若き人々に語る

若き友よ。
「田中正造」――今日突然にこんな名を呼んでも、君には何事かわからない。すこし古い人ならばわかる筈だ。彼等は「鉱毒の田中」「直訴の田中」かうした記憶を朧ろげながらほ何処かに持つて居るだらう。この人の演説、真に獅子吼ししくの雄弁を必ず思ひ出すであらう。然し、僕が今この人の名を呼ぶのはこれ等古い人達の苔蒸した記憶を掻き起す為めでは無い。君のやうな、全く名をさへ知らぬ若い人達に、新たにこの人の生涯を聞いて欲しいためだ。

   足尾銅山鉱毒の惨害

矢張り「鉱毒の田中」から始める。
明治二十四年から三十四年に至るこの十年の間、この人は、衆議院の壇上で「足尾鉱毒事件」と云ふものを叫んだ。かも、遂に議会の理解を得ずに終つた。今日、君に向つてこの死んだ歴史を語る――然し、少しく形骸を言ふならば、君は直に詩眼を以て、その血肉を悟得して呉れることを、僕は信じて居る。
手近かな話だ。停車場で電車を待つ間、休憩室の壁に掛けてある交通地図に目をやつて呉れ。栃木の場面を見て呉れ。日光が直ぐ目につく。並んで足尾の山――此処こゝが今日も名高い古河株式会社の足尾銅山だ。産業の名が赤い字で二つ書いてある「銅」と「亜砒酸」。この亜砒酸の三字に、君の神経は思はず戦慄するだらう。これは製煉所の毒烟から精製して、今ではかくも、古河の大産業となつて居る。鉱山からはこの他無数の害毒が出る。これが一つに溶解して渡良瀬川わたらせがはへ流れ落ちた。沿岸は上下両毛の沃野だ。昔時は洪水毎に山上の良土を持ち来つて、両岸の田地を自然に肥したものが、にはかに毒流をみなぎらして死地に化す。――
足尾が古河市兵衛の手に渡つたのが、明治十年だ。彼は不撓不屈の精力で、専心この山の開鑿に従事した。その成績は左の数字の上に明白に現はれて居る。
       足尾の製銅表
明治十年        七七、〇〇〇斤
同 十一年       八一、〇〇〇
同 十二年      一五一、〇〇〇
同 十三年      一五四、〇〇〇
同 十四年      二九〇、〇〇〇
同 十五年      二二三、〇〇〇
同 十六年    一、〇八九、〇〇〇
同 十七年    三、八四九、〇〇〇
同 十八年    六、八八六、〇〇〇
同 十九年    六、〇五二、〇〇〇
同 二十年    五、〇二九、二五七
同 廿一年    六、三六八、五五八
同 廿二年    八、一四六、六六六
同 廿三年    九、七四六、一〇〇
同 廿四年   一二、七〇四、六三五
特に古河の事業を俄に刺戟したのは、明治二十一年、当時世界の市場を騒がせた仏国のシンヂケートと契約して、廿三年に至る三年間一万九千噸提供に応じたことで、これが為めに、足尾の山に始めて水力電気の設備が出来た。山上の繁昌は直に下流農村の破滅――看よ、その結果の尤も直接現はれた漁業家の惨状を。
       安蘇足利梁田三郡の漁業家
明治十四年      二、八〇〇戸
同 十七年      二、〇〇〇
同 二十年      一、〇〇〇
同二十一年        七〇〇
明治廿三年の秋の大洪水の結果、沿岸農民は始めて起つて運動に手を着けた。最も肥沃の土地が即ち最も惨害の土地だ。此年十二月、足利郡吾妻村と云ふが、臨時村会を開いて、始めて県知事へ一通の上申書を提出した。同時に、栃木県会も、「丹礬毒之儀に付建議」と云ふ決議書を決定した。
農民は更に土と水とを携へて、農商務省へ出頭し、分析のことを請願した。同省の地質所は、人民の依頼に応じて、研究して呉れる処なのだ。然るに、程経て意外にも左の如き曖昧な返事が来た。
 畑土並に流水の定量分析を出願致度旨にて、現品分量問合のおもむき領承。然るに右分析の義は、当所に於て依頼に応じ難く候間、右様承知有之度、此段及通知候也。
   明治廿四年四月廿二日
地質調査所
仕方が無いから、農科大学の古在教授へ依頼した。やがて教授から次の返事が来た。
 過日来御約束の被害土壌四種調査致候処、こと/″\く銅の化合物を含有致し、被害の原因全く銅の化合物にあるが如く候、別紙は分析の結果及被害圃の処理法に御座候、不具。(別紙略)
   六月一日
古在由直
   国会開設の前後

明治二十四年十二月十八日、代議士田中正造は、第二議会へ始めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出して、こゝに足尾銅山鉱業停止の火蓋ひぶたを切つた。
田中正造の鉱毒事件史を進める前に、僕は、憲法或は議会に対するこの人達の信念に就て、一応君の理解を得て置く必要がある。今や立憲政治は一般嘲笑の具と化して居る。然れ共田中正造など云ふ人達は、立憲政治は自分等の汗と血とで建立したものだと云ふあつい自覚を持つて居た。従つて議員と云ふものの重大な責任を深く知つて居た。明治十三年、彼は群馬栃木両県民六百八十名の連署した国会開設の請願書を携へて、元老院へ出頭した。次の文章は当時の若い志士の手に成つたもので、今日の君等には如何いかにも幼児のたはむれに見えようが、この稚気ちきの中に当年智者の単純な理想を汲み取つて読んで呉れ。
「伏ておもんみるに、陛下恭倹の徳あり、加ふるに聡明叡智の才を以てす。夙に興き夜に寝ね、未だ曾て一月もおこたらず、天を敬し民を撫するの意、天下にあり、而して其効験の未だ大に赫著せざるものは何ぞや。患、憲法を立て国会を開かざるに在る也、夫れ国会を開くは、上下の一致を謀るに在り。上下いやしくも一致せば、則ち其の患ふる所のものは忽にして消し、其害を為すものは忽にして除き昨日の憂患は乃ち今日の喜楽となり、昨年の窮乏は乃ち今日の富饒と為る也。是故に国会を開く、まことに陛下の叡旨の在る所にして亦人民の切に企望する所也」
この翌年、「明治二十三年国会開設」の予約が成り、二十二年の二月十一日、愈々いよ/\憲法発布。田中は時の県会議長として、この前古未曾有の大典に参列した。この日は稀有な大雪であつた。この栃木の大野人が始めて燕尾服と云ふものを、宿屋の女中に着せて貰ひ、愈々宮中の式場へ出掛けると云ふ朝、郷里の政友へ書いた左の書翰を一読せよ。
「拝啓。幾多の志士仁人が十余年の辛酸遂に空しからず、今日紀元節の佳辰に当り、恐多くも 至上陛下には憲法発布の式を挙行し給ふ。御同慶至極に候。昨夜は余りの嬉しさに眠れ不申候。是より参列の栄に浴する都合に候。実は吾々県会議長は、拝観のことと決定せられ居りしも、種々交渉の上、遂に参列と云ふことに致させ申候。民軍の幸先上々吉にて、何卒御喜び被下度、右御報告申上候。いづれ帰郷の上、参館色々申上べく候へ共先づ本日の御祝迄。※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々頓首」
この文中「拝観」と「参列」とにつき一寸君の注意を求める。初め政府が定めて置いた式場の順序には、県会議長席は「拝観人」の中へ逐ひ込んであつた。この不都合を発見したのは、田中であつた。今日未だ議会が開かれざる間、人民の代表者と云へば県会議長の外に無い。我々こそ今日憲法発表式場の主体でなければならぬ。拝観とは何事ぞや――この議論を以て県会議長達を説き廻はり、一致団結して、政府へ迫つた。政府は驚いて、急に手筈を替へて参列席に改めた。
二十三年七月一日、日本の歴史に見たことの無い衆議院議員の選挙と云ふことが始めて行はれた。田中正造も郷里から推されて代議士になつた。五十歳。
其年十一月二十五日、帝国議会が始めて召集された。衆議院の中心問題は予算であつた。予算議定権の争議であつた。憲法第六十七条の解釈と云ふものが、政府と民党との接戦点であつた。政府は議会の権限を縮少しようとし、民党は議会の権能を伸張しようとする。自由党議員の分裂に依て、民党の主張は先づ敗北した。田中は民党中の最硬派改進党に属して居た。
二十四年十一月廿六日、第二議会の開院式は行はれた。今度は第一議会の失敗に懲り、自由改進両党の提携を固くし、猛烈に政府を突撃する計画で、議会解散の風説は早くも世に伝はつて居た。その上に、田中に取りては、この年始めて鉱毒問題を提げて特殊の戦闘を開かねばならぬ。この多端の折、十一月廿七日、父富造翁死去の電報が来た。二十九日附の田中の端書が残つて居るが、当時※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)忙の状が如実に見える。
「父死去、昨日帰宅、本日埋葬、明日は帰京に付、右申上候」

