魂や情熱を嘲笑ふことは非常に容易なことなので、私はこの年代に就て回想するのに幾たび迷つたか知れない。私は今も嘲笑ふであらうか。私は讃美するかも知れぬ。いづれも虚偽でありながら、真実でもありうることが分るので、私はひどく馬鹿々々しい。
 この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握つて、二三分間、一筋か二筋の涙といふものを、ながした。そのときはもう日本の負けることは明らかな時で、いづれ本土は戦場となり、私も死に、日本の男はあらまし死に、女だけが残つて、殺気立つた兵隊たちのオモチャになつて殺されたり可愛がられたりするのだらうと考へてゐたので、私は重荷を下したやうにホッとした気持があつた。
 つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあつたが、矢田津世子も亦、さうであつたと思ふ。
 私は大井広介にたのまれて、戦争中、「現代文学」といふ雑誌の同人になつた。そのとき野口冨士男が編輯に当つて、私たちには独断で矢田津世子に原稿をたのんだ。その雑誌を見て、私はひどく腹を立てた。まるで私が野口冨士男をそゝのかして矢田さんに原稿をたのませたやうに思はれるからであつた。果して井上友一郎がさうカン違ひをして、編輯者の権威いづこにありやと云つて大井広介にネヂこんできたさうであるが、井上がさう思ふのは無理もなく、それだけに、矢田津世子が、より以上に、さう思ひこむに相違ないので、私の怒りは、ひどかつたのだ。
 けれども、そのとき、野口冨士男の話に、矢田さんが、原稿を郵送せずに、野口の家へとゞけに来たといふ、矢田さんは美人ですねといふ野口の話をきゝながら、私はいさゝか断腸の思ひでもあつた。
 まだ私たちが初めて知りあひ、恋らしいものをして、一日会はずにゐると息絶えるやうな幼稚な情熱のなかで暮してゐた頃、私たちは子供ではない、と矢田津世子が吐きすてるやうに云つた。それは愛慾に就て子供ではないといふ意味ではなく、私たちは大島敬司といふ男にだまされて変な雑誌に関係してゐたので、大島に対する怒りの言葉であつたが、私は変にその言葉を忘れることができない。
 あなたは大人であつたのか。私は? 私は馬鹿々々しいのだ。何よりも、魂と、情熱の尤もらしい顔つきが、せつなく、馬鹿々々しくて仕方がないのだ。その馬鹿らしさは、私以上に、あなたが知つてゐたやうな気がする。そのくせ、あなたは、郵便で送らずに、野口の家へわざ/\原稿をとゞけるやうな芸当ができるのだが、それを女の太々ふてぶてしさと云つてよいのだか、悲しさといふのだか、それまでを、馬鹿々々しいと言ひ切る自信が私にはないので、私は尚さら、せつないのだ。
 その頃から、あなたは病臥したらしい。そして、あなたが死んで、ハガキ一枚の通知になるまで、私はあなたが、肺病でねてゐることすら知らなかつた。
 私の母は私とあなたが結婚するものだと思ひこみ信じてゐたが、ぐうたらな私に思ひを残して、死んでゐた。あなたのお母さんは生きてゐたのだ。あなたの死亡通知の中には、生きてゐるアカシの、お母さんの名があつたから。矢田チヱといふ、私は名すら忘れてはゐない。私の母以上に、私たちの結婚をのぞんでゐた筈であつた。私があなたの家で御馳走になり酔つ払ふのを目を細くして喜んでゐるお母さんであつた。際限もなく私に話しかけるお母さん。けれども、その言葉は、あなたの通訳なしには、私には殆ど分らなかつた。ひどい秋田弁なのだから。
 死亡通知は印刷したハガキにすぎなかつたが、矢田チヱといふ、生きてゐるお母さんの名前は私には切なかつた。そして、その印刷した文字には「幸うすく」津世子は死んだと知らせてあつた。「幸うすく」、あなたは、必ずしも、さうは思つてゐないだらうと私は思ふ。人の世の、生きることの、馬鹿々々しさを、あなたは知らぬ筈はない。
 けれども、あなたのお母さんは「幸うすく」さう信じてゐるに相違なく、その怒りと咒ひが、一人の私に向けられてゐるやうな気がした。そして、私は泣いた。二三分。一筋か二筋の、うすい涙であつた。そして私が涙の中で考へた唯一のことは、ある暗黒の死の国で、あなたと私の母が話をして、あなたが私の母を自分の母のやうに大事にしてくれてゐる風景であつた。そして、私は、泣いたのだ。
 私は、この尤もらしい顔附が切ない。かう書いてしまふと、これだけの尤もらしさになつてしまふ、表現のみじめさが切なく、馬鹿々々しいのだ。さうかと云つて、さうであるまいとすると、私はてんから、情熱と魂を嘲笑してしまふやうな気がする。私は果して書きうるのか。

          ★

 私はそのとき二十七であつた。私は新進作家とよばれ、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれてゐた。
 当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払ふ雑誌などいくつもないから、新人のでる余地がない。さういふ時代に、ともかく新進作家となつた私は、ところが、生れて三ツほど小説を書いたばかり、私は誘はれて同人雑誌にはいりはしたが、どうせ生涯落伍者だと思つてをり、モリエールだのボルテールだの、そんなものばかり読んでをり、自分で何を書かねばならぬか、文学者たる根柢的な意欲すらなかつた。私はたゞ文章が巧かつたので、先輩諸家に買ひかぶられて、唐突に、新進作家といふことになつてしまつたまでであつた。
