方福山といえば北京でも有数な富者でありました。彼が所有してる店舗のなかで、自慢なものが二つありました。一つは毛皮店で、虎や豹や狐や川獺などをはじめ各種のものが、一階と二階の広間に陳列されていまして、北京名物の一つとして見物に来る旅行者もあるとのことでした。他の一つは茶店でありまして、昔は帝室の茶の御用を務めていたという由緒が伝えられていました。
 この方福山が、四十日ばかり南方に旅して、そして帰ってきましてから、自邸で、十名ほどの人々を招いて小宴を催しました。
 方福山は賑かな交際が好きで、人を招いて宴席を設けることはよくありましたし、またそういう口実はいつでも見出せるものでありますが、然し、此度の招宴には何か特殊な気配が感ぜられました。方家の執事ともいうべき何源が口頭で伝えましたところでは、旅行中御無沙汰を致したからというのでしたが、方福山の帰来後既に一ヶ月たってのことでありましたし、また、呂将軍も御出席の筈ですと何源はいい添えたのでした。
 呂将軍というのは北京の警備司令でありましたが、その頃、彼について種々の風説が伝えられていました。近いうちに彼は済南方面へ転出するという噂もありましたし、また、省政府筋と常に反目しがちで、急激な武断政略を計画してるとの噂もありました。勿論こうした噂は、ある一部の人々の間にひそかに囁かれただけでありまして、事の真偽は定かでありませんけれども、それが原因でか、或は他に何かあったのか、一般市民の間に不安動揺の空気が次第に濃くなりつつありました。
 そういうわけで、方福山の招宴は、人々に一種の印象を与えました。
 招待を受けた荘太玄は、その子の一清にいいました。
「私は身体不和ということにして、お断りしようと思う。方さんからは時折、南方各地の銘茶の御厚志にあずかっているが、近頃、あの人の行動には私の心に添わないものがあるようだ。けれども、お前は行ったがよかろう。青年にとっては、いろいろなことを見聞するのが精神の養いになるものだ。」
「それでは、私がお父さんの代理をも兼ねて行きましょう。」と一清は気軽に答えました。
「いや、お前個人として行くので、代理を兼ねるというわけにはいくまい。」と太玄は考え深そうな眼付をしていいました。
 ところで、荘一清にとっては、父のことよりも寧ろ、友人の汪紹生の方が問題でありました。
 荘太玄は今では、あまり世間のことに関係したがらず、家居しがちでありましたが、その見識徳望の高さを以て巍然として聳えてる観がありました。それ故、呂将軍と共に方家へ招かれるのも不思議でなく、また荘一清は青年ながら、太玄の令息として招かれても不思議ではありませんでした。だが汪紹生はちと別でした。汪紹生は家柄も低く貧しく、ただ荘一清と刎頸の交りを結んでることだけで、方家からわざわざ招待を受ける理由とはなりませんでした。
 彼は怒ったような調子で、荘一清にいったのであります。
「僕は万福山さんとは、君のところで紹介されて、それから二三回逢ったきりだ。特別な識りあいでもない。極言すれば、方福山が旅行しようと、旅行から無事に帰って来ようと、旅行中に野たれ死にしようと、そんなことは僕に何等の関係もないんだ。招待される理由が分らん。」
 荘一清はなにか曖昧な微笑を浮べて答えました。
「だから、気まぐれな思いつきの招待だろう。ただ御馳走になってくればいいんだ。高賓如大佐も招かれてるそうだ。高大佐とは君は暫く逢わないだろう。僕の父は行かないそうだから、気兼ねする者はないし、高大佐と三人で、勝手に飲み食いし饒舌りちらしてくればいいさ。」
「高大佐も来るのかい。」
「そうだよ。」
「おかしいね。」
「おかしいことはないさ。高大佐は呂将軍の参謀で、帷幄の智能だから、一緒に来てもよかろうじゃないか。」
 然し、汪紹生は他のことを考えてるのでありました。それは、彼等の所謂新ヒューマニズム運動の小さなグループに関してでありました。数名の青年を中心に、新新文芸という小雑誌が発行されていまして、そこでは、人類意識のなかに於てではなく民族意識のなかに於けるヒューマニズムが提唱されていました。それが文芸の上では種々の形となって現われ、風俗習慣の方面での解放革新が叫ばれると共に、東洋的自然観の探求などもなされていまして、例えば詩を見ましても、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)和園の輪奐を醜悪とするもの、天壇の圜丘を讃美するもの、中央公園の円桶に飼育されてる金魚を憐れむもの、太廟の林に自然棲息してる鷺を羨むものなどがありました。或る詩には、紫金城の堂宇が黄金色の甍で人目をくらましながら、その投影で北京全市を蔽っていることを描いて、それを時の政府への痛烈な諷刺[#「諷刺」は底本では「諷剌」]としていました。そしてこの一派は、青年知識層の一部から共鳴されると共に、政府筋の注意を惹き、内々の警告が発せられたこともありました。この新新文芸一派のなかでの最も有力なのが、荘一清と汪紹生だったのであります。荘一清は評論も小説も詩もその他あらゆるものを書き得る自信を持っていて、しかもいつも懶けてばかりいました。汪紹生は真面目な詩人で、生活のため図書館に勤めながら孜々として勉強していました。そして高賓如大佐は荘家の親しい知人で、新新文芸一派に常々好意ある声援をしていました。――それ故、この三人を含めた方福山の招宴には、何か裏面に意図があるかも知れない、と汪紹生はいうのでした。
 荘一清は笑いました。
「そういうことは、君の論法を以てすれば、われわれに全く無関係なことじゃないか。方福山にどういう意図があろうと無かろうと、吾々の知ったことではない。」
 そして暫く黙っていた後で、荘一清は微笑を浮べていいました。
「それほど君が気にするなら、種明しをしてもよいが、実は、意外なところに策源地があるらしい。然し、そんなことよりは先ず、方福山の招待に応ずると、それをきめてくれなくては困る。それが大切な問題だ。」
「なぜだい。」
「なぜだか後で分る。とにかく、承知するんだね。」
 汪紹生は暫く考えてから、はっきり答えました。
「君に一任しよう。」
「じゃあ、行くんだね。」
「うむ、行くよ。」
「よろしい。……そこで、問題だがね。」
 荘一清は揶揄するような眼付で相手を眺めました。
「方家の招宴には、陳慧君も出るらしいよ。もっとも、これは君には無関係なことだがね……。」
 汪紹生は眼を大きく見開きました。
「なぜ陳慧君が出るらしいかといえば、柳秋雲が出るからだ。」