   未来の時代を孕む鉱毒問題

田中代議士が始めて出した鉱毒問題の質問書
「大日本帝国憲法第廿七条には、日本臣民は其所有権を侵さるゝことなしとあり。又日本坑法第三項には、試掘もしくは採掘の事業、公益に害ある時は、農商務大臣は既に与へたる許可を取消すことを得とあり――然るに栃木県下野しもつけ国上都賀郡足尾銅山より流出するすべての鉱害は、群馬栃木両県の間を通ずる渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害を被らしめ、田畑は勿論飲用水を害し、堤防草木に至るまで其害をかうむり、将来なほ如何なる惨状を呈するに至るやもはかり知るべからず。数年政府の之を緩慢に付し去る理由如何いかん。既往の損害に対する救治の方法如何。将来の損害に於ける防遏ばうあつの手段如何」
この十八日、衆議院の予算本会議では、民党査定案が一瀉千里の勢で通過し、二十二日には、今期の議会第一の問題たる海軍拡張の予算案が全部否決された。かく火花を散らして闘ふ政府と民党との衝突は、これ然しながら、藩閥政府打破の旧観念に属す。田中正造が投げた鉱毒問題には、金権政治の弾劾と云ふ未来の時代をはらんで居た。
十二月廿四日の予算会議、農商務省費目の議事に於て田中代議士は始めて農商務大臣陸奥宗光と顔を合はせた。君は外務大臣の陸奥の名を聞いて居るだらう。此時陸奥は農商務大臣であつた。気の毒なことには、陸奥の次男が古河の養子だ。
田中代議士の質問演説
『農商務省へは先日質問書を出して置きましたが、七日になりましても未だ御答弁が無い。今日此項の費目にかゝらぬ前に御答弁があるだらうと信じて居りましたが、何か御差支があるものと見えて御答弁がありませぬ。議院法には、直に答弁するか、出来なければ出来ない理由を明示すと云ふことがある。七日経て答弁が出来なければ出来ないと云ふことを、本費目に掛る前に、大臣御出席であるから、一応申されて然るべしと思ふ。出来なければ出来ないで宜しい』
陸奥農商務大臣の答弁
『唯今田中君の御質問がございましたが、その御質問の初めにかねて質問書を出して居る、何故に返答が遅いかといふ御催促でありました。その返答は何時でもするつもりで、即ち今日も書類を持つて居る。昨日もこの通り議長に返答致しませうと思ひましたが、予算会議の為に大層議論が忙がしい様に思ひましたから、その間を得て答弁を致しませうと思ひました。或ひは明日でも答弁致しますこれは不審に向ての御答であります』
詭弁の雄者陸奥は避けて遂に答へなかつた。
廿六日、議会は解散された。陸奥が持つて居ながら、出すことを恐れた答弁書が、議会解散後の官報附録に左の如く載せてある。
一、群馬栃木両県下渡良瀬沿岸の耕地に被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず。
二、右被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中なり。
三、鉱業人は成し得べき予防を実施し、独米より粉鉱採聚器を購求して、一層鉱物の流出防止の準備をなせり。
   農相陸奥宗光を罵る