 私は同人雑誌に「風博士」といふ小説を書いた。散文のファルスで、私はポオの X'ing Paragraph とか Bon Bon などといふ馬鹿バナシを愛読してゐたから、俺も一つ書いてやらうと思つたまでの話で、かういふ馬鹿バナシはボードレエルの訳したポオの仏訳の中にも除外されてゐる程だから、まして一般に通用する筈はない。私は始めから諦めてゐた。たゞ、ボードレエルへの抗議のつもりで、ポオを訳しながら、この種のファルスを除外して、アッシャア家の没落などを大事にしてゐるボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る快で満足してゐた。それは当時の私の文学精神で、私は自ら落伍者の文学を信じてゐたのであつた。
 私は然し自信はなかつた。ない筈だ。根柢がないのだ。文章があるだけ。その文章もうぬぼれる程のものではないので、こんなチャチな小説で、ほめられたり、一躍新進作家にならうなどと夢にも思つてゐなかつた。
 そのころ雑誌の同人六七人集つて下落合の誰かの家で徹夜して、当時私たちは酒を飲まなかつたから、ジャガ芋をふかして塩をつけて食ひながら文学論で徹夜した。その夜明け、高橋幸一(今は鎌倉文庫の校正部長)が食ふ物を買ひに外出して、ついでに文藝春秋を立読みして、牧野信一が「風博士」といふ一文を書いて、私を激賞してゐるのを見出したのである。
 人間のウヌボレぐらゐタヨリないものはない。私はその時以来、昨日までの自信のないのは忘れてしまつて、ほめられるのは当り前だと思つてゐた。そのとき二十六だつた。七月頃であつた。そしてその月に文藝春秋へ小説を書かされ、それ以来、新進作家で、私の軽率なウヌボレは二十七の年齢にも、つゞいてゐた。そのころ、春陽堂から「文科」といふ半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村礒多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらゐであつたと思ふ。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍らしかつたほど、不景気な時代であつた。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」といふのを連載した。
 この同人が行きつけの酒場があつた。ウヰンザアといふ店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のやうなものでもあつたせゐらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気がよかつたが、他の我々は大いに貧乏であつた。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立つて飲むことが多かつた。私が酒を飲みだしたのは牧野信一と知つてからで、私の処女作は「木枯の酒倉から」といふノンダクレの手記だけれども、実は当時は一滴も酒をのまなかつたのである。改造の西田義郎も当時の飲み仲間であるが、私はこの酒場で中原中也と知り合つた。
 ある夜更け、河上と私がこの店の二人の女給をつれて、飲み歩き、河上の家へ泊つたことがある。河上は下心があつたので、女の一人をつれて別室へ去つたが、残された私は大いに迷惑した。なぜなら、実は私も河上の連れ去つた娘の方にオボシメシがあつたからで、残された女は好きではない。オボシメシと云つても、二人のうちならそつちが好きといふだけのことではあるが、当時私はウブだから、残された女が寝ませうよと言ふけれどもその気にならない。そのうちに河上が、すんだかい、と言つて顔をだした。彼は娘にフラレたのである。俺はフラレた、と言つて、てれて笑ひながら、娘と手をくんで、戻つてきた。この娘は十七であつた。
 その翌朝、河上の奥さんが憤然と、牛乳とパンを捧げて持つてきてくれたが、シラフで別れるわけにも行かず、四人で朝からどこかで飲んで別れたのだが、そのとき、実は俺はお前の方が好きなんだと十七の娘に言つたら、私もよ、と云つて、だらしなく仲がよくなつてしまつたのである。
 この娘はひどい酒飲みだつた。私がこんなに惚れられたのは珍らしい。八百屋お七の年齢だから、惚れ方が無茶だ。私達はあつちのホテル、こつちの旅館、私の家にまで、泊り歩いた。泊りに行かうよ、連れて行つてよ、と言ひだすのは必ず娘の方なので、私たちは友達のカンコの声に送られて出発するのであるが、私とこの娘とは肉体の交渉はない。娘は肉体に就て全然知識がないのであつた。
 私は処女ではないのよ、と娘は言ふ。そのくせ処女とは如何なるものか、この娘は知らなかつた。愛人、夫婦は、たゞ接吻し、同じ寝床で、抱きあひ、抱きしめ、たゞ、さう信じ、その感動で、娘は至高に陶酔した。肉体の交渉を強烈に拒んで、なぜそんなことをするのよ、と憤然として怒る。まつたく知らないのだ。
 そのくせ、たゞ、単に、いつまでも抱きあつてゐたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそひに来て、娘は私を思ふあまり、神経衰弱の気味であつた。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなつたものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがつて泊りに行かなくなつたことを、娘は理解しなかつた。