 汪紹生はちらと顔を赤らめ、眼を輝かしましたが、突然いいました。
「なぜ君はそんな持って廻ったいい方をするんだい。」
「愛情を尊敬するからだ。」
 それは、汪紹生の或る詩の中の一句でした。荘一清はその一句をいってから、楽しそうな笑顔をしましたが、汪紹生は耳まで赤くなりました。
「僕だって君達の愛情を尊敬することは知っているよ。」と荘一清は快活にいいました。「現にその余沢も感じている。種明しというのはここのことだが、君と僕とを一緒に方家へ招待さした策源地は、彼女にあると思うよ。なぜなら、彼女は僕達に逢いたがっているんだ。ところで、それはまあいいとして、厄介な口実がくっついている。例の、新時代の女性の玩具、あれを持って来てほしいという秘密な使者が来た。彼女にとっては、僕達を逃がさない口実だろうが、僕達にとっては、彼女への義務ということになる。どうだろう、あれが至急手にはいるかね。金はここに用意してきてるが…。」
 汪紹生はじっと考えこんでしまいました。
「君から彼女へ手渡すがいいと思うんだがね……。」
 汪紹生はなお考えこんでいました。それから突然立上って叫びました。
「よろしい、彼女との約束を果そう。」

 柳秋雲の所謂玩具というのは、実は、一挺の小さな拳銃のことでありました。
 柳秋雲については、いろいろな説がありますが、それらのいずれもが不確かなもので、いわば彼女は一種神秘な影をいつも身辺に帯びていました。
 彼女はその生家も縁者も出生地も不明な全くの孤児で、陳慧君の許で養女なみに扱われておりました。伝えるところに依りますと、嘗て、陳慧君が太沽に行った折、港の岸壁の上で、果物や煙草の露天店の番をしている六七歳の少女を見かけましたが、ふと、その怜悧そうな眼差と気品ありげな顔立とに気を惹かれて、そこに立止ってしまいました。やがて、露天店の主人らしい爺さんがやって来まして、果物や煙草をすすめますと、陳慧君は頭を振って、少女のことを尋ねました。
「この子は、売り物ではございません、預り物でございまして……。」と爺さんは答えました。
 そしてその預り物の取引の話が初まったのでありますが、爺さんの語るところでは、少女は一年ほど前、港のほとりをただ一人でさ迷っていたのを、或る船乗りに拾いあげられましたが、その船乗りが大きな貨物船に乗りこんで出かけます折、少女を爺さんに預けたのでありました。ところで、船乗りはそれきり戻って来ませんし、少女はまだ自分の身元を覚えていませんし、爺さんは処置に困りましたが、そのうちには誰かが探しに来るかも知れないと夢のような考えのうちに、港の露天店に毎日連れ歩いてるとのことでありました。
「ですから、私がこの子を探しに来たのですよ。」と陳慧君はいったそうであります。
 けれども、この話とても真偽のほどは分りかねますし、とにかく、陳慧君は相当多額の金を爺さんに与えて、少女を引取って来たらしいのであります。その少女が柳秋雲でありまして、秋雲というのは、爺さんか船乗りかがつけた名前なのか或は元来そういう名前だったのか不明ですが、柳という姓は、爺さんの姓を取ったというのが本当らしく思われます。其の後彼女は陳慧君の養女みたようになりまして、陳秋雲と呼ばれることの方が多くなりました。陳慧君は秋雲の前身については、誰に対しても語るのを避けていました。
 陳慧君自身の生活がまた、多くの影に包まれていました。彼女は南京の生れだといわれていましたが、上海のことに大層通じておりました。亡夫は演劇方面に関係のある仕事をしていたという説もあり、または古着を取扱う商売をしていたという説もあります。其の後、彼女は相当の資産を所有して、骨董品類の店を経営していましたが、その店が実は方福山から委託されたものだとか、或は貰い受けたものだとか、いろいろの陰口が囁かれたこともありました。そして方福山との多年の関係は、殆んど公然の事実みたいになっていました。
 彼女は背が高く、体躯が細そりとして、眼の動きが敏活であり、もう四十歳ほどなのに、若々しい肌色をしていました。そしてこの市井の一未亡人は、各方面につまらない用件を発見することにかけては、稀有の才能を具えていましたし、実につまらないその用件も、彼女の口に上せられると、なにか心にかかる趣きを呈するのでした。そのようにして彼女は、各方面に知人を作っていましたし、凡そ権力のあるところ、富力のあるところ、野心のあるところには、彼女の姿がしばしば見受けられました。ホテルの食堂などにも彼女はよく出かけましたし、ダンスも相当以上に巧みであることが、ボーイ達には知られていました。然し上流の社会にとっては、彼女はただ中流婦人に過ぎませんでしたし、少しく清潔でないそして少しくうるさい有閑婦人に過ぎませんでした。
 そういう陳慧君のもとで、柳秋雲は少女時代を過し、学校に通い、それから化粧法や料理法も覚えましたし、特に歌曲をも教わりました。また、陳慧君のところにはいろいろな来客が多く、秋雲はいろいろな談話を聞きました。そして十七歳になった時、彼女は十ヶ月ばかり荘家で暮すことになりました。
 陳慧君はその店の奥に秘蔵してる書画のことで、また方福山を通じて、荘家とも誼みを結んでおりました。そして或る時彼女は、荘夫人の前に、恰も懺悔でもするような謙虚な調子で、自分の頼りない身の上を歎き、これまでの軽薄な行動を悲しみまして、次に柳秋雲のことを持ち出し、由緒ある家柄の憐れな孤児だが、彼女を立派に育てるのが衷心の願いであるといって、荘家の淳良な家風のなかで暫く彼女を教養して頂きたいと頼みました。それから彼女は声を低めて、ひそやかにいいました。
「こちら様が市公署の方を御引受けになりますれば、いろいろ人手も御入用でありましょうし、秋雲を女中同様に使って頂きとうございます。また私としましても、あの子を御手許に預けておきますれば、安心して当分上海で過すことが出来ます。」
 その頃、市長が或る事で引責辞職しまして、後任には、徳望高い荘太玄を引出そうという運動が起りかけていました。また陳慧君の方は、なにか政治上の秘密な役目を帯びてという説もありますし、阿片密輸に関係あることが現われかけたからという説もありますし、両方を一緒に結びつけた説もありますが、当分の間上海に行くことになっておりました。ところが、荘太玄は市長の役目を冷淡に固辞してしまいましたし、陳慧君の上海行きは延び延びになっていつしか立消えてしまいました。そしてただ、柳秋雲が荘家に委託されることだけが実現しました。