明治廿五年二月、臨時総選挙施行。これが有名な民党一掃の選挙干渉で世の非難に堪へずして、内務大臣品川弥二郎は、議会召集に先だちて辞職した。
五月二日に臨時議会召集。十一日、先づ貴族院で選挙干渉難詰の建議案通過。翌十二日、衆議院は選挙干渉上奏案の大論戦。上奏案は僅かの少数で敗れたが、越えて十四日決議案は多数で通過した。十六日、七日間議会停会の詔勅。政府は保安条例を施行した。殺気紛々。
その二十日、田中代議士は「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出した。前議会に於ける陸奥農相の答弁書には、第二項に於て、「被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中」と逃げて居たが、この時、医科大学の丹波教授、農科の古在、長岡両教授等の分析調査の結果、渡良瀬沿岸被害の原因は、足尾銅山に在りと云うたが、既に近く世間に発表されて居たから、政府の答弁も勢ひ一歩を進めなければならなかつた。乃ち六月十一日、左の答弁書を送つて来た。
一、足尾の鉱毒が渡良瀬河岸被害の一原因たることは、試験の結果に依りて之を認めたりといへども、此被害たる、公共の安寧を危殆きたいならしむる如き性質を有せず。其損害の程度は鉱業を停止するに至らず。
二、既往の損害は、行政官たるもの、何等の処分をなすべき職権なし。
三、将来予防の為め、鉱業人は粉鉱採聚器設置の準備中なり。
四、鉱業人は、上野かうづけ国待矢場両堰水利土切会と契約し、自費を以て両堰水門内に沈澱場を設け、時々之を浚渫しゆんせつすべき準備中なり。
この答弁書を見よ、これは政府と云ふ者の態度でなく、全く鉱業者の代理人だ。田中は直に再度の質問書を提出し、その十四日、議会最終日の演壇で次のやうにのゝしつた。
『法律があつて法律を実行することが出来ない。法律があり条例があつて、政府がこれを実行しない。――諸君の最も恐るゝ外国条例、条約改正問題中の居留地と云ふものを、尤も恐れるのは何であるか。我帝国に法律あれども、法律が行はれないからである。然るに群馬栃木の中に、この新奇なる古河市兵衛の輩が跋扈ばつこして、新たに居留地をこしらへ、法律あれども法律を行ふことが出来ない。人民如何に困憊こんぱいに陥るとも、農商務大臣の目には少しも見えない。偶々たま/\愚論を吐いて曰く、古河市兵衛の営業と云ふものは国家の有益であると。――大きにお世話だ。此方は租税を負担して居ります。古河より先きに住んで租税の負担をして居る人民が今日其土地に居ることが出来ない、祖先来の田畑を耕すことがならず、祖先来の田畑がみのらなくなつたと云ふ事実と比較が出来るものでない。憲法があり法律がある今日、それを執行することが出来ないならば、農商務大臣はその責任を尽さないのである。そのせめを尽すことの出来ないものは速にその職を辞さなければならぬ』
田中が、議会の演壇で真つ赤になつて、農商務大臣の責任を論じて居る時、政府は裏から手を伸ばして、被害地人民の口に封印を押して居た。地方官吏が権力を以て示談の契約書に調印をさせて居たのだ。見本を一枚見せよう。
       契約書
下野国上都賀郡足尾に於て、古河市兵衛所営の銅山より流出する粉鉱に就き、渡良瀬川沿岸町村に加害有之に付、今般仲裁人立入、其扱に任し、梁田郡久野村人民より正当なる手続を尽し委任を付托せられたる総代其外十二名と、古河市兵衛との間に熟議契約をなす左の如し。
第一条 古河市兵衛は粉鉱の流出を防がんが為め、明治二十六年六月三十日を期し、精巧なる粉鉱採聚器を足尾銅山工場に設置する事。
第二条 古河市兵衛に於ては、仲裁人の取扱に任せ、徳義上示談金として左の如く支出するものとす。
   時の農相榎本武揚

田中の鉱毒の声は、久しく議会に絶えた。一つには議会の解散が頻繁であつたが為め、一つには日清戦争でこの内争の問題を差控へたるが為め。二十九年、渡良瀬の大洪水――三十年二月廿六日、田中は久振りで長広舌を振つた。
この時政府は松方内閣で、大隈重信が外務大臣となり、田中の属する進歩党は政府党であつた。田中の質問に対して、政府は無言で過ぎた。三月十七日彼は催促の演説をした。翌十八日、政府は左の答弁書を議会へ出した。君よこの答弁書は大に注意を要す。
       政府の答弁書
一、栃木県上都賀郡足尾鉱山鉱毒事件は、明治廿三年以来数回の調査に依り、渡良瀬川沿岸地に鉱毒含有の結果を得たり。而して明治廿五年に至り、鉱業者は仲裁人の扱に任じ、正当なる委任を附託せられたる沿岸町村被害人民総代との間に熟議契約をなし、其正条に基き被害者に対して徳義上示談金を支出し、且つ明治廿六年七月より同廿九年六月三十日までを以て、粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、其期間は、契約人民に於て何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、其他行政司法の処分を請ふが如き事は一切為さざる事を鉱業人と契約し、其局を結びたり。
一、尚ほ鉱毒等より生じたる町村共有地の損害は、第一に記載したる契約第五条に依り、更に明治廿六年七月より起算し、猶将来に付、臨機の協議を遂げ別段の約定を為すか、若くは民法上自ら救済の途あるあれば、之に依るの外無かるべし。
こゝに政府は始めて「無責任無関係」を公言した。
この報一たび伝はるや、鉱毒地一帯が忽ち殺気立つた。大挙上京の用意に取りかゝつた。
時の農商務大臣は旧幕人の榎本武揚えのもとたけあきであつた。同じ旧幕の人の津田仙と云ふ老農学者は、既に長く田中の応援者であつたが、今やこの厚顔無恥の政府の答弁書が、親友榎本の名で発表されたのを残念に思ひ、二十三日、自ら榎本を伴うて鉱毒地の視察に行つた。鉱毒地の農民等は、農商務大臣の視察と聞いて、多大の希望を描いて八方から集まつた。
荒涼悲惨――何たる情景ぞ。むかし孤軍五稜廓に立籠つて官軍を悩ました釜次郎の血液未だれざる榎本は、たゞ憮然ぶぜんとして深き感慨に沈んだ。無言さながら石像の如き態度に、彼を取り囲んだ被害民は、悲憤の余り、悪言毒語、その無情冷酷を罵つた。
その夜汽車が上野へ着くと、榎本は停車場から馬車を直ちに大隈邸へ向けた。
二十四日、議会の最終日で、大隈外相の演説があり、極めて多忙である中を、田中は無理やり演壇に立つて、鉱業停止を叫んだ。彼はその長演説の最後に於て言をあらためて議会へ訴へた。
『諸君にお願ひ申して置きます。成るべく鉱毒地を御覧になつて戴きたい。被害地は東京から二十里そこらしか無い。政府から誰が往つて見た。誰が往つて見た。見ないで居てからに、卓子の上で勝手な人間の報告ぐらゐ聴いて置いてどうするのでございませうか。――
未だ議論は結了しませぬけれども、これで止めます。如何にも憤慨に堪へませぬ、十万以上の人間が毒殺される――(議席に笑ふものあり)諸君の中にはお笑ひなさる御方もございますが、どうも私の力ではこの真状を写し出することが出来ませぬ。御笑になる御方があるから、ほ一歩進んで言はなければならぬ事が出来て来ました。農商務大臣の向島の別荘で菜が一本出来なくなつたら、諸君どうする。忽ち自分の頭に感ずるのである。失礼ながら早稲田の大隈さんのあの綺麗な庭が、草もなく花もないとなつたら、諸君どうであるか。自分の身の上に来ればわかるけれども、身の上に来ない中は頭に懸けない。この上尚ほ彼此かれこれ面倒な事を申して居りますならば、鉱毒の水を汲んで来て、農商務大臣に飲んで貰ひませう。早い話である。なか/\これくらゐの話で実際の有様を写し出すことが出来るものでございませぬ。どうぞ諸君、御情がありますならば、一日で行つて帰られます。日帰りでも見られます。丁寧に見るには十五日もかゝるが、一個所ぐらゐ見るには、一日で往つて見られますから、どうぞ諸君、此の被害地の模様が、私が嘘をつくのであるか、山掛けなことを申すのであるか御一見下されば相分ることでございます。今の政府は、到底親切なやり方をする政府で無いと認め、この答弁書の有様を見て、残酷なる愚かなる、何とも名の付けやうの無い政府であると断念致しましてございますから、政府を頼まぬ決心でございます。宜しく諸君、この被害地を御一見下さる事を御願ひ申します。是非これを御願ひ申します』
田中の演説が済むと、政府は「足尾銅山鉱毒調査会」新設の官制及び委員任命の件を、議会へ発表した。昨夜、榎本が大隈を説得したのだ。
二十五日、議会閉院式。
二十八日、榎本は責任を引いて農商務大臣を辞した。
三十日、宮内省からは、広幡侍従が鉱毒地視察。
四月九日、内務大臣樺山資紀の鉱毒地視察。
五月廿七日、鉱毒防禦工事命令書が鉱業人古河市兵衛へ達せられた。
田中正造は、「鉱毒防禦」を要求したのでは無い、「鉱業停止」を求めたのだ。