 中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。
 とびかゝつたとはいふものの、実は二三メートル離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ/\笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
 オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言つて中也は常に嘆いてをり、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかゝげたり、けれども弟子はたつた一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰ふと一緒に飲みに行つて足がでるので嘆いてをり、三百枚の飜訳料がたつた三十円で嘆いてをり、常に嘆いてゐた。彼は酒を飲む時は、どんなに酔つても必ず何本飲んだか覚えてをり、それはつまり、飲んだあとで遊びに行く金をチョッキリ残すためで、私が有金みんな飲んでしまふと、アンゴ、キサマは何といふムダな飲み方をするのかと言つて、怒つたり、恨んだりするのである。あげくに、お人好しの中島健蔵などへ、ヤイ金をかせ、と脅迫に行くから、健蔵は中也を見ると逃げだす始末であつた。
 その年の春、私は一ヶ月あまり京都へ旅行した。河上の紹介で、そのころまだ京大の学生だつた大岡昇平が自分の下宿へ部屋を用意しておいてくれたが、そのとき加藤英倫と友達になつた。彼は毎晩、私を京都の飲み屋へ案内してくれて、一週間ほど神戸へも一緒に旅行した。加藤英倫も京大生で、スエデン人の母を持つアイノコで、端麗な美貌であるから、京都も神戸も女友達ばかり、黒田孝子といふ女流画家の可愛い女に惚れられてをり、この人は非常に美人であつたが、英倫はさのみこの人を好んでゐるやうでもなく、神戸の何とかいふ、実にまづい顔の、ガサツ千万な娘になんとなく惚れるやうな素振りであつた。外見だけであつたかも知れぬ。彼はセンチメンタル・トミーであつた。
 これは蛇足だが、この神戸の旅行で、私はヘルマンの廃屋とかいふ深山の中腹の五階建かの大洋館へ案内された。ヘルマン氏は元来マドロスか何かで、貧乏なのんだくれであつたが、兄が大金満家で、これが死に、遺産がころがりこんで一躍大金持になつたのださうで、そこでこゝに大邸宅をつくり、五階の上に塔をたて、この塔の中に探照燈を据ゑつけ、自分の汽車が西の宮駅へつくと、山の中腹の塔の上から探照燈をてらす。ヘルマン氏光の中へ現はれ、光の中なる自動車に乗る。この自動車が邸宅へはいるまで、自動車と共に探照燈の光が山を動いて行くのださうで、この探照燈は私が行つたとき、まだ廃屋の塔の中にそのまゝ置かれてゐた。軍艦などの探照燈と全く同じ大袈裟な物々しい物であつた。
 もう一つ、ブッタマゲルのはヘルマン先生の酒倉だ。庭の中の山の中腹へ横穴をあけて、当時の金で八万円の洋酒をとりよせ、穴の中へつめこんだ。驚くべき大穴倉だが、実に驚くべき洋酒の山で、私が行つたときも、ギッシリアキビンの山がつまつてゐたが、奥には本物もあつたかも知れぬ。そこでヘルマン先生は、かねて飲み仲間の親友マドロスに隣地へ小意気なバンガローをたてゝやり、二人でひねもす、よもすがら、飲んでゐたさうで、ヘルマン先生なりふり構はず、ボロ服に、貧乏時代からのマドロスパイプをくはへたまゝ、酒の外には余念がなかつたさうである。
 独探のケンギを受けて、大正五年だかに国外退去を命じられたといふ。無実のケンギで、探照燈がたゝつて怪しまれたといふ話であつたが、快男子を無益に苦しめたものである。飲み仲間のゐたバンガローに当時は日本人の老画家が住んでゐて、廃屋廃園に、私達を案内してくれ、ヘルマン氏の思ひ出をきかせてくれたのであつた。廃屋は各階毎に寝室があり、寝室にはバスルームがつき、要するにヘルマン氏は、その日の気分によつて、何階かで下界の海を眺めて酒をのみ、酔ひつぶれて、バスにつかつて、寝てしまふ万全の構へがとゝのへられてゐるわけだ。女なんか目もくれなかつたといふから、私はとても及ばぬ。これには私も、ブッタマゲた。
 矢田津世子は加藤英倫の友達であつた。私は東京へ帰つてきた。加藤英倫も東京へ来た。たぶん彼の夏休みではなかつたのか。私には、もはや時日も季節も分らない。とにかく、私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでゐた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだつて、ウヰンザアへやつてきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだつて私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合つた始まりであつた。

          ★

 さて、私は愈々語らなければならなくなつてきた。私は何を語り、何を隠すべきであらうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。
 私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」といふのを一つ書いたゞけで、発表する雑誌もなくなつてしまつたのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であつた。つまり、矢田津世子に就てゞあつた。
