一

 為吉とおしかとが待ちに待っていた四カ年がたった。それで、一人息子の清三は高等商業を卒業する筈だった。両人ふたりは息子の学資に、僅かばかりの財産をいれあげ、苦労のあるだけを尽していた。ところが、卒業まぎわになって、清三は高商が大学に昇格したのでもう一年在学して学士になりたいと手紙で云ってきた。またしても、おしかの愚痴が繰り返された。
「うらア始めから、尋常を上ったら、もうそれより上へはやらん云うのに、お前が無理にやるせにこんなことになったんじゃ。どうもこうもならん!」
 それは二月の半ば頃だった。谷間を吹きおろしてくる嵐は寒かった。薪を節約して、囲爐裏も焚かずに夜なべをしながら、おしかは夫の為吉をなじった。
 おしかは、人間は学問をすると健康を害するというような固陋な考えを持っていた。清三が小学を卒業した時、身体が第一だから中学へなどやらずに、百姓をさして一家を立てさせようと主張した。しかし為吉は、これからさき、五六反の田畑を持った百姓では到底食って行けないのを見てとっていた。二十年ばかり前にはそうでもなかったが、近年になるに従って百姓の暮しは苦るしくなっていた。諸物価は益々騰貴するにもかゝわらず、農作物はその割に上らなかった。出来ることならば息子に百姓などさせたくなかった。ちっと学問をさせてもいゝと思っていた。
 清三は頻りに中学へ行きたがった。そして、ついにおしかには無断で、二里ばかり向うの町へ入学試験を受けに行った。合格すると無理やりに通学しだした。彼は、成績がよかった。
 中学を出ると、再び殆んど無断で、高商へ学校からの推薦で入学してしまった。おしかは愚痴をこぼしたが、親の云いつけに従わぬからと云って、息子を放って置く訳にも行かなかった。他にかけかえのない息子である。いずれ老後の厄介を見て貰わねばならない一人息子である。
 ところが、またまた、一年よけいに在学しようと云ってきているのだった。預金はとっくの昔に使いつくし、田畑は殆ど借金の抵当に入っていた。こんなことになったのも、結局、為吉がはじめ息子を学校へやりたいような口吻をもらしたせいであるように、おしかは云い立てゝ夫をなじった。
「まあそんなに云うない。今にあれが銭を儲けるようになったら、借金を返えしてくれるし、うら等も楽が出来るわい。」為吉はそう云って縄をいつゞけた。
「そんなことがあてになるもんか!」
「健やんが云よったが、今日び景気がえいせに高等商業を出たらえらいぜにがとれるんじゃとい。」
 彼等は、ランプの芯を下げて、灯を小さくやっとあたりが見分けられる位いにして仕事をした。それでも一升買ってきた石油はすぐなくなった。夜なべ最中に、よくランプがジジジジと音たて、やがて消えて行った。
「えゝいくそ! 消えやがった。」おしかはランプにまで腹立てゝいるようにそう云った。
「もう石油はないんか!」
「あるもんら! 貧乏したら石油まで早よ無うなる。」おしかはごつ/\云った。
「そんなか、カワラケを持って来い。」
「ヘイ、ヘイ。」おしかは神棚から土器かわらけをおろして、種油を注ぎ燈心に火をともした。
 両人はその灯を頼りに、またしばらく夜なべをつゞけた。
 と、台所の方で何かごと/\いわす音がした。
「こりゃ、くそッ!」おしかはうしろへ振り向いた。暗闇の中に、黄色の玉が二つ光っていた。猫が見つけられて当惑そうにないた。それは、鼻先きで飯櫃めしびつの蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。
「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は人が来るのを見ると、急に土間にとびおりて床の下に這いこんだ。そして、何か求めるようにないた。
 おしかは、お櫃の蓋に重しの石を置いて、つゞくった薄い坐蒲団の上に戻った。やがて、猫は床の下から這い出て、台所をうろ/\ほっつきまわった。食い物がないのを知ると、かまどの傍へ行って、ペチャ/\やりだした。