   政治生活の断崖に立つ

明治三十二年の春、議会が議員の歳費増加案を通過し、田中正造が歳費辞退の已むなき境界に立つた時は、即ちこの人の政治的生活が既に断崖に近寄つた時である。これを知る為には当年政治界の外観を一瞥するの必要がある。一と筆書きにして見たい。
一、伊藤博文、憲法制定の功労者。一身同体の親友井上馨、その背後に三井。
一、大隈重信、改進党の創立者、背景が三菱。
一、山県有朋、非議会主義の代表者、陸軍の首脳。
 不思議なる運命は、二十三年、この人の総理大臣時代に帝国議会が始めて開かれた。明治廿五年、乱暴なる選挙干渉を行つた内務大臣品川弥二郎はこの直系。
一、日清戦争後、二十八年冬、伊藤内閣は議会に臨むに当りて自由党と提携。議会閉会の後自由党の強要にて党首板垣退助入閣。
一、伊藤内閣は、外務大臣陸奥宗光病気辞職、且つ戦後財政の為め有力な大蔵大臣を要する為め、松方正義大隈重信の二人を入閣させようとしたが、板垣固く大隈を排斥して成立せず。伊藤内閣総辞職。
一、元老会議の推薦にて、二十九年九月十八日、薩閥及進歩党提携の、新内閣成立。
総理大臣兼大蔵大臣    松方正義
外務大臣         大隈重信
内務大臣         樺山資紀
海軍大臣         西郷従道
拓植大臣兼陸軍大臣    高島鞆之助
薩派の非立憲的行動、進歩党の猟官的運動、両々相容れず、三十年十一月、進歩党提携を断ちて大隈辞職、鉱毒防禦工事を始めて古河市兵衛へ命令したのはこの時だ。
一、同十二月廿四日、第十一帝国議会開院式。
 廿五日、進歩党自由党連合して松方内閣不信任決議案提出。衆議院解散。
 廿八日、松方首相辞表提出。
 三十一年二月十日、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、西郷従道、大山巌、井上馨六名御前会議。
 十二日、伊藤内閣成立。伊藤と板垣との間に黙契あり、三月行はれた臨時総選挙には自由党到る処に有利の成績を挙げた。
一、選挙の結果百余の議員を得た自由党は、この勢力を楯にして党首板垣の内務大臣を要求した。大蔵大臣井上馨絶対反対、伊藤首相進退に窮す。
 四月十六日、自由党代議士会は、政党を基礎とせざるを理由として伊藤内閣反対を決議。
 五月十四日、議会召集。
 六月十日、政府唯一の財政策地租増徴案は、自由進歩両党提携の下に、二十七対二百四十七の最大多数にて否決。議会解散。
 翌十一日、自由進歩両党、各自評議員会に於て、合同を決議。
 十六日、新政党同志懇親会。大隈板垣来会。
 二十二日、両党合同の「憲政党」、新富座に結党式を挙ぐ。
一、二十四日、伊藤、山県、黒田、井上、西郷、大山、薩長両閥の元老、御前会議。
 世上、伊藤は憲政党に対する新政党創立の必要を主張して、山県と衝突。伊藤が後継内閣の為め大隈板垣を推薦したので、山県と激論に及んだなど流説紛々。
 二十五日、伊藤挂冠、且つ勲等爵位一切奉還の表章をたてまつる。
 同日、重ねて御前会議、而も諸老、一人の自ら難局に当るものなし。
 二十七日、大隈板垣へ組閣の大命下る。三十日親任式。
総理大臣兼外務大臣    大隈重信(旧進歩)
内務大臣         板垣退助(旧自由)
農商務大臣        大石正巳(旧進歩)
文部大臣         尾崎行雄(旧進歩)
大蔵大臣         松田正久(旧自由)
司法大臣         大東義徹(旧進歩)
逓信大臣         林 有造(旧自由)
こゝに特筆大書すべき○○○○は、この政党内閣の始めて樹立されたと同時に、○○、○○の○○と云ふものを、全く政局の範囲外に特立させて、手の届かないやうにして仕舞つたことだ。
一、憲政党内閣わづかに成立を告ぐるや、内部の軋轢あつれきは直に起つて、日に益々劇しくなつた。
一、八月、尾崎文相が大日本教育会にて演説の際、彼は当世の金力万能の趨勢を極力非難し、中に「日本に共和政治を行ふ気遣は無いが、仮りに共和政治と云ふ夢を見たとせよ、三井三菱は必ず大統領の候補者であるであらう」と云ふ一語を吐いた。政党内閣の間隙を窺つて居た官僚派は、直ちにこの一語を捉へて「尾崎文相の共和演説」と宣伝し、自由派の輩まで盛に唱和して内閣一角の崩潰を企てた。
一、十月二十日、侍従長徳大寺実則の板垣訪問。二十一日板垣参内。二十二日侍従職幹事岩倉具定の大隈訪問。二十四日、尾崎辞職。
一、廿五日、板垣、文相候補として星亨江原素六二人を推す。大隈ゆるさず。二十六日、大隈参内して、犬養毅を推挙。
一、二十七日、犬養親任式。これに先だち板垣参内、大隈の専横を奏上。
一、二十九日、自由派の板垣松田林三相辞表。
一、三十一日、進歩派の大隈大石大東犬養四相辞表。
一、憲政党成りてより未だ五月に満たずして、争奪あり分裂あり、自由派は憲政党と号し、進歩派は憲政本党と称す。かくて政党内閣は、未だ自ら議会にも臨まずして、瓦解の醜態を暴露。
一、政党内閣自ら倒れて、十一月八日、薩長両閥の新内閣成立。山県有朋総理大臣、松方正義大蔵大臣。