 私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑つてゐた。たゞ、私は、矢田津世子に就て書くことによつて、何物かゞ書かれ、何物かゞ明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるやうにならなければいけないのだと考へてゐたのであつた。
 始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。
 そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。
 その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。
 私は戦争中、ある人妻と遊んでゐた。その良人は戦死してゐた。この女の肉体は、最も微妙な肉体で、さういふ肉体の所有者らしく、貞操観は何もなく、遊ぶ以外に目的はないやうだつた。
 この女は常にはたゞニヤ/\してゐるばかりの凡そだらしない、はりあひのない女であつたが、遊びの時の奔騰する情熱はまるで神秘な気合のこめられた妖精であつた。別の人間としか思はれない。
 然し、淫楽は、この特別な肉体によつてすらも、人の心はみたされはせぬ。私が矢田津世子の肉体を知らないことに満ち足りる思ひを感じるやうになつたのは、そのときからで、それは又、あたかも彼女の死のあとだから、無の清潔が私を安らかにもしてくれた。
 魅力のこもつた肉体は、わびしいものだ。私はその後、娼婦あがりの全く肉体の感動を知らない女と知ると、微妙な女の肉体とあひびきするのが、気がすゝまぬやうになつてゐた。
 娼婦あがりの感動を知らない肉体は、妙に清潔であつた。私は始め無感動が物足りないと思つたのだが、だん/\さうではなくなつて、遊びの途中に私自身もふとボンヤリして、物思ひに耽ることがあつたり、ふと気がついて女を見ると、私の目もさうであるに相違ないのだが、憎むやうな目をしてゐる。憎んでゐるのでもないのだけれども、他人、無関心、さういふものが、二人といふツナガリ自体に重なり合つた目であつた。
「憎んでゐる?」
 女はたゞモノうげに首をふつたり、時には全然返事をせず、目をそらしたり、首をそらしたりする。それを見てゐること自体が、まるで私はなつかしいやうな気持であつた。遊び自体がまつたく無関心であり、他人であること、それは静寂で、澄んでゐて、騒音のない感じであつた。
 そして私は矢田津世子の肉体を知らないことを喜んだ。その肉体は、この二人の女ほど微妙な魅力もこもつてをらず、静寂で、無関心である筈はない。私にとつて、女体の不完全な騒音は、助平根性をのぞけば、侘しくなるばかりだから。淫楽は悲しい。否、淫楽自体が悲しいのではなく、我々の知識が悲しい。
 私は先ほどスタンダールのメチルドのことにふれたが、あれはどうも、ひどい誇張で、本心であるとは思はれない。私にとつて、矢田津世子はもはや特別な女ではなく、私は今に、もつとバカげた、犬のやうな惚れ方を、どこかの女にするやうな予感がつきまとつてゐる。そのくせ私は、惚れることには、ひどく退屈してゐるのだが。

          ★

 英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。
 然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々しばしば遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされてくつろいでゐた。
 その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。
 この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。
 そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。
 私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。
「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。
 インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。
 ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。
 私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会つた日、矢田津世子の同伴した男といふのが、即ち、時事の最高幹部なるWであつた。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまゝ別れて私が自席で友人達と話してゐると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞してゐられるのです、と言つた。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであつた。