 それから十ヶ月の後、新緑の頃、アメリカから来た老人夫妻の漫遊客を案内して、陳慧君と方福山とは泰山へ出かけました。その一行に、方福山の娘の美貞が加わり、ついては柳秋雲も加わることになりました。その旅から帰って来た時、陳慧君は急に熱を出し、多分の喀血をしました。彼女は苛立って、しきりに泣いたり怒ったりしました。その機会に、柳秋雲は荘家から陳慧君の許へ戻ることになりました。
 荘家へ来ました当時、柳秋雲は、その世馴れた態度と内気らしい寡黙さとがへんに不調和でありまして、眼差には冷徹ともいえるような光を宿していました。然し間もなく彼女は、荘家の温良な雰囲気になずんできまして、その態度には快活さが加わり、その寡黙さは要領を得た言葉と変り、その眼差の光は和らいできました。荘夫人は彼女に興味を持ち、侍女とも娘分ともつかない地位に置きました。美しい彼女の顔立は、横から見れば※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)のとがりが目立って怜悧そうであり、正面から見れば頬のふくらみが目立って柔和そうでありました。
「あんたは時おり、別々な二人のひとに見えますよ。」と荘夫人は微笑して秋雲の顔を眺めることがありました。
 その別々な二人のひとが、やがて、一人のひとにまとまって、新時代の若い女性を形造るようになりました。荘家の温良な雰囲気はまた新時代の自由性をも許容するものでありまして、荘太玄の高い学徳を山に譬えれば、その麓には、荘一清を中心にした新新文芸一派の若芽が自由に伸びだしていました。汪紹生は殆んど日曜毎にやって来ましたし、其の他の青年達が、時には女性も交えて、集ってきました。そしてそれらの人々に、柳秋雲も立交るようになり、遂には仲間の一人と数えられるようになりました。
 柳秋雲は新新文芸を愛読しながら、自分では一度も文章を書いたことがありませんでした。また、その思想的な論議に加わることもありませんでした。然し彼女の控え目な言葉は、いつも強い熱情の裏付けがあり、そして形象的でありましたので、この一派に不足がちな感覚的要素を加える働きをしました。彼女の言葉から示唆されたと覚しい文章も、幾つか拾い出すことが出来ました。例えば、散るためにのみ美しい蓮の花を讃美する者は誰ぞ、伸びそして拡がるために美しい蓮の巻葉の香を知る者は誰ぞ、という質問が提出されていました。槐の並木の白い小さな花が、はらはらと街路にまきちらす感傷主義を、土足で踏みにじり得る者は果して誰ぞ、という質問もありました。黄塵にまみれた古い洋車に、磨きすまされたランプがつけられている象徴を、理解する者は果して誰ぞ、という質問もありました。
 それらのことに最も敏感だったのは、汪紹生でありました。また、彼女が荘家を去って陳慧君の許に戻ってゆくことについて、大きな損失を内心に最も感じたのも、汪紹生でありました。彼は一篇の詩を書いて、頬をほてらしながら荘一清に見せました。それは、友情と恋情との間の微妙な一線上にある惜別の感情で、「……沈黙は、愛情を尊敬するからだ。」と結んでありました。
 彼女が去ってゆく前の日曜日の午後、三人は、広い庭園をゆっくり逍遙する時間を見出しました。その時、荘一清が汪紹生の詩をふいに披露しましたので、汪紹生も柳秋雲もへんに沈黙がちになりました。それで、荘一清が一人で何かと饒舌らねばならぬ立場に置かれましたが、池の中間の小亭にさしかかりました時、その小亭の両の柱に、「北冥之鯤。」「南冥之鵬。」という句が懸っているのを指して、彼はいいました。
「昔の人は面白いことを考えたものだ。北冥の鯤だの、南冥の鵬だの、そんな伝説を僕は固より信用しはしないが、その精神には信頼すべきものがある。長城を築いたのも、大運河を掘ったのも、その精神の仕業だ。吾々は長城や大運河を軽蔑してもよろしいが、その精神を笑う権利は持たない。」
 それに対して、柳秋雲が静かにいいました。
「そうしますと、私の夢も、お笑いになる権利はありませんわ。」
「どんな夢……。」
「駱駝に乗って、長城の上を歩いてゆきました。」
「おかしい夢だな。」
「ところが、ふと気がついてみて、とても淋しくなりましたの。拳銃を持っていませんでした。私、あの冷りと光ってる、小さな拳銃が一つ、ほんとにほしかったのです。」
「それで、どうするつもりだったの。」
「どうもしませんわ。ただ持っておればよろしいんですの。歌をうたう時計や、枝から枝へ飛び移る金の鳥が、西太后の玩具だったとしますれば、新時代の女性の玩具は、拳銃であってもよろしいでしょう。」
「新時代の女性の玩具か、それは素敵だ。」
「では、その玩具を下さいますか。」
 荘一清は振向いて、彼女の顔を見ました。彼女の言葉の調子に、あまりにも静かな重みが籠っていましたし、その顔には沈鬱な色が浮んでいました。
 それまで黙って聞いていた汪紹生が、突然いいました。
「一体それは、夢の話ですか、本当の話ですか。」
「自分でも分りませんわ。」
 そして彼女は、汪紹生の眼の中へじっと視線を向けました。
「私は家へ帰りますと、全く違った生活のなかにはいります。けれど、いつまでも、あなた方の仲間でありたいと思っております。そのような時に、大事な玩具を一つ持っていることは………ただ持っているだけで、心の支えになるような気がしますの。」
 それは承諾を強要する調子であり、今にも泣き出しそうな表情でありました。汪紹生は顔を伏せました。
「二人で引受けよう。」と荘一清が叫びました。
 それで凡てが決定しました。
 けれども、その実現は延び延びになったのであります。記念の意味や将来への誓いの意味を持った約束は、当事者達だけで秘密に果さなければなりませんでした。そして、相当な額に上るらしい金をひそかに調達することは、荘一清にとって容易ではありませんでしたし、その頃取締りの厳しい品物をひそかに買い取ることは、汪紹生にとって危険でありました。

 北京の秋は、夏を追い立てるように急にやって来て、そして晴朗な日が続きます。南海公園の小島の岸には、まだ釣りの遊びをしている人々が見られました。その側に、少し離れて、汪紹生はぼんやり欄杆にもたれていました。
 釣りをしてるのは、二三の少年と、中年の夫婦者に連れられてる子供でありました。子供はよく餌を取られてはじれだし、父親からいろいろと教えられていました。母親はそれを笑顔で眺めながら、やはり釣竿を手にしていましたが、自分の浮子うきの方には殆んど眼をやりませんでした。少年達は黙って熱心に浮子を見つめ、時折、ぱっと挙げられる釣竿の先には、小魚が躍っていました。