 然れ共衆議院に与党を有たない政府は、議会は既に昨七日召集されて居ても容易に開院式を挙げることが出来ない。十二日、板垣は山県に会見して、自由党提携の議を交渉す。往復頻繁。二十七日、臨時閣議に於て自由党提携の議を可決。山県乃ち自由党の首脳星亨を招きて宣言書を交附し、三十日、首相邸に於て茶話会を開く。
一、十二月三日、開院式始めて行はる。
一、八日、政府先づ地租増徴案を衆議院へ提出。この地租増徴案は近時政海の暗礁で、政党の反対の為めに、既に幾度も議会の解散を見た。特に地租軽減と云ふことが自由党多年の主張なので、昨日までの党議を故なく突然放擲すると云ふことは、如何にも困却だ。そこで世間へ弁明の口実の立つやうに、五年の期限を付けて賛成することにした。且つ議員の歳費八百円を二千円に増加することを暗約した。
 かくて多年の難件地租増徴案は、二十日、自由党の支持の上に無事通過することが出来た。
一、明くれば三十二年二月二十八日が議会の最終日であつたが、その日になつて三月十日まで延長の詔勅が出た。かくて予ての歳費増加案が提出された。自由党内にも、さすがに自ら恥づるものが多い。そこで星はこれ等の人を安心さす為めに、従来の議院法に「議員の歳費は辞することを得ず」とあるを修正して「辞することを得」と云ふことにした。
 三月六日、委員会から直ぐに本会議に移さる。
君は、この無味乾燥の記事の中に、政党腐敗、議会堕落の実相を、映画の如くに見たであらう。「歳費増加案」たゞ見れば何の奇もなき歳費増加案も、実は深甚の意義を含んで居る。
進歩党は反対せねばならぬ。然れども誰を代表者に立てて反対の意思を表明するか。智者弁者多士済々たる進歩党、真に堂々と反対の意思を表明し得るものは誰であるか。党の総務等は一々に物色した。而して一個の人物を得た。田中正造だ。常は厄介物の田中正造だ。かくて彼は進歩党を代表して演壇に立つた。
『皆様、私はこの議院法中改正法律案即ち議員の歳費増加案に反対致します。私は諸君も御心配下されます通り鉱毒問題の為に忙殺されて居りまして、この一般の予算その他、法律等の問題に就きましては、殆ど全く闇黒であります。鉱毒問題の外は、何も判らなくなつて居るのであります。近来は議場に於ても殆ど死したる者の如くなつて居るのであります。今日、この歳費を増加すると云ふ原案につきましては、どう致しましても一言述べなければならない場合に至りましたのでございます。
 第一、歳費を増加すると云ふ理由書は如何です。
 理由書に「現行議員の歳費を以て、その資格を保つの資に供するに足らず」とある。何でございますか。金がないから議員の品位を保つに足らないと言ふのでございます。一体、金の多い少ないを以て議員を左右すると云ふが如き文章を書くが、議員を侮辱して居るのである。申さば、これは侮辱である。この文章を以て穏当なるものと御解しになる御方は、金で無ければ世の中の事は駄目だと見る人である。この如き御方はイザ知らず、苟も議員の品位と云ふものは金が少ないから資格を保つに足りないと言はれて、これを恥としない者は無からうと思ひます。これは侮辱です。――
 議員の歳費と云ふものは、たゞ普通の経済を以て論ずるわけにはゆかぬ。慾得上の問題では無い、精神上の問題になつて来る。議員は自ら国家の歳計を増減するの大権利を持つて居る以上、自分が取る歳費、これは取つて宜いのでも、万々取つて宜いのでも、自らこれを慎まなければならぬ。若し国家が富んで租税が減ずる。国民挙つて議員の歳費を高くしてやつても宜いではないかと、国民の声が立つて来ても、議員たるものは、容易に自ら増加することは出来ない。それが議員の品位である。議員の資格である。八百円では足りない、二千円にすれば議員の資格が保てるとは、何と不都合なる原案であるか。理由であるか万一この議会を通過するやうなことがございましては、上は陛下に対して畏多いのみならず、実に人民に対して相済まざることである。念の為老婆心を一言する次第でございます』
採決の結果、増加案は百二十五対百三十四、即ち九票の差で通過した。この法律は即時実行するので、議員等は皆増額の歳費を受取つて帰つた。「歳費は辞することを得」と、法律は改正されたけれど、まるで忘れられた姿であつた。独り田中正造は忘れることが出来なかつた。弾劾的の理由書を提出して辞退して議会を出た。誹謗は却つて進歩党の中に起つた、『田中の歳費辞退は名聞の為めだ』と。
彼は選挙区へも報告せねばならぬ。彼は選挙区への報告の末尾に於て、次のやうに言うて居る。
『正造一己の生活に就ては、多年諸君の御厚遇を蒙り、御恩借の金円も少からずして、未だ返納も不仕ものなれば、その歳費辞退の手続を為すの前に於て、一々御協賛を経べきの所、国務多端寸時を争ふの折柄に候へば、遂に御協賛も不得辞退の手続を了したるの事情、幾重にも御推察被下度。尤も御協賛を要し候も、結局老生の精神は毫も変ずる事なく、只管ひたすら歳費を辞するの外他意なき次第に御座候。事態切迫専断実行の場合御高察の程ひとへに御願申上候、云々』