「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいといふことの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされてゐた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思ひだした。彼は後日、作家となつた笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるやうな邪推が、――私は邪推した。せずにゐられなかつた。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、咒つた。
 寅さんの話は思ひ当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられてゐたのである。
 如何なる力がともかく私を支へ得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であつた。

          ★

 私はまつたく臆病になつた。手紙は三日目ぐらゐに来つゞけてゐた。同人の会でも会つたし、その他の場所でも会つてゐた。
 Wのことは同人間でも公然知れわたつてゐた。彼等は私の心事を察して、私の前では決してそれに触れぬやうにいたはつてくれたが、いたはりすらも、私には苦痛であつた。
 創刊号の同人の座談会で、私は例の鼻ッ柱で威勢よく先輩諸先生の作品に悪口雑言をあびせつゞけたものであつたが、その中で一句、私の言葉に矢田津世子が同感した言葉があつた。私はその言葉を忘れたが、それは恋人に対してのみ用ひる種類の甘つたるい言葉であつた。
 校正の日、同人全部印刷所へつめてゐたが、まさしくその日は日曜であり、矢田津世子のみ、真杉静枝か河田かに校正をたのみ、姿を見せてゐなかつた。その日曜が矢田津世子にどういふ日かは、あらゆる同人が知つてゐたのだ。
 座談会の例の一言に、河田だか、田村だか、井上だか、ふきだして、これは凄いね、このまゝケヅらず載せたものかね、と見廻すと、真杉静枝が間髪を容れず、ケヅることないわ、ホントにさう言つたのですもの、と叫んだ。それは低いが、強烈な語気で、私はその後ずゐぶん真杉さんとはおつきあひしたが、このやうな激しい語気はほかにきいたことがない。深い憎しみが、こめられてゐた。
 私は然し、わが身の如くに、切なかつたのだ。私が憎まれてゐるが如くに。私は矢田津世子をあはれみ、真杉静枝をむしろ咒つた。同時に真杉静枝に内心深く感謝したのは、私も切に、この言葉のケヅられざらんことを乞ひ、祈つてゐたから。
 その一言は、私にとつては、絶望の中の灯であつたのだ。悲しい願ひがあるものだ。この一言が地上に形をとゞめて残つてくれますやうに。せめて、この一言のみが、掻き消え失せてくれないやうに、と。
 私は然し、私の必死の希願に就て、自ら一語も発することができなかつた。私はたゞ、幸ひに残り得た一語のいのちを胸にだきしめてゐたのである。あゝ、これは残さう。これは面白い言葉ぢやよ、とそれに答へた河田の言葉を私は今も忘れることができないほどである。
 私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいといふことを母に言つた。母も即座にうなづいてゐたが、やがて日数へて、いつ結婚するか、といふ。私は胸をしめつけられて、返事ができず、やうやく声がでるやうになると、もう厭なんだ、やめたんだ、と答へて席を立つた。
 然し、三日にあげず手紙が来てゐるのだから、母は私の言葉を痴話喧嘩ぐらゐにしか受けとらず、あるとき親戚の者がきたとき、私を指して、今度、矢田津世子と結婚するのだ、と言ふ。嘘だ! 結婚しないと言つてゐるのに! 私は唐突に叫んだ。叫ぶことが、無我夢中であつた。私の血は逆流してゐた。私は母の淋しい顔を思ひだす。
 その頃だつた。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになつて、足もとをフラ/\させ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行かうよ、お金は私が持つてゐるから、と言ふ。暮れがたであつた。私は仕事があつて今夜は酒がのめないからと嘘をつき、ともかく、そのへんまで送らうと一緒に歩くと、女は憑かれたやうにとりとめもなく口走り、せつなげな笑ひが仮面のやうにその顔にはりついてゐる。そのうちに、ふと、知つてるわ、矢田さんに惚れたんでせう、と言つた。恨む声ではなかつた。せつなげな笑ひが、まだ、はりついてゐた。気象の激しい娘であつた。モナミだか千疋屋だかで、テーブルの上のガラスの瓶をこはしたことがある。ボーイがきて、六円いたゞきます、と言ふ。娘は十二円ボーイに渡して、隣のテーブルの花瓶をとると、エイと土間に叩きつけて、ミヂンにわつて、サヨナラと出てきた。さういふ気象を知つてゐる私であるから、私に対する娘のあまりのか弱さに、私は暗然たる思ひもあつた。
「片思ひなの?」
 娘は私の顔をのぞいた。それは、優しい心によつて語られた、愛情にみちた言葉であつた。恨む心はミヂンもなく、いたはる心だけなのだ。私は答へる言葉もなく、答へたい心もなかつた。
 このへんで別れようと私が言ふと、ウン、娘はうなづいて、私の手を握り、まだつゞいてゐるあの切なげな笑ひで、仕事がすんだら、又、のまうよね、さう言つて、娘は手をふり、素直に闇の底へ消えてしまつた。これが娘と私との最後の別れであつた。