 汪紹生は欄杆に半身をもたせたまま、薄濁りの水面に眼を落して、なにか考えこんでいました。亭の中に並べられている卓子の方へ行って茶を飲むでもなく、釣竿を借りてきて楽しむでもなく、また釣人たちの方を見てるのでもありませんでした。時間を忘れたように長い間じっとしていました。
 南岸との間を往復してる小舟から、小数の客が上ってきて、幾度か彼の後ろを通ってゆきました。それらの人々の間に、やがて、黒い色眼鏡をかけた痩せた青年が見られました。その青年は、舟から真直に汪紹生の方へやって来て、その肩に軽く手を触れました。汪紹生は振向きましたが、相手がそのまま歩いて行きますので、彼もその後についてゆきました。
「少し手間取っちゃった。」と黒眼鏡の青年は不機嫌そうに呟きました。
 汪紹生は尋ねました。
「そして、どうだった。」
「なあに、ちと無理なことをしたが……。」
 彼は歩きながら、汪紹生をじっと見ました。
「これからは注意して下さい。あんな所へ僕を尋ねてきて、それも夜遅く……。」
「然し、秘密な用だったものだから。」
「それがいけないんです。秘密は白昼公然の場所で為すべきものですよ。この頃、僕達は少し睥まれているんです。」
「何かあったの。」
「それは、こちらから聞きたいことですよ。あんなもの、何にするんですか。」
「ちょっと、人から頼まれたので……。」
「然し、こんなちっちゃいのは、役には立ちませんよ、玩具にならいいけれど。」
「勿論玩具だ。玩具だと僕は信じてる。」
 その調子があまり真面目だったせいか、黒眼鏡の青年はじっと汪紹生の方を眺めました。そして笑いました。
「あなたは正直だ、だから僕はあなたが好きなんです。……当ててみましょうか。若い女か老年の紳士か、いずれそんなところへ贈るんでしょう。」
 汪紹生は黙っていました。
「少しいいすぎましたか。なあに、心配はいりませんよ。」
 二人は中海の岸に出ていました。枯蓮の池は蕭条として、午後の陽に冷たく光っていました。楊柳の大木の並木の下には、通行の人もありませんでした。
 その楊柳の一本の影に、黒眼鏡の青年は急に立止って、内隠しから、小布に包んだ物を取出し、汪紹生に差出しました。
「お頼みのものです。古物だが、まだ使われてはいません。ちょっと錆びてたところは、僕が磨いておきました。」
 汪紹生はそれを受取りました。小布の中には、ボール箱に、革のサックのついた小型の拳銃がはいっていました。
「操縦は簡単だから、分っていますね。弾は十個だけあります。そいつが、実は厄介でしたよ。」
 汪紹生はそれをまた小布に包んで、内隠しにしまいました。そして紙幣を二十枚渡しました。
「それから、あとのは、どれほどあげたらいいかしら。」
「あとの……あああれですか。あれは、僕からいい出したんだから、いかほどでもいいんですが、それじゃあ、十枚下さい。」
 汪紹生が更に十枚の紙幣を差出すと、相手はそれを無造作に受取りましたが、黒眼鏡の奥から視線をじっと汪紹生に注いでいいました。
「これで終りです。約束は守って下さいよ。つまり、後の分ですっかり帳消しです。あなたが僕から一件を受取ったことも、僕があなたに一件を調達したことも、凡て無かったことになるのです。忘れたのでなく、そのようなことは無かったのです。宜しいですか。」
「宜しい。約束だ。」
「約束などもないんです。」
「なんにもない。」
「そうです、なんにもないんです。」
 黒眼鏡の青年は朗かに笑いました。
 そして二人はまた、楊柳の並木にそって湖岸を歩いてゆきました。
「こんどは、用事のない時に来て下さい。御馳走しますよ。」と黒眼鏡の青年はいいました。「あの女は少々ぶざまだが、小蘇姫という気取った可愛いい奴がいますよ。家はけちでも、洋酒は北京第一で、天津にもないようなものを備えています。酔っ払う覚悟でいらっしゃい。なあに、阿片に酔うよりは、よほど健康的ですよ。だが、用件がある時は、僕の家へ来て下さい。あんなところへ来て、あれは誰だと聞かれたら、あなたも困るし、僕も困る場合が、ないとも限らない。隠れ家では、すべて身元を明るくしておく必要があるんです。」
「それでは、隠れ家の意味をなさないね。」
「そうです、あべこべになっちゃった。呂将軍の影響ですね。呂将軍のクーデタの噂が、相当に拡まっていましょう。そのため、スパイがばらまかれている。あの連中ときたら、秘密は隠れたところにばかり転ってるものと思ってますからね。秘密の方で先手をうって、明るいところへ移動したってわけですよ。あなた方も、何かやるなら、この戦術を使うんですね。ところで、あなた方は、どちらと連絡があるんですか。」
「連絡……そんなものはどこにもない。」
「あなた方になくても、先方からつけてくる。用心しなけりゃいけませんよ。本当の吾々の味方は、呂将軍の方にも、省政府の方にもない。」
「ではどこにあるんだい。」
 黒眼鏡の青年は、鋭い視線をちらっと汪紹生に注ぎました。
「なかったら、拵えるんですね。すぐ、手近なところに出来ますよ。いや、もう出来てますよ。面白いことになりそうです。」
 丁度、楊柳の並木がつきて、橋のところに出ました。黒眼鏡の青年は、突然いいました。「では、ここで失礼します。」
 彼がまるで未知の間柄のように素気なく立去ってゆくのを、汪紹生はちょっと見送りましたが、ぼんやり、反対の方へ歩いてゆきました。

 方福山の招宴には、さすがに吟味された料理が用意されていました。豚や家鴨や小鳥や野菜類はまあ普通として、江蘇の沼から来たもの、四川の山奥から来たもの、日本の近海から来たもの、南洋の小島から来たものなど、相次いで食卓に並びました。ただ飲物の方は、老酒に炭酸水に冷湯だけでありました。何源が適宜に立現われ、一隅に直立して、万端の指図をしました。
 宴席での方福山の活躍は、料理よりも一層見事でした。彼は背が低く、食卓に屈みこんでいるので更に低く見えましたが、それが却って、強い眼の光と相俟って、容易ならぬ人物だと思わせるのでした。その顔は細長い方で、頬から下へゆくにつれてふくらみ、口の両側に贅肉が目立ち、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)下の皮膚が垂れて、それが半ば襟に埋まっていました。そして彼は極めて素早く飲み食いし、あたりの人々にたえず話しかけました。一方に呂将軍がおり、他方に方家同族の老人がいましたが、方福山は始終両方へ顔を向け、少し離れてる高賓如大佐や荘一清などへも呼びかけました。食物のこと、風俗のこと、上海のカニドロームやハイアライのこと、広東の黒人風呂のこと、印度奇術のことなど、ただとりとめもない事柄で、それを彼は旅の土産話として聞かせるのでした。そしてあちこちへ向けられるその眼には、時折、穏かな笑顔を裏切って、それらの話とは全く別個な、そして六十近い年配とは思えないなにか底強い光が、人の肺腑を貫くようにちらと輝きました。