   老農の歌へる「渡良瀬の詩」

世間は、去る三十年五月の「鉱毒防禦工事」の命令書で、鉱毒問題は既に解決して了つたものと思つて居る。
三十一年秋の大洪水の折、鉱毒地の農民は大挙して東京へ押寄せた。東京に居た田中は、この急報に接すると、単身直ちに千住街道を淵江村と云ふ迄車を走せ其処に請願の民衆を待ち受けて、百方説諭して引き取らせた。それは憲政党内閣の時なので、即ち我党内閣を信用して、此度は平和に帰村せよと言ふのであつた。その時彼は言うた。
『政府若し正造及び同志の説明を用ひざれば、議会に於て責任を詰問し、社会に向て当局の不法を訴ふべし。其時諸君は御出京御随意なり。其時こそ正造は諸君と進退を共にすべければ、今日決死の生命をば、それまで保存せられたし』
然るに憲政党内閣は、あの通りの醜態で消えてしまつた。
三十三年二月十三日、議会へ請願の最後の覚悟を決めた被害民は、渡良瀬村の雲龍寺を出発し、館林を過ぎて、利根川まで進んだ。政府は既に利根の船橋を撤し、憲兵警官を両岸に配置して追ひ散らし、百余名を捕縛して、「兇徒嘯集」の罪名の下に、群馬の監獄へ送つてしまつた。
僕はこれ迄、議会を舞台に鉱毒問題を語つて来た。「鉱毒地」に就ては、未だ何も君に言うて居ない。僕は君に鉱毒地を見て欲しいのだ。こゝに良い物がある。鉱毒甚地と言はれた吾妻村下羽田の、庭田源八と云ふ老農が、自ら筆を執つて有りのまゝを直写したもので、僕はそれを「渡良瀬の詩」と呼んで居る。全部読むと長過ぎるから、四季に渡つて拾ひ読みにする。
「立春正月の節。雪が一尺以上も降りますと、まだ寒うございますから、なか/\解けません。子供などがその雪を二坪ぐらゐ片付けまして、餌を撒き置きますると、二日も三日も餓ゑて居る小鳥が参ります。其所へ青竹弓でブツハキと云ふをこしらへ、餌をあさるを待ち受け、急に糸を引きますると、矢がはづれ青竹弓がはづれまして、雀や鳩が一度に三羽も五羽も取れました。また雪を除き餌をまきたる所へ麦篩を斜にかぶせ、細き竹に糸を付け、小鳥が餌にうゑて降りるを見て糸を引きて取る。一羽二羽は取れ申候。近年鉱毒被害の為め小鳥少なく、二十歳以下の者この例を知るものなし。正月の節よりも十日もたちまして雪が七寸乃至一尺も降りまして、寒気は左程ゆるみましたとも見えませぬけれど、最早陽気でございまして、翌る日晴天になりますと、雪は八九時十時頃より段々解けまする。田圃でも日向のよい箇所は、所々土が雪より現はれます陽炎かげろふが立ちまする有様、陽気が土中より登りて湯気の如くに立ちのぼる。然るに鉱毒被害深さ八九寸より三尺に渡り候、田圃には更に陽気の立ち上ぼるを見ず。」
「清明三月の節になりますると、藪の中や林の縁に、野菊や野芹やふきや三ツ葉うどなどが多くありました。川端には、くこ抔と申すが多くありました。三月の節句に草餅をきまするに、よもぎが多くありまして、摘みましたものでござりますが、只今では、鉱毒地には蓬が少なき故、利根川堤や山の手へ行つて摘んで参ります。近年は無拠よんどころなく、蓬の代りに青粉と申すを買ひまして、舂きまする。桜の花の盛りをマルタ魚の最中とし、梨の花盛りをサイのしゆんとして、渡良瀬川へ川幅一杯に網を張り通し、夕暮五時頃より、翌朝六七時までに、魚が百貫以上も取れました。また闇の夜などに、川や沼に大高浪押し来り、小胆の人は大蛇かと驚きましたが、かはうそが多く子を連れて、游ぎあるくのでござりました。渡良瀬川、淵と名のつきましたところは、平時にも水が二丈や三丈はありました。鯉など年中はねて居りました。――只今では毒鉱土砂沈澱し、河底埋塞の為め、平水の節は、名のつきました所も八尺か九尺しかありません。浅くなりました故、魚は居りません。」
「小満四月、中の節。山林田圃などには、蛇が多く居りました。蛇の種類も色々ありました。山かゞしと云ふが、あの縞蛇と云ふがあり、地もぐりと云ふがあり、青大将と云ふがあり、又かなめと云ふがありましたが、只今鉱毒地には更に御座なく候と申しても宜敷位でござります。また畑の境界などには、うつ木と申しまする樹を仕立つ。此木は根が格別ふえませぬ故、境木などに至極宜敷ござります。此木に卯の花と申す真白な花が咲き乱れました。此花の頃は時鳥ほとゝぎすがあちこち啼いて、飛びちがひましたものでござりますが、只今では、虫や蜘蛛が鉱毒の為め居りませぬ故か、一と声も聞きませぬ。卯の花も咲きませぬ。蟷螂かまきりや、けら、百足むかで、蜂、蜘蛛等がおびたゞしく居りました。土蜘蛛と申しまして木の根や垣根などに巣の袋をかけて置きましたが、鉱毒地には、只今一切居りませぬ。」
「芒種五月の節に相成りますると、野にも川にも螢が夥しく居りまして子守や子供衆は日の暮を待ち兼ねて螢狩りに行きましたものでござりますが、鉱毒の為め少しも見えませぬ。此節に到りますると、大麦は丈五尺位ありました。並みの馬につけますには、余程高く付けませぬでは、穂が引きずりました。一反で三石四五升位とれました。小麦も丈が四尺余もありました。一反で二石五斗位は取れました。菜種も丈が六尺以上ありました。一反で一石八九升まで取れました。朝鮮菜と申しまするは、丈が七尺以上ありました。一反二石以上とれました。辛子は丈が八尺より九尺位ありました。一反で一石以上とれました。下野国足利郡吾妻村大字小羽田は、関東にても有名の肥土でありましたが、只今は鉱毒被害の為め、何も生えませぬ。」
「処暑七月の中の節。土用明けてから十日もたちますると渡良瀬川、朝日出づる頃よりして、何千万と数限なき蜉蝣かげろふが川の真中、幅三間位の処を、列を連ねて真白に飛び登り一時間か半もたちますると、早や流れ下りました。是が毎朝々々十五日位つゞきましたが、只今は少しも飛びませぬ。又た鵜烏といふ鳥が川や沼に四季共、魚を餌にして棲んで居りました。また暑気強き日、大雷が鳴りまして、渡良瀬の河原、焼け砂に急に大雨が降りますと、午後六七時頃には右申上げました河原焼砂は雨に流れ出ます。川水従て泥濁りになりますると、小魚が喜びまして、川原の浅瀬に多く出かけます。是に投網と申すを打ちますと、沢山に取れました。網を持ちませぬ者は、竹箒などで掃き上げて取りましたものでござります。また田面、沼川の辺には、多く白鷺が居りまして、小魚を餌にして飛びあるきましたが、只今では、夕立いたし大雨が降りましても、魚は取れず、白鷺も鵜烏も居りませぬ。」
「大雪十一月の節になりますと、大根や牛蒡ごばうや葱芋などが、多く取れました。此の芋などは、人々何れも野中又は道端などに穴を掘りまして、是に馬つけ五駄も七駄も入れて置きました。一戸に付此の塚が三つも四つも五つもござりますから、銘々に我家の印や苗字などを、塚の上にしるしまして、是れに麦種を蒔入れて置きまする。来春に相成りますると、其麦が青々と生えまして、心覚えになりましたものでござりまするが、只今は、鉱毒の為め芋が取れませぬから、何処をあるきましても、此の塚がござりませぬ。」
「大寒十二月の節に相成りますると、むじなや狐などが、人家軒端や宅地などを、めぐりあるきました。貉はガイ/\/\と鳴き、狐はコン/\/\と鳴く。ケイン/\と鳴くもありました。屋敷まはりなどに、人参など土に埋めて置きますると、掘り出して喰ふものでござりましたが、鉱毒の為め野に鼠も居らず、虫類も無く、魚類も少なき故なるべし、二十歳以下の青年は御存じありますまい。」
 筆紙難尽、只今ありまするものは、芝も杉菜と申しまする草のみ満々と延びまする。
 明治三十年旧十一月八日書出しましたこと
 改明治三十一年旧二月十日
六十一歳 庭田源八
   深傷の老獅子は吼える