「くそッ!」おしかはまた立って行った。「おどれが味噌汁が鍋に茶碗一杯ほど残っとったんをなめよりくさる!」
「味噌汁一杯位いやれい。」
「癖になる! この頃は屋根がめげたって、壁が落ちたってうたらかしじゃせに、壁の穴から猫が這い入って来るんじゃ。」
 こんなことを云うにつけても、おしかは、清三に学資がいるがために、家の修繕も出来ないのだということを腹に持っていた。
「もう今日きりやめさせて了えやえい」と彼女は同じことを繰り返した。「うらが始めからやらん云うのに、お前が何んにも考えなしにやりかけるせに、こんなことになるんじゃ。また、えいことにして一年せんど行くやこし云い出して……親の苦労はこっちから先も思いやせんとから!」
「うっかり途中でやめさしたら、どっちつかずの生れ半着はんちゃくで、これまで折角銭を入れたんが何んにもなるまい。」
「そんじゃ、お前一人で働いてやんなされ! うらあもう五十すぎにもなって、夜も昼も働くんはご免じゃ。」
「お、うら独りで夜なべするがな。われゃ、むたけれゃ寝イ。」為吉はどこまでも落ちついて忍耐強かった。朝早くから、晩におそくまで田畑で働き、夜は、欠かさず夜なべをした。一銭でも借金を少くしたかったのである。
 おしかはぶつ/\云いながらも、為吉が夜なべをつゞけていると、それを放っておいて寝るようなこともしなかった。
 戸外には、谷間の嵐が団栗の落葉を吹き散らしていた。戸や壁の隙間すきまから冷い風が吹きこんできた。両人ふたりは十二時近くになって、やっと仕事をよした。
 猫は、彼等が寝た後まで土間や、床の下やでうろ/\していた。追っても追っても外へ出て行かなかった。これでも屋内の方が暖いらしい。……大方眠りつこうとしていると、不意に土間の隅に設けてある鶏舎とやのミノルカがコツコツコと騒ぎだした。
「おどれが、鶏をねらいよるんじゃ。」おしかは寝衣のまま起きてマッチをすった。「壁が落ちたんを直さんせにどうならん!」

      二

 両人は、息子のために気まずい云い合いをしながらも、息子から親を思う手紙を受け取ったり、夏休みに帰った息子の顔を見たりすると、急にそれまでの苦労を忘れてしまったかのように喜んだ。初めのうち、清三は夏休み中、池の水を汲むのを手伝ったり、畑へ小豆のさやを摘みに行ったりした。しかし、学年が進んで、次第に都会人らしく、垢ぬけがして、親の眼にも何だか品が出来たように思われだすと、おしかは、野良仕事をさすのが勿体ないような気がしだした。両人は息子がえらくなるのがたのしみだった。それによって、両人の苦労は殆どつぐなわれた。一年在学を延期するのも、息子がそれだけえらくなるのだと思うと、慰められないこともなかった。
「清よ、これゃどこの本どいや?」為吉は読めもしない息子の本を拡げて、自分のものゝように頁をめくった。彼には清三がいろ/\むずかしいことを知って居り、難解な外国の本が読めるのが、丁度自分にそれだけの能力が出来たかのように嬉しいのだった。そして、ひまがあると清三のそばへ寄って行って話しかけた。
「独逸語。」
「……独逸語のうちでもこれは大分むずかしんじゃろう。」
「うむ。」
「清はチャンチャンとも話が出来るんかいや?」おしかも楽しそうに話しかけた。清三は海水浴から帰って本を出してきているところだった。
「出来る。」
「そんなら、お早よう――云うんは?」
「……」
「ごはんをお上り――はどういうんぞいや?」
「えゝい。ばあさんやかましい!」
「云うて聞かしてもよかろうがい。」おしかはたしなめるように云った。
「えゝい、黙っとれ!」
「お、親にそんなことよれ、バチがあたるんじゃ。」おしかは洗濯物をつゞくっていた。
 清三は書物を見入っていた。ところが、暫らくすると、彼は頭痛がすると云いだした。
「そら見イ、バチじゃ。」おしかは笑った。
 だが清三の頭痛は次第にひどくなってきた。熱もあるようだ。おしかは早速、富山の売薬を出してきた。