 私も、亦、矢田津世子を恨む心はなかつた。なじる心もなかつた。矢田津世子は、私に向ひ、一緒に旅行しませうよ、登山したい、山の温泉へ泊りたい、と言ふ。私はたゞ笑ひ顔によつて答へ得るだけだ。その笑ひ顔は、私の心はあなたのことで一ぱいだ、いつもあなたを思ひつゞけてゐる、然し、私はあなたと旅行はできない。旅行して、あなたの肉体を知ると、私はWと同じ男に成り下るやうな気がするから。あなたにとつて、私が成り下るのではなく、私自身にとつて、Wが私と同格になるから。私はあなたに就いて、Wのことなど信じたくないのだ。それを忘れてしまひたい。それを知らずにあなたを恋したあのまゝの心を、私は忘れたくないのだ、と。もとより私の笑ひ顔がそのやうな意味であることを、矢田津世子が解きうる由もない。
 河田誠一が矢田津世子を訪ねたのも、その頃だ。なぜ坂口と結婚しないか、それをすゝめるために。その話を、私は河田から告げられず、矢田津世子から、きかされたのだ。
 その知らせには、たしかに意味があつた。なぜあなたは結婚しようと言はないのか。言つてくれゝば、私はいつでも結婚するのに、といふ意味が。矢田津世子のあらゆる讃辞が、河田誠一にさゝげられて、私の前に述べられてゐる。その心のあたゝかさと、まじめさと、友情の深さに就て。それは、すべて、河田の彼女への忠告を彼女がうけいれたといふアカシであり、私に対するサイソクであつた。私はそれに対しても、たゞ、笑ひ顔によつてのみ、答へてゐた。
 私の心は、かたくなであつた。石の如くに結ぼれてゐた。
 要するに、私は自分の心情に従順ではなかつたのである、本心とウラハラなことをせざるを得なくなる。それが私の性格的な遊びのやうなもので、自虐的のやうでもあるが、要するに、遊びだ。私はそのころ牧野信一の家で、長谷川何とかいふ手相、指紋の研究家に手をみられて、君の性格はアマノジャクそのものだ、と言はれた。然し、アマノジャクとは何か。ヒネクレてゐるといふことの外に、アマッタレてゐるといふ意味があると私は思ふ。物自体よりも物を雰囲気的に受けとらうとする気分的なセンチメンタリズムも多分にあり、要するに、いゝところは一つもない。然し、本人は案外いゝ気なもので、それに私は、センチメンタルではあるけれども、同時に、野放図な楽天家でもあつた。えゝマヽヨ、どうにでもなれ、といふことが、いつも、つきまとつてゐるのだから。
 矢田津世子と私は「桜」をやめた。二号目ぐらゐで、菱山もやめた筈だ。私はもう、あのころのことは殆ど記憶にない。雑誌のことも、矢田津世子のことも。私は特に彼女のことをつとめて忘れようとした長い期間があるのだから。
 そのころのことで変に鮮明に覚えてゐるのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、――それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかつてゐたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先づかういふセキバライをしておもむろに嘲笑にかゝるのである)ジョルヂュ・サンドにふられて戻つてきたか、と言つた。銀座でしたゝかよつぱらつて吉原へきて時間があるのでバーでのむと、こゝの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがつて一枚づゝ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になつて、ねてしまつた。彼は酔つ払ふと、ハダカになつて寝てしまふ悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまつた。女と私は看板後あひゞきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となつたが、ノビてしまふと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱつて外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のやうに腰をまげて、頭をたれ、がくん/\うなづきながら、よろ/\ふら/\、私に手をひつぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもつてきてくれる。裸で道中なるものかといふ鉄則を破つて目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらゐ門前払ひをくはされるうちに、やうやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらふことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、
「ヤヨ、女はをらぬか、女は」
 と叫んで、キョロ/\すると、
「何を言つてるのさ。この酔つ払ひ」
 娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひつくりかへつてしまつた。それを眺めて、私達は戻つたのである。
 私が連れこまれた女のアパートは、窓の外に医院があつて薬品の匂ひの漂ふ部屋であつた。女はうゝんと背伸びをして、ふと気がついて、背伸びをしたいなと思ふ時でも、する気にならない時があるわね、と言つた。ほかに意味も翳もない単純な笑ひ顔だつた。お人好しで、明るくて、頭が悪くて、くつたくのない女であつた。朝、目をさまして、とび起きて、紙フウセンをふくらまして、小さな部屋をつきまはつて、一人でキャア/\喜んでゐたり、全裸になつて体操したり、そして、急に私にだきついてゲラ/\笑ひだしたり、娼家の朝の暗さがないので、私はこの可愛い女が好ましかつた。