 彼のそばで、呂将軍は山のように泰然としていました。ゆっくり物を食べ、ゆっくり酒を飲み、余り口を利かず、大きな体躯をどっしりと落着かせていました。けれども、長い髭は力なく垂れ、顔の色はくすみ、眼はどんよりとしていました。彼の阿片嗜好はひどく昂じてるとの噂がありました。
 方福山が初め、荘一清と汪紹生とを紹介しました時、彼はただ眼を二三度まばたきしただけで、二人の顔はよく見ないで、呟くようにいったのでした。
「君達のことは前から聞いていた。わしは君達を、いつも洋服を着てるものと思っていたよ。」
 荘一清が曖昧な微笑を浮べて、鄭重な調子で答えました。
「私はまた、閣下はいつも軍服を召していられることと、思っておりました。」
 その言葉のあと暫し時を置いてから、呂将軍は突然、はっはっはと大きな声で笑いました。
 側にいた高賓如はちらと眉をひそめました。汪紹生はびっくりしたように呂将軍の顔を見上げました。呂将軍はなお得意気にも一度高笑いを繰返しました。
 平服をつけてることが、呂将軍を、へんに如才ないようにまたは愚鈍なようにも見せるのでした。
 食卓で、呂将軍はまた同じような高い笑いをしました。食物の話の時、彼は珍らしく言葉を続けて、嘗て太原で経験したという事柄を披露しました。――饑饉の年のことでしたが、数名の僚友と、そこの料理店で飲んでいますと、豚肉の煮込みの皿の中から、人間の足の爪が二つ三つ出て来ました。一同は酔っていましたので、その爪を興がって、酒杯に入れて乾杯したというのです。
 その話のあと、ちょっと言葉がとだえました時、呂将軍ははっはっはと高笑いをしました。
 すると、少し離れた席から、陳慧君の声が聞えました。
「まあ、閣下は、作り話もお上手でいらっしゃいますこと。」
 呂将軍はまたはっはっはと笑いました。
 陳慧君はもう、そばの方夫人に話しかけていました。
「蛸の足に、あのまるい、吸いつくものが、沢山ありますでしょう。あれだけを取って、干し固めましたものを、奥地の特別な蔓だといって、アメリカの水兵さん達に食べさしていた家が、上海にありましたよ。大変繁昌しておりました。」
 方夫人はただうなずいて聞いていました。同席してる娘の方美貞は女学生風の快活さで、柳秋雲になにか囁いていました。ただ陳慧君だけが、女のなかでは一人、全席の話題の中心にも言葉を出すのでした。
 陳慧君の存在は目立ちました。彼女と方福山との関係は、方夫人にも既に公然と承認されてるようでしたが、そういうことを別として、社交に馴れてる彼女の挙措応対は、その敏活な眼の動きと、血の気の少い白く澄んだ皮膚と共に、品位は乏しいが人目を惹くものがありました。彼女はしばしば高賓如の方へ言葉をかけました。高賓如は簡単な返事だけをしておいて、おもに隣席の荘一清と話をしました。古典や近代文学にも彼は少しばかり知識がありました。
 汪紹生は殆んど口を利きませんでした。時々柳秋雲の方を眺めました。柳秋雲は無口でつつましくしていましたが、顔を挙げて汪紹生の視線に出逢うと、またすぐに眼を伏せました。
 そして、四時間余に亘る酒宴は別に事もなく運ばれましたが、方福山は突然呂将軍に向って、二人とも何の理解も持っていそうにない音楽の話を初め、あらゆる歌曲のうちでもやはり京劇のそれが最も優れているという結論を引出しました。そして彼は陳慧君に呼びかけて、如何にも自然な無造作な調子で、柳秋雲さんの歌を少し聞かして頂けまいかと頼みました。陳慧君は微笑んで、柳秋雲に何か囁きました。そして不思議にも、柳秋雲はすぐに立上ったのでした。方美貞が喫驚した眼で彼女を眺めました。
 柳秋雲は少し蒼ざめた顔を緊張さして、石のようにあらゆる表情を押し殺していました。そしていいました。
「私は歌妓ではございませんから、ごくつまらないものきり存じませんけれど……。」
 あとは声がつまったようで、そして横を向いて、宙に眼を据えながら、低めの声で歌い初めました。それは普ねく知られている歌曲でありまして、四郎探母という京劇のなかで四郎が母を想って歌う、ゆるやかな悲しい調子のものでした。
 宴席にふさわしくないその歌は、故意の皮肉かとも思われましたが、やがて深い感銘を与えました。彼女の声は次第に高まって、美しい哀切なものとなりました。髪飾りの宝石が、耳の後ろでこまかく震えました。彼女の横顔に目立つ※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)のとがりは、ひたむきな心情を示すようで、そしてその頬のふくらみは、やさしい愁いを示すようで、それが一緒になって、母を思慕する歌調を強めました。
 汪紹生が顔を伏せてるだけで、そして陳慧君が一座の空気を窺ってるだけで、人々は息をこらして、柳秋雲の上に眼を釘付けにしていました。呂将軍の眼もその時だけは生々とした色を浮べました。彼女はただ歌にだけ身も心も投げこんでるようでしたが、歌い終えると、やはり表情を押し殺した様子でちょっと会釈しましたが、そのまま、逃げるように足早く次の室にはいって行きました。
 方美貞がすぐ立上って、彼女の後を追ってゆきました。
 感嘆の吐息と声が洩れました。客の一人の中年の婦人は涙を拭きました。そして柳秋雲と方美貞とが戻って来ないのをきっかけに、よい工合に食卓は見捨てられることになりました。
 次の広間の片隅に、麻雀の一組が出来ました。方夫人と陳慧君と、歌のあとで涙を拭いた中年の婦人とに、方福山の隣席にいた老人が加わりました。
 汪紹生が一人で庭の方へ出て行ったようでしたから、荘一清と高賓如とは連れ立ってその方へ行ってみました。
 晴れやかな秋の夜で、星辰が美しく輝いていました。池のない広庭には、植込や置石が多く、築山の上の小亭にぽつりと電灯が一つともっていました。
 高賓如は両手を差上げ伸びをしてから、冷かな批判の調子でいいました。
「今晩の宴会には、欠けたものが一つあったね。」
「何ですか、それは。」
「君のお父さんが来られなかったことだ。」
「父は近来、ここの人達をあまり好まないようです。」
「それは当然だ。然し、ここの人達にしてみれば、君のお父さんは最も大切な客だった筈だ。」
「なぜですか。」
 高賓如は荘一清の方を振向いて、その真実怪訝そうな眼付を見て取ってから、いいました。