 清三の熱は下らなかった。のみならず、ぐん/\上ってきた。腸チブスだったのである。
 彼女は息子を隔離病舎へやりたくなかった。そこへ行くともう生きて帰れないものゝように思われるからだった。再三医者に懇願してよう/\自宅で療養することにして貰った。
 高熱は永い間つゞいて容易に下らなかった。為吉とおしかとは、田畑の仕事を打ちやって息子の看護に懸命になった。甥の孝吉は一日に二度ずつ、一里ばかり向うの町へ氷を取りに自転車で走った。
 おしかは二週間ばかり夜も眠むらずに清三の傍らについていた。折角、これまで金を入れたのだからどうしても生命を取り止めたい。言葉に出してこそ云わなかったが、彼女にも為吉にもそういう意識はたしかにあった。彼等は、どこにまでも息子のために骨身を惜まなかった。村の医者だけでは不安で物足りなくって、町からも医学士を迎えた。医学士はオートバイで毎日やってきた。その往診料は一回五円だった。
 やっと危機は持ちこたえて通り越した。しかし、清三は久しく粥と卵ばかりを食っていなければならなかった。家の鶏が産む卵だけでは足りなくって、おしかは近所へ買いに行った。端界はざかいに相場が出るのを見越して持っていた僅かばかりの米も、半ばは食ってしまった。それでもおしかは十月の初めに清三が健康を恢復して上京するのを見送ると、自分が助かったような思いでほっとした。もう来年の三月まで待てばいいのである。負債も何も清三が仕末をしてくれる。……
 為吉が六十で、おしかは五十四だった。両人は多年の労苦に老い疲れていた。山も田も抵当に入り、借金の利子は彼等を絶えず追っかけてきた。最後に残してあった屋敷と、附近の畑まで、清三の病気のために書き入れなければならなくなった。
 清三は卒業前に就職口が決定する筈だった。両人は、息子からの知らせが来るのを楽しみに待っていた。大きな会社にはいるのだろうと彼等はまだ見ぬ東京のことを想像して話しあった。そのうちに、両人も東京へ行けるかも知れない。
 三月半ばのある日、おしかは夕飯の仕度に為吉よりも一と足さきに畑から帰った。すると上り口の障子の破れから投げ込まれた息子の手紙があった。彼女は早速封を切った。おしかは、文字が読めなかった。しかし、なぜかなつかしくって、息子がインキで罫紙けいしに書いた手紙を、鼻さきへ持って行って嗅いで見た。清三の臭いがしているように思われた。やがて為吉が帰ると、彼女はまっ先に手紙を見せた。
 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老いた眼には分らなかった。彼は土足のまゝ座敷へ這い上ってランプの灯を大きくした。
「何ぞえいことが書いてあるかよ?」おしかは為吉の傍へすりよって訊ねた。
「どう云うて来とるぞいの?」
 しかし為吉は黙って二度繰りかえして読んだ。笑顔が現われて来なかった。
「何ぞいの?」
「会社へ勤めるのにさらの洋服を拵えにゃならん云うて来とるんじゃ。」為吉は不服そうだった。
「今まで服は拵えとったやの。」
「あれゃ学校イ行く服じゃ。」
「ほんなまたぜにらやの。」
「うむ。」
「なんぼおこせ云うて来とるどいの?」
「百五十円ほどいるんじゃ。」
「百五十円!」おしかはびっくりした。「そんな銭がどこに有りゃ! 家にゃもうなんにも有りゃせんのに!」
「洋服がなけりゃ会社イ出られんのじゃろうし……困ったこっちゃ!」為吉はぐったり頭を垂れた。

      三

 学校を出て三年たつと、清三は東京で家を持った。会社に関係のある予備陸軍大佐の娘を妻に貰った。
 為吉とおしかは、もうじいさん、ばあさんと呼ばれていいように年が寄っていた。野良仕事にも、夜なべにも昔日のように精が出なくなった。
 債鬼のために、先祖伝来の田地を取られた時にも、おしかはもう愚痴をこぼさなかった。清三は卒業後、両人があてにしていた程の金を儲けもしなければ、送ってくれもしなかった。が、おしかは不服も云わなかった。やはり、息子が今にえらくなるのをあてにして待っていた。