 窓をあけて青空を眺めたら、私は急に旅行に行きたくなつた。女も大賛成で、私は人から貰つて三日目ばかりの時計、これは全く私に縁がないやうにその宿命が仕組まれてゐたとしか思はれないほど高級品であつたから、女は大いに気をきかし、勇み立ち、この質屋、あの古物商、知りあひの商店の旦那をよびだして、かけあつたり、もういゝ加減で売つちやへと云つても、ダメ/\安すぎる、大いにハリキッて倦むことを知らない。質屋の出入にも、腕をくる/\ふりまはしながら飛んだり跳ねたり、ヘッピリ腰でのぞきこむかと思ふと急に威勢よくコンチハと大きな声で戸をあけたり、まるで天性あらゆる宿命を陽気に送り迎へてゐるとしか思はれぬやうだつた。そして、私の沈黙の気質だの、陰鬱な顔附などを全然気にかけてゐなかつた。バスの車掌をしてゐたが、おツリの出し入れが面倒くさくてやめてしまつたのださうで、道を歩きながら車掌のマネをしてみせて、次は何々でございます、ストップねがひます、大きな声、往来の人々がビックリふりむいて顔を見るのを気にかける様子もない。
 私達は足掛け八日旅行した。たしか八日だつたと思ふ。八日帰りがなんとか言つたが、金がなくなつてしまつたので、女が大いにケンヤクを主張して安温泉を廻つて歩き、ヒルメシはカツドンばかり食はされた。私がをかしくて仕方がなかつたのは、この女は人の顔の品定めなどテンからやらぬたちなのだが、バスに乗つた時に限つて女車掌の品定めをして、あら、あの子、凄いシャンだ、と言ふ。一向にシャンでもないから、君の会社はよつぽどデブばかり揃つてたんだな、と笑ふと、この時ばかりはいさゝかてれて、ウームと一と唸り、メーデーだか何だかに赤旗かつぐのが羨しくてバスの車掌になつたのだけれども、共産党になれと言はれて、閉口したのださうである。まつたくこの女はオッチョコチョイで、出鱈目だつたが、共産党の地下運動にはカブトをぬぐ性質に相違なく、五十銭寄附したけれども、あとは降参、逃げだしたと言つてゐた。モグることができないタチであつた。
 私が旅館でふと思ふのは、矢田津世子もWとこんなところへ来るのだらうな、といふことだつた。尤も、我々の旅館よりは高級であるに相違ない。待合であるかも知れぬ。尚それよりも怖れたのは、この旅先で、矢田津世子とWの姿を見かけないか、といふことだつた。私と女が見られることへの怖れではなかつた。純一に、彼等の姿を見かけることの、その事実を確めさせられることの恐怖と苦痛であつた。
 私はそのころ、路上でふと立ちすくむことがあつた。胸は唐突にしめつけられ、呼吸が一瞬とまつてゐる。私はふりむいて一目散に逃げる衝動にかられてゐるのだ。私は街角を怖れた。又、街角から曲つて出てくる人を怖れた。私は矢田津世子の幻覚におびえてゐたのだ。よく見れば似つかぬ女が、見た瞬間には矢田津世子に思はれ、私は屡々路上に立ちすくんでゐたのであつた。
 別して私は温泉で、矢田津世子とWの幻覚になやまされた。こんな安宿に彼等が泊る筈はないと信じながら、廊下で見かける人影に、とつぜん胸がしめつけられ、息がつまつて、立ちすくむ。隣の男女の話声の、よくきけば凡そ似つかぬ女の声が、始めてきこえた一瞬だけは矢田津世子の声にきこえてしまふ。
 私は女給と泊り歩いてゐる私が、矢田津世子への復讐であるやうな心はミヂンもなかつた。私は今、すぐこの足で、矢田津世子を訪ねて、結婚しませう、と言へば、結婚することもできるのだつた。それは疑ふべからざることで、そのことだけでは、一とかけの疑念も不安もなかつたのだ。もとより、憎む時間はあつた。然し、私があの人の影におびえて立ちすくむとき、私自身の恐怖の中には、あの人に苦痛と恥辱を与へたくない思ひやりが常にこめられてゐたのだ。
 同時に私はWを憎んでもゐなかつた。矢田津世子とW。矢田津世子と私。私の心には、この二つを対比し、対立させる考へ方が欠けてゐるか、或ひは非常に稀薄であつた。矢田津世子とW。私はそれを考へる。最も多く考へた。然し、矢田津世子と私、といふ立場に対立させて考へてはゐなかつた。つまり、同一線上に二つを並べてゐなかつたのだ。
 私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしまふ。結婚すれば、私は勝ちうる。果して、勝ちうるであらうか。私はむしろ、対立と、自分の低さ、位置の低さを自覚するばかりではないか。
 私は然し、そのやうに考へてゐたわけではない。そのやうに考へることの必要が、必要すらも、欠けてゐたのだ。即ち、私は、すでに結婚を諦めてゐた。時に軽率な情念のそれをめぐつて動くことをとめる術はないけれども、より深い、恐らく心意の奥底で、大いなる諦めを結んでゐた。不動盤石の澱みの姿に根を張つた石に似た雲のやうな諦念がある。それは一人の愛する女を諦めてゐるばかりではなかつた。より大いなるものを諦めてゐた。より大いなる物とは? それは私には、分らない。たゞ、何物か、であるだけだつた。そして、その大いなる何物かの重い澱みの片隅に、一人の女がゐるだけのことであつた。