「考えてみ給え。荘太玄の名望と、方福山一家の財産と、それから君達自身はどう思ってるか知らないが、青年知識層の精鋭と見られてる一方の代表者たる、荘一清と汪紹生、それから自分でいうのも変だが、呂将軍の知嚢としてのこの高賓如、それになお、社交界の花形と独りで自惚れてる陳慧君、将来特異な才能を示しそうな柳秋雲をも加えて、それだけあれば、北京で大芝居がうてると思うのも、無理はないさ。」
「そんなことを呂将軍は考えてるんですか。」
「いや、考えてるものか。引きずられてはいるだろうが……。」
「では、誰が考えてるんです。方福山ですか。」
「方福山はまあ進行係というところだね。立案の方はどうやら陳慧君にあるらしい。とにかく、あの二人はいい組合せだ。」
「そして、あなたも、それに加担してるんですか。」
「僕が加担してたら、もっとうまくやるよ。柳秋雲に歌をうたわしたり、あれは可哀そうだった、あんなへまなことはしない。僕はただ傍観者にすぎないんだ。」
「傍観者……それでいいんですか。僕はあなたを軽蔑しますよ。」
「なあに、軽蔑は最後になすべきものだ。事の成行を楽しんで観てるという時機もあるさ。ただね、僕は君達に自重して貰いたいんだ。自重してくれ給え。お父さんが今晩来られないのはよかった。」
「父はそんなことを知ってるんでしょうか。」
「御存じではあるまい。然し、うっかり洩らしてはいけないよ。僕と君との間だけの秘密だ。」
「それは勿論です。だが……僕達、汪紹生と僕とを招かしたのは、柳秋雲だとばかり思っていました。」
「どうしてだい。」
「彼女も、僕達の仲間でしたから……。」
「だが、陳慧君のところに戻ってからは、彼女も相当変ったろう。それにまた、たとい彼女がいい出しても、それを取上げるかどうかは陳慧君の自由だからね。陳慧君は育て親として、彼女の上に絶対の権力を持っている。」
「それを、あなたは承認しますか。」
「事実の問題だ。第三者の否認なんか、当事者には何の役にも立たない。」
「ひどく冷淡ですね。」
「女の問題について冷淡なのは、僕の立前だ。女はどうも危険だからね。」
 そして高賓如は朗かに笑いました。
 その時、二人は庭を一廻りして、室の方へ戻ってゆくところでしたが、そこの、外廊の柱によりかかって、柱にそえた彫像のように佇んでいる汪紹生に出逢いました。
 汪紹生は潜思的な固い顔を少しも崩さず、荘一清にぶっつけるようにいいました。
「あれは済んだよ。」
「そうか。」と荘一清は答えました。
 高賓如を憚って、二人はそれっきり何ともいいませんでしたが、拳銃の一件だとはっきり通じたのでありました。
 汪紹生はまだすっかり自分を取戻していないようでした。――彼は何か堪えられない気持で、一人で室から逃げ出し、外廊の柱によりかかっていましたが、長い間たったと思える頃、柳秋雲が足音をぬすんで駆け寄ってきました。彼女は汪紹生の顔を見つめて、「お約束のものは……。」とぽつりといいました。汪紹生は内隠しから拳銃の包みを取出しました。柳秋雲はそれを受取って、懐にしまいました。そしていいました。
「私の……すべてを、信じて下さいますか。」「信じます。」と汪紹生は答えました。柳秋雲は片手を差出しました。汪紹生はその手を強く握りしめました。そして薄暗がりの中で、柳秋雲の眼が次第に大きくなり、妖しい光を湛えて、更に大きく更に深くなるように、汪紹生には思えました。彼はその眼の中に溺れかけました。とたんに、柳秋雲は手を離して、風のように立去ってゆきました。――その時の、まるで幻覚のような印象は、非常に強烈なもので、汪紹生は我を忘れ、そこの柱に身をもたせて、いつまでも凝然としていたのでありました。
 高賓如はちょっと汪紹生の様子を眺め、荘一清の方をも顧みましたが、何ともいわずに、先に立って室の中へはいってゆきました。
 麻雀の一組はゆっくり遊んでいました。他の片隅では、紫檀の器具と青磁の置物と朱塗りの聯板と毛皮の敷物とにかこまれて、呂将軍と方福山が酒をのみながら話をしていました。柳秋雲と方美貞との姿は見えませんでした。
 高賓如は真直に呂将軍の方へ行きまして、煙草を一本手に取っていいました。
「胃袋の強健な者ほど勇気が多い、という閣下の説によりますと、どうも、吾々若い者の方が勇気に乏しいようです。」
 呂将軍は笑いながら髭をなでました。どこからかいつのまにかそこへ出て来た何源が、高賓如の煙草の方へマッチの火を差出しました。

 なか一日おいて、午後、柳秋雲がふいに荘家へ訪れて来ました。――荘大人がお身体がわるい由だからお見舞に、というのでしたが、それはただ口実にすぎないことは明らかでありました。
 方福山からの招待には、身体は何ともなかったが、少し差支えがあって出られなかった、とはっきり荘太玄がいうのを、柳秋雲はそれについては返事もせず、よく解っているということを示しました。
 荘太玄と夫人とは、やさしい笑顔で彼女に接し、彼女も心安らかな態度でありました。荘一清はちょっと挨拶をしたきり、どこかへ出て行きました。
 方福山のところの宴会の話を、荘夫人が尋ねますと、柳秋雲はあの歌のことを自分からいい出しました。
「呂将軍が、芝居の歌が大変お好きだから、なにか美しいのを歌うようにと、前の日から頼まれておりました。それで私、恥しい思いを致しましたが、その仕返しに、美しい歌の代りに悲しい歌をうたってやりましたわ。」
「何をうたったんですか。」
「四郎探母の俗謡ですの。」
 荘太玄は憐れみのこもった眼で彼女を眺めました。荘夫人はいたわるようにいいました。
「でも、よくそんなのを覚えていますね。」
「ふだん教わっておりますの。」
 そして彼女は、歌の先生のことを話しました。――それは戯曲学校の年とった先生で、一週に一回ずつ教えに来るのでした。柳秋雲の声をひどくほめて、女優になれば必ず成功すると保証してくれました。然し彼女を戯曲学校に入れることは、陳慧君がどうしても承知しませんので、彼も諦めましたが、それからは、歌曲はその芝居を知っていなければ本当にうたえるものではないといって、稽古の時には必ず、自分でその芝居の所作をやってみせました。というのも、陳慧君はどうしたわけか、柳秋雲に芝居の歌を習わせながら、決して芝居を見ることを許さず、一度も戯院へ行かせませんでした。