 それから一年ばかりたって、両人は田舎を引き払って東京へ行くことになった。
 村の百姓達は為吉を羨しがった。一生村にくすぶって、毎年同じように麦を苅ったり、炎天の下で田の草を取ったりするのは楽なことではなかった。谷間の地は痩せて、一倍の苦労をしながら、収穫はどればもなかった。村民は老いて墓穴に入るまで、がつ/\鍬を手にして働かねばならなかった。それよりは都会へ行って、ラクに米の飯を食って暮す方がどれだけいゝかしれない。
 両人は、田舎に執着を持っていなかった。使い慣れた古道具や、襤褸ぼろや、貯えてあった薪などを、親戚や近所の者達に思い切りよくやってしまった。
「お前等、えい所へ行くんじゃ云うが、結構なこっちゃ。」古い[#ルビの「み」は底本では「みの」]や桶を貰った隣人は羨しそうに云った。「うら等もシンショウ(財産のこと)をいれて子供をえろうにしといた方がよかった。ほいたらいつまでもこんな百姓をせいでもよかったんじゃ!」
「この鍬をやるか。――もう使うこたないんじゃ。」為吉は納屋の隅から古鍬を出して来た。
「それゃ置いときなされ。」ばあさんは、金目になりそうな物はやるのを惜しがった。
「こんな物を東京へ持って行けるんじゃなし、イッケシ(親戚のこと)へ預けとく云うたって預る方に邪魔にならア!」
「ほいたって置いといたら、また何ぞ役に立たあの。」
「……うらあもう東京イたらじゝむさい手織縞やこし着んぞ。」為吉は美しいさっぱりした東京の生活を想像していた。
「そんなにお前はなやすげに云うけんど、どれ一ツじゃって皆なぜに出して買うたもんじゃ。」
 じいさんはそんなことを云うおしかにかまわず、ふるいや、中古ちゅうふるの鍬まで世話になった隣近所や、親戚にやってしまった。
 老いた家無し猫は、開け放った戸棚に這入って乾し鰯を食っていた。
「お、おどれがうま/\と腹をおこしていやがる。」ばあさんは、それを見つけても以前のようにがみ/\追い払おうともしなかった。
 ラクダの外套を引っかけて、ひとかどの紳士らしくなった清三に連れられて両人が東京駅に着いたのは二月の末のある晩だった。御殿場あたりから降り出した雪は一層ひどくなっていた。清三は駅前で自動車を雇った。為吉とおしかは、生れて初めての自動車に揺られながら、清三と並んで腰かけている嫁の顔をぬすみ見た。嫁は田舎の郵便局に出ていた女事務員に一寸似ているように思われた。その事務員は道具だての大きい派手な美しい顔の女だったが、常に甘えたようなものの言い方をしていた。老人や子供達にはケンケンして不親切であったが、清三に金を送りに行った時だけは、何故か為吉にも割合親切だった。
 両人は、それぞれ田舎から持って来た手提げ籠を膝の上にのせていた。
「そりゃ、下へ置いとけゃえい。」
 自動車に乗ると清三は両親にそう云った。しかし、彼等は、下に置くと盗まれるものゝように手離さなかった。
「わたし持ちますわ。」嫁はそれを見て手を出した。
「いゝえ、大事ござんせん。」おしかは殊更叮寧な言葉を使った。
「おくたびれでしょう。わたし持ちます。」
「いゝえ、大事ござんせん。」おしかは固くなって手籠を離さなかった。為吉はどういう言葉を使っていゝのか迷っていた。
 やがて郊外の家についた。新しい二階建だった。電燈が室内に光っていた。田舎の取り散らしたヤチのない家とは全く様子がちがっていた。おしかはつぎのあたった足袋をどこへぬいで置いていゝか迷った。
「あの神戸で頼んだ行李は盗まれやせんのじゃろうかな?」お茶を一杯のんでから、おしかは清三に訊ねた。
 清三は妻を省みて苦笑していたが、
「お前、そんなに心配しなくってもいゝよ!」と苦々しく云った。
「荷物は、おばあさん、持ってきてくれますわ。」嫁はおかしさを包みきれぬらしく笑った。

      四

 嫁は園子という名だった。最初に受けた印象は誤っていなかった。それは老人達にとって好もしいものではなかった。