 私はむしろ、この明るいオッチョコチョイの女給をつれて、矢田津世子が一緒に行かうと云つた山々、上高地や奥白根の温泉宿へ行つてみればよかつたと思つた。なぜであるかは分らない。それはどうでもよいことだ。私はたゞ、私をそこへ誘つた矢田津世子は、だから、たぶん、ほかの男とはそこへ行きはしないだらうと、ふと考へた。然し、又、だから、たぶん、あるひは今ごろ、そこにゐるのではないかと、とも考へた。とりとめもなく、ふと、思ふ。私は山を歩いてゐる。穂高を、槍を、赤石を。すると、私のつれてゐる女は、矢田津世子だつた。そして私は、ものうい昼の湯の宿の物思ひから、我にかへる。私の女が、ひとりで喋り、ひとりでハシャいでゐるときにも、私はそれをきいたり見たりしてゐるやうな笑ひ顔で、ふと物思ひに落ちこんでゐた。
「あなたは奥さんないの? アラ、うそ。あるでせう」と、女がきく。
「あるよ」
「お子さんは」
「一人だけ」
「あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ」
「どうして、分る」
「ほら、当つたでせう。私の経験なのよ。私みたいな変チクリンなお多福を可愛がる人の奥さんは、御美人よ。私、何人も、その奥さんの顔を見てやつたわ。美人女給を口説く人の奥さんは、みんな、ダメ。でもね、私を可愛がる人は、特別優秀なのよ。なぜだらうな。よつぽど私が、できそこなひなのかしら」然し、女は、どことなく可愛い顔立ちだつた。それに、姿がスラリとして、色気があつた。心が無邪気であるやうに、全身に、無邪気な翳がゆれてゐた。二十三とか四であつたが、十七八の小娘のやうなところがあつた。全裸になつて体操するのが大好きで、ひとり余念もなく、大らかで、たのしげで、だから清潔で、温泉の湯ぶねの中でも、のびたり、ちゞんだり、桶をマリか風センにして遊んでゐたり、いつも動いてゐるのだ。男に裸体を見せることを羞しがらず、腕や腹や股に墨筆で絵を書かせてキャア/\よろこび、だからむしろ心をそゝる色情は稀薄であつた。マネキンになりたいけれども、シャンぢやないからダメなんだ、とこぼしてゐたが、私はそのとき、なるほどこれは天来のマネキンとでもいふのだらうなと思つたほど、常に動きが、そして言葉が、生き/\としてゐた。あれは、どこの宿であつたか。もう旅の終りで、あの日は沼津で映画だか芝居だか見て、私はそれを見ながら二合瓶をラッパのみにして、いくらか酔つてゐたのだが、それから長岡だかその隣りの温泉だかへ泊つたときであつたと思ふ。女はいくらかシンミりして、
「ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあはない。私、このへんの酒場で女給になつて、稼ぐから」
「チップで宿銭が払へるものか」
「あゝ、さうか」女はひどくガッカリした。もとより、それは気まぐれだつた。気まぐれ千万な女なのだ。私を愛してゐるせゐなどでは毛頭ない。然し、気まぐれながら、いくらかシンミリしてゐるので、それが珍らしいことだづたから、私は今も何か侘しさを思ひだす。私はその後、よく旅先の宿屋の部屋の孤愁の中で、このときの女のことを思ひだしたものだつた。
「このくらゐ遊んで帰ると、私だつて、ちよつと、ぐあひが悪いのよ。あとは野となれ、山となれ、か。あなたの奥さん、さぞ怒つてゐるだらうな。ねえ、マダム、怖い?」女の顔はいつもと違つて、まじめであつた。
「もう十日、もうひと月、ねえ、私、このへんで稼いで、一緒にゐたいな。あなたのマダムをうんと怒らしてやりたいのよ。私、どこかのマダムを二三人、殺してやりたいわ。厭になつちまふな」と言つた。そして笑つた。それはもう、いつもの通りの女であつた。シンからお人好しの女でも、そんな残酷な気持があるのかな、と、私は面白かつた。顔も知らない対象にまで嫉妬だか癇癪だか起してゐる、そのくせ、はつきりした対象にはむしろ嫉妬を起しさうもない女であつた。
 私はそのとき、矢田津世子は死んでくれゝば一番よいのだ、といふことをハッキリ気附いた。そして、そんなことを祈つてゐる私の心の低さ、卑しさ、あはれさ、私はうんざりしてゐた。まつたく一と思ひに、この女とこのへんの土地で、しばらく住んでみようかと、女には何喰はぬ顔で、思ひめぐらしたほどであつた。

          ★

 私の心の何物か、大いなる諦め。その暗い泥のやうな広い澱みは、いはゞ、一つの疲れのやうなものであつた。その大いなる澱みの中では、矢田津世子は、たしかに片隅の一ときれの小さな影にすぎなかつたが、その澱みの暗い厚さを深めたもの、大きな疲れを与へたものは、あるひは、矢田津世子であるかも知れぬと考へる。
 私はそのころから、有名な作家などにはならなくともよい、どうにとなれ、と考へた。元々私は、文学の始めから、落伍者の文学を考へてゐた。それは青年の、むしろ気鋭な衒気げんきですらあつたけれども、やつぱり、虚無的なものではあつた。私は然し、再びそこへ戻つたのではなかつたやうだ。私の心に、気鋭なもの、一つの支柱、何か、ハリアヒが失はれてゐた。私はやぶれかぶれになつた。あらゆる生き方に、文学に。そして私の魂の転落が、このときから、始まる。
 私はもう、矢田津世子に会はなかつた。まる三年後、矢田津世子が、私を訪ねて、現はれるまで。

底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第三号」
   1947(昭和22)年3月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第三号」
   1947(昭和22)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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