 その歌の先生について、面白いことがありました。或る時、陳慧君と二人の談話のなかで、真珠を粉にしたものをのめば肌が最も綺麗になるという説が、思い起されまして、先生はそれを真実であると主張し、有名な俳優でそれを実行してる者もあると確言しましてから、是非ためしてみられるようにと陳慧君に勧めました。陳慧君は心を動かされたらしく、真珠の粉の効果の真否を、いろいろの人に尋ね、それぞれの意見を、柳秋雲にも伝えて相談しました。すると柳秋雲はいいました。
「歌の先生は、きっと、真珠を沢山持っていらして、売りたがっていらっしゃるのでしょう。買ってあげましょうよ。」
 その言葉で、真珠の粉の説は立消えになってしまったのでした。
 それを聞いて、荘太玄は愉快そうに笑い、荘夫人は感心して眼を細めました。
 けれども、柳秋雲にいわせますと、彼女のその小さな皮肉も、実は荘太玄を学んだものでありました。
 嘗て、市長が荘太玄を訪ねて来まして、市長に推挙されかかったこともある彼に、北京繁栄策をいろいろ話し、ついでに、名所旧跡や記念建造物への観光客を世界各地から誘致するための、有効な方法をも相談しました。すると、荘太玄は別な答え方をしました。紫金城や万寿山よりも、五塔寺の古塔や円明園の廃墟の方が、優れた鑑賞者に喜ばれるとすれば、全市廃墟になった後の壮大な城壁こそ、最も優れた鑑賞者に最も喜ばれることでしょう、といったのでした。そしてこの全市廃墟の皮肉は、当時、新新文芸の仲間の話題となっていました。
 そのことを柳秋雲から思い出させられて、荘太玄夫妻は顔を見合せて微笑しました。
 そして柳秋雲は、なごやかな打解けた空気のなかで、荘太玄夫妻に甘えてるかのようでしたが、突然、荘夫人に悲しそうな眼を向けました。
「私、家へ戻りましてから、あまり刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]をする隙がございませんの。それで……。」
 それで、お詫びをしておきたいというのでした。彼女は荘家にいた時、荘夫人から刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]を教わっていまして、上達も早かったのでしたが、家へ戻ってゆく時に、今後いつか花鳥の立派なのを仕上げてお目にかけると、約束したのでありました。その約束がいつ果せるか、また永く果せないか、自分でも分らなくなったから、許して頂きたいというのでした。
「まあ、そんなこと、どうでもいいんですよ。つまらないことを気にしてるんですね。」と荘夫人はいいました。
 それでも、柳秋雲は悲しそうな眼色をしていました。そして此度は、荘夫人がいろいろ話をしてやらなければなりませんでした。
 そうしたところへ、荘一清がとびこんで来ました。
「柳秋雲さんは、ちょっと僕達の方へ借りますよ。汪紹生も来てるんです。新新文芸のことで打合せをしたいんです。」
「まあ、なんですか、ぶしつけに……。」と荘夫人はたしなめました。
「ははは、若い者同士の方が話は面白いかも知れない。」と荘太玄がいいました。
 それで荘一清は、黙って俯向いている柳秋雲を促して、室の外へ、そして庭の方へ出てゆきました。
 庭の腰掛に、汪紹生は腕を組んで頭を垂れていました。彼は荘一清からの至急な迎えを受けて、図書館からやって来たのでした。柳秋雲の姿を見ると、彼はつっ立って会釈をしたきり、言葉は発しませんでした。柳秋雲も黙っていました。
「どうだった、気に入ったの。」と荘一清がふいにいいました。
「なんですの。」
「あれ……玩具さ。」
「ええ、素敵ですわ。今日は、そのお礼に参りましたの。」
「でも、よく一人で来られたね。」
 柳秋雲は曖昧な表情をしました。
「僕達、心配していたんだよ、なんだか気になってね……。」
 荘一清は快活な調子を装っていましたが、それきり言葉をとぎらしました。
 そして三人は、無言のうちに広庭を歩いてゆきました。暫くして、柳秋雲はちらと汪紹生の方を窺って、突然いいました。
「私、旅に出るかも知れませんわ。」
「え、旅だって……。」と荘一清が尋ねました。
「ええ、駱駝に乗って、長城の上を歩くという夢……あれが、ほんとになるかも知れません。でも……もう玩具も頂いたし……淋しいことも、心配なこともありません……。」
 そのゆっくりした調子には、真面目とも戯れとも判じかねるものがありました。
「また、夢の話だろう。本当なら、僕達も一緒に行ってもいいよ。」
「まだ、夢だか、本当だか、よく分りませんの。」
「だから、夢のような話さ。」
 それきりまた言葉が絶えました。今までの言葉もすべてなにかごまかしだったことが明らかになるような沈黙が、長く続きまして、二人は池のところまで来ました。
 その時、柳秋雲は立止って、苦悩ともいえるほどの緊張した顔付きで、きっぱりといいました。
「あの晩、私は歌をうたいました。今日、も一度、歌をうたいたくなりました。」
 返事を躊躇してる二人をそのまま、彼女は池の中間の小亭へ上ってゆきました。その、「北冥之鯤、南冥之鵬」という聯がついてる小亭からは、遙かに、北海公園の小山の上の喇嘛の白塔が見えました。荘太玄はその眺めをあまり好まず、樹木を植えて展望を遮ろうかといったことがありますが、夫人や一清の反対で、そのままになっていたのであります。その遙かな白塔に、柳秋雲は暫く眺め入りました。
 朗かな秋の青空に、白塔は今、幻のように浮んで見えました。柳秋雲はそれに眼を据えながら、静かにうたいだしました。
 その歌の文句は、はっきり伝えられておりません。それは、柳秋雲が作ったものでありまして、稚拙だが純真で、一脈の清冽さを湛えていたということです。白塔を心の幻に見立てて、それが青にも赤にも紫にも塗られていないことを、淋しみまた嬉しむと共に、いつまでも斯くあれかしと希い、愛情を尊敬してただ黙って去ろう、というのでありました。――その最後の句は、明らかに汪紹生の詩から取って来られたものでありました。
 歌調は単純でしたが、彼女の声は美しく澄んでいました。その時彼女は、何の髪飾りもなく服も質素でありまして、遙かな白塔に見入ってるその姿は、都塵を離れた清楚さを帯びて、歌曲にふさわしいものでありました。
 全体に、秋の爽かさがありました。
 歌がすんでも、彼女は暫く動きませんでした。荘一清と汪紹生は、爽かな気に打たれたようで、無言のまま歩み寄りました。そして振向いた彼女と、三人で顔を合した時、三人とも、なにか茫然とした恍惚さのなかで、微笑を自然に浮べました。
 召使の者が紫檀の茶盆を運んで、大きな太湖石の蔭から出てくるのが、見られました。柳秋雲は急に、その方へ駆け出してゆき、荘家にいた頃のように、女中の茶盆を受取って運んで来、なにかお菓子を頂いて来るといい置いて立去りました。