 駅で、列車からプラットフォームへ降りて、あわたゞしく出口に急ぐ下車客にまじって、気おくれしながら歩いていると、どこからやって来たのか、若々しく着飾った、まだ娘のように見えないでもない女が、清三の手を握らんばかりに何か話しかけていた。清三は、寸時、じいさん達を連れているのを忘れたかのように女に心を奪われていた。じいさんとばあさんとは清三の背後に佇んで話が終るのを待っていた。若い女は、話しながら、さげすむようなまた探索するような、なざしで二三度じいさん達を見た。と、清三が老人達の方へ振り向いた。女は、さっと顔一面に嫌悪の情をみなぎらせたが、急に、それを自覚して、かくすように、
「いらっしゃいまし。」と頭を下げた。それが園子だった。
 両人は、嫁が自分達の住んでいた世界の人間とは全然異った世界の人であるのを感じた。郵便局の事務員が、村の旦那の娘で、田舎の風物を軽蔑して都会好みをする女だった。同じ村で時々顔を見合わしていても近づき難い女だった――両人は思い出すともなく、直ちに、その娘を聯想した。
 彼等は嫁が傍にいると、自分達同志の間でも自由に口がきけなかった。変な田舎言葉を笑われそうな気がした。
 女事務員が為吉にだけは親切だったように、園子は両人に対して殊更叮寧だった。しかし両人は気が張って親しみ難かった叮寧さが、嫁の本当の心から出ているものとは受け取れなかった。
「おばあさんに着物を買ってあげなくゃ。」
「着物なんかいらないだろう。」
「だってあの縞柄じゃ……」
 園子は、ばあさんの着物のことを心配していた。彼女の眼のさきで働いているばあさんの垢にしみたような田舎縞が気になるらしかった。ばあさんは、自分のことを云われると、独りでに耳が鋭くなった。丁度、彼女は二階の縁側の拭き掃除が終って、汚れ水の入ったバケツを提げて立ったまゝ屋根ごしに近所の大きな屋敷で樹を植え換えているのを見入っているところだった。園子は、ばあさんがもう下へおりてしまったつもりで、清三に相談したものらしかった。
うら等があんまりおかしげな風をしとるせにあれが笑いよるんじゃ。」ばあさんは気がまわった。
「そんなにじゝむさい手織縞を着とるせにじゃ。」じいさんは階下の自分等にあてがわれた四畳半で手持無沙汰に座っていた。
「ほいたって、ほかにましな着物いうて有りゃせんがの、……うらのを笑いよるんじゃせに、お前のをじゃって笑いよるわいの。」
うらのはそれでも買うたんじゃぜ。」じいさんは自分の着物を省みた。それは十五年ばかり前に、村の呉服屋で買った、その当時は相当にいゝ袷柄あわせがらだった。しかし、今ではひなびて古くさいものになっていた。ばあさんの手織縞とそう違わないものだった。
「もっとましなやつはないんか?」
「有るもんか、もう十年この方、着物をこしらえたことはないんじゃもの!」ばあさんは行李を開けて見た。
 絹物とてはモリムラと秩父が二三枚あるきりだった。それもひなびた古い柄だった。その外には、つぎのあたった木綿縞や紅木綿の襦袢や、パッチが入っていた。そういうものを着られるだろうと持って来たのだが、嫁に見られると笑われそうな気がして、行李の底深く押しこんでしまった。
 ばあさんは、屋内の掃除から炊事を殆ど一人でやった。園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に起きて、髪を直し、顔や耳を石鹸で洗いたてて化粧をした。それから、たすき掛けで夕飯の仕度である。嫁が働きだすと、ばあさんも何だかじっとしていられなくなって、勝手元へ立って行った。
「休んでらっしゃい。私、やりますわ。」園子はそう云った。
「ヘエ。」
「ほんとに休んでらっしゃい。寒いでしょう。」
「ヘエ。」ばあさんは火を起したり、鍋を洗ったりした。汚れた茶碗を洗い、土のついた芋の皮をむいた。戸棚の隅や、汚れた板の間を拭いた。彼女はそうすることが何もつらくはなかった。のらくら遊ぶのは勿体ないから働きたいのだった。しかし、それを嫁にどう云っていゝか、田舎言葉が出るのを恐れて、たゞ「ヘエ/\」云っているばかりだった。
