、きっと行きますよ。」
「あら、そんな占いなんかできめたこと、わたしいやだわ。」
「占いは別のことです。実は、一週間ばかり旅行しなければなりません。新緑の旅は、その後でいいでしょう。」
「どこへいらっしゃるの。」
「水戸方面、それから真直に東へ……。」
「まっすぐ東へ行ったら、太平洋じゃありませんか。」
「そうです、海の中です。」
「でたらめを仰言ると、また……。」
 彼女は抓るまねをしたが、山田は構わず占いを続けた。だが、でたらめを言ったのではなかった。汽車に乗って真直に行く……いや汽車が真直に走ってゆく。水戸から先、真直に東へ走ったら、太平洋にはいり、海底へ没するだろう。没してもなお、真直にどこまでも行くんだ。ちょっと来いも何もかも、もう間に合わないのだ。
 そこに、遠い遠い疎隔があった。ただ、それに耐え得られるか。
 山田はトランプを投げ出して、立ち上った。
「もう帰ります。」
 美津子は酔いの廻った黒光りする眼で、じっと山田を眺めた。
「帰りますよ。」
「ええどうぞ。」
 彼女が怒ってたって構やしない。もう十二時近くだ。山田はふらふらする足で出て行った。粗らな小店の表戸ももう締め切ってあった。かすかに春草の匂いのする荒野で、山田は小便をした。それから少し行くと、後から美津子が駆けてきた。
「あなた、怒ったの。なにか気に障ることがあったら、御免なさい。」
「怒ってやしません。」
「でも、何か考えていらっしゃるんでしょう。真直に海の中へ入るなんて……。考えちゃいや。ね、もう何も考えないことにするの。」
 山田は黙っていた。
「新緑の旅のことも、取り止めにしていいわ。ただ……。」
 山田の肩に縋りついてくる拍子に、彼女はよろけ、援け起そうとする山田の肱を横腹に受けて、その場に転がり、一声うめいて、伸びてしまった。山田の肱がそう強く当った筈はないし、地面にどこかをそう強く打ちつけた筈はないし、訳が分らなかった。
 山田は彼女の上に屈みこんだ。手探りしてみると、彼女の額は冷たく、細い息は熱かった。そして膝を折り曲げ、ただぐったりしていた。抱え起したが、彼女はもう歩けないらしく、全身の重みでのしかかってきた。山田は肩と半背で彼女を支え、半ば背負うようにして、彼女の家の方へ戻っていった。
 突然、感じが変った。もう今迄の美津子ではなかった。ちょっと来いの彼女ではなかった。なんだか他人のようでもあり、ひどく親身なひとのようでもあった。酔っ払らって、駄々をこねる者ではなく、心から寄りかかって来てるひとのようだった。人間としての愛情が、情慾の滓を洗い去ったかのようだった。
「大丈夫ですか。」
 返事はなく、彼女はかすかに頷いた。
「どこか痛めましたか。」
 それにも返事はなく、彼女はかすかに頭を振った。
「安心していらっしゃい。僕がついててあげます。いつまでもついててあげます。」
 肩の上に、彼女は頭までもたせかけてきた。毛先だけを軽く縮らせてる髪から、香油の香りがした。山田は彼女を支えてる手先に、親愛の力をこめた。月の光りはなく、朧ろな街路だった。

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「人間」
   1951(昭和26)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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