「自然」か。「無智」か。否な、「政治の罪」だ。
鉱毒地に「兇徒嘯集」の大活劇が演ぜられて居る時、田中正造は議会の演壇に立つて居た。彼はこの日、進歩党を捨てた。彼が進歩党員であるが為に、鉱毒問題がやゝもすれば党派問題と見なされるうれひがあつた。今や自分が創立以来の進歩党を脱却した以上、諸君も亦党派的感情を離れて、この鉱毒問題を見て呉れ、と言ふのだ。
も一つの雲影がこれ迄常に鉱毒問題をわづらはして居た。「鉱毒は畢竟ひつきやう田中の選挙手段だ」と言ふことだ。彼は進んで言うた。
『尚ほまたこの田中正造は衆議院議員でございますからして、自分の選挙区の関係があるからやるのだと云ふやうな馬鹿な説が、この議場の中に――一人でも二人でも、左様な御方がある為にこの被害民の不幸を蒙り、また国家の不幸を蒙むると云ふ不都合がござりますれば、私はまた議員をもめるのでございます。今日にも罷めるのでございます。さりながら今日辞表を出しますれば、明日は演壇に登ることが出来ませぬから、今一場のお話を致して、議員を罷めまする積りでございます――』
見よ、演説壇上のこの人を――黒紋付の木綿羽織に、色せた毛繻子けじゆす[#「毛繻子」は底本では「手繻子」]の袴。大きな円い額には長く延びた半白の髪が蓬のやうに乱れて居る。年正に六十。多年の孤身苦闘に、巌丈な肉体も綿のやうに疲れ切つて居る。たとへば、深傷を負うた一個の老獅子。
十七日、彼は又演壇に立つた。先づ彼の質問書を見よ。
『亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国の儀に付質問書民を殺すは国家を殺すなり。
法をないがしろにするは国家を蔑にするなり。
皆自ら国をこぼつなり。
財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、これを奈何いかん
右質問に及候也』
彼はその長演説の終りにかう言うて居る。
『兇徒嘯集などと大層な事を言ふなら、何故田中正造に沙汰をしなかつたのであるか。人民を撲殺す程の事をするならば、田中正造を拘引して調べないか。大ベラ棒と言はうか。大間抜と言はうか。若しこの議会の速記録と云ふものが皇帝陛下の御覧にならないものならば、思ふざまキタない言葉を以て罵倒し、存分ヒドい罵り様もあるのであるが、勘弁に勘弁を加へて置くのである。いやしくも立憲政体の大臣たるものが、卑劣と云ふ方から見ようが、慾張り云ふ方から見ようが、腰抜と云ふ方から見ようが、何を以てこの国を背負うて立てるか。今日国家の運命は、そんな楽々とした、気楽な次第ではありませぬぞ。たゞ馬鹿でもいゝから真面目になつてやつたら、この国を保つ事が出来るか知れぬが、馬鹿のくせに生意気をこいて、この国を如何にするか。
 誰の国でも無い。兎に角今日の役人となり、今日の国会議員となつた者の責任は重い。既往の事はしばらいて、これよりは何卒国家の為に誠実真面目になつてこの国の倒れる事を一日もおそからしめんことを御願申すのでございます。
 政府におきましては、これだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか。如何にも田中正造の言ふ如く、亡びたと思うて居るのであるか』
二十一日、政府は左の答弁書を送つて来た。
質問の旨趣、其要領を得ず、依て答弁せず。
右及答弁候也
内閣総理大臣侯爵 山県有朋
   議会に投げかけた最後の一声

兇徒嘯集の疑獄は、三十三年の十二月、前橋地方裁判所で公判が開かれ、「官命抗拒」「治安警察法違犯」と云ふ判決であつたが、検事の控訴で、事件は東京控訴院へ移された。
政治界には、伊藤博文が自由党を基礎に官僚をひきゐて、三十三年九月、政友会を組織したので、山県は直に伊藤を推薦して、辞表を提出し、十月伊藤を首相とする政友会内閣が出来た。
第十五議会、田中正造に取つて最後の議会が開かれた。この議会に於て、彼は二度演壇に立つた。三月二十四日、最後の演説の最終の語を聴け。
『たゞ諸君に御訴へ申さなければならないのは、御互に人の命は明日も期し難い事で御座りまする。来る十六議会は姑く措いて、明日が計り難いのでございますから、思ふ事の要点は、どのやうにも、たとひ一言たりとも諸君に御訴へ申して置きたいのでござります。と言ふのは、当年もこの増税騒ぎ、昨年も増税騒ぎ、これでまた矢張り明年も増税、明後年もと云ふ筆法に行くのである。
 諸君。このやり方で、憲法はこはしツぱなしにして置いて、増税、増税、増税――何処まで行つて停止するのであるか。畢竟この日本の……………………御仕合せな話である。若しこの国民が八釜やかましい人民であるならば、……………は無いのである。――この話をして置かなければならない。
 今日の如く、少数の人間が、僅かの人間が格外なる幸福を占有して、乱暴狼藉に人の財産を打倒して、己が非常な利慾を私すると云ふことを、……………に結托して、その勢を助けてやる。この少数、穏かならぬ少数の為に国家の経済を蹂躙されると云ふことでは、この国家全体の元気と云ふものを失ひ、日本国と云ふ国の肩書を軽んじて来る。この少数の佞奸ねいかん邪智の奴ばかりに横領されて、一般人民を圧倒して置く時には、日本の所有権と云ふものを、これを共に重んずる思想が減じて来る。この日本の住民が、政府に……だから幸だと言つて、殆ど人民を無き者の如くに見て、幾ら悪い事をしても知れまい。どんな事しても人民の方には判るまい――斯様こんな浅墓あさはかな考を以て、当年も増税、明年も増税、諸君は止まる所を何となさるのでござりまするか』
この時、彼は身心疲れ果てて、殆ど壇上に倒れるばかり、ぢツと双眼を閉ぢ、幾度も頭を振つて、また口を開いた。
『憲法がある、立派に憲法が行はれて居る。租税を出せ――かう言ふ。私は絶対的反対でございます。憲法は書いたものばかりの理窟で無い。徳義だ。徳義を守るものが憲法を所有する。背徳の人は憲法を所有する権利が無い。憲法は国民四千万同胞の共有すべきもので、悪人には所有権が無い』
四十歳始めて立憲政治の建立に志を立ててより二十年。今やこの一声を議場の四壁に残して、彼は徐ろに議院の門を出た。

   衆議院議員を辞す

三十四年九月、東京控訴院に於て兇徒嘯集被告事件の第二審公判が開かれた。
重罪の被告         二十三名
軽罪の者          二十八名
弁護士           五十余名
鉱毒問題は、帝国議会から裁判所へ移つた。
一、渡良瀬川沿岸被害地中、被告居村の臨検、及び其収穫高の鑑定、土壌の分析、土質と作物との関係の鑑定。
一、本件犯罪地、即ち雲龍寺より館林、川俣地方の臨検。
一、鑑定人には農科大学の三教授選定。
これが為めに、判事、検事、鑑定人、弁護士、新聞記者等五十余人の一行は、十月六日鉱毒地出張、十三日帰京した。
田中正造はこの時まで尚ほ代議士の名義を保存して、この一行を案内したが、臨検の事が終るや、直に衆議院議員の辞表を提出して、一個の野人田中正造に返つた。