「じゃ、これ出来たら下しといて頂だい。」
 おしかが、何から何までこそこそやっていると園子はやがてそう云い置いて二階へ上ってしまうのだった。おしかは鍋の煮物が出来るとお湯をかけた。
「出来まして……どうもすみません。」清三が帰ると園子は二階から走り下りてきて食卓を拡げた。
「じいさん、ごぜんじゃでえ。」ばあさんは四畳半へ来て囁いた。
ごぜんなんておかしい。ごはんと云いなされ!」清三はその言葉をきゝつけて、妻のいないところで云いきかした。
「そうけえ。」
 しかし、おしかはどうしてもごはんという言葉が出ず、すぐ田舎で使い馴れた言葉が口に上ってきた。
「おばあさん、もうそんな着物よして、これおめしなさいましな。……おじいさんもふだん着にこれを。」園子はやがて新しく仕立てた木綿入りの結城縞を、老人の前に拡げた。
「まあ、それは、それは。――もうそなにせいでもえいのに。じいさん、えい着物をこしらえてくれたんじゃどよ。」
「ほんとに、これをふだんにお召しなさいましな。」園子は、老人達の田舎縞を知人に見られるのを恥かしがっているのだった。
「どら、どんなんぞい。」園子が去ったあとでじいさんは新しい着物を手に取って見た。「これゃ常着つねぎにゃよすぎるわい。」
「袷じゃせに、これゃ寒いじゃろう。」ばあさんは、布地を二本の指さきでしごいてみた。
 着物は風呂敷に包んだまゝ二三日老人の部屋に出して置かれたが、やがて、ばあさんは行李にしまいこんだ。そして笑われるだろうと云いながら、やはり田舎縞の綿入れを着ていた。
「この方がくうてえい!」

      五

 じいさんは所在なさに退屈がって、家の前にある三坪ほどの空地をいじった。
「あの鍬をやってしまわずに、一挺持って来たらよかったんじゃがな。」
「自分が勝手にやっといて、またあとでそんなこと云いよら。」ばあさんは皮肉に云ったが昔のように毒々しい語調はなかった。
「あの時は、こっちに鍬がいろうとは思わなんだせにやったんじゃ。」
 いつのまにか彼は近くで小さい鍬を買ってきて、初めて芽を吹きかけた雑草を抜いて土を掘り返した。
「こっちの鍬はこんまいせにどうも深う掘れん。」彼は傍に立って見ているばあさんと、田舎の大きな深く土に喰い込む鍬をなつかしがった。そして、二度も三度も丹念に土を掘り返した。
「こんな土を遊ばしとくんは勿体ない。なんど菜物でも植えようか。」とじいさんは、ばあさんに相談した。
「これでも、うら等が食うだけの菜物くらいは取れようことイ。」とばあさんは云った。
 やがて、彼は種物を求めて来ると、
「こっちの人は自分のしたチョウズまでぜにを出して他人ひとに汲んで貰うんじゃ。勿体ないこっちゃ。」と呟きながら、大便を汲んで掘り返した土の上に振りかけた。
「これで菜物がよう出来るぞ!」
「御精が出ますねェ。」園子は二階から下りて来て愛嬌を云った。
「へえェ。」じいさんは田舎の旦那に云うような調子だった。
「何かお植えになりますの?」
「へえェ。こんな土を遊ばすは勿体ないせに。」
「まあ、御精が出ますねえ。」そう云って、園子はそっと香水をにじませた手巾ハンカチを鼻さきにあて、再び二階へ上った。きっちり障子を閉める音がした。
「お前はむさんここえを振りかけるせに、あれは嫌うとるようじゃないかいの。」ばあさんは囁いた。
「そうけえ。」
「また、何ぞ笑われたやえいんじゃ。」
「ふむ。」とじいさんは眼をしばたいた。
「臭いな、こんじゃ仕様がない。」清三は会社から帰ると云った。「菜物なんか作らずに草花でも植えりゃえい。」
「臭いんは一日二日辛抱すりゃすぐ無くなってしまう。」
「そりゃそうだろうけど、菜物なんかこの前に植えちゃお客にも見えるし、体裁が悪い。」
「そうけえ。」じいさんは解しかねるようだった。
「きれいな草花を植えりゃえい。」