 荘一清と汪紹生は、彼女が戻って来るのを、静かな沈思のうちに徒らに待ちました。然し彼女はもう、荘太玄夫妻に挨拶をして帰っていったのでありました。

 その翌日の深夜から、次の朝にかけて、呂将軍の急死が市中に伝わりました。脳溢血による頓死だとのことでありましたが、何か怪しい影が感ぜられて、不安な不穏な空気が濃くなりました。そのなかで、高賓如大佐によって、軍隊の方はぴたりと押えられ、市内の動揺の気配も鎮められまして、それがあまり手際よくいったので、変事前から準備が出来ていたらしいとの風説さえ立ったほどでした。そればかりでなく、高賓如はその激しい時間を一時間ほど割いて、荘家を訪れ、心痛している荘一清と汪紹生とに、変事の真相を伝えてくれました。しかも彼の荘家訪問は、公然となされましたので、やがてそれが、周囲の人々の心を落着ける結果をも斎したのでありました。
 変事の夜、柳秋雲は陳慧君に伴われて、呂将軍の宿舎を訪れたのでした。高賓如大佐が軍服姿で出迎え、陳慧君はすぐ辞し去り、あとは二人きりになりました。
「よく決心がつきましたね。」と高賓如はいいました。
「前から決心しておりました。」と柳秋雲は答えました。
 高賓如の説明によりますと、この決心というのは、或る特別の任務につくことを意味するのでした。彼はこういいました。「局面が一大転換をして、人心が動揺している時、若い美しい女性の声が如何に大きな作用をなすかは、想像以上のものがある。社会に働きかける人々はこのことをよく知っているが、軍人はあまり知らないとみえて、これを利用した者は殆んどない。然るに呂将軍は、この方法をも採用してみようとしたらしいのだ。」そして彼は苦笑しました。
 ところで、高賓如と柳秋雲とは差向いで、暫く時間を過しました。
「条件はただ、絶対に秘密を守るということだけです。分っていましょうね。」
「承知しております。」
 それだけの応対で、あとはとりとめもないこと、軽い文学の話や果物の話などをしました。
 彼女は方福山の招宴の時と同じように髪を結び、髪飾りをつけ、ただ着物は同じ淡青色ながら、絹が繻子に変ってるだけでした。そして内心に何か堅い決意を秘めて、それを頼りに表面温和にしてるらしいのが、見て取られました。高賓如はその内心の決意みたようなものを探りあてた時、同時に、彼女が懐に何かを、恐らくは小さな拳銃でも、忍ばしているのに気付きました。然し素知らぬ風をしていました。
 彼は説明していいました。「若い女の胸は、手を触れずにそっとしておいてやるべきだ。少くともそれが僕の立前だ。」
 そして三十分ばかりしますと、呂将軍は急務を片附けて隙になりました。高賓如は柳秋雲の先刻からの来着を知らせました。呂将軍はちらと険しい眼色をしましたが、すぐに顔色を和らげて長い髭を撫でました。
 呂将軍は平服に着換え、私室に柳秋雲を迎えました。中央の卓子には夜食の用意がしてあり、片隅の卓子には地図や書類がのっており、長椅子のそばの小卓には阿片喫煙の道具が置いてありました。
 高賓如は他に用務があって、二時間ばかり外出しました。そして戻って来て、呂将軍の様子を聞きましたが、その室の扉は閉されたままだということでした。それで高賓如は、書類の整理にかかりました。
 だいぶ時間がたちました。その時、何か柔かな物に包まれたような軽い爆音と、叫び声らしいものが、伝わってきました。耳を澄しますと、再び、此度は明らかに爆音がしました。
 彼は立上って、然し落着いた足取りで、呂将軍の私室へ行き、扉を開けようとしましたが、鍵がかかっていました。彼は急に足を早めて、中庭の方へ廻り、窓に手をかけ、それが難なく開きましたので、室内に躍りこみました。
 呂将軍が血に染って俯向きになって倒れていました。柳秋雲が手に拳銃を持って、石のように冷かにつっ立って、じっと高賓如の方を狙いました。
「おやめなさい。当りはしません。却って怪我をしますよ。」
 静かな調子でいって、高賓如は彼女の方へ進んでゆき、彼女を無理にそこの椅子へ坐らせました。彼女は倒れるように身を落しました。
「どうしたのですか。」
 彼女は高賓如をじっと見つめていましたが、不思議に美しい声でいいました。
「秘密を打明けた代償として、私の……貞操を要求なさいました。」
「分りました。」と高賓如は答えました。
 そして彼は呂将軍の傷所を調べました。
 彼は説明して、ちょっと呂将軍を弁護しました。「秘密な計画に参加させる女性には、相手によっては、その肉体までも要求することが、最も安全な途とされている。ただ、呂将軍は人物を見分ける明がなかったまでのことだ。」
 呂将軍は、もう息が絶えていました。脇腹に拳銃を押しつけて射撃されたらしく、次には、倒れたところを背後から胸部に一発受けていました。どちらが致命傷だかは不明でした。
 夜食の料理には全く手がつけてなく、酒は少し飲まれていました。地図とその他の書類は繰り広げられていました。そして阿片が吸われていたらしく、その器具は取乱してありました。
 高賓如は柳秋雲に何にも訊問しませんでした。軍装の外套を彼女にまとわせ、拳銃を持たせたままで、その身柄を、自動車の運転兵に旨を含めて、天津の某所に送りました。
 迅速な処理を要しました。高賓如は直ちに、呂将軍の脳溢血頓死と表面を糊塗し、夜を徹して軍の統率を一手に収めました。そしてその翌日、高賓如将軍擁立の民衆行列が行われましたが、高賓如は自らそれを直ちに解散させました。不思議に整然とした行列で、その先頭には、先日南海公園で汪紹生と逢った黒眼鏡の青年が立っていました。他に何事もなく、全市は高賓如の権力の下に静まりました。変事前からの準備が何かあったらしいとの風説がたったのも、無理ないことでありました。
 ただ遺憾なことが二つありました。一つは柳秋雲の行方でありまして、彼女は天津に送られる途中、闇夜のなかで自動車がちょっと故障を起したすきに、全く姿を消してしまったのであります。他の一つは、彼女が荘家の庭でうたった歌の文句で、荘一清と汪紹生とが記憶を辿りまた知能をしぼって如何ほど拵えあげてみても、あの時の印象とは遠いものしか得られませんでした。二人は原歌詞に白塔の歌という題をつけて、柳秋雲を長く偲びましたそうです。彼女の行方は遂に不明のままに終っております。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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