   直訴

明治三十四年十二月十日、第十六議会の開院式。
日比谷大路の拝観者の群中に混じて、時間の到来を待つて居た田中正造は、手に一通の奏状を捧げ、
『御願が御座ります――』
と、高く呼びつゝ、還幸の御馬車目がけて飛び出した。騎兵が一人、槍を取り直して突き出した。脚の弱つて居た田中は、つまづいて前へ倒れた。余り急に、姿勢を転じたので、騎兵は馬もろ共横に倒れた。還幸の行列は桜田門を指して粛々と進んだ。
翁が直訴の真意は、同じ十八日、郷里の妻勝子への手紙に明白だ。その中にかう書いてある。
「――又正造は、今より後は此世にあるわけの人にあらず、去十日に死すべき筈のものに候。今日生あるは間違に候。誠に余儀なき次第に候。当日は騎兵の中一人、馬より落ちたるもの無ければ、此間違もなくして、上下の御為此上なき事に至るべきに、不幸にして足弱きために、今日まで無事に罷在まかりあり候。此間違は全く落馬せしものありての事ならんと被考かんがへられ候。
村々の者呉々も善道に心を持ちて、心のあらん限り誠実に互に世話致し可申やうに、話するの要あり。東京御婦人の慈善心の厚き誠に誠に天の父天の母の如くにて候。呉々もありがたく奉存候」

   忘れ得ぬ翁の独語

田中翁の手紙にあつた「東京御婦人の慈善心云々」と云ふのは、翁の直訴前に出来た「鉱毒地婦人救済会」のことだ。三十五年の二月の或日、この救済会の潮田千勢子と云ふ老女が食物衣服など車にかせて、鉱毒地の見舞に出掛けた。僕も一緒に行つた。潮田さんは六十であつたらう。この日は船津川高山など云ふ被害の劇甚地を廻つた。大雪の翌日で、日は暖かく照つて居たが、殆ど膝へまで届く雪の野路を、皆な草鞋わらぢばきで踏んで歩いた。田中翁が例の黒木綿の羽織に毛繻子の袴を股立高く取つての案内役だ。案内役とは言ふものの、かく一軒々々訪問して、親しく人々家々の事情を聴いて廻はると云ふことは、この人にしても始めての事だ。
潮田さんの秘書役をして居た松本英子と云ふ婦人記者が一々くはしく書きとめたものがある。今その二つ三つをこゝに載せる。
「高山の三十七番地茂呂作造(五十八)妻きは、長女さく(二十四)次女きよ(十)の四人暮し。妻きは語りて曰ふ、元は相応の農家でしたが、今は鉱毒で何も穫れません。心配ばかりして居るので、眼が悪るくなつて、両方共かすかに見えますけれど、着物の縞も見えやんせん。眼でも良けりや、何か出来るけれど――やつと火だけはソロ/\焚きやんすが、針が一と針出来るぢや無し――父ツさんは年取つて腰が痛いしするが、かせがなけりや食べられないで、無理べえして稼いで居やんす。目の見える人は思ひやりがありやんせん。自分が見えるもんだから、何をせう彼をせうと言はれるたびに、私は身を切られるやうに思ふんでやんす――」
「船津川字中砂、川村新吉(四十五)の家族。女房は田畑に物が出来なくなつたを気にして、血病のやうにブラ/\わづらつた末、三年前に死んだ。跡に新吉は三人の子供を抱へて気が少し変になる。中庭で側目もふらず機織して居るのが、十四になる長女のお浅。小さい娘の身に一家の安危を負担して居る。縁先には九歳の新三郎と六歳のおい二人が、紅葉のやうな手に繩をなつて居る。お浅は学校へ行く年でありながら、母親代りに立働き、夜が明けると直ぐ織り始めて、毎夜十二時過ぎまで織りつゞける。元は一町近くの百姓であつたものを」
「船津川百七十四番地、鈴木島吉(三十一)女房おえい(二十九)に両親との四人暮し。父は末吉(五十五)母はおなか(六十二)と言ふ。老母おなかは元来酒をたしなむ所に、近年はたんが起つて夜分眠られぬ。すると島吉が、老母の好きな酒を飲ませる。酒を飲むと一時痰が納まつて苦痛を忘れると云ふ。近隣の人の言ふには、島吉さんが毎日々々きまつた時刻に隣村へ酒買に行く。それで私共は、島吉さんが通るから正午だんべえと言ふ位。困窮の中から毎日五銭づゝ酒を買つては母に飲ませる。我等が尋ねた時は、丁度午時で島吉が帰つて来て火を焚いて居たが、其の焚火の料と云ふは、女房が渡良瀬へ膝まで浸つて、浮木を拾つて積んで置くのだと云ふ。此の木を焚くと、銅のやうな色の灰が残り、現に其煙で天井の蠅が落ちる。毒だとは思ひながらも仕方がないから、フウと口で吹いては火を起す。此家は元農の外に漁業をも営んで居たが、鉱毒以来、両方共無一物になつてしまひ、拠なく、今は紡車の撚糸をして、糸より細い煙を立てて居る」
かう言ふ話を聴きながら、戸毎々々に廻はる。潮田さんは折々雪中にたゝずんでは、目を閉ぢて黙祷して居た。翁は堪へることが出来ず、真赤になつて叫んだ。
『田中正造が、きつと敵打ちしてあげますぞツ』
かう憤つては、大きな拳固で、霰のやうな涙を払つた。
その夜は沼辺の旅店に泊つた。潮田さんと松本さんは、昼の疲労で別室へ行つて寝てしまつた。
翁は寝床の上に端坐して深い瞑想に沈んで居る。僕も坐つたまゝ翁の容子ようすを見守つて居た。
行燈あんどんの灯がほのかに狭い室を照して、この世のさながら「無」の如き静寂。
何程の時を経たであらうか。
『政治をやつて居る間に、肝腎の人民が亡んでしまつた』
一語、煙のやうに翁の唇頭を洩れた。
かくてまた何程の時を経たであらうか。
翁は何か物に驚いたやうに、フイと顔を上げて見廻はしたが、僕が未だ起きて坐つて居たので
『や、これは/\』
と言ひざま、山のやうな体躯を、どたりと倒れるやうに横たへて、すぽりと夜具を顔までかぶつてしまつた。
僕も枕に就きはしたが、水のやうに気が澄んで、眠ることが出来なかつた。
若き友よ。
田中翁を思ふ時、僕の目には必ずこの夜の光景が浮ぶ。爾後十年の翁の新生活「人の子」田中正造の偉大な世界は、この夜の独語の奥に、芽ざして居たやうに思はれる。
(昭和八年四月)

底本:「現代日本文學大系 9 徳冨蘆花・木下尚江集」筑摩書房
   1971(昭和46)年10月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版13刷発行
初出:「中央公論 昭和八年四月号」
   1933(昭和8)年4月
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
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