「草花をかいや。」じいさんは一向気乗りがしなかった。
「草花を植えたって、つまりは土を遊ばすようなもんじゃ。」
 彼は腰を折られて土いじりもしなくなった。それでも汚穢屋おあいやが来ると、
「こっちの者は自分のしたチョウズまで銭を出して汲んで貰うんじゃ。……勿体ないこっちゃ。」と繰り返した。「肥タゴが有れゃうらが汲んでやるんじゃがな。」
 汚穢屋の肥桶を見ても彼は田舎で畑へ肥桶をもって行っていたことを思い出しているのだった。青い麦がずん/\伸び上って来るのを見て楽んでいたことを思い出しているのだった。
 やがて桜の時が来た。じいさんとばあさんとは、ぶっくり綿の入った田舎の木綿縞をぬいだ。
くうなって歩きよいせに、ちっと東京見物にでも連れて行って貰おういの。」
「うむ。今度の日曜にでも連れて行って貰うか。」
「日光や善光寺さんイ連れて行ってくれりゃえいんじゃがのう。」
「それよりぁ、うらあ浅草の観音さんへ参りたいんじゃ。……東京イ来てもう五十日からになるのに、まだ天子さんのお通りになる橋も拝見に行っとらんのじゃないけ。」
 両人は所在なさに、たび/\こんな話を繰り返えした。天子さんのお通りになる橋とは二重橋のことだった。
「今日、清三が会社から戻ったら連れて行ってくれるように云おういの。」
「うむ。」じいさんは肯いた。
 しかし、清三は日曜日に二度つゞけて差支があった。一度は会社の同僚と、園子も一緒に伴って、飛鳥山へ行った。
「それじゃ花も散ってしまうし、また暑くなって悪いわ。」
と園子は気の毒そうに云った。
「明日でも私御案内しますわ。」
 両人は園子に案内して貰うのだったら全然気がすゝまなかった。どこまでも固辞した。
 清三夫婦が日曜日に出かけると、両人は寛ろいでのびのびと手を長くして寝た。誰れ憚る者がいないのが嬉しかった。
「留守ごとに牡丹餅ぼたもちでもこしらえて食うかいの。」とばあさんは云い出した。
「お。」
「毎日米の飯ばかり食うとるとあいてしまう。ちっとなんぞ珍らしい物をこしらえにゃ!」
 けれども米の牡丹餅も、田舎で時たま休み日にこしらえて食ったキビ餅よりもうまくなかった。じいさんは、四ツばかりでもうそれ以上食えなかった。
「もっと食いなされ。」ばあさんは、二ツのお櫃のふたに並べてある餅をすゝめた。
「いゝや。もう食えん。」
「たったそればやこし……こんなに仰山あるのに、またあいらが戻ったら笑うがの。」
「そんなら誰れぞにやれイ。」
「やる云うたって、誰れっちゃ知った者はないし、……これがうちじゃったら近所や、イッケシの子供にやるんじゃがのう。」
 ばあさんは田舎のことを思い出しているのだった。うちとは田舎の家のことだった。
「お、やっぱりドン百姓でも生れた村の方がえいわい。」
 夕方、息子夫婦がつれだって帰ってきた。
「お土産。」と園子は紙に包んだ反物をばあさんの前に投げ出した。
「へえエ。」思いがけなしで、何かと、ばあさんは不審そうに嫁の顔を見上げた。
「そんな田舎縞を着ずに、こしらえてあげた着物を着なされ。」と、嫁より少しおくれて二階へ行きながら清三が云った。
 ばあさんは、じいさんの前で包みを開けて見た。両人には派手すぎると思われるような銘仙だった。
「年が寄ってえい着物を着たってどうなりゃ!」両人はあまり有りがたがらなかった。「絹物はすぐに破れてしまう。」

      六

「あれに連れてて貰うよりゃ、いっそうら等二人で行く方が安気でえいわい。」ある日じいさんはこう云い出した。
「道に迷やせんじゃろうかの。」
「なんぼ広い東京じゃとて問うて行きゃ、どこいじゃって行けんことはないわいや。」
 そして、ある朝早く、両人は出かけた。
「お前等両人でどこへ行けるもんか。」出かけしなに清三は不安らしく止めた。
「いゝや、大事ない、うら等二人で行くんじゃ」とじいさんは云った。
「今日行かんとて、いつか俺が連れて行てあげる。」
「いゝや、うら等両人で行こうわ。」
 清三は老父の心持を察して何か気の毒になったらしく、止めさせるような言葉を挟み挟み、浅草へ行く道順を話をし、停留場まで一緒に行って電車にのせてやった。
 じいさんとばあさんとは、大きな建物や沢山の人出や、罪人のような風をした女や、眼がまうように行き来する自動車や電車を見た。しかし、それはちっとも面白くもなければ、いゝこともなかった。田舎の秋のお祭りに、太鼓をかついだり、のぼりをさしたり、一張羅の着物を着てマチへ出る村の人々は、何等か興味をそゝって話の種になったものだが、東京の街で見るものは彼等にとって全く縁遠いものだった。浅草の観音もさほど有がたいとは思われなかった。せわしく往き来する人や車を両人はぼんやり立って見ていた。頭がぐらぐらして倒れそうな気がした。
「じいさん、うら腹が減ったがいの。」と、ばあさんは迷い迷って、人ごみの中をようよう公園の方へぬけて来て云った。
「そんならなんぞ食うか。」
うらあ鮨が食うてみたいんじゃ。」
 両人は鮨屋を探して歩いた。
「ここらの鮨は高いんじゃないかしらん。」ようよう鮨屋を探しあてると両人はのれんをくゞるのをためらった。
「ひょっと銭が足らなんだら困るのう。」
「弁当を持って来たらえいんじゃった。」
「もう、よしにしとこうか。」ばあさんは慾しい鮨もよう食わずに、また人ごみの中をぼそぼそ歩いた。そして公園の隅で「八ツ十銭」の札を立てている焼き饅頭を買って、やっと空腹を医した。
「下駄は足がだるい。」
「やっぱり草履の方がなんぼ歩きえいか知れん。」
 両人はそんな述懐をしながら、またとぼとぼ歩いた。
 帰りには道に迷った。歩きくたびれた上にも歩いてやっと家の方向が分った。
「お帰りなさいまし。」園子が玄関へ出てきた。
 両人は上ろうとして、下駄をぬぎかけると、そこには靴と立派な畳表の女下駄とが並べてあった。――園子の親達が来ているのだった。
 予備大佐はむっつりとものを云う重々しい感じの、田舎では一寸見たことのない人だった。奥さんは一見して、しっかり者だった。言葉使いがはきはきしていた。初対面の時、じいさんとばあさんとは、相手の七むずかしい口上に、どう応酬していゝか途方に暮れ、たゞ「ヘエ/\」と頭ばかり下げていた。それ以来両人は大佐を鬼門のように恐れていた。
 またしても、むずかしい挨拶をさせられた。両人は固くなって、ぺこ/\頭を下げた。
「おなかがすいたでしょう。」坐敷を立ちしなに園子が云った。
「ヘエ、いえ、大事ござんせん。」
 両人は、やっと自分達の四畳半に這い込んだ。
うらあ腹が減ったがいの。」とばあさんは隣室へ聞えないように声をひそませながら云った。
「あゝ、シンドかったな。」
 じいさんはぐったりしていた。それだのに両人は隣室にいる大佐に気がねして、長く横たわることもよくせずにちぢこまっていた。
「お前、腹がへりゃせんかよ?」
「へらいじゃ、たった焼饅頭四ツ食うただけじゃないかい!」
 暫らく両人は黙っていた。隣室の話声に耳を傾けた。
あのし等まだなんのかいのう?」
「さあ、どうかしらん。」
「いんたら、うらあ飯を食おうと思うて待っちょるんじゃが。」
 それでまた両人は黙りこんで耳をすました。
「やっぱり百姓の方がえい。」とばあさんはまた囁いた。
「お、なんぼ貧乏しても村に居る方がえい。」とじいさんはため息をついた。
「今から去んで日傭ひようでも、小作でもするかい。どんなに汚いところじゃって、のんびり手足を伸せる方がなんぼえいやら知れん。」
 ふと、そこへ、その子の親達が帰りかけに顔を出した。じいさんとばあさんとは、不意打ちにうろたえて頭ばかり下げた。
 清三は間が悪るそうに傍に立って見ていた。
(一九二五年九月)

底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年12月4日作成
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